いちごなきもち、めろんなきもち
 
第八章「いちごなきもち」
 
 一
 六月十日に梅雨入りしたとみられると、気象庁は発表した。ほぼ平年並みの梅雨入りだった。
 今年は梅雨に入ってからも梅雨らしい日が続いていた。どんよりとした雲が空を覆い、強く降るわけではないが、降ったり止んだりを繰り返していた。
 梅雨に入ってから発表された今年の梅雨に関しての気象庁の見解は、梅雨明けは平年並みで、雨量は平年より多いということだった。さらに、梅雨の中休みも今年はあまり期待できないらしい。
 このことが発表されて喜んでいるのは雨具メーカーと、今の時期に雨を必要とする農家、それと雨が好きな人くらいだろう。
 大部分の人は、そのことに気分も沈みがちになる。
 人の気分は天候に寄るところも大きい。晴れていればただそれだけで晴れやかな、清々しい気分になる。反対に朝から雨だと気分までどんよりとし、下手をすれば土砂降りである。
 そんな単純な生き物である人間の典型が、ここにもいた。
「う〜、腐る〜、カビる〜」
 直哉は間断なく落ちてくる雨粒を恨めしそうに見やりながら、今にも本当に腐りそうな声でぶつぶつと文句を言っていた。
「梅雨の時季は学校を休みにしろって」
「なに無理なこと言ってるの」
「菜緒だってそう思わないか? 梅雨なんてジメジメして人のやる気を奪い去っていくだけなんだから。どうせこんな時季に勉強したって身に付かないって」
「それってものすごい自分勝手な意見だと思うけど」
「あう〜、マジで校長に梅雨休みを進言するかな」
「今更そんなことしても意味ないと思うけど。どうせ来年にはここにいないんだから。仮にやるんだとしたら、やっぱり一年生のうちにやっておかなくちゃ」
「う〜、遊んでいた一年の頃が悔やまれるぜ」
 直哉は心底悔しそうに言った。
 しかし、そんなことはどう考えても実現不可能である。梅雨休みの代替として夏休みでも提供しない限り、学校側は絶対に納得しないだろう。そして、どちらかを選べと言われたら大部分は夏休みを選ぶだろう。
 その時点で直哉の計画は破綻する。
「学校を休みにできないんだったら、せめて教室の除湿を行ってくれ。それでだいぶ違うはずだ」
「それはあるかもね」
「俺なんか年中湿度五十パーセントから六十パーセントの部屋で過ごしてるからな。かなりきついぜ」
「贅沢だよ、それ。それにあんまり一定のところにいすぎると、抵抗力が弱っちゃうよ」
「こうして学校に来てるうちは大丈夫だ」
「だったら、このままの方がいいんじゃないの?」
「むぅ、そうなるのか。根本的な問題にぶち当たったな」
 直哉は真剣に考えているが、菜緒は呆れた様子でそれを見ていた。
「そんなことよりも、ちゃんとテスト勉強してるの?」
「ぼちぼちな。単位を落とさない程度にはやるつもりだ。どうせ俺には内申点もそれほど関係ないし」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「まあ、どっちみち、前期はましだろ? 二回で取ればいいんだから。でも、後期は一回しかないからな。それなりに気合いは入れると思うけど。たとえ大学に合格できたとしても卒業できなかったらシャレにもならんからな」
 桜林高校は二期制の高校である。テストは年に四回。六月、九月、十一月、二月である。
 しかし、三年は二月のテストはない。受験でそれどころではないということもあるが、受験のための成績は三年の前期までの成績によるということもあった。
 そのため前期二回のテストはきっちり行われ、後期の一回のテストは多少甘めのテストとなることが多い。それでもそこで赤点を取り、前期とあわせて一定以下だと単位を落とすことになる。
 従って三年にとってテストはどれも大切なのだが、直哉にはそのあたりのことが少しわかっていないようである。
「ま、菜緒にとって学校の定期テストなんて、受験の肩慣らし程度のものだからな。余裕だろ?」
「そんなことないよ。勉強しなければ点数には現れないもの」
「それでも俺よりは点数取れるんだからいいじゃないか」
「直哉だってやればできるのに」
「やらないからできないんだ」
「じゃあ、私と一緒にやらない?」
「やるって、勉強をか?」
「うん」
「……おまえの足手まといになるのがおちだからな」
「そんなことないよ」
「でもな──」
「じゃあ、点数を落とさないって約束するから」
「あのなぁ、おまえの普段の点数から落とさないなんて、そう簡単にできないだろうが」
「そんなの関係ない。やればできるよ」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「ったく、しょうがねぇな。そこまで言われたらやらないわけにはいかないからな」
 直哉はしばし考えて、渋々了承した。
「で、どうするつもりなんだ?」
「私の部屋と直哉の部屋と、交互に使おうよ」
「まあ、いいけど」
「とりあえず今日は私の部屋」
「わかった。帰ったら速攻行くわ」
「どこへ行くって?」
「出たな、年中無休の騒音娘」
「誰が騒音娘よ?」
「じゃあ、騒音ババア」
 雅美の右ストレートが直哉にクリーンヒットした。
「あつつつ、てめぇ、いきなりグーで殴るか、普通?」
「えっ、誰が殴ったって?」
「このクソアマ……」
「なによぉ」
「まあまあ、ふたりとも抑えて抑えて」
 いがみ合うふたりを、菜緒がなんとかなだめる。
「ホントにふたりは仲がいいのか悪いのかわからないね」
「悪いんだろうな、しょっちゅうこんなことしてるんだから」
「違うわよ。喧嘩するほど仲がいいのよ。菜緒と直哉くんだってそうでしょ?」
「さあな。俺たちは最近、喧嘩してないからな」
「あれからは一度もしてないよ」
「へえ、珍しい。ふたりの喧嘩はこの学校の名物だったのに」
「勝手に名物にするな」
「そうだよ、雅美」
「でも、名物に値すると思うけどね」
 雅美は楽しそうに話した。
「って、そんなことはどうでもいいの」
「おまえが勝手に脇道へそらしたんだろ」
「そうだったっけ?」
 しれっと言う雅美。
「ったく、なんの用なんだ?」
「あのさ、テストが終わったらみんなでプールに行かない?」
「おいおい、テストがはじまる前から終わった時のことを考えてるのか?」
「別にいいじゃない。考えるだけはタダなんだから」
「プールって、どこのプールなの?」
「ふふふ、よくぞ聞いてくれました。聞いて驚け見て騒げ。これが今月オープンしたばかりの屋外プール、室内プール両完備、さらに水族館まであるという総合アミューズメント施設、グランサンシャイン、そして、そのフリーパスポートをもらったのだ」
「ええーっ、すごーい」
「……なんだそれ?」
 驚く菜緒に、状況を理解できていない直哉。
「えっ、直哉くん知らないの?」
「ああ、まったく」
「テレビとか雑誌とかで特集されてるでしょ?」
「最近まともに見てないからな」
「とにかく、そういうのが今月一日にオープンしたの」
「そこは理解した。で、それはどうすごいんだ?」
「広大な敷地内に、大小様々なプールがあって、国内でもここにしかないっていうものまであるの」
「どうせウォータースライダーの巨大版とか、流れるプールの改良版なんかだろ?」
「うっ、それは否定できないけど」
「別に物珍しいことなんかなんもないじゃないか」
「あのね直哉、そこの一番の売りは魚を見ながら泳げることなんだよ」
「魚を見ながら? 水槽に一緒に入って泳ぐのか?」
「違うわよ。魚用の水槽とプールが強化ガラスで仕切られてて、そこから見ることができるの」
「ふ〜ん。で、魚の雰囲気を少しでも味わってくれってか?」
「うん」
 菜緒は頷いた。
「ったく、くだらんことを考える奴もいるもんだ」
「でも、連日すごい人出だって言ってるけどね」
「そうなのよ。土日なんかホントマジですごい人なんだから」
「で、おまえはそこのパスポートを持ってるからすごいと?」
「ふふ〜ん、そうよ。なかなか手に入らないんだから」
「どうせおまえが手に入れたんじゃないんだろ? 秀明の時みたいに親がもらってきたのをさらにおまえがもらっただけだろ?」
「うっ、否定できない」
「ったく……」
 直哉は呆れた様子で溜息をついた。
「で、そのパスポートは何枚あって、誰を誘うつもりで、いつ行くつもりなんだ?」
「パスポートは全部で十枚。そのうちの三枚を弟に持っていかれたから、手元にあるのは七枚。誘おうと思ったのはいつものメンバー。行こうと思ったのはテストが終わった次の日」
「テストの次の日って、土曜日だよね」
「そうよ。でも、第四土曜日だから、学校も休みだし」
「いつものメンバーって、アクアランドに行ったメンツか?」
「それしかいないでしょ? あとふたりは呼べるんだけど、誰か呼びたい人、いる?」
「男はいらん。なにを好きこのんでむさい男とプールなんぞに行かにゃならん。秀明だけで十分だ」
「ということらしいけど、菜緒は誰かいる?」
「私はこれといっていないけど」
「そう。じゃあ、理紗と秀明くんの意見も聞いてみるわね」
「理紗には聞くだけ無駄だと思うけどな」
「まあまあ、そう言わないで。ふたりは参加ということでいいわね?」
「うん、いいよ」
「昼飯おごれよ」
「なんであたしがおごらなくちゃいけないのよ?」
「どうせタダなんだから、それくらいしたって罰は当たらん」
「む〜、ジュース一杯」
「ちっ、しょうがねぇな、それで手を打ってやる」
「じゃあ、そういうわけで、ちゃんと覚えといてね」
 雅美は嵐のごとく去っていった。
「雅美、ホントは直哉だけを誘いたかったんだよ」
「だろうな。でも、おまえの手前、とりあえずはみんなで行くことにしたと」
「パスポートも二枚残ってるしね」
「まあでも、行ってる暇なんかないだろうけどな。特に夏休みなんかは」
「受験生だからね」
「それもあるけど、俺はちょっと用もあるしな」
「用って?」
「秘密」
「む〜、また秘密なの?」
「この秘密は最初の秘密の片割れだ。ちゃんとおまえの誕生日には教えるって」
「じゃあ、しょうがないね」
「せいぜい期待して待ってろ」
 そこでちょうどチャイムが鳴った。
「さてと、残りの授業も寝て過ごすか」
「テストが近いんだよ」
「同じだって」
「もう……」
 梅雨の日のひとときだった。
 
 放課後。
 直哉と菜緒は、ホームルームが終わると真っ直ぐ家に帰った。
 直哉は家に帰ると鞄を放り出して制服を着替えた。珍しく持って帰ってきている教科書類を机に出す。その中から数冊を手に取り、筆記用具も一緒に持って部屋を出た。
 玄関の鍵を閉め、勝手口から家を出る。
 雨は小降りだったので、傘を差さずに杉村家へ。
 勝手口にはインターホンはついてないので、ノックをして声を出した。
「こんちはー」
「あら、いらっしゃい、直哉くん」
 ちょうど台所に立っていた美緒が顔を出した。
「菜緒ー、直哉くんが来たわよー」
 二階の菜緒に向かって声を張り上げた。
 すると、二階から足音が聞こえてくる。
 廊下を駆け、階段を下りてくる。
「よお」
「早かったね」
「別になにもすることないからな」
「ふ〜ん、そっか。とりあえず上がって」
 直哉を家に上げる。
「お母さん。用もないのに部屋に来なくてもいいからね」
 菜緒は、しっかりと美緒に釘をさしておく。
「ありゃ言い過ぎじゃないか?」
「いいの。お母さんはあれくらい言っておかないとすぐ口も手も出そうとするから」
 手厳しい菜緒であった。
「むっ」
「どうしたの?」
 階段を上がっていると、直哉が声を上げた。
「いや、なんだな、見えてるぞ」
「えっ……?」
 菜緒は、直哉の視線を追っていくと──
「きゃっ」
 慌ててスカートの裾を押さえた。
「家の中だと思って油断してただろ」
 菜緒のスカートはミニスカート。かなりのミニなので、家の階段のような急な階段では見えてしまう。
「でも、見られたのが直哉でよかった」
「なんでだよ?」
「直哉なら正直に見えてるって言ってくれるし、だけど言ってくれたからってなにもしないし。安心できるだから」
「なんか、それって男として悲しいぞ」
「いいのいいの」
 その間に菜緒は階段を上がりきってしまった。
「菜緒。外ではもう少し気をつけろよ」
「うん、わかってるよ。直哉以外には見られたくないしね」
 そう言って菜緒は笑った。
 部屋に入るとすっかり準備は整っていた。
 直哉と同じ時間に帰り着いて、同じだけしか時間が経っていないのに、完璧な準備が為されていた。直哉は内心少し驚きながらも、口には出さなかった。
「直哉はここ」
 そう言ってクッションの置いてあるところに直哉を座らせた。
「で、私はここ」
「おい、なんでわざわざ隣に座るんだ?」
「だって、その方が効率的でしょ? 反対側に座るとわからないところとか教えるのに教科書とかノートとか、逆さまにしなくちゃいけないから」
「そりゃそうだけど、だからってわざわざこんなにひっついてやらんでも」
「いいの」
 菜緒はその一言で直哉の言葉を遮った。
「直哉はなにを持ってきたの?」
「これだけだ」
 そう言って持ってきた教科書をテーブルに置いた。
「英語と数学と化学か」
「現代文と古文、世界史に地理はそれほど問題ないと思ったからな」
「直哉は英語も問題ないでしょ?」
「まあ、ある程度は取れるけど。おまえほどじゃないさ。今までの英語の平均点が九十点以上だからな、おまえは。そんな奴、ほかにいないって」
「普通にやってるだけなんだけどね」
「なら天才なんだよ、姉さんみたいに。天才のマネは凡人には不可能だからな」
「もう、別に特別なんかじゃないよ」
「まあ、んなことはどうでもいい。そうだな、とりあえず数学からやろうぜ」
「うん」
 こうして勉強会ははじまった。
 カリカリとノートに書き込む音と、カチカチという時計の短針の音だけが部屋に響いていた。時々教科書やノートをめくる音もした。
 こういう時は、集中してる時はいい。しかし、一度その集中力が切れると妙にまわりが気になり出す。そして、今の直哉がそうだった。
 わからない問題にぶち当たり、そこで集中力が途切れた。
 すると、隣の菜緒が妙に気になる。
 絶えずペンは動いている。真剣な表情で問題を解いている。
 その横顔は思わず見とれてしまうくらい、凛々しかった。
 ふと視線を下に向けると、その視線を釘付けにするものがあった。
 それは菜緒の生足だった。ミニだからもともとあらわになっているのだが、こうして座っているところを見ると、違う感慨がある。
 直哉は完全にそこから視線を外せなくなっていた。
「……もう、もう集中力切れたの?」
 と、気付いていないと思っていた菜緒は、しっかりと気付いていた。
「あっ、いや、その、なんだな」
 直哉はしどろもどろになりながら弁解しようとするが、無駄だった。
「どこ見てたの?」
「むっ、そ、それはだな」
「どこ?」
 よく見ると菜緒は微笑んでいるのだが、直哉は菜緒の顔を直視できていないため、それには気付かなかった。
「ああーっ、もう、おまえの足を、というか太股を見てたんだよ」
 ついに開き直る直哉。これではまるで子供である。
「ふふっ、気付いてたよ」
「えっ……?」
 思わず間抜けな声を上げる直哉。
「じっと見てたからね。普通は気付くよ」
「…………」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「やっぱり、直哉って根っからのエッチなのかな?」
「な、なんでだよ?」
「なんとなくね、そう思ったの。直哉と喧嘩した時の理由も、そのことが一番多いし。でもだからってそういう直哉が嫌いってことじゃないからね。それが直哉だって思ってるから」
「……なんか嬉しくないな、その表現」
「でも、事実だからね。直哉がエッチなのも、私がそんな直哉を嫌いじゃないのも」
 菜緒はそう言ってすっと目を細めた。
「そんなエッチな直哉も、私には手を出さなかったけどね」
「菜緒……」
「一時期は私に魅力がないんじゃないかって、思ったこともあるんだよ」
「そんなことはない。おまえは十分魅力的だ」
「うん。だから、直哉にどうして私を抱いてくれなかったのか聞いた時、残念な気持ちもあったけど、反面安心もしたんだ。私もちゃんと直哉に女として見てもらってたんだってね」
「……おまえみたいに女らしい女は、そうそういないだろ」
 直哉はそう言って菜緒の肩を抱いた。
「この髪だって」
 髪に触れ──
「この胸だって」
「きゃっ」
 胸に触れ──
「この腰や太股だって」
 腰や太股に触れた。
「そういうところは、少し自覚してもいいと思うぞ」
「……そうだね」
「でもまあ、俺と一緒にいればそれをイヤでも思い知らせてやるよ」
「なにするつもりなの?」
「別に特別なことなんかなにもしないさ。そうだな、たとえば、ちょっと大胆な水着でも着て海にでも行けば、少しはわかるんじゃないか。男どもの視線を集めるぜ」
「確かにそれだとわかるかもしれないけど、そういうのイヤだなぁ」
「ははは、本気にするなって。俺がそんなもったいないこと、するわけないだろ? ほかの男どもにおまえの体を見せるなんて、もったいなくてできるわけない」
「そ、そこまで言ってくれなくても……」
「いや、おまえは俺のものだからな」
「直哉……」
「そうだろ?」
「うん、そうだよ。私は直哉のものだよ」
 菜緒も直哉にそう言ってもらえて嬉しそうに微笑んだ。
 それはもちろん菜緒が望んでいたこと。だからこそ、それを直哉に、しかもまだ抱かれてもいないのにそう言ってもらえてなおさら嬉しかった。
「さてと、続きをやるか」
「うん。でも、その前に」
「ん?」
「キス」
「ったく……」
 直哉は悪態をつきながらも、嬉しそうに菜緒にキスをした。
「さ、がんばろ」
 直哉のキスひとつで元気になる菜緒を現金だと思いながらも、それもいいかなと思えて、そう思ってる自分がおかしくもあった。
 そのおかげか、そのあとの勉強はだいぶはかどった。
 
 前期中間テスト二日前。
 学校は土曜日ということで午前中で終わり。直哉はここ二日間続けている菜緒との勉強会をする、つもりだった。
「はあ……」
 直哉は部屋の状況を見て、盛大な溜息をついた。
 ここは直哉の部屋。そこにいるのは、部屋の主である直哉。勉強会なので菜緒。たまたま家にいた千尋。そして、たまたま家に遊びに来ていた綾奈。
 その四人がテーブルを囲んでいた。
 もちろん雰囲気は、重い。
 千尋と綾奈がそこにいるのはもちろん勉強を見るため、という建前で直哉と菜緒を監視するためである。
「はあ……」
 三人の顔を代わる代わる見て、また溜息をついた。
 直哉はまったく勉強が進んでいない。
「なおくん、わからないところない?」
「今のところはね」
「あったら遠慮なく言ってね」
 誰かひとりが直哉に声をかけると、残りふたりの動きがはたと止まった。
 一挙手一投足に注意を払い、なにかあった時には──
「……あのさ」
『なに?』
 三人の声が見事に重なった。
「もう少し自然にできないかな? なんか三人とも妙にお互いを意識してて、見てる俺の方がやりにくいんだけど」
「自然にって言われても──」
「別に不自然にしてるわけでもないし──」
「普通だと思うけど」
 三人はそれぞれを見てそう言う。
 直哉は改めて理解した。この三人に、少なくとも今は普通の理屈は通用しないと。
 仕方なしに勉強を再開する。
「あっ……」
 と、直哉が声を上げた。
 すると、三人が敏感に反応した。
 直哉の方を三人とも凝視している。
「……わからないところがあるんだけど」
 直哉は遠慮がちにそう言った。
「どこ? どこがわからないの?」
 一番早く反応したのは綾奈だった。出遅れたふたりはかなり悔しそうである。
「ここなんだけどさ」
「ん〜、これはね」
 綾奈は嬉々とした表情で直哉は教えている。
 必要以上に直哉の方に乗り出しているのは、まあ、気合いの証だ。
「ああ、なるほどね」
「わかった?」
「わかったよ。ありがとう、綾奈姉さん」
「ううん。わからないことがあったら、どんどん言ってね」
 満足そうな綾奈。
 それからしばしは、直哉も極力三人を気にしないように勉強に集中した。しかし、そんな付け焼き刃的な集中力など長くは続かない。
 というより、今の直哉にとってこの部屋は、精神衛生上非常によくなかった。
「だあーっ、もうダメだ」
 直哉はついにギブアップした。
「こんな状況じゃまともにできない」
 別に悪気があってそんなことを言ってるわけではないが、どうしてもそんな言葉になってしまう。
「直哉」
「ん?」
「もうやめる?」
「少し休もうぜ。それからまた考える」
 とりあえず直哉は休憩を提案した。
「じゃあ、お茶でも淹れてくるわね」
「あっ、ちーちゃん、あたしも手伝う」
 千尋と綾奈は、そう言って部屋を出て行った。
「もう、ホントに精神的によくないよ、これ」
「全然進んでないね」
 菜緒は直哉のノートを見て呟いた。
「菜緒もさ、そんなに張り合うなよ」
「別に張り合おうなんて思ってないけど、ついね」
「来たのが綾奈姉さんだったのも状況を悪化させたよな。麗奈姉さんだったら、もう少し穏やかに進んだだろうけど。やっぱり当初の予定通り、おまえの部屋でやればよかったかな?」
「私にはなんとも言えないけど。でも、千尋さんも綾奈さんも、直哉に真剣に教えようって気はあるみたいだから」
「そりゃな。いくら建前がそれだって言っても、本音ばかりすることはできないだろうからな」
 直哉はそう言って溜息をついた。
「せめてもう少し雰囲気がいい方に変わればな」
 それが今の直哉の切なる願いだった。
「お待たせ」
 そこへ千尋と綾奈が戻ってきた。
「あやちゃんがヨウカンを持ってきてくれたから、緑茶にしたよ」
 それぞれの前に湯飲みとヨウカンの乗った皿を並べた。
「んじゃま、さっそく」
 直哉はヨウカン一切れをそのまま一口で。
「おっ、このヨウカン、旨い。砂糖は黒砂糖を使ってて、小豆もいいのを使ってるみたいだし。なんと言ってもこのこしあんが最高だね。しつこい甘さじゃなくて、すーっと引くような甘さ」
 さすがは和風好きの直哉である。味の評価も堂に入っている。
「こういうのを食べると、日本人に生まれてよかったって思うよ」
 直哉が上機嫌になったことで、部屋の雰囲気も少し変わった。
「ホント、美味しい。これ、どこで買ってきたの?」
「さあ? 今日こっちへ行くって言ったらお母さんが持たせてくれたから」
「う〜ん、これは是非ともおばさんに聞いておかないと」
「いくら夏奈おばさんでも、ヨウカンまでは作らないよね?」
「ううん、前に作ってたことあるよ。ただ、小豆のいいのがなかなか手に入らないからってやめちゃったけど」
「ひょっとしたら、おばさんが作ったのだったりして」
 千尋は冗談めかしてそう言った。
 真相は、創業百五十年の老舗和菓子屋のヨウカンである。
「洋菓子は比較的作るのは簡単だけど、和菓子は大変だからね」
「そうだね。料理が得意な人でも、なかなか和菓子にまでは手がまわらないみたいだから」
「和菓子を作れる人か。いたらいいだろうね」
 直哉のなにげない一言が菜緒たちに届いてしまった。直哉も言ってからしまったと後悔した。しかし、時すでに遅し。三人は決意していた。和菓子を作れるようになろうと。
 なまじ三人とも料理の腕が確かなために、かなり気合いが入っていた。
 直哉はそれにできるだけ気付かないふりをしてヨウカンを平らげ、お茶を飲んだ。
「ふう、ひと息ついたし、続きをやろうかな」
 直哉はそう言ってさっさと勉強を再開した。
 三人はまだヨウカンもお茶も残っている。
「そういえばさ、綾奈姉さん」
「なに?」
「この前のあれ、どうなったの?」
「ああ、あれのことね。なんとか上手くいったけど」
「そうなんだ」
「直哉ちゃんのおかげだよ」
「別に俺はなにもしてないよ。聞かれたことに答えただけなんだから」
「ねえ、なんのこと?」
 状況を理解できていない菜緒と千尋。
「この前、姉さんに頼まれたんだよ。男子高校生の意識調査っていうのを。で、俺がうちのクラスの連中に強制的に答えさせて姉さんに送ったんだ」
「直哉ちゃんのおかげで、一番信頼性のおけるレポートを完成させることができたわけ」
「ふ〜ん、そんなことしてたんだ」
「そっか、だから直哉、みんなになにかさせてたんだ」
「まあな」
「だから今度直哉ちゃんにお礼しないといけないんだけど──」
「謹んで辞退します。別にお礼のためにやったわけじゃないからさ」
「という具合なの。せっかく直哉ちゃんと──」
「なおくんと?」
 千尋の目が座っている。
「あ、あははは、なんでもないよ、ちーちゃん」
「そう? ならいいけど」
 雰囲気が変わっても一触即発の状態は変わらなかった。それでも直哉の方にそれを静観できるだけの余裕が生まれていた。
 それからしばらく、はちゃめちゃ勉強会は続いた。
 
「ちーちゃんに聞いたよ」
 綾奈は唐突に切り出した。
 今、直哉は綾奈を駅まで送っている。
「なにを?」
「いろいろとね」
「いろいろね」
 直哉は思わず苦笑した。
「で、聞いてみての感想は?」
「ちょっと残念だけど、わかってたことだからね。わかってた上であたしも直哉ちゃんを求めたんだから」
「まあ、そのことに関して俺が言えることはなにもないけどさ。それでもあえて言うなら、姉さんたちの想いを踏みにじるようなことだけはしないよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、これからはあんまりあたしたちに気を取られてるわけにはいかないでしょ? 一番大切な人のために、そういう想いは取っておかなくちゃ」
 綾奈はそう言って微笑んだ。
「……大丈夫だよ。俺の菜緒への想いは特別だからね。姉さんたちの想いに応えるくらいじゃ、ビクともしないよ」
「ふふっ、ずいぶん言うわね」
「天秤にかけることはできないけど、でも、想いの強さには多少の違いはあるからね」
「じゃあ、あたしは何番目にいるの?」
「秘密」
「お姉ちゃんより上?」
「秘密」
「もう、少しくらい教えてくれてもいいのに」
「知ってどうするわけ? 上にいる人を片っ端から殺していくの?」
「ああ、それもいいわね」
「ったく、別に俺は順番なんかつけてないよ。ただ、一番が菜緒だっていうだけ」
「本命菜緒ちゃん、対抗六人か」
「そこまで聞いたの?」
「だから言ったでしょ? いろいろ聞いたって」
 微笑む綾奈。
「なら、ついでに言っておくけど、姉さんとのことさ、母さんにバレてるよ」
「雪恵おばさんに?」
「ああ」
「そっか。じゃあ、お母さんにもバレてるね」
「だろうね。もしおじさんにバレたら、殺されるかな、俺?」
「どうかな。確かにお父さん、あたしたちのこと溺愛してるけど、直哉ちゃんのことも実の息子のように可愛がってるからね。それほどでもないと思うけど。どっちみち、お母さんが言わない限り、お父さんにはバレないと思うけどね」
「男親の悲しい性だね」
 直哉は苦笑した。
「そうだ、直哉ちゃん」
「ん?」
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
「別にいいけど。こんな時間にどこへ行くの?」
「いいところ」
 そう言って綾奈は駅とは違う方へ歩き出した。
「でも、姉さんがこのあたりのことを知ってるなんてね」
「う〜ん、ちょっとね。ある人から聞いたんだ」
「そうなんだ」
 すでに夜のとばりが落ち、住宅街のこのあたりには人っ子ひとり歩いていない。
 時間的にもそこそこ遅い時間なので、賑やかな家族団らんの声も聞こえてこない。
 綾奈が先に立ち歩きはじめて十五分ほどが経った。
「……このあたりは」
 地元住民の直哉は、そこがどこなのかすぐにわかった。
「なんか、イヤな予感がするんだけど」
 直哉の声に、綾奈はただ微笑むだけだった。
 程なくしてふたりがやってきたのは──
「……帰る」
 と、直哉が思わず言うところだった。
 どこかというと、以前麗奈とやって来たあの公園だった。
「ダ〜メ。絶対に帰さないからね」
 綾奈は直哉の腕をかっちりとつかみ、逃がさない。
「ねえ、なんでこんなとこに来たのさ?」
「それはもちろん──」
 綾奈は直哉の手を取り──
「直哉ちゃんに抱いてもらうためだよ」
 そう言って自分の胸に当てた。
「あのさ、姉さん。なんでここなの?」
「お姉ちゃんと同じ場所でしてほしくて」
「張り合ってるの?」
「そうじゃないけど。でも、やっぱりそうなのかな?」
「もし張り合ってるだけなら──」
「ううん、それだけじゃないよ」
 綾奈は首を横に振った。
「あ、あのね、あの日から、直哉ちゃんに抱いてもらった日から、時々……」
 綾奈はそこで真っ赤になって俯いた。
「直哉ちゃんのことが忘れられなくて、その、ひとりでしちゃうの。でも、一時的に欲求は満たされても、それ以上にせつなくなっちゃって……」
「姉さん……」
「お願い。あたしを抱いて。イヤらしい女だって思ってもいい。心も体も、直哉ちゃんを求めてるの」
「…………」
 直哉はなにも言わずに綾奈を抱きしめた。
「よっと」
「えっ……?」
 と、直哉は綾奈を抱き上げた。
「な、直哉ちゃん?」
「見た目より軽いんだよね、姉さんは」
「もう、見た目よりは余計だよ」
 綾奈はそっと直哉の首に腕をまわした。
「千尋姉さんに言われたんだけどね」
「なにを?」
「何度も抱かなくていいんだからって」
「直哉ちゃん、ひょっとしてちーちゃんと──」
「……そうだよ。抱いたよ。世間的には近親相姦だね。法律でも認められてないし。でも、俺にも姉さんにもそんなの関係ない。俺は姉さんが好きだし、姉さんも俺を好きでいてくれる。そして、それを確かめる最も有用な方法が、抱くこと──セックスだと思った。それに、姉さんとは約束してたからね」
「約束?」
「すべてに結論を出したら、姉さんを抱くって」
「そうだったんだ……」
「別に俺たちは誰かに認めてもらう必要はないと思ってるからね。どんなにいろんなことを言われても、そんなことくらいで信念を曲げはしない」
「ちーちゃんも幸せだよね。直哉ちゃんにそこまで想われて」
「確かに姉さんに想われてるけど、俺も姉さんのことを想ってるからね。ずっと前から」
 直哉は、言葉をひとつひとつ噛みしめるように言う。
「直哉ちゃんて、いつからちーちゃんのこと好きになったの?」
「姉としては、もう物心ついた時から。ひとりの女性としては、小学校の高学年になってからかな。その頃って性についていろいろ興味が出てくる頃でしょ。それに引きずられる感じで、異性というものを意識して、気付いたら姉さんのことをひとりの女性として好きになってた」
「じゃあ、ちーちゃんはもっと前から直哉ちゃんのこと、ひとりの男性として見てたのかもね」
「その頃の俺の記憶は曖昧だから、そこまではわからないけど。その可能性はあるかも」
 やがて、あの東屋が見えてくる。
「でもね、直哉ちゃんを好きになったのは、あたしだってもうずっと前なんだよ」
「いつからなの?」
「あたしが記憶してる直哉ちゃんとはじめて会った時から、もうずっと。直哉ちゃんは昔から誰に対しても優しかったからね。だから、昔は男の子みたいだったあたしに、ほかの女の子と同じように優しく接してくれて、本当に嬉しかった」
「ほとんど覚えてないけどね」
「そうだよね、小学校の頃だもん。うちはお姉ちゃんがすごく女の子らしい女の子だったから、よく比べられたんだよね。麗奈はお淑やかなのに、綾奈は活発を通り越してじゃじゃ馬だって。そんな言葉に反発すればするほど深みにはまっていくのにも気付かずにね。そんなあたしにとって直哉ちゃんは、従弟という関係以上の男の子だった。その頃のあたしの夢って、なんだかわかる?」
「いや」
「それはね、直哉ちゃんのお嫁さんになること。女の子って結構耳年増だからね。そういう知識だけは持ってたんだ。だから、いとこ同士が結婚できるって知った時は、もう迷わずにそう思った」
 綾奈はそこで一度言葉を切った。
「でもね、直哉ちゃんを好きになったらそれまで見えなかったこと、わからなかったことがわかったの。それは、お姉ちゃんもちーちゃんも直哉ちゃんのことが好きだってこと。接し方、言葉遣いでわかっちゃうんだよね。ほかの人と接する時と明らかに違うもん。それは当然だよね。好きな人には自分を少しでもよく見てもらいたいし、好きな人のためになんでもしてあげたい。そう思うもの」
「……着いたよ」
 ふたりはあの東屋へやって来た。
「今でも直哉ちゃんにはあたしを少しでもよく見てもらいたいと思ってるし、なんでもしてあげたいと思ってる」
 直哉は、綾奈を東屋内のベンチに下ろした。
「だから──」
 綾奈はそう言うと直哉の前に膝をつき、ベルト外し、ズボンを下ろした。
「ね、姉さん……」
「お願い。あたしにさせて」
 そして、トランクスから直哉のモノを取り出した。モノはまだ固く怒張していない。
「うっ……」
 綾奈はモノの先端に軽く口づけした。
 そのまま手でしごく。
 モノはそれだけではち切れんばかりに大きくなった。
「ん……む……」
 綾奈はそれを口にくわえた。
 口腔でゆっくりと包み込むように、さらに舌を使って丹念に舐め上げる。
「ぅむ……」
 あまりの快感に、直哉の腰が引けてくる。
「ん……はむ……」
 モノの裏筋から先端の割れ目に沿って舌をはわせる。
「うぅ、き、気持ちいいよ、姉さん……」
「もっともっと気持ちよくなって……ん、む……」
 口に出し入れし、舌で舐める。
 とてもはじめて男のモノをくわえたような感じはしなかった。
「くっ、も、もうダメだ」
 直哉はそう言って綾奈の頭を押さえ──
「っ!」
 大量の白濁液を綾奈の口内に放った。
 綾奈は、それを一滴残さず飲み干した。
「直哉ちゃん、いっぱい出してくれたね」
「姉さんのが気持ちよかったから」
「今度は、あたしを……」
 綾奈は着ていたワイシャツを脱ぎ、ジーパンを脱いだ。
 直哉は一度綾奈にキスをしてからブラジャーを外した。
「あん、ああ……」
 すでに固くなっている突起を直哉は指でつまみ、弾いた。
「ん、直哉ちゃん、あたし……」
 綾奈は鼻にかかる甘い声でなにかをねだる。
 体をよじり、太股を摺り合わせている。
 直哉はそれで綾奈がなにを望んでいるのか察した。
「ああっ、んんっ」
 直哉はショーツの中に手を入れ、秘所に直に触れた。
「もう、こんなに濡れてる」
「直哉ちゃんのをしてる時から、感じちゃって……」
 すでにショーツには秘所からあふれてきた蜜でシミができていた。
 直哉は下手に焦らすのも可哀想だと思い、ショーツを脱がせた。
「お願い、直哉ちゃんのを……」
 潤んだ瞳で直哉をねだる。
「姉さん。そこに手をついて後ろを向いて」
 綾奈は、直哉の言う通りにベンチに手をつき、後ろを向いた。
「いくよ」
 直哉は、綾奈の腰をつかみ、自分のモノを後ろから挿れた。
「あああっ」
 いきなり一番奥まで挿れられ、綾奈は声を上げた。
「あっ、あくっ、んんっ」
 直哉はそのまま腰を動かした。
 肌と肌がぶつかる乾いた音が公園に響く。
「やっ、んんっ、直哉ちゃんっ」
 綾奈は、その直哉の動きにあわせ、腰を動かす。
 次第に、湿った淫靡な音が聞こえてくる。
「はあっ、んんっ、奥に、当たって、ああっ、すごいっ」
 直哉が腰を動かす度に、綾奈の胸も髪も揺れる。
 直哉は少しでも綾奈に感じてもらうために、一番敏感な部分を指でいじった。
「あくっ、んんっ、そ、そんなにされると、あああっ」
 そこをいじる度に、綾奈の中は直哉のモノをきゅうきゅうと締め付けてくる。
 次第に直哉の動きも速くなってくる。
「ああっ、も、もう、足が」
 あまりの快感に足に力が入らず、がくがくと震えている。
 直哉は綾奈が崩れ落ちないように、しっかり腰を支えている。
「んぅ、ああっ、あっ、あっ、あっ、イクっ、もう、イっちゃうっ」
 ここが公園であることも忘れて、綾奈は官能的な声を上げた。
「あっ、あっ、あっ、直哉ちゃんっ、あたしっ」
「俺も、もうっ」
「ちょうだいっ、みんなっ、んんっ、ああああっ!」
「くっ……!」
 綾奈が達するのと同時に、直哉も綾奈の中で果てた。
「はあ、はあ……」
 直哉が綾奈の腰を離すと、綾奈は腰から崩れ落ちた。同時に直哉のモノが抜け、中から白濁液があふれてきた。
 直哉は、そんな綾奈を抱き上げ、ベンチに座らせた。
「ありがとう、直哉ちゃん、あたしのワガママを聞いてくれて」
 綾奈の言葉に、直哉はただ微笑むだけだった。
 
「すご〜く、幸せな気分」
 綾奈は直哉と腕を組みながら、笑顔でそう言った。
「直哉ちゃんに抱いてもらったこともそうだけど、一番大きいのは気持ちの問題だよ。直哉ちゃんにあたしが必要とされてるって感じられたから。だから、幸せ」
「幸せなのはいいけど、よかったの?」
「なにが?」
「その、中に出しちゃったけど」
「大丈夫だよ。今日はオッケーな日だし。それに、もしダメで子供ができちゃったとしても、後悔はしないよ。だって、大好きな直哉ちゃんとの子供だもの。たとえ未婚の母になったとしても、産んで育てるよ」
 綾奈は、少しだけ真剣な表情で言った。
「綾奈姉さんは、結婚とかって考えてるの?」
「どうかな。少なくとも今は考えてないけどね。だって、直哉ちゃん以上の男の人はいないとしても、同等かそれに匹敵するような男の人ってなかなかいないと思うから。でもね、あたしはお姉ちゃんみたいに最初から結婚しないなんて決めてないから。もし結婚してもいいと思う人が現れたら、結婚するかも」
「それがいいよ。いつまでも俺なんかに縛られてないで、もっと外を見ないと」
「もしあたしがほかの男の人とつきあうことになったら、妬いてくれる?」
「そりゃね。気にくわない奴だったら、殴り倒すかも。でも、その前におじさんが包丁でも持ち出して、うちの娘は貴様なんぞには絶対に渡さん、なんて言って追い返すかな」
「あはは、それはあるかもね。でも、直哉ちゃんにそう思ってもらえるのなら、それでもいいのかも」
「まあ、どうになるにしろ、それは姉さんの決めることだからね。俺は意見を聞くことくらいはできるけど、なにかをすることはできないから」
「そうだね。全部自分で決めなくちゃいけないんだよね。自分で決めて、自分で責任を負って。それが大人の世界だからね」
 綾奈はふっと笑った。
「今からいろいろ考えるのは面倒だけど、考えなくちゃいけないんだよね」
「いけないって考えることはないと思うよ。そういうのって、自然に考えることになるはずだから。その時までは、特に無理して考えなくてもいいかも」
「そっか、そういう考え方もあるんだ。あたしにはそっちの方が性に合ってるかな?」
「だろうね。姉さんの思い悩んでる姿って、想像できないし、あんまりそうなってほしくないからね、ははは」
「失礼ね。あたしだって悩むことくらいあるんだから」
 ぷうと頬を膨らませ、抗議する。
「そこまで言うなら、直哉ちゃんが菜緒ちゃんと結婚してからも、直哉ちゃんとは不倫関係を続けようかな」
「ちょ、ちょっと待った。そんなことしたら、俺が菜緒に殺されるって。あいつ、結構嫉妬深いんだから。今はまだそういう関係じゃないからあまり言わないけど」
「大丈夫よ。もし直哉ちゃんが殺されたら、あたしもすぐにあとを追うから」
「だあーっ、そういう問題じゃないって」
「ふふっ、冗談だよ」
 綾奈は直哉をからかうようにくすくす笑っている。
 次第に、視界に駅舎を捉えられるようになってきた。
「姉さん。今日のことも、麗奈姉さんに言うの?」
「ううん。今日のことは秘密。言ったら、お姉ちゃんも直哉ちゃんのところに行くって言い出すからね。これ以上迷惑はかけられないから」
「別に迷惑だとは思ってないけど。確かにテスト前に来られるとちょっと困るけどさ」
「テスト、がんばってね。ちゃんと点数取って、卒業しないと大学行けないんだから」
「わかってるよ」
 直哉はそう言って苦笑した。
「直哉ちゃんは、うちの大学を受けるつもりはないの?」
「まだわからないけど、私立だから滑り止めとして受けるかもしれない」
「本命は国立だからね。ちーちゃんと同じ大学を目指してるんでしょ?」
「一応ね。まだまだだいぶ遠い道のりだけど」
「直哉ちゃんなら大丈夫。絶対合格できるよ」
「だといいけどね」
「どこを受けるかって決めたの?」
「選択肢として、歴史か心理学を上げてるんだけどね」
「じゃあ、どっちにしろ文学部だね。でも、史学科は文学部の中でもまた一段階レベルが上だからね」
「まあ、まだ決めたわけじゃないから。夏休みの勉強の進み具合とかも考慮して決めるよ」
「法学部だったら、あたしがいろいろ教えてあげるんだけどね」
「さすがに法学部の頭はないよ。それに身内にひとり、弁護士がいればいいよ」
「うっ、すごいプレッシャー」
「卒業してから受けるの、司法試験?」
「うん。さすがに在学中は無理だよ。よっぽどの天才ならまだしも」
「そっか」
「それに、司法試験は数年計画でいかないと、とても合格できないよ」
「それこそ姉さんなら大丈夫でしょ。なんたって、高校時代は常に成績トップで、大学にも余裕で推薦され、初年度から特別奨学生に選ばれたんだから。ほかの連中とは頭のできが根本的に違うんだから」
「そんなことないけどね」
「とにかく、応援してるから。って、その前に俺なんだけどね」
「ふふっ、そうだね」
 ふたりはすでに閑散としている改札までやって来た。
 この時間から電車に乗る人はほとんど見受けられない。
 入ってくる電車からは、何人かは降りてくる。
「じゃあ、直哉ちゃん」
「うん、またね、綾奈姉さん」
 直哉は、綾奈を抱き寄せキスをした。
「今度はうちの方に来てね」
「そのうちにね」
「バイバイ、直哉ちゃん」
 綾奈は階段で直哉が見えなくなるまで振り返り振り返り行った。
「さてと、俺も帰るか」
 雲ひとつない夜空に、無数の星が輝いている。月は欠けていて、その存在感は薄い。
「明日は少し気合い入れて勉強せんとまずいよな」
 溜息をつく直哉。
 それでもその表情は明るかった。
「でも、その前に、姉さんに追求されるかな……」
 それを考えると、またも溜息が漏れる直哉であった。
 
 二
 前期中間テストも今日が最終日。最後の科目は化学だった。もちろんそれは選択している者だけである。理科の中のなにかをやっている、というのが正しい。化学、物理、生物、地学のどれかである。
 カリカリと答案用紙に書き込む音が響く。
 最後の科目ということで、皆一様に真剣だった。というより、これが終わったあとのことを考えてなのだろうが。
「あと五分」
 試験官をしている教師が時計を見てそう言った。
 その一言で教室の雰囲気が変わった。
 まだ解き終わっていない者は、焦りの色が見える。終わった者はそわそわと、一刻も早くこの忌々しい時間が終わることを祈っている。
 そんな相反する想いが教室に満ちあふれている。
 そして、直哉は後者だった。
 直哉の答案用紙は完璧に埋められていた。解答自体はもうすでに十分前に終わっていた。
 もともと最終日はこれ一科目しかないので、勉強にも力を入れられる。そして、もともとできる直哉にとって、真面目に勉強すれば、定期テストレベルの問題なら、それほど問題はなかった。
 試験官が立ち上がり、最後の見回りをはじめた。
 直哉は机に突っ伏している。すぐ脇を通るのに気付いたが、そのままでいた。
 そして、試験官が教卓の前に戻ると、試験終了を告げるチャイムが鳴った。
「解答やめ。解答用紙を順に前に送るように」
 すでにざわつきはじめた教室に鋭い声が飛んだ。
 用紙を送ってしまった者は、一様に安堵の表情を見せている。
「ふう……」
 直哉も用紙を前の席の者に送り、ひとつ溜息をついた。
 試験官は集まった用紙をチェックして教室を出て行った。
 途端に教室が喧噪に包まれた。
 あちらではテストがダメだったと嘆き、こちらではヤマ勘が当たりラッキーだったと喜び、そちらではこのあとどうするか相談している。
 しかし、そんなところに水を差すように担任が入ってくる。
 大部分は不満そうな顔をしているが、このホームルームさえ終われば解放されるので、素直に従っている。
 気を遣っているのか、ホームルームはすぐに終わった。
 こんなに日に掃除当番の者だけがつまらなさそうに掃除をはじめる。
 大多数、というかそれ以外の者は、皆さっさと教室を出て行く。
「直哉」
「おう、帰ろうぜ」
「うん」
 直哉も菜緒と一緒に教室を出た。
「どうだった?」
「悪くはないんじゃないか。もともと化学は嫌いじゃないからな」
「そうだよね。去年も化学は勉強しなくてもそれなりに点数取ってたもんね」
「まあな。それに、今回は非常に優秀な『先生』がいたからな」
 そう言って直哉は菜緒の頭をポンポンと叩いた。
「そんなことないよ。私はほんの少し手伝いをしたにすぎないんだから」
「そのほんの少しが重要なんだよ」
 直哉はそう言って微笑んだ。
「ま、終わったことをいつまでも言ってても建設的じゃない。さっさと忘れてこれからのことを考えよう」
 すべてを忘れるのにも問題はあるのだが、直哉はそれをあえて無視した。
「どうする、これから?」
「私は別にこれといってないけど」
「じゃあさ、みんなでカラオケにでも行かない?」
 声は唐突にした。
「む、現れたな、年中無休妖怪騒音ババア」
「誰が妖怪よっ!」
 声の主──雅美はさっそく直哉に突っかかった。
「まあまあ、ふたりとも。みんな見てるよ?」
 菜緒はふたりをなだめた。廊下で言い合っているために、なにごとかと野次馬が集まっていた。
「ちっ、場所を変えるぞ」
 直哉はそう言ってきびすを返した。
 場所を変えると言っても、別にどこかへ出たわけではない。単に校舎から出ただけである。
「で、そのみんなはいったい誰のことを指してるんだ?」
「もちろんいつものメンバーよ」
 雅美はさも当然と頷いた。
「秀明と理紗は捕まるのか?」
「秀明くん、携帯持ってたでしょ? それで呼び出せば問題なし」
「問題なしって、あのなぁ。ただでさえあいつらを振り回してるんだから、少しは放っておいてやろうって気にはならんのか?」
「どうして?」
 雅美は意外という表情で聞き返した。
「……いや、おまえに聞いた俺がバカだった。おまえがそんなことを考えてるはずないからな」
「なんかよくわからないけど、今すごく失礼なこと言ってるでしょ?」
「わからんのならいいじゃないか。細かいことを気にすると、さっさと年取るぞ」
「なんか丸め込まれた感じがするけど、まあ、いいや。とにかく、連絡だけしてみればいいでしょ。あとのことはふたりが決めればいいんだし」
「まあ、それはそうだが──」
「んじゃさっそく」
 雅美は言うが早いか、自分の携帯を取り出し、秀明にかけた。
「ホントにわけわからん奴だよ、こいつは」
「それに真面目に取り合ってる直哉も、似た者同士だと思うけど」
「やめろ。それを言うな」
 直哉もそれは自覚してるらしく、改めて言われるのを拒んだ。
「どうせ明日もこんな感じで引っかき回されるんだろうな」
 直哉は次の日のことを思うと、溜息をついた。
「うん……うん……じゃあ、そういうことで。あとでね」
「なんだって?」
「いいって」
「あいつらどこにいたんだ?」
 直哉が聞くと、雅美は上を指さした。
 上を向くと、そこには見慣れた影が。
「屋上か。ちっ、屋上は俺の占有地だぞ」
「いつ占有地になったのよ?」
「俺がここに入学した時からだ」
「あっそ」
 雅美は呆れた様子で携帯をしまった。
「で、どうするんだ?」
「すぐに下りてくるから、そしたらみんなで行きましょ」
 それからすぐに秀明と理紗が下りてきた。
「おい、秀明。誰に断って屋上にいたんだ?」
「誰って、んなもんいらんだろ」
「あそこは俺の──」
「はいはい、そこまでね。さっさと行きましょうよ」
「ちっ……」
「ほら、行くわよ」
 雅美はそう言って先に立った。
「せっかくふたりきりでお楽しみのところをなぁ」
「なにが言いたい?」
「いや、別に。それより秀明」
「ん?」
「明日はどうするつもりなんだ?」
「どうするって、なにがだ?」
「せっかくプールに行くのに、水着チェックをしない手はないだろ?」
「むっ、確かにそれは言えてる」
「しかし、こぶつきではそれもままならないぞ」
 そう言って直哉は、後ろで話をしている菜緒と理紗を見た。
「だから、どうするって聞いたんだ」
「おまえはどうするつもりなんだ?」
「上手いこと雅美や理紗を丸め込んで、女だけでいてもらう」
「その間に俺たちは──」
「そういうことだ」
 すっかり顔がにやけているふたり。
「同志よ。明日の勝利は我らがために」
 がっちりと手を組む。
 ここは男の悲しいところであろう。というより、このふたりは欲望に忠実なだけである。
 男どもがそんな話をしてるとは露程も思っていない菜緒と理紗は──
「ねえ、理紗」
「なに?」
「明日はどんな水着にするの?」
「今年買ったのだよ。ひょっとしたら着る機会ないかとも思ったけど、雅美ちゃんのおかげで着られるから」
「そうよね。私も新しいの買ったから、それだけを心配してたの。まさに雅美さまさまよね」
「うん」
 とまあ、呑気だった。
「でも、菜緒ちゃんはなにを着ても似合うからいいよね」
「理紗だって、似合うでしょ、スタイルいいんだから」
「菜緒ちゃんほどじゃないよ」
 ふたりともスタイルはいいのだが、若干菜緒の方がいい。
「今年は選ぶ時にも張り合いがあったでしょ?」
「どうして?」
「だって、見てもらいたい人がいるからね」
 菜緒はそう言って秀明を見た。
「そ、そんなこと──」
「あるでしょ?」
「……少しだけ」
 理紗は真っ赤になって俯いた。
「なにをするにしても、やっぱり張り合いがあった方がいいからね」
「じゃあ、菜緒ちゃんはずっと張り合いがあったんだね」
「どうかな。確かに少しはあったけど、今年ほどじゃなかったね。でも、今年は違うから、気合いも入るよ」
 そう言って菜緒は笑った。
「でも、明日はそういうのを抜きにしてみんなで楽しまないとね」
「うん、そうだね」
 ふたりは笑った。
 その日は結局、カラオケボックスで延々七時間歌い続けた。というか、その半分以上は雅美がマイクを握って離さなかったのだが。
 こうしてテスト最終日は過ぎていった。
 
 六月の第四土曜日は梅雨の中休みで、朝からよく晴れていた。
 とはいえ、やはり梅雨。晴れてはいるが、湿度が高い。不快指数はかなりありそうだった。
 そんな不快な俗世とは隔絶された天国がそこには広がっていた。
 グランサンシャインは、六月にオープンしたばかりの総合アミューズメント施設である。屋外、室内のプールを完備し、水族館まで併設されている。オープン前から話題になっていたグランサンシャインは、オープンしてからも話題を集めていた。情報番組や情報誌はこぞって特集を組み、大々的に紹介した。
 それもあってか、連日の大盛況で、平日といえどもかなりの人が訪れていた。
 ここはある種、遊園地のようなところで、アトラクションのようなプールがいくつもあった。そして、それは別途料金を取っていた。従って、普通のプール施設にはないパスポートが存在していた。そのパスポートがあると屋外、室内すべてのプールが利用可能で、さらに数百円払うと水族館にも入れた。
 そんなパスポートを持って、直哉たちはグランサンシャインに入った。
「さすがにすごい人だな」
「そりゃそうよ。特に今日みたいに蒸し暑い日は、プールは最高だからね」
 エントランスから総合更衣室まではそこそこの距離があった。なぜ総合などとついているのかというと、単に屋外、室内にも更衣室があり、その中間にある一番大きな更衣室に総合とつけただけである。
「じゃあ、着替えたら屋外第一プールよ」
「わかってるって。おう、行こうぜ、秀明」
「あたしたちも行きましょ」
 更衣室前でいったん分かれる。
「おい、直哉」
「ん?」
「とりあえずはどうするんだ?」
「最初から別行動は無理だろ。頃合いを見計らって、実行だ」
「だな」
 男子更衣室は、それなりに混んでいた。それでも着替えに時間がかからないことから、常に混雑するということはなかった。
 直哉と秀明もさっさと場所を決め、さっさと着替えてしまう。
「よし、いざ出陣」
「おう」
 かけ声ひとつ、ふたりは更衣室を出た。
 プールは屋外は第一から第三まで、室内は第一から第五まであった。
「ふふふ……」
 その第一プールのプールサイドに立った直哉は、不敵な笑みを浮かべていた。
「秀明。やっぱりいいなぁ」
「選り取り見取りだな」
 秀明もニヤッと笑う。
「これだけ広けりゃ、そうそう見つからないだろ」
「そうだな。これで簡単に見つかるようでは、俺たちには運がないってことだな」
「その時は、おとなしく縛につくか」
「そうならんように」
「もちろん」
 やはり外道である。
「しかし、女ってのはどうしてこんなに着替えるのに時間がかかるんだろうな?」
「さあな。いろいろあるんだろ」
「もう少しスピーディにしてほしいよな」
「悪かったわね、スピーディじゃなくて」
「どわっ!」
 突然の声に、直哉は飛び上がらんばかりに驚いた。
「お、脅かすなよ、雅美」
 直哉はそう言って振り返った。
「…………」
 しかし、そこで直哉はもちろん、秀明も止まった。
「なに固まってるの?」
 雅美は、直哉の頬をつんつんとつついた。
 直哉たちは、菜緒たちの水着姿を見て固まっていた。
 菜緒は薄いグリーンのセパレートタイプの水着。腰にはパレオを巻いている。ビキニとはいかないまでも、そこそこカットも大胆だった。
 雅美は見たままビキニ。色はパールピンク。
 理紗は性格そのままに、デザイン的にもおとなしいワンピース。それでもそのスタイルのよさを隠すことはできなかった。
「はは〜ん、あたしたちの姿に見とれてたのね?」
 雅美が悪戯っぽい笑みを浮かべ、ふたりに聞く。
「ば、バカ言うな」
「と言う割には、顔が赤くなってるけど?」
「こ、これはだな、そう、暑いからだ。おまえらが遅いから暑くなっただけだ」
「ふ〜ん、そういうことにしておくわ」
「だからぁ」
 直哉は必死に弁解するが、それは言い訳に過ぎないことは、誰の目にも明らかだった。
「直哉」
「ん?」
「どう、かな?」
 菜緒はちょっと恥ずかしそうに、直哉に感想を求めた。
「ん、お、おう、よく似合ってるぜ」
「ホント?」
「あ、ああ」
 直哉も照れくさそうに視線をそらした。
「……ね、ねえ」
「ん?」
「今日、ずっと一緒にいてくれる?」
「なんでだ?」
「だって、なんか視線が気になるんだもん。ここに来るまでにも、なんか見られてたような気がするし」
「むっ……」
 今までの直哉なら、自惚れるな、とか言って適当に流したのだろうが、今はそんな軽口を叩けるような心境ではなかった。
「ね、お願い?」
 菜緒は、上目遣いに懇願する。
「わ、わかったから、その目はやめろ」
「うん」
 菜緒は嬉しそうに直哉の腕を取った。
「お、おいおい」
 腕に菜緒の胸が当たり、反射的にある部分が反応しそうになった。直哉は深呼吸し、気持ちを落ち着けようとする。
「はいはい、そこ、ラヴラヴなところ、見せつけなくてもいいから」
「ま、雅美」
「菜緒も、場所を考えてしなさいよね」
 そう言って菜緒を直哉から引き離した。
「む〜」
 菜緒は、不満そうな声を上げた。
「私たちに言うなら、あのふたりにも言ってよね」
 そう言って、直哉たちほどではないが、明らかにまわりと違う雰囲気を醸し出している秀明と理紗を見た。
「わかってるけど、どうしてもこっちが気になって」
「もう……」
「おいおい、こんなとこに来てまで言い争いをするなよ」
「大丈夫だいじょうぶ。もう話はついたから」
 雅美はそう言って秀明を注意する。
「菜緒」
「なに?」
「少しは自分を抑えろ。はしゃぎたい気持ちもわからんでもないが、ふたりだけで来てるわけじゃないんだからな」
「わかってるけど、体が勝手に直哉に吸い寄せられるっていうか、気が付くと──」
 ぴとっと直哉に寄り添った。
「こうなるの」
 それを見て、直哉は苦笑するしかなかった。
「ま、しょうがないな」
 直哉は菜緒の頭をポンポンと叩いた。
「さてと、これからどうするかだけど」
 雅美は四人に向かって話しはじめた。
「午前中は一通りまわってみるってことで、五人で動くことにしていい?」
「構わないんじゃないか」
「うん、いいと思うけど」
「問題なし」
 理紗も頷いている。
「じゃ、片っ端から行ってみよう」
 こうして直哉たちは、プール巡りをはじめた。
 屋外プールは第一が流れるプール、第二が東洋一の巨大ウォータースライダー、第三は魚と泳げるプール。
 室内プールは第一が流れるプール、第二がウォータースライダー、第三がサーフィンやボディボード用の波のプール、第四が魚と泳げるプール、第五が子供用プール。
 もちろんそれはあくまでもおおまかな分け方で、それぞれに少しずつ変わった趣向もある。
「うおっ、なんなんだ、この速さは」
 直哉は思わず声を上げた。
 それは第一プールでのことだった。流れるプールは流れるプールでも、ある部分が異常に速く流れていた。おそらく子供や上手く泳げない人は溺れる。それくらい速かった。
 直哉はそこをさっさと通過したが、それでもかなり驚いていた。
「あれって、かなり問題ない?」
「そうだね」
 プールサイドからそれを見ていた菜緒たちも、あまりのことに言葉を失っていた。
 その後、予定通りプール巡りを敢行した直哉たち。
 子供用プール以外はすべて試してみた直哉は、かなりきつそうだった。
「大丈夫、直哉?」
「ああ、なんとかな」
 ここは室内の方にある休憩スペース。
 直哉はデッキチェアに座りダウンしている。
「しかし、なんなんだ、ここのプールは? こんなのとても全部なんか、普通の連中にまわれるわけないって」
「確かに直哉でもこの有様だからね」
「ひとつひとつはなかなかいいとは思うけど、全部は無茶だ。特にあの巨大スライダー。トップスピードは半端じゃない。息がまったくできないんだからな。よくこんなんで苦情が出ないぜ」
 呆れてそれ以上文句も言わない。
「午後はどうするの?」
「比較的まともな魚のプールあたりがいいとは思うが」
「珍しいから混むだろうね」
「だろうな。それこそ、満員電車並に身動きがとれなくなるんじゃないか」
「そうすると、多少我慢して外か中の流れるプールあたりにしといた方がいいのかな?」
「そうだな。まあ、それがダメなら、外で焼くのもひとつの手だけどな」
 直哉はそう言って溜息をついた。
 行き交う人々は一様に楽しそうな顔をしている。家族連れ、友達同士、恋人同士と様々な人がいる。
 直哉はふと視線を菜緒に向けた。菜緒は少しだけ心配そうに直哉を見ている。
 一度上から下まで視線を動かすと、今度は行き交う女性に視線を向けた。
 自分を誇示したい人は大胆な格好で、さらに自信に満ちあふれた立ち居振る舞いを見せている。
 一方、大勢の中にいるのに抵抗がある人はおとなしめの水着だったり、パーカーを着ていたりする。さらに、どこかおどおどとした感じも見受けられる。
 大勢の女性が直哉の視覚の範囲内を行き交った。
 そして直哉は改めて思った。
「……菜緒の方が上だな」
 別にのろけでもなんでもない。純粋に客観的に検討した結果がそうなのである。
 直哉のそういう考えももちろん頷けた。以前から言っている通り、菜緒は超絶美人である。はっきり言って、そこら辺の同年代の女子高生と比べるのは酷である。もちろん相手にとって。それはもちろん同年代だけではなく、菜緒よりも上の大人の女性に対しても言えた。ただ、直哉の中には菜緒は綺麗でカワイイが、それに匹敵する女性が何人かいるのは知っての通りである。それは千尋であり麗奈、綾奈姉妹であり、雅美、瑞穂、かえでである。
 まあ、直哉としてもそれらの女性と比べるなどということは絶対にしないが。
「なあ、菜緒」
「ん?」
「海、好きか?」
「えっ、海? 好きだけど、どうして?」
「いや、海行きたいなぁって思ってさ」
「そうだね。行きたいね、海」
 それを聞いて直哉はなにやら考えている。
「おまえとさ、ふたりきりでどっか誰もいない海に行ってみたい」
「直哉……」
「ま、そのうち機会があったら行こうな」
「うん」
 菜緒は嬉しそうに微笑んだ。
「お待たせ〜」
「ずいぶん時間かかったけど、そんなに混んでたの?」
「混んでたなんてもんじゃないわよ。売り子が手際悪いもんだから、もう長蛇の列。しかも中には怒り出す人もいて、しっちゃかめっちゃかだし」
 雅美はそう言ってデッキチェアに座った。
「秀明と理紗は?」
「別の列になっちゃって。もうすぐ戻ってくると思うんだけど」
「噂をすれば、戻ってきた」
「いやあ、半端じゃないぜ」
「ご苦労様」
 菜緒は秀明から飲み物を受け取った。
「俺も直哉みたいにくたばってればよかった」
「アホ。俺だって好きでくたばったわけじゃない。でもまあ、おまえらの言うことを聞いてると、ここにいて正解だったみたいだな」
「ホント、あんなとこ、ストレスが溜まるだけ。できれば二度と行きたくないわね」
 雅美は、嘆息混じりにそう言い、自分の分の飲み物を飲んだ。
「ま、とにかく腹ごしらえして、午後はもう少しましに楽しまないとな」
 直哉の言葉に皆一様に頷いた。
 
 そして午後。
 直哉は菜緒とふたりで屋外第一プール、つまり流れるプールにいた。
 秀明と理紗が一緒にいるのは当然なのだが、雅美はなにを考えているのか、そのふたりにくっついて行ってしまった。
 だから今はふたりだけだった。
「あのなぁ、そんなにひっついてどうすんだ?」
「いいの。それに、こうしてないと直哉とはぐれちゃいそうだし」
「ったく……」
 流れに身を任せてプールをまわる。
 直哉としてはその体勢はある意味嬉しいのだが、ある意味ヤバイ体勢だった。
「ふわふわしてて、なんか気持ちいいね」
「このあたりはな。あの『激流』に入ったらそんなこと言えなくなるぞ」
「確かにそうだね。でも、直哉がいるから大丈夫だね」
「なんでだよ?」
「私を離さないでいてくれるから」
「……ていっ」
 直哉は恥ずかしさを隠すため、おでこにデコピンをかました。
「う〜、痛いよ」
「あんまり恥ずかしいことを言うな」
「だってぇ」
「だってじゃない」
「う〜」
「う〜じゃない」
「む〜」
「む〜じゃない」
「…………」
「考えるな」
「あははは」
「ったく……」
 直哉は呆れてなにも言えなかった。
 そんなことをしているうちに、例の激流ポイントである。
 先の方からは冗談じゃない悲鳴が聞こえてきた。
「しっかりつかまってろよ」
「うん」
 菜緒は直哉の首に腕をまわしてしっかりと抱きついた。
 この激流ポイントに巻き込まれたくない人たちは、直前で上がっていた。命知らずな者だけが残っていた。
 従って、この部分だけ密集度が低かった。
「少し息を止めてろ」
 菜緒が息を吸い込んで止めると、直哉は一気に激流ポイントを抜けにかかった。
 もともと流れが速いために、あっという間に通り抜けられるのだが、泳ぐとさらに速く抜けられる。
 直哉は器用に泳ぎ、無事にそこを抜けた。
「ふう、抜けたぞ」
 直哉は菜緒の顔を水面から出るように、ちょっと持ち上げた。
「おい、菜緒」
「……抜けたんだ」
 菜緒はおそるおそる目を開けた。
「ホントすごかったね」
「二回目だと多少はましだけどな」
 直哉は菜緒をそのままに、プールサイドへ寄っていく。
「少し上がって休もうぜ」
「うん」
 プールサイドに上がると、不意に体に重力がかかった。この気怠さにも似た感じは、海だとかプールでも心ゆくまで楽しんだあとなら心地いいのだが、そうでないと単なる疲れにしかならない。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「やっぱり雅美、私たちに気を遣ってくれたのかな?」
「さあな。そうかもしれないし、ただ単に秀明たちを冷やかしたいだけかもな。普段は俺たちばっかりからかってるからな。少しは改心してくれるといいんだけど」
「そんなこと言って、実はちょっと淋しいんじゃないの?」
「俺が? バカ言うな。騒音娘がいなければなんでも落ち着いてできるし」
「ふふっ、でも、ホントはちょっと淋しいんでしょ?」
「……少しだけな」
「雅美っているとちょっとうるさいけど、いないと静か過ぎて淋しいんだよね。ムードメーカーだからかな。でも、直哉はもっといろんな雅美を知ってるんだよね?」
 菜緒は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……なにが言いたいんだ?」
「ううん、別に」
「……確かにあいつはただの騒音娘じゃないけどな」
「…………」
「普段軽口叩き合ってるから、余計にそう感じるんだろうけどな」
「雅美、カワイイからね」
「おまえがそう言うと、なんかほかの意味に聞こえる」
「茶化さないの」
「わかってるって。あいつがカワイイっていうのは認めるけどさ。普段からああだといいんだけど。そしたらもう少し──」
「もう少し?」
 菜緒の目がマジだった。直哉はふるふると首を振った。
「なんでもないです」
 こういう時の菜緒には逆らわない方がいいことを、直哉は身をもって体験していた。
「うぅ、おまえ、最近特に嫉妬深くないか?」
「そうかな?」
「そりゃまったく嫉妬されないのも悲しいけど、あんまりされすぎてもな」
「だって直哉、私の前でもホントに嬉しそうに楽しそうにほかの人のこと話すから。だからついね」
「……そんなに嬉しそうか?」
「うん」
「……悪かったな」
「別に責めてるわけじゃないけど」
「これからは、もう少し考えるからさ」
 直哉はそう言って微笑んだ。
 最近の直哉のこの微笑みは、特に優しくなっていた。それも、菜緒に向けられる時は当社比五割り増しである。心境の変化とは、かくもいろいろなところに影響を与えるものなのである。
「さてと、もう少し楽しむか」
「そうだね」
 直哉は先に立ち、菜緒の手を取って立ち上がらせた。
 
「おい、直哉」
「なんだ?」
 帰りの電車の中。
「目的は達成できなかったけど、よかったのか?」
「ん、そうだな、ちょっと心残りだけど、まあ、今日のは今日ので楽しかったからな」
 直哉はそう言って隣で眠っている菜緒の髪を撫でた。
「結局、菜緒ちゃんと一緒にいたんだよな」
「こいつが一緒にいてくれって言うからさ。それに──」
「それに?」
「ずっと菜緒を見てたら、ほかの連中なんてどうでもよくなった」
「おまもそうか」
「恋は盲目なんて言うけど、その一端をまさか自分が体験するとは思いも寄らなかった。もちろん、本来の意味じゃないけどな」
「俺もだ。理紗ちゃんしか目に入らないっていうか、なんか不思議な感じなんだよ」
「あのさ、秀明」
「ん?」
「おまえもいい加減に理紗のこと、ちゃん付けで呼ぶのやめたらどうだ? なんかどこか他人行儀に聞こえるぜ」
「……それはそう思うけど。どうもいざ言おうとすると恥ずかしくてさ」
 そう言って恥ずかしそうに頭をかいた。
「理紗がおまえのことをくん付けで呼ぶのは仕方ないとしても、やっぱりおまえはちゃん付けはやめるべきだな。だいいち、理紗だってどこかで呼び捨てにしてもらいたいって思ってるはずだぜ」
「……そうなのかな?」
「絶対そうだって。それに恥ずかしいったって、最初だけだって。そのうちそれが当たり前になってくる。それとな、あんまり深く考えるな。名前を呼ぶってことは、そりゃ大切なことだけど、所詮は名前だからな。それだけでなにかが変わるわけじゃない。まあ、呼び捨てにすることで一歩進んだ仲になれるかもしれないけどさ」
 直哉はそう言って笑った。
「俺はそういうの経験したことがないからさ、それ以上のことは言えないけど」
「ホント、おまえはお節介な奴だよ」
「別におまえのことを考えて言ってるわけじゃない。俺は理紗のために言ってるんだ。男になんぞ誰が同情するか」
「ははは、おまえらしいよ。でもまあ、試しに呼んでみようかなって気にはなった」
「そうしてくれ。そのおかげでもし行くとこまで行ったら、俺のおかげだな」
「…………」
「なんだ、呆れてものも言えないのか?」
「いや、そうじゃなくてさ」
 秀明は奥歯になにか挟まったような、そんな煮え切らない言い方だった。
「……おまえ、ひょっとしてもう」
「まあ、なんだな。平たく言うとそういうことだな」
 秀明の言葉に、直哉はあんぐりと口を開け、信じられないという感じで秀明を見た。
「信じられん。もう抱いたっていうのに、未だにちゃん付けなんて。抱く方が恥ずかしくないのかよ?」
「まあ、そういうこともあるけど。でも、そっちの方は場の雰囲気とか勢いとかあるからな」
「てめぇ、言うじゃないか」
「おまえだってそういうのはわかるんじゃないのか?」
「俺の場合は場の雰囲気に流されるってことはない。俺は常に冷静だからな」
「それって、冷静というより、冷めてるって言わないか?」
「アホ。そういう意味の冷静じゃない。自分の想いと相手の想いを冷静に判断できるって意味だ」
「場数を踏んだ奴の言葉だな」
「……ふん、俺から求めたことなんか、一度もないんだからな」
「おい、それマジかよ?」
「当たり前だ。俺は体を求めてるわけじゃないんだ。いろんなことの延長線上に、それがあるだけだ」
 直哉の言葉を、秀明は神妙な面持ちで聞いている。
「ただ、こいつの時だけは例外になるかもしれないけどな」
 直哉はそう言って菜緒を見た。
「最近、自分でもわかるんだよ。俺は確実に菜緒を求めてるって。もちろんすべてをだ。だから、それこそそんな雰囲気になったらどうなるか」
「珍しいな、おまえがそこまで慎重になるなんて」
「こいつは特別だ。昔も今も、これからも」
 直哉は見守るような、そんな暖かな眼差しを菜緒に向けていた。そこにはもちろん、暫定的なものではあるが、恋人しての想い、それから兄としての想いなど様々なものが入り交じっていた。
 
「直哉とこうして歩くようになって、まだそんなに経ってないんだよね」
「ん、まあな」
 直哉は、小さく頷いた。
 家への帰り道、ふたりは腕を組んで歩いていた。
「でも、ずっとこうしてきたような感じ」
「なんだかんだ言っても、いつも一緒にいたからな、俺たち」
「うん、そうだね」
 菜緒は小さく頷いて、直哉を見上げた。
「ん……」
 そんな菜緒にキスをした。
「ホントにおまえはキスが好きだな」
「だって、直哉にキスしてもらうと、安心できるんだもん。私は今、直哉に求められてるんだって」
「俺がおまえを求めてるんじゃなくて、おまえが俺を求めてるんじゃないか?」
「あはっ、そうだね」
「ったく……」
 直哉は菜緒の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「でも、おまえだけだろうな、俺に求めさせられるのは」
「えっ……?」
「ようするに、おまえは俺にとってかなり特別な存在だってことだ。冷静沈着なこの俺をその気にさせるんだからな」
 顔は笑っているし、言っていることも半分冗談めいているが、その想いだけは真剣だった。
「菜緒」
「ん?」
「今日のおまえ、すごく可愛かった」
「な、なに、突然……?」
「実はさ、今日、秀明とある計画を立ててたんだ」
「計画?」
 菜緒は不思議そうに首を傾げた。
「水着チェック」
 一瞬、菜緒の表情が固まった。
「でも、そんなのどうでもよくなったんだ」
「どうして?」
「おまえと一緒にいたからな」
「私と?」
「どうしてもおまえと比べてしまうんだ。そして、そのことごとくでおまえの方が上だった」
「それって、喜んでいいのかな?」
「いいんじゃないか。少なくとも俺にはおまえしか見えてなかったんだから」
「直哉、実はすごい恥ずかしいこと言ってる」
「おまえの影響だな」
「もう私のこと、言えないね」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「そういえば、来週だね、直哉の誕生日」
「そうだな。これで俺も十八だ。いろんな資格を得る」
「直哉にとって一番重要な資格はなに?」
「……なんだと思う?」
「う〜んと、免許が取れるとか、ギャンブルができるようになるとかはないだろうから。なにかな?」
「男は十八、女は十六。これでわかるだろ?」
「それって……」
 菜緒の表情がみるみる変わった。
「ま、そういうことだ。ただ、そのことに関して、今はなにも聞かないでくれ。今言うとあとでのお楽しみがなくなるからな」
 直哉はそう言って笑った。
「今日はちょっといろいろしゃべりすぎたな。謎は多い方が面白いんだけどな」
「直哉ぁ」
 菜緒がせつなそうな声を上げた。おまけに少し涙ぐんでいる。
「あのなぁ、俺はまだなにも言ってないだろ? それなのに勝手に泣くなよ」
「だってだって」
「ったく、調子狂うな」
 とは言いながら、直哉はしっかり菜緒を抱きしめている。
「しょうがねぇな。今日はおまえと一緒にいてやるから」
「えっ、いいの?」
「明日はちょっと用があっていられないからな。その代わりだ」
「うん、ありがと、直哉。大好き」
 直哉にとって、菜緒の笑顔を見ていられること、それが一番の幸せだった。だから、少し甘いとはわかっていても、ついつい甘えさせてしまう。もう本当に後戻りはできないところまで来たんだと、改めて思う直哉だった。
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