僕がいて、君がいて
 
第五章「夏の終わりに」
 
 一
 八月二十日。
 お盆も明けたこの日から、一高吹奏楽部は四日間の合宿となる。合宿場所は、市が提携している避暑地。数カ所あるその中から、今回は那須が選ばれていた。
 朝七時に学校に集合し、そこから大型バス二台で那須へ向かう。本来なら大型バスである必要はないのだが、楽器を運ぶことを考え、毎年これが使われている。
 朝早くから集まったために、バスの中では寝ている部員が多い。
 そんな中、圭太は車窓を眺めていた。座席はパートごとなため、柚紀と一緒ではない。隣は、幸江だった。
「どうしたの?」
 ボーッと車窓を眺めていると、幸江が声をかけてきた。
「いえ、どうもしてませんけど」
「なんか、妙に黄昏れてるから」
「そうですか?」
 そう言って圭太は苦笑した。
 その理由がなんとなくわかるだけに、やはり苦笑するしかなかった。
「……そういえば、ちょっと小耳に挟んだんだけど」
「なんですか?」
「柚紀とふたりだけで、旅行行ったんだってね」
「あ〜、はい」
「……なるほどね。だから柚紀はあれだけ機嫌がよかったんだ」
 幸江は、うんうんと頷いている。
「楽しかった?」
「ええ、まあ」
「ん、なんか曖昧な返事ね。なにかあったの?」
「いえ、特には」
 さすがにずっとイチャイチャしてましたとは言えない圭太。
「でも、先輩。誰から聞いたんですか、旅行のこと。確か、旅行のことは誰にも言ってなかったと思うんですけど」
「ああ、そのことね。私はともみに聞いたのよ」
「……ともみ先輩ですか?」
「ともみが誰から聞いたのかは、わからないけどね」
「……なんとなくわかりました」
 そう言って圭太はため息をついた。
「そんなに好きなの、柚紀のこと?」
「ええ」
 臆面もなくそう言う。それにはさすがの幸江も、あっけにとられている。
「圭太にそこまで想われて、柚紀も幸せね」
「だといいんですけどね」
 
 合宿所はそれほど大きいわけではないが、そういうのが目的で建てられているために、設備が比較的充実していた。練習のための大きなスペースもある。
 六十人と大所帯なために、部屋割りもなかなか面倒だった。基本的にはパートごとだが、さすがに男子と女子を一緒にすることはできない。そのため、十六人いる男子は四人ずつひと部屋が与えられた。女子も四人ひと部屋で、菜穂子はひとりでひと部屋だった。
 圭太はトランペットの先輩三人と同じ部屋だった。
「ん〜、やっと着いたな」
 大介は荷物を置くなり、そう言って横になった。
 部屋はすべて和室で、ベッドなどはない。もちろん備え付けの風呂もトイレもない。すべて共同である。
「しかし、今年もまた、野郎ばかりの部屋か」
「今年もって、男女相部屋なんてあったんですか?」
「いや、俺が聞いた限りではないな。だからこそ、そうなるといいと思ったんだが」
 大介はため息をついた。
「圭太は淋しいだろ。彼女と一緒じゃないから」
「そんなことはないですよ」
「淋しくないって、夜ばいでもするのか?」
「しませんよ」
「確か、彼女の部屋は、純子と葵がいたな」
「うげっ、葵がいるのか。じゃあ、夜ばいは無理だな」
「なんだ、徹は葵が苦手なのか?」
「俺だけじゃないですよ、あいつが苦手なのは。なあ、広志?」
「まあ、どちらかといえば苦手な部類に入るとは思いますけど。徹ほどじゃないですよ」
「ふ〜ん、なんかいろいろありそうだな、おまえたちの間には」
 大介は、ニヤッと笑った。
「べ、別になにもないですよ」
「広志。徹と葵は同じ中学だったか?」
「はい」
「なるほどな、そこら辺に今回の謎を解く鍵がありそうだな」
「だ、だから、なんでもありませんよ」
「なんでそんなに焦ってるんだ? 知られちゃ困ることでもあるのか?」
「……そ、そんなことはないですけど」
「よし、この合宿中に徹と葵の過去を暴こう。そうと決まれば、早速人員を確保しないとな。ちょっくら隣へ行ってくるから」
 そう言って大介は部屋を出て行った。
「……終わりだ。なにもかも終わりだ……」
「大げさな奴だな。別にいいじゃないか、つきあってることが知られたって」
「えっ、先輩たちつきあってたんですか?」
「まあな。ただ、葵が部の中で公にするのはイヤだって言うから、今まで黙ってたけど」
「だけど、二年の間じゃ案外知られてるんだけどな」
「あまり知られると、俺があいつにいろいろ言われるからなぁ」
「確かに、葵は男勝りなところがあって、暴れると手の施しようがないって話だしな」
「……それ、冗談じゃないからな。暴れたあいつを止められるのは、グーで殴られるのを覚悟した奴だけだ」
「……それは、俺は遠慮したいな」
 ため息をつく先輩ふたり。圭太は、ただただ苦笑するしかなかった。
 
 練習は午後からはじまった。この合宿でのポイントは、一ヶ月を切った関東大会で最高の演奏をすることにある。そのためにあらゆる面で県大会より優れていなければならず、特に細かな部分に焦点が当てられる。
 この合宿中、合奏は最終日の午前中だけとされ、ほかは個人練習、パート練習、セクション練習が行われることになっていた。その練習は顧問の菜穂子が直々に問題点を指摘し、そこを重点的に行われる。ある意味では合奏よりもつらい練習である。
 トランペットは最初、パート練習が行われた。そこでコンクールの反省を行い、個々人に課題が与えられた。
 個人練習は、合宿所とそのまわりのどこを使ってもいいことになっていた。圭太は合宿所の外に出て、音の通る場所を選んだ。
 コンクールが終わってからまともな練習はしていないため、とにかく初日は基礎練習に当てるつもりだった。
 いつも通りの練習をしていると、菜穂子がやって来た。
「どう、調子は?」
「練習さぼってましたから、いまいちですね」
「そうなの? 私はてっきり、休みの間もみっちり練習していたのかと思ったわ」
 本気なのか冗談なのかわからないが、菜穂子はそう言って微笑んだ。
「あの、先生に訊きたいことがあるんですけど」
「ん、なにかしら?」
「現在のレベルで全国に出られると思いますか?」
「無理ね」
 即答だった。
「とはいえ、その差はそんなにないとは思うわよ。ただ、去年を見る限り、今のレベルでは無理。去年の全国組も確実にレベルアップしてるでしょうからね」
「確かにそうですね」
「でも、そういうのはあなたの方が実際わかるんじゃないの? 確か、中一と中三の時に全国へ出ているのよね?」
「はい」
「それだけ出ていれば十分わかってるでしょ、全国のこと」
「どうでしょうか。二回出ていても中一の時は観客席から見ていただけですから。実質、去年だけです。ですから、次の年の本当の厳しさはわからないです」
 そう言って圭太はトランペットを置いた。
「まあ、私に言わせればそれだけわかっていれば、あなたは大丈夫よ。なるほど、確かにともみや祥子が推すだけの逸材だわ」
 菜穂子は楽しそうに笑った。
「それで、課題はクリアできそう?」
「なんとかなると思います。思いの外厳しい課題は出ませんでしたから」
「ふふっ、それはあなたのレベルがもともと高いからよ。ただ、驕れる者久しからずなんて言葉もあるし、ちゃんとやっておかないとピンポイントで指導するわよ」
「肝に銘じておきます」
 それから個人的に数点課題を与え、菜穂子はほかの部員のところへ行った。
「……全国か」
 圭太はもう一度気合いを入れ直し、練習を再開した。
 
 夜も練習は行われる。ただ、夜は楽器は使わない。楽器を吹くのに必要な腹筋や背筋を鍛えたり、音感やリズム感を養ったり。そんなことが行われる。
 ここは音楽教師でもある菜穂子の独壇場である。次から次へと指示を出し、練習が終わる頃には皆ヘトヘトになっていた。
 練習は夜九時まで行われた。あとは風呂に入って寝るだけである。
 合宿所の風呂場は、それほど大きいわけではない。湯船には二十人も入れないだろう。
 ただ、男子部員は十六人しかいないため、示し合わせて全員一緒に入った。
 途中、大介と寛が女湯を覗こうとしたが、未遂に終わった。
 自由時間は、入浴後、就寝までの間である。
 圭太は涼もうと部屋を出ていた。ちょうどラウンジのところまで来ると、反対側から見知った顔が近づいてきた。
「あっ、こんなところにいたんだ」
 柚紀である。ティシャツにスパッツという非常にラフな格好をしている。とはいえ、これはほとんどの部員が同じである。
「どうしたの?」
「うん、せっかくの自由時間だから一緒にいたいなって思って。今部屋の方に行こうと思ってたの」
「そっか。じゃあ、手間が省けたね」
「うん」
 柚紀は嬉しそうに頷いた。
「でも、今日の練習は結構厳しかったなぁ」
「さすがに合宿まで来て手を抜くわけにはいかないからね」
「こんな練習があと三日もあると思うと、ちょっとだけイヤかも」
 短期集中でやるのはいいことなのだが、そこには多少のしわ寄せが来るのは当然のことである。それに慣れている者はいいが、はじめての者などは少々きついかもしれない。
「……ねえ、圭太」
「ん?」
「ここでキスしたら、ダメかな?」
「それは……」
 この時間帯にこのラウンジにいる者などそうそういない。だが、まったくいないということはない。現に、圭太も柚紀もここにいるのだから。
 そして、『ネズミ』もいる。
 圭太はあたりを見回し、小さく息を吐いた。
「一回だけなら」
「うん、それで十分だよ」
 柚紀は少し背伸びをする。圭太はその柚紀の肩をつかみ、キスを──
『ダメーっ!』
 複数の声が重なった。
「えっ……?」
 圭太と柚紀は、何事かとあたりを見回す。
 見ると、ともみと祥子を筆頭として、何人もの女子部員が物陰からふたりのことを伺っていた。
「先輩?」
「い、いや、別に覗いてたわけじゃないのよ、うん」
 一番手前にいて、そういうことを言ってもあまり説得力がない。
「……ううぅ〜」
 柚紀は、圭太を盾になぜか威嚇している。
「あ〜、ほら、ほかの部員のいるところでそ〜ゆ〜のはあまりよろしくないかな〜。なんて思ったりなんかして」
「……ともみ先輩。それ、無理がありすぎですよ」
 祥子はあきらめたように冷静にツッコミを入れる。
「まったく、もう少しで生チューが見られたのに」
 そう言うのはさとみである。
「ともみと祥子が大声出すから、バレちゃったじゃないの」
 これは美保。
「ホント、あんたらもあきらめ悪いわね」
「……うぐっ、悪かったわね」
「ま、冗談はそのくらいにして、圭太に柚紀」
 と、さとみがふたりの側まで寄ってくる。
「この合宿中はもう少しまわりに気を遣うべきね。じゃなかったら、我慢するとか。じゃないと、あのふたりが壊れちゃうから」
 そう言って笑う。
 そして、件の『あのふたり』はただただ俯くしかなかった。
 こうして合宿一日目は過ぎていった。
 
 合宿中の起床時間は、午前七時となっていた。朝食は八時からで、その間に軽いランニングが義務づけられていた。
 圭太は、起床時間より早く起き、ランニングに出ていた。
 那須あたりになると、この時期だと多少は朝晩涼しくなる。熱帯夜などそうそうない。
 朝の清々しい空気の中、圭太は軽快に走っていた。
 ランニングは別にこれというコースが決められているわけではない。菜穂子にしてみれば三十分くらい流して走ってくれればいいと思っていた。
 そろそろ七時になろうかという頃、圭太は一度合宿所の方へ戻ってきた。
 この頃にはだいぶ朝靄も晴れてきて、太陽が顔を出していた。
 合宿所から、何人もの部員が出てきた。その中に柚紀を見つけ、圭太は声をかけた。
「おはよう、柚紀」
「あっ、おはよ、圭太」
 それまで眠そうにしていた柚紀だが、圭太の顔を見るなりパッと笑顔になった。
「ひょっとして、もう走ってきたの?」
「うん。ちょっと早めに起きたからね」
「そっかぁ、私も早めに出ればよかったなぁ。そうすればふたりきりになれたのに」
 あれ以来、柚紀の行動原理はますますわかりやすくなっていた。そのすべてを圭太とのことに結びつけ、そこに自分のやる気を見出していた。
「一緒に走ろうか?」
「えっ、いいの?」
「うん。どうせまだ時間はあるし」
「あはっ、じゃあじゃあ、一緒に走ろ」
 それからふたりはなるべくほかの部員がいない方へ走り出した。
 林の中を走ると、さわやかな木の香りが鼻孔をくすぐる。
 少し走ったところで柚紀が足を止めた。
「ん、どうしたの?」
「……ねえ、圭太」
 そう言って圭太に近づき、抱きつく。
「柚紀?」
「ううぅ〜、淋しかったんだからぁ」
 うるうると目を潤ませ、柚紀はしきりに体を寄せてくる。
「昨日の夜だってキスできなかったしぃ」
「あれは先輩たちが──」
「だから……ん……」
 柚紀は、圭太の首に腕を回し、キスをした。
「……圭太は、淋しくなかったの?」
「……少しだけ」
「少しだけ? 私なんて、淋しくて淋しくて死んじゃうかと思ったのにぃ」
「……ウサギじゃないんだから」
「いいの、私はウサギで。圭太が構ってくれないと、私は死んじゃうの」
 そう言ってもう一度キスした。
「柚紀がこんなに甘えたがりだとは思わなかったよ」
「だって、私は妹なんだよ? 普通、末っ子は甘えん坊でしょ?」
「……なるほど」
 圭太は苦笑した。
「……ホントはね、ここで今すぐにでも抱いてほしいんだけど」
「さ、さすがにそれは……」
「うん、それはね。だから、今はキスだけで我慢するから。その代わり、自由時間になったら絶対に私と一緒にいてね。なにがあってもだからね」
「……努力はしてみるよ」
 再び走りはじめる。
 先ほど圭太が走った距離より短い距離を走り、合宿所へ戻ってきた。
 合宿所の前には、何人もの部員が集まっていた。別に集まるようには言われていないのだが、やはり人がいるとそこに集まってしまうのは、群集心理というやつだろうか。
「あっ、いたいた。柚紀、探してたのよ」
 その集団の中から、さとみが柚紀を見つけ、近づいてきた。
「どうかしたんですか?」
「今日はパーカスだけ別メニューだから、それを伝えにね」
「えっ……? 別メニューってどういうことですか?」
「どういうもこういうもないわよ。実はね、ここから少し離れたところに有名なマリンバ奏者がいるの。で、先生が指導をお願いしてたんだけど、今日ならそれが可能になったって。だから、今日はパーカスだけ別メニューなの」
「……あう〜」
 朝の夏空に、柚紀の情けない声が響いた。
 
 パーカッションの面々は、朝食後、指導を受けに出かけた。菜穂子も同道することになり、その日の練習は完全に部員に任されてしまった。
 トランペットは、午前中は個人練習、午後はパート練習ということになった。
 圭太は、たっての願いで夏子と一緒に練習をしていた。
「やっぱり、腹筋を鍛えなくちゃダメかな?」
「う〜ん、確かに真っ直ぐな音を出すためには、ある程度腹筋を鍛えなくちゃいけないと思うけど」
「ねえ、ちょっとだけ触ってみてもいいかな?」
「別にいいけど」
 夏子は、おそるおそる圭太の腹を触る。
「わ、すごい。こんなに硬いんだ」
「そんなことないと思うけど」
「毎日やってるの?」
「一応ね」
「そうなると、私もやらないとダメか」
 そう言って夏子はため息をついた。
 夏子の課題は、ロングトーンの時の揺れをなくすことだった。これはトランペットのような目立つ楽器ではかなり重要で、これができるかできないかで演奏の質も変わってくる。
「圭太は、課題の方はどうなの?」
「昨日、最初に言われた部分は大丈夫だと思うけど」
「最初?」
「ああ、うん。昨日、個人練習してる時に先生にいくつか課題を出されたんだ」
「うわ、先生直々か。そりゃすごい」
「そうでもないよ。先生の指摘は、実は僕もわかってたことなんだ」
「そうなの?」
「うん。それは別にコンクールのためとかいうのじゃなくて、僕個人の技量の問題かな。それができれば、もちろんレベルアップに繋がるとは思うけどね」
 圭太はこともなげにそう言うが、それはかなりのことである。実際、高校生レベルでそこまで個人に期待をかけることはそうそうない。
「たとえば、なにを言われたの?」
「ハイFまで出せるように、だって」
「ハイF、って、それってただ単に音が出せるようにってことじゃないよね?」
「うん。曲の中でも使えるくらいってこと」
 ハイFとは、いわゆる二オクターブ上の『ソ』の音である。厳密に言うと違うのだが、トランペットで言うドレミは、少し違うのである。それを詳しく述べる必要はないのでここでは割愛する。
 とにかく、普通はハイFなど使わない。使ってもハイB、もしくはハイCである。
「一応ね、ダブルハイBまでは出せるんだけど」
「ウソっ」
「もちろん、曲では使えないよ。それだけを出そうと思って、いっせいのせ、でようやく出せるんだから」
 そう言って圭太は笑った。
「もしそうだとしても、それってかなりすごいよ。私なんてハイCも危ないのに」
「普通はそれくらいで十分なんだけどね」
「そっか、圭太はよっぽど期待されてるんだね」
「ちょっと重いけどね」
 それからおのおの課題をクリアすべく練習を再開した。
 たまに夏子が圭太にアドバイスを求め、端から見るととても仲の良いふたりに見える。ここに柚紀がいたら、卒倒するかもしれない。
 練習は適当に休憩を挟みながら、お昼まで続けられた。
「ふう、そろそろ終わりにしようか」
「うん、そうだね」
 ふたりは楽器や譜面、メトロノームなどを片づける。
「あっ、そうだ」
「どうしたの?」
「私たち一年の女子で、ちょっと噂になってるの」
「噂? なにが?」
「あのね、柚紀のこと」
「柚紀のこと?」
 圭太は首を傾げた。
 吹奏楽部では、部員同士の軋轢はほとんどない。どの学年も横の繋がりは強いし、学年ごとの縦の繋がりも強い。
 だからこそ、その噂が悪いものだとは思っていないのだが、それでもなにも思い当たらない圭太としては、首を傾げるしかなかった。
「圭太と柚紀って、つきあってるでしょ?」
「うん」
「でさ、県大会のあと、なにかあった?」
「えっ……?」
「ん〜、なんて言ったらいいのかな。柚紀の仕草とかが、微妙に違うのよ。具体的になにが違うとは言えないんだけどね。で、それを知ってるとしたら、やっぱり圭太しかいないと思って」
 夏子は、興味津々に訊いてくる。
「ズバリ、エッチしたでしょ?」
「…………」
 我知らず、圭太は視線を逸らしていた。
「あ、やっぱりね。圭太ってウソつけないからね。顔に出てるよ」
 そう言ってクスクス笑う。
「なるほどね、だからか。あっ、別にそれがダメとかそういうことじゃないよ。ただ、事実が知りたかっただけ」
 夏子はそうフォローするが、あまりフォローになっていない。
「そっかそっか、うんうん、なるほどねぇ……」
 結局、夏子は昼食までずっとそんな感じだった。
 
 パーカッションの面々は、午後の練習が終わる直前に戻ってきた。
 全員が一様に疲れた表情を見せていた。それは練習がきつかったことの表れだろう。
「おつかれさま」
 夕食の席。たまたま席が近くなったトランペットとパーカッション。幸江は、そうさとみに声をかけた。
「どうだった?」
 さとみは、答える前に同じパートの三年である仁科香織と上田響子を見た。
「死ぬほどきつかった」
「そんなに大変だったの?」
「大変なんてもんじゃないわよ。指導できる時間が今日しかないからって言って、もうほとんどぶっ通しで練習よ。おかげでこっちはヘトヘト」
「それは、さすがにきついわね」
「まあでも、それなりに得るものはあったのも事実だけどね」
 うんうんと頷く香織と響子。
「ただ、あたしたちはそれでよかったんだけど」
「なにかあったの?」
「ま、一年の三人が、かなりしごかれてね」
 そう言ってその三人──柚紀、森川武、田中舞を見る。確かにさとみたちよりも疲労の色が濃い。
「確かに、きつそう」
「あれは一種の拷問ね。新手の嫌がらせかも」
「そんなに大変だったわけか」
「まあ、それもこれから先を乗り切るための試験だと思えば、いいんじゃないの」
 さとみは、無責任にそう言い放つ。
「そんなわけで、あたしたちは夜の練習免除なのよ」
「そうなの?」
「だから、今日はさっさと休むわ。さすがにこのままだと明日からやばそうだし」
「確かに、そうした方がいいかも」
 苦笑する幸江に、さとみも苦笑した。
 
 夜の練習後。
 前日と同じように男子は全員一緒に風呂に入った。大介と寛は、その日も覗きをしようとしたが、またも未遂に終わった。
 圭太は一度部屋に戻り、やはり涼みに出た。
 ラウンジまで来るが、さすがに柚紀はいなかった。圭太も『あの』様子を見ている。
 ラウンジにある椅子に座り、何気なく窓の外を見る。
 夜になっても空は晴れていた。見上げれば星も見られる。
「ふう……」
 圭太は目を閉じ、息を吐いた。
 そのまま目を閉じていると、眠ってしまいそうになる。それでも目は開けない。
 そんな圭太に、声がかかった。
「圭太」
「圭くん」
 目を開け、振り返るとともみと祥子だった。
「どうしたの、こんなところで?」
「涼んでいたんですよ。部屋よりここの方が涼しいので」
「なるほどね」
 ふたりは一応まわりを確認し、同じように椅子に座った。
「柚紀は、いないんだ?」
「まあ、今日はかなりきつかったみたいですから、もう寝てるんじゃないですか」
「確かに、そんなこと言ってたわね」
「淋しい?」
 祥子は、そう問う。
「少し、だけですけどね」
「正直ね。目の前に私たちがいるのに」
「僕は昔から正直ですよ」
「あら、ずいぶん言うようになったじゃない。それも、柚紀の影響?」
「かもしれません」
 そう言って笑う。
「そういえば、圭太」
「なんですか?」
「柚紀と、寝た?」
「へ……?」
「だから、柚紀と寝たのかって訊いてるの。わかる? それとももっと直接的な言い方の方がいい?」
「い、意味はわかりますけど……」
「で、どうなの?」
 ともみは、少し声音を落とし、そう訊ねた。
「……えっと……あの……はい」
 その迫力に圧され、圭太はそう答えていた。
「はあ、やっぱりそうなのか。あの噂、ウソじゃなかったわけね」
 がっくり肩を落とすともみ。
「これでふたりの間に割り込むことはできなくなっちゃったわね」
「しょうがないですよ、先輩」
「しょうがない、か。ま、それはそうなのかもしれないけど。なんか釈然としないのよね。どうしてかしら?」
「それはやっぱり、先輩がまだ圭くんのことが好きだからですよ。あと、あきらめきれてないからですね」
「……なんか、祥子にそう言われると、余計に釈然としないわ」
「そんなこと言われても、困るんですけど」
「まあ、いいわ」
 そう言ってともみはため息をついた。
「さてと、そろそろ部屋に戻ろうかしら。祥子、どうする?」
「そうですね、本当はもう少し圭くんと一緒にいたいんですけど、戻ります」
 そう言ってふたりは立ち上がった。
「ほら、祥子、行くわよ」
「あっ、はい。じゃあね、圭くん、おやすみ」
「おやすみなさい」
 ふたりを見送り、圭太はため息をついた。
 そのため息が、なにを表しているのかは、わからないが。
 
 合宿三日目の朝。圭太は前日と同じように早くに起き出し、ランニングに出かけた。
 しかし、その日はあえて早く出ていた。それは、やはり柚紀のことである。
 前日は結局夜には会えなかった。その埋め合わせというわけではないが、こうして早めに出てきていた。
 ゆっくりとあたりを走り、一度合宿所の方に戻ってくる。
 すると、何人かの部員の中に、柚紀の姿があった。きょろきょろとあたりを見回し、明らかに圭太を探していた。
「柚紀」
「あっ、圭太」
 圭太が声をかけると、柚紀はパッと顔を輝かせ、こちらへやって来た。
「おはよう、柚紀」
「うん、おはよ、圭太」
 それから示し合わせて、前日と同じようになるべく部員がいない方へ走り出す。
 前日より少し奥まったところで柚紀は立ち止まった。
「ああ〜ん、すっごく淋しかったよ〜」
 そう言って圭太に抱きつく。
「昨日は夜にも会えなかったし。もう、淋しくて淋しくて泣きそうだったよぉ」
「……昨日は、疲れて早く寝たんじゃないの?」
「うぐっ、そ、それはそうなんだけど……」
 図星をつかれ、窮する柚紀。
「と、とにかく、昨日も言ったけど、私はウサギなんだから、淋しくなると死んじゃうの。だから、私をひとりぼっちにしないで」
 多少無理気味だが、それでも柚紀の想いだけはわかる。
「いい?」
「努力はするよ」
「うん」
 頷き、キスをする。
「……ねえ、圭太」
「うん?」
「やっぱり、ここで抱いてくれないかな……?」
「えっ……?」
 柚紀は、潤んだ瞳で上目遣いに圭太を見つめる。
「……お願い、圭太」
 柚紀は、圭太の手を取り、自分の胸に当てる。
 圭太は、しばし考える。
 確かにこの時間帯にこのような場所に人が来ることはほとんどない。さらに言うなら、柚紀はそういうことも見越して前日よりもさらに奥まったところへ来たのだ。
 しかし、このようなところで情事にふけるのはどうかという常識的な部分との折り合いが、圭太にはつかない。
「……やっぱり、ダメかな?」
「できれば応えてあげたいんだけど、僕にはまだこういうところでするだけの勇気っていうか、心構えができていないから」
 そう言って圭太は少し項垂れた。
「あ、うん、圭太がそこまで気にしなくていいよ。私も無理を言ったわけだし」
「ごめん……」
「ううん……」
 柚紀は小さく頭を振り、圭太に抱きついた。
「……今、ここではダメだけど、ここじゃない場所なら、いいよ」
「えっ、ホント?」
「うん」
 圭太の意外な言葉に、柚紀はやはり意外な顔を見せた。
「僕だって、その、柚紀と同じだよ」
「圭太……」
 今度は圭太からキスをする。
「今夜、時間を作ろう。それまでに場所を探して」
「うん、探すよ」
 そして、ふたりはもう一度キスをした。
 
 その日の練習は、ふたりにとっては微妙なものとなった。特に柚紀は、夜のことを考えて練習中にもいろいろと場所を探していた。
 上の空、とまでは言わないが、どこか浮ついた感じがあった。
 午前中の練習が終わり、揃って昼食の時間。
「みんな、ちょっと聞いて」
 だいたい食事が終わった頃を見計らい、ともみがみんなの前に立った。
「二、三年は知ってると思うけど、今年も今日の夜にちょっとしたパーティーをやるから」
「パーティー?」
「まあ、言ってみれば『ごくろうさま会』みたいなものよ。この一ヶ月くらいの間に、コンサート、地区大会に県大会、そしてこの合宿と休む間もなかったからね。で、その労を労おうっていうのがパーティーの趣旨。で、ここからが重要よ。これも毎年のことなんだけど、そのパーティーではパートごとになにかやってもらうから。ちなみに、二、三年も強制参加だからね。逃げたりしたら、嬉しいおみやげをあげるから」
 にこやかにそう言うともみ。
「考えるタイムリミットは、夕食後まで。ただし、練習中に必要以上に時間をかけて話し合ったりしないように。ちゃんと先生も見回りしているからね」
 そして、その場は解散となった。
 午後の練習はどのパートもパート練習を選んでいた。
 トランペットは合宿所の裏手、日陰で涼しいところに陣取っていた。
「で、幸江はなにか考えてるのか?」
 そう言ったのは、大介である。
「あまり。大介は?」
「そうだな、全員でってのがネックなんだよな」
 過去二年間それをやってきている幸江と大介は、そう言ってため息をついた。
「あの、去年はなにをやったんですか?」
 夏子が当然の疑問をぶつけた。
「去年? 去年は、大道芸よ。卒業した先輩がそういう道具を持ってきててね、それを使ったの」
「ま、でも、一番受けたのは、徹と広志の腹話術だったけどな」
「うぐっ、その話はやめましょうよ、先輩」
「……あれは、今でも夢に見ますよ。悪夢です」
「確かに、あれは恥も外聞もない奴じゃないとできないからな。よくやったよ、おまえら」
 大介は人ごとのようにそう言う。
「去年はそんな感じだったんだけど、今年はどうしたらいいと思う?」
 幸江は一年のふたりに訊ねる。
「ああ、ちなみに楽器の使用は禁止な。どこのパートもすぐに楽器に頼ろうとするから」
「難しいですね」
「まあね。とにかく、ちょっと考えてみて。これを切り抜けないともっと大変なことがあるから」
「もっと大変なこと?」
「一高祭でね、いろいろやらされるのよ」
「ひどいぞ、あれは。少なくとも常人のやることじゃない」
「大介、そんなに煽らないの」
「だけどよ、俺はあんなの絶対にやらんぞ。あんな大勢の前で恥をかくくらいなら、部員だけの前で恥をかく方がましだ」
 大介のその言葉に、徹も広志も頷く。
「まあ、その気持ちはわかるけどね。とにかく、ちょっと考えてみて。休憩時間にもう一度聞くから」
 
 それからあっという間に時間は過ぎ、問題のパーティーの時間が来た。
 会場は食堂。椅子やテーブルを動かし、簡易ステージが作られた。
 それぞれのパートは、直前まで打ち合わせに余念がない。
「はいはいはい、そろそろはじめるわよ」
 七時過ぎ、ともみがみんなの前に立った。
「昼に言い忘れてたんだけど、今年は厳密に順位をつけることになったから」
「げっ!」
「マジかよ?」
「審査員は菜穂子先生だから。かといって、内輪ネタばかりやらないように。で、順位をつけるからにはそれなりのことを用意してあるわ。パートは、チューバとコンバスがひとつとして数えるから、十一。で、上位三パートには賞品、というか特権を。下位三パートには罰ゲームを。残り五パートについてもいろいろあるから」
 部員の間からブーイングが起こる。しかし、ともみはまったく取り合わない。
「じゃあ、各パートのリーダー、前に来て。今から順番を決めるから」
 順番決めは、あみだくじが採用されていた。それぞれのリーダーが場所を決め、さらに一本ずつ線を増やしていく。これでこのくじを作ったともみですらどこが何番目かわからない。
 そして、順番が決まった。
「トップバッターは、サックス」
 簡易ステージにサックスの五人が出てくる。
「じゃあ、パートと名前、意気込みを」
「サックスリーダー、五十嵐祐一。目指すは二位」
「同じくサックス、中村ひろ子。目標は、八位以上」
「同じくサックス、三浦功二。打倒トロンボーンっ!」
「同じくサックス、市原美由紀。罰ゲームだけはしたくないです」
「同じくサックス、榎本友美。がんばります」
「で、祐一。サックスはなにをするの?」
 ともみがそう訊ねる。
「まあ、説明するより見た方が早いって」
「そうね。じゃあ、早速」
 ともみがステージから下がると、早速はじまった。
「一高吹奏楽部サックスパートプレゼンツ、ときめき純情刑事6」
 それは、劇だった。語る必要もないほどの劇だった。
 すべてが終わると一瞬静寂が訪れ、次の瞬間に拍手が沸き起こった。
「では、簡単に講評を先生に訊いてみるわね。先生」
「話はとてもよかったんだけど。この話、誰が考えたの?」
「あっ、俺です」
 そう言って手を挙げたのは、二年の三浦功二。
「いつ考えたの?」
「いつって、それはお昼からの間ですよ」
「……祐一、ひろ子。パート練習に費やした時間を言ってみて」
「えっと……」
「その……」
「はあ、そうよね。美由紀は別にしてこれだけのことを覚えたんだから、それなりの時間を使ってるわよね。もちろん、練習時間を削って。当然、減点対象だから」
 ガックリと項垂れるサックスの面々。
「じゃあ、次。クラリネット」
 サックスに代わって、クラリネットの面々がステージに上がる。数が多いので、ステージが狭く感じられる。
「さっきと同じように」
「えっと、クラリネットのリーダー、村田優子。目標は、優勝」
「同じくクラリネット、木村尚子。目標は、四位ということで」
「同じくクラリネット、結城智佳。目標は、サックスより上」
「同じくクラリネット、三ツ谷祥子。目標は、優勝です」
「同じくクラリネット、手塚晴美。目標は、上位」
「同じくクラリネット、小野美代。目標は、五位くらい」
「同じくクラリネット、藤木陽子。とにかくがんばります」
「同じくクラリネット、佐藤ひかる。負けないようにがんばります」
「同じくクラリネット、北条綾。罰ゲームはイヤです」
「で、なにをするの?」
「ものまねよ」
「ほほぉ、ものまね。じゃあ、がんばって」
 ともみが下がると、早速はじまった。
 九人それぞれに位置があるらしく、確認しながら定位置につく。そして──
「……モーニ○グ娘。ってこと?」
 全員で歌い、踊り。
 これも人数の多いクラリネットだからできた、荒技とも言える。
「では、講評を」
「踊りはいまいちだけど、歌はまあまあだったわ。結構上位に食い込めるんじゃないかしら」
「じゃあ、さくさくいくわよ。次、チューバ&コントラバス」
 笑顔のクラリネットに代わって、チューバの三人とコントラバスのふたりが上がる。
「ほい、早速」
「チューバリーダー、国府田康之。目標は、偽モー娘。」
「同じくチューバ、清水仁。目標は、完全優勝」
「同じくチューバ、津田健太郎。足を引っ張らないようにがんばります」
「コントラバスのリーダー、P野尾美沙。打倒、優子」
「同じくコントラバス、戸川冴子。がんばります」
「で、康之、美沙。なにするの?」
「アカペラだ」
「アカペラ? あの伴奏なしで歌う、あれ?」
「おうよ」
 その五人のアカペラは、なかなか郷に入っていた。思わず全員が聞き入ってしまうほどである。
「では、講評を」
「さすがは吹奏楽部員というところかしら。これだけのアカペラができれば文句のつけようがないわ」
「うっしっ」
「だけど、康之」
「なんですか?」
「それが合奏の時にも活かされると、もっといいんだけどね」
「は、はあ、善処します」
「はいはい、次。フルート」
 少し緊張気味の五人が上がる。
「フルートリーダー、高橋のぞみ。目標は、五位かそこらで」
「同じくフルート、倉本恵子。目標は、どどんと優勝」
「同じくフルート、井上裕実。目標は、クラより上ということで」
「同じくフルート、相川めぐみ。とにかく全力で」
「同じくフルート、吉田智子。目標は、三位くらいで」
「なにするの?」
「一発芸よ」
「……マジ?」
「マジ」
 しかして、その一発芸とは──
「では、講評を」
「講評って言われてもねぇ、さすがにいきなり扇をやられても。最後に前に倒れたりすればもう少し面白かったんだけど、そのままだとね」
「ほい、じゃあ、次。ホルン」
 微妙な空気を背負い、フルートの面々は下りていく。
「ホルンのリーダー、松岡美保。目標は、今のフルート以上」
「同じくホルン、近藤さくら。目標は、クラ以上かな?」
「同じくホルン、北川和之。黒一点でがんばります」
「同じくホルン、望月久美子。目標は、二位」
「同じくホルン、東美里。死ぬ気でがんばります」
「同じくホルン、篠原のり子。とにかくやります」
「演目は?」
「チューバ&コンバスとかぶっちゃったけど、うちもアカペラなの」
「なるほど。これは楽しみ」
 編成の違うこのパートのアカペラも、なかなかのできだった。
「先生、講評を」
「リズムの取り方は、さっきの方がよかったけど、音程とかそういうのはホルンの方が上ね」
「じゃあ、次。トロンボーン」
「おっしゃ来たっ」
 妙に気合いの入っている寛を先頭に、トロンボーンがステージに立った。
「トロンボーンリーダー、小西寛。目標は、当然優勝」
「同じくトロンボーン、峰岸つかさ。目標は、上位に食い込むということで」
「同じくトロンボーン、田村信一郎。目標は、優勝」
「同じくトロンボーン、長沼健介。目標は、七位くらいで」
「同じくトロンボーン、小久保翔。がんばります」
「同じくトロンボーン、持田文子。できるだけはやります」
「それで寛。妙に気合いが入ってるけど、なにするの?」
「よくぞ訊いてくれた。去年の合宿が終わってからずっと考えていたんだよ、今回のネタを」
「……暇人ね」
「うるせぇ。とにかく、秘蔵のネタだから、よく見ておけ。ボディタップ」
 寛はそう言って、リズムを取りはじめた。それにあわせ、メンバーがリズムを取る。
 そして、自分の体を使い、次々にリズムを作っていく。
 寛と信一郎、健介はそれもなかなか腕だった。どうやら前々から練習していたらしい。
「どうだっ!」
 拍手の中、興奮した様子の寛。
「先生、講評を」
「練習方法とかは別に決めてなかったから、こういうのもありよね。結構よかったわよ」
「よっしゃっ!」
「次、ローウッド」
 トロンボーンの六人にかわり、ローウッドの三人が上がる。
「ローウッドリーダー、ファゴットの水野いつみ。四位くらいが目標で」
「同じくローウッド、バスクラリネットの山本ゆかり。目標は、クラ以上」
「同じくローウッド、バリトンサックスの柴田直樹。目標は、サックス以上」
「人数少ないけど、なにするの?」
「手品です」
 ローウッドの三人は、用意していた手品を披露した。その腕前もなかなかで、やはり練習していたことがわかる。
「では、講評を」
「無難にまとめたわね。まあ、ローウッドはいつみを除いて流動的だから、しょうがないわね」
「じゃあ、ユーフォニウム」
 三人のローウッドの次も、やはり三人のユーフォニウムだった。
「ユーフォニウムリーダー、加藤千里。目標は、あくまでも優勝」
「同じくユーフォニウム、黒田真琴。目標は、三位で」
「同じくユーフォニウム、渡辺信子。がんばる予定です」
「千里、なにするの?」
「漫才を」
「は、漫才?」
「大阪出身者をなめたらあかんよ」
 三人による漫才は、結構様になっていた。ただ、そのネタがシュールすぎてなかなか受けはとれなかったが。
「先生、講評を」
「難しい題材によく取り組んだと思うわ。できもなかなかいいし」
「次は、パーカッション」
 残り三パート。
 パーカッションの九人がステージに上がる。
「パーカッションリーダー、鳴川さとみ。目標は、当然優勝」
「同じくパーカッション、仁科香織。目標は、右に同じ」
「同じくパーカッション、上田響子。目標、右に同じ」
「同じくパーカッション、羽田弘美。目標は、真ん中くらいで」
「同じくパーカッション、日野宮純子。目標は、優勝ってことで」
「同じくパーカッション、町田葵。優勝」
「同じくパーカッション、笹峰柚紀。とにかくがんばります」
「同じくパーカッション、森川武。なんとかがんばります」
「同じくパーカッション、田中舞。優勝目指してがんばります」
「で、さとみ、なにするの?」
「歌うわよ」
「歌? 普通に歌うの?」
「ノンノンノン、当然打倒クラリネットだから」
「まさか、またモー娘。?」
「まあ、その辺は聞いてみ」
 そして、はじまった。踊りはクラリネットほど激しくはないが、きっちり動いていた。特に唯一の男子、武が孤軍奮闘していた。
「じゃあ、講評を」
「クラよりいいわね。ただ、さとみ。相変わらず音痴ね」
「うぐっ……」
「じゃあ、次は……うちか」
 残り二パート。
「んじゃ、オーボエリーダー、安田ともみ。無難に勝つ」
「同じくオーボエ、桐生彩子。勝ちます」
「同じくオーボエ、木下美穂。がんばります」
「題目は、これよ」
 そう言って三人は、隠し持っていたものを取り出した。それは、バトンだった。
「いくわよ?」
 タイミングをあわせ、バトンを回す。
 たまに失敗はあったが、全体的には上々のできだった。ただ、最後の飛ばすのが天井の高さの関係でできなかったのが残念ではあった。
「どうでしたか?」
「ともみ。チア部に転向したら?」
「遠慮しておきます」
「まあ、それくらいよかったってことよ」
「ありがとうございます。じゃあ、最後はトランペット」
 いよいよ最後。
「トランペットリーダー、新城幸江。目標は、優勝かな?」
「同じくトランペット、伊藤大介。当然、優勝」
「同じくトランペット、太田徹。去年の屈辱を晴らします」
「同じくトランペット、榊原広志。優勝はいただいた」
「同じくトランペット、高城圭太。いけるところまでいきます」
「同じくトランペット、有馬夏子。がんばります」
「さて、幸江。あなたたちで最後なんだけど、なにをしてくれるの?」
「三度目で恐縮なんだけど、うちもアカペラなの」
「なるほどね。順番だからしょうがないか」
 しかし、トランペットのアカペラは、先の二パートをはるかに超えるできだった。
「ほぉ、こりゃすごいわ」
「マジだな」
 声も上がる。
「先生、講評を」
「誰が指導したの?」
「こいつです」
 そう言って大介は、圭太の背中を押した。
「こいつ、絶対音感持ってるらしいんですよ」
「なるほどね」
 絶対音感とは、ピアノなど聴いただけでなんの音かわかるくらいの音感のことである。これを持っていると音楽家としてかなり有利になる。
「さて、これで全パート終わったわけだけど、先生。順位の方は出ましたか?」
「ちょっとだけ待って。真ん中あたりが微妙なのよ」
 そう言って菜穂子は、うんうん唸っている。
 それから少しして、順位が確定した。
「それじゃあ発表するわね。どこから発表してほしい?」
「四位から八位でいいんじゃないですか?」
「そうね。じゃあ、四位オーボエ。五位チューバ&コントラバス。六位ユーフォニウム。七位パーカッション。八位クラリネット。以上よ」
「じゃあ、四位から八位までの賞品を発表するわね。四位は、音楽室清掃向こう三ヶ月間除外権。五位、部室清掃向こう三ヶ月間除外権。六位、向こう一ヶ月間特定仕事除外権。七位、明日の朝食豪華権。八位、ヤク○ト獲得権」
 なかなか微妙な賞品である。
「じゃあ、次は、三位と九位ね。三位はホルン、九位はローウッド」
「三位は、一高祭での面倒な仕事除外権。九位は、明日の荷物持ち」
「次は、二位と十位ね。二位は、トロンボーン。十位は、フルート」
「二位は、向こう三ヶ月間音楽室清掃並びに部室清掃除外権。十位は、一高祭でのコスプレ」
「じゃあ、最後ね。まず、最下位は、サックス」
「最下位は、一高祭での奴隷」
「そして、一位はトランペット」
「よっしゃっ!」
「優勝したトランペットには、罰ゲーム以外のすべての賞品と罰ゲームパートに対する命令権を」
「まあ、順位はこんな感じだけど、下位二パートと優勝したトランペットを除けば、実力は近かったわね。ローウッドは、ちょっとだけ運がなかったと思って」
「そういうわけで、とりあえずこれで出し物の方は終わるわね」
「方は、って、ほかにもなんかあるのか?」
「ちょっとね。先生」
 菜穂子は、ともみに言われて前に立った。
「各県大会が終わって、関東大会進出校が決まったの」
 途端に一同がざわめく。
「それで、結果から言えば、常連校はやっぱり来るわね。ようするに、今年も厳しい代表権争いになるってことよ」
「…………」
「ただ、聞いた話によると、どこもそうは差はなかったみたいね。だから、最高の演奏ができれば問題ないと思うわ」
 こともなげにそう言うが、それは簡単なことではない。地方大会くらいのレベルになると、その緊張感なども相当なものとなる。そこで最高の演奏をするなど、やはり容易なことではない。
「いい? 本番まであと三週間。できることからしっかりやって、本番を迎えるのよ」
『はいっ』
 その言葉でその場は締めくくられた。
 
 前二日と同じように、男子部員は揃って風呂に入った。もっとも、数人は罰ゲームのことで頭がいっぱいだったようだが。
 風呂から上がると、圭太はいつもと同じようにラウンジへ出てきた。
 少し待っていると、柚紀も姿を現した。
「まずは、優勝おめでと」
「はは、ありがとう」
「でも、圭太が絶対音感持ってるなんて知らなかったなぁ」
「別に隠してたわけじゃないんだけどね。今まで訊かれなかったし、言う機会もなかったし」
「そっか」
 柚紀は、話しながらあたりを警戒している。やはり一日目のことが頭にあるようだ。
「ところで、圭太」
「ん?」
「どこかいいところ、あった?」
「あ、うん、そのことか。さっきのことがあって探してる時間がなかったんだ」
「はあ、やっぱりそうか。私も同じ。みんなががんばってるのに私だけ抜けるわけにはいかなかったし」
 揃ってため息をつく。
「どうしようっか?」
 とりあえず、柚紀の選択肢の中に『あきらめる』というのはないらしい。
「人が来ないところ、だよね」
「今、この合宿所はうちの部でほとんど埋まってるからね。そういうところは難しいね」
「とりあえず、少しまわってみようよ」
 そう言ってふたりはラウンジを離れた。
 合宿所の中は、微妙に静かだった。廊下を歩いていてもあまり声など聞こえない。ドアが閉まってさえいれば、部屋の中の音はほとんど聞こえないのだ。
 しかし、だからといって空き部屋は鍵がかかっている。使うことはできない。
 食堂のあたりまで来た時、前方からふたり、近づいてきた。
「あれ?」
「えっ?」
「……うわ」
「……やば」
 四者四様の反応。
「どうしたんですか、こんなところで?」
「べ、別にどうもしないぞ、うん」
「そ、そうよ。別にどうもしてないわ」
 しどろもどろに答えるのは、徹と葵である。
 と、柚紀がなにかに気付いたようである。
「ひょっとして、葵先輩」
「な、なに?」
「……密会ですか?」
「うぐっ……」
 あまりにもお約束な反応に、さすがに柚紀も笑いを堪えている。
「そ、そういうおまえたちはなにしてるんだ?」
「密会ですよ」
 さらっとそう言う柚紀。
「先輩、一蓮托生って言葉、知ってますよね?」
「あ、ああ」
「そういうことです」
 ようするに、同罪にしてしまおうということだ。
「じゃあ、私たちは行きますね。邪魔してすみませんでした」
 そう言って柚紀はさっさと行ってしまう。
「……圭太。おまえも苦労するな」
「はは、そうですね」
 
 さらに少し歩く。しかし、ふたりが望んでいるような場所はなかなかない。
「そうだ」
 と、柚紀が立ち止まった。
「お風呂」
「えっ……?」
「お風呂行こ、お風呂」
「ちょ、ちょっと、柚紀」
 圭太の言うことを無視して、柚紀はどんどんと先へ行ってしまう。
 合宿所の一階の隅に、風呂場はある。
 現在この合宿所を利用しているのは、一高吹奏楽部だけである。合宿所の管理をしている人たちは、この風呂場は使わない。従業員用の風呂がある。
 そして、部員はすでに風呂に入っている。
 圭太は、女湯の前でため息をついていた。
「圭太、大丈夫だよ」
 そう言って柚紀が女湯から出てきた。
「ほら、早く早く」
 強引に中に引っ張り込む。ついでに扉に鍵をかける。これで密室のできあがり。
「これで大丈夫。うん、誰にも邪魔させないんだから」
 柚紀は、妙に気合いが入っている。
「さてと、どうしようか? 勢いだけでここまで来ちゃったけど」
 そう言って柚紀は苦笑した。
 圭太は少し考え、答えた。
「お風呂、一緒に入る?」
「あ、うん」
 それから少しして。
 圭太は先に湯船に入っていた。同じ風呂場でも、男湯と女湯では多少違った。浴槽自体に大差はないが、タイルの色などが若干明るめである。
 ちなみに、タオルなどまったく持たないで来ていたふたりなので、柚紀がそれらを取りに行っている。
 そんなことがありつつ、ようやく柚紀が入ってきた。
 湯気があるのではっきりとは見えないが、当然のことながら裸である。
「あ、明るい場所は、まだ慣れないな……」
 そう言ってそそくさと湯船に入ってしまう。
「……やっと、本当にふたりきりになれた」
「そうだね……」
 湯船の中で肩を抱く。
「あの旅行から帰ってきても、ずっと圭太のことだけ考えてた。想えば想うほど、その想いが強くなって……最後には、自分を抑えられなくなるの」
 恥ずかしげに俯く。
「ねえ、エッチな彼女は嫌い?」
「そんなことないよ。柚紀は、柚紀だよ」
「圭太……」
 柚紀からキスをせがむ。
 後頭部を押さえながら、キスを交わす。
「ん、ねえ、圭太。今日は、私にやらせて」
「えっ……?」
 そう言うや否や、柚紀は圭太のモノをつかんだ。
 圭太のモノは、まだ半勃ちの状態。
「い、いいよ、そんなこと」
「ううん、やらせて。お願い」
 結局、圭太は柚紀に圧され、言うことを聞くことになった。
 縁に座る。
「ん……」
「ぅ……」
 柚紀は、圭太のモノをチロチロと舌で舐める。
 それだけで圭太のモノは、パンパンになった。
 それを確認し、今度はそれを口に含む。
「あむ……んん、ん……」
 アイスキャンディーでも舐めるように、でも、その姿はとても淫靡だった。
「ん、気持ちいい……?」
「う、うん、気持ちいいよ……」
「よかった……」
 嬉しそうに微笑み、続ける。
 最初こそ適当な感じだったが、どこを舐めると圭太が感じるのか学んでくると、それはちゃんとしたものになってきた。
 それと比例するように、圭太の方も限界が近づいていた。
「はむ……んん……んむ……」
 ぴちゃぴちゃと淫靡な音が響く。
「ゆ、柚紀……」
「ん、いいよ、出して」
 とどめとばかりにちゅいと吸い上げる。
「うっ……」
 そして、圭太は大量の白濁液を柚紀の口内に吐き出した。
「……ん……」
 柚紀は、それを少しずつ飲み干す。
「けほっ、けほっけほっ……」
「む、無理しなくてもいいのに」
「ううん、いいの。だって、圭太のだもん」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「今度は、私も気持ちよくなりたいから」
「うん」
 今度は、柚紀が代わって縁に座る。
 圭太は、キスをしながら柚紀の胸を揉む。やはりそのボリュームはすごい。
「あ、ん、はあ……」
 圭太のモノを舐めている時からすでに感じていたのか、その感度はかなりよかった。
 柚紀の秘所は、すでに濡れそぼっていた。圭太の指も、すんなり飲み込んでしまう。
「ん、はあ、あん、いいっ」
 押し寄せてくる快感に抗うことなく、柚紀は、それをすべて受け入れている。
 甘い吐息が、浴室に響く。
「ん、圭太……」
「柚紀……」
 柚紀は縁に手をつき、後ろを向く。
 圭太はそのままの格好でモノを柚紀の中へ突き立てた。
「はあんっ!」
 一気に体奥を突かれ、柚紀は高く啼いた。
「んっ、あっ、あんっ」
 圭太が腰を動かす度に、柚紀は甘い吐息を漏らす。
「ああっ、いいっ、いいのっ、もっと、もっと」
 どん欲に快感を求め、自ら腰を動かす。
 いつの間にか、止めていた髪がばらばらになっている。
「んんっ、くるっ、きちゃうよっ」
 本能のままに腰を打ち付ける圭太。
 そして、それを全身で感じている柚紀。
「ああっ、圭太っ、好きっ、大好きっ!」
「柚紀っ!」
 圭太は、その最奥でありったけの精を放った。
 同時に達した柚紀は、放心状態である。
「はあ、はあ、はあ……」
「はあ、はあ、はあ……」
 荒い息の中、圭太は柚紀を抱き起こす。
「ん、イっちゃった……」
 柚紀は、縁に座りながらそう言う。
「はじめてエッチしてからまだ日が浅いのに、もうイカされちゃった」
「柚紀が感じてくれて、僕も嬉しいよ」
「相手が圭太だからだよ、感じられるのは」
 圭太の方に体を寄せる。
「あ……」
「どうしたの?」
「あ、うん、中からあふれてきちゃった」
 見ると、確かに柚紀の秘所から白濁液があふれてきている。
「わ、わ、わ、ま、まずいよ。湯船に入れちゃうと、まずいよ」
「そ、そうだ」
 ふたりは慌てて湯船から出る。
 幸いにして、湯船にはほとんど落ちていなかった。
「ん、名残惜しいけど、そろそろ部屋に戻らないとね」
「そうだね」
「でも、その前に、シャワー浴びなくちゃ」
 そう言って柚紀はシャワーを浴びる。
「ほらほら、圭太もこっち来て」
「あ、うん」
 ボディソープをつけ、ふたりで流しっこする。
「やん、もう、どこ触ってるのよぉ」
「ご、ごめん」
「うふふ、ウソよ。圭太だったら、どこ触ってもいいよ」
 とまあ、結局このままもう一回エッチをしてしまうふたりであった。
 
 合宿最終日。
 その日は朝から少し雲が多かった。それでも雨が降るようなことはなく、合宿中は大丈夫そうだった。
 前日の夜にがんばりすぎた圭太ではあったが、最終日も早くに起き、ランニングに出ていた。
 ひとまわりしてくると、集団の中に柚紀の姿を見つけた。
「柚紀。おはよう」
「おはよ、圭太」
 柚紀は、朝からかなりご機嫌だった。
「行こ」
 軽快な足取りで走っていく。
 曇ってはいるが、朝の清々しさは変わらない。
 大きく深呼吸すれば、マイナスイオンが体中に取り込まれる。
「ん〜、いい気分」
「今日はご機嫌だね」
「うんっ、もっちろん。それも、圭太のおかげだね」
 そう言って本当に嬉しそうに笑う。
「今日は朝起きた時からずっと最高の気分」
「うん、やっぱり柚紀は笑ってる方がいいよ」
「えっ……?」
「おとといとか昨日なんて、なかなか笑ってくれなかったから」
「……そっか」
「僕はね、笑顔の柚紀が好きなんだ。だから、その笑顔を見るためなら、僕はなんでもするよ」
「……うん、ありがと、圭太」
 小さく頷き、キスを交わす。
「よしっ、今日で合宿も終わりだし、しっかりがんばらなくちゃ」
 
 午前中は予定通り合奏が行われた。合宿中の総仕上げという意味も込め、菜穂子の厳しい声が飛んでいた。
「クラ、指まわってない」
「ホルン、タイミングが遅い」
「フルート、音程あってないわよ」
「サックス、そこはもっと小さく」
「トロンボーン、もっと激しく」
「スネア、タイミングがばらばら」
「低音、もっと支えて」
「オーボエ、遅い」
「ペット、高音はもっと綺麗に」
 とにかく、ありとあらゆる箇所に注意が飛んだ。県大会である程度は完成されていたのだが、菜穂子はそれを一度崩し、そしてもう一度組み立て直そうとしている。
 残りの期間を考えるとかなりリスクの高い方法だが、それをやらなければ全国へは行けないという考えだろう。
「主顕祭のラスト、金管だけ」
 九時にはじまった合奏は、最初に一度だけ課題曲、自由曲を通しただけで、あとはずっと個々の部分をやっていた。
「遅い、もっと速く」
 菜穂子の指摘は、実際かなりレベルの高いものだった。普通ならばそこまでのことは必要ないくらい、それくらいのレベルに達していた。
 しかし、菜穂子とてバカではない。言ってもできない連中に言いはしない。それができると思っているからこそ言うのだ。
 そろそろ午前中の練習時間、つまり、この合宿での練習時間が終わる時間が迫ってきた。
「じゃあ、今日言ったことを頭に入れて、両方通してやるわよ」
 そして、本番さながらの緊張感の中、最後の合奏が行われた。
 その演奏は、お世辞にも完璧とは言えなかった。しかし、それはその練習の最初でやった演奏よりははるかによくなっていた。
 荒削りでまだまだ修正箇所は多いが、それはよい方向へ向かっている証でもあった。
 菜穂子は、黙って指揮棒を置いた。
「楽にして」
 構えていた部員たちが、めいめい楽な体勢をとる。
「おつかれさま。とりあえずこれで合宿の全メニューは終わるけど、これはあくまでもスタートでしかないのを忘れないように。残りの夏休みと九月に入ってからのわずかな期間で、今の演奏を二百パーセント上達させなさい。いいわね?」
『はいっ!』
「厳しいことを言ってるのはわかってる。でもね、ほかの学校だって同じなのよ。全国大会のステージに上がっていいのはね、やるべきことをすべてやったところだけ。しかも、それは限界までだから。甘いことを言ってるうちは、とてもあのステージには上がれないわ。もちろん、関東大会での演奏が全国大会の演奏以上になることはないわ。それはとりもなおさず、関東から全国までは一ヶ月以上の時間があるからよ。それだけあればさらに改良を加えられるからね。最終目標はそこに置いといて構わないけど、でも、その目標はかなり高い場所にあるということだけは、忘れないで」
 厳しい口調で部員全員に話をする菜穂子。しかし、その相好が崩れた。
「あなたたちなら、行けるわ、全国に」
『はいっ!』
「じゃあ、おつかれさま」
『おつかれさまでした』
 
 最後の昼食は、前日の出し物の結果が反映されていた。
 トランペットとパーカッションはほかのパートよりかなり豪華な食事が用意されていた。しかも、トランペットにはヤクルト付き。ちなみに、クラリネットにもヤクルトのみ、一緒に出されていた。
 とはいえ、その雰囲気は和やかだった。
「はいはいはい、ちょっと注目」
 やはりみんなの食事が終わった頃を見計らい、ともみが前に立った。
「えっと、あとはもう帰るだけなんだけど、ここで最後の提案」
「提案?」
「来る時はパートごとにだいたいまとまって座ってもらったけど、帰りはそれをやめようと思うの」
「つまり、自由にしていいってことか?」
「まあね。ただし、ホントに自由にすると収拾がつかなくなるから、一定の制限は設けようと思うの」
 そこで取り出したのは、それほど大きくない箱だった。
「ここにクジが入っているわ。数はちょうど三十」
「なんで三十なんだ?」
「バスの座席はふたり掛けでしょ? ようするに、先に三十人に隣に座る相手を選ばせようってこと」
「なるほど。で、そのクジを引く順番はどうするんだ?」
「そんなの決まってるじゃない。昨日のパートの順位そのままよ」
 そして、トランペットからクジを引いていく。ただし、それはあくまでも相手を決める際の順番を決めるものでしかない。
「ともみ」
「ん?」
「あたしたちはどうするの?」
「なんで?」
「ほら、上から順番に来ると、二十九人でしょ?」
「ああ、なるほど。じゃあ、パーカスはその中でひとりだけ選んで。じゃんけんでも殴り合いでもなんでもいいから」
 で、結局、クジを引くのはさとみになった。
「クジはまわった? それじゃあ、一番から順に相手を選んで。ちなみに、その相手がクジを持ってる相手だったら、その相手はそのクジをパーカスの誰かに渡して」
 そして、順番に相手が決まっていく。
 注目すべきは、やはり男子の動向である。圧倒的に人数の少ない男子がどういう風になるか、それは全部員の注目の的だった。
「次、七番」
「あ、はい」
 七番のクジを引いたのは、圭太だった。
 と、複数人の注目が集まる。その中で熱視線を送る者がひとり。当然柚紀である。
「まあ、訊かなくてもわかる気がするんだけど。一応ね」
「すみません」
「別にいいわよ。それで、誰?」
「柚紀を」
 
 那須から帰りのバス。
 たいていの部員は意中の部員と一緒に座っている。ただ、中にはあぶれてしまった者も当然いる。そういう連中は、ただひたすらに寝ていた。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「残りの夏休み、どうするの?」
「どうするって言われても、終わってない宿題をして、部活をして、家の手伝いをするくらいだと思うよ」
「そっか」
「柚紀は?」
「私も同じかな。ただ」
「ん?」
 柚紀は、圭太の耳元でささやいた。
「できるだけ、一緒にいるからね」
 圭太は、それに小さく頷いて応えた。
 こうして一高吹奏楽部合宿は終了した。
 
 二
 八月二十八日。
 そろそろ夏休みも終わろうかというこの日。圭太は先日の紗絵の要望に応え、出身中学である第三中学校を訪れていた。
 ちなみに、ともみや祥子、ほかにも三中出身者も一緒である。ただ、それも全員ではない。
「う〜ん、ここに来るのも久しぶりね」
 そう言ってともみは校門をくぐった。
 琴絵を通して伝えられたのは、この八月の最終週の午後ならいつでもいいということだった。
 圭太たちも練習があるため、結局この二十八日となった。
 圭太たちは来賓用玄関でスリッパに履き替え、とりあえず職員室へ。
「失礼します」
 職員室にはほとんど人はいなかった。それも夏休みなら無理からぬこと。
 それでも、圭太のように卒業したばかりの生徒には知り合いも多い。
「おっ、高城。どうした?」
 中年の男性教師が声をかけてきた。
「ご無沙汰しています。今日は、吹奏楽部の方へ来たんですよ」
「そうか。じゃあ、水沢先生か」
 そう言って職員室を見回す。
「水沢先生なら、体育館へ行ったと思うけど」
 もうひとりいた教師が、そう教えてくれた。
「だそうだ」
「わかりました。体育館に行ってみます」
「帰りにもう一度寄ってくれ」
「はい」
 職員室から体育館まで移動する。
「しっかし、暑いわね。これじゃ、体育館なんて蒸し風呂ね」
「しょうがないですよ。そこしか適当な練習場所がないんですから」
「ま、それはわかってるんだけどね。それに比べたら、私たちは恵まれてるわけよ。講堂は体育館ほど熱がこもらないから」
 体育館の中から楽器の音が聞こえてくる。
 入り口から中に入ると、三中吹奏楽部は合奏中だった。
 メンバーに入っていない一年生が、正面でそれを見ている。
 しかし、指揮をしているはずの顧問の姿がない。
 よく見ると、顧問の水沢佳奈子は、彼らからだいぶ離れたところで指揮をしていた。
 圭太たちは、とりあえず邪魔をしないように隅っこでその様子を見守った。
「ダメダメダメ。全然あってない」
 ピタッと音が止み、佳奈子が指揮台のところまで戻ってくる。
「ペット、ボン、何度言ったらわかるの? もっと横の線をあわせなさい」
『はいっ』
 少し間が空いたところで、圭太は声をかけた。
「佳奈子先生」
「ん? あら、圭太じゃない」
 部員たちの視線が、圭太たちに集まる。
「どうも、コンクール以来です」
「そうね。ところで、今日は指導に来てくれたんでしょ? わざわざともみや祥子たちまで連れてきてくれたんだから」
「ええ、そのつもりですけど」
「じゃあ、ちょっと待ってて。あなたたちに今のうちの実力を聴いてもらうから」
 そう言って佳奈子は、指揮台に立った。
「課題曲、自由曲、通して」
 そして、十二分間がはじまった。
 課題曲は圭太たちと同じ曲だった。それでもそれを指導する者が違えば、少しずつ曲の雰囲気も変わる。
 自由曲は、オルフ作曲の『カルミナ・ブラーナ』である。
 途中、何度か佳奈子は顔をしかめたが、指揮棒を下ろすことはなかった。
「どうかしら? 私はまだまだだと思うけど」
「そうですね。いくつか直せる部分はあると思いますけど」
「そ。じゃあ、そのあたりは任せるわ。紗絵」
「はい。これでいったん合奏は終わり。五分間休憩してから、先輩たちから指導を受けるから」
 紗絵はてきぱきと指示を伝える。
 とりあえず、部員の間に安堵感が広がった。
 先輩たちを遠目に見ている現部員たち。近づきたくても近づけないのだ。なんといっても、今は顧問と話しているのだから。
「はあ、きついわね。今年は微妙よ」
「そうですか? この時期にこれだけできればいいと思うんですけど」
「確かに」
 ともみの言葉に祥子も頷いた。
「心境的には、二年前と同じよ」
「二年前って……ああ、全国を逃した年……」
「確かに悪くはないのよ。ただ、決め手がないの。去年はペットに圭太がいたおかげで引っ張れたし、三年前は全体的にレベルが高かったからあまり心配してなかったけど」
「全体の底上げは、難しいですからね」
「そうなのよ。だからもう、連日頭が痛くて。で、その打開策のひとつとしてあなたたちに来てもらったわけ」
「お役に立てればいいんですけど」
「大丈夫よ。特に圭太。あなたは未だに絶大な支持を集めてるから」
「は、はあ……」
「さてと、そろそろ時間ね」
 五分間の休憩が終わった。
「圭太。紗絵と話してどうするか決めて。私は少し見てるから」
「わかりました」
 圭太は紗絵を呼び、練習方針を確認する。
「紗絵は、どういう指導を望んでるのかな?」
「できればパートごとにお願いしたいんですけど」
「でも、それだとこっちは人数が足りないから」
「そうですよね」
 圭太たちは、全パートに教えられるほどの人数がいるわけではない。
「じゃあ、金管と木管に分けてというのはどうですか?」
「まあ、それが一番現実的かな。ちょうどこっちは三人ずついるしね」
 金管は、トランペットの圭太、トロンボーンのさくら、ユーフォニウムの信子。木管は、オーボエのともみ、クラリネットの祥子、サックスの友美。
「あ、パーカスはどうしましょうか?」
「うん、金管と一緒でいいよ。カルミナだと金管にあわせた方がいいと思うし」
「わかりました」
 それから部員は、金管と木管に分かれた。
 木管が場所を移した関係で、金管は体育館で行われた。
「じゃあ、まずは、課題曲から」
 圭太はそう言って指揮台に立った。
「さっきのを聴くと、横の線も縦の線もばらばらだったから、もう少し意識してあわせないと」
『はいっ』
「あとは……」
 それからさらに数点、欠点を指摘する。それをさくらと信子にも頼み、それから実際に指導がはじまった。
 
「圭太。今日、楽器は持ってきてないの?」
「はい」
「紗絵。余ってるペットを持ってきて」
「はい」
 佳奈子の指示で、紗絵が音楽室へ走った。
「二、三年は知ってると思うけど、圭太の実力は折り紙付きだから。その実力の差を知ってもらうわ」
「えっ、でも、先生──」
「できるわよね?」
「はい……」
 少しして、紗絵が楽器を持って戻ってきた。
「はあ……」
 圭太はため息をつきつつ、マウスピースを口に当てた。少し唇をほぐす。
 圭太の一挙手一投足を全部員と一高の面々が見ている。
 ならしで吹くと、なんとも言えないざわめきが起きた。
「じゃあ、このあたりをちょっと吹いてみて」
 スコアを見せ、吹くように言う。
 圭太は譜面を目で追い、リズムなどを確認する。
 そして、吹く。
「……さすがね」
 それを聴き、佳奈子は大きく頷いている。
 部員の間からもため息ともなんともつかない息が漏れる。
「……これくらいですか?」
「ええ、十分よ」
 佳奈子は、部員に向き直る。
「別に圭太ほどできろとは言わないわ。実際、圭太とは一年以上のブランクがあるわけだから。ただ、初見の曲でも今くらいはできるってことだけは、覚えておいて。いい?」
『はいっ!』
「じゃあ、圭太」
「なんですか?」
「ちょっと一緒にやってみて」
「えっ……?」
「今から通しでやるから、ペットのファーストで。いい?」
「あの、さすがにそれは──」
「いいわよね?」
「はい……」
 そして、三中吹奏楽部プラス圭太で合奏がはじまった。
 
「おつかれさまでしたっ」
「お先に失礼します」
「おつかれさま」
 次々に部員が帰っていく。
 ここは三中の音楽室。
 圭太たちのまわりには、まだそれなりの部員が残っていた。
「はあ、やっぱり圭太先輩は上手ですね」
 そう言うのは紗絵である。同じトランペットとしては、気になるのだろう。もちろん、想い人でもあるわけで。
「課題曲は同じだからいいとしても、カルミナの方は初見ですよね? なのに、あれだけできるなんて。かなりショックです」
「まあ、できたって言っても、音符をなぞっただけだから。表現なんかは全然だし」
「そんなことないですよ」
「そうそう、圭太なら、十分にここでも演奏できるって」
「ともみ先輩、冗談はやめてくださいよ」
「あら、冗談じゃないわよ。事実よ。ね?」
 一同が頷く。
「いずれにしても、今日のことで少しは気合いの入り方も変わると思いますから」
「お役に立てたかな?」
「はい、もちろんです」
「それはよかった」
 そう言って圭太はホッと胸をなで下ろした。
「ところで、一高の方はどうなんですか?」
「ああ、うん、それは……」
「五分五分ね。時間的に見ても、あまり余裕はないわ」
「そうなんですか?」
「まあね。ただ、全力は尽くすよ。目指すは全国だし」
「そうそう。だから、あんたたちもちゃんと全国目指してがんばるのよ」
「でも、三中だけ全国行けて、私たちは行けなかったらどうしましょう?」
「しょ、祥子、それは言わない約束よ」
「あはは」
「ははは」
 
 圭太が三中をあとにできたのは、もう夕方になってからだった。
 ともみや祥子たちは一足先に帰っている。結局、残ったのは圭太だけである。
 そして、三中の方も残っているのは、部長の紗絵と副部長の琴絵だけ。ほかは紗絵が無理矢理帰してしまった。
 音楽室を閉め、職員室に鍵を戻し、三人で学校を出る。
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
「たいしたことはできなかったけどね」
「そんなことありませんよ」
「でも、紗絵もずいぶんと上手くなったね」
「そうですか? 自分ではそこまでとは思ってないんですけど」
「僕が卒業してからこの数ヶ月で、ここまでになったんだから、すごいよ」
「あ、あんまり褒めないでください。調子に乗っちゃいますから」
 そう言って紗絵は笑った。
「お兄ちゃん。先輩を困らせちゃダメだよ」
「わかってるよ。ただ、紗絵は僕の本当に直接の後輩だから、気になるんだよ」
 圭太は、少しだけ真面目な顔でそう言った。
「正直に言ってみて。苦労してるでしょ?」
 紗絵は、一瞬目をそらした。
「……確かに、それはあります。でも、それは自分で選んだ道ですから。先輩のせいじゃありません」
「紗絵が部長に決まった時、僕は正直困惑したんだ。僕が良い部長だったかどうかは別にして、なにかにつけて比べられちゃうんじゃないかって。パートも同じだし。だからこそだよ、紗絵が上手くなってて嬉しかったのは」
「先輩……」
「今の三中吹奏楽部の部長は、間違いなく真辺紗絵だから。もう、僕の影なんてどこにもない。それがわかっただけでも、今日は本当によかった」
「……ありがとうございます」
「うん」
 それから少しの間、他愛のない話をして、ゆっくりと歩いていく。
「それじゃあ、先輩。私はこっちなので」
「うん」
「……あのっ」
「ん?」
 行きかけた紗絵は、そう言って立ち止まり、そして──
「私、一高へ行きます。そこで、もう一度先輩と演奏します。だから、待っていてください」
「うん、待ってるよ」
「はいっ!」
 最後は、これまでで一番の笑顔を浮かべて帰っていった。
「……ホント、お兄ちゃんは優しいね」
「ん?」
「これで紗絵先輩、ますますお兄ちゃんのこと、好きになっちゃうよ」
 琴絵は、そう言ってため息をついた。
「優しいところはお兄ちゃんのいいところだと思うけど、今は柚紀さんがいるんだから、ほどほどにしないとあとで大変な目に遭うよ」
「わかってるよ」
「ホントに?」
「ああ。僕の一番側に、そのいい実例がいるからね」
 圭太はそう言って少し歩を速めた。
「いい実例……って、もしかして私のこと? ねえ、お兄ちゃん?」
「ははは、さあね」
「んもう、お兄ちゃんってば」
 
 八月三十一日。夏休み最終日。
 その日も朝から灼熱の太陽が顔を覗かせ、気温はぐんぐん上がっていた。
 世の中の学生で宿題が終わっていない者は、このたった一日でなんとかしようと右往左往する。しかし、それもそれまでにどの程度終わっているかとか、友人がどれくらいいていつもどれくらいの貢献をしているか、等々、いろいろな要素が絡んでくる。
 普通の量の宿題なら、普通にやれば終わるはず、それが出す側の理論である。その理論を覆すのは、ほぼ無理である。
 従って、潔く負けを認めるしかないのである。
 とはいえ、世の中そんな学生ばかりではない。割合的にいえば、むしろそっちは少数派である。たいていはすでに宿題を終えている。
 そして、夏休み最後の日を、如何にして過ごすか、それを考えるのだ。
 その日、一高吹奏楽部は久々の休みだった。菜穂子にしても、部活のせいで宿題ができなかったとは言われたくないようである。
 圭太は、久々に朝から『桜亭』の手伝いをしていた。この夏休みの間、ほとんど手伝いはしていない。そのせめてもの償いの意味も込めて。
「ありがとうございました」
 お昼の時間帯を過ぎ、店も一段落する。
「圭太、休憩にしていいわよ」
「うん、わかった」
 圭太は店から家の方へ戻ってくる。
 リビングには、琴絵がいた。琴絵も部活が休みなのである。
「お兄ちゃん、終わったの?」
「だいたいね」
「そっか。あ、今麦茶持ってくるから」
 そう言って台所へ。
 冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出し、コップに注ぐ。
「はい、お兄ちゃん」
「ありがとう」
 圭太は、それを一気に飲み干した。
「ん〜、旨い」
 お約束のセリフを言い、圭太は笑った。
「ねえ、お兄ちゃん。柚紀さん、何時くらいに来るの?」
「五時くらいには来るって言ってたけど」
 時計の針は、まだ二時を過ぎたばかりである。
「そっか。じゃあ、それまでは、私の相手してよ」
「琴絵の?」
「うん。たまには『妹孝行』してもいいでしょ?」
 そう言って琴絵は圭太にすり寄った。
「えへへ、お兄ちゃん」
 嬉しそうに頬を寄せる。
「本当に琴絵は甘えん坊だな」
「いいんだもん。それに、私が甘えるのは、お兄ちゃんとお母さんだけだもん」
「でも、琴絵だって十四歳だからなぁ。そろそろ自立しないと」
「いいのっ。私は、お兄ちゃんに甘えたいのっ」
 頑固にそう言い張る。
 これにはさすがの圭太もため息をつくしかない。
「……私がね、お兄ちゃんに甘えられるのは、もうあと何年もないと思うんだ」
「えっ……?」
「だから、できる間に目一杯甘えるの」
「琴絵……」
「そういうわけだから、お兄ちゃんも覚悟してね」
「……ああ、わかったよ」
「うんっ、ありがとっ」
 
「ん、お兄ちゃん……ダメだよ……」
 琴絵は、息も絶え絶えにそう言う。
「……なんの夢を見ているんだ?」
 圭太は、そう言ってため息をついた。
 リビングのソファでは遊び疲れて、というかはしゃぎすぎて琴絵が眠っていた。
「……ん、お兄ちゃん……す、き……」
「…………」
 頭を優しく撫でてやる。
「あら、琴絵、寝てるの?」
 そこへ琴美が顔を出した。
「うん」
「あらあら、幸せそうな顔しちゃって」
 自然と琴美の目尻も下がる。
「ホント、この子は昔からお兄ちゃん子なのよね」
「それも、しょうがないんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、父さんが、ね」
「……ああ、そうね」
「ただ、父さんが生きていた時も、僕にべったりだった気もするけどね」
 そう言って一応フォローを入れる。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「圭太は、琴絵がこのままでいいと思う?」
「……さあ、どうだろう。僕は琴絵の親じゃないからわからないけど」
「そうよね」
「ただ、もう少し自立できないと困るかな、とは思うよ」
「自立、ね」
 琴美は、曖昧に微笑んだ。
「僕としては、実は琴絵よりも母さんの方が心配なんだ」
「えっ、どういうこと?」
「いつまでも父さんに操を立ててるのもいいんだけど、いい人がいたら、再婚してもいいと思うんだ」
「…………」
「少なくとも僕はその方が安心できる」
 祐太が亡くなってから四年。その間琴美は、ひとりでこの家と『桜亭』を守ってきた。しかし、それも圭太や琴絵がいたおかげでもある。
 目標があるうちはいいが、その目標が失われた時、それだけを頼りに生きてきた人はどうなるか。
 圭太はそれを心配しているのだ。
「別に、無理しなくてもいいと思うけど。でも、僕がそういう風に考えてるってことだけは、覚えておいて」
「……圭太は、年々あの人に似てくるわね」
「そう?」
「ええ」
 琴美は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「でもね、息子が親の心配をするのは、まだ早いわよ」
「かもね」
「今はまだ、あなたや琴絵のことで手一杯。その先のことは、その時になったら考えるわ」
「母さんがそれでいいなら、僕はなにも言わないよ」
「ああ、でも、その頃になったら、圭太が私の面倒を見てくれるのかしら?」
「えっ、どういうこと?」
「圭太は早々に身を固めそうだから。お相手もいることだし」
「…………」
「そうなれば、私はなんの心配もないわ。悠々自適に生活できるし」
「……もし、本当に母さんがそれを望んでいるなら、いいよ」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「この前、柚紀と旅行に行ったでしょ?」
「ええ」
「そこでね、まあ、いろいろあって」
「ふふっ、いろいろね」
「それで、決めたんだ。一高を卒業したら、一緒になろうって」
「まあ……」
 それにはさすがの琴美も驚いている。
「それで、柚紀さんはなんて?」
「受けてくれたよ。待っててくれるって」
「そう……そうなの」
「だから、さっきのことも本当に母さんが望むなら、ね」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「……圭太には、私とあの人の馴れ初めを話したかしら?」
「いや、詳しくは。いつもは適当に誤魔化されて。あとは、父さんのどこに惹かれたとか言って、自慢ばかり。だけど、確か、高校の先輩後輩だったって」
「そう。あの人──祐太さんは私のふたつ上の先輩だったの。たまたま同じ部活になったのが縁でね、つきあうようになって。あとはもう一直線。私が高校を卒業した一年後に結婚。その一年後に圭太が生まれて」
 自分の過去を語る琴美は、どこか幸せそうだった。
「祐太さんは、本当に不思議な人だった。真面目は真面目だったけど、今の圭太ほど生真面目でもなかったわね。お茶目な人、だったわ。あと、すごく優しい人。包容力っていうのかしら、そういうのにあふれた人だった。だから、ああ、この人と一緒にいられたら幸せだろうなって、そう思ったわ」
「母さんから告白したの?」
「ううん、違うわよ」
「えっ、そうなの?」
「あの人がね、いきなりこう言ったの。琴美は、俺と一緒にいる時が一番綺麗だ、ってね。ふふっ、そんな告白普通ないわよね。でも、それだけでわかったのよ。ああ、この人は本当に私のことを必要としてくれてるって。もちろん、その頃にはもう私は祐太さんの虜だったから、一も二もなくオーケーしたけどね。あとはもうトントン拍子」
「……あの父さんが」
「だけどね、つきあいだしてから少しだけ後悔したの。だって、本当にあの人は誰に対しても優しいんだから。もう私を選んでくれてるのに、いつも冷や冷やしてたわ。いつか私よりもあの人に相応しい人が現れてしまうんじゃないかって。でも、それも杞憂だったわ。ちゃんと、最後まであの人は私だけを見ていてくれたから」
「そうだね。今の母さんを見ていると、それがよくわかるよ」
「そんな祐太さんに、圭太は似ているのよ。それがどういう意味か、わかる?」
「なんとなくは」
「そうね、今はまだなんとなくでいいと思うわ。そのうち、わかるだろうから」
 そう言って琴美は話を締めくくった。
「さてと、少し長く休みすぎたわね。鈴奈ちゃんが怒ってるわ」
「母さん」
「うん?」
「僕にどこまでできるかはわからないけど、がんばるから」
「……ううん、がんばる必要はないわ。圭太は、圭太の思う通りになんでも好きなようにすればいいの。私や、祐太さんに縛られることなくね。そうしないと、本当に大切な人も、守れないわよ」
 琴美は、笑顔で店に戻っていった。
 そんな琴美を、圭太も穏やかな顔で見送っていた。
 
 時計の針が五時を指す前に、柚紀はやって来た。
 手には少し大きめのカバンを持っている。
「こんにちは〜」
「いらっしゃい、柚紀さん」
 少し前に起きた琴絵が柚紀を迎えた。
「持ってきましたか?」
「うん」
「じゃあ、早速着てみましょうか」
「そうね」
 そう言ってふたりは二階へ上がった。
 琴絵は柚紀を自分の部屋へ招き入れた。
「琴絵ちゃんのは、どんなの?」
「えへへ、これです。じゃん」
 わざわざ擬音までつけて琴絵はそれを見せた。
 それは、浴衣だった。赤地に紫の朝顔が描かれている。
「これ、今年買ったばかりなんですよ?」
 浴衣を体に当て、嬉しそうにくるくる回る。
「柚紀さんのは、どんなのですか?」
「私のはね……」
 カバンをその場に置き、中から浴衣を取り出す。
 それは、紫地にスズランの花が描かれた浴衣だった。
「うわあ、いいないいな。紫はお母さんにダメだって言われたんですよ」
「どうして?」
「もう少し背丈がある方が見栄えがいいし、だいいち、紫は着る人を選ぶから、だそうです。あっ、でも、柚紀さんなら大丈夫ですよ。絶対に似合います。お兄ちゃんだって惚れ直しちゃいますよ」
「ふふっ、ありがと」
 柚紀は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、着替えちゃおう」
「はい」
 ふたりはそう言って服を脱ぎだした。
 夏場なのでふたりとも薄着で、すぐに脱ぎ終わってしまう。
「はあ、柚紀さんて、スタイルいいですね」
「えっ、そうかな?」
 下着姿の柚紀を見て、琴絵は深いため息をついた。
 確かに柚紀はスタイルがいいが、琴絵も中二の割にはそれなりのスタイルである。
「私ももう少し胸がほしいんですよね」
 そう言ってまだ谷間のできない自分の胸を見る。
「でも、琴美さんはすごくスタイルがいいみたいだけど」
「確かにお母さんはスタイルいいですけど、娘の私もああなれるって保証はありませんから」
 それはそうである。親とまったく同じことなど、そうそうない。
 ただ、遺伝的に見ればそうなる可能性は高い。
「大丈夫よ。琴絵ちゃんはまだ中学生なんだから。まだまだこれからよ」
「だといいんですけどね」
 なんとか琴絵を力づけようとするが、それもなかなか上手くいかない。
「あの、柚紀さん」
「ん?」
「下着は、つけてた方がいいんですかね?」
「ああ、うん、そうね。下着のラインが気になるなら脱いだ方がいいけど、でも、今日はその格好でどこか行くわけでもないしね」
「でも、見るのはお兄ちゃんなんですよね」
「うぐっ……」
 柚紀にしても琴絵にしても、百人に見られるよりも圭太に見られる方が気になるだろう。
「じゃあ、ブラジャーだけ脱いでね」
「そうですね」
 方針が決まればあとは早い。
 ふたりとも浴衣の着付けはできるらしく、特に困った様子もない。
「ん……よっと……」
 腰のあたりを折り込んで、あとは帯を締めるだけ。
「……こんなもの、かな」
 そして、浴衣娘がふたり、完成した。
「うん、琴絵ちゃん、カワイイ」
「柚紀さんも綺麗ですよ」
 そう言ってふたりは笑った。
 それから脱いだ服を片づけ、さあ、下へ下りようという時。
「あの、柚紀さん」
「どうしたの?」
「妹からのお願いです。お兄ちゃんを、よろしくお願いします」
 琴絵は、真っ直ぐな瞳で柚紀を見つめ、そして頭を下げた。
「うん」
 それに対し柚紀は、小さく、でもはっきりと頷いた。
「よしっ、行こっ」
「はいっ」
 
 夏休みの最後に花火をしよう、そう言い出したのは琴絵だった。
 夏休みはたいていどこにも行けず、近くで行われる夏祭りにすら足を運べない状況。そんな状況でもできることはしたい、そんな想いから琴絵は花火を計画。
 参加メンバーは当初、大人数にする予定だった。しかし、途中で思い直し、結局は家族『だけ』で行うことにした。
 この場合の家族とは、母親の琴美と兄の圭太は当然のことながら、いつも『桜亭』を手伝っている鈴奈と、そして、将来本当に『家族』になるであろう柚紀のことだった。
 用意した花火はどれもごくオーソドックスなもの。家の庭でやるのだから、それは仕方がない。ただ、数だけは揃えていた。
 その日は少しだけ早く店を閉めてもらい、花火大会ははじまった。ちなみに、琴美も鈴奈も浴衣を着ている。
「グラスは渡った?」
 琴美の言葉に、皆一様に頷く。
「じゃあ、琴絵」
「うん。えっと、今日はとにかくみんなで楽しみたくて花火をしようと思いました。だから、目一杯楽しんでください。乾杯っ!」
『乾杯っ!』
 リビングのテーブルに並んでいる料理は、柚紀と琴絵の手作りである。浴衣に着替えたあと、簡単にできるものをふたりで作ったのである。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「美味しい?」
「ああ、うん、美味しいよ」
「あはっ、よかった」
 琴絵は嬉しそうに笑った。
「でも、ふたりとも本当に料理が上手なのね」
 ひとつひとつを口に運びながらそう言うのは、鈴奈である。
「私もこれくらいできるといいんだけどね」
「鈴奈ちゃんなら大丈夫よ。器用だし、要領もいいし」
「そうですかね?」
「そうね、ひとつだけ上達するコツがあるわ」
「コツ、ですか?」
「それはね、誰かに食べてもらいたい、食べさせたいと思って作ること。ふたりを見てるとわかるでしょ?」
「あっ、なるほど。確かにそうですね」
 件のふたりを見て鈴奈は笑った。
「じゃあ、私も圭くんに食べてもらおうかな?」
『えっ……?』
 同時にふたりから声が上がった。
「相手が圭くんなら、すぐに上達できそう」
 冗談めかしてそう言う。
 しかし、柚紀や琴絵にとってはそれはあまり歓迎したくないことである。
 鈴奈が圭太に対して特別な感情を抱いていることは、すでに理解している。だからこそその芽が大きくならないように気をつけなくてはならない。
 そんなことを考えていたのが顔に出ていたのか、琴美はくすくすと笑っている。
 それから少しして、ようやく花火がはじまった。
 火をつけるのは男である圭太の仕事。
 ろうそくに火をともし、そこから花火に火をつける。
「うわ〜……」
 色とりどりの花火が、夜の闇に栄える。
 紅、青、緑、黄、橙……
 はかないながら、だが、はかないからこそその綺麗さが際立つ。それが、花火である。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「今年の夏は、最高の夏になったと思わない?」
「そうだね。でも、来年や再来年は、もっともっと最高の年になると思うよ」
「……うん、そうだね」
 ふたり揃って同じ花火をしている。
「ほらほら、ふたりだけでいい雰囲気醸し出してないで、今日はみんなで楽しまないと」
「か、母さん」
 そこへ琴美がやって来る。少し顔が赤いところを見ると、アルコールが入っているようである。
「ああ、そうそう、柚紀さん」
「はい、なんですか?」
「うちはね、いつでも大歓迎だからね」
「えっ……?」
「圭太を落として、琴絵も味方につけて、そして私も認めてるから。だから、もううちには障害はないわよ」
「琴美さん……」
「ふふっ、いつ『お義母さん』って呼ばれるのかしらね」
 琴美は、そう言って心からの笑みを浮かべた。
「琴絵、もっと花火出して」
「うん」
「過ぎゆく夏は、この花火と一緒に綺麗に帰してあげないとね」
 
 色とりどりの花火の中、圭太は柚紀の手をそっと握った。
 柚紀も、その手をそっと握り返す。
 
 そして、夏は過ぎていく。
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