いちごなきもち、めろんなきもち
 
第三章「ばなななきもち」
 
 一「五月三日」
 桜井瑞穂は悩んでいた。
 受話器を前にして、もうかれこれ三十分は悩んでいた。受話器の横には、小さなメモ用紙に書かれた電話番号がある。
「はあ……」
 それがなにに対しての溜息なのかはわからないが、かなり深い溜息だった。
「ただ電話するだけなのに、どうしてできないの?」
 それは、自分自身への苛立ちから来る言葉だった。
「ここで電話できなければ、私はこれまでのつまらない『桜井瑞穂』で終わるのよ。ただこの電話番号を押して、電話をすればいいの。ただそれだけなんだから」
 意を決して受話器に手を伸ばした。
 しかし──
「……はう〜」
 パタンと手が落ちた。
 瑞穂は、受話器とメモ用紙を手にとってベッドにダイブした。
「なんのためにわざわざ名簿を調べたのよ。電話するためでしょ?」
 うつぶせになり、メモ用紙を見えるところに置いた。
 改めてすべての番号を押した。
 緊張した面持ちで受話器を耳元へ持っていった。
 なんでもない呼び出し音が妙に耳障りに、そして、長く聞こえた。
 五回目の呼び出し音で、相手が出た。
『はい、倉澤です』
 電話先は直哉の家、倉澤家だった。
「あ、あの、私、桜林高校の桜井と申しますが」
 やっとのことでそれだけ言った。
『桜井? 先生なのか?』
 電話に出ていたのは、直哉だった。瑞穂は気が動転していて、それすらわからなかったのだ。
「あの、直哉くん?」
『ああ、俺だけど。わざわざ電話なんて、どうしたわけ?』
 直哉の口調はあくまでも穏やかだった。直哉の言葉を聞いて、瑞穂の心臓がトクンと高鳴った。
『どうしたの、先生? 電話口で黙られると、さっぱりわからないんだけどさ』
「あっ、ご、ごめんね」
 瑞穂は軽く頭を振り、もう何度となくシミュレートした言葉を口にした。
「あのさ、直哉くん。明日、時間空いてるかな?」
『明日?』
 一瞬の沈黙。その沈黙は、瑞穂にとってものすごく怖いものだった。
『明日は三日だっけ?』
「うん」
『なら空いてるけど。どうして?』
 その言葉を聞いて、瑞穂は思わずガッツポーズをした。
「その、ね、ちょっと私につきあってほしいんだけど……ダメ、かな?」
 最後の言葉は、限りなく弱気で、限りなく小さな声だった。
『……別に構わないけど』
「ホントっ!」
『ただ、俺、ちょっと余裕がないから、できれば先生のおごりってことにしてほしいんだけど』
「それくらい任せといて。私が全部おごってあげる」
『なら、異存はない。明日は暇だったからさ。これがあさってとかだったらダメだったけどな』
「じゃあ、運がよかったんだ」
『そうなるのかな。ところで、なににつきあうわけ?』
「それは、明日のお楽しみ」
『まあ、いいけど』
「じゃあ、明日、十時に駅北口改札でいいかな?」
『ああ、問題なし』
「楽しみにしてるからね、直哉くん」
『俺はなにを楽しみにすればいいのかわからないけど、まあ、いいか』
「じゃあ、こんな時間に電話してごめんね」
『いや、いいけど』
「じゃあ、おやすみなさい、直哉くん」
『おやすみ、先生』
 電話が切れ、ツーツーという待機音だけが聞こえてくる。
 瑞穂も電話の通話ボタンを切ると──
「やったーっ!」
 ベッドのスプリングが壊れるのではないかというくらい、派手にベッドの上で飛び跳ねた。
「うふふ、やったやったやった。明日は直哉くんと、デートだぁ」
 嬉しさ百二十パーセントの満面の笑みだった。
「っと、こうしちゃいられないわ」
 受話器とメモ用紙をテーブルの上に置くと、とりあえず目覚まし時計に手を伸ばした。
「遅刻だけは絶対に許されないわよ、瑞穂」
 絶対、というところにずいぶんと力が込められていた。
「六時にセットすれば大丈夫よね」
 そう言って目覚ましを六時にセットした。
「そして──」
 目覚ましを元の場所に戻し、今度はクローゼットの前に立った。
「明日は晴れるって言ってたから……」
 クローゼットにある服を片っ端から見ていく。
「やっぱり、明るい感じの色がいいかな?」
 そう言ってパステルカラー系の明るめの服を選んだ。
「あとは、どっち系にもっていくかよね?」
 どっち系とはつまり、大人っぽい服にするか、少しカワイイ感じにするかってことだ。その中で、大人っぽい方はさらに分かれる。ビシッと大人の女性に決めるか、ゆったりとしたまるで深窓の令嬢のような大人っぽさで決めるかである。
「やっぱり、これかな?」
 そう言って手にしたのは、ライトブルーのワンピースで、ふわっとした感じのいかにもお嬢様系の服だった。
「ああ、こんなことだったら直哉くんにそれとなく聞いておくんだったなぁ……」
 後悔先に立たず。瑞穂の脳裏にそんな言葉が浮かんで消えた。
「でも、スーツじゃいつもと変わらないものね」
 どうやらスーツはさっさと除外したらしい。
「となると、これかこれなんだけど、カワイイって年じゃないものね。はあ……」
 今度は、年齢との兼ね合いがとれなくて、カワイイ系を除外。
「結局、無難なところに収まるのよね」
 目の前に残っているのは、さっきのライトブルーのワンピースと、デザイン的に似たようなレモンイエローより若干薄い感じのワンピースだった。純白のワンピースもある。ツーピースもある。スカートは皆ふわっとした感じのものが多かった。
「やっぱりこれかな」
 そして手に取ったのは、やはりライトブルーのワンピースだった。
「どうしてもお気に入りになっちゃうのよね」
 どうやら、それはお気に入りらしい。
「とりあえず、服だけ決めておけば、大丈夫よね」
 瑞穂はそう言って安心したようにクッションに座り込んだ。
「はあ、今日、眠れるかな……」
 まるで遠足前日の小学生のような瑞穂であった。
 
 五月三日は、五月晴れという言葉を典型的に表したような、いい天気の日だった。
 直哉はいつも通りに起き、いつも通りに朝を過ごしていた。
 しかし、いつも通りに過ごせば次第にやることがなくなるのは当然だった。結果、八時にはなにもすることがなくなってしまった。
 倉澤家のほかの面々は、和哉は休日出勤ですでにいない。雪恵はアナウンサーという職業柄、暦通りにはなかなか休めない。千尋は、大学の友人と遠出していた。
 つまり、手持ち無沙汰な上に、誰もいないという究極的に暇な状況にあった。
「…………」
 八時半まではなんとかつまらないテレビで時間をつぶした。
「……駅までゆっくり行っても、三十分だからな」
 直哉は恨めしそうに時計を見た。
「……そして、早く行っても十五分前がいいところだよな」
 つまり、それはあと四十五分は時間をつぶさなければならないことを示していた。
「ったく……」
 直哉はとりあえず自分の部屋に戻った。
「それにしても、いったい俺になんの用なんだ?」
 昨日の電話からそればかり考えていた。
「なんか、とんでもないことになりそうな予感がするんだよな……」
 そう言って溜息をついた。
「……そりゃ、先生は綺麗だけど、いまいちよくわかんないからな」
 誰に言うでもなく、ついついそんなことが口をついて出てきた。
「あ〜あ、うじうじ考えててもしょうがないか」
 そう言って直哉は机の上から財布と腕時計、その他諸々を手に取り、ズボンやなんかに突っ込んだ。そして、ジージャンを羽織ると部屋を出た。
「かなり早いけど、家にいると余計なことばかり考えるからな」
 時計は、まだ九時前だった。
「行くか……」
 靴を履き、玄関を出た。
 外は眩しいくらいの陽差しにあふれていた。
 鍵をかけ、戸締まり完了。
 家を出たところで──
「おや、直哉くん。出かけるのかい?」
 晋也が車の掃除をしているところに出くわした。
「ええ、ちょっと野暮用で。おじさんの方こそ、車なんか掃除して、どこかへ行くんですか?」
「ははっ、別にそういうわけじゃないけど。なんとなく手持ち無沙汰で、気づいたら掃除をはじめてたよ」
「おばさんにどこかへ連れてけなんて言われないんですか?」
「菜緒がなにもなければ言われたさ。でも、菜緒が明日もあさっても予定があるから、今年はさすがになにも言わなかったよ」
 そう言って晋也は、ホッとしたように笑った。
「そういえば、明日は直哉くんたちと一緒に出かけるんだったね」
「ええ、そうですよ」
「決まってからずっと楽しみにしてたから、明日はよろしく頼むよ」
「こちらこそ」
「じゃあ、これから出かけるのにあまり引き留めるのも悪いから」
「はい。それじゃ、また」
「気をつけて行っといで」
 直哉は軽く頭を下げて、駅へ向かった。
 晋也のおかげで五分ほどつぶれたが、直哉は可能な限りゆっくりと歩いた。
 麗らかな陽差しを浴び、緑がよりいっそう濃くなっている並木道をくぐり、駅前へ続く大通りへ出た。
 いつもの朝なら結構交通量の多い通りだが、GWということもあってそれほどでもなかった。
 直哉の目に駅舎が飛び込んできた時、時計は九時半を少しまわっていた。
 そのまま真っ直ぐ駅舎を目指した。
 そして、北口改札に到着。
「…………」
 直哉は、ざっと広い改札前を見渡した。パッと見た目、それらしき人物は発見できなかった。
「ふう……さすがに早かったか」
 溜息をついた。
 と。
「直哉くん」
 不意に肩を叩かれた。
「……なんだ、もう、来て──」
 そこで言葉が途切れた。
「どうしたの、直哉くん?」
 肩を叩いた張本人、瑞穂は首を傾げて訊ねた。
「あっ、い、いや、なんかいつもとイメージが違ったから、なんて言うかその……」
 直哉は、瑞穂を前にしどろもどろに言い訳した。
「ふふっ、どうかな、似合ってる?」
 瑞穂は微笑んで、スカートの裾をちょこっとつまみ、軽くポーズを決めた。
「あ、ああ、似合ってる、似合いすぎてる」
「ホント? よかった」
 瑞穂は嬉しそうにもう一度自分の格好を見た。
 瑞穂はライトブルーのワンピースにバスケットを持っていた。髪は後ろでひとつにまとめてあり、比較的快活なイメージを与えていた。
「じゃ、行こっか」
「ちょ、ちょっと先生」
 瑞穂は、直哉の腕を取って先を歩く。
「どこへ行くわけ?」
「まだ内緒」
 そう言って瑞穂は、買っておいた切符を渡した。
 直哉はそれを素直に受け取り、自動改札を通った。
「あのさ、先生──」
「ちょっと待って、直哉くん」
「えっ……?」
「今日は私のこと、先生って呼んじゃダメ。せっかくの休みなんだからね」
「じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
「なんでもいいわよ」
 直哉はしばし考えた。
「年上ということに敬意を払って、瑞穂さんと呼ぶよ」
「うん、いいわよ」
「で、瑞穂さん」
「なに?」
 瑞穂は、笑顔で聞き返した。
「なんで腕組んでるわけ?」
 直哉はしっかと組まれた腕を見て、そう言った。
「減るもんじゃないんだし、気にしない気にしない」
 瑞穂は笑ってさらっと流した。
「ったく……」
 直哉は照れを隠すように、頭をかいた。
 ふたりの休日は、これからである。
 
 電車に揺られること一時間。
「つきあってほしかったとこって、ここなわけ?」
「そうよ」
 瑞穂は笑顔でそう答えた。
 ふたりが降り立った駅は、すぐ側に海岸の広がる駅だった。そう、ふたりは海へやって来たのだ。
「直哉くんは海、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、今の時期に来たって泳げないから」
「別に、海は泳ぐだけのためにあるわけじゃないでしょ? それに、今の時期にしかできないことだってあるんだから」
「波打ち際で波と戯れる程度だと思うけど」
「それを言ったら面白くないでしょ? 物事はもう少しポジティブに考えないと」
「……考え過ぎもどうかと思うけど」
 直哉は溜息をついた。
「まあでも、つきあうって約束したし、今日はとことんつきあうよ」
「それでこそ直哉くんよ。さ、行こ」
 瑞穂は直哉の腕を取って駆け出した。
「ったく……」
 直哉は、半ば呆れながらそれについていく。
 五月の海岸は、潮干狩りでもできる海岸でもない限り、それほど人はいない。波と風があればサーフィンやボディボードなどの海のレジャーを楽しむ人は結構いる。ただ、そういう点で言えば、今日はあまりいい日とは言えない。風は弱く、波も穏やか。初心者にはいいだろうが、本気でそれで遊び倒そうという人には、はっきり言って物足りない。
 そういうこともあって、直哉たちのいる海岸はそれほど人はいなかった。
「う〜ん、やっぱり海からの風って気持ちいいね」
「それは同感」
 ふたりは波打ち際に立ち、風を感じている。
 パッと見渡して視界に入ってくるのは、小さな子供を連れたふた組の家族、ほとんど波のない中、サーフィンに挑戦しているふたりの男。それと、防波堤のところにいるカップル。それだけだった。
「直哉くんは、泳ぐのは得意?」
「まあ、並以上にはできると思うけど。ただ、持久力がないから、泳ぐことに関しては」
「そうなんだ。私は泳ぐの好きよ。海でもプールでも、水の中にいるとすべてを忘れて心穏やかな気持ちになれるから。一瞬でも水と一体になれると、それがまた心地良くて。だからまたそれを求めて泳ぐの」
「ふ〜ん、俺はそんな難しいこと考えて泳がないからな」
「難しいことなんてないよ。水を感じればいいんだから。ただそれだけ」
 瑞穂はそう言って笑った。
「水、冷たいかな?」
 瑞穂は波打ち際にしゃがみ、水に手を伸ばした。
「ちょっと冷たいかな」
「そりゃ、まだ五月だから。せめて六月の終わりにでもならないと」
「でも、その時期だと人が多くなるからね」
 そう言って瑞穂は、サンダルを脱ぎ捨てた。
「入るの?」
「ちょっとだけね」
 瑞穂はおそるおそる足を伸ばした。
「きゃっ、やっぱり冷たい」
 水が足に触れると、すぐさま引っ込めてしまった。
「当たり前だって。それを承知で入ろうとしたんだろ?」
「だって、この誘惑には勝てないんだもの」
 瑞穂は意を決して、今度は素早く水に入った。
「つめた〜い」
 それでも瑞穂は水をすくい上げ、パッとまき散らした。
「まるで子供だな」
 直哉はそれを呆れた様子で見ている。
「むっ、言ったなぁ。それっ」
「うわっ」
 瑞穂は直哉に向かって水をかけた。
「ふふっ、どう?」
「うぬぬ、俺が反撃できないと思って。そっちがその気なら、こっちだって」
 そう言って直哉は、靴と靴下を脱いだ。
「反撃だ」
 そして、一気に水の中に入り、瑞穂に水をかけた。
「きゃっ」
「それ、もう一度」
「やったなぁ、私だって。それっ」
「うおっ」
「あはは、油断大敵」
「おのれ、もう手加減しない」
「きゃっ」
 勢いよく飛ばされた水が、瑞穂に降りかかった。
「あ〜ん、少しは手加減してよぉ」
 瑞穂は濡れたスカートの裾を持って、泣き言を言った。
「そっちからやってきたんじゃないか。だから、俺からやめることは、ないっ」
「きゃっ」
 直哉は容赦なく瑞穂に水をかけた。
「あ〜ん、わかったから、私の負け。だからもうおしまい」
「ちっ、しょうがない」
 とは言うものの、直哉の顔には笑みが浮かんでいた。
「あ〜あ、濡れちゃった」
 水から上がった瑞穂は、濡れてしまったスカートを見て、半泣きになった。
「自業自得だね。まあ、俺も人のことは言えないけど」
 そう言ってすっかり濡れてしまったズボンの裾を見た。
「まあ、これだけいい天気だから、帰るまでには乾いてるって」
「うん、そうだね」
「でも、髪くらいは拭いた方がいいんじゃないの?」
 瑞穂は髪をまとめていたリボンをほどいた。
 風にわずかに髪が揺れた。
 直哉は、一瞬その様子に見とれた。
「ん、どうしたの?」
「い、いや、なんでもない……」
 瑞穂に訊かれ、直哉は慌てて視線をそらした。
 と、瑞穂はなにやら思いついたらしく、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ひょっとして直哉くん」
「な、なに?」
「髪、長い方が好きなの?」
「ぐっ……」
 直哉はなにも言い返せなかった。
「そっか、直哉くん、長い方が好きなんだ。じゃあ、今日はこのままにしておこうっと」
「か、風とかで邪魔になるから束ねてた方がいいんじゃない?」
「今日、風弱いから大丈夫」
「うぐっ……」
 完全に主導権を握られた直哉であった。
「そういえば、直哉くんといつも一緒にいる杉村さんも髪、長いもんね」
「さ、さあ、どうだったかな」
「私の見たところでは、杉村さんは直哉くんのために髪を伸ばしてるんだと思うけどな」
「そ、それは……」
 それはまさにその通りだった。かつて直哉が菜緒の髪は長い方がいいと褒めたことから、今の髪型は来ている。
「ふふっ、よかった。私も髪が長くて」
 そう言って瑞穂は自分の髪に触れた。
「ねえ、直哉くん」
「な、なに?」
「もう、そんなに身構えないでよ。もう髪のことは言わないから」
「あ、ああ」
「少し、歩こ」
 瑞穂は直哉の答えを聞く前に歩き出した。
 直哉もそれに少しあとからついていく。
 その海岸は砂利浜ではないので、歩くのに問題はなかった。
 ふたりは一言も発せず、ただ、静かにゆっくりと波打ち際を歩いていく。
 しばらく歩くと、瑞穂が立ち止まった。
「ほとんど誰もいない海岸て、もの悲しくもあるけど、気持ちよくもあるね」
 唐突にそんなことを言った。
「なんでそんなこと言うわけ?」
「なんとなく、かな。正反対のことを同時に思って。それが口をついて出てきただけ」
 微笑む瑞穂。
「直哉くん。そろそろお昼にしようか」
「あ、ああ」
 直哉は首を傾げつつ、頷いた。
 瑞穂は持っていたバスケットの中から、レジャーシートを取り出し広げた。
「ひょっとして、瑞穂さんが作ってきたの?」
「うん。上手くできてるかどうかはわからないけどね」
 さらにバスケットの中から水筒、そして弁当を取り出した。
「おにぎりだけど、よかったかな?」
「いや、俺はその方がいい」
「そうなんだ」
 瑞穂の作ってきた弁当は、三角おにぎりに卵焼き、野菜のベーコン巻き、鶏の唐揚げ、トマトやレタスの簡単なサラダだった。
「どんどん食べてね」
「じゃ、まあ、遠慮なく」
 直哉はとりあえず、おにぎりに手を伸ばした。
 瑞穂は幾分緊張した面持ちでそれを見ている。
「…………」
 直哉はおにぎりを一口、二口食べた。
「どう、かな?」
「いや、旨いよ」
「ホント?」
「自分で言うのもなんだけど、これでも俺は料理にはうるさい方だからね。不味いものに旨いなんてことは絶対に言わない」
「よかった。ちょっとだけ心配だったんだ。直哉くんの口に合わなかったらどうしようって思ってたから」
「心配しすぎだって。よっぽどのことがない限り食べないなんてことないし」
 そう言って今度は卵焼きを食べた。
「甘めが好きなの?」
「うん。直哉くんは甘くない方がよかった?」
「いや、俺もどちらかって言うと甘めの方が好きだから」
「よかった。あっ、じゃあ、今日のは比較的直哉くん好みにできたかな?」
「だろうね」
 直哉は苦笑した。
 瑞穂にしてみれば、それは願ったりかなったりだった。もともと直哉のために作ったものなのだから、それがたまたま直哉好みになったのは、まさに奇跡に近かった。
「瑞穂さんは料理、得意なの?」
「得意ってほどじゃないけど、結構作りはするけどね」
「ふ〜ん」
「意外?」
「いや、そんなことはないけど。うちは姉さんも料理するから、そういうのは別に珍しいとか思わない」
「お姉さんはお料理、上手なの?」
「かなりね。まあ、昔からやってたから。うちは共働きだから、姉さんがよく母さんに代わって作ってるんだ」
「そうなんだ」
「だからって、別に姉さんと比べたりはしないから安心していいよ」
 直哉は一応フォローをした。
 それから程なくして瑞穂の作ってきた弁当は、綺麗になくなった。
「はい、直哉くん」
「サンキュ」
 直哉は瑞穂からお茶を受け取り飲んだ。
「ふう、満足満足」
「ふふっ」
 瑞穂はそんな直哉を見て、微笑んだ。
 時がゆっくり流れているような、そんな至福の時。
 五月の穏やかな陽差しが、ふたりを優しく包み込んでいた。
 
 昼を過ぎると、風が変わってきた。暖かな風が、少し冷たくなってくる。
 そんな中、直哉と瑞穂は別になにをするでもなく、ただ砂浜に腰を下ろし、時々他愛ない話をしているだけだった。
「ねえ、直哉くん」
「なに?」
「キス、してもいい?」
「はあ、なんでさ?」
「う〜ん、なんとなくかな」
「なんとなくでそんなことするわけ?」
「どうかな?」
 瑞穂は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ひとつ、聞いてもいい?」
「うん、いいよ」
「この前、どうして俺にキスしたわけ? しかも、不意打ちで」
「……直哉くんのこと、好きだから」
「本気でそう言ってるの?」
「本気よ」
 瑞穂の顔は、真剣そのものだった。
「……少し、歩こう」
 直哉はそう言って立ち上がった。
 瑞穂はなにも言わず、直哉についていく。
「……俺さ、よくわからないんだ」
「なにが?」
「瑞穂さんのこと、どう思ってるのか。好きか嫌いかって訊かれれば、当然好きだって答えるけど。でも、それがどういう好きかは、わかるだろ?」
「そうね」
「……俺が瑞穂さんのことをわからないってのは、ちゃんと理由があるんだ」
「理由?」
 瑞穂は首を傾げた。
「俺には、今の瑞穂さんが本当の瑞穂さんだとは思えない。なにか、自分を作っているような気がする。気がするんだけど、そうじゃないって感じることもあるんだ。だからこそわからない」
「…………」
 瑞穂は、直哉の言葉を複雑な表情で聞いている。
「本当の瑞穂さんは、いったいどこにあるの? どこにいるの?」
「……直哉くん」
 立ち止まった直哉の背に、瑞穂はそっと寄り添った。
「どうして直哉くんは、そんなことがわかっちゃうの?」
「どうしてって訊かれても困るけど、なんとなくかな」
「……直哉くん。人目につかないところに……」
 直哉は一瞬なにか言おうとしたが、あえてなにも言わなかった。
 その代わり、瑞穂の言う通り、人目につかないところを探し、そこへ向かった。
 海岸の砂浜の切れ目に岩場があり、そこは砂浜からは少なくとも人目にはつかなかった。海の方からだと多少は見えるが、海に出ている人がほとんどいないので心配するほどのことはなかった。
「瑞穂さん」
 直哉は瑞穂に声をかけた。
 瑞穂は一瞬体をびくっとさせた。
「話、聞くから」
 直哉の言葉は優しかった。
「その前に、キス、してくれるかな?」
 上目遣いに訊ねる。
 直哉はなにも言わず、そっとキスをした。
 瑞穂は潤んだ瞳で直哉を見つめ、ふっと視線をそらした。
「私ね、自分を変えたかったの」
「変えたかった?」
「イヤな自分を、変えたかった」
「…………」
「私、中学からずっと女子校だったの。女子校ってね、見た目よりもずっとどろどろとしたところなの。そんな中で私はみんなにもとけ込めず、いつもひとりでいた。私、ものすごい人見知りするの。だから余計に自分を押し込めて、みんなとは隔絶した生活を送って」
 瑞穂は、淡々と話していく。
「高校を卒業する時に、それじゃダメだって思って、大学では人と積極的につきあえる教師を目指したの。確かに表面上は高校までとは変わったわ。でも、私自身が変わったわけじゃない。あくまでも見た目だけ。そのまま大学生活を送って、そしてなんとなく卒業してしまった。別に心から先生になりたかったわけじゃないから、採用試験も受けなかった。でも、生活のために非常勤として学校に入って。二年間はただなんとなく、これまでと変わりなく過ぎていった。自分からなにかをするわけじゃなく、自分の想いを形にしないで。そして、また新しい高校に赴任することになった」
「それがうちの高校、というわけか」
「最初はいつも思うの。せっかく新しい学校に行くのに、同じじゃダメだった。でも、思うだけじゃダメ。そして、今回もそうなるかもしれなかった。でも、ならなかった。直哉くんに出会ったから」
 瑞穂は、真っ直ぐな瞳で直哉を見つめた。
「今までは誰かを好きになっても、ただその想いを自分の中に押し込めて、そして、その想いに勝手に酔って、自分をそれで慰めて……」
 瑞穂は自嘲した。
「直哉くん。お願い。私を変えて。今までの私を壊して」
「……どうすればいい?」
「私を抱いて。優しくじゃなく、壊れるくらいに乱暴に」
「……自暴自棄になってない?」
「大丈夫。ちゃんとわかってる」
「……わかった。でも」
「あっ……」
 直哉は瑞穂を抱きしめた。
「乱暴になんて、できない」
「ん……」
 抱きしめ、キスをし、髪を優しく撫でた。
「ダメ、だよ……そんなに優しくされたら、私……」
 瑞穂の目には、涙があふれている。
「自分を壊すことなんてないんだ。これまでの自分をちゃんと認めた上で、これからの自分にウソをつかなければ、自ずと結果は見えてくる」
「直哉くん……」
「そのきっかけを、俺が与えるよ」
「うん……」
 今度はお互いに求め合い、キスを交わした。
 
 岩場の間にある比較的平らなところにレジャーシートを敷き、瑞穂を横たえた。
 瑞穂は、下着姿で横たわっている。
「これも外すよ」
 直哉は、瑞穂のブラジャーを外した。
 圧迫から解放された形のよい胸が、よりその存在感をアピールしている。
「触るよ」
 瑞穂は小さく頷いた。
 直哉が瑞穂の胸に触れると、敏感に反応した。
「あん……」
 手のひらで包み込むように胸を揉む。
「ん、あふぅ……」
 せつない声が漏れる。
 ピンと屹立した突起を指でつまむ。
「はうっ!」
 強い快感に、瑞穂は体をのけぞらせた。
「感じやすいんだ」
「な、直哉くんに触られてるから……」
「じゃあ、もっともっと感じて」
 直哉は、突起に舌をはわせた。
「やっ、んんっ、あんっ」
 押し寄せる快感の波に、身を委ねる。
「あんっ、ダメっ、直哉くんっ」
 そこが外だということも忘れて、瑞穂は嬌声を上げる。
「直哉くんっ、んんっ、んあっ!」
 程なくして瑞穂は軽い絶頂に達した。
「はあ、はあ……」
 直哉は、間髪入れずに下腹部に手を伸ばした。
「あっ、んんっ」
 直に触れていないにも関わらず、敏感に反応する。
「もうこんなに濡れてる」
 ショーツの上から秘所をなぞる。
 しっとりと濡れたショーツの上からも、秘所の形がわかるほどだった。
「い、意地悪ぅ……」
 瑞穂は少し唇をとがらせた。
「じゃ、脱がせるよ」
 直哉は瑞穂のショーツを脱がせた。
「綺麗だよ、瑞穂さん」
「うん、ありがとう、直哉くん」
 直哉にそう言われ、瑞穂は嬉しそうに微笑んだ。
 もう一度キスをして、直哉は瑞穂の敏感な部分に直接触れた。
「んんっ、んあっ、直哉くんっ」
 瑞穂の秘所は、だいぶ狭かった。それだけで、瑞穂が処女であることがわかった。
 直哉は、指で丹念に秘所をほぐす。
「いやっ、んんっ、ダメっ、感じすぎちゃうっ」
 さらに強い快感に体が痺れてくる。
「ああっ、んん……」
 直哉は、指を離した。
「直哉くん……?」
「瑞穂さん。はじめてでしょ?」
「えっ、う、うん……」
「本当に、いいの?」
「うん。いいの。直哉くんに、私のはじめてをもらってほしいから」
 そう言って瑞穂は微笑んだ。
「わかった……」
 直哉は、ズボンとトランクスを脱いだ。
「いくよ」
「うん……」
 限界まで怒張したモノを、秘所にあてがった。
 瑞穂は、目を閉じる。
 直哉は、一気に腰を落とした。
「あくっ……!」
 瑞穂の顔が、苦痛に歪んだ。
「ぜ、全部、入ったの……?」
「ああ、入ってる」
「じゃあ、直哉くんとひとつになれたんだね」
「…………」
 直哉は瑞穂を抱きしめ、髪を優しく撫でた。
「直哉くんは優しすぎるよ……」
 瑞穂は泣いていた。
「直哉くん……もう動いていいよ」
 直哉は頷き、ゆっくりと動きはじめた。
「いっ、くっ……」
 まだ多少苦痛の色が見える。
「んっ……あっ、ん……」
 それでも、次第にそれも薄れてくる。
「あっ、んんっ、んっ、あっ、あっ」
 直哉の動きにあわせて、瑞穂もぎこちなく腰を動かす。
「んっ、はぁん、いいっ、直哉くんっ」
 瑞穂も次第に快感が大きくなる。
「直哉くんっ、私っ、感じてるのっ」
「瑞穂さんっ」
 直哉も、速く動く。
「あっ、あっ、あっ、あっ、んんんっ」
 そして、お互いに限界が近くなる。
「ダメっ、もうっ、んんっ、あああああっ!」
「くっ……!」
 瑞穂が達するのと同時に、直哉は瑞穂の中に白濁液を放った。
「あっ……熱い……」
「ご、ごめん、外に出せなくて……」
「ん、ううん、今日は大丈夫な日だから。それに、直哉くんを最後まで感じられたから」
「瑞穂さん……」
 直哉は心から瑞穂を愛おしいと思い、思い切り抱きしめた。
「あっ、また大きく……」
 繋がったままだったために、直哉の者が瑞穂の中でまた大きくなった。
「嬉しい……私を感じてくれて……」
 今度は瑞穂が直哉を抱きしめた。
「もう一度、抱いてくれる……?」
「でも──」
「私は大丈夫。少しでも長く、直哉くんを感じていたいから」
「瑞穂さん……」
「ね、直哉くん?」
 直哉は小さく頷き、キスをした。
 
 水平線に沈みゆく太陽を、ふたりは寄り添いながら眺めていた。
「直哉くん」
「ん?」
「今日は、ありがとう。私のワガママにつきあってくれて」
「……別に気にしてない。それに、今日は暇だったから」
「ふふっ、そうだったね」
 瑞穂は、屈託なく笑った。
「……瑞穂さん」
「なに?」
「少しだけ、好きになった」
「少しだけ?」
「まだまだこれからってこと」
「そっか。じゃあ、これからのがんばり次第で、せめて直哉くんの隣にいられるようにはなるのかな?」
「さあ、それは俺にはわからない。ただ、これだけは言える」
 直哉は、真剣な表情で言った。
「今の瑞穂さんは、作ってない、本当の瑞穂さんだって」
「直哉くん……」
「でも、だからって油断したらまだ元の木阿弥だから」
「もしそうなったら、また私に力を貸してくれる?」
「……あまり俺ばかりを頼らないでほしいけど、まあ、瑞穂さんの頼みなら、引き受けるよ」
「うん、ありがとう」
 直哉にも瑞穂にも、笑顔があった。
「あのさ、瑞穂さん」
「ん?」
「休み明けに、進路相談に乗ってくれる?」
「えっ、あ、うん、もちろん。私にできることだったら、なんでもしてあげる。私は直哉くんのためになんでもしたいんだから」
「不出来な生徒だから、大変だよ、先生」
「大丈夫。自分が不出来だったから、その反省点を踏まえれば完璧よ」
「じゃあ、よろしく、瑞穂先生」
「うん」
 海と空が朱に染まる中、ふたりはもう一度キスを交わした。
 
 夜、直哉と瑞穂は食事を済ませ、戻ってきた。
「じゃあ、もう遅いから帰るから」
「直哉くん」
「ん?」
「愛してる……って言ったら、困るかな?」
「……いいよ、別に。俺はそれをとりあえずは『愛情』という風に受け取っておくから」
「うん。じゃあ、直哉くん。愛してる」
 直哉は瑞穂を抱きしめ、キスをした。
「おやすみ、瑞穂さん」
「おやすみなさい、直哉くん」
 ふたりの休日は、夢のようなひと時を経て、夢の時間へ向かう。
 直哉を見送る瑞穂の顔には、もう迷いはいっさいなかった。
 瑞穂にとって、今日が新たなはじまりの日となった。
 
 二「五月四日」
 五月四日早朝。
 ここは江森理紗の部屋である。時間はまだ五時半になったばかり。それでも理紗はすでに起きて、着替えも済ませている。
「ふう……」
 鏡を前にして溜息をつく。
「今日、なんだよね」
 部屋にあるカレンダーの四日のところには、赤いペンで丸がつけられている。
「菜緒ちゃんも雅美ちゃんも、きっと私に気を遣ってくれたんだろうなぁ……」
 呟きはまるで人ごとのような感じである。
「秀明くん、か……」
 その名を口にしただけで、頬が上気してくる。
「……せっかくの機会、無駄にしちゃいけないよね」
 理紗はそう呟くと、自分を励ました。
「よしっ、がんばれ、理紗」
 理紗にとって、長い一日がはじまった。
 
「ふわぁ……」
 同日。
 ここは竹宮雅美の部屋である。起きたばかりなのか、まだ目はトロンとしている。
 カーテンを開けると、眩しい陽の光が差し込んでくる。
「う〜ん、いい天気。絶好の行楽日和ね」
 大きく伸びをする。
 すると、自然に目も覚めてくる。
「よしっ! 今日は理紗のためにがんばらないと。で、ついでにあたしは直哉くんと……うふふ」
 いろいろ企んでいそうな雅美であった。
 
「んが……」
 同日。
 ここは、長尾秀明の部屋である。まだ秀明は寝ている。
「……ん〜……」
 秀明の今日は、まだはじまっていない。
 
 同日。
 ここは杉村家の台所。台所に立っているのは、菜緒である。調理台の上にはたくさんの食材が並び、完璧に『お弁当モード』に入っていた。
「ずいぶんと張り切ってるのね」
「あっ、お母さん。おはよう」
「おはよう、菜緒」
 台所に顔を出したのは、美緒だった。
「そんなに張り切っちゃって、向こうに行ってからへばっちゃうわよ」
「大丈夫。私だってそんなに柔じゃないから」
 そう言って菜緒は、ぐっと拳を握った。
「ならいいんだけどね」
 それに対して美緒は、穏やかな笑みを返した。
「ふ〜ん、もうだいたいは終わってるのね」
「うん。あとは仕上げだけ」
「ねえ、菜緒」
「なに?」
 菜緒は手を止めずに聞き返した。
「これ、直哉くんのために作ってるの?」
「ううん。今日は違うよ」
「違うの?」
「うん。だって、今日はみんなで出かけるんだよ。それなのに、私だけ直哉のためっていうのもおかしいから」
「律儀なのね」
「そうなのかな?」
「そうよ。機会があればどんな些細な機会も逃さないで利用しないと、あとで後悔することだってあるわよ」
「それ、お母さんの経験談?」
「ち、違うわよ。あくまでも一般論として言っただけ」
「ふ〜ん、お母さんとお父さんの間でそういうことがあったのかと思った」
「ないわよ、そんなこと」
「でも、お父さんて学生時代、すごくモテたんでしょ? だったらそういうような状況だってあったんじゃないの?」
「わ、私たちのことはいいの。それに、過程はどうだろうと今こうして私たちは結婚して、菜緒だっているんだから。それでいいのよ」
「そういうものなのかな?」
 菜緒はそう言って卵焼きをひっくり返した。
「菜緒も気を付けないと、直哉くんを誰かにさらわれちゃうわよ。幼なじみっていう関係に安心してると、手痛いしっぺ返しを食らうこともあるんだから。特に直哉くんは見た目もカッコイイし、誰に対しても優しいし、人のことをちゃんと考えられるし。そんな完璧な男の子、ちょっとやそっとじゃ見つからないわよ」
「……そんなこと、わかってるわよ。私、ずっと直哉だけ見てきたんだから」
「そうね。だったら、もうなにも言わないわ。あとは、直哉くんがうちに来て、『お嬢さんをください』って言ってくれるのを待ってるわね。ふふっ」
「も、もう、お母さん」
「でも、油断大敵よ」
 美緒の言葉は妙に重かった。
 そして、菜緒はそれを心の奥に刻み込んだ。
 
「なおくん、おみやげよろしくね」
「暇があったらね」
「んもう、どうして任せてって言えないの?」
「ははは、冗談だよ、姉さん。俺が忘れるわけないだろ?」
「うん」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 直哉は家を出た。時間は八時十五分。今日の待ち合わせは、駅北口改札に九時だった。
 家を出ると、菜緒が待っていた。
「おはよ、直哉」
「うっす、菜緒」
「晴れたね」
「当然だ。俺の日頃の行いは完璧だからな」
「ふふっ、そういうことにしとくね」
「なにをぉ。俺に喧嘩売ってんのか?」
「べっつに。ほら、そんなことよりも、行こうよ」
「おいこら、そんなこととはどういうことだ? おい、菜緒」
「うふふ、置いてっちゃうよ、直哉」
 菜緒はそう言って駆け出した。
「うぬぬ、待て、菜緒」
 直哉もそれを追いかける。
「そら、捕まえた」
「あっ……」
 直哉が菜緒の腕をつかみ、そのまま直哉に抱かれるような格好になった。
「ったく、浮かれすぎだ、菜緒。少しは落ち着け」
「う、うん」
 そう言って直哉は、菜緒の腕を放した。
「あんまりはしゃぎすぎると、明日、楽しめないぞ」
「大丈夫だよ。今日はその辺は考えて楽しむから」
「ならいいけど」
 ふたりはゆっくりと駅へ歩いていく。
 菜緒はプリーツスカートにシャツにジャケットという格好。スカートは少し短めである。
 直哉はいつも通り、ジーパンにティシャツ、ジージャン。直哉らしいといえば直哉らしい。
 そんなふたりは、昨日よりも幾分強い陽差しの中を歩いている。
「直哉」
「ん?」
「今日はどれくらい楽しむの?」
「そうだな、どうせタダだし、死ぬほど遊び倒す、と言いたいとこだけど、それは無理だろうな。GWは普段よりも人出が多いだろうし。それに、五人で行動すると意外にまわれないからな」
「じゃあ、適度にってこと?」
「そうなるだろうな。まあ、俺が一番心配してるのは、雅美のことだけどな」
「雅美? どうして?」
「自分勝手な行動をとって、それに俺たちが振り回されるんじゃないかって思って」
「……ありそうだから、なにも言えない」
 菜緒は苦笑した。
「だから菜緒。おまえが雅美の手綱を握っててくれ」
「えっ、私が?」
「おまえ以外に誰があいつを押さえておけるんだ?」
「直哉だってできるでしょ?」
「俺はダメだ」
「なんで?」
「あいつと張り合ってしまうからな。ミイラ取りがミイラになりかねない」
「……それもありそう」
「だからおまえなんだよ」
「ふう、じゃあ、私とふたりでやればいいでしょ?」
「むぅ、まあ、それなら問題はないな。で、秀明と理紗には思う存分がんばってもらう」
「そうなるといいけどね」
「秀明だけだからな、なにも知らないの」
「なるようになるわよ」
「だな」
 
 九時少し前。改札口に直哉、菜緒、雅美、秀明、理紗の五人が揃った。
「よしっ、行こうぜ」
 一応ホストである秀明が、その場を取り仕切る。
 切符を買い、改札を抜け、ホームへ出る。
「雅美」
「ん、なに?」
「あまりあからさまなこと、するなよ?」
「わかってるわよ。あたしだって、理紗のこと考えてるんだから」
「ホントか?」
「なによぉ、信じないわけ?」
「いやぁ、別にぃ」
「むぅ、それは信じてない顔だ」
「そんなことないって。なあ、菜緒?」
「えっ、私は知らないよ」
「菜緒にまで見捨てられてる」
「うぬぬ、おまえら……」
「なにしてんだ、直哉?」
 一番最後にホームに出てきた秀明が、不思議そうに訊ねてきた。
「おまえがちんたらしてるのが悪い」
 そう言って直哉は、秀明の後頭部を叩いた。
「痛っ、なにすんだ、この野郎」
「ふん、とっとと行くぞ」
 ちょうどそこへ電車が滑り込んできた。
「ったく、なんなんだよ……」
 秀明は、憤然とした様子で電車に乗り込んだ。
 車内の席は、長椅子の一番端に直哉が座り、その隣に菜緒、雅美、理紗、秀明という並びで座っていた。
「秀明」
「ん?」
「どれくらいかかるんだっけ?」
「一時間ちょいだな。まあ、場所自体は駅の真ん前だから、問題はないだろう」
「んじゃま、俺は寝る」
 そう言って直哉は目を閉じた。
「なに、もう寝るの? まったく相変わらずね、直哉くんは」
 雅美が呆れたように言った。
 菜緒は、そんな直哉の顔を目を細めて見ている。
「ねえ、理紗」
「ん、どうしたの?」
 幾分緊張気味の理紗。
「理紗はなにが楽しみ?」
「う〜ん、いろいろとあって迷っちゃうけど、一番楽しみなのはやっぱり、東洋一の大観覧車かな」
「だよね。アクアランドの代名詞みたいなものだから、大観覧車は。乗らないで帰るわけにはいかないわよ」
「そ、そこまでは思わないけど」
「秀明くんはどう?」
「俺は、クラッシュトレインかな」
「ああ、あたしもそれは楽しみ。最新技術を駆使したっていうアクアランド自慢のアトラクションだからね」
「でも、そういう人気のアトラクションは今日みたいな日は待ち時間がね」
「そうよねぇ。それさえなければ最高なんだけど」
「上手く空いてる時に当たるといいんだけど」
「運試しよ」
「かなり分が悪いだろうけどね」
 秀明は苦笑した。
「まあ、なんにしても、目一杯楽しまないとね」
「そうだね」
 
「ふわ〜あ、眠い……」
 電車から降りた直哉の第一声。
「直哉、熟睡してるんだもん」
「しょうがないだろ。電車のあの揺れは、なんとも言えない心地よさなんだから」
「直哉くんの場合は、そういう状況じゃなくても熟睡しそうだけどね」
「そうかもね」
 菜緒と雅美は顔を見合わせて笑った。
「ったく、おまえらは……」
 駅改札を出て駅前の通りを渡ると、そこはもうアクアランドだった。
「じゃあ、チケット」
 秀明は各自に招待券を渡した。
 アクアランドの入場口は、GWということもあってものすごい混雑になっていた。少し離れたところにある駐車場はすでに満車に近く、それでもなお入ろうとしている車で、周辺の道路は渋滞が発生していた。
 そんなこととは無縁な直哉たちは、すでに中に入っている。
「とりあえずどうする?」
 秀明が直哉に意見を求めてきた。
「どうするって言われてもな、軒並みあの状況じゃ……」
 そう言ってすでに長蛇の列ができているアトラクションを指さした。
「五人で動くのは得策だとは思えないな。いつふたつに分断されるかわからないし」
「そうだな。じゃあ、とりあえず二手に分かれるか?」
「それはそれでいいんだが、どう分けるんだ?」
 直哉は、ふたりの後ろにいる菜緒たちを見た。
「俺はおまえとだけはイヤだからな。こんなとこまで来て男といるなんて、正気の沙汰じゃない」
「うむ、それは俺も同感だ」
「なら、菜緒たちに決めてもらうか」
「それがいいな。まあ、どうなるか見えてる気もするけど」
 秀明は苦笑した。
「というわけだ。あとはおまえたちが決めてくれ。俺と秀明はそれに従う。二、三に分かれるんだからな」
 直哉がそう言うのと同時に、菜緒がささっと直哉の方に寄った。
「まあ、菜緒ちゃんはそうだろうな」
「雅美と理紗はどうする?」
 雅美はちらっと理紗の方を見た。
「あたしは直哉くんとまわるわ」
「じゃあ、理紗は秀明とだな。いいな、理紗?」
「えっ、あ、うん」
 理紗は耳まで真っ赤になって頷いた。
「んじゃ、あとはどこで待ち合わせるかだけど、これだけの人でも確実に落ち合える場所ってあるのか?」
「う〜ん、確実ってのはなかなか難しいな」
「あそこでいいんじゃないの?」
 そう言って雅美が、ある場所を指さした。
「ん、どこだ?」
「ほら、あの大きな噴水の前。ここは指定されたところ以外で食事なんかはできないから、そういう人たちが来る心配もないし」
「まあ、そこら辺が妥当なところなんだろうな」
 直哉は時計を見た。
「ピーク時を避けて、一時くらいでいいか?」
「俺は構わないけど。みんなもそれでいい?」
 秀明の言葉に一様に頷いた。
「じゃあ、そういうことで、行くか」
「うん」
「秀明」
「なんだ?」
「余計なこと、するなよ」
 直哉は秀明の耳元でそうささやいた。
「な、なんだよ、その『余計なこと』って」
「さあな。ともかく、ちゃんと理紗をエスコートしろよ」
「わかってるって」
 直哉はそう言って秀明の背を押した。
 
「三列に並んでお待ちください」
 係員がそう言って列をまわっていく。
 普段は二列で待たせるところを、あまりの人出のため、列をひとつ増やして対応していた。それでも最後尾は二時間待ちだった。
 これはほとんどすべてのアトラクションでのことで、どこが空いているとかいう次元の問題ではなかった。
 屋外、屋内問わず、人、人、人……だった。
 そんな中のあるアトラクションに直哉たちは並んでいた。
「これじゃ、ほとんどまともに楽しめないな」
 直哉は背伸びして、自分の前と後ろを見た。
「そうだね。でも、それをある程度承知でGWに来たんだから」
「まあな」
「こんなんじゃ、人気アトラクションは終日長蛇の列ね」
「雅美はなにが目的なんだ?」
「あたしは大観覧車とクラッシュトレイン、それとキャッスルオブデッド」
「ああ、聞いたことはあるな。確かとんでもない広さのお化け屋敷みたいなもんだろ」
「そうよ。世界一の広さで、ギネスに申請中なんだから」
「ふ〜ん。で、菜緒はどうなんだ?」
「私はこれと言ってないけど、でもやっぱり、観覧車には乗ってみたいな」
「ということは、どこかでほかのやつには見切りをつけてそっちに並ばないとダメだな」
「特に夕方以降なんて、ある意味昼間よりすごいかもね」
「どうしてだ?」
「そんなの決まってるでしょ? 昼間は家族連れとかが多いけど、夕方からはカップルが多くなるのよ。ゴンドラは密室だからね」
「なるほどな」
 直哉は妙に納得している。
 と、直哉の袖を誰かが引っ張った。
「ん、どうした、菜緒?」
 直哉が振り向くと、菜緒が袖を引っ張っていた。
 菜緒は上目遣いに直哉を見つめている。それだけで直哉は菜緒がなにを言いたいのか察したらしい。
「わかったから」
 ポンポンと頭を叩いた。
 菜緒もそれに笑顔を返した。
 雅美はその様子を見て、少しだけ複雑な表情を浮かべた。
「菜緒。別に心配しないでも、直哉くんを取ったりしないから大丈夫よ」
 雅美は、あえてそう言って笑った。
「べ、別にそんなこと思ってないけど……」
 菜緒は慌てて言い訳する。
「じゃあ、どうして直哉くんの腕をつかんだままなの?」
 雅美に意地悪く言われ、菜緒は少し俯いた。
「ったく、こんなところでやめろって」
 直哉はそう言って雅美の頭をポンポンと叩いた。
「今日はあくまでも秀明と理紗のバックアップが俺たちの役目なんだからな。自分たちのことは二の次にしとけ」
 直哉にそう言われては、ふたりとも言い返す言葉もなかった。
 惚れた弱み、とでも言うのだろうか、菜緒にしても雅美にしても、直哉の機嫌は損ねたくないし、でも、自分を見てほしい。複雑な心境である。
 そんなふたりの想いを知ってか知らずか、直哉は相変わらずなにを考えているのかわからない表情で列の先を見ていた。
 
 秀明と理紗も、とあるアトラクションに並んでいた。
「すごい人だね」
「う、うん」
 理紗はさっきからずっと俯き加減である。
「こんなんじゃ午前中はふたつまわれればいい方だね」
「う、うん」
 気のない返事に聞こえる理紗の返事に、秀明は思わず溜息をついた。
「あのさ、理紗ちゃん」
「は、はい」
「ホントに俺と一緒でよかったの?」
「えっ……?」
「なんか、見てるとつまらなそうに見えるからさ」
「そ、そんなことは、ないよ。私は秀明くんと一緒でよかったって思ってる」
「それならいいんだけどね」
「あの、秀明くんの方こそ、私とでよかったの?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「私より菜緒ちゃんや雅美ちゃんの方が一緒にいて楽しいんじゃないかって思って」
「……直哉ならそうかもしれないけど、俺は三人に優劣なんかつけてないから。それに、菜緒ちゃんが俺と一緒にまわるなんて、万にひとつもないよ」
「それはそうだと思うけど。でも、雅美ちゃんなら──」
「なんだかんだ言っても、雅美ちゃんが一番なんでも言えるのは直哉だからね。こっちも可能性は低かったと思うよ。でもだからって、理紗ちゃんが残ったなんて考えてないから」
 そう言って秀明は笑った。
 秀明と理紗は実際の関係は無視しても、お似合いのカップルだった。
 秀明は直哉には多少及ばないものの、かなりカッコイイ部類に入る。
 理紗も、そこらの女子高生よりはるかにカワイイ。セミロングにきちんと切り揃えられている髪に、愛らしい目が特徴。おとなしい性格を表しているように、白のワンピースにスカートはロング。まあ、これが一番理紗らしいのだが。
「理紗ちゃんはさ」
「はい」
「どういったところが好きなの?」
「私は、風を感じられるところが好き」
「風?」
「山の上とか、海辺とか、高い建物の上とか。自然に吹いている風を全身で感じられるところ」
「ふ〜ん、なるほどね。じゃあ、ここの観覧車も窓が開けば最高なんだね」
「でも、ここみたいに大きな観覧車は窓が開かないから」
「だよね」
 理紗は溜息をついた。
「理紗ちゃんと菜緒ちゃん、雅美ちゃんはつきあいは長いの?」
「中学校の時からだから、もう五年かな」
「そうなんだ」
「秀明くんだって、直哉くんと長いんでしょ?」
「まあね。ただ、中学は学区の関係で分かれたけど。直哉とはもう腐れ縁だから」
「あの、ちょっと聞きにくいことを聞いてもいいかな?」
「別にいいけど」
 秀明は首を傾げた。
 理紗は意を決して訊ねた。
「あ、あの、秀明くんは今、つきあってる人って、いる?」
「いや、いないよ。というか、これまでつきあったことなんてないから」
「えっ、ホント?」
「恥ずかしい話だけどね」
 そう言って秀明は苦笑した。
「もうひとつ、いいかな?」
「いちいち俺に聞かなくてもいいよ。俺はなんでも答えるから」
「う、うん。じゃあ、今、好きな人って、いる?」
「う〜ん、それは難しい質問だね」
「どうして?」
「自分でもよくわからないからだよ。感覚的にわからないんだ」
「感覚的に?」
「まあ、ようは本気で人を好きになったことがないからなんだろうけどね」
「そうなんだ」
 理紗はホッとしたような複雑な表情を浮かべた。
「でも、俺のそんなこと聞いてどうするの? 別に面白くもなんともないでしょ?」
「えっ、ううん、すごくためになったよ。うん、少なくとも私には……」
「そう?」
 鈍い秀明であった。
 
 一時過ぎ。噴水前に集まった直哉たちの顔には、一様に疲れが見えていた。アトラクションで楽しむ時間よりも、並んでいる時間の方が圧倒的に長いのだから、仕方がないのかもしれない。
 そこから持ち込みの食事をとれる場所に移動。最近は往々にして食事持ち込みを禁止しているところもあるが、アクアランドはそういうことはなかった。
 昼食は、菜緒と理紗の手作り弁当だった。
 中身は定番のものだったが、作り手がよかったのかあっという間になくなった。
「さてと、腹ごしらえも済んだことだし、後半戦突入といくか」
「午後はどうするんだ?」
「とりあえずは午前中と同じでいって、そうだな、四時半くらいにもう一度集まろうぜ」
「集まるのはいいけど、あれはどうするんだ?」
 秀明はそう言って観覧車を指さした。
「まあ、なんとかなるだろ。ああいうものはラストにするのが常套だからな」
「そうだな。どうせ明日も休みなんだし」
「というわけで、行こうぜ、菜緒、雅美」
「うん」
「オーケー」
 直哉たちはそう言ってさっさと行ってしまった。
「じゃあ、俺たちも行こうか」
「うん」
 秀明と理紗の第二ラウンドもはじまった。
 
「なあ、菜緒。ホントに大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫。平気だよ、たぶん……」
 直哉たちは今、キャッスルオブデッドに並んでいた。しかし、並んでいる菜緒の顔には明らかに動揺が見て取れた。
「別に無理して入らなくてもいいんだぞ」
「で、でも、せっかく来たんだから」
「入る前からそんなんじゃ、入ったらどうなるのよ?」
「まったくだ」
 キャッスルオブデッドはその規模もだが、その怖さも他の追随を許していなかった。中にはあまりの恐怖に失神して運ばれる人もいるという、多少問題もあるアトラクションだった。それでも、人間は怖いもの見たさで、一度は入ってみようと思う。その証拠が長蛇の列に現れていた。
 そして、直哉たちの順番はもうすぐだった。
「引き返すなら今のうちだぞ」
「……だ、大丈夫……」
 声のトーンもだいぶ落ちている。
「ったく」
「それでは次の方、どうぞ」
 係員が直哉たちを呼んだ。
「館内は大変暗くなっておりますので、足下にだけはご注意ください。それでは無事の帰還をお祈りしております」
 わざとらしくそんな事を言う係員。重厚なドアが開き、中からはおどろおどろしい音楽が流れてきた。
「行くぞ、菜緒」
「う、うん……」
 菜緒は、入る前から直哉にしがみついている。
 直哉たちが入ると、ドアがけたたましい音を立てて閉まった。
「まだ比較的明るいな」
「そうね」
 直哉と雅美は平然とそんなことを言う。
 菜緒はまったくなにも見ていない。
「これじゃ出るのに相当時間かかりそうだな」
 直哉は溜息をついた。
 中はその名の通り、城を模して作られており、廊下、壁、ドアに至るまでドイツの古城風に統一されていた。
「こういうものって、それとわかってると意外に大丈夫なんだけどな」
「まあね。でも、油断してると──」
 突然大音響が響き渡り、廊下の両脇にある部屋からたくさんの異形のモノが現れた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 目を閉じている菜緒も、感覚的にそれを感じ取ったのか、悲鳴を上げた。
 耳をつんざく悲鳴に、直哉は思わず顔をしかめた。
「ったく、こんなもんどうってことないだろ」
 直哉はそう言ってまったく動ぜずにどんどんと先に進んでいく。
 雅美も似たようなものだった。
「へえ、よくできてる。やっぱりハリウッドの技術協力があっての技よね」
 呑気にそんなことを言っていた。
 広大な城の中を進む三人。直哉は相変わらず飄々としている。菜緒はさっきからずっと叫びっぱなしで、半分泣いている。雅美も多少は怖くなってきているらしく、だいぶ声が出なくなってきた。
「菜緒、大丈夫か?」
「……だ、大丈夫じゃないかも……」
「だから言ったんだ」
「……で、でも……」
「まだ半分くらいしか来てないはずだからな。それに、マジなのはこれから先だってことだからな」
「ひっ……お、脅かさないでよぉ……」
「別に脅かしてなんかいないけど」
 そう言って少し後ろを歩いている雅美を見た。
「雅美もだんだんとおまえみたいになってきてる」
「……ま、雅美も?」
「ああ。とはいえ、今更どうにもならないけどな。で、少なくともおまえくらいはなんとかしないとマジで動けなくなるからな」
「あっ……」
 直哉は菜緒を自分の前に置き、自分の方を向かせた。
「どうせ前見てないんだから、こっち見てても同じだろ」
「う、うん……」
「とりあえず、これでしばらく行くぞ」
 直哉は菜緒の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「それと、雅美。おまえももう少しこっちに来い」
「えっ、あたしも?」
「そうだ」
 そう言って直哉は、雅美の腕を取った。
「これで多少はましだろ?」
「うん、ありがとう」
 キャッスルオブデッド後半。
 そこは無意味な音楽はいっさいなく、効果音も必要以上にはなかった。それがかえって人の恐怖心を煽った。効果音はなくとも、前を進んでいる人の悲鳴は聞こえてくる。それがイヤな効果音になっているのは間違いなかった。
 しかし、そんなことも直哉にはまったく関係なかった。普通だったら心臓が飛び出しそうなほど驚くような場面でもいたって冷静で、あくびまでする始末。キャッスルオブデッド自慢の仕掛けも、直哉の前には形無しだった。
「おっ、そろそろ終わりみたいだな」
 前の方から悲鳴が聞こえなくなり、その代わりに雑踏のざわめきが聞こえてきた。
 直哉たちが中に入ってから四十分後。
「ふう、ようやく出られたな」
 ついに出口にたどり着いた。
「大丈夫か、ふたりとも?」
 直哉は菜緒と雅美に声をかけた。ふたりとも直哉にしっかりとしがみついている。
「おい、もう外に出たんだぞ」
 しかし、ふたりとも直哉から離れようとはしない。
「ったく……」
 直哉は溜息をついた。
「もう少しだけだからな」
 直哉も心地良い重さを、もう少しだけ感じていたかった。
 
 秀明と理紗は、アトラクションに並んでいるのかと思いきや、アクアランド内にあるオープンカフェにいた。
「でも、よかったの? せっかくの機会を」
「うん。あと私が乗ってみたいのは、あの大観覧車だけだから」
 そう言って理紗は微笑んだ。
 理紗もだいぶ自然な笑みを秀明に見せられるようになっていた。
「まあ、理紗ちゃんがそう言うならそれでもいいんだけどね」
 秀明はアイスコーヒーを一口飲んだ。
「なんか、秀明くんとこうしてるのって、不思議な感じだね」
「確かにね。ちょっと俺なんかじゃ役不足って感じだけど」
「そんなことないよ。私の方こそ秀明くんと釣り合わないよ」
「それは絶対にないと断言できる。試しにそこら辺にいる誰かに聞いてみても、必ずそう言うよ」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。理紗ちゃんはそんじゃそこらの女の子よりずっとカワイイんだから」
「えっ……?」
「あっ……」
 つい口走ったことに、秀明はぱくぱくと口を開け、言われた理紗は真っ赤になって俯いている。
「あっ、いや、その、それはなんというか……」
「……秀明くん」
「は、はい」
「今の言葉、信じてもいい?」
「えっ……?」
「いい、かな?」
 真剣な眼差しの理紗。
「……もちろんだよ。ウソは、言ってないよ」
 それに対して秀明も、真剣な表情で答えた。
「うん」
 いつの間にか、ふたりの間にはいい雰囲気が漂っていた。
 
「うぬぅ……」
「大丈夫、直哉?」
「まだ三半規管がおかしい……」
「だらしないなぁ、あれくらいで」
「しょうがないだろ。人間誰しも得手不得手があるんだから」
 直哉はベンチに座り、青い顔をしている。
 なぜそうなったのかというと、クラッシュトレインというアトラクションに乗ったからである。クラッシュトレインはいわゆるジェットコースターである。ただ、過激さが多少問題である。
 傾斜角、ループの数、最高速度、どれをとっても国内最高レベルだった。
「直哉くんこそ、無理しなければよかったのに。あたしと菜緒だけでも、ね」
「うん」
「ふん、おまえら人のこと言えるのか? 誰のおかげでまともにあそこを出て来れたと思ってるんだ?」
「あ、あたしは別に、大丈夫だったわよ。まあ、菜緒は絶対に無理だったでしょうけど」
「へえ、大丈夫だって割には、俺の腕をつかんで放さなかったのは、どこの誰だ?」
「うっ、そ、それは……」
「それに、俺はおまえらほど迷惑かけてないだろ?」
 直哉は、菜緒と雅美を見た。
「ったく、それぞれが楽しめればいいんだよ。多少のことには目をつぶれ。俺はおまえたちのことは目をつぶってやるから」
「ま、まあ、そう言うなら、あたしもね」
「私はもともと気にしてないよ」
「だけどな、菜緒」
「ん?」
「おまえはもうああいう類のものには入るな。今日はたまたま俺たちがいたからよかったものの、おまえのことをよく知らない奴は、なにが起きたのかって思うぜ」
「……うん、わかった」
 菜緒は、ちょっとだけ淋しそうに頷いた。
「そんな顔するなって」
 直哉はポンポンと菜緒の頭を叩いた。
「もしどうしても、ホントにどうしても行きたかったら、俺がつきあってやるから」
「直哉……」
「よし、そろそろ行くか」
 ポンと菜緒の肩を叩き、直哉は立ち上がった。
「うん、そうだね」
「おみやげ買わないとね」
 直哉たちは、待ち合わせ時間まで、アクアランド内の土産物屋に向かった。
 
 四時半にもう一度集まった直哉たちは、今日の締めくくりにアクアランドで最も人気のあるアトラクション、大観覧車に並んだ。
 夕方近くになり、大観覧車に並ぶ客層が一変した。
 それまではごく普通の遊園地なんかでも見られる家族連れなどが主だったが、今は家族連れはほとんど見受けられず、カップルばかりになっていた。
 ただ、この場合のカップルは決して若いカップルばかりではなく、熟年のカップルも含まれていた。
 そんな中で、直哉たちは多少浮いた形になっていた。もっとも、本人たちはまったく気にもしていないが。
「噂に違わない盛況ぶりね」
 雅美は前と後ろを見てそう言った。
「噂に振り回されてるのは俺たちもそうだろ?」
「そうなんだけどね」
「でも、やっぱりあの一番上から見える景色は、最高だろうね」
「まあな。この近辺には高い建物なんてないからな」
「高所恐怖症じゃない限り、誰でも楽しめるわよ」
 直哉たちがそんな会話を交わしている後ろでは、秀明と理紗がいい雰囲気で話をしていた。
「この時間になってもこれだけ並んでるってことは、それだけの価値があるってことだよね」
「そうだね」
「あの一番上からは、どんな景色が見えるんだろ」
「この時間だと、海に沈む夕陽が見られるかも」
 確かに陽はだいぶ西に傾いていた。
「理紗ちゃん」
「うん?」
「最後まで楽しもうね」
「うん」
 その様子を聞いていたいた直哉は、意外そうに言った。
「なんか、いい感じじゃないか」
「うん」
「心配することもなかったのかもね」
「秀明も理紗も自然に話せてるし、問題なしだな」
「あとは、ちゃんと理紗が自分の想いを伝えられればね」
「だな」
 そして、待つこと一時間。
 ようやく直哉たちに順番がまわってきた。
「次の方どうぞ」
 係員がゴンドラの扉を開け、呼びかける。
「んじゃま、秀明。お先にな」
「おう」
 直哉が先に乗り込み、菜緒と雅美が乗り込む。
 扉が閉められ、ゆっくりと上がっていった。
 そのすぐあとに秀明たちもゴンドラに乗り込んだ。
 
 ゴンドラの中では、直哉がひとりで座り、菜緒と雅美が一緒に座っていた。
 大観覧車はその名が示す通りとても大きい。そのため、一周にかかる時間もかなりのもので、およそ十五分かかる。
 十五分間の空の密室は、カップルにとっては最高のシチュエーションだった。
「なあ、菜緒、雅美」
「ん?」
「なに?」
「今日は楽しめたか?」
 直哉は純粋な疑問を、そのままぶつけた。
「心配?」
 菜緒は、悪戯っぽい笑みを浮かべて聞き返した。
「ん〜、多少はな」
 直哉は素直に認めた。
「心配しなくても大丈夫だよ。十分に楽しめたから」
「そうよ。直哉くんはなーんにも心配しなくてもいいの」
 菜緒と雅美は、心からの笑顔を直哉に向けた。
「ったく……」
 直哉は嬉しそうに、それでも照れを隠すそうに悪態をついた。
「直哉」
「ん?」
「隣、行ってもいい?」
 菜緒の言葉に一番反応したのは、雅美だった。
 直哉もそれに気づき、ちらっと雅美を見た。
「……いいぜ」
 直哉の答えに、菜緒は嬉しそうに頷いた。揺れるゴンドラの中を、静かに直哉の方へと移動する。
「ふふっ」
 直哉の隣に座り、菜緒は満面の笑みを浮かべた。
「……直哉くん」
「なんだ?」
「あたしもそっち、行ってもいい?」
「おまえもか?」
「うん」
 大観覧車のゴンドラは多少大きめに作られているために、男なら三人は絶対に無理だが、体の細い女性なら三人座れた。
「はあ、わかった」
 直哉は雅美のために場所を空けた。
 そして、ゴンドラの片方に三人が座るという、ちょっと変わった形になった。
 直哉は、菜緒と雅美に挟まれ、気分的に動けなかった。
「あっ、綺麗な夕陽」
 ちょうど海側に座っている菜緒が、声を上げた。
 揺れる水面に映える夕陽。朱に染まっていた空が次第に夜の黒へと変わっていく。その間は朱と黒が微妙に合わさり、不思議な色を生み出していた。
「これだけの景色が見られれば、まあ、あの待ち時間でも許せるな。これがロクでもない景色だったら、俺はここで暴れたぞ」
「ふふっ、ホントにそうだね」
「あたしたち、時間的に一番いい時間に乗ったのかもね」
「うん、私もそう思う」
「それは、俺の日頃の行いがいいからだな」
「ええーっ、あたしの行いがいいからよ」
「いや、雅美だけなら曇りで景色どころじゃなかっただろうな」
「むぅ、そこまで言う、普通?」
「あつつつ」
 雅美はそう言って直哉の腕をつねった。
「なにすんだよ」
「ふ〜んだ。直哉くんが悪いんだから」
「ったく、減らねぇ口だな」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
「バーカ、調子に乗りすぎだ」
 そう言って直哉は雅美の髪をわしゃわしゃと撫でた。
 そして、しばらくの沈黙。
「きゃっ」
「えっ」
 と、ふたりから驚きの声が上がった。
「な、直哉……?」
「直哉くん……」
 なにが起きたのかというと、突然直哉がふたりの肩を抱き寄せたのだ。
「…………」
 直哉はなにも言わず、ただ優しく微笑んでいた。
「……もう、バカ」
 菜緒はそれだけ言うと、目を閉じて直哉に体を預けるように寄りかかった。
「……知らないからね」
 雅美も菜緒と同じように、直哉に寄りかかった。
 それからゴンドラが戻ってくる直前まで、直哉はふたりを抱いていた。
「また、みんなで来たいな」
「そうだね」
「また、来ようね」
 そして、夢の時間は終わりを告げた。
 
 一方、秀明と理紗は、ゴンドラに乗り込んですぐに、ふたりとも黙り込んでしまった。
 ゴンドラの鈍い音だけが響いている。
『あの』
 と、ふたりの声が重なった。
「理紗ちゃんからいいよ」
「秀明くんこそ」
 お互いに言いたいことはあっても、譲り合ってしまう。そして、それはどちらかが譲歩しなければいつまでも続いてしまう。
「……じゃあ、私から言うね」
 先に譲歩しいたのは、意外にも理紗だった。
 理紗は一度深呼吸をして、居住まいを正した。
「秀明くん。私、秀明くんのことが、好きです。私と、つきあってください」
 理紗、一世一代の告白だった。
 言ってから理紗は、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。
「……理紗ちゃん。それに答える前に、俺の話も聞いてもらえるかな?」
 理紗は小さく頷いた。
「俺は正直言って、今日まで理紗ちゃんのこと、あまりよく知らなかった。もちろん菜緒ちゃんや雅美ちゃんといるところは何度も見てたけど、あまり話とかもしなかったから。当然と言えば当然だね。でも、今日一日一緒に過ごして、すごく楽しかった。そして、もっともっと理紗ちゃんのことを知りたいと思った。今の俺の気持ちが『恋』だって言うんなら、俺は理紗ちゃんに恋をした」
「秀明くん……」
「だから、俺からも言うよ。理紗ちゃん、俺とつきあってほしい」
 真剣な表情から一転、秀明は柔和な笑みを浮かべた。
「そして、理紗ちゃんへの答えは、もちろん、はい、だよ」
「私の答えも、もちろん、はい、だよ、秀明くん」
 理紗の目から、涙がこぼれた。だけど、その顔は笑顔だった。最高の笑顔だった。
「理紗ちゃん」
 秀明は理紗を自分の方へ招いた。理紗はそれに応え、秀明の隣に座った。
「理紗ちゃん、キス、してもいいかな?」
「うん……」
 理紗は、すっと目を閉じた。
 秀明は少しだけ躊躇いつつも、理紗にキスをした。
 ほんのわずかに触れる程度だったが、お互いを感じるには十分だった。
 秀明は理紗の肩を抱き、理紗は秀明の為すがままになっている。
「今日は、みんなに感謝しないと」
「どういうこと?」
「菜緒ちゃんも雅美ちゃんも、私が秀明くんのことが好きだって知ってるから。たぶん気を利かせてくれたんだと思う」
「そうか。だから直哉もあんなことを言ったのか」
「直哉くんも知ってたんだろうね。たぶん、雅美ちゃんに聞いたんだろうけど」
「ということは、俺だけ状況を把握してなかったんだ」
「そういうことになるね」
「はは、なんかしてやられたって感じだよ。でも、そのおかげで俺にもこんなにカワイイ彼女ができたんだから、感謝しないと」
「…………」
 カワイイという言葉に反応し俯く理紗。
「秀明くん」
「ん?」
「これからだよね、私たち」
「そうだね。これからお互いのことをもっと知って、そしてもっと好きになって。その時にはきっと誰にも負けないようなふたりになってるよ」
「うん」
 そして、今度はどちらからでもなく、自然に唇を重ねた。
 夢の時間はまもなく終わるが、ふたりの本当の夢の時間は、これからはじまる。
 
「直哉。今日はしてやられたよ」
「なんのことだ?」
「おまえも一枚絡んでたんだろ?」
「さあな。たとえ絡んでたとしても、俺たちは実際にはなにもしてないからな。ただ、その場所を提供しただけだ。どうなるかはわからない。そして結果は──」
 直哉は、秀明にもたれかかって眠っている理紗を見た。
「なるようになった、というわけだ」
「ありがとな、直哉」
「……気にするな」
 直哉はそう言って微笑んだ。
 ここは帰りの電車の中。直哉と秀明は、向かい合うように座っている。
「でもさ、菜緒ちゃんはともかく、なんで雅美ちゃんまでおまえに寄りかかって眠ってるんだ?」
 秀明の言う通り、菜緒と雅美は直哉に寄りかかって眠っていた。
「さあな。おまえたちを邪魔したくないからだろ」
「その割には、幸せそうな顔、してるけどな」
「こいつは生きてること自体が幸せな奴だからな。だからこんな顔してんだろ」
「まあ、そういうことにしとくよ」
 そう言って秀明は笑った。
「両手に花、か」
「そんなうらやましい状況じゃないさ。男としては両手に花も嬉しいけど、やっぱり片手にでも自分だけの花があれば嬉しいんだよ。わかるだろ、秀明?」
「今はな」
「だから、その花は大切にしろよ。その花をより綺麗に咲かせ続けられるのも、枯れさせるのもおまえ次第なんだから」
「わかってる」
「あ〜あ、これで秀明も独り身じゃなくなったのか。これで俺だけだな、独り身なのは」
「なに言ってんだ。たとえ正式につきあってなくたって、そんなにおまえのことを慕ってくれてる子がいるじゃないか」
「……難しいんだよ、俺たちは。かえって雅美の方が気楽につきあえるけどな」
「でも、菜緒ちゃんもほっとけない、と」
「まあな」
 直哉は苦笑した。
「俺のことはともかく、秀明。おめでとう」
「ああ、ありがとう、直哉」
 まもなく電車は降りる駅に着く。
「さてと、お姫様を起こさないとな」
「まったくだ」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
 そして、電車はホームへと滑り込んだ。
 
「星が綺麗だね」
「ああ」
 直哉と菜緒は、駅で秀明たちと別れ、家路に就いていた。
「秀明くんと理紗、上手くいってよかったね」
「そうだな。おまえも理紗の親友として応援した甲斐があっただろ?」
「うん」
「これで、俺たちのまわりも少し変わるな」
 薄暗い住宅街の道を、ゆっくりと歩いていく。
「……ねえ、直哉」
「ん?」
「直哉は、雅美のこと、好きなの?」
「なんだ突然」
「好き、なの?」
 有無を言わせない菜緒の言葉。
 直哉は苦笑して言った。
「……おまえ、気にしすぎだ」
「雅美ね、直哉のこと、好きなんだよ」
「……知ってる」
「えっ……?」
「雅美が俺のこと好きなのは、知ってる」
「そう、なんだ……」
「俺だって、雅美は好きだ」
「っ!」
「でも、だからってつきあおうとかなんて思わない。雅美とはいつまでも友達よりも一歩進んだ友達でいたい。それだけだ」
「ホントにそれだけ?」
「ああ。それ以上のことは、ない」
 直哉は断言した。
 それはあたかもモヤモヤしていた自分の心にもケリをつけるような、そんな強い言葉だった。
「安心したか?」
「うん、安心した。でも──」
「でも?」
「直哉と雅美が仲良くしてると、嫉妬しちゃうかも」
 菜緒は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それは俺にか? それとも雅美にか?」
「たぶん、両方に」
「なんだそりゃ?」
「だって、直哉は私の大事な人だし、雅美は私の親友だし」
「……ったく。必要以上の嫉妬は勘弁してくれよ」
「それは、直哉たち次第だよ」
 そう言って菜緒は笑った。
「直哉」
「なんだ?」
「明日は、私だけを見ててね」
「……ああ、わかってるって。明日はとことんおまえにつきあってやるから」
「うんっ!」
 菜緒の笑顔を前に、直哉も笑みを浮かべた。
 明日も晴れそうだった。
 
 三「五月五日」
 五月五日。立夏である。暦の上では今日から夏。今日も初夏の陽差しが朝から眩しかった。
 直哉は窓を大きく開け放ち、深呼吸した。
「う〜ん、今日もいい天気だ」
 雲ひとつない快晴の天気。
 こういう日には、家にいろという方がかえって酷である。
「思えば、今年のGWはすごいことになってるよな」
 たった三日間ながら、直哉にはそれ以上にも感じられた。
「とにかく、今日は菜緒に尽くすか」
 三日目の直哉は、今日も元気だった。
 
「よしっ、完成」
 菜緒は、台所で声を上げた。
「今日は直哉のために作ったんだから」
 弁当の出来映えはかなりいいらしい。菜緒の顔に自然と笑みが浮かんでくる。
「できたの、菜緒?」
「うん。ばっちしだよ」
 そう言って菜緒はVサインを出した。
「ふ〜ん、よっぽど自信作なのね」
 美緒は完成したばかりの菜緒特製弁当を見た。
「ふふっ、確かに気合いの入りようが昨日とは比べものにならないわね」
「そこまでの違いはないと思うけど」
「そうかしら? ここまで直哉くんの好みに合わせて作れば、それだけで相当のものよ」
「だって、せっかく食べてもらうんだから、好きなものを好きなだけ食べてほしいもん」
「直哉くんなら、どんなものを作っても食べてくれそうな気がするけどね。特に菜緒が作ったものならね」
「それはそうかもしれないけど、でも、それはそれ。それじゃ、今度は私の気が収まらないもの」
「我が子ながら、そこまで人に尽くせるなんてすごいわよ」
 美緒は半ば呆れて、それでも笑みを浮かべてそう言った。
「菜緒」
「うん?」
「今日は思いっきり直哉くんに甘えてきなさい」
「お母さん……」
「なんだったら、行くところまで行っても構わないわよ。ふふっ」
「わ、私たちは、まだそんな関係じゃ……って、なに言わせるのよ、お母さん」
「ああ、早く孫の顔が見たいわぁ」
「も、もう、知らないっ!」
 菜緒は真っ赤になってそっぽを向いた。
 美緒はそんな菜緒を優しい眼差しで見つめていた。
 
「こっち方面の電車に乗るのは久しぶりだ」
「そんなに久しぶりなの?」
「ああ。かれこれ数ヶ月行ってないんじゃないか」
「そうなんだ」
 直哉と菜緒は、昨日までとは逆方向の電車に乗っている。
 菜緒はワイシャツにネクタイ、ミニスカートという格好である。
 直哉も今日はジャケットを着て、多少フォーマルに近い。
「最近、特にあっちに行かなきゃ手に入らないものを欲しなかったからな。だいたいは近場で済むから」
「そうだね。最近は駅前の商店街も品揃えがよくなってるから、わざわざってことが少なくなってるよね」
「それに、俺の場合は姉さんにも頼めるからな。姉さんの通り道だし」
「そうなんだよね。千尋さんの大学も比較的近いところにあるんだよね」
「まあな。菜緒も世話になるんじゃないか、その大学に」
「それはわからないけど」
「まあ、大学の話はいいや。これからイヤでもしなきゃならんのだからな」
「うん、そうだね」
 電車に揺られること三十分。
 そこは高層ビルが建ち並び、たくさんの人が集まる周辺一の繁華街だった。
「ふえぇ、さすがにここは人が多いな」
「そうだね。GWでもう少し少ないかとも思ったけど、甘くなかったね」
「まあ、ここでうだうだしててもしょうがない。さっさと行こうぜ」
「うん」
 GW最終日ということもあって、結構な人出になっていた。小さな子供を連れた親は、子供に手を引っ張られ、振り回されている。こどもの日ということもあって、店のショーウィンドウもそれらしいものが並べられていた。
 それ以外だと、まもなくやってくる母の日のためのものが並べられていた。
 そんな中を直哉たちはふらふらと、特になにをするでもなく歩いていた。
「今日はこどもの日で端午の節句なんだよな」
「うん」
「うちは結構前にそんなこと関係なくなったから、感慨もあんまりないけど。こうしてこういうところを歩いていると、そんな感じにもなってくるよ」
「でも、直哉のうちだって鯉のぼりを揚げたりしてたでしょ?」
「まあな。でも、俺には節句といえば、端午の節句より桃の節句の方が印象が強い」
「なんで?」
「そりゃ、おまえや姉さんがいたからな。毎年のようにひな祭りパーティーをやって、毎年のように白酒をたくさん飲まされて。これで忘れろという方が無理だ」
「そういえば、そんなこともあったね」
「俺が一番大変だったんだからな。うちでは姉さんにつきあって、それからおまえにつきあって。一日に二回もやらされて、夜にはくたくただったんだから」
「ふ〜ん、そうだったんだ。全然知らなかった」
「当たり前だ。おまえたちの前ではそんなそぶり、見せなかったからな」
「ふふっ、直哉はいつもそうだもんね」
 菜緒はそう言って微笑んだ。
「絶対に人前では自分の弱いところは見せない」
「そんなこと、ないさ。おまえや姉さんの前では時々見せてた」
「ほとんど気づかない程度にね」
「でも、おまえは気づいた、と」
「うん」
「まあ、俺にしてもおまえに気づいてほしくて見せてたのかもしれないけどな」
「なによ、その人ごとみたいな言い方は」
「その時の想いをすべて覚えてるわけじゃないからな」
「私は覚えてるよ。少なくとも直哉に関することはね」
「バーカ」
 直哉は照れ隠しに菜緒の髪をくしゃくしゃっと撫でた。
「もう、あんまり髪をくしゃくしゃにしないでよ」
「いいじゃないか。ちょうどやりやすい位置にあるんだから。それに──」
「それに?」
「触って気持ちいいからな、おまえの髪は」
「……直哉のために伸ばした髪だからね」
 そう言って菜緒は髪に触れた。
 黒く艶やかな長い髪。癖のない髪は、女性なら誰もが一度は憧れる。
「まだ、伸ばすのか?」
「どうかな? そろそろ限界かも」
 菜緒の髪は、すでに腰のあたりまで伸びている。
「でも、直哉がもっと長い方がいいって言えば、伸ばすよ」
「……少し、考えてみるよ」
「うん」
 穏やかな陽差しの中、時間はあっという間に過ぎる。
 ふたりは昼食をとるために公園にいた。
 大きな木の下のベンチに座り、菜緒の作ってきた弁当を広げる。
「おっ、さすがは菜緒だな。俺の好きなものをわかってる」
「うん。今日は直哉のために腕によりをかけたからね」
「んじゃ、さっそく」
 直哉はまず卵焼きを口に運んだ。
「昨日のより甘いな」
「直哉は甘めが好きだからね」
「菜緒に任せておけば間違いないよな。俺の好きなものを入れてくれるし。そうじゃないものも料理の腕が確かだから、安心できる」
「ありがと、直哉」
 直哉に褒められて、菜緒は嬉しそうに微笑んだ。
 菜緒の作った弁当は、それこそあっという間になくなった。ほとんど直哉が食べたのだが、菜緒にしてみれば自分の作ったものを直哉に美味しく食べてもらえるだけで幸せなのだ。
「ねえ、直哉」
「ん?」
 食後、直哉が満腹になって今度は眠そうに目をこすっている。
「膝枕、してみたい?」
「膝枕?」
 菜緒は小さく頷いた。
「……それっ」
 直哉はなんの前触れもなく菜緒の方に倒れ込んだ。
「もう、いきなりなんだから」
「ははは、悪いな」
 直哉は、菜緒の膝枕で目を閉じた。
 菜緒は、直哉の髪を優しく撫でる。
「膝枕って、こんなに気持ちいいものだったんだな」
「私もね、心地良い重さだよ」
「……おまえもやっぱり、女の子なんだよな」
「どうしたの、突然?」
 菜緒は首を傾げた。
「柔らかくて、いい匂いがして」
「もう、そういう言い方、なんかエッチっぽい」
「でも、ホントのことだからな」
 直哉の顔は、本当に穏やかだった。
「こうしてると」
「ん?」
「私たち、どんな風に見えるのかな?」
「おまえはどんな風に見えたい?」
「私は……やっぱり恋人同士、かな」
「なら、そう見えてるさ。少なくとも今の俺たちを見て、兄妹だなんて思う奴はいないだろうからな」
「そうだね。でも、私たちはまだ、恋人同士じゃないけどね」
「一歩手前、だな」
「うん」
 木漏れ日の下、穏やかな初夏の風が吹き抜けていく。
 公園の中にある噴水広場からは、子供たちの歓声が聞こえてくる。
 本当に穏やかな、心休まるひと時である。
「……直哉、寝たの?」
「……いや、起きてる」
「寝てもいいのに」
「……なんかもったいなくてさ」
「もったいない? なにが?」
「寝ると、この心地よさを感じられなくなるだろ。感覚的にはあるんだろうけどさ」
「……膝枕くらい、いつでもしてあげるわよ」
 菜緒の言葉は優しかった。それはまるで、母親が子供に言うような感じだった。
「じゃあ、今度学校でしてもらおうかな」
「えっ、学校で?」
「ああ」
「でも、学校じゃ……」
「恥ずかしいか? でも、ここでやってたってそれほど変わらないと思うけど」
「心情的に違うよ。学校だと知ってる人も多いし」
「まあ、機会があったらやってもらうさ」
 そう言って直哉は笑った。
 と、直哉が手を伸ばし──
「きゃっ」
 菜緒が突然声を上げた。
「な、直哉。い、いきなり触らないでよ」
 直哉の手は、菜緒の股に触れていた。
「気持ちいいな、こういうの」
「んもう……」
「すりすりってしたくなる」
「あ、あん、くすぐったいよ」
「すりすりすりすりすりすりすりすり」
「だ、ダメだって、んん」
「すりすりすりすりすりすりすりすり」
「も、もう、直哉っ!」
「ぬぐぉっ!」
 菜緒のボディブローが完璧に直哉に決まった。
「お、おい、マジで一瞬息が止まったぞ」
「だって、直哉がやめてくれないから」
「ったく、それにしたってもう少し方法があるだろ」
「手っ取り早く止めるには、この方法が一番だもん」
「俺の身を犠牲にしてな」
「もう、そんな目で見ないでよ」
 菜緒は溜息をついた。
「でも、それが菜緒らしくもあるんだけどな。菜緒は、俺の前では手が速いからな」
「そんなことないよ」
「いや、そんなことあるって。口と手と、ほぼ同時に出てくるからな」
「そんなことないのに」
 菜緒は、ちょっと唇をとがらせた。
「さてと」
 直哉は起き上がった。
「もういいの?」
「これ以上してもらったら、もうやめられなくなる」
「ふふっ、それじゃあしょうがないね」
「心残りの分は、またそのうちな」
「うん」
 一瞬、風が強く吹き抜け、菜緒の髪を揺らした。
「やっぱり、髪は長い方がいいな」
 その様子を見て、直哉がそう言った。
「長い髪が風に揺れてる様は、何度見ても心を揺さぶられる」
「でも、それは私じゃなくてもでしょ?」
「まあ、それはそうだけど。俺的には菜緒と姉さんのそれを見るのが一番好きだ」
「千尋さんと同率なんだね」
「不満か?」
「ううん。千尋さんが髪を伸ばしてるのも、直哉のためだもんね。それに、千尋さんとなら一緒の方が嬉しいよ」
「複雑なんだな」
「そうよ。女心は複雑なの」
 菜緒はそう言ってウインクした。
「じゃあ、そろそろ行こうぜ」
「うん」
 昼下がりの陽差しは、初夏らしく多少強くなっていた。
 ふたりは公園から繁華街に戻り、ウィンドウショッピングを再開した。
「菜緒は、母の日におばさんになんかするのか?」
「私は毎年、一日家事を代わってるから」
「なるほどな」
「直哉は?」
「うちは、母の日に家にいないこともあるからな。だから、家にいてもいなくてもいいようなものをあげてる」
「やっぱりカーネーションとか?」
「昔はそうだったけど、今は花だけじゃなく、アクセサリーとか化粧品とか、まあ、いろいろだ。女物でも姉さんがいるから楽にあげられるよ」
「そうだよね。直哉が女物を買ってる姿って、なんかイヤだもん」
「男なんてみんなそんなもんだ。心の中でそれが恥ずかしいことだって考えてるから、それが行動にまで表れるんだよ。だから、端から見ててもおかしく映るんだ」
「そこまでわかってるのなら、普通にできないの?」
「できりゃ苦労はないって」
「それもそうだね」
 菜緒はうんうんと頷き、笑った。
「あっ」
「ん、どうした?」
「あれ、すっごくカワイイ」
 そう言って菜緒は、吸い寄せられるように、ある店のショーウィンドウの前へ。
 直哉はそれに嘆息混じりについていく。
「なにがカワイイって?」
「ほら、あの服」
 それは、薄いピンクのワンピースだった。取り立ててどこがどうとかいうものではないが、それでも確かにカワイイのかもしれない。
「おまえ、あんなの持ってなかったか?」
「ピンクはないよ。ワンピース自体は結構持ってるけど」
 菜緒の目は、ワンピースに釘付けになっていた。
「…………」
 直哉はそれを見てなにやら考えている。
「菜緒。入るぞ」
「えっ……?」
 そのまま菜緒を引き連れ、その店に入っていった。
「いらっしゃいませ」
 中に入ると、女性店員がふたりのところへやって来た。
「あのショーウィンドウのピンクのワンピースを見せてくれますか?」
「はい。少々お待ちください」
 店員はそう言ってショーウィンドウのところへ。
「ね、ねえ、直哉」
「ん?」
「どうしたの、急に?」
「まあ、いいから」
「お待たせしました。こちらでございます」
 店員はあのワンピースを持ってきた。
「試着しても構わないですよね?」
「はい。試着室はこちらです」
 店の片隅にある試着室は、どれも空いていた。
「ほら、菜緒。試しに着てみろって」
「う、うん」
 半ば強引に菜緒にワンピースを押しつけ、試着室に押し込んだ。
 それから待つことしばし。
「いいよ」
 中から菜緒の声がした。
 試着室のアコーディオンカーテンを開ける。
「…………」
「どう、かな?」
 上目遣いに直哉に訊ねる。
「あっ、お、おう、よく似合ってるぜ」
「ホント?」
「ああ。それより、おまえはどうなんだ?」
「うん。着てみた感じも結構いいから」
「そっか。なら──」
 直哉は店員に声をかけた。
「すいません。これをお願いします」
 そう言ってそのワンピースを買うことにした。
「ありがとうございます。それで、商品の方はいかが致しますか?」
「どうする?」
「えっ、持って行くよ」
「じゃあ、持って帰ります」
「かしこまいりました」
 菜緒が着替えている間に、直哉は支払いを済ませた。
 着替え終わると、店員がそれを綺麗に畳んで袋に入れた。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 店員に見送られ、店を出た。
「直哉」
「ん?」
「ホントにいいの?」
「いいって。おまえには世話になりっぱなしだからな。たまにはいいだろ、そういうのもさ」
「でも、安くなかったよ、これ」
「値段なんて関係ない。気持ちだからな」
 そう言って直哉は笑った。
「……ありがと、直哉」
 菜緒も、それに笑顔で答えた。
「これくらいしても、いいよね」
 そう言って菜緒は、直哉と腕を組んだ。
「ったく、ホントに甘えん坊だな、菜緒は」
「今日は思いっきり直哉に甘えるんだから」
「今日は、じゃなくて、今日も、だろ?」
「あはは、そうかも」
「そうかもじゃなくて、そうなんだよ」
 直哉はそう言って菜緒の額を小突いた。
「なあ、菜緒」
「なに?」
「楽しいか?」
「うん、楽しいよ。直哉と一緒だからね」
「……恥ずかしげもなくそんなこと言うな」
「私は、直哉と一緒にいられるだけで楽しいし、幸せなの」
 菜緒のその言葉は、菜緒のその笑顔に現れていた。
「直哉はね、そういうこと心配しすぎだよ」
「しょうがないだろ。見た目とか雰囲気でなんとなくそうだとわかっていても、実際に言葉で聞きたいんだから」
「ホント、直哉って不思議だよ。普段は無責任極まりないのに、人が絡んでくると全然変わっちゃうんだから」
「そこまで違わないだろ?」
「全然違うよ。これは幼なじみの私が言うんだから間違いない」
「むぅ、自分自身ではそうは思わないんだがな」
「ふふっ、自分のことは意外に見えないものだよ」
 直哉はしきりに首を傾げ、菜緒はそれを楽しそうに見ている。
「それはそうと、のど乾かないか?」
「そうだね。どっか入ろうか?」
「そうだな」
 直哉たちは手近の喫茶店に入った。
 直哉はアイスコーヒーを、菜緒はアイスレモンティーを頼んだ。
「ふう……」
「疲れたか?」
「ううん。大丈夫。まだまだいけるよ」
「無理すんなよ。昨日の今日だし、明日は学校だってあるんだから」
「うん、それはわかってる。わかってるけど」
「けど?」
「それ以上に今は直哉との時間を楽しみたいから。疲れてるなんて関係ないよ」
「菜緒……」
「でも、それで直哉に迷惑もかけたくないから、ほどほどにするよ」
 笑ってアイスティーを飲んだ。
 それからしばらく他愛のない話を交わし、気づくと時間は四時になろうかというところだった。
 喫茶店を出たふたりは、またなにをするでもなく繁華街を歩いている。
「ねえ、直哉」
「ん?」
「腕組むんじゃなくて、手、繋いでみようか?」
「んな恥ずかしいこと──」
「ダメ?」
 菜緒は猫なで声で訊く。
「……わあったよ」
「あはっ、うん」
 直哉の言葉を聞き、菜緒はその手を握った。
「直哉の手、大きいね」
「そうか? 俺はわからん」
「直哉の手は大きくて、あったかい」
 キュッと菜緒が握る手に力を込める。
「菜緒」
「なに?」
「ちょっとつきあってくれるか?」
「別に構わないけど、どこ行くの?」
「行けばわかる」
 そう言って直哉は、繁華街をとある場所へと向かった。
 繁華街には家族連れの姿がだいぶ少なくなり、これから夜の時間を過ごそうという大人が増えてくる。もともと休みなので、オフィス街の方は相変わらず閑散としている。
 直哉と菜緒は、そんなオフィス街を抜けて町外れまでやってきた。
「どこまで行くの?」
「もうすぐ着く」
 そこから歩くことしばし。
「着いたぞ」
「うわぁ……」
 菜緒は感嘆の声を上げた。
「綺麗な景色……」
 そこは小高い丘のようなところで、街並みが綺麗に一望でき、さらに遠くにはキラキラと輝く海が見えた。
 そして、この時間は夕陽がその景色をよりいっそう美しく際立たせていた。
「ここ、どうしたの?」
「前にふらふらっと歩いてたら、たまたまここへ出てきたんだ。その時も今みたいに空が赤くなりはじめてる時間で、思わず時を忘れて見入ったよ」
「見た目は普通の場所なんだけどね」
「だからこそ、こんな景色が見られると嬉しいんだろ?」
「そうだね」
 直哉と菜緒は、ガードレールのところからなにも言わずに景色を眺めている。
 青から朱に染まる空。そして朱から黒へ。
 刻々と変わる景色。
 日中の暖かさが、涼やかな風に流されていく。
「直哉」
「ん?」
「直哉って、魔法使いみたい」
「魔法使い?」
「計ったようにこんな最高の時間に私をここへ連れてきてくれて」
「たまたまだ。別にこの時間に来られるかどうかはわからなかったし」
「でも、ちゃんと直哉の見せたかった景色が私たちの前にあるからね」
「そうだな」
 菜緒は少し強めに吹いている風に流される髪を押さえる。
「直哉。キス、してくれる?」
「こういうシチュエーションだからか?」
「う〜ん、それもあるけど、もっと直哉を感じたいから」
「ったく、してやるけど、キス魔になるなよ」
「うん……」
 直哉は菜緒を優しく抱きしめ、キスをした。
 菜緒はほんのりと頬を染め、潤んだ瞳で直哉を見つめた。
「……おまえ、その表情やめろよ」
「なんで?」
「……そんな表情されると、また抱きしめたくなる」
 そう言ってもう一度菜緒を抱きしめた。
「……それに、俺にとってその表情は凶器にも等しい。そんな表情でなにか言われたら、なんでもしかねない」
「直哉……」
「……おまえはな、カワイイんだ。綺麗なんだ。それも、凶悪にな。だから、必要以上にそれを向けないでくれ。俺の理性が保たない」
「……直哉の口からそんなこと聞いたの、はじめて」
「……俺も言った覚えがない。それにそんなこと、こんな麻痺した状況じゃなきゃ、とても言えない」
「……でも、私はもっと言ってほしいな」
「……無理だ」
「……そうだよね。それに、あんまりしょっちゅう言われると、言われた時の嬉しさもなくなるからね」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「……直哉にこうして抱かれていると、本当に安心できる」
「……俺もこうして菜緒を抱いていると、おまえを感じて、心から落ち着ける」
「ねえ、直哉」
「ん?」
「違う意味で抱かれると、もっと直哉を感じて、もっと安心できるのかな……?」
「…………」
 直哉は菜緒のその問いかけには答えなかった。
「私、直哉になにを求められるかな?」
「なんでも求めてくれ。ただ、それはあくまでもおまえが考えることだ。俺はそれに対してなにも言わない。自分で見つけないと意味がないからな」
「うん、それはわかってる」
「偉そうなこと言ってるけど、俺だってまだ見つけてないんだから。菜緒のことは言えないよな」
「そんなことないよ。直哉はいつでも私の前に道を示してくれる。今回もそう。たとえ自分のことがまだでも、私のことを考えて」
「……ほっとけないからな」
 直哉はぼそっと呟いた。
 それからしばらく、なにも言わずにふたりは抱き合っていた。
 途中、滅多に人が通らないこの辺りを人が通っても、まったく気にしないで抱き合っていた。
「菜緒。そろそろ……」
「うん……」
 直哉も菜緒も、名残惜しそうに体を離した。
 気づくと、太陽はもうだいぶ沈んでいた。夜の闇が、東の空から西の空を浸食していく。
「もう夜は間近だから、なんか食べて帰るか?」
「そうだね」
「うちの方には電話でも入れて」
「うん。まだまだ直哉といたいから」
 今日はまだ、終わらない。
 
 繁華街に戻った直哉たちは、ちょっといい雰囲気のレストランで食事をとった。雰囲気分だけ値段が張ったが、直哉も菜緒も満足だった。
 会計は直哉がすると言ったのだが、菜緒がどうしても譲らなかったために、結局は割り勘になった。
 レストランを出たふたりは、そのまま電車に乗り戻ってきた。
「今日は最高の一日だったよ」
「誘われたのは俺なんだけどな」
「ふふっ、そうだったね」
「まあでも、菜緒に満足してもらえれば俺もそれでいい」
「直哉は結局いつもそうだね。自分よりも人のことばかり。直哉って自分のこと最優先にすることってないの?」
「普段はそうだけど、おまえといる時はそうはできない。昔からずっとそうだったから、今更変えることはできないさ」
 そう言って直哉は苦笑した。
「大丈夫だ。ほかの奴とつきあう時におまえとつきあった時との不均衡を是正してるから」
「でも、私はもっと直哉にいろいろ楽しんでもらいたい。自分のことだけ考えて」
「いいんだよ。これが俺とおまえとのつきあいの形なんだから」
「でも……」
 直哉の言葉に幾分納得しきれていない菜緒。
「また明日から学校だな」
「……うん」
「おまえなぁ、最後の最後でそんな顔するなよ」
「だって……」
「駄々をこねるな。俺もおまえもこの七月で十八になるんだぞ。いつまでも子供ではいられないんだ」
「それだったら、大人になんかならない方がいいよ……」
「ったく、おまえは小学生か」
 直哉は呆れ顔で言う。
「だって、私は直哉と対等につきあいたいんだよ。直哉が私にいろいろ与えてくれる分を、私も直哉に返してあげたい。ただそれだけなんだよ」
「……これを言うと絶対に水掛け論になるけど、俺は今でもおまえと対等につきあってると思ってる。俺はおまえといるだけで、それだけでいろんなものをもらってる。言葉で表すのは難しいけどな。それなのに、これ以上おまえからなにかをもらったら、今度は俺がおまえになにかをしたくなるだろ。結局はその繰り返しなんだ。だから、少なくとも今はこれまでと同じつきあいで──」
「やだ」
「菜緒……」
「私は直哉のためになんでもしたいの。そりゃ、私の想いをすべてぶつけることはできないかもしれないけど、少なくともとりあえず自己満足ができるくらいはしたいの。直哉が望むことだってなんだってしてあげたい」
 菜緒は真剣だった。目にはうっすらと涙までためて、必死に自分の想いを直哉にぶつけた。
「直哉が私に奴隷になれって言えば、直哉だけの奴隷にもなる。望まれれば、なんでもしたい。それって、贅沢なことなの?」
「……バカ野郎。そんなこと、もう冗談でも言うなよ。今度そんなこと言ったら、俺は絶対におまえを許さないからな。いいな?」
「直哉……」
「俺が少なくとも今、おまえに望むことは、これからも俺の好きな杉村菜緒でいてほしいってことだけだ。それ以上は今の俺には望めない。わかってくれ、菜緒」
 直哉は懇願するように言った。
 菜緒が答えに渋っていると、無情にも家が近づいてきた。
「菜緒。今日はもう──」
「待って」
 菜緒は、直哉の腕を取って止めた。
「お願い、直哉。今日は私とずっと一緒にいて」
「でも、おまえ、それは……」
「お願い」
 今度は菜緒が直哉に懇願するように訴える。
「別に抱いてくれなんて言わない。ただ、ずっと一緒にいてほしいの」
 直哉は天を仰ぎ、そしてひとつ、溜息をついた。
「わかった。今日はずっとおまえと一緒にいる」
「ありがとう、直哉」
「でも、その代わり、いつ俺の理性が吹っ飛んでおまえを襲うかわからないぞ」
「うん。それでもいいよ。直哉になら、なにをされても、いい」
 菜緒の決意は固かった。
「じゃあ、どうするんだ?」
「直哉の部屋がいい」
「……しょうがないな。でも、とりあえずその荷物を置いて、それからおじさんたちに一言言っておけ」
「うん」
 それから菜緒はいったん家に戻った。
 直哉もそれを見送り、家に戻った。
「おかえりなさい、なおくん」
「ただいま……」
「どうしたの?」
「父さんと母さんは?」
「お父さんは急な用ができて夕方から出かけてる。お母さんは、午前様だろうね」
「そっか……」
「ねえ、ホントにどうしたの?」
 千尋は、直哉の顔を覗き込む。
「これから、菜緒が来るから」
「えっ、これから?」
 千尋は驚いて時計を見た。いくらなんでも普通に家を出入りする時間ではない。
「菜緒に約束したからさ」
「約束?」
「今日はずっと一緒にいるって」
「それって、なおくん……」
 千尋の顔が一瞬強ばる。
「別になにもしないよ。ただ、一緒にいるだけ。今の俺にはまだ、菜緒は抱けない」
「……わかった。もしお父さんたちが帰ってきたら、私が上手く言っておくから」
「ごめん、姉さん」
「ううん、いいの。その代わり、ちゃんと菜緒ちゃんのこと見てないとダメだからね」
「わかってるよ」
 それから程なくして菜緒がやって来た。
 服は着替えて、ラフな格好になっている。
 千尋と菜緒は一言挨拶を交わしただけで、ほかになにも言わなかった。
「適当に座ってくれ」
「うん……」
 菜緒はいつものように直哉のベッドに座った。
「なんか飲むか?」
「ううん」
「そっか……」
「直哉。もっと、側にいて」
「……わかった」
 直哉もベッドに座った。
「おじさんとおばさん、なんか言ってたか?」
「ううん。私の顔を見たらなにも言わなかった」
「だろうな。かなり難しい顔してるからな。せっかくの菜緒の綺麗でカワイイ顔が台無しだ。そんなんじゃ誰も寄ってこないぞ」
「明日になれば、戻るよ」
「じゃあ、今日、俺の前ではずっとそうしてるつもりか?」
「……でも、どんな顔したらいいのか、わかんないよ」
「笑ってくれ。無理にでもいいから、笑ってくれ」
 菜緒は、直哉の言葉に応えようと必死に笑顔を作ろうとする。
 しかし、できなかった。
「無理、だよ……」
 菜緒は泣いていた。
「…………」
 直哉は無言で菜緒を抱きしめた。
「泣きたいなら思いっきり泣け。それで少しでも気が晴れるんならな」
 菜緒は直哉の胸の中で泣いた。思いっきり声の限りに泣いた。
 直哉はただ菜緒の髪を、背中を優しく撫で、慰めるだけだった。
 そして、声も涙ももう出ないというところ、声をかけた。
「少しは落ち着いたか?」
「うん……」
 菜緒は多少しゃがれた声で答えた。
「ごめん、ね、直哉……」
「別にいいさ。誰にだってそういうことはある。それに今日の原因のひとつには俺も絡んでるからな。多少は責任を感じてる」
「直哉が責任を感じることなんて、ないよ……」
「いいんだよ。おまえは素直にそれを受け取っておけば」
 菜緒は小さく頷いた。
「私、ひどい顔してるだろうね」
「そんなことないぞ。ちょっと目が赤いくらいで、いつもの菜緒だ」
「ありがとう、直哉……」
 ようやく菜緒の顔にわずかながら笑みが戻った。
「……直哉、ひとつ、お願いがあるの」
「お願い?」
「私に、触れてみて」
「触れてって、どこに触れるんだ?」
「私のすべてに……」
 菜緒はそう言うと直哉から離れ、着ていた服を脱いだ。
 白くきめ細やかな菜緒の肌。その肌を隠しているのは下着だけだった。
 胸を隠しているブラジャーを外す。大きいが形のいい胸が圧力から解放され、大きく揺れた。
 さらに脱ごうという時──
「もうやめろ」
 直哉が止めた。
「それで十分だ。別に俺はおまえを抱くわけじゃないんだからな」
「……うん」
 直哉は改めて菜緒を抱きしめた。
「これじゃ、ホントに俺の理性が保たない」
 そう言いながら菜緒をベッドに横たわらせた。
 菜緒はしっかりとした表情で直哉を見つめている。
「じゃあ、触るぞ」
「うん」
 直哉は触れるのが躊躇われるほど綺麗な菜緒に、はじめて触れた。
「ん……」
 直哉が触れたのは胸。壊れ物を扱うように、優しく触れる。
 そして、腹部から腰、首筋、太股、ふくらはぎ、腕、手、足と次々に触れていく。
 菜緒の体は直哉に触れられる度に反応し、次第に赤みを帯びてきた。
「これで、いいか?」
「まだ、触れてないところがあるよ」
「……おまえな、もう少し自分を大切にしろ。好きだからってなんでも許されるわけじゃないんだ」
「でも……」
「あのなぁ、ちょっと乱暴な言い方をすると、今ここでおまえの処女を奪うのなんて造作もないことだ。今はおまえもそれでいいって言うかもしれない。でも、そんなことしたらあとで絶対に後悔する。少なくとも俺は後悔する。なんのために今までおまえのことを大切に、大事に想ってきたんだ? それをすべて無駄にするつもりか?」
「……そんなこと、できないよ」
「だったら、もういいな?」
「うん」
 直哉はそれを聞くと嬉しそうに微笑み、菜緒の頬を撫でた。
「その代わり、今日はこのまま一緒に寝よう」
「えっ……?」
「もう遅いしな」
 そう言ってシャツとトランクスだけになった。
「ちょっと抱きかかえるぞ」
 直哉は言うが早いか、菜緒を抱きかかえ、少し移動させた。
「これでよし。あとは」
 直哉は部屋の入り口に寄り、電気を消した。
 閉ざされたカーテン越しに、かすかに街灯の明かりを感じることができる。
「このベッド、多少は大きいけど、さすがにふたりはきついかな」
 それでも直哉は菜緒の隣に滑り込んだ。
「直哉……」
「菜緒。ちょっと手、貸してみな」
「えっ……?」
 直哉は菜緒の手を取り、自分の股間に触れさせた。
「きゃっ」
「おまえに反応してこうなったんだ。俺だって男だからな」
「で、でも、そんなになってたら……」
「心配するな。ほっとけば収まる」
「…………」
 菜緒は一瞬押し黙った。
「やっぱり、直哉は優しいね」
 ささやくようにそう言った。
「優しくて、優しすぎて、私にはもったいないくらい」
「それは俺だって同じだ。俺にとっておまえは、過ぎた幼なじみなんだよ。でも──」
「……でも?」
「俺はおまえと一緒にいたいからな」
「うん、私も」
「だから、これからもおまえと一緒にいられるように、もっともっとおまえのことを考えないとな。幼なじみとしてではなく、恋人としてな」
「直哉……」
「……少し、しゃべりすぎたな」
 直哉はそう言って会話を終わらせようとした。
「菜緒。明日の朝起きたら、いつもの菜緒に戻ってくれよ。俺だけの前だったら弱い菜緒でもいいけど、ほかの連中の前では、少なくとも今まで通りにしてくれ」
「うん、わかった」
「じゃあ、おやすみ、菜緒」
「おやすみ、直哉……」
 そして、ふたりは眠りの中へ落ちていった。
 またひとつ、新たなる段階へとステップアップした直哉と菜緒。
 曖昧な関係をよしとしないで、それを打ち破ろうとする。もちろん、簡単なことではない。はっきりとした関係を変える方がはるかに楽なのだ。
 曖昧な関係は曖昧だからこそ難しい。
 でも、直哉と菜緒には、それを乗り越えるだけの想いがあるのかもしれない。
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