いちごなきもち、めろんなきもち
 
第五章「みかんなきもち」
 
 一
 日曜日。
 直哉と千尋は、繁華街へ出ていた。別に買い物が主目的ではなく、待ち合わせのためである。誰との待ち合わせかといえば、綾奈の姉、麗奈との待ち合わせである。
 綾奈は前日、つまり直哉と気持ちを確かめ合った次の日に家へと帰っていった。
 表面上は普通を装っていた直哉と綾奈だったが、ふたりだけの時は、綾奈は未練タラタラだった。いくら頭ではわかっていても、気持ちはもう完全に直哉に向いてしまったのだから、致し方のないことなのかもしれない。それでも直哉としては複雑な想いだった。
 そんなモヤモヤした気持ちを払拭しようと直哉は、千尋に待ち合わせ時間より早く出かけることを提案した。
 そして今、時間までの制限つきで買い物を楽しんでいた。
 買い物はふたりがそれぞれにほしいものを見るということもあったが、もうひとつの目的に母の日のプレゼントもあった。
 雪恵は相変わらず忙しいが、今日はちゃんと帰ってくる、らしい。
 毎年なんらかのプレゼントを贈っているふたりではあったが、選ぶのは毎年のことながら大変だった。
「これなんかどうかな?」
「結構いいと思うよ。あっ、これもいいかも」
 アクセサリーなどの小物を多く扱っている店で、ふたりはあれやこれやと物色していた。こういう場合の常は、いろいろ悩んだあげく、最終的には無難なものに落ち着くというものだった。しかも、たいていの場合は、最初の方に目をつけたものにである。
「ホントは食事とかっていうと、楽なんだけどね」
「でも、うちじゃそれはなかなか実現が厳しいからね」
「だよね」
 母の日のカーネーションを贈るのは、もう普通を通り越して薄れつつある。もちろん、ほかのものと一緒に、ということはある。人気があるのは、食事、アクセサリー、花である。アクセサリーと花は言わずもがなだが、食事に関しては母の日くらい家事をしなくてもいいということから人気があった。
 しかし、倉澤家ではそれは如何せん難しかった。従って、直哉と千尋は頭を悩ませるわけである。
「やっぱりこれかな?」
「そうだね」
 最終的にふたりが選んだのは、ピアスとネックレスだった。あとは、これにカーネーションを添えて贈るだけである。
「なんかもうちょっと奇抜なものでもよかったかな」
 店を出てから直哉がそう言った。
「確かにお母さん、アクセサリーはたくさん持ってるからね。でも、あんまり奇抜なものだともらってもらえない、なんてこともあるかもよ」
「むぅ、それじゃ意味ないしなぁ。資金的に余裕があればもう少し違うことも考えられるんだろうけど」
「所詮、大学生と高校生じゃね、たかが知れてるわよ」
「これを買った金だって、出所は父さんと母さんだしね」
 そう言って直哉は苦笑した。
「まあ、いいや。もう買ったんだから、今更とやかく言ってもしょうがないし」
「うん」
「……まだ時間は大丈夫だね。よし、今度は姉さんの買い物につきあうよ」
「ホント?」
「そっちも目的のひとつなんだから、遠慮しない遠慮しない」
「じゃあ、つきあってもらっちゃお」
 千尋は嬉しそうに笑った。
 しかし、直哉はこのあと少しだけ後悔した。
「……さすがにこういうのは、なぁ」
 直哉は、そう言って視線を泳がせた。
 まわりには色とりどり、デザインあれこれの水着。
 そう、そこはとある店の水着売り場だった。
 もちろん、男物の売り場ではない。まわりにいるのは皆女性。
 直哉はそんな中で所在なさげにたたずんでいた。
 千尋はそんな直哉にお構いなしに、水着を選んでいた。
 スタイルも完璧な千尋は、なにを着ても似合う。それを本人はどう自覚しているのかわからないが、とにかくいろんな水着を見ていた。
「ねえ、なおくん」
「ん?」
「なおくんは、どんな水着がいいと思う?」
 その質問は男としては難しい質問だった。正直に言えば、大胆な水着がいいのだろうが、そこはそれ、見解の一致を見なければならない。
 となると無難なところを言うのが妥当なのだが。
「姉さんならなにを着ても似合うから、姉さんの好きなのを選んだ方がいいよ」
 直哉の答えはいつも決まっていた。
 実際にそうなのだから、それ以上答えようがないとも言えた。ただ、千尋としては直哉に選んでほしいという想いがあった。
「そう言ってもらえると嬉しいけど、でも、なおくんに選んでほしいな」
 千尋は、ねだるように直哉に詰め寄った。
 直哉は、その圧力に屈し、一歩下がった。
「じゃあ、なおくんはこういうビキニタイプがいい? それともこういうワンピースタイプがいい?」
「う、む……」
 千尋の手には、それぞれの水着がある。
「……こっち、かな」
 そう言って直哉は、ビキニの方を指さした。
「こっち?」
 千尋は、念を押すように訊いた。
「あっ、いや、ちょっと待った」
 それを直哉が止める。
「……確かにビキニは嬉しいけど、それをほかの連中に見せるのはしゃくだし……」
 ぶつぶつと考えているが、それは全部千尋に聞こえていた。
「よし、結論」
「うん」
「ビキニタイプはちょっともったいないけど、ワンピースじゃおとなしいから、セパレートタイプのカットはおとなしめの」
 自分の欲望に忠実だとほかの連中の欲望も満たしてしまう。それは耐えられない。とはいえ、欲望をすべて殺すこともできない。
 で、出した答えがそれである。
「ふふっ、なおくんらしい答え。じゃあ、そんな感じのにするね」
 そう言って千尋は、再び物色をはじめた。
 直哉は千尋と適当な距離を置きつつも、それでも離れない。こういう場所に男ひとり取り残されるとなんとも言えない虚しさに襲われる。さらにそれが恥ずかしさに変わり、やるせなさに変わる。
 直哉は、それを避けるために千尋の側にいるのである。あくまでも付き添いであるとまわりに思わせるために。
「じゃあ、なおくん。ちょっと試着してみるから」
「ああ」
 千尋は何着か水着を持って試着室に入った。
 このなんとも言えない間もイヤなものだった。まわりがまわりだけに、直哉はなにもできないでいた。とはいえ、じろじろとまわりを見ているのもおかしい。まあ、これは直哉だけに限ったことではないが、考えようによっては拷問に近いものがある。
「なおくん、どうかな?」
 試着室のアコーディオンカーテンを少し開けて、千尋が顔を出した。
 直哉は中を覗き込む。
「どう?」
「あっ、うん、よく似合ってるよ」
「ホントに?」
「もちろんだよ。まあ、姉さんならどんなものでも似合うと思うけど」
「う〜ん、それじゃあなんか張り合いがないなぁ」
「そんなこと言われたってしょうがないよ。似合ってるのは事実だし。それとも姉さんは下手な褒め言葉を言われたい?」
「それはちょっと」
「ならいいじゃないか。もともと姉さんは服のコーディネートなんかもいいセンスしてるんだから。その姉さんが自分でいいと思って選んだんだからさ」
「それでも人の意見て聞いてみたいから」
「まあ、それもわからないでもないけどさ」
「じゃあ、ほかのも着てみるから」
 そう言って千尋はカーテンを閉めた。
「ふう……」
 直哉は思わず溜息を漏らした。別に疲れたとかそういう類の溜息ではない。千尋の水着姿を見て思わず漏れたものである。
「……姉さん、ああいうの似合いすぎなんだよなぁ……」
 ぽつりと呟いた。
 程なくして千尋は満面の笑みを浮かべて出てきた。
「決まったの?」
「うん」
 直哉にはその言葉がなによりも嬉しかった。
 それはそうである。ようやくこの状況から抜け出せるのであるから。
 千尋は気に入った水着を二着購入した。
「さてと、そろそろ麗奈姉さんとの待ち合わせ時間だね」
 直哉は腕時計を見ながらそう言った。
「そうだね。麗奈さん、もう来てるかな?」
「さあ、どうかな? とにかく待ち合わせ場所に行こう」
 直哉たちが待ち合わせ場所に選んだのは、その繁華街でも有名な待ち合わせスポットだった。基本的には若者が多いが、便利なこともあっていろんな世代の人が利用していた。
「あと五分くらいだけど……って、いたよ、姉さん」
「ホントだね。しかも相変わらずだし」
 千尋は苦笑した。
 その場所の片隅に、ちょっとした人だかりができていた。中心にいるのは綺麗な女性。長い髪を後ろでひとつに束ねている。若草色のスーツに身を包み、一見仕事のできるOLのようにも見えた。
「ねえ、いいじゃん、ちょっとだけさ」
「そう言われましても……」
 なぜ人だかりができているのかというと、その女性が綺麗だということも要因ではあったが、男がしつこく声をかけていることが原因だった。
 しかし、まわりはそれを面白おかしく見ている。
「私は待ち合わせのためにここにいるので」
「だからさ、それまででもいいからさ」
 女性がのらりくらいと男の誘いを断り、次第に男の方が焦れてきていた。
「誠に申し訳ありませんが」
「くっ、このアマ」
 男が強引に女性の手を取ろうとすると──
「おいおい、その辺でやめとけって」
 その手を別の手がつかんだ。
「な、なんだおまえ?」
「この人の待ち合わせ相手。というわけで、お引き取りを」
「ちっ……」
 男は渋々人混みに消えた。
「千尋ちゃんに直哉ちゃん」
「こんにちは、麗奈さん」
「久しぶりだね、麗奈姉さん」
 その女性は直哉たちの従姉、南麗奈だった。
「とりあえず、ここから移動しよう」
 直哉たちはとりあえずその場から離れた。
「でも、相変わらずだね、麗奈姉さんの『人気』は」
「今日は何人に声をかけられたんですか?」
 麗奈は小首を傾げた。
「確か、五人くらいかな?」
「五人て、麗奈姉さん」
「ん?」
「いつからあそこで待ってたの?」
「三十分前くらいかな」
「三十分で五人て、六分にひとりって、そりゃすごいよ」
 直哉は感心しきりである。
「麗奈姉さんももう少しはっきり言わないと、さっきみたいな奴がしつこく言い寄ってくるんだよ」
「でも、あの人も私をお茶に誘いたいだけだったから、あんまりむげにもできなくて」
「だあーっ、その『お茶』が問題なんだって」
 直哉は思わず頭を抱えた。
「ま、まあまあ、なおくん。落ち着いて」
「そうそう。人間、笑顔が一番なのよ」
 自分のせいでそうなっているとは露程も思っていない麗奈であった。
 それから直哉たちは駅に向かい、電車に乗り込んだ。
「今回はごめんなさいね」
「別にいいんですよ。困った時はお互い様ですし」
「でも、綾奈に続いて私まで」
「そんなこと麗奈姉さんが気にしなくてもいいの。それに、麗奈姉さんや綾奈姉さんだったらいつでも大歓迎だよ。ね、姉さん?」
「そうですよ。遠慮するような間柄でもないんですから」
 直哉も千尋も、あくまでも恐縮している麗奈にいろいろと言葉をかけたが、根本的な解決にはならなかった。それは、麗奈自身の性格にも問題があった。
 麗奈はよく言えば慎ましやかでおしとやか、悪く言えば消極的でトロく、人に背中を押されないとなにもできないような性格である。それをふたりはよく知っているからこそ、ここまで言うのである。
「千尋ちゃん」
「なんですか?」
「直哉ちゃんの肩、ちょっと借りるね」
「はい?」
 千尋がなにがなんだかわからないうちに、麗奈は直哉の肩にもたれかかった。
 千尋もそれを見てようやく自分がなにを言われたのか理解した。
「やっぱり、直哉ちゃんも男の子よね。肩幅だってしっかりあるし、腕だって──」
 そう言って麗奈は直哉の上腕に触れた。
「こんなにしっかりしてるもの」
 直哉は少しくすぐったそうにしたが、麗奈のさせたいようにさせた。
「麗奈姉さんは今、忙しいの?」
「う〜ん、そこそこかな。最近ようやく自分の好きなデザインをやらせてくれるようになったから」
「そうなんだ。じゃあ、姉さんがデザインした服なんかが見られるかもしれないね」
「それはまだ先」
「どうして?」
「今は洋服のデザインじゃなくて、アクセサリーやバッグなんかの小物のデザインをやらせてもらってるから」
「ふ〜ん。でも、どっちにしろ姉さんのデザインしたものが、世の中に出回るかもしれないんでしょ?」
「それはそうだけど」
「そしたら、う〜ん、俺はちょっと無理だけど、姉さんがきっと買うよ。ね、姉さん?」
「うん。麗奈さんのデザインしたものなら安心できますから」
 麗奈のデザインの特徴は『落ち着き』である。
 デザイン的にも色的にもあまり過激なことはしない。シックなデザインが多い。
 豪奢なデザインで自分をアピールするのも手だが、逆に落ち着いたもので自分をアピールするのもありなのだ。
「ありがとう、千尋ちゃん、直哉ちゃん」
 麗奈は、そう言って穏やかな笑みを浮かべた。
 
 家に帰った直哉は、母の日のプレゼントを千尋に預け、自分の部屋に戻った。
 別に部屋に戻ってなにをするわけでもないが、とりあえずベッドに突っ伏していた。
「……相変わらず綺麗だな、麗奈姉さんは……」
 直哉は待ち合わせ場所でのことを思い返していた。
 人が集まったのはもちろん面白そうというのもあっただろうが、大部分の特に男は、麗奈目的で集まっていたに違いなかった。
 麗奈はただそこにいるだけで男どもを集めるような美貌の持ち主だった。それを一番自覚していないのが、本人であった。まわりがいくら言ってもまったく気にする様子もない。まあ、それが麗奈らしいといえばそれまでなのだが。
 直哉はそんな麗奈に昔から憧れを持っていた。
 清楚可憐で誰にでも優しく、いつも微笑みを絶やさない。男なら一度はこういう女性に憧れる。麗奈の場合は妹の綾奈が正反対の性格をしているから、なおのことそれが際立った。
「ふう……」
「ちょっといいかな、直哉ちゃん?」
 と、ドアがノックされた。
「いいよ」
 遠慮がちにドアが開き、麗奈が入ってきた。
「寝てたの?」
「ううん、起きてたよ」
 麗奈はベッドを背もたれにして座った。
 家の中なのでスーツを脱ぎ、動きやすいワンピースに着替えていた。
「ねえ、直哉ちゃん」
「ん?」
「綾奈となにかあったの?」
「な、なにかって、なに?」
「昨日家に帰ってきてからずっと機嫌がいいから。理由を訊ねても別になんでもないの一点張りで。考えられることといえば、直哉ちゃんのことくらいだから」
「…………」
 直哉はかなり焦っていた。別にやましい気持ちがあるわけではないが、それを正直に言えるほど精神的に成熟してもいなかった。
「綾奈、直哉ちゃんのこと、好きだからね。それはわかるでしょ?」
「ま、まあ……」
「だから、きっと直哉ちゃんとのことでなにかあったから、あんなに機嫌がよかったんじゃないかって思って。でも、違うならいいの。綾奈も感情の起伏の激しい子だから。理由もなく機嫌のいい日もあるかと思うから」
 麗奈はそう言って微笑んだ。
「……麗奈姉さんは、そういうの気になる?」
「気にならないって言えばウソになるけど、たぶん人よりは気にしないと思うよ」
「そっか」
「でも、直哉ちゃんのことだったら気になるかな」
「えっ……?」
「私の中で、直哉ちゃんは特別な存在だからね。従弟としても男性としても」
「麗奈姉さん……」
 直哉もまさか麗奈の口からそんなことを聞くとは、思ってもみなかった。
「うふふ、直哉ちゃん」
「な、なに?」
「緊張してるでしょ?」
「えっ、あ、うん」
 直哉は素直に頷いた。
「私もね、緊張してるよ。ほら」
 そう言って麗奈は直哉の手を取り、自分の胸に当てた。
「トクトクって……速く鼓動してるでしょ? 今は、直哉ちゃんとふたりきりだからね」
 確かに直哉の手のひらには、麗奈の鼓動を感じることができた。しかし、表情にはそれが全然現れていなかった。いつも通りの麗奈がそこにはいた。
「直哉ちゃんは、うちに来ると必ず私と一緒にいてくれて、人一倍私に気を遣ってくれて。でも、それを表には出さないで。そんな直哉ちゃんを好きになっちゃうのも、しょうがないのかな」
 心なしか、麗奈の目が潤んでいた。
 吸い込まれるような深い瞳の黒。見つめているだけで、心まで飲み込まれてしまいそうになる。
「私が直哉ちゃんの従姉でも、年上でも、直哉ちゃんは私を……」
 直哉は不意にわき起こった麗奈を押し倒したいという衝動をなんとか押さえ、その代わりに優しく抱きしめた。
「バカだな、姉さんは。俺は従姉の麗奈姉さんも好きだし、年上の麗奈姉さんも好きだよ。もちろん、ひとりの女性としても好きだ。だから、麗奈姉さんが思い悩むことなんかなにもないんだ」
「……ありがとう、直哉ちゃん」
 ふたりはお互いに小さく頷き、自然に唇を重ねた。
 唇を離すと、麗奈はほんのり頬を染め俯いた。
「私の、ファーストキスだよ……」
「えっ……ええーっ!」
 衝撃の事実に、直哉は思わず声を上げた。
「う、ウソ、だよね?」
「ウソじゃないよ。私、今までに男の人とつきあったことないから」
「し、信じられない……姉さんくらい綺麗な人を放っておくなんて、まわりの男どもはよっぽど見る目がないよ」
「ううん、違うの」
「違う? なにが?」
「つきあってほしいって言われたことは何度もあるけど、みんなお断りしたの」
「……なるほど。そういうことか。それならわかるけど」
「それに、私は誰かとつきあう気も結婚する気もないから」
「どうして?」
「たぶん、自分で納得できないからかな。どんな男性が現れても、みんな直哉ちゃんと比べてしまうから。そんな自分がイヤだし、相手にも悪いから。それに、直哉ちゃん以上の男性はきっといないから」
 それは、綾奈とまったく同じ理由だった。
「私と同じ想いを、千尋ちゃんも持ってるでしょ?」
「……そう、だね」
「そういう点で言うと、直哉ちゃんて本当に罪な男性よね」
 麗奈は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でも、そんな直哉ちゃんが私は大好き」
「…………」
 直哉はなにも言わずに麗奈を抱きしめた。
 今、どんなことを言ってもおそらくそれはすべてウソになってしまうような気がしたからだ。それに、麗奈もそれ以上の言葉は望んではいなかった。もしそれ以上の言葉を、優しい言葉をかけていたら、後戻りはできないことになるとわかっていたからだ。
 だから、今はただ、このまま抱き合っているだけで幸せだった。
 
「いったいどうしたんだ?」
 直哉は部屋に入るなりそう言った。
「あっ、うん」
 菜緒は、ちょっと気まずそうに俯いた。
 夕食後、部屋でのんびりしていた直哉に電話があった。相手は菜緒だった。
 とにかく部屋に来てほしいということだったので、直哉はとりあえずこうしてやってきたのだ。
「…………」
 菜緒はなにも言わず、直哉に抱きついた。
「菜緒……?」
「直哉にたった二日間会えなかっただけで、もうつぶれそうだった……」
「……ったく」
 直哉は溜息をつき、菜緒を抱きかかえた。そして自分は菜緒のベッドに座る。
「俺もホントに甘いよな」
「ごめんね……」
「バーカ。謝るんなら、最初から俺を呼ぶな」
「そだね……」
「でも、言ったからな。俺だけの前だったら、弱い菜緒でもいいって」
 直哉の声は、とても優しかった。
 菜緒は直哉の胸の中ですっかり不安を払拭し、今は幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……このまま、ずっと一緒にいたいな」
「ダメだ。あんまりこの状況に慣れすぎると、マジでひとりでいられなくなるぞ。それじゃ困るだろ?」
「それはそうだけど……でも──」
「でもじゃない。俺だっておまえと一緒にいたくないわけじゃないんだ。それをわかってくれ」
「うん……」
 菜緒は、小さく頷いた。
 優しく髪を撫でると、菜緒は気持ちよさそうに目を閉じた。
「直哉に髪を触られると、幸せな気持ちになってくるの」
「おまえの髪、綺麗で触り心地いいからな」
 そう言って直哉は苦笑した。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「直哉は今、何人好きな人がいるの?」
「……本気で訊いてるのか?」
「うん」
 直哉は、小さく溜息をついた。
「多少なりとも俺の中にいるのは、おまえを含めて七人だ」
「七人、か……」
 菜緒の反応は意外におとなしかった。
「ライバルは多いね。その中の最右翼は、やっぱり千尋さん?」
「……ノーコメント」
「私は対抗くらいにはいるのかな?」
「……ノーコメント」
「私と千尋さん以外の五人て、私も知ってる人?」
「……一応はな」
「じゃあ、雅美は入ってるね」
「……ノーコメント」
「あっ、桜井先生もかな?」
「……ノーコメント」
「あと三人か。誰かな?」
「おまえなぁ、根掘り葉掘りそんなこと訊いてどうすんだ? ライバルは今のうちから消しておくのか?」
「ううん、そんなことしないよ。直哉が好きになった人を知るのは、私もその人のことを見ていいところを学ぼうと思って」
「……別に、そんなことしなくたっていいだろうが」
「気になるんだもん。あっ、でも、最後には絶対に私の方に振り向かせてみせるよ」
 菜緒はそう言って拳を握った。
「そんだけの自信があるんならいいじゃないか」
「ライバルのことは知っておいた方が戦いやすいからね」
「ったく……」
 直哉は、菜緒の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「……ひょっとしたら、もう誰かと、その、寝ちゃった?」
「……ノーコメント」
「やっぱりね」
「なにがやっぱりなんだ?」
「雅美よ」
「……雅美がどうしたって?」
「直哉、顔引きつってるよ」
「…………」
「雅美、少し前から直哉の前で必要以上に『普通』を装おうとしてたからね。まさかとは思いつつも、どこかでその可能性を捨てきれなかったんだ。でも、今それが間違いなかったって確信した」
 菜緒は、別に取り乱しもしないし、怒っている様子もない。
 その様子を見て直哉も観念したらしい。
「ああ、おまえの言う通りだよ。俺は雅美を抱いた」
 さすがに直哉の口から直接聞くと、菜緒も一瞬体を強ばらせた。
「同情で抱いたわけじゃないからな」
「そっか。そういう面では雅美に先を越されちゃったね」
「聞いたからって、露骨な態度取るなよ」
「わかってるわよ。でも、ちょっといぢわるしちゃうかな」
「やめい」
「冗談だよ」
 そう言って菜緒は笑った。
「……直哉」
「ん?」
「やっぱり、まだ抱いてくれないの?」
「……おまえは、抱けない。怖いんだよ」
「怖い?」
「おまえを壊しちゃいそうでさ。俺だっておまえを抱きたいと思うことはある。おまえは容姿もいいし、スタイルもいいからな。でも、必ずおまえの顔が浮かぶんだよ、そんなことを考えると。そうすると萎えちゃうんだ」
「そっか……」
 菜緒は一瞬淋しそうな顔を見せた。
「今は、直哉のために心も体も磨いておくね」
 それでも、すぐにそう言って微笑んだ。
「私のすべては、直哉のものだよ」
「菜緒……」
「私に触れていいのは直哉だけ。私の裸を見ていいのは、直哉だけ」
 直哉は菜緒を思い切り抱きしめた。
「えっ……?」
 そのままベッドに横たわらせる。
 そして、服の上から菜緒の胸に触った。
「ん……」
 菜緒から、甘い声が漏れた。
「な、直哉……」
「途中までだ」
「や……」
 そう言って服をたくし上げた。
 そのままブラジャーを外してしまう。
「ん、あん……」
 手のひらで包みきれないほどのボリュームの胸は、敏感だった。
「はん、んんっ、あん」
 菜緒は、本当に敏感に反応した。
「か、体が熱くなって、んあっ!」
 一瞬、体が跳ねた。
「はあ、はあ、な、直哉、も、もう、やめて……」
 菜緒は、優しく直哉を押しとどめた。
「そんなにされたら、逆にせつなくなっちゃうよ」
 そう言ってわずかに体をよじった。
「そうだな、悪かった……」
 直哉は、そっと菜緒から離れた。
「ごめんね、直哉。直哉は私のことを思ってしてくれたのに。ワガママばかり言って」
「いいんだよ。中途半端なことはしない方がいいんだ。それはわかっていたはずなんだけどな」
「直哉……」
「なんだ……?」
「好き、大好き……ううん、愛してる」
 菜緒は今日一番の笑みを浮かべた。
 直哉はその笑顔を見て心が痛かった。
 菜緒はこんなにも自分のことを一途に想ってくれてるのに、自分はまだ何人もの間をふらふらしてる。本当なら今すぐにでもその想いに応えなければならないのに、それができない。
 情けない自分が、腹立たしかった。
 でも、だからといって付け焼き刃的な想いを伝えるわけにもいかない。
 自分にとって本当に必要なのは誰なのか。なにを求めるのか。
 それに答えを出さない限り、すべてウソになってしまう。
 だからこそ直哉は、あえてその言葉には答えなかった。
 その代わり、菜緒にキスをした。
 今の精一杯の想いを込めて。
 
 二
「ふわ〜あ……」
「寝不足、だね」
「まあな」
「あはは、やっぱり、私のせいかな?」
「……自惚れすぎだ」
 直哉はそう言って菜緒のおでこを小突いた。
 それでも直哉は本当に眠そうである。そのまま眠ってもいいと言われたら、たとえ道のど真ん中でも眠ってしまうのではないかと思われるほどだった。
「今日は一日、爆睡だな」
 まだ教室にも入る前からそう言い切る。
「ああ、でも、今日は世界史があるんだよな」
「…………」
「ただ、五時間目だからなぁ。思考回路は完全に停止してるかもな」
 直哉は、菜緒の表情を見てそう付け足した。
「というわけでだ、菜緒」
「ん?」
「ノートは頼んだぞ」
「今日はしょうがないね。私のせいでもあるから」
「だから、自惚れすぎだって。あのくらいの時間で寝不足になんかならないって」
「あのくらいって、十二時まわってたよ」
「……普段寝る時間だ」
「ウソ。直哉は十一時台に寝るもん」
「……普段の休みの日だ」
「やっぱり私のせいなんだね」
「だあーっ! だから、おまえのせいじゃないって。単にあのあと、俺が夜更かししただけだ」
 直哉はムキになって菜緒を言い含める。
「う〜ん、なんのあとなのかなぁ?」
「きゃっ!」
「いっ!」
 ふたりの間に、ニュッと顔が出てきた。
「て、てめぇ、雅美。脅かすんじゃねぇ」
「あはは、ごめんね〜。そんなに驚くとは思わなかったんだもん」
 まったく悪びれた様子はない。
「ったく……」
「で、なんの話をしてたの?」
「なんでもいいいだろ」
 直哉は雅美を無視してさっさと行ってしまう。
「あっ、待ってよ、直哉くん」
 雅美もすぐに追いかける。
「ねえねえ、教えてよぉ」
「だあーっ! ひっつくなっ! 猫なで声出すなっ! 迫るなっ! 腕を絡めるなっ!」
「んもう、照れ屋さんなんだから、うふ」
「……うふ、じゃない」
 もう直哉は怒鳴る気にもならなかった。
「……雅美」
「あっ、菜緒」
 菜緒は雅美の襟首をつかみ、直哉から引き離した。
 それは明らかに嫉妬からくる行動だった。もちろん、雅美は菜緒が直哉との関係を知ったことは知らない。それでも、女の勘というのだろうか、雅美はそれだけでなんとなく察してしまった。
「はいはい、わかってるって。ここはまだまだ菜緒の場所だからね」
 そう言ってポンと菜緒の背中を押した。
「でもね、菜緒。気を付けないとその場所を誰かにかすめ取られるわよ」
「……誰かって、誰?」
「さあね。それはわからないけど、気を付けておいた方がいいのは事実よ」
「なにをくだらないことで言い合いしてんだ、おまえらは。そういうことを当事者を無視して進めるな」
 直哉はふたりの頭をコツンと叩いた。
 直哉はそのままさっさと昇降口に入ってしまった。
「ねえ、菜緒」
「なに?」
「ひょっとして菜緒、気付いてるの?」
「……なんのこと?」
「……いいんだ、気付いてないならそれでも。でも、もし気付いてるならあらかじめ言っておくから。あたし、本気だからね」
 そのまま雅美も行ってしまった。
「……雅美が本気なのは、見てればわかるよ。それでも私は、負けないもん」
 ひとり取り残された菜緒は、決意も新たにふたりを追いかけた。
 五月晴れの気持ちいい日だった。
 
 直哉は宣言通り、午前中は完全爆睡だった。
 そのおかげか、昼休みにはだいぶ元の直哉に戻っていた。
 直哉は授業終了直前に目覚め、終了と同時に学食ダッシュを敢行した。もちろん、狙いはひとつ、『スペシャル定食NEO』である。
 結果は、なんとか九番目でゲット。
 男子生徒の羨望の眼差しを集めながら、直哉は悠々と昼食をとった。
 学食を出た直哉は例によって例のごとく、屋上に向かった。
 屋上は、今日もとても気持ちのよい場所になっていた。
 多少陽差しは強かったが、それを緩和してくれる風が心地良かった。
 ふと思い立ち、直哉は屋上のさらに上へ上がった。
 屋上の上とは、屋上への階段を覆う屋根の部分のことである。この上には貯水槽などが置かれている場合が多い。しかし、桜林高校にはそういうものはなく、普通の屋根だった。
「う〜ん、さらに遮るものがないと、風も気持ちいいな」
 直哉はどこから持ち出したのか、段ボールを敷き、そこに座った。
「はあ……ここにいると、日頃の憂さがウソのように消えていく」
 しみじみとそんなことを言う。
 と、屋上のドアが開いた。ここは滅多に人が来るところではないから、直哉も誰が来たのか興味津々だった。
 やって来た人に気付かれないように覗き込む。
「……なんだ、瑞穂先生か」
 それは瑞穂だった。
 きょろきょろとあたりを見回している。どうやら直哉を探しているらしい。
 直哉が思い切って声をかけようとした時──
「直哉、いる?」
 今度は声と同時にドアが開いた。
「……菜緒まで」
 もちろん、来たのは菜緒だった。
「……なんかイヤな予感がするな」
 直哉は思わず嘆息混じりに呟いた。
 たまたま同じ人を探して同じ場所で出くわした菜緒と瑞穂。
「こんにちは、杉村さん」
 先に口を開いたのは、瑞穂だった。
「こんにちは、桜井先生」
 いつもと変わらない挨拶を交わす。
「直哉くんなら、残念ながらここにはいないわよ」
 そう言ってさっと手を広げて見せた。
「そうみたいですね」
 菜緒もざっと見て答えた。
「先生は、屋上になにをしに来たんですか?」
 挑戦的な質問だった。
「私もね、直哉くんを探してたの」
 瑞穂の答え方もまた、挑戦的だった。
「…………」
「…………」
 一瞬の沈黙。
「先生は直哉のこと、どう思ってるんですか?」
 今度は菜緒が先に口を開いた。
「好きよ、大好きよ」
「っ……」
 瑞穂の言葉に一番驚いたのは、質問した菜緒だった。そのことはよくわかっていたはずなのに、なぜか面と向かってはっきりそう言われると、驚きを隠せなかった。
「それは杉村さん、あなたも同じでしょ?」
「はい、そうです」
 今度は意外なほどに落ち着いていた。
「杉村さんが直哉くんのことを好きなのも、直哉くんが杉村さんを大切に想っているのも、見ていればわかるわ」
「じゃあ、どうして訊いたんですか?」
「直接聞いてみたかったの。そういうことってあるでしょ?」
「そうですね」
 淡々とした会話。直哉はそれを息をするのも忘れて見ていた。
「どうして直哉なんですか?」
 それはなんの脈絡もない質問だった。
 しかし、瑞穂にはそれがわかった。
「……その質問にはわざわざ答えなくても、杉村さんの中にすでに答えがあるでしょ」
「…………」
「今の私にとって、直哉くんはすでにかけがいのない存在になっているわ。直哉くんがいなければそれまでの自分をすべて否定して、本当にイヤな女になってしまうところだった。でも、それも直哉くんがいてくれたおかげで事なきを得た」
 瑞穂は、すっと菜緒から視線を外した。
「杉村さんは直哉くんになにを求めてるの?」
「えっ、求めてるもの、ですか?」
「そうよ」
 菜緒は答えに窮した。そのことは以前、直哉からよく考えてみるように言われたことで、未だに答えは出ていなかったからだ。
「私は彼に、いつも側にいて私を包み込んでくれることを求め、望んでいるわ。新しい私をこれからも見ていてほしいから。そして、時々でいいから私を支えてほしい。四六時中支えてもらうなんてできないし、そんなことやっても意味がない。自分は自分でなんとかしなくちゃいけないから」
 瑞穂の言葉に、菜緒はまったく声が出なかった。
「……隠していてもいつかバレるだろうから、先に言っておくけど、私ね、直哉くんに抱いてもらったわ」
「っ!」
 今度は衝撃的な事実だった。
 菜緒が驚いたのはもちろんだが、それを聞いた直哉は思わず頭をかきむしった。
「別に抱いてもらったからどうのこうの言うつもりはないわ。それに、それで杉村さんにアドバンテージを持ったとも思ってないし。逆に、杉村さんと私の差をまざまざと見せつけられたわ」
「……どういうことですか?」
「それは、その時になっても直哉くんの頭の片隅には、杉村さんがいたからよ。目の前には私がいるのに」
 瑞穂は微笑んでいた。
「その時、私、どう思ったと思う?」
「……わかりません」
「私も直哉くんにとっての杉村さんみたいな存在になりたいって思ったの。嫉妬もしなかったし、杉村さんを恨みもしなかった。不思議でしょ? 私自身も不思議だったけど、今はもうそのことに関しては、ちゃんとした自分なりの見解を持ってるから」
「見解、ですか……?」
「私は純粋に杉村さんを恋敵と認めたのよ。そして、同時に杉村さんが私が越えるべき、越えなければならない目標になった。一種の『憧れ』だったのかも」
「…………」
 菜緒はなにも言わなかった。
「私ね、直哉くんを本気で好きになって、そしてまた、直哉くんを本気で好きな人が何人もいることを知って、ひとつ思ったの。もし負けたとしても、杉村さんに負けたのなら素直に身を引くけど、違う人だったらそれこそ略奪愛でもなんでもするつもり。それだけ直哉くんの中で杉村さんの存在は大きいの。これだけのアドバンテージを持ってる杉村さんに宣戦布告するんだから、私もよっぽどおかしいわよね」
「……そんなことないです。そこまで至った経緯はどうであれ、直哉を好きだっていう想いは変わりませんから。本気の想いを否定すれば、それは同時に自分の想いまで否定することになりますから」
 菜緒のその言葉は、菜緒の中でも瑞穂を恋敵として認めた証拠だった。
「……私、もう少し探してみます」
 菜緒はそう言って屋上をあとにした。
「……彼女、行っちゃったわよ」
 それは明らかに誰かに聞かせるために発せられた言葉だった。
 そしてそれはもちろん、直哉にである。
 直哉はなにも言わず、とりあえずそこから下りた。
「いつから気付いてたわけ?」
「途中から。ちらっと姿が目に入ったからね」
「なんでそれを菜緒に言わなかったわけ?」
「言ってほしかったの?」
「……いや、そうじゃないけど」
「それで、盗み聞きしてみた感想は?」
「別に好きで盗み聞きしてたわけじゃないぞ」
「もう、わかってるから」
 瑞穂は微笑んで言った。
「……なんであの日のことを菜緒に?」
「今言ってもあとで言っても同じだと思ったから。いつまでも隠しておける自信はなかったし。それだったら比較的よさそうな機会に話してしまった方がいいって思って」
「なるほどね」
「でも、直哉くんは話さなかった方がよかったって顔してる」
「……そんなことはない」
 直哉は否定するが、心なしか声のトーンが落ちている。
「ねえ、直哉くん」
「ん?」
「直哉くんは私に魅力を感じてくれてる?」
「はあ? いったいどういう意味?」
「簡単に言っちゃうと、私を見てムラムラっとするとか、その他諸々いろいろよ」
「……そりゃ、ないって言えばウソになるけど。だからって盛りのついた猫やなんかみたいにはならない」
「それでも一応は感じてくれてるんだ。よかった」
 瑞穂は心から安心したように溜息をついた。
「直哉くんになら、いつ襲われても絶対に文句は言わないんだけどなぁ」
「なんで俺が先生を襲うんだよ。そこまで俺は落ちぶれてないって」
「まあ、それは冗談だとしても、直哉くんと一回きりっていうのは、正気言って淋しい」
「…………」
「そのことに関して直哉くんがどう考えてるのかわからないけど、少なくとも私はもう一度直哉くんに抱いてほしい。そして、今はまだあやふやな部分に決着をつけたい」
「……本気でそう思ってるの?」
「本気よ」
「…………」
 直哉は眉間にしわを寄せ、なにやら思案している。
「……先生の計画に乗ってあげるから」
 そして、それだけ言った。
「じゃあ、俺もそろそろ行くから。次は世界史だし、用意しておかないとさ」
「直哉くん……」
「先生、遅れるなよ」
 そう言って直哉は屋上をあとにした。
「ありがとう……」
 そして瑞穂も屋上をあとにした。
 雲ひとつない、本当にいい天気であった。
 
 放課後。
「ふわ〜あ、よく寝た」
「直哉。おまえホントによく寝てたな。一日六時間のうち五時間も寝て、しかもそのほとんどが熟睡とは、恐れ入った」
「それだけ今日は眠かったんだ」
「でも、世界史だけは起きてたな」
「ん、まあな。ほかの授業に比べたらはるかにましな授業だからな。それに、世界史は進度が速いから、一回受けないと訳がわからなくなる。これでも世界史受験だからな」
「ま、そういうことにしといてやるよ」
 そう言って秀明はニヤッと笑った。
「秀明くん」
 と、男ふたりの会話には合わない声がした。
「ほれ、お迎えが来たぞ」
「わあってるって」
 秀明は言葉では何気ないそぶりを見せているが、その実、顔はにやけていた。
「いや、悪いな、理紗。理紗の秀明は今解放したからさ」
「あっ、べ、別に、そんな……」
「てめぇ、直哉。なんの恨みがあってそんなこと言いやがる」
「べっつに。理紗が一刻も早く秀明と帰れるように、言葉でも改めて言っただけだ。感謝されても文句を言われる筋合いはないと思うが?」
「けっ、勝手な理由だな」
「んなことより、さっさと帰れ」
「ったく……じゃあ、行こうか、理紗ちゃん」
「うん」
「じゃあな、直哉」
「またね、直哉くん」
「おう」
 秀明と理紗は、そう言って教室をあとにした。
「ったく、相変わらずくん付け、ちゃん付けか。ちっとは進歩しろって」
「そうよね。あたしもそう思うわ」
「どわっ! ど、どこから湧いて出やがった」
「失礼ね。あたしをウジ虫かなんかと一緒にしないでよ」
「だったらそういう現れ方するな」
 文句を言う雅美に文句で返す直哉。実に低レベルである。
「それにしても、秀明くんと理紗って、あれでも進歩してるのかしら?」
「さあな。まあ、あいつらが喧嘩してるのとか見たことないから、上手くはいってんだろ。それに、俺は意外に秀明の方が理紗に尽くしてるんじゃないかって考えてる」
「かもね。性格的に秀明くんの方がそうなりやすいかも」
「なんにしろ、長続きしてくれればいいけどさ」
「それは大丈夫なんじゃない?」
「なんでだ?」
「だって、理紗ってああ見えて結構しつこい性格してるから。よっぽど秀明くんに幻滅でもしない限り、理紗が秀明くんを手放すとは思えないもん」
「……それはそれで問題があるとは思うが」
 そう言って直哉は苦笑した。
「ま、あたしたちがそんなことを議論しててもしょうがないんだけどね。結局はふたりの問題なんだから」
「まあな」
「ところで、直哉くん」
「ん?」
「まだ帰らないの?」
「いや、帰るけど」
 直哉は思い出したように、必要なものだけを鞄に突っ込んだ。
「あのさ、よかったら一緒に帰らない?」
 珍しく雅美が遠慮がちに誘ってきた。
「なんだ、一応菜緒に遠慮してるのか?」
「う〜ん、別にそういうわけじゃないんだけど。直哉くんの前ではちょっとしおらしく、なんてね」
「アホ。おまえがしおらしくなんて似合わないから金輪際やめろ」
「ちょっと、そこまで言う?」
「事実を事実として言っただけだ。反論の余地はないと思うが?」
「むっ……」
 そこで本当に反論できない雅美。
「ほれ、帰るぞ」
 直哉はそれを見て、雅美の肩をポンと叩いた。
「あっ、うん」
 雅美は急いで自分の鞄を取り、先に教室を出た直哉を追った。
「菜緒がいない日じゃないと、こうしておおっぴらに直哉くんと帰れないからね」
「なんでそこまで菜緒に義理立てするんだ?」
「あたしたち、恋敵である前に、親友だからね。その関係を壊すようなことはできないから」
「愛よりも友情を取るか。麗しき友情だな」
「それとこれとは別だけど、あたしたちはドラマやなんかにあるような安っぽいつきあいはしてないからね。ちょっとやそっとのことじゃ、あたしたちの関係は壊れないわよ」
「でも、保険はかけておくと」
「念には念を入れてね」
「まあご苦労なこって」
 直哉はまるで人ごとのように言った。
「あら、直哉くん」
「げっ、かえで先生……」
 ふたりが一階まで下りてきたところで、かえでと遭遇した。
 直哉は保健室のあの一件以来、保健室にはもちろん行ってないし、かえでとも会っていなかった。
「今帰りかしら?」
「え、ええ、そうです」
 直哉は、かえでの顔をまったく見ずに答えた。
「じゃあ、先生。帰りますんで」
 そう言って直哉は早々に会話を切り上げようとした。
「ちょっと、直哉くん」
 しかし、見事にかえでに捕まってしまった。
「な、なんですか?」
「……どうしてあれから会いに来てくれないの?」
「……い、いや、たまたまですよ」
「……ホントに?」
「……は、はい」
「……じゃあ、今回はそういうことにしといてあげるけど。別に毎日じゃなくても顔を見せてね」
「……わ、わかりました」
 直哉は観念したように力なく答えた。
「じゃあ、私は行くから。気を付けて帰りなさい」
 かえでは穏やかな笑みを浮かべ、ほのかな香りを残して行ってしまった。
「ねえ、かえで先生となにを話してたの?」
「い、いや、なんでもない」
 直哉はそう言ってさっさと自分の下駄箱へ。
「あっ、待ってよ」
 雅美も慌てて追いかけた。
「そういえば、ここ最近のかえで先生、一段と綺麗になったって噂があるんだよ」
「……俺は知らん」
「一部の噂だと、男性関係でいいことがあったんじゃないかって」
「…………」
 その男性が自分であるとは、口が裂けても言えない直哉であった。
「直哉くんはかえで先生みたいな女性、どう思う?」
「……どうって?」
「だから、異性としてどう思うかってこと」
「……先生だからな。必要以上のことは考えてない」
「ホントに?」
「……当たり前だろ」
「ふ〜ん。あたしはてっきり、直哉くんはかえで先生に虜にさせられたんじゃないかって思ったんだけど」
「……んなわけあるか」
「ならいいんだけどね。かえで先生、直哉くんと話したりする時は、いつもとちょっと違うからね。妙に楽しそうだし」
「…………」
「もしかえで先生がライバルだったら、かなり分が悪いわよね。立場的にも高校の美人保健教師で憧れの対象だし、綺麗だし優しいし」
「おまえ、なにが言いたいんだ?」
 直哉はいつまでもかえでの話を続ける雅美に、ついに我慢できずに多少声を荒げて訊いた。
「直哉くん。あたしがホントに直哉くんの言ったこと、信用してると思ってるの?」
「……どういう意味だ?」
「全部言わないとわからないみたいね」
 雅美は溜息をついた。
「かえで先生の直哉くんを見ている時の目は、間違いなく恋をしている人の目なのよ。これは断言できるわ。つまり、かえで先生は直哉くんのことが好きで、噂がホントなら、直哉くんとなにかあったからかえで先生は綺麗になったってこと。わかった?」
「……つまり、俺とかえで先生はなんらかの関係にあるって言いたいんだな?」
「そうよ。ただひとつ誤解しないでほしいのは、あたしはそれについて直哉くんを追求しようとも思わないし、それを誰かに言おうとも思わない。事実を知りたいだけなの。だってそうでしょ? 確かにあたしは直哉くんのことが好きだけど、直哉くんはまだあたしのことを本気で好きになってくれてないんだから。そういう状態なんだから、直哉くんがほかの誰を好きになろうが、あたしにはなにも言えない。でも、事実だけは知っておきたいの。これってワガママかな?」
「……ったく」
 直哉は答える代わりに、雅美の頭をポンポンと叩いた。
「おまえ、そんなに意地らしくして、そのうち爆発しないか?」
「……わかんない。でも、それがあたしの選んだ道だから」
「ホントに不思議な奴だよ、おまえは」
 直哉はそう言って微笑んだ。
 駐輪場から自転車を出し、学校を出た。
「なあ、雅美」
「ん?」
「なんでおまえは、俺のことなんか好きになったんだ?」
「なんでって言われると困るけど、気付いたらいつの間にか好きになってたって言うのが正しいかも。直哉くんのどこに惹かれたとか、そういうのはよくわからないけど、とにかくあたしは直哉くんのことを好きになった」
「恋は理屈じゃないってか」
「そういうことね」
「俺にはいまいちそういうことはわからん。ただ、俺の中におまえの場所があるのは確かだからな。あの時おまえを抱いた感触だって、まだ残ってるし」
「……あたしも時々思い出すよ。思い出す度にせつなくなっちゃって、その、ひとりでしちゃうけど……」
 真っ赤になって告白する。
「ねえ、直哉くん。もう一度抱いてって言ったら、抱いてくれる?」
「……こう言っちゃなんだが、おまえを抱く理由がない。俺は別におまえの体だけを求めてるわけじゃないんだから」
「そうだよね。ごめんね、余計なこと言って」
 雅美は素直に謝った。
「そうだ。今からうちに来ない?」
「おまえのうちに?」
「うん。今日は誰もいないからさ。ちょっとくらいならいいでしょ?」
「そうだな……」
 直哉は時計を見た。まだそれほど遅い時間ではない。
「しょうがない。つきあってやるよ」
「ホント? やった」
 雅美は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、さっそく行こ」
 
「……相変わらずおまえんちは、でかいな」
「そう?」
 ここは竹宮家。
「あたしは生まれてからずっとここに住んでるから、そういうのはわからない」
「だろうな」
 竹宮家はこのあたりでも一、二を争う大きな家である。別に特別なことをしているわけではないが、とにかく大きな家だった。
「先にあたしの部屋に行ってて。お茶淹れてくるから」
「ん、ああ」
 雅美はそのまま行ってしまった。
 直哉は仕方なく雅美の部屋に向かった。
 何度か来たことがあるので場所はわかっているのだが、やはり入り慣れない家の中を歩くのは緊張した。
「ここだったよな」
 直哉は雅美の部屋の前に立った。
 静かにドアを開ける。
 部屋の中はいたって普通だった。机がありベッドがありテーブルがあり本棚があり、ごく普通の高校生の部屋だった。ただ、部屋が広い。十畳くらいはあった。
「……こうも広いと、居場所がな」
 直哉はとりあえずぐるっと部屋を見回し、座れそうなところに腰を落ち着けようとした。
 と、あるものが目にとまった。
「これは……」
 それはフォトスタンドで、雅美と直哉、菜緒が写っていた。ほかにもいくつかあり、そのすべてに直哉が写っていた。
「前に来た時に、こんなにあったか?」
 確かに以前来た時にも写真はあったが、今回ほどたくさんはなかった。
「ん?」
 さらに直哉はなにかを見つけた。
 それは本棚の一番端にあった。
「日記か……」
 直哉は一瞬それを手に取ろうとしたが、やめた。
「やっぱりこういうものは見ちゃいけないよな」
 と、そこへ雅美が戻ってきた。
「お待たせ……って、なにしてるの?」
「いや、別に。ただ、妙なもんがはみ出てると思ってさ」
「妙なもの……って、ダメーっ!」
 雅美は持ってきたトレイをテーブルに置き、あっという間に本棚の前へ。
「み、見てないわよね?」
「当たり前だろ。いくらなんでも人の日記を見るようなことはしないって」
「はあ……」
 雅美は安心したように日記帳を押し込んだ。
「でもさ、そんなとこに入れといて、勝手に見られたりしないか?」
「大丈夫よ。こういうところの方がかえって安心なの」
「そういうもんかね」
 直哉はそう言って本棚の前から離れた。
「しかし、そんなに慌てるようなことを書いてんのか?」
「べ、別にそういうわけじゃないけど、やっぱり恥ずかしくて」
 雅美は紅茶を淹れながら答えた。
「恥ずかしいなら書かなければいいだろ。俺なんか、小学校の夏休みの日記だってまともに書いてないぞ」
「それって偉そうに言うことじゃないと思うけど」
「いいんだよ。やらされたものなんだから、所詮は」
「直哉くんらしい言い分ね。はい」
「サンキュ」
 直哉はカップを受け取り、一口飲んだ。
「そういやさ、写真増えてないか?」
「うん。ちょっと意識して増やしたんだ」
「中学のから最近のまで、結構あるな」
「まあね。ことあるごとに写真は撮ってたから。でも、直哉くんとのツーショットはないんだよ」
「確かに、必ず誰かが写ってるな」
「まあ、それはそれでいいんだけど。でも、やっぱりほしいよ、ツーショット」
「だったら、撮ればいいじゃないか」
「えっ?」
「別に構わないぜ、写真くらい。どうせ減るもんじゃないし」
「いいの?」
「ああ」
「じゃ、じゃあ、ちょっと待ってて」
 雅美はそう言って収納を開け、中からカメラを出してきた。
「どうやって撮るんだ?」
「方法なんていくらでもあるわよ」
 それからしばらく、ふたりだけの撮影会となった。手に持ったまま撮ったり、どこかに置いてタイマーで撮ったり、フィルム一本を使い切るくらい撮りまくった。
「満足したか?」
「うん」
 雅美は紅潮した顔で満足そうに頷いた。
「それくらいで満足するなら安いもんだ」
 直哉としてもそれはそれで楽しかったらしい。
「直哉くん」
「ん……おわっ!」
「ふふっ」
 それは一瞬だった。直哉が雅美の方を見た瞬間、雅美がその胸に飛び込んできた。
「う〜ん、やっぱりこうしてると幸せ」
「ったく……」
 直哉は溜息をつきつつも、雅美を優しく抱きしめた。
「直哉くんは、やっぱり髪は長い方がいいんだよね?」
「なんでだ?」
「だって、菜緒が髪を伸ばしてるのも直哉くんのためでしょ?」
「……だとしても、おまえまでそんなことする必要はないからな。おまえにはこのショートが一番合ってる」
「うん、ありがと」
 雅美は直哉の言葉に嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、直哉くん」
「ん?」
「直哉くんはあたしのこと、どう見てるの?」
「どうって、見た目のことか?」
「見た目もだけど、とにかくなんでも」
「そうだな」
 直哉はちょっと考えるそぶりを見せた。
「素直にカワイイと思うぜ」
「えっ、ホント?」
「ああ」
「そっか。直哉くんの目から見て、あたしってカワイイんだ」
「ちょっとおまえには『綺麗』って言葉は似合わないからな」
「ぶ〜、どうせ子供っぽいですよ〜だ」
「だから、そういうことするからそう見られるんだろうが」
「でも、これまでずっとそうやって過ごしてきたんだから、そう簡単には変えられないかな」
「開き直るなって」
「別に開き直ってなんかいないけど」
「開き直ってないんだったら、なんなんだ?」
「……あたしはあたしのまま。これまでのあたしを否定したくないだけ」
 雅美はそう呟いた。
「直哉くん。菜緒にあたしたちのこと、言ったの?」
「結果的にそうなったけど、あいつは感づいてたぞ」
「やっぱりね、菜緒ならわかって当然よ」
 雅美はさも当然という感じで頷いている。
「だけど、だからってあいつはそれを根に持ってなんかするような奴でもないからな」
「わかってる。でも、これで菜緒、焦らなければいいけど」
「焦るって、菜緒が?」
「だって、この短期間にずいぶんと増えたからね、ライバルが。しかもそのうちの何人かと直哉くんは関係を持ってるし」
「な、なんで何人かなんだよ?」
「だって、あたしでしょ。かえで先生でしょ。おそらく桜井先生とも。これだけで三人よ。ひょっとしたら、まだいるかもしれないから、だから何人かなの」
「…………」
「あっ、図星だったの。そっか、やっぱりね。かえで先生はともかくとして、桜井先生のことはカマをかけただけなのに。まったく、いつの間にそんな関係になったの?」
「……知るか」
 直哉はそう言ってそっぽを向いた。
「……ねえ、直哉くん。あたしにさせてくれる?」
「えっ……?」
 言うが早いか、雅美は直哉の股間に手をはわせた。
「ば、バカ、やめろ」
 直哉はなんとか体をひねり、雅美の手から逃れようとする。
「お願い、直哉くん」
 しかし、雅美は真剣だった。
「……おまえって奴は」
 直哉は観念したらしく、逃げるのをやめた。
「おまえがすることなんてない。俺がしてやる」
 が、逆に今度は直哉が雅美に迫った。
「あっ、ん、いや、ダメ」
 服の上から胸を触る。
 敏感な雅美はそれだけで感じている。
「ま、待って、直哉くん。服の上からなんてせつなすぎるよ。だから──」
 そう言って雅美は服を脱ぎはじめた。家に帰ってきてからまだ着替えていなかったために、制服である。
 ブレザーを脱ぎ、リボンをほどき、スカートを脱ぐ。
 ブラウスを脱ぐと、下着姿の雅美がいた。
 直哉がじっくりと鑑賞している暇もなく、雅美はブラジャーもショーツも脱いでしまった。
「……お願い」
「ああ……」
 直哉は雅美をベッドに横たわらせた。
「ん……」
 まずはキスを交わす。
「やっぱり、ちゃんとしたキスの方がいいね」
「おまえはいつも不意打ちだからな」
「だって、学校の中だから」
「だったら、学校でするな」
「だって、どうしても自分を抑えられなくて」
「ったく……」
 もう一度キスを交わした。
「あん……」
 直哉の手がわずかに触れただけで雅美は声を上げた。
「相変わらず敏感だな」
「いや、そういうことは言わないで……」
 直哉は、雅美の胸を包み込むように揉む。
「や、んんっ、んあっ」
 雅美は、本当に敏感に反応する。
「んくっ、やっぱり、直哉くんの手の方が、んんっ」
 ピンと屹立した突起を舌先で舐める。
「はうっ、んあっ、んんっ、ダメっ」
 直哉は執拗に胸を攻める。
「んんっ、あふっ、んあっ、直哉くんっ、ああっ!」
 雅美はそれだけで軽く達してしまった。
 直哉はそれに満足すると、今度は雅美の秘所に直に触れた。
「ひゃうっ!」
 そこはすでにたっぷりの蜜で濡れており、いかに雅美が感じていたかわかった。
「もうこんなになってるぞ」
「ん、んっ、な、直哉くんが上手、だから、あうっ」
 秘唇をなぞるだけで、あとからあとから蜜があふれてくる。
「どうやら、ひとりでやってたっていうのはウソじゃないみたいだな」
「だ、だって、んんっ」
「別に悪いことじゃないさ。人間誰しもそうなる可能性があるんだから」
「う、うん」
 そう言いつつ、直哉はズボンを下ろし、トランクスから自分のモノを取り出した。
「いくぞ」
「うん……」
 二回目とはいえ、雅美はまだ緊張気味である。
「あ……あああ……」
 直哉のモノは、すんなりと雅美の中に入った。
「動くぞ」
「うん……」
 直哉は最初から幾分速めに動いた。
「あうっ、んんっ、いいっ、ああっ、奥に、当たるのっ」
 雅美にも苦痛の色は見えない。
 最初から快感に身を委ねている。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 それは雅美だけではなく、直哉もだった。
「くっ……気を抜いたら出そうだ」
「我慢しないで、あたしの中に出して、んんっ、今日は大丈夫だから」
 雅美は、健気にそう言う。
「んあっ、んんっ、あんっ、あっ、あっ、いいっ」
 部屋の中に、ふたりの荒い息遣いと湿った淫靡な音が響く。
「あっ、ああっ、直哉くんっ、も、もうっ」
「雅美っ」
「んんっ、あああああっ!」
 直哉は、雅美の中に大量の白濁液を放った。
「はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
「直哉くん……」
「雅美……」
「ん……」
 もう一度キスを交わす。
 雅美は本当に幸せそうだった。
 
「これであたしは完全に直哉くんのものね」
「なんでだ?」
 直哉たちは、裸のまま抱き合っていた。
「だって、もうホントに知らない仲じゃないんだし。でも、最初に抱いてもらった時からあたしは直哉くんのものになってたけどね」
「……別に、俺はおまえを俺のものにした覚えはないぞ」
「ううん、もう身も心も直哉くんのものだよ。直哉くんがなにかしろって言ったら、なんでもやるよ」
「……やっぱりおまえを抱いたのは失敗だったかな」
「んもう、そんなこと言わないで。今そのことを言われると、あたしがあたしじゃなくなるような気がするの。だから、言わないで」
「わかってるよ。それに、本気で言ったわけじゃない。それにもし本気で後悔してたら、こうして二度目はなかった」
「そう、だね」
 雅美は薄く微笑んだ。
「それにしても、おまえはホントに敏感だな」
「も、もう、その話はやめようよ」
「いやいやいや。別に悪いことじゃないぞ。それに、そのおかげっていうこともあるだろうが」
「……うん。二回目なのに、すっごく気持ちよかった」
「せっかくなんだから、お互いによくないとな」
「うん、そうだね。でも、あんまり気持ちよすぎると、直哉くんのを忘れられなくなっちゃうよ」
「……まあ、その時はその時だ」
 言って直哉は苦笑した。
「雅美」
「ん?」
「……俺がな、おまえを気に入ってる理由、教えてやろうか?」
「えっ、うん。聞きたい」
 直哉は少し間を開けた。
「まずだいいちに、おまえは裏表がないからつきあいやすい。本音をぶつけられるし。だから完全に俺の中でのおまえの位置は親友だった。まさか、こんな関係になるとは夢にも思わなかったけどな」
「あたしだってそうだよ。こういうことは夢には見てたけど、実際にはあり得ないことだって思ってた」
「ふたつ目は、おまえは人のことを必要以上に詮索したりしないからな。だからって含めた言い方もしないし。まあ、多少口は悪いけどな」
「悪かったわね、口が悪くて」
「そして三つ目。それは……」
「それは?」
「……やっぱり内緒」
「ええーっ、そこまで言って今更内緒なんてずるいよ」
「だってさ、これを言ったらおまえになんて言われるかわかったもんじゃないからな」
「そんなにひどいこと言うつもりなの?」
「ひどいことじゃないけど、俺が滅多に言わないことだからな」
 そう言って直哉は微笑んだ。
「どうしても聞きたいか?」
「うん」
「仕方ないな」
 直哉は雅美から視線をそらした。
「それは──」
「……うん」
「おまえがカワイイからだ」
「えっ……?」
 雅美は一瞬なにを言われたのかわからなかった。しかし、言われたことを頭が正しく認識すると、震える声で言った。
「う、ウソ……?」
「ウソなんか言ってない。別に俺は面食いじゃないけど、綺麗だったりカワイイ方がいいに決まってるからな」
 直哉の声は優しかった。
「あ、あはは、嬉しくて、涙が出てきちゃった」
「だから言いたくなかったんだ」
 そう言いながら、直哉は雅美の髪を優しく撫でている。
「あたし、直哉くんを好きになってホントによかった」
「…………」
「これからもずっと直哉くんのこと、好きでいるからね」
「ああ……」
 ひとときの夢の時間は、終わりを告げる。
 しかし、また今度があると信じているからこそ、今はそこから覚めることができた。
 たとえ、実際にはそれがないとわかっていても。
 
 家に帰ると、すでに千尋も麗奈も帰っていた。
 千尋と麗奈は、ふたりで夕食の準備をしていた。
 直哉はとりあえず自分の部屋に戻った。
「はう〜、今日はマジできつかった」
 ベッドに突っ伏すと、そのまま眠ってしまいそうなくらい疲れていた。
「今日は早めに寝るか」
 気持ちのいいベッドからなんとか体を起こし、着替える。
 着替えてからなんとはなしに窓から外を見た。
 だいぶ暗くなっているためにはっきりとは見えないが、それでもまだ夜には早かった。
「明日も晴れそうだな」
 直哉はそう言ってカーテンを半分閉めた。
 程なくして夕食となった。
 今日はいつも以上に気合いの入ったメニューだった。量は三人分にしては結構多かったが、それでもすべてなくなってしまった。四人分換算で、ふたり分は直哉が食べた。
「ふいぃ、満足満足」
「ふふっ、見事な食べっぷりだったね」
 綺麗になくなった皿を見て、麗奈は嬉しそうに言った。
「これだけ旨いものを出してもらったんだから、残さず食べないと申し訳なくて」
「なおくんはいつもそうだからね」
 千尋はお茶を淹れながら付け足した。
「これだけ気持ちよく食べてもらえると、千尋ちゃんも作り甲斐があるでしょ?」
「そうですね」
「麗奈姉さんも家で作ったりするんでしょ?」
「たまにね。基本的にはお母さんがやってるから、私も綾奈も出番がないのよ。お母さんの料理は下準備からなにからなにまで完璧だから、手伝うこともほとんどなくて。それでも月に何度かは私か綾奈が料理するけどね。ただ、毎回お母さんに評価されるからちょっと大変だけど」
 そう言って麗奈は笑った。
「うちも母さんがこんなにも忙しくなかったら、そうなってたのかな?」
「たぶんね」
「たとえそうだったとしても、千尋ちゃんなら大丈夫よ。もとから筋がいいから。それに近くに優秀な批評家さんもいるしね」
「批評家って、俺のこと?」
「うん」
「そりゃ、不味いものを旨いとは言わないけど、それでも細かいことなんてなにも言えないよ。旨いものは旨い。不味いものは不味いとしかね」
「それが一番大事なの。下手なこと言って褒められるよりも、簡潔に言ってもらった方がよっぽど嬉しいし、次に向けてのやる気も出てくるし」
「そんなもんなのか」
 直哉は感心した様子で麗奈の言葉を聞いている。
「あっ、そうだ。今日はケーキを買ってきたんだから」
 そう言って千尋は立ち上がった。
「今評判のケーキ屋さんで、並ばないと買えないんだから」
 冷蔵庫から持ってきた箱の中には、数種のケーキが入っていた。
「好きなの選んで」
 皿とフォークを用意しながら千尋は言った。
「じゃあ、俺はこのモンブラン」
 直哉はモンブランを選んだ。
「私は、このミルフィーユを」
 麗奈はミルフィーユを選んだ。
「私は、チョコレートケーキにしよ」
 千尋はチョコレートケーキを選んだ。
「いただきます」
 さっそく直哉が一口。
「どう?」
「なかなか旨いよ。さすがは評判の店だね」
 それを見て千尋も麗奈も一口。
「ホント、美味しい」
「しつこい甘さじゃないから、何個でも食べられそう」
「だからって何個も食べると、太るよ、姉さん」
「うっ、だ、大丈夫よ」
 千尋の動きがぴたっと止まった。
「そうよ、直哉ちゃん。千尋ちゃんなら、もう少し体重があったって問題ないわ」
「だってさ、姉さん」
「も、もう、なおくん」
「あはは」
 その日は、談笑とともに夜は更けていった。
 
 三
「なおくん」
「ん?」
「なおくんは髪、長い方が好き?」
「うん。好きだよ」
「じゃあ、わたしも髪、伸ばそうかな?」
「菜緒もか?」
「うん。でね、もしそれが似合ってたら、なおくん、褒めてくれる?」
「いいよ、それくらい」
「ホント?」
「約束するよ。ほら、指切りげんまん」
「うんっ!」
 
「ねえ、なおくん」
「ん?」
「似合ってる?」
「髪のこと?」
「うん」
「うん、よく似合ってるよ」
「じゃあ、これからも伸ばしてもいい?」
「僕はその方がいいな」
「うん、じゃあ、なおくんのために伸ばすよ」
 
「……また、夢か……」
 朝、直哉はまた夢で目が覚めた。
「……夢、よく見るな」
 直哉は眠そうに目をこすりながら、ベッドからはい出た。
 勢いよくカーテンを開ける。
 少し雲が多いが晴れていた。
「……げっ、まだ五時半じゃないか」
 時計は無情にもまだ五時半をまわったばかりだった。
「くっそー、これから二度寝すると確実に寝坊するからな」
 直哉は忌々しげに時計のタイマーを切った。
「……ちっ、起きるしかないか」
 とりあえずベッドを軽く直して部屋を出た。
 下に下りても物音ひとつしなかった。
「……早すぎるんだよ」
 直哉は文句を言いながら玄関の鍵を開け、新聞受けから新聞を取り、リビングでそれを広げた。
 一面トップは大手ゼネコンのヤミ献金疑惑についての裁判の結果だった。
 特に直哉の気を引くような記事はなかった。
 ひと通り読み終わると、六時になろうというところだった。
「あれ、なおくん。もう起きてるの?」
 ちょうど千尋が起きてきた。
「おはよう、姉さん」
「おはよ」
「なんか今日は早くに目が覚めちゃってさ。二度寝すると遅刻するから、仕方なく起きたんだ」
「そうなんだ」
「なんか損した気分。早起きは三文の徳、なんて言うけどなにも徳なんてないし」
 直哉はぶつぶつと文句を言う。
「そうかな? 私は得した気分だけどな」
「なんで?」
「だって、いつもより早く、なおくんの顔を見ることができたもん」
 そう言って千尋は微笑んだ。
「一緒に寝ない限り、六時半までなおくんの顔、見られないからね」
「……姉さんにはかなわないな」
 直哉はそう言って溜息をついた。
「さてと、今日もがんばっていこう」
 千尋は気合いひとつ、朝食の準備をするために台所へ。
「あっ、そうだ」
「どうしたの?」
「麗奈さん、起こしてくれる?」
「別にいいけど、なんで?」
「今日は少し早く出ないといけないんだって」
「ふ〜ん、わかった」
 直哉はさっそく客間に向かった。
 念のためノックしてみるが返事はない。
「はあ……」
 直哉は静かにドアを開けた。
 薄暗い部屋の中、規則正しい寝息が聞こえた。
 麗奈はこれで本当に夜中に寝返りを打ったのかというくらい、きちんとした姿で眠っていた。
 直哉は側に寄り、膝をついた。
「麗奈姉さん、朝だよ」
 軽く肩を揺らして起こそうとする。
「すぅー……すぅー……」
 しかし、まったく起きる気配がない。
「ったく……麗奈姉さん、朝だって」
 今度は少し力を入れて肩を揺する。首がカクカクと揺れるが、やはり起きない。
「こりゃ、テコでも起きないんじゃないか」
 直哉は今度は耳元で大きな声を出してみることにした。
「姉さん、朝だよ」
「……ん……」
 さすがに今度ばかりは反応があった。
「すぅー……すぅー……」
 しかし、起きなかった。
「うぬぬぬ、おのれ……」
 今度は鼻をつまんで息をできなくする作戦に出た。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……お、おいおい、マジかよ」
 鼻をつまんで四十秒以上。麗奈はいっこうに苦しがらなかった。
 結局、直哉が先に手を離した。
「どうすれば起きるんだ?」
 直哉は麗奈を前にして考え込んでしまった。
「これならどうだ。それっ」
 次に直哉がとった行動は、麗奈の布団をはがしてしまうというものだった。
 これにはさすがの麗奈も反応した。体を小さく丸めて冷えないようにしている。
「姉さん、麗奈姉さんてば、もう朝だよ」
 直哉はだめ押しでもう一度、今度は両肩をつかんで揺すった。
「……う、ん……」
 そして、今どこそ麗奈は目を覚ました。
「あ、れ……? 直哉、ちゃん?」
 まだ起きていない頭で状況の把握に努める。
「やっと起きたね、姉さん」
「あっ、直哉ちゃん」
 ようやく頭が働きだしたらしい。正確に直哉を捉えた。
「どうして直哉ちゃんがここに……って、きゃっ」
 今度は自分が布団をかけていないことに気づき、声を上げた。
「姉さんがあんまり起きないもんだから、布団もはいだ」
「そ、そうだったんだ」
「それでも起きなかったら、俺には姉さんを起こすのは無理ってこと。でも起こせてよかったよ。それに、姉さんの寝顔を見ることもできたし」
「…………」
 それにはさすがの麗奈も顔を真っ赤にして俯いた。
「じゃあ、とにかく起こしたからね。あとはちゃんと支度して──」
「直哉ちゃん」
「ん?」
「どうしても起きない時は、王子様の目覚めのキスが、一番有効なのよ」
 麗奈は真面目な顔でそんなことを言う。
「じゃあ、もし今度そういう機会があったら、それで起こすよ。もっとも、俺が姉さんの王子様かどうかはわからないけどね」
「大丈夫。直哉ちゃんは私の王子様だよ」
 そう言って微笑んだ。
「……早く行くんだったら、ちゃんと支度しないと遅刻するよ」
「うん」
 直哉はそう言って客間を出た。
「起こしてくれた?」
「まあね。でも、麗奈姉さんてあんなに寝起きがよくないの?」
「えっ、すんなり起きると思うけど。起きなかった?」
「うん」
 その時、直哉の頭になにかがひらめいた。
「……だまされた」
 程なくして麗奈がやって来た。
「おはよう、千尋ちゃん」
「おはようございます、麗奈さん」
「麗奈姉さん、ちょっと」
 直哉は麗奈を連れてリビングへ。
「ひょっとして姉さん、さっき起きてた?」
「あはっ、バレちゃった?」
「ったく、ひどいよなぁ」
「ごめんね、直哉ちゃん。ちょっとした出来心だから、許してね」
「もうこんなことしないって約束してくれたら、許してあげる」
「うん、約束する」
「しょうがないなぁ」
 直哉は渋々許した。
「でも、直哉ちゃんに布団をはがされた時はちょっと驚いたよ。直哉ちゃんになにかされるんじゃないかって、そうも思ったし」
「……なにかって、なに?」
「ふふっ、襲われるんじゃないかって。でも、直哉ちゃんにだったら襲われてもいいかな、なんて想いもあるんだよ」
「ね、姉さん……」
「ふふっ、半分冗談で半分本気だよ」
 そう言って麗奈は台所へ戻っていった。
「……なんか、また姉さんに振り回されそうな気がする」
 直哉はもう、溜息をつくしかなかった。
 
「なんか疲れてるね」
「ああ、なんかな」
 直哉は教室に入るなり、自分の机に突っ伏した。
「最近立て続けにいろんなことがあって、体力的にも精神的にもちょっとバテ気味」
「……それって、私も関係あるのかな?」
 菜緒は、遠慮がちに訊ねた。
「……ないって言ったらウソになるけど、おまえのはたいした影響はない。通常の範囲内だ」
「そうなんだ。じゃあ、誰のせいなの?」
「……いろいろあるんだよ」
 溜息をつく。
「意外に麗奈姉さんに振り回されそうで、対策を講じないといけないんだ」
「麗奈さんにそんなこと必要なの?」
「ああ。ああ見えても綾奈姉さんの姉だからな。結構『お茶目』なことをする。滅多にしないんだけど、どうも俺相手だとやりやすいらしい」
「そうなんだ。ちょっと意外だな」
「同じことをされても、麗奈姉さんにされると、なぜかなにも言えなくなってしまうんだよな。多少コンプレックスを持ってるのかな?」
「直哉の憧れの女性だもんね」
「なんだ、妬いてるのか?」
「べ、別にそんなんじゃないけど……」
「まあ、麗奈姉さんが俺の憧れだってのはホントのことだからな。それがコンプレックスに繋がるかどうかはわからないけどさ」
 そう言って再び溜息をついた。
「もう、直哉らしくないぞ、そんなにうじうじ考えるなんて。当たって砕けろでいいじゃない」
「それでホントに砕け散ったらどうすんだ?」
「そ、それは、ど、どうにかなるわよ」
「ったく……」
「おっはよー、おふたりさん」
「あっ、おはよ、雅美」
「……うおっす」
「あっ、死んでる」
 雅美は直哉の状態を見て、身も蓋もないことを言った。
「どうしたの?」
「なんかいろいろあって疲れてるんだって」
「ふ〜ん、そうなんだ。まあでも、直哉くんのことだから昼休みになれば、元に戻ってるわよ」
「それもそうだね」
「……そこで納得するな」
「あれ、聞いてたの?」
「おまえらなぁ……」
 直哉は思わず頭を抱えた。
「あっ、菜緒。ちょっといいかな?」
 と、クラスの女子が菜緒を呼んだ。
「うん、いいよ」
 菜緒はそのまま行ってしまった。
「ねえ、直哉くん」
「ん?」
「やっぱりあたしのせい?」
「バーカ。関係ないって」
「ホントに?」
「自惚れんなよ」
「だって──」
「多少は関係あるかもしれないけど、俺だってある程度は考えて行動してんだからさ。これをしたらどうなるかくらいわかってるって」
「ならいいけど。なにかあったら言ってね。なんでもするから」
「わかったわかった」
 直哉はそう言って雅美を追い払った。
「……正直なことなんか話せるわけないだろうが」
 そして、三度目の溜息をついた。
 
「あの、倉澤先輩」
 直哉が廊下を歩いていると、ふたりの女生徒に呼び止められた。先輩と呼ぶところをみると、二年か一年だろう。
「なに?」
「あ、あの……」
 そのうちのひとりがもじもじとなにかするか言おうとしている。
「……ほら、ちゃんと渡さないと」
 もうひとりが背中をポンと押した。
「こ、これ、読んでください。へ、返事はすぐじゃなくてもいいですから。し、失礼します」
 そう言って直哉に手紙を渡し、そのまま走って行ってしまった。
「失礼します」
 もうひとりもそれを追いかけた。
「……あ〜あ、今度はなんて言って断ろうか」
 直哉は手紙をポケットにしまうと、また廊下を歩き出した。
 直哉ははっきり言ってかなりモテる。特に、最上級生となった今年、告白やら今みたいな手紙などどれだけもらったことか。この短期間にである。
 容姿は申し分ない。成績も決して悪くない。スポーツは万能。性格も少なくとも見た目では問題ない。
 となれば人気が出るのは当然だった。
 いかに校内に菜緒と実はつきあっているんじゃないかって噂が流れていても、直哉を我がものにしたい女子にとっては、障害にもならなかった。
 直哉がたまたま二年生や一年生の教室の近くを通った時には、あちこちで黄色い声が上がった。
 しかし、当の直哉にははっきり言ってありがた迷惑だった。
 年下に興味があるとかないとかいう問題ではなく、直哉の眼中に彼女たちはもとから入っていなかった。
 それでも直哉は、できるだけ傷つけないように断ってきた。もちろんそれは、自分の体面を守ることもあったが、一番の理由はどんな理由があろうとも、女の子を泣かせるのは直哉の主義に反するからだった。
「……一応、読んでおくか」
 屋上に上がってきた直哉は、さっそく渡された手紙を読んだ。
「…………」
 差出人、つまりさっきの子は二年生だった。
 やたらめったに褒めちぎった文章ではないが、直哉への想いは感じ取れた。
「はあ……」
 直哉は読み終わると溜息をついた。
「俺にここまで人に好きになってもらう資格なんてあるのかよ……」
 手紙を封筒に戻し、ポケットにしまいこんだ。
「未だにひとりに決められず、ふらふらしてる俺に……」
「黄昏れてるわね」
「かえで先生……」
 屋上にやって来たのは、かえでだった。
「珍しいですね、先生がここに来るなんて」
「ちょっと気晴らしにね」
 かえではフェンス際に立ち、遠くを見つめた。
「どうしたの、暗い顔して?」
「どうもしませんよ。ただ、またこんなものをもらっただけです」
 そう言って手紙を見せた。
「ラブレター? 見てもいいの?」
「先生なら誰かに言うことはないですから」
 かえでは手紙を読んだ。
「なるほどね。で、直哉くんはまたどうやって断るかで悩んでいたと」
「いつもならそうなんですけど、今日は違います」
「どう違うの?」
「根本的な問題ですよ。俺には人に好きになってもらう資格があるのかって」
 直哉はそう言って空を見上げた。
 ゆっくり雲が流れ、のんびりとした昼下がりだった。
「先生、言いましたよね? いつまでもうじうじしてたらって。そんな状態の俺が人から好きになってもらう資格なんてあると思いますか?」
「……難しい質問ね。すでに直哉くんのことを好きな私にしてみれば、そんな風に悩むこと自体わからないけど。でも、客観的にあくまでも第三者的な立場で言えば、それは直哉くんの考え方の問題よ」
「考え方、ですか?」
「自分をどう評価するのか、それの違いよ。今の直哉くんみたいに悲観的に後ろ向きな評価をすれば、当然そういう考え方に至るでしょうね。でも、どんな状態でも楽観的に前向きに自分を評価すれば、そんな考え方には至らないわ。まあ、どちらに偏りすぎてても問題だとは思うけど」
「……どうすればいいと思いますか?」
「さあ、それは私にはわからないわ。それに、そういうことは自分で答えを出さないとまったく意味がないし」
「そう、ですね」
 直哉は小さく頷いた。
「ひとつだけ、直哉くん寄りな考え方を言わしてもらうと、いくらモテるからって天狗にならず、そうやっていつでも自分のことを考えられるってことは、すごいことよ。だからこそみんなは直哉くんのことを好きになるのよ。たとえ、直哉くんのことを詳しく知らなくてもね」
 かえではそう言って微笑んだ。
「もし、前向きな考え方ができないんなら、早くけじめをつけるべきね。自分の中でひとつ区切りをつけると、それまで見えなかったものが見えてくるかもしれないから」
「……それしかないですね」
「そうよ、いつまでも私に変な期待を持たせないでね。私だって直哉くんの隣を虎視眈々と狙ってるんだから」
「先生……」
「よく初恋は実らないって言うけど、今はそれを信じたいわ。ちょっとイヤな考えだけどね」
 かえでは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……先生っ」
「直哉、くん……?」
 突然、直哉はかえでを後ろから抱きしめた。
「どうしたの?」
「俺、やっぱり自分が情けないです。みんなから想われて、でもそれには応えられなくて。それでもみんなは俺のことをわかってくれて。俺だけがなんにもできなくて……」
 かえでは前にまわされた直哉の手に、自分の手を重ねた。
「焦っちゃダメよ。焦って出した答えなんてロクなものじゃないから。それに、直哉くんなら大丈夫。きっとみんなが納得できる答えを見つけ出せるわ」
 優しく、母親のような慈愛に満ちた表情で語りかけた。
「ね、直哉くん?」
「はい……」
 直哉は小さく、しかしはっきりと頷いた。
「先生。キス、してもいいですか?」
「……口紅、ついちゃうわよ?」
「構いません」
「ん……」
 直哉はかえでを自分の方に向かせ、キスをした。
「ほんの少しだけ、先生の力を借ります」
「私の力なら、いつでも貸してあげるわよ」
 一瞬風が止み、そしてまた吹いた。
 雲が太陽を覆い隠し、瞬時にあたりを薄暗くする。しかし、すぐに太陽が顔を覗かせた。
 かえでも一瞬淋しそうな笑みを浮かべたが、すぐにいつもの笑みに戻った。
「じゃあ、私は戻るわね」
「はい」
「ちゃんと、口紅拭き取っておきなさい」
「わかってます」
「それならいいけどね」
 かえではそう言って屋上をあとにした。
「ありがとうございます、かえで先生……」
 直哉の顔にも、穏やかな笑みが浮かんでいた。
 
「直哉。帰ろ」
「ああ、ちょっと待ってろ」
「うん」
 放課後。いつものように菜緒が直哉に声をかけた。
「よし、行こうぜ」
 いつものように直哉が先に立ち、教室を出た。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「どっか寄って帰ろうか?」
「別にいいけど、どこ寄ってくんだ?」
「う〜ん、どこでもいいんだけどね」
「まあ、とりあえず駅の方に行くか」
「うん」
 菜緒にとっては直哉と一緒ならどこでも楽しいし、嬉しかった。
 学校を出て途中まではいつもと同じ道を行く。いつもなら左に曲がるところを、右に曲がった。
「直哉、少しは元気になったね」
 菜緒は唐突にそんなことを言った。
「なんだ、俺は元から元気だぞ」
「ウソだね。今日の直哉、朝から元気なかったもん」
「あれは疲れてただけだ」
「それは表面的に。実は全然元気がなかった」
「……なんでそう思うんだ?」
「だって、直哉のことなら見てるだけでわかるもん。今までいろんな直哉を見てきたからね。私には隠したってダメだよ」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「ったく、幼なじみってのも案外やっかいだな」
「そんなことないよ。幼なじみだっていいことはたくさんあるよ」
「……それ自体は否定しないけどさ」
「ケーキでも食べて行こうか?」
「はあ?」
「だから、ケーキでも食べようって」
「突然話題を変えるな」
「だってぇ、食べたくなったんだもん」
「わあったから。じゃあ、いつものところでいいな?」
「うん」
 直哉は苦笑した。
 それと同時に、菜緒に感謝した。そして、菜緒と幼なじみであることに感謝した。
 駅前に出たふたりは、もう行きつけになっている喫茶スペースのあるケーキ屋に入った。
 下校時間ということで制服姿の高校生が結構いた。
「なんだ、またチーズケーキか?」
「うん。ここのチーズケーキは美味しいからね。そう言う直哉も、モンブランだね」
「まあな。俺はこれが一番好きなんだ」
「そうだね。直哉は昔からモンブラン。ほかのケーキには見向きもしないのにモンブランだけは別。どうしてそんなにモンブランがいいの?」
「なんとなくだよ。特別栗が好きだってわけじゃないけど、適度な甘さのモンブランがなんとなく好きなんだ」
「じゃあ、今年の直哉の誕生日に、モンブランを作ってあげようか?」
「おまえ、できるのか?」
「ううん。これから練習するの」
「……いやあ、やっぱりモンブランは旨いな」
「無視しない」
「いや、おまえの気持ちは嬉しいけど、まだまだ死にたくないからな」
「それ、どういう意味よ? 直哉は私の料理の腕は知ってるでしょ? ちゃんと練習すればモンブランくらいできるわよ」
「しかしなぁ、おまえ、普通の料理は結構上手いくせに、お菓子の類は苦手だからな」
「うっ、そ、それは……」
 菜緒はかつてお菓子作りで大失敗をしている。
 単純なミスなのだが、それは菜緒にトラウマとなって残った。そのミスとは、砂糖と塩を間違えたというもの。しかもそれは直哉のために作ったものだったから、菜緒の落胆ぶりといったら相当のものだった。
「まあ、作ってくれるって言うんなら、別に断るいわれもないからいいけど。ちゃんと食べられるものを作ってくれよ」
「大丈夫。もうお菓子作り苦手も克服するから」
 妙にやる気十分だった。
 店内には有線が流れ、あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえる。窓の外の商店街には買い物袋を下げた主婦が家路を急いでいる。
「そういや、明日からだったよな、三者面談」
「うん」
「おまえはいつなんだ?」
「金曜日だよ」
「なんだ、すぐなんだな」
「うん。別にこの日がいいって言ったわけじゃないけど、そうなったの」
「俺は来週末だからな。まだ先だ」
「確か、土曜日の午前中だったよね」
「ああ。土曜日で休みなんだけど、母さんの日程が合わないから頼んでそうしてもらったんだ」
「大変だよね、おばさんも」
「まあな。ただ、今度の改編からバラエティーの方は完全に降りるって言ってたけど」
「じゃあ、アナウンサーに専念するんだ」
「もともとアナウンサーだし、それに年だからな、そろそろ」
「なに言ってるのよ。まだまだ若いじゃない」
「若いって、今年で四十一だぜ。さすがに若いって年じゃないだろ」
「そっか、四十一歳なんだ。全然そんな風には見えないけど」
「だろうな。かなりがんばってるからな、若く見せようと」
 直哉は苦笑した。
「俺だけ土曜日ってのは、もうひとつ理由があるんだけどな」
「おばさん自身のことでしょ?」
「ああ。あれでもほぼ毎日テレビに出てるからな。あんまりいろいろと言われるのがイヤなんだよ」
「昔は直哉もいろいろと言われてたよね」
「そりゃな。母さんは看板アナウンサーだったし。まわりの連中が珍しがるのは当然だ。俺のまわりにそういう奴がいたら、俺だってそうなるさ。それが普通だって」
「普通って割には、結構そのことで喧嘩してたけどね」
「……余計なことを言う奴にはな。俺は自分のことを言われるのは、ある程度我慢できるけど、親しい人が悪く言われるのは我慢できないからな」
「そうだね」
 菜緒は嬉しそうに微笑んだ。もちろんその親しい人の中に、菜緒も含まれている。
「母さんもアナウンサーに専念すれば、今よりは家に帰ってこられるようになるだろうな。あとは父さんだけど、父さんは仕事一筋だからな。まだ当分無理だろうな」
「直哉のうちが全員揃うことってあんまりないからね」
「しょうがないさ。そういう職にふたりとも就いてるんだから。特に父さんはもっと偉くならないときついままだよ。でも、編集長以上にはそう簡単になれないからな」
「それでも、おじさんもおばさんも直哉や千尋さんのこと、しっかり考えてるから」
「……姉さんのことはな。俺は昔からほっぽり出されてたからな」
「その代わり、うちのお父さんが直哉を可愛がってる」
「はは、そうだな。おじさんにはずいぶんと世話になってるよ。何回か言われたことがあるぜ」
「なにを?」
「本当の息子にならないかって」
「お父さん、そんなこと言ったんだ」
「まあ、それも結構前のことなんだけどな。今はそんなこと言わない。代わりに言うのは──」
「早く菜緒を迎えに来てくれ、でしょ?」
「まあな」
「お父さんもお母さんもそればっかり。私の気も知らないで」
 そう言って菜緒は溜息をついた。
「親なんてそんなもんだろ? 子供の幸せを願って少しでも幸せになれるように見守って。まあ、時には口を出したりするかもしれないけど。ま、俺はそんなこと言われたことないけどな」
「それは直哉が男だからでしょ? 千尋さんはいろいろ言われてるでしょ?」
「姉さんの場合はどこにも行ってくれるなってのが父さんの想いだろうな。口では言わないけど。手塩にかけて育てた娘を、どこの馬の骨ともわからない男になんぞやれるかって感じでさ」
「……直哉も近い想いなんでしょ?」
 それは思いがけない質問だった。
「……いや、そんなことはないさ。俺は姉さんには心から幸せになってもらいたい。だから、姉さんがこの人って決めた男がいるなら、それでいいと思う。もしそいつが姉さんを幸せにできなかったら、タダじゃおかないけど」
 離れたくないという想いと、幸せになってもらいたいという想いは違う。それを両立させるのは、なかなか難しい。
「千尋さんも幸せだよね。そこまで直哉に想われてて」
「……なに言ってんだ。もし仮におまえが姉さんと同じような立場にあったって、俺は同じ想いだぞ。それくらいはわかってると思ったんだけどな」
「直哉……」
「さてと、コーヒーもなくなったし、そろそろ行くか」
「うん、そうだね」
 ふたりはケーキ屋を出た。
 外はすっかり夕陽色に染まっていた。
「菜緒」
「なに?」
「おまえさ」
「うん」
「……いや、やっぱりいいや」
「ええーっ、どうして?」
「まだ早いからな」
「早いって、なにが?」
「そのうち教えてやるよ」
 そう言って直哉は自転車にまたがった。
「ほら、行くぞ」
「あっ、待ってよ」
 さっさと行こうとする直哉を、菜緒も慌てて追いかけた。
「ねえ、直哉。いったいなにを言おうとしたの?」
「なんでもねぇよ」
「気になるよ」
「気にするな」
「そこまで言われると余計に気になる」
「…………」
「ああーっ、無視してる」
 直哉はそのまま自転車をこいでいく。
「ねえ、直哉ってば。ヒントだけでもいいから」
「ヒントなんかないって」
「じゃあ、教えてよ」
「だからぁ、まだ早いって」
「なにが早いのよ」
「だあーっ、とにかく早いもんは早いんだ」
「もう、直哉の意地悪」
「……ったく」
 直哉は溜息をついてスピードを落とした。
「しょうがねぇな。出血大サービスでほんのさわりだけ教えてやる」
「うん」
 菜緒は期待に満ちた目で直哉を見つめている。
「俺は今、ある計画を立てている」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ。ほんのさわりだけだって言っただろ?」
「ああん、それじゃ余計にわからないよ」
「だあーっ、ワガママ言うな。その計画におまえも関係あるってことくらいわかるだろうが」
「私も?」
「当たり前だ。関係ないことをおまえにいちいち話すか?」
「ううん」
「ならいいだろ」
 再び自転車をこぎ出す直哉。
「直哉」
「ん?」
「それって、期待しててもいいのかな?」
「……まあ、過剰な期待をされると困るけど、通常の範囲内の期待だったら、裏切らない自信はある」
「じゃあ、期待して待ってるから」
 菜緒はそう言って笑った。
 直哉もそんな菜緒の笑顔を見ていると、なんとしてもその期待に応えなければと思った。
 
 夕食後、一本の電話があった。
 たまたま電話の側にいた直哉がそれに出た。
「はいもしもし、倉澤です」
『あっ、直哉ちゃんだ』
「その声は、綾奈姉さん」
 それは綾奈からの電話だった。
「麗奈姉さんに用なの?」
『とりあえずはね。直哉ちゃんにもあるけど』
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 直哉は保留ボタンを押した。
「麗奈姉さん、綾奈姉さんから電話だよ」
「綾奈から?」
 麗奈は首を傾げながら電話に出た。
「あやちゃん、なんの用なんだろ?」
「さあね。たいした用じゃないと思うけど」
 確かに麗奈の受け答えの様子を見ていると、たいした用には見えない。
「あやちゃんも向こうで三人だけだと、淋しいのかな?」
「どうかな。昼間はほとんど大学にいるわけだし、帰ればおばさんだっているし。そんなに淋しいってことはないと思うけど。うちよりはましだよ」
「そうだね」
 直哉の言葉に、千尋も頷いた。
「うん……うん、わかった……じゃあ、替わるね」
 どうやら麗奈との話は終わったらしい。
「直哉ちゃん。綾奈が話があるんですって」
「らしいね」
 直哉は受話器を取り、保留を解除した。
「もしもし」
『ああん、直哉ちゃん、淋しかったよ〜』
「い、いきなりなにを言い出すかと思えば。淋しいって、姉さんが戻ってからまだ四日しか経ってないんだよ?」
『四日も経ったの。今のあたしにとっては、一日は十日くらいに感じるんだから。ようするに、四日は四十日に相当するの』
「……なんかすごい理屈」
 直哉は苦笑した。
『帰ってからもね、寝ても覚めても直哉ちゃんのことばかり考えてるんだよ』
「……そんなんでまともに生活できてるの?」
『それは大丈夫。でも、どこまで大丈夫かはわからないけど』
「そんなこと言わないでよ、姉さん」
『時々直哉ちゃんに会えば大丈夫よ。爆発しない程度にね』
「それくらいならいいけど」
『で、さっそくなんだけど、今週の日曜日に行ってもいい?』
「日曜日って──」
『うん、十八日』
「ああ、ごめん、姉さん。その日は先約があるんだ」
『ええーっ、ホント?』
「ごめん、ホントにごめん」
『む〜、仕方ないなぁ。じゃあ、突然押しかけるからね』
「ちょ、ちょっと待った。なんでいきなりそんなことになるかな」
『だってぇ』
「だってじゃないよ」
『別に押しかけるって言ったって、夕方にそっちに行って一晩泊めてもらって、次の日はそっちから出かけるだけだよ』
「……それくらいならいいと思うけど。でも、来るんなら前もって言ってよね」
『わかってるわよ』
 直哉は思わず溜息をついた。
 まさか綾奈がここまでになるとは思っていなかったことも原因だが、甘い自分についての溜息だった。
『ねえ、直哉ちゃん』
「ん?」
『あの日のことは、夢じゃないよね?』
「……もちろんだよ」
『今でも心配なんだ。あれが夢だったんじゃないかって。もしあれが夢だったら、なんか直哉ちゃんとの繋がりが消えちゃうような気がして……』
「心配しすぎだよ。俺の想いはいつまでも変わらないよ」
『うん、そう言ってもらえると安心できる』
 電話を通してだが、綾奈の想いは確実に直哉に伝わってきた。
『直哉ちゃん』
「ん?」
『いくらお姉ちゃんが直哉ちゃんのこと好きだからって、手を出したらダメだよ』
「そ、そんなことあるわけ──」
『ないって言い切れる?』
「うっ……」
『お姉ちゃん、ああ見えてもやる時は結構やるからね。特に直哉ちゃんのことに関しては昔から積極的だったし。だから、直哉ちゃんに釘をさしておこうと思って』
「……たぶん、大丈夫だよ。麗奈姉さんとは年も離れてるし」
『年は関係ないと思うけど』
「と、とにかく、大丈夫だよ」
『そりゃ、直哉ちゃんのことは信じてるけど、姉妹で取り合いなんてイヤだからね』
「…………」
 直哉はなにも言えなかった。
『でも、それを決めるのは直哉ちゃんだからね』
「綾奈姉さん」
『なに?』
「あのさ、麗奈姉さんのことは、あまり言わないでくれないかな?」
『……どうして?』
「……姉さん、なにかいつもと違うんだよね。だから、力になれることは力になりたいんだ」
『……やっぱり、直哉ちゃんは優しいね』
「ごめん……」
『別に謝らなくてもいいよ。お姉ちゃんのことも心配だしね』
「まだどうなるかはわからないけど、もしなるようになったら、穴埋めはするから」
『……無理しなくてもいいよ。今は直哉ちゃんのその心遣いだけで十分だから』
「ホントにごめん……」
『あんまり謝らないで。あたしが悪いみたいだから』
「今度うちに来た時にさ、姉さんのしてほしいことをひとつだけなんでも聞くよ」
『うん』
「じゃあ、綾奈姉さん」
『また電話するからね』
「待ってるよ」
『うん、バイバイ』
 直哉は受話器を戻した。
「終わったの?」
「まあ、ね」
 直哉はそれ以上、なにも言わずにソファに座った。
「直哉ちゃん」
「ん?」
「綾奈になにか言われたの?」
「……別に、なにも言われてないよ。どうして?」
「ううん、それならいいの」
 麗奈はそれ以上なにも言わなかった。
「部屋に戻るから」
 直哉はそう言ってリビングを出た。
「千尋ちゃん」
「はい」
「直哉ちゃん、綾奈となにかあったの?」
「……たぶん」
「そっか……」
 
「なんか自己嫌悪だよな、最近……」
 直哉は部屋でぽつりと呟いた。
「姉さんに菜緒、雅美、かえで先生、瑞穂さん、綾奈姉さんに麗奈姉さん……ひとりに決めないといけないんだよな」
 改めて口にしてみると、そうそうたるメンバーである。
「……でも、俺にとって一番側にいてほしいのは──」
 直哉はそこまで言って、目を閉じた。
「いや、それはもう最初からわかってたことなんだ。それをなんだかんだ言って自分自身認めていなかった。でも、もう潮時だな……」
 そう言って微笑む直哉。
 ベッドから起き上がり、本棚の前に立った。そして、一冊の冊子を取り出した。
「…………」
 それはアルバムだった。
 直哉のアルバムであるから直哉が多く写っているが、次に多く写っているのは菜緒だった。千尋も多いが、学校での写真がない。これは学年が違うことが影響していた。
 どの写真を見ても、たいてい直哉は面白くない顔をしている。一方、菜緒はどの顔も笑顔である。
「菜緒か……」
 無意識のうちにそう呟いていた。
「…………」
 直哉は一枚の写真をアルバムから取り出した。
 机の一番下の引き出しから、久しく使っていなかったフォトスタンドを取り出した。それに写真を入れた。
「……たまにはな」
 それは、直哉と菜緒のツーショット写真だった。
 珍しく直哉は面白くない顔はしていなかったが、笑ってもいなかった。
「俺にとっておまえがたぶん、一番だ。菜緒」
 それが直哉の本音だろう。
 あとは、それを菜緒に伝えるだけなのだが──
 
 四
 朝。
「直哉ちゃん」
「ん?」
「今日、帰ってきたらちょっと時間、いいかな?」
「別にいいけど、なんで?」
「ん、少し話したいことがあるの」
「ふ〜ん」
 麗奈の言葉に、直哉はそれ以上はなにも聞かなかった。
 そして今日も一日がはじまった。
 
「うおっす、菜緒」
「おはよ、直哉」
「今日もいい天気だな」
「うん、そうだね……って、どうしたの、直哉?」
 直哉の言葉に、菜緒は怪訝な表情を見せた。
「なにがだ?」
「いきなりそんな挨拶をするなんて」
「あのなぁ、俺がそういうこと言っちゃならんていう法律でもあるのか?」
「そんなことはないけど。でも、やっぱりいつもと違うよ」
「……まあ、違うってのは認めるけどな」
 直哉は照れくさそうに頭をかいた。
「なにかあったの?」
「まあ、ちょっとした心境の変化ってやつだ」
 直哉はそう言って笑った。
「ほれ、そんなことよりさっさと行くぞ」
「うん」
 幾分納得しきれていない菜緒ではあるが、深くは追求しなかった。
 空は雲ひとつない快晴だった。今日も天気予報でも一日を通して降水確率ゼロパーセントだった。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「今日のお昼も学食?」
「ああ、弁当は持ってきてないからな」
「あのさ、よかったら、私と一緒に食べない?」
「菜緒と? 別に構わないけど、おまえも学食なのか?」
「ううん、お弁当だよ」
「じゃあ、なんでわざわざ?」
「今日ね、お弁当作ってきたの」
「作ってきたって……ひょっとして、俺の分もか?」
「うん」
 菜緒は恥ずかしそうに小さく頷いた。
「菜緒」
「なに?」
「おまえって、いい奴だな」
「えっ……?」
 直哉はしみじみと言った。
「ホントいい奴だよ。おまえみたいな奴が幼なじみで、ホントによかった」
「な、直哉、ホントにどうしたの? いつもならそんなに私のこと褒めないのに。なにか悪いものでも食べた?」
「いや、俺はいたって正常、今日も完璧、絶好調」
 妙にテンションの高い直哉である。
 それから学校に着くまで、直哉はずっとそんな調子だった。菜緒にしてみると、嬉しいようなそうじゃないような、よくわからない複雑な気分だった。
 
 学校での直哉は、いつもと変わらなかった。いつもと同じように適当で、愛想なんか振りまかない。
 しかし、それが菜緒にはよくわからなかった。朝の自分の前でのあの態度はいったいなんだったのか。そればかり気になっていた。
 そんなことばかり考えているうちに、昼休みになった。
「直哉」
「ん、菜緒か。どこで食べる?」
「どこでもいいよ」
「じゃあ、定番スポットへ行くか」
 そう言ってふたりが向かったのは、屋上だった。
「う〜ん、さすがは屋上だ。風がきもちいい」
 屋上を吹き抜けていく風は適度な温度で、とても気持ちよかった。
「では、さっそくご相伴にあずかろうかな」
「はい、これが直哉の分」
「うおっ、でけー……」
 それは思わず直哉が声を上げるくらい大きな弁当箱だった。菜緒のと比べると三倍くらいはあった。
「もし多かったら残してもいいからね」
「いや、せっかくだから全部食べる」
 そう言ってふたを開けた。
「こりゃまた、この前のより俺好みにしてあるな」
「うん。今回は徹底的に追求してみたの。自信作だよ」
 菜緒は笑った。
「どれ、さっそく」
 直哉はとりあえず卵焼きを口に運んだ。
「……どう?」
「おう、相変わらず旨いぞ」
「よかったぁ。いくら自信があってもその言葉を聞くまではね」
「そんなに心配か?」
「まあね。せっかく作ったのに、美味しく食べてもらえなかったら淋しいから」
「ま、おまえの料理なら何度も言ってるけど、よほどのことがない限り食えないなんてことはないから、そんなこと心配するな」
「ありがと、直哉」
 菜緒もそれを聞いて自分の弁当に手をつけた。
「今日は和風ものが多いな」
「直哉、そういうの好きだから。でも、やっぱり煮物は難しいね。特にお弁当に入れる時は味を少し濃くしないといけないから」
「いや、これだけできてれば十分だって。これならどこへ出したって大丈夫だ。今時これだけ煮物ができる高校生なんてそうはいないな。花嫁修業も、少なくとも料理ではいらないし」
「少なくともってところが気になるけど、確かに料理だけは昔から一生懸命やったから」
「なんでおまえはそんなに料理をやるようになったんだ?」
 直哉は里芋の煮っ転がしを口に運びながら訊いた。
「それは、千尋さんに負けたくなかったからだよ」
「姉さんに?」
「うん。千尋さんは昔から料理が得意だったから」
「それは、母さんの影響だ。母さんの実家はそういう家庭だったからな。それを姉さんにまでやっただけだ」
「それも関係あるんだよ」
「どういう意味だ?」
「……これは恥ずかしいから、一回しか言わないからね」
「ああ」
「もし私の想いが通じて直哉と、その、一緒になれた時に、おばさんや千尋さんに負けないため、だよ」
「……一緒って、おまえ」
 それを聞いて直哉まで真っ赤になった。
「だ、だから、一回しか言わないって言ったの」
「二度も聞けるか、そんなこと」
 直哉も菜緒も、恥ずかしさを紛らわすために、食べることに集中した。
「…………」
「…………」
 黙々と食べるふたり。
 しかし、それがいっそう恥ずかしさを助長していた。
「な、なあ、菜緒」
「な、なに?」
「……お茶、あるか?」
「……はい」
 まともに話す機会を探るふたり。
 それから少しして、直哉はあれだけあった弁当を平らげた。
「ふう、さすがにきついな」
「もう、だから残してもいいって言ったのに」
「いや、せっかくおまえが作ったんだから残さず食べないとな」
「もう、バカ……」
 そうは言っている菜緒ではあるが、顔は嬉しそうだった。
「このまま横になったら、確実に午後はさぼりだな」
 暖かな陽差しで食欲も満たされ、これ以上ないくらい昼寝の条件が揃っていた。
「せめてこのくらいは……」
 そう言って直哉は出口を覆っている覆いの壁に寄りかかった。
「背中汚れちゃうよ」
「心配すんな。ここは意外に汚れてないんだ」
「そうなんだ」
「それより菜緒」
「ん?」
「ちょっと」
 直哉は菜緒を手招きした。
「ここに座れ」
「えっ……?」
 直哉が言った『ここ』とは、直哉の目の前で直哉が足を大きく広げた間だった。
「別にこっち向いて座れって言ってるわけじゃない。向こう向いてていいから」
「う、うん」
 菜緒は直哉の言う通りに座った。
「あっ……」
 と、直哉は菜緒を後ろに、つまり自分の方に倒した。ちょうど直哉に寄りかかる形になった。直哉にしてみれば、菜緒を後ろから抱くような形だ。
 胸の少し下のところで手を合わせた。
「……重くない?」
「いや、ちょうどいい重みだ」
「そっか……」
 菜緒はそう言って目を閉じた。
「これが恋人なのかな?」
「えっ……?」
「こういう感じだよ。お互いがお互いを感じて、そして心地良いと思う。そんな感じがだよ」
「そう、かもね。でも、わかんないな、それは。まだ、そういう関係になったことないから」
「そうだな」
 直哉もそう言って目を閉じた。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「このまま授業、さぼっちゃおっか?」
「ん〜、そうしたいのはやまやまだけど、さすがにふたり一緒にさぼるのはマズイだろ」
「そうだね。やっぱりマズイよね」
「なんだ、そんなにさぼりたかったのか?」
「別に授業をさぼりたいんじゃなくて、直哉と一緒にいたいだけ」
「……そうだな。俺もおまえと一緒にいたいよ」
「直哉……?」
 直哉は菜緒を抱いている手に少しだけ力を込めた。
「あっ、そっか。やっとわかった」
「なにがだ?」
「今日の直哉、いつもより丸いんだ。トゲトゲしたところがなくて。それに、いつもより優しいし」
「……かもな」
「えっ……?」
 菜緒もまさか直哉が素直に認めるとは思っていなかったらしい。
「昨日、ちょっといろいろと考えてさ。それで今まで考えていたことのひとつに結論が出たんだ。だからかな、気持ちが軽くなってこんな風におまえに接して」
「そうなんだ。どんなことに結論が出たの?」
「俺の中での一番は誰かってことだ」
「それって──」
「一番イコール恋人ってわけでもないけどな。ただ、単純に一番が誰かわかった」
「……誰だったの?」
「……おまえだよ、菜緒」
「……ホントに?」
「ああ、ホントだ」
「……それって、喜んでいいことなのかな?」
「さあ、俺にはそれはわからない。おまえが嬉しいと思えば素直に喜べばいい」
「うん、嬉しいよ。どんなことでも直哉の中で一番になれて、嬉しいよ」
 菜緒は本当に、心から嬉しそうに微笑んだ。
「でも、直哉の中での一番はずっと千尋さんだと思ってた」
「姉さんは、ある意味では確かにおまえより上だ。だけど、全体で見るとおまえの方が上になってた。そして、それは俺にとって意外でもなんでもなかった。すんなりと受け入れられたし。ようするに、もうだいぶ前からおまえが俺の中で一番だったんだ。俺もそれはわかってた。わかってたけど、あえて無視してた。今考えると、どうして無視したのかさっぱりわからないけどさ」
 直哉はそう言って苦笑した。
「それとな、今度俺の部屋に来た時、少し変わってるところがあるぞ」
「変わってるところ?」
「まあ、それは来てからのお楽しみだけどな」
「ひと目見てわかることなの?」
「おまえならわかるだろうな。隅から隅まで知ってるおまえなら。と言っても、今日はダメだからな。今日は麗奈姉さんに、なにかわからないけどつきあわなきゃいけないから」
「別にすぐじゃなくてもいいよ。でも、直哉の気持ちが変わらないうちには見に行かないとね」
「そう簡単には変わらないさ、今回ばかりは」
「そうなんだ」
 穏やかな風が屋上を吹き抜けていった。
「直哉、キスして……」
「ああ……」
 直哉は菜緒の顔を自分の方に向け、キスをした。
「……ん、あ……」
 それは今までのような簡単なキスではなく、情熱的なお互いを求め合ったキスだった。
「……ん、はあ」
 菜緒は、ほんのりと頬を染め、潤んだ瞳で上目遣いに直哉を見つめた。
 と、チャイムが鳴った。
「げっ、やばい」
「も、もうそんな時間なの」
 直哉も菜緒も慌てて屋上を飛び出していく。
「菜緒」
「なに?」
「続きはまた今度な」
「うん」
 階段を駆け下りながら、直哉も菜緒も笑った。
 
「失礼します」
 放課後。直哉は職員室を訪れていた。
 直哉自身に用があったわけではないが、六時間目の英語教師に呼ばれたために来ただけである。
「先生」
「待ってたわよ、倉澤くん」
 ちなみに、直哉たちのクラスを担当しているふたりの英語教師は、リーダーの方が男でライティングの方が女である。
「じゃあ、そういうことでよろしくね」
「わかりました」
 直哉は一礼して職員室を出ようとした。
 と、ちょうど出口のところで瑞穂に遭遇した。瑞穂も職員室を出るところだった。
「失礼しました」
 とりあえず職員室を出た。
「職員室になにか用でもあったの?」
「たいした用じゃないけどね」
「私に会いに来てくれたのかと思った」
「……職員室でまともに話せるわけないじゃん」
「ふふっ、冗談よ。でも、ウソでもそう言ってくれると嬉しかったんだけどな」
「今度からそうするよ」
 直哉は不自然にならない程度に笑いかけた。
「今日はもう帰るの?」
「学校にいてもすることないし」
「受験生なのに?」
「うっ、それを言われると非常につらいけど。まあでも、まったく勉強してないわけじゃないから」
「そうなんだ」
「そうなんだって、それってまるで俺がまったく勉強してなかったみたいな言い方」
「う〜ん、ちょっとだけね」
「心外だなぁ」
「ごめんね」
「まあ、勉強をはじめたのは、先生に相談してからなんだけどさ」
「じゃあ、少しは私も役に立ったんだ」
「もちろん」
 直哉はさも当然と頷いた。
「じゃあ、私はまだ仕事があるから」
「非常勤なのに大変だね」
「非常勤でも教師には変わりないからね」
「まあね」
「じゃあ、またね」
「さようなら、瑞穂先生」
 直哉は『先生』を強調して言った。
 瑞穂はさわやかな笑みを残して、地歴科準備室へ消えた。
「さてと、俺も帰らないとな」
 直哉はいったん教室に戻り、鞄を持ち、すぐさま昇降口へ。
「今から帰れば……って、なんだおまえら」
 昇降口を出たところで菜緒と雅美が待っていた。
「わざわざ待ってたのか?」
「うん」
「あんまり時間もかかりそうになかったからね」
「ったく、律儀な奴らだ」
「せっかく待っててあげたのに、その言い草はないでしょ?」
「バーカ、これでも感謝の意を込めてるんだぞ」
「素直に表せばいいのに」
「あんまり素直だと直哉じゃなくなっちゃうよ」
「あっ、それもそうか」
「おい、菜緒。そりゃどういう意味だ?」
「あはは、気にしない気にしない。それより早く帰ろ」
 そう言って菜緒はさっさと行ってしまった。
「おい、雅美。おまえもだ」
「さあ、あたしは知らないわよ。菜緒が言ったんだから」
 雅美もそう言って行ってしまった。
「……ホントにあいつらは」
 直哉も溜息をつきつつ追いかけた。
「なんか雲が出てきたわね」
 学校を出た三人は、少し変則の横並びで走っていた。
「明日は雨なんじゃないか。どうせこの時期は変わりやすい天気だし」
「また雨か」
「一週間に一日か二日は雨降ってるね」
「梅雨を目前にしてるからな。ちょっとくらい降らなくてもいいと思うけど」
「そうもならないのよね」
「ま、人間のためだけに降ってるわけじゃないからな」
 当然のことながら、つい忘れがちのことである。
「そういや、雅美はいつなんだ、三者面談?」
「あたしは来週の月曜日」
「もう進路は決めてるのか?」
「おおよそはね」
「ほお、雅美にしては早いな」
「まあ、さすがに将来への布石だからね。だいぶ真面目に考えたわよ」
「で、どこへ行くんだ?」
「福祉関係の学部にしようかなって思ってるの」
「福祉?」
「これからの高齢化社会のために、少しでも役に立てればいいと思ってね」
「……本気でそう言ってるのか?」
「ま、まあ、そこまでご大層なことじゃないけど、それでも役に立ちたいって気持ちは同じよ」
「なるほどな」
 直哉は感心して頷いた。
「直哉くんは決めてないの?」
「もうちょっとだな。面談までにはなんとかするつもりだけど」
「直哉くんは、菜緒と同じ大学を目指してるの?」
「頭が足りないって」
「本気出しても?」
「……どこまでが俺の本気かわからないからな」
 直哉の本気は誰もが認めるところである。ただ、本人にはその自覚が足りない。
「じゃあ、菜緒が勉強を教えないとね」
「私はダメだよ」
「どうして?」
「教えるの下手だから」
「そんなことないと思うけど。でも、直哉くんと同じ大学に行きたいんなら、少しは考えた方がいいんじゃないの?」
「……どうかな」
 煮え切らない菜緒である。
「さてと、あたしはここまでだから」
「じゃあね、雅美」
「すっころぶなよ」
「大丈夫よ。じゃあ、また明日」
「おう」
 そう言って雅美は行った。
 直哉と菜緒もまた走り出す。
「やっぱり、同じ大学に行きたいね」
「……まあな」
「でも、私が志望校を下げたら怒るよね?」
「当たり前だ。大学はそんなことで決めるところじゃない」
「うん、だから変えないよ」
 菜緒は微笑んで言った。
「一緒に行けるようにがんばろうよ。ね、直哉」
「……努力だけはしてみるつもりだけどな」
「ホント?」
「ああ」
「じゃあ、私も応援するから」
「応援もいいけど、俺としては教えてくれる方が助かる」
「私でいいの?」
「姉さんの教え方だと三日と保たないからな」
「そんなに厳しいの?」
「姉さんは人並み以上にできるからな。自分ができることは人もできると思ってるところが若干ある。だから姉さんの勉強法を人に強いると、とんでもないことになる」
「経験者は語る、だね」
「あの時は死ぬかと思った、マジで」
「ちょっと興味あるな、その勉強法」
「おまえなら耐えられるかもしれないけど、できればやめといた方がいい」
「ちょっと考えてみるよ」
「まあ、いいけどさ」
「それより、直哉」
「ん?」
「明日は今までの直哉でお願い」
「どういう意味だ?」
「確かに今日の直哉も私としては嬉しいけど、やっぱり今までの直哉が私にとっての直哉だから」
「まあ、そうまで言うならそうするけど。もう二度とないかもしれないぜ、こんなこと」
 直哉は意地悪く言った。
「大丈夫。直哉はもともと優しいから。改めて優しくなる必要なんかないよ」
「……ったく、わあったよ。明日は元に戻す。今日が最初で最後になるのかな、この俺は」
 直哉はそれでも幾分楽しそうな口ぶりだった。
「あっ、でも」
「ん?」
「せっかくだから、今のうちに甘えちゃおうかな」
「おいおい、いきなりだな」
「だって、最初で最後なんでしょ?」
「まあ、そうかもしれないけど」
「だからだよ」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「ったく、適度にしてくれよ」
「了解しました」
 ふたりは顔を見合わせ笑った。
 
 夕食後。
「直哉ちゃん。いいかな?」
「開いてるよ」
 直哉は珍しく机に向かっていた。
「勉強してたの?」
「まあね。これでも一応は受験生だし。でも、どうせ集中してなかったから」
 そう言って開いていた問題集を閉じた。
「で、俺に話があるんでしょ?」
「ちょっと、散歩に出よっか?」
「散歩? この時間に?」
 時計はすでに八時半をまわっていた。
「まあ、別に構わないけど」
「じゃ、行こう」
 外はすっかり陽が落ち、昼間の暖かさもほとんど残っていなかった。
「静かだね」
「このあたりは完全に住宅街だからね。夜は静かだよ」
 街灯の下、ふたりはゆっくりと並んで歩く。
 どこか目的の場所があるわけではない。ただ足の向くまま気の向くまま。
「今日は風があんまりないからいいけど、この時間になると結構気温が下がってくるからね」
「そこが夏との違いだよね。昼間の気温は結構夏に近いのに」
「だからこそ過ごしやすいんだけどね。夏過ごしにくいのはあの朝晩の暑さだから。昼間暑いのはしょうがないから、せめて朝晩くらい涼しくないと」
「直哉ちゃんは夏は嫌い?」
「嫌いじゃないけど、好きってわけでもない。俺が一番好きなのは、四月から五月にかけての時季と十月から十一月にかけての時季かな。なにをするにしても快適な時季が一番だよ」
「私は夏、好きよ。自分が夏生まれだっていうのもあるけど、真っ青な空に真っ白な雲。照りつける太陽は厳しいけど、でもそれがないと夏って感じがしないし」
「それについては同感だけどね」
「直哉ちゃんは、夏と言ったら海? それとも山?」
「どちらかと言ったら海かな。泳げるのは夏だけだし。山はそれこそ夏じゃなくても登れるからね」
「そっか、直哉ちゃんは海がいいんだ」
 麗奈はなるほどという感じで頷いた。
「あっ、ひょっとして、女の子の水着が目当てだったりして」
「そ、そんなことないよ。でも、完全に否定できない自分が悲しいけど……」
「ふふっ、直哉ちゃんも男の子だもんね」
 そう言って麗奈は直哉に腕を絡めてきた。
「こうしてると、私たちでも恋人同士に見えるのかな?」
「見えるだろうけど、俺が役不足だよ。姉さんはこんなに綺麗で常に人目も引くし。それに比べて俺は単なるそこら辺の高校生だからね」
「そこら辺の単なる高校生が、たくさんの女性の心を魅了するとは思えないけどね」
 麗奈は意地悪くそう言った。
「直哉ちゃん、正直に答えてね。綾奈を抱いたの?」
 麗奈は真剣だった。
「……そうだよ、抱いたよ」
 それに対して直哉は、呟くように答えた。
「やっぱりね。そんな感じはしてたんだ。千尋ちゃんもなんとなく感じてたみたいだし」
 麗奈は淡々とした口調だった。
「別に直哉ちゃんを責めてるわけじゃないんだからね。綾奈を心から愛おしいと思ったから抱いたんでしょ?」
「うん……」
「直哉ちゃんらしいよね、そういうの」
 麗奈は微笑んでいた。どこか少し淋しそうに。
 それからしばらくは、ただ黙って歩いていた。
 少し雲が多く、星明かりは楽しめなかったが、月が明るかった。
 さらにしばらく歩き、公園の前までやって来た。
「この公園て大きいの?」
「この辺じゃ一番大きいよ」
「ちょっと寄っていこ」
 そう言ってふたりは公園に入っていった。
 最近は公園もしっかりと街灯が整備され、歩くのに不自由はしない。それでも家の明かりなどがないために、道路よりは薄暗かった。
「あっ、東屋もあるんだ」
「まあね。これだけ大きい公園だから、ひと通りなんでも揃ってるよ」
「休んで行こうか?」
「そうだね」
 ふたりはもうすでに三十分以上歩いてきた。
 麗奈は直哉に寄り添うように座った。
「……あのさ、麗奈姉さん」
「ん?」
「話って、綾奈姉さんとのことだけなの? 俺にはそうは思えないんだけど」
 直哉の言葉に麗奈はちょっと俯いた。
「姉さん、ちょっと様子がいつもと違ったから」
「……やっぱり、直哉ちゃんにはわかっちゃうね」
 麗奈は自嘲気味に微笑んだ。
「なにかあったの?」
「……私ね、最近自信が持てないの」
「自信? ひょっとして、デザイナーの?」
「うん。まわりの同世代の人たちはどんどん自分のやりたいことをやって、どんどん世の中に出て行く。そりゃ、多少の早い遅いはあるから、今までは気にしてなかったけど。でも最近、このままで自分はいいのかなって思っちゃって。そんな風に考えるとどんどん悪い方向に物事を考えちゃって」
「そうだったんだ。いわゆる壁に突き当たったんだね」
「そうなのかもね」
「その壁を乗り越えられれば、もう姉さんは立派なデザイナーだよ」
「乗り越えられればね」
「姉さん……」
 直哉は麗奈の肩を抱いた。
「確かに姉さんはいつもは自信家じゃないけど、デザインに関しては自分なりに自信を持ってたじゃないか。そのことをもう一度思い出してみればいいよ」
「……デザインに関しては今でも自信があるよ。自信を持てないのは、自分に関して」
「……だったら、自己暗示でもかけたら?」
「自己暗示?」
「自分は誰にも負けないって。どんなことがあっても負けないって」
「……ダメ。自分ではなにもできないの。だから、直哉ちゃん」
 麗奈は真っ直ぐな瞳で直哉を見つめた。
「私に力を貸して。これからがんばれるだけの勇気を私に」
「姉さん……ん……」
 そう言って麗奈は直哉にキスをした。
「お願い……私を抱いて……」
 直哉は小さく頷いた。
 
「ん……」
 もう何度目かのキスを交わす。
「あっ……」
 直哉の手が麗奈の胸に触れた。
 服の上からでもわかるその大きな胸は、とても柔らかく、それでいて弾力があった。
「あ、ん……んん……」
 麗奈は、間断なく押し寄せてくる快感の波に、押し流されないように耐えている。
 直哉はブラウスのボタンを外し、胸をはだけさせた。
「いや……」
 麗奈が恥ずかしげに声を上げた。
 暗がりでもわかるほど麗奈の肌は白く、きめ細やかだった。
「……ん、あっ」
 直哉の手が、胸の敏感なところに触れた。
 そこはもうすでに固くなっており、麗奈が感じていることを示していた。
「や、ん……」
 直哉は、壊れ物を扱うように胸を揉む。
 麗奈は、口元に手を当て、声を抑える。
「あ、ダメ、そんなこと」
 今度は、その突起に舌をはわせた。
「んんっ、やん、あん」
 麗奈は、せつない声を上げる。
「そんなにされると、あぅ、んあっ」
 直哉は、空いている手でもう片方の突起をつまんだ。
「ひゃうっ!」
 一瞬、麗奈の体がのけぞった。
 麗奈は、予想以上に大きく出た自分の声を、必死に抑えようとしている。
「姉さん、心配しなくても大丈夫だよ。この公園は滅多に人が来ないから。だから、もっと姉さんの声を聞かせて」
「直哉ちゃん……」
 直哉はそう言って微笑んだ。
 そして、今度はスカートの中に手を入れた。
「だ、ダメ、そんなとこ、ああっ」
 ロングスカートのためになかなかたどり着けなかったが、ようやくショーツの上から麗奈の秘所に触れた。
「な、直哉ちゃん、恥ずかしいよ……」
「恥ずかしくなんかないよ。俺にもっと姉さんを見せて。そしたら、俺はもっと姉さんを感じさせてあげるから」
「…………」
 麗奈は、意を決してスカートを脱いだ。
 真っ白な綺麗な足が薄暗い中に、妙に映えていた。
「これも脱がせるよ?」
「うん……」
 直哉は一応麗奈に確かめてショーツを脱がせた。
「っ……!」
 麗奈は声にならない声を上げた。
「綺麗だよ、麗奈姉さん。すごく綺麗だ。本当に俺にはもったいないくらい、綺麗だ」
「……そんなこと言わないで。私にとって今は、直哉ちゃんがすべてなんだから。直哉ちゃんにだから恥ずかしいけど見せるんだし、触らせるんだから」
「そうだね、ごめん」
 直哉はそう言って麗奈を優しく抱きしめ、髪を撫でた。
 撫でてもらっている麗奈は、幸せそうな表情で目を閉じていた。
 直哉はもう一度キスをして、麗奈の秘所に直に触れた。
「んんっ」
 そこは多少湿り気を帯びてはいるが、濡れているというほどではなかった。
 直哉はまず、秘唇を指でなぞった。
「あん、ダメ」
 ゆっくりと丁寧になぞる。
 すると、次第に中から蜜があふれてきた。
「んんっ、あっ」
 直哉はそれをすくい、麗奈に見せた。
「姉さん、ちゃんと感じてくれてるね」
「い、いや、意地悪しないで……」
 麗奈は顔を背けるが、それで余計に蜜があふれてきた。
 直哉は頃合いを見て、秘所の中に指を挿れた。
「いっ……んあっ」
 そこは、指一本でも狭いほどだった。
 中からは蜜があふれてはいたが、直哉のモノを受け入れるにはつらそうだった。
「少しでも楽になるようにするよ」
 直哉は指を動かし、中から刺激した。
「んんっ、あんっ、直哉ちゃん」
 ぴっちり閉じていた麗奈の秘所も、少しずつほぐれてくる。
「あふぅ、んんっ」
 麗奈は、次第に力が入らなくなってくる。
 直哉は、麗奈の最も敏感なふくらみを刺激した。
「ああっ!」
 急激に襲った快感に、麗奈は軽く達してしまった。
「姉さん、そろそろいくよ?」
「う、うん……」
 直哉は麗奈の足を開き、自分のモノを秘所にあてがった。
「いっ……くはっ!」
 そして、そのまま一気に腰を落とした。
 一瞬、侵入を拒むものにわずかに押し返されたが、それもすぐに消えた。
「はあ、はあ、はあ……」
 麗奈は涙を浮かべ、荒く息をついている。
「痛かったよね?」
「で、でも、直哉ちゃんとこうしてひとつになれたから……」
「麗奈姉さん……」
「直哉ちゃんを、ちゃんと私の中で感じられるよ」
 麗奈は精一杯の笑顔で答えた。
 その笑顔を見て、直哉は麗奈を少しきつく抱きしめた。
「動くよ?」
「うん……」
 直哉はゆっくり腰を動かした。
「んっ、いっ」
 まだまだ苦痛の色が濃い。それでも麗奈は、必死に直哉に応えようとしていた。
 それは次第に麗奈の中に変化を起こした。
「いっ、あっ、あんっ、んくっ」
 苦痛の色が少しずつ薄れ、それに変わって甘い吐息が漏れてきた。
 それに伴って直哉の動きもスムーズになってくる。
「あっ、あっ、あっ、あっ、んんっ」
 もう完全に苦痛の色は消えていた。
 押し寄せてくる快感の波にも、麗奈は逆らわなかった。
「ああっ、な、直哉ちゃん、な、なんか、変なの」
「それは、姉さんが俺を感じてくれてる証拠だよ」
「私が、んんっ、直哉ちゃんを……?」
「くっ、そうだよ。だから、もっと変になっていいんだよ」
「う、うん」
 直哉も麗奈もむさぼるようにキスをする。
「んんっ、あっ、あっ、んあっ」
 麗奈は、もはやまともに思考できなくなっていた。
「やんっ、ダメっ、な、なにか、来るっ」
「いいんだよ、それで」
「か、体が、飛んじゃうっ、んあっ」
 次第に昇り詰めていくふたり。
「あ、ああっ、も、もうっ」
「お、俺もだよ」
「お願い、私の中に」
 麗奈は、直哉を離さないように抱きしめた。
「んんっ、ああっ、いいっ、あああああっ!」
「くっ……!」
 麗奈の声が、公園に響いた。
 直哉は、そんな麗奈の中に白濁液を放った。
「はあ、はあ、直哉ちゃんのが、私を満たしていく……」
 麗奈は、今そこにある幸せを確かめるように、心から幸せそうに微笑んだ。
 
「綾奈の気持ち、よくわかるなぁ……」
 直哉に抱きしめてもらいながら、麗奈はしみじみと言った。
「でも、これで私たち姉妹は、直哉ちゃんのものね」
「……別に自分のものにしようなんて思ってないよ」
「ふふっ、本当は直哉ちゃんのものにしてほしいんだけどね。でも、そこまで求めるのは贅沢だよね。こうして抱いてもらっただけでも、直哉ちゃんに迷惑がかかるかもしれないのに」
「……それは、姉さんが心配することじゃないよ。もし姉さんを抱いたことでなにかあっても、それはすべて俺自身の責任だからね」
 直哉はそう言って微笑んだ。
「直哉ちゃんは、そうやっていつでも自分ひとりで解決しちゃうんだね」
「……そんなことないよ。でも、自分の問題は自分で解決しないと」
「自分だけの問題じゃなければ?」
「…………」
「そうやって全部抱え込んで。もう少し私たちを頼ってもいいと思うけどね。これでも直哉ちゃんより年上なんだから」
「ありがとう、姉さん」
 直哉は穏やかな笑みを浮かべた。
「私、このまま直哉ちゃんのところに押しかけちゃおうかな」
「ちょ、ちょっと姉さん」
「それとも、このまま直哉ちゃんをさらって、私だけのものにしちゃおうかな」
「俺が殺されるから勘弁して」
「そんなに何人もの女の子に想われてるの?」
「本気で殺しかねないのは、麗奈姉さんを含めて七人だよ」
「うわぁ、競争率高いね。それを聞いたら余計にさらっていきたくなっちゃった」
 麗奈は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「直哉ちゃんは、私にとって最初で最後の男性だね」
「本気で結婚しないつもりなの?」
「本気よ。それにもう私は直哉ちゃんのものなんだから。たとえ直哉ちゃんとは一緒になれないとしても、その想いだけは持ち続けていたいから」
 そう言い切る麗奈の笑顔は、とても清々しかった。
「直哉ちゃんにとっては私はたくさんいる女性の中のひとりかもしれないけど、でも、この想いだけは誰にも、綾奈にも負けないから」
「そんな悲しいこと言わないでよ。俺は姉さんを大勢の中のひとりだなんて思ってない。今はひとりの愛おしい女性としてちゃんと見てる」
「ありがと、直哉ちゃん。でも、みんなにそんなことばかり言ってると、本当に大切な人になにも言えなくなるかもしれないわよ」
「本当に大切な人、か……」
 直哉はそう呟いて溜息をついた。
「今の直哉ちゃんの心を占めてるのは、千尋ちゃん? それとも、菜緒ちゃん?」
「……答えづらいことを聞くね、麗奈姉さん」
「それくらいは聞く権利があると思ってね。明日じゃもう聞けないから」
「えっ、もう帰るの?」
「昨日の綾奈の電話は、そのことだったの。明日、向こうに帰るから」
「そう、なんだ」
「淋しいって思ってくれる?」
「当たり前だよ」
「嬉しい……」
 麗奈は、瞳を潤ませて微笑んだ。
「今度は俺が遊びに行くよ」
「うん、待ってるからね、綾奈とふたりで」
「そ、それはそれでなんか怖い気もするけど」
「ふふっ、姉妹喧嘩になったりして」
「そしたら俺は逃げるよ」
「ダ〜メ。絶対に逃がさないからね」
「ね、姉さん……」
 こういうやりとりをしていると、やはり麗奈の方が一枚も二枚も上手である。
「直哉ちゃん。今日は、本当にありがとう」
「……別にたいしたことはしてないけどね」
「直哉ちゃんからもらった勇気で、明日からもがんばるから」
「そうだね」
「でも、もしまた挫けそうになったら、直哉ちゃん、また勇気をくれる?」
「本当に必要ならね」
「うん」
 麗奈は、穏やかに微笑んだ。
 そんな麗奈を、直哉は優しい眼差しで見つめた。
「大好きだよ、直哉ちゃん」
 ふたりは、最後にもう一度キスを交わした。
 ひとときの夢も、間もなく終わる。
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