いつまでも
 
「あのね、わたしね、ようちゃんにおねがいがあるの」
「おねがい?」
「うん。わたしね、ようちゃんのこと、だいすきだよ」
「うん、ぼくもあっちゃんのこと、すきだよ」
「うん、それでね、ようちゃん。わたしね、ようちゃんとやくそくしたいの」
「やくそく? どんな?」
「えっとね、しょうらい、わたしを、ようちゃんのおよめさんにしてほしいの」
「あっちゃんが、ぼくのおよめさん?」
「うん、だめ、かな?」
「う〜ん、ぼくはいいとおもうけど」
「けど?」
「おとうさんがね、まえにいってたんだ」
「おじさんが?」
「うん。おとこはね、いいおんなをよめにすることこそが、さいこうのすてーたすだって」
「すてーたす? ん〜、よくわかんない」
「ぼくもそれはわからないけど、ただ、およめさんはいいおんなじゃなきゃだめなんだって」
「そっか……じゃあ、わたし、いっしょうけんめい、いいおんなになる。そしたら、ようちゃん、わたしをおよめさんにしてくれる?」
「うん、いいよ」
「じゃあじゃあ、やくそく。はい、ゆびきり」
「うん……ゆびきった」
「それと、ね、ようちゃん」
「うん?」
「ちょっとだけ、め、つぶってくれるかな?」
「めを?」
「うん」
「いいけど、なにするの? かくれんぼ?」
「ううん、ちがうよ。わたしがするのはね──」
 
 目を開けると、見慣れた景色が飛び込んできた。
 そう、少し薄汚れた天井。覆いにホコリのかぶった電灯。くすんだ色のカーテン。
 俺の──藤野洋平の部屋だ。
 俺は、目頭を押さえ、頭の中を整理した。
「夢……」
 そう、俺は夢を見ていた。その夢の内容は、俺も覚えている。というか、実際にあったことなのだから、覚えていて当然かもしれない。ただ、ここ最近まではすっかり忘れていたが。
 しかし、夢は、いつも同じところで終わる。その先のことは、今も思い出せない。
 あの後、俺はなにをされたのか。なんとなく予想できるが、それが万が一にも違ったら、一週間は立ち直れそうにないから言わないでおく。
 と、時計に目をやった。短針はほとんど動かないからいい。長針もよく見ていないと動いていないからいい。だが、秒針はどうだ。あれは一秒ずつ動いているのが普通だ。
「……止まってる……」
 ああ、遠くからゴミ収集車が鳴らす音楽が聞こえる。
 スズメのさえずりさえも聞こえる。
「……って、今何時っ!!」
 俺は布団をはねのけ、机の上に置いてある携帯に手を伸ばした。
 デジタルの表示板は、無情だった。神なんか、信じないっていうくらい。
「は、八時二十五分だとぉっ!」
 もうあとは本能ままに。
 服を脱ぎ、制服を着つつ髪を整える。カバンをひっつかみリビングに置いてある菓子パンをひとつひったくる。
 靴のかかとを踏みつぶし、玄関を開ける。鍵穴になかなか鍵が入らない。十度目のチャレンジで鍵がかかった。
 エレベーターを待つのが面倒だったから、近くの階段から下へ下りる。駐輪場でマイチャリの鍵を外す。ここでも十三度ほどチャレンジしたが。
 んでもって、全速力で学校へ。
 つか、もう遅刻決定……はあ。
 
 学校に着いたのは、もう一時間目がはじまってからだった。だが、家から学校までの最速ラップをたたき出した。ふふっ、やればできるじゃないか、藤野洋平。
 駐輪場に適当に自転車をぶち込み、昇降口へ。閑散とした昇降口の一角、二年五組の下駄箱から俺の上履きを取り出し、履き替える。履いてきた靴を下駄箱に突っ込み、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
「うぐっ……」
 直前に食った菓子パンが逆流してくる。
 しかし、そんなことに構ってる暇はない。なんと言っても、今日、火曜日の一時間目だけは、死んでも受けなければならない。
 正当な理由なくさぼれば、間違いなく死ぬ。これは断言できる。
 だからこそ俺は、遅刻したにも関わらず、必死こいてる。
 三階まで上がり、今度は廊下を駆ける。ちゃんと履いていない上履きがビタンビタンうるさい。
 だが、それでも俺は急ぐ。
 プレートに『二年五組』と書かれている教室。そこのドアに手をかける。少しだけ息を整える。そして、開ける。
「二年五組藤野洋平、遅刻しましたっ!」
 同時に大声で罪状を述べ、頭を下げる。九十度なんて生やさしいものではない。ランドセルを背負っていれば、中身をぶちまけそうなくらいである。
 カツ、カツ、と足音が近づいてくる。俺の視界に飛び込んできたのは、パンプス。
「ん〜、洋平くん。この前言ったと思うんだけど、まだ、言い足りなかったかな? それとも、お仕置き、必要?」
 透き通るような声。だが、俺はこの声の持ち主には、いっさいの妥協は許されない。
「い、一応、言い訳をさせていただけないでしょうか?」
「いいわよ」
「きょ、今日は、目覚まし時計の電池が切れていて、起きたら八時二十五分だったんです。で、ですから、故意に遅刻したというわけではないんです」
 ううぅ、我ながら情けない。言葉尻が小さくなっていく。
「ふ〜ん、目覚まし時計がね。まあ、それがホントかどうかは、調べればわかるわね。だけど、どんな理由があるにしろ、遅刻には変わりないわ。そうでしょう?」
「は、はい、おっしゃる通りです」
「んふふふ、じゃあ、お仕置き。それ♪」
「うぎゅっ……」
 俺は、ふたつのふくよかなふくらみに思い切り顔を挟み込まれた。というか、息ができない。
「んもう、ホント、ようちゃんたら、よっぽどママの胸の中がいいみたいね」
「〜っ、〜っ!」
 なにか言おうにも、声も出せない。
「いやん♪ 動かないの。ぞくぞくしちゃうわ」
「〜〜っ、〜〜っ!!」
 あっ、河の向こうで死んだひいじいちゃんが手招きしてる。
「あら、ようちゃん? ようちゃんってば」
 あはは、お花畑だ。綺麗だな。
「ちょっと、ようちゃんっ」
 
「うっ……」
 目を開けると、多少見慣れた天井が目に飛び込んできた。
「ここは……」
 この独特の雰囲気、匂いは、保健室。
「ああん、もう、ようちゃん、よかったぁ」
「うぐっ……」
 と、いきなり横から俺を抱きしめるのは──
「か、母さん。ここ、学校なんだから、それはやめようよ」
「えっ、どうして……?」
 今にも泣き出しそうな顔で聞き返すのは、俺の母であり担任であり世界史担当でもある、藤野奈美。
 ぱっと見、とても一児の母には見えないが、正真正銘俺の母親である。
「……ああ、もう、わかったから。泣かないでよ、母さん」
「じゃあじゃあ、抱きしめてもいいの?」
「……ほどほどに」
「ああん、もう、ようちゃんたら、カ〜ワイイ♪」
 そう、この母は、俺のことをこれでもかってくらいに溺愛してる。それこそ、ホントに目の中に入れてしまうのでは、というくらいである。
 俺も高二という年なのだから、母さんもそれなりの年ということで。ま、まあ、年のことを言うと、半殺しにされるから、言わないけど。
 普段は良き母であり良き教師であるとは思う。だが、俺にとってはそんなことはどうでもいい。
 とにかく、ところ構わず俺を抱きしめるのだけはやめてほしい。
 しかも、スタイル抜群だから、さっきみたいに意識を失うこともしばしば。い、いや、多少は気持ちいいなぁ、なんて思うけど。でも、そんな甘美な想いは数秒で吹っ飛ぶ。
「と、ところで、母さん」
「ん、なぁに、ようちゃん?」
「……学校では、『洋平くん』じゃなかったの?」
「あら、それ言うなら、ようちゃんだって、『奈美先生』じゃなかったのかしら?」
 この人は、人の揚げ足を取って……
「奈美先生。今は、何時ですか?」
 俺は、わざとらしくそう言った。
「えっとね、今は三時間目の途中」
「……二時間も気絶してたのか……」
「ちょっとだけ力加減間違えちゃってね。てへ♪」
「…………」
 こ、この親は……
「んもう、ようちゃんたら、眉間にしわ寄ってるわよ。せっかくの男前が、台無し」
「……用がないなら、授業に戻ります」
「ああん、ようちゃんのいけず〜」
 俺は、母さんをそのままに、自分の教室へと戻った。
「遅れてすみません」
「ん、ああ、藤野か。事情は聞いてるから、席に座りなさい」
「はい」
 俺は先生に言われ、教室の一番奥の自分の席まで移動した。
「……大丈夫、ようちゃん?」
「ん、ああ」
 席に着くと、隣の席の女子──渋井彩美が声をかけてきた。
 俺は、軽く答えると、そのまま授業に専念した。
 
 チャイムが鳴り、四時間目の授業が終わった。
「はあ……」
 俺は、教科書もしまう前に、ため息をついて机に突っ伏した。
「ようちゃん、大丈夫?」
 そんな俺に声をかけてくるのは、もちろん彩美だ。
「ん、ああ、なんとか大丈夫だ。そんな顔するなって」
「あ、うん」
「とりあえず、飯にしようぜ。朝は菓子パンひとつだったからな」
「やっぱりね。じゃあ、今日は大盛りにして正解だったかも」
 そう言って彩美は微笑んだ。
 俺たちは教室を出て、いつもの場所へと移動した。
 そこはこの学校ではなかなか静かな場所のひとつで、一年の頃から俺たちが使っている場所だった。
 真っ青な空。白い雲。輝く太陽。
 そう、そこは屋上。
「はい、ようちゃん」
 彩美は、丁寧に弁当箱を包んでいたナプキンまで解いて俺に手渡す。こいつのこういうところは、素直にすごいと思う。
 ふたを開けると、中身は完璧に俺の嗜好に合わせたものだった。いや、それも今にはじまったことではないが。
「それにしても、奈美先生の愛情表現は、いつ見ても過激だよね」
「あれは過激とかの域をとっくのとうに超えてるって。なんで母親に抱きしめられたくらいで意識を失うんだ? しかも、今日は二時間もだぞ? 絶対おかしい、間違ってる」
「確かに二時間は、記録だと思うけど。でも、奈美先生にとってはそれくらいようちゃんのことがカワイイってことだよ、きっと」
「……俺はそんな愛情表現はイヤだ」
 俺は話しながら彩美の弁当に手をつけた。
 うん、いつ食べてもこいつの弁当は旨い。
 俺と彩美は、ガキの頃からのつきあいで、それこそ竹馬の友でも筒井筒とでも呼べる間柄だ。俺も昔は今ほどひねくれてなかったから、彩美も俺とは好んで一緒にいた。俺も彩美はつきあいやすい相手だったから、特に嫌がりもせずつきあっていた。
 そんな俺と彩美だけど、こいつは俺と違ってなんでもこなせる秀才型だ。勉強だってスポーツだって家事だって。
 俺と彩美の関係がほんの少しだけ変わったのが、中学の頃。中二の秋、俺の父さんがガンで死んだ。手術までしたけど、結局は帰らぬ人になった。俺はひとりっ子だったから、母さんは少しでも俺につらい想いをさせないようにって、がむしゃらにがんばった。それは基本的に今も変わってない。ちょっとばかり、愛情の方向がずれてる気もするが。
 そんな俺にもうひとり手をさしのべてくれたのが、彩美だった。幼なじみという理由だけではなく、本当に大変そうだった俺を見て、心からの救いの手をさしのべてくれた。
 教師という比較的時間に余裕のある職業ではあっても、忙しい時には家を空けたりもする。そんな時に決まっていろいろしに来てくれたのが、彩美だ。家事全般のエキスパートである彩美のおかげで、俺は今でも快適な生活ができている。
 見てくれが多少見られるという以外に取り柄のない俺にここまでしてくれる彩美。その理由は、もうイヤになるくらいわかってる。彩美は、俺のことが好きなのだ。そう、ずっと昔から。
 一時期はそんな彩美の想いにつけ込んで、みたいに思ってた時もあったけど、今は素直に受け止めている。
 ただ、彩美の俺への想いは、まだ受け止めていない。というか、このままただ流されるだけ流されて受けていいのかどうか、わからないからだ。
 彩美は、真っ白なんだ。そんな彩美を、薄汚れた俺が汚していいのかどうか。
「ようちゃん、どうしたの、ボーっとして?」
 と、いきなり彩美の顔が俺の目の前に出てきた。
「な、なんでもない」
 普段はできるだけ意識しないようにしてるけど、彩美はそれこそモデルとかになれそうなくらい、容姿も整っているしスタイルだっていい。だから、意識しだすとやばい。
 スッと通った鼻梁に薄い唇。大きすぎない瞳はわずかに潤んで。
 制服の上からでもわかるボリューム感のある胸。
 ううぅ、やばい。
「そうそう、ようちゃん。今日はどうしようか? なにか、リクエストとかある?」
 彩美は、小首を傾げ、俺に訊ねる。
「あ、彩美のやりやすいのでいいから」
「ん〜、できればもう少し具体的に言ってくれる方がいいんだけど」
「じゃ、じゃあ、中華で」
「うん、わかった。中華だね」
 にっこりと笑う彩美。
 ……くっ、カワイイ。
「あら、こんなところにいたのね」
 そこへ、一番聞きたくない声が。
「こんにちは、奈美先生」
「んもう、彩美ちゃん。授業中じゃないんだから、遠慮なく『お義母さん』でいいわよ」
「……母さん、どさくさに紛れてなに不穏当なこと言ってるわけ?」
「あら、そんなに不穏当なことかしら。近い将来、そうなるんだから、別にいいと思うけど。ねえ、彩美ちゃん?」
「えっと、あの、その……」
 母さんの問いかけに、彩美は顔を真っ赤にして俯いてしまう。
「ああ、はいはい。母さんもその辺にして。じゃないと、母さんの料理、食べてあげないよ」
「ええーっ、そ、それはダメ。ママの生き甲斐を奪わないでよぉ、ようちゃ〜ん」
「だったら、余計なこと言わない。オーケー?」
「はい……」
 うっし、とりあえず母さんは黙らせた。
「で、わざわざこんなところまで来た理由は?」
「ああ、そうそう。今日、会議で遅くなるのは伝えたかなって思って」
「大丈夫。ホワイトボードにも書いてあったし」
「そう、ならいいの。彩美ちゃん、今日もようちゃんをお願いね」
「はい、任せてください」
「ついでに、そのまま婚前交渉も──」
「料理、食べないよ」
「ああーっ、ウソ、冗談、ごめんなさい、ようちゃん」
 まったく、懲りない母さんだ。
 
 怠い授業も終わり、ようやく放課後。
「ようちゃん、もう帰れる?」
 凝り固まった体をほぐしていると、ポニーテールを揺らして彩美が声をかけてきた。
「ん、ああ、いつでも大丈夫だぞ」
「じゃあ、帰ろ」
 俺たちは教室を出て、ちょうどラッシュ時の昇降口へと出てきた。
 下駄箱から靴を取り出し、上履きをつっこむ。
 昇降口を出ると、ようやく授業後の開放感を満喫できる。
「ようちゃん」
「ん、なんだ?」
「帰りに、お買い物していってもいいかな?」
「買い物って、商店街か?」
「うん。ほら、夕食の材料とか」
「別に構わんけど」
「じゃあ、決まり」
 俺たちは駐輪場から自転車を引っ張り出し、家路に就いた。
 途中、近隣でも比較的大きな商店街に立ち寄る。
 商店街のあちこちから威勢の良いかけ声がかかる。店先では主婦が品物の善し悪しを吟味している。
 彩美が最初に向かったのは、肉屋だった。
「おっ、渋井さんとこのお嬢じゃないか。今日はなんだい?」
 恰幅のいい肉屋のオヤジがなれなれしく声をかけてくる。まあ、ここの商店街の店主はみんなこんな感じだけど。
「豚ロースのいいところを、百五十グラムいいですか?」
「まいどっ」
 う〜む、こういう姿を見ていると、なんか主婦って感じがする。
「あいよっ、ちょっとおまけしておいたから」
「いつもすみません」
「なぁに、いいってことよ。お得意様にサービスするのは、当然の義務ってことで」
「ありがとうございます」
 それから八百屋やスーパーに立ち寄り、今度こそ家路に就いた。
 うちは八階建てマンションの七階にある。親子ふたりだけの暮らしだから、それほど大きな部屋は必要ない。間取りは2LDK。俺と母さんがひと部屋ずつ使ってる。
 俺たちはマンションの駐輪場に自転車を止め、表へとまわった。
 オートロックの玄関を開ける前に、郵便受けを確認する。何通かのダイレクトメールと電話代の請求書が入っていた。
 鍵を使って玄関を開ける。エレベーターは運良く一階に止まっていた。それほど大きくないエレベーターに入り、七階を押す。
「そういや、彩美は合い鍵あんま使わないよな」
「私が来る時は、だいたいようちゃんか小母さんがいるからね」
 うちの鍵は、俺と母さんはもちろんのこと、彩美もひとつ持っている。俺はどうでもいいけど、母さんが彩美のことを、それはもうえらく信頼しているからそんなことになった。
 七階に着き、708号室を目指す。
 今度は家の玄関を鍵で開ける。
「ほら、先に入れ」
「うん、おじゃまします」
 彩美を家に上げ、俺は玄関を閉める。一応鍵をかけるのは、用心のため。
「ようちゃん。夕飯、何時くらいにしようか?」
「ん、彩美の好きな時間でいいぞ。調理とかにも時間は必要だろうし」
「うん、わかったよ」
 彩美はカバンをリビングに置き、ダイニングからエプロンを持ってくる。そのエプロンは彩美用で、母さんがやったものだ。
「そうだ、ようちゃん。あの──きゃっ!」
「お、おい、彩美っ」
 彩美はいきなりなにもないところで足を突っかけ、こけそうになった。
 俺は、そんな彩美をなんとか抱き留める。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫だよ……」
 彩美は、まだ自分がどうなったかちゃんと理解できていないようである。呆けた顔で、視点も定まっていない。
 だが、それが理解できると、途端に顔を真っ赤にして俯く。
「よ、ようちゃん……」
「あ、わ、悪い、すぐ──」
「……イヤ」
「彩美……?」
 俺が彩美を離そうとすると、彩美は、逆に俺にしがみついてきた。
「……ようちゃんは、私とこうするの、イヤ?」
「別に、イヤじゃないけど……」
「私は、ずっと、こうしてたいよ……」
 そう言って彩美は、しっかりと俺を抱きしめた。
 彩美のぬくもりが、俺に伝わってくる。シャンプーの匂いが鼻孔をくすぐる。
「彩美……」
 俺は、彩美の髪を、背中を、自分でも驚くくらい優しく撫でた。
「ようちゃん……好き……」
 その日、俺は、彩美とキスをした。
 触れるだけのキスだったが、心の中にポッと暖かな灯が点いたような感じのキスだった。
 
 キッチンから、楽しそうなハミングが聞こえてくる。
 彩美は、あれから本当にニコニコと、こぼれ落ちそうな笑みをたたえたまま夕食の準備をしていた。
「しかし……」
 俺は、彩美とキスをしたんだ。
 そりゃ、相手が彩美だということには、なんの不満もない。俺だって、なんだかんだ言いながら彩美のことは好きだから。とはいえ、あんな雰囲気に流されてのキスで本当によかったのか、それはわからない。
 だが、俺がどう思っていようと、彩美がいいのなら、それでいいのかもしれない。
「ようちゃん。お皿、用意しておいてくれるかな?」
「ん、ああ、わかった」
 俺は、彩美に言われるまま、使うであろう食器を用意する。
「……ねえ、ようちゃん」
「ん?」
「ようちゃんは、覚えてるかな、昔の約束」
「約束?」
「うん」
 彩美は、鍋をかき混ぜながら訊ねる。
「小学校に入ったばかりの頃の約束」
「……ああ、約束。一応、覚えてる」
「ホント?」
「彩美がいい女になったら、俺の嫁さんにするって奴だろ」
「う、うん」
 この約束を俺が覚えていた理由は、それほどたいしたことではない。それは、たまに夢でその時のことを見ていたからだ。それがなければ確実に忘れていた。
 だが、実際はどうなのだろうか。
 彩美は……いい女になったと思う。となると、俺は、彩美を嫁に迎えなければならないのだろうか。
「あの時、わざわざ指切りまでしたんだよな」
「うん。それともうひとつ」
「もうひとつ?」
「えっ、覚えてないの?」
「ん、いや、まあ、夢は、いつもそこで終わるから」
「……そっか」
 彩美は、目に見えてがっかりしていた。
 あのあとのことは、やっぱり……
「ようちゃん。ようちゃんは、さっきのキスがファーストキスだと思う?」
「いや、違うんじゃないか?」
「……当てずっぽう?」
「……すまん」
 彩美は、火を止めて、俺に向き直った。
「ようちゃん、目、つぶってくれるかな?」
「ん、ああ」
 俺は、言われるまま目を閉じる。
「私がするのはね──」
「ん……」
 唇に、柔らかな感触。
「約束のキス、だよ」
 
「あのね、わたしね、ようちゃんにおねがいがあるの」
「おねがい?」
「うん。わたしね、ようちゃんのこと、だいすきだよ」
「うん、ぼくもあっちゃんのこと、すきだよ」
「うん、それでね、ようちゃん。わたしね、ようちゃんとやくそくしたいの」
「やくそく? どんな?」
「えっとね、しょうらい、わたしを、ようちゃんのおよめさんにしてほしいの」
「あっちゃんが、ぼくのおよめさん?」
「うん、だめ、かな?」
「う〜ん、ぼくはいいとおもうけど」
「けど?」
「おとうさんがね、まえにいってたんだ」
「おじさんが?」
「うん。おとこはね、いいおんなをよめにすることこそが、さいこうのすてーたすだって」
「すてーたす? ん〜、よくわかんない」
「ぼくもそれはわからないけど、ただ、およめさんはいいおんなじゃなきゃだめなんだって」
「そっか……じゃあ、わたし、いっしょうけんめい、いいおんなになる。そしたら、ようちゃん、わたしをおよめさんにしてくれる?」
「うん、いいよ」
「じゃあじゃあ、やくそく。はい、ゆびきり」
「うん……ゆびきった」
「それと、ね、ようちゃん」
「うん?」
「ちょっとだけ、め、つぶってくれるかな?」
「めを?」
「うん」
「いいけど、なにするの? かくれんぼ?」
「ううん、ちがうよ。わたしがするのはね──」
「ん……」
「やくそくのきす、だよ」
「あっちゃん……」
「ようちゃん、やくそく、だよ」
「うん」
 
 不意に、すべてを思い出した。
 確かに、俺は彩美とあの時キスを交わした。それが、俺にとっても彩美にとってもファーストキスだったのだ。
「ねえ、ようちゃん。私、いい女になれたかな? ようちゃんのお嫁さんに、なれるかな?」
 彩美は、潤んだ瞳で俺を見つめる。
 真っ直ぐな瞳。真摯な眼差し。真剣な表情。
「……おまえほどのいい女は、そうはいないって」
「じゃあ……」
「本当に、俺でいいのか?」
「うん。ようちゃんじゃなきゃ、イヤなの」
「彩美……」
 俺は、自然と彩美を抱きしめていた。
「好きだ、彩美」
「うん、私も、大好きだよ、ようちゃん」
 俺たちは、お互いの想いを確かめるように、キスを交わした。
 これで、俺たちは『恋人同士』なのだ。
 
 俺と彩美の関係がほんの少しだけ進んだからといって、別にいろいろなことが変わったわけではない。学校は相変わらずだし、なによりも母さんが相変わらずだから。
 とはいえ、母さんは俺たちのことを誰よりも早く、気づいた。ここはさすがは我が母というところか。
 母さんは本気で彩美が『義娘』になることを望んでいたから、まあ、今の状況は願ったりかなったりなのかもしれない。
 彩美は、俺の『彼女』になれたことが本当に嬉しかったらしく、あの日から数日間は、浮かれに浮かれまくっていた。俺と一緒にいる時間はさほど変わらないのだが、それでもその距離が確実に近くなっていた。
 たとえば、学校からの帰り道、誰もいないのを確認すると、腕を組んできたり。学校でも、誰もいないとネコみたいにすり寄ってくる。
 俺としては、彩美のようなすこぶるつきのいい女にそうされるのは、悪い気はしない。というか、むしろ嬉しい。
 さらに、極めつけは、彩美とふたりきりになった時。もうそれこそ完全にふたりだけの世界に入ってしまう。
 よく街中や電車の中なんかでイチャついているカップルがいるけど、まさにそんな感じ。ベタベタとくっついて、忘れた頃にキスをして。
 なんとなく、感覚が麻痺しているような気がする。
 そんな俺だが、これでも学校ではある程度は真面目にいこうとは思ってる。なんたって、彩美は男子憧れの的だったから。彩美のことを狙ってた男子は相当数いて、玉砕した奴も結構いる。だから、そいつらを刺激しないように、できるだけ配慮している。
 それでも、俺がいくら配慮して注意しても、彩美の行動までは制限できない。従って、現在俺は結構な数の男子から冷たい視線を浴びている。
 ま、そんなことくらいでびびる俺ではないが。
「ようちゃん」
「ん?」
 学校も休みの日曜日。俺たちはデートとまでは言わないけど、ふたり揃って近くの河原に来ていた。
 土手に広がる芝生に寝ころび、俺は彩美に膝枕してもらっていた。
「ようちゃんは、私のどこが好きなの?」
 俺の髪を撫でながら、彩美は訊ねる。
「そうだな、月並みな言い方だけど」
「うん」
「全部、好きだと思う」
「全部?」
 俺は、目を閉じた。
「性格、言動、容姿。本当にすべてだ」
「ようちゃん……」
「これ以上の『彼女』は、望んでも得られないだろうな」
「……ふふっ、ようちゃん、ずいぶん恥ずかしいことを言うんだね」
「彩美のことだからな」
 不意に、唇をふさがれた。
「ずるい、ようちゃん。そんなに嬉しくなるようなことばかり言わないで」
「ずるいって、じゃあ、どうすればいいんだ?」
「もう少し、小出しにするとか」
「そんなことでケチってもしょうがないと思うんだがな」
 そう言って俺は苦笑した。
「じゃあ、逆に、彩美は俺のどこが好きなんだ?」
「まず、優しいところ。それから、私のことを大切にしてくれるところ。カッコイイところ」
「……ようは、俺と同じか?」
「うん。だって、ようちゃんだもん」
 彩美は、満面の笑みを浮かべ、俺を見ている。
「私はね、ようちゃんの側にいられるだけで幸せなの。それなのに、今はようちゃんとは『恋人同士』で。本当にこれ以上ないくらい幸せだよ」
「……ったく、そんなことくらいで幸せだなんて言うなよ」
「どうして?」
「これから、いくらでも幸せになれるだろ?」
「ようちゃん……」
 俺は、彩美を俺の方へ引っ張り、そのままキスをした。
「ようちゃん、離さないでね……」
「ああ……」
 
「ようちゃん♪」
「ん、どうした?」
「ううん、なんでもないよ。ただ、呼んでみただけ」
 そう言って彩美は微笑んだ。
 今俺たちは、直前に迫った定期テストに向け勉強をしている。というか、俺のために彩美が勉強を教えてくれている。
「ん〜、この辺は苦手だな」
「どこ?」
「ほら、ここ」
 彩美は、俺の方へぐっと身を乗り出してくる。
 カットソーの胸元が開き、ちらちらと胸が見える。
「……彩美」
「うん?」
「もう少し気を遣え」
「えっ、なにに?」
「……胸だよ、胸」
 俺は、視線をそらしながらたしなめる。
 しかし、彩美はまったくひるまない。
「いいよ、ようちゃんなら。ようちゃんだって男の子だもんね」
 少し頬を赤らめ、そう言う。
「……ようちゃんも、その、エッチとか、してみたい?」
「なっ、ば、バカなこと言うなよ」
「どうして?」
「そ、それは……」
 俺は答えに窮した。
 そりゃ、俺だって健全な一男子だ。性欲だってあるし、セックスにも興味がある。だけど、それを簡単に認めてしまったら、そのためだけに彩美とつきあった、そんな風に思えてならない。
「……ようちゃん」
 彩美は、潤んだ瞳で俺を見つめる。
 くっ、そんな顔されると、抑えが効かなくなる。
「ようちゃんなら、ううん、ようちゃんだから、私のすべてを見てほしいし、もらってほしいの」
「彩美……」
 限界だった。
「ようちゃん……」
 俺は、彩美を抱きしめ、キスをした。
「本当に、いいのか?」
「うん」
 彩美は、小さく、だがはっきりと頷いた。
 
「彩美……」
「ようちゃん……」
 俺は、もう一度彩美にキスをした。
 彩美は、キスをする度に、ポッと頬を赤らめる。俺はその仕草が好きで、またキスをする。
「……脱がせるぞ?」
「うん、いいよ……」
 彩美は、少しだけ顔を背けた。
 そんな彩美の心情をおもんぱかって、俺はあえてなにも言わなかった。
 カットソーを脱がせると、ライトブルーのブラジャーがあらわになる。
 やっぱり、こいつは胸もでかい。
「へ、変かな?」
「いや、綺麗だ……」
「えっ……? ホント?」
「ああ、綺麗だ」
「嬉しい……」
 俺のためだけにいい女になろうとした彩美。
 こいつが今綺麗なのは、本当にその想いのなせる業だと思う。
「下も脱がせるぞ」
「うん……」
 プリーツスカートに手をかけ、ホックを外し、ファスナーを下ろす。
 ブラと揃いのショーツ。思わず息をのんだ。
 このブラとショーツを脱がせてしまえば、あとはソックスしか彩美を守るものはない。
 俺は、本当にここから先に進んでもいいんだろうか。
 俺は、心から彩美を抱きたいと思っているのだろうか。
「ようちゃん……?」
 なにもしない俺に不安を感じたのか、彩美が心配そうに声をかけてきた。
「やっぱり、私じゃダメなのかな……?」
「そんなことないっ!」
「よ、ようちゃん……?」
「わ、悪い。だけど、そんなこと言うな。俺だってな、彩美とだからこそ、こうしてるんだから」
「……うん、ごめん」
 ったく、俺はいったいなにをしてるんだ?
 なんで俺が彩美を怒鳴らないといけないんだ?
 おかしい、絶対おかしい。
 俺がそんなことを考えていると、彩美が先に動いた。
「ようちゃん、私のすべてを見て……」
 そう言って、残っていたブラとショーツを脱いだ。
 胸元と下腹部を手で隠してはいるが、そこにいるのはいつもの彩美ではない。多少のあどけさは残ってはいるが、ひとりの女性、それも大人の女性として、彩美はそこにいる。
「私のすべてを見てもいいのは、ようちゃんだけ。私を抱きしめていいのもようちゃんだけ。キスも、ようちゃんだけ」
 そして、彩美は、いつもの笑みを浮かべた。
「私、特別じゃないよ。私はね、ようちゃんのことが世界中の誰よりも好きな、渋井彩美という女の子だよ。それ以上でもそれ以下でもない。だからね、ようちゃん」
 こいつは、本当にすごい奴だ。俺なんか足下にも及ばない。
 だけど、今はそんな彩美の想いに是が非でも応えなくては。
「私を、抱いて。ようちゃんだけの、彩美にして」
「彩美……」
 俺は、彩美を抱きしめ、キスをする。
「すまん、本当に俺は情けない奴だ……」
「ううん、そんなことないよ。ようちゃんは、やっぱりようちゃんだよ。だって、今だって私のこと気遣ってくれてたんだから」
「彩美……」
 もう一度キスをする。
 そして、俺は彩美の胸に手を伸ばした。
「ん……」
 彩美の胸は、マシュマロのように柔らかかった。それでも、少し力を入れても、あとでちゃんと戻るだけの弾力性にも富んでいる。
 俺は、そんな胸をはやる気持ちを抑えつつ、揉んだ。
「ん、あ……」
 少しずつ彩美の口からも、吐息が漏れてくる。
 心なしか肌も赤みがかってきている。
 外側から内側へ。円を描くように揉む。形を変えながら、でも、俺の意志に沿って。
 次第に乳首が硬くなってくる。
 俺は、そんな乳首を指で少し弾いた。
「あんっ」
 やはりそこは感じるらしく、彩美は今まで以上の反応を示した。
 今度は、それを口に含む。
「や、やぁん、ようちゃん、ダメだよぉ……」
 彩美は、力なく拒もうとする。しかし、実際体に力が入らないらしく、俺を止めるには至らない。
 舌先で乳首を転がし、ちゅっと吸ってみる。
「あ、あんっ」
 こうしてると、赤ん坊が母親のおっぱいを吸ってるみたいだ。なんというか、すごく落ち着く。
「ん、ようちゃん」
「どうした?」
「ようちゃん、おっきな赤ちゃんみたい」
 俺が思っていたことをそのまま言われ、さすがに顔が熱くなった。
「私も、いつかは──」
「いつか、じゃないだろ」
「ようちゃん……うん、そうだね」
 俺は、もう少しだけ彩美の胸を堪能した。
 そして、おもむろに手を下腹部に伸ばした。
 彩美も、さっきとは比べものにならないくらい緊張している。
「いいか?」
「う、うん」
 俺は、彩美の秘所に手を添えた。
「ん……」
 淡い恥毛の先、まだぴっちりと閉じた場所、そこに俺のが入る。
 俺は、そこに少しだけ指を入れた。
「あっ」
 同時に、中から蜜が出てきた。
「感じてたんだな」
「だ、だって、ようちゃんに触られてたんだよ。感じちゃうよ……」
 彩美は、消え入りそうな声で言う。
 それから俺は、丹念に秘所をほぐす。そのままでは絶対に彩美がつらい。
「んあっ、あん、ようちゃん、ようちゃん」
 彩美の艶っぽい声が、俺の神経を少しずつ麻痺させていく。
 同時に俺のモノは痛いくらいに大きくなっていた。
 そろそろ限界かもしれない。
「彩美、そろそろ、いいか?」
「えっ、あ、うん、いいよ」
 俺は、ズボンとトランクスを脱いだ。
「……それが、ようちゃんのなんだね。小さい頃、一緒にお風呂に入った時とは、全然違うね」
「成長してるからな」
「うん、そうだね……」
 緊張感を紛らわすためにそう言ったのだろうが、あまり効果はなかったらしい。
「いくぞ、彩美」
「う、うん……」
 俺は、限界まで怒張したモノを、彩美の秘所にあてがった。
 そして──
「ひぐっ……ああっ!」
 俺は、一気に腰を落とした。
 途中、薄い膜を破る感じはあった。それが、彩美を守っていた膜であったことは、もちろんわかっている。
「大丈夫、じゃないよな」
「や、やっぱり、はじめては痛いんだね。裂けちゃうかと、思ったよ」
 彩美は、気丈なまでに笑みを浮かべ、そう言う。
「でもね、ようちゃん」
「ん?」
「それ以上に、ようちゃんとひとつになれて、すごく、嬉しいよ」
「俺もだ……」
 彩美にキスをする。
 しばらく彩美の中でそのままでいたが、その間にも俺は急激な射精感に襲われていた。
「ん、ようちゃん、もう、大丈夫だよ」
「いいのか?」
「うん。あとは、ようちゃんの好きなようにして……」
「わかった……」
 俺は、ゆっくりと腰を引いた。
「んっ、いたっ」
 彩美にはまだまだ苦痛の方が大きい。それでも俺は止めない。今止めることは、彩美の想いを裏切ることになるからだ。
「よう、ちゃんっ、好きっ、だいすきっ!」
 少しずつ動きを速くしていく。
「彩美っ、彩美っ」
 はじめてのセックス。
 俺も、長くは保たなかった。
「くっ……」
 俺は、抜く間もなく、彩美の中に放っていた。
「ん、ようちゃんのが、いっぱい出てる……」
 彩美は、陶酔状態でそれを感じている。
 最後の最後まで出し切り、俺は、モノを抜いた。
 俺のモノには、わずかに赤いものがついていた。
「ようちゃん……これで、私はようちゃんだけのものになったんだよね?」
「ああ、彩美は、俺のものだ。誰にも渡さない」
「うん、すごく嬉しい……」
 今度は、彩美の方から俺にキスをしてきた。
「ずっと、一緒にいようね……ようちゃん……」
 
 朝、俺は腕のしびれで目を覚ました。
 二の腕から先が動かせない。視線をそちらに向けると──
「……ああ、そうだった」
 俺の腕枕で幸せそうに眠っている彩美。
 そうだ。昨日、初エッチのあとそのまま寝てしまったんだ。俺もどこか倦怠感があったし、彩美も結構体にきつかったはずだ。だから、そのまま。
 腕がしびれて動かせないのは、まあ、この寝顔を見るための代償だと思えば、安いものか。
「それにしても……」
 いつかそうなるんじゃないかとは思っていたけど、本当に彩美とセックスするとはな。
 彩美は、俺が想像していたよりも、もっとずっとはるかにいい女になっていた。彩美と結婚できる奴は、本当に幸せだ。
 って、今その可能性があるのは、俺だけかもしれないが。
 こんないい女、そうそういない。
 綺麗で、なんでもできて、よく気が利いて、明るく、優しく。
「ホントに、俺にはもったいないくらいだ……」
「……そんなこと、言わないで」
「起きてたのか?」
「少し前にね。でもね、ようちゃん。今の言葉は、ひどいよ」
 彩美は、ぷうと頬をふくらませ、抗議する。
「昨日も言ったけど、私はね、特別じゃないよ。ホントに全然、普通の女の子なんだから」
「……悪い、そういう意味で言ったんじゃないんだけどな。結果的におまえにイヤな想いさせた。すまん」
 俺は、素直に謝った。
「私は、もうようちゃんだけのものなんだから。ようちゃんが言えば、私、なんでもするよ」
「いいんだよ、そんなこと」
「ううん。私ね、ずっと思ってたの。いつになったらようちゃんに恩返しできるのかなって」
「恩返し?」
 俺は首を傾げた。俺が彩美に対してしたことを考えても、恩なんて売った覚えがない。
「私、いつもようちゃんの後ろにくっついてたでしょ?」
「ん、ああ、そうだな」
 確かに、彩美はガキの頃、いつも俺の後ろにくっついていた。
「あれね、いろんな意味があったんだよ」
「いろんな、意味ね」
「一番大きいのは、もちろんようちゃんと一緒にいたかったってことだけど。ほかにはね、ひとりじゃなんにもできなかった私が、身を守る術としてようちゃんと一緒にいたの。ようちゃんと一緒にいると、守ってもらえたから」
 なるほど、それもなんとなくそうかもしれないと思う。彩美は、ガキの頃は案外人見知りするタイプだったからな。
 俺は、ひねくれてはいなかったけど、今と同じで誰とでもつきあえる性格をしてたから。そんな俺と一緒にいれば、自然とみんなの仲間に入れるだろう。
「ほかにもね、ようちゃんはいっぱい、私にいろいろ与えてくれたの。あげればきりがないけどね。だから、私はようちゃんが認めてくれるようないい女になれたら、その時にようちゃんに今までの恩返しをしようって、そう思ってたの」
「……ったく、おまえは、ホントに生真面目だな」
 そう言って俺は、彩美の頭を胸に抱いた。
「そんなこと、気にするな。それにな、俺だっておまえにどれだけ助けられたかわからないぞ。特に、父さんが死んだ時なんてな」
「あれは、しょうがないよ」
「おまえはそう言うかもしれないけど、俺の中ではかなりの借りになってるんだよ。だからな、恩返しだとかなんだとか、そんなこと考えなくていい。彼氏彼女の関係になって、そういうの、一度リセットしてもいいんじゃないか?」
「……そう、かな?」
「ああ。少なくとも俺はそう思う」
「…………」
 彩美は、押し黙り、なにか考えている。
「うん、わかった。ようちゃんがそう言うなら、私もそうする」
 そして、最後には笑顔でそう言った。
「でもね、私、ようちゃんにはこれでもかってくらい、尽くすからね。普段の生活も、夜の時もね」
「彩美……」
 本当に、彩美は俺にはもったいないくらいのいい女だ。
 俺は、この俺を一途に想ってくれている渋井彩美という女を、絶対に手放してはいけない。
「んしょっと」
 彩美は、突然起きあがり、ベッドの上に正座した。
 裸のままなので、ちょっと目のやり場に困るのだが。
「ふつつか者ですが、末永く、よろしくお願いします」
 そう言って、三つ指突いて頭を下げた。
「私、ずっとようちゃんについていくからね」
 彩美の顔には、とびっきりの笑顔があった。
 
 それから身支度を調え、部屋を出た。
 しかし、俺はその時まで忘れていた。この家に、もうひとり非常にやっかいな相手がいたことを。
「おはよう、ようちゃん、彩美ちゃん」
 俺は、その場で回れ右して、部屋に閉じこもろうと本気で思った。
「ようちゃん、朝は、ちゃんと『おはよう』でしょう? ママ、挨拶もろくにできない子に育てた覚えはないわよ」
「……おはよう、母さん」
「はい、おはよう、ようちゃん」
「お、おはようございます」
「うん、おはよう、彩美ちゃん」
 母さんは、それはもうニコニコと嬉しそうだった。
「それで、ようちゃん。ママに、報告はないの?」
 くっ、やはりこの親は……
「ん、ようちゃん?」
「ああ、もう、わかったから」
 俺は、もうどうにでもなれという感じで言った。
「もう俺も彩美も、子供じゃないから」
「そう、よくわかったわ」
 そう言って母さんは、彩美の前にやってくる。
「彩美ちゃん」
「は、はい」
「ようちゃんのこと、これからもお願いね。ちょっと性格はひねくれてるけど、これでも私たちの自慢の息子だから」
 母さんは、あえて『たち』と言った。それはもちろん、父さんを含んでいる。
「それと、私のことは、『お義母さん』て呼んでいいからね」
 ……いや、この親のことを少しでも見直した俺がバカだった。
「ほらほら、今日の朝食は奮発したんだから。一緒に食べましょ」
 彩美は、ちらっと俺の方を見る。俺は、彩美に頷き返し、それで彩美も食卓に着いた。
 なんだかんだ言っても、この光景が、これから先、当たり前になるような気がした。
 
 いや、ある程度はわかっていたことだった。彩美は、本当はすごく甘えん坊だということは。
 ガキの頃を思い出せば、そんなことは容易に想像できた。なのに、俺はそれをすっかり忘れていた。
「はい、ようちゃん♪」
「ん……」
 俺は、彩美が差し出すおかずを無言で食べた。かなり恥ずかしい。
 というか、『はい、あ〜ん』と言われないだけまだましかもしれない。
 彩美は、あの日言ったように、それはもう献身的に俺に尽くしてくれる。もともと彩美は俺に尽くしてくれていたけど、それに拍車がかかった感じだ。
 それに加えて、最近の彩美は、人目もはばからず俺にベタベタとくっついてくる。俺としては別に構わないのだが、少なくとも学校でそれをするのはやめてほしい。
 男女問わず、視線が痛い。
 おかずを食べさせる、腕を組んで歩く、不意を突いてキスをする。
 なにもなければそれでもいいのだが。
「ねえ、ようちゃん」
「うん?」
「今日も、お泊まりでいいかな?」
「ん、ああ、好きにしてくれ」
「うん」
 あれから彩美は、週に最低三日はうちに泊まっていく。下手すれば家に帰るのは一日だけ、なんてこともある。
 渋井家の面々は、そんな彩美のことをどう思っているかといえば、完全に放任している。もともとものすごく理解のある親だけど、娘が外泊しても、なにも言わない。というか、挙げ句の果てには彩美のことを俺に頼んでくる始末。
 まあ、それだけ信用されているということなのだろうけど。
 なんとなく、そういう家に育ったからこそ、彩美みたいなのが育つんだろう。
「あっ、そういえばようちゃん」
「ん、どうした?」
「もう替えの服、ないよね?」
「…………」
 ああ、神様。どうか俺を助けてください。
「ようちゃん?」
「あ、ああ、そうかもしれないな」
「じゃあじゃあ、今日の帰り、一緒に買い物、行こ」
「買い物って、洗濯すればいいんじゃないか?」
「ん〜、それもそうなんだけど、できれば、ようちゃんに選んでほしいなって、そう思ったの。どんな格好でも、するよ」
 そう言って彩美は、ちょっとだけ小悪魔的な笑みを浮かべた。
 ううぅ、俺は別にコスプレマニアじゃないぞ。
 そりゃ、彩美はなにを着ても似合うけど……
「だから、いいでしょ?」
「……わかったわかった。おまえの好きにしてくれ」
「あはっ、ありがと、ようちゃん♪」
 そう言って、俺にキスをする彩美。
 もう、どうにでもしてくれ。
 
「んっ、あんっ、ようちゃん」
 彩美は、髪を振り乱し、あえぐ。
 俺の方は、多少は彩美を気遣っているが、でも、本能の赴くままに快感をむさぼっていた。
「あっ、ああっ、ようちゃんっ、気持ちいいよっ」
 彩美の方も、しっかりと感じている。
 セックスをしても、俺だけとか、彩美だけとか、そんな片方だけが満足するのは違うと思う。どうせなら、ふたりともが満足しなければ。
「ようちゃんっ、ようちゃんっ、ようちゃんっ」
 俺も彩美も、そろそろ限界だった。
「彩美っ」
「ようちゃんっ、んあっ、あああっ!」
 俺は、かろうじてモノを引き抜き、彩美の腹部に白濁液をほとばしらせた。
「はあ、はあ、ようちゃん……」
「はあ、彩美……」
 俺は、息をつき、彩美にキスをした。
 
「ん〜、ようちゃん♪」
 彩美は、ネコのように俺にじゃれついてくる。お互いまだ裸のままだから、あまりじゃれつかれると、反応してしまうのだが。
「なあ、彩美」
「うん?」
「そんなに俺にくっついて、楽しいか?」
「うん、楽しいよ」
 なんの臆面もなく、そう答える。
「一緒にいるだけで幸せだけど、触れているともっと幸せ。それに、ようちゃんとのエッチは、好き」
 満面の笑みを浮かべる彩美。
 この顔をされると、俺はなにも言えない。
「ひょっとして、ようちゃんは迷惑?」
「迷惑ってことはないけど、ただ、もう少し普通にしててもいいんじゃないかとは思う」
「普通、かぁ。でも、今の私には無理だよ」
「なんでだ?」
「だって、ようちゃんと一緒にいることで得られるぬくもりや安心感、ようちゃんに抱かれることで得られる満足感を覚えちゃったから。もう、それなしでは生きていけないよ」
「…………」
 今のセリフは、俺にとっても同じことだった。
 ただ、俺はそれをなにかと理由をつけて素直に言い表さなかった。
「だからね、今の状況が、今の私にとっては、『普通』なの」
「ふう……」
 俺は、大きく息を吐いた。
「ようちゃん?」
「彩美を彼女にしてから、俺の彩美像がずいぶんと変わった気がする」
「どう変わったの?」
「誰かがなにか言わないとなんにもできない奴かと思ったけど、実際はかなり積極的だし。それに、ガキの頃よりもだいぶ甘え癖が強くなってる」
「……そういうの、イヤ?」
 彩美は、少し心配そうに訊く。
「別にイヤじゃない。それに本当にイヤなら、とっくに別れてるって」
「そっか……」
 なんとも言えない表情で俺に寄る。
「……ねえ、ようちゃん」
「ん?」
「結婚、したいね」
「は……?」
 いきなりのことに、思わず間抜けな声をあげていた。
「私、ようちゃんのお嫁さんになることが、夢だから。だからね、別に大学に行かなくてもいいし、就職しなくてもいいの。ずっと、ようちゃんの側にいられればね」
「彩美……」
「ようちゃんは、どう思う?」
「……そうだな、卒業したら、とりあえず、形だけでも一緒になるってのは、いいと思うけどな」
「ホント? ホントにホント?」
「ああ」
「じゃ、じゃあ、卒業したら、私をお嫁さんにしてくれる?」
「ああ」
「嬉しい……」
 彩美は、くしゃくしゃの笑顔でそう言う。
「嬉しすぎて、涙が出ちゃう……」
「泣くなよ」
「だって……」
 俺は、彩美の涙を見ないように、その顔を俺の胸に抱いた。
「ようちゃん、ようちゃん、ようちゃん……」
 何度も俺の名を呼び、泣く。
 俺は、やっぱり彩美を手放してはいけない。だからこそ、覚悟も決めなければならない。
 
「母さん」
 俺は、彩美がうちに来ない日を選んで、母さんに話しかけた。
「ん、どうしたの?」
 母さんは、授業用のプリントをパソコンを使って作っていた。
「今日は彩美ちゃんが来ないから、淋しいの?」
「違うって。いきなり話の腰を折らないでよ」
「ふふっ、ごめんなさい」
 母さんは、穏やかに微笑み、俺の方に向き直った。
「それで、ママにどんな話?」
「あのさ、母さんは彩美のこと、どう思ってる?」
「彩美ちゃんのこと? そうね」
 おとがいに指を当て、少し考える。考え自体はとっくのとうに決まっているのだろうが、どう言おうか考えているのだろう。
「たぶん、ママ以外でようちゃんのことを一番理解している子、よね」
「それは、そうだろうね。なんだかんだいっても、あいつとは結構長いつきあいだし」
「ようちゃんと彩美ちゃんは、ようちゃんが彩美ちゃんのことを『あっちゃん』て呼んでた頃から、本当に仲がよかったものね」
「あっちゃん、ね。あれも、母さんや彩美が俺のことを『ようちゃん』て呼ぶから、自然と彩美をそう呼んでたんだけどね。父さんみたいに『洋平』って呼んでくれてれば、そうは呼ばなかったよ」
「彩美ちゃんは、今でも『あっちゃん』って呼んでほしいんじゃないかと、ママは思うわ」
「どうして?」
「なんか、その方が親密そうじゃない。愛称で呼ぶ仲って、特別って感じもするし」
 まあ、母さんの言いたいことはよくわかる。しかし、高二にもなって彩美のことを『あっちゃん』とは呼べない。加えて言うなら、俺自身の一人称だって、『ぼく』から『俺』に変わってるんだから。
「まあ、それはいいわ。彩美ちゃんのことよね? やっぱり、ようちゃんのことを任せられるのは、彩美ちゃんしかいないわ」
「それは、幼なじみだから?」
「違うわ。もちろん、そういう時間的なことも判断材料のひとつではあるわよ。でもね、ママが彩美ちゃんを認めてる最大の要因は、人の痛みがちゃんとわかる子だから」
「人の痛み?」
「あの人が亡くなった時、ママがようちゃんのためにがんばらなくちゃって思って、でも、結果的にはようちゃんを置いてきぼりにしそうになって。その時ようちゃんを見ていてくれたのが、彩美ちゃんだし。彩美ちゃんだってあの人のこと、よく知ってたし、悲しくないはずなかったのに、そんな自分を微塵も見せずに、いろいろしてくれたし。そういう人の痛みを理解できる、できてる子だからこそ、ママの大切なようちゃんを任せられるの」
「そっか……」
「ようちゃんは、覚えてるかどうかわからないけど」
「なにを?」
「小さい頃、ようちゃん、ママにすごく嬉しそうに言ったことがあるの。あっちゃんね、ぼくのことだいすきだって。それでね、あっちゃん、ぼくのおよめさんになってくれる。ぼく、あっちゃんをおよめさんにするんだって」
「…………」
「ふたりは、昔から相思相愛だものね。喧嘩らしい喧嘩も、したことないでしょ?」
「まあ、そうかも」
「結婚資金くらい、出してあげるわよ」
「えっ……?」
「そういう話でしょう?」
 話がいきなり結論に飛び、俺は焦った。
「ようちゃん、真面目だし、きっと責任取らなくちゃいけないとか、いろいろ考えてると思って」
「別に、責任感とか、そういうことはないけど。ただ、思ったんだよ。俺は、彩美を絶対に手放しちゃダメだって。ひょっとしたら彩美は俺なしでも生きていけるかもしれないけど、俺の方は、たぶん、ダメだから」
「ふふっ、そこまで考えてたのね。やっぱり、ようちゃんは自慢の息子だわ」
 そう言って母さんは、俺のことを抱きしめた。
 いつも学校でされる拷問的な抱擁とは違う、柔らかな、暖かな、そんな抱擁だった。
「ようちゃんが十八になったら、彩美ちゃんと一緒になっていいわよ。在学中だとかなんだとか、そういう文句はママが言わせないから。それに、渋井さんの方だって、彩美ちゃんのことを本当に理解しているからこそ、あれだけ外泊を認めてるわけだし。そうすると、早々に決着をつけた方がいいでしょう?」
「……そうだね」
 母さんは、やっぱり母さんだった。
 俺のことを誰よりも理解して、誰よりも考えて、それこそ自分のことなんてどうでもいいくらいに思って。
 だから俺は、母さんのことが好きなんだ。
 だから俺は、母さんのことを守りたいって思うんだ。
「母さん」
「うん?」
「俺、彩美と一緒になるから。それで、母さんを今のしがらみから解放するから。父さんが死んでから、母さん、ずっと走りっぱなしだし。そろそろ休んでも罰は当たらないと思う」
「ようちゃん……」
 今度は、俺が母さんを抱きしめる番。
「……ようちゃんも、ママをこうして抱きしめられるまでに大きくなったのね」
「そうだよ」
「ありがとう、ようちゃん」
 そう言って母さんは、俺の頬に、軽くキスをした。
 親子の親愛のキス。
 そんなキスが、俺は全然イヤじゃなかった。
 とにかく、これで俺の気持ちも固まった。
 あとは──
 
「洋平。結婚するならな、母さんみたいな女がいいぞ」
「どうして?」
「それは、いい女だからな」
「いいおんな?」
「ああ。男はな、いい女を嫁にすることが、最高のステータスなんだ。だから、父さんは最高のステータスを持ってるんだ」
「……ん〜、むずかしくてよくわかんないよ」
「そうかそうか。洋平にはまだ難しいか。でもな、洋平。今は意味がわからなくてもいいけど、そのうち、その言葉の意味をよく考えてみろ。父さんがなにを言いたかったのか、きっとわかるはずだから」
「うん、そうするよ」
「そうか、洋平は良い子だな」
 
 父さんと母さんが出逢ったのは、大学在学中だと聞いている。当時、父さんは大学の四年、母さんが大学の一年。たまたま父さんが単位を落としていた科目を母さんが受けていて、それが縁でつきあうようになった、ということだ。
 当時の父さんは、案外やり手だったらしく、当時純朴な女学生だった(母さん言)母さんを半ばかどわかす格好でつきあったらしい。とはいえ、父さんも見てくれはよかったし、男として頼りになったから、母さんとしても父さんのそんなところを見て承諾したのだと思う。
 で、つきあって一年で俺が生まれた。そう。母さんは俺を在学中に産んだのだ。それが二十歳の時。幸いにして父さんはちゃんと就職できていたから、生活とかにはそれほど困らなかったらしい。母さんも俺を育てながらちゃんと大学にも通い、教職の免許も取り、教師として学校にも赴任した。
 俺が産まれたあと、父さんはもうひとり子供を作ろうと思ったらしいけど、いろいろあって母さんが首を縦に振らなかったらしい。そこら辺の詳細な事情は俺も知らない。
 とはいえ、夫婦の関係がおかしくなったわけではない。父さんと母さんは近所でも有名なおしどり夫婦で、喧嘩はしょっちゅうだったけど、仲直りするのも早かった。
 父さんはことあるごとに俺に母さんを自慢していた。
「良妻賢母の見本だ」
 それが父さんの言葉だった。
 確かに、母さんは仕事をしながらでも、しっかりと家のこともやっていた。だから、その言葉は間違ってないと思う。
 対する母さんも、父さんのことを自慢していた。こっちはのろけに近いからあえて述べないが。
 俺の理想の夫婦像は、やはり父さんと母さんなのだろう。もちろんふたりには年の差があったから、多少は違う部分もあるだろうが。
 以前、彩美も言っていた。
「小父さんと小母さんて、本当に仲がいいよね。私もああいう風になれるかな……」
 奇しくも、俺と彩美の理想は重なっているのである。
 俺と彩美。
 俺たちも、父さんや母さんみたいになれるのだろうか?
 
「どうしたの、ようちゃん?」
 彩美は、小首を傾げ、俺の顔をのぞき込んできた。
「いや、どうもしないけど」
 俺は、そう言って首をまわした。
 しかし、なんというか、こういう場所はどうも居心地が悪い。
「ようちゃん、これ、どうかな?」
 彩美はそう言って俺にあるものを見せた。
「ん、いいんじゃないか?」
 俺は、ろくに見ずに言う。
「むぅ、ようちゃん、ちゃんと見てる?」
 だが、やはり彩美に気づかれてしまった。
「ようちゃん。約束したでしょ? 私の水着選びにつきあってくれるって」
「…………」
 そう、俺は今、水着売り場なんぞにいる。当然男物なわけはなく、女物である。
 そこかしこにあるのは、色とりどりの水着。ワンピース、ビキニ、ハイレグ……
 まあ、とにかくいろいろある。
 しかし、そういう場所に男がいるのは、やはりおかしい。いや、おかしくないにしても、居心地は悪い。
 だからこそのさっきの行動だったのだが。
「ようちゃん。いい?」
「わかった、わかったから」
 俺は、降参の意を込めて手をひらひらと振った。
「じゃあ、ようちゃん。これ、どうかな?」
 そう言って俺に見せたのは、少しカットのきついワンピースの水着だった。色は、薄いオレンジ。
「似合うんじゃないか」
「ホントにそう思う?」
「ああ。というか、おまえならなに着ても似合うだろ?」
「ん〜、そういうのが一番困るんだけどなぁ……」
 とか言いながら、まんざらでもなさそうな彩美。
「ねえ、ようちゃんは、ワンピースがいいと思う? それともセパレートがいいと思う?」
「ん、そうだな……」
 俺は、ちょっとだけ頭の中でシミュレートしてみた。
 まず、ワンピース。カットはちょっとおとなしめ。
 うむ、確実に似合うな。というか、海でもプールでも、野郎どもを釣るには十二分だ。
 で、次にセパレート。これは、やはりビキニか。
 ……凶悪だな。こいつは、スタイルも抜群だからな。というか、ほかの連中にそれを拝ませるのはもったいない。
 しかし、俺としてはそれを見てみたい。
 う〜む、困った。
「なあ、彩美」
「うん、なぁに?」
「ふたつ、買わないか?」
「ふたつ? どうして?」
「いや、詳しい事情はここで話すのはちょっと……」
「ん〜、それでもいいけど、だったら、ようちゃんがひとつプレゼントしてくれる?」
「俺が?」
「うん」
 俺は、さっと値札に目を走らせた。
 うげっ、意外に高い。なんでこんな布きれごときが、こんなにするんだ?
 とはいえ、出して出せないことはない。
 う〜む、どうするか。
「よし、わかった。プレゼントしてやるよ」
「ホント? いいの?」
「ああ。その代わり、買うのは、ワンピースとセパレート、ひとつずつだからな」
「うんっ」
 
「ようちゃん、どうかな?」
 彩美は、そう言って俺の前でくるっと回った。
「おう、よく似合ってるぞ」
「ホント? あはっ、ありがと」
 買い物を終えた俺たちは、いつものように俺の部屋にいた。
 そこでさっそく彩美は、買ったばかりの水着を着ている。今着ているのは、俺が選んだビキニ。
 なんか、グラビアアイドルみたいに妙に胸元とかが強調されてる。
 うぐっ、やばい……
「彩美」
「うん、どうしたの?」
「俺、我慢できないかもしれない」
「えっ……ん……」
 俺は、彩美を抱きしめ、キスをした。
「ん……あ……ようちゃん……」
 キスをするだけで彩美は陶酔してしまう。
「このまま、いいか?」
「うん、ようちゃんの好きなようにして……」
 俺は、ブラジャーをたくし上げ、その胸にむしゃぶりついた。
「んっ、あんっ」
 まだ硬くなっていない乳首を舌で転がす。
「んあっ、ようちゃん」
 少しずつ、彩美から力が抜けていく。こっちが支えていないと、その場にくずおれそうだ。
 そのままはさすがにきついから、俺は彩美をベッドに横たわらせた。
「ようちゃん」
「ん?」
「優しくしてね」
 そう言って彩美は、ニコッと笑った。
 やばっ、すげぇカワイイ……
「あっ、それとも、この前みたいに、私がしようか?」
「いや、いい。今日は俺がする」
「うん」
 俺は一度キスをしてから、下半身に触れた。
「ん……」
 パンツの上から秘所をなぞる。さすがに下着よりも素材がしっかりしてるから、こちらに伝わってくる感覚も違う。
 俺はすぐにその中に手を滑り込ませた。
「や、やぁん、んんっ」
 彩美のそこは、すでに少し濡れていた。
「やっぱり彩美は感じやすいな」
「だってだって、ようちゃんが相手だもん。感じちゃうよ」
「そっか」
 人差し指を中に入れる。
「んあっ」
 彩美の中は、もう結構しっかりと濡れていた。そのまま動かすと、わずかに湿った音が聞こえた。
「んっ、あんっ、あっ」
 指を一本から二本に増やし、さらに感じさせる。
「よ、ようちゃん、ようちゃんのがほしいよぉ」
 すぐに彩美が俺を求めてくる。
「しょうがないな」
 少し焦らすように俺は指を抜いた。俺の指は、彩美の蜜でびしょびしょだった。
「ほら、こんなになってるぞ」
「いやん、見せないでよぉ」
 どうも彩美相手だと、多少Sっぽくなってしまう。
 やはり、こいつがMだからだろうか。
 とはいえ、俺もそろそろ我慢の限界なので、そそくさとズボンとトランクスを脱いだ。
 限界まで怒張したモノの先端には、我慢汁が出ていた。
「ようちゃん……」
 パンツを脱がせ、モノを秘所にあてがう。
「んああ……」
 そして、そのまま一気に貫いた。
「ん、はあ、ようちゃんのでいっぱいだよ……」
 彩美は、そうやってしばらく中にいるのを好む。
「ようちゃん」
「ん?」
「子供、作っちゃおうか?」
「……アホ、まだ早いだろ」
「早いかな?」
「早い。育てるのに無理ありすぎだ」
「そっか。ちょっと残念」
 彩美は、本当に残念そうに苦笑した。
 俺もこいつには甘いけど、さすがにそれは譲れない。
 そりゃ、中出しできないのはちょっと残念だけど……
「いいよ、動いても」
「わかった」
 俺はゆっくりと腰を動かす。
「んっ、あっ」
 その度に彩美は敏感に反応してくれる。
 だから俺はもっともっと彩美を感じさせたくて、速く動いたり、感じる部分を重点的に攻めたりする。
「んっ、ああっ、ようちゃんっ」
 こうして何度セックスしても、彩美の新しい面を発見できる。
「ようちゃんっ、感じ過ぎちゃうよぉっ」
 俺は、腰を動かしながら、彩美の一番敏感な部分を指でもてあそぶ。
「や、やんっ、ようちゃん、ダメっ、それはダメっ」
 それでも俺はやめない。
「んんっ、ようちゃん、私、もうイっちゃうっ」
 俺の方もラストスパートをかける。
「ようちゃんっ、ようちゃんっ」
「彩美っ、彩美っ」
「あんっ、んんあっ、ああああっ!」
「彩美っ!」
 射精感が迫った瞬間、彩美の足が俺の腰を押さえた。
「あっ……」
 俺は、抜く間もなく、彩美の中に放っていた。
「ん、ようちゃんの、いっぱい出てるね……」
 彩美は、夢見心地でそう言う。
 こいつ、わかっててやったな……
「子供、できちゃうかもね」
「おまえはまったく……」
 結局、俺はこいつには勝てないのかもしれない。
「ようちゃんとの絆、ほしかったから」
「絆?」
「うん。目に見える絆」
「まったく……」
 俺は、彩美にキスをした。
「あんまり勝手なことばかりすると、責任取ってやらないぞ」
「大丈夫だよ。ようちゃん、優しいもん」
「…………」
 素でそう言われると、なにも言い返せない。
「ね、ようちゃん」
「はあ……」
 まあ、これはこれでいいのかもしれないけどな。
 
「えっとね、ようちゃん」
 その日、彩美は俺を誰もいない屋上へと呼び出した。
 夏の陽差しがかなりまぶしいが、とりあえずそういう状況ではない。
「実はね、ちょっと、遅れてるの」
「…………」
 俺は、とりあえずなにも聞かなかったことにしようと思った。今ならまだ間に合う。教室に戻って、クラスメイトとバカな話でもしていればいい。
「どうしよ、っか」
 彩美は、えへっと笑った。
 ああ、俺はどうすればいいのでしょうか、神様。
「ねえ、ようちゃん」
「……なんだ?」
「ようちゃんは、イヤ?」
「……もし本当にそうなら、それはそれで認める」
「いいの?」
「いいも悪いも、ひとりじゃできないんだから、当然だろ」
「やっぱり、ようちゃんは優しいね」
 今度は、穏やかな笑みだった。
「遅れてるって言っても、まだそうと決まったわけじゃないから。たまに遅れる時はあったし」
「……ちゃんと、確認した方がよくないか?」
「うん……そうだね」
 俺の言葉に彩美は小さく頷いた。
 
 まず最初に相談を持ちかけたのが、母さんだった。なんだかんだいっても、俺と彩美の理解者だから。
「ふ〜ん、生理、遅れてるんだ」
 母さんの反応は、意外なまでに鈍かった。
「いいんじゃないかしら」
『えっ……?』
 母さんの言葉に、俺と彩美は揃って声をあげた。
「ようちゃんには前に話したと思うけど、ママも学生の間にようちゃんを授かったし」
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ。ようちゃんはね、私が二十歳の時に産んだの」
「ふえぇ〜……」
 彩美は、なんとも言えない表情で俺と母さんを見る。
 なんとなく、羨望の眼差しに見えるのは、気のせいだろうか。
「だからね、いいと思うわ。ひとりくらい増えたところで、ママの負担がそう増えるわけでもないしね」
「……そうなるかどうかは、まだわからないって」
「ん〜、ママも『おばあちゃん』になるのね。ああ、まだ三十代なのに」
 この親は……
 普段は「年のことを言うと、笑って首絞めちゃうわよ♪」と平気で言うくせに。
 というか、さすがに三十七にもなって、それは往生際が悪いというかなんというか。
「彩美ちゃんは、どうしたいの? ほら、結局そういうのって女が決めることになるし」
「私は……」
 彩美は、一度俺のことを見つめた。
「もし、本当に妊娠したのだとしたら、産みたいです」
 まったく微塵の迷いもなく、そう言った。
 しょうがない、俺も腹をくくるか。
「ようちゃんは?」
「彩美のしたいように」
「ようちゃん……」
「ホント、ふたりはお似合いよ」
 そう言って母さんは微笑んだ。
「彩美ちゃん。とりあえず市販の妊娠検査薬でも使ってみればどう?」
「そうですね」
「ようちゃん、ちゃんと彩美ちゃんに付き添わなくちゃダメよ」
「ちょ、ちょっと待った。なんでそこまで俺が──」
「ん〜、ようちゃんと彩美ちゃんの子供なら、絶対に可愛いわね」
 ……嫌いだ。
 
 とまあ、いろいろあったけど、彩美の妊娠騒動は、結局単に生理が遅れただけだった。
 とはいえ、それですべてが丸く収まったわけではない。
 妊娠騒動のせいで、俺と彩美の関係を一気に進めようと、母さんと彩美の両親がいろいろ動いてしまった。
 まあ、具体的には俺が十八になる日、一緒に婚姻届を出し、それ以降の大安吉日に結婚式までやってしまおう、そんなことになってしまった。
 いや、母さんのノリはそんな感じなのは、息子を十七年もやっていればわかったけど、彩美の両親までそんな人だとは思わなかった。
 というか、それでいいのか?
 
「新郎、藤野洋平。汝は、この者を伴侶とし、永遠の愛をここに誓いますか?」
「……誓います」
「新婦、渋井彩美。汝は、この者を伴侶とし、永遠の愛をここに誓いますか?」
「誓います」
「では、ここにその証として、口づけを交わしてください」
 
「……なんつ〜夢だ」
 俺は、そんな夢で目が覚めた。
 いや、彩美のウェディングドレス姿は綺麗だった……って、そうじゃない。
「……俺、そんな願望あるんかな?」
 ついそんなことを考えてしまった。
 
 夏休みに入り、宿題以外は時間に余裕ができた。
 俺も彩美も、好んで一緒にいるようになった。学校がある時はさすがに四六時中とはいかなったけど、夏休みならいくらでも可能だった。
 母さんは夏休みでもちゃんと学校へ行っている。授業がなくても雑務もあるし、研究会などもある。
 だから、家にはたいてい俺と彩美のふたりだけだった。
「はい、ようちゃん」
「ん、さんきゅ」
 俺は、彩美が淹れてくれたアイスティーを一口飲んだ。
「こうしてると、落ち着くんだよ……」
 そう言って彩美は、そっと俺に寄り添った。
 クーラーの効いたリビング。冷たいアイスティー。カップに水滴がついている。
 それでも、彩美とふれあうのは、暑いとは思わなかった。
「ようちゃんはさ」
「ん?」
「私と約束したから、一緒になってくれるって言ってくれたの?」
「彩美……?」
 俺は、思わず彩美を見ていた。
「ずっとね、考えてたんだ。ようちゃん優しいから、私のこと泣かせないようにって、守ってくれたんじゃないかって」
「……バカ。そんなことあるわけないだろ? 俺はな、あの約束がなくたって、おまえのことが好きだったし、抱きたいとも思ったし、一緒になりたいとも思った」
「ホントに?」
「ああ、本当だ。ただ、あの約束が多少枷になっていたのは、否めないな」
「枷? どんな?」
「おまえを意識する枷だよ。あの約束のことは俺もずっと覚えてたからな。おまえも覚えてるとは思ったし、それをいつか言われたらその時俺はどうするか、頭の片隅でそれを考えたこともあった。あれのおかげで俺はおまえのことを常に意識してた。同時に、あの約束が反故になったら俺はどうすればいいのか、それも考えたし」
「それは、私も同じだよ。もしようちゃんがあの約束を覚えていなかったり、覚えていてもなしにしちゃったら、私、どうしようっていつも考えてた。だって、私が好きなのは、あの頃からようちゃんただひとりだけだから。今更ほかの人なんて好きになれないし、好きになんてなりたくないから」
「そっか」
「でもね、逆にそればかり考えていたから、さっきみたいに考えちゃったのかもしれない」
「心配するな。俺もそこまで往生際悪くないから」
「往生際とか、そういう言い方されると、ちょっと違うかなって思うけど。ようちゃんの言いたいことはわかるから」
 そう言って彩美は微笑んだ。
「……この前な、おまえとの夢を見た」
「私との夢? どんな夢?」
「結婚式」
「えっ……?」
 彩美の頬が、さっと赤くなった。
「教会で愛を誓うところで終わったけど」
「そ、そっか……」
「その、なんだ、俺としてはその中身よりも、おまえの方が気になった」
「私のこと?」
「ウェディングドレス姿だよ」
「あ……」
「綺麗で、すごく綺麗で、触れるのもためらわれるくらい綺麗で。ああ、俺はこんな綺麗な嫁さんをもらえるんだ、そんな風に思った。もちろん、そこまで平然とはしてられなかったけどな」
「ようちゃん……」
 俺たちは、なにも言わず、キスを交わした。
「ようちゃんのためだけに、綺麗でいたいから」
「ああ、そうしてくれ。俺は、いい女を嫁にして最高のステータスを持つんだから」
「うん……」
 
 俺と彩美の話は、まだまだ続く。それこそ、どちらかが死んでも、残った方がその想い出を胸に死ぬまで続く。
 だけど、そんな未来のことはどうでもいい。
 俺は、今を大事にしたい。
 俺の、彩美を、大切にしたい。
 それは、たとえ結婚しなくても変わらないだろう。結婚は、ひとつの形でしかないんだから。
 俺の彩美に対する想いが変わるわけではない。
 だから──
 
「彩美」
「ようちゃん」
『いつまでも、一緒に』
                                FIN
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