いちごなきもち、めろんなきもち
 
第二章「りんごなきもち」
 
 一
「んんーっ!」
 女性の押し殺した、艶めかしい喘ぎ声が部屋に響いた。
「はあ、はあ、はあ……」
 それと同時に、糸の切れた操り人形のように、くてっとベッドに倒れ込んだ。
「また、やっちゃった……」
 乱れた髪を掻き上げる。
 恍惚とした表情から一変、表情が翳った。
「……いつまで経っても変わらないな、私……」
 ぽつりと呟いたその言葉には、様々な想いが込められていた。
「でも、ようやく自分を変えられそうな気がする……彼の──直哉くんの力があれば、きっと……」
 桜井瑞穂は、そう言って目を伏せた。
「もう六時か……」
 時計に目をやると、ちょうど六時を示していた。
 瑞穂はふらふらと立ち上がると、そのままバスルームへ。
「はあ……」
 シャワーを浴びながら溜息をついた。
「……一目惚れ、か」
 コックをひねってシャワーを止める。バスタオルを体に巻き付け、バスルームを出る。
 タンスの中から下着を取り出し、ついでにクローゼットを開ける。
 シワにならないようにハンガーにかけておいたブラウスを取り出す。
 タオルを外し、着替える。
 とりあえずブラウスまで着たところで髪を乾かす。
「朝から陰鬱な気分……」
 まだカーテンを開けていない薄暗い部屋の中、瑞穂はただ黙々と準備を進めた。
 髪を乾かすと、今度は朝食の準備。
 トースターに食パンをセットし、その間にスクランブルエッグを作る。数種の野菜を適当に盛りつけた皿にスクランブルエッグを載せ、テーブルに運ぶ。
 ちょうどトーストが焼き上がる。
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、準備完了。
「いただきます」
 ぼんやりとテレビを眺めながら、食事をする。
「ごちそうさま」
 だいたい二十分くらいで朝食を終え、後片づけ。
 それから顔を洗い、学校へ行く準備をする。
 鏡の前に座り、化粧もする。できるだけ薄化粧になるよう、一応気を付けてはいた。とはいえ、元がいいのでそれほど化粧する必要はないのだが。
「さてと」
 もう一度時計を確かめると、七時二十分をまわっていた。
 クローゼットから、緑系のスーツを取り出す。
 スーツを着ると、自然と表情が引き締まった。
「よしっ、今日も一日がんばらなくちゃ」
 こうして瑞穂の一日ははじまる。
 
「うおっす」
「おはよう」
 直哉と菜緒が教室に入ってくると、いきなり数人の男子が直哉を取り囲んだ。
「直哉、てめぇ」
「よお、秀明。昨日はごくろうだったな」
 そう言って直哉は、ニヤッと笑った。
「直哉。昨日はどこに逃げたんだ?」
「さあ、どこだったかな? あいにくと俺は記憶力が悪いんでな」
「まあ、そんなことはどうだっていい。おまえには聞きたいことがごまんとある」
「待て。とりあえず俺を席に着かせてくれ」
 そう言って直哉は輪をかいくぐり、自分の席に着いた。
「で、納得のいく説明をしてくれるんだろうな?」
「あのなぁ、おまえらは俺がどんな説明したって、絶対に納得しないだろ?」
「そんなことないさ。なあ、みんな?」
 秀明の言葉に、近くにいた男子が頷いた。
「というわけだ。さあ、直哉」
「ったく、しょうがねぇな」
 直哉は、半ば自棄気味に話しはじめた。と言っても、前日に菜緒に説明した程度だが。
「……そんなこと信じられるか?」
 秀明の言葉に、近くにいた男子が首を振った。
「ふん、おまえらが信じる信じないは勝手だ。だけどな、あることないこと吹聴するのだけはやめろよ。そんな奴がいたら──」
 直哉は、一瞬すごみをきかせた。
「俺が本気でぶん殴ってやる」
 クラスで、力で直哉に勝てる奴はほとんどいなかった。
 だから、その言葉だけで大半の連中はあきらめて戻った。
 いつの間にか、直哉の側には秀明しか残っていなかった。
「あっ、お、おまえら、お、俺を置いていくなよ」
「秀明くん。もちろんわかってるよな?」
 直哉は、笑顔で秀明の肩を叩いた。
「も、もちろんだよ、直哉くん。ぼ、僕がそんなことするわけないだろ? ははは」
 乾いた笑いが教室に響いた。
「さ、さてと、そろそろ準備しないとな」
 そう言って秀明は逃げるように自分の席に戻った。
「上手くかわしたわね、直哉」
「ん、まあな。あいつらの考えそうなことくらい、お見通しだからな」
「でも、これで今日も世界史があったら、どうなってたんだろ」
「別に俺がなにかしてるわけじゃなくて、向こうが勝手にやってるだけだからな。俺にもわからん」
 直哉は、溜息をつきつつ、窓の外を見た。
「はあ、なんかやる気が失せる……」
 
「ふわ〜あ、眠い……」
 直哉はまた屋上にいた。
 屋上には相変わらず春の麗らかな陽差しが、とても気持ちよく降り注いでいた。
「……昨日はホントに参った」
「なにに参ったの?」
 声は唐突にした。
 しかし、直哉は心のどこかでそれがあるかもしれないと思っていたのか、さほど驚いた様子もなかった。
「さあ、なんすかね?」
 直哉は、そう言って適当に流した。
 声の主は、瑞穂だった。
「ここ、気持ちいいわね」
「だからいるんだけど」
 直哉は、決して瑞穂と視線を合わせない。
「昨日、直哉くんが言ったこと、わかるような気がするわ」
「俺が言ったこと?」
「このままサボるかって」
「ああ、確かに。だけど、二日目にしてもう弱音吐いてるとはね」
「ううん、そういうわけじゃないけどね」
 瑞穂はフェンス際に立ち、遠くを眺める。
 春の穏やかな風が、瑞穂の髪を優しく撫でていく。
「今日は直哉くんのクラス、世界史ないのよね」
「まあ」
「ちょっと、残念かな」
「なんで?」
「だって、直哉くんに会えないから」
「なっ、ななな、なに言ってるんだよ」
「ふふっ、そんなに慌てなくてもいいと思うけど」
「慌てるなって言っても……だいいち、仮にも教師がそんなこと言っていいのかよ」
「じゃあ、教師としてじゃないければいいの?」
 瑞穂は、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そ、そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「そ、それは……」
 直哉が答えに窮していると、瑞穂は突然話題を変えた。
「どうして直哉くんは私の方を見てくれないの?」
「は……?」
「昨日からずっとそう。わざと視線をそらして。私、なにかした? それがもし直哉くんに対して悪いことだったら、謝るから」
「……別になにもしてないけど……」
「じゃあ、どうして見てくれないの?」
 瑞穂は、懇願するような眼差しで直哉を見つめていた。
「……先生は、俺になにを求めてるわけ?」
「別になにも求めないわ。ただ、少なくとも直哉くんと対等に話がしたいの」
「対等ね……」
「それも、ダメなの?」
 直哉は、深い溜息をついた。
「わかったよ。俺の負け」
 そう言って直哉は微笑んだ。
「あはっ、よかった」
 そこでようやく瑞穂は、心底嬉しそうに微笑んだ。
「でも、なんでそんなに俺にこだわるわけ?」
「直哉くんが気になるから」
 瑞穂は、真っ直ぐな瞳でそう言った。
「……冗談?」
「冗談じゃないわよ。一目惚れ、とでも言った方がいいのかな」
「…………」
 直哉はなにも言えなかった。
「……先生、あんた変わってるよ」
「そうかな?」
「なんで俺なんかに一目惚れするわけ?」
「それは、直哉くんがカッコイイから」
「人並みだと思うけど」
「もし本当にそう思ってるんだとしたら、罪よね。どう見たって直哉くんは、人並み以上なんだから」
「…………」
 なまじそのことを理解しているだけに、なにも言い返せなかった。
「直哉くんから見て、私ってどうなのかな?」
「どうって?」
「見た目とか、とにかくなんでもいいけど」
「……綺麗だと、思うけど」
「ホントに……?」
「ん、ああ……」
 直哉は、照れ隠しに視線をそらした。
「そうなんだ。直哉くんの目から見て、私ってそう見えるんだ」
「まあ、並以上だとは思うけど」
「ひょっとして、直哉くんて、人を見る目が厳しい?」
「なんで?」
「なんとなくそう思ったから」
 そう言って瑞穂は微笑んだ。
「ねえ、直哉くん」
「なんすか?」
「もし私が教師としてじゃなく、ひとりの女として直哉くんを求めたら、応えてくれる?」
「いや、応えない」
 直哉は即答した。
「どうして?」
「そりゃ、俺は先生のことをなにも知らないし。相手のことを知りもしないで、その想いに応えることなんてできない」
「ふ〜ん、直哉くんて意外としっかりした考えを持ってるんだ」
「意外っていうのは余計」
「あはは、そういうことじゃなくて、最近の高校生ってそういうことに関してものすごく適当な考えしか持ってないから。それに比べてって意味で言ったのよ」
「まあ、それはそうかもしれないけど。でも、実は俺だってそういう連中の仲間かもしれないんだけど。言葉では適当なことを言って相手を油断させて、完全に相手が油断しきったところでいただいてしまう」
「それならそれでもいいような気もするけど。だってそうでしょ? 少なくとも相手を一時的にも信用したんだから。それを決めるのは自分自身。それに対しての責任は、自分が負ってるんだから」
「……そこまで言われると返す言葉もない」
「ふふっ、偉そうなこと言ってごめんなさい」
 屈託なく笑う瑞穂。
 直哉はそれを少し違った眼差しで見つめていた。
 そう、それは漠然とした感覚ではあるが、ある種恋愛感情に近いものだったかもしれない。
「あっ、そうだ。はい、これ」
 そう言って瑞穂は、直哉に紙切れを渡した。
「なんすか、これ?」
「私の家の住所と電話番号。学校からそんなに遠くないから、いつでも遊びに来て」
「……まあ、一応もらっておくけど」
「うん」
 瑞穂は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、そろそろ行かないとね」
「そうっすね」
「あっ、直哉くん、そのままで」
「うん?」
「ゴミが」
 直哉は言われるまま、立ち止まった。
「お近づきのしるし」
「っ!」
 瑞穂は、ゴミを取ると見せかけて、直哉にキスをした。
「ふふっ、またね」
 穏やかな風と共に、瑞穂は屋上をあとにした。
「……完全にやられた」
 直哉は、唇に触れ、呟いた。
 
「ちわ〜っす」
「あら、いつから直哉くんは出前持ちになったのかしら?」
「ははは、いつからでしょうね」
 放課後。直哉は暇を持て余し、保健室にやってきた。
 保健室にはかえでしかいない。
 大きく開け放たれた窓からは、穏やかな春の風が吹き込み、真っ白なカーテンを揺らしている。
「で、どうしたの?」
 かえでは、書類を書く手を止め、訊ねた。
「いや、暇だったもんで。で、気がついたら足がここへ向いていた、というわけです」
「保健室は暇で来るところじゃないでしょ?」
「そう言いながらも、先生だって楽しそうですよ」
「ふふっ、そう見える?」
「ええ、そうとしか見えません」
「とりあえず座ったら?」
 かえではにこやかに直哉に席を勧めた。
 本多かえで。桜林高校保健教師。今年で二十八になる。
 保健教師らしく、白衣に身を包み、常に清潔感あふれる格好をしている。
 普段は下ろしている長い髪を、仕事中はアップにしている。
 ゆったりとした服が好みらしく、スカートもロングのフレアやプリーツが多い。
 改めて言うこともないが、かえでは掛け値なしの美人である。
「先生は、春は好きですか?」
「どうしたの、唐突に?」
「いやあ、この時期が一番春を実感できるじゃないですか」
「桜の時期じゃないの?」
「桜もいいんですけどね。いろんな意味で、今の時期の方がいいんですよ。陽の光、風、緑、どれをとっても春ですよ」
「へえ、直哉くんでもそういう考え方するんだ」
「その、俺でも、っていうのは心外ですよ」
 直哉は、少しだけむくれた表情を見せた。
「そうね、春は好きよ。特に、はじまりの季節だからね」
「はじまりの季節、ですか」
「そう。学校にしても会社にしても、四月からはじまるし。でも、それよりも大きいのが人と人との出会いね。確かに春は別れの季節でもあるけど、それと同じだけの出会いがあるかもしれない季節だから」
「先生なんかやってると、それを普通の人以上に感じるんでしょうね」
「まあね」
 かえでは、穏やかに微笑んだ。
「直哉くんとも、来年の春でお別れだものね」
「そうですね。無事に卒業できればの話ですけど」
「それは心配ないでしょ? 直哉くんはやればできるんだから」
「まあ、卒業だけはするつもりですけどね」
「そうしたら、やっぱり来年の春でお別れよね」
「淋しいですか?」
「当然よ。それに、直哉くんみたいな生徒はそうそういないからね」
「どういうことですか?」
 直哉の言葉に、かえでは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「知りたい?」
「……知りたいような、知っちゃいけないような……」
「直哉くんはね、不思議な生徒、ううん、男の子なのよ」
「どう不思議なんですか?」
「その前に」
 そう言って立ち上がり、ポットからお湯を注ぎ、お茶を淹れた。
「直哉くんは緑茶が好きなのよね?」
「はい。日本人ならやっぱり緑茶ですよ」
「ふふっ、そういうところも不思議なところよ」
「はあ、そうなんですか」
 直哉は湯飲みを受け取りながら首を傾げた。
「直哉くんは、自分をどういう人間だと思ってる?」
「難しいですね。客観的に捉えると、多少は変わり者だと思いますけど」
「いい意味でしから?」
「さあ、どうですかね」
「直哉くんはね、普段はほかの生徒とあまり変わらないんだけど、時々違うのよ。普通だと、教師が生徒を見守るような感じなんだけど、直哉くんの場合は逆なのよ。一緒にいて安心できるっていうか、今私は守られてるんだっていうか、そんな感じを受けることがあるの」
「それは、俺のことを買いかぶりすぎですよ。俺はロクに自分のことも満足に制御できない、まだまだガキなのに。自分よりもいろいろなことを知ってる先生を守るなんて、とてもできませんよ」
「それだけ自分のことを理解していれば十分よ。自分のことをちゃんと理解できない人の方が、普通は多いんだから」
「はあ、そんなもんなんですかねぇ……」
 直哉は、一口お茶を飲んだ。
「変に自信過剰になれとは言わないけど、もう少し自分に自信を持ってもいいと思うわよ。直哉くんは誰が見たって素晴らしいんだから」
「素晴らしい、ですか……」
 直哉は、かえでの言葉について少し考えてみようかと思ったが、すぐにやめた。
「先生」
「うん?」
「人を好きになるって、どういうことなんですかね」
「ずいぶんと哲学的ね。どうかしたの? たとえば、誰かを好きになったとか、告白されたりとか?」
「よくわからないんですよ。だから、客観的に聞いてみようと思って」
「ふ〜ん、じゃあ、相手は杉村さんじゃないのね」
「なんでそこで菜緒が出てくるんですか?」
「あら、直哉くん」
「な、なんですか?」
「誰の目から見ても、直哉くんが杉村さんのことを大切にしてるって、わかるわよ。そして、直哉くんが杉村さんのことを好きだっていうこともね」
 かえでの瞳が妖しく光った。
 直哉はあえてなにも言い返さなかった。
「まあ、今は杉村さんのことはいいわ。そうね、人を好きになるってことは、理屈じゃないのよね。月並みだけど。どうして相手のことを好きになったのかって聞かれて、おおよそのことは答えられても、結局はこれだという答えは出てこないのが実状。それはなんとなくわかるでしょ?」
「はい」
「そして、人は一度は今の直哉くんみたいに好きになるってどういうことだろうって考えるわ。これは人が人である限り続くことでしょうけどね。そして、だいたい結論は出ない。結論は出ないけど、それでいいって思えるから不思議よね。余計なことをあれこれと考えるのがだんだんとバカらしくなってくるのよ。で、私はあの人が好き、それだけ、というような結論に至るの」
「先生もそうだったんですか?」
「そうよ。そして、未だに答えは見つからないけどね。でも、私が直哉くんのことを好きだっていうのは、間違いないわよ」
「えっ……?」
「理屈じゃないものね」
 そう言ってかえでは微笑んだ。
 直哉は一瞬なにを言われたのか、理解できなかった。
「じょ、冗談ですよね?」
「冗談でそんなこと言わないわよ。こうして直哉くんと向かい合って話をしていても、ずっとドキドキしているもの」
「せ、先生……」
「ここが学校じゃなければ、私が直哉くんを押し倒しているかもしれないわね」
 かえでは本気だった。言い方は軽いが、その想いはひしひしと伝わってきた。
「直哉くんて、本当に罪な男の子よね」
「ど、どうしてですか?」
「いったい、何人の女の子を泣かせてきたのかしら?」
「そ、そんなこと──」
「ないって言い切れる?」
「うっ……」
「まあ、直哉くんの気持ちはいつでも杉村さんに向いてるものね。それとも、ほかに誰かいるのかしら?」
 直哉は生きた心地がしなかった。かえでには、すべてを見透かされているような感じすらした。
「え、えっと……そ、そろそろ失礼します」
 直哉はなんとかそれだけ言うと、湯飲みを置いて立ち上がった。
「直哉くん」
「は、はい」
「私ならいつでも相談に乗るわよ。心も体もね」
「し、失礼しましたっ!」
 直哉は、脱兎のごとく保健室を飛び出した。
「ふふっ、まだまだ若いわね。だからこそ、私をこんな想いにさせるのね」
 そう言ってかえでは微笑んだ。
 
「はあ、はあ、はあ……」
 直哉は全速力で校舎を駆け抜け、いつの間にか、図書館の側まで来ていた。
「ここで少し頭を冷やそう……」
 そう言って図書館に入った。
 放課後の図書館には、それなりの生徒がいた。
 自習スペースで勉強している者、真ん中の大きなテーブルで調べものをしている者、開架図書コーナーの前で本を物色している者、蔵書カードで本を探す者と様々だった。
 直哉にとって図書館は、屋上の次によく来る場所だった。なんのために来るのかというと、寝るためである。図書館は基本的に静かな場所なので、寝るのにちょうどいいのだ。屋上は雨の日は外に出られないが、図書館はそういう点で言えば、全天候型の昼寝スペースなのだ。
「ふう、ここは相変わらず静かだな」
 直哉は適当な場所を求めて図書館をまわった。
「ん?」
 と、顔見知りを発見した。
「雅美か」
 開架図書コーナーにいたのは、雅美だった。
「よお、なにしてんだ、こんなとこで?」
「ひゃっ!」
「そんなに驚くことか?」
「な、なんだ、直哉くんか。びっくりさせないでよ」
「別に脅かしたつもりはないんだけどな」
 直哉はそう言って頭をかいた。
「で、なにしてんだ?」
「なにって、本を探してるの」
「おまえが本だとぉ?」
「な、なによ、そんなにおかしい?」
 訊いているのは雅美の方なのに、なぜか引けている。
「まあ、おかしいと言えばおかしいし、おかしくないと言えば、おかしくない」
「どっちなのよ?」
「よくわからん」
「……あのねぇ」
 飄々とした直哉の物言いに、雅美は思わず頭を抱えた。
「そういう直哉くんは、なにしに来たの?」
「俺は、ちょっと頭を冷やしにな」
「頭を冷やすって、なにかしたの?」
「いや、俺がしたわけじゃないんだけどな。されたと言った方が正しい」
「誰に?」
「……秘密」
「ええーっ、そこまで言っておいてそれはないんじゃない?」
「秘密ったら秘密だ」
「もう……」
 雅美もそれ以上は訊いても無駄だと判断したのだろう。訊くのをやめた。
「今日は菜緒がいないから淋しいでしょ?」
「なんで菜緒がいないと淋しいんだ?」
「だって、直哉くんと菜緒はラヴラヴだからね」
「ったく、おまえはそれしか言えんのか?」
 直哉は反論する気もないらしい。ただ、ジト目で雅美を見ている。
「で、なんの本を探してるんだ?」
「面白い本」
「はあ?」
「別にこれって本を探してるわけじゃないの。面白い本があったらそれを読むだけ」
「……ひょっとして、趣味の欄に『読書』ってマジで書けるか?」
「うん」
「……ああ、幻聴が聞こえる」
「どういう意味よっ!」
 雅美は、思わず大きな声を上げていた。
 しかし、そこは図書館。一瞬なにごとかという雰囲気が漂った。
「……うるさい奴だな。静かにしろ」
「……な、直哉くんのせいでしょ?」
 雅美は真っ赤になって抗議する。それでも、大声を出せないからいまいち迫力に欠ける。
「ちっ、しょうがない、出ようぜ」
「そうね」
 ふたりは、居心地が悪くなり、図書館を出た。
「もう、直哉くんのせいで恥かいちゃったじゃない」
「俺のせいか?」
「そうよ」
「むぅ、俺はただ幻聴が聞こえたから、それを伝えたまでだ」
「だから、それが問題なの。まったく、もう……」
 しかし、雅美も言葉ほど腹を立てている様子はない。
「どこへ行くの?」
「屋上」
「直哉くんは、ホントに屋上が好きだよね」
「一番落ち着くところだからな。それに、この時期の屋上は本当にいい場所だ」
「それは同感だけどね」
 程なくして、ふたりは屋上へと上がってきた。
「さすがに昼ほどは暖かくないな」
「昼休みもここにいたの?」
「俺の日課だからな。とはいえ、二日連続で闖入者があったけどな」
「二日連続って、じゃあ、今日も桜井先生に会ったの?」
「まあな」
 直哉は、一瞬げんなりとした表情を見せた。
「桜井先生に気に入られたんだね、直哉くん」
「気に入られたって言うか、なんと言うか……」
 さすがに、告白されたとは言えなかった。
「でも、よかったでしょ? あれだけ綺麗な先生に気に入られたんだから」
「そのこと自体はな」
「なんか、含みのある物言いね」
「そのことにはあまり触れてほしくない」
「どうして?」
「俺が一番わかってないからだ。上手く話すことすらできない」
「ふ〜ん、そうなんだ」
 雅美はフェンスに寄りかかり、風に流される髪を押さえている。
 快活な感じが強い雅美ではあるが、こうしているととてもカワイイ。
「ねえ、直哉くん」
「ん?」
「どうして菜緒と正式につきあわないの?」
「どうして俺が菜緒とつきあわなくちゃならんのだ?」
「だって、好きなんでしょ、菜緒のこと?」
「そりゃ、好きか嫌いかって訊かれれば、好きだと答えるさ。ただ、だからってそれイコールつきあうとはならない」
「頑固だね、直哉くんは」
 そう言って雅美は笑った。
「それだけ大切にされてたら、菜緒も幸せよね」
「……知らん」
「あ〜あ、菜緒がうらやましいな」
「は?」
「好きな人に想われててさ」
「雅美は好きな奴、いないのか?」
「……いないことはないけど、ちょっと無理だと思うから」
「なんでだよ?」
「…………」
 雅美はそれには答えなかった。
 くるっと後ろを向くと、フェンス越しに校庭を見ている。
「どうしたんだ?」
「……ん、なんでもないよ」
「なんでもないことはないだろ。今にも泣き出しそうな顔してさ」
「そ、そんなこと、ないよ……」
 雅美は、直哉に自分の顔を見られないように顔を背ける。
「まったく、おまえは駄々っ子か?」
 そういってポンと雅美の肩に手を載せた。
「っ!」
 それは、一瞬の出来事だった。直哉が雅美の肩に手を載せたのとほぼ同時に、雅美が直哉の胸に飛び込んでいた。
「雅美、おまえ……」
 直哉も、それほど鈍いわけではない。だからこそ、今の雅美の想いがイヤというほどわかった。
「……そうだよ。あたしの好きな人は、直哉くん、あなただよ」
 そう言って雅美は、直哉の制服をキュッとつかんだ。
「この想いは、ずっとあたしの中にしまっておくつもりだった。あたしは直哉くんの想いも菜緒の想いも知っていたから。でも、直哉くんがあんなこと訊くから……」
「……悪い」
「ううん、別に謝ることはないよ。いつまでもモヤモヤしてるより、はっきりさせちゃった方が、いい場合もあるから」
 雅美は健気に笑った。
「……雅美。今の俺になにかできることはあるか?」
「直哉くんに?」
「ああ。なんでもいい。せめて、今だけはおまえの気持ちに応えてやりたい」
「直哉くん……」
 直哉の真剣な言葉に、雅美は思わず泣き出しそうになった。
「でも、悪いよ、そんなの……」
「いいんだよ。俺がそうしたいんだから」
「……こういう時に優しくするなんて、ずるいよ」
 そう言って雅美は目を閉じた。溜まっていた涙が、すーっと流れていく。
「ん……」
 直哉は、そっと雅美にキスをした。
「直哉くん……あたしを、抱いて……」
「雅美……」
 今度は、雅美の方からキスをした。
 
 直哉は、自分の上着を地面に敷き、雅美を横たわらせた。
 ブレザーを脱がせ、リボンをほどく。
「なんか、恥ずかしい……」
「なら、やめるか……?」
「ううん、いいの、続けて」
 雅美ははっきりと首を振った。
 ブラウスのボタンを外すと、薄い青のブラジャーがあらわになった。
「こんなことになるんだったら、もっとカワイイのつけてくればよかった」
「んなこと気にするな」
「気にするの」
 直哉は、そのブラジャーを外さずにたくし上げた。
 決して大きくはないが、形のいい胸があらわになった。
「……あんまり、見ないで」
「どうして?」
「……大きくないから」
「誰と比べてそんなこと言ってるんだ?」
「……菜緒」
「…………」
 直哉の動きが、一瞬止まった。
「直哉くんだって、菜緒がスタイル抜群だって知ってるでしょ? たぶん、うちのクラスで一番だと思う」
「……菜緒は菜緒。おまえはおまえだろ?」
 そう言って直哉はキスをした。
 それから、直に胸に触れた。
「んっ……」
 わずかに触れただけで、雅美は敏感に反応した。
「あ、ん、んあ……」
 包み込むように、ゆっくりと揉みしだく。
「や、んん、あふぅ……」
 次第に、先端の突起が固く凝ってくる。
「んくっ!」
 その突起を指で弾くと、雅美は体を大きくのけぞらせた。
 右手で右胸の突起をいじりながら、左胸の突起に舌をはわせる。
「や、ダメっ、そ、そんなのっ、んんっ」
 雅美はさらに敏感な反応を示した。
 それでも直哉は止めようとはしない。
「んっ、あんっ、んんっ、んあっ、ダメっ!」
 そこが屋上であることも忘れて、雅美は嬌声を上げた。
「直哉くんっ、んんっ!」
 直哉が突起を甘噛みすると、雅美は軽く達してしまった。
「ん、はあ、はあ……」
「おまえ、すごく敏感なんだな」
「そ、そんなこと、言わないで……」
 恥ずかしさで耳まで真っ赤になっている。
「これじゃ、こっちを触ったらどうなるんだ?」
 そう言ってスカートをまくる。
「おまえ……」
「……お願いだから、言わないで……」
 目をギュッと閉じ、雅美は顔を背けた。
 雅美のショーツは、すでにしっとりと濡れていた。
「脱がせても、いいか?」
 雅美は小さく頷いた。
 スカートを脱がせ、ショーツも脱がせた。
 たくし上げられたブラジャーとソックスが残ってはいたが、ほぼ生まれたままの姿の雅美がそこにはいた。
「綺麗だ」
「ありがと、直哉くん……」
 直哉は、秘所に手を伸ばした。
「ひゃんっ」
 及び腰になり逃げようとする雅美を、しっかりと押さえつけた。
「やっ、ダメっ、こんなのっ、すごっ」
 やはり雅美はものすごく敏感で、触れる度に蜜があふれてきた。
 直哉の指には、たっぷりの蜜が絡みつき、すでに十分濡れているのではと思わせた。
「んっ、あんっ、直哉くんっ」
 それでも、直哉は執拗に秘所を触り続けた。
「なおや、くん……」
 雅美は、せつなげな眼差しで直哉に訴えた。
「お願い……」
「わかった……」
 直哉は、ズボンとトランクスを脱いだ。
「それが、直哉くんの……」
 限界まで怒張したモノを見て、雅美はなんとも言えない感想を漏らした。
「いくぞ?」
「うん……」
 直哉は、菜緒の秘所にモノをあてがった。
 緊張でガチガチになっている雅美に、直哉はもう一度キスをした。
 それから、一気に腰を落とした。
「いっ……んくっ、痛っ!」
「……大丈夫、じゃないよな」
「はあ、はあ、大丈夫、だよ……」
 涙目でそう言われても、直哉はとても信じられなかった。
「で、でも、もう少し、このままで……」
「ああ」
 直哉は、雅美の髪を優しく撫でた。
「……あたし、今、直哉くんとひとつになってるんだよね……?」
「ああ」
「嬉しい……嬉しいよ……」
「お、おいおい、泣くなよ」
「だって、嬉しくて……」
 そう言って雅美は微笑んだ。
「ん、もう大丈夫だよ……あとは、直哉くんの好きなようにして、いいから」
「わかった」
 直哉はひとつ頷くと、ゆっくりと動きはじめた。
「んっ……」
「つらいか?」
「少しだけ……でも、それだけじゃないの」
 直哉は、あえて動きを止めなかった。
 ゆっくりと腰を引き、また押し戻す。
「んんっ、んくっ」
 菜緒の口から漏れてくるのは、わずかな苦痛とそれを上回りはじめた快感だった。
「んあっ、あんっ、」
 直哉はそれを確かめると、少し動きを速めた。
「ああっ、んんっ、あんっ」
 次第に苦痛の色が取れ、快感のみが漏れてきた。
「やっ、ダメっ、体が熱くてっ」
 雅美は、知らず知らずのうちに自らも腰を動かしていた。
「あんっ、んんっ、あっ、あっ、あっ、あっ」
 雅美の口から、甘く淫靡な声が漏れてくる。
 それが直哉の神経を麻痺させる。
「直哉くんっ、あたしっ、あたしっ」
「雅美っ」
「んっ、お願いっ、一緒にっ、一緒にっ」
 直哉は、ラストスパートと言わんばかりに、動きを速める。
「直哉くんっ、直哉くんっ、直哉くんっ」
「雅美っ」
「んんっ、ああっ、んあっ、あああああっ!」
「くっ!」
 そして、ふたりはほぼ同時に達した。
 直哉は、寸前でモノを引き抜き、雅美の腹部に白濁液を放った。
「はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、雅美……」
 ふたりは、もう一度キスを交わした。
 西の空は、すでに茜色に染まっていた。
 
「大丈夫か?」
「うん。ちょっとだけ変な感じがするけど、大丈夫」
 そう言って雅美は微笑んだ。
 ふたりは自転車を押しながら、並んで帰っていた。
「……あたしね、今日のこと、一生忘れないから」
「雅美……」
「これでまた、明日からはいつも通りの竹宮雅美でいられるよ。全部、直哉くんのおかげでね」
「俺は、なにもしてない。強いて言えば、きっかけを与えたくらいだ。ま、これも全部、俺が自分でまいた種なんだがな」
「うん、それでもなの」
 雅美は、笑顔でそう言った。
「直哉くん」
「うん?」
「絶対に菜緒と上手くいかなくちゃダメだからね。あたしを、振ったんだから」
「……そればかりは、いくらおまえの言葉でもなんとも言えない。俺にとって菜緒という存在が、まだ完全にはわかってないからな。もしそれがわかってもなお、俺が菜緒のことを想っていたら、その時は……」
「そっか……じゃあ、それまであたしも応援してるから」
「おまえの場合は応援じゃなくて、冷やかしになるかもしれないけどな」
「なによぉ、そんなことしないわよ。菜緒はあたしの親友だし、直哉くんは、これからもずっとあたしの好きな人なんだから」
 完全に吹っ切れたわけではないのだろうが、雅美の笑顔は晴れやかだった。
「わかったわかった。冷やかしやお節介にならない程度に頼む」
「うん、任せといて」
 やがて、交差点へとやって来た。そこでふたりは別れる。
「じゃあ、直哉くん。今日は、ごめんなさい」
「謝るなよ」
「それと……ありがとう」
 そう言って、キスをした。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
 雅美は自転車にまたがり、一度だけ振り返ってから、帰っていった。
「さてと、俺も帰るか……」
 そして、直哉も自転車にまたがり、家路に就いた。
 
 その夜。
「直哉くん。遠慮しないで食べてくれ」
「そうよ、どんどん食べてね」
「はい」
 直哉は、杉村家の夕食の場にいた。
 なぜそうなったのかというと、話は簡単である。
 和哉と雪恵は、例によって例のごとく仕事で、千尋は大学の仲間に捕まって飲み会に連れて行かれた、というわけである。
 従って直哉だけが残される形となり、こうして杉村家で夕食をごちそうになっていた。
 そんな杉村家は、三人家族である。
 家長である杉村晋也は、大手家電メーカーに勤務するサラリーマンである。最近部長に昇進したために、仕事が急に忙しくなった。
 その妻であり菜緒の母親である杉村美緒は、専業主婦である。結婚当初は大手都市銀行に勤めるOLだった。その後、菜緒を身ごもったことから銀行を退行。そのまま家庭に入った。
 そんな杉村家のひとり娘が、菜緒である。
 非常に円満な家庭ではあるが、晋也は常々『息子がほしかった』とこぼしている。だから、こうして直哉が杉村家に来ると、過剰なまでに世話を焼きたがるのである。
「でも、今日は突然だったよね」
「まあな。父さんや母さんはともかく、姉さんまでとはね」
「千尋ちゃんも二年生だから、いろいろとあるんでしょ」
「そうだな。大学生は社会人予備軍みたいなものだから、そういうつきあいにも慣れておかないと」
「大学って、そういうところなんですか?」
「人によって違うけど、おおよそはそうだろうな」
「お父さんは?」
「まあ、似たようなものだったな。ただ、文系と理系でも多少違うからな」
「そうね。どちらかというと、文系の方がそういう傾向が強いわね」
「姉さんも文系だから」
 直哉は、晋也や美緒の話を聞いて、溜息をついた。
「直哉くんも進学なんだろう?」
「ええ、一応は。ただ、どの大学っていうのはまだ決めてないんですけど」
「まだ時間はあるものね。菜緒も似たようなものでしょ?」
「私はある程度は絞ってはあるけど。でも、まだ決めてないから、直哉とあんまり変わらないかも」
「また一緒になれるといいわね」
 美緒のその言葉に、直哉は苦笑して答えた。
「それは、俺次第ですよ。今のところは、菜緒が志望校のランクを下げない限り、俺が追いつかなければ無理ですから」
「だそうだ、菜緒。どうする?」
「えっ、私は……」
「あなた。今からそんなこと言わなくてもいいじゃない。現役生は、終盤の追い上げがあるんだから」
「じゃあ、また直哉くんに菜緒のことを頼めるかな。ははは」
 晋也は、上機嫌で笑った。
 夕食後。
「ふいぃ、さすがに食い過ぎた」
「ふふっ、勧められるままに食べるからよ」
 直哉は、菜緒の部屋にいた。
「でもさ、断りにくいんだよ。あれだけ嬉々として勧められてさ、それを断った時の落胆した姿を見たくないから」
「ホント、直哉はそういうところは、すごく思慮深いよね」
「処世術と言ってもらいたいな」
「なぁに言ってんのよ」
 そう言って菜緒は笑った。
「そういえば、今日は結構帰ってくるの、遅かったのね」
「ん、ま、まあな。いろいろあって」
 さすがに菜緒に学校であったことは話せなかった。
「ねえ、直哉。GWはなにかするの?」
「いや、特に決めてはないけど。菜緒の方こそどうなんだ?」
「私もそうかな。ひょっとした家族でどこかへ行くかもしれないけど」
「うちは、家族でってのは無理だからな」
 直哉は苦笑した。
「あのさ、直哉。よかったら、どこかに行かない?」
「菜緒とか?」
 頷く菜緒。
「ふたりだけでか?」
 さらに頷く菜緒。
 直哉はじっと菜緒を見て、ふっと相好を崩した。
「いいぜ。どっか行こうぜ」
「ホント?」
「行きたいんだろ?」
「うん」
「ならいいさ。断る理由もないしな」
「あはっ、ありがと、直哉」
 菜緒は、本当に嬉しそうに笑った。そんな菜緒を見て、直哉も微笑んだ。
「なあ、菜緒」
「ん?」
「そんなに俺と出かけるの、嬉しいか?」
「う〜ん、そうだね。単純に嬉しいよ。直哉と一緒だといろいろと余計なことを考えなくてもいいし。直哉の考えてることは私がわかるし、私の考えてることは直哉がだいたいわかるでしょ? だから、純粋に楽しめるの」
「なるほどな。それは俺もそうだと思う。だけど、それだけなのか?」
 直哉は、少しだけ真剣に言った。
「えっ……?」
「ホントにそれだけなのか?」
「……なにが言いたいの?」
 菜緒は、目を伏せた。
「いや、なんとなくそれだけじゃないような気がしたからさ。まあ、俺の気のせいかもしれないけど」
 直哉はそう言って適当に濁した。
「……直哉はさ」
「ん?」
「私のこと、どう思ってるの?」
「どうって?」
「幼なじみってことを抜きにして、どう思ってる?」
 菜緒は、真摯な眼差しで直哉を見つめた。
 直哉は、それを見て小さく溜息をついた。
「……菜緒。おまえは俺になにを望んでる?」
「私は──」
「俺は少なくとも今は、おまえには今以上のことは望まない。あくまでも今はな。これから先もそうだということはない」
 直哉も菜緒と同じように真剣だった。
 それは、菜緒とのことだからだろう。
「もしおまえが俺と幼なじみ以上の関係を望んでいるのなら、俺はそうなってもいいと思ってる。ただ、その関係がいいものになるのかどうかはわからないし、俺も保証はしない。それでもいいんだったら……」
 あえてその先は言わなかった。
「……ずるいよ、直哉。そんなこと言われたら、もうなにも言えないのに」
 直哉はなにも言わず、菜緒に近づいた。
「えっ……直哉?」
 そして、そのまま菜緒を抱きしめた。
 最初は驚きを隠せなかった菜緒だったが、すぐに菜緒の方からも直哉を抱きしめた。
「菜緒は、俺のこと、好きか?」
「えっ、あ、うん、好き……大好き」
「俺も菜緒のこと、好きだぜ」
「直哉……」
「でも、俺たちは長い間幼なじみというぬるま湯のような関係にありすぎた。だから、お互いがお互いを好きでも、ただ好きというだけでお互いになにを望んでいるのかわかってない。だから、もう少し考えるべきだと思う。そして、そこでなにを望んでいるのかをちゃんと理解した上で、その時こそ『恋人』と呼べる関係になればいい。焦る必要はないんだ。だってそうだろ? 俺たちはお互いのことをちゃんと理解してるんだから。上辺だけのつきあいじゃないんだから」
 直哉は、菜緒の長い髪を優しく撫でた。
「俺の言ったことを全部理解しろとは言わない。菜緒には納得できない部分もあるだろうからな。でも、俺はこれからのおまえとの関係はそういう風でありたいと思ってる。もしおまえが今ここでキスをしてくれだとか、抱いてくれだとか言えばその通りにしてやる。それを心から望んでいるんだったらな。でも、望みもしないで、ただ中途半端な関係がイヤだからってことでそれを望むのなら、俺たちの関係はそれまでだ。わかるな、菜緒?」
「……直哉」
「ん?」
「キス、してくれる?」
「ああ」
 直哉は、優しく菜緒にキスをした。
 菜緒の唇は少しだけ震えていたが、それでも、その暖かさだけは変わらなかった。
 唇を離すと、菜緒はほんのりと頬を染め、俯いた。
「これからがんばらなくちゃ」
「なにをだ?」
「直哉のこと、あれこれ考えて、そして、ホントに直哉に相応しい私にならなくちゃいけないから」
「……バーカ。考える云々はいいけど、相応しいとかそういうことは気にするな。俺は、今の杉村菜緒が好きなんだから。あまり勝手にいじくらないでくれよ」
「でも、今のままだと、千尋さんに負けちゃうから」
 そこではじめて、直哉は動揺した。
「な、なんでそこで姉さんが出てくるんだ?」
「見てればわかるよ。直哉も千尋さんも、お互いのことを姉弟以上の存在として見てるから」
「菜緒、おまえ……」
「それに、たとえそうじゃなくても私の理想は千尋さんだから。どっちみち、千尋さんを越えなくちゃダメなんだよ」
「そっか……」
「だから、負けないよ。今は直哉の心は千尋さんに向いてるかもしれないけど、必ず私に振り向かせてみせるから」
 そう言った菜緒の顔には、清々しいまでの笑顔があった。
「覚悟しててよ、直哉」
「ああ、覚悟しとくよ」
 そう言ってふたりは笑った。
 
 二
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 男の子が、息を切らして駆け寄っていく。
「ん、どうしたの、なおくん?」
 その男の子──小学生の頃の直哉に、中学に上がったばかりの千尋が訊ねた。
「今日ね、テストで百点取って体育の先生に褒められたんだ」
「よかったね、なおくん」
「うん」
 天真爛漫な笑顔を千尋に向ける直哉。そんな直哉の笑顔を見て、千尋は目を細めた。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「お父さんもお母さんも、褒めてくれるかな?」
「うん、褒めてくれるよ」
「よかった」
「でも、どうしてそんなこと聞くの?」
「だって、お父さんたちお姉ちゃんばっかり褒めるから。ぼくのこと、どうでもいいのかなって思って」
「そんなことないよ、なおくん。お父さんもお母さんも、ちゃんとなおくんのこと、考えてるんだから。ただ、今はまだ小学生だから必要以上のことを言わないだけだよ。小学生はね、テストで百点取ることも大事だけど、もっと大事なことがあるんだよ」
「もっと大事なこと?」
「うん。それはね、たくさん遊ぶこと。友達とたくさん遊んで、いろんなことをして、そして大きくなるの。中学校へ行ったらたくさん遊べなくなっちゃうからね」
「お姉ちゃんもそうなの?」
「そうだね。でも、それは中学生だから仕方がないことなんだよ。だからこそ、小学生の間にたくさん遊ばないとね」
 千尋は優しく言い聞かせた。
「うん、わかったよ、お姉ちゃん。ぼく、いっぱいいっぱい遊ぶから」
 直哉も笑顔で答えた。
「たくさん遊んで、もっともっとお姉ちゃんに褒めてもらうんだ」
「なおくん?」
「ぼくね、ホントはお父さんやお母さんに褒められるよりも、お姉ちゃんに褒められる方が嬉しいんだ。ぼく、お姉ちゃん大好きだから」
 屈託なくそう言った直哉。
 それを見て聞いた千尋は、直哉を抱きしめていた。
「なおくん……」
「お姉ちゃん……?」
「私もなおくんのこと、大好きだよ」
「ホント?」
「うん。なおくんのこと嫌いなわけないでしょ?」
「うん」
 直哉は嬉しそうに千尋の胸に顔を埋めた。
「……お姉ちゃん、あったかいね」
「なおくんだって、あったかいよ」
「ずっと、こうしてたいな……」
「うん、そうだね……」
 
「……夢、か……」
 その呟きで直哉は目覚めた。
 薄暗い部屋の中には、春の陽差しがわずかも差し込んでいなかった。
 直哉はベッドからはい出て、カーテンを開けた。
「五月最初の日は、雨か」
 カレンダーに目を向ける。カレンダーはすでに五月のものに変えてあった。
「っと、こんなことしてる場合じゃなかった」
 直哉は簡単にベッドを整えて、部屋を出た。
 階段を下りて台所に顔を出す。
「おはよう、姉さん」
「おはよ、なおくん」
 いつものように、千尋が朝食の準備をしている。
「今日は少し早いね」
「まあ、雨だから」
 確かに時間はまだ六時二十分になっていない。
 直哉はそれだけ言うと、洗面所へ。顔を洗い、髪を簡単に整える。
 そして台所に戻り、千尋の手伝いをする。
「ふわぁ、おはよう、千尋、直哉」
「あっ、おはよ、お母さん」
「おはよう」
 そこへ、珍しく雪恵が起きてきた。
「今日は早いんだね」
 直哉が素直な疑問を口にした。
「二度寝しようと思ったんだけど、できなかったのよ」
 そう言ってあくびをかみ殺す。
「和哉さんは和哉さんで気持ちよさそうに寝てるから、なんか居づらくなって起きたの」
「なるほどね」
 直哉は納得といった感じで頷いた。
 雪恵はそのまま洗面所へ。
 程なくして朝食の準備も終わる。
 雪恵は終始眠そうな様子で箸を動かしていた。
「そういえば、直哉」
「ん?」
「そろそろ三者面談なんじゃないの?」
「ああ、そういえばそうだね。なんかそんなこと聞いたような気もする」
「気もするって、自分のことでしょ?」
 雪恵は呆れ顔で言った。
「だって、まだいつするとか決まってないからさ。たぶん、連休明けにでも言われるんじゃないかな」
 そう言って直哉はお茶をすすった。
「でも、母さん、来られるの?」
「それはわからないけど、できるだけ行くつもりよ。進路のことがあるから」
「そっか。じゃあ、俺の方から母さんが空いてそうな時間を先生に言っておくよ」
「そうしてくれると助かるわ」
 朝食を済ませると、直哉はいつも以上に慌ただしく準備をする。その理由はもちろん、雨が降っているからである。雨の中、自転車で登校することはない。本当ならレインコートでも着て行けばいいのだろうが、直哉はそれをやらない。従って、家から一番近いバス停でバスに乗り、一番学校に近いバス停で降りる。
 しかし、その方法だと如何せん時間がかかった。
 まず、バス停まで五分。バスで二十五分。向こうのバス停から十五分。これはあくまでも道路が混んでいない時。混んでいる時はさらにかかった。
 だから直哉はいつもより早く行動しているわけである。
「なおくん、忘れ物は?」
「大丈夫」
 直哉は靴も履いて準備完了。
「ん……」
 しっかり『いってきます』のキスを交わす。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
 玄関を開けると、雨の日特有のもわっとした感じに包まれた。
 傘を差して表に出る。
「おはよ、直哉」
「うっす、菜緒」
 雨の日でも、やはり菜緒が先に待っていた。
 あの日以来、直哉と菜緒の関係は少しだけ変わっていた。別にどこが大きく変わったというわけではないが、多少の変化はあった。
「雨の日は早く行かなくちゃいけないから、大変だよね」
「まあな。最近雨なんか降ってなかったから、余計な」
 直哉は菜緒に対して、以前よりも柔らかく当たっている。
「でもね、雨の方がいいこともあるんだ」
「いいこと?」
「うん。直哉といろいろ話ができるから。自転車だとそんなにはできないでしょ? だからなの」
 菜緒は、ことあるごとに直哉に対してそんなことを言うようになった。自分の想いを変に自分の中に押し込めなくなったのだ。
「ったく、話ならいつもしてるだろ?」
「こういう時にするのがいいの」
 そう言って菜緒は笑った。
 菜緒にしてみれば、まだ『恋人』という関係にはないが、直哉も自分のことを想ってくれているという安心感を得られたことが、嬉しかったのだ。
 だからこそ菜緒は、これまで以上に素直になろうとしていた。
「あさってからどうせ休みなんだから、今日、明日も休みにしてくれればいいのにな」
「それはそうだと思うけど、あんまり休みが多いと、その分普通の日にしわ寄せが来るかもよ」
「むぅ、それはそれでイヤだな」
「学校にはカリキュラムってものがあるからね。それを消化できないといろいろ問題があるみたい」
「めんどくさいよな」
 バスに乗り込むと、同じ桜林高校の生徒も見受けられた。
 ふたりはちょうど空いていたふたりがけの席に座った。
「ふふっ」
「どうした?」
「席が狭いおかげで、直哉とこうしていられるなって思って」
 そう言って菜緒は直哉にすり寄った。
「バーカ。狭くなくたってやってくるじゃないか、最近のおまえは」
「だって、こうしたいんだもん」
「まったく……」
 直哉も言葉ほど呆れていない。逆に嬉しいくらいだった。
 嬉しそうな、幸せそうな菜緒の顔を見ていると、直哉もそんな気分になってくる。
 バスの中では他愛のない話で盛り上がる。とはいえ、ほとんどは菜緒が話しているのだが。
 バスを降りると、雨が少し強くなっていた。
「靴、濡れちゃうね」
「しょうがないだろ。どんなに上手く歩いたって、多少は濡れるんだから」
「直哉は、雨の日に歩くの、上手だよね」
「まあな。ちょっとしたコツがあって、それを実践してるだけだ」
 確かに、直哉のズボンの裾には、ほとんど跳ね上がりがない。
「私なんか、気を抜いちゃうとすぐに濡れちゃうから」
 そう言って菜緒は自分の足下を見た。
「その程度で済めばいい方だろ。中にはびしょ濡れの奴だっているんだからさ」
「そうだね」
 などという会話を交わしながら、ふたりは学校へ向かった。
 正門前の道には、色とりどりの傘の花が咲き、まさに雨の日の登校風景だった。
 校庭には大きな水溜まりがいくつもでき、すぐには使えそうにないほどだった。
 昇降口で上履きに履き替え、教室へ向かう。
 桜林高校では、傘は自分の教室に置くことになっているので、皆傘を持っている。
「うおっす」
「おはよう」
 教室はいつもより生徒が多かった。雨ということもあって、早めに家を出ているからだろう。
「おっはよー、ふたりとも」
「おはよ、雅美」
「うおっす」
 最初に声をかけてきたのは、雅美だった。
 直哉と雅美は、あれからもいつも通りの関係を保っていた。直哉も雅美も必要以上のことは言わない。言わなくてもわかるような関係になったといえばそれまでだが、少なくとも表面上は今まで通りの関係だった。
「今日はやっぱり早いね」
「うちは遠いからね。菜緒たちみたいに上手くバスを使えればいいけど、使えないから」
 そう言って雅美は溜息をついた。
「で、それを口実に授業中居眠りするんだな」
「なによぉ、そんなことしないわよ。それに、居眠り常習犯の直哉くんにはそういうこと、言われたくないわよ」
「誰が常習犯だ、誰が」
「直哉くん」
「直哉」
 いつの間にか菜緒までが加勢している。
「……おまえらなぁ」
「はっはっはっ、ご機嫌いかがかな、直哉」
「出たな、ボケあき」
「誰がボケだ、誰が」
「おまえだよ、秀明」
 直哉はビシッと秀明を指さしてそう言い切った。
「……それはさておき」
「おっ、今日は無視か」
「直哉」
 秀明は直哉の肩をしっかとつかんだ。
「な、なんだよ……?」
「GW、暇か?」
 そして、真剣にそう訊いた。
 直哉はそれを聞くと思い切り脱力し、秀明の手を払った。
「んなこと、真顔で聞くな」
「まあ、いいじゃないか。で、どうなんだ?」
「暇な日もある」
 直哉は、ちらっと菜緒の方を見て答えた。
「暇だったらどうだって言うんだ?」
「実はさ、うちの親父がこんなもんをもらってきたんだ」
「どれどれ」
 秀明が取り出したのは、近郊にあるアミューズメント施設の招待券だった。
「十枚もらってきたんだけど、兄貴が五枚ほど持ってったから、五枚だ」
「なるほど。ようは、男ひとりで行くのはあまりにも淋しすぎるから道連れを探していたと」
「いや、正確には少し違うな」
「どう違うんだ?」
 直哉は首を傾げた。
「確かに直哉を誘うのはそういう理由だけど、直哉を誘えば菜緒ちゃんたちが来やすいだろ?」
「なるほど、俺は『餌』か」
「そういうことだ。はっはっはっ」
「笑うな」
「はぐっ!」
 直哉は、容赦なく秀明の後頭部を張った。
「へえ、ここって行ってみたかったんだよね」
「うん、オープン当初からなにかと話題になってたからね」
「テレビも雑誌も猫も杓子も、アクアランドだったからね」
 菜緒と雅美の会話を受けて、秀明は改めて聞いた。
「さあ、直哉、どうする?」
「……わあったよ」
 直哉は、嘆息混じりに答えた。
「菜緒ちゃんと雅美ちゃんもどう?」
「あたしはもちろん、オーケーよ」
「私もいいよ」
「よっしゃ」
 秀明はガッツポーズをした。
「あと一枚あるんだろ?」
「ああ」
「どうするんだ?」
「別に俺としては誰でもいいんだけどな。それに、今無理して使わなくても、期限はもう少し先だからな」
「じゃあ、四人で行くか?」
「あのさ、誘ってもらって言うのも悪いんだけど、もうひとりいいかな?」
「誰かいるのか、雅美?」
「理紗よ」
 理紗とは、菜緒と雅美の親友、江森理紗のことである。クラスが違うため、直哉や秀明とは多少縁遠いが、知らない仲ではない。
「理紗か。いいんじゃないか。なあ、秀明」
「異論はない」
「でも、理紗の意見はきかなくてもいいのか?」
「ああ、それなら大丈夫。絶対にオーケーするわよ」
 雅美は自信満々に言った。
「まあ、それならそれでいいんだけど。で、いつ行くんだ?」
「一番都合のいい日にするよ。直哉はいつなら大丈夫なんだ?」
「俺は、三日か四日だな」
「菜緒ちゃんは?」
「私も直哉と同じ」
「雅美ちゃんは?」
「四日なら完璧オーケーよ」
「なら、四日を最有力として話を進めるか」
「そうだな」
「理紗にはあたしが言っておくから」
「じゃあ、お願いするよ」
「任せといて」
 そう言って雅美は頷いた。
 
 昼休み。
「雅美」
「ん、どうしたの、直哉くん?」
「理紗には話、つけたのか?」
「ううん、これからだけど」
 雅美は、ペットボトルのジュースを飲み干した。
「一緒に行く?」
「そうだな。秀明の代わりに話をまとめよう」
「ふふっ、そうね」
 ふたりは教室を出た。
 昼休みの廊下は、それなりに賑わっていた。
 ふたつ隣の教室に入る。
「やっほ、理紗」
「雅美ちゃん」
「よお、理紗」
「あれ、直哉くんも。どうしたの?」
 理紗は、くりくりっとした愛らしい瞳を輝かせ、ふたりに訊ねた。
「実はね、今度みんなでアクアランドに行こうってことになったのよ」
「アクアランドって、あのアクアランド?」
「うん。で、そのみんなの中に理紗を入れようと思ってるんだけど、いい?」
「誰が行くの?」
「あたしと菜緒と直哉くん。それと今回の言い出しっぺの、秀明くん」
 その言葉に、一瞬理紗は反応した。
「もちろん行くでしょ?」
「えっ、あ、うん」
「おい、雅美」
「なに?」
「半分脅しに近いぞ、今の言い方」
「脅してなんかいないわよ」
「だけど、理紗に有無を言わさず頷かせたように見えたぞ」
「気のせいよ。ね、理紗?」
「う、うん」
 理紗は、雅美の言葉に小さく頷いた。
 直哉はまだなにか言いたそうだったが、結局なにも言わなかった。
「で、行くのは四日でいい? ダメなら考えるけど」
「大丈夫だよ。今年のGWはどこにも行く予定なかったから」
「じゃあ、決まりね。時間とかは決まったらまた伝えに来るから」
「うん」
「…………」
「直哉くん。いったん戻ろ」
「ん、ああ」
「またあとでね」
「うん」
 直哉と雅美は教室を出た。
 廊下に出ると、さっそく直哉が訊ねた。
「なあ、雅美」
「ん?」
「なんで理紗はあんなに簡単にオーケーしたんだ?」
「へっへー、知りたい?」
「なんか理由があるのか?」
「もちろん」
 雅美は胸をそらし、得意げに言った。
「実はね、理紗は秀明くんのことが好きなのよ」
「……マジか?」
「そんなことでウソついてもしょうがないでしょ?」
「理紗が秀明のことをね……」
「意外だった?」
「いや、案外妥当なのかもな。秀明は見たまんまどうしようもない奴で、理紗はそれとは正反対だ。だから、自分にないものを持ってる秀明に惹かれたのかもしれない」
「へえ、わかってるぅ。理紗はあの通りの性格だから、このままといつまで経っても進展しないと思うの。だから、こういう機会は大いに活用しないと」
「なるほどな」
「ダブルデートなら、多少は抵抗感もなくなると思って」
「ちょっと待て。ダブルデートって、俺たちもか?」
「そうよ。ちゃんとあたしと菜緒をエスコートしてね、直哉くん」
 そう言って雅美は笑った。
「まったく、しょうがねぇな。エスコートはしてやるけど、あんまり余計なこと言ったりやったりするなよ」
「大丈夫よ。あたしだって、時と場所をわきまえてるんだから」
「だといいけどな」
 直哉は、嘆息混じりにそう言った。
「むっ、そんなこと言うと──」
「お、おいこら、雅美」
 雅美は、電光石火の早業で、直哉にキスをした。
「どこが時と場所をわきまえてるって?」
「いいの。普通の時は大丈夫だから」
「……おまえって奴は」
 直哉は、苦笑しつつ、雅美の頭をポンポンと叩いた。
「ほら、さっさと秀明のとこ行って、詳細を詰めるぞ」
「うん」
 
 放課後。
 昨夜から降り続いていた雨も上がり、薄陽が差しはじめていた。
 直哉は職員室で担任に三者面談のことについて希望を話した。担任も最大限考慮するということで、とりあえず話はついた。
 職員室から教室に戻ると、菜緒が待っていた。
「なんだ、帰ってなかったのか」
「うん。せっかくだから待ってたの」
 菜緒は、笑顔でそう言った。
「じゃあ、帰るか」
「うん」
 直哉は鞄と傘を持って、菜緒と一緒に教室を出た。
「雨、上がってよかった」
「そうだな。でも、これだとバスで帰るのがもったいないな」
「歩いて帰る?」
 菜緒の言葉に、直哉は時計を見た。
「四時か。まあ、一時間くらいで行けるからな」
「冬じゃないから陽もあるしね」
「歩くか」
「うん」
 学校を出ると、だいぶ雲が薄くなり、その分陽差しが戻ってきていた。
「これからの季節は、雨上がりが一番鬱陶しいんだよな。特に中途半端に雨が降ったあとはな」
「そうだね。ムシムシとしてね」
「まあ、これくらいしっかり降れば、暖かな空気も洗い流されていいんだけど」
 そう言って直哉は深呼吸した。
「なんにしても、適度であれば文句もないけどな」
「ふふっ、そうだね」
 直哉と菜緒。
 こうしてふたり並んで歩いていると、これ以上ないというくらいお似合いのカップルである。端から見れば誰しもが恋人同士だと思うだろう。それは、菜緒の嬉しそうな笑顔を見てもわかる。
 これでふたりが恋人同士じゃないなどと言っても、誰も信用しないだろう。それほどふたりの立ち居振る舞いは自然なのである。
「しかし、思わぬところでGWの予定ができたな」
「うん。秀明くんに感謝しないと」
「菜緒も行きたかったんだろ、アクアランド?」
「あれだけいろいろ言われてたからね。一度くらいは」
「なら、どうして言わなかったんだ? 別にそれくらいのとこ、つきあってやったのに」
「なんか、もったいない気がして」
「もったいない?」
 直哉は首を傾げた。
「うん。やっぱりそういうところは大勢でわいわい行くか、家族で行くか、恋人同士で行くような気がして。だから」
「ったく、変なとこに気まわしてるんじゃねぇよ。何度行ったっていいじゃないか。その都度その都度、違う感じがして逆にいいと思うけどな、俺は」
「そうだね。でも、やっぱり直哉とふたりだけで行くんだったら、もうちょっとあとの方がいいな」
 言って、菜緒は微笑んだ。
「おまえ、よくそんな恥ずかしいこと、恥ずかしげもなく言うな」
「だって、思ってることをそのまま言ってるだけだから。私、もう必要以上に思ってることを自分の中に押し込めないって決めたんだ。だから、直哉に対してもしてほしいこともちゃんと言うよ」
「理不尽なことじゃなければな」
「理不尽なことなんか言わないわよ」
「理不尽かどうかは、俺が判断することだ。菜緒とは見解の相違があるかもしれないだろ?」
「それは、そうだけど……」
 菜緒は、面白くなさそうに俯いた。
「でも、それでも直哉はしてくれるよ」
「……バーカ」
 直哉は照れを隠すかのように、悪態をついた。
「そういえば、菜緒は知ってたのか?」
「なにを?」
「理紗が秀明のことを好きだっていうこと」
「雅美から聞いたの?」
「まあな」
「もう、雅美は人のことすぐ話しちゃうんだから」
 さすがのことに、菜緒も少し憤慨している。
「じゃあ、知ってたんだな」
「うん。聞いたのは去年だったかな。まあ、私たちも聞いてからなにもできなかったけどね」
「そういうものは、結局は本人がなんとかしないとどうにもならないからな」
「だから、今回は理紗自身にがんばってもらわないと」
「理紗なら秀明にはもったいないくらいなんだがな。問題は、秀明だな」
 直哉は、そう言って腕組みをした。
「秀明くんて、誰か好きな人、いるの?」
「いや、そんな話聞いたこともないし、誰かいるって感じもない。ただ、俺だってあいつのことなんでも知ってるわけじゃないからな。実はってことはあるかもしれない」
「そうなると、やっぱり理紗ががんばらないと」
「そうだな。どうなるにしても、自分の気持ちを相手に伝えない限りは、前進も後退もできないからな」
「それは、よくわかるよ」
 菜緒は、感慨深そうに頷いた。
「あっ……」
「ん、どうかしたか?」
「ほら、虹が出てる」
 菜緒の指さす方向に、うっすらと虹が出ていた。
「珍しいな、虹が出るなんて」
「きっと、いいことがあるよ」
「GWにか?」
「うん。あっ、でも、私にとってはもうあったのかな」
「なんでだ?」
「だって、四日も五日も直哉と一緒にいられるんだもん」
「四日は、ほかの連中もいるだろ?」
「それでもなの」
 菜緒は、本当に嬉しそうに笑う。
「菜緒は、いつからそんなに甘えん坊になったんだ?」
「昔からだよ。だって私、ひとりっ子だから。お父さんに甘えて、お母さんに甘えて、おじいちゃんやおばあちゃんに甘えて、千尋さんに甘えて、そして、直哉に甘えて。ずっと前からだよ」
「じゃあ、甘やかされすぎだな。少しは厳しくしないと」
「それは、直哉の仕事だよ」
「俺の?」
「うん。私が一番甘えてたのは直哉だし、これかも一番甘えたいのは、直哉だから」
 そう言って菜緒は、直哉にすり寄った。
 それは猫のようで、のどを触ったらごろごろと鳴くんじゃないかというくらいだった。
「俺は厳しいぞ」
「大丈夫だよ」
「中途半端は絶対に許さないからな」
「うん」
 と、言ってる側から、菜緒は直哉に甘えている。
「まったく、確信犯はやめろ。俺がおまえにそんなことされて、強く言えると思ってるのか?」
「ううん。直哉、優しいからね」
「…………」
「きゃっ」
 直哉は照れを隠すように、菜緒の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「あ〜あ、あの時余計なこと言わなければよかった。そうすれば菜緒がこんなことにならなかったのに」
「今更言っても遅いよ。それに、あの夜のことは、一生忘れないから。直哉がはじめて抱きしめてくれて、はじめてキスしてくれて……」
 そう言って、菜緒は頬を赤らめた。
「だぁーっ、そこで顔を赤らめるなっ! こっちまで恥ずかしくなるだろ。それに、キス以上のことはしてないんだから、人が聞いて誤解するような切り方をするな」
 直哉は、必死に注意する。
「ねえ、直哉」
「なんだよ?」
「私たち、恋人同士になれるのかな?」
 菜緒は、至って真面目な表情で訊ねた。
「……なれるって信じなきゃ、なれるもんもなれないだろ」
「そうだね。いつの日か、堂々とこうできるようにね」
 そう言って菜緒は、直哉の腕を取った。
 直哉は一瞬なにかを言おうと菜緒の方を見たが、結局なにも言わず、その代わり、くまれた腕に少しだけ力を込めた。
「明日はきっと、いい天気だね」
「ああ、そうだな」
「出かける日も、晴れるといいね」
「晴れるさ。なんたって、俺の日頃の行いは最高だからな」
「ふふっ、それはどうかわからないけど、私も晴れるって信じてる」
「じゃあ、間違いなく晴れだな」
「うん」
 伸びる影は、ちょっといびつながら、ひとつだった。いつの日にか、それが当たり前になるように、そう祈らずにはいられない菜緒であった。
 
「あんっ、んくっ、ダメっ、そんなにっ」
 直哉の部屋に、甘く官能的な声が響く。
「もっともっと気持ちよくなって、姉さん」
「ひゃうっ、あっ、あっ、そんなにされたら、んっ、ホントにおかしくなっちゃうっ」
 千尋の秘所は、これ以上ないというくらいに濡れていた。あとからあとからあふれ出てくる蜜が、直哉の口を濡らしていた。
「んあっ、でもっ、いいっ、いいのっ、なおくんっ」
 直哉は、最も敏感な突起を指で転がした。
「んあっ! も、もうっ、ダメっ」
 千尋の体が、大きく跳ねた。
「んんっ、あああああっ!」
 そして、千尋は達した。
「はあ、はあ、はあ……」
 千尋の乱れた髪を、直哉が優しく撫でている。
 いつもならこのあとに千尋が直哉にするのだが、あまりにも感じすぎたためか、千尋はすっかりダウンしている。
「大丈夫、姉さん?」
「う、うん、大丈夫。それより、なおくんの方が……」
 そう言って千尋は、すっかり膨らんでいる直哉の股間に視線を落とした。
「俺はいいよ。今日は姉さんに気持ちよくなってもらえばいいから」
「でも……」
「姉さんが心配することはないよ。いつもは平等だけど、たまには不平等でもいいと思うし」
「なおくん……」
「姉さん……」
 ふたりは、自然にキスを交わした。
 それから千尋は、直哉に腕枕してもらい、穏やかに目を閉じていた。
「ねえ、なおくん」
「ん?」
「菜緒ちゃんとなにかあったの?」
「なにかって、なにが?」
「なんか菜緒ちゃん、妙に楽しそうだから。菜緒ちゃんがああいう表情をする時は、絶対になおくん絡みの時だから」
 さすがは直哉の姉で、実質菜緒の『姉』という千尋である。
「……実はさ、この前姉さんが飲み会に連れ出された日があったでしょ?」
「うん」
「その日に、ちょっとあったんだ」
「ちょっとって、告白でもしたの?」
「まあ、似たようなものだけど、ちょっと違う。菜緒に、今の俺の考えを話しただけ」
「なおくんの考え?」
 直哉は小さく頷いた。
「当然、菜緒のことが好きだってことも伝えた。そして、菜緒も俺のことを好きだって言ってくれた。その上で話したんだ」
「……そっか」
 千尋の表情は、嬉しさと淋しさの入り交じった、複雑なものだった。
「それで、菜緒は俺の言ったことを、全部ではないにしろ、ある程度は理解してくれた」
「なおくんと菜緒ちゃんは、もう恋人同士?」
「いや、まだだよ。そうなるには、もう少し時間が必要だね。考える時間が」
「……なおくんと菜緒ちゃんは、きっと最高の恋人になるよ」
「姉さん……」
「でも、それまではなおくんは、私だけのなおくんだからね」
 そう言って千尋は、直哉を抱きしめた。
「……菜緒がね、俺と姉さんのこと、気づいてたよ」
「でしょうね」
「驚かないの?」
「少しは驚いてるわよ。でも、菜緒ちゃんなら気づくかもしれないって思ってたから。だって、ずっとなおくんのことを見て、私のことも見てたからね。そうすれば、普通は薄々ながら、気づくわよ」
「菜緒も似たようなこと言ってたよ」
「ふふっ、私と菜緒ちゃんは似たようなところがあるからね」
「姉さんと菜緒が?」
「そうよ。一番似てるのは、なおくんが好きなところ」
 千尋の言葉に、直哉は思わず苦笑した。
「あと、これだけは姉さんに言っておかなくちゃいけないかな」
「なに?」
「菜緒がね、姉さんには負けないって。絶対に俺を自分の方に振り向かせてみせるって。宣戦布告だよ」
「ふふっ、最初から結果は見えてるのに、宣戦布告なんて」
「結果は見えてるって、どっちが勝つわけ?」
「菜緒ちゃん」
「……どうしてそう言い切れるわけ?」
「だって、なおくんは昔から菜緒ちゃんのことを見てきてるから。私よりも前から、なおくんの中には菜緒ちゃんがいるのよ。だから、私はどうやったって菜緒ちゃんには勝てないの。それに、私たちは姉弟、だからね」
「……姉さん」
「そんな顔しないの。それは、なおくんもわかってることでしょ?」
「でも、今の俺、いや、これからだって姉さんのいない生活なんて考えられない」
「それと同じくらい、菜緒ちゃんのいない生活も考えられないでしょ?」
「それは……」
「確かに私はなおくんが好き。このまま一生一緒にいたい。でもね、それにもまして、なおくんや菜緒ちゃんの幸せな姿を見るのが好きなの」
 それは間違いなく千尋の本心だった。直哉のことも、菜緒のことも、みんな理解しているからこそ、そういう想いを持つ。
「なおくんは人一倍菜緒ちゃんのこと、大事に想ってるからね。だから今まで菜緒ちゃんの想いに気づいていても、応えなかったんでしょ? 抱きしめることも、キスをすることも、そして、抱いてあげることもしなかった」
「……この前、菜緒を抱きしめた。キスもした」
「でも、抱いてないんでしょ?」
「そんなこと、できるわけないよ……菜緒が、壊れそうで……」
「なおくん……」
「はじめて抱きしめた菜緒は華奢で、強く抱きしめたら本当に壊れてしまいそうだった。まるではじめて姉さんを抱きしめた時と同じだった」
「…………」
「姉さん。俺はどうしたらいいの? 姉さんも好き。菜緒も好き。今の俺にどちらか選ぶなんて、できないよ」
「なおくん……」
「ごめん、姉さん。泣き言言っちゃったね。全部俺が解決しなくちゃいけないことなのに。こんな時まで姉さんに頼りきりで。ダメだよね、俺」
「……そんなことないよ、なおくん。私ならいつでも頼っていいんだからね。人を頼りにするってことは、悪いことだけじゃないんだよ。頼りにすることで支えを得られることもあるんだから。そして、人は誰かの支えなしには生きていくことはできないんだから」
 千尋は、そう言って直哉の頬に触れた。
「焦っちゃダメだよ。焦らないで、後悔しないような答えを見つけてね。私は、どんな応えでも受け入れるから」
「……姉さん」
「ね、なおくん?」
 直哉は小さく頷いた。
「うん、それでこそ私の大好きななおくんだよ」
 そう言って千尋は微笑んだ。
「……どうして俺たちは姉弟なんだろ」
「それは、言っちゃダメだよ。それにもし、私たちが姉弟じゃなかったら、こんなにもなおくんのことを好きになれなかったと思うよ。姉弟だからこそ、ってこともあるんだよ」
 千尋は、まるで幼子に言い聞かせるように、直哉に言い聞かせた。
「なおくんは、どうして私を抱かないの?」
「えっ……?」
「それは、私たちが姉弟だからでしょ? それでいいんだよ。どこかで割り切らないとね」
「……姉さんはそれでいいの? 姉さんの気持ちは、想いは、どこへ行ってしまうの?」
「私の想いは、ずっとなおくんと一緒にあるよ」
「俺と?」
「そう。ずっと、ずーっと……」
 千尋は穏やかに目を閉じた。
「前にね、菜緒ちゃんに冗談交じりに言ったことがあるの」
「なにを?」
「なおくんを任せられるのは、菜緒ちゃんしかいないって。それと、菜緒ちゃんに『お義姉ちゃん』て呼ばれるのが夢だって」
「…………」
「なおくん。私が抱いてって言ったら、抱いてくれる?」
「……ホントに姉さんが抱いてほしいって思ってるのなら、抱くよ」
「姉弟でも?」
「そうだよ」
「……じゃあ、なおくん」
「ん?」
「なおくんがすべてに結論を出した時、どんな結論でもだよ。その時に、私を抱いて」
「本気で言ってるの?」
「本気よ。こんなこと、冗談なんかで言えないわ」
「姉さん……」
「抱いてくれる?」
「わかったよ、姉さん」
「うん、ありがと、なおくん」
「俺の方こそ、ありがとう、姉さん」
 姉弟であることを呪うよりも、姉弟であることを幸せであると思う。それが、本当に大切なことである。
 直哉も千尋も、それをほんの少し、わかりあえた。本当に仲の良い姉弟だから。
 難しいからこそ、わからなければならない。自分のためにも、相手のためにも。
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