いちごなきもち、めろんなきもち
 
後日談
 
 六月。
「ほら、なおくん。じっとしてて」
 千尋は、そう言って直哉を押さえつけた。
「じ、じっとしてるから、無理矢理押さえつけるのやめてよ」
「ダ〜メ。押さえつけないと、なおくんすぐ逃げ出すから」
「……逃げ出すようなことをするから悪いと思うんだけど……」
「なにか言った?」
「い〜え、なんにも」
 直哉は、あきらめ顔で溜息をついた。
「ん〜……よし、これで全部終わりっと」
 メジャーを巻き戻し、千尋は頷いた。
「じっとしてればすぐに終わるのに。どうしてじっとしてられないの?」
「そりゃ、姉さんがいろいろやってくるからだよ。そんなところ、万が一にも菜緒に見られたら、俺は明日から路頭に迷わなくちゃいけないって」
「そこまでひどくはないでしょ? せいぜい、一週間ご飯抜きとか」
「十分ひどいって」
「とにかく、ちゃんと寸法を測っておかないと、あとで大変なんだからね」
「わかってるけど……」
 直哉は、カレンダーを見た。
 六月下旬のある日に、赤丸がつけられていた。
「結婚式は、もうすぐなんだからね」
 そう、その日は直哉と菜緒の結婚式だった。
「花嫁さんの方はもう準備万端なのに、花婿さんが全然だなんて。それじゃあ意味がないでしょ?」
「わかってるよ。だからこそこうやって言うことを聞いたんじゃないか」
「嫌々だったけどね」
「でもさ、菜緒の準備が早かったのは当然だと思うけど」
「どうして?」
「だってさ、あれだけ本人が楽しみにしてたんだから」
「なおくんは楽しみじゃないの?」
「いや、楽しみは楽しみだけど」
「だったら、あれこれ屁理屈は言わないの。いい?」
「了解」
 大学に入学して二ヶ月。
 直哉も菜緒も、大学生活は順調な滑り出しだった。
 高校とはまったく違うスタイルながら、自分たちのやりたいことを今まで以上にできるということは、少なくともふたりにはプラスに働いた。
 ふたりが大学生活をすんなりスタートさせられたのは、ほかにも理由があった。それは、まわりの者たちもいろいろ安定したからである。
 まず、雅美は少し離れた場所にある大学に合格し、この春からひとり暮らしをしていた。今でも一週間に一度くらいの割合で、菜緒と直哉、両方に電話をしていた。悠々自適なひとり暮らしを、とりあえずは謳歌していた。
 次に、秀明と理紗は、揃って同じ大学に合格した。秀明の方が少々成績が危うかったのだが、なんとかギリギリで合格できた。そのおかげで大学に入学してからも、直哉たちに負けず劣らず、ラヴラヴな様子だった。
 次に、瑞穂は、正式に桜林高校の世界史教諭として採用された。これは、前任の岸が予想以上に復帰までかかるだろうということで、そうなった。瑞穂はもともと生徒の受けもよく、学校側としては、願ってもないことだった。
 とりあえずこの春にいろいろあった四人は、そのように落ち着き、直哉も菜緒も、安心して大学生活を送れていた。
 直哉はそれと平行して、三月中から六月に結婚式を行えるよう、あちこちに働きかけていた。当初はかなり難しかったのだが、和哉と雪恵のコネを最大限に利用し、なんとか場所を確保した。しかも、大安吉日にである。これはもはや奇跡に近く、直哉はまたもしばらくふたりに頭の上がらない生活が続くことになった。
「こんにちは〜」
 と、下から声が聞こえた。
「菜緒ちゃんね」
「あいつしかいないよ、声をかけて入ってくるのは」
「菜緒ちゃ〜ん。二階にいるから、上がってきたら〜?」
「わかりました〜」
 トントントンと軽い足音が聞こえ、すぐに部屋の前で止まった。
 ドアが軽くノックされ、すぐに開いた。
「おじゃまします」
「いらっしゃい、菜緒ちゃん」
「よお」
「なにしてたんですか?」
「なおくんの寸法を測ってたの」
「ああ、タキシードのですね」
「うん。でも、なおくん、すぐに動くし、下手すると逃げちゃうから、なかなか測れなくて苦労したの」
「そうなんですか」
「……ったく」
 直哉は特に言い返さなかった。
「でも、これで本番に向けての準備は、ほぼ終わりだからね。待ち遠しいでしょ?」
「はい、そうですね。ただ、心のどこかではこのやる前の期待感、充実感をいつまでも持っていたいと思ってます。それだと、いつまで経っても結婚できないんですけどね」
「なんとなくはわかるよ。ただ、もうそういう時期でもないからね」
「わかってます」
「で、なにしに来たんだ?」
 話がひと区切りついたところで、直哉は訊ねた。
「なにしにって、理由がなかったら来ちゃいけないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「だったら、いいでしょ?」
 そう言って菜緒は、まだ千尋がそこにいるにも関わらず、直哉の隣にピターッとくっついた。
「ホント、ふたりは仲良いよね」
「はい。私たちはずっと仲が良いままです」
「いや、それはどうかな……」
「なんでそこで頷かないのよぉ」
「いや、ほら、おまえからの嫌がらせとかいろいろあったら、喧嘩もするかと思って」
「私、そんなことしないよ」
 菜緒は、少しだけ淋しそうに反論した。
「嫌がらせまではいかなくとも、変に嫉妬して、なにしでかすかわからない可能性はあるからな」
「だったら、私に嫉妬されないようにすればいいの。簡単でしょ?」
「簡単、て、そりゃかなりの難題だって」
「そうかなぁ?」
「まあ、とりあえずできるだけそうならないようにはするけど、そうならないという保証はできない」
「む〜、ウソでもそうならないって言ってくれればいいのに」
「ウソでいいのか?」
「うっ、や、やっぱりダメ」
「なら、いいじゃないか」
「そうなんだけどぉ」
 このふたり、菜緒が実権を握っていそうで、意外に直哉もしっかりと実権を握っていた。
 菜緒は、直哉に強く言われるとなかなか言い返せないためである。
「ふふっ、じゃあ、私は下にいるからね」
「あっ、はい」
 千尋が出て行くと、部屋の中にふたりきりである。
「直哉」
「ん?」
「キス、して」
「ああ」
 このふたりは、相変わらずのラヴラヴカップルだった。それはもう周囲が呆れるほどで、大学でもそれなりに知られていた。
「そういえば、貸衣装の方の衣装あわせは済んだのか?」
「だいたいね。打ち掛けは結構大変だったけど。でも、一回は着てみたいと思ってたから、いい経験になったよ」
「じゃあ、本番で着る必要はないんじゃないか?」
「そういう問題じゃないでしょ? 本番は本番なの。それに、直哉だって紋付きを借りるでしょ?」
「ああ。なんか、動きにくそうなやつだった」
「今更やめるなんて、できないでしょ?」
「わかってるって。ただ、なんだかんだでいろいろあったから、そろそろ飽きてきただけだ。それ自体がイヤになったわけじゃない」
「当たり前よ。もしそれ自体がイヤになったなんて言ったら、私が式当日までイヤが好きになるまで洗脳してあげるから」
「……それは、さすがに勘弁してほしいな」
「だったら、今のままちゃんとしてればいいの」
 そう言って菜緒は微笑んだ。
「俺としては、新婚初夜の方が問題だって気もするけど」
「ど〜ゆ〜意味よ、それ?」
「いや、死人に口なしって言うだろ?」
「だから〜、私はそこまで求めてないでしょ?」
「そりゃ、一度でもそんなことされたら、俺死ぬし」
「……むぅ」
「なんてな」
「えっ……?」
「そういうことは、どっちかだけの問題じゃないし。俺だって結局は好きだから」
「直哉……」
 菜緒は、嬉しそうに微笑んだ。
「ん〜、だから直哉のこと、大好きなの」
「これからもずっと好きでいてもらえるように、努力するよ」
「うん」
 ふたりは、もう一度キスを交わした。
 
 六月下旬の大安吉日。
 その日、直哉と菜緒の結婚式が行われた。
 結婚式は、チャペルで行われた。これは菜緒たっての希望で、どうやら誓いのキスをしたかったらしい。
「では、誓いのキスを」
 直哉は、菜緒のヴェールを上げ、その肩にそっと手を置いた。
 いつも交わしているキスとは明らかに違うキス。
 それは、ふたりの想いを神の御前で誓いに変えるためのキス。
 式が一通り終わり、揃ってみんなにお披露目である。
 菜緒の手には、ブーケが。
「ほら、菜緒」
「うん。いくよーっ!」
 ブーケが空を舞い──
「あっ」
 千尋の手の中に収まった。
「えっと……あはは」
「姉さんが受け取っても、意味ないかもなぁ」
「確かにね」
 鐘が鳴る中、ふたりは大勢に祝福され、新しい一歩を、共に踏み出した。
 式のあとは、披露宴である。
 和哉の知り合いに頼み、駆け込みで借りたホテルの一間。
 そこに親類縁者、友人など総勢五十人ほどを呼んで披露宴は行われた。
 さすがに費用は自分たちで出したわけではないので、節約できるところは節約した。その中でお色直しは、ウェディングドレス、打ち掛け、ドレスが二着と計三回に抑えた。ウェディングドレスは菜緒のために晋也と美緒が用意したものだった。そのほかのものは、すべて貸衣装で済ませた。
 披露宴は新郎新婦の意向により、堅苦しいものはすべて排除された。特に、様々な挨拶は、型通りの挨拶は禁止。長時間の挨拶も禁止。まあ、とにかく骨抜きにされた。
 席は一応いろいろなことを考慮して決めたが、会食の間は席の移動も自由ということになった。
「それではここで、新郎より新婦に感謝の言葉があります」
「えっ……?」
 それは、披露宴も佳境に差し掛かった頃のことだった。司会がそうアナウンスすると、直哉はマイクを受け取り立ち上がった。
「直哉……?」
「まあ、いいから」
 直哉は、ニッと笑った。
「ここでわざわざこのような時間を作ってもらったのには、いろいろな理由があります。ですが、それを逐一述べるような無粋なことはしません。たぶん、それは今から述べることである程度はわかっていただけると思いますから」
 まず、そう言ってからはじめた。
「菜緒とは、もうそれこそずっと一緒でした。家が隣同士ということもありましたけど、たぶん、昔からどこかでお互いを必要としていたんでしょう。幼稚園も小学校も中学校も高校も大学も。本当に一緒でした。それが、当たり前でした」
 直哉の言葉に、誰もが耳を傾けていた。
「うちは、両親が共に仕事が忙しくてほとんど家にいませんでした。小さい頃はそれがしょうがないことだとはすぐには理解できませんでした。だから、誰か一緒にいてくれる人がほしかったんです。もちろん、姉さんがいましたから、本当にひとりということはありませんでしたけど。でも、姉さんとはいつでも一緒にいられるわけではありませんでしたから。その代わり、だったのかもしれません、最初は。それを、菜緒に求めていたのでしょう。そうやって生活してきて、次第に両親のことや仕事のこともわかるようになりました。そうすると、一緒にいる理由がなくなりました。でも、それはもう関係なかったんです。言うなれば、淋しいだのなんだのということは、建前に過ぎなくなっていたんです。ただ単に、菜緒と一緒にいたい。それだけだったんです」
 隣の菜緒も、直哉の言葉を一言一句聞き逃すまいと、真剣な表情で聞いていた。
「だから、好きとか嫌いとか、そういうのはあとからくっついてきた感情だと思います。もちろん、嫌いな人と一緒にいたいと思うはずもありませんけど。ただ、少々複雑な理由から、それを素直に受け止められなかっただけだと思います。事実、もうずっと前から菜緒がどんな目で、どんな想いで自分のことを見ていたか、知っていました。それを知っていながら、応えられませんでした。でも、自分の中の想いはもう最初から決まっていたんです。この先もずっと一緒にいてほしい存在、それは菜緒しかいないと。姉さんやほかの人たちでは補いきれなかったものを、菜緒は補ってくれます。同時に、菜緒にもなにかを与えてあげられてると、思っています。たぶん、それがお互いを好きになり、必要とした本当の理由なのでしょう。だからこそ、今こうして隣にいるんです」
 そう言って菜緒を見た。
「と、長々と前置きを話しましたが、本題はこれからです。それと、あらかじめ言っておきますが、これから先の言葉は、この場にいるみなさんに対してではありません。あくまでも、ここにいる菜緒に向けての言葉です。ですから、あまり面白くないかもしれませんが、あと少しだけおつきあいください」
 直哉は、正面から菜緒に向き直った。
「菜緒。俺は、おまえには言葉では表しきれないほど多くのものをもらった。まだなにもわからなかった頃から一緒にいて、少しずつお互いのことを理解し、そして、好きになった。俺は、本当におまえのことが好きだった。確か以前にも話したと思うけど、小学校や中学校の頃に誰かに告白されても、それを断っていたのも、思えばおまえがいたからだ。漠然とした感情だった頃から、確信できていた頃まで、ずっと。俺は正直に言えば、おまえを俺だけのものにしてしまうのが怖かった。世の中には、俺なんかよりもよっぽどいい男だっているだろうに。なのに、俺みたいなどうしようもない奴のために、その可能性を消してしまうことが、怖かった。だけど、理屈じゃなかった。そんな綺麗事なんかで人の想いは計れないし、動かせない。だから、俺はおまえを俺だけのものにしようと思った。だから、今こうしてここで一緒にいる」
 一気にそこまで言い、少し間を取る。
「俺は、おまえから本当にいろいろなものをもらった。これが感謝の言葉だってことで言ってるけど、これくらいのことでこれまでのことをすべて感謝の言葉に載せることなんてできるとは思ってない。それでも、俺はここでおまえに言いたい」
 真っ直ぐに菜緒を見つめる。
「本当に、ありがとう」
「直哉……」
 途端、菜緒の目から涙があふれ出した。
「俺の側にいてくれて、俺を好きになってくれて、俺を選んでくれて。本当にありがとう。俺はこれから一生かけて、ここだけでは表しきれない感謝の意を、おまえに見せていく。もちろん、これから先もおまえからいろいろなものをもらうだろうから、本当にお互いが死ぬまでずっとだろうけど。それでも、俺はそうしたいから。それが、俺のこれからの大きな目標だから」
 直哉は、そう言って微笑んだ。心からの想いを込めて、微笑んだ。
 そして、正面を向いた。
「今、ここにいるみなさんは、その最初の証人となってください。倉澤直哉が、妻となった倉澤菜緒に、一生をかけて感謝の意を表すその第一歩を踏み出した、証人となってください。お願いします」
 直哉は、ゆっくりと頭を下げた。
 同時に、拍手がわき起こった。
「ありがとうございます。これで、これから先、そのことをさぼれなくなりました」
 そう言って笑いを誘う。
「最後に、もう一度だけ、言います」
 一度目を閉じ、改めて菜緒を見つめた。
「菜緒。本当に、ありがとう」
「直哉っ!」
 同時に、菜緒は直哉に抱きついていた。涙でちゃんと前も見えないというのに。
「私も、ありがとう……」
「ああ」
 直哉は、菜緒をしっかりと抱きしめた。
 こうして披露宴は想像以上の内容で終わった。出席者の誰もが最高の披露宴だったと口を揃えた。
 そして同時に、直哉と菜緒のふたりならばどんなことがあっても大丈夫だと、そう思わせることもできた。
 しかし、誰よりもその成功を喜んだのは、直哉であり、菜緒だった。
 
 結婚したあと、菜緒は完全に倉澤家に入ったわけではない。さすがにまだ大学生ということで、通い妻のようなことをしていた。もちろん、それは家が隣同士ということも理由のひとつである。
 結婚したことは、大学でもそれなりに話題になった。結婚自体が話題になったわけではなく、大学に入って間もないのに結婚したことに関して話題になったのだ。ふたりは、文学部内のちょっとした有名人となった。
 その大学といえば、大学へは直哉、菜緒、千尋の三人で行っていた。カリキュラムが合っているわけではないのだが、千尋がどうしてもそうしたいと言い、直哉たちも極力それに協力していた。
 菜緒は、大学でもその才能を遺憾なく発揮し、特別奨学生の候補に上がっていた。
 直哉は、よほど歴史が合っていたらしく、かなり真面目に勉強するようになっていた。もちろん、その影には瑞穂の存在があるのだが。
 そんな毎日を送っていた直哉と菜緒に、嬉しいことが起きた。
 
 年が明けて二月九日。
 直哉は朝から気が気ではなかった。あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。まるでクマかなにかである。
「倉澤さん」
「は、はい」
「これから分娩室に入ります」
「わかりました」
 直哉は、看護師について行った。
 その日は、菜緒の出産予定日だった。妊娠がわかったのは前の年の夏だった。それからも経過は順調で、母子共になにごともなく、その日を迎えていた。
 直哉は消毒されたエプロンと帽子をかぶり、独特の臭いのする分娩室に入った。
「直哉……」
 菜緒はすでに分娩台の上にいた。
「大丈夫だ。俺がついてるんだから」
「うん」
 直哉は、菜緒の手をしっかりと握った。
 それからまもなく、陣痛がはじまった。
 そうなると、男にはなにもできない。直哉もそれを実感していた。ただ手を握り、時々額の汗を拭いてやるくらいで、本当になにもできなかった。
 陣痛がはじまって一時間、ようやく赤ん坊の頭が見えてきた。
 しかし、ここからが一番つらいのである。
 それでも、生まれてくる我が子のために、激痛に耐える。
 直哉はしっかりと手を握り、声をかけて励ます。
 菜緒もその手をしっかりと握り返した。
 分娩室の外では、千尋、雪恵、美緒がその時を待っていた。
 そして──
「──ぎゃ、ぉぎゃ、おぎゃあっ」
 この世に新たな命が誕生した。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
 看護師がふたりに声をかけた。
「はあ、はあ……」
「菜緒。よくがんばったな。ごくろうさん」
 直哉は、菜緒の髪を撫でながら微笑んだ。
 そんな直哉に、菜緒も笑顔を返した。
 二月九日午後四時二十三分。三一七三グラムの女の子。
 母子共に、すこぶる健康だった。
 それから少しして、菜緒は病室に移った。
 ふたりのおばあちゃんとおばさんは、新生児室の前から離れようとはしなかった。
「さて、生まれたのはいいけど、考えなくちゃならないことがある」
「名前、でしょ?」
「そうだ。で、俺が考えていたのは──」
 そう言って一枚の紙を出した。そこには本当にたくさんの名前が書かれていた。名前の隣には偏や旁、画数なども書かれていた。
「これだけ考えてたけど、結局はシンプルにいこうと思った」
「どんな名前?」
「まあ、待て。なんの因果か知らないけど、俺もおまえも、親から一文字もらってるだろ? 俺は父さんから、おまえはお義母さんから」
「うん」
「で、それと同じにしようと思ってな」
 そう言って、もう一枚の紙を取り出した。
「おまえから一文字取って、梨緒、だ」
「梨緒……」
「どうだ? 悪くはないだろ?」
「うん、いい名前だよ。倉澤梨緒、か」
 菜緒は、その名前を何度も確かめるように口に出した。
 こうして直哉と菜緒の長女、梨緒は誕生した。
 梨緒の誕生によって、倉澤家も杉村家も一変した。なにが変わったのかというと、直哉でも菜緒でもない。四人の祖父母と伯母である。
 和哉はそれまで千尋のこと以外ではなかなか仕事を早く切り上げるようなことはしなかったのだが、梨緒が生まれてからは、週に最低でも二日は早く帰っていた。もちろん、土日もしっかりと休んでいた。
 その可愛がりようと言ったら、直哉が呆れるほどだった。
 しかし、それは和哉だけではなかった。雪恵もすっかりいいおばあちゃんになってしまい、仕事そっちのけで可愛がっていた。
 杉村家も同じで、晋也も美緒も、初孫をことのほか可愛がった。
 しかし、その中でも一番可愛がっていたのは、千尋だった。
 千尋は直哉や菜緒が忙しい時には、必ずふたりの代わりに梨緒の面倒を見ていた。寝ても覚めても梨緒のことばかりで、逆に直哉も菜緒も心配するほどだった。
 もちろん、直哉も菜緒も梨緒のことを可愛がった。
 直哉など、将来は必ず美人になるから、悪い虫がつかないように目を光らせていないといけないなどと、すっかり親バカとなっていた。
 菜緒は、梨緒の出産を機に、それまで以上に倉澤家にいるようになった。子育ての方も、出産が二月だったこともあり、大学の長い春休みを利用し、ちゃんとやっていた。
 いずれにしても、両家とも順風満帆だった。
 
 梨緒の誕生から二年後、次女の真緒が生まれた。
 学生の間にふたりの子宝に恵まれ、そのまま大学を卒業した。
 直哉は大学卒業後、そのまま大学院に残った。歴史を本格的に研究するためである。
 菜緒は卒業後、塾の講師をして生活を支えた。
 真緒の誕生から一年後、長男の優哉が生まれた。
 はじめての男の子に、特に直哉は喜んでいた。
 優哉の誕生から二年後、次男の正哉が生まれた。
 菜緒は、正哉の誕生を機に、塾の講師を辞めた。
 生活は決して楽ではなかったが、周囲の人々に支えられながら、生活していた。
 
 月日は流れ、梨緒が生まれて十年経った。
「パパ」
「ん、なんだい、梨緒?」
「あのね、今度のわたしの誕生日にほしいものがあるんだけど」
 梨緒は、くりくりっとした可愛らしい瞳で直哉を見つめている。
 梨緒は、明らかに菜緒似だった。
「ほしいもの? 買ってあげてもいいけど、ママにはちゃんと言ったのかい?」
「……ううん。だって、ママに言うといつもダメだって言われるんだもん」
「ははは、ママは厳しいからな。よし、じゃあ、パパが買ってやろう」
「ホント? わあーい、パパありがとう」
「ははは、こらこら」
 直哉は、やはり菜緒似の梨緒に甘かった。
「あなた」
「げっ、菜緒……」
 だから、菜緒はいつもそれを言っていた。
「ママ……」
 梨緒は、さささっと直哉の後ろに隠れた。
「また梨緒を甘やかして」
「別に誕生日くらいいいじゃないか」
「誕生日くらい? 進級すれば進級祝い、クリスマス、お正月、ひなまつり。どこが誕生日くらいなの?」
「うっ、そ、それはだな──」
「パパは悪くないもん。わたしがパパにお願いしたのが悪いんだもん」
「梨緒はそんなこと気にすることはないんだぞ」
「でも、パパが……」
「なに、心配するな。俺は梨緒のパパなんだぞ」
「うん……」
 よくわからない理由だが、梨緒は小さく頷いた。
「というわけでだ、菜緒。梨緒にほしいものを買ってやるからな」
 菜緒は溜息をついた。
「私だって、梨緒に買ってやりたくないわけじゃないのよ。でも、梨緒になにか買ってあげると、真緒たちにも買ってあげなくちゃいけないから、それで言ってるのよ」
「パパー、パパー」
「ほら来た」
 そこへ、次女の真緒が駆けてきた。
 梨緒も真緒も菜緒似で、ふたりとも髪を伸ばしていた。
「どうした、真緒?」
「あのね、真緒ね、ほしいものがあるの」
「ダメだよ、真緒。パパはわたしに買ってくれるって言ったんだから」
「ええーっ、お姉ちゃんだけなの?」
「あなた。私は知りませんからね」
「お、おい、菜緒」
「ねえねえ、パパ、いいでしょ?」
 真緒は、直哉の腕をつかんで、押したり引いたりしている。
「真緒も、誕生日なんだよ」
 この梨緒と真緒の誕生日は、非常に近かった。梨緒が二月九日。真緒が二月十二日。姉妹で近いのは結構珍しい。
 直哉は、期待に満ちた目で見つめているふたりを見て、大きく頷いた。
「わかったよ。今度の日曜日に買いに行こう」
「いいの、パパ?」
 さすがに年上の梨緒が心配そうに聞き返した。
「心配するな。いざとなったら秘密兵器もある」
「ひみつへいき?」
「ああ」
「なんでもいいよ。真緒は、パパに買ってもらえればいいんだ」
 そう言って真緒は、直哉の首に抱きついた。
「あーっ、ダメだよ、真緒。パパにそうしていいのは、わたしだけなんだから」
「お、おいおい」
 梨緒まで負けじと首に抱きついた。
「く、苦しいよ、ふたりとも」
「パパ、いい匂いがする……」
「うん……」
「梨緒。真緒」
 しかし、そんな時間は長くは続かなかった。
「パパが困ってるでしょ? 離しなさい」
「はぁい……」
 梨緒も真緒も、渋々離した。
「ほら、ふたりとも、そろそろ寝る時間よ」
「ええーっ、まだ早いよ」
「ママは別にいいわよ。でも、明日の朝ぐずったりしたら──」
「お、おやすみなさい、パパ、ママ」
 梨緒は慌てて部屋に戻った。
「真緒。あなたもよ」
「や。真緒、パパと寝るの」
「ははは、そうか。真緒はパパと寝たいのか」
「うん」
「よし、じゃあ、一緒に寝るか」
「あなた」
「大丈夫だ」
 直哉はニッと笑った。
「よし、真緒。行くぞ」
「うん」
 直哉は真緒を抱きかかえ、部屋に連れて行った。
 それから三十分後。
「ふう、ようやく寝てくれた」
「ちゃんと部屋の方に寝かせたの?」
「ああ。明日起きた時にびっくりするかもな」
「もう、ホントに直哉はあのふたりに甘いんだから」
 菜緒は、普段は直哉のことを『あなた』と呼ぶが、ふたりきりの時はこれまでと同様に『直哉』と呼んでいた。
「まあ、そう言うなって。どうも、特に梨緒に頼まれると断れないんだ。やっぱりおまえに似てるからかな? 俺も昔は菜緒に甘かったからな。いや、今もか」
 そう言って直哉は、菜緒の肩を抱いた。
 今や大学で前途有望な学者として名を馳せている直哉も、家では父であり夫であった。
「甘えん坊なのは、菜緒の影響じゃないのか?」
「私は別にそんな風に育ててないわよ。現に、正哉は別としても、優哉はそんなことないでしょ?」
「優哉は俺に似てるんだ。となれば甘えん坊になんかならないさ。正哉はもう少し見てみてないとわからないけどな」
「優哉がもし直哉似だったら、きっと女の子にモテるわね」
「モテる、じゃくて、もうモテてるだろ?」
「まだ二年生じゃ、モテるとかそういうのはないと思うけど」
「いやいや、その片鱗は伺えるよ。優哉に惚れそうな女の子はいるからな」
「由香里ちゃんのこと?」
「ああ。あれは結構本気だぞ」
「そうかしら。私にはよくわからないけど。でも、自分の息子が人に好かれるっていうのは、悪い気はしないけどね」
「このままうちも向こうもここににれば、ふたりは幼なじみだな」
「幼なじみ、ね。私たちみたいになれればいいけど」
「そればかりは本人たちの問題だからな。親が口を出すことじゃない。ま、手くらいは貸すけど」
 直哉はそう言って笑った。
「もうすぐ十年なのよね、梨緒が生まれて」
「ああ。あっという間だったな」
「ホント、あっという間」
「でも、俺たちだって今年で三十なんだぞ。三十路に突入だ」
「残りの二十代を十分満喫しないと」
「どう満喫するんだ?」
 直哉はニヤッと笑いながら訊ねた。
「ふふっ、どう満喫しようかしら」
「答えは出てるんだろ?」
「そうね」
 直哉は菜緒を抱きしめ、キスをした。
「今日は久しぶりに、目一杯してもらおうかしら?」
「う〜ん、さすがに明日も講義があるからな。目の下に隈を作って教壇に立つわけにはいかないだろ?」
「そうね。直哉目当てで講義に出てる女子学生に悪いわね」
「おまえなぁ、まだ学生と張り合おうっていうのか?」
「そんなの、最初から勝負にならないわよ」
「若さの前に完敗か?」
「そんなわけないでしょ? 私の完勝よ。直哉は、私なしでは生きていけないんだから」
「でも、結構積極的な学生もいるからな。いきなり不倫交際を求められたりして」
「不倫は、麗奈さんと雅美で十分でしょ?」
「誰が不倫だって、誰が?」
「直哉」
「あのなぁ、麗奈姉さんとは時々会って、服飾関係の講師を頼んでるだけだろ」
「雅美は?」
「あいつとは、月に一回飲んでるだけだ」
「それで十分不倫よ」
「ったく、どこの世の中にそれで不倫だなんて言う奴がいるんだ? そんなこと言ったら世の男どもは、独身女性と酒も飲めなくなるだろ」
「さあ」
「とにかく、おまえは余計なことを心配しすぎなんだ」
 さて、直哉と関係を持っていた女性がどうなったか、少し説明しておこう。
 千尋と麗奈は、以前から言っていた通り結婚していない。未だに独身だった。千尋は大学卒業後、翻訳業をはじめ、今ではそれだけで食べていけるほどになっていた。一方麗奈はデザインの方が好調で、以前よりも大きな事務所で大きな仕事を任されるほどになっていた。
 綾奈は三年前に結婚。一児の母としてがんばっている。
 瑞穂は五年前に結婚。二児の母で、今でも教師を続けている。
 かえでは一度結婚したが、二年前に離婚。再び独身生活を謳歌していた。
 そして雅美は、千尋や麗奈同様、独身を貫き通していた。と言っても、まだ二十九なので、婚期が過ぎたわけではない。ただ、本人にその意志はまったくなかった。
 現在は様々な状況にいるが、それぞれが未だに直哉とは親密な関係を保っていた。
「さてと、そろそろ寝るか」
「そうね。明日も早いしね」
「早い割に、いつまでも俺を求めてくるのはどこの誰だ?」
「さあ、誰かしら?」
「ああん、ごめんなさい。謝るから」
「ったく、その代わり、今日は一回だからな」
「えっ、どうしても?」
「明日は講義があるって言っただろ?」
「しょうがないなぁ。その一回をたっぷり時間をかけてするしかないね」
「おまえなぁ、俺を意地でも寝かせないつもりか?」
「そんなことないわよ。それより、早く寝ましょ」
 菜緒は直哉の腕を引っ張って寝室に向かった。
 直哉と菜緒は、未だに毎日のようにしていた。さすがに回数は減ったが、それでも結婚十年目の夫婦とは思えなかった。
 菜緒は相変わらず直哉に甘えている。やはり、梨緒と真緒のそれは菜緒の影響だろう。
 子は、親を見て育つのである。
 とにかく、夫婦関係、親子関係ともに非常に良好であった。
 
 正哉が生まれた六年後、直哉たちにさらにふたりの子供が誕生した。
 ふたりというのは、双子だったのである。双子は女の子と男の子で、女の子が姉で男の子が弟である。
 姉で三女の夏緒。弟で三男の弘哉。
 ふたりを可愛がったのは梨緒である。やはり年が離れていることが一番の理由だろう。
 倉澤家は最近では珍しい、三男三女の大所帯となった。
 それにともない、四人の祖父母は嬉しい悲鳴を上げていた。孫が増えるのは嬉しいが、生まれればお祝い、なにかあればお祝いと、人数分だけお金も飛んでいた。それでもやはり可愛さが先に立ち、ついポンとお金を出してしまう。
 四人の祖父母同様、甥っ子、姪っ子を可愛がっているのは、千尋である。
 翻訳業をしている千尋は、家で仕事をしていた。そのため、よくこっちの倉澤家に遊びに来ていた。
 千尋にとって梨緒たちは、甥っ子、姪っ子というよりは、自分の子供のような存在だった。それを理解している直哉は、梨緒たちに千尋のことを『おばさん』と呼ばないように言いつけていた。
 そして、時は流れる。
 
「パパ、ちょっといい?」
「ん、ああ」
 直哉が書類を整理していると、梨緒が声をかけてきた。
「どうしたんだ、梨緒?」
「お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん」
 梨緒は小さく頷いた。
「今度、パパに会ってほしい人がいるの」
「会ってほしいって、男か?」
「うん」
「ママは知ってるのかい?」
「パパがいない時に、うちに来たことがあるからね」
「そうか。なにも言わなかったところをみると、ママは認めてるみたいだな」
「会ってくれる?」
「もちろん。梨緒がどんな男を選んだのか、しっかりと見極めないと」
「でも、パパはそういうの厳しいからね」
「当たり前だ。カワイイ娘を託すに値するかどうか見極めるんだから、厳しくもなるさ。ロクでもない奴だったら、追い返してやるから」
 直哉は冗談めかしてそんなことを言った。
「大丈夫。そんなことはないから」
「どうしてそう言えるんだい?」
「だって、ママ言ってたもん。どこかパパに似てるところがあるって」
「そんなことを言ってたのか」
「うん」
「なら、余計に厳しく見極めないとな」
「もう、パパぁ」
「ははは」
 そう言って直哉は、梨緒の頭を撫でた。
 
「なにをしてるんだい、真緒?」
「あっ、パパ。今ね、詞を書いてたの」
「詞? 詞って、歌の歌詞のことか?」
「うん、そうだよ。友達に頼まれちゃって」
「そうか。真緒はママに似てそういうのが得意だからな」
「まだママみたいにいろんな言葉は使えないけどね」
「そのうちできるようになるさ」
「できるようにはなりたいけど、でもそれは趣味としてだから。私がホントにやりたいのは、パパのお手伝いだもん。絶対にパパの大学に合格するんだから」
「ははは、真緒なら余裕だろ?」
「今のままならね。でも、三年生になった時、どうなってるかわからないもん。お姉ちゃんみたいにずっといい成績をキープできればいいけど」
「じゃあ、がんばって勉強するしかないな」
「うん」
「よし、いい子だ」
「えへっ、パパにそうやって頭を撫でてもらうの、大好き。それだけで安心できる」
「ホントにママみたいなことを言うな」
「だって、ママの子だもん」
「そりゃそうだ」
「そして、パパの子だもん」
「よし、真緒」
「なに?」
「今度、みんなに内緒で美味しいものでも食べに行くか?」
「うん、行く」
「でも、内緒だからな。特にママには」
「うん、絶対に内緒」
「よし、じゃあ、それまで勉強もがんばるんだぞ」
「うん」
 
「正哉」
「なに、パパ?」
「優哉はどうした?」
「どうせ由香里さんとデートでしょ」
「またか。ホントにあのふたりは四六時中一緒にいるな」
 直哉は多少呆れ顔で言った。
「あっ、そういえばさ」
「ん?」
「大学の図書館て、一般にも開放されてるの?」
「開放はされてるけど、それは地元の人たちにだからな」
「なんだ、残念」
「大学の図書館に、なにか用でもあるのか?」
「ちょっとね。専門的なことを知るためには、やっぱり大学の方がいいから」
「気象関係だったな」
「そうだよ」
「題名がわかれば、借りてきてやってもいいけど。じゃなかったら、土曜日とかに直接来てもいいし」
「ホントに?」
「ああ」
「あっ、じゃあ、さっそく今度の土曜日にでも行こうかな」
「下調べくらいは済ませておいた方がいいぞ」
「それは大丈夫。リストは今制作中だから」
「そうか、それならいい。じゃあ、土曜日は正哉につきあおう」
「よろしく頼むよ、パパ」
 
「なんだ、まだ起きてたのか?」
「あっ、パパ」
 夏緒と弘哉の部屋に顔を出すと、いきなり夏緒がタックルするように飛びついてきた。
「こら、夏緒。何度それをしたらいけないって言えばいいんだ?」
「だって、パパを見ると、自然にそうしちゃうんだもん」
「困った奴だな」
 直哉はわしゃわしゃと夏緒の頭を撫でた。
「弘哉はこんなにおとなしいのに、夏緒はおてんばで」
 ベッドでは、すでに弘哉が眠っていた。
「ほら、夏緒ももう寝る」
「はぁい」
 夏緒は、渋々ベッドに入った。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「夏緒が寝るまで側にいてくれる?」
「ああ、いてあげるよ」
「よかった。じゃあ、おやすみなさい、パパ」
「おやすみ、夏緒」
 直哉は、夏緒のおでこにキスをした。夏緒はそれだけで嬉しそうに目を閉じた。
 夏緒もまた、父親の直哉のことが大好きだった。
 
「優哉」
「なに、父さん?」
「由香里ちゃんとデートするのはいいが、たまには弟、妹孝行をしたらどうだ?」
「別に由香里とはデートしてるわけじゃないって。ただ単に、一緒にいるだけ」
「似たようなものだろうが」
「意味合いが違うよ」
「生意気なことばかり言って」
「父さんだって昔、母さんとそんな関係だったんでしょ?」
「違うぞ」
「どこが違うの?」
「優哉と由香里ちゃんは、正式につきあってるだろ?」
「うん」
「でも、俺と菜緒はおまえたちの年の頃は、まだつきあってなかったからな。それこそ、俺たちは一緒にいただけだ」
「ふ〜ん」
「まあ、俺たちのことはどうでもいいんだ。今はおまえのことだ」
「別に俺たちのことだっていいじゃないか」
「たち、じゃない。おまえだ」
「俺?」
「さっきも言ったように、もう少し弟、妹孝行をしろ。いつも梨緒や真緒に任せてばかりいるな」
「梨緒姉さんと真緒姉さんは、好きでやってるんだから。それに、正哉はもうそんなのは必要はないし、弘哉は姉さんたちの方がいいみたいだし、夏緒は父さんの方がよっぽどいいんじゃないの?」
「ほお、見てないようで結構見てるじゃないか」
「当たり前だって。これでも一応、長男だからね」
「なにが長男だ。放蕩息子のくせに」
「なら、うちのことは正哉に任せれば?」
「そういうことを言ってるんじゃない。俺は、ただ単にちゃんと把握してるなら、もう少し行動でも示せって言ってるんだ」
「行動ねぇ……」
「梨緒は今年受験でなにかと忙しくなる。そうすると真緒ひとりに負担がかかるから、それをおまえが軽減すればいい。簡単な話だろうが」
「言うのは簡単だと思うけどね。ま、いいよ。夏緒や弘哉の面倒くらいなら、由香里も喜んでみるから」
「まったく、おまえって奴は……」
 
「菜緒」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
「もう、そこまで言っておいて、なんでもないはないでしょう?」
 菜緒は、不満の声を上げた。
「梨緒もさ、今年で十八だろ」
「そうね」
「俺たちがつきあいはじめた年と、同じ年なんだよな」
「そうね。でも、私たちの場合は中途半端なつきあいが長かったから、実質はもっと前からつきあってたようなものでしょ?」
「まあな」
 直哉は薄く微笑んだ。
「心配なんでしょ?」
「俺がか?」
「そうよ。梨緒のことだから」
「まあ、心配は心配だけど、おまえはもう認めてるんだろ?」
「ええ」
「なら、それほどひどいことはないだろ。おまえには、人を見る目があると思ってるからな」
「ありがと」
「俺は、心配というよりは、感慨にふけってるんだ」
「感慨に?」
「梨緒も、俺たちの年になったってことにだよ」
「なるほどね」
 菜緒も、得心という様子で頷いた。
「私たちも、年を取ったものね」
「そうだな。でも、おまえはまだまだ年相応には見えないけどな」
「ふふっ、いろいろ努力をしてるから。でも、一番大きいのは、直哉にいつも愛されているってことだと思うわ。それがあるから、いつまでも若く、綺麗でいたいって思うし、また、そのためにかんばろうと思えるから」
 菜緒は、そう言って微笑んだ。
「菜緒」
「うん?」
「幸せか?」
「ええ、幸せよ」
「そうか」
 直哉はふっと笑った。
「これからも幸せでいられそうか?」
「少なくとも私はね。私は直哉と一緒にいられるだけで、幸せなの。でも、梨緒たちは違うから」
「そうだな」
「でも、直哉なら、私を含めてみんなを幸せにしてくれるって信じてるから」
「責任重大だな」
「そうよ。だから、がんばってね」
 菜緒は、そっと直哉の腕を取った。
「もちろん、こっちの方もね」
 そして、そのままベッドに倒した。
「ったく、おまえは……」
 直哉は、菜緒を抱きしめた。
「せめて、自己満足ができるくらいには、がんばらないとな」
「そうね」
「というわけで、今日は自己満足だから、一回だな」
「ええーっ、今日は二回はしてもらおうと思ってたのに」
「これからは自己満足でいくんだから」
「だったら、自己満足はなし」
「おいおい、そんなに簡単になしにするなよ」
「いいのよ。私は今までの直哉になんの不満もないんだから。だから、改めてなにかすることはないのよ」
「都合のいい奴め」
「そんなことよりも、早くぅ」
 
 直哉と菜緒は、これまでも、今も、これからも、ずっと幸せであり続ける。
 それは、お互いのことを本当によく理解し、求めたいものを求めているからである。
 そしてそれは、やがては子供たちにも広がっていく。
 そこにあるのは、きっと笑顔だから。
 そう、本当の、笑顔だから。
 
                                  FIN
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