いちばんたいせつなあなた
 
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 私は、私の背中を無責任に押している『自称』親友に非難の声をあげた。
「あによぉ、今更やめるなんて、言うんじゃないでしょうね?」
 微妙に怒気がこもってるような気がするのは、どうして?
「いい、唯菜。これは千載一遇のチャンスなのよ。なのに、それを使わないなんて、天が許してもこのまどか様が許さないわ」
「そ、そんなこと言っても、やっぱりダメだって」
「なにがダメなのよ。唯菜も好きなんでしょ、彼のこと」
「そ、それは、まあ……」
「だったら別に困ることも悩むこともないじゃない。バシッと決めて、バシッと玉砕しなさい」
「……ちょっと、まどか。なんで玉砕って決めつけてるわけ?」
 私はそう言ってまどかの顔をにらみつけた。
「ま、まあ、それはその、あれよ。そう、彼への告白者玉砕率から考えた数字からそう思っただけ。うん、他意はないのよ、他意は」
 確かにまどかの言うことはわかる。
 彼の、涌井俊哉くんの返事はいつも決まっている。
「ごめん、今はそういう気分になれないんだ」
 そういう気分とはどういう気分なのか聞いてみたい気もするけど、その場所でそれを聞けるかどうかは、私も自信がない。というか、そんなの無理、ゼッタイ無理。
 彼は、うちの高校で一、二を争う男子で、常に女子の憧れの的だった。それは、入学した時からで、もうすぐ三年生になる今でも同じだった。
 私もこのまどかも同じで、まどかの場合はすでに玉砕経験済み。
 だからこそ今回私を焚きつけているのだ。仲間にしようと。
 そりゃ、私だって彼のことは、その、好きだけど。でも、まだ自分の中の気持ちが整理できていない。どんな風に好きなのか、それはずっと一緒にいたいってことと同義なのか。全然わからない。
 だけど、心のどこかにはこのままではダメだという想いもある。このままなにも伝えずに卒業して、もう会えないなんて。それならたとえ玉砕しても、自分の気持ちだけは伝えておきたい。あなたのことが好きだった、葛城唯菜という女の子がいたと、それだけでも知っておいてほしい。
 そういう想いはある。
「ほら、唯菜。あそこにいるよ」
 体育館へ続く渡り廊下に、彼はいた。
 ひとりのようで、いったいなにをしているのだろう。
「うん、チャンスよ。ほら、唯菜」
「えっ、あっ、わっ……」
 まどかは、私の背中を思い切り押した。
 突然のことに私は体勢を整えられず、そのまま彼の方へ。
「あぅ、あ、足が……きゃっ」
 なんの因果か、足下に小さな石が転がっていて、そのせいで余計にバランスがとれなくなった。
 だから、私は間抜けに、本当に間抜けに転んでしまった。
「あちゃ〜……」
 向こうでまどかが天を仰いでいる。
 ううぅ〜、私だって泣きたい気分なのにぃ〜。
「あの、大丈夫?」
 と、少しハスキーな声が私にかけられた。
「えっ、あ……」
 彼が、俊哉くんが私のことを心配そうに見ている。それだけで全身がカーッと熱くなる。顔も耳も真っ赤になっているのがわかる。
「えっ、あの、はい、だ、大丈夫だと……」
 同い年なのに、なぜか丁寧語になっている。
 ああん、もうなにがなんだかわからないよ〜。
「あのさ、とりあえず、その格好だけはなんとかした方がいいかな」
「へ……」
 彼がそう言って視線をそらした。
 なんで、と思って私の格好を見ると──
「きゃーっ!」
 わぁ〜ん、見られた。彼に私のパンツ、見られた。
 こんなことになるならもっとカワイイのを……って、そういう問題じゃないっ!
 私は慌てて足を閉じ、いや、光の速さで立ち上がった。恥ずかしさで彼を見ることができない。
「あの、その、ごめん」
「えっ……?」
 彼は、突然頭を下げた。
「不可抗力とはいえ、その、見ちゃったから」
「あ……」
 私が全面的に悪いのに、いや、二割くらいはまどかのせいだけど。
 それでも私が悪いのに、彼が謝ってる。
「う、ううん、私が悪いの。だから、気にしないで」
「そう言ってくれるのはありがたいんだけど、でも、見たこと自体は変わりないから」
 はうぅ〜、そうやってこの話題を続けないでよ〜。一刻も早く忘れたいのに。
 後ろに視線を向けると、まどかの姿はなかった。うぐぐ、逃げたなぁ……
「えっと、三組の葛城さん、だよね?」
「えっ、あっ、はい」
 えっ、彼が私のことを知ってる?
 自慢じゃないけど、私は彼と話したことはない。去年も今年もクラスは違うし、私は部活にも委員会にも入ってないし。なのに、なんで?
「よかったらさ、お詫びの意味も込めて、少しつきあってくれないかな?」
 そして、私の頭は完全にショートした。
 だけど、その時はそれがこれから起こることの序章でしかなかったとは、露程も思っていなかった。
 
 なんでこういうことになったのか、正常なロジックでは考えられなかった。いや、そもそもの問題として、私はどうしてここにいるのか。
 ここは、学校から少し離れたところにあるファミレス。私の前には、俊哉くんが座っている。目の前にあるのは、紅茶セット。好きなケーキと紅茶を組み合わせる、オーソドックスなもの。ちなみに私は、モンブランとハーブティーを頼んでいる。
 もっとも、これは彼のおごりらしいのだが。
「えっと……」
 私は、会話のきっかけを探していた。理由はどうあれ、憧れの俊哉くんとこうしていられるのである。まどかじゃないけど、これは活かすべきだと本能が告げていた。
 だが、自慢じゃないけど私はこれまで誰かとつきあったことはない。だから、こういう時にどうやって話を見つければいいのかわからない。
「葛城さん」
「えっ、あ、はい」
「とりあえず、食べてよ。せっかくだし」
 そう言って彼は微笑んだ。笑顔ひとつとってもすごく絵になる。
 私は言われるままにケーキに手をつけた。正直に言えば、ここのファミレスのケーキは絶賛できるほどには美味しくない。不味いわけじゃないけど。
「葛城さんは、どうしてあそこにいたの?」
「えっと、それは……」
 まさか告白しに来たんです、とは言えない。
「体育館にでも用があったのかな?」
「あ、うん、そんなとこ、かな」
 適当に理由をつけて誤魔化す。
「涌井くんは──」
「俊哉でいいよ。正直言うと、名字で呼ばれるのはあまり好きじゃないんだ」
「……俊哉くんは、どうしてあそこに?」
 なんとなく名前で呼ぶのが恥ずかしくて、少し声が小さくなった。
 にぎやかな店内で私の声はちゃんと聞こえたのだろうか。
「あそこにいたのは、日課と言えばいいのかな。なんとなくなにもしたくない時は、あそこにいるんだ」
 意外だった。
 彼くらい完璧な生徒でもそういう時があるなんて。本当はそういうことを思う方が失礼なことかもしれない。
 アイドルだってトイレには行くし、あくびもくしゃみもするんだから。勝手に決めつけて、それでそれに当てはまらなければ意外だなんて。
「……ところで、葛城さん」
「あ、私のことも唯菜で構わないよ」
「ああ、うん。唯菜さんに聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
 私は紅茶を口に運びながら首を傾げた。
「その、率直に言って、僕ってどうなのかな?」
「どうって、どういう意味?」
「その、なんて言うのかな、女の子から見てどう見えるのかな、ってところ」
 またまた意外だった。
 というか、それをこの私に聞くの?
 なんか、激しく間違ってる気がする。
「入学してからいろいろな人にいろいろ言われたけど、未だに自分というものがわからないんだよね。だから、好きですって言われても、応えられなくて。正直に言えば、悪いと思ってるんだ。僕みたいなのに、そう言ってくれるわけだから」
 私はここでなんと答えるべきなのだろうか。まどかがいれば、もう少しうまく答えられるのだろうけど。
「……あくまでも私の意見なんだけどね」
「うん」
「それは、きっと俊哉くんが俊哉くんだからだと思う。見た目とか、学校での噂とか、もういろいろなものをひっくるめて、全部を見て、それでみんな言うんだと思う」
「全部……」
「それで、私個人としてなんだけど……その、やっぱり俊哉くんは憧れの対象に、なるのかな」
「憧れ? 僕が?」
 なにをバカなことを、そんな顔をしている。でも、実際そうなんだから、しょうがない。
「みんなが俊哉くんに告白したのだって、私と似たような想いがあったからかもしれないし」
「それは、唯菜さんもそういう可能性があるってこと?」
「……結果的にはそうなるのかも」
 ここで否定しても意味がない。なんか、告白してるみたいだけど、今はそんな気分にもなれない。話の次元が違う。
「そっか……」
 俊哉くんは、それきり黙り込んでしまった。
 しばらく沈黙が続き、彼はとんでもないことを言い出した。
「唯菜さん。僕と、つきあってほしい」
「へ……?」
 私は、その言葉を理解するのにたっぷり三十秒はかかった。
 それを理解すると、今度は頭がショートした。
 俊哉くんが私につきあってほしい?
 つきあうって、こうやってお茶をするってことじゃなくて、そういう意味で。
「どうかな?」
「あのその、その申し出は嬉しいんだけど、できれば理由を聞かせてほしいかな」
「理由は、唯菜さんのことが好きだから、じゃダメかな?」
 うわっ、いよいよ顔が熱くなってきた。
 それが冗談だとしても、彼にそんなことを言われたんだ。
 有頂天で、もうどうでもよくなる。
「いや、その理由は撤回。いや、もちろん嫌いではないけどね。ただ、それが一番の理由ではないから」
 彼自身もひょっとしたら混乱しているのかもしれない。
 そう思えば、私も少し気が楽になる。
「……そうだね、僕がどうして唯菜さんの名前を知っていたか、わかるかな?」
「えっ、それは……」
「前にだけどね、いろいろあって少し気持ちが落ちていたことがあったんだ。その時に学校で目にとまったのが、唯菜さんなんだ。別に特別なことはなくて、なんとなく目で追っているうちに自分の考えなんてすごくちっぽけなものに思えて。唯菜さんて、いつも笑顔でしょ? それがうらやましくて。それでかな、クラスメイトに名前を教えてもらって。話したのは今日がはじめてだけどね」
 まさか、彼がそこまで私のことを見ていたなんて。
 驚きで声も出ない。
「とりあえずの理由はそれじゃダメかな?」
「えっ、ううん、それは別にいいんだけど」
「そっか。じゃあ、さっきのは、いいかな?」
 私はどうするべきなのだろうか。
 ここで頷いてもいいのだろうか。断ったら、きっと二度とこの機会はなくなる。
 それは確か。
 だけど、それがイヤだからって安易に受けてしまうのもどうかと思うし。でも、よく考えたら『つきあい』ってそういうものかも。そりゃ、中には最初からいろいろ知っている人たちもいるけど、たいていはその『つきあい』の中でいろいろ知っていくんだから。
 あ、そっか。
「私でよければ、喜んで」
 きっと、私は自然に言えたと思う。
 だから、彼の笑顔をまっすぐに見つめられたんだと思う。
「ありがとう、唯菜さん」
「あっと、俊哉くん。ありがとうはやめようよ。別に感謝されるようなことをしたわけでも言ったわけでもないんだし」
「そうだね。うん、唯菜さんの言うとおりだ」
「うん」
 私たちは顔を見合わせ、笑った。
 すごく、自然だった。
 これが、『つきあう』ってことなのかも。
 おぼろげながら私はそう思った。
 だけど、その時の私はうれしさのあまりまわりにうちの生徒がいたことも、明日学校で起こるであろう『騒動』も考えられずにいた。
 
「唯菜っ!」
 私が教室に入るなり、うちのクラスだけじゃなく、あちこちのクラスの女子に取り囲まれてしまった。
「納得のいく説明、してもらえるんでしょうね」
「……あ〜、えっと、その、たぶん、無理」
 私はそう言って笑って誤魔化した。いや、誤魔化しきれていない。
 私だってまだ混乱してるのに、それを説明しろだなんて、どだい無理な話である。
 彼女たちがこうして私をつるし上げるのも、ちゃんと理由がある。そして、それに心当たりもある。
「はいはいはい、とりあえずこの場は解散解散。詳細はこの江崎まどか様がちゃんと聞いておくから」
 そこへ、まどかが乱入してきた。なんとなくそれが興ざめを誘ったのか、みんなは渋々ながら輪を解いた。息はつけるようになったけど、まだ終わったわけじゃない。
 なんたって、目の前にはゴシップ大好きなまどかがいるんだから。
 
「しかし、それっていったいどういうことよ」
 昼休み。混乱を避けて、私たちは普段なら使わない屋上へ来ていた。うちの高校の屋上は、普段は使われていない。鍵こそかかっていないけど、暗黙の了解で誰も来ないのだ。
 だからこそ、こうしていられるんだけど。
 まどかは、私からだいたいのあらましを聞き、不満の声を上げた。
「唯菜の話だと、彼は以前から唯菜にその気があったってことになるじゃない。この、なんの取り柄もない唯菜によ」
「……ちょっと、いくらホントのことでもそうズバッと言わないでよ」
 確かに私には取り柄がない。
 勉強だって普通より少し上くらい、運動は普通、そのほかに得意なことなんてないし。容姿だって、振り返ってもらえるようなものは持ってないし。スタイルは……もう少しくびれがほしいくらい。
「だって、絶対納得いかないわよ」
 そう言って残っていた焼きそばパンをほおばった。
「でも、まどか。なんで私なんだろ」
「なによそれ。自慢してるの?」
「ううん、そういうわけじゃないけど。ただ、昨日からずっと考えてたの。彼はどうして私を選んだのかなって。この学校にだって私よりもずっとずっと綺麗な人も頭のいい人も運動のできる人もいろんな特技を持ってる人もいるのに」
「……あのさ、言ってて虚しくならない?」
「……言わないで」
 私は、リンゴのパックジュースを飲み干した。
「まあでもさ、唯菜。とりあえずはがんばってみれば?」
「とりあえずって、そういう問題?」
「だって、憧れの涌井俊哉くんの彼女なんだよ? だったら、いろいろ納得いかない部分はあっても、なるようになる、みたいな感じでやってみればいいの」
「……それは、なんとなくわかるんだけど」
「ほらほら、そんな顔しない。もとがそれほどいいわけじゃないんだから、そんな顔をするともっとダメになるじゃない」
「……まどか〜、私に恨みでもあるの?」
「あるわよ」
 まどかはさらっと言ってのけた。
「だって、彼の彼女になったんだもん。これを恨まずしてなにを恨むのよ」
 正論だった。今の私にはこれに対抗できる正論はなかった。
「ま、ともかく、しばらくはいろいろ面倒だと思うけど、それもそんなに長くは続かないだろうし。少しだけ我慢して、がんばんなさい」
 そう言ってまどかは、私の肩をかなり強く叩いた。
 
「唯菜さん」
 放課後、廊下を歩いていたら、俊哉くんに声をかけられた。さすがにちょっと驚いた。というか、まだ慣れていないせいかもしれない。
「ど、どうしたの?」
 声が、少しうわずった。ものすごく恥ずかしい……
「あ、うん、なにも用事がないんだったら、一緒に帰らないかなって」
 うわっ、一緒に下校? マジですか?
「どうかな?」
「ぜ、全然まったくこれっぽちも用事なんてないから」
「そう? じゃあ、一緒に帰ろうか」
「う、うん」
 程なくして私たちは一緒に下校していた。
 並んで歩くのはこれがはじめて。昨日は微妙な距離が開いていたから。
 俊哉くんはすらっと背も高く、すごく絵になる。私なんか、所詮は引き立て役にしかならない。それはわかってるけど。
「唯菜さん。ひとつ、聞いてもいいかな?」
「あ、うん、なにかな?」
「僕って、そんなに『特別』なのかな?」
「えっ……?」
「ほら、昨日もそうだけど、なんとなく唯菜さん、僕に対して壁を作ってるように思えて」
 ずばり言われた。確かに私は無意識のうちに壁を作っていた。でも、それは自分を守るためじゃない。彼を、彼そのものを汚さないとか、そんなことのため。
「僕はね、別に聖人君主でもないんだから。普通の高校二年生だよ。間違うこともあるし、できないこともある、わからないことだってたくさんある。だから、もう少し普通でいてほしい。僕がこれまで見てきたように」
 耳が痛かった。
 心が痛かった。
 なんで私はこんなに自分本位だったんだろう。
「……ごめんなさい」
 私は、頭を下げた。
「私、少し考えすぎてた。そうだよね、俊哉くんだって同じ高校二年生なんだよね」
「うん、そうだよ」
 そう、それはわかっている。わかってはいるんだけど……
「……今すぐっていうのはちょっと無理だけど、でも、必ずなんとかするから。私も、その、俊哉くんと一緒にいたいから……」
「唯菜さん……」
 うわっ、言っちゃった。
 すると、彼は私の手を取り、こう言った。
「それが聞きたかったんだ。ほら、昨日は僕からの一方通行だったでしょ? 唯菜さんの気持ち、確認できてなかったから」
「あ……」
 確かに、告白に近いようなことは言ったけど、それは単に会話の流れで言っただけ。今みたいにちゃんとは……
 やっぱり私はバカだ。
「うん、これで僕たちは晴れて『彼氏彼女』の関係だね」
 嬉しそうに、無邪気にそう言う。そのうち呼び捨てになんかするのかな、なんて言ってるし。
 だけど、私もそれが嬉しかった。まだまだ分不相応だと思うけど、少しだけ『彼女』の気分が味わえた。
「唯菜さん。改めて、よろしく」
「あ、うん、こちらこそ」
 そして、また歩き出す。
 さっきより少しだけふたりの距離が縮まったような気がする。ううん、気がするだけじゃない。縮まったんだ、確実に。
 さあ、ここからがんばらなくちゃ。まどかにもハッパかけられてるし。でも、なによりも自分のために。
 素敵な『彼氏』に負けないように。
 
 最近思う。私って、なんて現金なんだろうって。だって、開き直ってからはそれこそもう、彼との関係を楽しんでいるのだから。ここまで簡単に切り替えられるとは思っていなかった。まあ、でも、結果がすべてだし、なによりも今私と彼は、とってもいい感じ。まわりにも幸せオーラを放っている。
「少し寒いけど、いい気持ちだね」
 そう言って彼は微笑んだ。ああ、それだけで私の心はほわわ〜んとなる。
 今、この笑顔は私にだけ向けられている。それは揺るぎない事実。
「寒かったら言ってね。上着、貸すから」
 うわ〜ん、なんて紳士なんだろ。もう惚れすぎちゃってどうしようもない。頭の容積の九割は彼のことでいっぱい。あとのことなんてどうでもいい。
「二年生も、もうあと少しだね」
 彼はそう言って空を見上げた。
 二月の空は、寒いせいで空気が澄んでいた。どこまでも青い空、少し弱いけどお日様も出ている。風は少し冷たいけど。
「どうしたの、唯菜?」
 少しぼんやりしていたら、私の目の前に彼の顔があった。
「あ、ううん、なんでもないよ」
 いけないいけない、今はひとりじゃないんだから。
 でも、何度呼ばれても『唯菜』って呼び捨てにされるのは気分がいい。なんか、一歩も二歩も親密になれたって感じがする。もっとも、私は未だに『くん』付けだけど。
「そういえば、学年末の準備はどう?」
「えっ、あ、うん、それなりかな」
 確かに今月末には学年末がやってくる。それを切り抜けなければ楽しい春休みは来ない。だけど、今は彼のことで頭がいっぱいで勉強どころではなかった。
 でも、よく考えてみるとテストで悪い点数を取って最悪留年なんてことになったら……
 うわぁ、やばい、絶対にやばい。
「もしよかったらなんだけど、一緒に勉強する?」
「えっ……?」
「ほら、わからないこととか確認できるし。あ、もちろんそういう勉強方法がイヤなら別に構わないんだ」
「う、ううん、とんでもない。こっちからお願いしたいくらいだよ」
「そっか、じゃあ、一緒にやろう」
 ううぅ〜、神様ありがとう。学年一の秀才が勉強を教えてくれる〜。
 はっ、でも、それって私の今の実力が全部わかっちゃうってことで……
 はうぅ〜、ど〜しよ〜。
「唯菜」
 と、私の目の前に手が伸びてきた。見ると、彼は立ち上がっていた。
 つまり、私はこの手を取って──
 ドラマや少女漫画みたいな展開だけど、これは現実で。
 私は、彼に引っ張ってもらって立ち上がった。彼の手は、とても大きかった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「うん」
 いつまでもこんな日々が続けばいいのに。
 私は、本気でそう思っていた。
 
 さて、二月といえば女の子にとって一年でかなり大事な行事が待っている。
 そう、ヴァレンタインである。
 私も去年まではいろいろやってきた。特に去年は本命チョコまで作って……
 でも、それは渡せなかった。それはそう。だって、相手が俊哉くんだったんだから。
 だけど、今年は違う。多少の義理チョコは用意するけど、本命チョコを堂々と渡せるんだから。
 私はチョコレート作りの本を買って、その日に備えていた。
 ところが、私も誰もが予測しなかったことが起きた。今年は近年まれに見るインフルエンザの大流行の年で、なんと、ヴァレンタインを目前に休校となってしまったのだ。もちろん彼氏がいる人には関係ないけど、学校で渡そうと思っていた子にはかなりの痛手だった。
 私も、なんとなく気勢をそがれた感じだった。でも、私はめげない。だって、私には彼氏がいるんだから。
「よしっ、がんばるぞっ」
 カレンダーを見ながら私は気合いを入れた。それまでの私なら、気合いだけで終わっていた。でも、今年は違う。準備は万端、あとは結果をご覧じろってね。
 そう、今日はヴァレンタイン。甘いチョコに、想いを込めて。
 
 私は、休校中にもかかわらず、彼を呼び出した。
 もっとも、私も彼もインフルエンザにはかかっていないから、完全に人ごとだけど。
 まあ、それはどうでもいい。
 私は、お正月に買った新しいコートを着込み、主役を持ち、待ち合わせの場所へ向かった。
 外は、すっごく寒かった。マフラーを少しゆるめ、そこに顔を埋めたくなる。手袋をしてなかったら手なんかかじかんじゃって大変。
 でも、風がない分だけまだましなのかもしれない。
 私は、寒いながらも軽い足取りで歩いていった。
 待ち合わせ場所の駅前は、いつもと同じだった。ヴァレンタインで騒いでいるのは、主に食料品を扱っているお店だから、こうして外から見ている分には落ち着いて見える。
 もっとも、これが商店街とかだと話は別だろうけど。
 なんてことを考えながら待つこと五分。
 彼はやってきた。カーキ色のコートがすっごく似合っていた。
「お待たせ」
 そう言って彼は笑った。あ〜、この笑顔が見られるなら、たとえ一日でも待つだろうなぁ。
「じゃあ、とりあえずどこか場所を変えよう。さすがに今日は寒いから」
 そう言って私たちは、駅ビルの中に入った。中は、やはりヴァレンタインだった。あちこちでチョコレートのワゴン販売が行われ、高級お菓子屋でもそれは一緒だった。よく見ると、どの店も最近はやりの『イケメン』を立たせている。
 う〜ん、これじゃあどっちを目当てに買うんだろ。
 そんな光景を横目に、私たちは上の階へ。
 そこは、飲食店街で、今のような中途半端な時間だと、それほど人はいなかった。その中の一件、コーヒー専門店に入った。
 案内された席は、窓際の眺めのいい席だった。それぞれカフェ・オ・レとカプチーノを頼んだ。
「あの、俊哉くん」
「うん?」
 私は、先に用件を済ませることにした。なにかトラブルが起きて、渡せなくなると困るから。
「これ」
 そう言って一世一代の心を込めて作ったチョコを渡す。
「僕に? うん、ありがとう」
 彼は、素直に受け取ってくれた。
「これ、唯菜が作ったの?」
「あ、うん、手作りなんてしたことなかったんだけど、お母さんに少し手伝ってもらって」
「そっか、じゃあ、大事に食べないとね」
 味の保証はできるけど、見た目がちょっと心配。
 でも、結局は想いの問題だし。ラッピングひとつをとっても、かなり気合いを入れたし。
 そこへ、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。
 一瞬、店員の目が鋭くなった気がした。まあ、女性店員だったから、余計なのかも。人のものってすごく気になるし。
「開けてみてもいいのかな?」
「うん」
 彼は、丁寧にラッピングを外していく。それほど大きくない箱が現れた。それを開くと、中にはチョコが。
 ハート形とか、なにかホワイトチョコで書くとか、そういうのはやらなかった。
 ごくごくオーソドックスなビターチョコ。それを小さく一口大にして固めたもの。その方が食べやすいと思ったから。
「いただきます」
 彼は、律儀に手を合わせチョコをほおばった。
 なんとなく、手に力が入ってしまう。
「……うん、美味しいよ」
「ホント? はあ、よかったぁ」
「はは、唯菜は心配性だね」
「だって、せっかく作ったんだから、やっぱり美味しいのを食べてもらいたいし」
「なら、問題なしだね」
「うん」
 それから少しの間、チョコで盛り上がった。
 チョコをほとんど食べ、コーヒーのおかわりも三杯目になった時。
「ねえ、唯菜」
「ん?」
「今度の休みに、僕の家に来ない?」
「えっ……俊哉くんの家に?」
「うん。実はね、今ちょっと困ったことがあって。それで唯菜にも協力してもらいたくて」
「困ったこと?」
「ああ、うん、詳細を話すと長くなるから話さないけど。結構やっかいで、できれば唯菜の力を借りたいなって」
 そこまで言われて断ったら、女がすたる。
「うん、私でお役に立てるなら喜んで」
「ありがとう、唯菜」
 しかし、このことがさらなる混乱を引き起こそうとは、夢にも思わなかった。
 
 その日は、これでもかってくらいいい天気だった。二月も半ばを過ぎてるから、そろそろ暖かさが見えてくる。とはいえ、まだまだコートは手放せない。ついでにマフラーも。インフルエンザは治まりつつあるけど、ここで油断すると泣きを見るから。
 とまあ、実はそんなことはこれっぽちも考えられなかった。
 だってだってだってだって、今日は彼の、俊哉くんのうちに行くんだよ?
 そこには当然、彼のお父さんとかお母さんとか、あれ?
 そういえば、兄弟っているんだっけ?
 ああん、バカバカバカ、私のバカ〜。なんでそういう大事なことを訊いておかないのよぉ。うわぁ〜ん……
 でも、悲観してもいられない。だって、もうすぐ彼が迎えに来るんだから。
 彼の家は私の家より少し学校に近いところにある、らしい。中学校が違って、今まで行ったこともなかったから、詳しいことはわからない。だから迎えに来てくれるんだけど。
 待ち合わせは学校の正門前。ここが一番わかりやすいから。だけど、休みとはいえ、私服姿でここにいるのはどうも目立つ。さっきから部活をしに来ている生徒が、私のことをじろじろ見ていく。
 だけど、やっぱり私の頭の中はそれどころじゃなくて。家に入ったらまず、どうやって挨拶するとか。粗相のないように気をつけなくちゃとか。
 そんなのばかり。
 だからかもしれない、彼がすぐそこに来るまで気づかなかったのは。
「はは、唯菜。どうしたの?」
「あっ、ううん、な、なんでもないよ」
 私は慌てて頭を振った。
「そう? ひょっとして、だいぶ待った?」
「う、ううん、全然待ってないよ。うん」
「それならいいけど」
 いけないいけない。もっとしっかりしなくちゃ。私は、改めて気合いを入れ直した。
 彼の家までは学校から歩いて十五分くらいだった。
 閑静な住宅街、とまあ、そう言えば聞こえは良いけど、結局は古い家が建ち並んだ住宅街。それでも最近は再開発で新しいマンションが増えているらしい。
 そんな住宅街に彼の家はあった。うん、それはもうどこからでもわかる家が。
「…………」
 詐欺だと思った。今すぐ帰りたいと思った。夢なら覚めてほしいと思った。
 だってだってだって、彼の家、私の家の数倍はあるんだもん。豪邸だよ、豪邸。こんな家なら、お手伝いさんとかメイドさんがいても不思議じゃないかも。
「さあ、入って」
 私たちは少し小さめの門から中に入った。
 外見を裏切らない建物がそこにはあった。広い庭、三階建ての大きな母屋、離れまである。きっと、プールなんかもあるんだろうな。
 少しだけ歩き、玄関に立った。自分の家なのに呼び鈴を鳴らす俊哉くん。
 少しの間があって、ドアが開いた。現れたのは、和服姿の綺麗な女性。同性の私から見てもすごく艶やかで、見とれてしまう。
「ただいま、母さん」
「おかえりなさい、俊哉さん」
 ああ、この人が俊哉くんのお母さんなんだ。
 なるほど、こういう人に育てられると、彼みたいな人が育つんだ。なんか、妙に納得してしまった。
「そちらが?」
「紹介するよ。葛城唯菜さん」
「は、はは、はじめまして。葛城唯菜と申します」
「俊哉さんの母の紗江子です」
 たおやかに微笑み、軽く会釈をする。
「さあ、玄関先で立ち話もなんですから、どうぞ」
 勧められるまま、私は中に入った。
 そこは、意外にも純日本風の造りだった。たたきがあって、板張りの廊下があって。フローリングではない。なるほど、着物がよく似合う。
「父さんたちは?」
「お部屋の方で待っているわ。先ほどから、俊哉はまだか、俊哉はまだかと言って」
「……なるほど」
 長い廊下を進み、私はある部屋に通された。そこがなんのための部屋かは、ちょっと見当がつかなかった。おそらくは客間かなにかだとは思うけど。
「唯菜さん。少しだけ、待っていてくださいね」
 そう言って紗江子さんは部屋を出て行った。
「ふう……」
 思わず息が漏れた。
「どうしたの?」
「あ、うん、ちょっと圧倒されちゃって」
「なんで?」
「俊哉くんの家が、こんなに大きいとは思わなかったから」
「そうかな? 僕は生まれてからずっとここにいるからわからないけど」
「少なくとも、うちよりは数倍大きいよ」
 私は、一枚ウン百万するのではという掛け軸を見て、見事な欄間を見て、ため息をついた。
「俊哉くんのお父さんて、ひょっとしてお金持ち?」
「お金持ちかどうかはわからないけど、一応会社を経営してるよ」
「……なるほど」
 そっか、俊哉くんはおぼっちゃまだったんだ。なるほど。なんか、妙に納得してしまう。
「それより唯菜。これから父さんたちが来るんだけど、間違いなく余計なことを訊いてくるから、それには無理して答えなくてもいいからね」
「それってどういう──」
 ちょうどその時、件のお父さんがやってきた。俊哉くんよりがっしりしていて、でも、面立ちなどは似ているところもあった。
 お父さんは私を一瞥し、座った。
「父さん。彼女が僕が言っていた葛城唯菜さん」
「あ、あの、葛城唯菜です」
「…………」
 お父さんの目が鋭くなった。
「ちょっとお父さん。いきなりそんな顔したら、怖がっちゃうでしょ?」
 そこへ、もうひとりの声が。見ると、やはりすごく綺麗な女性が。
「ホント、素直じゃないんだから」
 そう言ってその人は私たちの斜め前に座った。
「あたしは俊哉の姉の、美沙子よ。よろしくね、唯菜ちゃん」
「あっ、はい」
「ほら、お父さんも」
「あ、ああ。うおっほん、私が俊哉の父、康哉だ」
「あなた、その横柄な態度はなんですか」
 そこへ、お茶を持って紗江子さんが戻ってきた。
 ぴしゃりと言い放つと、康哉さんはすっかり黙り込んでしまった。どうやら、ここ涌井家では女の人が力が強いらしい。
「ごめんなさいね。うちの人、どうも決めたがりで」
「い、いえ……」
 とりあえず、みんなの前にお茶が並ぶ。
「それで俊哉さん」
 紗江子さんは、湯飲みを傾けながら言った。
「ええ、彼女こそが僕が選んだ『女性』です」
「えっ……?」
 私はそこではじめて、とんでもない席にいるのだと気づいた。でも、それは後の祭りだった。
「あ、あのぉ、ひとつ訊いてもいいですか?」
 私は、遠慮がちに訊ねた。
「よく、お話の中身が見えないのですけど」
 と、紗江子さんは鋭い眼差しで俊哉くんを見た。一瞬、射抜かれたかと思った。
「俊哉さん」
「……はい」
「事情、話してないのですか?」
 妙に静かで、妙に落ち着いていて、それが逆に怖かった。
 側にいる康哉さんや美沙子さんは、あっちゃ〜、という顔をしている。
 つまり、これは、修羅場?
「母さん。逆に訊いてもいい?」
「……ええ」
「どうしてうちのことに、彼女を巻き込む必要があるの?」
「では、どうして今日、ここ、この場所に呼んだのですか?」
「…………」
「…………」
 見えない火花が飛んでいた。私なんか、怖くて声も出せなかった。
 だけど、それでもいっこうに話の中身は見えなくて。
 と、思っていたら美沙子さんが隣にやってきた。もちろんわからないように。
(あのね、簡単に言うと、婚約とかそういう類のものなの)
(こ、婚約っ!?)
(ああ、もちろんそんな大げさなものじゃないけどね。ただ、うち、というかお母さんの家の方がそういう家柄だったの。すごく形を重んじる家でね)
 なるほど、少しだけ見えてきた。
(で、俊哉もそろそろいい年でしょ? それでこの間話題が上って)
 いい年、か。私なんか、そんなこと全然考えたことないのに。
(それでこんなことになってね。ごめんね、巻き込んじゃって)
(い、いえ、それは別に……)
(ふふっ、そこまで俊哉のこと、想ってくれてるんだ)
(あっ、いえ、その……)
(いいのいいの。唯菜ちゃんがいろんな意味で『いい人』だってのは、すぐにわかったから)
 なんか、微妙にけなされてる気もする。
(とにかく、今は俊哉に任せておけばいいのよ。わかった?)
(はい)
 それで美沙子さんは戻った。
 俊哉くんと紗江子さんは一触即発。うえぇ〜ん、どうすればいいの〜?
「母さんは、どうすればいいと言うわけ?」
「そうね……」
 紗江子さんは、私を見た。じっと見つめていると、すべてを見透かされそうで。
 だけど、蛇ににらまれた蛙のように、視線をそらすことはできなかった。
「証、を見せてもらえば、すべてを水に流しましょう」
「証……」
 今度は俊哉くんが私を見た。
「よく考えて証を見せてくださいね」
 丁寧語が、怖かった。
「唯菜、ちょっと」
「あっ、えっ……」
 私は、彼とともにその部屋を出た。廊下を少し進み、そこにある部屋に入った。
「ど、どうしたの、急に?」
「ごめん」
 なにについて謝っているのか、それはわかった。でも、それは俊哉くんが謝ることじゃないと思う。もちろん、紗江子さんでもない。別に、どっちが悪いとか、そんなことじゃない。
「僕が甘かったんだ。唯菜に協力してもらえば、簡単に済むと思って。でも、実際は……」
 悔しそうな顔。今まで、こんな顔見たことない。なんか、私までいたたまれない気持ちになる。
 だからかもしれない。私がそんなことをしたのは。
「唯菜……?」
 私は、そっと彼の手を取った。彼の手を私の手で包み、それを頬に持って行く。
「そんな顔、しなくていいの。私、全然気にしてないから」
「唯菜……」
「私にできることなら、本当になんでもするから。ね?」
 それを、私は予測できただろうか。
 ううん、絶対無理。
 だから、私の頭はショートした。
 一瞬、なにも考えられなくなった。
「…………」
「…………」
 今、私は──
 彼と──
 キスを──
 キスを、した──
「唯菜?」
「は、ははは、はいぃっ!」
 瞬間、私の頭の回路がつながった。
 キス?
 口づけ?
 接吻?
 うわああああああ〜、ホント?
 ど、どどどど、どうしよ〜〜〜っ!!
 だ、だだだだ、だって、キスだよ?
 私、俊哉くんと、キス、したんだよ?
「ごめん、不意打ちみたいに」
 一瞬で意識が帰ってきた。
「う、うううん、い、いいの」
「だけど、無性にキスしたくなって。唯菜が、すごく、可愛くていとおしくて」
「俊哉くん……」
「でも、取り消しはしないから。それが今の僕の、本心だから」
 ああ、そうだ。彼は、こんな人だった。
 つきあうようになってからまだまだ日は浅いけど、うん、それだけはわかる。
「ゆいな……っ!」
 今度は、私から。
「これでおあいこ」
 と、ぱちぱちと拍手が。驚いて振り返ると、そこには……
「か、母さん……」
「さ、紗江子さん……」
「ふふっ、しっかりと見せてもらいました。その証を。それならもう全然問題はありません」
 私も俊哉くんも、真っ赤になってうつむくしかなかった。ううぅ〜、きっと紗江子さんはわかってたんだ。なんとなくこうなることが。
 今の笑みを見ていると、それが疑う余地もないことがわかる。
 ああ、なんて言うんだっけ。仏の掌だって?
 それだ。私も俊哉くんも、紗江子さんの手のひらで踊っていただけ。ううん、ひょっしたら最初から全部わかってたのかも。だとしたら……
「さあさあ、いつまでもこんなところにいないで」
 意識が飛びそうだった。
 
 みんな、すっかり上機嫌だった。紗江子さんは康哉さんにお酌してもらい(!)、また黄金色の液体を飲み干した。いったい、どれだけ飲むんだろ……
 美沙子さんは美沙子さんでなにか別のものを飲んでいる。確か、まだ未成年のはずだけど……
 ま、まあ、深く追求するのはやめておこう。
 で、私と彼は、はっきり言えば生きた心地がしなかった。
 だって、はからずも紗江子さんの前で、そ、その、キス、なんかしちゃったわけで……
 当然その話は康哉さんにも美沙子さんにも伝わっているわけで。さっきまでずっとそれを肴に盛り上がっていた。
 俊哉くんはさっきからことあるごとに私に謝っている。
「ところで」
 美沙子さんが妙に赤い顔で寄ってきた。微妙にアルコールの匂いがするのは、気のせいかな? あの赤い液体は、ブドウジュースアルコール入りだったのかも。
「どっちがコクったの?」
「ぶはっ!」
「うわっ、きたなっ!」
「ね、姉さんっ! いきなりなんてことを」
「あら、いきなりかしら? だって、気になるでしょ、そういうの。ねえ、お母さん?」
 うあっ、ここで紗江子さんに話をふりますか?
「そうね、気にならないということはないわね」
「ほら、うちのドンがああ言ってるわけだから。ゲロしなさいって」
「……美沙子さん。なにか今、聞き捨てならない言葉を聞いたような気がしたのですけど」
「い、いいえ、なんでもありませんわよ、お母様」
「そう? ならいいんですけど。もしそれが事実なら、そうね、向こう三ヶ月家事全部お任せコースなんてものを用意するところでした」
「と、とんでもない。お母様、少し飲み過ぎなだけです」
「そう? 確かに今日はついつい飲んでしまいますからね」
 ニヤッと笑った。ううぅ〜、怖いよ〜……
「で、どうなの?」
「……僕だよ」
「ふぇ、そうなの? ほぉ、こりゃまたなんともまあ……」
「どうせ意外だって言うんでしょ?」
「意外は意外なんだけど、ちょっと意味合いが違うかな。もともと俊哉は積極的な方だから、それ自体は不思議じゃないの。ただ、それが恋愛ごとになると話は別。愚鈍どころか、女の子の気持ちのかけらも理解できないぼんくらでしょ?」
「……ぼんくらで悪かったね」
「なのに、どうして彼女を選んだ、というか選べたのかなと思って」
「あの、それはどういう意味ですか?」
「だって、唯菜ちゃん。あなた、俊哉のこと昔から好きだったでしょ?」
「えっ……?」
「わかるのよね、そういうの。だけど、俊哉はそんなことこれっぽちもわかってなかった。で、ここからが大事。俊哉が誰かに告白しようと思った。もちろんその時に相手も俊哉のことを想っているなら、はいそこでカップル誕生。でも、それが違ったら?」
「……ダメ、ですね」
「そゆこと。つまり、俊哉が唯菜ちゃんを選んだことが不思議なの。いや、正確には選べたことか。きっかけはなに?」
「えっ……?」
 問われて、私は思い返した。昔からのことは今はおいといて、最近、特に話すようになったきっかけは……あっ!
「……パンツ……」
「えっ……?」
「い、いえ、な、なんでもないですっ!」
 私は慌てて否定した。でも、まさかパンツを見られたことがきっかけですなんて、口が裂けても言えない。
「ま、きっかけ云々はどうでもいいんだけどね。あたしとしては、将来妹になるかもしれない子が、唯菜ちゃんみたいな子で、よかったと思ってる」
「妹……あっ!」
「……姉さん。なにか恨みでもあるの?」
「べっつに〜」
「美沙子さん。俊哉さんをいぢめるのはその辺にして」
「はぁい」
 紗江子さんの一声で、美沙子さんも引き下がった。
 というより、情報を少しずつ引き出そうというのだろう。最初から全部聞いてしまうと、後々の楽しみがなくなるから。
「唯菜さん」
「は、はい」
「少し、よろしいかしら?」
「えっ、はい」
 私は紗江子さんに連れられて、別の部屋に移った。そこは、たぶん紗江子さんのプライベートルーム。これだけの大きさの家なら、ひとりひとりに部屋があるのは当たり前だろう。
「どうぞ」
 そう言って出されたのは、見た目は普通の水。飲んでみると──
「あ、美味しい」
 レモンかなにか、柑橘系のエキスが入っていた。とってもさわやかで、美味しかった。
「あの、お話、あるんですよね?」
「正直に答えてもらえばいいの。このまま俊哉さんと一緒にいる、というか、いたいと思っている?」
「……はい」
「そう……」
 沈黙が訪れた。
「唯菜さん、あなたはとてもまっすぐな人ね」
「まっすぐ、ですか?」
「ええ。だから、あなたになら俊哉さんをお任せできそう」
「…………」
 なにが言いたいのかは、わからなかった。ただ、なんとなくはわかった。
「最近の俊哉さんは、今までにないくらい生き生きとしていたの。それで少し意地悪をしていろいろ言って。そうして出てきた結果が、今日のこと。俊哉さんを変えたマジックを少しだけ知りたくて。でも、それも必要なかったようね」
 紗江子さんは、そう言って笑った。
「唯菜さん。俊哉さんと、いつまでも一緒にいてあげてくださいね」
「はい」
 私は、素直にそう言っていた。
 
「ん〜……」
 私は、外に出るなり大きく伸びをした。すっかり縮こまっていた体が、気持ちいいくらい伸びた。
 空を見上げれば、星が輝いている。
 結局私は、夕飯までごちそうになってしまった。本当はその前に帰ろうと思ってたんだけど、紗江子さんの申し出を断り切れなかった。というか、断ったらあとが怖かったから。
 とはいえ、それ自体はとても和気藹々としていて、部外者の私もすごく気分良く過ごせた。
 で、今は家への帰り道。隣には、俊哉くん。
 家まで送ってくれるって言って、私はいいって断って、結局は屈してしまった。ただ、うちから彼の家までは結構あるから、自転車を押している。
「それにしても、今日一日でいろんなことがあったね」
「……ごめん、ホントに」
「ううん、とっても楽しかったよ。まあ、もちろん想定外のことはあったけど。でも、それも含めてだし」
 これは本音。実際、私は涌井家の面々をたった半日ですっかり好きになってしまったのだから。
「ただ、不意打ちのキスだけは、ちょっと根に持っちゃうかな」
 冗談めかしてそう言った。
 とたんに彼の顔が曇った。
「あれは……」
「いいの。理由はどうあれ、シチュエーションはどうあれ、私のファーストキスが俊哉くんでよかったって思ってるから」
「だったらなおさら……」
「もう、わかってないなぁ。確かにね、設定された場所でそういうことをするのもいいんだけど、ああいう風にされたら、それこそ絶対に忘れないでしょ? それって、結構重要だと思うの。だから、私は全然気にしてないよ」
 九割は本音。残りの一割は、やっぱりもう少しいい雰囲気でっていうもの。
 もっとも、あの後私からもキスしたんだから、今更だけどね。
「俊哉くんは、とっても優しくとっても頭が良くてとってもかっこよくて私にはもったいないくらいなんだけど、ひとつだけ、不満てほどじゃないけど、改善した方がいいなってことがあるの」
「それは?」
「もう少し自由に物事を見てもいいと思うんだ。まわりの意見にとらわれず、今までの習慣にとらわれず。それって、結構重要だと思うし」
 彼は、すっかり黙り込んでしまった。きっと、私の言葉をあれこれ考えているんだろう。
「唯菜は、こんな僕で本当にいいの?」
「うん」
「本当に?」
「うん。それに、せっかく俊哉くんのご両親にも顔を覚えてもらったんだし。今更だよ、そんなこと考えるのは」
 そう言って私は、自分でも驚くくらい積極的な行動を取った。
 彼の左腕に私の右腕を絡める。これまで私たちは腕はおろか、手もつないだこともない。でも、今日はそれができそうな気がした。
「唯菜……?」
「しばらく、このままでもいいよね?」
 彼は、黙って頷いてくれた。腕から伝わってくる彼のぬくもり。
 二月の寒さもなんのその。
 私たちは、少しだけいつもより遅めのペースで歩いた。
 この時間が、永遠に続けばいいと、本気で思った。
 
 三月に入った。すぐに卒業式があり、三年生は卒業した。これで私たちが最上級生。しかも、受験生というオマケつき。まあ、そういうイヤなことは四月まで忘れよう。今は、楽しい楽しい春休みのことだけ考えたい。だって、今年の春休みは絶対楽しくなるんだから。
 あの日から私たちの関係はかなり変わった。どっちかというと、改善と言うより改悪なのかもしれないけど。ただ、それまでがかなり優等生だったことを考えると、それでよかったのかもしれない。だって、彼もずっと積極的になってくれたし。
 私も彼にいろいろ言えるようになった。やっと『対等』の立場に立てた気がする。
 学校でも私たちのことは噂になった。ただ、テストとかいろいろあって、しかも春休みに突入ということでうやむやになった。私たちにとっては、かなりありがたかったけど。
「しかしあれよねぇ」
「……なに?」
「世の中ってのは、ホントわからないわね」
「……まどかさぁ、それ、何度目?」
 私はたまたままどかと一緒だった。春休みに入り、いきなりうちへ来たまどか。どうも私と彼との間を邪魔したいみたい。
「だって、なんであんたと彼がそんなにラヴラヴなのよ。絶対おかしいわよ。あんたなんて、これっぽちもいいところないじゃない。勉強普通、運動普通、ルックス普通、スタイル普通。一方彼は、すべてにおいて特級クラス。どう考えてもおかしい。それに──」
「……それに?」
「考えてるの、来年のこと」
「来年?」
「だって、彼なら確実に一流大学へ行くわよ。で、あんたは?」
「あ……」
 忘れてた。そうだ、大学。このままだと私は絶対に彼とは同じ大学へ行けない。少なくとも彼が志望校を落とさない限り。でも、私のせいでそれはしてもらいたくない。
「確か、彼はK大受験のはずだから」
「……ウソ?」
「マジマジ、大マジ。あそこってかなり偏差値高いからね。まあ、学部学科によって若干の差はあるけど。今のあんたのレベルでは、明日宇宙が滅亡する確率より低いわね、合格は」
「……そんな本当のことをはっきり言わないでよ」
 K大はホントにレベルが高い。私なんて志望校に入れようとも思わなかったくらい。
「で、そこら辺はどうするつもりなの?」
「それは……」
 なんにも考えてなかった。でも、考えなくちゃ。
「この春休みの間に考える、というか話し合った方がいいんじゃないの、お互いのためにもね」
 そう言ってまどかは私の肩を叩いた。
「はあ、あたしも彼氏、ほしいなぁ」
 なんか、明るい未来が、急に真っ暗になったような気がした……
 
 さて、私の心は春の陽差しなど関係ないくらいに落ち込んでいた。そのきっかけを作ったまどかには呪詛でも呟きたいところだけど、でも、それはいつかは考えなくちゃいけないことだったから。
 だから、無理矢理納得した。
 私は大学受験に関して、前よりいろいろ調べた。もともと受験しようとしてた大学は、彼が受ける予定の大学とは天と地ほどの差がある。もし私が同じ大学を受けようと思ったら、一日二十時間くらい勉強しないと無理。
 彼はK大法学部。もちろん文系では一番高い。
 で、私は心理学がやりたいから、文学部。文学部は学科が多いから、その中でも偏差値にばらつきはある。基本的に一番高いのは史学科。あとは大学によってまちまちだけど。心理学はだいたい真ん中か少し上くらい。最近は心理学だけで学部を作っている大学もある。それくらい人気もある。
 というわけで、私は非常に悩んでいる。
「どうしたの、唯菜?」
 そんなことばかり考えているから、彼はちょくちょく私に声をかける。
「ううん、なんでもないよ」
 その度に私はそう言って誤魔化す。
 本当だったら話してもいいんだけど、まだその時期じゃないと思うから。
「最近の唯菜、いつもそうだね。なにか悩み事でもあるの?」
 ううぅ〜、鋭い。
「僕でよかったらいつでも話を聞くよ」
「だ、大丈夫だよ。うん、たいしたことじゃないの」
「そう? もう三年生だから、受験のこととかいろいろあるからね。悩みもあると思って」
 うぐっ、図星。
「そういえば、唯菜は受験組だよね?」
「あ、うん、一応」
「どこを受けようと思ってるの?」
 あう〜、それを今聞きますか?
「僕は、K大かW大なんだけどね。まあ、今のところの話だし」
「……C大、かな」
「C大かぁ。あそこには面白い教授がいるって聞いたことがあるよ。ふ〜ん、そっか」
「……俊哉くんは、いいの?」
「いいって、なにが?」
「あくまでも今のところだけど、このままだと大学は別々になっちゃうから」
「ああ、そのことか」
 と、意外にも彼は悩んでいない。どうして?
「ん〜、これは僕だけの考えなのかもしれないけど。いくら恋人同士でも無理に相手にあわせる必要はないと思うんだ。もし無理にあわせたら、きっとあとで後悔するからね」
 確かにその考えはよくわかる。私のせいで彼が苦しむのは見たくないし。でも、だからって……
「まあ、まだ時間はあるわけだから、どうなるかはわからないけどね」
 わかってる、それはわかってるの、俊哉くん。私ががんばる以外に方法はないんだから。
「唯菜と一緒に大学へ行けたらそれはそれでいいだろうけど。でも、僕はそうじゃなくてもいいと思うよ。別にそれがすべてってわけでもないんだし」
 ああ、結局、私の悩みは解決されないわけなのね。よよよ……
 
「唯菜〜、ちょっと開けて」
 部屋で参考書と格闘していたら、お姉ちゃんが来た。
「どうしたの?」
 ドアを開けると、お姉ちゃんはお盆を持って立っていた。お茶にお菓子。
「あら、勉強してたの? 珍しい」
「いいでしょ、そんなのどうでも」
「ま、唯菜も受験生だし。いいんじゃないの。そんなことより、テーブル出して、テーブル」
 言われるままにテーブルを出す。
「さて、唯菜。とりあえずお茶にしましょ」
「お茶って、なにを企んでるの?」
「企んでるなんて、とんでもない。カワイイ妹にこうしてわざわざお茶を用意してあげてるんじゃない」
「別に頼んでないでしょ。それに、お姉ちゃんが私に優しい時は、必ずなにかあるもん」
「……さすがは我が妹。ま、でも、たいしたことじゃないわよ」
「なに?」
「唯菜もさ、大学受験するわけよね?」
「うん」
「志望校は?」
「今のところは、C大」
「C大? あの中庸大学?」
「……悪かったですね、中庸大学で」
 お姉ちゃんは、我が家の突然変異で、とっても頭がいい。なんたって国立大学に合格して、大学でも奨学生の資格を得ているくらい。
「で、彼氏は?」
「……K大」
「ほぉ、あの一流大学ね。こりゃ、ますますこの話に乗るべきよ」
「ねえ、いったいなんの話なの?」
「あたしの友達に教師を目指してる連中がいるのよ」
「うん」
「で、そいつらが適当なカモ、もとい、実験台を用意してほしいって言うから」
「実験台? なんの?」
「勉強を教えるっていうことの」
「つまり、その人たちが先生で、私が教え子ってこと?」
「そゆこと。どう、悪い話じゃないと思うけど。仮にも連中だってあたしと同じ大学の学生だし」
 確かに悪い話じゃないかもしれない。塾に行くのはお金とかいろいろあるから。
「なんだったら、あたしも教えてあげるわよ、勉強」
「お姉ちゃんはいい」
「あら、なんで?」
「だって、お姉ちゃんは限度ってものを知らないから」
「まあ、それはいいんだけど。で、どうするの? なるべく早めに返事がほしいんだけど。あ、もちろんあんたの友人も大歓迎よ。実験台は多い方がいいからね」
「あ、うん、じゃあ、二日だけ待って。それで確認するから」
「オーケー。二日後ね」
 お姉ちゃんは満足そうに頷いた。
「じゃ、お茶にしましょ」
 だけど、どこまでうまくいくのかな。って、それ以前にそれでうまくいくのかな。心配だな……
 
 結局、私はお姉ちゃんの申し出を受けることにした。
 で、その参加者は私とまどか。ほかにも何人か声をかけたんだけど、いろいろあるみたいで捕まらなかった。で、彼は、最初から声をかけなかった。だって、さすがに気が引けて。それに、彼の知らないところで少しでも努力して、認めてもらいたかったから。
 そんなわけで、さっそく第一回が行われることになった。
 場所は、お姉ちゃんの大学。交通費はすべて向こう持ち。それは当然。
 私とまどかは、お姉ちゃんと一緒に大学へ向かった。
「ごめんね、まどかちゃん。うちの愚妹が迷惑かけちゃって」
「いいえ、いいんです。こういう機会でもない限り、本気で学ぼうとは思いませんから。だから、玲菜さんが謝ることなんてないです」
「そう?」
「……まったく、お姉ちゃんもまどかも、人をなんだと思ってるのよ」
「色ぼけ愚妹」
「色ぼけ親友」
「…………」
 見事に意見が重なった。でも、すっごいムカツク。なんで私が『色ぼけ』なのよっ。
 ……そりゃ、考えてることの半分くらいは彼のことだけど。
「まあ、冗談はさておき」
「…………」
「ある程度は覚悟しといてよ」
「なにを?」
「中身が厳しくなるのをね。やっぱり、やるからにはしっかりやりたいじゃない。だから、できる限りのことはしたいってことだし」
 確かにそれはそうかもしれない。こういう機会は滅多にないんだから。
 でも、それを受ける側の私たちは、ちょっとだけいい迷惑かもしれない。
 そうこうしているうちに、私たちは大学に到着した。やっぱり大学は大きい。正門から目指す建物まで、たっぷり十分は歩いた。建物は、とても静かだった。大学も春休みのため、人の出入りは少ない。ただ、教授とかはいるみたいで、熱心な学生が研究室に入り浸っているらしい。
 教室は、思っていた以上に高校と変わらなかった。黒板があって、机と椅子があって。
 もっとも、もっと大きい階段教室だと違うっていう印象を受けたんだろうけど。
 教室には、お姉ちゃんの知り合いが三人ほど待っていた。
「お待たせ」
「おっ、来た来た」
 三人とも女性だった。ちょっとだけ安心。
「紹介するわ。あたしの妹の唯菜。そしてその親友の江崎まどかちゃん」
「葛城唯菜です」
「江崎まどかです」
「で、こっちが三井希美。真ん中が林田夏生。向こうが野村愛子」
「三井希美よ。よろしく」
「林田夏生。お手柔らかに」
「野村愛子、気軽に『愛ちゃん』って呼んでね」
 とりあえず自己紹介終わり。
「さて、希美。さっそくはじめるの?」
「ええ、時間が惜しいから。この教室だって無制限で使えるわけじゃないし」
「そ、ならはじめましょ」
 私とまどかは、椅子に座らされた。
 そして、持ってこいと言われていた教科書やら参考書を机に並べた。
「ふむふむ、この教科書を使ってるのか」
 希美さんが教科書を見て唸っている。
「ま、これなら大丈夫でしょ。最初は、夏生からだっけ?」
「ええ」
 そして、夏生さんが教壇に立った。
 
「あうぅ〜……」
 構内のカフェテラスで、私もまどかも生ける屍になっていた。はっきり言って、あれは拷問だった。実験台っていうのはまんざらウソでもなかった。中身自体はまっとうなんだけど、やってる人たちに少々問題があった。みんな、一癖も二癖もあるんだもん。ただ、教え方自体は結構良くて、これを続けられれば確実に実力はつくと思った。
「ねえ、まどか」
「……ん?」
「どうする、これから? 続ける?」
「そうねぇ……」
 一応、今回のことは一回やってみてから今後を決めると言ってあった。だから、ここで今後どうするか決めなくちゃならない。もっとも、私はきっと逃げられないんだろうけど。
「まあ、実力はつきそうだから、もう少しやってみてもいいんじゃないかな」
「いいの?」
「だって、今更でしょ? それに、回を重ねれば、もう少しましになると思うし。まさか後退することはないだろうから」
「それもそっか。じゃあ、継続ってことで」
「うん」
 地道な努力って、やっぱり大変。でも、これも自分ためだから。もっともっとがんばらないと。
 
 その日、私は買い物で駅前に出ていた。ほしいものはすぐに見つかり、すぐに手に入った。で、あとはウィンドウショッピング。
 店頭に並んでいるのは、春物ばかり。でも、店によっては夏物も出ている。確かにファッションとかって季節先取りするからね。
 なんとなくカワイイワンピースを見かけたけど、値札を見て見なかったことにした。だって、私が出せる許容範囲からゼロが二つばかり出ていたから。
 あんなのどうがんばっても無理。ま、その前に私に似合うかどうかも問題だけどね。
 ブラブラと見て、そろそろ帰ろうかな、という頃。
 それは本当に偶然目に入った。
 少し離れた場所に、彼がいた。ちょっと離れていたから声を上げるわけにもいかなかった。で、近づこうと思ったら──
「えっ……?」
 すっごく綺麗な女の人が、彼に声をかけた。彼のお姉さんではない。
 物腰もすごく落ち着いていて、どこか紗江子さんを彷彿とさせた。
 って、そんな場合じゃない。少し年上くらいだと思うけど、でも、彼、すごく楽しそうに話してる。私と一緒の時と同じか、下手するとそれ以上。
「…………」
 いたたまれなくなった。なにが、というわけでもない。ただ、そこにいたくなかった。見たくなかった。すべてをなかったことにしたかった。
 もし彼があの人と親密な仲でも、今日この場で見ていなければ、今までと同じように接することができたのに。
 でも、私は見てしまったから。
 
 どこをどうやって帰ったかは、覚えていない。気がついたら家の前だった。
 ただ、なんとなくドアを開ける気にならなかった。
 今日は平日だから、お父さんはいない。お母さんはいるかもしれない。お姉ちゃんは、大学かも。
 今は、誰とも会いたくなかった。それが、家族でも。
 私は、回れ右した。
 と、私の前に影が差した。顔を上げると。
「……お姉ちゃん」
 お姉ちゃんがいた。
「どしたの、唯菜? 入らないの?」
 お姉ちゃんは、いつもと同じ口調でそう言った。
「唯菜?」
 私は、自然とお姉ちゃんに抱きついていた。
「ちょ、ちょっと、なにがあったのよ? 唯菜?」
 私は、泣いていた。
 
 家には誰もいなかった。お母さんは買い物に行ったらしい。
 お姉ちゃんは、私を部屋まで連れて行き、ついでにお茶も淹れてくれた。
「ほら、唯菜」
「……うん」
 温かなお茶。香りがとてもいい。
「なにがあったの?」
 お姉ちゃんは、優しかった。だから、私は話した。見たまま、私の感情はいっさいこめずに。
 お姉ちゃんは、黙って聞いてくれた。
「そう、そんなことがあったんだ」
 そう一言だけ言って、お茶を飲んだ。
 私もつられるようにお茶を飲んだ。温かなお茶が、スーッとのどから胃まで通り抜けた。空腹だったせいで、胃に広がるのがよくわかった。なんとなく、それだけで救われた気がした。
「まあ、唯菜が心配するのもわかるけど。そういうのはちゃんと確認しないと。憶測だけで落ち込んでもしょうがないでしょ? それに、その女の人が彼のそういう人とは限らないし。親戚とかって可能性もあるでしょ?」
 それはわかっていた。でも、私はそれを確認する勇気がなかった。
 もともと私には彼に対するコンプレックスがある。あらゆる面で優れている彼。なんでも平凡な私。これで引け目がない方がおかしい。
 だから、さっきだって心のどこかで思った。
「ああ、やっぱり」
 だからこそ私はその場にいられなかったんだ。だからこそ私は余計なことを考えたんだ。
「唯菜。嘆くのはさ、ちゃんと確認してからにしなって。いい?」
「うん……」
「もう、そんな顔しないの」
 お姉ちゃんは、少しだけ困った顔を見せた。
 ごめんなさい、お姉ちゃん。
 でも、今だけは……
 
 その機会は意外に早く訪れた。
 私は、彼に呼び出された。相変わらず気は重かったけど、お姉ちゃんの言うとおり、確認しないでくよくよするのはよくない。だから、ちゃんと確認しようと心に決めてきた。しかし、それはもろくも崩れそうになった。
「おはよう、唯菜」
 彼は、いつもと同じ笑顔で私を迎えてくれた。だけど、私はいつもと同じ顔はできなかった。だって、彼の隣にはあの女の人がいたから。
「お、おはよう」
 できるだけ不自然にならないように、私は返事した。
「あなたが唯菜さんね」
 と、その女の人が私に声をかけてきた。ドキッとした。
「はじめまして。篠原美江子です」
「美江子さんは、僕の母さんの妹で、僕から見ると叔母──」
「俊哉くん」
「いえ、なんでもないです」
 叔母さん?
 こんな若い人が?
 ウソ?
「美江子さんは母さんの一番下の妹なんだ。年も母さんとはだいぶ離れているし」
「一回り以上離れてるのよ」
「で、今度仕事の関係でこっちの方へ来ることになったんだ。だけど、こっちのことはわからないってことで、僕がいろいろ案内することになったんだ」
「もちろん俊哉くんだけでもいいんだけど、ほら、女性じゃないとわからないところとか、そういうのは無理だと思ったから」
「本当は姉さんに頼もうと思ったんだけど、うまく逃げられちゃって。それで唯菜に頼んだんだ」
「ごめんなさいね。でも、俊哉くんに彼女がいるって聞いて、是非一度は会いたいって思ってたから。私としては結果オーライなのよね」
 なんだか、すごく自分がバカだって思える。こんな、簡単なことだったのに。
 なにをひとりでウジウジ悩んでたんだろ。こんなことだから、余計なことを考えちゃうんだ。
「唯菜?」
「あっ、はい。葛城唯菜です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 そう言って美江子さんはたおやかに微笑んだ。
 うん、紗江子さんの妹さんというだけあって、そういう仕草もよく似てる。
「じゃあ、さっそく行こうか」
「うん」
 私も、もう少ししっかりしなくちゃ。今回のことは、いい教訓にして。
 
 三月の末。このあたりでも桜の花が咲き出した。
 可憐なこの花は、やっぱり日本人には一番似合う花なのだと思う。ご多分に漏れず私も桜の花が好きである。今年は、それを特に思う。だって、桜並木の下を、彼と一緒に歩けるのだから。
「はあ、なんかいいなぁ」
「ん?」
「こうやって、俊哉くんと一緒に桜を見られることが」
 私は臆面もなくそう言った。
 最近はいろいろあったせいで、私もいろいろ考えた。で、言いたいことは言うし、やりたいことはやる。そして、聞きたいことはちゃんと聞く。それを少しずつ実践している。
 それに対して彼は、特別な反応は見せていない。
「そうだね。去年の今頃は、こうして唯菜とここで歩くなんて考えもしてなかったからね」
 そう言って俊哉くんは微笑んだ。
 木の下では宴会がはじまっている。花より団子、とはよく言ったものである。
「俊哉くん」
「ん?」
「えっと……えいっ」
 私は、思い切って腕を組んでみた。
 少しだけ恥ずかしかったけど、でも、直接彼を感じられて、嬉しかった。
「今日くらい、いいよね?」
「今日だけじゃなくて、いつでもいいよ」
「えっ……?」
「そういうの、遠慮しないでいいと思うんだ。まあ、男の僕からは言えないことだから、唯菜が言ってくれないと困るけど」
「……ホントにいいの?」
「うん。そのかわり」
 彼は、私の耳元に顔を近づけた。
「唯菜は、僕だけの唯菜でいてほしい」
 そう言って、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
 言っていた意味が頭の中で理解されると、とたんに恥ずかしくなった。だって、それってそういう意味だろうし。
 うわっ、顔がほてってきた。
「ね?」
「う、うん」
 私は少しだけ組んだ腕に力をこめた。
 それからとりとめのない話をしながら桜を愛でた。
 まだ五分咲き程度だけど、とても綺麗だった。そこはちょっとアルコール臭かったけど、でも、時折桜の甘い香りが鼻孔をくすぐった。
 三月が終わり、四月が来ると私たちもいよいよ三年生。受験という大きな岐路が待っている。今はまだどうなるかわからないけど、できることをできるだけやって、来年の今頃、後悔しないようにしたい。
 そう、彼と一緒に。
 
 時間というものは、本当に恐ろしい。つい先日三年生になったと思ったら、もう卒業だもん。ホント、恐ろしい。
 はてさて、私と彼のことはどうなったかというと、それはもういろいろあった。
 まあ、そのほとんどは笑い話程度のことだから、逐一述べる必要はないと思う。ただ、いくつかのことはある程度述べようと思う。
 で、まずは学校生活のこと。受験生ということもあって私たちもそれなり、というかかなり気合いを入れた。というわけで、イチャイチャの時間も当然少なくなった。それでも私たちは、できるだけふたりの時間を持ち、お互いの気持ちを確かめ合った。まあ、そういうわけだから、学校生活はおおむね順風満帆だった。
 次に受験。これは結果から言って、大どんでん返し。なんと、私は絶対無理だと言われ続けたK大に合格してしまったのだ。直前の模試ではC判定しかでず、かなり危なかったけど、試験問題が私にあっていたおかげで合格できた。だから、大学でも彼と一緒。もちろん、その影にはお姉ちゃんたちの協力があった。月に一回、お姉ちゃんたちの実験台になり、みっちりしごかれた。それもあって、成績は思った以上にのびた。進路指導の時も、先生が驚いていたくらいだから。ま、恋の力は強いのよ。
 で、あとは彼との関係。
 私と彼、俊哉(呼び捨て)の関係はより深いものになった。
 そう、あれは夏休みのある日。たまたま誰もいない日で、彼が私の家に来て勉強をしていた時。なんとなく、そんな雰囲気になって、結局そのままいたしてしまいました。
 だって、そのままだと気になって気になってどうしようもなかったから。
 はじめてはちょっと怖くて結構痛かったけど、とにかく嬉しかった。心のつながりだけじゃなく、体もつながりあえた。それが本当に嬉しかった。
 その直後くらいから、私が彼を呼び捨てにするようになったのは。特になにかあったわけじゃない。ただ、なんとなくそうした方がいいと思って。
 はじめて呼んだ時も、彼はいつもと同じように応えてくれた。これはあくまでも私の憶測だけど、きっと、そう呼ばれたかったんだと思う。だって、私のことは結構前に呼び捨てにしてたから。名前だけでその関係が変わるとは思ってないけど、でも、そういう部分は多少はあるのかもしれない。
 とまあ、そういうわけで私は公私ともに充実した一年を送った。
 そして、今日。私たちは高校を卒業した。
 卒業式は厳かに行われ、三年間学んだ学舎に別れを告げた。でも、それは終わりじゃなくて、新たなはじまりでしかない。それがわかっているから、感極まって泣いていた子も、最後には笑顔になる。そんな笑顔があちこちに咲いていた。
 私は、卒業証書を入れた筒を持ち、そんな光景を見ていた。
 なんとなく、輪に入りそびれただけなんだけど。でも、不思議とイヤな気分じゃなかった。外から見ていても、それはそれでなかなかよかった。
「唯菜」
 と、そこへ彼が来た。
「もういいの?」
 私は、少しだけ意地悪く言ってみた。
「あ、うん、もういいよ」
 ついさっきまで彼は後輩の女の子たちに囲まれていた。私とつきあっていても、やっぱり彼は人気者だった。自分の彼氏がもてるのは、複雑な気分だけど、嬉しいことに変わりなかった。やっぱり、もてないよりもてた方がいいから。
「ねえ、唯菜」
「うん?」
「卒業おめでとう」
「俊哉も、卒業おめでとう」
 卒業生同士がそんなこと言ってもしょうがない。でも、なんとなく言いたかった。
「そういえば、今日はどうするんだっけ?」
「もう、忘れちゃったの? みんなと卒業パーティーやって、それからふたりだけでパーティー」
「ああ、そういえばそうだった」
「もう、俊哉ったら」
「ごめんごめん。ほら、いろいろあったからつい」
 いろいろ。
 そのいろいろのひとつには、春からのこともあった。K大はここから少し離れているために、通学するには少し時間もお金もかかる。そこで提案されたのが、ふたり暮らし。大学の近くにマンションなりアパートなりを借りて、そこから通学。ふたりだから家賃とか光熱費とか折半できるし。
 で、それを両家に相談したら、なんと簡単にオーケーが出た。まあ、涌井家で反対が出ることはあまり予想できなかったけど、うちで出たのは意外だった。
 だって、私はこれでも女の子なんだよ?
 ま、でも、それはとりもなおさず私たちのことを信用しているからなんだろうけど。お父さんとお母さんは、私が彼とつきあってると言って、彼がどんな人でどんな家の子か話したら、とたんにこう言った。
「玉の輿」
 いや、確かに可能性はあるけど、ちょっと話が飛躍しすぎ。
 そんなこともあり、うちの方はすっかりその気で、今回もそれの流れを組んでいる。
 まあ、そんなことで部屋探しとかいろいろあって、大変だった。それを彼は言っているのだ。
「だけど、卒業だね」
「淋しい?」
「ちょっとだけ。でも、俊哉がいてくれるから、大丈夫」
「そっか、僕でも役に立つか」
「当たり前だよ。少なくとも今、私にとって一番大切な人は、俊哉なんだから」
「少なくとも今、っていうのが少し気になるけど」
「だって、これから先のことはわからないでしょ?」
 そう言って私は笑った。
「なるほど」
「だから、私の気が変わらないように、いつまでも私だけの俊哉でいてね」
「それは、僕も同じだよ」
「もちろん」
 そして、私たちは唇をあわせた。
 まわりが冷やかすのなんて関係ない。
 だって、そうしたかったんだから。
 
 あの日、私たちは偶然の出会いをした。
 そして、偶然の出会いから恋に発展し、愛に発展した。
 この先いつまでそれが続くかわからないけど。
 でも、わからないことを考えてもしょうがない。
 だから、新しい一歩とともに、それをいつも隣に置いておけるように、少しだけがんばってみようと思う。
 ね、私の一番大切な人……
 
                                    FIN
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