いちごなきもち、めろんなきもち
 
第六章「らいちなきもち」
 
 一
「くあーっ、なんで毎週土曜日が休みじゃないんだ」
「あのなぁ、直哉。そんなこと言ったってしょうがねぇだろ」
「授業だって午前中で終わりだし。こんなんだったらなくても同じだーっ」
「……ダメだな」
 直哉が壊れて秀明が呆れている土曜日。ちなみにまだ朝である。
「どうしたの?」
「いやあ、直哉がぶっ壊れてさ」
「またはじまったの? 土曜日病が」
「らしいよ」
 土曜日病とは、月二回第二、第四土曜日は休みなのに第一、第三、ある時は第五土曜日は休みじゃないと文句を言いまくる病気のことである。しかも、その感染者は直哉だけでほかには発症者はいない。
「でも、今月はまだいい方だよ。三日の日が憲法記念日だったからね。もしそれがなかったら今月は三回、土曜日に来なくちゃいけなかったから」
「しかも、第五と次の月の第一は一週間だからね」
 秀明と雅美がそんなことを話している側で直哉は、机を叩きながら世の不条理を嘆いていた。
「……おのれ、政府、文部科学省、教育委員会。なぜ俺の行く手を阻む。今じゃ会社はほとんどが完全週休二日制だっていうのに。なぜうちだけ月二回なんだ」
 ちなみに、月二回休みなのは、桜林高校のカリキュラムで決められていることである。公立高校はもちろん週五日制である。従って、政府や文部科学省、教育委員会に文句を言ってもなんにもならないのである。
 もちろん、それにも理由はある。ようするに、学力低下を懸念しての予防策なのである。桜林高校は私学でしかも進学校である。だからこその制度なのだが、直哉には不評だった。
「いつもなら直哉くんを止めるはずの菜緒がいるはずなんだけど、今日はいないわね」
「菜緒ちゃんなら、教室に来てすぐに職員室に行ったよ」
「まったく、旦那の手綱くらいちゃんと握ってないと」
「ははは、かもね」
「と、噂をすれば戻ってきたわね」
 雅美が入り口の方に視線を向けると、ちょうど菜緒が戻ってきたところだった。
「あっ、おはよ、雅美」
「おはよう、菜緒……じゃなくて」
「へ……?」
「菜緒の領分でしょ? なんとかしなさいよ」
 そう言ってまだぶつぶつ文句を言っている直哉を指さした。
「あっ、また壊れたんだ。いつものことながら、直哉も飽きないよね」
「菜緒、なにを呑気なこと言ってるのよ。あのまま授業中も放っておく気?」
「う〜ん、それはそれで面白いと思うけど」
「あんたねぇ……」
 雅美は思わず頭を抱えた。
「冗談よ、冗談。ちゃんと止めるから」
 菜緒はそう言って直哉の下へ。
「……いつの日か、俺がこの世界を牛耳って、私立高校も完全週休二日制を義務づけてやる」
 ものすごく庶民的な世界制覇を目指していた。
「直哉」
「……よし、こうなったら天皇制を崩壊させて、完全民主主義社会にして」
「もしもし、倉澤直哉くん」
「……いや、それより社会主義体制を復活させて、統制社会を創世すれば」
「直哉ー、聞こえてますかー?」
「……むぅ、手っ取り早く、日本を核で破壊するというのも手だな」
「…………」
 直哉は完全に自分の世界に入っていた。
「あ〜あ、菜緒まで壊れちゃう」
 雅美はやれやれと肩をすくめた。
「ふ、ふふふ、ふふふふ……」
 刹那──
「ぬぐおっ! げはっ! あがっ!」
 すさまじい衝撃波が、教室に広がった。
「はあ、はあ……」
「……ぅぐ……」
 直哉轟沈。
 しかし、驚異の回復力を見せ復活した。
「……てめぇ、この菜緒っ! なにしやがるっ!」
「なにしやがるじゃないわよ。人が呼んでるのに完全無視してさ」
「だからって半殺しにするか普通?」
「死んでないでしょ?」
「死んでたら殺人だっ!」
「……壊れたのは治ったみたいだけど」
「……これはこれで問題かも」
 秀明と雅美は、溜息をついた。
「うぬぬ……」
「なによ、文句あるの?」
「ふん、勝手にしろ」
 直哉はそう言って倒れた椅子と机を起こし、ふて寝した。
「勝手にするわよ」
 そして、菜緒も不機嫌さを隠さず自分の席に戻った。
 
 放課後。
「じゃあな、秀明」
「なんだ、もう帰るのか?」
「ふん、一秒でも早く学校を出たいんだよ」
 そう言って直哉は教室を出て行った。
「ありゃあ、重傷だな」
 秀明は思わず溜息をついた。
「ねえ、菜緒。いいの? 直哉くん帰っちゃったわよ?」
「……いいの、別に」
「まったく、意地っ張りなんだから」
 雅美もまた、溜息をついていた。
 これが今までの喧嘩ならすぐに収まるのだが、今回はそうも行きそうになかった。
「あーっ、くそっ、ムカツクっ」
 直哉は肩を怒らせ、小さな子供が見たら泣き出しそうな怖い顔で階段を下りていった。
「ったく、なんなんだあの態度は。俺がなにをしたって言うんだ? 別になにもしてねぇって」
 ただならぬ怒気を感じて、直哉のまわりには誰も近寄らない。
「今日が土曜日でよかったぜ。さっさと帰れるし。しかも明日は日曜日。顔を合わせずに済むからな」
 乱暴に上履きを脱ぎ、下駄箱に突っ込む。乱暴に靴を履き、昇降口を出る。
 外に出ると、五月晴れのいい天気だった。
「あ〜あ、どうすっかな、これから?」
 直哉はふらふらと駐輪場に歩いていく。
「家に帰ってもどうせ誰もいないだろうしな。とはいえ、どっかで遊べるほど資金的に余裕があるわけでもないし」
 自転車の鍵を解除し、またがる
「……しょうがねぇな。とりあえず帰るか」
 そう言って直哉は自転車をこぎ出した。
 学校を出ると真っ直ぐ家に向かった。
 土曜日の昼下がりということで、駅方面に向かう人が結構多かった。
 いつもと同じように、およそ三十分で家に着いた。
 自転車を車庫に戻す。
「……ん?」
 直哉は玄関の鍵を開けようとノブをつかむと、ノブが簡単にまわった。
「誰か帰ってるのか?」
 そのまま玄関を開け、中に入った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 リビングから声が返ってきた。
「母さん、帰ってたんだ」
 リビングに顔を出すと──
「あれ、夏奈おばさん」
「こんにちは、直哉くん」
 直哉の伯母で雪恵の姉、南夏奈が雪恵と一緒に話をしていた。
「どうしたんですか、突然?」
「ちょっとこっちの方に用事があったから、雪恵に連絡をとって寄ったの」
「そうなんですか」
 直哉は鞄をとりあえずそこに置き、ソファに座った。
「母さん、仕事は?」
「今日は終わり。土曜日だから」
「ふ〜ん」
「麗奈と綾奈がお世話になったから、そのお礼も言いたかったのよ」
「別に改めてお礼を言われるようなことはしてないわよね、直哉」
「そりゃ、雪恵はそうでしょうね。ほとんど家にいないんだから。でも、直哉くんや千尋ちゃんは違うでしょ?」
「どうせ私は家にいないですよ」
 夏奈、雪恵姉妹は、ふたつ年が離れているが、同い年のような仲の良い姉妹である。
「直哉。とりあえず着替えてきなさい」
「わかってるって」
 直哉はリビングから自分の部屋に戻った。
 制服から長袖ティシャツ、ジーンズというラフな格好に着替えた。
「ま、これで時間はつぶせそうだな」
 直哉はそう呟いてリビングに戻った。
「……そんなこともないと思うけど」
「それは雪恵の考え方でしょ? 世間一般では違うのよ」
「いくら姉さんの言葉でも、それはひどいわよ」
「そうかしら?」
 リビングに戻ると、なにやら話の途中だった。直哉は会話にも入れず、リビングにも入れず、入り口のところでたたずんでいた。
「あら、そんなところに立って、なにをしてるの?」
「いや、別に」
 ようやく雪恵が気付き、直哉は無事リビングに入った。
「あっ、そうそう」
「ん?」
「今日ね、和哉さんも帰ってくるって言ったら、姉さん、うちにみんな呼ぶって言うの」
「みんなって、おじさんたちを?」
「たまにはいいでしょ? 雪恵はもうしばらくすると土日は完全に休みになるみたいだけど、和哉さんはまだまだ忙しいみたいだから。だから、こういう機会を逃すといつできるかわからないからね」
「まあ、それはそうだと思うけど」
「四時くらいには来ると思うけど」
 時計は一時半をまわっていた。
「でもね、直哉。姉さんの本音は、まだリフォーム途中の狭い部屋にいたくないだけなのよ」
「あっ、雪恵。それは内緒だって言ったのに」
「さっきのお返しよ」
 そう言って雪恵は笑った。
「じゃあ、今日はずいぶんと賑やかになるね」
「麗奈と綾奈の相手は、直哉くんに任せたわよ」
「な、なんで俺なんですか?」
「さっき電話した時に、麗奈が出たんだけど、一も二もなく了解したからね。ここへ来る楽しみって言ったら、直哉くんに会うことだからね」
 夏奈はそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「まあ、冗談はともかくとして」
「……じょ、冗談だったんですか」
「麗奈も綾奈もお酒はあまり飲まないから、そういう意味で直哉くんと千尋ちゃんにふたりを任せるのよ」
「なるほど」
「直哉、あとで私たち、お買い物に行ってくるから、お留守番お願いね」
「了解」
 直哉は表面上はいつも通りだったが、内心は穏やかではなかった。まさかこんなにも早く麗奈や綾奈に、しかもふたり同時に会うことになるとは思ってもみなかったからだ。千尋がいるから万が一の事態にはならないはずだが、直哉は気が気ではなかった。
「直哉くん」
「はい」
「勉強の方はどう?」
「まあ、ぼちぼちです」
「直哉くんももう受験生だからね」
「本人にその自覚があるのかどうかはわからないけどね」
「か、母さん」
「あまり気負いすぎても仕方ないんだし、今はそれでいいんじゃないの?」
「そ、そうですよね」
「あら、直哉。姉さんを味方につけるの?」
「いいっ、べ、別にそんなわけじゃないけど」
「ふふっ、雪恵、悔しいの?」
「どうしてそうなるの?」
「どうしてかしら? ね、直哉くん」
「は、はあ……」
 直哉は世代を問わず、女性にモテるらしい。ただ、この場合は雪恵と夏奈におもちゃにされていると言った方が正しいと思うが。
 この時の直哉の頭には、菜緒のことはまったくなかった。
 
「ただいま」
「おかえりなさい」
 菜緒はいつもならいったんリビングに顔を出すのだが、それもせずに二階へ上がった。
 部屋に戻ると鞄を置き、制服のままベッドに横になった。
「……私、なにやってるんだろ」
 額に手を当て、ぽつりと呟いた。
「……一言言えば済むはずなのに。このままだと、しばらく続いちゃうよ」
 菜緒は、泣きたい気分だった。
「……ごめんね、直哉」
 その言葉は、まだ直哉には届かなかった。
 
 雪恵と夏奈が買い物に出かけ、直哉は家にひとりだった。
「……やばいよな」
 直哉はこれから起こるであろうある種天国、ある種地獄の時を思うと、もう溜息しか出なかった。
「まさか、うちに泊まるなんて言わないだろうけど。やばいよな」
「ただいまぁ」
 直哉がそんなことを考えていると、千尋が帰ってきた。
「おかえり、姉さん」
「ただいま、なおくん」
 千尋は笑顔で返した。
「あのさ、姉さん」
「ん、どうしたの?」
「今日ね、南家勢揃いだよ」
「南家勢揃いって、ひょっとしてみんな来るの?」
「う〜ん、正確に言うとちょっと違う。夏奈おばさんはもう来てる」
「来てるって──」
 千尋はあたりを窺った。
「今、母さんと買い物に行ってる」
「お母さんも帰ってたんだ」
「で、今日は父さんも普通に帰ってくるっておばさんに言ったら、おじさんたちを呼んだんだって」
「夏奈おばさんらしいね」
 千尋はそう言って苦笑した。
「じゃあ、今日はずいぶん賑やかになるね」
「まあね。ま、俺はできれば辞退したいけど」
「どうして?」
「……聞かないで」
 直哉は視線をそらした。
「麗奈さんもあやちゃんも、なおくんに会いに来るんだよ?」
「だからだよ」
「……なおくん」
 千尋は少し低い声音で言った。
「ちゃんとふたりの相手、しないとダメだよ」
「わかってるよ。俺だって会いたくないわけじゃないんだ。ただなんていうか、気恥ずかしいんだよ」
「……でも、それはなおくんが選んだことでしょ?」
「……姉さん、怒ってる?」
「別に怒ってないけど、でも、ちょっと妬いてる」
 そう言って千尋は、直哉を抱きしめた。
「……なおくん、麗奈さんもあやちゃんも、抱いたんでしょ?」
「……姉さんには隠しておけないね。そうだよ、麗奈姉さんも綾奈姉さんも抱いた」
「……バカ。そんなにはっきりと言わなくてもいいのに」
 千尋はキュッと直哉の袖をつかんだ。
「……でも、姉さん。麗奈姉さんを抱いたことも、綾奈姉さんを抱いたことも、後悔はしてないから。心からふたりを愛おしいと思って抱いた」
「……なおくんならそれはそうだと思うけど……」
「もしそのことでなにかあったら、それは俺の責任だから」
 直哉の言葉は真剣だった。たとえ話している相手が千尋でも、直哉は思っていることをそのまま話した。
「姉さん」
「……ん?」
「キスしたい」
「うん……」
 千尋は小さく頷いた。
「ん……」
 直哉は優しくキスをした。
「あ、んん……」
 いつもならそれだけなのだが、今日は千尋が直哉を離さなかった。
 直哉の唇をむさぼるように舌を絡める。
「はあ……」
 唇を離すと、ツーッと唾液が糸を引いた。
「……今日は積極的だね」
「なおくんを取られたくないから」
「心配性だね、姉さんは」
「誰のせいで心配してると思ってるの?」
「……はい、俺のせいです」
 直哉は肩を小さくしてシュンをなった。
「ふふっ、反省してるのなら、今日は私も忘れないでね」
「もちろんだよ」
 直哉はそう言って微笑んだ。
 
「こんにちは」
「いらっしゃい」
 四時を少しまわった頃、伯父である南秋雄と麗奈、綾奈がやって来た。
「お久しぶりです、おじさん」
「久しぶりだね、直哉くん。今日はすまなかったね」
「いいんですよ。たまにはこういうことをやるのもいいと思いますし」
「うちのはいつも無理難題をふっかけるからね」
「あなた。なにか言ったかしら?」
 とそこへ、夏奈が台所から出てきた。
「いや、別になにも言ってないよ。なあ、直哉くん?」
「え、ええ、まあ……」
「そう? それならいいけど。直哉くんは、もうちょっとこの人の相手をしててね」
「はい」
 夏奈はそう言って台所に戻った。
「相変わらず大変そうですね」
「ははは、地獄耳だからね。下手なことは言えんよ」
 秋雄はそう言って笑った。
 直哉は秋雄の相手をしながら、自分に向けられている二対の視線を感じていた。もちろん麗奈と綾奈である。
 目だけでいろいろ訴えているのだが、直哉はそれを無視した。というか、せざるを得なかった。
「父さんはたぶん、五時くらいには帰ってきますよ」
「そうか。それまでは酒はお預けかな」
「飲みたければ飲んでもいいですけど、おばさんになにを言われるかわかりませんよ?」
「そうなんだよな。それさえなければ問題はないんだが」
「まあ、そんなに待つわけでもないですから、我慢しましょう」
「直哉。客間からテーブルを持ってきてくれる?」
 と、台所から雪恵の声が飛んできた。
「わかった」
「あっ、あたしも手伝う」
 それにいち早く反応したのは、綾奈だった。
 直哉と綾奈は、リビングから客間へ。
「ああん、直哉ちゃん」
「綾奈姉さん……」
 客間に入るといきなり、綾奈が抱きついてきた。
「淋しかった……たった一週間のはずなのに、ずっとずっと長く感じられた。だから今日突然にでも直哉ちゃんに会えるってわかったら、嬉しくて嬉しくて」
 直哉はなに言わずに綾奈を抱きしめている。
「今日はみんながいるからあんまりこうしていられないけど、ホントはずっとこうしていたいんだよ」
 綾奈はそう言って直哉の胸に顔を埋めた。
「……やっぱり、お姉ちゃんも抱いたんだね」
「……言い訳はしないよ」
「……うん。言い訳されると余計に悲しくなるから。お姉ちゃんね、全部話してくれた。だからあたしも全部お姉ちゃんに話した」
「そっか……」
「あたしたちを分け隔てなく愛してほしいとは言わないけど、それでも時々は気にかけてね」
「綾奈姉さん……」
「さ、テーブル運んじゃお」
「そうだね」
 ふたりは軽くキスを交わしてから、客間に置いてあったテーブルをリビングに運んだ。
「母さん、運んできたよ」
「ご苦労様」
「ほかにすることは?」
「今のところないわ」
「なんかあったら言ってよ」
 直哉は台所に向かってそう言い、再びソファに座った。
「おじさんは今、仕事の方は忙しいんですか?」
「まあまあ忙しいよ。でも、君のお父さんほどではないけど」
「父さんは仕事人間ですから。あれでよく母さんが愛想尽かさないと思いますよ、実際」
「ははは、その心配だけはないだろう」
「どうしてですか?」
「君のお父さんもお母さんも、死ぬほど愛し合っているからね」
「死ぬほどですか?」
「もし雪恵くんになにかあったら黙っていないのが、未だに多いよ」
「それは、おじさんも同じじゃないんですか?」
「ははは、確かにそうだ。夏奈になにかあったら、俺は殺されるな」
 秋雄は豪快に笑った。
「でも、それだけの価値はあると思うよ」
「おばさんもそこまで想われてれば、幸せですね」
「それとこれとは別だよ。特にマンネリ夫婦にとってはね」
「裏を返せば、なにごともなく平穏無事に生活できてるってことじゃないですか」
「確かに。物事は前向きに考えんといかんな」
「ただいま」
 と、そこへ和哉が帰ってきた。
「おかえり、父さん」
「ただいま」
「久しぶりだね、和哉くん」
「お久しぶりです、義兄さん」
「こんにちは、和哉おじさん」
「ふたりともいらっしゃい。今日はゆっくりしていってくれよ」
「はい」
「そんな挨拶はあとでいいから、さっさと着替えてこないと、また母さんにどやされるよ?」
「おお、そうだな」
 和哉はそう言っていったん自室に下がった。
「父さん、今日はだいぶ張り切ってますよ。まだ五時前なのに帰ってきましたから。よっぽどおじさんと飲むのを楽しみにしてきたんですよ」
「じゃあ、今日はそれに応えないといけないな」
「お父さん。飲み過ぎるとまたお母さんに言われるわよ」
「心配するな。前後不覚に陥るまでは飲まん」
「だといいけど」
 綾奈はそう言って溜息をついた。
「とりあえず私の仕事は終わりっと」
「終わったの、姉さん?」
「あとは、お母さんたちで十分。私なんかなにもすることないわ」
 そう言って千尋もソファに座った。
「千尋くんも大学には慣れたかな?」
「はい。さすがに一年通えば慣れました」
「そうだな。でも、その慣れきったところで油断すると、さぼり癖がつく」
「それって、お父さんの経験談?」
「お父さんは真面目な学生だったからな」
「真面目な学生が、在学中にお母さんに手を出す?」
「ぬっ、そ、それはだな……」
「ははは、一本取られましたな、義兄さん」
 そこへ、酒を持って和哉が戻ってきた。
「そうだな。まさか実の娘にここまで言われるとは」
「まあでも、なにも言われないよりはましですよ」
「それもそうだな。ははは」
 酒が入る前から上機嫌のふたりであった。
「父さん。おじさんの相手は任せたよ」
 直哉はそう言って立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと部屋に戻るだけ。すぐに下りてくるよ」
「麗奈、綾奈。おまえたちも行ってきたらどうだ? それとも、ここで酌でもしてくれるのか?」
「絶対にイヤ」
 綾奈はそう言うと早々にリビングを出た。
「ちょっと行ってきますね」
 麗奈もそれに続いた。
「私もいったん部屋に戻るから」
 千尋もいなくなり、リビングには男親ふたりが残された。
「これで心おきなく飲めますね」
「そうだな」
「ではさっそく」
 和哉も秋雄も嬉々とした表情をしていた。ようは、酒が飲めればなんでもいいようである。
 一方、部屋に戻った直哉は困惑していた。
「……あのさ、身動きがまったくとれないんだけど」
 自分の部屋に戻ったはずの千尋と麗奈、綾奈に囲まれ、本当に身動きがとれなくなっていた。
「……なにを言ってもダメそうだね」
 直哉は盛大に溜息をついた。
 麗奈は直哉の右腕を、綾奈は左腕をつかんでいる。千尋は正面にいる。
「あのぉ、どうすれば解放してもらえますか?」
 直哉はおそるおそる三人に訊ねた。
「キスして」
 三人の声がほぼ重なった。
 直哉は生きた心地がしなかった。
「はあ、なんか今日はずっとこんな感じになりそう」
 またもや溜息をついた。
 それから麗奈を素早い動きで引き寄せ、キスをした。
「ん……」
 千尋と綾奈の刺すような視線が痛かったが、あえて無視した。
 キスは、中途半端なキスではなく、ちゃんと想いを伝いあえるくらいのキスだった。
 キスをされた麗奈は、夢見心地の様子で、目も幾分トロンとしている。
 今度は綾奈にキスをしようとするが、綾奈はそれを押しとどめた。
「このままだとお姉ちゃんと間接キスになるから」
 そう言って直哉の唇を拭いた。
 微妙な乙女心のようである。
 そして、今度こそキスをする。
「んん……」
 綾奈が激しいキスを求めた。直哉もそれにできるだけ応えた。
 やはり視線が痛かった。
 最後は千尋。
 千尋もまた、綾奈との間接キスを嫌がり、直哉の唇を拭いてからキスをした。
「ん……」
 千尋とのキスは、やはり一番様になっていた。
「これで解放してくれるんでしょ?」
 直哉は三人にもう一度確かめた。
 と、三人はお互いに顔を見合わせて頷いた。
「やっぱりダメ」
 そう言って今度は、直哉を押し倒した。
「ちょ、ちょっと、それじゃ話が違うよ」
 直哉は必死に抗議するが、三人は聞く耳を持たなかった。
「やっぱり、こうしてるのが一番落ち着く……」
 しみじみ言う麗奈。
「独り占めできないのは残念だけど、しょうがないね」
 そう言いながら結構嬉しそうな綾奈。
「今回は譲るけど、今度からは譲らないからね」
 一番不利な位置でふたりにしっかり釘をさす千尋。
「もう、どうにかして……」
 直哉の受難はまだはじまったばかりだった。
 
 夕食はかなり賑やかだった。人数的にも八人という数で賑やかにはなるだろうが、なんといっても女性の比率が高いことが一番の要因だろう。男対女は三対五。しかも、その中で直哉は最年少のため、とても対抗できない。
 結果、女性陣の独壇場となった。
「直哉くん、お酒足りないわよ」
「はいはい、今持って行きますって」
 法律上酒を飲めない直哉は、完全に小間使いになっていた。年齢的には千尋も飲めないのだが、もう間もなく二十歳ということで、一足先に飲んでいた。
「はい、どうぞ」
 直哉は日本酒を一升瓶ごと置いた。
「直哉。あとどれくらい残ってる?」
「あんまりないよ。ビールが三本くらいと、日本酒が一本、ワインはないし」
「じゃあ、追加で買ってきてくれ」
「ええーっ、まだ飲むつもりなの?」
「堅いことを言うな。ほら、金をやるから」
「ったく、しょうがないなぁ」
 直哉は万札を受け取るとリビングを出た。
「直哉ちゃん、私も行くわ」
 玄関で靴を履いていると、麗奈がついていくと言ってきた。
「別にひとりでも大丈夫だよ。姉さんはお客なんだから」
「いいの」
 言うが早いか、麗奈は靴を履いてしまった。
「はあ、しょうがない」
 直哉もそれを見てあきらめた。
 ドアを開けると、ひんやりとした空気が火照った体に気持ちよかった。
「どこまで買いに行くの?」
「近くのコンビニだよ。今から駅前に行くのも面倒だし」
 直哉はそう言って歩き出した。
 空はあいにくの曇り空で、星はおろか月も隠れていた。
「綾奈から聞いた?」
「なにを?」
「私たちがお互いに直哉ちゃんとのこと、話したこと」
「聞いたよ。麗奈姉さんが全部話したんでしょ?」
「うん、そうよ。隠しておいてもいつかはわかっちゃうことだし、それなら自分の口からはっきりと言っておこうと思って」
「……綾奈姉さん、なにも言わなかったでしょ?」
「一言だけ。お姉ちゃんには負けないから、って」
 そう言って麗奈は微笑んだ。
「で、姉さんはなんて答えたの?」
「私も負けるつもりはない、って」
「……俺、やっぱり姉さんちに行くのやめようかな。なんかとんでもないことになりそうな気がする」
「大丈夫よ。突然包丁を持ち出してきて、直哉ちゃんを殺してあとを追うようなことはしないから」
「そ、そういうことは冗談でも言わないでほしいな」
「ふふっ、冗談よ」
 麗奈はそう言うが、全部が全部冗談ではないことは、直哉にもわかっていた。そうでなければ、一瞬前まで真剣な表情などしていない。
 程なくして目的のコンビニに到着した。
 さっそくビールや日本酒を買った。
「ありがとうございました」
 抱えるほどは買わなかったが、それなりの数は買った。さすがに飲む人数が多いとすぐになくなるからだ。
「ねえ、直哉ちゃん」
「ん?」
「これからも時々会いに来ていい?」
「別にいいけど。でも、仕事に差し支えない程度にしてよ。それに、うちには千尋姉さんがいるんだから」
「うん、わかってる。それに、来るって言っても月に一回か、二ヶ月に一回くらいだよ」
「それくらいなら問題はないと思うけど」
「本当は、毎日でも会いたいんだよ?」
「俺だって、できればそうしたいけど、それも難しいからね」
「そう思ってくれてるだけで十分だよ」
 麗奈は穏やかに微笑んだ。
「もし、私が直哉ちゃんとの子供がほしいって言ったら、困る?」
 唐突な話題に、直哉は一瞬たじろいだ。
「そ、そりゃね。俺はまだそんな子供だとか考えたこともないから」
「そうよね。やっぱり困るよね」
「でも、俺のせいで妊娠したのなら、もちろん責任はとるよ。それが俺の最低限の責任だろうから」
「心配しなくても大丈夫。あの日は、安全日だったから」
「……俺もさ、一応考えてはいるんだよ。これからのこととか」
「これからのこと?」
「いつまでも姉さんたちに思わせぶりなことも言えないからさ。それに、この短い間にいろいろあったことで、俺もそろそろ潮時だと思って」
「……そうだね、それがいいよ。いつまでも私たちに縛られてることはないんだよ」
「縛られてるなんて思ったことはないよ。俺は麗奈姉さんも綾奈姉さんも本当に好きだから、抱いたんだ」
 直哉は真剣に、それでも優しく言った。
「直哉ちゃん」
「ん?」
「私たち、これでいいんだよね?」
「……なにがよくてなにが悪いかは今はまだわからないよ。でも、いいって思っていれば必ずいい方向に向かうよ」
「ふふっ、直哉ちゃんはいつも前向きだね。うらやましいくらい」
「単純なんだよ」
「そんな直哉ちゃんが、私は大好きなんだよ」
 麗奈はそう言って、直哉の頬にキスをした。
「さ、早く戻らないと、お父さんたち待ちくたびれちゃうね」
「そうだね」
 
「……やれやれ」
 直哉はリビングの惨状を見て、溜息を漏らした。
 料理が盛ってあった皿はすべて空になり、テーブルの上にも下にも、空き瓶や空き缶が転がっていた。
「……結局こうなるんだよな」
 時計はすでに十二時をまわっていた。もちろん、この時間に電車はない。
「なおくん、布団敷いてきたよ」
 直哉はソファで眠りこけている秋雄をかつぎ、客間に運んだ。
「ふう……」
「ご苦労様」
 リビングを片づけているのは、麗奈と綾奈である。
 親は、四人とも酔いつぶれていた。
「ごめんね、直哉ちゃん。お父さんもお母さんもつぶれちゃって」
「別に麗奈姉さんが謝ることじゃないよ。うちだって同じなんだから」
 直哉はそう言って苦笑した。
「父さんも母さんもたまにこうやって心ゆくまで騒げて、よかったんじゃないのかな。その点で言えば、おじさんたちに感謝しないと」
「そう言ってくれると助かるな」
「ま、酔いつぶれてる人たちのことはいいんだけど、あたしたちはどうするの?」
「どうするって?」
 綾奈の言葉に、直哉が聞き返した。
「どこで寝るのかってこと」
「ああ、そのことか。それだったら、俺がここで寝るから麗奈姉さんか綾奈姉さんが俺の部屋で寝ればいいよ。で、もうひとりは千尋姉さんと一緒に。これで問題なし」
「問題大ありよ」
 異を唱えたのは綾奈だった。
「なんで? 最善の方法だと思うけど」
「だって、それじゃ直哉ちゃんが可哀想よ」
「俺のことなら気にしなくてもいいよ。多少寝心地が悪いのくらい平気だから。それと、客間以外に何人もで寝られる部屋はないからね。先に言っておくけど」
「じゃあ、こうしましょう。誰かひとりが直哉ちゃんの部屋で直哉ちゃんと寝るの」
「いっ、ちょ、ちょっと──」
「いいでしょ、お姉ちゃん、ちーちゃん?」
「ええ、いいわよ」
「もちろん」
 直哉を無視し、三人の意見は揃った。
「だ、だから、ちょっと待ってよ」
「ジャンケンで決めるわよ」
「一回勝負。恨みっこなし」
「せーの……ジャンケン──」
『ポン』
 三本の手が出揃った。
 グーがふたりにチョキがひとり。
「やった」
「ええーっ」
 負けたのは綾奈だった。
「あやちゃん。恨みっこなしだからね」
「……わかってるわよ」
「麗奈さん、いきますよ?」
「いつでもいいわよ」
「せーの……ジャンケン──」
『ポン』
 パーとグー。
「ああん、負けちゃった」
「この勝負、残念ながらお姉ちゃんの勝ち」
 勝ったのは麗奈だった。千尋も綾奈もかなり残念そうである。
「というわけで、お姉ちゃんが直哉ちゃんと一緒に寝るから……って、直哉ちゃんは?」
「さあ、つい今までそこにいたのに」
 突如リビングから消えた直哉。
「ったく、なんで当事者を無視して話を進めるかな」
 その直哉は自分の部屋にいた。とはいえ、別に寝るために戻ってきたわけではない。
「明日、寝不足になるわけにはいかないからな」
 直哉はそう言って部屋を出た。
 部屋を出た直哉は下に下り、リビングに戻った。
「あっ、なおくん」
「どこにいたの?」
「部屋だよ。それから、俺はここで寝るから」
 直哉は有無を言わさず、ソファに横になった。
「俺のベッドは麗奈姉さんと綾奈姉さんで使って。じゃ、そういうことで」
 そう言って持ってきた毛布をかぶった。
 三人はあっという間の出来事に、一言も発せなかった。
「ね、ねえ、なおくん。怒ってる?」
「……別に」
 直哉の言葉は簡潔だった。
「……綾奈、千尋ちゃん。今日は直哉ちゃんの言う通りにしましょう」
「お姉ちゃん……」
「ごめんね、直哉ちゃん。直哉ちゃんのベッド、使わせてもらうから」
 麗奈はそう直哉に言った。
「じゃあ、おやすみ、直哉ちゃん」
「おやすみ……」
 麗奈に続いて綾奈もリビングを出て行った。
「……姉さん」
「なに?」
「わがまま言って、ごめん」
「ううん、いいの。私たちの方こそごめんね。おやすみなさい、なおくん」
 最後に千尋がリビングの電気を切って出て行った。
「……最低だな、俺」
 直哉はそうひとりごち、目を閉じた。
 
 二
 次の日。
「……ん、ん〜」
 直哉は大きく伸びをした。
「さすがにあちこち痛いな」
 腕をまわし、肩をまわす。
「でも、これでいいんだよな」
 リビングの大きな窓からは、朝陽がいっぱいに降り注いでいた。
 時間は七時半。昨日の今日ではまだ誰も起きてこない。
「今日は約束があるからな」
 五月十八日。今日は瑞穂の誕生日で、直哉は瑞穂と約束をしていた。
 約束の時間は、一時に駅前である。
「……やっぱり、なんか買った方がいいんだろうな」
 直哉は毛布を畳みながら呟いた。
「ふわぁ、おはよう、直哉くん」
「あっ、おはようございます」
 一番先に起きてきたのは、夏奈だった。
「大丈夫ですか?」
「なんとかね。でも、お水一杯もらえるかな?」
「ちょっと待っててください」
 直哉は台所でコップに水を注いで持ってきた。
 夏奈はそれを一気に飲み干した。
「ふう、少し生き返ったわ」
「おじさんは死んでますか?」
「ええ。あれじゃまだ当分起きないわ」
「しょうがないですね。昨夜、あれだけ飲んだんですから。父さんも母さんもまだ起きてきませんから」
「直哉くん」
「はい」
「麗奈と綾奈は、どこで寝てるの?」
「俺の部屋ですよ、たぶん」
「ごめんね、直哉くんを追い出しちゃったみたいで」
「別に気にしてませんよ。それに、姉さんたちにここで寝てもらうわけにはいきませんから」
「優しいのね」
「そんなんじゃないですよ」
 直哉は照れ笑いを浮かべた。
「直哉くんみたいな男性が、麗奈や綾奈にも現れるといいんだけど。なかなか難しいわよね」
「さ、さあ、俺にはわかりません」
「麗奈も綾奈も直哉くんにベタ惚れだから。もし直哉くんに心に決めた人がいなければ、どちらかをもらってほしいくらい」
「俺にはもったいないですよ。姉さんたちには、きっといい人が現れますから」
「だといいけどね」
 そう言った直哉の心境は、複雑だった。
 八時をまわった頃、ようやく雪恵と千尋が起きてきた。
「直哉くん。悪いんだけど、ふたりを起こしてきてくれるかな?」
「わかりました」
 直哉はそう言って二階に上がった。
 自分の部屋にノックして入るのも珍しいことではあった。
「入るよ」
 返事がないで、今度は声をかけてからドアを開けた。
 部屋の中はまだカーテンが引かれ、薄暗かった。
 麗奈と綾奈は、まだベッドで眠っていた。
「よく眠ってるな」
 あまりにもよく眠っているために、起こすのが躊躇われるほどである。
「……だけど、こうしてよく見ると、ホントに綺麗だよな、ふたりとも。なんか信じられないな、このふたりを抱いたなんて」
 直哉はしみじみとそんなことを呟いた。
「……そんなこと言わないで、直哉ちゃん」
「えっ……?」
 声は唐突に聞こえた。
「起きてたの、麗奈姉さん?」
「少し前にね。綾奈も起きてるわよ」
「うん、起きてる」
「なんだ、だったら返事してくれればいいのに」
「直哉ちゃんに起こしてもらいたくて」
「でも、お姉ちゃんが先にしゃべっちゃったから」
「ごめん、綾奈」
「別にいいけど。でも、直哉ちゃん」
「なに?」
「悲しくなるようなこと、言わないで。直哉ちゃんが信じてくれないと、あたしたちまで信じられなくなっちゃう」
「……ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないんだけど。結果的に無責任な発言だったね」
 直哉は素直に謝った。
「わかってくれればいいの。ね、お姉ちゃん」
「うん」
 麗奈も綾奈もそう言って微笑んだ。
「さてと、そろそろ起きないとお母さんに言われるから」
 まず先に綾奈がベッドから出た。格好は以前、千尋から借りていたパジャマと同じだった。
「じゃあ、俺は先に下に戻ってるから」
「待って」
 部屋を出ようとする直哉を、綾奈が止めた。
「どうしたの?」
「もう少し、一緒にいて」
「えっ、でも、着替えるんでしょ? だったら──」
「いいの。直哉ちゃんになら見られても平気だし」
「平気って、そういう問題じゃないと思うけど……」
 直哉は困り果てた様子で綾奈を見た。
「一分一秒でも直哉ちゃんと一緒にいたいの」
 そう言って綾奈は、直哉に構わず着替え出した。
「……もう、わかったよ」
 直哉も腹をくくることにした。
「もうみんな起きてるの?」
「いや、おじさんと父さんはまだ寝てる」
「お母さんたちは起きてるんだ」
「ふたりを起こしてくれって頼んだのは、おばさんだからね」
 直哉は視線を幾分そらしながら答えた。
「直哉ちゃん……」
 と、綾奈が下着姿のまま直哉に抱きついた。
「胸が、せつないの」
 そう言って直哉の手を胸に当てた。
「……これを言うと直哉ちゃんにとっては迷惑なことだと思うけど、あたし、もう一度直哉ちゃんに抱いてほしいの」
「それは──」
「……もちろん、無理強いはしないし、できないから。でもね、やっぱり、あたしにとって直哉ちゃんは、単なる従弟以上の存在だから。少なくとも今は、直哉ちゃん以外にはそんなの考えられないから」
「……綾奈姉さん」
「……もし、直哉ちゃんが少しでもあたしのことを想ってくれてるなら、ううん、そうじゃなくてもいい。もう一度、あたしに夢を見させてほしい。ダメ、かな?」
「……そんなことは、ないよ」
「じゃあ……?」
「確約はできないけど、それでもいいなら」
「……うん、それだけで十分だよ」
 綾奈はそれを聞くと嬉しそうに微笑み、直哉から離れた。
 それから程なくして綾奈は着替え終わった。
「じゃあ、先に下りてるから」
 そう言って綾奈は部屋を出て行った。
「麗奈姉さんも着替えた方がいいよ」
「そうだね……」
 麗奈もベッドから出て着替えはじめた。
「……今の直哉ちゃんにとって、私たちって、邪魔かな?」
「そんなことはない。絶対にない」
「でも、少なからず迷惑はかかってるよね」
「そんなの、迷惑のうちに入らないよ」
「ありがとう、ウソでもそう言ってくれて」
「ウソなんか言ってない。これは俺の本心だよ。本当に迷惑なら、こんなに姉さんたちのこと気にかけないよ」
「直哉ちゃん」
「なに?」
「私もね、もう一度直哉ちゃんに抱いてほしいの」
「えっ……?」
「もちろん、直哉ちゃんが理由を作ってからでいいの。そうじゃないと、ダメだろうし」
「姉さん……」
「私は、生涯直哉ちゃん以外の男性を愛さないし、知りたいとも思わないから。私のすべては、直哉ちゃんのものだから」
「……ありがとう。そこまで言ってくれて」
「私の大切な、直哉ちゃんのことだから」
 麗奈は、そう言って微笑んだ。
「……綾奈姉さんと同じことしか言えないけど、それでもいい?」
「うん、十分」
「じゃあ、確約はできないけど」
「うん」
 麗奈が着替え終わり、部屋を出るという時。
「直哉ちゃんのベッド、直哉ちゃんの匂いがして、とっても心地良かったよ」
 麗奈は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 それに対して直哉は、なにも言わずに微笑み返すだけだった。
 
 午後、早めに昼食を食べ、直哉は家を出た。
 五月晴れの陽差しはだいぶ強くなってきていて、ずっと日向にいると汗が出てくるくらいだった。
 そんな中、直哉はとりあえず商店街へ出た。
「なにがいいかな?」
 直哉は財布の中身と相談しながら店を見て回った。もちろん、買うのは瑞穂への誕生日プレゼントである。
「ん〜、このあたりが無難かな」
 今、直哉が見てるのはアロマテラピーのコーナーだった。ピンキリではあるが、ものによってはリーズナブルなものもあるので、直哉にも十分手が出せた。
 しばらく悩み、結局買ったのは、アロマテラピーのポットと数種のアロマオイル、それとアロマキャンドルだった。
 店を出たところで時計を見ると、十二時五十分をまわっていた。
「……もう絶対にいるな」
 直哉はすぐさま待ち合わせ場所の駅前に向かった。
 日曜日の駅前は、人が多かった。天気もいいので、家族連れなどをよく見た。
 直哉はそんな中、瑞穂の姿を探した。
 瑞穂はすぐに見つかった。
「相変わらず早いね」
「直哉くんと一緒にいられると思ったら、じっとしてられなくて」
 瑞穂はそう言って笑った。
「今日は瑞穂さんが主役なんだから、俺を待たせるくらいでもよかったのに」
「ううん、一分一秒がもったいないから」
「……どこかで聞いたセリフ」
「なにか言った?」
「いや、なにも。それより、どっか寄って行くの?」
 直哉は適当に誤魔化した。
「ちょっとケーキ屋さんに寄って行こ」
「オーケー」
 直哉たちは駅前から人の波に乗り、商店街へ。
 地元で一番の人気店でケーキを買った。
「ホントはケーキも作りたかったんだけど、時間がなくてね」
「ケーキもって、料理は作ったの?」
「うん。昨日のうちから準備してね。今日は瑞穂特製スペシャルバースデイメニューを堪能してもらうから」
「そりゃ楽しみだ」
「期待は裏切らないわよ」
 瑞穂は、にっこり笑った。
 ふたりは駅から直哉の家とは反対方向へと歩き出した。
 この方向は住宅街は住宅街でも、マンションやアパートが多く、ひとり暮らしの学生や社会人が結構住んでいた。
「瑞穂さんはこの辺に住んで長いの?」
「大学卒業してからだから、三年目かな」
「ふ〜ん。三年も住んでればだいたいこの辺のこともわかったでしょ?」
「そうね、おおよそはね」
「うちの高校のことは知ってたの?」
「名前だけはね。進学校としても結構有名だし。まさかそこに勤めることになるなんて思わなかったけどね」
「まあ、普通はそうだろうね」
「でも、そのおかげでこうして直哉くんとも知り合えたんだし」
 瑞穂はそう言って直哉と腕を組んだ。
「駅前だと誰かに見られるかもしれなかったからね」
「それはこのあたりでも同じじゃないの?」
「大丈夫。うちはもうすぐそこだから」
 そう言ってあるマンションを指さした。
「ここの三階が私の部屋よ」
 マンションは五階建てで、外観もなかなか洗練されたものだった。
 エレベーターで三階に上がった。
「ここよ」
 鍵を開け、直哉を招き入れた。
「おじゃまします」
「どうぞ」
 スリッパを履き、リビングへ。
「綺麗な部屋だね」
「掃除したからね」
 瑞穂はぺろっと舌を出して笑った。
 部屋の間取りは、1LDK。ひとり暮らしには十分の広さである。
「とりあえず適当に座って」
 直哉はとりあえず差し障りのないところに座った。
 ぐるっと部屋の中を見回した。
 取り立ててなにか珍しいものがあるわけでもない、ごく普通の部屋だった。
「つまめそうなものだけ持ってきたから」
 そう言って数枚の皿をテーブルに並べた。
「直哉くん、お酒は飲める?」
「それ、教師のセリフ?」
「わかってるけど、一応ね」
「まあ、度数の低いのなら少しは飲めるよ」
「じゃ、ワインでも」
 瑞穂は嬉々とした表情でグラスとワインを用意している。
「なんか手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
 直哉の申し出はあっさりと却下された。
「準備終わり」
 グラスとワインを置き、自分も座った。
「あんまり高いワインじゃないけどね」
 そう言い置いてワインを注ぐ。
「じゃあ、二十五回目の誕生日、おめでとう、瑞穂さん」
「ありがとう、直哉くん」
 ガラスの涼やかな音が鳴った。
「ふう……」
 一気に、とはいかないがワインを飲み、悩ましげに息を吐いた。
「瑞穂さん」
「ん?」
「はい、プレゼント」
 直哉は持っていたプレゼントを渡した。
 鞄を持っていなかったので、瑞穂もそれがなんなのかは気付いてはいた。でも、それをあえて言わないのが、人というものである。
「ありがとう。開けてもいい?」
「構わないよ」
 瑞穂はラッピングを丁寧に開けていく。
「あっ、これ、アロマテラピーのだよね?」
「そうだよ。あんまりいいのが思いつかなくて、無難なところに収まったんだけどさ」
「ううん、十分素敵なプレゼントだよ」
 瑞穂は本当に嬉しそうに微笑んだ。
「あとでつけてみるね」
 そう言ってとりあえずそれを脇に置いた。
「ふふっ」
「なに?」
「今までで一番嬉しい誕生日だなって思って」
「こんなことくらいで喜んでくれるなら、安いもんだよ」
「私にとっては、どんな高価なプレゼントをもらうより、こうして直哉くんと一緒にいられることの方が何倍も嬉しい」
「…………」
 直哉はなにも言わずにワインを飲んだ。
「さて、さっそく二十五歳になった感想と、これから一年間の抱負を聞きましょうか」
「えっ?」
「二十五歳になった感想は?」
「ま、まだ実感がないけど」
「やはり二十代前半もあと一年ということで、これからの一年間は実り多いものにと?」
「なんかそれ、私がずいぶんと年を取ったって言い方みたい」
「そんなことはない。うん、気のせい」
「まあ、いいけど。これからの抱負は、二十五歳という年に恥じないような生活を送りたいです。それと、できれば直哉くんと今以上の関係になりたいです」
「……以上で終わります」
「なんで最後のところを無視するの?」
「えっ、無視した?」
 直哉はわざとらしくとぼけた。
「むぅ、言ったなぁ」
 瑞穂は立ち上がった。
「な、なに?」
「えいっ」
「ぐおっ」
 そしてそのまま直哉に倒れかかった。
「い、いきなりなにすんだよ」
「だって、私の言ったこと無視したんだもん」
「ったく、それでホントに二十五かよ」
「どうせ精神年齢は幼いですよ〜だ」
「開き直るなって」
 直哉はそう言って瑞穂を抱きしめた。
「……いい匂いがする」
 直哉は瑞穂の髪に顔を寄せた。
「髪、長いと手入れも大変なんでしょ?」
「大変は大変だけど、好きで伸ばしてるからね」
「……やっぱり、長い方がいい」
 直哉は目を閉じて呟いた。
「しばらく、このままでいようか?」
「うん……」
 ふたりのまわりだけ、時間がゆっくりと流れているような、そんな雰囲気がふたりを包んでいた。
 
 直哉が瑞穂と待ち合わせていた一時頃。菜緒は部屋でずっと悩んでいた。すっかり憔悴した様子で、目もうつろだった。
「……謝らなくちゃ」
 何度かそう言い、腰を上げるのだが、もう一歩が出なかった。
「……このままだとホントに私、つぶれちゃうよ」
 それは、心の声だった。
「……やっぱり、行かなくちゃ」
 菜緒はようやく決心し、部屋を出た。
 とはいえ、それでも幾分足取りは重かった。
 玄関を出ると、眩しい陽差しが菜緒を照らし出した。
 いつもなら勝手口から入るのだが、今日は玄関に立った。
 インターホンを鳴らす。
 応対に出たのは、千尋だった。と言っても、玄関を開けてだったが。
「こんにちは、千尋さん」
 菜緒は努めて平静を装い、声を発した。
「こんにちは、菜緒ちゃん」
「あの、直哉、いますか?」
「ごめんね、今いないの。お昼少し前に出かけて、今日は帰りも少し遅くなるって」
「そう、ですか」
 菜緒は内心ホッとしたような、そうでないような、矛盾した想いにとらわれていた。
「急な用だった?」
「あっ、いえ、いいんです。たいした用じゃないですから」
「そう?」
 菜緒は千尋と視線を合わせなかった。視線を合わせるとすべてを見透かされそうな気がしたからだ。
 しかし、それは逆効果だった。
「菜緒ちゃん。ひょっとして、なおくんとなにかあったの?」
「……なにもないですよ」
 平静を装うが、それがかえって不自然に映った。
「ねえ、ちょっとお茶でも飲んでいかない? 今お父さんしかいなくてちょっと退屈だったんだよね。ね、菜緒ちゃん?」
「……はい」
 千尋は菜緒を招き入れると、ドアを閉めた。
「さっきまでね、お母さんのお姉さん家族が来てたの。だから、お父さんも二日酔いでお昼食べて寝てるから」
 説明しながらリビングに通した。
「お母さんは途中までついていってるから。ま、そのうち帰ってくると思うけど」
 千尋は台所でヤカンを火にかけ、その間に紅茶を準備する。
 千尋がそうしている間、菜緒は俯いたまま一言も話さない。
 しばらくしてお湯が沸くと紅茶葉をポットに入れ、お湯を注いだ。湯気とともにいい香りが立ち上った。
 ふたをしてそのままテーブルまで運んだ。
「お菓子、なにかあったかな?」
 台所の収納を開け、中を確かめる。
「あっ、クッキー発見」
 千尋は箱入りクッキーを持って戻ってきた。
 クッキーをお菓子皿に移す。
 紅茶をカップに注いでお茶の準備完了。
「はい、菜緒ちゃん」
「……すみません」
「それで、なおくんとなにがあったの?」
 千尋はいきなり核心を訊ねた。
「なおくんはそんなそぶり見せてなかったけど。まあ、昨日からいろいろあったから、たまたま忘れてただけかもしれないけどね。ただ、菜緒ちゃんのその様子からすると、なおくんと喧嘩したのは間違いないみたいだけど」
 さすがは千尋、と言うべきである。菜緒の様子を見ただけでそこまで言い当てた。
「……いつもみたいに些細なことだったんです。いつもならその日の帰りにでも笑い飛ばせるんですけど……」
「いつもと違った、と」
 菜緒は小さく頷いた。
「なおくんも意地っ張りだからね。百パーセント自分に非がないとわかってることだと、絶対に自分から謝らないから」
「……私が悪いんです。少し、やりすぎちゃって」
「だったら、謝っちゃうしかないわね。最初はちょっと気まずいかもしれないけど」
「……直哉、許してくれますか?」
「許すもなにも、なおくんはたいていの場合は本気で怒ってないから。そういうところ、妙に大人だからね。でも、もしなおくんが本気で怒っていたら、私でも手をつけられないわよ。なおくん、本気で怒ると性格変わるから」
「…………」
「でも、私の見た感じでは怒ってるような感じはなかったから、大丈夫だと思うけど。今日、帰ってきたら連絡しようか?」
「……いいです。明日、謝りますから」
 菜緒は、消え入りそうな声で答えた。
「それならそれでいいけど。もし困ったことがあったら遠慮しないで言ってね。少しは手を貸してあげるから」
「……はい」
「菜緒ちゃん……」
 千尋は、妹みたいな菜緒がそんな表情をしていることに、心を痛めた。しかし同時に、自分にはなにもできないこともわかっていた。
 
「ああん、また負けたぁ」
「へっへー、十五連勝」
「もう一回。今度は絶対に勝つから」
「何回やっても同じだって。パズルゲームの帝王と呼ばれた俺に勝てるわけないって」
「やってみなくちゃわからないわよ」
「やれやれ」
 今ふたりは、テレビゲームをやっていた。やっているのは上から落ちてくるブロックを上手く積み重ね、それを消していくパズルゲームである。
 最初は自信満々だった瑞穂も、直哉の前に手も足も出なかった。
 現在の戦績は、十五戦全敗。惨憺たる結果である。
「よし、今回はいい感じ」
「甘い甘い」
 直哉は余裕の表情で操作している。
「それっ、これをここに入れれば──」
「一足お先に、五連鎖」
「ええーっ!」
 直哉の方は一気にブロックが消えた。それと呼応するように、瑞穂の方に大量のブロックが降ってきた。
「ああん、少しは手加減してよ〜」
「勝負の世界は厳しいのだ。それ、追加の四連鎖」
「ああーっ、ダメーっ!」
 しかし、瑞穂の絶叫虚しく、直哉の勝利である。
「十六連勝、っと。もうさすがにいいんじゃないの?」
「む〜、悔しい」
「リベンジはいつでも受けるよ」
 完勝で意気揚々の直哉。
「今度は絶対に負けないからね」
 次回以降の巻き返しを誓う瑞穂。
「ん〜、ゲームで騒いだの久しぶりだ」
 直哉はそう言って伸びをした。
「直哉くんは普段、ゲームとかやらないの?」
「やらないこともないけど、最近はご無沙汰してるね。これでも一応は受験生だし。でも、たまにやるにはいいよ。気分転換にもなるし、今日みたいにボロ勝ちだとストレスも発散できるし」
「むぅ、そんなに言わないでよ」
「ははは、ごめん」
 直哉は心から笑っていた。もちろん、瑞穂のことがおかしくて笑っているわけではない。今の時間が楽しいから笑っているのだ。
「楽しむだけ楽しんだら、腹減ってきた」
 時計の針は間もなく、五時を指そうとしていた。
「ねえ、そろそろスペシャルバースデイメニュー、食べない?」
「そうだね。じゃあ、最後の仕上げをやっちゃうから」
 瑞穂はそう言って立ち上がった。
 台所でエプロンをかける。
「なんか手伝おうか?」
「直哉くんは座ってて」
 直哉の申し出は即刻却下された。
 瑞穂はすでに下ごしらえしてある材料を、手際よく料理にしていく。それを見ているだけで、瑞穂の料理の腕前が相当のものであることがわかった。
「…………」
 直哉はじっとしていることができず、こっそりと調理を覗いた。
 火にかけられている鍋には、スープが入っていた。フライパンの上で肉や野菜が炒められていく。
「へえ、たいしたもんだ」
「な、直哉くん、いつの間に」
「ちょっと気配を殺して。そんなことより、たいした腕だよ、瑞穂さん」
「あ、ありがと」
 瑞穂は照れながらフライパンを動かした。
「前の弁当だけだと、実際の腕はわからなかったけど、いや、たいしたもんだ」
「そんなに褒めてもこれ以上はなにも出ないよ?」
「俺は事実を言ってるだけ。その見返りなんて求めてないから。だいいち、料理に関してはそんなことできないし。料理に関しては人に厳しく、自分にも厳しくをモットーにしてるからね」
「そうなんだ。じゃあ、私は直哉くんのおめがねにかなったんだ」
「まあね」
「ふふっ、よかった」
 瑞穂は嬉しそうに微笑んだ。
「あとは味次第だね。実際のところ、これが一番重要なんだから」
「それは自信があるよ。でも、もう少し待ってね」
 瑞穂は、数種の調味料を加えた。
「んじゃま、俺はもう少しじっとしてるかな」
 直哉はそう言ってリビングに戻った。
「……なんか、こういう感じもいいよな」
 しみじみとそう言った。
「……俺、こういうのに憧れてるのかな?」
 日曜日の夕方。
 美人の妻が台所で自分のために料理の腕を存分にふるっている。
 自分はそれを音だけ聞きながらのんびりと待つ。
 次第にいい香りがあたりを包みはじめる。
 それに触発されたかのようにお腹がグウと鳴る。
 そして聞こえる妻の声。
「もうすぐできるからね」
 というシチュエーションなら、誰もが憧れる。
 ようするに、直哉も人並みの憧れを抱いていた、というわけである。
 それから程なくして料理が完成した。
「瑞穂特製スペシャルバースデイメニュー、完成」
「ほほぉ、中華か」
 テーブルに並んだ料理は中華だった。
 青梗菜と牛肉のオイスターソース炒め、エビのチリソース、干し貝柱のスープ、それと中華ちまきだった。
「なかなか旨そうだけど、でも、この中に昨日から準備するようなもの、ほとんどないと思うけど」
「うん。メインは、デザートだから。それはあとでね」
 そう言って瑞穂は微笑んだ。
「そういうことなら、まずはこっちをいただきますかね」
 直哉は箸を持ち、まずはチリソースに手をつけた。
「……どう?」
「……絶品、とまではいかないけど、かなり旨いよ」
「よかったぁ」
 直哉の言葉に一安心と息をつく瑞穂。
「遠慮しないでどんどん食べてね。今日は直哉くんのために作ったんだから」
「最初から遠慮するつもりはなかったけどね」
 直哉は意地悪く言った。
「そういえば、瑞穂さんはどうしてこんなに料理ができるようになったの?」
「一番の理由は、ひとり暮らしをはじめたからかな。必要に迫られて作るようになって。次第に上手に作れるように努力して」
「なるほど」
「でも、料理自体は母に仕込まれたんだけどね。女として料理くらいできないと困るって言って。最初は嫌々だったんだけど、今思えば、あの時やっておいて本当によかったって思える。やってなければ直哉くんのためにこれだけのことをできないからね」
「料理はセンスも大事だけど、何度もやることが大事だからね。何度もやるうちに感覚として基本的なことは覚えるし」
「直哉くんもお料理できるの?」
「簡単なものだったら一通りね」
「じゃあ、直哉くんと一緒になる女性はかなりの腕前じゃないとダメね」
「な、なんでいきなりそこへ話が飛ぶかな」
「だって、それが一番興味あるから」
 ニコッと笑う瑞穂。
「直哉くんて、結婚願望あるの?」
「まあ、一応は」
「じゃあ、理想の女性は?」
「俺が納得できる人」
「納得できる人? どういう意味?」
 瑞穂は首を傾げた。
「説明するのは難しいけど、簡単に言うと、たとえどんな欠点を持っていてもそれを補えるものを持っていて、なおかつ、それを俺と共有できる人。ようするに、俺がその人といてもいいんだって納得できるような人だね」
「難しいね。結局それは、直哉くんにしか判断できないんだ」
「そうなるね。だからまわりがあいつは俺に合うとか言っても、実際はどうか」
「でも、逆に考えるとそれだと後悔することって絶対にないよね」
「まあね。全部自分の責任だし。それに、そこまでの関係になって今更後悔なんてかえって女々しいよ。俺は絶対にそれはしない」
「直哉くんならそうだね。じゃあ、ズバリ、今一番好きなのは誰?」
「いっ、それ、マジで聞く?」
「うん。今の私にとっての、最重要問題だから」
 しれっと言う瑞穂。
「……できればノーコメントにしたいんだけど」
「ダ〜メ。ちゃんと答えて」
「どうしても?」
「そ、どうしても」
「待ったは?」
「なし」
「タイムは?」
「なし」
「乞うご期待は?」
「なし」
「うぬぬぬ……」
「たった一言言えば楽になれるんだから」
「その一言がなかなか言えないんだよ」
「どうして?」
「……どうしても」
「でも、一番と呼べる人はいるんでしょ?」
「……たぶん」
「だったら、その『たぶん』を確信に変えるためにも口に出して言った方がいいよ」
「言うと後悔しそうだから」
「珍しく煮え切らないね」
「そういうこともあるよ」
「……そこで私って言ってくれればよかったのに」
「……残念だけど、瑞穂さんはその一歩手前」
「うん、わかってる。だからこそ知りたいんだけどね」
「……じゃあ、二者択一にしておく」
「誰と誰?」
「俺の姉さんと、菜緒」
「お姉さんと杉村さん? そっか、かなりの強敵ね。う〜ん、一番の壁は、時間よね。これだけはどうやっても埋まらないから」
 瑞穂は冷静に判断する。
「口に出してみて少しは自分の気持ちがわかった?」
「どうかな。かえって複雑になったような気もする。でも、それはそれで仕方のないことなのかも。俺が決めてないのが原因なんだから」
「早く決めないとね。そうしないと、私が直哉くんを取っちゃうよ」
「……瑞穂さん」
「さてと、そろそろお待ちかねのデザートにしようか?」
「そうだね」
 直哉の同意を受けて、瑞穂は台所へ立ち、冷蔵庫からなにやら取り出した。
「中華デザートの定番と言えば、もちろん杏仁豆腐」
「なるほど、杏仁豆腐を作っておいたのか」
「結構手間がかかるからね」
 真っ白な杏仁豆腐が数種の果物と一緒にシロップの中に浮いていた。
「さ、食べてみて」
「んじゃさっそく」
 直哉は一口すくって食べた。
「いや、これもなかなか旨いよ。中華は脂っこいものが多いからね。こういうさっぱりしたのがいい感じだよ」
「よかった」
 瑞穂も安心して自分の分を食べた。
「しかし、瑞穂さんの誕生日なのに、なんか俺の方がすっかり主役になってるような気もする」
「そうかもね。でも、まだまだこれからもあるからね」
 瑞穂は意味深な笑みを浮かべた。
 
 食事のあと、しばらくはとりとめのない話をしていた直哉と瑞穂。
 しかし、次第に話題も尽きてくる。
 次第に多くなる沈黙の時間。
「直哉くん」
「ん?」
「今日の最後に、ひとつだけお願いしてもいいかな?」
「……いいよ」
 直哉は、瑞穂がなにを言うかわかっているような口ぶりである。
「私を、愛して……」
 瑞穂はそう言って直哉にキスをした。
「ん……」
 わずかにせつなそうな声が漏れた。
「……ベッドで」
 直哉は瑞穂を抱きかかえ、部屋のベッドに運んだ。
 もう一度キスを交わし、直哉はブラウスを脱がせた。
 ブラジャーも外し、胸に直に触れた。
「あん……」
 わずかに触れただけで、瑞穂は敏感に反応した。
「ん、あ、んふぅ……」
 包み込むように揉んでいると、突起が固くなってくる。
 直哉はそこに舌をはわせる。
「んん、んくっ」
 舌で転がすようにし、また、赤ん坊がおっぱいを吸うように吸い付く。
「あっ、んんっ、直哉くん、いいのっ」
 瑞穂は、嬌声を上げた。
 直哉は胸をいじったまま、スカートを脱がせた。
 布越しに秘所に触れると、しっとりと濡れているのがわかった。
「くぅ、んんっ」
 瑞穂は、わずかに体をよじった。
 擦るように秘所をいじると、さらに濡れてくる。
 直哉はショーツも脱がせた。
 直に秘所に触れると、すでにあふれてきている蜜が指を濡らした。
「こんなに濡れてる。瑞穂さんは感じやすいんだな」
「い、いや、言わないで……」
「いくら言葉で否定しても、体は正直だよ」
 少しきついことを言うだけで、さらに蜜があふれてくる。
「あん、あっ、あっ」
 すでにびしょびしょになっている秘所を、指と舌でかき回す。
「んんっ、ダメっ、直哉くんっ」
 瑞穂は、敏感に反応する。
「ん、はあ、直哉くん、もう、ちょうだい……」
 直哉は小さく頷き、裸になった。
 限界まで怒張したモノを、瑞穂の中に一気に挿れた。
「んん、あああっ!」
 予想以上の快感に、軽く達してしまった。
 直哉はそれをさらに煽るように腰を動かす。
「あっ、あっ、あっ、あっ、ま、また、来るっ」
 達した余韻が残っているうちに、また新たな快感が瑞穂を襲う。
「んんっ、そ、そんなにされると、もう、わ、私、ああっ」
 瑞穂はすぐにでも達してしまいそうだった。
 直哉もそれを感じ取って、さらに動きを速くする。
「いいっ、すごくいいのっ、あっ、あっ、あっ」
「俺も、もう……」
「一緒に、んんっ、あんっ、直哉くん」
「くっ、瑞穂さん」
「んくっ、イくっ、ああああっ!」
 より大きな声とともに瑞穂は達した。
「くっ……!」
 直哉は急いでモノを引き抜き、瑞穂の腹部に白濁液を放った。
「はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
 上がった息を整える。
「……今、拭くよ」
 直哉はティッシュを取り、自分が放ったものを綺麗に拭き取る。
「直哉くん……」
「瑞穂さん……」
 キスを交わす。
「ん、また大きくなったね」
 キスをして、また直哉のモノが大きくなった。
「今度は、私が……」
 瑞穂は直哉を仰向けに寝かせ、下半身にまたがった。
「ん、くっ……」
 そして、そのままゆっくりと腰を落とした。
「ああ、奥に当たってる……」
 直哉のモノが瑞穂の中に収まると、瑞穂は笑みを浮かべた。
 今度は自分から動く。
「ん……あっ……」
 最初はぎこちない動きだったが、次第に勝手に腰が動くようになる。
 直哉もそれにあわせて下から突き上げる。
「んんっ、ああっ、奥に当たって、す、すごく、感じるのっ」
 さらなる快感に酔いしれる瑞穂。
「あくっ、んんっ、あっ、あっ、あっ」
 無意識のうちに腰を動かし、快感をむさぼる。
「あっ、あっ、いいっ、んんっ、あああああっ!」
「んっ……!」
 瑞穂は体を大きくのけぞらせ、達した。
 直哉は腰を素早く引き、モノを抜いて白濁液を放った。
「はあ、はあ、直哉くん……」
「はあ、はあ、瑞穂さん……」
「愛してる……」
 夢の時間は、まもなく終わりを告げる。
 
「綺麗な星空……」
「そうだね……」
 ふたりは今、瑞穂の部屋から駅の方へ歩いていた。
「直哉くん、今日は本当にありがとう」
「別に礼を言われるようなことはしてないよ。俺も楽しかったし」
「そう言ってもらえると、直哉くんを誘った甲斐があるな」
 瑞穂は穏やかに微笑んだ。
「学校でもこうやっていられるといいんだけどね」
「それはかなり無理があると思うけど。それに、俺は殺されかねないし、瑞穂さんだって嫌がらせを受けるかもよ」
「そうね。直哉くんの人気はすごいからね。女の嫉妬は限度がないから」
「瑞穂さんだって、女でしょうが」
「そうよ。だから嫉妬深いのよ」
「うっ、お、お手柔らかにしてほしいよ、そういうことは」
「ふふっ、どうしよっかな〜」
「み、瑞穂さん」
 やはり直哉は年上の女性にはおもちゃにされる要素があるらしい。
「でもね、直哉くん。ひとつだけ嫉妬を受けない方法があるわよ」
「そんなのあるの?」
「うん。それは誰から見ても直哉くんにはあの人しかいないっていう人とつきあうこと。そして、必ず幸せになること。そうすれば最初は嫉妬するかもしれないけど、それもいい想い出に変わるわよ」
「……難しいね」
「でも、それが直哉くんにとっても、直哉くんを好きな子にとっても、最善とはいかなくてもそれに近い方法だと思うけど。百パーセント納得させるのは、どうがんばっても無理なんだから」
「それは、瑞穂さんにとってもいい方法なの?」
「……どうかな? 実際はその状況になってみないとわからない。でも、直哉くんが決めたことなら、私にはなにも言えないのも事実だから。私を選んでくれない限りはね」
 そう言う瑞穂の顔には、淋しさが浮かんでいた。
「直哉くんにとって、私ってどんな存在?」
「単なる師弟関係以上恋人未満、かな。でも、誤解しないでほしい。俺の中にはちゃんと桜井瑞穂っていう『場所』があるんだから。これはいつまでも消えないよ」
「……やっぱり直哉くんは優しいね。そうやって言ってくれる言葉のひとつひとつに優しさがあふれてる。すごく、心地良い優しさが、ね……」
 瑞穂は、直哉の腕をキュッとつかんだ。
「これからの私たちの関係って、どんな感じになるのかな?」
 瑞穂は努めて明るい声で訊いた。
「あんまり未練がましいことは言いたくないから、スパッと割り切った関係がいいね。直哉くんは今年で卒業だから、教師と教え子というよりは、年の離れた親友、かな?」
「瑞穂さん……」
 瑞穂は泣いていた。
 声も上げずにただ涙を流し、でも、顔には笑みが浮かんでいた。
「あやふやな想いに決着をつけるつもりだったけど、やっぱり──」
 それ以上言葉は続かなかった。
 直哉が唇を塞いだからだ。
「口に出して形になる想いもあるけど、言わないで心の中でだけ形にしておくべき想いもあっていいと思う。俺たちの関係だって、こうだって決めないで自然に、成り行きに任せればいいんだよ。たとえどんな関係になっても、今の俺たちが、今の想いが消えるわけじゃないんだから。俺は今、桜井瑞穂という女性を心から愛おしいと思う。心から愛されてるって感じてる。俺はその想いに応えきれないかもしれないけど、今をウソにはしたくないから」
 直哉の言葉は真剣で、瑞穂の想いを真摯に受け止めた結果の言葉だった。
「私、直哉くんの側にいてもいいんだよね?」
「もちろん。俺の中に瑞穂さんの居場所がある限り、いつまでもいていいよ」
「うん……」
 瑞穂は穏やかに微笑み、小さく頷いた。
 恋人という関係にも、いろいろな形があるだろう。だから、正式な恋人同士ではないかもしれないが、直哉と瑞穂の関係もそれに当てはめられると思う。
 お互いを本当に愛しているのだから。
 
 三
「なおくん、こっちだよ」
「ほら、なおくん」
「そんなことしたらダメだよ、なおくん」
「あはは、なおくん」
「もう、直哉ったら」
「待ってよ、直哉」
「ふふっ、直哉」
「直哉、好きだよ」
 
「……ん、もう朝か……」
 月曜日の朝は、いつもと同じようにはじまった。
 直哉はベッドからはい出ると、カーテンを開け放った。
 眩しい朝の陽差しが、部屋一杯に降り注いだ。
「……太陽が黄色く見えなくてよかったよ」
 直哉は思わず苦笑した。
「……さてと」
 ベッドを簡単に整えて、部屋を出た。
 いつものように台所に顔を出す。
「おはよう、姉さん」
「おはよ、なおくん」
 台所ではいつものように、千尋が朝食の準備をしていた。
 洗面所で顔を洗い、髪を整える。
 台所に戻り、朝食の準備を手伝う。
「なおくん」
「ん?」
「今日はいつもと同じなの?」
「ん〜、別になにも用もないから、そうだけど」
「うん、わかった」
 千尋はそれを確かめると、また準備に戻った。
 程なくして朝食の準備も終わった。
「今日もいい天気だね」
「そうだね。天気は悪いよりいい方が気持ちも晴れやかになるからね」
「…………」
 なにごともないように振る舞う直哉に、千尋はあえてなにも言わなかった。
 もちろん、千尋がなにか言ったところで、直哉と菜緒が仲直りできるわけではない。
「姉さん」
「なに?」
「……ん〜、やっぱりいいや」
「どうしたの?」
「たいしたことじゃないよ」
「そう?」
 直哉はそう言い、早々に朝食を切り上げた。
 部屋に戻り着替える。
 時計はまだ七時二十分になったばかりである。
「……露骨なことをするつもりはないけど」
 直哉はそう呟き、鞄を持った。
 階段を下りると、千尋がリビングから顔を出した。
「あれ、なおくん、もう行くの?」
「ちょっとね。学校でやらなきゃいけないことがあって」
 直哉の振る舞いはごく自然だった。
「じゃあ、いってきます」
 靴を履き、千尋にキスをした。
「いってらっしゃい」
 直哉が玄関を出ると、千尋は嘆息混じりに呟いた。
「……ホントに、意地っ張りなんだから」
 自転車を車庫から出し、表に出る。
 もちろんこの時間に菜緒がいるはずはない。
「…………」
 直哉はちらっと杉村家の二階を見たが、すぐさまペダルをこぎ出した。
「ひとりで学校に行くのは、かなり久しぶりだな……」
 思わずそんな呟きが漏れた。
 いつもなら隣に菜緒がいて、菜緒にあわせて学校へ行く。
 しかし、今日はひとり。誰にあわせる必要もない。
 それでも自然にスピードはいつもと同じだった。
 二十分早いだけで通学路を行く生徒の数も姿も全然違った。
 直哉の知り合いも何人かいたが、それほどの数でもなかった。
 いつも通り三十分で学校に到着した。
 空いている駐輪場の出しやすいところに自転車を置く。
「ふわ〜あ……」
 まだ八時前ということで、朝練をしている部活があった。朝練はたいていは八時かそこらに終わるので、いつもだと終わった時間になる。
 昇降口で靴を履き替え、教室へ。まだ静かな階段をゆっくりと上がっていく。
「うおっす」
 教室にはまだ三人しか来ていなかった。
「おはよう、直哉くん。今日はずいぶんと早いんだね」
「あんまり早く目が覚めたもんだから、仕方なく早く来たんだ」
「そうなんだ」
 直哉は適当な理由をつけて説明した。
 鞄を机に置くと、途端にすることがなくなった。
 少なくともあと十分はしないと人は集まらない。
 直哉は暇つぶしを求めて教室を出た。
 廊下に出ると、さっそく見知った顔を発見した。
「よお、理紗」
「おはよう、直哉くん」
 それはちょうど教室に入ろうとしていた理紗だった。
「早いな。いつもこの時間だったっけ?」
「だいたいね」
 直哉は理紗について教室に入った。
「直哉くんの方こそ、ずいぶん早いね」
「まあな」
 直哉は曖昧に答えた。
「さすがに朝まで秀明と一緒じゃないんだな」
「家の方向が違うからね。ちょっと残念だけど」
「ふ〜ん、理紗も言うようになったな」
「そ、そんなんじゃないけど……」
「別にいいじゃないか。好きな奴と一緒にいたいっていうのは、普通のことなんだから」
「そう思う?」
「ああ、少なくとも俺はそう思う。まあ、ホントはこれは俺じゃなくて秀明がそう思ってればいいんだろうけどさ」
 直哉は意地悪くそう言った。
「そういえばさ」
「うん」
「なんで秀明は理紗のこと、未だにちゃん付けで呼んでるんだ? 別にもう呼び捨てにしたっていいだろうに」
「呼べないんだって、恥ずかしくて」
 理紗はくすっと微笑んだ。
「あいつが恥ずかしいってタマかよ」
 直哉は呆れ顔で言った。
「俺なんか誰でも呼び捨てだけどな。別に恥ずかしいとかそういうのはないし」
「直哉くんは特別なんだよ。最初はたいてい恥ずかしいよ」
「悪かったな、そういうことに鈍感で。でもさ、男は最初からくん付けにするつもりもないし、女は名前で呼ぶのに慣れてるからな、俺は」
「まわりにいたからだね」
「まあな。そういや、理紗も最初から呼び捨てにしてたっけ?」
「うん。菜緒ちゃんや雅美ちゃんがそう呼んでたから自然に」
「じゃあ、今更さん付け、ちゃん付けなんてできないな、ははは」
 直哉はそう言って笑った。
「試しに呼んでみるか、江森さんとか、理紗ちゃんとか」
「な、なんか直哉くんに呼ばれてる感じがしないよ」
「だろうな。俺も自分じゃないみたいだ」
「ふふっ、直哉くんは今まで通りが一番だよ」
 理紗はそう言って笑った。
 次第に学校全体が賑やかになってきた。
「んじゃ、そろそろ戻るわ。秀明がいたら来させようか?」
「ううん、そこまでしなくてもいいよ」
「そうか? ならいいけど。じゃあな」
「うん」
 直哉は理紗の教室を出た。
 廊下を行き交う生徒の数が増えている。
「……教室に戻るか?」
 直哉は自問自答する。
 時間が八時十五分になろうというところ。
「ちっ……」
 直哉は舌打ちして教室に戻った。
 教室にはすでに半数以上が来ていた。
 直哉はざっと教室を見回した。しかし、菜緒の姿はなかった。
 直哉は内心ホッとしたような、残念なような複雑な想いだった。
「よお、直哉」
「ん、秀明か」
「なにしけた面してんだ?」
「別に。俺はいつもと同じだぞ」
「そうか? そうは見えないけどな」
 秀明は意味深なことを言った。
「おっはよー」
「おはよ、雅美ちゃん」
「よお、騒音娘」
「なによ、いきなりご挨拶ね」
「なんか今日は機嫌悪いみたいだよ」
「ふ〜ん、菜緒が休みだから?」
「えっ……?」
「菜緒、今日休むんだって。朝電話があったの。直哉くんも知ってたんでしょ?」
「ん、ああ」
 直哉はふらふらと自分の席に着いた。
「菜緒ちゃん、なんで休みなわけ?」
「熱があるんだって。ひょっとしたら、二、三日は休むかもって」
「そんなに悪いんだ」
「…………」
 直哉はなにも言わなかった。
 そして、一日がはじまった。
 
 昼休み。
 直哉はいつものように屋上にいた。
 午前中はほとんどなかった風が、午後に入って吹いてきた。
 直哉はフェンスを殴りつけた。
「くそっ、俺はどうしたいんだ?」
 語気を荒げて、自分自身を責める。
「……なんなんだ、俺は」
 二度三度、フェンスを殴りつけ、そのまま膝から崩れるように地面に座り込んだ。
「直哉くん」
「……雅美」
 屋上にやって来たのは、雅美だった。
「やっぱりここにいたんだね」
「……なんか用か?」
「うん」
 雅美は薄く微笑んだ。
「直哉くん、まだ菜緒と仲直りしてないんでしょ?」
「……なんでだ?」
「だって、菜緒が休みだって知らなかったから」
 図星だった。
「珍しいよね、こんなに長引くなんて」
 雅美はフェンス際に立ち、直哉の方を見た。
「昨日はまったく会ってないの?」
「……ああ」
「まあ、昨日は日曜日だから、ある程度は仕方がないとは思うけど」
「……なにが言いたいんだ?」
「お見舞いに、行くんでしょ?」
「……わからん」
 直哉は頭を振った。
「わからん? どうして? 心配じゃないの?」
 雅美の質問には答えなかった。
「ふう、菜緒も相当の意地っ張りだけど、直哉くんも相当の意地っ張りね」
「……悪かったな」
「もう、そういう言い方はなし」
 雅美は直哉をたしなめるように言った。
「もし、ひとりで行くのがイヤなら、あたしもつきあうから。必ず行かなくちゃダメだからね。菜緒が治るのを待とうなんて、許さないから」
「雅美……」
 雅美は本気だった。直哉も、そんな雅美を見るのははじめてだった。
「もしどうしても行かないって言うんなら、あたしが首に縄つけてでも連れて行くから」
「……わかったよ。行くよ」
 直哉は観念したように溜息をついた。
「絶対だよ?」
「ああ。だけど、謝りに行くわけじゃないからな。俺は全面的に悪くないんだから」
「それは直哉くんと菜緒の間の問題だから。あたしもなにも言わないわ」
「…………」
「ねえ、直哉くん。やっぱり菜緒がいないと淋しい?」
「さあな。あいつがいなくても俺のまわりはいつもうるさいけどな」
「それって、ひょっとしてあたしのこと言ってるの?」
「別に、俺はおまえだなんて一言も言ってない」
「でも、あたしっていう風に聞こえるんだけど」
「自覚してんのか?」
「べ、別にそういうわけじゃないけど……」
「……でもまあ、たまにはそれも役に立つことがわかったからな」
 直哉は穏やかに微笑んだ。
「惚れ直した?」
「バーカ、自惚れんな」
「もう、冗談でも惚れ直したって言ってくれればいいのに」
「あいにく、ウソはつけない体質なんでね」
「ホント、ウソが下手なんだから」
 雅美はそう言って座っている直哉を後ろから抱きしめた。
「うん、やっぱりあたしは行かないから」
「なんでだ?」
「……ふたりのラヴラヴなところ、見るのつらいから」
「なんでラヴラヴなんだよ。現状では少なくともそうじゃないだろ?」
「現状はね。でも、必ず仲直りするし。それに、菜緒、病気で弱気になってるから」
「それがなにに関係あるんだよ?」
「それは、直哉くん自身が一番よくわかってるんじゃないの? それとも、あたしが改めて説明しようか?」
「……いや、いい」
 直哉は、それをあっさりと認めた。
「直哉くん」
「ん?」
「無抵抗な菜緒を襲ったりしたら、ダメだよ」
「病人にそんなことするか。それに、俺はまだまだ菜緒を抱く気にはなれない」
「気持ちの問題?」
「俺のな」
「……難しいんだね」
 雅美は小さく頷いた。
「あいつとはあまりにもつきあいが長いからな。そう簡単に割り切れないんだ」
「あたしとはえらい違いね」
「妬くな」
「別に妬いてないよ。もともと菜緒とは勝負になってないから。菜緒は別次元にいるからね、直哉くんとのことでは」
 雅美は淋しそうな笑みを浮かべた。
「でも、だからって戦わずして負けるのもあたしの性に合わないから。奇跡が起こるかもしれないからね」
 しかし、すぐに元の表情に戻った。
「さてと、そろそろ戻ろ」
「そうだな」
 直哉はそう言って立ち上がろうとした。
「どうしたの?」
「おまえがいると、立てないだろ?」
「そう?」
「ったく……」
 雅美がどいてようやく立ち上がった。
「雅美」
「ん?」
「サンキュ」
「ううん」
 直哉の表情も、ようやくいつもらしくなってきた。雅美にとっては、それが一番嬉しかった。
 
 放課後。
 直哉は雅美に釘をさされ、学校をあとにした。
 朝より幾分気持ちが軽くなって、ペダルをこぐ足もよく動いていた。
 直哉は途中、わざわざ商店街に寄った。
 それでも四十分で家に帰り着いた。
 その時間、倉澤家は誰もいない。鍵を開け家に入り、すぐさま部屋で着替える。ものの三十秒で着替えると、商店街で買ったものを持って部屋を出た。
 一応靴を履いて家を出た。
 鍵を閉め、すぐ隣の杉村家へ。普段はあまり使わない玄関にまわった。
 インターホンを鳴らす。
「はい、どちらさまですか?」
 すぐにインターホン越しに声がした。出たのはもちろん美緒である。
「こんにちは、直哉です」
「あら、直哉くん。ちょっと待っててね」
 インターホンが切られ、今度は玄関が開いた。
「いらっしゃい、直哉くん」
「こんにちは。菜緒、寝てますか?」
「どうかしら。さっき見た時は寝てたけど。とにかく上がって」
「はい、お邪魔します」
 美緒は直哉を中へ招き入れた。
「あのこれ、お見舞いです」
「まあ、わざわざごめんね」
「それで、具合、だいぶ悪いんですか?」
「朝はだいぶ熱が高かったけど、薬が効いたのか今はだいぶ落ち着いてるわ」
「そうですか」
 直哉はそれを聞いて安心した。
「じゃあ、ちょっと見てきます」
「ええ。あとでなにか持っていくわね」
 直哉は美緒に一礼して二階へ上がった。
 目をつぶってでもわかる杉村家の間取り。直哉はその二階、菜緒の部屋の前に立った。
「…………」
 ドアをノックするが中から返事はなかった。
「……菜緒、入るぞ」
 直哉は念のために声をかけて中に入った。
 部屋の中はカーテンが半分だけ開けられ、少し薄暗かった。
 直哉はベッドの側に寄った。
「……寝てるのか?」
 菜緒が眠ってるのか確かめるのに、頬をぷにぷにとつついた。
 と、その手を菜緒がつかんだ。
「……やっぱりな」
 直哉は菜緒が起きていることを確信していた。
「直哉……」
「ん?」
 菜緒は、直哉の手を握りしめたまま、今にも泣きそうな顔で直哉を見つめた。
「なんだ? 言ってみな?」
「……ごめんね。ホントに、ごめんね」
 胸の奥に溜まっていたなにかを吐き出すように、菜緒は言った。
「……謝ってくれればいいさ」
「うん……」
 直哉は菜緒の乱れた前髪を優しく撫でた。それだけで菜緒は幸せそうな表情を見せた。
「ったく、なんで熱なんか出すんだ?」
「知恵熱かな? いろいろ考えてたから」
「おまえは余計なことを、あれこれ考えすぎなんだよ」
「うん、そうだね……」
 菜緒は、小さくはっきりと頷いた。
「……嬉しかったな」
「なにがだ?」
「直哉がこうして来てくれて。私、来てくれないって思ってた」
「……ホントはかなり迷ってた。来るかどうか。でも、雅美に言われてな」
「雅美に?」
「俺の首に縄をつけてでも連れて行くって。だからってわけじゃないけど、決心がついてこうして来た」
「そっか」
「あいつもお節介だからな」
「直哉のことになると特にね」
「……ありがたいようなそうでないような気がする」
「ふふっ」
 本調子ではないが、菜緒は嬉しそうに笑った。
「菜緒」
「うん?」
「正直、淋しかったぞ」
「えっ……?」
「いくらおまえと喧嘩したからって、いつも隣にいる奴がいないと、淋しい」
「直哉……」
「……俺の隣は、おまえだからな」
「嬉しい……」
 菜緒は、握っていた直哉の手を自分の頬に当てた。
「さすがは俺の中の一番だよ、おまえは。朝、おまえがいないだけであんなに心に穴が開くとは思わなかった。まあ、朝は俺の方がおまえを避けようとしたんだけどな」
「そっか。だから朝いなかったんだね。一応、電話したんだよ」
「なんか顔をあわせづらくてさ」
「私もそうだったけどね。だから、昨日決心して直哉に会いに行って、いなかった時は思わず力が抜けちゃった」
「なに? 昨日来たのか?」
「うん。午後にね。千尋さんにいろいろ聞かれちゃったけど」
「姉さん知ってたのか。そんなそぶり見せなかったのに」
「きっと、言っても無駄だって思ったんだよ」
「まあ、そうだとは思うけど」
 直哉は、してやられたという感じで苦笑した。
「でも、菜緒が来たことすら教えてくれないなんて、姉さんもひどいよな」
「昨日、どこ行ってたの?」
「ん〜、まあ、ちょっとな」
「ちょっとって?」
「まあ、いろいろあるんだよ」
 直哉はそう誤魔化した。本当のことはさすがに言えない。
「ちょっといい?」
 そこへ、ちょうど美緒がやって来た。
 直哉はそれを天の助けとばかりに、すぐさまドアを開けに立った。
「ごめんね、直哉くん」
 美緒はお盆にケーキと紅茶を載せて持ってきた。
「ほら、菜緒。直哉くん、わざわざ菜緒のためにケーキを買ってきてくれたのよ」
「いや、別にわざわざじゃないんですけどね」
「ありがと、直哉」
 菜緒はにっこり微笑んだ。
「この子ったら、直哉くんが来るまでは、今にも死にそうな顔してたのに」
「お、お母さん」
「下手な薬より、直哉くんの方がよっぽど効くみたいね」
「も、もう、用が済んだら出て行ってよ」
「はいはい。直哉くん、ゆっくりしていってね」
「はい」
 美緒はそう言い残して部屋を出て行った。
「もう、お母さんはいつも余計なことしか言わないんだから」
 菜緒はすっかりご立腹である。
「まあ、そんなに怒るなって。ほれ、ケーキでも食べて機嫌直せ」
 直哉はケーキを指さしてそう言った。
 菜緒はベッドに体を起こし、ケーキを受け取った。
「あっ、このケーキ」
「おまえの好きなあの店のチーズケーキだ」
「ホントにわざわざ買いに行ってくれたんだ」
「だから、わざわざじゃないって」
「ふふっ、ありがと」
「ったく、慣れないことはするもんじゃないな」
 直哉はぶつぶつ文句を言った。
「いただきます」
 一口。
「うん、美味しい」
 菜緒は、満面の笑みを浮かべた。
「そんなに旨けりゃ、俺のも食べていいぞ。どうせおまえのために買ってきたんだから」
「でも、悪いよ」
「遠慮するな。今日遠慮すると、次はいつ優しくなるかわからないぞ」
「じゃあ、もらうね」
 遠慮しながらも、でも嬉しそうに微笑む菜緒。
「ん〜、幸せ〜」
「なんだよ、いきなり?」
「だって、こうしてチーズケーキも食べられたし、なんといっても直哉が今ここにいてくれてるからね」
「アホ。おまえは病人なんだぞ。なんで病人が幸せなんだよ」
「これだったら、毎日熱出してもいいかも」
「おまえなぁ……」
 直哉は呆れ顔で溜息をついた。
「ねえ、直哉」
 と、途端に真剣な表情で言った。
「私たち、今までみたいに普通に喧嘩、できないのかな?」
「さあな。それは俺にもわからん。でも、中途半端な位置にいるから、今回みたいなことになったんじゃないか。きっちりとした関係になれば、問題ないさ」
「そうかな。そうなるのかな?」
「おまえ、俺とそんなに喧嘩したいのか?」
「そういうわけじゃないけど、喧嘩の度に今回みたいになるのはちょっと」
「今回は俺は悪くないからな。全面的におまえが悪い」
「それはわかってるよ。だから謝ったの」
「まあ、それはいいけど。ただ、俺はおまえとあんまり喧嘩したくないからな」
「私だって喧嘩したくないよ。喧嘩したっていいことないもん」
「でも、たいてい先手は菜緒なんだぞ。まあ、そのまま一方的に俺がやられることが多いけど」
「だ、だって、直哉が……」
 抗議の声を上げる菜緒だが、ほとんどが事実なだけに、あまり言えない。
「とにかく、喧嘩しないにこしたことはないからな」
 直哉はそう言って笑った。
 菜緒は直哉と話しながらも、ちゃんとケーキを食べていた。熱がある割にはぺろっとふたつ、平らげた。
「食べ終わったらちゃんと横になれ」
「うん」
 今日は菜緒も、素直に直哉の言うことを聞いている。
「……ふう」
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ」
「ホントに大丈夫な奴が学校を休むかって」
「あはは、そうだね」
「明日は行けそうか?」
「たぶん大丈夫だよ」
「まあ、なにはともあれ、無理するなよ。無理してこじらせたら、シャレにもなんないからな」
「うん」
 穏やかに過ぎていく時間の中で、ふたりはさらに穏やかな時間を過ごしていた。
 菜緒は直哉の手を握り、穏やかな表情で目を閉じていた。
 直哉は菜緒の髪を優しく撫でている。
「私たちって──」
「ん?」
「ホントに不思議な関係だよね」
「そうだな。幼なじみの典型、友達以上恋人未満なんだけど──」
「でも、限りなく恋人に近くて、みんな、私たちがつきあってるって思ってるよね」
「だろうな。普通はそう思って当たり前だろう。俺だって今の俺たちみたいなのがいたらそう思う」
「私たちがつきあってないって、ちゃんとわかってる人って、どれくらいいるのかな?」
「さあな。普段俺たちに接してる連中と、俺たちの説明を納得した連中くらいじゃないのか。だから、たいした人数じゃないよな。でも、そいつらだってどこまで信じてるか」
「ねえ、直哉」
「なんだ?」
「私、もう直哉と恋人同士になりたいよ」
「菜緒……」
「直哉に言われてからいろいろ考えた。私が直接になにを求めているのか。ホントにいろいろ考えたんだよ。でも、どんなに考えても出てくる答えは同じだった」
 菜緒は真っ直ぐな真摯な瞳で直哉を見つめた。
「私は直哉にいつまでも私の側に、ううん、隣にいてほしい。それが私の望み」
「……そうだな。確かにもう潮時なのかもしれないな」
 直哉はふっと微笑んだ。
「菜緒。この前、俺が計画を立ててるって言っただろ?」
「うん」
「あれにはな、ふたつの計画があるんだ」
「ふたつ?」
「ああ。ひとつはおまえの誕生日、七月七日におまえに俺から告白しようと思ってたんだけどな」
「私の誕生日に?」
「誕生日プレゼントってわけじゃないけどさ。いつまでもおまえをまたさせるわけにもいかないし」
「直哉っ!」
「な、菜緒……」
 菜緒は嬉しさのあまり、直哉に抱きついた。
「おい、危ないだろ」
「だって、ホントに嬉しかったんだもん」
「ったく……」
 直哉も菜緒を抱きしめた。
「おまえが決めてくれ」
「なにを?」
「どうするかを。今おまえに告白するのと、おまえの誕生日に告白するのを。ただ、誕生日に告白するのを選んだら、今日からその前では、いわば暫定的な恋人ということにする」
 直哉は笑みを浮かべながら聞いた。
「う〜ん、本気で悩んじゃうよ」
「俺はどっちでもいいけどな」
 菜緒は本気で悩んでいた。菜緒にしてみれば、本当なら今すぐにでも告白してもらいたい。しかし、誕生日に告白というシチュエーションも捨てがたい
「どうする?」
「暫定的な恋人って、どんな感じ?」
「基本的には今の関係とかわらないけどな。ただ、ひとつ違う点がある」
「なに?」
「お互いの気持ちだ。少なくとも気持ちの中では俺たちは恋人だからな」
「そっか」
「今の俺たちは、はっきり言って恋人同士も同然だからな。ようは気持ちの問題だから。その点だけ変えようと思って」
 その言葉で菜緒も決心したようである。
「私の誕生日に告白してくれる?」
「いいぜ。もともとそのつもりだったし。で、俺たちは今日から暫定的な恋人というわけだ」
「ふふっ、なんか変な感じ。突然そう言われても実感ないし」
「それは本当の恋人になった時だってそうだろ。昨日までと今日からと、そんな関係が激変するわけないんだから」
「そうだね。でも、こういう考えはできるよ」
「どういう考えだ?」
「たとえば──」
 菜緒はそう言って直哉にキスをした。
「これが恋人になってはじめてのキスだって。ひとつひとつの行動にそれまでと違うって思える」
「なるほどな。でも、男はあんまりそういうの気にしないからな。そういうのを気にするのは総じて女の方だし。まあ、いいんじゃないか、そういう風に考えても」
「私もそういう風に考えようかな」
「いいけど、ほどほどにしてくれよ」
「うん」
 そういうやりとりをしていること自体、ふたりはもう恋人同士だと思うのだが。
「よいしょっと」
「むぅ、なんかそのかけ声だと私が重いみたい」
「かけ声なんだからしょうがないだろ。それと、おまえは十分に軽いよ」
「ありがと」
 直哉は菜緒をベッドに寝かしつけた。
「ま、これだけ元気なら明日は大丈夫だよ」
「うん」
「菜緒」
「ん?」
 直哉は菜緒にキスをした。
「俺の隣にいるはずのおまえがいないと、俺の隣を狙ってる奴にとられるからな」
「雅美とか?」
「誰とは言わないけどさ」
 直哉はそう言って笑った。
「ただ、そういうのは別としても、おまえがいないのは正直淋しいからな」
「大丈夫だよ。明日ははってでも行くから」
「そこまでしなくてもいい」
「ええーっ?」
「ええーっ、じゃない」
 ピシャッとたしなめる。
「さてと、そろそろ帰るな。あんまり長居してるとおまえが休む時間がなくなるからな」
「しょうがないね」
「じゃあ、帰るわ」
 直哉はそう言って立ち上がった。
「これ、持っていっとくから」
「あっ、別にいいのに」
「気にするな。ついでだ」
「うん」
 お盆を持ち、ドアを開けた。
「直哉」
「ん?」
「今日は、本当にありがとう。それと、暫定的とはいえ、恋人としてよろしくね」
「ああ」
 直哉は穏やかな笑みを残して部屋を出た。
「直哉と恋人か……」
 菜緒は嬉しくて嬉しくて、眠れるかどうかわからなかった。
「おばさん」
「あら、もう帰るの?」
「ええ。あんまり病人を起こしておくのもなんですから」
「そういえばそうね。あの子、病気だったのよね。あの顔を見てたら、そんなこと忘れてしまったわ」
 美緒は、しれっとそんなことを言った。
「あの、これ」
「わざわざ持ってきてくれたの?」
「ついでです」
「ありがとうね」
 美緒にお盆を渡す。
「直哉くん」
「はい」
「これからも菜緒のこと、お願いね」
「菜緒が俺を必要としているのと同じように、俺も菜緒が必要ですから」
「そう言ってもらえるとありがたいわ」
「じゃあ、帰ります」
 直哉は玄関で靴を履き、最後の挨拶。
「おじゃましました」
「また来てね」
 外はすっかり夕方だった。空には相変わらず雲ひとつない。
「明日も晴れるかな」
 直哉の気持ちも晴れだった。
 直哉と菜緒の関係も、いよいよ最終段階へ突入である。
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