いちごなきもち、めろんなきもち
 
第四章「ぶどうなきもち」
 
 一
「ほら、なにを照れてるの?」
「…………」
「もう、直哉」
 雪恵は少し困った顔を見せた。直哉は、そんな雪恵の陰に隠れている。
「ごめんなさいね、菜緒ちゃん。直哉、照れちゃって」
「ううん」
 菜緒はそう言って首を振った。
「ほら、直哉。菜緒ちゃんと遊んでらっしゃい」
 雪恵が見かねて、少し強引に直哉の背を押した。
「あっ……」
 ととっと足を突っかけ、菜緒の前に出た。
「今日はお姉ちゃんはいないんだから、直哉がちゃんと見てなきゃダメよ」
「……うん」
 観念したのか、直哉は頷いた。
「行こう、菜緒」
「うん」
 直哉は菜緒の小さな手を取り、家を出た。
「夕飯までには帰ってくるのよ」
 雪恵はそう言ってふたりを送り出した。
 小学校にも入る前の直哉と菜緒は、まだ背もそれほど変わらない。
「なおくん」
「ん?」
「どこ行くの?」
「……そうだな、今日は秘密基地に行こう」
「ひみつきち?」
 菜緒は小首を傾げた。
「うん。この前ぼくが見つけたんだ。まだ誰にも教えてないんだけど、菜緒には特別に教えてあげる」
「いいの?」
「菜緒だから」
 幼いながら、菜緒はそう言われて嬉しそうに笑った。
「行こう」
「うんっ!」
 しっかりと握られた手。それがふたりの絆を物語っていた。
 そして、それは今も続いていた。
 
「ん……ん〜」
 カーテンの隙間から、朝陽が差し込む部屋の中。直哉は眠そうな目をこすりながら目を覚ました。
「すぅー……すぅー……」
 傍らに目を向けると、まだ菜緒が眠っている。
「……ったく、幸せそうな顔しやがって」
 悪態はついているが、顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「こうしてると、ホントにカワイイよな……」
 聞こえていないことをいいことに、そんなことを言う。
「……俺は、ホントに菜緒が好きなんだな」
 愛おしげに髪を撫でながら、今更ながらそのことを再認識した。
「……ん……う……ん」
 と、菜緒が目を覚ました。
 うっすらとまぶたが開き、寝ぼけ眼で直哉の顔を捉えた。
 まだ回転していない頭を瞬時にフル回転させる。
「……お、おはよ」
 そして、耳まで真っ赤になって蚊の鳴くような声でそう言った。
「おはよう、お姫様」
 直哉は、わざとらしくそう言った。
「……ひょっとして、ずっと私の顔、見てたの……?」
「ああ、可愛かったぜ」
「……も、もう、バカ」
 菜緒は恥ずかしそうに布団をかぶってしまった。
「ははは、なに照れてんだ?」
「だ、だって……」
「まあ、いいけどさ」
 直哉はそう言ってベッドから出た。
 窓際に立ち、カーテンを勢いよく開け放った。
「う〜ん、今日もいい天気だ。学校に行くのがイヤになるくらいいい天気だ」
 直哉は大きく伸びをした。
「菜緒。いつまでそうしてるつもりなんだ? 学校さぼるのか?」
 直哉がそう言うと、菜緒はそろそろと顔を覗かせた。
「……ね、ねえ、直哉」
「ん?」
「私、外泊したんだよね?」
「ん〜、まあ、そうなるのかな。ただ、外泊たって、うちとおまえんちは隣同士だからな、そんな大げさなことじゃないだろ。それに、知らないうちに泊まったわけじゃないんだしさ」
「それはそうだけど……」
「なあ、菜緒」
「なに?」
「後悔してるのか?」
「そ、そんなことないよ。絶対にない」
「なら、あんまり深く考えるな。そりゃ、なんにも考えないで、のほほんとされるのもなんか腹立つけど。とにかく、あんまり考えるな。別に俺たちはやましいことなんかなにもしてないんだからさ」
「……うん、そうだね」
 菜緒は小さく頷いた。
「ほら、菜緒。おまえの服やなんかだ」
 そう言って直哉は、菜緒の服を渡した。どれもこれも綺麗に畳まれていた。
「直哉が畳んでくれたの?」
「いや、違う。たぶん──」
「たぶん?」
「姉さんだ」
「えっ、千尋さん……?」
「俺たちが寝た頃を見計らって、様子を見に来たんだろうな。その時にでも畳んでいったんだろ」
「そっか……」
「そんなことより、そろそろ家の方に戻った方がいいんじゃないか?」
 直哉は時計を指さした。
 時計はすでに六時半をまわっていた。
「あっ、ホントだ。急がなくちゃ」
 菜緒はそう言ってベッドから出ようとした。
「きゃっ」
 しかし、自分の格好を思い出し、また布団をかぶってしまった。
「ったく。気持ちが落ち着きゃ、恥ずかしいのは当然だろ」
「あうぅ〜……」
「別に見て襲ったりしないから、さっさと服を着ろ」
「……それもなんか悲しい気もするけど」
 菜緒は決心してベッドの上で服を着はじめた。
「あ、あんまりじっと見ないでよ」
「はは、悪いな。あんまり菜緒の体が綺麗だから、つい」
「も、もう……」
 菜緒は、そそくさと服を着た。
「これで、今度はいつ菜緒の裸を拝めるのか」
 直哉は心底残念そうに言った。
「……直哉が望めば、いつでもいいよ……」
 菜緒のその言葉は小さかったが、しっかりとした『意志』を持った言葉だった。
「……ったく、そんなこと言ってくれるな」
 直哉は菜緒を抱きしめた。
「今日はまだかろうじて理性が残ってるからいいけど、そうじゃなきゃ、おまえを押し倒してるぞ」
「直哉ならいいよ、なにをされても文句は言わない」
「……バーカ」
 ほんのわずか、菜緒を抱きしめる力を強くした。
「ん……」
 そして、自然とキスを交わした。
「じゃあ、またあとでね」
「ああ」
 菜緒は、名残惜しそうに直哉の部屋を出て行った。
「ふう……俺も着替えないとな」
 直哉は着替えようと制服に手をかけた。
「……よく考えてみると、昨日風呂に入ってないんだよな。しょうがない」
 すぐに直哉は風呂場へ向かった。
 風呂自体に入っている時間はないので、とりあえずシャワーだけにした。
 それからいったん部屋に戻り、今度こそ制服を着る。
 時間のない日はいつもそうしているが、今日はいつにもまして時間がなかった。
 大急ぎで台所に顔を出す。
「おはよう、姉さん」
「おはよ、なおくん」
 千尋はいつもと変わらぬ笑顔で直哉を迎えた。
「もう、することないね」
 確かに朝食の用意はもう完璧に済んでいた。
「ほら、なおくん。早く食べないと、遅刻するよ」
「うん」
 直哉は自分の席に着き、かき込むように朝食を食べた。
「ありがとう、姉さん」
 唐突に直哉は言った。
「別にいいの。ちょっぴり妬けちゃったけど、なおくんも菜緒ちゃんも幸せそうな顔してたから。だから、私もそれを見て幸せになれたから、それでいいの」
「……父さんたちは?」
「お父さんは結局帰ってこなかったし、お母さんはやっぱり午前様」
「そっか」
 それから直哉は、無言で朝食を食べた。
「ごちそうさま」
 食べ終わると時計は七時半になろうとしていた。
 時間はないが、行くには少し早い時間である。
「姉さん」
「ん?」
「俺、本気で菜緒が好きみたいだよ」
「そっか。昨日のことでそれを再認識したの?」
「そうなるのかな。でも、まだわからないこともあるんだ」
「なに?」
「もし俺が菜緒を抱いてしまって、それからも今までと同じように接することができるのかなってこと」
「なおくんなら大丈夫だよ。菜緒ちゃんもそれはわかってると──」
「違うんだよ、姉さん。菜緒のことじゃなくて、姉さんのことだよ」
「えっ……?」
「姉さんと今までと同様に接することができるのかどうか、わからないんだ」
「なおくん……」
 千尋は、一瞬なにかを言いかけた。
「大丈夫よ、なおくん。私たちはなにがあっても姉弟なんだから。それ自体が変わらない限り、絶対大丈夫」
「そうだと、いいけど……」
 珍しく直哉が弱気なことを言った。
「そういうことはね、なおくん。実際にそういう立場に立ってから考えればいいの。ここであれこれ悩んでみても、実際にどうなるかはわからないんだから」
 千尋はそんな直哉を励ますように言葉をかけた。
「ほら、なおくん。そろそろ時間だよ」
「う、うん……」
 直哉は千尋に促されて立ち上がった。
 上着を羽織り、鞄を持つ。玄関で靴を履く。
「今日は、姉さんと一緒にいるから」
「ありがと、なおくん」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい、なおくん」
『いってきます』のキスを交わし、直哉は家を出た。
 車庫から自転車を出し、それを家の前に出す。
「直哉」
 と、声をかけられた。
 振り返ると、菜緒がいつもの笑みを浮かべて直哉を待っていた。
「行くか」
「うん」
 直哉も菜緒も、余計なことはなにも言わない。
 そして、今日もペダルをこぎ、学校へと向かう。さわやかな初夏の風とともに。
 
 昼休み。
 直哉は職員室に顔を出していた。
「先生」
「あら、直哉くん」
 書類を整理していた瑞穂が、嬉しそうに顔を向けた。
「どうしたの?」
「今日の放課後、ちょっと時間いいですか?」
 いつもはタメ口をきいているが、さすがにまわりにほかの先生がいるので、敬語になっていた。
「ええ、もちろんいいわよ」
 瑞穂もそれに笑顔で答えた。
「なんだ、倉澤。桜井先生に相談事か?」
 顔見知りの先生が直哉に声をかける。
「相談なら、俺でも乗るぞ」
「先生に相談すると、解決するものも解決しなくなりますって」
「おっ、言ったな。あんまり生意気なこと言ってると、成績に響くぞ」
「いいんですか? 仮にも教師がそんな脅迫まがいのことを言っても?」
「ぬっ、ま、まあ、それはそれで、たとえというやつだ。よ、ようはだな──」
 直哉に言い負かされ、この教師はそれから五分間も言い訳をした。
 そんなこともあって、直哉が職員室を出た時には、昼休みはもうほとんど残っていなかった。
「直哉くん」
「ん? なんだ、雅美か」
 教室に戻ろうとしたところで、雅美に呼び止められた。
「なんだとはずいぶんな言い方ね」
「いいんだよ、おまえだから」
「ふ〜んだ、どうせあたしは可愛くないですよ〜だ」
「ったく、ガキみたいなこと言うな」
 直哉は呆れ顔で、そのまま歩き出した。
 雅美はその隣を歩く。
「職員室になんの用だったの?」
「別にたいした用じゃない。野暮用だ」
「ふ〜ん……」
「……なんだよ、その顔は?」
「べっつに〜。ただ、直哉くんて、なんでもない時には絶対にそんなこと言わないから。そうやってムキになってる時は、必ずなにかある」
「……断言するな」
「断言もするわよ。これでも直哉くんのこと、ずっと見てきたんだから。それくらいのこと、わかるわ」
 雅美はえっへんと胸を張った。
「あ〜あ、こんなことになるならあんなことするんじゃなかったな」
「なに、今更後悔してるの?」
「そりゃ後悔もするさ。おまえにそんなこと言われても、今までみたいにどつき倒せなくなったし」
「へえ、一応は考えてくれてるんだ、あたしのこと」
「それが生意気なんだ」
 そう言って雅美の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「……別に同情で抱いたわけじゃないからな。俺だってそれ相応に考えもする」
「……まだまだ望みがあるような言い方しないでよ。本気になっちゃうから」
 雅美は淋しそうに微笑んだ。
「直哉くん」
「ん?」
「あたしね、やっぱり直哉くんのこと、あきらめきれない」
「雅美……」
「別に奪い取ろうとは思わないけど、でも、なにもしないのもあたしの性に合わないから、それなりのアピールはするからね」
 直哉は一瞬なにかを言おうとしたがそれを呑み込み、違うことを言った。
「ほどほどにしてくれ。夜道で刺されるのだけは勘弁してほしいからな」
「大丈夫よ。本気で刺したくなったら、夜道でなんかしないから。直哉くんを刺して自分もそのまま、なんてね」
「ったく、一言余計なんだよ」
「……それくらい直哉くんのこと、本気になれるってことだよ」
 そう言った雅美の顔は、真剣だった。
「……ほら、そろそろ昼休みも終わるぞ」
「あっ、待ってよ」
 直哉はそそくさと廊下を歩いていく。雅美はそれを慌てて追いかけた。
 そんな雅美の顔には、満面の笑みがこぼれていた。
 
「直哉」
 授業が終わると、菜緒が声をかけてきた。
「どうした?」
 直哉は教科書やノートを机に放り込んだ。
「一緒に帰ろ」
「ん、ああ、悪いな。ちょっと用があるんだ。だから先に帰っててくれ」
「そっか、用があるんだったらしょうがないね」
「悪いな。明日は一緒に帰ってやるからさ」
「うん。じゃあ、帰るね」
「ああ」
 菜緒は鞄を持って教室を出て行った。
「なんだ直哉。菜緒ちゃんを振ったのか?」
「うるせぇ。しょうがないだろ、用があるのは事実なんだから」
 やって来た秀明に、直哉は悪態をついた。
「菜緒ちゃんを振ってまでの用ってなんなんだ?」
「たいしたことじゃない」
「たいしたことじゃない、なんてことがあるわけないだろ? たいしたことがあるから菜緒ちゃんを振ったんだろうが」
「ったく、おまえは余計なことばかり……」
 直哉は溜息をついた。
「進路相談だよ」
「進路相談? おまえが?」
「……悪いか?」
「ぷっ、あはははははは」
 秀明はいきなり大声で笑い出した。
「笑うな」
 その秀明を、直哉は思いきり殴った。
「いつつつ、くはははは」
 直哉に殴られても笑いは収まらなかった。
「……あとで殺す」
 直哉はそう言って教室を出た。
 教室から職員室へ向かい、そこで瑞穂を捕まえ、そのまま屋上へ。
「悪いね、先生。わざわざ時間をとらせて」
「ううん、気にしないで。それに、生徒の相談に乗ってあげるのも教師の務めだからね」
 瑞穂はそう言って笑った。
 屋上は風が強く、瑞穂の長い髪は押さえていないと激しく流された。
「ふふっ、やっぱり直哉くんは長い髪に弱いのね」
「……ほっとけ」
 瑞穂を注視できない直哉は、ふてくされたようにそっぽを向いた。
「では、さっそく相談を受けましょう」
 瑞穂はわざとらしく、教師然とした口調で言った。
「先生はさ、なんで大学へ行ったわけ? 別になにがなんでも大学へ行かなくてもよかったわけだろ?」
「そうね。みんな口ではそう言うけど、親や先生なんて結局は大学へ行ってもらいたいのよ。いくら学歴社会から脱却しつつあっても、まだまだそういうのは残ってるからね。それに、世間体ってのもあるし」
「それって、親の世間体だろ? 子供には関係ないと思うけど」
「そうでもないのよ。確かに子供の人生だから、それに親が必要以上のことを言うのはおかしいけど。高校を卒業したばかりの子供には、なんにもないからね。就職してもひとり暮らしはなかなか難しいだろうし。大学や専門学校へ行くにしても、たいていは親にお金を出してもらうでしょ? いくらいろんなことを言ってみても、所詮はそんなものなのよ。だから、親の庇護下にあるうちは、親を立てないとね」
「そんなもんなのか」
 直哉は気のない返事をした。
 フェンスに寄りかかり、どこを見るでもなく校庭を見下ろす。
「直哉くんは大学に行くんなら、学部はどこを受けようと思ってるの?」
「つぶしを利かすんなら法学部だろうけど、別に法律なんか勉強したくないし」
「お姉さんはどこに行ってるの?」
「姉さんは文学部だよ、英米文学科」
「英米文か。直哉くんはそういうのに興味はないの?」
「ない」
 即答。
「じゃあ、どこに行くとかいうのは置いといて、直哉くんはなにに興味があるの?」
「興味ねぇ……」
 直哉は腕を組んで唸った。
「これってもんがないんだよなぁ。これまでも適当に生きてきたから」
「なんでもいいのよ。きっかけにさえなれば」
「う〜ん、そうだな。今俺が興味あるのは、人間のこと」
「人間のこと?」
 直哉の答えは、瑞穂が思わず聞き返してしまうような答えだった。
「行動でも考え方でもなんでも」
 直哉はそう言って瑞穂の方を向いた。
「なんで俺がそんなことに興味があるか、先生はわかる?」
「ううん、わからない」
「それは、先生たちが原因だな」
「私、たちが?」
 瑞穂は首を傾げた。
 しかし、瑞穂が首を傾げた理由はふたつある。ひとつは瑞穂自身が原因であるということに対して。もうひとつは、なぜ『たち』なのかということに対して。
「ひとついいかな?」
「なに?」
「私のほかに誰が原因なの?」
「気になる?」
 直哉は意地悪く聞き返した。
「う、うん」
「それは、先生と菜緒、雅美、そして姉さん」
「私と杉村さんに、竹宮さんとお姉さん?」
 瑞穂にはそれがどうやって結びつくのかわからなかった。
「ま、その関係をあまり深くは追求しないでほしいけど。とにかくそんな感じ」
 直哉はそう言って誤魔化した。
 瑞穂はいまいち納得しきれていないようだが、とりあえずそれ以上はなにも言わなかった。
「こう言っちゃなんだけど、俺は姉さんや菜緒の考えてることは、おおよそのことはわかると自負していた。事実、今でもわかる。でも、考えてることと心の奥底に秘めてる想いとは違うんだってことに最近気づかされた。その簡単バージョンが先生や雅美にも当てはまる。だからかな、人間について興味を持つのは」
「…………」
 直哉の言葉に、瑞穂はなんと答えていいかわからなかった。
 瑞穂は考えを巡らせ、直哉に答えようとするが、先に言葉を切ったのは直哉だった。
「そういうのってやっぱ、心理学ってことになるのかな?」
「えっ、あ、うん、そうだね。人間心理学だね」
「心理学かぁ……」
「心理学って言ってもいろいろと種類があるからね。どういう状態の人間の心理を知るか。それによっても教わることも全然違うし」
「先生は一般教養かなんかでやったわけ?」
「一応、概要くらいわね」
「心理学って、面白い?」
「面白いかどうかは人それぞれだと思うけど、一見簡単なようで難しいのは事実よね。現代文のテストなんかにもあるように、これっていう明確な答えがないから。あくまでもこれまでの臨床結果から得たデータを元にして、その上でその人個人の考え方なんかを加味していくわけだから。そういうのが好きな人にとってはたまらなく面白いでしょうけど、普通の人にとっては、その作業はちょっと苦痛かな」
「なるほどね」
 直哉はうんうんと頷いた。
「あっ、でもな、今のことに答えを出したら、そんなこと必要ないのかな。だったら、心理学もパスだな」
 勝手に自己完結させてしまう。
「そういえば、先生はなんで世界史なんか教えてるわけ? 史学科だったの?」
「そうよ。私は昔から歴史が好きだったから、学部と学科はすんなり決められたわ。最近は歴史をやる女の子も増えてるし」
「でも、それってただ漠然と歴史が好きってだけで決めたわけ?」
「まあ、それもあるけど、ほかにやりたいことがなかったっていうのもあるかも。でも、歴史の勉強は好きだったから楽しかったけどね。ただ、好きってだけで決めると、自分の思い描いていたものと違って愕然とすることもあるから、そこだけは注意しないと」
「やっぱ、めんどくさい」
 直哉はそう言ってその場にどっかと腰を下ろした。
「やりたいことがないのに、大学に行く必要なんかないしな」
「それは違うよ。やりたいことを見つけるために大学に行ってもいいんだよ。実際、やりたいことを大学に入る前から見つけてる人なんてそうはいないと思うけど。結局は大学の四年間、短大なら二年間で見つけるんだと思うよ。まあ、中には私みたいに不純な動機から決めてしまう人もいるだろうけどね」
 自嘲する瑞穂。
「でも、直哉くんはまだ時間があるわけだから、もう一度じっくりと考えてみるのもいいかもね」
「じっくり考える、か……」
「とりあえず、自分のことを中心に考えてみて、それから家族のこと、友達のことを含めて考えてみると、それまでとは違った考えが浮かぶかも」
「……結局はそれしかないのかな」
 直哉は盛大に溜息をついた。
「先生、参考になったよ」
「どういたしまして」
「今月中に三者面談があるかもしれないから、その時までに多少は考えておかないとなに言われるかわかったもんじゃない」
「そういえば、三年生の担任の先生たち、忙しそうになんかしてたけど、三者面談のことかぁ」
「なるようにしかならないけどさ」
 直哉はそう言って微笑んだ。
「直哉くん」
 瑞穂は直哉に呼びかけながら隣に座った。
「この前は、ホントにありがとうね」
「……別にたいしたことなんかしてないけど」
「ううん──」
 そっと直哉の方に体を寄せた。
「ありがとうって言葉、百回でも足りないくらいだよ。それくらい私にとっていろんな意味で感謝すべき日だったの」
「…………」
「直哉くんは、私を抱いたこと、後悔してる?」
「いや、それはない。それに、同情から抱いた覚えもないし。あの時はホントに瑞穂さんが愛おしかった」
「過去形か……でも、しょうがないよね。まだまだ直哉くんの中での私の順位は、低いんだから」
「……あんまりそういうこと言わない方がいいよ。俺、そういう言い方、大嫌いだから」
「ごめん……」
「まあでも、今日だけは特別に許してあげるから。俺の相談に乗ってくれたこととチャラだから」
「あっ……」
 直哉は、瑞穂の肩を抱いて胸元に寄せた。
「生徒と教師の禁断の愛。今時、ドラマのネタにもならないね」
「う、うん……」
 瑞穂の胸は、直哉に抱かれているという状況で、急激に心拍数が上がっていた。
「ネタにはならないけど、こんなところを誰かに見られたら、先生は即刻解雇、俺はよくて停学、悪けりゃ退学だな。学校の上の連中やPTAはそういうことに関して過剰な反応を示すから」
 そう言って直哉は笑った。
「直哉くん……」
 瑞穂は直哉の方を向き、目を閉じた。
 そんな瑞穂に、キスをした。
 それはキスだけじゃなく、抱きしめたくなるような、そんなせつなさを与えるキスだった。
「……もうすぐ、私の誕生日が来るの」
「へえ、いつなの?」
「十八日」
「二週間ないじゃん」
「その時に、直哉くんにしかできないことを頼んでもいいかな?」
「……そうだな、別に構わないけど」
「絶対だよ?」
「ああ、わかってるって」
「うん」
 瑞穂はそれを聞き、安心したように微笑んだ。
「じゃあ、そろそろ」
 直哉はそう言って立ち上がった。
 瑞穂に手を差し出し、立ち上がらせる。
「バラバラに下りた方がいいよね」
 別にやましいことをしているわけではないが、噂というものは総じて誇張されて広がる。だから、用心に越したことはない。
「じゃあ、先に行くから」
 直哉は先に行こうとしたが、立ち止まって言った。
「先生、いや、瑞穂さん。もし俺が歴史を志したら、教えてくれる?」
 瑞穂は少しだけ驚き、でも、すぐに笑顔で言った。
「ええ、もちろん」
 直哉はそれだけ確かめると、屋上をあとにした。
 瑞穂には、屋上を去る直前に直哉が微笑んでいるのが見えた、ような気がした。でも、それだけでも幸せな瑞穂であった。
 
 直哉が家に帰ると、誰もいなかった。和哉や雪恵がいないのは当たり前だが、千尋がなにも言わずにいないのは珍しかった。今日は講義はそんなにない日で、早く帰ってくるはずなのだが、まだいなかった。
 直哉はそれを怪訝に思いながらも、それ以上余計なことは考えなかった。これまでにもこういうことは何度かあったから、それは当たり前といえば当たり前なのだが。
「ふう……」
 制服を脱ぎ、ラフな格好に着替えると、ベッドに突っ伏した。
「さすがに休み明けはきつい……」
 そんなことを呟くと、インターホンが鳴った。
 直哉は億劫そうに起き上がると、下に下りた。
「どちらさまですか?」
 内部機で訊ねる。
「さて、誰でしょう?」
「はい……?」
 直哉は思わず間抜けな声を上げていた。
「わからない?」
 インターホンの向こう側では、一生懸命アピールしているつもりなのだろうが、直哉にはさっぱりわからなかった。
「あの、本当にどちらさまですか?」
「もう、ホントにわからないの? だったら、表に出てきてみれば」
 そう言ってプッツリ切れた。
「なんなんだ?」
 直哉は訳がわからなかったが、それでも悪い印象は受けなかったので、とりあえず言う通りにしてみることにした。
 直哉が玄関を開けるとそこには──
「ああーっ、綾奈姉さん」
「やっほー、直哉ちゃん」
 ジーパンにティシャツ、その上に黒のワイシャツを羽織った女性がいた。
「あっ、姉さんも」
 その後ろには千尋がいた。
「ま、とりあえず中に入りましょ」
「あ、ああ」
 直哉はなにがなんだからわからないまま玄関を戻り、リビングに。
「で、どういうことなの?」
 直哉は、今自分の目の前に座っている人物に訊ねた。
「それはね──」
 先に千尋が説明しようとしたが、できなかった。
「あたしが今日来ることを、ちーちゃんに黙っててもらったの」
 そう言う目の前の女性は、南綾奈。直哉たちの従姉で、千尋のひとつ上、大学三年である。
 セミロングの髪をシャギーにし、これまた正真正銘の美人だった。
「なんでわざわざ秘密なんかに?」
「それは、直哉ちゃんをびっくりさせるため」
「……それだけ?」
「うん、それだけ」
 あっけらかんと言う綾奈に、直哉は思わずソファからずり落ちそうになった。
「どうしたの、疲れた顔して?」
「……綾奈姉さんの言葉を聞いたから疲れたの」
「あら〜、大変。看てあげるわ」
 綾奈はそう言うなり直哉の側に寄り、直哉の言葉が途切れるほど強く抱きしめた。
「ちょ、ちょっとまっ──」
「ん〜、やっぱり直哉ちゃんて抱きしめ甲斐がある」
 綾奈は嬉しそうにそんなことを言う。
 しかし、抱きしめられてる直哉は、それどころではなかった。
「んーっ!」
「あ、あやちゃん。ちょっと力入れすぎ。なおくんが……」
 真っ赤な顔でもがき苦しむ直哉を、さすがに千尋が止めに入った。
「あっ、ごっめんね〜、直哉ちゃん」
「ふう、ふう、し、死ぬかと思った……」
 直哉が顔を真っ赤にしているのは、別に恥ずかしかったからではなく、単に息ができなかったからである。
「まったく、相変わらず綾奈姉さんは加減てものを知らないんだから」
 直哉はジト目で綾奈を見た。
 しかし、綾奈はそれにまったく動じない。
「う〜ん、やっぱり直哉ちゃんがカワイイから、つい抱きしめたくなるのよ。だから許してね」
 そう言ってウインクした。
「それにしても、今日はひとりで来たわけ?」
「そうよ。それとも、麗奈お姉ちゃんを連れてきた方がよかった?」
「べ、別にそんなことないけど……」
 麗奈とは、綾奈の姉、南麗奈のことである。
 麗奈は大学を出ておらず、デザイナーの専門学校を出ている。そして現在は、デザイナーとして活躍の場を模索中である。
 麗奈と綾奈は性格は正反対で、麗奈はおしとやかで綾奈は快活、麗奈は温厚で綾奈はちょっと喧嘩っ早い。
 ただ、姉妹ということで似ているところも多いが。
 直哉はどちらかというと綾奈が苦手で、麗奈の方が歓迎できる相手だった。
 それを知っていて綾奈はあえて訊いたのだ。
「で、なにしにわざわざうちに来たの?」
「んもう、つれない言い方ね。せっかく電車で二時間もかけてカワイイ直哉ちゃんに会いに来たのに」
「……で、なにしに来たの?」
「わかったわよ。ちゃんと説明するから、そんな顔しないの」
 そう言って綾奈は、直哉の頬を撫でた。
「今日来たのは、あたしの部屋がしばらく使えなくなるから、ここに置いてもらおうと思って来たの」
「はあ? なんで姉さんの部屋が使えなくなるわけ?」
「リフォームよ。最近傷みが目立ってきたから、本格的にリフォームすることになったのよ。で、あたしの部屋のリフォームをするに当たって、あたしは邪魔だから、ここに来たの」
「でも、余ってる部屋ならあったはずだけど」
「そこにはあたしの部屋の荷物があるからダメ」
「で、でも……」
 なおも食い下がろうとする直哉。
「なぁに、直哉ちゃんはあたしが来ない方がよかったって言うの?」
「そ、そそそ、そんなことはない。うん、絶対にない」
「だったら、問題なし、ノープロブレムよ」
 直哉は千尋に助けを求めたが、千尋も綾奈のパワーの前にはまったく太刀打ちできなかった。
「さてと、ちーちゃん。お夕飯の準備するんでしょ?」
「えっ、あ、うん」
「今日はあたしも手伝うから。直哉ちゃん、楽しみに待っててね」
 綾奈は千尋の背を押して、台所へ消えた。
 綾奈のいなくなったリビングは嵐が過ぎ去ったかのように、シンと静まりかえっていた。
 
「はう〜……」
 夕食後、部屋に戻った直哉はいきなりベッドに倒れ込んだ。
「やっぱ、綾奈姉さんは苦手だ……」
 直哉は夕食のことを思い出し、また溜息をついた。
 夕食は賑やかだった。綾奈ひとりが加わっただけで、おそらく普段の三倍は賑やかだった。話をしていたのはほとんどが綾奈で、直哉と千尋はそれに適当に相づちを打っていただけである。それでも時折振られる話題の答えにはだいぶ言葉を選び、慎重に答えていた。まあ、そのほとんどのターゲットは直哉だったが。
「直哉ちゃん。ちょっといい?」
「あっ、いいよ」
 そこへ、綾奈がやって来た。
 綾奈に声をかけ、とりあえずベッドの上に起き上がった。
 綾奈は部屋に入るなり、ぐるっと見回し、ニコッと笑った。
「エッチな本とかは、例の場所に隠してあるの?」
「なっ……」
「あれ、知らないとでも思ったの? あたしだけじゃなくて、ちーちゃんも知ってるわよ。直哉ちゃんの考えそうなことくらい、お見通しだもの」
「…………」
 直哉はなにも言えなかった。まあ、なにか言えば百倍になって返ってくるだけなのだが。
「なにしに来たの?」
「なにしにって、直哉ちゃんとスキンシップを図るためよ。それっ」
「おわっ!」
 綾奈がいきなり直哉を押し倒した。
「ちょ、ちょっと、姉さん……」
「ふふっ、やっぱり直哉ちゃんはカワイイわ。食べちゃいたいくらいにね」
 そう言って直哉の頬にキスをした。
「いとこ同士って、結婚できるんだよ」
「いっ! ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ったっ!」
 直哉は一瞬身の危険を感じ、慌てて離れようとした。
「ダ〜メ。離さないんだから」
 しかし、綾奈にがっちりと抱きしめられ、動けなかった。
 綾奈は高校まで水泳部に所属していたため、力もそれなりに強かった。
「直哉ちゃんは、あたしのこと、嫌いなの?」
 綾奈は、上目遣いでそんなことを訊く。
「き、嫌いなわけ、ないよ」
「じゃあ、なんでそんなにあたしのことを、邪険に扱うわけ?」
「べ、別に邪険に扱ってなんかいないよ。ただ、綾奈姉さんだと遠慮なくなんでもできるっていうか、ちょっとくらいきつくしても大丈夫っていうか……」
「ふ〜ん、そんな風にあたしのこと見てたんだ」
 一瞬、綾奈の目が光った。
「直哉ちゃん」
「な、なに?」
「一緒にお風呂、入ろっか?」
「は……?」
「入ろ」
 綾奈の必殺技とも言える、おねだり方法。自分の容姿を最大限に活用し、相手の心を揺さぶるような目線、表情、声で落とす。
 直哉も、これに何度もやられていた。
「……どうしても?」
「そ、どうしても」
「…………」
「ちっちゃい頃はよく一緒に入ってたでしょ?」
「そりゃ、あの頃は……」
「別にお風呂の中で襲ったりなんかしないから」
「でも、姉さんだっているんだよ」
「ちーちゃんなら大丈夫。あたしがあとでちゃんと説明しておくから」
「……説明するんじゃなくて、説き伏せ、無理矢理納得させる、の間違いでしょ」
「なんか言った?」
「い〜え、なんにも」
「ね、いいでしょ?」
 こういう姿を見ていると、どちらが年上かわからない。
「ああ、もう、わかったから。今日は綾奈姉さんの言うことを聞くから」
「ホントっ!」
「げっ……」
 直哉は自分が今口走ったことが信じられなかった。しかし、今更そんことを考えてみても、後の祭りである。
「ホントに言うこと聞いてくれるの?」
「うっ、いや、それは、言葉の文というか、なんというか……」
「男に二言はない」
「は、はいっ!」
「ふふっ、よろしい」
 綾奈はもうすっかり上機嫌だった。
 一方、直哉はげんなり。とはいえ、全部自分の責任なのだが。
 
 直哉は恨んでいた。どうしてうちの浴槽はこんなに大きいのかと。大人でもちょっと我慢すればふたり入れる。そんな大きな浴槽に。
「ふう、やっぱり一日の疲れを取るためには、お風呂が一番よね」
 綾奈は呑気にそんなことを言う。
「直哉ちゃん。なんでこっち見ないの?」
 直哉は、そんな綾奈に背を向ける格好で入っていた。
「いっ!」
 と、直哉の背中にふたつの柔らかな感触が。
「そんなにあたしって魅力ない?」
「そ、そそそ、そんなことない」
「じゃあ、見て」
「おごわっ!」
 直哉は無理矢理首を曲げられ、声を上げた。
 当然のことながら、綾奈はなにも身につけていない。水泳をやっていただけあって、無駄な肉はいっさいついていない。だからと言って、筋肉質というわけでもない。均整のとれた完璧なプロポーションだった。
「どう?」
「き、綺麗だよ」
 直哉は、そう言って俯いた。股間を押さえながら。
「あっ、直哉ちゃん……」
 綾奈もそれに気づき、ほんのりと頬を染めた。
「しょ、しょうがないんだよ、これは。生理現象なんだから」
 必死に弁明する直哉。
「ううん、嬉しいの。あたしを見てそんなになってくれたことが」
 そう言って綾奈はそっと直哉を抱きしめた。
「綾奈姉さん……」
 直哉の理性は吹っ飛ぶ寸前だった。
「……抱いても、いいよ」
 しかし、逆に綾奈のその言葉で直哉は冷静さを取り戻した。
「姉さんの気持ちは嬉しいけど、発情した犬や猫みたいに、どこでも誰でもなんてことはできないよ。それに、姉さんとはこれからも今みたいな関係でいたいから。もし姉さんを抱いてしまうと、もうこれまでの関係ではいられなくなるような気がするんだ。だから……」
「……本心でそう言ってる? ちーちゃんやお隣の菜緒ちゃんに気を遣ってそう言ってるだけじゃない?」
「そう思われても仕方ないけど、本心だって信じてほしい」
「……冗談よ。あたしが直哉ちゃんのこと、疑うわけないでしょ」
「ありがとう、姉さん」
「直哉ちゃんは優しすぎるのよ。人のことばっかり考えて。それも、相手を傷つけないような方向で。でもね、時にはそうじゃないことを求めたいのよ。傷つけられてもいいっていうことが、あるのよ」
 綾奈は、そっと直哉に口づけした。
「今日はこれだけで我慢するね。でも、あたしを抱きたくなったら、いつでも言ってね。直哉ちゃんにだったら、いつでもオーケーだから」
 おちゃらけた言い方ではあるが、その想いは真剣だった。
「ほら、直哉ちゃん。背中洗ってあげる」
「うん」
 だから直哉も、少なくとも今日だけは素直に綾奈の言うことを聞こうと思った。
 
「姉さん。今日はごめん」
「別になおくんが謝ることじゃないわよ」
「せっかく姉さんと一緒にいようと思ったのに」
「今日、あやちゃんが来ることは知ってたから、どっちみちダメだったよ」
 そう言って千尋は微笑んだ。
「なおくんはあやちゃんのこと、好き?」
「えっ、好きだよ。ちょっと言動についていけないとこもあるけど」
「あやちゃんもなおくんのこと、大好きだからね」
「それはわかってるよ。昔から相当可愛がってもらったから」
 相当というところが妙に強調されていた。
「単につきあうだけなら、麗奈姉さんより綾奈姉さんの方がつきあいやすいし」
「麗奈さんだって、なおくんのこと好きなんだよ。それをあまり表に出さないだけで」
「それもわかってる。だから南家に行った時はできるだけ麗奈姉さんと一緒にいるんだよ。綾奈姉さんはなにもしなくたって向こうからやってくるからね」
「ふふっ、そうだね」
「……でも、その好きってことはどういう好きなのかは、いまいちわからないことがあるんだ」
「なおくん?」
「さっき、綾奈姉さんに抱いてもいいって言われた。そりゃ綾奈姉さんは綺麗だし憧れではあるけど、俺の中ではやっぱり『姉さん』だから」
「……あやちゃんも私と同じよ。ううん、あやちゃんだけじゃない。麗奈さんだってそうかもしれない。みんな、本気なのよ」
「…………」
 直哉はそれにはなんと答えていいのかわからなかった。
「あっ、そうだ。あやちゃんの部屋が終わったら麗奈さんの部屋をやるから、今度は麗奈さんがうちに来るかもしれないって」
「麗奈姉さんも来るの?」
「わからないけど、可能性はあるってあやちゃんが言ってた」
「そっか。じゃあ、しばらく姉さんといられないかもしれないね」
「うん、そうだね……」
 直哉は千尋を抱きしめた。
「でも、これくらいはいいよね?」
「うん」
 そしてキスをした。
 直哉は今はただ、こうして千尋を腕の中に感じていられることが、幸せだった。
 しかし同時に、このささやかな幸せな時間も長くは続かないことも知っていた。
 
 二
「なにくたばってんだ?」
「……うるせぇ」
 ここは教室。直哉は自分の机に突っ伏していた。
「いろいろ大変なんだよ」
「なにが大変なんだ?」
 秀明は直哉の前の席に座った。
「精神的にも体力的にも」
「はあ? なんなんだそれ?」
「おまえにゃ関係ない」
 直哉はそう言って立ち上がり、教室を出た。
「おい、直哉」
 後ろで秀明が呼び止めたが、無視した。
 階段を下り、向かった先は、保健室だった。
「ちわ〜」
「あら、出前持ちの直哉くん。どうしたの?」
 かえでは、保健委員とおぼしき数人の生徒と備品の整理を行っていた。
「……あっ、倉澤先輩だ」
「……ホントだ」
「……いつ見てもカッコイイよね」
 ひそひそと保健委員が、直哉のことを話している。聞こえてはいるのだが、あえて無視した。
「ちょっとベッドを借りてもいいですか?」
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「少し疲れ気味なんですよ。どうせ次の時間は自習ですから」
「まあ、そういうことならしょうがないわね。いいわよ、使って」
「ありがとうございます」
 直哉は軽く頭を下げて奥のベッドに向かった。
「……倉澤先輩、疲れてるんだって」
「……先輩、スポーツ万能だし、成績もいいから、きっとそのせいよ」
「……意外に違ったりして」
「……どういうこと?」
「……人間関係に疲れてたりして」
「……ええーっ、どうかなそれ」
「ほらほら、無駄口叩いてる暇があったら、手を動かしなさい」
「はーい」
 直哉は苦笑してベッドに横になった。
 程なくして保健委員が仕事を終え、戻っていった。
 保健室に直哉とかえでだけになると、かえでは椅子をベッド脇に持ってきて座った。
「直哉くん。大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。そんなに柔な体はしてませんから」
「そう? それならいいんだけど」
「ちょっと家でゆっくりできなくて。それで疲れてるんです」
「なにかあったの?」
「なにかあったわけじゃないんですけど、騒動の元が来てるんです」
「騒動の元?」
 かえでは首を傾げた。
「今、従姉が来てるんですよ。俺よりも三つ年上の女の従姉が」
「その従姉が騒動の元なの?」
「ええ。さすがに四六時中一緒にいたんじゃ、全然落ち着けませんよ。しかも従姉と言っても年上ですから、下手なことも言えないし。精神的にも体力的にもかなりきついですよ」
「直哉くんをそこまで追い込むなんて、すごいわね」
「それ、いったいどういう感心の仕方なんですか?」
「女性を簡単に手玉に取る直哉くんが、簡単に手玉に取られるんですもの、すごいことよ」
「別に手玉になんか……」
 直哉は反論しようと思ったが、必要以上のことを突っ込まれそうだったのでやめた。
「ただ、苦手なんですよ。従姉ですけどお互いになんでもわかってて、なんでも見透かされてるみたいで。そういうことをネタにいろいろと迫ってくるから、なおのこと手がつけられなくて」
「直哉くんにも苦手な人がいたんだ」
「そりゃいますよ。どちらかといえば、年上に多いですけど」
「じゃあ、私もそうなるの?」
「えっ、せ、先生の場合は苦手っていうか、なんていうか……」
「うんうん」
「つかみどころがないっていう感じです。先生は俺なんかより一枚も二枚も上手ですからね」
「それって、私が直哉くんのまわりの女性より、年を取ってるってことかしら?」
 かえでの表情が一瞬固まった。
「そ、そんなことはないですよ。それは単なる感覚ですから。実際の感情とは違いますから」
 直哉は慌てて弁解した。
「そう」
 するとかえでは立ち上がってドアの鍵を閉め、ベッドの仕切りのカーテンを閉めた。
「せ、先生、な、なにをするんですか?」
「直哉くんの気持ちを確かめるの」
 そう言って妖しく微笑んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください、先生」
「ダ〜メ」
 逃げようとする直哉を捕まえ、ベルトに手をかけた。
 慣れた手つきでベルトを外し、ズボンを下ろし、トランクスの中から直哉のモノを取り出した。
「ふふっ」
「せ、先生」
 さらに逃げようとしたが、時すでに遅し。直哉のモノはかえでに握られ、口に含まれてしまった。
「ん……む……」
「うっ、だ、ダメですよ、先生……」
 抵抗しようとするが、体に力が入らない。
「もうこんなに大きくなって……」
 かえでは直哉のモノを見つめ、うっとりとそう言った。
「もっともっと気持ちよくしてあげる」
 今度は裏側からエラに沿って舐める。
「そ、そんなにされると……」
 あまりの快感に直哉はたちまち射精感に襲われた。
「出したくなったら我慢しないでいいのよ」
 先っぽにちゅっちゅっと口をつけ、吸い上げるように舐め上げる。
「ん、は、む……」
 直哉のモノが、かえでの唾液で光っている。
 かえでは、本当に愛おしそうに、だが妖艶に舐め続ける。
「くっ……」
 直哉はそれでも必死に耐えた。さすがに学校で、しかも先生にということで。
 しかし、テクニックではかえでの方が上だった。
「せ、先生っ!」
「っ!」
 直哉は、大量の白濁液をかえでの口内に放った。
「ん……」
 かえでは、それを少しずつ飲み下した。
「ふふっ、全部飲んじゃった」
「ん、はあ……」
 直哉は、力なくベッドに倒れ込んだ。
「ど、どうしてこんなことをするんですか?」
「それは、私が直哉くんのことが好きだから。そして、直哉くんは頼まれたらイヤとは言えないから」
「それにつけ込んでするんですか?」
「本当にイヤならいいのよ。私だって強姦はしたくないし」
「……勝手ですよ、かえで先生は。俺が先生に憧れてることも知ってるはずなのに」
「でも、それはあくまでも生徒と教師という関係ででしょ? それに、直哉くんならこうでもしないと私を絶対に抱いてくれないから。だから少し強引にしたの」
 そう言ってかえでは白衣を脱いだ。
「私ね、本当に直哉くんのこと好きなのよ。これは冗談じゃないわよ」
「…………」
「それに直哉くん、自分のことばかりさっきから言ってるでしょ? そりゃ確かに直哉くんが私のことをどんな目で見ていたかはわかってるわよ。なんとも思ってないのに、足繁くこんなところへ来ないからね」
「それは……」
「だけど、じゃあ直哉くんは、私の想いに気づいていたの? 会う度に、話をする度に、どんどん直哉くんに惹かれていって。気づいたら好きになっていた。生徒と教師なんて関係なくね。だってそうでしょ? 好きになるのに、理屈なんて必要ないんだから」
 いつの間にか、かえでの言葉に直哉は引き込まれていた。それだけかえでは真剣だった。
「私、直哉くんはかなり特別扱いしてるんだけど、それにも気づいてないでしょ?」
「……そうなんですか?」
「ここで私からお茶を淹れてもらえる生徒は、この桜林高校広しと言えども、直哉くんくらいよ。もちろん、相談に来てくれる子にはお茶は出すけど。それ以外だと、本当に直哉くんだけ」
「…………」
「普通そこまですれば、私が直哉くんのこと、どんな風に見てたかなんて、わかるはずだと思うんだけど」
「……すみません」
 直哉も特別鈍いわけではないのだが、相手が相手なために、さすがに気づかなかった。
「それに、以前私が直哉くんのことを好きだって言った時も、半信半疑だったでしょ?」
「それは……そうですね」
「それって結局、私が教師だから、でしょ。それに、直哉くんよりずっと年上だし。だから、私が本気でそんなことを言うなんて、思いも寄らなかった。違う?」
「……いえ、その通りです」
 直哉は、素直に頷いた。
「だからね、少し強引だけど、こんなことをしたの」
「でも、先生……」
「フェラだって、本当にイヤなら私を蹴ってでも逃げられたはずなのに、それをしなかった。それって、心のどこかで私を受け入れてくれたからでしょ? さっきも言ったけど、私は強姦なんてしたくないから。やっぱり、両者合意の上でないと、意味ないから」
 そう言って微笑んだ。
「もう一度言うわ。私、直哉くんのことが好きなの。だから、ずっとこうしたいって思ってた。あとは、直哉くんの答えだけ」
「…………」
 直哉は、少し俯き、それから言った。
「俺は、ここに入ってからずっと先生に憧れていました。綺麗で優しく、なんでもできて、男女問わずに人気があって。俺も男ですから、先生とこういうことをしたいとも思っていました」
「じゃあ──」
「でも、違うんです。したいとは思ってましたけど、違うんです。やっぱりそれも、憧れで手の届かない場所にあることだったんです」
「…………」
「だから、今こうして手を伸ばせばそれができてしまうことに、戸惑っています」
「結局、どうしたいの?」
 さすがに少し焦れ、かえでは答えを求めた。
「先生が俺のことを好きだっていうのは十分わかりました。俺も、先生のことは好きです。だから──」
「あっ……」
 直哉は、かえでを抱きしめた。
「先生の望むようにしてください」
 そう言ってキスをした。
「……ありがとう、直哉くん」
 かえでは嬉しそうに微笑んだ。
 もう一度キスを交わし、ブラウスのボタンを外し、自分の胸をはだけさせた。
 かなり大きな胸が、直哉の前にあらわになった。
「触れてみて」
「はい」
 直哉は、その胸に触れた。
「ん……」
 手のひらに収まりきらない胸を、優しく揉む。
「もう少し、強くても大丈夫よ」
 言いながら、スカートを脱ぎ、ストッキングも脱ぐ。
「あん、ん、直哉くん、上手ね」
 かえでは快感にもだえながら、微笑んだ。
「直哉くんのを舐めて、それに胸を触られて、私ももうこんなになっちゃった」
 そう言ってじっとりと濡れたショーツを脱いだ。
「先生……」
「いいのよ、触っても」
 直哉は、ふらふらとかえでの秘所に触れた。
「んあっ」
 同時に、かえでは電気が走ったように体をのけぞらせた。
「だ、大丈夫よ。思っていたよりも気持ちよかっただけだから」
 それを確認し、直哉は少しだけ指を挿れた。
「や、んんっ、あんっ」
 湿った音が響くくらい、かえでの秘所は濡れていた。
「ね、ねえ、直哉くん。もう、いいかな?」
「はい……」
 直哉のモノも、また大きくなっていた。
 かえではそれにそっと触れ、自分の秘所にあてがった。
「あ、んん……」
 そしてそのまま腰を落とした。
「ああ、直哉くんが私の中に入ってる」
 かえでの中は、やはりかなり濡れていた。締め付け具合もよく、気を抜くとすぐにでも出してしまいそうなほどだった。
「直哉くんも動いて」
 かえでは腰を上下させる。
 直哉もそれにあわせて腰を突き上げる。
「あうっ、いいのっ、おくに、奥に当たるのっ!」
 かえでは、いやいやするように快感に打ち震えている。
「もっとっ、もっと、私にっ」
 少しずつ動きが大きく速くなる。
「やっ、ダメっ、こんなのっ、すごいっ」
「せ、先生っ」
「直哉くんっ、私っ、もうっ」
 直哉もかえでも止まれなかった。
「あんっ、あっ、あっ、あっ」
「先生っ」
「直哉くんっ」
 お互いに抱きしめ、次第に上り詰めていく。
「んあっ」
「んっ、先生」
「中に、ちょうだいっ、中にっ」
 そして──
「んんっ、直哉くんっ、ああああああっ!」
「くっ……!」
 直哉は二回目とは思えない量を、かえでの中に放った。
「はあ、はあ……」
「はあ、はあ……」
 かえでは直哉の上に重なるように倒れ込んだ。
「直哉くん……」
「先生……」
 キスを交わす。
 モノを抜くと、白濁液がわずかにあふれてきた。
「……先生」
「ん?」
「先生の想いは十分理解してますし、俺も認めますけど。でも、もう最初で最後にしてください」
「……それは、直哉くん次第ね」
「俺次第、ですか……?」
「そうよ。いつまで経ってもうじうじとしてたら、また私の体がうずいて直哉くんを求めるわよ」
 それは言い方は悪いが、かえでなりに直哉のことを心配した物言いだった。優しく言うだけが愛情ではない。
「いいわね?」
「……わかりました」
「ふふっ、よろしい」
 そう言ってかえでは微笑んだ。
「ああ、今日はもうこのまま直哉くんとこうしていたいな」
「……それはさすがに無理ですよ」
「わかってるわよ。でも、このまま直哉くんをさらってしまえば、それも可能よ」
「そんなことされたら、俺が殺されますって」
「直哉くんが死んだら私もあとを追うわ」
「……冗談はよしてください」
「冗談じゃないわよ。それくらい直哉くんに本気だってこと。わかってるでしょ?」
 にっこり微笑んだ。
 それから後始末し、服を着るといつものかえでに戻った。
「直哉くん」
「はい」
「素敵だったわよ」
 かえではそう言ってカーテンを引いた。
 視界の中だけではひとりきりになった直哉。かえでのことを考えようと思ったが、とりあえずは休むことに専念しようと思った。
 少なくとも、今はそれが最善だと思って。
 
 放課後。
「なあ、菜緒」
「ん、どうしたの、直哉?」
「ちょっと時間いいか?」
「うん、構わないけど」
「じゃあ、ちょっと来てくれ」
 授業とホームルームが終わり、直哉は菜緒を教室から連れ出した。
「どこ行くの?」
「屋上」
 直哉たちは屋上に上がってきた。
「今日はちょっと気温が高めだから、ここはちょうどいいな」
 屋上に出るなり、直哉はそう言った。
「菜緒。膝枕、してくれるか?」
「えっ?」
「ダメか?」
「……ううん、いいよ」
 そう言って菜緒は座り、膝を揃えた。
「悪いな」
 直哉は、その菜緒の膝に頭を乗せた。
「やっぱ、癖になるわ、これ」
 直哉の表情は安心しきった落ち着いた表情だった。
「…………」
 菜緒は穏やかな表情で直哉の髪を撫でている。
 少し雲が多いが、よく晴れている。本当にいい天気である。
 風は弱めで、とても心地良い。
「直哉」
「ん?」
「ちょっと疲れてる?」
「ん、まあな。今、綾奈姉さんが来てるんだ」
「えっ、綾奈さんが来てるの?」
「ああ。綾奈姉さんは俺を『おもちゃ』にするからな。だからちょっと疲れ気味だ」
「そうなんだ。だから膝枕してくれなんて言ったんだね」
「こうしてると、ホントに落ち着くからな。それに、菜緒を身近に感じることもできる」
 そう言って菜緒の太股に触れた。
「きゃっ、な、直哉。ダメだって」
「わかってるよ。おまえは敏感だからな」
「も、もう……」
 菜緒は真っ赤になって直哉を叩く真似をした。
「ところで、菜緒ってさ、モテるよな?」
「ど、どうしたの、突然?」
「いや、菜緒はこれだけ容姿が整ってて、成績もいいしスポーツだってなんでもできる、性格だって悪くない。モテないはずないよな」
「……私は別にモテなくったっていいよ。たったひとりの人にさえ、見てもらえれば」
「…………」
「…………」
「……ていっ」
「痛っ」
 直哉は恥ずかしさに耐えきれず、菜緒にデコピンをした。
「告白されたことだってあるんだろ?」
「そりゃ、一応は。でも、全部断ったから」
「だろうな。だから一部の男の間で『絶対に落とせない女』なんて呼ばれるんだ」
「そ、そんな風に呼ばれてるの?」
「ああ、一部の連中にだがな」
「……でも、直哉だって告白されるでしょ?」
「まあな。ただ、俺の場合はよく知らない子に告白されても、どうもピンとこないんだよな。向こうは俺のことを結構知ってるみたいだけど、俺は全然知らないからな。だから断ってる」
「ふふっ、直哉らしい理由だね。直哉の場合は見た目もだけど、中身が大事だからね」
「当たり前だ。性格ブスなんかとつきあえるかって。俺の前ではしおらしく女らしく見せてても、実際は正反対なんて、ありそうだからな」
 直哉はそう吐き捨てた。
「でも、どうしてそんなこと訊いたの?」
「菜緒もさ、俺なんかに縛られてなきゃ今頃もっといい想いができたかもしれないと思ってさ」
「私は、直哉以外に考えられないから、だから直哉と一緒にいるの。直哉以外の人といたって、絶対に直哉といる時のような充実感は味わえないもの」
「でも、それは菜緒が俺しか見てないからだろ? 見方を少し変えてほかの連中を見たら、今までとは違った一面が見えるかもしれないだろ?」
「……たとえそうだとしても、私はもうずっと前から直哉しか見てないから。いつも直哉の背中を追いかけて。それが、私の幸せの形なの」
「……ったく」
 菜緒の言葉に直哉は照れ笑いを浮かべた。
「……もしさ、俺がおまえを選んだら、嬉しいか?」
「もちろんだよ。もうそれだけでなにもいらないくらい、嬉しいよ」
「そっか……」
「直哉?」
「いや、気にするな。疲れてるからつい余計なことを口走った」
 そう言って直哉は目を閉じた。
「じゃあ、今度は私が話すね。別にそれにいちいち答えてくれなくてもいいから」
 菜緒はそう前置きして話しはじめた。
「私が直哉を好きになったのは、別にいつも一緒にいたからだけじゃないんだよ。普段はちょっと突っ張って意地悪だけど、時折見せる優しさに惹かれたんだ。だから、直哉のことをただ怖いってだけしか見てなかった子に言ってやりたかった。直哉はホントはとっても優しいんだからって。それも、必要以上の優しさじゃなくて、ホントに必要な時に見せてくれる優しさ。優しさの押し売りみたいなことをする人もいるけど、直哉は絶対にそんなことしなかったし、今もしてない。だから好きなんだ、直哉のこと」
「…………」
「でも、時々思うの。その優しさを私だけに向けてほしいって。そんなこと絶対に無理なんだけどね。そういうことを考えたあとは必ず自己嫌悪に陥るの。なんて自分はイヤな考え方をするんだろうって」
「……独占欲なんて、誰にでもあることだから。それに支配されなければ問題はない」
「理屈ではわかってるんだけどね」
「こうしてる時は、俺を独占できるだろ?」
「うん、そうだね」
 菜緒は、そっと直哉の頬に手を載せた。直哉はその手に自分の手を重ねる。
「えっ……?」
 そして、直哉はその手を引っ張り、菜緒に口づけをした。
「も、もう、強引なんだから」
「イヤだったか?」
「う、ううん、そんなことはないけど。でも、不意打ちじゃなくて、ちゃんとキスしたいな」
「贅沢だな」
 直哉はそう言いながら、今度はゆっくりと菜緒にキスをした。
「……ん、直哉、大好きだよ」
「ああ、俺も好きだ」
 直哉に好きと言ってもらえるだけで幸せな菜緒。それが今はキスまでしている。
 だから、時間が止まってしまえばいいと思うのは、決してエゴではないと思う。
 
「ただいま」
 直哉が家に帰ると、リビングが幾分賑やかだった。
「あれ、父さん。どうしたの?」
 リビングにいたのは和哉と綾奈だった。
「いや、せっかく綾奈が来てるのに一日も会わないなんてさすがに問題だと思ってな。だから仕事の時間をずらして戻ってきたんだ」
 和哉は事情を説明した。
「ふ〜ん、そうなんだ。じゃあ、また出かけるんだ」
「ああ。また今日も帰れないな。最近は仕事が重なっててな。ひとつ終わるとまたひとつ。そんな感じだから。まあ、今週末には終わると思うがな」
「そっか。ま、父さんもあんまり無理すると、体壊すからさ。適度に休まないと」
「わかってるさ」
 直哉は自分の部屋に戻った。
 鞄を放り投げ、制服から部屋着に着替えた。
「ふう……今日はいろんな意味できつかった……」
 ベッドに倒れ込むと、毎度おなじみの愚痴がこぼれた。
「……まさか、かえで先生となぁ……」
 今日一日を振り返ると、やはりあの保健室での出来事が一番問題だった。
「……これでしばらくかえで先生に会えないな」
 直哉はしばらく保健室には出向かないことを決めた。
 そんなことなどをつらつらと考えていると、玄関から声が聞こえ、和哉が仕事に戻っていった。
 玄関が閉まると、今度は階段を上がってくる足音が聞こえた。
「直哉ちゃん。いい?」
「開いてるよ」
 直哉の声を聞いてドアが開いた。
「父さん、行ったんだ」
「うん、今さっきね」
 綾奈は直哉にお構いなくベッドに腰掛けた。
「お夕飯の下準備は終わってるから、すぐにでもできるけど」
「姉さんは?」
「ちーちゃんは、今日はちょっと遅くなるって。だからとりあえずふたりだけで先に食べててだって」
「ふ〜ん」
「気のない返事ね。あたしとふたりだけだと不満?」
「そんなことはないよ。ただ、今日はちょっと疲れるんだ。だから気のない返事になっただけだよ」
「それならいいけど」
 直哉はベッドにうつぶせになったまま時計を見た。
「姉さんの部屋のリフォームって、どれくらいかかるの?」
「そんなにかからないけど。なんで?」
「いや、綾奈姉さんの部屋が終わったら、今度は麗奈姉さんの部屋をやるんでしょ? で、麗奈姉さんもうちに来るかもしれないと。だから訊いてみただけ」
「麗奈お姉ちゃんは、来るかどうかはわからないけどね。仕事もあるし。直哉ちゃんは麗奈お姉ちゃんが来た方がいいんでしょ?」
「どうして?」
「だって、うちに来てもいつもお姉ちゃんと一緒にいるから」
「それは……」
 直哉は一瞬本当のことを話そうかと思ったが、やめた。
「でも、麗奈姉さんが来るとこっちが気を遣いそうで」
「あら、それはあたしには気を遣わなくてもいいってこと?」
「平たく言えばそういうこと。悪い意味じゃないからね。麗奈姉さんはこっちからいろいろ言わないと遠慮してなにもしないから」
「まあ、それはそうだと思うけど。でも、他人のうちじゃないんだから、そんなでもないんじゃないの?」
「だといいけど。俺としては麗奈姉さんの性格と綾奈姉さんの性格を足して二で割るとちょうどいいと思うんだけど」
「確かにそれだと誰に対しても当たり障りのない完璧な性格になるけど、それってつまんないと思うよ。どちらかに寄ってた方が個性もあっていいし」
「へえ、一応自分のこと、わかってるんだ」
「失礼ね。何年あたしをやってると思ってるの? それくらいわかって当然でしょ?」
「当然ね」
 直哉はそう言って苦笑した。
 実際には自分のことをそこまで把握している人など少ない。人間は総じて自分に対して甘くなる。だから自己分析も甘くなりがちだ。
 とはいえ、やたら厳しくすればいいというものでもない。だからこそ難しいのだ。
「まあいいや。姉さんはまだ帰ってこないんだったら、もう夕飯にしよ」
「そうだね」
「今日は俺も手伝うから」
「ありがと」
 それから台所で夕食の準備をする。さすがに下準備をしてあるとすぐにできる。直哉の手伝うようなことはほとんどなかった。皿や箸などを並べて、できたものを運ぶだけ。
 綾奈も料理の腕は確かで、直哉も安心して任せられた。
 南家は、雪恵の姉の家である。南家の代々の女性は子供の頃からみっちりと料理を教え込まれるため、皆一様に料理の腕は確かである。
 従って雪恵の姉の夏奈も料理の腕前はプロ並み、麗奈も負けず劣らず料理上手である。
 そんな南家に育った雪恵も当然のごとく千尋にも料理を教えた。これからは、倉澤家でもそれが伝統になるかもしれない。
 閑話休題。
 滞りなく夕食の準備も終わり、直哉と綾奈だけの食卓となった。
「いただきます」
 テーブルには、牛肉とアスパラのオイスターソース炒め、ほうれん草のおひたし、きんぴらごぼう、香の物、あさりのおすましとご飯が並んでいた。
「うちは誰が作っても料理だけは安心できるよ」
「ちーちゃんとどっちが上手?」
「姉さん」
「もう、お世辞でもあたしって言ってくれればいいのに」
「いや、料理に関してはウソはつけないから。ただ、姉さんの方が上手いっていうのも数をこなしてるからだと思うよ。綾奈姉さんももう少し頻繁にやれば自然と上手くなるって」
「うちじゃダメよ」
 そう言って綾奈は溜息をついた。
「お母さんはプロみたいなもんだし、お姉ちゃんもいるし。どうしてもやる回数は限られてくるもの」
「う〜ん、まあ、しょうがないか。でも、これだけできれば問題ないよ。少なくとも料理に関しては花嫁修業の必要はないね」
 直哉は笑った。
「そういえば、綾奈姉さんにも麗奈姉さんにも浮いた話のひとつも聞かないけど、彼氏とかっていないの?」
「いないわよ」
「姉さんなら選り取り見取りでしょ?」
「確かに言い寄ってくる男は多いけど、みんな中身が伴ってないから」
「厳しいね」
「そりゃ厳しくもなるわよ。身近に理想の男性がいるんだから」
「身近に?」
 直哉は思わずそう聞き返していた。
 綾奈は小さく頷いた。そして、じっと直哉を見つめる。
「はは、まさか、俺、とか言わないよね?」
 乾いた笑いとともに直哉は訊ねた。
「もちろん、直哉ちゃんよ」
 さも当然という感じの綾奈。
「……いやあ、このきんぴら旨いなぁ」
「無視しないの」
「なんで俺が理想なのさ?」
「なんで? 言わないとわからない?」
 綾奈は悪戯っぽく微笑んだ。
「まず見た目ね。直哉ちゃんは誰が見たってカッコイイから。まあ、これに関してはいいんだけど」
「……で?」
「次に性格。まあ、多少口の悪いところはあるけど、他人を誹謗中傷するようなことは絶対に言わないし、また人がそういうことを言っていたらやめさせる。ちゃんと良識を持ち合わせてるの。人のことをよく考えて傷つけないようにして、自分は二の次。口ではそうだって言う人はいるけど、実際はそんな人はほとんどいないからね。そういう点でも直哉ちゃんは貴重よ」
「まるで天然記念物だな、それじゃ」
「それと、直哉ちゃんはただ優しいだけじゃないからね。こんな時に優しい言葉をかけてもらいたいとか、優しくされたいとかいう時に優しくしてくれる。でも、それも必要以上の優しさじゃなく、優しさの中に厳しさも入ってるの。ただ優しくされるだけだと人間はダメになるからね。それを直哉ちゃんはわかってやってるのかどうかはわからないけど、やってるのよ」
「……買いかぶりすぎだよ」
「それになんたって、直哉ちゃんは頼りがいがあるからね。ついつい頼っちゃうんだよね。これはあたしだけじゃないと思うよ」
「……あっそ」
 直哉は無関心を装い、食べることに集中していた。
「優しくて頼りになって、性格もいいしカッコイイ。これが理想にならなくてなにが理想になるっていうの?」
「いや、そのことを俺に訊かれても答えようがないんだけど。俺は男だし」
「直哉ちゃん」
「なに?」
「……ご飯ついてる」
「……はい」
 直哉は思いきり脱力した。
 それを見て綾奈はくすっと笑った。
「まあ、理想はどうでもいいけど、彼氏のひとりでも作らないと、おじさんやおばさん、心配しない?」
「大丈夫よ。お父さんはできることならお姉ちゃんにもあたしにも、ずっと家にいてもらいたいんだから。俺の娘は誰にもやらん、なんてね」
「男親なんてそんなもんじゃないの? うちだって姉さんがそんなことになったら父さん、どうなることやら。台所から包丁を持ち出して『刺し違えてやる』なんて言うかも」
「そうだよね。和哉おじさん、ちーちゃんのこと、ことのほか可愛がってるからね」
「俺をほっぽりだしてね」
「その代わり、直哉ちゃんはちーちゃんに可愛がってもらってるでしょ?」
「それはそうだけど……」
「それに、あたしやお姉ちゃんだって直哉ちゃんのことは可愛がってるんだから」
「……綾奈姉さんの場合はおもちゃにしてるんだと思うけど」
「なんか言った?」
「い〜え、なんにも」
「それにしても、あたしたちって偉いわよね」
「なんで?」
「だって、こんなにカワイイ直哉ちゃんを取り合いにならないんだから。普通だったら取り合いになってるわよ」
「それは、姉さんや麗奈姉さんがそういうこと言わないからでしょ。綾奈姉さんだけだと言い出しにくいし」
「う〜ん、それはあるかも」
 綾奈は妙に納得している。
「でも、今はあたしだけの直哉ちゃんだからね」
「はいはい、そうだね」
 そう言って直哉は食べ終わった。
「もう、つれないんだから」
 綾奈はそう言いながらも結構楽しそうに直哉のためにお茶を淹れた。
「直哉ちゃんはやっぱり、お姉ちゃんみたいな女性が好きなの?」
「う〜ん、どうかな。確かに麗奈姉さんはおしとやかで性格もちょっとボケてるんじゃないかってくらいに温厚だからね、惹かれはするよ。でも、それは直接『好き』ということに結びつくかどうかはわからないよ。ただ単につきあうだけだったら、綾奈姉さんの方が気兼ねなしにつきあえるし」
「ただ単に、か。やっぱりあたしって恋愛の対象にならないのかな?」
「そんなことはないと思うけど。まあ、ほとんど知らない人だったら、最初は麗奈姉さんの方に惹かれちゃうだろうけど。でも、ちゃんとつきあってどんな人物かってわかれば、姉さんだっていいと思うんだけどな。ふたりとも知ってる俺は、少なくともそう思う」
「ありがと、直哉ちゃん。ウソでもそう言ってくれるのは、直哉ちゃんだけだよ」
「別にウソを言ったつもりはないんだけどなぁ。俺だったら麗奈姉さんも綾奈姉さんもちゃんと恋愛の対象になるよ。たとえ姉妹だってひとりひとりの人間なんだから、違って当たり前だよ。なにも麗奈姉さんに合わせる必要はないんだよ。綾奈姉さんには綾奈姉さんのいいところがあるんだから。しかも、綾奈姉さんにしかない、いいところがね」
「ホントにあると思う?」
「もちろん」
 直哉は自信満々に答えた。
「……少し、自分のことを考えてみるね」
「それがいいよ」
 綾奈の言葉に、直哉は優しく微笑みかけた。
 
 三
「いいか。今配ったプリントにあるような日程で三者面談を行う。親御さんに連絡するのはもちろんだが、なんのための三者面談か考えろよ。面談の場でまだなにも考えてませんは論外だからな」
 朝のホームルーム。担任から三者面談のことについて説明があった。
 文句を言う奴もいたが、ほとんどは自分の進路のことなので、神妙な面持ちだった。
「一応、希望は入れられたみたいだな」
 直哉は日程を見てそう呟いた。
「日程が決まったからには、本気で考えないとまずいな」
 
 朝から曇りがちだった空は、昼前には泣き出した。あっという間に黒い雲が空を覆い、大粒の雨粒が叩きつけるように降ってくる。遠くでは雷も鳴っているらしく、低い音が響いてくる。これがまだ四月なら春雷とでも言うのだろうが、あいにく五月ではそういう言葉はない。雷とは関係ないが、こういう荒れた天気のことは、メイストームとは言う。
 昼休み。そんな空を恨めしそうに見上げているのは、直哉だった。
「どうしたの、直哉?」
「いや、別に。帰るまでには止むかなぁって思ってさ」
 菜緒も直哉の隣に立ち、空を見上げる。
「そうだね。止まないにしても、せめて小降りになってほしいね」
「だよな。この時期の雨は甘く見てるとすぐ風邪引くからな」
「このままの降り方だったらどうするの?」
「まあ、チャリは置いてくしかないだろうな」
 直哉は空を見上げつつ、溜息をついた。
「しかし、午後の授業は騒がしくなりそうだな」
「どうして?」
「雷が鳴るからな」
「えっ……?」
 菜緒の表情が一瞬強ばった。
「間違いないぜ。だんだんこっちに近づいてきてる。五時間目か六時間目かわからないけど、しばらくは雷の中だな」
 と、菜緒が直哉の袖をキュッとつかんだ。
「心配すんなって。別になにかあるわけじゃないんだから」
「でも……」
 菜緒は大の雷嫌いである。怖いもの全般が嫌いなのだが、雷はその中でもかなりの上位にランクされるだろう。
「でもさ、菜緒。授業中に大声で叫ぶのだけは勘弁してくれよ。小学校の頃のこと、覚えてるだろ? おまえのせいで授業がしっちゃかめっちゃかになったんだから。怖いものを無理に耐えろとは言わないけど、せめてそこら辺の連中と同じレベルで怖がってくれ」
「……努力はしてみるけど」
「頼むぜ」
 直哉の頼みは、結局無駄に終わった。
 五時間目はまだ遠くで鳴っている程度だったが、六時間目。クラスの誰かが稲光を目撃したことからそれははじまった。
 最初は稲光から雷の音が聞こえるまでだいぶ時間差があったが、それも次第に縮まってきた。
「うおっ、すげぇ……」
 窓の外を見ていた男子がそう言ったのとほぼ同時に、大音響が教室中、いや校舎全体、あたり一帯に響き渡った。
 その雷のせいで一時的に電気が暗くなったほどだ。すぐに元に戻ったが、混乱を増幅させるには十分すぎた。
「いやぁん」
 誰かがわざとらしい声を上げた。本当に怖い者は耳を塞いで目を閉じ、体を小さくしている。
 そんなことにも動じない男子は、窓際に寄ってそれを楽しんでいる。
 数回、教室に大音響が響き渡り、そして、雷が近くに落ちたようなすさまじい音がした。
 それが合図だった。
「いやあぁぁぁぁぁぁっ!」
 誰かが突然絶叫した。
 最初は雷と重なってはっきりとはわからなかったが、それは確実に絶叫だった。
 クラスの視線が、一斉にその絶叫の主に注がれた。
「……ったく、菜緒の奴……」
 菜緒だった。
 半狂乱に絶叫を続け、もう授業どころではない。まあ、もともと授業どころではなかったが。たまたまこの時間に当たった数学教師は思わず頭を抱えていた。
 菜緒のまわりの女子が菜緒をなだめようとするが、まったく効果がない。
「……しょうがねぇな」
 直哉は溜息をつき、立ち上がった。
「先生」
「な、なんだ、倉澤」
「今から騒音を排除しますから、俺に構わず授業を続けてください」
 直哉はそう言って菜緒のところに立った。
「菜緒。ちょっと来い」
 直哉は菜緒を抱えるように教室を出て行った。
 途端に静まりかえる教室。それは次の雷が鳴るまで続いた。
 直哉は菜緒を抱えたまま、手近な空き教室に入った。
「い、いやぁ……雷はいやぁ……」
 菜緒は泣きながらそんなことを繰り返している。
「おい、菜緒。しっかりしろ。俺だ。直哉だ。わかるか?」
 菜緒の顔を自分の方に向かせ、しっかりとその目を見る。
「菜緒。わかるか?」
「くすん……なお、や……」
 定まっていなかった焦点が定まり、直哉を直哉と捉えた。
「そうだ、俺だ。おまえ、またやったんだぞ」
 直哉がそう言っている間にも、地鳴りのような雷が間断なく鳴っていた。その度に菜緒は小さく悲鳴を上げた。
「ったく、しょうがない奴だよ、おまえは」
 そう言って菜緒を抱きしめた。
「これで少しは落ち着くだろ」
 優しく、まるで子供をあやすように言い聞かせる。菜緒はしゃくり上げながらも、直哉にしっかりしがみついていた。
 やがて、雷が遠くなり、音も気にならなくなってきた。
「……ごめんね、直哉……」
 声にならない声で、菜緒が呟いた。
「……いいんだよ。おかげで授業を堂々とさぼれたし」
 直哉は菜緒の髪を優しく撫でた。
「……不思議だよ。あれだけ雷が鳴っていても、直哉に抱かれていると怖さが薄れるんだから」
「それくらいには俺も役立ったか」
「うん、十分すぎるくらいにね」
 ようやく菜緒の顔に笑みが戻った。
「でも、これで決定的だな」
「なにが?」
「俺とおまえの関係だよ。俺たちがどんなことを言っても、もう単なる幼なじみだとは思ってもらえないだろうな」
「……ごめん」
「別に謝る必要はないけどさ。おまえとだったらそう思われたって構わない。ただ、実際はまだそうなってないのに、まわりだけそのように見るのは、なんか変な感じがすんだろうなって思って」
「……言われたらどうするの?」
「どうするかな? ホントのこと言ったって言い訳にしか聞こえないだろうし。なにも言わなきゃ言わないで肯定したと思われるだろうし。とりあえずは、八方塞がりだな」
 直哉は苦笑した。
「まあ、変なこと言う奴がいたら、俺が二度と口がきけないくらいに痛めつけてやるけどな」
「……直哉」
「ん?」
「私たち、まだダメなのかな?」
「……難しい質問だな。ただ、最近少しずつ俺はおまえになにを求めてるのか、わかってきたような気がする。まだ漠然とした形だけどな。だから、そう遠くないうちにおまえとそんな関係になれる、と思う」
「直哉……」
「菜緒……」
 薄暗い教室の中、ふたりはキスを交わした。
 これでまだ正式な恋人同士ではないのだから、文句を言われても仕方のないことかもしれない。
 
 放課後。
「おい、直哉。おまえ、菜緒ちゃんになにをしたんだ?」
 直哉はあっという間に数人の男子に囲まれた。
「別に、なにもしてないぜ。ただ、おとなしくなるのを待ってただけだ」
「ウソをつけ、ウソを。戻ってきた時、菜緒ちゃんの頬が赤くなってた。これは絶対になにかあったってことだ」
 その生徒の言葉に、まわりも頷いた。
「……おまえらなぁ、菜緒は泣いてたんだから顔が赤いのはしょうがないだろ。それと、ひとつだけ忠告しといてやるからな。俺に対してとやかく言うのはまあ、許してやる。だけど、菜緒に対してとやかく言う奴がいたら、俺がぶん殴る。いいな?」
「あ、ああ、わかってるって」
 直哉のその言葉に、男子は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「相変わらず菜緒ちゃんをかばってるな、直哉」
「うるせぇ」
 珍しく輪に加わっていなかった秀明が声をかけてきた。
「おまえにならわかるだろ? 今は理紗がいるんだから」
「まあな。男としては女を守らないと、かっこがつかないからな。でもよ、直哉」
「なんだ?」
「これで今までのおまえと菜緒ちゃんの噂、全部本当のことになっちゃうかもな」
「……言いたい奴には言わせとけ。ホントのことは、俺と菜緒の中にだけあればいいんだ」
「おいおい、俺にも言わないつもりか?」
「まあ、おまえには特別に教えてやるけどな」
「頼むぜ」
「ああ」
 教室の一角で直哉と秀明がこんなことを話している時、別の一角では菜緒がさっきの直哉と同じように、数人の女子に囲まれていた。
「ねえ、菜緒。直哉くんとなにがあったの?」
「そうそう。ずいぶんと落ち着いてたし」
「それに、休み明けから菜緒はやたら明るいし。ひょっとして」
 ひとりの女子が、そこでわざとらしく言葉を切った。
「GW中に、行くところまで行っちゃったの?」
「ええーっ、それマジ?」
 勝手に話が飛躍する。
「べ、別になにもないよ。それに、私と直哉はつきあってるわけじゃないんだから」
「ホントに、本当に、ほんっとうにつきあってないの?」
「う、うん」
「信じられないよねぇ」
「うん。絶対に信じられない」
「あれだけ普段から仲が良くて、つきあってないだなんて、詐欺よ」
「あれ、宏美。なにムキになってるの? あんたひょっとして、直哉くんのこと好きだったの?」
「ち、違うわよ」
「どうかなぁ?」
「そ、そう言う真紀だってそんなこと言ってなかったっけ?」
「ば、バカなこと言わないでよ。どうして私が……」
「嫌いなの? 直哉くんのこと」
「……嫌いじゃないけど……」
「ほぉらやっぱり」
 いつの間にか話の中心がずれていた。
 菜緒は話題が自分からそれたことに、内心ホッとしていた。
「菜緒」
「あっ、雅美」
「ちょっと」
「えっ、うん」
 雅美に言われるまま、菜緒は廊下に出た。
「どうしたの?」
「直哉くんになにしてもらったの?」
 雅美の質問は単刀直入で、しかも真剣だった。
「……ただ、抱きしめてもらっただけだよ。私が落ち着くように」
「それだけ?」
「そ、それだけだよ。なんで?」
「ううん、それならそれでいいの」
 雅美はそう言って微笑んだ。
「まったく、授業中にあんな大声出すなんて、菜緒だけよね」
「だ、だって、怖かったんだもん……」
「菜緒のそれは筋金入りだからね」
 雅美はよしよしと菜緒の頭を撫でる。
「おう、なにしてんだ、おまえら」
 と、そこへ直哉がやって来た。
「見てわからない? 菜緒を可愛がってたのよ」
「ちょ、ちょっと、雅美」
「ったく、わけわからんな、おまえは」
 直哉はやれやれと肩をすくめた。
「それより、菜緒。さっさと帰るぞ。今、雨が上がってるからな」
「えっ、あ、うん。ちょっと待ってて」
 菜緒は慌てて教室に駆け込んだ。
「おまえ、菜緒になに言ってたんだ?」
「別に、なにも言ってないわよ。ただ、直哉くんになにをしてもらったのか、訊いてただけだから」
「……んなこと訊くな」
「いいでしょ、気になるんだから。でも、菜緒、肝心なことは言わなかったけどね。ただ、抱きしめてもらっただけだって。ホントは、キスでもしたんでしょ?」
「さあな? あいにくにと物覚えが悪いもんでな、ついさっきのことも忘れるんだ」
「ふふっ、直哉くんらしいけどね。でもね、直哉くん」
「ん?」
「菜緒にばかり優しくしないでね」
 そう言って雅美は、直哉にキスし、そのまま行ってしまった。
「……あいつは」
 直哉は思わずあたりを見回した。とりあえず誰も見ていなかったことに安心した。
「直哉、お待たせ」
「おう、行こうぜ」
 まだ雅美とのことを知らない菜緒。でも、直哉は菜緒がそのことに気づいていると思っていた。
 
「いやあ、雨上がってよかったな」
「うん」
 自転車に乗りながら、直哉は空を見上げた。
「別にバスでもいいんだけど、時間がかかるのがな」
「直哉の場合は、じっとしてるのがイヤなんでしょ?」
「むぅ、そうとも言うか」
 直哉は思わずそう唸った。それを見て菜緒は、くすっと笑った。
「それにしても、菜緒」
「なに?」
「もしも俺がいなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「……わかんない。でも、私もはっきりとは覚えてないんだよ。怖さが先に立っちゃってて」
「なら、なおさら手の施しようがないな」
「でも、必ず直哉がいてくれるから、大丈夫だよ」
「……たまたまだ。これから先、どうなるかわからないだろ」
「それはそうだけど……」
「おまえ、家でもあんな感じなのか?」
「うん。ずっとお布団かぶってる」
「はあ……」
 直哉は嘆息混じりに苦笑した。
「直哉はね、私が側にいてほしい時は必ずいてくれるから、だから安心できるんだ。さっきも直哉に抱かれて安心できたのは、そういう想いがあったからだね」
「それって、俺に頼りすぎじゃないか?」
「そうかもね。でも、もうずっとそうだったから、今更変えられないよ」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「私はずっと信じてるから」
「なにをだ?」
「直哉が、ずっと私の側にいてくれるって」
「…………」
 直哉は照れてなにも言えず、ペダルをこいだ。
「あっ、待ってよ」
 慌てて追いかける菜緒。
「おまえなぁ、あんまり恥ずかしいこと言うなよ。思わずこのまま走り去るところだっただろ?」
「だってぇ……」
「そりゃ、そういうこと言われて悪い気はしないけどさ。だけど、あんまりそんなことばっかり言ってると、ありがたみがなくなるぞ」
「……それでもいいの。自分の中に溜め込んでおくよりはよっぽどいいよ」
 清々しい笑顔だった。そんな笑顔を見せられたら、直哉でなくともなにも言えない。
「菜緒」
「ん?」
「今日のおまえは、いつもよりカワイイぜ」
「なっ……」
 菜緒は慌ててブレーキをかけた。そうしなかったら、おそらく転んでいただろう。
「い、いきなりなに言ってんのよっ」
 菜緒は真っ赤になって抗議する。
「な、恥ずかしいだろ? これで俺の気持ちが、少しはわかったと思うけどな」
「そ、それはそうだけど……」
「まあでも、今行ったことはウソじゃないけどな。いつもよりってところは余計だけど」
「ありがと、直哉」
 菜緒は、今度は嬉しそうに微笑んだ。
 
 その日の夕食は賑やかだった。
 倉澤家が全員揃い、それに綾奈が加わり、五人で食卓を囲んでいた。
「うちがこれだけ賑やかになるのは、珍しいからな」
「そうね」
「綾奈ひとりいるだけで、これだけ変わるなんてな」
 和哉も雪恵も上機嫌である。
 そんな中、直哉はひとり冷めた目でそれを見ていた。別に賑やかなことが嫌いなわけではないが、取ってつけたような賑やかさは、直哉にはあわなかった。
 それでも、せっかくの場の雰囲気を壊さないため、愛想だけは振りまいていた。
 結局、直哉は途中で勉強があると言って抜け出した。
「どうもああいうのはダメだな」
 ベッドに横になる。
「父さんも母さんも、普段を取り戻そうと必要以上に盛り上げようとするからな。普通でいいのに」
 客観的に見ると、そのように見えるのは確かだった。
 普段あまり家にいないふたりだから、その埋め合わせの意味も込めて、普段以上に振る舞ってしまうのもわからないでもなかった。でも、それが望まれているかいないのかは、また別問題である。そして、直哉は少なくとも望んでいなかった。
 ベッドに横になっていると、しばらくして眠気が襲ってきた。
 直哉はそれに逆らわず、しばしうとうととした。
 
「……ん……」
 目を覚ますと、夜十一時をまわっていた。
 と、直哉は不意に気配を感じた。
 うつぶせに寝ていたために視界が狭くなっていて、部屋を見回せなかったのだ。だから体を起こし、確かめる。
「姉さん……綾奈姉さんも」
 寝ていた直哉からはちょうど死角になるところに、千尋と綾奈がいた。
「どうしたの?」
「うん、なおくんが先に戻っちゃったから」
「……別に俺のことなんか気にしなくてもいいのに」
「そうはいかないわよ。おじさんやおばさんには悪いけど、直哉ちゃんがいないと、楽しさも半減だもの」
「……まったく」
 直哉は照れ笑いを浮かべた。
「ずっとそこにいたの?」
「ずっとじゃないけど、一時間くらいかな。ね、あやちゃん?」
「うん。直哉ちゃんのカワイイ寝顔が見られて、ちょっと得した気分」
 綾奈はそう言って微笑んだ。
「で、俺はなにをしたらいい?」
「どうしよっか?」
「うん、どうしよう?」
 千尋と綾奈は、顔を見合わせた。
「そうだ」
 と、綾奈が先に声を上げた。
「今日は、三人で一緒に寝よ」
「三人で?」
「そんなこと、小さな頃以来だから」
「悪くはないと思うけど、どこで寝るわけ? 三人で眠れる場所なんてないよ」
 確かにベッドは直哉のが大きくても、シングルより少し大きい程度。ふたりならなんとかなるが、三人ではとても無理だった。それは千尋のでも同じである。
「客間に布団を敷いて、眠ればいいんじゃない?」
 客間にはもともとベッドはない。綾奈はそこに布団を敷いて寝ているのである。それに、客間自体は六畳間なので、三人で寝ること自体に問題はなかった。
「まあ、それなら大丈夫だと思うけど──」
「お父さんやお母さんは大丈夫よ。今日はお酒が入ってるから」
 千尋が、直哉の言いたいことを先に言い、しかも答えまで言った。
 千尋にしても、直哉と一緒にいたいのである。
「ね、直哉ちゃん」
「わかったよ。そこまで言われたら、断れるはずないからね」
「さっすが直哉ちゃん」
「でも、その前に、俺は風呂に入ってくるから」
「あたしたちは、その間に準備をしておくから」
 それから直哉は、風呂に入った。風呂場では余計なことをあれこれ考えているうちに、つい長風呂になり、のぼせそうになった。
「上がったよ」
 直哉が客間に顔を出すと、思わず溜息もつきたくなるようなことになっていた。
 三人で寝るのに布団は二組。しかも、それがぴったりとくっつけられている。それがなにを意味するか、直哉は瞬間的に悟った。
「じゃあ、私たちも入ってくるからね」
 千尋と綾奈が風呂場に行くと、直哉は『異空間』にひとり取り残された。
「俺、明日間違いなく寝不足だ」
 直哉は、これからのことを考えると、思わず頭を抱えた。
 千尋と綾奈は長風呂になるのかと思いきや、意外に短かった。
 風呂上がりのしっとりと濡れた髪に、上気した頬。しかも、それが掛け値なしの美人とあっては、男の理性はないに等しかった。
 しかし、直哉は超人的な理性で、なんとか持ち堪えた。
 千尋も綾奈も、似たようなパジャマを着ている。これは、千尋が綾奈に貸したもので、こうしていると姉妹のようにも見える。
「それ、直哉ちゃん」
「どわっ!」
 いきなり綾奈が直哉に飛びかかった。
 直哉としては、綾奈を抱き留めるので精一杯だった。
「ああんもう、やっぱり直哉ちゃんてカワイイ」
「ちょ、ちょっと、綾奈姉さん……」
 頬にすりすりと寄ってくる綾奈。
「むっ、あやちゃん。なおくんが嫌がってるでしょ?」
「のぐわっ!」
 今度は千尋が直哉を引っ張った。
「ああーっ、ちーちゃん、ずる〜い」
「ずるくなんかないよ。なおくんはこっちの方がいいんだもん。ね、なおくん?」
 ふたりの間に挟まれ、身動きが取れない。
「ね、ねえ、寝るんじゃなかったの?」
 それでも直哉は、遠慮がちにふたりに訊ねた。
「寝るけど、その前に直哉ちゃんをどっちが抱いて寝るか、決めないと」
「どっちがって、そんな……」
「なおくんは私と寝るの」
「い〜え、直哉ちゃんはあたしと寝るの」
 当事者そっちのけで争うふたり。まあ、本気でやっているわけではないが。
「……先に寝るよ」
 直哉は、そう言ってふたつの布団のちょうど真ん中に横になった。枕だけは三つあるので、寝るのに問題はなかった。
「もう、やっぱりこうなっちゃうのよね」
 先に布団に潜り込んだのは綾奈だった。
「なおくんは、こういう時は絶対に平等を貫くからね」
 そして、千尋は電気を消して布団に潜り込んだ。
 よく布団を川の字に並べて眠ると言うが、布団の中で川の字に並んで眠ることは、そうはないだろう。
 直哉は、ある程度こうなることを予想しており、仰向けに両腕をちゃんとふたりの方に出していた。その腕を、それぞれがしっかりとつかんでいた。
 当然、ふたりはその腕を胸のところでしっかりと押さえる。そうすれば、胸の感触が直に伝わってくる。寝る時はたいていの女性はブラジャーをしないから、その感触も妙に生々しかった。
 直哉は、できるだけ胸の感触を忘れようとした。そうしないと、股間が敏感に反応してしまうからだ。
「ちーちゃんと直哉ちゃんて、今でも好き同士なの?」
「今でもなおくんのこと、大好きよ」
「俺が姉さんを嫌いになる理由がない」
「いいよね、そういうの。無条件で相手のことを好きになれるのって」
「あやちゃんだって、なおくんのこと、好きなんでしょ?」
「もちろん。好きなんてもんじゃないわよ。大好き、ううん、愛してるって言ってもいいかもしれない」
 真ん中に直哉を挟んで、話の内容は直哉のこと。ふたりとも、本当に直哉のことが好きなのである。
「今、直哉ちゃんの心の中には、何人の女の人がいるんだろ」
「うん、それは私も気になる」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何人なんて、そんなたくさんいないよ」
「ホント?」
「うっ……」
「だって、あたしとちーちゃん、菜緒ちゃんに麗奈お姉ちゃんを入れただけで、四人になるんだよ。四人のどこがたくさんじゃないの?」
「そ、それは……」
「ホントは、四人以上いるんでしょ、なおくん」
「…………」
 まるでつるし上げである。直哉はあたふたと慌てふためき、それをふたりは楽しそうに嬉しそうに見ている。
「そういえば、この前言ってた非常勤の先生はどうなったの?」
「非常勤の先生? それってなに?」
 事情を知らない綾奈に、千尋は簡単に知ってることを話した。
「ふ〜ん、直哉ちゃんも認める美人教師かぁ。そんなに美人なの?」
「さ、さあ、どうだったかな?」
「正直に答えなさい」
 ちょっとドスの利いた声で、綾奈は言った。
「……かなりの美人だと思うよ。学校内でもかなり人気あるし」
 直哉は、半ば自棄になって答えた。
「なおくんは、その先生のこと、どう思ってるの?」
「……いい先生だと思うよ。授業もわかりやすいし。年が近いから、俺たちのことちゃんと考えてくれるし」
「それは先生としてね。ひとりの女性としては?」
「…………」
「どうしたの?」
 黙ってしまった直哉に、千尋は声をかけた。
「あの、それって、どうしても言わなくちゃならないの?」
「うん」
「是非とも聞きたいわ」
 千尋も綾奈も、本能的にその非常勤講師──瑞穂が自分たちのライバルであることを悟っていた。
「……わかったよ。正直に言うから、絶対に茶化したりしないでよ」
 直哉は一言そう言い置いて話した。
「その先生、名前は桜井瑞穂って言うんだ。確か、今月で二十五になるって嘆いてた」
「お姉ちゃんより年上か」
「で、先生としてはさっき言ったように、なかなかのものだと思う」
「なんの先生なの?」
「世界史だよ」
「世界史ってことは、岸先生の代わりなの?」
「そうだよ」
「そっか。それならよっぽどの先生じゃない限り、みんなよく見えるわ」
「そんなに前の先生ってよくないの?」
「教えてること自体は悪くないんだけど、教え方がよくないの」
 千尋が人のことを悪く言うのはかなり珍しい。これで世界史教師、岸という人物がどんな人物だったかわかるだろう。
「で、ひとりの女性としてだけど、ちょっと前まではあんまり好きになれなかったけど、今は結構好きだよ」
「好きって、どっちの好きなの?」
「う〜ん、ラブに近いかな。あくまでも近いだけだけどね」
 思わず、ふたりの腕に力がこもった。
「……なおくん、浮気、してないよね?」
「……してないよ」
 一瞬、直哉の表情が曇った。しかし、薄暗い部屋ではそれははっきりとは見えなかった。
「こんなもんでいい?」
「まあ、いいと思うけど。ね、ちーちゃん?」
「うん。これ以上聞いたらここでなおくんを殺して、私もあとを追っちゃいそうだから」
「ね、姉さん……」
「そうよね。自分の手で殺してしまえば、もう誰の手にも渡らないんだものね。ずっと自分だけのものになるんだから」
「あ、綾奈姉さんまで……」
「なおくん」
「な、なに……?」
「今は、私を感じて……」
 そう言って千尋は、直哉の手を自分の胸に当てた。
「なおくんが誰を好きになっても、それはなおくんのことだから、私はなにも言えない。でも、私の一番は今までも今も、そしてこれからもなおくんだってことだけは、覚えておいてね」
「姉さん……」
 直哉は、綾奈のいることも忘れて、千尋にキスをしようとした。
「ああ、もう、見せつけないでよ」
 しかし、綾奈がそれを見事にぶち壊した。
「もう、あやちゃん……」
「ちーちゃんと直哉ちゃんがそういう関係だってことは、わかってるから。でも、そういうことはあたしのいないところか、いない時にして。今はいるんだから」
 そう言って綾奈はちょっとむくれた。
「あたしだって、直哉ちゃんのこと、本気なんだよ」
 綾奈も千尋と同じように、自分の胸に直哉の手を当てた。
「ほら、ちゃんとドキドキしてるでしょ? これは、直哉ちゃんをこれだけ近くに感じてるからなんだよ」
 直哉の手のひらからは、ふたりの鼓動を感じることができた。ふたりとも、かなりドキドキしている。
 しかし、一番ドキドキしているのは、誰あろう直哉だった。
「姉さん……綾奈姉さん……俺は幸せ者だよ。こんなにふたりに想われて……」
 そう言って直哉は、ふたりの肩を抱いた。
 千尋も綾奈も、それを自然に受け入れた。
「今はただ、俺の大好きなふたりとこうしていられることを、素直に嬉しいと思うよ」
「私もよ、なおくん」
「うん、あたしも」
「だから、今日はありがとう。そして、ごめん……」
 それきり、誰からも言葉は出なかった。
 寝静まった部屋の中では、三人は仲良く眠っていた。
 本当に幸せそうな顔で。
 
 四
 次の日は雨だった。いや、正確には次の日も、かもしれない。
 前日、直哉たちが帰る頃は確かに雨は上がっていたが、宵の口からまた降り出していた。
 その雨がまだ降り続いていた。
 直哉は少し早くに目を覚まし、まだ傍らで眠っている千尋と綾奈をそのままに、自分の部屋に戻った。
 部屋に戻るとそそくさと着替え、とりあえず学校へ行く準備だけは済ませた。
 鉛色の空からは間断なく雨粒が落ち、道路に水溜まりを作り出していた。
 することもないのでリビングに下り、テレビを点けた。
 朝のニュースをなんとはなしに見る。
 どこかの国で飛行機が墜落したニュースがトップになっていた。
 国内のニュースは、不正献金疑惑で逮捕された元国会議員の裁判が行われることと、昨日続落した株価がニューヨークやロンドン市場に多少の影響を与えているとか、大手都市銀行が二年後をめどに業務を統合するなどというものが主だった。
 スポーツではプロ野球がメインで、昨日は巨人が負けたのに、どのテレビ局も巨人贔屓の内容でつまらなかった。
 天気予報では、雨は今日一杯降り続き、明日は朝から晴天が見込めるというものだった。
「ふわぁ、おはよ、なおくん」
 テレビに飽き、新聞を読んでいたところへ、千尋が眠そうに目をこすりながら起きてきた。
「おはよう、姉さん。綾奈姉さんはまだ寝てるの?」
「ううん。起きてるけど、寝てるわよ」
「はい?」
「つまり、目は覚めてるんだけど、起きるのが面倒でまだ布団の中ってこと」
「あっ、な〜るほど」
 直哉は得心したように頷いた。
「でも、なおくん」
「なに?」
「どうして黙って起きちゃったの? 起きた時になおくんがいないんで、ちょっとびっくりしちゃった」
「いや、姉さんも綾奈姉さんも気持ちよさそうに寝てたから、起こすのも気が引けて。それに、父さんたちが起きる前に起きようとも思ってたし」
「お父さんたちなら気にしなくてもいいのに」
「まあ、わかってるんだけどね。なんとなく。それに、今日は雨だからもともと早めに起きなくちゃいけなかったし」
 そう言って直哉は、リビングから見える外を見た。
 多少空は明るくはなっているが、雨は降り続いていた。
「ふう、しょうがないか。ホントはなおくんを目覚めのキスで起こしてあげようと思ったんだけどね」
「ホントにしっかり眠ってたら、キスくらいじゃ起きないと思うけど?」
「もう、そこはそれよ。ホントに起きなかったら、息を止めちゃうとか、くすぐって起こすとか、方法はいくらでもあるから」
 あまり穏やかではない方法をさらっと言う千尋。
「今度、試してみよっか?」
「なにを試すって?」
「ひゃっ!」
 いきなり現れた綾奈に、千尋は間抜けな声を上げた。
「なにをそんなに驚いてるの、ちーちゃん?」
「な、なんでもないよ」
「おはよう、綾奈姉さん」
「おはよ、直哉ちゃん」
 綾奈はいつも通り直哉と挨拶を交わした。
「今日も雨ね」
 綾奈は外を見て言った。
「今日はずっと雨だって」
「そっか。雨ってイヤよね。ジメジメして鬱陶しくて。髪なんかペタペタくっつくし」
「まあね。でも、もうすぐ梅雨の時期だから、毎日そんなこと言わなきゃならないかも」
 直哉はそう言って苦笑した。
「あ〜あ、梅雨なんてなくてもいいのに」
 そう言って綾奈はソファに座った。
「じゃあ、私は朝食の準備をしちゃうから」
 千尋は綾奈に余計なことを突っ込まれる前に、台所に消えた。
「ねえ、直哉ちゃん」
「ん?」
「誰かのためになにかをするって、いいことだと思う?」
「どうしたの、突然?」
「いいから答えて」
「いいことか悪いことかはわからないけど、結局はそれをする本人の問題だと思うけど」
「本人の?」
「嫌々なにかをするんだったらあまり意味がないし。でも、心から望んでやれば、自己満足かもしれないけど、自分はその人のためになにかできたって思えるでしょ。ただ、どちらの場合でも、たいていはその誰かの意向は無視しがちなんだけどね。なにかをしても、それが望まれていないことだったら、嬉しさも半減するし。それでもいいんなら、やればいい。それがいいことだと信じてね」
 直哉は、新聞に目を落としたまま答えた。
「直哉ちゃんの場合はどうなの?」
「俺は、別に誰かのためなんて考えてないから。すべて自分のためだから。ただ、それがたまたま誰かのためになるってことはあるかもしれないけどね」
「そっか。そういうこともあるんだ」
「でも、それはあんまりお勧めできないよ」
「どうして?」
「それをするとまわりから自分勝手だとか、ほかのことに関して無責任だとか言われるからね」
 苦笑する直哉。
「まあ、ようはどんなことをするんでも、適度にやることが一番だよ。誰かのためになにかをしたいんならやればいい。喜んでもらえるかどうかはわからないけど、少なくともその人のためを思ってやったことなら、喜ばれなくても嫌がられることもないと思うけど」
「……そうだね」
 綾奈は小さく頷いた。
「でも、どうしてそんなこと訊くの?」
「ううん、なんとなくね。あっ、あたしも準備を手伝ってくるね」
 そう言ってそそくさと台所に行ってしまった。
「よくわからんな」
 直哉は首を傾げて、また新聞に目を落とした。
 
 一時間目。
 外は嵐の様相を呈していた。激しい風が窓を揺らし、雨が打ち付けられる。ようやく揃ったばかりの緑が悲鳴を上げているかのごとく、風に流されていく。
 窓際の生徒は窓から外を眺め、その光景に心奪われる。
 一見授業に集中しているように見えるほかの生徒たちも、窓が少し大きく鳴ると敏感に反応した。
 その時間担当の教師は、もう半ば自棄気味に授業を進めていた。
 二時間目。
 多少風は収まったが、雨は相変わらず強かった。
 休み時間にバカな男子が窓を開けたために、ある一角が濡れていた。
 授業は一時間目よりはまともに進んだ。
 三時間目。
 雨風ともに一時的に収まり、静かな授業だった。
 四時間目。
 直哉たちのクラスは体育の時間だった。
 もちろん校庭での体育はできないので、体育館での体育になった。
 桜林高校ではよく共学校でありがちな、男女別の体育は行っていない。とりあえずは同じように集まり、授業を開始する。内容によっては男子と女子を別々にすることもあるが、基本的には一緒だった。変わった教育方針である。
 それは、男子にとっては結構評判はよかった。まあ、理由は改めて言う必要もないと思う。
 女子は、半々だった。賛成の子もいれば、反対の子もいた。
「よし、今日はちょっと変わったことをする」
 若い体育教師が皆を前にそう言った。
「今日は男女混成のバスケットをやってもらう。男子も女子も三人ずつ六人でチームを作れ。男子は交代なし。女子は三人のうちふたりがコートでプレイ。残りのひとりは途中交代でやってくれ。試合は三分間のチーム総当たりにする。もちろん、勝率のいいところには点数をやるぞ」
 女子の間から起こったブーイングを無視し、体育教師は強引に進めた。
 チームは身長による不公平が生じないように、極力工夫された。
「楽勝だな」
 直哉たちのチームは、直哉評して曰く、そんな感じだった。
 一番身長の高いのは直哉。そのほかの男子は普通くらいのがひとりと、少し小さいのがひとり。ただ、その普通くらいのはバスケ部だった。
 女子は、なぜか運動神経のいいのが三人揃った。
 ちなみに、菜緒も雅美も違うチームである。
「いいか、俺と祐二にボールを集めろ。確実に決めてやる。な、祐二」
「おう。バスケ部の意地を見せてやる」
 直哉を筆頭として、妙に気合いが入っていた。
 そして、試合がはじまった。
 どのチームもロクに練習していないので、連携もバラバラで、なかなかまともな試合にならなかった。それでも、バスケ部がいるチームは、一応形にはなっていた。
 そんな中、無敵の強さを誇るチームがあった。
「よっしゃっ!」
 ボールがゴールに吸い込まれた。
「ナイス、直哉」
「おう、絶好調だぜ」
「直哉にボールをまわせば完璧だな」
「どんどんこの調子でいこうね」
「優勝はあたしたちのものよ」
 それは、直哉のチームだった。即席チームの割には連携もしっかりしていて、面白いように得点を重ねていた。
 直哉はもともと運動神経は抜群なので、バスケも問題ない。さらに、そんな能力も面白いことになるとさらに発揮された。ただでさえ雨で鬱としていた直哉である。そのストレスをこのバスケで思う存分発散していた。
「おら、次かかってこいや」
 直哉は悠然とコートに陣取っている。
「ふっ、おまえたちの快進撃もここまでだ」
「ボケあきか。ふっ、敵じゃねぇな」
「その余裕はどこから来るんだ? まあ、俺たちのチームはおまえのチーム以上の戦力だからな」
「なに……?」
「あはは、直哉」
「げっ、なんで菜緒が……うおっ、しかもバスケ部がふたりもいやがる。なんつう分け方してんだ」
 秀明のチームは確かに直哉のチーム以上の戦力だった。バスケ部がふたりいるのはもちろん、秀明も菜緒もスポーツは万能である。しかも有利な点は、決定的に背の低いのがいないということだった。
「どうだ? これでもまだ余裕でいられるか?」
「……上等だ。貴様に俺の真の実力を見せてやろう」
「ほざけ。あとで吠え面かくなよ」
 そして、即席因縁の戦いがはじまった。
「祐二、まわせっ!」
 鋭いパスが直哉に通った。
「一気に……てめぇ」
 直哉の前に立ちふさがったのは、秀明だった。
「そう簡単には抜かせないぜ」
「……どうかな?」
「なっ、に……」
 直哉は一瞬体を落とし、ステップを切って秀明との間を取り、そのままの姿勢で今度は秀明の脇をすり抜けた。
「サシの勝負ならおまえになんか負けないって」
 直哉は余裕で秀明をかわし、そして──
「せいやっ!」
「うおおっ、すげーっ!」
「おう、ダンクだぜ、ダンク」
 直哉は見事なダンクシュートを決めた。
 ダンクシュートはバスケの選手でもジャンプ力、判断力がなければできない。それを直哉はあっさりとやってのけた。
「きゃあぁっ、直哉くん、カッコイイ」
 試合のない女子から黄色い声援が飛ぶ。
「ふっ、どうだ、秀明」
「くっ……」
「直哉。大人げないよ」
「ふん、勝負だからな。たとえ相手が菜緒だろうと容赦はしない」
「もう……」
「どんどん行くぜっ」
 そして、試合は直哉の独壇場になった。それ以降はさすがにダンクはなかなか決められなかったが、ループシュートやスリーポイントシュートなどを立て続けに決め、終わってみれば圧勝だった。
「さすがは直哉だな。まさかダンクを見せるとは」
「まあ、半分はまぐれだけどな。さすがにあそこまで完璧に決まるとは思ってなかった」
 試合が終わり、直哉は未だ興奮状態にあった。
「でも、かっこよかったよ、直哉くん」
「うん、思わず見とれちゃった」
「そうだよ。私のまわりにいたみんなも、口々に言ってたもの」
「そう言われて悪い気はしないけど、所詮は体育の中だけだからな」
 そう言って直哉は謙遜した。
 しかし、そんな直哉に対する女子の評価が、さらに高くなったことは改めて言うこともないだろう。
「とにかく、残りも全部勝つ」
 
 昼休み。
「うぬぅ……さすがにバテた……」
 直哉は机に突っ伏していた。
「もう、あんなにムキになるからよ」
「別にムキになんかなってないって。ただちょっと本気になっただけだって」
 菜緒の言葉に、反論する。
「本気になって、それで全勝したんでしょ? でも、それって世間一般ではムキになったって言うのよ」
「むぅ……」
「もう……」
 菜緒は呆れてなにも言えないという感じだった。
『生徒の呼び出しをする。三年の倉澤。三年の倉澤。至急職員室まで』
 と、いきなり放送が入った。
「なんで俺が呼び出されるんだ?」
「なんかしたんじゃないの?」
「するか、んなこと」
 直哉は、渋々職員室に向かった。
 職員室は別段、いつもと変わらなかった。
「なんですか?」
 とりあえず担任のところへ。
「おう、倉澤。おまえに至急伝えたいことがあるって、電話が入ってるぞ」
「俺にですか?」
「そこの電話の外線一番だ」
 直哉は言われるまま受話器を取り、外線のボタンを押した。
「はい、もしもし」
『あっ、直哉?』
「母さん?」
 相手は雪恵だった。
「どうしたの、わざわざ学校にまで電話をかけてきて?」
『実はね、高知のおじさんが亡くなったのよ』
「えっ、おじさんが?」
 さすがのことに、直哉の声も裏返った。
『それで、私と和哉さんで高知の方へ向かうから。今日は帰れないわ』
「それはわかったけど、仕事はいいの?」
『風邪でダウンしてることにしてもらうから大丈夫。それと、今日は千尋も遅くなるから』
「それは知ってる。じゃあ、綾奈姉さんとふたりだけだね、とりあえずは」
『そうね。明日中には帰れると思うんだけど、どうなるかはわからないわ。千尋にも一応連絡はしてあるけど、直哉もそういうことで理解しといてね』
「わかった」
『じゃあ、わざわざ学校までかけてごめんなさいね』
「いや、火急の用ならしょうがないさ。それより、気を付けて」
『ええ』
 そして電話は切れた。
「どうしたんだ?」
 事情のわからない担任が訊ねた。
「親戚が亡くなったので、両親が葬式に出るってことです」
「そうか。おまえはいいのか?」
「近ければ参列したでしょうけど、ちょっと遠いので」
「わかった。まあ、こういうことは理屈じゃないからな」
「そうですね」
 直哉は、幾分沈んだ気分で職員室を出た。
 直哉にとって高知の伯父は、距離の関係かそれほど頻繁に会えた関係でもなく、比較的疎遠な親戚だった。ただ、それでも希薄な関係だったわけでもなく、年に何回かは、高知でとれた様々なものを送ってきたりもしていた。
 関係としては、和哉の兄にあたり、まだ五十になったばかりである。
「なんだったの?」
 教室に戻ると、数人の生徒が直哉の机のまわりに集まっていた。その中にもちろん菜緒もいる。
「母さんからの電話だよ」
「おばさんからの?」
「高知にいるおじさんが亡くなったって。だから、これから向こうに行くって」
「そう、なんだ」
 さすがに人が死んだということで、誰もなにも言えなかった。
「別におまえらがそんな顔することないだろ? 死んだのは俺のおじさんであって、おまえらにはなんの関係もない」
 直哉は、努めて明るく振る舞う。
「気にするなって」
 それでも、直哉が多少無理しているのは誰の目から見ても明らかだった。
 
 放課後。
 雨はいっこうに降り止む様子はなかった。
 直哉と菜緒は、傘を並べてバス停へと歩いていた。
 昼休みからあまり話さない直哉を、菜緒は心配そうに見ている。
「ね、ねえ、直哉」
「……ん?」
 声をかけてみたのはいいが、なにを言ったらいいのかわからなかった。
「ふう、悪かったな」
「えっ……?」
「おまえに余計な心配をさせてさ」
「う、ううん」
「やっぱりダメだな。いくら口では強がっても、親戚が死んだんだから」
「しょうがないよ。それに、それが普通だよ」
「……そうだな」
 直哉は嘆息混じりに言った。
「おまえにだけだな、こんなこと言えるのは」
「私になら、いくらでも言っていいよ」
「わかってるって。だからおまえに言ってるんだ」
「うん」
 人は弱気になっている時に、側にいてほしい人、話を聞いてもらいたい人が必ずいる。直哉のそれは、菜緒だった。
「まあ、明日になれば元に戻ってるさ」
 直哉は、それでも菜緒に心配かけないよう、微笑んで言った。
 
「ただいまぁ」
 綾奈が倉澤家に帰ってくると、鍵は開いているのに家の中が薄暗かった。
 もともと雨で薄暗いので、電気も早めに点けるはずである。
「直哉ちゃん……?」
 綾奈はリビングに顔を出したが、誰もいなかった。
「部屋かな」
 鞄を客間に置いて、二階に上がった。
「直哉ちゃん」
「……開いてるよ」
 部屋の中からくぐもった声が聞こえてきた。
 ドアを開けると、部屋は電気も点いてなく、薄暗かった。
「どうしたの、電気も点けないで?」
 綾奈は優しく声をかけた。
「……ごめん、綾奈姉さん。電気点けてなかったね」
 直哉はそう言って電気を点けるために立ち上がった。
 しかし、綾奈に抱き留められ、それはかなわなかった。
「直哉ちゃん、どうしたの?」
「……高知のおじさんが死んだんだ」
「えっ……?」
「それで、父さんと母さんが向こうに行った」
 直哉は、事実だけを淡々と感情を押し殺して伝えた。
「……おじさんは優しかったんだ。たまにしか行かない、会えない俺たちをいつでも快く迎えてくれて。だから──」
「もう、いいよ……」
 綾奈は、直哉をギュッと抱きしめた。
「人が死ぬって、ホントに悲しいんだね……」
 直哉は泣いてはいなかった。それでも泣きそうな顔をしていた。
「……姉さん。もう少し、このままでいてもいいかな?」
「うん……」
 直哉は今はただ、綾奈のぬくもりを、優しさを、人の温かさを感じていたかった。
 
「落ち着いた?」
「だいぶね」
 軽い夕食をとり、今はリビングにいた。
「はじめてだったからね、こんなこと」
「そうだね。身内が死ぬなんてそうそうないからね」
 綾奈が直哉に寄り添っていた。
「直哉ちゃんはそういうことに、もう少しクールなのかと思ってたけど」
「俺だってそうだよ。自分がこんなにも弱いなんて思ってもみなかった。これがもっと身近な人だったらどうなるんだろ」
「……そういうことは、考えなくてもいいの」
「そう、だね……」
 直哉は静かに目を閉じた。
「直哉ちゃん……」
 綾奈にはどうすることもできなかった。そういう問題は、やはり本人がなんとかするしかないのである。アドバイスくらいはできるかもしれないが、それを活かすも殺すも、やはり本人次第である。
 だから綾奈は、ただ寄り添ってひとりにしないことくらいしかできなかった。
 そのままでどのくらい時間が経ったのか。
 五分くらいか、はたまた一時間くらいか。
 とにかく、時間が流れた。
「ねえ、直哉ちゃん」
「ん?」
「直哉ちゃんを、襲ってもいい?」
「襲うって──」
「こうするの」
「ん……」
 綾奈は、そう言って直哉の唇を塞いだ。
「わかった?」
「……普通、こういうのって逆だよね。傷心の女性の心につけ込んで優しくして、みんな奪ってしまう。でも、俺はそんなに傷心じゃないよ。冷静に判断できてるから」
「そうみたいだね。ちょっと残念」
 そう言って綾奈は微笑んだ。
「でも……」
「あ……」
 今度は直哉の方からキスをした。
「今は、姉さんが愛おしいよ」
「直哉ちゃん……」
 綾奈は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「今は、あたしだけを、愛してほしい……」
 
 直哉は、綾奈を抱きかかえたまま、自分の部屋へ戻った。
 そのままベッドに横たわらせる。
 綾奈は、潤んだ瞳で直哉を見つめている。
「本当は野暮なことは訊きたくないけど、俺でいいの?」
「うん。あたしのはじめての人は、直哉ちゃんしかいないから」
 真っ直ぐな瞳で、綾奈はそう言った。
「ん……」
 直哉は、返事の代わりにキスをした。
「もっと、キスしよ……」
 今度は綾奈から積極的にキスを求める。
 唇をあわせ、舌を絡ませ、むさぼるようにキスを交わす。
 最初は稚拙なキスだったが、次第に情熱的なキスへと変わってくる。
「ん、はあ……直哉ちゃん……」
 唇を離すと、唾液が垂れた。
「こんなに気持ちよくなれるなんて、ウソみたい……」
「もっともっと気持ちよくなって」
 直哉は、綾奈の服に手をかけた。
 ブラウスのボタンをひとつずつ外していく。
 綾奈は頬をわずかに染めながらも、直哉の為すがままである。
 ブラウスを脱がせると、薄い紫のブラジャーがあらわになった。
「脱がせちゃうから」
「うん……」
 綾奈の助けを借りて、ブラウスを完全に脱がせる。
 そのまま、フロントホックブラのホックを外す。
 押さえつけられていた弾力のある胸が、息を吹き返したようにわずかに揺れた。
 直哉は、なにも言わずにその胸に触れた。
「あん……」
 綾奈の口からわずかに声が漏れた。
「ん、あふぅ……」
 手のひらで包み込むように胸を揉む。
「あ、ん……」
 弾力のある胸は、少しくらい力を入れても形が崩れることはなく、綺麗な形を保っていた。
 揉んでいると、次第に先端の突起が固くなってくる。
 直哉は、それを軽く指でつまんだ。
「あうっ」
 一瞬電気が走ったような感覚が、綾奈の中に流れた。
 指の腹で突起をこねくりまわす。
「や、んん、直哉ちゃん」
 綾奈は、口元に手を当て、声を抑えようとする。
 直哉は、空いているもう片方の胸に、舌をはわせた。
「んん、はぁん……」
 ゆっくりと舐めると、それにあわせ、綾奈は体をびくりと反応させた。
「ん、あんっ、あ、んん」
 舌先で突起を押したり、弾くように舐めたり、甘噛みしたり。
 あとからあとからわき起こってくる快感に、次第に身を委ねていく。
「はあ……」
 すっかり夢見心地になった綾奈を確かめると、今度はジーンズに手をかけた。
 それを、躊躇いもなく脱がせる。
 綾奈の足は、とても綺麗だった。思わず頬ずりしたくなるほどである。
 直哉は、そんな足を撫でる。
「や、くすぐったいよ」
「こんなに綺麗な足だから、つい触ってみたくなって」
「直哉ちゃんになら、いつでもいいよ」
 直哉は、足先から徐々に付け根へと手を滑らせる。
 そして、直哉の手がショーツにまで伸びた。
「んんっ……」
 ほんのわずかにショーツ越しに秘所に触れただけで、綾奈は敏感に反応した。
「姉さん、もうこんなに濡れてるよ」
「い、いや、言わないで……」
 そこは、もう十分すぎるくらいに濡れていた。
 直哉は、一気にショーツを脱がせた。
 一糸まとわぬ姿の綾奈は、本当に綺麗だった。
「すごく綺麗だよ、姉さん」
「ありがとう、直哉ちゃん」
 少し恥ずかしそうに、綾奈は微笑んだ。
 今度は、直に秘所に触れる。
「ひゃっ! あんっ、んん、んくっ」
 濡れてはいたが、それでも綾奈の秘所は、ぴっちりと閉じていた。
 直哉は、それを少し押し開き、指を挿れた。
「いっ……」
 異物の侵入に、綾奈は身を固くした。
 直哉は、ゆっくりと壊れ物を扱うように指を動かした。
「やっ、直哉ちゃん、こ、こんなの、はじめてっ」
 たとえ閉じていても、中からは蜜があふれていた。
 直哉は、入り口から徐々にほぐし、少しでもあとがつらくないようにする。
「んあっ、すごっ、すごいっ」
 綾奈は、今までにない快感に、次第におぼれていく。
 直哉は、今度は舌をはわせた。
「だ、ダメ、そ、そんなとこ、汚いよ、あああっ」
「姉さんに汚いとこなんてないよ」
 ぴちゃぴちゃと淫靡な音を立て、舐める。
 ほんのわずかに舐めただけで綾奈は敏感に反応し、また中から蜜があふれてくる。
「な、直哉ちゃんっ、あたしっ」
 直哉は、指と舌を使い、丹念に秘所を攻める。
「んんっ、やんっ、イっちゃうっ!」
 綾奈は、そのまま軽く達してしまった。
「ん、はあ、はあ……」
「大丈夫、姉さん?」
「う、うん、大丈夫。気持ちよかっただけだから。それより、直哉ちゃん」
「わかってるよ」
 直哉も服を脱ぐ。
 直哉のモノは、痛いくらいに怒張し、その時を待っていた。
「いい、姉さん?」
「うん、来て……」
 直哉は、モノを綾奈の秘所にあてがった。
「んっ……」
 綾奈の表情が強ばる。
 直哉は、そのままわずかに腰を落とした。
「いっ、くっ……」
 十分に濡れているとはいえ、綾奈の中は狭くきつかった。
 しかし、直哉のモノも全部が入ったわけではない。
「姉さん、もう少し力抜いて」
「う、うん……」
 それでも力は抜けない。
 直哉は綾奈を抱きしめ、キスをした。
「は、んん……」
 瞬間、綾奈から余分な力が抜けた。
 その機を逃さず、直哉は一気に貫いた。
「っ……!」
 綾奈は、声にならない声を上げ、痛みに耐えた。
 直哉は、しばらくそのままの体勢で綾奈を抱きしめた。
「あたしの中に、直哉ちゃんを感じるよ……」
 痛みからの涙なのか、嬉しさからの涙なのか、綾奈は目に一杯の涙を浮かべていた。
「やっぱり、はじめては痛いんだね」
「ごめん、俺がもう少し──」
「いいの。むしろ、この痛みが直哉ちゃんと繋がれたっていう証拠みたいなものだし」
「姉さん……」
 直哉は、そっとキスした。
「もう、動いても平気だよ……」
「うん」
 直哉はゆっくりと腰を動かした。
「んっ」
 少しだけ苦痛の声が上がった。
「いっ……」
 破瓜の血で滑りはよくなっていたが、すぐに綾奈から痛みが消えるわけではない。
 直哉は、できるだけ負担にならないよう最善の注意を払いながら、腰を動かした。
「んっ、くっ、あんっ」
 少しすると、声に甘いものが混じってきた。
「あうっ、んんっ、んあっ、直哉ちゃん」
 痛みから解放されると、今度は綾奈もぎこちなく腰を動かした。
「やっ、あっ、あっ、あっ、ダメっ」
 直哉も、少しずつ自分のペースで腰を動かす。
「んんっ、あっ、んあっ、いいっ」
 間断なく押し寄せてくる快感の波に、次第に飲み込まれていく。
「ああっ、も、もうダメっ、イっちゃうっ、ああっ」
 次第に直哉の動きも速くなってくる。
「あんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
「姉さんっ」
「直哉ちゃんっ」
 直哉は、綾奈を抱きしめる。
「ダメっ、ホントにっ、あたしっ」
「姉さんっ、俺もっ」
「う、うん、あたしの中に、みんなちょうだいっ、あんっ」
 そして──
「んんっ、いいっ、ああああああっ!」
「くっ……!」
 綾奈が達するのと同時に、直哉は白濁液を綾奈の最奥に放っていた。
「あぁ、熱いのが……あたしの中を満たしていく……」
 綾奈は、トロンとした目で、直哉を見つめる。
「直哉ちゃん、好き、大好き……」
「綾奈姉さん……」
 もう一度キスを交わすと、綾奈は心から幸せそうな笑みを浮かべた。
 たとえこれが一夜だけの夢であったとしても、今はただ、この瞬間を、幸せな瞬間を、消えるまで感じていたい。
 直哉も綾奈も、そう思っていた。
 
 夜半過ぎに雨は上がった。
 直哉は客間のドアを閉め、ふうと息を吐いた。
 ちょうど綾奈を客間に寝かせたところである。
 あのあとふたりは、もう一度抱き合った。それから綾奈は事切れたように眠ってしまい、直哉が客間まで運んできたのである。
 台所で水を一杯飲む。
 時間は、もうすぐ十二時である。
 しかし、まだ千尋は帰っていなかった。
 直哉はダイニングの椅子に腰掛けた。
 静かな家の中に、カチカチと時計の秒針の音だけが聞こえた。
「……もう少しだけ、待つか」
 冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、プルタブを押し開け、飲む。
 冷たいウーロン茶が、体中に染み渡っていく。
 時間的に言って、もう間もなく終電である。
 終電に乗ってくれば、それから十五分から二十分くらいで千尋は帰ってくるはずである。
「…………」
 直哉はなにも言わずに立ち上がった。
 ダイニングの電気を消し、廊下の電気も消す。
 そのまま玄関で靴を履き、表へ出た。
 雨は完全に上がっていて、夜のひんやりとした空気が湿気を含み、まとわりつくような感じになっていた。
 空を見上げると、月が綺麗に出ていた。
 直哉は、車庫から自転車を持ち出した。
「……行き違いにならないようにしないと」
 ライトを点け、走り出した。
 駅から家までの道は、ほとんどの場所はそこしかない道を通るのだが、何カ所かは複数の道が存在するところがあった。
 直哉は、若干スピードを抑えて駅に向かった。
 この時間に住宅街のこの近辺をうろついている者はほとんどいない。
 まったくの静寂の中を、自転車をこいでいく。
 そして、ふたつ目の問題の場所にさしかかった。
 夜道に安全な場所はないとは思うが、それでも多少は安全そうなところを選ぶのが人間である。
 直哉は、その道を選び、ゆっくりと自転車を進めた。
 少しすると、多少早足の足音が聞こえてきた。
 直哉は、ゆっくりと自転車を巡らせて、近づいていく。
「っ!」
 そして、ライトが相手を捉えた。
「姉さん」
「その声は……なおくん?」
 それはまさしく千尋だった。
「どうしてなおくんがこんなところに?」
「心配だったから、迎えに来たんだ」
「そっか、ありがと。でも、あやちゃんは?」
「……もう寝てるよ」
「ふ〜ん、そっか」
 直哉は自転車から降り、千尋と一緒に歩いた。
「ずいぶん遅かったね」
「うん。強引に飲み会に誘われちゃったから。これでもなんとか終電に間に合うように抜けてきたんだよ」
「じゃあ、まだ続いてるわけ?」
「たぶんね」
 そう言って苦笑した。見ると、確かに千尋の頬は幾分紅潮していた。
「でも、嬉しかったな」
「なにが?」
「こうしてなおくんが迎えに来てくれて」
「起きてたから。それにまだ雨が降ってたら、躊躇してたよ」
「じゃあ、この天気に感謝しないと」
 しかし、明るい会話はそこまでだった。
「父さんたち、明日には帰ってこれるのかな?」
「わからないわ。葬儀がどれくらいかかるかによって、飛行機に間に合うか間に合わないか決まるから」
「そうだね……」
「たぶん、あやちゃんは明日までだから、帰ってきたいんだろうけど」
「えっ、綾奈姉さん、明日までなの?」
「うん。もうほとんど終わったみたいで、荷物を戻したらいつでもいいみたい」
「そっか……」
「やっぱり、淋しい?」
「そりゃ、淋しいよ。家の中が急に静かになるから」
「ふふっ、そうだね。でも、麗奈さんが来ればまた賑やかになるわよ」
「麗奈姉さんじゃ、綾奈姉さんみたいにしっちゃかめっちゃかにはできないから」
「それもそうね。でも、なおくん。今日はやけにあやちゃんの肩を持つのね」
「……そうかな?」
「たった数日でも一緒にいたから、そうなの?」
「……かもね。結局、綾奈姉さんのこと好きだし。正直、このまま賑やかなままでもいいなって思うこともある。でも、それはあり得ないことだからね」
「うん」
 直哉は、急速に晴れ上がった夜空を見上げた。
「明日は晴れそうだね……」
「うん、そうだね……」
 きらめく星に、明るく輝く月。
 湿気の多さも気にならないくらい、美しい夜空だった。
「なおくん」
「うん?」
「手、握ってもいいかな?」
「いいよ。はい」
 直哉は、自転車を片手で支え、もう片方を千尋に出した。
 千尋は、その手をキュッと握った。
「家に着くまで、このままでね……」
「うん……」
 ふたりは、それきりなにも言わず、家へと歩いた。
 今はただ、お互いのぬくもりを感じていれば、なにもいらなかった。
 それだけで、悲しいことも、少しは癒されるような気がした。
 本当に、月の綺麗な夜だった。
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