いちごなきもち、めろんなきもち
 
第九章「めろんなきもち」
 
 一
 今日は七月二日である。
 直哉は朝から妙な視線を感じていた。誰からというわけでなく、誰からもという感じである。ただ、そのこと自体に特に実害がなかったので、極力気にしないようにしていた。
 しかし、直哉はこの時に気にしておくべきだった。そして、そのことをすぐ次の日に思い知ることになる。
「ねえ、直哉」
「ん?」
 昼休み。
 雨で屋上に出られず、仕方なしに教室にいるふたり。
「明日の誕生日に、なにかほしいものある?」
「別にこれといってほしいもんなんてないけど」
「私にできる範囲内なら、なんでもいいよ」
 真剣な菜緒の表情を見て、直哉はニヤッと笑った。
「なんでもいいって言うなら、おまえがほしい、なんてな」
 冗談めかしてそんなことを言った。
「……いいよ、それでも」
 ところが、菜緒はそれもいいと言った。
「直哉が望むなら、それでもいいよ」
「ちょ、ちょっと待て。じょ、冗談に決まってるだろ」
 直哉は慌てて言う。
「もし、ホントに迷惑じゃなければ、そうしてほしいくらい」
 菜緒はマジモードに入っていた。
「菜緒、少し落ち着け。俺が言ったことを本気にするな。いいな?」
「……私じゃ、不満?」
「だあーっ、そういう問題じゃない。それに不満なんかあるわけないだろうが」
「じゃあ……」
「だからぁ、いったんそこから離れろ。論点がずれてるぞ」
「ずれてなんかないよ。プレゼントはプレゼントだもん」
「人間をプレゼントにするな。人間以外だったら、おおよそなんでも受け取るから。とにかく人間だけはやめろ。いいな?」
「うん……」
 菜緒は、渋々頷いた。
 直哉はまだ誕生日になってもいないのに気苦労すると嘆いていたが、それはほんの序章にすぎなかった。
 
 七月三日。
 十八年前の今日、直哉はこの世に生を受けた。体重三二七三グラムの赤ん坊だった。命名者は父である和哉。自分から一文字取って『直哉』とした。
 その直哉も今年で十八である。月日の流れるのは、本当に早いものである。
「なおくん」
「ん?」
「今日は寄り道しないで帰ってこなくちゃダメだよ」
「わかってるって」
「みんな来るんだからね」
「わざわざ平日にね」
 直哉は苦笑した。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 直哉はいつものように家を出た。
 外は曇り空ながら、雨は降っていなかった。二日ぶりに自転車を出す。
「おはよ、直哉」
「うおっす、菜緒」
「誕生日、おめでとう」
「おう」
 ちょっといつもと違う挨拶を交わして学校へ向かった。
「今日は忙しくなりそうだね」
「そうでもないさ。別に俺がなんかするわけじゃないし」
「ふふっ、たぶんその考えは甘いと思うけどね」
 菜緒は意味深な笑みを浮かべた。
 そして、その菜緒の言葉は学校ですぐに直哉に降りかかった。
「なんなんだ、あれ?」
 ふたりが教室の前まで来ると、ある集団が入り口のところを占拠していた。
「みんな女の子だね」
 菜緒の言う通り、そこにいたのはすべて女子だった。
 とその時、その中のひとりが直哉たちの方を、正確に言うなら直哉の方を見た。
「あっ、倉澤先輩だ」
 その声にそこにいた女子が一斉に反応した。
「いっ、な、なんだとぉ」
 直哉はそれこそあっという間にその集団に取り囲まれてしまった。
「先輩、お誕生日おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「あっ、あ、ありがとう」
 勢いに押されて、ついつい真面目に返事してしまった。
「あの、これ、プレゼントです」
 ずいっと直哉の前に、綺麗にラッピングされた小さな箱が出された。
 と、それを合図に一斉に直哉の前にプレゼントが出された。
「是非、もらってください」
『お願いしまーす』
「あ、あはは……」
 直哉はもう、苦笑するしかなかった。
 そんな直哉を菜緒は少し離れたところから見ていた。
「だから言ったのに」
 菜緒はこの状況をある程度予想していたようである。
「すごいことになってるわね」
「あっ、雅美、おはよ」
「おはよ、菜緒。直哉くんも朝から大変ね」
 代わる代わるプレゼントを渡される直哉を見て、雅美は苦笑した。
「気が気じゃないんじゃないの、菜緒?」
「ううん、そんなことないよ」
「どうして?」
「信じてるもん、直哉のこと」
 菜緒は言葉通り、まったく気にしていない。
「う〜ん、さすがに『正妻』は違うわね」
「そう言う雅美だって、そんなに気にしてないみたいだけど」
「あたしだけじゃないわよ。うちの学年の直哉くんファンは、みんな気にしてないわよ」
「そうなんだ」
「みんなね、年下には負けないって思ってるのよ。それに、直哉くんがそんな連中になびくとも思ってないし」
「それは、そうでもないみたいだけどね」
「えっ……?」
 菜緒に言われて直哉を見ると、確かに困りながらも嬉しそうにしている直哉がそこにいた。
「結構嬉しそうだよ、直哉」
「…………」
「ふふっ、やっぱり心配?」
「べ、別にどうってことないわよ」
 さすがに自分の言ったことが覆されそうで、雅美は少し動揺していた。
「さてと、とりあえず教室に入ろ」
「う、うん」
 菜緒はさっさと教室に入ってしまった。
「おはよう」
「おはよ、菜緒」
 教室は廊下の喧噪もどこ吹く風で、いつも通りだった。
「ねえねえ、菜緒」
「ん?」
「菜緒は直哉くんになにをプレゼントするの?」
「内緒」
「ええーっ、いいじゃない、教えてくれても」
「ダメ。朋子に言うとあっという間に広まっちゃうもん」
「う〜、けちぃ」
「な、菜緒。ちょっと手伝ってくれ」
 そこへ直哉が来た。手にはたくさんのプレゼントを抱えていた。
「うわぁ、すごい」
「驚くのはあとにしてくれ」
 菜緒は直哉からそれを少し受け取り、直哉の机に置いた。
「ふう、ひどい目にあった」
 直哉はすっかり疲れきった様子で席に着いた。
「その割には、結構嬉しそうだったけどね」
「せっかくくれるっていうのに、イヤな顔もできないだろ?」
「そういうことにしておくけどね」
「ったく……」
「でも、直哉」
「ん?」
「これで終わりだとは、思わない方がいいよ」
「……なに?」
「まだ、今日ははじまったばかりなんだから」
 菜緒はそう言って笑った。
 それを聞いた直哉は、げっそりとした様子で力なく項垂れた。
 直哉の受難ははじまったばかりだった。
 
 昼休み。
 直哉はいつものように屋上にいた。しかし、屋上でもいる場所は階段上の屋根で、そこに身を隠すようにいた。
「この時間逃げても、そんなに変わらないんじゃないの?」
「せめて昼休みくらい、いつも通りでもいいだろ」
「ふふっ、そうだね」
 やはりどこから持ち出したのか段ボールを敷き、直哉はいつものように菜緒に膝枕をしてもらっていた。
「でも、あれだけのプレゼント、どうやって持って帰るの?」
「どうにかするしかないだろ? まさか置いてくわけにはいかないんだから」
「そうだね」
「で、おまえに頼みがある」
「しょうがないね、手伝ってあげるよ」
「悪いな」
「雅美にも手伝わせるから。どうせ直哉のうちに行くんだし」
「そうだな」
「その代わり──」
「ん?」
 菜緒はニコッと微笑んだ。
「パーティーの時、私が直哉の隣だからね」
「まあ、それくらいは仕方ないな。ただ、それでなにか言われても、俺は責任持たないからな」
「大丈夫だよ。よっぽどのことじゃない限り、ほかの人もなにも言わないと思うから。なんたって、今日は直哉が主役なんだから」
「だといいけど」
 雲の合間から太陽が顔を出し、少し気温が上がってきた。
「……やっぱり気持ちいいな、おまえの太股」
「嬉しいけど、なんかエッチっぽい言い方」
「このぷにぷに感がたまらないんだよな」
「あん、ダメだって」
「おまえって、ホントに感じやすいよな」
「そ、そんなことないよ」
「いや、感じやすい」
 そう言って直哉は、菜緒の太股に触れる。
「ん、だ、ダメだって、あん」
 スカートの上から触れているだけで、菜緒は感じている。
「あん、んん、な、直哉ぁ」
 次第に甘い声に変わってきた。
 さすがに直哉もそれはまずいと思ったらしく、そこでやめた。
「これでも感じやすいとは言わないか?」
 菜緒は、陶酔した表情で直哉を見つめた。
「それは、直哉に触れられてるからだよ」
「ん……」
 そのまま直哉にキスをした。
「直哉に触れられると、体に電気が走ったみたいに敏感に反応するの」
「俺に抱きしめられてもか?」
「ううん、抱きしめられてる時はそんなことはないけど。でも、たまに胸とかに触れられると感じるかな」
 菜緒は少し恥ずかしそうに、それでも正直に直哉の質問に答えた。
「菜緒」
「なに?」
「今日が終わったら、いよいよおまえの誕生日だな」
「そう、だね」
「今年の誕生日はさ、俺とおまえだけでやらないか?」
「ふたりきりってこと?」
「そうだ。言わなくちゃいけないこともいくつかあるし。それに──」
 直哉はそこで言葉を切った。
「たぶん、俺の理性が吹っ飛ぶだろうからな」
「直哉……」
「だからな?」
「うん、いいよ。ふたりきりで、直哉にだけお祝いしてもらえれば、それだけで私は嬉しいから」
「ま、詳しいことは今日が終わってからな」
「そうだね」
 屋上を少しぬるい風が通り抜けていく。
「さてと、名残惜しいけど、そろそろ戻らないとな」
 直哉がそう言って起き上がると、菜緒はその背中に体を寄せた。
「菜緒?」
「私の誕生日にね、私も直哉に聞いてほしいことがあるの。とっても大事なこと」
「そっか。いいぜ、お姫様の言うことは極力なんでも聞いてやるから」
「ありがと」
 菜緒は微笑んだ。
「今日は、直哉に目一杯楽しんでもらうからね」
「おう、期待してるぜ」
 
 放課後。
 直哉はふたりの先生に呼び出されていた。
 ひとりは、瑞穂。
「ごめんね、呼び出したりして」
「いや、いいけどさ」
「どうしても今日中に渡さないといけなかったから。はい、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「この前のお返しになってるかどうかはわからないけどね」
「そんなに気にしなくてもいいんだよ。中身よりも気持ちが大切だって」
「うん、そうだね」
 もうひとりはかえで。
「ごめんね、直哉くん。帰り際に呼び出したりして」
「いいですよ。ここならついでにも寄れますから」
「ふふっ、相変わらず正直ね、そういうところ。でもまあ、今日は直哉くんの誕生日だから、許してあげる。おめでとう、直哉くん」
「ありがとうございます」
「私のプレゼントを置く余地はあるのかしら?」
「ははは、どうですかね。一般分はないですけど、特別分はまだまだ問題ないですよ」
「私のはどっちかしら?」
「もちろん特別分です」
「ありがと、直哉くん」
 諸事情からパーティーに出られないふたりからプレゼントを受け取り、ようやく直哉は家路に就いた。
 今日は多少遠回りになるが、雅美の家を経由して帰ってきた。その理由は、プレゼントの荷物持ちのためである。三桁に届こうかという数を直哉と菜緒だけでは持ちきれず、雅美の応援を仰いだのだ。
 家に寄ったのは、パーティーに制服はないということで着替えるためである。
 そして直哉たちは家に戻ってきた。
 菜緒は荷物だけを直哉の家に置いて、やはり着替えるためにいったん家に戻った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 中に入ると、リビングから声が聞こえてきた。
「お邪魔します」
「とりあえずリビングにでもいればいい。すぐに菜緒も来るだろうからな」
「そうする」
 雅美がそう言ってリビングに行こうとすると、千尋が出てきた。
「あら、こんにちは、雅美ちゃん」
「こんにちは」
 ふたりは軽く会釈する。
「なおくん」
 と、二階へ上がろうとしていた直哉を呼び止めた。
「なに?」
「机の上に、荷物を置いておいたから」
「荷物?」
「女性からよ」
「いっ!」
 直哉は慌てて二階へ駆け上がった。
「ふふっ、慌ててる」
「誰からか、知ってるんですか?」
「ううん、知らない人。でも、なおくんのことをちゃんと知ってる人ね。今日にあわせて送ってきたんだから」
「そうですね」
「さ、雅美ちゃんもこっちへ来て」
「はい」
 千尋は、雅美を伴ってリビングに戻った。
 一方直哉は部屋に戻るなり鞄を放り出し、机の上の荷物を確認した。
「送り主は……千里さんか」
 それは宅配用の封筒に入った荷物だった。
 直哉はさっそく中身を確認した。
 すると、少し小さめの箱と一通の手紙が入っていた。
 とりあえず箱の方を確かめた。
「タイピンとネックレスだ」
 それは、シルバーのネクタイピンとネックレスだった。
 今度は手紙を見た。
 
『直哉さんへ
 お誕生日、おめでとうございます。
 突然のことで驚かれているかもしれませんが、お許しください。
 今日が直哉さんのお誕生日ということで、僭越ながらネクタイピンとネックレスを贈らせていただきました。
 ネクタイピンの方は少し早いとは思いますが、どんなネクタイにもあうようなものを作ってみました。高校卒業後にでもお使いください。
 ネックレスの方は、普段からつけていなくても構いませんので。お守り代わりにでも持っていてください。
 少しでも気に入っていただけると、私としても嬉しいです。
 先日お電話くださった時は、とても嬉しかったです。またお時間のある時にでも、お電話ください。私でよければ、いつでも話し相手になりますので。
 あまりたくさん書くと、今度お会いした時にお話しすることがなくなってしまいますので、このあたりで。
 最後にもう一度。
 お誕生日、おめでとうございます。
 
 追伸
 先日ご注文いただいた指輪はなんとかなりそうです。
                                   藤宮千里』
 
「ありがとう、千里さん」
 直哉はそれらを大事に机にしまった。
「さてと、俺はどうしてればいいのかな?」
 直哉はとりあえず制服から着替えた。
 大量のプレゼントを部屋に入れ、改めてその多さに唖然とし、同時になんで俺が、というような想いに駆られていた。
「……なんか悪いよな」
 それぞれに直哉への想いが込められたプレゼントである。さすがにむげにはできない。
「そうだ」
 直哉は鞄からふたつのプレゼントを取り出した。
「こっちが瑞穂さんのだな」
 まず少し大きめの袋を手に取った。
 開けてみると、サマーセーターが入っていた。
「サマーセーターか。ひょっとして……手編みだ」
 手編みだが、なかなかのできだった。
「ったく、なにがお返しになってるかどうかわからないだ。これじゃこっちが今度は割にあわないって」
 直哉は苦笑した。
 添えられていたバースデイカードには、
『十八年目の直哉くんに幸多きことを』
 と書かれていた。
「あ〜あ、なんかお返し考えないと」
 いったんセーターを袋に戻した。
「で、これがかえで先生のか」
 かえでのは小さめの箱に入っていた。
「ぬっ……」
 中身を見て直哉は思わず絶句した。
 中身はふたつだった。ひとつはシステム手帳だった。
 問題はふたつ目。
「ちゃんと避妊しないと大変よ、か」
 そんなカードが、ハートマーク付きで添えられたコンドームだった。
「なんか、嫌がらせに近いよ、これ」
 直哉は思わず苦笑した。
「ちょっと待て。ひょっとしたら……」
 一瞬考えてはいけないことを考え、思わずイヤな汗をかいた。
「ま、まさかな、ははは」
 とりあえずそれは見なかったことにした。
「……先生には悪いけど、封印だ」
 机の一番下の引き出しにそれを入れた。
「ふう……」
 溜息をつく。
「ちょっと覗いてみるかな」
 そう言って部屋を出た。
 階段を下りると、リビングから楽しそうな声が聞こえてきた。
「だいぶ準備も進んでるみたいだね」
 直哉がリビングに顔を出すと、そこにいたほとんどの目が一斉に直哉を捉えた。
 その様に直哉は、一瞬恐怖すら覚えた。
 リビングには千尋、雅美、綾奈、理紗、秀明がいた。
 奥の台所には菜緒と麗奈が立っていた。
「ちょっと暇になったんで下りてきたんだけど……俺はいない方がいい?」
 皆一様に頷いた。
「はは、もうちょっと部屋にいるから」
 直哉は乾いた笑いを残してリビングを出た。
「なんだかなぁ」
 ベッドに横になった。
 と、ドアがノックされた。
「開いてるよ」
 やって来たのは、麗奈だった。
「直哉ちゃん」
「どうしたの?」
「直哉ちゃん、暇を持て余してるみたいだったからね。台所の方は菜緒ちゃんに任せてきちゃった」
「そうなんだ」
「というのは建前で、ホントは直哉ちゃんと一緒にいたかったから」
 そう言って麗奈はベッドに座った。
 直哉も体を起こし、隣に座った。
「すごい数だね」
「こんなにもらったのははじめてだよ。これが仮にバレンタインだったら、もう少し気が楽なんだけどね」
「直哉ちゃんが三年生だからだね、これだけ多いのは」
「だろうね。五分の四は、一、二年からだからね」
「ちょっと妬けちゃうかな、あんまり直哉ちゃんがモテるから」
 麗奈は直哉の方に体を預けた。
「やっぱり直哉ちゃんの側にいると、心から安心できる」
 直哉はなにも言わずに麗奈の肩を抱いた。
「そういえば、ホントによかったの?」
「うん、なにが?」
「仕事、早退してきたんでしょ?」
「うん。たまにはいいよ、こういうのも。一応、有給とかはあるし。逆に休まないと言われるくらいだから」
「それならいいけど。姉さんや綾奈姉さんと違って、仕事だからね。おいそれとはできないし言えないだろうから」
「ふふっ、直哉ちゃんのためだから、なんてことないよ」
 そう言って麗奈は微笑んだ。
「姉さん」
「ん?」
「少し、話しておきたいことがあるんだ」
 真剣な直哉の言葉に、麗奈は小さく頷いた。
 そして直哉は、およそ五分ほど、麗奈に話した。
「……そっか」
 麗奈はそれを聞くと、溜息をついた。
「でも、直哉ちゃんが決めたことだからね」
「綾奈姉さんはもうだいたい知ってる。この前来た時に偶然知ったんだけどね」
「そうなんだ」
 麗奈はどことなく淋しそうに頷いた。
「なおくん、麗奈さん。準備ができたので」
「わかったよ、姉さん」
 伝えに来た千尋に、ドア越しに返事をした。
「さてと、そろそろ俺の出番らしいからね」
「そうだね。きっと気に入ってもらえると思うよ」
「じゃあ、行こうか」
 宴はこれからである。
 
「じゃあ、そろそろプレゼント贈呈といきますか」
 パーティーがはじまって直哉がみんなに一通りの挨拶を終えた時、綾奈がそう提案した。
「まずは──」
「俺だ、直哉」
「却下」
「なんで却下なんだよ」
「どうせなんかとんでもないもんだろ?」
「ふふふ、さて、それはどうかな?」
 秀明は不敵に笑うと、封筒を直哉に渡した。
 直哉は、開けていいか聞きもせずにそれを開けた。
「これは……アクアランドの招待券じゃないか」
「まあな。元手はタダだけど、今回はそれだけだからな」
 それはアクアランドの招待券で、二枚入っていた。
「たまにはまともなもんを贈りたくなってな」
 そう言って秀明は笑った。
「悪いな、秀明」
「いいって」
「じゃあ、次は──」
「私です」
 今度は理紗である。
「はい、直哉くん」
「サンキュ、理紗。開けてもいいか?」
「うん」
 さすがに今度は了解を求めた。
「おっ、紅茶じゃないか。さすがは理紗だな、いい趣味してる」
「そんなことないけど」
「はいはい、次はあたしよ」
 今度は雅美である。
「どれどれ」
「なんで理紗には開けていいか聞いて、あたしには聞かないのよ?」
「いや、開けてほしそうな顔してたからな」
「うっ、ま、まあ、そうだけど……」
 直哉は綺麗にラッピングされた箱を開けた。
「腕時計? しかも、ペア?」
 それは腕時計で、しかもペアものだった。
「とりあえずこっちは直哉くんの」
 雅美は満面の笑みで男物を指さす。
「それで、こっちはとりあえず直哉くんに預けておくから、あたしの誕生日にお返しとして贈ってね」
「普通、自分の誕生日プレゼントを自分で用意するか?」
「いいの。直哉くんとお揃いのをしてみたいんだから」
「ったく……」
「次はお姉ちゃん」
 今度は麗奈である。
「はい、直哉ちゃん」
「ありがとう、麗奈姉さん」
「たいしたものじゃないけどね」
「中身より気持ちだって」
 麗奈のプレゼントは、少し大きかった。
「洋服、だね」
「それ、私がデザインした服だよ」
「そうなんだ」
 直哉は広げて自分にあてがってみる。
「どう?」
「うん、いい感じ」
 麗奈も思った以上のできに、嬉しそうである。
「さすがはお姉ちゃん。でも、あたしも負けてないから」
 今度は綾奈である。
「はい、直哉ちゃん。あたしの自信作だよ」
「自信作ってことは、手作りってことか」
 綾奈のプレゼントは、大きいの、中くらいの、小さいのと三つあった。
「まずはこれから」
 まずは一番大きいのから。
「ティシャツだね」
 それは一見普通のティシャツに見えた。
「ふふ〜ん、それね、ペアルックなんだよ」
『えっ……?』
 一瞬、その場が固まった。
「もうひとつの方は、あたしが持ってるから。ふたりだけでどこか行く時にはね」
 その瞬間、四人から鋭い射るような視線が直哉を貫いた。
 直哉はそれを極力無視し、次のを手に取った。
「湯飲み茶碗だね」
 それは、少し形のいびつな湯飲みだった。
「これ、姉さんが作ったの?」
「そうだよ。実はね、それも夫婦茶碗なんだよ」
 さらに視線が強まった。
 直哉はイヤな汗をかきつつ、最後のを手に取った。
「手紙?」
「究極の手作りだよ。あたしの想いを存分に詰め込んであるからね」
 そう言って綾奈は笑った。
「あとで読んでみてね。さてと、次はちーちゃん」
 今度は千尋である。
「はい、なおくん」
「ありがとう、姉さん」
「ひとつはあのケーキだけど──」
 そう言ってケーキを見る。
「もうひとつはこれ」
「開けてもいい?」
「うん」
 直哉は少し小さめの箱を開けた。
「これは……」
「オルゴールだよ」
「そうじゃなくて、これ、姉さんが大事にしてたオルゴールじゃないか」
「そういうものだから、余計になおくんにもらってほしいの」
「姉さん……」
「ね、なおくん」
「わかったよ。ありがとう、姉さん」
 直哉はそう言ってそのオルゴールを開けた。
 流れるメロディーは、どこかの外国のもの。緩やかなメロディーは、心を穏やかにする。
「じゃあ、最後に菜緒ちゃん」
「はい」
 最後は菜緒。
「誕生日おめでとう、直哉。私からのプレゼントは三つだよ」
 そう言って、まずひとつを渡した。
「ちょっと雅美と重なっちゃったけどね」
 それは腕時計だった。ただ、ペアではない。
「次はこれ」
 ふたつ目は、少し小さめのものだった。
「お守り、とは少し違うみたいだけど」
「お守りみたいなものだよ。中にはルビーが入ってるの。七月の誕生石だからね」
「なるほど」
「そして三つ目なんだけど」
 菜緒は、ちょっと躊躇い気味に、二通の封筒を渡した。
 ひとつには、直哉の名前が書いてある。
「こっちは手紙だから」
 しかし、もうひとつの方にはなにも書いてない。
「こっちはなんなんだ?」
「えっとね、それはまだなにも書いてない手紙」
「なにも書いてない?」
 直哉はそう言ってその封筒を見た。確かに封もされていないし、中の便せんにもなにも書かれていない。
「できれば、直哉に手紙を書いてほしいんだ。そのためのもの」
「ったく、用意周到な奴だな。わかった、おまえの誕生日までには書く」
「うん。それと、これはおまけ」
「なっ──」
 そう言って菜緒は、直哉の頬にキスをした。
「お、おい、菜緒」
「ふふっ、それで全部だよ」
 菜緒はそう言って笑った。
「菜緒ちゃん、抜け駆けはよくないわよ」
「そうそう」
「みんなだってそうしたいのを我慢してたんだから」
 千尋、麗奈、綾奈、雅美の視線が直哉に向けられる。
「ちょ、ちょっと待った。お、落ち着いてさ。そういうの嬉しいけど、あの、でもさ」
 直哉はいち早く『危険』を察知し、逃げの体勢に入る。
『せーの』
「どわっ!」
 しかし、四人が一斉に直哉に飛びかかり、あえなく御用。
「た、助けてくれ〜」
 受難は続く。
 
 宵の口になると、和哉と雪恵が立て続けに帰ってきた。ふたりがパーティーに加わると、アルコールが入る。二十歳以上の五人はすっかりできあがってしまった。
 そうこうしているうちに十時になり、雅美、理紗、秀明が帰っていった。さすがに明日も学校があるので、しょうがない。
「なんか、ここ最近こんなことばかりしてるような気がする」
 直哉はそうぼやきながら、酔いつぶれた和哉を部屋に運んでいる。
 時間はすでに十二時をまわっていた。
 今日は珍しく千尋と綾奈もつぶれてしまっていた。綾奈はもともと飲める方ではないのだが、場の雰囲気に流されつい飲み過ぎてしまったのだ。
「ふう……」
「ご苦労様、直哉ちゃん」
「まさか、姉さんと綾奈姉さんまでつぶれるとは思わなかったよ」
「嬉しかったのよ、ふたりとも」
「ホントにふたりとも楽しそうで嬉しそうでしたからね」
「でも、それによく引きずられなかったね、麗奈姉さんは」
「気をつけてたからね」
 そう言って微笑む麗奈だが、それでも頬はほんのり赤く、多少なりとも酔っているのがわかった。
「さてと、私も帰らないと」
「そうだな。もう日付も変わってるし」
 菜緒はそう言って勝手口へ。
「菜緒。今日は楽しかった」
「そう言ってもらえると、みんなでがんばった甲斐もあるよ。そうですよね、麗奈さん」
「そうね。今日は直哉ちゃんのためにみんながんばったんだから」
「素直に感謝の意を表します」
 直哉はそう言って笑った。
「じゃあ、直哉。また、明日ね」
「おう」
「おやすみなさい、菜緒ちゃん」
「はい、おやすみなさい」
 菜緒が家に戻ると、直哉はいったんリビングに戻った。
「直哉ちゃん」
「なに?」
「一緒に寝てもいいかな?」
「えっ……?」
「ダメ、かな?」
 麗奈にしては珍しく積極的に直哉に迫った。
「……いいよ」
 直哉はふっと笑って答えた。
「ありがと、直哉ちゃん」
「ああ、でも、寝る前に風呂に入った方がいいかな? ほかはみんな入ってないけど」
「ん〜、そうだね、その方がいいかも」
「じゃあ、ちょっと風呂にお湯を──」
「お風呂も、一緒にね」
 麗奈はにっこり笑った。
 それから風呂にお湯を張り、ふたりは揃って風呂に入った。
「そういえば、直哉ちゃん」
「ん?」
「綾奈がこっちに来た時、一緒にお風呂に入ったんだってね」
「まあ、結果的にはね。でも、あれは半分脅されてみたいなところがあったから」
「そうなんだ。それで、その時もそうやって入ってたの?」
「えっと……」
 直哉は、答えに窮した。
 今直哉は、麗奈に背を向ける形でお湯に浸かっていた。
「そんなに恥ずかしいかな?」
「恥ずかしいというのもあるけど、その、目的と違うことになりそうだから」
「違うこと? あ──」
 麗奈は首を傾げたが、すぐにそのことに思い至ったみたいだ。
「直哉ちゃん……」
「だから、こっちを向いてるんだけど」
「……いいよ。直哉ちゃんのしたいようにして」
「でも、それじゃ──」
「それ以上は言わないの。ね?」
「……そうだね。ごめん、姉さん」
 直哉は、観念したように麗奈の方を向いた。
「直哉ちゃん……」
「麗奈姉さん……」
 ふたりは、吸い寄せられるようにキスを交わした。
「ん、は……」
 麗奈は、すっかり陶酔した表情で直哉を見つめる。
「直哉ちゃん……」
「触ってもいい?」
「うん、いいよ」
 直哉は、そっと麗奈の胸に触れた。
「あ、ん……」
 ふにふにと胸を揉む。
「んん……」
「もっと強くしても大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫だよ」
 それを確かめ、少し力を込める。
 大きな胸が、直哉の手にあわせて形を変える。
「んんっ、あん」
 次第に、先端の突起が固くなってくる。
 今度はその突起を指の腹でこねる。
「やっ、んんっ、ダメっ」
 それだけで麗奈は敏感に反応する。
「直哉、ちゃん、私……」
 お湯に浸かっているせいか、のぼせるのも早い。
 直哉は、麗奈の秘所に手を伸ばした。
「ひゃんっ」
 指と一緒に、お湯まで中に入ってくる。
「んんっ、あんっ、あっ」
 直哉の指にも、お湯以外の感触が伝わってくる。
「ダメっ、そんなに、されるとっ」
 風呂場に麗奈の嬌声が響く。
「ん、はあ、直哉ちゃん……」
 直哉は小さく頷くと、いったん浴槽から出た。
「姉さん、手、出して」
 麗奈も浴槽から出す。
 直哉は浴槽の縁に座る。
「この格好じゃ、イヤかな?」
「ううん、大丈夫だよ」
 そう言って麗奈から直哉の上にまたがる。
「そのまま、腰を落として」
「うん……」
 直哉は、モノが上手く入るよう少し腰を動かす。
「ん……あああっ」
 そして、直哉のモノは麗奈の中に収まった。
「はあ、直哉ちゃんのでいっぱいだよ……」
 麗奈は直哉に抱きつく格好でじっとしている。
「姉さんの動きたいように動いていいよ。無理はしなくていいから」
「うん……」
 そう言われ、麗奈はぎこちなく動く。
 まだ多少抵抗感があるのか、動き自体は遅く、小さかった。
「んっ、あんっ」
 それでも、感情の高ぶりからか、麗奈は感じているようだった。
「直哉、ちゃん……気持ち、いい?」
「気持ちいいよ。心配しなくても大丈夫だから」
 そう言って直哉は、麗奈の胸をキスをした。
「んくっ、あんっ、あっ」
 少しその動きに慣れてきたのか、それとも思うように快感を得られないことに焦れたのか、麗奈の動きも速く、大きくなってきた。
「直哉ちゃんっ、んんっ、奥にっ、当たってるのっ」
 直哉も麗奈を補助する形で突き上げる。
「んんっ、あふぅっ、んあっ、あっ、あっ」
「姉さんっ」
 直哉は、麗奈の腰を持ち、さらに動きを激しくする。
「だ、ダメっ、そんなのっ、気持ちよすぎちゃうっ」
 麗奈は、直哉にしっかり抱きつき、快感の波に抗おうとする。
「んあっ、直哉ちゃんっ、私っ、もうっ」
 それでも、次第に上り詰めていく。
「んんっ、ああっ、あんっ、あっ、あっ、あっ」
 浴室に、荒い息と淫靡な音が響く。
「ああっ、んあっ、あっ、あっ、ああああっ!」
「くっ!」
 そして、ふたりは達した。
 直哉はかろうじてモノを引き抜き、外に白濁液を放った。
「ん、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、大丈夫?」
「う、うん、大丈夫だよ」
 麗奈は、ニコッと笑った。
「とりあえず、風邪を引かないうちに、風呂からは出た方がいいね」
「うん、そうだね。でもね、直哉ちゃん」
「ん?」
「直哉ちゃんの部屋で、もう一度、したいな……」
「姉さん……」
「ダメ、かな?」
「いいよ。今日は姉さんに最後までつきあうから」
「ありがと、直哉ちゃん」
 
「裸のまま寝るのって、くすぐったい感じがするね」
「かもね」
 直哉は、麗奈の髪を撫で、小さく頷いた。
「でも、ごめんね、直哉ちゃん」
「なにが?」
「その、何回も求めちゃって」
 麗奈は申し訳なさそうに呟いた。
「……いいよ。俺だって姉さんには十分満足してもらいたかったから」
 直哉はそう言って微笑んだ。
「このままだと私、身も心も直哉ちゃんなしでは生きていけなくなるかも」
「姉さん……」
「私の体、もう直哉ちゃんを覚えてしまったから。やっぱり、時々求めちゃうかも」
 麗奈は、直哉の腕をキュッとつかんだ。
「……迷惑なら言ってね」
「迷惑なんかじゃないけど、でも──」
「菜緒ちゃんに申し訳が立たない、かな?」
「…………」
「菜緒ちゃんは本当に幸せだよね。直哉ちゃんの想いを全部受け取って。それで幸せじゃないなんて、あり得ない」
「……姉さんは、幸せ?」
「少なくとも今は幸せ。今は、私だけの直哉ちゃんだから」
「そっか……」
「でも、これ以上のことを望むのは贅沢なんだよね。多少なりとも直哉ちゃんを苦しめてるのは、火を見るよりも明らかなんだから」
 麗奈は目を閉じたまま、淡々と話す。
「直哉ちゃんにとって、私は負担にならないっていう保証は、どこにもないからね」
「……どうしてそんなこと言うのさ? そんなに俺のことが信用できない?」
「ううん、そうじゃないの。直哉ちゃんのことは信用してる、盲目的に。直哉ちゃんのことは信用してるけど、私が私自身を信用できていないの」
「姉さんが?」
「うん。ただ、自分でもどこが信用できていないか把握しきれてないから。だから、いつか直哉ちゃんの信用を裏切ってしまうんじゃないかって、怖いの」
 直哉は、少し考え、言った。
「気休めを言うのはイヤだから、思ってることをそのまま言うよ」
 麗奈は小さく頷いた。
「まず、そんなことを考えるなんて、姉さんはバカだよ。俺はどんなことがあったって姉さんに裏切られたなんて思わない。それなのに、そんなありもしないことを考えるなんて、バカだよ」
 言葉は少しきついが、その口調は優しかった。
「それと、自分のことを信用できないなんて、そんなの当たり前だよ。人間は誰が一番信用できないって、自分が一番信用できないんだから。それをだましだまし、誤魔化し誤魔化し生きていくんだ。自分が信用できない分、人を信用するんだ。だからこそ裏切られたりするとその影響も大きいけど。でも、みんなそうして生きてる。俺だってそうだよ。自分が信用できないから、俺を信用してくれてる人を信用して、それで自分のを補ってる」
「人の信用で自分の信用を補う……」
「俺のそれの中には、もちろん姉さんのも入ってる」
 直哉は、麗奈の髪を優しく撫でた。
「姉さんが俺を信用してくれてるのなら、それで自分の信用を補えばいい。みんなを少しずつ信用すれば、きっと自分を信用できるようになる。保証するよ」
「……ありがと、直哉ちゃん」
「わかってくれればいいんだよ」
「やっぱり私ってダメだよね」
「どうして?」
「私よりも年下の直哉ちゃんに諭されるんだから」
 そう言って苦笑した。
「年なんか関係ないよ。どこで気付くかが問題なんであって、早い遅いはないし、年上だから年下だから、なんてことも関係ない」
「それでもやっぱり、年上の『威厳』ていうものを持ちたいからね」
「俺は今のままの麗奈姉さんが大好きだよ。ちょっとボケてて、でも、可愛くて、守ってあげたくなって、その実すごく大人で。そんな姉さんが大好きだよ」
「直哉ちゃん……」
「これからだって、なにかあったら遠慮なく言ってよ。菜緒に文句言われない程度にはなんでもするからさ」
 直哉は優しく微笑んだ。
「直哉ちゃん、大好きだよ……」
 麗奈はそう言って直哉にすり寄った。
「あっ……」
「あ、あははは」
 すると、直哉のモノが敏感に反応した。
「直哉ちゃん……」
 麗奈はそのモノをそっと手で包んだ。
「もう一度だけ、お願い……」
 そしてまたふたりはお互いを求めた。
 もうそこにわだかまりはなかった。
 
 二
『直哉ちゃんへ
 お誕生日、おめでとう。
 直哉ちゃんも今日から十八。もう一人前の大人だね。
 今回慣れない手紙なんて書いたのは、直接話したら泣いてしまうかも、と思ったからなの。直哉ちゃんの誕生日が終わると、すぐに菜緒ちゃんの誕生日だって聞いたから。
 その日が来たら、直哉ちゃんはあたしたちの手の届かないところへ行ってしまうからね。
 別に菜緒ちゃんとのことを反対してるわけじゃないんだからね。直哉ちゃんがそれで幸せになれるんなら、あたしだって嬉しい。
 でも、そう簡単に割り切れないのも事実なの。
 いつまでも未練がましいことは言いたくないけど、やっぱりあたしの一番はいつまでも直哉ちゃんだからね。
 本当はね、もう直哉ちゃんしか見えなくなっちゃったの。
 時が記憶を薄れさせるって言うけど、直哉ちゃんとのことは、一生忘れない。ううん、忘れられないよ。
 直哉ちゃん、ありがとう。そして、ごめんなさい。
 最後にもう一度。
 お誕生日、おめでとう。
                                     綾奈』
 
『大好きな直哉へ
 誕生日、おめでとう。
 直哉にこんな風に手紙を書くのって、はじめてだよね。そんなに長く書くつもりはないから、ちゃんと最後まで読んでね。
 まず、たぶん私がプレゼントしたはずのお守りについて。
 中に入っているルビーは、半分だけしか入ってないの。もう半分は私が持ってる。これで直哉とはいつも一緒にいられるね。私も、お守り代わりにずっと持ってるから。
 直哉の誕生日が終わると、すぐに私の誕生日だね。今年の誕生日はおそらく、一生のうちで一番楽しくて嬉しくて、幸せな誕生日になるはずだから。
 直哉に告白してもらえるだけでも幸せなのに、ほかにもいろいろあるみたいだから、前日なんて興奮して眠れないかも。
 私の夢をかなえられるのは、直哉しかいないんだからね。
 あんまり書くとしつこいって言われそうだから、この辺にしとくね。
 今日は、本当に誕生日おめでとう。
                                   菜緒より』
 
「どうしたの、直哉くん?」
 土曜日の放課後。
 直哉は屋上に瑞穂を呼び出していた。
「雨、降りそうだね」
「えっ、そうだね」
 今は雨は降っていないが、いつ降り出してもおかしくない天気だった。
「雨が降りそうだから、簡単に言うよ」
 直哉は瑞穂の方を振り返った。
「来週の月曜日、七日の日は、菜緒の誕生日なんだ」
「そうなんだ」
「それで、その時に菜緒に告白するから。正式な恋人同士になるために」
 直哉は淡々と話す。
「そして、もう一段階上の関係になるために、指輪を贈ろうって思ってる」
 一瞬瑞穂の表情が強ばった。
「それがなにを意味するか、わかるよね?」
「婚約、よね」
 直哉は小さく頷いた。
「これは、俺のけじめだと思ってる。菜緒に対してもだし、俺を想ってくれてるすべての人に対しても。その他大勢になってる人には事後報告だけど、瑞穂さんには俺の口から直接伝えておきたかったんだ」
 瑞穂はしばらくなにも言わずに俯いていた。
「よかったね、直哉くん」
 しかし、そう言って話しはじめた。
「ずいぶんと時間はかかったみたいだけど、一番望むべき形に収まるんだね。そのことに関しては、素直におめでとうって言うよ。それで、直哉くんは幸せになるんだから」
「ありがとう」
「でもね、やっぱり淋しいし、悲しいよ。どんなに強がってみても、それだけは隠しきれない」
「…………」
「私、強くないから、またダメになっちゃうかもしれないけど、せっかく直哉くんに私を変えてもらったんだから、それを無駄にはしないよ。無駄にはしないけど、時々直哉くんに手伝ってほしいの。直哉くんに、迷惑がかからない程度でいいから」
「それくらいなら別に構わないよ。俺だって瑞穂さんとこのままなんてイヤだからね」
 直哉はそう言って瑞穂を抱きしめた。
「約束もしたでしょ? いつまでも俺の側にいていいって。あれは俺が死ぬまで有効なんだからね」
「そうだね」
 ようやく瑞穂の顔に笑みが戻った。
「直哉くんたちの結婚式には、絶対に呼んでね」
「ちょ、ちょっと、なんでいきなりそこまで話が飛ぶわけ?」
「だって、婚約するってことは、近い将来結婚するってことでしょ?」
「ま、まあ、そうだけど。でも、俺たちはまだ高校も卒業してないし。たとえ卒業したとしても、どうせ大学生だし。結婚なんて」
「学生結婚だってあるわよ」
「養えないって」
「意外にそういうところ、昔風の考え方なんだね。とりあえず籍だけ入れるとかって考えないの?」
「俺だけで決められることじゃないから、なんとも」
「それはそうだけどね。でも、どうせならなんでも早い方がいいよ。そうすれば、私たちも早く現実を直視できるし」
「瑞穂さん……」
「ふふっ、そんな顔しないで。せっかくのカッコイイ顔が台無しだよ?」
 直哉は、抱きしめている腕に少し力を込めた。
「教師と生徒の禁断の愛も、もうすぐ最終章だね。でも、そのあとはもっといい関係になる予定。なんでもわかりあえる、親友のような関係にね」
「……ありがとう、瑞穂さん」
 直哉はただそれしか言えなかった。
 しばらくして瑞穂と別れた直哉は階段を下り、保健室に向かった。
「失礼します」
 直哉は一礼して保健室に入った。
「あら、直哉くん。どうしたの? 怪我でもしたの?」
「先生に話しておきたいことがあって来ました」
「話?」
 かえではとりあえず、直哉を座らせた。
「蒸し暑いから、麦茶でいい?」
「はい」
 かえでは備え付けの冷蔵庫から、作り置きの麦茶を取り出し、コップに注いだ。
「それで、話って?」
 直哉にコップを渡しながら、かえでは訊ねた。
「もううじうじするのはやめます。決めました」
「そう。誰に決めたの?」
「菜緒です」
「杉村さんね。そうね、直哉くんの一番側にいたからね、それが自然の成り行きなのかもしれないわね」
「それで、来週の菜緒の誕生日に告白して、さらに、婚約もしようと思ってます」
「婚約? そう、そこまで真剣に考えたのね」
 かえでは穏やかに微笑んだ。
「そうすると、直哉くんの誕生日に贈ったものが、役に立ちそうね」
 かえでは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああいうものは、そういう関係になった時にこそ、必要なのよ。わかる?」
「は、はあ……」
「本当は、直哉くんとひとつくらい使ってみたかったんだけどね」
「せ、先生……」
「ふふっ、冗談よ」
 直哉はすっかり恐縮している。
「直哉くん」
「はい」
「たとえ直哉くんたちが一緒になっても、その隣を虎視眈々と狙ってる人が何人もいることを忘れないでね」
「わかりました」
「ふふっ、よろしい」
 直哉は改めて思った。なんて素晴らしい女性たちに想われてたのかと。
 
 七月六日。
 直哉は千里の工房に赴いていた。
「こちらがご注文の指輪になります」
 千里はそう言ってふたつの指輪を見せた。
「ご指定された文字を確認してください」
 直哉は小さい方の指輪を手に取り、目を凝らした。
 その指輪の表に刻まれている文字と、内側に刻まれている文字を確かめた。
「では、こちらのケースにお入れしますので」
 千里は指輪用のケースに指輪を入れた。
「ふふっ、いいですね。好きな方と一緒になれるというのは」
「まだ一緒になったわけじゃないですからね。途中で愛想尽かされたらそれまでです」
 直哉は苦笑した。
「もし仮にそうなったとしたら、直哉さんはどうなさるのですか?」
「どうしますかね。一ヶ月くらい傷心旅行にでも出て、それから今後のことでも考えますかね」
「それまで待っていてくれますか、今直哉さんを想っている方たちは?」
「さあ、それはわかりません。ただ、案外みんなに愛想尽かされてるかもしれませんよ。結局まわりには誰もいない、なんて状況になるかも」
「もしそういう状況になったら、私も立候補してもいいですか?」
「千里さんがですか?」
「はい。少なくとも瑞穂には負けませんよ」
 そう言って千里は笑った。
「一度お会いしたいですね、この指輪を贈られる女性に。直哉さんが選んだ女性ですから、きっと素晴らしい女性でしょうね」
「そういうまわりの意見はわかりませんけど、少なくとも俺にとっては最高の相手だと思ってます」
「本当に幸せな女性ですね。うらやましいです」
 それは千里の本心だった。
「そうでした。お渡ししなければならないものがあったんです」
 なにかを思い出したらしく、いったん奥へ消えた。
 待つこと一分、千里は戻ってきた。
「お待たせしました。これです」
「これは……イヤリングじゃないですか」
 千里は直哉の前に、シルバーのイヤリングを置いた。
「それは、私と瑞穂からのおふたりへのプレゼントです。と言いましても、そのイヤリングは女性用ですけど」
「いいんですか、こんなものもらっても?」
「はい。是非受け取ってください」
 直哉はイヤリングを手に取り、よく見る、
「わかりました。ありがたく頂戴します」
 ふっと相好を崩し、千里に微笑みかけた。
「千里さん」
「なんですか?」
「少し、話につきあってもらってもいいですか?」
「はい、構いませんよ。喜んでお受けします」
 それからふたりは様々なことを話した。それこそ時の経つのも忘れて。
 そんなこんなで直哉が家に帰り着いたのは、夜九時をまわってからだった。
 直哉は軽く夕食を食べ、部屋に戻った。
「ふう、とりあえず今日できることはこれで全部だな」
 指輪の箱とイヤリングの箱を机に並べ、うんうんと頷く。
「いよいよ明日。これまでの俺に、俺たちの関係にピリオドを打つ」
 と、ドアがノックされた。
「なおくん、ちょっといい?」
「いいよ」
 やって来たのは千尋だった。
「明日の準備は完璧?」
「とりあえず今日の段階でできることはね」
「そっか」
 千尋はベッドに座った。
「今日が本当の最後だね、私だけのなおくんは。明日からは、菜緒ちゃんのなおくんになるんだから」
 そう言って少しだけ淋しそうに微笑んだ。
「ねえ、なおくん。ひとつ、お願いをしてもいいかな?」
「お願い?」
「うん。私のことを小学校の頃みたいに『お姉ちゃん』て呼んでほしいの」
「姉さんじゃなくて?」
「うん。ダメ、かな?」
 直哉は少し考える。
「……うん、いいよ、お姉ちゃん」
 そして、あえて以前のような話し方で答えた。
「なおくん」
「お姉ちゃん」
 千尋が直哉を抱きしめた。
「やっぱりお姉ちゃんの腕の中、胸の中はあったかいね。ぼくの一番大好きなところだよ」
「私もね、なおくんとこうしていると、とっても落ち着くよ」
「ぼくの大好きな、お姉ちゃん」
 直哉は微笑んだ。
「今日はお姉ちゃんとずっと一緒にいたいな。ダメかな?」
「ううん、私も一緒にいたいよ」
「よかった」
 千尋の言葉に、直哉はあたかもかつてのような笑みを浮かべた。
「昔のぼくの夢は、もうかなわないね」
「夢?」
「お姉ちゃんのお婿さんになること」
「あ……」
「でもね、今は違う夢があるんだ」
「……どんな夢?」
「みんながいつまでも幸せでありますように。その中でも特にお姉ちゃんにはいつまでも幸せでいてほしい。お姉ちゃんにはその資格があると思うんだ。だから──」
「なおくんっ」
 千尋はキュッと力を込めて直哉を抱きしめた。
「お姉ちゃんが幸せでいてくれると、ぼくも幸せなんだよ。ぼくは、お姉ちゃんの弟で、お姉ちゃんのこと、世界で一番大好きだからね」
「ありがとう、なおくん。私、本当に幸せだよ。なおくんみたいな弟がいてくれて、本当に……」
 あとは続かなかった。
 涙があふれ、嗚咽が漏れる。
 直哉はただ千尋を優しく抱きしめ、髪を背中を優しく撫でている。
 どれくらい泣いたのか、千尋は真っ赤な目に涙をためながら言った。
「これからは私を幸せにするつもりで、菜緒ちゃんを幸せにしてあげてね」
「約束するよ、千尋お姉ちゃん」
 直哉は最後まで優しく千尋に語りかけた。
 その夜、千尋は泣いて泣いて泣きまくった。とにかく声の限り、涙の限り泣いた。
 そして、そのまま泣き疲れて眠ってしまった。
 直哉はその間ずっと、千尋を抱きしめていた。
「……姉さん。今まで本当にありがとう。そして、これからもよろしく」
 そして夜は更け、その日は来た。
 
 七月七日。世間的には七夕である。
 織姫と彦星が一年に一回、天の川を越えて会える日。待てば待った分だけ相手を想う気持ちは強くなる。それが十年以上なら、その想いは計り知れない。
 今日は、そんな想いを持つ、菜緒の誕生日である。
「……ん、ん〜……」
 朝。
「……もう朝か」
 直哉はほぼいつも通りの時間に起きた。
「……姉さんはもう起きたんだ」
 傍らに千尋の姿はなかった。ただ、それもいつものことである。
「ん、晴れてるのか」
 直哉はカーテンの隙間から差し込む太陽に気付いた。
 カーテンを開けると、眩しい夏の陽差しが部屋いっぱいに注ぎ込んできた。
 窓も開け放つ。
「確か、今日は天気はよくないって言ってたのに」
 ところが、空には雲ひとつなく、快晴だった。
「暑くなりそうだな」
 直哉はふっと微笑んだ。
 台所に顔を出すと、いつものように千尋が朝食の準備をしていた。
「おはよう、姉さん」
「おはよ、なおくん」
 千尋はいつものように笑顔で答えるが、やはり少しまぶたが腫れぼったい。しかし、直哉はそのことについてはなにも言わなかった。
 いつものように洗面所で顔を洗い、台所に戻り朝食の準備を手伝う。
 そして朝食。
「ねえ、なおくん」
「ん?」
「今日、菜緒ちゃんにプレゼント渡す余裕ある?」
「あるよ。大丈夫」
「そっか。じゃあ、その時に直接渡すね」
「それがいいよ」
 これ以外、菜緒のことは話題に上らなかった。
 七時四十分。
「忘れ物はない?」
「完璧」
 そう言って鞄を叩く。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、なおくん」
 いつものように『いってらっしゃい』のキスを交わした。
 ドアを開けると、夏の陽差しが直哉を射抜いた。
「うおっ、あちぃ」
 直哉は早々に車庫から自転車を出した。
 表に出ると、いつものように菜緒が待っていた。
「おはよ、直哉」
「うっす、菜緒」
 いつものように挨拶を交わす。
「とりあえず、誕生日おめでとう、菜緒」
「うん、ありがとう」
「本番は夕方にな」
「うん」
 自転車をこぐふたりとも、どこか軽やかだった。
 夏の陽差しを受けて、少しぬるい風を受けて自転車をこいでいく。
 半袖の白いワイシャツ、ブラウスが目に鮮やかだった。
 学校に着くとそれがよりいっそう際立った。
 いつものようにとりとめのない話を交わしながら教室へ。
「おはよう」
「うおっす」
「おっはよー、おふたりさん」
 教室に入ると、さっそく雅美がやって来た。
「菜緒、誕生日おめでとう」
「ありがとう、雅美」
「今年はパーティーやらないっていうから、はい、プレゼント」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ、遠慮なくもらうね」
 菜緒は嬉しそうにプレゼントを受け取った。
「開けてもいい?」
「いいわよ」
 菜緒は雅美の了解を得て、プレゼントを開けた。
「あっ、メイクセット」
「菜緒もそういうのしてもいいんじゃない? 今までとは違う感じを味わえるわよ」
「ありがと、雅美。大事に使うよ」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
 雅美もつられて微笑む。
 そして、今日もはじまった。
 
 昼休み。
 直哉と菜緒は、例によって例のごとく屋上に、いなかった。
「さすがにこの時期になってくると、屋上もただ暑いだけになるからな」
「そうだね」
 ここは校舎北側にあるベンチ。この時間でも陽は当たらない。陽差しを避けるには絶好の場所である。
 すでにふたりとも半分ほど弁当を食べていた。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「こういう関係で食べるのは今日が最後だよね?」
「だろうな。おまえが俺の申し出を断らない限りな」
「もう、そんなこと絶対にないよ」
「冗談だって。俺だってそんなこと、これっぽちも考えてない」
「うん」
 菜緒はそれを確かめると、安心したようにまた弁当に箸をつけた。
 弁当を食べ終わると、直哉はあたりを見回した。
「ここじゃさすがに膝枕は無理か」
 そう言って残念そうな顔をする。
 ここは校舎の中からもよく見える場所で、どこで誰が見ているかわからない場所である。
「なんかすっかり癖になった、菜緒の膝枕」
「もう私なしでは生きていけないね」
「そうだな。少なくとも膝枕に関してはそう思うぜ」
「ほかのことに関しては?」
「さあ、どうかな。生きていけないっていうほどのことは、まだ少ないかな」
「じゃあ、これからホントに私なしでは生きていけなくしてあげる」
「ははは、すごい入れ込みようだな」
「当然よ。私のこれからを左右することなんだから」
 菜緒は真剣な表情でそう言ったが。すぐに相好を崩した。
「でも、その前に私が直哉なしでは生きられなくなったりして」
 そう言って笑った。
「菜緒」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
「なんでもないって、気になるよ」
「気にするな。たいしたことじゃない」
「だったら教えてよ」
「……少し、化粧してるか?」
「えっ……?」
「ファンデーションかなんかしてないか?」
「わかるの?」
「ああ」
「そっか。わかっちゃうか」
 菜緒は少し意外そうに、でも嬉しそうに微笑んだ。
「どうしたんだ、急に?」
「雅美にね、メイクセットをもらったの。だから試しに使ってみたんだけど。変かな?」
「いや、そんなことないけど、それだけだとなんともな。やっぱり口紅やなんかもしないと全体的なことはわからない」
「そうだよね」
 菜緒は頷いた。
「だからって、今日はしなくてもいいからな。慣れないことをするのに慣れないことをされると余計に調子が狂う」
「化粧は少し勉強してからにするよ」
「そうしてくれ。ただ、俺はすっぴんのままでも、菜緒は十分だと思うけどな」
「ありがと、直哉」
 
 放課後。
「菜緒」
「ん?」
 帰り支度をしていた菜緒に、直哉は少し声音を落として声をかけた。
「帰ろうぜ」
「うん」
 言う言葉はいつもと同じなのだが、様子が少し違った。
「……ちくしょう、柄にもなく緊張してきてるぜ」
「ふふっ、珍しいね」
「笑いごとじゃない。今日のことはすべておまえのためなんだからな」
「わかってるよ」
 菜緒はそう言って目を細め、慈しむような眼差しで直哉を見つめた。
「私ね、やっぱり興奮して眠れなかった。でもね、いつもなら眠れないと授業中とかに眠くなるけど、今日は授業中も眠くなかった。それだけ興奮してるのかな?」
「さあな。俺はおまえじゃないから、そのあたりのことはわからん。俺はそれよりも自分のことで精一杯だ」
 直哉はそう言って苦笑した。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「今日、天の川、見えるかな?」
 学校を出たところで菜緒がそう訊ねてきた。
「このまま晴れてりゃ見えるだろうな。久しぶりなんじゃないから、七夕の日に天の川が見えるなんて」
「そうだね。私はさ、七夕生まれだから、昔から人一倍七夕のことに興味を持ってた。もちろん織姫と彦星の話にもね。一時期はああいうのに憧れたけど、やっぱり一年に一度しか会えないなんて悲しいって思って、それからはあんまりあの話好きじゃないんだ。もし私が織姫と同じ立場だったら、すべてを捨てでも彦星のところへ行くのに。それをしない織姫は、本当に彦星のことが好きなのかなって、そう思ったこともあるよ」
「おとぎ話にそこまで意見を言う奴はいないな」
「私は織姫になんかならないからね。ずっと、ずっと一緒にいるからね」
「……わかってる」
 直哉はそう言って微笑んだ
「今日は七夕だから、なんか願い事でも短冊に書いてつるすか?」
「願い事って?」
「さあ、なんだろうな。じっくり考えてみないとわからない。でも、せっかくだからやってみてもいいかなって思ってさ」
「小さい頃はやってよね、庭の真ん中に大きな竹をもらってきて。その頃の直哉、とにかくたくさん短冊に願い事を書いてたね」
「大半はなんかがほしいってやつだったと思う。真面目に書いてたのは、そのうちのほんの二、三枚だ」
「どんなことお願いしてたか覚えてる?」
「少しだけな」
 直哉は自分の記憶の糸をたどる。
「夏休みに旅行に行けますように、もっとお父さんとお母さんと遊びたい。そんな感じのが結構あった」
 さらっと言うが、それはとても小学生のお願いすることではない。
「なんだかんだ言っても、淋しかったんだろうな。ガキとはいえ、一応男だったから泣き言は言いたくなかった。だから、その分の想いを短冊に書いてさ」
「そのお願い、かなえられた?」
「少しだけな。確か、旅行に行きたいって書いた年に、旅行とはいかなかったけど、みんなで遊びに行くことはできた。その時には父さんや母さんとも少しは遊べたし。でもまあ、俺は昔からそういうのは結局はほとんどかなわないんだって知ってたからな。冷めたガキだったんだよ」
 少しだけ淋しそうな表情を浮かべた。
「そう言う菜緒は、どんな願い事をしてたんだ?」
「私はいつも決まってたよ。最初の頃は、なおくんと仲良くなれますように。それから、なおくんとたくさん遊べるように、なおくんが私のことを好きになってくれますように、なおくんをもっともっと好きになりますように、って感じで」
「全部俺絡みか」
「そうだよ。そして、そのお願いはほとんどかなえられたけどね」
「全部じゃないのか?」
「うん。みんなで七夕した最後の年のお願いがまだかなえられない」
「なんなんだ、それ?」
「言ってもいい?」
 菜緒は逆に聞き返した。
「うっ、なんか限りなくイヤな予感がする。でも、聞いてみたい気もする」
 菜緒はくすっと笑った。
「なおくんのお嫁さんになれますように、だよ」
 そして、ちょっと頬を赤らめて答えた。
「……予感的中」
「そのお願いをかなえられるのは、やっぱり直哉だけだからね。お願いをかなえてくれれば同時に私の夢もかなうし。一石二鳥だね」
「そういうのは一石二鳥とは言わん」
「でも、直哉ならきっとかなえてくれるって、信じてる」
「…………」
 信じてる、と真摯な瞳で見つめられては、直哉はなにも言い返すことはできなかった。
 直哉はそれきりぴたっと話すのをやめた。
 菜緒もなにも言わなかった。
 程なくして家に着いた。
「菜緒。準備にどれくらいかかる?」
「う〜ん、二十分くらいかな」
「じゃあ、それくらいしたら迎えに行くから」
「うん」
 ふたりはそう言っていったん別れた。
 部屋に戻った直哉は、すぐに制服から着替える。いつものようなラフな格好ではなく、半袖ながらワイシャツを着て、スラックスにサマージャケット。フォーマルではないが、それに近い格好だった。
「…………」
 机の引き出しから『主役』を取り出す。
 あとは髪を整え、財布の中身をチェックして時間まで待つだけである。
「……帰ってくる頃には──」
 直哉はそう呟いて、机の上のフォトスタンドを手に取った。
「終わりははじまりだってよく聞くけど、まさにそうだな」
 直哉はふっと笑い、フォトスタンドを戻した。
「さてと、お姫様を迎えに行くか」
 部屋を出て、念のために戸締まりを確かめるためにリビングを覗いた。
「ん?」
 すると、テーブルの上に一枚の便せんが置いてあった。
「……姉さんか」
 それは千尋が書いたものだった。
 そこに一言だけ、
『明日はおめでとう会をやろうね』
 と書かれていた。
「……ありがとう、姉さん」
 直哉はその便せんを丁寧に折り畳み、財布の中にしまった。
 それから戸締まりを確認し、家を出た。
 外はまだまだ明るく、それでも太陽は少し西に傾いていた。
 杉村家のインターホンを押すと、中から美緒が出てきた。
「こんにちは、おばさん」
「こんにちは、直哉くん。菜緒はすぐに下りてくると思うから、待っててね」
「はい」
 直哉は玄関先で中に注意を払いながら菜緒を待った。
「おばさん、今日は無理を言ってすみませんでした」
「いいのよ。あの子が一番望んでることを私たちもさせてあげたいから。私たちにとっては菜緒の嬉しそうな姿、楽しそうな姿を見ることが一番幸せなんだから。それを与えてくれる直哉くんに感謝こそすれ、非難なんかしないわよ」
「そう言ってもらえると幾分気持ちが楽になります」
「直哉くん」
「はい」
「菜緒を、よろしくね」
「はい」
 美緒のよろしくという言葉には、実に様々な想いが込められていた。直哉はその想いに少しでも応えられるように、今はただ大きく頷くしかできなかった。
「ごめんごめん」
 と、二階から足音が聞こえてきた。
「ちょっと手間取っちゃっ──きゃっ!」
「菜緒っ!」
 階段を下りる途中、スカートが引っかかり、菜緒はバランスを崩した。
 それと同時に直哉が飛び出し──
「……っ!」
「……大丈夫か?」
 寸でのところで菜緒を抱き留めていた。
「う、うん……」
「もう、あれほど階段を駆け下りないようにって言ってたのに」
 美緒は事なきを得たことで安心し、心配していたことを振り払うかのように文句を言った。
「ほらよ」
 菜緒を立たせる。
「ったく、危なっかしい奴だな」
「……ごめんね」
「別にいいさ。怪我もなにもなかったんだから。それより、準備はもういいんだな?」
「うん」
 菜緒は小さく頷いた。
 菜緒はノースリーブのロングスカートのワンピースに、手にはショールを持っていた。
「じゃあ、おばさん、菜緒を借りていきます」
「ええ、貸出期限はないから、存分に楽しんでらっしゃい」
「お、お母さん」
「ふふっ、いってらっしゃい」
「いってきます」
 美緒に送られ、ふたりは一路駅へ向かった。
「……こういう格好で歩くの慣れてないから、ちょっと恥ずかしいかな」
「まあ、そういうのはとにかく慣れるしかないからな。次第に慣れるさ」
 直哉はそう言って少しでも菜緒の恥ずかしさを緩和しようとする。
「……菜緒」
 と、菜緒が直哉の腕を取り、絡ませてきた。
「……どうせ恥ずかしいのなら、こうしていても同じだからね」
「……特別だぞ」
「うん」
 普段外で腕を組むことを嫌がる直哉だったが、さすがに今日だけは菜緒の好きなようにさせた。
 それから駅まで、ぽつりぽつりと会話を交わしながら歩いていった。
 妙な緊張感からか、会話はいつもみたいには進まなかった。
「ほら、切符」
「ありがと」
 券売機で切符を購入し、改札をくぐった。
 ホームに出ると、ちょうど電車が入ってきた。
「ラッキーだったな」
「そうだね」
 降車客はそれほど多くなかった。
 電車に乗り込むと、車内はそれほど混んではいなかった。
 ふたりは空いている座席に座った。
「ん、おまえ、香水つけてるだろ?」
「うん。きついかな?」
「いや、そんなことはない。一番ちょうどいい感じだ」
「よかった」
 菜緒はそう言って直哉に寄った。
「俺は香水についてはほかの男連中よりうるさいからな」
「おばさんの影響だよね」
「まあな。テレビだと匂いまではわからないけど、トータルファッションとして結構こだわってるからな、母さん。時々俺にも香水の善し悪しを教えてくれたりもしたし。でも、俺は別に香水なんてつけなくてもいいと思ってる」
「なんで?」
「男と違って女は、どこかもともといい匂いがするからな。それがシャンプーや石けんの匂いなのか、それともまったく別のものなのかはわからないけどさ。俺は、そっちの方がいい。ひとりひとり違うからな」
 そう言って直哉は微笑んだ。
「私にはそれはよくわからないけど、直哉がそう言うなら、そうなんだね」
「そして、俺は菜緒のそんな匂いが好きだ。落ち着くからな。これが菜緒だって感じで」
「じゃあ、香水は特別な時にだけつけることにして、普段はそのままでいるね」
「そうしてくれ。ただ、ひとつ誤解しないでくれよ」
「なにを?」
「別に俺は化粧も香水も嫌いじゃないってことだ。菜緒だってきちんと化粧をしたら、今以上になるだろうしな」
「褒めてくれてるんだよね?」
「一応な」
「ありがと、直哉」
 菜緒は嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、これから行くところって、どんなところなの?」
「一見するとものすごい高級店に見えるけど、実はそれほどでもないってところだ」
「でも、それなりにはするんでしょ?」
「おまえがそんなことを気にすることはない。今日は全部俺のおごりなんだから」
「わかってるけど、どうしても気になって」
「所詮高校生のやることだ。たかが知れてるだろ?」
「普通ならね。直哉、時々信じられないようなことするから」
「…………」
 直哉は一瞬なにかを言おうとしたが、飲み込んでしまった。
「はっきり言って、半端じゃないくらい夜景が綺麗なところだぜ」
 その代わり、別なことを言った。
「あれを見るだけでも、行く価値はあると思う。もちろん、料理だって旨いけどな」
「そんなにいいところなんだ」
「俺のとっておき第二弾だ」
「第二弾?」
「第一弾は、あの夕焼けの見える丘だ」
「そっか。直哉はホントにいろんなことを知ってるね」
「そんなことないさ。たまたまだ」
 直哉は謙遜した。
 次第に暮れゆく太陽の中を、電車は進んでいく。
 電車に揺られること三十分。目的の駅へと到着した。
 ホームにはこれから帰るサラリーマンの姿が目立った。
 人の流れに逆らって改札を出た。
「この時間にここへ来るの、ものすごい久しぶりかも」
「用ないからな」
「そうだね」
 駅構内を出ると、外はだいぶ暗くなっていた。
 人の波は駅へ向かう波と、歓楽街へ向かう波とに分かれていた。
 ふたりは駅から少し離れたところにある高層ビルに入っていった。
 そのビルは、真ん中はごくごく普通のオフィスビルだが、地下と地上三階までと、最上階から下三階部分は飲食店や服飾、宝飾店などが入っていた。
 エントランス奥にあるエレベーターには、たまたま誰も乗っていなかった。
「なんか緊張する」
「どうして?」
「いろいろあるからな。これで緊張してない方がおかしい」
 直哉は無意識のうちに、今日の『主役』を握っていた。
 高速エレベーターは、ふたりをあっという間に最上階に運んだ。
 最上階には三つのレストランが入っていた。ひとつは高級懐石料理店、ひとつは中華料理店、そしてフランス料理店。
 直哉たちはそのうちのフランス料理店に入った。
「いらっしゃいませ」
 フロア担当のウェイターが、恭しく頭を垂れた。
「六時半に予約している倉澤です」
「倉澤様ですね。少々お待ちください」
 そう言ってカウンターを覗き込む。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
 店の中は平日の月曜日ということで、はっきり言ってほとんど席は埋まっていなかった。それでも夜景を楽しめる窓際の席は、そこそこ埋まっていた。
「こちらでございます」
 案内された席は、奥過ぎず手前過ぎず、絶好の場所だった。
 ウェイターは椅子を引いて菜緒を座らせた。
 直哉も席に着いたのを確かめると、一礼して戻っていった。
「ふう、緊張しちゃった」
「ははは、しょうがないさ。こんなとこ、それこそ普通は来ないからな」
「直哉は少しは慣れてるみたいだね」
「三回ほど来たことがあるからな」
「失礼いたします」
 ウェイトレスがオードブルを、ウェイターが飲み物を持ってきた。
「あの」
「はい」
「野田さんはいますか?」
「野田でございますね。少々お待ちください」
 ふたりが下がると、菜緒がさっそく訊ねた。
「野田さんて?」
「ここのマネージャーさん。父さんの親友なんだ」
「そうなんだ」
 菜緒は得心という感じで頷いた。
「失礼いたします」
「お久しぶりです、野田さん」
「久しぶりだね、直哉くん」
 マネージャーの野田は、にこやかな笑みを浮かべてやって来た。
「今日は突然すみませんでした」
「いやいや、気にしなくていいよ。どうせ月曜日は客の入りもよくないんだから。うちとしても、願ったりかなったりだよ」
「それならいいですけど。なにかあると、父さんの方に影響がありそうですからね」
「ははは、和哉なら心配はいらない。そんなに度量の狭い男ではないよ」
「家にいると、とてもそうは見えませんけどね」
「これは手厳しい」
 野田はそう言って笑った。
「さて、直哉くん」
「はい」
「そろそろ紹介してもらえるかな?」
 野田はそう言って菜緒を見た。
「そうですね。彼女は、杉村菜緒です」
「はじめまして、杉村菜緒です」
「チーフマネージャーの野田です」
「菜緒とは、幼なじみなんです」
「ほお、幼なじみ」
「ま、腐れ縁なんですけどね」
「ははは、腐れ縁などと心にもないことを。こうして見ていても、ふたりがどれだけの関係かわかるよ」
 そう言って笑う。
「では、直哉くん。今日は思う存分楽しんでいってくれよ」
「はい、ありがとうございます」
 野田は菜緒にも一礼して戻っていった。
「あの人のおかげで、今日は格安でやってもらえたんだ」
「おじさんのコネは、相変わらず幅広いね」
「まあな。ま、それはさておき、はじめるか」
「うん」
 ふたりはグラスを持った。
「誕生日おめでとう、菜緒」
「ありがとう、直哉」
 ガラスの乾いた音が、小さく響いた。
「これでまた直哉と同い年になったね」
「たった四日だろ、違うのは」
「たとえ一日でも一分でも違えば年下なんだから。双子や三つ子がそうでしょ?」
「そりゃそうだけど」
「私も昔は直哉の妹みたいな存在だったからね」
「昔はな。でもいつの頃からか、おまえまで姉さんみたいになってきて。錯覚したこともあったんだからな」
「ふふっ、そうだったんだ」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「それでもほとんどの場合は、守るべき存在だったけどな」
「守るべき存在か。ホント、いつも直哉に守られてたな、私。だから、いつも直哉の背中を見て、そこにいることがとっても心地よくて。そして、その心地よさをいつまでも感じていたくて」
「…………」
「そのことも直哉を好きになったひとつの要因かな」
「菜緒」
「ん?」
「いろんなことは、とりあえず食べてからにしようぜ」
「そうだね」
 それからふたりは、本格フランス料理を堪能した。
 オードブル、スープ、メインディッシュとどれも最高の料理だった。
 菜緒はその旨さにただただ感嘆の声を上げていた。
 一方、直哉の方もその料理の質に、少なからず驚いていた。なぜ驚いていたのかというと、このコースの値段にあった。通常より安くしてもらっているのに、内容はとても割にあうものではない。そう思ったからだ。これもひとえに和哉の、野田のおかげであった。
「ふう、満足満足」
「すごく美味しかった」
「味は保証付きだったからな」
「ごちそうさまでした、直哉」
 菜緒も、内容に満足した様子である。
 直哉は、ふっと視線を窓の外に向けた。
 高層ビルの最上階からの夜景は、言葉で表現するのは無粋なほどの素晴らしさだった。
「菜緒」
「うん……」
 直哉の今までとは違う口調に、菜緒もそれを敏感に感じ取っていた。
「いつからなのかははっきり言って覚えてない。おまえはいつも俺の隣にいたからな。それが自然で、当たり前で。でも、そういう関係にあると見えないこともある。俺の場合は俺自身の気持ち、おまえに対する気持ちだった。当たり前を当たり前だとしか考えていなかったら、もうそれ以上の関係は望めない」
 直哉はグラスを傾けた。
「でも、俺には姉さんがいたからな。否応なくおまえとの距離を開けることになった。そのおかげで、俺がおまえをどう想っていたか、わかった」
 直哉は真っ直ぐ菜緒を見つめた。
「菜緒。好きだ。幼なじみとしてではなく、ひとりの女として、俺とつきあってくれ」
 ゆっくりと、一言一言を確かめるように菜緒に告げた。
 菜緒はその直哉の言葉を、やはり一言一言確かめるように聞いた。
「私も直哉のこと、好きだから。ずっと、ずっと好きだったから……うん、直哉とつきあう。幼なじみとしてではなく、恋人として」
 そして、笑顔でそう答えた。
 ここがレストランではなく、真ん中にテーブルがなければおそらく、菜緒は直哉の胸に飛び込んでいただろう。
「ははは、たったこれだけのことを言うのに、いったい何年かかったんだろうな、俺たち」
「そうだね。ほんの一分、もっと短くても済むことなのに」
「ホントに、ずいぶんと待たせたな、菜緒」
「うん」
 たとえどんなに待ったとしても、待った分だけの喜びを得られるのであれば、それでいいのかもしれない。
 なにも考えずに気ばかり焦って言った言葉には、想いはない。時間がかかっても、考え、自分の想いに正直に言った言葉には、たとえそれが単純明快な言葉であっても、十分想いを込めることはできる。
 それが今の直哉と菜緒であった。
 直哉にも菜緒にも、心からの笑みがそこにはあった。
 
「ありがとうございました。またのお越しをお待ち申し上げております」
 ウェイターに見送られ、店を出た。
「なんか野田さんに悪いな。相当おまけしてもらったから。父さん経由でなんかお礼でもしないと」
「でも、そのおかげで最高の誕生日を直哉に演出してもらえたんだけどね」
「まあな」
 エレベーターが上がってきて、ドアが開いた。中から四人ほど降りてきたが、乗るのは直哉と菜緒だけだった。
「八時か」
 直哉は時計を見て呟いた。している時計は、菜緒が誕生日に贈った時計である。
「とりあえず、今日中に一通り済ませたいからな」
「直哉は、あとはなにを企んでるの?」
「いろいろな」
 直哉はニッと笑った。
 ビルを出ると、人の流れも緩やかになっていた。
「ん〜、さすがにああいう店に入ると肩が凝るな。変に格式張ってるわけじゃないんだけど、やっぱり日本人てああいうのに弱いのかな?」
「かもね。日本人なんてフランス料理っていうだけで身構えちゃうから。そういうのが店の中にも漂ってるから、余計に緊張するんだろうね」
「まあでも、その緊張に見合うものを食べられるのなら文句もないけどさ。とんでもないもんだったら、暴れるぞ」
「その点で言えば、今日は文句なしだね」
「ああ」
 夜の繁華街は、昼とはまったく違った姿を見せていた。それでも月曜日ということもあって、比較的おとなしめの様相を呈していた。
 そんな中を、ふたりは腕を組んで歩いていた。
 もう誰はばかることなく堂々と腕を組んで歩ける。その事実だけでも菜緒は嬉しかった。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「このまま帰るの?」
「とりあえずはな」
「とりあえず?」
「向こうに戻るっていうだけだ。予定では真っ直ぐ家に帰るつもりはない」
「そっか」
 菜緒はそれを聞いて少し安心したようだ。
 駅はそこそこ人はいたが、混雑しているというほどではなかった。
 電車も階段の近くはそこそこ乗っているが、先頭車両や最後尾はがらがらだった。
「直哉と電車でどこかへ出かけると、帰りには必ず眠っちゃうからね。今日はがんばって起きてるよ」
「別に寝てても構わないぞ」
「ううん。たまにはこうしてゆっくりと話をしていたい」
「ったく……」
 直哉は菜緒の肩を抱いた。
「ゆっくりったって、三十分ももうないけどな」
「もう、そんなの関係ないの。直哉と話をすることに意義があるんだから」
「意義ねぇ」
「ホント、直哉はそういうことに関しては無頓着なんだから」
 菜緒は呆れたように言った。
 電車に揺られること三十分。
 改札を出ると、菜緒は空を見上げた。
「あっ、天の川……」
「ん? ああ、そうだな」
 空には、無数の星をたたえた天の川が横たわっていた。
「ちゃんと見えたね」
「俺の日頃の行いがいいからな」
「それはどうかな」
「なんでだよ?」
「私の行いがいいからかもよ」
「ま、そういうことにしとくか」
 ふたりは駅からある場所へ向かっていた。
 さすがに出かける時みたいな緊張感はない。会話もスムーズで、問題ない。
「さてと、着いたぜ」
 駅から歩くこと二十分。
「ここって……」
「公園だ」
 そこは公園だった。
「次の幕を演出するのに最も適してるから、ここを選んだんだ」
 ふたりは誰もいない公園に入った。
 心なしか、組んでいる腕に力がこもった。
 少し進んでいくと、規則正しい水の音が聞こえてきた。
 それは、水中からライトアップされた噴水だった。
 吹き上げられた水が光に反射して、幻想的な光景を作り出す。
 直哉も菜緒も、しばし時を忘れてそれに見入っていた。
「菜緒」
 直哉は菜緒を抱きしめた。
「おまえにとっておきのプレゼントがある」
「プレゼント?」
「ああ。少し、目を閉じててくれないか?」
「いいけど」
 菜緒は言われた通り目を閉じた。
 直哉はポケットから『主役』を取り出した。
「…………」
 ふたを開け、最後にもう一度中身を確かめる。
 そして、おもむろに片方を取り出した。
 それを右手に持ち、左手で菜緒の左手を導いた。
 そして──
「これで、おまえは正真正銘俺のものだ」
 その薬指に、シルバーの指輪をはめた。
 菜緒は驚いて目を開け、自分の左手を確認した。
「もしイヤになって返したくなったら、いつでも返してくれ。一回くらい婚約破棄があってもなかなかの人生経験になるって」
 わざと明るく脳天気に言う直哉。
 自分の左手薬指にも指輪をはめる。
「プレゼント、喜んでもらえたか?」
「ひっく……うわあ〜ん、直哉ぁっ!」
「おっと」
 菜緒は泣きながら直哉の胸に飛び込んだ。
「なにも泣くことはないだろ?」
「……だって、嬉しくて涙が止まらなくて……」
「……しょうがない奴だな」
 直哉は優しく菜緒を抱きしめた。
「くすん……なおやぁ」
「悲しい涙じゃないからな。存分に泣けばいい」
 菜緒はしゃくり上げ、直哉の胸を涙で濡らした。
「姉さんの誕生日に、秘密だって言ったことがあるだろ。それがこれのことだ。あの時のおまえのエプロン姿を見て、誰にも渡したくないと思った。誰にも渡さないためにはどうしたらいいのか。そして出た結論が、婚約だ。婚約してしまえば、おまえを誰かに取られる心配もほとんどないからな」
「……余計な心配だよ。私は直哉以外の人には絶対についていかない。これはもうずっと前から決めてたことなんだから」
「それでも、目に見える証拠はほしいだろ?」
「そうだね。これがあれば、いつでも確認できる。私は直哉のものだって」
 菜緒はそう言ってまだ少し鼻をすすりながら、指輪を見た。
「私は、直哉が望むことならなんでもしてあげたい。たとえ、直哉のものじゃなかったとしても。直哉に喜んでもらえると私も嬉しい。だから──」
「それは俺も同じだ。おまえに喜んで、楽しんでもらえれば俺も嬉しい」
「うん」
 菜緒は小さく、でも、はっきりと頷いた。
「キス、して……」
「ああ……」
 ふたりの唇がゆっくりと近づき、そして──
「ん……」
 恋人同士で、婚約者としてはじめてのキスを交わした。
 息が苦しくなるくらい、何度も求める。
 してもしてもまだし足りない。そんな感じだった。
「直哉……大好き」
「俺も、好きだ、菜緒」
 今のふたりには、時間はいくらあっても足りなかった。
 自分の想いをすべて伝えるには、あまりにも時間はなかった。
「菜緒」
「うん」
「これから、俺の部屋に来てほしい」
「えっ……?」
「おまえが、菜緒が、ほしい」
 それは直哉が生まれてはじめて人を、女性を求めた瞬間だった。
 直哉は真っ直ぐな、真摯な瞳で菜緒を見つめた。
 菜緒はその瞳をしっかりと受け止めた。
「うん、いいよ……」
 自分の意志で、直哉に答えた。
「でも、その前に、もう一度キスして」
 ふたりがまわす歯車が、今、動き出した。
 
 公園から直哉の家に着くまで、菜緒は直哉にぴったりと寄り添い、ちょっとやそっとでは離れそうにもなかった。
 そんな菜緒を、直哉は心から愛おしいと思った。それは直哉の表情にも表れていた。いつも以上に穏やかな表情で菜緒を見つめている。
「はあ……」
 菜緒は時々指輪を見ては、うっとりとした表情で溜息をついた。
 家に着くと、さすがに時間が時間だけに、まだ皆起きていた。
 だが、それも直哉の計画のうちだった。
 直哉は、リビングに皆を集めた。
 なぜ集められたのか理解しているのは千尋だけ。和哉も雪恵もわかっていなかった。
「父さん、母さん、姉さん。俺、菜緒と婚約した」
 直哉の言葉は単純明快だった。
「婚約?」
 和哉はその意味をすぐには理解できなかった。
「まあ、そうなの」
 雪恵は嬉しそうに直哉と菜緒を見た。
「…………」
 千尋はなにも言わなかった。
「ただ、婚約したからどうだっていうわけじゃない。俺たちはまだ高校生だし、今年は受験もある。だから、結婚なんてまだまだ先の話。でも、俺は菜緒を自分の手元に置いておきたかったから、だから婚約した」
「直哉」
「なに、父さん?」
「おまえが決めたことに、父さんも母さんもなにも言わない。ただ、ひとつだけ注文をつけておく。絶対に、泣かせるな。いいな?」
「もちろん」
 直哉は大きく頷いた。
「そうか。直哉もついに年貢の納め時か」
「その言い方だと、なんか嫌々みたいに聞こえるけど」
「そういう意味じゃない。やはり収まるところに収まったってことだ。直哉は父さんが知らないとでも思ったのか?」
「いや、いくら鈍い父さんでも、それくらいは気付いてるとは思ってたけどね」
「鈍いは余計だ」
「菜緒ちゃん。ちょっといいかな?」
 それまで沈黙を保っていた千尋が、菜緒に声をかけた。
「はい」
 千尋は菜緒を連れてリビングを出た。
「最後のけじめをつけるのね」
 雪恵はそう呟いた。
 そこまではわかっていない和哉は首を傾げた。
「座って」
 場所を千尋の部屋に移したふたり。
「まずは、おめでとう、菜緒ちゃん」
「ありがとうございます、千尋さん」
「これで菜緒ちゃんに『お義姉ちゃん』て呼んでもらえそう。ひとつ、夢がかなうかな」
 千尋はそう言って微笑んだ。
「最初からわかってたことなんだよね」
「えっ……?」
「なおくんが菜緒ちゃんを選ぶってこと。なおくん、本当に菜緒ちゃんのこと、大切に想ってたからね。確かになおくんは私のことも大切に想ってくれてたけど、それ以上に菜緒ちゃんを想ってたからね。私にとって、なおくんはすべて。これは今でも変わらない。それにその想いは菜緒ちゃんにも負けないって信じてる。でも、私たちは姉弟だからね。どんなに相手のことを想っていても、最終的に結ばれることはないから」
「千尋さん……」
「菜緒ちゃんにはね、私の分もなおくんに幸せにしてもらってほしいの。なおくんを任せられるのはやっぱり、菜緒ちゃんしかないから」
 千尋はそう言って笑うが、その目には涙がたまっていた。
「昨日あれだけ泣いたのに、まだ涙が出てくるなんて」
 泣き笑いの千尋。
「菜緒ちゃん。なおくんと一緒になったら、覚悟しといた方がいいわよ。姑よりも小うるさいのが何人もいるから」
「はい」
 菜緒ははっきりと頷いた。
「話はそれだけ。もうなおくんのところに戻ってもいいわよ」
「わかりました」
 菜緒はそう言って部屋を出ようとする。
「菜緒ちゃん。なおくんをよろしくね」
「はい」
 菜緒は精一杯の笑顔で答えた。
「……ここまで未練がましいとは思わなかったな」
 菜緒が部屋を出ると、そう呟いて、声を殺して泣いた。
 菜緒がリビングに戻ると、晋也と美緒が来ていた。
「あっ、お父さん、お母さん。どうしてお父さんたちが?」
「俺が今呼んできた。ちゃんと報告しないといけないからな」
「簡単には直哉くんに聞いた。菜緒もちゃんと報告してくれるな?」
 晋也は菜緒に優しく声をかけた。
 菜緒は小さく頷いた。
「私、直哉と婚約しました」
 そう言って指輪を見せた。
「よかったわね、菜緒」
「うん」
「倉澤さん。これからも菜緒のこと、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ」
 和哉と晋也はがっちりと握手を交わした。
「こういうめでたい時には──」
「もちろん酒、ですな」
「今日はうちでやりましょう」
「じゃあ、うちからも秘蔵の酒を持っていきましょう」
 もう和哉たちの心は宴会に向いていた。
 四人は会場を杉村家にして、さっそく移動した。
「父さんも母さんも、あんまり明日に影響しなけりゃいいけど」
「そうだね」
 ふたりだけになったリビング。
 どちらからともなく抱き合った。
「菜緒……」
「待って。先に、シャワーを浴びさせて。直哉には、綺麗な私を見てほしいから」
「わかった」
 それから直哉が先にシャワーを浴び、菜緒があとに入った。
 ふたりの、ふたりだけの時間は、これからである。
 
「…………」
 直哉はベッドに座り、菜緒を待っていた。
 裸のまま待っているのもスースーしてイヤだったので、トランクスだけは穿いていた。
 果たしてどのくらいの時間が流れたのか。
 それはほんの五分くらいだったかもしれない。しかし、直哉にはそれが十分にも二十分にも感じられた。
「こんなに緊張するなんてな」
 直哉は階段を上がってくる足音に呼応するように、自分の緊張感も高まっていくのを感じていた。
 足音が、部屋の前で止まった。
 わずかな沈黙のあと、ドアは開かれた。
「…………」
 直哉は無言で菜緒を迎えた。
 菜緒は、バスタオルを体に巻き付けているだけだった。
 後ろ手にドアを閉める。
 しっとりと濡れた髪に、上気した肌がなんとも艶っぽかった。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 菜緒は、少し冗談めいた口調で言った。
「新婚初夜じゃないんだから、そんなこと言うなよ」
「だって、言ってみたかったんだもん」
 菜緒も直哉の隣に座った。
「それに、似たようなものでしょ?」
「まあな」
 直哉は苦笑した。
「正直、どう思ってる?」
「少しだけ、怖いかな」
「怖い、か」
「怖いって、ふたつの意味があるんだよ」
「ふたつ?」
「ひとつはそれ自体に対する怖さ。もうひとつは、今以上に直哉を好きになってしまって、そのことに溺れてしまうんじゃないかっていう怖さ」
「……それを冷静に判断できてるなら、大丈夫だ。溺れることはない」
「そうだね」
 顔を見合わせ、微笑んだ。
「…………」
「…………」
 一瞬の沈黙。
「菜緒……」
「うん……」
 頷きあい、キスを交わす。
「……ん、ん、む……」
 すっかりキス魔になっている菜緒は、自分から直哉の唇を求める。
「はあ……」
 唇を離すと、悩ましげな声で息を吐いた。
 直哉は、菜緒をベッドに横たわらせ、バスタオルを取った。
「っ!」
 一瞬菜緒の体が強ばった。
「すごく、綺麗だ。触れるのを躊躇われるくらいにな」
「そんなこと言わないで。直哉に、触れてほしい」
「ああ、わかってる」
「あっ、ん……」
 直哉は、菜緒の胸に手を伸ばした。
「菜緒の胸、柔らかくて、気持ちいい」
「ん、あふぅ……直哉のために、んん、大きくなったんだよ」
 菜緒は、わずかずつ押し寄せてくる快感の波を感じつつ、直哉に答えた。
 直哉は、胸を最初は撫でるように、次第に少し力を込めて揉む。
 もともと敏感な菜緒は、直哉に触れられているということと、恥ずかしさとでいつも以上に敏感だった。
「んふぅ……頭が、ジンジンしてきちゃう、あん」
「もっともっと感じていいんだぞ」
「うん……はんっ、ああっ」
 直哉が触れる度に、菜緒はぴくんぴくんと反応した。
 直哉は、手のひらに固くなった突起を感じた。
 それを確かめると直哉はまず、指で少しつまんだ。
「んあっ!」
 菜緒は確実に反応する。
「痛かったか?」
「う、ううん、大丈夫……すごく、感じちゃっただけだから」
「そうか」
 直哉はこの期に及んでも壊れ物を扱うように菜緒に触れていた。
 もう一度指でつまむ。
「んくっ!」
 やはり菜緒は、敏感に反応した。
 今度は突起を舌の上で転がす。
「ひゃうっ、んんっ、ああっ」
 菜緒はさらに敏感に反応した。
 ちろちろと舐めるだけで、菜緒は甘い吐息を漏らした。
「あふぅ、っく、ふあぁ……」
 快感の波が、菜緒を覆う。
「いやいやいや、あっ、んあっ……んんーっ!」
 連続で舐め上げ、最後に吸い付くと、菜緒は軽く達してしまった。
「はあ、はあ、はあ……」
 菜緒はうつろな瞳で天井を見つめている。
「胸だけでイったな。やっぱりおまえは敏感だよ」
「はあ、それは、直哉が触れてるから、だよ。直哉に触れられてるって思うだけで、どんどん感じちゃう……」
「それでいいんだ。俺をもっと感じてくれ。俺は菜緒に気持ちよくなってもらいたいんだから」
「うん……」
 直哉ははじめての菜緒に必要以上の負担をかけないように、インターバルを置いた。
 少し落ち着いたところで、今度は菜緒の秘所に触れた。
「いや、ダメ、んあっ」
 さすがにこれには菜緒も抵抗したが、すでに直哉の手は秘所に触れていた。
 菜緒の秘所は、すでに濡れていた。
「おまえ、ひとりでしたりしてたのか?」
「えっ……?」
「だから、ひとりエッチをしてたのかって」
「……と、時々、ね。あっ、で、でも、そんなにしょっちゅうしてたわけじゃないんだよ。どうしてもせつなくなった時とか、だけだから」
 恥ずかしさからか、菜緒は少し身をよじった。
 すると、秘所からは蜜が少しあふれてきた。
 直哉はそれで、菜緒は言葉でも感じるのだと判断した。
「どこでしてたんだ?」
「……へ、部屋でだよ。勉強してる時とか、ベッドに入ったあとにとか」
 普段なら絶対に言わない、言えないことを、菜緒は多少躊躇いながらも言う。
「いつも、誰を想ってしてたんだ?」
 直哉は少し意地悪く訊ねた。
「……な、直哉のことを想って。そう思っただけで──」
 じわっとさらに蜜があふれてきた。
「濡れてくるんだな?」
 こくっと頷いた。
「これからはそんなことしなくてもいいんだからな。俺を求めたくなったら、いつでも言えばいい。その代わり、俺もおまえを求めるけどな」
「うん、いいよ」
「ホントにカワイイ奴だよ、菜緒は」
 直哉は菜緒の髪を優しく撫でた。
「ん、ふぅ〜ん……」
 菜緒は甘えるような声でそれに応えた。
 直哉は再び秘所に触れた。
「んんっ」
 さっきよりもだいぶ蜜があふれていた。
 直哉は秘唇を軽くなぞった。
「あふぅ、んあっ……くぅん」
「気持ちいいか?」
「う、うん、気持ち、あんっ、いいよ」
 押し寄せてくる快感の波が、菜緒を確実に大胆にしていた。
 あとからあとからあふれ出てくる蜜で、直哉の指はすっかり濡れていた。
 丹念に秘唇をなぞり、菜緒をさらなる快感の世界へと誘う。
「んんっ、ああっ、くふぅ」
 絶え間なく漏れる菜緒の甘い声。それは甘くせつなく官能的だった。
 直哉は秘唇を両側に広げ、その中をあらわにした。
 そこは綺麗なピンク色で、前人未踏であることがそれでも確かめられた。
 わずかに動いているそこに、直哉は指を添えた。
「はぁん……」
 それだけで菜緒は、せつない声を上げた。
 そして直哉は、そのまま指を挿れた。
「あっ、うっ、くっ……ああっ、んんっ」
 ほんのわずかしか挿れていないにも関わらず、菜緒の中は直哉の指をきゅうきゅうと締め付けた。
 菜緒の中は、指だけでもかなり狭いとわかる。
 直哉はそのつらさを少しでも軽減できればと、中で動かした。
「あっ、い、いや……な、なんか、変な感じ、あんっ」
 中からの刺激は、菜緒に新たな快感を与えた。
 指で中を刺激しつつ、直哉はすでに限界までふくれている最も敏感な部分に触れた。
「痛っ!」
「わ、悪い」
 強すぎる快感に菜緒は耐えられず、声を上げた。
 直哉は今度はゆっくりと焦らずにそこに触れた。
「んくっ、あああっ、だ、ダメダメ、そんなに、んんっ」
 指の腹を使ってゆっくりと撫でるように触れた。
 それだけでも相当の刺激があるはずである。
「い、いやぁ、も、もう……い、くぅぅぅっ!」
 菜緒は再び達した。
 達した瞬間の菜緒の締め付けはかなりのものだった。
 止めどなくあふれ出てくる蜜。菜緒は、すでに直哉を迎え入れる準備を整えていた。
 直哉は、立て続けにならないように、やはりインターバルを置いた。
「はあ、はあ……」
 優しく抱きしめ、キスをした。
「直哉……お願い、私を直哉だけのものにして……」
「ああ……」
 直哉は小さく頷くと、トランクスを脱いだ。
 すでに直哉のモノは限界まで怒張している。先端には透明な液があふれている。
「我慢できなかったら言えよ。無理することはないんだからな」
「うん、でも、大丈夫だよ。直哉のなんだから」
「菜緒……」
 直哉は、興奮からいきなり挿れてしまうのをなんとか抑えた。
 自分のモノを、菜緒の秘所にあてがった。
「っ!」
 菜緒の体が強ばった。
「力を抜け。そんなに力んでると、余計につらいぞ」
「う、うん……」
 頷きはするが、どうにも上手く力が抜けない。
 しかし、これ以上焦らすのも問題だった。
「いくぞ」
 直哉はもう一度菜緒に確かめ、半分ほど挿れた。
「いっ……くあぁっ!」
 菜緒の中はやはりかなり狭く、挿れてる直哉の方も痛いくらいだった。
「はあ、はあ、ぜ、全部、入ったの……?」
「まだだ。もう少し力を抜かないと、本当につらいぞ」
「で、でも……くっ」
 わずかに動くだけで、菜緒は苦痛の声を上げた。
 直哉は多少無理な格好で菜緒を抱き寄せ、キスをした。
「ん、はん……」
 キスをすると、菜緒は自分から直哉を求めた。もうこれは反射だった。
 すると、全身から無駄な力が抜けた。直哉はその時を見逃さず、一気に腰を落とした。
「ぁっ……っ!」
 菜緒は、声にならない声を上げた。
 痛みから目には涙がたまり、ふたつの筋を作っていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
「よくがんばったな」
 直哉はねぎらいの声をかけた。
「や、やっと、直哉と、ひとつになれたんだね?」
「ああ、そうだ」
「嬉しくて、涙が出ちゃうよ……」
 直哉は、そっとその涙を拭いた。
「直哉はいつも優しいけど、今日はいつも以上に優しいね」
「特別だよ、今日は。もうこんなに優しいことはないかもしれないぜ」
「それでもいいよ。あとにも先にも、この優しさは私だけのものだもん。ほかの誰に対してのものじゃなく、私のものだから」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「……心配するな。ちゃんと時々は甘えさせてやるから。その時はいつもより優しいぞ」
「うん」
 直哉は、優しく髪を撫でた。
「ここまで優しくしてくれたんだから、あとは直哉の好きなようにしていいよ」
「わかった」
「んっ……んくっ」
 直哉はゆっくりと腰を動かした。
 できるだけ菜緒に負担をかけないように、ゆっくりと。
 狭さは菜緒にとってはつらさでしかないが、直哉にとっては快感だった。
「くっ……」
 直哉はできるだけ気持ちを高ぶらせないように深呼吸しながら、動かしていた。
「あっ、んんっ、くふぅ」
 菜緒の中にじわっと潤滑油が出てくるのとほぼ同時に、菜緒から苦痛の色が消えていった。
 それは直哉にもすぐにわかり、少し速く動かしはじめた。
「あぅ、んんっ、あっ、あっ、あっ……はあん」
 菜緒も、次第に快感に酔ってくる。
 腰をぎこちなく動かし、自ら快感を得ようとする。
「あっ、んんっ、きちゃう、きちゃうよっ」
 直哉を求め、思い切り抱きしめる。
「お、お願い、一緒に」
「あ、ああ」
 直哉も堪えていたのを一気に解放し、本能のままに腰を動かす。
「あくっ、いいっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、んんっ」
 菜緒にも限界が近づいていた。
「あっ、い、いやっ、んんっ、くぅん、ああっ、直哉、直哉、わ、私っ」
「お、俺も、もう」
「あんっ、全部、私に、んっ……いっ、んああああっ!」
「菜緒っ!」
 菜緒が達するのと同時に、直哉は白濁液をすべて中に放った。
「ああぁ……」
 菜緒は自分の中を満たしていく快感に酔いしれていた。
「はあ、はあ……」
 直哉は菜緒に覆い被さるように力尽きている。
「これで、心も体も直哉のものになれたんだよね?」
「ああ。おまえは、俺だけのものだ」
「うん」
 もう一度キスを交わす。
 ふたりがまわしはじめた歯車は、もう止まることはないだろう。
 
「明日、学校行けるかな?」
「さあな。いざとなったら休むってのもありだろうけどな」
「足腰が立たなくなるなんて、ちょっとびっくり」
「ふふん、菜緒があんなに乱れるとはな」
「だ、だって、すごく気持ちよかったんだもん……」
 菜緒は消え入りそうな声で言う。
「別に悪いことだとは思ってない。俺だっておまえに感じて気持ちよくなってもらいたかったんだから」
 直哉はそう言ってフォローする。
「しかし、いきなり三回はきつくなかったか?」
「してもらってる時はそうでもないけど、終わったあとは、ちょっとね」
「ったく、これからいくらでもできるんだからさ」
 直哉はニヤッと笑った。
「……毎日でも?」
 菜緒は、少し俯き加減に訊ねた。
「おまえが望むならな」
「……いつでも?」
「ああ。ただ、さすがに場所はわきまえないといけないけどな」
「うん、そうだね」
 菜緒は嬉しそうに微笑んだ。
 直哉は菜緒の髪を撫でながら、少し考え事をしている。
「なにを考えてるの?」
「ん、このままおまえを抱き続けたら、いつかは子供ができちゃうんだろうなって」
「こ、子供……」
「やっぱり、ちゃんと考えないといけないよな。俺たちの都合だけをおしつけるわけにはいかないからな、命が関わってるんだから」
「そう、だね」
「高校を卒業したって、養っていくだけの稼ぎなんてえられないからな」
「……ても、直哉との子供だったら、産んで育ててもいいかな。たとえ大変でも」
「菜緒……」
「でも、やっぱりそういうところのけじめはつけなくちゃダメだよね」
「けじめ、か」
 直哉は神妙な面持ちで頷いた。
「そういえば、直哉」
「ん?」
「秘密って言ってたことの最後、まだ教えてもらってないよ」
「ああ、そのことか。ま、実際は秘密ってほどのもんでもないんだけどな」
 もったいぶった言い方をする。
「夏休みにさ、ふたりだけでどこか海のあるところへ行きたいと思ってさ」
「えっ、ふたりだけで?」
「ああ。ほんの二、三日でも行けたらいいと思って。ただ、仮にも俺たちは受験生だから、そのあたりのことも考慮しないといけないけどな」
「行きたい。直哉とふたりだけで海に行きたい。二、三日くらい大丈夫だよ」
「なら、行くか?」
「うん」
「ただし、それのせいで俺の勉強が遅れるかもしれないけどな」
「大丈夫。私が責任を持って教えるから。一日十時間でも二十時間でもね」
「そ、それは勘弁してくれ。頭がいかれる」
「ふふっ、それは冗談だけど、みっちり教えてあげるよ」
 菜緒はそう言って笑った。
「来年の私の誕生日は、どうしてるのかな?」
「やっぱりこんな状況なんじゃないか?」
「そうだね。それが一番安心できる」
「菜緒の誕生日はいろいろな意味で大切な、重要な日になりそうだな。いっそのこと、全部七月七日にあわせるか?」
「ヤだ」
「なんでだよ?」
「だって、結婚式は六月がいいんだもん」
「ったく、贅沢な奴だな。そんなにジューンブライドがいいのか?」
「憧れだもん」
「憧れの一言で片づけられるのもなんだかな」
 直哉は半ば呆れている。
「でも、これでまた一歩、私の夢に近づいたんだよ」
「一歩どころか、十歩くらい進んだんじゃないか?」
「そうかもしれないけど、とにかく進んだことに変わりはないんだから」
「ま、別になにが変わるわけじゃないけどな」
「そうだね。あっ、じゃあ、呼び方を変えようか?」
「呼び方?」
「うん。たとえば直哉のことを『ダーリン』とか『あなた』とか呼ぶの」
「やめろやめろ、絶対にやめろ」
「どうして?」
「まず、恥ずかしい。それに、そんな風に呼ばれても俺が呼ばれてるって感じがしない」
「そうかなぁ、結構いいと思うんだけどな。じゃあさ、昔みたいに『なおくん』て呼ぼうか?」
「それも却下。おまえに呼ばれてるのか姉さんに呼ばれてるのかわからなくなる」
「う〜ん」
「んなこと真剣に悩むな。今まで通りに呼んでればいいんだよ。無理して変えることはない」
「そうだね。それに、自然に変わるよな、そういうのって」
「さあな。俺は一生おまえのことは『菜緒』って呼ぶだろうけど。今までもずっとそうだったからな。すっかり染みついている。今更変えるのは不可能だろうな」
「私は大丈夫だよ。どんな風にも呼べるよ」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「あっ、そうだ。忘れてた」
 直哉は突然なにかを思い出したらしく、ベッドを出て机をあさった。
「どうしたの?」
「もうひとつのプレゼント」
「プレゼント?」
「おっ、あった」
 引き出しの中から箱を取り出した。
「ほら」
「うん」
 菜緒はそれを受け取り、ふたを開けた。
「あっ、イヤリング。これも直哉が?」
「いや、違う」
「じゃあ、誰が?」
「姉さんの誕生日にネックレスを贈っただろ? そのネックレスを作ってくれた人が、瑞穂先生の友人だっていうのは言ったよな」
「うん」
「で、瑞穂先生とその友人──藤宮千里さんて言うんだけど、ふたりが俺たちにって贈ってくれたんだ。まあ、たちって言う割にはおまえの分しかないけどな」
「そっか、桜井先生が……」
 菜緒は感慨深そうにイヤリングを見ている。
「俺たちのことな、雅美以外の俺に関わった人にはもう伝えてある。雅美にも明日、ちゃんと俺の口から話す」
「けじめ?」
「そうだな。みんな、俺のことを想ってくれてたんだから、せめてそれを裏切るようなことはしないようにしないと、俺はみんなに顔向けできない」
 直哉は少し強い口調で話す。
「あとで考えれば気の迷いってことで片づけてしまうかもしれないけど、少なくとも今は、俺はみんなを心から愛おしいと思ってる。だからこそ、はっきりさせたんだ。俺を想ってくれてるみんなのためにも」
「じゃあ、私たちは、そのみんなの想いの上にいるんだね」
「そうだ。だから、俺はおまえを幸せにする義務がある。もし幸せにできなかったら、すべてを裏切ることになるからな」
「直哉……」
「でも、俺は義務感からおまえを幸せにしたいと思ってるんじゃないからな。俺自身が、俺の意志でおまえを幸せにしたいと思ってる」
「……直哉はひとつ間違ってるよ」
「間違ってる?」
「うん。私を幸せにするって言うけど、私、もう幸せだもん。私は直哉の側にいられるだけで幸せなの。それなのに、直哉と恋人同士になって、婚約もして、抱いてもらって、これ以上の幸せはないよ。これ以上を望んだら、罰が当たるよ」
 菜緒はそう言って本当に幸せそうに笑った。
「もし、それでも足りないんなら、これからも私を離さないでね。そうすれば私はこれからも幸せなんだから」
 直哉はなにも言わずに菜緒を抱きしめた。
 現代の織姫と彦星は、離れ離れになることはない。それは自分の意志で行動しているからだ。なにものにも囚われず、自分の意志で。
 もしそれでなにかあっても、それはすべて自分たちの責任である。だからこそ、幸せになろうと努力する。
 でも、やがて気付く。
 こうしてふたりでいられることが一番幸せなんだと。
 直哉も菜緒も、それに気付いている。
 気付いているなら、よりいっそうの幸せを求められる。
 しかし、新たな幸せを手に入れた時、また気付く。
 その幸せも、最初のふたりでいられるという幸せの上に成り立っていることを。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「もう一回、しよ?」
「なぬっ……?」
「ねねね、いいでしょ?」
「お、おまえなぁ……」
 それでも、まんざらでもない直哉。
 このふたりには、そんな理屈はいらないのかもしれない。
 だって、本当に幸せなのだから。
 
『菜緒へ
 誕生日おめでとう。
 こうして誕生日を迎えたわけだけど、心境はどうだ?
 この手紙を読んでる時にはすべてが終わってるとは思うけど、それでも一応聞きたい。俺としては、おそらく一世一代の大舞台のためにかなりいっぱいいっぱいだろうな。
 それにしても、俺たちもここまで来るのにずいぶんと時間がかかったな。本当はもっと早くに恋人同士になれたはずなのに。そのせいでおまえにはいらん心配もかけさせたし、ほかの連中にも迷惑をかけた。これは、すべて俺がはっきりしなかったからだ。
 だけど、いくらそういうことを言っても時間が戻るわけじゃないから、もう言わない。
 それよりもこれからのことをあれこれ考えた方が、よっぽどいいと思うから。
 本当はいろいろ言いたいこともあるんだが、そういうことは手紙で書くよりも直接言葉にした方がいいと思うから、もう終わりにする。
 最後に。
 待たせた分だけ、おまえのことを大切に、大事にするから。
 だから、ずっと側にいてほしい。
 それが、今の俺の願いだ。
                                     直哉』
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