いちごなきもち、めろんなきもち
 
第七章「きういなきもち」
 
 一
 五月も終わりのある晴れた朝。
「おはよ、直哉」
「うっす、菜緒」
 いつもの朝。菜緒は、笑顔で直哉を待っている。
「もうすぐ六月ね」
「六月か。イヤな月だな。祝日はないし、テストはあるし、梅雨で雨は多いし。いいことなんてなんもない」
「直哉は、でしょ? ある一定年齢以上の独身女性にとっては、六月はとっても重要な月だよ」
「ジューンブライドってか?」
「うん」
「一時期は、猫も杓子もジューンブライドのために奔走してたけど、最近はそうでもないだろ」
「確かに、一時期よりはそういう傾向はなくなってるけど、それでも未だに六月に挙式するカップルは多いよ」
 菜緒も、やはりこういう話題には興味があるらしい。嬉々とした表情で話している。
「菜緒も、やっぱり憧れるのか?」
「うん、憧れるよ」
「……この話は、ここでやめにしよう」
 直哉は、唐突にそんなことを言った。
「えっ、どうして?」
「なんか、とんでもない方向に話が進みそうな気がするからな」
「とんでもない方向って?」
「……それを俺に言わせるか?」
「うん」
 笑顔で頷く菜緒。
「てめぇ、わかってて言ってるだろ?」
「そんなことないよ、ふふっ」
「……ぜってぇ、言わないからな」
 直哉はそう言い切った。
「ねえ、言ってよ」
「イヤだ」
「ねえねえねえ」
「だあーっ、しつこいぞ」
 直哉は思わず自転車を止めた。
「なんで俺がおまえとの結婚のことを……って、しまった……」
 見事自爆した。
「ふふっ、言ってくれたね」
 それに対して、菜緒は本当に嬉しそうである。
「ああーっ、もうっ」
 直哉は、本気で悔しがった。
「直哉」
「なんだよ?」
「直哉もそういうこと、考えてるんだね」
「……悪いか」
「ううん、嬉しいよ。私の夢、だからね」
「……行くぞ」
「うん」
 直哉にしても、心にもないことを言ったわけではない。菜緒とならそうなってもいいと考えていたからこそ、それが言葉となったわけである。もっとも、自爆したが。
「ああ、嬉しいなぁ」
「あんまり浮かれてると、転ぶぞ」
「だって、嬉しいんだもん」
「なんなんだよ、その小学生みたいな理由は」
「理由なんていらないの」
「ったく……」
 結局、菜緒は学校に着くまで終始ご機嫌だった。
「ねえねえ、直哉」
「ん?」
「腕、組んでもいい?」
「おまえなぁ、学校ではそういうことしないって言っただろ?」
「どうせみんな勘違いしてるんだから、いいじゃない」
「……おまえ、そんなに俺に死んでもらいたいのか?」
「それは困るけど。でも、学校でやってみたいよ」
「ダメだ。もう少し我慢しろ。別にずっとやらないって言ってるわけじゃないんだから」
「ん〜、しょうがないね」
 菜緒も少しだけ残念そうな顔をしたが、それでも笑みは残っていた。
 昇降口で靴を履き替え、教室へ向かう。
「うおっす」
「おはよう」
 教室に入ると、すでに来ているクラスメイトと挨拶を交わす。
「おっはよー、ふたりとも」
「おはよ、雅美」
「よお」
「相変わらずラヴラヴよね、ふたりは」
「おまえはそれしか言えんのか?」
 相変わらずの雅美に、直哉は呆れ顔で言った。
「かなり、妬けるわよね」
「いくら雅美にでも、直哉は渡さないからね」
「残念だけど、もう勝負はついてるわよ。直哉くんは、菜緒のものよ」
「別に俺は、菜緒のものになった覚えはないぞ。俺は俺だ。誰のものにもならない」
「だってさ、菜緒」
「私に振らないでよ」
「じゃあ、直哉くんが菜緒のものじゃなく、菜緒が直哉くんのものなんだ」
「ん〜、それはどこかで聞いたセリフだな」
 直哉はわざとらしく言った。
「どこで聞いたの?」
「さあ、どこでだったかな。なあ、雅美?」
「ふふふ、聞きたい、菜緒?」
「えっ……?」
「それはね、あたしが言ったことよ」
「雅美が?」
「そうよ。そして、今でもあたしは直哉くんのもの」
 そう言って雅美は、直哉に抱きついた。
「お、おい、抱きつくな」
「たまにはいいでしょ?」
「よくない」
「むぅ、雅美」
 さすがにこれには菜緒も黙ってはいない。
「直哉も嫌がってるでしょ?」
 雅美を直哉から引き離そうとする。
「あいたたたた」
 しかし、雅美は直哉の首をしっかりとつかんで離さない。
「雅美ぃ」
「や〜よ」
「……おまえら、俺を無視して進めるな」
 直哉が雅美の腕を外して問題解決。
「いい加減にしとけよ。いくらおまえらでも、本気で怒るからな」
「……だってぇ」
「だってじゃない」
「そうよ、菜緒」
「おまえもだ、雅美」
「あはは、そうでした」
「ったく……」
 直哉は盛大に溜息をついた。
 これが、最近の朝の三人の姿だった。
 
 最近の直哉は、授業も真面目に受けていた。居眠りも三分の一に減っていた。もともと成績は悪くない直哉である。本気で勉強すれば、テストでもいい結果を残せる。
 直哉が真面目に授業を受けはじめたのは、精神的なものが大きい。一番影響が大きいのは、やはり菜緒とのことである。まだ正式に恋人同士になったわけではないが、今までふらふらしていた気持ちに、まがりなりにもケリをつけたわけである。人間は結構単純な生き物で、そういう些細なことでも変わると気持ち全体が変わるものである。
 直哉もその典型で、最近は気持ちにだいぶ張りが出ていた。
 とはいえ、いきなりすべてを変えることはできない。
 というわけで、すぐにできることからやっていたのだ。
「まわせっ!」
 グラウンドに鋭い声が飛んだ。
 グラウンドでは男子がサッカーをやっていた。
「させるかっ!」
 そして今、直哉にボールが渡り、ディフェンスをかわし、シュート。
 見事にボールはゴールに突き刺さった。
「よっしゃっ!」
「ナイス、直哉」
「ハットトリックだな」
 直哉と同じチームの連中が集まってくる。
「絶好調だな、直哉」
「おう。このままダブルハットトリック狙うぜ」
「ははは、そりゃまたでかく出たな」
「でも、もう残り時間がないんじゃないか?」
「バーカ。それくらいの気持ちでいくってことだ」
 とまあ、直哉は体育で全開だった。
 そんなグラウンドの様子を、一足早く終わった女子が見ていた。
「やっぱりカッコイイよね、直哉くん」
「うんうん、カッコイイ」
「これでフリーだったら、即ゲットなのにね」
「なに、あんた狙ってたの?」
「そうよぉ、悪い?」
「悪くないけど、競争率めちゃ高だったんだから」
「それくらい知ってるわよ」
「でも、みんな最初から無理だってわかってたんじゃないの?」
「なにを?」
「直哉くんを振り向かせること」
「う〜ん、そうかもね」
「口ではなんだかんだ言ってても、大切にしてたからね、菜緒のこと」
「そうよねぇ」
「ねえぇ」
「な、なんで私を見るの?」
 廊下でグラウンドを見ていた女子の視線が、菜緒に集まった。
「菜緒も幸せよね」
「そうそう」
「あれだけカッコイイ彼氏がいるなんて」
「幸せよね〜」
 それは彼氏のいない者のひがみにしか聞こえない。
「でも、誰もなにも言えないのも、事実なんだけどね」
「お似合いだからね」
「これ以上ないってくらいにね」
「…………」
 みんなに口々に言われ、菜緒は真っ赤になって俯いている。
「今まで彼氏彼女の関係じゃなかった方が不思議だったんだから」
「そうよ。はっきりしなかったから、何人ダメ出し食らったか」
「ひょっとして、あんたもコクったの?」
「わ、私はそんなことしてないわよ」
「どうかな? 一部の噂だとすでに三桁に近い女子が直哉くんにダメ出し食らったらしいけど」
「あっ、それあたしも聞いたことある。入学してから先輩、同輩、後輩ととにかく断りまくったって」
「それもこれも、みんなひとりのためだからねぇ」
「そうよねぇ」
「ねえぇ」
 またも視線が菜緒に集まった。
 と、そこで授業が終わった。
「あっ、終わった」
 菜緒はそれを天の助けとばかりに、その場を逃れた。
「逃げられたわね」
「残念」
「もう少しいろいろ言いたいこともあったのに」
「なにそれ? 憂さ晴らしでもするつもりだったの?」
「別にそうじゃないけど」
「しつこい女は嫌われるわよ」
「だからなぁ、違うって」
 菜緒がいなくても話題に尽きない連中であった。
 菜緒はとりあえず教室に戻っていた。
「終わったの、菜緒?」
「えっ、うん」
「みんな好きよねぇ」
「雅美はあんまり見ないよね」
「みんなと同じ姿を見ても、自慢にならないからね。あたしだけに見せてくれる姿なら、見たいけど」
「それ、贅沢だよ」
「菜緒はいいわよね」
「なにが?」
 菜緒は首を傾げた。
「いろんな直哉くんを見られるから。しかも、それは菜緒にしか見せないから」
「……そうかもしれないけど、私だってまだまだ知らないことだってあるんだよ。雅美にしか見せてない姿だってあるだろうし」
「まあ、それはあえて否定しないけど」
 雅美はそう言って苦笑した。
「さてと、あたしは学食行ってくるから」
「お弁当じゃないの?」
「ちょっと今日は寝坊しちゃって作れなかったのよ」
「そうなんだ」
「というわけで、行ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
 そう言い残して雅美は教室を出て行った。
 昼休みに入り、人の出入りが多くなってきた。
 菜緒は少し小さめの鞄を持って教室を出た。
 廊下ではまだ同じクラスの女子がなにやら話を続けていた。
 グラウンドにはすでに誰もいない。
 菜緒はそれを横目で確かめ、廊下から階段を上がっていく。
 三年の教室階より上には、屋上しかない。
 屋上はいっぱいの太陽を浴びて、少し暑いくらいだった。それでも、吹き抜けていく風が気持ちよく、不快なことはなかった。
「直哉、早く来ないかな」
 菜緒が屋上に上がって来た理由は、ひとつしかない。屋上で直哉と一緒に弁当を食べるためである。暫定的な恋人となった次の日から、晴れの日には必ず屋上で一緒に食べていた。
「よお、待たせたな」
 そこへ直哉がやって来た。
「いやあ、さすがにこの時期になってくると暑いわ。上着が邪魔でしょうがない」
 そう言う直哉は、ワイシャツ姿である。
「体育のあとだから、余計なんでしょ?」
「まあな。でも、こうして涼む時間があればいいけど、梅雨の時季はそうもいかないからな」
「ホント、直哉は梅雨が嫌いだね」
「梅雨なんかなんもいいことないだろ? そりゃ、夏の水のこととか、農業関係者にとってみれば重要なことかもしれないけど。大多数の日本人にはありがた迷惑だからな」
「それはそうだけど。でも、梅雨にだっていいところはあるかも」
「どんなことだよ?」
「それは、わからないけど」
「そういうことは思いつきで言うな」
「む〜、別にいいじゃない。それに、私は雨はそんなに嫌いじゃないんだから」
「なんで雨なんか好きなんだ?」
「別に好きなわけじゃないよ。嫌いじゃないってこと」
「似たようなもんだろうが」
「全然違うよ」
 きっちり否定する菜緒。
 その間に弁当を広げる。
「どうせおまえのは、雨が降ると新しく買った傘をおろせるとか、そんなたいした理由じゃないんだろ?」
「理由は、はっきりしてるよ」
「ふ〜ん、どんな理由なんだ?」
 直哉は弁当に手を伸ばしながら訊ねた。
「その日は、午前中は晴れてたんだ。だから私も傘を持たずに出かけてた。ところが、午後になると急に雲行きがあやしくなってきて、ついに降り出してきたの。ものすごい土砂降りだった。私は店の軒先で雨宿りをしてたけど、風も強くて全然雨宿りにならなかった。西の空を見てもいっこうに雲が晴れる気配がなかったら、私は濡れて帰ろうと思ったの。そしたら──」
「俺が迎えに行ったんだろ」
「覚えてたんだ」
 菜緒は、意外そうに言った。
「今の今まですっかり忘れてたけどな」
「直哉、お母さんに頼まれて私を迎えに来てくれて。傘なんか全然役に立たないくらいの雨なのにね。直哉から傘を受け取って傘を差すんだけど、やっぱり役に立たなくて。おまけに傘が風に飛ばされそうになって。だからかな、直哉が私の手を取って歩いてくれたのは。私の前に立って少しでも風が私に当たらないようにしてくれて」
「ガキがそんなこと考えてるわけないだろ。たまたま、ああなっただけだ」
「それでも私は嬉しかった。だから、雨はそんなに嫌いじゃないんだよ」
 菜緒は笑顔でそう説明した。
 直哉は適当に相づちを打ちながら、弁当を食べながら聞いていた。
「あの日のことは、土砂降りの日はたいてい思い出すよ」
「土砂降りでも、雷の鳴らない日、限定だろ?」
 直哉は意地悪く言った。
「雷の鳴ってる時に、悠長に昔のことなんて思い出してる暇なんかないもんな」
「そ、そこまで言わなくてもいいじゃない」
 菜緒も反論を試みるが、事実なだけに幾分テンションが低かった。
「でもまあ、おまえが雨を嫌いじゃない理由はわかった。結局、俺絡みなんだな」
「私の場合はそういうのが圧倒的に多いからね。直哉と行ったからそこが好きとか、直哉にもらったものだから今でも集めてるとか」
「なんかそういう風に聞くと、これからは下手なことは言えない、やれないでだいぶ厳しくなりそ」
「ダメだよ、そんなことしたら。直哉は今まで通り思うがまま、あるがままになんでもやっていればいいんだから。そうじゃなきゃ、意味ないもん」
「おまえに意味がなくても、俺には意味があるからな。俺のせいで変なことになったら、後味悪いし」
「それは大丈夫だよ。一応取捨選択は行ってるし。それに、いくら私でもあまり変なことには影響受けないよ」
「……なんかその言い方、もう慣れてるって感じだ」
「あはっ、そう聞こえた?」
 笑う菜緒。
「……卵焼き没収」
 直哉は菜緒の弁当から卵焼きを取った。
「ああーっ、私の卵焼き」
「ん、旨いな」
「あう〜、今日のはかなり美味しくできてたのに」
「余計なことを言うおまえが悪い。当然の報いだ」
 直哉はさも当然という感じで菜緒の卵焼きを食べ、自分の分をガードしている。
「直哉ももう少しそういうところがなくなってくれると、いいんだけど」
「ふん、俺の生き方に文句を言うな」
「文句じゃないよ。改善を要求してるだけだよ」
「俺的には文句に聞こえる」
「……屁理屈」
 ぼそっと呟く。
「なにおう」
「あっ、私のクリームコロッケ」
「いやあ、旨い旨い」
「私のコロッケ返してよぉ」
「はて? なんのことやら」
「むっ、そんなこと言うと、明日のお弁当、直哉の嫌いなものオンリーにするから」
「ちょ、ちょっと待て。ただでさえイヤな土曜日に、弁当までそれじゃ、俺はどうなる?」
「知〜らない」
 菜緒はそう言ってプチトマトを食べた。
「くっ……お、俺が悪かった。だから、弁当は普通にしてくれ」
「チーズケーキと紅茶のセットで許してあげる」
「て、てめぇ、強請るつもりか?」
「私は別に、構わないんだけどなぁ」
「うぬぬぬ……わかった、おごってやるから」
「ホント?」
「ああ」
「あはっ、やった」
 菜緒は、嬉しそうに笑った。
「ったく、ちゃっかりしてるよな、おまえも」
「そうかな?」
「自覚しろ」
 直哉は嘆息混じりに呟いた。
 それでも直哉も菜緒も、あの喧嘩以来、派手な喧嘩はまったくしていない。無意識のうちにそういう状況を回避しているのかもしれないが、それ以前に言いたいことは今まで通りに言うが、努めて喧嘩にならないようにしていた。直哉にしても菜緒にしても、あの時のことはだいぶ堪えたようである。
「ふいぃ、食った食った」
「はい、お茶」
「サンキュ」
 直哉はお茶を一気に飲み干した。
「菜緒」
「なに?」
「膝枕いいか?」
「うん」
 菜緒は弁当箱を片づけると、膝を揃えて座った。
 直哉はその上に頭を乗せた。
「ん〜、気持ちいいなぁ」
「もう癖になっちゃったんじゃないの?」
「かもな。俺はもう菜緒なしには生きていけない、なんてな」
「……ホントにそうなってくれると、嬉しいんだけどな」
「……しみじみ言うな」
 直哉は菜緒のおでこを小突いた。
「俺がおまえなしには生きていけなくなったら、それは俺が俺でなくなるぜ」
「どうして?」
「あくまでも俺はおまえに頼りにしてもらいたいからだ。それが俺が俺であることの証だからな」
「私はずっと直哉を頼りにするよ」
「そうしてくれ」
 菜緒は微笑んで直哉の髪を撫でた。
「そういや、今日は何日だっけ?」
「三十日だよ」
「ということは、あと三日か」
「三日って?」
「姉さんの誕生日だよ」
「あっ、そっか。六月二日だったよね」
「ああ。今年は二十歳の誕生日だからな。なんかやりたいんだけど、なかなかな」
「なにをするつもりなの?」
「いや、ほとんど考えてない。なんかやりたいとは思ってるくらいだ」
「なんか、直哉らしいね、それ」
 菜緒はくすっと笑った。
「まあいいや。なんとかなるだろ」
「なにかやるんだったら、私も手伝おうか?」
「手伝いが必要なことだったらな」
「うん」
 直哉にとってその誕生日はかなり問題になるのだが。
 
 放課後。
 直哉は掃除当番として、来客用玄関を掃除していた。もちろん自分から進んでやっているわけではない。仕方なしにやっていた。
「……かったりー」
 ほうきを動かしている手も鈍い。とはいえ、来客用玄関は常に綺麗にしておかなければならず、チェックも厳しい。手を抜けばそれがそのまま自分に返ってくるだけなのだ。それほど広い範囲をやるわけではないが、適当にしかやらない教室に比べても、かなり時間がかかる。
「終わったー」
 ようやく一通りの掃除を終えた。あとは担当の教師がチェックをするだけである。
 直哉はほうきを用具入れにしまい、手持ち無沙汰で外を眺めている。
 午前中は雲ひとつない晴天だったが、午後に入って気温が上がったために雲が発生。曇り空ではないが、だいぶ青の部分を覆い隠していた。
「おい、直哉。帰っていいってさ」
 同じ掃除当番だったクラスの男子が、直哉に声をかけた。
「ん、わかった」
 直哉は思考を中断し、教室に戻った。
 教室にはあまり人は残っていなかった。残っている者も勉強をしているか、話をしているかのどちらかである。
 直哉は鞄をひっつかむと、教室を出た。
 廊下を行き交う生徒の数も、それほどではない。開いている窓からは、グラウンドで練習をしている運動部の威勢のいいかけ声が聞こえてくる。
 直哉は真っ直ぐに昇降口に下りてきた。
 もう少し早い時間なら帰る生徒でいっぱいだった昇降口も、今は閑散としている。
 とはいえ、直哉はそんなことには気にもとめず、靴を履き替えた。
「直哉」
 昇降口を出ると、菜緒が待っていた。
「ちゃんと掃除した?」
「したからこの時間なんだろ?」
「そうだね」
 菜緒はいつもと同じように微笑んだ。
「しかし、上着を着ると暑いな」
「明日までの辛抱よ。六月になれば衣替えで、着てこなくてもよくなるんだから」
「ようやくだよな。こういう時はつくづく私服の高校がうらやましいぜ。衣替えなんてないから、暑ければ薄着にすりゃいいし、寒けりゃ厚着すればいい」
「でも、毎日なにを着ていくか考えなくちゃいけないんだよ?」
「そうなんだよ。それが問題なんだよな。制服ならそんなこと考えなくてもいいから」
「どっちにもいいところも悪いところもあるんだから」
「でも、どちらかといえば、私服の方がいいかな。結局はあまり格好にこだわらなければいいんだから」
「直哉は私服の方がいいんだ。私は制服の方がいいな。というよりも、この制服が気に入ってるからだけどね」
 そう言って菜緒は、制服のリボンを揺らした。
「確かにその制服、人気あるからな。その制服を着たいがために、ここを受ける連中もいるくらいだからな」
「そういうのって、結構重要だからね。三年間通うわけだし」
「まあ、不純な動機でもそれで高校に入れればいいんじゃないか」
「相変わらずそういうことに厳しいね、直哉は」
「そうか?」
 直哉は小首を傾げた。
「男は制服なんてどれも似たようなもんだからな。学ランかブレザーしかないから」
「そうだね。特に直哉はそういうことに無頓着だからね」
「気にしてもしょうがないだろ?」
「ふふっ、直哉はなにを着ても似合うからでしょ?」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
 駐輪場から自転車を出し、学校を出た。
「直哉。ちゃんと約束守ってよ」
「約束?」
「ああーっ、もう忘れてる。昼休みに約束したでしょ? チーズケーキと紅茶のセットをおごってくれるって」
「ん〜、そういやそんな約束もしたような気もする」
「気もするじゃなくて、したの」
 菜緒は頬を膨らませて抗議する。
「わかったから、んな顔するな」
 嘆息混じりに呟く直哉。
 直哉たちはそのまま商店街に向かった。
 商店街は買い物客で相変わらず賑わっていた。
 いつものケーキ屋に入ったふたりは、おのおの好きなものを注文した。
「いただきまーす」
 菜緒は嬉しそうにチーズケーキを頬張った。
「う〜ん、美味しい」
「そりゃようございましたね」
「直哉におごってもらってるから、余計に美味しい」
「ったく……」
 直哉は多少面白くなさそうな様子で自分のケーキを食べた。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「今日、泊まりに行ってもいい?」
「ぶっ」
 菜緒の言葉に、直哉は思わず吹き出した。
「お、おまえ、いきなりなんつーことを」
「だってぇ」
「だってじゃない」
 直哉は心を落ち着けるように、紅茶を飲んだ。
「ね、いいでしょ?」
「よくない」
「どうして?」
「そ、そりゃ……」
 しかし、直哉はそれ以上は言えなかった。まさか、菜緒を襲ってしまうかもしれないなどとは、言えるはずもない。
「とにかく、ダメなものはダメだ」
「どうしても?」
「どうしても」
「絶対に?」
「絶対に」
「む〜、意地悪。いいもん、勝手に行くから」
「だあーっ、駄々っ子か、おまえは?」
「どうせ駄々っ子ですよ〜だ」
 菜緒は、完全に開き直ってしまった。
 直哉はもうあきれ果ててなにも言えない。
「ねえ、ダメ?」
 菜緒は最後のひと押しにと、もう一度聞いた。
「はあ……」
 それに対して直哉は、盛大に溜息をついた。
「しょうがねぇな」
「ホント?」
「特別だ」
「あはっ、ありがと、直哉」
 菜緒は、嬉しそうに微笑んだ。
 直哉は、もう溜息しか出なかった。
 
 そういう日に限って倉澤家は、家族全員揃っていた。
 雪恵は最近は家にちゃんと帰るように心がけているらしく、だいぶそれが珍しくなくなっていたが、和哉は珍しかった。なんでも週末までにやらなければならなかった仕事が、予想以上のペースで仕上がり、早々に帰れることになったらしい。しかも、久しぶりにちゃんと週休二日を満喫できるらしい。
 しかし、直哉は頭を抱えていた。どうせ今日は金曜日で、雪恵はともかく、和哉が早々に帰ってくるとは思っていなかった。ところが、ふたを開けてみてびっくり。全員ちゃんと揃っていた。千尋は菜緒とのことに関してはなにも言わないからいいが、和哉と雪恵はなんと言うか。こっそり家に上げても、事情を多少なりとも把握している晋也か美緒から話を聞けば、そんなことはすぐにバレてしまう。
「あのさ、母さん」
「ん?」
 しかして直哉は、個別に懐柔することにした。
 やはりふたり一緒の前では話しづらいらしい。
「俺がこれから言うことに、あまりどうして、とかなんでって思わないでほしいんだ。それと、あんまり深い理由も聞かないでほしい」
「それは内容にもよるわね」
 雪恵の言葉は至極当然だった。前もってそんなことを言われれば、誰だってその話が普通の話じゃないとわかる。
「話してごらんなさい」
 雪恵は洗い物の手を止めずに促した。
 直哉もいつまでも話さないわけにはいかず、ようやく決心した。
「今日、菜緒がさ──」
「菜緒ちゃんが?」
「うちに来るんだ」
「別に普通のことじゃない」
「そこまではね。それには続きがあるんだ」
「続き?」
 直哉は小さく頷いた。
「どんな続き?」
 それにはさすがに、雪恵も手を止めて直哉の方を見た。
「泊まりたいんだってさ」
 直哉はわざとそんな風に言った。それは動揺を隠すかのような、そんな言い方だった。
 雪恵はきょとんとした表情でそれを聞いていた。
「直哉も、ようやく自分の気持ちに正直になったのね」
 しかし、すぐにそんなことを言った。しかも、直哉の予想もしなかった言葉で。
「……なにも言わないの?」
 直哉はおそるおそる訊ねた。
「言ってもいいの? それなら言いたいことは山ほどあるけど」
「い、いや、遠慮しとく」
 雪恵の言葉に、直哉は慌てて首を振った。
「別に構わないわよ。菜緒ちゃんは知らない子じゃないし」
「……サンキュ、母さん」
「でも、直哉」
「なに?」
「ちゃんと避妊しないとダメよ」
 さらっといきなりそんなことを言う雪恵。
「ちょ、ちょっと待った、母さん」
 直哉は思わず転びそうになるのを堪え、雪恵の肩に手を置いた。
「なんでいきなりそんなことになるわけ?」
 抗議の声を上げた。
「なんでって言われても。直哉は菜緒ちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「そ、そりゃまあ……」
「菜緒ちゃんは昔から直哉のことが好きだったから。で、好き同士がひとつのベッドで寝るんだから、なるようにならないかしら?」
「ならんならん、絶対にならんっ!」
 直哉は力の限り否定した。
「直哉は知らないでしょうけど、うちと杉村さんとでは、ある約束を交わしてるのよ」
「菜緒んちと?」
「もう結構昔のことだけどね。将来もしふたりが好き同士でいたら、結婚させようって」
「け、結婚ーっ!」
「そうよ。まあ、半分冗談みたいだったけど、私たちの中には確信に似た感じがあったわ。将来ふたりは絶対に好き同士になるって。そして、それは現実のものとなった。そういうわけよ」
 雪恵は自分のことのように嬉しそうに言った。
「そ、それって、父さんもその場にいたわけ?」
「いたわよ。だいいち、言い出したのは和哉さんだもの」
「……余計なことを」
「別に婚約とか許嫁とかいうわけじゃないんだから、直哉に直接影響はなかったはずでしょ?」
「それはそうだけど、でも、俺のまったく知らないところでそんな話が進んでたなんて、かなり驚いた」
「ふふっ、直哉も七月には十八になるんだから、いつでも結婚できるわよ。親は両方とも承諾してるんだから」
「母さんはそんなに俺を菜緒と結婚させたいわけ?」
「そうよ。早く身を固めれば、いろんな子の間をふらふらしないで済むでしょ?」
 雪恵はすべてを知っているような、そんな意味深な笑みを浮かべた。
「麗奈と綾奈のことは、それで不問にしてあげるわ」
「……知ってたの?」
「別に本人から聞いたわけじゃないわよ。ただ、雰囲気や立ち居振る舞いから、そう判断しただけ」
 平然と事実だけを言う。
「まあ、直哉も和哉さんの子だから、そういうところはあるのかもしれないけど」
「まさか、父さんもそんな感じだったの?」
「ええ。遊んでたわけじゃないけど、私の前にもう何人もと肌を合わせていたわ」
「あの父さんがね……」
「でも、そんなこと関係ないのよ。最終的には私を選んでくれたわけだし」
「…………」
「だから、別に直哉を責めようなんて思ってないわ。でも、けじめだけはちゃんとつけなさい。わかってるわね?」
「わかってるよ」
 直哉は雪恵の言葉を真剣に受け止めた。
「……直哉は、私や和哉さんのことを、無責任な親だって思ってるでしょ?」
「な、なんだよ、いきなり」
「確かに私たちはあまり直哉を構ってあげられなかった。でも、それは直哉が可愛くなかったからってわけじゃないのよ。私も和哉さんも、ちゃんと直哉のこと、考えてる。考えていたらかこそ直哉のことは、千尋や菜緒ちゃんに任せたの。そうすれば私たちに対する想いは屈折してしまうかもしれないけど、そのほかの部分はきっと立派に成長してくれるって思って。そして直哉は、私たちの考えていた以上に立派に成長してくれたわ」
「……勝手だよ、そんなの。今更そんなこと言われたって……俺は、なんて言えばいいわけ? なにも言えないよ、そんなこと言われたら」
「勝手なのは、百も承知しているわ。でも、誤解だけはしないでいてほしかったから、だから話したの」
 雪恵の表情はいつも以上に優しく、その目は直哉を温かく見守っていた。
「……母さん。そのことに関して、少し考えさせてくれないかな?」
「いくらでも考えなさい。そして自分の納得できる答えを見つけなさい。私も和哉さんも、どんな答えでも受け入れるわ」
 そう言って雪恵は再び洗い物をはじめた。
 直哉もそれを合図に台所を出た。和哉に話さなければならないことも忘れて、自分の部屋に戻った。
「ふう……」
 ベッドに突っ伏すなり、溜息を漏らした。
「……余計なこと、聞いちまったな」
 まぶたを閉じ、腕を押し当てた。
「……今は、菜緒のことだけ考えていればいいのに」
 しかし、世の中それほど甘くはない。少なくともひとりでいる間は、余計なことをあれこれ考えてしまう。だから今は一刻も早く、菜緒が来てくれることを祈らずにはいられない直哉であった。
 
 九時半をまわった頃、菜緒がやって来た。
「で、おまえはなにを持ってきたんだ?」
 部屋に入るなり、直哉はそう訊ねた。
 菜緒はなにやらバッグをひとつ持ってきていた。
「なにって、単なる『お泊まりセット』よ。たいしたもんじゃないわよ」
 そう言って菜緒は、タオルだのなんだのを直哉に見せた。
「この前はそんなもん持ってこなかったじゃないか」
「この前はいろいろ気が動転してたからね。直哉と一緒にいることしか考えられなかったから」
「ふ〜ん」
 直哉はそれでそのことには興味を失ったのか、それ以上はなにも聞かなかった。
「ちゃんと写真、飾ってあるね」
 菜緒は机の上にひとつだけ置いてあるフォトスタンドを手に取った。中の写真は、直哉と菜緒のツーショット写真である。
「別にしまう必要もないからな。それのひとつくらい机にあったところで、邪魔になるわけでもないし」
「もう、直哉はどうしていつもひねくれた言い方しかできなの?」
「ふん、俺はひねくれた言い方だとは思ってないからな」
「素直じゃないの」
 それでも菜緒は微笑んでいた。
「今はこれだけだけど、これからはもっと飾ってくれるよね?」
「さあな。俺は基本的には写真は好きじゃないから」
「へえ、好きじゃない人がフィルム一本分も写真を撮るんだ」
「フィルム一本分? なんのことを……って、聞いたのか?」
「聞いただけじゃないよ。たーっぷり自慢されちゃった」
「あいつはまったく……」
 直哉は溜息をついた。
「優しいんだね、雅美には」
「たかが写真くらいでなにを妬いてるんだ、ったく」
「たかが写真、だけだったらね」
「な、なにが言いたいんだ?」
 迫る菜緒。引く直哉。
「雅美のうちに行ったなんて、聞いてなかったけどね」
「……なんでおまえにいちいち報告しなきゃならん」
「別に逐一報告しろなんて言わないけど、私の知ってる人のうちに行ったら、せめて教えてくれればいいのに」
「教えてどうなるってもんでもないだろ」
「そうだよねぇ。もし教えてなにをしてたかバレると、困るからねぇ」
「こ、困ることってなんだよ?」
「さあねぇ、なんだろ。直哉ならよく知ってるんじゃない?」
「……おまえ、だんだん性格悪くなってないか?」
「ええーっ、そんなことないよ。私はいつも通り、なにも変わってないわ」
「…………」
 直哉は無言で菜緒を抱きしめ、そのままキスをした。
「ん……キスで誤魔化そうとしてる」
「うるさい」
 しゃべれないように唇を塞ぐ。
 どのくらいキスをしていたのか、唇を離すと唾液がすーっと糸を引いた。
「頭が、ボーッとしちゃった」
 菜緒はトロンとした目で、どこか夢を見ているような表情で直哉を見つめた。
「これで余計なことを考えないで済むだろ?」
「余計なことじゃないと思うけど、でも、今回は許してあげる。無理言って泊めてもらうわけだし」
「それはどうも」
 そう言って直哉は、菜緒の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「……相変わらず、いい匂いがする」
「お風呂入ってきたからね」
 と、直哉は慌てて菜緒を引き離した。
「どうしたの?」
 不思議そうな菜緒。
「俺はまだ風呂に入ってないからな。このままだと汚れるだろ」
「いいよ、別に。もし汚れても、直哉と一緒にお風呂に入るから」
「ちょ、ちょっと待て。なんでそんなことになるんだ?」
「ダメ?」
「当たり前だろうが」
「でも、直哉のうちのお風呂場、大きいから大人でもふたりくらい入れるでしょ?」
「そ、そりゃあまあ……って、そうじゃないっ! 入れる入れないの問題じゃない。入る入らないの問題だ」
「ちっ……」
 菜緒は舌打ちした。
「……やっぱりおまえ、性格歪んできてるって」
「そんなことない。私は私」
 そう言って菜緒は、直哉の腕を胸に押し当てた。胸の柔らかな感触が腕から伝わってくる。
「ねえねえ、一緒に入ろうよ」
「……どうしてもか?」
「うん、どうしても」
 間髪入れずに答える菜緒。
 最近の菜緒の『お願い』はかなりグレードアップしていた。それは中身だけではなくお願いの方法もである。そして直哉は、そんな中からそれを断る術がほとんどないことを、イヤというほど思い知らされていた。従って、ここでも結論はひとつしかなかった。
「……頼むから、余計なことしないでくれよ」
 直哉はまたも菜緒に屈服した。
 それからふたりは風呂場へ。とりあえず直哉が先に風呂場へ入った。
 直哉はその時、風呂場のドアに鍵がついていればよかったと、心の底から思った。しかし、実際には鍵はついていない。
 直哉は溜息をつきつつ、掛け湯をして浴槽に入った。追い炊き機能のおかげでお湯はちょうどいい温度に保たれていた。
 直哉は浴槽の隅に、入り口に背を向ける格好で入っていた。
 それからすぐに菜緒が入ってきた。
 直哉はドアが開いただけで、閉まっただけでいつも以上に敏感に反応していた。
 菜緒もとりあえずはなにも言わずに浴槽に入った。
「やっぱり大きいね、直哉のうちのお風呂」
「…………」
「……そんなに小さくならなくったっていいじゃない」
「……いくら大きいったって、さすがにふたりは狭いからな」
「……じゃあ、こうすればいいよ」
 菜緒はそう言って、直哉に抱きついた。もちろん、裸である。
「いっ!」
 直哉は体を強ばらせ、逃げようとする。
「ダ〜メ。ちゃんとあったまらないと」
 しかし、菜緒はそれを許さない。
「お、おまえ、自分がなにをしてるのかわかってるのか?」
「わかってるよ」
 平然と言う菜緒。
「お風呂だって割り切っちゃえば、そんなに恥ずかしくないよ」
 菜緒は風呂に入っているせいか、それとも恥ずかしさからか、頬どころか耳まで真っ赤だった。
「直哉……私を見て」
 菜緒は、ゆっくりと直哉の顔を自分の方に向けた。
 菜緒は髪をまとめ上げている以外は。なにも身につけてはいない。
 お湯のせいでほんのりピンク色の染まったきめ細やかな肌が、とても艶っぽく綺麗だった。
「直哉に、今の私はどう映ってのかな?」
「……綺麗だ」
 直哉はぼそっと呟いた。
「すごく、綺麗だ」
 一度言ってしまえばあとはもう同じ。直哉はしっかりと菜緒を見据えて言った。
「あっ、直哉……」
 菜緒は、直哉のある部分を見て顔を背けた。
「おまえを見てこうなったんだ。おまえがあまりにも綺麗で魅力的だから」
「……ホントに?」
「ああ。この期に及んでウソを言ってもしょうがないだろ?」
「うん」
 菜緒もしっかりと直哉を見つめた。
「ほかの誰に言われるよりも、直哉にそう言われるのが一番嬉しい」
 そう言って直哉にキスをした。
「直哉には私のすべてを知っておいてもらいたいから。だから、よく見て」
 もう一度直哉に抱きついた。
「菜緒……」
「……こういう時でも、直哉は私のことを最優先にするんだね」
「どういう意味だ?」
「だって、直哉のはこんなになってるのに──」
 そう言って直哉のモノに触れた。
「それでも、私を抱こうとはしないんだもん……」
「それは──」
「私に魅力を感じてない、わけじゃないんだろうけど、ちょっと、淋しいかな」
「すまん……」
「謝らないで。謝られると、私が悪いみたいに聞こえるから。それに……」
「それに?」
「本当の恋人同士になったら、抱いて、くれるんでしょ……?」
 菜緒は、儚げな眼差しで問いかけた。
「……ああ、抱く。飽きるほど抱く」
「飽きられるのはイヤだなぁ。私には、直哉しかいないんだから。将来に渡っても、私は直哉以外に抱かれる気はないんだから」
「バーカ。こんな最高の女を相手にして、そう簡単に飽きるかっての」
「じゃあ、私は直哉にずっと想われているように、努力しなくちゃね」
 菜緒は、ニコッと笑った。
「ずっと、このままでいたいな……」
 その呟きは、浴室内によく響いた。
 結局ふたりが風呂から上がったのは、それから一時間後だった。
「……さすがにのぼせたぞ」
「……そうだね」
 部屋に戻ったふたりは、上気した顔ですっかりダウンしていた。
 窓を開け、外気を部屋に取り入れ、それでも足りない分は冷たいウーロン茶で補った。
「ちょっとのぼせちゃったけど、楽しかったからよかった」
「俺は楽しいなんてこれっぽちも思わなかったぞ」
「どうして?」
「そんな余裕あったと思うか?」
「う〜ん、なかったかな」
 菜緒は照れ笑いを浮かべた。
 直哉はウーロン茶を飲み干し、缶を置いた。
「でも、やっぱり直哉の体って、しっかりしてるよね」
「なんだよ、いきなり」
「特別なことなにもしてないのにね」
「体を動かすのは嫌いじゃないからな。自然とこうなっただけだ。でも、基本的にはなんの運動もしてないから、ある一定以上の年齢に達したら太ってくるだろうな」
「う〜ん、太った直哉って、全然想像できない」
「想像せんでもいい。俺だって別に太るつもりはない。常にベストを維持していくつもりだ。それより、男より女の方が太りやすいんだからな」
「な、なにが言いたいの?」
「気をつけろって言いたいんだ。別に見た目云々はいいけど、いいに越したことはないからな」
 菜緒は自分の体を見下ろした。
「……ちょっと気をつけないと」
「別に今は気にすることないだろ?」
「そういうのってなってからだと大変だからね。前もって気をつけてないと」
 直哉は余計なことを言ったと少し後悔していた。
「直哉にはいつも最高の私を見てもらいたいからね」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
 それからふたりはとりとめのない話をして過ごした。
「それっ!」
「ダイブするな」
 ベッドにダイブした菜緒に、直哉は一応注意した。
「う〜ん、直哉の匂いがする……」
 うつぶせになり、顔を埋める。
「ったく……」
 直哉も呆れながら、ベッドに横になった。
「消さないの、電気?」
「あとで消す」
 直哉は菜緒を仰向けにし、菜緒に腕枕をしてやった。
「ふふっ、腕枕か。なんかいいなぁ、こういうの」
「俺はあんまりよくないんだがな」
「どうして?」
「腕枕は腕が痺れるからだ。一晩中やってたら、明日はこっちの腕は使いものにならない」
「やったことあるの?」
「……一度だけな。あの時はマジできつかったぞ」
「でも、そんなそぶり、千尋さんの前では見せなかったんでしょ?」
「……余計なことは聞かんでいい」
 そう言って菜緒のおでこを小突いた。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「好きって言葉と愛してるって言葉、どっちがその人の想いを表してるのかな?」
「さあな、人にもよるんじゃないか?」
「じゃあ、私だったらどっちの言葉をより信じてくれる?」
「……俺はもともと愛してるって言葉は好きじゃないからな。なんか上辺だけの想いしか伝わらないような気がするんだ。実際はそんなことはないとは思うけど。だから俺は、好きって言葉を信じる」
「そっか。じゃあ、今度からは好きって言葉で私の想いを伝えるね」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
 ふっと会話が途切れた。
 ほんのわずかな時間の空白。しかし、それは永遠にも似た感覚を与えた。
 直哉も菜緒も、お互いを感じ、鼓動がどんどん速くなる。
「…………」
「…………」
 そして、もう限界という時。
「静まれ、俺っ!」
 突然直哉が声を上げた。
 腕枕をしていない腕を、バンバンとベッドに叩きつけた。
「直哉……」
 菜緒もなぜ直哉がそんなことをしているのか、わかっていた。
「まだだ、まだ早い。俺は、菜緒を壊したくない……」
 そして、思い切りベッドを殴りつけた。まったく手加減なしに。
 いくら布団とベッドのスプリングがあるとはいっても、手加減なしではそれなりに痛みを伴った。
「…………」
 その時、菜緒が直哉の腕枕を外し、その手を自分の胸に当てた。
「大丈夫。落ち着いて」
「菜緒……」
「焦らなくてもいいの。私は、直哉が納得いくまで待ってるから。ね?」
「菜緒っ」
 直哉は思わず菜緒を思い切り抱きしめていた。
「必ず、必ずおまえのすべての想いに応えてやる。だから……」
「うん……」
 その夜、直哉の部屋の電気が消えることはなかった。
 それでもふたりは、本当に幸せそうに眠っていた。それぞれの居場所で、心安らかに。
 
 二
 六月最初の日は、とにかく暑かった。前日の天気予報でも気温が高くなるとは言っていたが、朝から暑くなるとは言っていなかった。
 直哉はそんな中、ただひたすらに自転車をこいでいた。
 上はティシャツ、下はハーフパンツという夏の格好で自転車をこいでいた。
 朝食を食べ、すぐに家を出た。家を出てからかれこれ二時間になる。距離的に言っても、かなりの距離をやって来ていた。
 直哉はなんのためにこのような遠くまで来ているのか。
 それは次の日のためである。
 六月二日は千尋の誕生日である。つまり、直哉は千尋の誕生日のために自転車をこいでいた。
「……しかし、暑い」
 直哉は汗を拭い、忌々しげに空を見上げた。
「もうそろそろ見えてきてもいいはずなんだがな」
 多少スピードを落としながら、あたりを気にしながら進んでいく。
「おっ、あれだ」
 郊外の街道沿いに建つ工房。直哉はそこに自転車を止めた。
 そこは、貴金属や宝飾品の加工工房だった。
「すいません」
 直哉は閑散としている工房の中に足を踏み入れた。
 引き戸を閉めると、外の車の音がピタリと聞こえなくなった。
 そこそこ気温も高いはずなのに、中はひんやりと涼しかった。
 中は加工用の研磨機や高圧水で糸鋸のように切る機械などが置かれていた。
「あの、すいません」
 直哉はもう一度声をかけた。
「ちょっと待ってください」
 すると、奥から声が返ってきた。
 うんしょ、とか、よいしょ、とか声が聞こえてくる。どうやら靴を履いているらしい。
「お待たせしました」
 ようやく出てきたのは、年の頃二十四、五の女性だった。
「あの、ここで特注のアクセサリーを加工してもらえるって聞いてきたんですけど」
「ええ、できますよ。指輪、ピアス、イヤリング、ネックレスにブレスレット。なんでもできます」
 女性はにこやかに説明した。人懐っこい笑みは初対面の直哉ですらどこから惹かれるところがあった。
「これを使ってネックレスをお願いしたいんですけど」
 そう言って直哉は、なにやら取り出した。
「真珠ですね」
 それは真珠だった。粒の大きさはそれほどではないが、正真正銘の真珠だった。
「これを核にして飾りを作りましょう。デザインのご希望はありますか?」
「花を象ってもらえますか?」
「いいですけど、なんの花にしますか?」
「そういうの、よくわからないんですけど。ネックレスにしても、この花だってわかるものってどんな花ですかね?」
「そうですね。特徴的な形をしてるものがいいですね。たとえば、ひまわり、薔薇、椿、桜、スズラン、チューリップなどはわかりやすいと思います」
「あじさいなんかできますか?」
「できますけど、そう見えるかどうかは保証できませんよ?」
 そう言って女性は微笑んだ。
「あっ、デザインがややこしくなると、時間もかかりますよね?」
「そうですね。いつまでにお作りしますか?」
「できれば今日中にお願いしたいんですけど」
「今日中ですと、やはり単純な形のものになってしまいますが、よろしいですか?」
「はい、構いません」
「では、こちらの方でデザインを決めさせていただきます」
 女性はそう言って、傍らの机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「では、こちらの方にお名前とご連絡先を書いていただきます」
 直哉は必要事項を書き込んでいく。
「はい、確かにお預かりしました。それでお渡しの方は、今日の夕方以降になりますが」
「はい」
「わかりました」
 女性は紙に、さらになにかを書き込んでいる。
「あの」
「はい、なんでしょうか?」
「このあたりにどこか、時間をつぶせそうな場所はないですかね」
「時間をですか」
 女性は少し考えた。
「このあたりは特になにもないところですからね……この住所ですと、だいぶ遠くからお越しのようですね」
「まあ、そうですね。自転車で来ましたから」
「えっ、自転車でですか?」
「ええ。三時間はかからなかったと思いますけど」
「となると、一度お帰りになる、というわけにもいきませんね」
「そうですね」
「では、奥の方でお待ちになりますか?」
「いいんですか?」
「はい。どうせ今日は私しかいませんから」
 そう言って女性は微笑んだ。
「では、すいませんがそうさせてもらいます」
 直哉はその申し出を素直に受けることにした。
「申し遅れましたが、私は藤宮千里と言います」
「藤宮さんですね」
「千里で構いませんよ」
 そう言ってその女性──千里は微笑んだ。
 直哉は工房の奥、休憩スペースのような場所に通された。
「どうぞ」
「あっ、すいません」
 直哉は出されたお茶を受け取り、一口飲んだ。
「では、私は作業に入りますので」
「あの、迷惑でなかったら、見ていてもいいですか?」
「ええ、いいですよ」
 直哉と千里は、また表の方へ出てきた。
 まず千里は、真珠に合うネックレスの型を選んだ。
 次に飾り部分のデザイン。真珠を核にしても花に見えるものということで、一番オーソドックスな桜が選ばれた。
 デザインが決まってしまえばあとは早い。デザインした桜を型にし、そこへ熱してドロドロになった銀を流し込む。あとは、それを冷まして磨く。
 それほど難しい作業ではないが、素人にはちょっと無理である。
「どなたかへの贈り物ですか?」
「はい。姉の誕生日のプレゼントにと」
「お姉さんですか」
「今年で二十歳なので、なにかしようと思ったんですが、平日ということもあって、それは断念しました。代わりに、ふたつとないものを贈ろうと思ってここへ来ました」
「そうですか。でも、よくここのことがわかりましたね。ここは普段はごく普通の工房ですから。私が趣味と実益を兼ねてやっている特注アクセサリーは、土曜日と日曜日にだけですし。よほどお調べになったか、どなたからかお聞きにならなければなかなか知り得ないと思いますけど」
 千里は作業を続けながら訊ねた。
「本人に口止めされたんですけど、まあ、いいですね。千里さんの知り合いに、桜井瑞穂という女性がいますよね?」
「桜井瑞穂って、あの瑞穂のこと?」
「高校時代、一緒だったそうですね。それでその瑞穂さんは今、うちの高校で非常勤講師をしているんです。それで、たまたま今回そういうことを考えているって話したら、ここを紹介されたんです。ただ、なぜか私が教えたことは黙っていてほしいって言ってましたけど」
「そうでしたか。瑞穂の紹介で」
 千里は得心といった様子で頷いた。
「瑞穂、元気にやってますか?」
「はい。学校での評判もなかなかいいですよ。授業はわかりやすくて、おまけに美人で。特に男子に絶大な人気がありますね」
「まあ、そうなんですか。高校時代の瑞穂からは想像もできないですね。あの頃の瑞穂は、なにをするにしても人のあとについて、自分からなにかをするような子ではなかったですからもちろん、人気が出るなんてことも」
「変わったんですよ。いろいろと」
「そうですね。高校を卒業して七年。七年もあれば、変わりますね」
 実はたった数週間で変わったと、しかも自分が変えたとは言えない直哉であった。
「でも、まさか瑞穂の教え子の方がお見えになるとは思いも寄りませんでした。そういえば──」
「なんですか?」
「倉澤さんは、瑞穂の好みのタイプに似てますね」
「そ、そうですか?」
「はい。なるほど、そういうことですか」
 千里は直哉の顔をじっと見て、なにやらひとりで納得した。
「なにがそういうことなんですか?」
「いえ、なぜ瑞穂が自分のことを私に黙っていてほしいかわかったんです」
「どういうことだったんですか?」
「ふふっ、それはあとで私にいろいろ聞かれるのがイヤだったんでしょう。特に、倉澤さんとの仲を」
 千里は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 化粧気はほとんどないが、美人の千里である。笑い方ひとつとっても絵になった。
「でも、さすがに教え子に手を出してはいけませんよね」
「えっ……?」
「そのあたりのことは、詳しく聞いてみたいですね、本人から」
「あ、あの、どうしても聞いてみるんですか?」
「大丈夫ですよ。倉澤さんのお名前は出しませんから。私が風の噂で倉澤さんの高校に瑞穂が赴任したのを知った、ということにしますから」
「は、はあ……」
 かなり無理のある理由だった。直哉もようやくこの時点で、瑞穂の言うことを聞いておくべきだったと後悔した。
 作業は順調に進み、冷ましの作業に入っていた。
「ここまでくれば、あとはもうひと息ですね」
 直哉は思ったよりも時間がかかっていないことに安心した。
「あの、千里さん。聞いてもいいですか?」
「なんですか?」
「どうしてせっかくの休みに、こんなことをしているんですか?」
「それは、少しでも早く一人前の職人になりたいからですよ。寝食を惜しみ、寸暇を惜しんで物事に取り組まないと見えないこと、できないこともあるんです。私の夢をかなえるにはまだまだ力不足ですから」
「夢、ですか」
「いつかは日本だけでなく、世界で自分の力を活かしてみたいんです」
「世界で……」
「まだまだ遠い夢ですけどね」
 そう言って千里は笑った。
「千里さんがもし世界で活躍するようになったら、今日作ってもらってるネックレスにもプレミアがつきますね」
「そうなるといいですけど」
「きっと大丈夫ですよ。努力はした分だけ自分のところに帰ってくると信じていれば、きっと大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます。倉澤さんにそう言われるとなんだか本当に大丈夫のような気がしてきました。私も現金ですね」
 ふっとふたりの間の空気が変わった。
「倉澤さんは、素晴らしい方ですね。素晴らしい考え方を持っています」
「そんなことないですよ」
「人間は思うがままに生きることの代償として、それ相応の努力を強いられます。そしてたいていの人はその努力に耐えられなくなり、思うがままということを捨てます。たとえ捨てなくともなかなか前へは進めません。ですが、倉澤さんのような方が側にいるか、もしくは倉澤さんのような考え方ができれば、それを乗り越えられるかもしれません。瑞穂のように」
「千里さん……」
「倉澤さん。私にひと時の──」
 皆まで言う前に、千尋の唇は直哉の指で塞がれていた。
「それ以上は、やめましょう」
「倉澤さん……」
「お互いにとって、あまりいい結果を生み出さないような気がしますから」
 そう言って直哉は微笑んだ。
「……はい、そうですね」
 それにつられ、千里も微笑んだ。
 
「…………」
 緊張した面持ちで直哉は千里の様子を見ている。
 千里はネックレスの飾り部分の仕上げを行っている。
「……これで終わりです」
 最後に真珠を磨き、飾りをチェーンにつけて完成。
 それは少し大きめの銀色の桜の花だった。中心には真珠。直哉はそれを受け取り、しばし見入っていた。それほど完璧な出来映えだった。
「急ごしらえでしたが、それなりに満足のいくものには仕上がりました」
 千里もできには満足しているらしい。
「ご満足いただけましたか?」
「はい。とても素晴らしいです。わざわざここまで来た甲斐がありました」
「そう言っていただけるとありがたいです」
 直哉の言葉に千里は嬉しそうに微笑んだ。
「それではお包みしますね」
 千里はネックレスを専用のケースに入れ、丁寧にラッピングした。
「では、こちらになります」
 直哉はそれを受け取ると、鞄にしまった。
「もしなにかありましたら、いつでもご連絡ください。修理も行いますので」
「わかりました」
 外はすでに夕方。東の空は、だいぶ暗くなっていた。
「今から帰られると、だいぶ遅くなりませんか?」
「大丈夫ですよ。うちの家族はもともとそういうことにこだわらない家族ですから」
「そうですか」
「千里さん」
「はい」
「またそのうちに、遊びに来てもいいですか?」
 直哉のその言葉に一瞬驚いた千里。
「ええ、構いませんよ。今度は瑞穂も連れてきてくださいね」
 だが、すぐに微笑んで言った。
「あの、倉澤さん──」
「直哉でいいですよ」
「……では、直哉さん」
「なんですか?」
「今日は、私を止めてくださって、ありがとうございました。もしあのままなんの考えもなしにあなたに抱かれていたら、私は取り返しのつかないことをしていたかもしれませんから」
「それは、気にしないでください。俺だって、不覚と言うべきか、その、千里さんを抱きたい、と思ってしまいましたから。はは、おかしいですよね、そんなの」
 直哉はそう言って自嘲した。
「いえ、そんなことはありません。私も、同じですから」
「じゃあ、お互い様、ということですね」
「ふふっ、そうですね」
 直哉はふっと微笑むと、自転車にまたがった。
「今日は本当にありがとうございました。おかげで素晴らしいプレゼントを贈ることができます」
「これくらいのことなら、いつでも言ってください」
 そう言って千里は、直哉に一枚のメモ用紙を渡した。
「私の家の電話番号です。もし、どうしてもお暇な時には、かけてみてください。話し相手くらいはつとまりますから」
「わかりました」
 直哉はそれをポケットにしまった。
「では、そろそろ」
 ライトを点ける。
「さようなら、千里さん」
「さようなら、直哉さん。それと、お話を聞いてくださって、ありがとうございます」
 直哉を見送る千里の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
 そして千里は、直哉が見えなくなるまでその背中を送っていた。
 ちょうど西の空に太陽が沈む頃だった。
 
 その日、直哉が家に帰り着いたのは十時近くのことだった。
 さすがに往復およそ六時間は堪えたのか、直哉は夕食を食べる気力さえ残っていなかった。すぐに風呂に入り、上がるとそのままベッドへ直行。ものの数分で眠りに落ちてしまった。
 こうして六月最初の暑い日は過ぎていった。
 
 三
「なおくんは将来、なにになりたいの?」
「うんとね、ぼくね、お姉ちゃんのお婿さん」
「お婿さん? 私の?」
「うんっ!」
 屈託のない笑顔で頷く直哉。
「……嬉しいけどね、なおくん。姉弟はね、結婚できないんだよ」
「どうして?」
「どうしてって言われても、決まりだからね。決まりは守らないといけないでしょ。だから、わかって、なおくん」
「でも、ぼく、お姉ちゃんのお婿さんになりたいな。けっこんて、大好きな人同士がすることでしょ? ぼく、お姉ちゃんのこと大好きだもん」
「私だってなおくんのこと、大好きよ。でも、決まりは守らなくちゃね」
「うん……」
 直哉は一応頷いたものの、納得しきれていない様子。
 千尋はそんな直哉を、優しく抱きしめることしかできなかった。
 そう、その時は──
 
「なおくん……」
「姉さん……」
 ふたりは吸い寄せられるようにキスを交わす。
「俺たち姉弟なのに……」
「それは言わない約束よ」
「そうだね」
 直哉は千尋をベッドに横たわらせた。
 すでにふたりともなにも身につけていない。
「すごく綺麗だよ、姉さん」
「ありがとう、なおくん。なおくんのためだけに綺麗になったんだからね」
「うん」
「今日からは、心だけじゃなく、私の体も愛して……」
 そしてその日、直哉と千尋ははじめて、お互いを慰め合った。
 千尋中学三年、直哉中学一年のことだった。
 
「……ん、朝か……」
 六月二日の朝。
 直哉はいつもより少し気怠い感覚の中で目覚めた。
「……さすがに足が張ってるな」
 一晩寝ても昨日の疲れは完全には抜けきらなかった。それでも今日はやってくるわけで、直哉は多少重い体を引きずるようにベッドからはい出た。
 カーテンを半分閉め忘れた窓からは、今日も明るい光が差し込んでいた。
 窓を開けるとひんやりとした空気が部屋に流れ込んでくる。昨日ほど朝から気温は高くない。
 直哉は机の上に置きっぱなしになっていた千尋へのプレゼントを、とりあえず机の中にしまった。
 部屋を出て下に下りる。
「おはよう、姉さん」
「おはよ、なおくん」
 台所では、いつものように千尋が朝食の準備をしていた。ここでいつもならすぐに洗面所へ向かうのだが、今日は違った。
「姉さん。二十歳の誕生日、おめでとう」
「うん、ありがとう、なおくん」
 お祝いを言い、千尋を抱きしめキスをした。
「ちゃんとしたお祝いは、帰ってきてからやるから」
 直哉はそう言って今度こそ洗面所へ。
「……こういう誕生日は、今年で最後かな」
 千尋はぽつりと呟いた。
 朝食はいつもとまったく変わらなかった。
 直哉が食べ終わる頃、雪恵が起きてきた。
 直哉は雪恵に千尋の誕生日であることを再確認させ、必ず今日は帰ってくるように言った。
「なおくん、忘れ物、ない?」
「大丈夫」
 直哉は鞄をパンと叩いた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、なおくん」
『いってきます』のキスを交わして家を出た。
 外は多少陽差しは強いものの、風があり、心地良かった。
 昨日さんざん世話になった自転車を車庫から出す。
 表に出るといつも通り菜緒が待っていた。
「おはよ、直哉」
「うっす、菜緒」
 とりあえず自転車をこぎ出す。
「いよいよ今日だね、千尋さんの誕生日」
「ああ。今日は頼むぜ、総料理長」
「なんかすごいプレッシャーな言い方」
「心配すんな。いつも通りやりゃいいんだよ。おまえの腕は、俺の保証付きだ」
「ちょっと心許ないけどね」
「なにおう」
「ふふっ、冗談だよ」
 直哉は月曜日はいつも帰りの遅い千尋に代わって、菜緒に夕食の支度を頼んだ。
 直哉の作れる料理などたかが知れてる。それが普通の日ならいいが、今日は特別な日である。食べてくれる千尋は納得しても、直哉が納得できない。
 となると、直哉が信頼できる料理の腕を持っているのは、菜緒ということになった。
「直哉も千尋さんのことになると、途端に人が変わるからね」
「そりゃ、姉さんだからな。どんなにがんばっても姉さんはこの世にひとりしかいないんだから。そして、その弟は俺しかいない。姉弟として祝ってあげられるのは、俺しかいないからな。だから、精一杯やるんだ」
「そうだね。私にとっても千尋さんはお姉さんみたいな存在だから、今日は一生懸命がんばるよ」
「ああ、任せたぞ」
「うん」
 学校までの道すがら、直哉たちは千尋のことで盛り上がった。
 学校は今日から衣替えのため、白が目立った。男子も女子もブレザーを脱いだだけなのだが、それでもだいぶ感じが違った。まだ移行期間ということで上着を着てくる生徒もいるが、今日も暑くなるということで、ほとんどの生徒は夏服だった。
 直哉も菜緒もそんな中のふたりであった。
「うおっす」
「おはよう」
 教室の中もすっかり白だった。
「おはよう、菜緒」
「おはよ」
「菜緒も上着は着てこなかったんだね」
「うん。気温も高くなるって言ってたし」
 菜緒が暮らすの女子と話しているうちに、直哉は自分の席に鞄を置いた。
「ふわ〜あ……」
「眠そうね」
「ん、雅美か」
 直哉が机に突っ伏そうとしていると、雅美が声をかけてきた。
「ちょっと疲れ気味?」
「まあな。昨日はかなり遠出したから」
「かなりってどのくらい?」
「自転車で片道およそ三時間」
「三時間? それ、マジで?」
「マジもマジ。大マジ」
「そんなに遠くまでなにしに行ったの?」
「姉さんの誕生日プレゼントの調達」
「今日だったっけ?」
「ああ」
「相変わらず気合い入れてるの?」
「今年は特にな。なんたって二十歳の誕生日だからな」
 直哉はそう言って微笑んだ。
「雅美、おはよ」
「おっはよー、菜緒」
「なに話してたの?」
「姉さんのことだよ」
「菜緒も関わってるんでしょ?」
「うん」
「今回の菜緒の役職は『総料理長』だからな」
「菜緒が作るの?」
「一応ね」
「そっか。菜緒が作るんだ」
「おまえも来たければ来てもいいぞ」
「ううん、いいよ。せっかくの誕生日だからね。気を遣わせたくないし」
「ったく、変なところばっかり気を回しやがって」
「あたしは慎み深いからね」
「どこがだ?」
「にじみ出てるでしょ、慎み深さが?」
「あっそ」
 直哉は興味なしのポーズをとった。
「むっ、なによ、その態度」
「いや、ついに雅美も頭がいかれたのかと思ってさ」
「どこがいかれてるのよっ!」
「全部」
 と、雅美の手が飛んだ。
「いてっ! なにすんだてめぇ」
「知〜らない」
 相変わらずの直哉と雅美である。
「直哉も雅美も変わらないと思うけどな」
 菜緒はそう言って溜息をついた。
 
 昼休み。
「直哉くん、いる?」
 直哉と菜緒がいつもとように屋上で弁当を食べていると、瑞穂がやって来た。
 直哉もある程度は予想していたのか、別段驚きもしなかった。
「なんすか?」
「ちょ〜っと話があるんだけどな」
 顔は笑っているが、目は笑っていなかった。
「菜緒、ちょっと待ってろ」
 直哉は瑞穂を屋上の隅へ連れて行った。
「で、話とは?」
「千里に話したでしょ?」
「はて、なんのことやら?」
「昨日の夜、電話がかかってきたのよ。それで根掘り葉掘りいろんなことを聞かれたわ」
「ふ〜ん。で、なんて答えたの?」
「ホントのことなんて話せるわけないでしょ? 適当に誤魔化してはおいたけど」
 瑞穂はちょっと涙目で抗議する。
「あれほど黙っていてって言ったのに」
「…………」
「千里はね、昔からものすごく勘が鋭かったの。だから私が紹介したって知れば、直哉くんとの関係を推測するのは当然なのよ。私も千里のことはよく知ってるけど、千里も私のことをよく知ってるんだから」
「まあ、起こってしまったことをいつまでも言っていてもしょうがない」
「直哉くんのせいでしょ?」
「ははは、そうでした」
 まったく悪びれた様子のない直哉。
「でもさ、会話を続けるために瑞穂さんの名前を出したのは、間違ってなかったと思うけどね。初対面の人と話すにはそれなりのきっかけが必要だからね。おかげで会話はスムーズに進んだし」
「千里とも仲良くなったみたいだしね」
「仲良くなったっていえばそうかもしれないけど」
「初対面の直哉くんのことを『直哉さん』て呼んでたけど。単なるお客と店主の関係ならそんな風に呼ばなくてもいいのに」
「……ひょっとして、妬いてる?」
「妬きもするわよ。電話口の千里、すごく楽しそうに直哉くんのこと話すんだから」
「ま、関係云々はいいとして」
「よくない」
「初対面で俺のことを名前で呼んだのは、瑞穂さんだってそうじゃないか。いきなり俺のことを『直哉くん、て呼んでもいいかな?』なんて聞いてさ」
「あれは、直哉くんとはしばらくつきあいがありそうだったからで──」
「理由はどうあれ、そのことについては瑞穂さんに千里さんを責めることはできないと思うけど」
 正論を突きつけられて、瑞穂はなにも言い返せなかった。
「でもまあ、瑞穂さんをそこまで追いつめたのは俺の責任だからね。謝っておくよ。ごめん」
「直哉くん……」
「これでも瑞穂さんには感謝してるんだから。千里さんを紹介してくれたおかげで、予想以上のものを得られたからね」
「もう、調子いいんだから」
「ははは、俺は意外にお調子者だからね。知らなかった?」
「それくらい知ってるよ」
 そう言って瑞穂も微笑んだ。
「さてと、そろそろ話を切り上げないと俺は殺されそうだから」
 直哉はそう言って菜緒の方を見た。菜緒は直哉が瑞穂と話しはじめてからずっと、ふたりの様子を見ていた。直哉には痛いほどの視線を送って。
「それじゃあ、私は戻るね」
「ああ、そうそう」
「ん?」
「今度来る時は、瑞穂さんも連れてきてくれってさ」
「考えておくわね」
 瑞穂はそう言い残して屋上をあとにした。
「なに話してたの?」
「おいおい、いきなりそれか?」
「だって、気になるんだもん」
 菜緒はそう言って口をとがらせた。
「別にたいしたことじゃない。昨日、先生の高校時代の友人のところへ行って、そのことについてちょっとな」
「そのちょっとの部分が、すご〜く気になるだけど」
「それはいくら菜緒でも話せないな。プライベートなことだから」
 直哉はそう言って笑った。
「ま、別にやましいことなんか話してないから安心しろ。今の俺にはおまえが一番なんだから。そのおまえをさしおいて、なんかするわけないだろ?」
「そりゃ、直哉のことは信じてるけど、前科があるからね」
「なんだよ、その前科って?」
 直哉は首を傾げた。
「雅美でしょ、桜井先生でしょ、かえで先生でしょ。ほかにもいるかもしれないけど、これだけで前科三犯だよ」
「…………」
 直哉はなにも言い返せなかった。
「……いやあ、この唐揚げ旨いなぁ」
「誤魔化さないの」
「はい……」
「直哉はいつもそうなんだから。肝心なことになるとすぐ誤魔化して。そりゃ、ホントは包み隠さず全部話してほしいけど、それができないこともあるだろうから、せめて私にもわかるように話してよ」
「……わかったから、そんな顔するな」
 直哉はそう言って菜緒の隣に座った。
「俺もさ、おまえとどんなスタンスで話したらいいか、まだわからないところもあるんだ。だからやってほしいことは言ってくれ。極力おまえの言う通りにするからさ」
「うん」
 菜緒は小さく頷き、頭を直哉に寄せた。
「これからも続くのかな」
「なにがだ?」
「直哉の浮気」
「だ、誰が浮気なんかしたって言うんだ?」
「直哉は誰にでも優しいからね。すぐに浮気に発展しちゃうよ」
「むぅ……」
「なんでそこで黙っちゃうの?」
「いや、なんか妙に説得力があったからさ。そうなのかなぁって思って」
「自分のことでしょ?」
「ははは、そうだったな」
「もう……」
 菜緒は溜息をついた。
「でも、そういうのって私が信じていなくちゃいけないんだよね。私が信じられなくなっちゃったら、終わりだよね」
 妙に、終わりだよね、のところが強調されていた。
「ったく、おまえは余計なことばかり気にしすぎなんだよ」
「余計なことじゃないよ。すごく重要なことだよ」
「少なくともおまえから俺のことを嫌いにでもならない限り、俺がおまえを嫌いになることはない」
「私だって、直哉を嫌いになることなんてできないし、ほかの誰かを好きになることもできない」
「ならいいじゃないか。盲目的にそのことを信じてたって」
 直哉はそう言って菜緒の肩を抱いた。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「怒らないからさ、今まで何人の人を抱いたか教えて」
「……そんなの聞いてどうするんだ?」
「どうもしないよ。ただ、その人たち以上に私は直哉のために尽くすだけ」
「……バーカ。俺はおまえにそんなこと望んでない。それに、おまえはなんか勘違いしてないか?」
「勘違い?」
「抱かれることイコール愛され幸せなことだと思ってないか? もしそんな風に思ってるなら、そんな考えすぐに捨てろ。いいな?」
「……うん」
 菜緒は頷きはしたが、まだ納得しきれていない様子だった。
「さてと、さっさと食べちまわないと、昼休み終わるからな」
 そう言って直哉は、いったん菜緒の側を離れようとした。しかし、菜緒が直哉の腕をつかんでて離れられなかった。
「おい、菜緒。俺に食わせないつもりか?」
「ここでも食べられるでしょ?」
「そりゃまあ、そうだけど」
 菜緒は直哉の分の弁当箱を自分の方に引き寄せた。
「食べさせてあげる」
「いっ、べ、別にいいって」
「いいから」
 菜緒は唐揚げを箸でつかんだ。
「はい、あ〜んして」
 まるで子供に食べさせるように直哉の前に出した。
「ひ、ひとりで食べられるって」
「いいから。あ〜んして」
 菜緒はまったく聞く耳を持たない。
 直哉は誰もいない屋上をさらに誰もいないことを確認して、相当の勇気を持って口を開けた。
「あ、あ〜ん……」
「はい」
 菜緒は意外に慣れた手つきで唐揚げを食べさせた。
「ふふっ、なんかいいな、こういうの」
「……俺はめちゃくちゃ恥ずかしいぞ」
「恥ずかしいって、誰も見てないのにどうして恥ずかしいの?」
「見てようが見てまいが関係ない。恥ずかしいものは恥ずかしいんだ」
 直哉は恥ずかしさから耳まで真っ赤になっている。
「と、とにかく、そんな食い方してたら、昼休みが終わる」
 直哉は箸と弁当箱をかっさらうと、そのままかき込んだ。
「ああん、もうちょっとやってみたかったのに」
 心底残念そうな菜緒。
「んなことよりおまえも食え。遅れるぞ」
「わかってるよ」
 菜緒も残っていた自分の分を食べた。
「あっ、そうだ」
「なんだよ?」
「さっきは上手く誤魔化されちゃったけど、直哉、私の質問にちゃんと答えてない」
「質問?」
「何人の人を抱いたのかってこと」
「うぐっ……」
 と、直哉は食べていた弁当をのどに詰まらせた。
「お、お茶……」
「答えてくれる?」
 それを交換条件にする。
「て、てめぇ……」
「私は別にいいんだけど」
「わ、わかった……」
 苦しさが先に立って直哉が折れた。
 お茶をもらい、一気に飲み干した。
「ふう、マジで死ぬかと思った」
「さあ、ちゃんと答えてもらいましょうか」
「あっ、いや、そのなんだな。はは、いやあ、今日もいい天気だな」
「そうね、いい天気ね。だから答えて」
「……そういや、今年の梅雨入りは例年より早いんだってな」
「そうね。だから答えて」
「菜緒ぉ」
 直哉は涙目で菜緒に懇願した。
「ダ〜メ。絶対に答えてもらうからね」
 しかし、菜緒は強かった。
「別に誰となんていうのは聞かないからさ」
「ううぅ……」
「泣き真似してもダメ」
「ちっ……」
「直哉」
「ああーっ、もう、わかったから。その代わり、今後いっさいこのことを俺に聞くなよ。それが俺の条件だ」
「約束する」
 間髪入れずに答える菜緒。菜緒としても、そう何度も聞くつもりはなかったのだ。
「俺が今までに抱いた人数は──」
「人数は?」
「あれ、何人だっけ?」
「はあ?」
「いや、別にそんなの数えてないからさ。ちょっと待ってろ」
 直哉はそう言って指を折っていく。直哉の指が一本折られる度に、菜緒の表情が強ばる。
「たぶん、これだけだな」
「何人だったの?」
「五人だ」
「五人……」
 菜緒は改めて直哉という存在の大きさを思い知らされた。おそらくその中で直哉から求めたことはないだろう。すべて直哉を求めての行為であろう。そういう結論に至った。
「私、絶対、絶対ぜ〜ったいに負けないからね。すべてにおいて直哉の一番になってみせるから」
「……ああ、そうだな」
 直哉は、今はそれしか言わなかった。
 今は、それ以上の言葉は必要なかった。
 
 放課後。
「菜緒、帰るぞ」
「あっ、待ってよ」
 直哉はホームルーム終了と同時に席を立った。菜緒に声をかけてそのまま教室を出て行く。
「もう、そんなに慌てなくても、十分間に合うわよ」
「別に慌ててなんかいないぞ。ごく普通だ」
「どこがごく普通なのよ。かなりの早足になってるわよ」
「これが俺の普通だ」
 あくまでもそう言い切る直哉。
「もう、ストップ」
「お、おい……」
 菜緒は直哉の腕を取って強引に止まらせた。
「なにをそんなに焦ってるの?」
「別に焦ってなんかいない」
「じゃあ、普通にすればいいでしょ?」
 そう言って菜緒は、直哉の腕を放した。
 すると、今度は直哉もいつも通りの速さで歩き出した。
「ホントに千尋さんのことになると人が変わるんだから」
 菜緒も呆れ半分であとを追いかけた。
 学校を出ると、直哉は脇目も振らずに家へ一直線である。菜緒は、そんな直哉についていくのが精一杯だった。
 だから家に着いた時には、すっかり息が上がっていた。
「も、もう、速すぎるよ、直哉」
「そうか? いつも通りだったと思うけど」
「二十五分かかってないんだよ、学校から」
「ん〜、そりゃ速いな」
 直哉は平然と言う。直哉にとっては、それほど速かったわけではないからだ。菜緒がいるからいつもは三十分かけていたが、本来なら、もっと早く着ける。
「まあいいや。それより、準備ができたらうちに来てくれよ」
「わかってるわよ」
「んじゃ、あとでな」
 直哉はそう言って、自転車を車庫に戻しに行った。
「……今日はしょうがないか」
 菜緒もそれだけ呟くと家に入った。
 直哉はいつものように鍵を開けて中に入った。この時間に誰かがいるなんてことの方が珍しい。
 とりあえず部屋に戻り、鞄を放り投げて制服を着替える。
「……ケリはつけないとな」
 直哉はそう呟いて部屋を出た。
 下に下りるとすぐに準備にとりかかった。
 リビング、ダイニングを片づける。台所ではパーティーに必要なものが揃っているか確かめる。
 そんなことをしていると、菜緒がやって来た。
「直哉。ちょっと手伝って。うちの方にまだ残ってるから、このお鍋、コンロのところにでも置いといて」
「わかった」
 直哉は菜緒から鍋を受け取り台所へ。
 中身が気になりふたを開けてみる。
「おっ、コーンスープ」
 その中身は、コーンのたっぷり入ったスープだった。
 それから菜緒は、家の方から材料やらなんやらを持ってきた。
「総料理長。今夜のコンセプトは?」
「私の得意な料理。本とかを見ながら作ってもいいんだけど、やっぱり自信のあるものの方がいいと思って」
「なるほどな」
「でも、私の得意料理って、直哉好みのものばかりなんだけどね」
 そう言って菜緒は笑った。
「まあ、別にいいさ。姉さんも菜緒の作ったものならなんでも食べるから」
「千尋さんならそうだと思うけど。でも、なんか複雑な気分」
「いいんだよ。今日の主役は姉さんなんだから。俺たちはあくまでも脇役」
「そうだね。そう割り切ればいいんだね」
「そうそう」
「じゃあ、もう少し準備しちゃうね」
 菜緒はそう言って台所に立った。
 エプロンをして髪をひとつに束ねて台所に立つ姿は、幼妻を連想させた。
 直哉もその想いがあるらしく、菜緒をじっと見つめては頭を振っている。
「そういえば、直哉」
「ん?」
「ケーキとかはどうなってるの?」
「ああ、それなら母さんが買ってくるはずなんだけど。なんでも局の方でも評判のケーキ屋で買ってくるって言ってた。まあ、父さんが買ってくるより信頼が置けるから」
「そんな言い方したらおじさんが可哀想だよ」
「いいんだよ。父さんは口だけだから。実際、今日だってまともな時間に帰ってこられるのかどうか。なんとか定時に帰れるようにはするって言ってたけど」
「おじさんも千尋さんのためだからね」
「姉さんには過保護だからな」
「直哉も過保護に育ちたかったの?」
「いや、全然。それに、俺の場合は姉さんやおまえがいたからな。なんの問題もなかった」
「千尋さんならともかく、私にはおじさんやおばさんの代わりは務まらないと思うけど」
「別に父さんや母さんの代わりなんて求めてない。いつも側にいてくれたってことが大事なんだ」
「家族のぬくもり、かな」
「さあな」
 直哉は適当に誤魔化したが、まさに菜緒の言う通りだった。
 それきり直哉が黙ってしまったので、菜緒は作業を続けた。
 それからしばらくは菜緒も黙々と作業を続けていた。直哉もダイニングからその様子を見つめていた。
 と、直哉は立ち上がり、台所へ。
 そしてそのまま──
「菜緒っ!」
「きゃっ」
 後ろから菜緒に抱きついた。
「ど、どうしたの?」
「いや、あまりにもおまえのその姿が似合ってて、つい我慢できなくて」
「もう……」
 菜緒は火を弱め、前にまわされた直哉の手を握った。
「おまえの後ろ姿、すごく様になってた」
「ホント?」
「ああ。そう思って見てたら、無性に抱きしめたくなって」
 直哉は菜緒の首筋に顔を近づけた。
「俺がこんなことを思うなんて滅多にないけど、もし菜緒と結婚したら、こんな感じなのかなぁって、そう思った」
「直哉……」
「新鮮なんだな、こういう格好が。エプロンして髪をひとつに束ねて。普段と違うからさ、雰囲気が全然」
 直哉がここまで自分の想いを素直に伝えるのは珍しかった。
 だからこそ、菜緒も素直にそれを聞いていた。
「そうだ。俺はひとつ決めたぞ」
「なにを決めたの?」
「今はまだ秘密だ」
「ええーっ、また秘密? 直哉、前にも秘密だって言ったのに」
「そっちのことについては半分は教えただろ? 半分はまだだけど」
「いつ教えてくれるの?」
「おまえの誕生日だ。その日には必ず教えてやる」
「絶対だよ? 約束だからね?」
「ああ、心配するな。俺がおまえとの約束を破ったことがあるか?」
「たくさんあるよ」
「…………」
「でも、大事なことは一度も破ったこと、ないからね」
 菜緒はそう言って直哉の腕を外し、直哉と向き合った。
「あと一ヶ月。待ってるからね」
 キスをした。
「ああ、しっかり待ってろよ」
 直哉はニヤッと笑った。
 
 六時半をまわった頃、雪恵が帰ってきた。
 手にはケーキと花があった。
「ずいぶんと奮発したんだね」
 直哉はケーキよりも花を見てそう言った。
「そうよ。なんたって今日は千尋の二十歳の誕生日だもの。せっかくの成人のお祝いなんだから、少しくらい奮発しないと」
「父さんも同じこと考えてたりして」
「それならそれでいいのよ。賑やかな方がいいでしょ?」
 雪恵はそう言って微笑んだ。
「直哉。とりあえずこの花、お水に入れといて」
「あいよ」
 直哉は花を持って洗面所へ向かった。
「菜緒ちゃん、ご苦労様」
「いえ、たいしたことしてませんよ」
「ごめんね、本来なら私がやらなきゃいけないんだけど。今日は平日だから」
「私も千尋さんのお祝い、したいですから」
 菜緒もそう言って微笑んだ。
「それにしても、菜緒ちゃんはエプロン姿も似合うわね。直哉に襲われなかった?」
「襲われはしませんでしたけど」
「けど?」
「褒めてくれました」
 菜緒は嬉しそうに、でも、真っ赤になって俯いた。
「へえ、あの子がね」
 雪恵はそれを聞いてやはり嬉しそうに、いや、楽しそうに微笑んだ。
「母さん、入れてきたよ」
「ありがとう」
 そこへ直哉が戻ってくるものだから、雪恵はおかしくて吹き出しそうになった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ。ただ、直哉もずいぶん言うようになったと思って」
「はい?」
 直哉は、なにを言われているのかさっぱりわからなかった。
「ちょっと着替えてくるわね」
 雪恵はそう言って台所を出た。
「いったいどうしたわけだ?」
「あっ、うん」
「おまえがなんか言ったのか?」
「そうなるのかな?」
「ったく、なにを言ったんだ?」
「直哉にこの姿を褒めてもらったって」
 直哉は思わず頭を抱えた。
「……あとで絶対なんか言われる」
「言わなかった方がよかったかな?」
 遠慮がちに訊く菜緒。
「だろうな。少なくとも俺にとっては」
「ごめん……」
「ふう、まあいいさ。気にするな」
 直哉は、ポンポンと菜緒の肩を叩いた。
「嬉しかったんだろ?」
「えっ、うん」
「嬉しいと誰かに言いたくなるもんだからな。でも、できればあまりそういうことは言うな」
「うん、今度から気をつけるね」
「わかればいいんだ。それより、もうすぐ姉さんも帰ってくるからな。最後の仕上げ、頼んだぜ」
「うん」
 菜緒は、笑顔で頷いた。
 
「ただいま」
 七時過ぎ、千尋が帰ってきた。
「おかえり、姉さん」
「ただいま、なおくん」
 千尋を迎えたのは直哉である。
「先に鞄置いてくるね」
 千尋はいったん自分の部屋に鞄を置きに戻った。
「お待たせ」
「まだ父さんは帰ってきてないんだ」
「忙しいからね、お父さん」
「まあでも、そのうち帰ってくるよ。父さんが姉さんの誕生日にいないなんてこと、絶対にないからね」
 直哉は千尋をリビングに通した。
 リビングはすっかり誕生日パーティーの会場と化していた。
 ケーキが真ん中に鎮座ましまして、シャンパンが用意されている。
「では、これから倉澤千尋の二十回目の誕生パーティーをはじめます。まず、ろうそくの火を消してもらいます」
 直哉は自分で進めながら、ろうそくに火をともしている。
 ケーキの上には二十本のろうそくが立っている。
「さすがに二十本も立てると、ケーキが小さく見えるわね」
 雪恵は率直な感想を述べた。
「いいよ、姉さん」
 さすがに二十本に火をともすのは楽ではない。
「じゃあ……ふうー」
 千尋は息を大きく吸い込んで、一気に火を消した。
 見事に一回で全部消えた。
「おめでとう、姉さん」
「おめでとう、千尋」
「おめでとうございます、千尋さん」
「ありがとう」
 千尋は心からの笑顔で応えた。
「さあさあ、グラスを持って」
「母さん。俺たちも飲むわけ?」
「少しくらいならいいでしょ?」
「ったく、それでも親か」
 と言いつつも、直哉はすでにグラスを持っていた。
「はい、菜緒ちゃん」
「あっ、すみません」
「じゃあ、千尋の誕生日を祝って……乾杯っ」
『かんぱーい』
 四つのグラスが真ん中でぶつかった。
「う〜ん、やっぱりこういう時に飲むお酒は美味しいわね」
「母さんの場合は、酒が飲めればなんでもいいんじゃないの?」
「そんなことないわよ」
 と言いながらすでに二杯目の雪恵。
「どうでもいいけどさ、父さんが帰ってくる前につぶれないでほしいんだけど」
「大丈夫よ。少なくとも菜緒ちゃんのお料理を食べるまでは心配ないわよ」
「あっそ」
「菜緒ちゃんが作ってくれたの?」
「はい」
「そうなんだ。楽しみだね」
 千尋はそう言って微笑んだ。
「母さんの意識がはっきりしてるうちに、プレゼントを渡しておくよ」
 直哉はグラスを置いてリビングを出た。
「千尋。私からのプレゼントは、これよ」
 雪恵はそう言って少し大きめの袋を渡した。
「開けてもいい?」
「いいわよ」
 袋は簡単に開いた。
「ハンドバッグ」
 雪恵のプレゼントは、ハンドバッグだった。それも、ドレスなんかにでもあいそうなフォーマル用のハンドバッグだった。
「二十歳だから、そういうのも持っておいた方がいいでしょ?」
「ありがとう、お母さん」
「千尋さん。私からのプレゼントです」
「菜緒ちゃんも? ありがとう」
 菜緒のはそれほど大きなものではなかった。
「あら、口紅ね。しかも、今年の新色」
「いいの、こんなのもらっても?」
「はい」
「あとは直哉だけだけど」
「俺がどうしたって?」
 そこへ直哉が戻ってきた。
「なんだ、もう渡したんだ」
「そうよ。あとは直哉だけよ」
「じゃあ、はい、姉さん」
 直哉は綺麗にラッピングされたネックレスの箱と──
「手紙?」
 一通の手紙を渡した。
「ああ、できれば手紙はあとで読んでほしいんだけど」
「うん、わかった」
 千尋はとりあえず手紙を置いて、プレゼントの箱を開けた。
「まあ、ネックレス」
「珍しいネックレスだね」
 菜緒が疑問を口にした。
「当たり前だ。それは特注品だからな」
「特注品なの? そうなんだ」
「これは……真珠ね」
「真珠は六月の誕生石だからね。それで入れてもらったんだ」
「昨日出かけてたのは、このためだったのね」
「まあね。つけてみなよ、姉さん」
「うん」
 千尋は促されてネックレスをつけた。
「う〜ん、さすがにちょっと大きいね。真珠に合わせてもらったからね」
「よっぽど服を選ばないと、つけられないわね」
「ううん、せっかく菜緒くんがくれたんだから、少しくらい合わなくてもつけるよ」
「ありがとう、姉さん」
 千尋は嬉しそうにネックレスを見ている。
「でも直哉。よくそんなところを知っていたわね」
「ちょっとね。穴場を教えてもらってさ。普通の店での特注品なんて、俺には金銭的にほぼ不可能だからね。格安でしかも早い」
「どこにあるの、そのお店?」
「秘密」
「どうして?」
「どうしても。まあ、そのうち教えてあげるよ」
 そう言って直哉は苦笑した。
「さて、そろそろ菜緒の作った料理を食べよう。食べてるうちに父さんも帰ってくると思うし」
「そうね」
「じゃあ、仕上げをしますね」
「私も手伝うわ」
 菜緒と雪恵は台所へ。
「なおくん」
「ん?」
「わざわざありがとね」
「別にわざわざじゃないよ。いつも姉さんには言葉では表しきれないくらい世話になってるからね」
 直哉はそう言って笑った。
「デザイン的に桜は季節外れなんだけどね」
「ううん、素敵だよ」
「ホントはもうちょっと違うのにしたかったんだけど、時間がかかるって言われたから。ま、そういうのはまた今度ということで」
「……また、今度か」
「そうだよ、また今度。たとえもうこういう形の誕生日はできないとしても、俺は毎年姉さんにプレゼントを贈るよ。俺にできる唯一のことだからね」
「そんなことないよ。なおくんはいつも私のためにいろいろしてくれるよ」
「それは、姉さんのためというより、俺の自己満足のためだよ。本当に姉さんのためにしてることなんて、たかが知れてるよ」
「それでもいいの」
 千尋はそう言って微笑んだ。
「ねえ、なおくん。この手紙、なにが書いてあるの?」
「ん〜、いろいろ。ちょっと姉さんを泣かせようかなって思って。かなり本音で書いたからね」
「もう、そんなことばかり言って」
「でも、一番言いたいことは、俺の姉さんに対する想いの部分だけどね。俺なりの結論を出したつもりだから」
 直哉の言う結論は相当の意味を持っていた。
 だから、千尋の表情も一瞬強ばった。
「全部終わったら読んでみて」
「うん」
 直哉はただ穏やかに微笑むだけだった。
 
 菜緒の作った料理を食べはじめてしばらくした頃、和哉が帰ってきた。
 案の定、和哉も花を買ってきた。
 和哉のプレゼントは靴だった。見ただけでかなり値段が張っているのがわかった。
 あとはもうわいわいと料理を食べながら騒ぐだけ騒いだ。
 和哉も雪恵も次の日仕事があるにも関わらず、相当量のアルコールが入った。そして、いつもの通り結局ふたりとも酔いつぶれてパーティーはお開きになった。
「悪いな、菜緒。片づけまで手伝わせて」
「ううん」
「そのうち穴埋めするからさ」
「じゃあ、楽しみにしてるね」
 十一時半をまわる頃、ようやく片づけも終わった。
「ご苦労様、菜緒ちゃん」
「あっ、すみません」
「はい、なおくん」
「サンキュ」
 千尋はふたりにお茶を淹れた。
「来月のなおくんと菜緒ちゃんの誕生日には、しっかりとお返しを考えないとね」
「じゃ、少し期待してようかな」
「もう、あんまり期待はしないでね」
「菜緒も期待してろ。姉さんがしっかりお返ししてくれるってさ」
「私は別に」
「いいんだよ。そういうことは断る方が失礼に当たるんだし。人の好意は素直に受け取れば」
 直哉の言はもっとも。しかし、それだけでは割り切れないところもある。
「そろそろ帰るね。もう遅いし」
「そうだな」
 菜緒は、そう言って持ってきた鍋などを持ち勝手口へ。
「菜緒ちゃん、今日は本当にありがとう」
「はい」
「菜緒。それ持ってやるから」
「えっ、いいよ」
「いいからいいから。ほら、行くぞ」
「おやすみ、菜緒ちゃん」
「おやすみなさい、千尋さん」
 直哉は菜緒の荷物を持って先に歩く。
「直哉」
「ん?」
「千尋さんのために十分できた?」
「そうだな、八割ってとこかな」
「残りの二割は?」
「あの手紙を姉さんが読んでからだな。結果は俺にもわからない」
「……うらやましいな、そういうの」
「姉弟だからな、俺たち」
「私にも兄弟がいたら、そういう風になれたかな?」
「さあな、それはわからん。俺たちの関係だって本当にいいのかどうか、死ぬまでわからないからな」
 直哉はそう言って苦笑した。
「ありがと、直哉」
「いいって。じゃあ、戻るわ」
「ちょっと待って」
「ん?」
「おやすみの、キス……」
 菜緒はそう言って直哉にキスをした。
「おやすみ、直哉」
「ああ、おやすみ、菜緒」
 菜緒が家に入ると、直哉は気合いを入れ直して家に戻った。
 リビングを覗いても千尋はいなかった。
 直哉はいったん自分の部屋に戻った。部屋に戻ると、直哉はベッドに横になった。
 横になるとやはり疲れからか、うとうとしてしまった。
 その頃、千尋は部屋で、直哉の手紙を読んでいた。
 
『倉澤千尋様
 姉さん、誕生日おめでとう。これで姉さんは十代を卒業して二十代に突入したわけだけど、心境に変化はあるのかな? 酒もタバコも解禁になって、選挙権を得て、国民年金の義務を背負い、未成年から成年に。でも、急には変わらないね。
 さて、そんなことはどうでもいいんだ。前振りだとでも思って適当に流し読みして。
 この手紙で姉さんに伝えたいことはいくつかある。
 まずは、感謝。
 俺は姉さんの弟で、心からよかったと思ってる。今の俺があるのも、すべてではないにしろ、かなりの部分、姉さんのおかげだと思ってる。
 仕事で忙しい父さんや母さんに代わって俺のことを見てくれて。本当は姉さんだってほかの人と同じように、年相応の自由な時間を満喫したかったと思う。それを俺は、図らずも奪ってしまった。これだけはどんな言葉でも償いきれない。その年の時間は、その年にしかないんだから。それをあとで埋めることは絶対にできない。
 だから、せめて俺は心から感謝したい。謝罪じゃなく、あくまでも感謝だからね。
 本当にありがとう。
 このありがとうというたった一言に、俺の感謝の想いを載せることは不可能だけど、少しでもそれが姉さんに伝わると嬉しい。
 次に、謝罪。
 自分の失態をさらすようで気は進まないけど、姉さんにはすべてを知っておいてもらいたいから、ここに書くことに決めた。
 俺はこれまでに、五人の女性から俺自身を求められ、それに応えた。姉さんが浮気を心配してた、非常勤の桜井先生も入ってる。たぶん、麗奈姉さんと綾奈姉さんのことは気付いていると思うけど、それでも一応。
 あとのふたりは、ひとりは姉さんも知ってる、うちの高校の本多かえで先生。あとは、うちに何度か来たこともある、雅美。
 このことに関しては俺に弁解の余地はない。どんな理由があったにしろ、抱いてしまったことに変わりはないから。
 でも、ひとりとしてその人の気持ちをないがしろにして抱いたつもりはない。その時はその人を心から愛おしいと思い、その上でお互いに求め合った。だから、俺は後悔はしていない。後悔するようなことだけはしていないつもり。
 それでも姉さんには謝らなければいけないね。
 本当にごめん。
 このごめんでどれだけの想いが伝わったかわからないけど、これが俺の今の精一杯だから。もっと俺が精神的に大人なら、こんなことにはならなかったのかもしれない。でも、過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方がないし、いろいろと言い訳をするのも男らしくないので、これでこのことは終わり。
 次に、俺の想い。
 俺は心から姉さんのことを大切に思ってる。人前で好きだって言えるくらい、好きだ。
 法律なんてものがなくて、世間体なんてものがなければ今すぐにでも姉さんと結婚したいくらい。
 姉さんは俺に昔から菜緒のことを見てたって言うけど、姉さんのことだってずっと見てた。俺がまだ姉さんのことを「お姉ちゃん」て呼んでた頃からずっと、姉さんを見てきた。そして、ずっと好きだった。
 最初の頃は姉さんは母さんの代わりだった。母さんは、ほとんど俺を構ってくれなかったからね。だから、俺を構ってくれる姉さんに母さんを重ねていた。
 でも、次第にそれもなくなってきた。それは、俺も母さんという存在を表面上、必要としなくなったから。
 その代わりにわき起こった感情。それは明らかに恋愛感情だった。
 あの頃の菜緒は、まだまだ俺の妹のような存在だったから、恋愛なんて考えもしなかった。でも、姉さんに対しては真剣に考えた。だから、俺は姉さんに少しでも喜んで、笑って、楽しんでもらいたかった。
 今でも覚えてる。俺が中学一年の時、単なる姉弟間の好きを、恋人同士の好きにまで高めたあの日のことを。
 正直に言うと、あの日は嬉しさと戸惑いと、相反する想いに囚われていた。嬉しさはもちろん、姉さんとそんな関係になれたことに対して。戸惑いは、姉弟であるということに対して。
 でも、結局はその嬉しさが勝った。だから、その後も姉さんと関係を持ち続けた。
 なんか昔話になったけど、俺の言いたいことはただひとつ。
 俺は、心から倉澤千尋を愛しているということ。
 本当は愛してるなんて言葉は使いたくないけど、ここでは一番俺の想いを伝えてくれるから、あえて使った。
 姉さんの想いが俺とずっと一緒にあるのと同じように、俺の想いも姉さんとともにずっと一緒にあるよ。
 次に、結論。
 俺は、菜緒を選んだ。
 姉さんと菜緒を比べることはできないけど、でも、それでもあえて比べて、俺にとって本当に必要なのは菜緒だって気付いたから。
 姉さんとは姉弟だから、どこか必要としきれない部分があった。菜緒に傾いた理由は、そこだね。
 とりあえず、菜緒の誕生日に俺は告白する。そして、それからあとは幼なじみとしてではなく、恋人という関係で菜緒とつきあっていくつもり。
 菜緒とつきあうからって、姉さんとのつきあい方を変えるつもりはないから。俺が姉さんを好きなことに変わりはないし。もし変わるとするならば、姉さんが俺に対してそんな感情を抱かなくなった時だと思ってる。
 そんなことを言うと、姉さんにいろいろ言われるかもしれないけど、俺はそう決めた。
 そのことに関してなにか言いたいことがあったら遠慮なく言って。聞かれればなんでも答える。
 最後に。
 長々といろいろ書いてきたけど、少しは俺の言いたいことが伝わったかな。
 これを読んで姉さんがどう思うかは、さすがの俺にも全然予想がつかない。
 最後まで無責任なことは言いたくないから、余計なことは書かない。
 もしこれを読んでもなお、俺を求めてくれるなら、部屋に来てほしい。
 本当に最後に。
 姉さん、今日は本当に誕生日おめでとう。
                             不出来な弟、倉澤直哉
 
 追伸
 この追伸は渡す直前に書いてる。ほかはもっと前だけど。
 姉さんにだけ言っておく。
 俺、菜緒の誕生日に菜緒と婚約しようと思う。
 かなり早い気もするけど、菜緒を誰にも渡さないために首に紐ならぬ、指に指輪をしようかと。
 今度こそこれで終わり。
                          不出来でバカな弟、倉澤直哉』
 
 千尋は手紙を一読すると、それを置いた。
「なおくん……」
 思わず直哉の名前を呟いた。
 その目にはいっぱいの涙が溜まっている。
 ほんの少し、なにかあったら堤防が決壊したかのように、涙は止まらないだろう。
「ん……よし」
 千尋は涙を拭き、気合いを入れて部屋を出た。
 もちろん向かうのは直哉の部屋。
 ドアの前で大きく深呼吸をする。
 ドアをノックする。
 しかし、中から返事はない。
「……なおくん?」
 千尋は静かにドアを開けた。
 見ると、部屋は電気は点けっぱなし、カーテンも半分開いていた。
 そして、部屋の主はベッドで眠っていた。
 千尋は思わずふっと微笑むと、とりあえずカーテンを閉め、それから直哉の側に寄った。
「昔から私だけのなおくんだと思っていたけど、もう私だけのなおくんじゃないんだね」
 優しく語りかけながら、髪を撫でる。
「でも、それが普通の形なんだね。私たちは姉弟なんだから。それに、なおくんの相手は菜緒ちゃんだもんね。やっぱりなおくんを任せられるのは、菜緒ちゃんしかいないよ。菜緒ちゃんは、私にとっても妹みたいな存在だからね。だから……」
 千尋は、キュッと唇を噛みしめた。
「そうじゃなきゃいけないって頭ではわかってるのに……私は、なおくんを求めてる。心も体もすべてを求めてる」
 再び目にはいっぱいの涙。
「なんで、私たちは姉弟なの?」
 それが千尋の本心だった。
「……姉弟だから、好き同士になれたんでしょ?」
「なおくん……」
「赤の他人だったら、姉さんを好きになれなかったかもしれない。だから、姉弟であることを呪っちゃいけないよ。姉弟であることは幸せなことなんだから」
「うん、そうだね」
 直哉の言葉に、千尋は笑みを浮かべた。
 しかし、涙が流れた。
 直哉はベッドに起き上がると、千尋を抱きしめた。
「ちゃんと姉さんを泣かすことができたね」
 千尋は声を殺して泣いた。
 直哉はなにも言わずに、ただ千尋を優しく抱きしめ、その髪を優しく撫でているだけだった。もちろん、その顔には穏やかな笑みがあった。
 それからどれくらい経ったのか、ようやく千尋が顔を上げた。
「なおくん。私を、抱いて……」
「うん……」
 そしてふたりは、口づけを交わした。
 
「ん……」
 千尋は、直哉の唇をむさぼるようにキスを繰り返した。
 それはあたかも、離してしまうともう二度とできないのではないのかというほどに。
「なおくん」
「ん?」
「今日だけは、今だけは、私を、千尋って呼んで」
「……わかったよ、千尋、さん」
「ううん、呼び捨てでいいから」
「なんか照れるな。くすぐったい感じがする」
「ふふっ、でも、嬉しいよ。なおくんにそう呼んでもらうと」
 千尋はそう言って微笑んだ。
「名前で呼んでもらうと、本当の恋人のような気がするから」
「……そうだね。今だけは菜緒には悪いけど、俺の恋人は──」
 直哉はそう言って千尋を抱きしめた。
「千尋だからね」
「うん」
 直哉にとっても、千尋にとっても、今日のこのひとときは、最初で最後だということ。それをふたりは後悔のないように送りたかった。
「脱がせるよ?」
 千尋は小さく頷いた。
 ワンピースのために少し脱がすのに手間取ったが、千尋も少し手伝い、無事に脱がせた。
 直哉は千尋をベッドに横たわらせた。
「こうしてブラジャーを外すなんて、あの時以来かな?」
「そうかもね」
 ブラジャーを外し、直に触れる。
「ん、あん……」
「あの時に比べて、大きくなってるよね」
「ん、なおくんがいっぱい触ってくれたからね」
 直哉は包み込むように揉む。
 もう何度となく触れている千尋の胸。どこを刺激すれば一番感じるか、すべて熟知している。
「あっ、んん」
 右手で左胸を揉みながら、右胸の突起を舌で転がす。
 すでに固くなっている突起を舌で転がし、時々歯で噛む。
「んんっ、んくっ」
 その度に千尋の体は敏感に反応する。
「やっ、ダメっ、なおくん」
 弱々しく抵抗するが、直哉もそれくらいではやめない。
「あっ、んんっ、そんなにされると、んんっ!」
 千尋は、胸だけで軽く達してしまった。
 直哉はそれを見て満足そうに微笑んだ。
「はあ、せつないよ、なおくん……」
 千尋が悩ましげな声で、直哉を求める。
 それに応えるように直哉は千尋のショーツを脱がせた。
「すごく綺麗だよ、千尋」
「うん、なおくんのためだけに綺麗になって、なおくんに見てもらうために綺麗になって。私のすべては、なおくんだけのものだよ」
 直哉は、千尋の秘所に直に触れた。
「んあっ」
 すでに十分過ぎるくらい濡れている。
 秘唇を指でなぞる。
「あああっ」
 それだけでまた軽く達してしまう。
 直哉はそこに顔を埋め、舌で舐める。
「んっ、あっ、いいっ」
 ゆっくり、丹念に舐める。
「んあっ、あんっ、んふぅ……」
 舐める度に、蜜があふれてくる。
 次第に千尋の最も敏感な部分が膨らんでくる。
 直哉はそれを確かめると、その部分を覆っている包皮をむき、指の腹でこするように刺激した。
「んあああっ!」
 かなり強い刺激が千尋の中を駆けめぐった。
 その度に秘所からは止めどなく蜜があふれてくる。あまりにも大量に出てくるものだから、直哉のベッドに大きなシミを作った。
 直哉は敏感な部分を刺激しながら、秘所も刺激する。
「んんっ、なおくんっ」
 直哉は、指を一本挿れた。
 今まで直哉は、指でもなんでもそこに挿れたことはなかった。
「くっ、あっ」
 異物の侵入に、千尋の中は敏感に反応した。
 千尋の中は直哉の指をきゅうきゅうと締め付ける。直哉はそれでも指を動かし、中からも刺激する。
 千尋は立て続けに押し寄せてくる快感の波に身を委ね、直哉の為すがままになっている。
 直哉は指を引き抜くと、今度は舌先をとがらせて挿れた。
「あくっ、ああっ、いいっ、イっちゃうっ」
 千尋の官能的な声が、直哉の理性を痺れさせていく。
 ぴちゃぴちゃと淫靡な音を立ててすするように舐める。
 すでに数度達している千尋にとって、それはさらに快感を与える行動で、耳に届く音もそれを助長した。
「あっ、あっ、あっ、イクっ、もうっ、ダメっ、んんっ、ああああっ!」
 今度は本格的に達してしまった。
「はあ、はあ、はあ……」
 肩で息をする千尋の髪を、優しく撫でる。
「そろそろいくよ?」
「うん、きて……」
 直哉は自分も裸になる。
 そのまま千尋に覆い被さる。
「我慢できなかったら言って」
「大丈夫。なおくんのだもん」
 直哉は、モノを千尋の秘所にあてがった。
 千尋はそれだけで顔を強ばらせた。
 見ているだけで緊張しているのがわかった。
 直哉としてもいつまでもそのままでいるよりは、早く楽にさせたいと思った。
 だから──
「あっ、いっ……!」
 腰を一気に落とし、千尋を一気に貫いた。
 十二分に濡れていたとはいえ、そこはさすがに処女。中は狭く、異物の侵入を拒んでいた。
 それでも直哉は、苦痛を長引かせないために、一気に貫いた。
「はあ、はあ……」
「大丈夫?」
「う、うん、大丈夫……」
 そうは言うが、千尋の目には涙がにじみ、額には脂汗が浮かんでいた。
「しばらくこのままでいるよ」
 直哉はそう言って千尋を抱きしめた。
「やっと、なおくんとひとつになれたんだね?」
「そうだよ」
「嬉しい……」
 千尋はそう言って微笑んだ。
「私の中に、なおくんを感じるよ」
 千尋も直哉の髪を優しく撫でる。
「あっ、また大きくなった」
「千尋を感じてるからね」
「うん」
 直哉は千尋の涙を拭い、キスをした。
「もう動いても大丈夫だよ。なおくんの好きなようにして」
「わかった」
 直哉は頷くと、腰をゆっくりと動かしはじめた。
「んっ、いっ」
 まだ少し痛みが残っているのか、千尋は少しつらそうな声を上げた。
「だ、大丈夫だから」
 直哉の顔に心配そうな表情が出ていたのか、千尋は先にそう言った。
 直哉は動き続けた。千尋を心配しても、必ず心配ないと言う。それは無駄なことだとわかっているからこそ、動き続けた。
「あぅ、んんっ、んあっ」
 次第に千尋の声が、苦痛の声から快感のそれへと変わっていく。
「あっ、なおくんを、もっともっと、んんっ、感じたい」
 千尋もぎこちないながらも、腰を動かし直哉に合わせようとする。
「くっ、千尋の中、すごくいい」
「ホント? んんっ、もっと私を感じて」
 次第に直哉の動きも速くなってくる。
「あっ、んんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
 完全に苦痛の声は消えた。
 千尋の中も蜜ですっかりなじみ、直哉が動くのに支障はなかった。
「んあっ、なおくんっ、私、もうっ」
「お、俺も」
「一緒に、んんっ、一緒にっ」
 普通なら快感をむさぼるだけなのだが、直哉も千尋もしっかりとお互いを感じ、求めていた。
「あっ、あっ、んんっ、なおくんっ」
「千尋っ」
「んんっ、あああああっ!」
「くっ!」
 そして、ふたりは寸分違わぬタイミングで達した。
 直哉は、白濁液を千尋の腹部に放っていた。
「はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
「なおくん……大好き……」
 千尋は嬉しそうに、本当に幸せそうに微笑んだ。
 しかし、それははかない微笑みであることを、直哉は痛いほど知っていた。
 
「ねえ、なおくん」
「なに?」
「後悔してないよね?」
「するわけないじゃないか。後悔するとしたら、姉さんと関係を持ったあの時にしてるよ」
「そうだね」
 千尋は目を閉じて、直哉を感じている。
「はじめてなのに、三回もしちゃったね」
「姉さんが求めてきたからでしょ?」
「だって、なおくんをずっと感じていたかったから」
「それは、俺も同じだよ」
「最初で最後。あとにも先にも、私はなおくんとだけ。ほかの人には触られるのもイヤ」
「俺だって、姉さんをほかの男に渡したくない」
 直哉は千尋の肩を抱いた。知らず知らず、その手に力が入っていた。
「そうだ。あの手紙を読んだ感想は?」
「なおくんが浮気者だってわかった」
 千尋は、悪戯っぽく微笑んだ。
「ははは、返す言葉もない」
「でも、ちゃんと全部教えてくれたから許してあげる」
「ありがと、姉さん」
「一番驚いたのはやっぱり──」
「菜緒とのこと?」
「うん。だって、いきなり婚約なんて言われたら、誰でも普通驚くわよ」
「そうだね。でも、そのことを決めたのは、ホントに突然だったんだ。それまではそんなこと考えもしなかった。たとえ将来的にそうなったとしてもね」
「じゃあ、どうして急にそうしようって思ったの?」
「正直に言うとね、菜緒がとてつもなく可愛くて、愛おしく見えたから」
 直哉はちょっと照れながらそう言った。
「それに、今までずっと待たせてきたのに、ただつきあうだけだと、これまでのあいつの想いに応えられないと思って。あいつはいつも精一杯の想いを俺にぶつけてくる。だから、俺も今の俺にできる精一杯の想いで応えてやりたいんだ」
「だから婚約、なんだね」
「とにかくあいつを安心させてやりたいんだ。いくら言葉でいろいろ言ってみても、やっぱりなにか見えるもので安心感を得たいと思うのが人間だからね。それなら婚約して指輪を贈れば、いつも安心感を得られると思って」
「ホント、なおくんは菜緒ちゃんのこと、真剣に考えてるね」
「今までここまで真剣に考えてなかったからね」
「菜緒ちゃんは世界一幸せな女性になるね」
「世界一かどうかはわからないけど、あいつを不幸にすることだけは、絶対にしない」
 直哉はそう言って笑った。
「というよりも、俺に関わった人たちみんな、少なくとも俺とのことで不幸になってもらいたくないからね。最善は尽くすよ」
「だからって、何度も抱かなくてもいいんだからね?」
「はは、痛いところを突かれた。まあでも、俺だって抱くことですべてを解決できるとは思ってないよ。そんなものは一時しのぎにしかならないからね。結局は、気持ちの問題だから」
「なおくんはそういうの、得意だからね」
「別に得意なわけじゃないよ。なんとなくわかるんだよ、そういうのが」
「それが得意ってこと」
「でも、姉さんや菜緒のことはなかなかわからないよ。あまりにも近くにいたからかな」
「言葉にしないとわからないこともあるからね」
「そうだね」
 直哉も小さく頷いた。
「姉さん」
「ん?」
「ずっと、側にいてくれるよね?」
「うん」
 直哉にとって菜緒が一番であっても、千尋のことを割り切ることはできない。
 人が人を求めること自体、なんらおかしなことではない。
 直哉にとってそれが姉の千尋であり、千尋にとってそれが弟の直哉であるというだけである。
 人を好きになることと人を求めることは、似ているが違う。
 ふたりがそれをどこまで理解しているかはわからない。
 でも、直哉も千尋も少なくとももうわだかまりはないだろう。
 千尋は夢であった直哉に抱かれ、完全ではないにしろ、想いを遂げることはできた。
 直哉も千尋の想いに、やはり完全ではないにしろ応えた。
 直哉の想いも、そのことによってある程度は昇華されたはずだ。
「なおくん。大好きだよ」
「俺もだよ、姉さん」
 しかし、今のふたりにとってそんな理屈は必要ない。
 今という時を、心から幸せと感じているのだから。
 ひとときの夢、として終わらせてしまうには、あまりにももったいない夢の時間。
 でも、いつかそれも終わってしまう。
 だから今は、少しでもそれが長く続くことを祈らずにはいられないふたりであった。
 永久にこのままでもいいと思いながら──
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