僕がいて、君がいて
 
第四十五章「緩やかに流れる春の日」
 
 一
 陽も落ち、すっかり暗くなった頃に身内だけの卒業記念パーティーがはじまった。
 もともと琴美も卒業式に出るために店は休みだったおかげで、準備もスムーズにできた。
 さすがに主役である圭太や柚紀は準備の段階からノータッチである。
 パーティーも特に堅苦しい挨拶もなく、いつもの和気藹々とした雰囲気ではじまった。
「圭くん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
 圭太は、そう言って鈴奈とグラスを合わせた。
「圭くんの卒業をお祝いするのは、もう二度目だね」
「そういえばそうですね」
「ついこの間中学校を卒業したと思ったら、今度は高校も卒業だもんね。本当にあっという間」
「あとから振り返ってそう言えるというのは、それだけ充実してたということですよね」
「うん、そうだね。圭くんもそう思ってる?」
「まあ、おおむねは」
 そう言って苦笑する。
 鈴奈としても、その圭太の心情が理解できるので、あまり深く追求しない。もっとも、その原因のひとつを鈴奈も担っているのだから、言えない、というのが正しい。
「そういえば、圭くんは明日からはどう過ごすの? やっぱり、基本的にはお店のお手伝い?」
「ええ、そうなります。ただ、時々部活に顔を出すつもりです。この三月中は一応高校生ですからね。四月以降はそこまで気軽に行けなくなりますし」
「まあ、最近の学校は部外者の立ち入りを極力避ける方向に進んでるからね。いくら圭くんがOBで、しかも現役生に人気があっても、あまり例外を作れないというのはあるものね」
「なので、今月中は少なくとも週一で行こうと思ってます」
「そっか」
「こらぁ、圭太」
「わっ」
 とそこへ、ともみが乱入してきた。
「鈴奈さんとばかり話してるんじゃないの。そりゃ、今日の主役は圭太ひとりじゃないけどさ」
「あはは、ごめんね、ともみちゃん。ついつい話が長くなっちゃって」
「鈴奈さんはいいんです。鈴奈さんがこうしてみんなといられる時間は、限られてますから。でも、それを理解した上で、上手くコントロールするのが圭太の役目ですから」
 だいぶひどい言われようだが、ここで反論しようものなら、その三倍の言葉が返ってくるので、圭太は黙っていた。
「というわけで、圭太。私の相手もしなさい」
 そう言ってともみは、早速圭太のグラスにジュースを注いだ。
「卒業おめでと、圭太」
「ありがとうございます」
「どう? そろそろ卒業したっていう実感湧いてきた?」
「ん〜、どうですかね。正直言えば、まだそこまではないです。今はまだ漠然とそれを理解してるだけです」
「最初はそんなものよ。それこそ、卒業して次の日にでも立場が劇的に変化すれば別かもしれないけど、そんなことはないし」
「そうですね」
 圭太としても、それはそうだと思っていた。今日卒業して、いきなりそれを実感するのは難しい。徐々に自分は高校生ではないと実感していくのである。
「あ、でも、鈴奈さんは少し早めに実感できたんじゃないですか?」
「まあ、多少かな。やっぱり家を出てひとり暮らしをはじめることになって、その準備に追われるうちに実感していったよ」
「そうですよね。私も、家を出ていたらもっと早く実感できていたと思います」
「ただ、それをより確実に実感したのは、やっぱり大学に入ってからかな。自分は高校生じゃない。大学生なんだって」
「そういう風に考えると、卒業式が早いのもあまり意味がないのかもしれませんね」
「精神的にはね」
 圭太は、ふたりの話を聞きながら、自分の場合はいつそれを実感するのか、考えていた。
 圭太には大学入学という節目はない。そうすると、なにか別のきっかけが必要となる。だが、考えてもそれはなかなか思い浮かばなかった。
「そういえば、ともみちゃんはそろそろ就職活動をはじめるの?」
「まあ、ぼちぼちとはじめるつもりではいますけど。とりあえず、夏くらいまで広く浅くいろいろ見てみて、その上で絞り込もうと思ってます」
「そうだね。どうしてもこれじゃなきゃダメというのがないなら、あれこれ見てみるのもいいかもね」
「とにもかくにも、少し腰を落ち着けて取り組みます」
「三人でなにを話してるの?」
 そこへ、さらに幸江もやって来た。
「とりとめのない話よ」
「ふ〜ん」
 幸江は話の中身にはそれほど興味はないようである。
「それよりも、圭太、卒業おめでと」
「ありがとうございます」
「これで圭太も大人の仲間入りね」
「そうですか?」
「そりゃ、成人という意味ではまだだけど、圭太は進学しないで社会人になるんだから、普通の学生よりも責任を追う立場になるわけでしょ? だったら、それは『大人』ということになるんじゃない?」
「なるほど」
 厳密に大人という区切りがあるわけではないので、幸江の言い分も十分理解できた。
 もっとも、精神的な意味だけで言えば、圭太はとっくのとうに大人かもしれない。
「ああ、そうだ。ちょっとお願いがあるんですけど」
「ん、なに?」
「たいしたことではないんですけど、ともみさんや幸江さんに時間のある時でいいので、部活の練習を見てもらえないかな、と思いまして」
「練習?」
「私たちが?」
 ともみと幸江は顔を見合わせた。
「立場的にはこの春で卒業して三年になるので、直接知ってる現役生もいなくなりますから、複雑だとは思いますけど」
「それもあるけど、なんで私たちなの?」
「別に僕の代わりというわけではないんですけど、先生以外の誰かが練習を見るというのは大事だと思うんですよ。でも、そういうことも誰でもいいというわけではないので」
「なるほどね」
「信頼してくれるのは嬉しいけど」
 ふたりとも複雑そうな表情を浮かべた。
「もちろん、無理強いはできません。あくまでも可能であれば、なので」
「祥子は?」
「一応それとなく話してはあります。ただ、返答はまだもらってません」
「まあ、即決はできないわね」
「圭太の頼みでもね」
 ふたりにしても、圭太の頼みならできれば応えてあげたいのだが、内容が内容なので即決はできなかった。もしこれが一年前や二年前なら、この場ですんなり決まっていただろう。
「本当にあくまでもできれば、なので。それに、ともみさんも幸江さんもだんだんと大学の講義以外のことも忙しくなってくると思いますから」
「それはそうなんだけどね」
「とりあえず、もう少し考えてみるわ。どうせすぐに答えを出さなきゃいけない問題でもないし」
「ええ、それで構いません」
 ここですぐに断らないところが、ともみにしても幸江にしても、圭太のこと以外にも部活と後輩たちのことをきちんと考えている証拠である。
「いつも思うんだけど、圭くんたちだけじゃなくて、一高の吹奏楽部の子たちは、本当に仲が良くて、信頼関係がしっかり築かれてるよね」
「そうですか?」
「うん。私も断片的な部分しか見てないから、すべてを理解できてるわけじゃないけど、それでもそう思えるもの。そして、それは限りなく事実に近いとも思ってる」
 鈴奈にそう言われ、三人は顔を見合わせた。
「ん〜、たぶんなんですけど、うちの部って、基本的にそれぞれを拘束しないからだと思うんですよ。たいてい、人数が多いところはある程度拘束して、その上で結束力を高めるじゃないですか」
「そうね」
「でも、うちはそういうことがほとんどないんです。もちろん、最低限のことはありますよ。まったくなにもない状況でというのは、さすがに無理がありますから。ただ、それでも、かなりほかの部に比べて緩いし少ないと思います。まず、そのことが仲が良くなるひとつの要因ですね。言ってみれば、部員全員が『友達』みたいなものですから」
「なるほど」
「信頼関係については、これはたぶんほかの部と同じですよ。つらい練習を乗り越えて、ひとつの目標に向かっていく。その過程の中で信頼関係が築かれていったんです」
「そういう風に言われると、そうかもしれないね」
 鈴奈も納得したようだ。
「ただ、ここ数年に関して言うなら、その関係をより強固なものにしているのは、間違いなく圭太の存在です。まあ、私たちの代はそこまでではなかったですけど、ひとつ下の祥子たちはそうでしたし、さらに下はなおのことです」
「その成果もちゃんと出てますから、間違いないですよ」
「ふふっ、そうかもね」
 年上の三人に暖かな眼差しで見つめられ、圭太は思わず視線を逸らした。
「じゃあ、圭くんのそういう能力は、これからは大切な人たちのために使われる、ということね」
「ええ、間違いなく」
「もっとも、必要以上に『大切』な人が増えてほしくもないですけどね」
「あはは、それは言えてる」
 次第に雲行きが妖しくなり、圭太はその場を離れた。
 別の一画では、琴絵が凛と話をしていた。
「あ、お兄ちゃん。こっちこっち」
 琴絵に引っ張られ、その間へ。
「やっと解放されたんだ?」
「というか、逃げてきたのが正解かも」
「なるほど」
 妙に納得している琴絵に、圭太はなにか言おうとしたが、やめた。
「ところで、ふたりはなにを話してたんだい?」
「昔のことだよ」
「ほら、けーちゃんの小さな頃のことを知ってるのは、この中だと琴絵ちゃんと朱美ちゃんだけだから」
「私もね、たまにそういうことを話したくなるんだよ。でも、お義姉ちゃんとはそういう話はできないし、朱美ちゃんとはだいぶ話し尽くしちゃった感じがあるから」
「で、あたし、というわけ」
「なるほど」
 話の内容が圭太であるということを除いては、圭太も適当な選択だと思っていた。
「で、具体的にはどんなことを?」
「ん〜、いろいろだけど」
「お兄ちゃん想いの妹としては、もうちょっと構ってほしい、って感じだったかな」
「ちょ、ちょっと、凛お姉ちゃん」
「最近のけーちゃんは、柚紀のことばかり気にかけてるから。もちろん、そうしている理由も理解できてるから文句はないんだけど、ただできればもう少しだけ構ってくれると、琴絵ちゃんとしても安心できるってこと」
 実際、そういう話をしていたわけではないのだが、話の内容から琴絵が圭太に対してそういう想いを持っていることを、凛も察したのである。そのあたりは、幼なじみならではある。
「ま、それはいいとしても、実際、いろいろ話してたよ。昔のけーちゃんは今よりもやんちゃだったとか」
「それはそれで、僕としてはあまり聞きたくない内容かも」
「自分の昔の話なんてそんなものじゃないかな。あたしだってそうだし」
「そうすると、僕は早々に立ち去った方がいいかな」
 そう言ってその場を離れようとすると、琴絵がそれを止めた。
「ダメだよぉ。せっかくお兄ちゃんと一緒にいられるのに」
「ということみたいだけど?」
「しょうがないな」
 やれやれと肩をすくめ、圭太はその場にとどまった。
「まずは、改めて卒業おめでとう、お兄ちゃん」
「ありがとう」
「でも、これでまたお兄ちゃんと一緒に学校へ行けなくなっちゃうんだよね。それはそれで複雑な気持ち」
「それは仕方がないことだからな。それに、僕は一緒じゃなくなるけど、あと一年は朱美と一緒なんだから、まだいいんじゃないか?」
「それはね。三中の時は途中まではひとりだったし。それに比べたらまし」
「だったら、とりあえずそれで我慢すること」
「はぁい」
 琴絵としても、今更ダダをこねるつもりはなかった。ただ、ひと言だけ言っておきたかったのである。
「ホントに、けーちゃんと琴絵ちゃんて仲が良いよね。ここ最近、喧嘩した?」
「いわゆる喧嘩はしてないよ」
「うん。あっても、ちょっとした言い争い程度かな」
「そっか」
「そもそも、お兄ちゃんと喧嘩する理由がないから」
「それはそれで、やっぱり珍しいと思うなぁ」
 世間一般的な考え方からすれば、凛の意見の方が大多数である。もちろん、それが正しいわけではない。というよりも、模範解答はあっても本当に正しい答えはない。
「あたしとお姉ちゃんなんか、しょっちゅう喧嘩してたし。特に理由がなくても、なんとなくお互いが気に入らなくなって、いつの間にか喧嘩になってたり」
「だけど、凛ちゃんと蘭さんは、基本的には仲の良い姉妹だよね。ということは、喧嘩はあくまでもその関係を保っていくための手段のひとつかも」
「それはあるかも。まあ、ようはあたしもお姉ちゃんも不器用ということなんだけど」
 なんでも器用にこなせる人間など限られている。
「話は変わるけど、凛ちゃんはこれからどうするの?」
「とりあえず、合格発表までは特に予定はないけど。まあ、なにがあってもいいように、多少勉強もするとは思うけど」
「凛ちゃんなら、落ちることはまずないと思うけど」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、こればかりは結果を見てみないとわからないから」
 今までの成績を考えると、確かに凛が落ちる可能性は限りなく低い。ただ、高校の定期テストと大学入試ではあらゆる面で違うので、楽観はできない。
「あ、でも、大学も春休みだから、お姉ちゃんがそろそろ来るはずなんだよね。なんか、二月いっぱいはバイトして、三月はその分遊ぶんだって言ってた」
「なんか、蘭さんらしいね」
「まあね。だから、どこかでお姉ちゃんにつきあう日はあると思う」
「そっか。じゃあ、暇だったら遊びに来てよ。僕は基本的にほとんどいるはずだから」
「うん」
 ふたりの次は、二年トリオにつかまった。
「はい、圭兄」
 早速朱美は圭太のグラスにジュースを注いだ。
「卒業おめでとう、圭兄」
「おめでとうございます、圭太さん」
「おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「卒業自体はおめでたいことだけど、圭兄と一緒に学校へ行けなくなるのは、やっぱり淋しいなぁ」
「それはしょうがないさ」
「私の場合、あと一週間早く産まれてたら、圭兄と同じ学年だったからね。余計にそう思っちゃうよ」
 朱美は四月七日生まれなので、一週間早ければ前の学年になる。
 もしそうなっていたら、三年間一緒に過ごせていただろう。
「だけど、そうなってたらそうなってたで、今度は今みたいな関係にはなれてなかったかもしれないわよ?」
「確かに。年下の従妹という関係だったからこそ、今の関係になれたわけだし」
「そうなんだけどね」
 あれもこれもと求めても、なかなかすべてを得ることはできない。少なくとも、柚紀以外はその条件を満たすことはできないのである。
「そういえば、紗絵は中学の時はどんな感じだったの?」
「ん、なにが?」
「圭兄が卒業してからの一年間のこと」
「どんな感じって、別に普通だったわよ。普通に学校へ行って、勉強して、部活して。その繰り返し。それに、あの頃は今とは関係が違ったし」
「ああ、そっか。条件は同じじゃないんだ」
 朱美は大きく頷いた。
「ただ、また一緒に演奏したいって思ってたから、なんとしても一高に行かなくちゃって思ってたかな」
「なるほどね。紗絵の場合は、圭兄が卒業した時から進路は決まってたわけか」
「ん〜、それはちょっと違うけどね」
「違うの?」
 事情を知らない朱美と詩織は首を傾げた。
「実はね、推薦の話があったのよ」
「推薦? どこの?」
「東京の桐朋学園」
「ウソっ!」
「あの有名な桐朋?」
「うん」
「圭兄は知ってたの?」
「まあね。相談もされたし」
「でも、それこそ音楽はどこででもできるけど、圭太さんは一高にしかいないわけだから、最終的には推薦の話は断ったの」
「だけど、それってすごくもったいなかったんじゃないの?」
「ある意味ではね。だけど、もしふたりが私と同じ立場だったら、どんな選択肢を選んでた?」
「まあ、たぶん紗絵と同じ選択をしてたと思うけど」
「私もそうだと思う」
 後悔しない選択肢を選ぶのは、簡単ではない。結局は、なにを大事と捉えるかで決まってくる。紗絵の場合は、音楽よりも圭太を選んだだけである。
「あ、でも、そうすると紗絵のこれからの一年間はどうなるの?」
「ん、どういうこと?」
「だってさ、中学の時は一高へ行くという目標があったからよかったけど、今度はそれがないわけでしょ?」
「それはそれでちゃんと考えるから大丈夫よ。それに、高校進学と大学進学とじゃ、将来に対するものが全然違うもの。より真剣に様々な可能性について考えるわ」
「心配しなくても紗絵ならちゃんとやるよ。朱美も詩織も、そんな紗絵に負けないようにしっかりこれからのことを考えないとあとで後悔するよ」
「はぁい、わかってまぁす」
「そうですね。人のことばかり言ってられないですね」
 圭太としては、この三人がなにも考えていないとは思っていない。ただ、言葉にすることでよりはっきりと意識してもらいたかったのだ。
 なんといっても、三人は四月から最上級生──三年になるのだから。
「はいはいはい、そろそろ圭太を連れてっていい?」
 とそこへ、柚紀が割り込んできた。
「返してくれますか?」
「ん〜、それは状況次第かしら?」
 笑いながら、柚紀は圭太を連れて行った。
 連れて行かれた先には、琴美と祥子、琴子がいた。
「琴子ちゃん、パパを連れてきたわよ」
「あ〜」
「あらあら、琴子ちゃんはやっぱりパパがいいのね」
 それまで琴美に抱かれていた琴子は、圭太の顔を見るなり手足をばたつかせた。
「じゃあ、大好きなパパにバトンタッチ」
 琴子は、いつものように圭太の腕に収まると途端に上機嫌になった。
「琴子も、圭くんの卒業をお祝いしたいんだよ」
「ん、そうなのか、琴子?」
「う〜?」
「さすがにわからないか」
 そう言って圭太は、琴子の頬を軽くつついた。
「それにしても、本当にあっという間だったわね。高校の三年間なんて。ついこの間入学したと思ったら、もう卒業だもの。私も年を取るはずだわ」
「年の話をされたくないなら、そういうことを言わなければいいと思うよ」
「実際の年齢を言わなければいいのよ。圭太はすぐそうやって揚げ足を取るんだから」
「はいはい」
 琴美も大事な息子の晴れ日ということもあり、いつも以上に上機嫌だった。
「でも、子供の成長なんてそんなものよ。生まれた時からずっと見守ってきてるわけだから、いつでも以前のことが思い出せるのよ。琴子ちゃんだって、あなたが想像してるよりもずっと早く成長するわよ」
 さすがにふたりの子供を育てた『先輩』の言葉には重みがある。
 圭太もそういう話自体は耳にしているのだが、まだそこまでの実感は当然なかった。
「まあ、なんにしても、圭太。改めて卒業おめでとう」
「ありがとう、母さん」
 軽くグラスを合わせる。
「圭くん、卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「圭太。私も私も」
「じゃあ、柚紀も卒業おめでとう」
「うん、圭太もね」
 さらにふたりともグラスを合わせる。
「卒業式を終えると、少しずつもう高校生じゃないんだって思ってくるよ」
「祥子先輩は、具体的にいつ頃そう思いましたか?」
「ん〜、私の場合は、大学の入学説明会かな」
「ああ、先輩の場合はそうですね」
「大学って、高校とは全然違うから、ああ、私はもう高校生じゃないんだって思ったよ」
「となると、私たちの場合は、新年度になって学校がはじまる頃に実感するかもしれませんね」
「そうかもしれないね」
 祥子は大きく頷いた。
「今度こうしてみんなが集まるのは、いつになるんだろうね」
「ん〜、なにかないと難しいかもしれませんね。圭太の誕生日には集まるでしょうけど」
「なんか、それだけだと少し淋しいね。ね、圭くん。なにかいいアイデアない?」
「アイデアですか? そうですね……ひとつの方法として、月に一回とか、ある程度集まる日を決めてしまう、というのはあると思います」
「なるほど。確かにそれはそれでいいかもね。日にちさえ決めておけば、予定もあらかじめ決められるしね」
「あとは、学校の行事じゃないですけど、そういうのをやるというのもいいと思います。たとえば、春ならお花見とか、夏なら花火みたいに」
「そっちの方が、口実にはなりそうだね」
「まあ、結局は集まりたい時に集まるのがいいと思いますけど」
「じゃあ、少しみんなで考えてみようか」
「そうですね」
 圭太たちは人数が多いので、特別なことがないと集まるのは難しい。特にこれから先は、身分が学生じゃなくなってくるので、余計である。
「ま、今日はそういうのは後回しにして、圭くんたちの卒業をお祝いするけどね」
「ありがとうございます」
 これから先のことも気にはなるが、今日は特別な日。
 今はただ、心から圭太たちの卒業を祝うだけ。
 
 二
 三月三日は桃の節句、ひなまつりである。
 圭太のまわりには圧倒的に女の子が多いので、関わりの深い行事である。
「今日はひなまつりね」
「そうだね」
 朝、テレビを見ていてそんな会話になった。
「琴子ちゃんにとってははじめてのひなまつりだから、なにかするの?」
「特別なことはなにもしないと思うよ」
「そうなの?」
「少なくとも僕個人は特別なことをやる必要はないと思ってるけどね。だってさ、お宮参りと違って、ひなまつりは本人も楽しめた方がいいと思うんだ。そりゃ、本来の意味を考えれば健やかに育ってくれるように願うものだから、本人の意志は関係ないと思うけど。それでも、もう少し大きくなってひなまつりの意味を本人も理解してから特別なことをしても遅くないと思う」
「なるほどね」
 子供絡みの行事は、時として親やまわりばかりが盛り上がってしまうことがある。
 主役である子供をある意味では無視してのことに、圭太は違和感を覚えていた。
 もちろん、全面的に否定するわけではない。主役は子供だが、その子供が成長している姿を見守っている親にとっても、そういう行事は大事なのである。
「でも、向こうはそう思ってないんじゃないかな」
「だろうね。というか、家族総出で盛大にやりそうな気がするよ」
「なんか、容易に想像できるね」
 そう言って柚紀は苦笑する。
「先輩からはなにも聞いてないの?」
「うん、特になにも。ただ、今日の予定を聞かれただけ」
「そっか。先輩としても、複雑な心境なんだろうね。盛大にお祝いしてあげたいとも思うけど、あまり大げさにもしたくない。きっと圭太がさっきみたいに考えてることも察してると思うから余計にね」
 柚紀ももうすぐ母親となる。もし子供が女の子なら、同じような状況が起こるかもしれない。
 それを思っただけで、祥子の気持ちが理解できるのである。
「そういえば、琴絵ちゃんのひな人形ってないの?」
「あるにはあるんだけど、ちょっと飾れない状態なんだ」
「どういう意味?」
「柚紀もわかってるとは思うけど、ひな人形って片づけるのが遅くなるとその分だけお嫁に行くのが遅くなるって言われてるでしょ?」
「うん」
「で、うちのも当初は三日が終わったらすぐに片づけてたんだけど、そのうち琴絵もいろいろなことを理解してね。それで、わざと遅くまで飾っておいてくれって言って」
「ああ、なるほど。琴絵ちゃんは昔からお嫁になんか行く気がなかったからね。でも、そんなことをお義母さんやお義父さんは許してたの?」
「少しの間ならいいと思ってたんだけど、それが次第に長引いていって。業を煮やした母さんが無理矢理片づけようとしたら、今度は琴絵が人形を隠しちゃって。で、そこまでやってさすがの母さんも折れて、もう少しだけ飾ってもいいということで決着したんだけど、その人形が大変なことになっちゃってね」
「壊れたの?」
「そんな感じ。父さんは新しいのを買えばいいって言ったんだけど、母さんは自業自得だって言って、新しいのを買わせなかったんだ。というわけで、それ以来うちではひな人形は飾ってないわけ」
「そういうことがあったんだ。なるほどね」
 圭太が絡んだ時の琴絵は普段はやらないことを平気でやることを柚紀も知っているので、そういうことがあったと言われても驚かなかった。
「私は、自分のを持ってないからそれはそれで少し羨ましいかな」
「ああ、そっか。咲紀さんの時に買ってたからか」
「そう。ふたり目の私も女の子だったから、ふたつは必要ないってことでね。当然、私はそんな事情を知らなかったから、ただ単純にうちにひな人形があるのが嬉しかったわ。まあ、事情を知ってからは少し複雑だったけど」
「でも、普通の家ならそうだよね。段飾りならいくつも置いておけないし」
「まあね。男の子だってそうでしょ? 五月人形をいくつも飾る場所は普通はないし」
「だろうね」
「だから、別にどうこう思ってはいないよ」
 そう言って笑う。
「あ、でもね、圭太」
「ん?」
「もしこの子が女の子だったら、考えないとね」
「ああ、うん、そうだね。来年のひなまつりまでに考えないと」
「男の子だったら、どうしよっか?」
「僕のがあるよ。もうずっと飾ってないけど、ひな人形みたいにはなってないし」
「とりあえずはそれでいっか。まあ、たぶんうちのお父さんが新しいのを買いそうだけどね」
「それはそれでいいよ。どっちみち僕たちだけではどうにかなることではないし」
「そうだね」
 まだ未成年で生活能力のないふたりにとっては、できることとできないことがある。
 圭太も柚紀もそのことは十分理解しており、分不相応なことは望まないと決めていた。
「あ、そうだ。せっかくだから、今日はうちでもひなまつりをやらない?」
「それはいい考えだね」
「よし。そうと決まったら準備しないと」
 俄然やる気になった柚紀を、圭太は穏やかな眼差しで見つめていた。
 
 適当な時間に家を出た圭太は、三ツ谷家へ向かった。
 徐々に春らしくなってきている街並みを眺めつつ、幾分ゆっくりと歩いて行く。
 天気は快晴だが、北風が少し強く、肌寒い。
 それでも時折その風に乗って梅の花の香りが届いてくる。目に見えたものは少なくとも、季節は進んでいるのである。
 三ツ谷家に着くと、祥子と琴子が出迎えてくれた。
「いらっしゃい、圭くん」
「あ〜」
「おじゃまします」
 家に上がると、奥の方がいつもより賑やかだった。
「賑やかですね」
「お母さまとお姉さまが朝から張り切っててね。ずっとあんな感じなの」
「なるほど」
「主役は琴子のはずなのにね。ね、琴子?」
「う〜?」
 普段は客間に使っている和室に入ると、大きなひな人形が飾られていた。
「立派ですね」
「お父さまがね、初孫だからって一番いいのを選んだの。私はここまですることはないって言ったんだけど、全然聞いてくれなくて。それに、うちにはお姉さまのと私のもあるから、それでもいいと思ったくらいだし」
 それは見事な七段飾りだった。装飾も豪華で、見ただけでかなり値が張ることがわかった。
「これを見ての琴子の反応はどうでしたか?」
「ん〜、興味はあるみたいだけど、あまり触らせるわけにもいかないから」
「それもそうですね」
「ま、そのうち女の子らしく興味を持ってくれればいいよ。今はまだそういう意味で興味を持ってるわけじゃないから」
 和室を出た三人は、リビングへ。
「おじゃまします」
「いらっしゃい、圭太さん」
「圭太くん、いらっしゃい」
 リビングのテーブルでは、朝子と陽子がちらし寿司を作っていた。
「もう人形は見ましたか?」
「ええ。とても立派なもので驚きました」
「初孫のためですからね。大奮発したんですよ」
 朝子も、孫のためにいろいろできるのが嬉しいようだ。
 陽子もそれに無理矢理つきあわされてる感じはない。こちらもやはり、姪っ子がカワイイようである。
「祥子さん。まだ準備には時間がかかるから、お茶でも飲んで待ってて」
「わかりました」
 祥子はそのまま台所へ異動した。
「あ〜、う〜」
「ん、どうした、琴子?」
「あ〜」
「お寿司が気になるみたいですね」
「これだけいろいろな具材を使ってるものはそうないですからね」
 琴子はしきりにちらし寿司に手を伸ばしている。
「琴子ちゃんもこれを食べられたらよかったのにね」
「それはしょうがないですよ。もっと大きくなったら、食べられますから」
「そうね」
「はい、圭くん」
 そこへ、祥子がお茶を淹れて戻ってきた。
「もうお昼が近いから、お茶だけでね」
 圭太がカップを手に取ると、琴子も手を伸ばす。
「こら、琴子。これは熱いからダメ。火傷しちゃうぞ」
「あ〜」
 琴子が届かない高さに持ち上げるが、それでも必死に手を伸ばす。
「琴子ちゃんの場合は、なんにでも興味を持ってるのもあるけど、圭太くんが持ってるだけでそれが興味の対象になるみたいね」
「興味を持つこと自体は悪いことではないけど、なんにでもというのは少し考えないとあとで大変かもしれないわね」
「それは、発想の転換で解決できるんじゃない?」
「それは?」
「つまり、圭太くんさえしっかりと琴子ちゃんに教えられれば、まわりが必要以上にあれこれ言う必要はなくなるわけだし」
「それはそうかもしれないけど、圭太さんの負担が大きすぎるわ」
「ということだけど、圭太くんはどう思う?」
「えっと、僕にできることはやりますけど」
「お姉さま。圭くんにそんなことを聞けば、必ずそう答えるに決まってるじゃないですか。そういう意味のないことはしないでください」
 困惑気味の圭太をかばうように、祥子はそう言う。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。というか、わかっていてもちゃんと確認しておきたいことってあるでしょ? 今回のはそれということよ」
 陽子は、軽くを肩をすくめた。
 祥子と陽子の間に挟まれた圭太は、複雑そうな表情でお茶を飲んでいた。
 
 昼食としては相当豪華なものを食べ、午後はひなまつりそのものを楽しむこととなった。
 場所をひな人形の前に移し、白酒やひなあられ、菱餅も用意された。
 琴子も少しばかりおめかしして、主役らしくなった。
「ほら、琴子。おいで」
 圭太は手を叩き、琴子を呼ぶ。
 琴子はその圭太の元へハイハイで行く。
「ほら、もうちょっと」
「あ〜」
「よし、いい子だ」
 着いた琴子を抱き上げ、頬ずりする。
「今日のひなまつりは、琴子ちゃんにとっては圭太くんが一緒にいてくれる方が嬉しいのかもしれないわね」
「そうね。大好きなパパと気兼ねなく一緒にいられるわけだから」
「祥子としては、複雑な心境?」
 陽子は、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
「別にそんなことはありません。お姉さまは勘繰りすぎです」
 そう言ってひなあられをひとつ。
「でもさ、正直なところどうなの? 琴子ちゃんが大きくなってもこのまま圭太くんのことを大好きなままでいたら、取られるとまでは言わないけど、それに近いものがあると思うのよね」
「それはそれで構いません」
「あら、そうなんだ。へえ、それはまた意外ね。祥子は末っ子の典型で、とにかく甘えたがりだから、そういうの耐えられないと思ったのに」
「これでも母親ですから」
「そう言えるのは大切なことだとは思うけど、無理をするのはよくないと思うわ」
「お言葉ですけど、お母さま。別に無理などしていません」
「そうかしら? では聞くけど、祥子さんはいつ母親から女性に戻るのかしら? 今の話だと戻る機会はなさそうだけど」
「それは……」
「売り言葉に買い言葉では、後悔するわよ?」
 人生の先輩の言葉は、とても重かった。
「それと、陽子さん。あまり余計なことは言わないの。その言葉は、そのうちそっくりそのまま返ってくるわよ?」
「はぁい、わかりました」
 陽子は肩をすくめ、頷いた。
 三人が一触即発の状況でも、圭太はいっさい口を挟まない。挟める状況ではないというのもあるが、下手に口を挟むとややこしくなるからだ。
 もっとも、祥子は別としても、朝子や陽子に口でかなうはずはない。それも自覚しているからというのもある。
「それにしても、本当に琴子ちゃんは圭太さんと一緒にいると泣くのはもちろん、ぐずりもしないわね」
「それだけ信頼してるってことでしょ」
「それはわかるけど、普通はもう少しあると思うわ。実際、陽子さんや祥子さんもそうだったし」
「じゃあ、琴子ちゃんは普通じゃないってことでしょ。普通じゃないくらい圭太くんのことが好きで、迷惑をかけたくないから泣かない。そういうこと」
「生後五ヶ月の赤ん坊がそこまで考えていたらすごいわね」
 琴子が圭太に抱かれていると絶対に泣かない理由は、それこそ琴子にしかわからない。大きくなってからその理由を聞いても、おそらく答えられない。
 ただ、無意識というか、潜在的ななにかの影響で、圭太に抱かれている時は泣かないのである。
「でも、このまま大きくなると、琴子ちゃん、うちに居着かないんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、やっぱり大好きなパパと一緒にいたがると思って」
「その可能性は否定できないけど、淋しいからできるだけそうならないでほしいわ」
 朝子は冗談めかしてそう言う。
「ん、どうした、琴子? あの人形が気になるのか?」
「う〜」
「そうか。じゃあ、ちょっとだけだぞ」
 圭太は琴子を抱き上げ、立ち上がった。
「琴子。これがおひなさまだぞ。綺麗な着物を着てるだろ?」
「あ〜」
 段の一番上にあるおひなさまに向かって手を伸ばすが、さすがに圭太も触らせはしない。
「あ〜、う〜」
「こら、暴れない。おとなしくしてなくちゃダメだって」
 圭太が伸ばしていた手をつかみ、抱き直すと少しおとなしくなった。
「う〜」
 琴子はひな人形にまだ未練があるのか、しきりにそちらを気にしている。
「もっと大きくなったら好きに触っていいから、今はおとなしくしてな」
 目線を合わせてそう言うと、今度は圭太の顔にターゲットが移った。
 頬やあごをペチペチと叩く。
「人形をあきらめて、パパの顔で我慢したのね」
「琴子ちゃんとしては、どっちでもいいのかもしれないわ」
 朝子と陽子はそう言って笑う。
「圭くん、代わろうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ僕に興味が移ってる方が安心できますから」
「そう?」
「圭太くんとしては、やっぱり自分の目の届くところにいてくれた方が安心?」
「そうですね。少なくともそうあってくれた方が、漠然とした不安感に襲われることはないですね」
「なるほど」
 圭太にとっては、普段ずっと一緒にいるわけではない琴子が、せめて自分のいる時くらい側にいてくれる方が、安心できるのである。
「でも、圭太さんが来ると私たちの出番がなくなってしまうのが、少し淋しいですね」
「すみません」
「ふふっ、別に謝る必要はありませんよ。ただ、うちの人がよく愚痴をこぼしているものですからね」
「お父さまは、琴子に対してなんでも無理に押しつけようとしてるから、なかなか相手をしてもらえないんです。もう少し加減を覚えてもらわないと」
「そうね。いくら初孫で嬉しいからって、少々限度を超えている部分はあるわね」
「まあ、お父さまの場合は、今よりも琴子ちゃんが大きくなってから邪険に扱われないか、心配だけど」
「一度痛い目を見れば、さすがに学ぶでしょう」
 ずいぶんとひどい言われようだが、圭太としてはそれに口を挟むことはなかった。
「あ、そうだ。琴子ちゃんもせっかくおめかししてるんだから、写真に残しておかないと」
「それもそうね。陽子さん、お願いするわ」
「了解」
 陽子は、言うが早いか、部屋を出て行った。
 そんな様子を見て圭太は、自分が側にいられない時間が多くても、この家族の間で育つのなら、なんの心配もいらないと確信していた。
 それはとても重要なことで、圭太にとっての心配の種が、ひとつなくなることを意味していた。
 もっとも、圭太にとっての心配の種は、ほかの人にとってみたら、取るに足らないことかもしれないが。
 まだまだ父親として日の浅い圭太にとっては、すべてが勉強だった。
 
「ん、ん〜」
 祥子は大きく伸びをした。
「ずっと家にいると、体が凝り固まっちゃうんだよね。たまに外に出ないと」
「散歩だけじゃ足りないですか?」
「散歩の時は、琴子に注意をしてなくちゃいけないからね。純粋にのんびりとはできないかな」
「なるほど」
 圭太と祥子は、琴子を家に置いてふたりで外に出ていた。
 家にいてものんびりできないことはなかったのだが、たまにはふたりだけでのんびりしようということで、琴子を残ったふたりに任せたのである。
「琴子は、圭くんと一緒にいられなくてちょっと不満かもね」
「大丈夫ですよ。だいぶ眠そうでしたから、今頃寝てます」
「かもしれないね」
 春の陽差しをたっぷり浴びながら、ふたりはのんびりと歩いて行く。
「圭くんとはじめて出逢ってから、もうそれなりの時間が経ってるけど、未だにいつも新鮮な気持ちでいられるのは、いいことだよね」
「そうですね。そういうのは大切ですね」
「たまにね、考えるんだ。どうして私はこんなに圭くんのことが好きなんだろうって。好きになった理由はもちろんあるけど、それは最初のきっかけでしかないでしょ? それから先のことは、また別の理由があるわけだし」
「理由はあるかもしれませんけど、それを改めて考えると難しいかもしれませんね。僕も、柚紀とのことを考えることはありますけど、最後にはどうでもよくなってますからね」
「そうなんだよね。結局は理由なんてどうでもいいんだよね。ただ、たまに理由を考えて自分を納得させないと一緒にいられないと思っちゃって」
 不安の裏返しがそういう行動に表れる。もちろん、それが悪いわけではない。なにも考えずにいるよりは、ましである。
 ただ、考えすぎるとかえって悪影響を与える場合もあるので、注意も必要である。
「言葉は悪いですけど、家族以外はもともと他人ですからね。やっぱりなんらかの理由を求めてしまうのは当然だと思います」
「そうだよね」
 祥子だけではないが、圭太にそう言ってもらうのが一番の特効薬となる。
「でも、一緒にいるための理由はそうやっていろいろ考えちゃうけど、いられなくなった時の理由って、どういうものなんだろうね。やっぱり、一番はお互いのことを好きだと思えなくなったことかな」
「どうなんでしょうね。結構複雑なのかもしれませんよ。たまに聞きますけど、まだ好きなんだけど、一緒にはいられなくなったって」
「それは、ひとりの人間としては好きだけど、異性としてはそうじゃないってことかもしれないね。そうしたら、一緒にはいられないかも」
「僕もみんなにそう思われないようにしないといけないですね」
「圭くんの場合は、その心配はないと思うけど」
 圭太とまわりの関係は、柚紀を除いて全員圭太への想いを募らせてなので、圭太さえ受け入れ続けていれば、一緒にいられなくなることはない。
「ね、圭くん。今年は、お花見しようよ。柚紀のことはあるとは思うけど、問題なさそうだったらね?」
「そうですね。できたらやりたいですね。柚紀からもそういう話は出たんですよ。ただ、時期が時期ですから、来年にしようかってことで終わったんです」
「そっか」
「ただ、やりたくないわけではないですから、もう一度話してみます。もっとも、いつ頃花が咲くかによっても変わってくるとは思いますけど」
「そうだね」
 相手は自然なので、人間の思い通りにはならない。
「琴子が生まれてから、今まで以上にいろいろなことをやりたいと思ってるの。それはもちろん琴子にいろいろなものを見せたいという気持ちもあるからなんだけど、それだけじゃなくて、母親としてもっともっと成長するために、私自身もいろいろやるべきだと思ったの。世間一般的に考えれば、私は母親としてまだまだ足りない部分が多いからね。人生経験だって不足してるし。それを補うためには、いろいろなことを積極的にやらなくちゃね」
「それはいいことだと思います。ただ、あれもこれもと一度にやるのはやめた方がいいですよ。ひとつずつ、ゆっくりとで大丈夫なはずです。人間には限度がありますから」
「うん」
「人のことは言えませんけど、祥子も無理しがちですから」
「あはは、そうだね」
 側で見ていてくれる人がいる。それが一番大事なこと。
 だからこそ、自分の好きなことができるのである。
「あ、そうだ。圭くんにひとつ聞いてみたいことがあったんだ」
「なんですか?」
「すぐのことではないし、近い将来のことでもないんだけど、もし私が家を出るって言ったらどうする?」
「家を出る、ですか。そうですね……出ること自体に異論はありません。ただ、その出る理由が問題だと思います」
「理由、か」
 祥子は少し押し黙った。
 圭太としても、祥子がなぜそのようなことを言ったのか、ある程度は理解していた。ただ、それはあくまでも本当にある程度なので、本当のところはわからない。
 世間的に見れば愛人である祥子のことも、もうひとりの妻だと思っている圭太にしてみれば、これから先のことはいろいろあるだろうと思っていた。
 そのひとつに、家を出るという選択肢もあった。だから、特別驚かなかったのである。
「いろいろと考えたんだけど、ずっと家にいると結局はお母さまやお姉さまたちに頼る部分が多くなっちゃうから。だけど、私も母親としてもっと子供を育てるということに責任を持った方がいいと思ったの」
「なるほど。だから家を出て、なんでも自分でやろうと」
「うん。ただ、今はまだそうしたらどうかな、程度だから。実際にそうするかどうかはわからないけどね。大学を卒業して、私がどんな仕事に就いてるかとか、琴子がどんなことをやりたいかとか、いろいろな要素が絡んでくるから」
「そういうことは、そのうちきっと役立ちますから」
「圭くんにそう言われると、本当にそう思えるから不思議」
 そう言って祥子は微笑んだ。
「まあ、実際は私が家を出るなんて言ったら、お父さまが是が非でも止めるだろうけどね。それこそ、なりふり構わず」
「……ありそうですね」
「ふふっ、そうなったらそうなったで、たぶんお父さまと争うことになるけど、それはそうなったらの話だし。それに、どうするかを決める上で最も重要なのは、琴子がなんていうかだけどね。琴子が家に残りたいって言えばそうするし、それはイヤだって言えばそうするし。圭くんと一緒にいたいって言われたら、ちょっと迷っちゃうけど」
 それが一番ありそうなのだが、さすがにそれをかなえるのは難しい。
「とりあえず、圭くんがそう考えてるってわかっただけで今回はよかったよ」
「実行しようと思ったら、また改めて相談してくださいね」
「うん」
 なにが最善なのか。それは今はわからない。ただ、様々な選択肢について考えておくのは、大切なことである。たとえ、その結果が現状維持だったとしても。
「さてと、もう少し行ったら帰ろっか」
「そうですね」
 
 ふたりが家に帰ると、ひなまつりの主役である琴子は夢の中だった。
 ベビーベッドの中で眠るふたりの愛娘は、とても穏やかな表情だった。
「ホント、よく寝てる」
「ふたりが出かけてそんなにしないうちに寝ちゃったのよ。やっぱり大好きなパパがいないとダメね」
 孫と遊ぼうと思っていた朝子は、少し残念そうだ。
「まあ、ある意味ではちゃんと状況を認識してるってことよね。琴子ちゃんとしては、圭太くんがいる時はできるだけ起きて、遊んでもらたい。で、圭太くんがいない時は無駄に起きてる必要はないから、寝ちゃうと」
「さすがにそこまで考えてるとは思えませんけど」
「むしろ考えてる方がいいと思うわよ。だって、無意識のうちにそんなことをしてるとしたら、将来とんでもない女性になるもの」
「……なるほど」
 そういう風に言われると、祥子も納得してしまう。
「とりあえず、祥子としては琴子ちゃんがどんな性格の子か、早めに確認する必要があるわね。じゃないと、いらぬ苦労をしそうだわ」
「心配しすぎるのもどうかとは思うけど、自分の子供のことなのだから、いろいろ考える必要があるのは、そうだと思うわ」
「お母さまもそうだったんですか?」
「そうね。自分の子供とはいえ、ひとりの人間であるわけだから、尊重するところは尊重して、直してもらうところは直してもらわないと。そういうことから言うと、祥子さんはまだしも、陽子さんについてはもう少し厳しく育てた方がよかったと思ってるわ」
「はいはい。どうせ妹よりもダメな姉ですよ」
「そういうところが問題なのよ」
 そう言って朝子はため息をついた。
「まあ、琴子ちゃんはあまり心配することはないと思うわ。祥子さんはもちろんのこと、圭太さんもしっかりと見ていくでしょうから。それに、今の時期にこれだけ楽に子育てできてるのだから、これから先も必要以上に苦労することはないと思うわ」
「それは、親にとってはいいことなの?」
「それはそうよ。親だって、なにも子育てだけやっていればいいわけじゃないのだから。子育て以外にもやらなくちゃいけないことはたくさんあるし」
「なるほど。それはそうね」
「それに、楽になると言っても、はじめてのことなんだから大変なことの方が多いわ。それをひとつずつこなして、親子揃って成長するの」
 まわりが手を貸してくれたとしても、自分の子供を育てるのは、やはり自分たちなのである。はじめての子供なら、親も当然子育てははじめて。手探りでもなんでも、子供を育てなければならない。
 そうすることによって、親も子供も成長していくのである。
 その途中で投げ出してしまうと、親も子供もダメになってしまう。
 親の場合は育児放棄と呼ばれ、子供は非行に走ったり引きこもってしまったりする。
 それはもちろん親子の数からすれば少数なのだが、実際にそういうことがあるので、人のことだと思わないで常に自分たちに置き換えて注意しなければならない。
 もっとも、圭太と祥子、そして琴子の親子にはそのようなことは、まったく心配ないであろうが。
「陽子さんは、いつそれを経験するのかしらね」
「さあ、いつになるのやら。当面そんな予定はないわ」
「祥子さんを見て焦りはないの?」
「ん〜、特には。ああ、もちろん幸せそうな祥子を見ていると、自分もああなりたいとは思ってるけど」
「それならいいけど」
 朝子としても、今すぐに陽子に結婚してもらいたいわけではない。ただ、どう考えているのかを確認しておきたかっただけである。
 なにも、結婚することだけが人生にとって幸せなわけではない。生涯独身でも幸せな人生を送ることはできる。
「お姉さまよりもお兄さまの方が先かもしれませんね、それを自覚させるのは」
「確かにそうかもしれないわね。行雄さんは、そういうことに対して労力を割こうとしていない節があるから」
「三ツ谷家の跡取りとして、しっかりしてもらわないとね」
「行雄さんには、これから少しずつプレッシャーをかけましょう」
 この三ツ谷家では女性陣の力の方が、圧倒的に強いし大きい。もし本気を出されてそれをされたら、男性陣には為す術はないだろう。
 圭太もそのことを少し理解しているので、心の中で行雄に対して同情の念の持っていた。
 とはいえ、圭太にできることなどなにひとつないのも事実である。
「ん……あ……う〜……」
「あ、琴子ちゃん起きちゃったみたいね」
「やっぱり、パパが側にいると違うわね」
 圭太はまだ眠そうな琴子を抱き上げた。
 軽く背中を撫でると、琴子は小さくあくびをして、今度は圭太の腕の中で眠ってしまった。
「ふふっ、圭太さんと琴子ちゃんのそういう姿を見ていると、見ているこちらまで穏やかな気持ちになれるわね」
「本当に、絵になる父娘ね」
「圭くん、またベッドに寝かせたら?」
「いえ、もう少しだけこのままでいます。なんとなく、琴子がそうしていてほしいような気がするんです」
 圭太は、琴子の頬を軽く撫でた。
 その様子を見て、三人はやはり穏やかに微笑んでいた。
 
 圭太が家に帰ると、柚紀を中心として琴絵と朱美が簡単なひなまつりの準備をしていた。
 さすがにひな人形までは用意していないが、ひなあられや菱餅などはあった。
 女性比率の高い高城家では、少なくとも現状ではひなまつりの方が盛り上がった。
 とはいえ、年齢的にひなまつりを純粋に楽しむという年齢ではないので、ようはそれを口実に騒ぎたいというだけなのだが。
 圭太としては、そうやってでも少しずつ日々のストレスなり欲求なりを発散してくれるなら、たとえ二度目であっても構わないと思っていた。
 
 三
 三月六日。朝から空一面を雲が覆い、いつ雨が降り出してもおかしくない天気だった。
 琴絵と朱美が学校へ出てしばらくした頃、凛がやって来た。
「おはよ、けーちゃん」
「おはよう、凛ちゃん」
「ついでに、柚紀もおはよ」
「はいはい、ついでにおはよう」
 いつものやり取りではあるが、いつもより少しだけキレがなかった。
「どう? 腹はくくってきた?」
「そういう言い方されるとムカツクけど、まあ、それなりには」
「大丈夫だよ。凛ちゃんが努力してきたことは、絶対に無駄にはならないから」
「ありがと、けーちゃん」
 今日は、凛が受けた地元の国立大学の合格発表がある。
 ひとりで確認に行くのはさすがに躊躇われた凛は、圭太に一緒に行ってくれるように頼んでいた。
 圭太としては、ここ二年とも合格発表には付き合っていたので、行くこと自体になんら異存はなかった。
「凛。ちゃんとうちの旦那さまを返してよね。今日は琴絵ちゃんも朱美ちゃんも学校があっていないんだから」
「わかってるわよ。発表が終わったら、すぐに戻ってくるから」
「帰ってこなかったら、五分と置かずに電話かけまくるからね」
「……そこまでしなくてもいいじゃない」
「ダメよ。凛だけじゃないけど、圭太のこととなるとすぐ理性が飛んじゃう人が多いから。これからは今まで以上にきっちりけじめをつけないといけないの」
 そう言って柚紀は自分のお腹に触れた。
「わかったわよ。ちゃんと帰ってくるから」
 ここで言い争っても結局柚紀に勝てないのはわかっているので、凛は素直に退いた。
 もっとも、今はそんな言い争いをしている時でもないのも事実である。
「でも、実際どうなの?」
「ん、なにが?」
「合格発表を自分の目で見た方がいいのか、あとで書類が届くのを待った方がいいのか。どっちの方がいいのかと思って」
「まあ、どっちもどっちでしょ。どっちにしろ、受かってれば問題ないし、落ちてたらダメだし」
「それはそうだろうけど、凛はどっちがいいの?」
「あたしは、性格上座して待つというのはあまり好きじゃないから、見に行った方がいいわね」
「ふ〜ん、なるほどね」
「だけど、それはあんただって同じでしょ?」
「まあね。私も座して待つタイプじゃないわ」
 基本的な性格が似ているふたりだけに、そういう些細なこともお互いに理解できる。
 もっとも、今回の合格発表に関しては、事情があって直接見に行けない場合を除いては、ほとんどの人は自然と見に行くだろう。日本ではそういう『習慣』が育っている。
「で、終わったあとはどうするの?」
「結果次第でしょ」
「それもそうか」
 柚紀も納得して頷いた。
 それから少しして、圭太と凛は合格発表の行われる大学のキャンパスへと向かった。
 
 圭太にとっては三年連続の合格発表ではあるが、さすがに慣れるものではなかった。
 もしこれが自分自身のものだったら逆にもう少し気が楽だったかもしれない。
 もちろん、そのことを口にすることはない。
「ね、けーちゃん。もしダメだったら、どうしたらいいんだろうね?」
「そうはならないとは思うけど、万が一にでもそうなったら、早めに切り替えることが必要かもね」
「切り替えかぁ。確かにそうかもね。いつまでも引きずってても前には進めないしね」
「でも、凛ちゃんなら大丈夫だよ。落ちるなんてことないから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 大学の構内に入ると、すでにふたりと同じように合格発表を待っている人の姿があった。
 合格発表用の掲示板はすでに設置されており、あとはそこに合格者の受験番号が張り出されるのを待つだけだった。
「そういえば、けーちゃんのほかの知り合いも受けてるんだよね?」
「うん、受けてるよ」
「その人たちも来てるよね?」
「たぶんね」
「会ったらまずい人とかいる?」
「いないよ」
「じゃあよかった」
「気になる?」
「ん〜、あたしがというよりも、けーちゃんがあたしと一緒にいるところを見られるとまずい人がいるかな、って思って」
「少なくとも一高生ならそういうことはないよ。一高生で僕と柚紀が受験していないことを知らない生徒はいないだろうし」
「それもそうだね」
 圭太もそういうことを考えないではなかったが、そもそもの問題としていつ会うかわからない相手に対して警戒するのは難しいことと、合格発表は一カ所でしか行われないので、そこからどこかへ行くのは無理ということで、あえて考えなかった。
「それにしても、この妙な緊張感はちょっと耐えられないかも」
「水泳の時よりも?」
「ある意味、泳ぐ時は自分が解放される時だからね。スタートの時は確かに緊張するけど、それも集中してのことだから。今みたいに手持ち無沙汰なわけじゃないし」
「そっか」
「でも、それもあと少しだけどね」
 予定時間が近づいてきて、掲示板のまわりに人が集まってきた。
 ふたりも掲示板の前へ移動する。
「凛ちゃん」
「ん?」
「手、出して」
 圭太は、凛の手を握った。
「ありがと、けーちゃん」
 そして、その時間が来た。
 大学の職員が大きな紙を持って出てきた。
 掲示板に学部、学科ごとに張り出していく。
 凛が受けたのは、経済学部。
「…………」
 圭太は、凛が番号を見つけ出すのを待っている。
「あ……」
 凛の視線が、ある一点で止まった。
「あった。あったよ」
「おめでとう、凛ちゃん」
「うん、ありがと、けーちゃん」
 感情を爆発させることはなかったが、それでもその顔には合格できた安心感でとてもいい笑顔があった。
 大学構内を出ると、凛は早速家族に連絡を入れた。
「帰ったら合格を祝ってくれるって」
「そっか。あ、じゃあ、今日は早めに帰った方がいいのかな」
「大丈夫大丈夫。やるのは夜だし、それに今帰ってもお父さんはいないから」
「ああ、そういえばそうだね」
 まだ平日の午前中である。普通に仕事をしていたら、さすがに家にいることはない。
「じゃあ、これからどうしよっか?」
「えっと、けーちゃんさえよければ、一度学校につきあってもらえるかな?」
「学校に? それはいいけど、なにかあるの?」
「一応、合格の報告をしようと思って。どうせすぐにわかることではあるんだけど」
「そういうことなら全然構わないよ」
「ありがと、けーちゃん」
 そのままふたりは一高へ向かうことにした。
 その道すがら。
「ん、メールだ」
 バスの中で圭太の携帯がメールを受信した。
「誰から?」
「知り合い、かな」
 そう言って圭太は曖昧に微笑んだ。
 メールの相手は、二高吹奏楽部前部長の金田昌美からだった。
 メールの内容は簡潔で、大学に合格したというものだった。ちなみに、その大学とはふたりが今行ってきた大学である。
「ふ〜ん、知り合いか」
 相手については深く追求しなかった凛ではあるが、その内容には興味があるようである。
「大学に合格したって」
「あ、そうなんだ。ちなみに、どこの大学?」
「凛ちゃんと同じ」
「えっ、そうなの?」
「学部は違うけどね」
「そっか。そうなんだ」
 凛に気を遣って、圭太はある程度のことを話した。もちろん、自分に不都合なことは話さなかったが。
「ね、その人のこと、柚紀は知ってるの?」
「知ってるよ。とはいえ、詳しく知ってるわけじゃないけどね」
「となると、あたしが根掘り葉掘り聞くわけにはいかないね」
「ん、今度本人に聞いてみるよ。どこまで話していいか」
「あ、別にそこまでしなくてもいいよ。ちょっと気になっただけだから」
 さすがにそこまでさせると、今度は圭太にも相手にも悪い気がしてくる。
「なんか、気ばかり遣わせちゃってごめんね」
「別にいいよ」
 圭太としてもあまり踏み込んだことは言えないため、逆に凛に気を遣わせてしまったと感じていた。
「そういえば、凛ちゃんの東京の友達はどうだったの?」
「同じ水泳部だった子で、上でも水泳を続ける子たちは推薦で早々に決めてたから。ほかは、私立半分、国公立半分という感じ」
「じゃあ、国立の人たちはこの数日で結果が出るわけだ」
「うん。ま、さすがに受かってなければ連絡は来ないと思うけど」
 どれだけ仲の良かった友人でも、合格できなければそう簡単に連絡はできない。これが今も近くに住んでいたなら話は別だろうが、遠くにいるとどうしてもそこに遠慮が出てくる。
「こうなると、落ちた子とどう接するかは難しいね」
「普通に接するのが一番いいんだろうけど、相手がどう受け取るかが問題だね。結局は相手次第だと思うよ」
「ま、そうなるよね、やっぱり」
 凛は小さくため息をついた。
「こればかりはどうにもならないよ。凛ちゃんがその子の代わりになれるわけでもないんだし」
「そうだね。落ちちゃうのは大きなことではあるけど、それだけが理由で疎遠になっちゃうなら、結局その程度の関係ってことだからね」
 薄情に聞こえるかもしれないが、結局はそういうものである。
 大学へ合格できたのも自分の力だし、落ちたのも自分の力である。そのことを棚に上げて、ある意味では逆恨みするようでは、その関係はたいしたものではないということになる。
「ま、今日はそういうことは考えるのはやめよ。せっかく合格できたんだから」
「そうだね。今日くらいは忘れても誰も文句言わないよ」
 圭太ではないが、合格を決めた日くらい余計なことを考えなくても誰もなにも言わない。
「ね、けーちゃん」
「ん?」
「できればでいいんだけど、けーちゃんにも合格を祝ってほしいな、って思って」
「それはいいけど、どんなことがいいかな?」
「えっと……それはバスを降りてからでいいかな?」
「いいけど」
 ここまで言われれば、圭太もそれがどんなものか容易に想像できた。
 というよりも、この二年間同じことをさせられているので、さすがに学んでいる。
 それでも文句ひとつ言わないのは、自分にはそのくらいのことしかできないと思っているからである。
 それが圭太らしいといえば、圭太らしい。
 
 学校で合格の報告をして、家に帰ってきたのはもうお昼をまわった頃だった。
 ふたりが帰ってきた時には、店の方がまだ少し忙しい時間だったので、家の方には誰もいなかった。
「はあ、なんか、一気に気が抜けちゃった」
「ごくろうさま、凛ちゃん」
 圭太は、軽く凛の頭を撫でた。
「ん〜、誰に言われるより、けーちゃんにそう言ってもらうのが一番嬉しい」
 凛は、圭太に寄りかかり、軽く脱力する。
「だけど、学校でもう少し待ってれば昼休みになったのに。そうすれば凛ちゃんの後輩たちにも報告できたんじゃない?」
「ああ、いいのいいの。どうせ改めて行くつもりだったんだから。それに、もしけーちゃんと一緒にそんなことしたら、帰るに帰れなくなってたよ」
「……なるほど」
 女子水泳部の後輩には圭太も何度か会ったことがあるが、水泳を離れれば普通の女子高生なので、色恋沙汰にはとても敏感である。
 部の先輩である凛と学校で一番カッコイイ男子である圭太が一緒にいるだけで、黄色い声が上がっていた。
 そのことを思い出し、改めて考えて凛の言う通りにして正解だったかもしれないと思っていた。
「それに、あんまり遅くなると、柚紀に恨み言言われただろうし」
「……それもなるほど」
「あたしが言われるならまだしも、それにつきあってただけのけーちゃんまで言われるのはさすがにね」
「そこは気にしなくてもいいのに」
 圭太にとっては、柚紀からなにか言われることはもう当たり前になっていた。
 自分の意見をはっきり言えるのが柚紀のいいところであり、そんな柚紀を圭太も好きになったのである。もちろん、理不尽な理由であれこれ言われたならさすがに腹も立つだろうが、そういうことはまずない。
 ところが、凛にとってはそうではない。どういう状況であっても、自分の好きな人があれこれ言われるのは、我慢できない。その相手が、自分にとっての最大のライバルならなおさらである。
「ふたりとも、おかえり」
 そこへ、柚紀が戻ってきた。
「落ち着いたの?」
「ええ。もうお義母さんひとりで大丈夫なくらい」
「じゃあ、僕たちもお昼にしようか」
 圭太と柚紀が台所に立ち、少し遅めの昼食を準備する。
「そうそう。凛、合格おめでとう」
「ん、ありがと」
「そろそろ合格したっていう実感湧いてきた?」
「それはまだね。たぶん、手元に大学から書類が届いてはじめて実感すると思うわ。高校の時もそうだったし」
「ま、それは言えてるわね」
 間違いということはさすがにないだろうが、やはり本当に合格したと確認できるのは、合格したことを証明する書類が届いてである。
「これからどうするわけ?」
「どうするもなにも、特にこれというものはないわ。それこそ入学式までなにもすることないし」
「じゃあ、半月以上ふらふらしてるわけか」
「なんか、ずいぶんとトゲのある言い方ね」
「そんなことないわよ」
 柚紀はしれっとそう言う。
「あんたが用もないのにここへ来なければ、それ以上のことはなにも言わないから」
「用があればいいの?」
「ただ単に圭太に会うため、というのはその中にいれないでよ」
「…………」
「まあまあ、柚紀もそんなに意地悪しないで」
「意地悪じゃないわよ。実に真っ当な言い分でしょ?」
「真っ当だとは思うけど、少し意地悪だよ」
「圭太がそうやって甘やかすから、みんな調子に乗るのよ。わかってる?」
 やれやれと肩をすくめる。
「ま、実際そんなにしょっちゅう来ても、あんたの相手はできないわよ。あんたは暇かもしれないけど、こっちはやることあるわけだし」
「別にそこまでしないわよ。それに、春休みということでお姉ちゃんに振り回される可能性高いし」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
「よくないわよ」
 凛は心底イヤそうに言う。
 柚紀もその気持ちは理解できるのだが、今は同意しようとは思わなかった。
「そういや、圭太」
「ん?」
「みんなはどうだったのかな?」
「まだ連絡のない人もいるけど、何人かからは合格だってメールが来たよ」
「今年も合格率いいといいね」
「そうだね。これからのつきあいのためにも、是非とも合格しててもらいたいね」
 受験していないふたりにとっては、それが一番重要だった。
 同じように受験していれば、合格なり不合格なりでそれぞれと共通の意識を持てるのだが、あいにくとふたりはそのどちらでもない。そうなると、どうしても合格した者との方がつきあいやすくなる。
 もちろん、不合格だったとしてもつきあい方を変える必要はないのだが、そこには多少の遠慮や配慮が出てくる。
 相手もそれを感じ取れば、自然とつきあい方は変わってしまう。
「そういうことから考えると、凛は合格してよかったわね」
「ええ。あたしも今は合格できて心の底からよかったと思ってるわ」
 凛もまさか圭太が合格不合格だけでつきあい方を変えるとは思ってないが、万が一のことを考えると、合格できてよかったということになる。もし不合格が原因で圭太とのつきあい方が変わってしまったら、圭太なしでは生きていけないくらいになっている凛にとっては、死活問題だっただろう。
「圭太としては、うちの部の中だと誰が合格してた方がいい?」
「そうだなぁ……やっぱり僕の代わりにまとめ役ができる、綾には合格してもらわないといけないね」
「ああ、確かに綾は必須ね。というか、綾からは連絡はないの?」
「今のところは」
「あの子の性格を考えると、真っ先に連絡してきそうな感じなんだけど。まさか、落ちたとか?」
「それはないとは思うけど」
 学校での成績がよくても、必ずしも受験に合格できるわけではない。普段の実力を発揮できずに浪人生活を送る者も大勢いる。
「食べたあとにでもちょっと確認してみるよ」
「そうね。それがいいかもね」
 圭太としては、右腕として一緒に働いていた綾が合格していたら、情報の収集も楽になるという思惑もあった。
 男子部員は別として、女子部員はやはり同じ女子が確認した方がいい場合が多い。柚紀でもそれはできるのだが、やはり同じ受験生として苦労を味わった綾の方が話しやすい部分というのはあるかもしれない。もちろん、その逆もある。その時は柚紀に頼めばいいだけの話である。
「さてと、できあがり。凛。あんたも運ぶの手伝って」
「はいはい」
 
 その日の夜。
「結局、今日までに決まったのは私たちを除いた十八人中、十二人か」
「合格率はかなり高い方だけどね」
 圭太と柚紀は、昼から手分けして情報の収集にあたり、吹奏楽部員二十人のうち、受験しなかった圭太と柚紀を除いた十八人の中で、十二人が進路を決めたことを確認していた。
 それなりに人数の多い部活であることを考えると、この合格率はかなり高い方である。
「明日合格発表というのが三人いるから、後期試験前にもう少し決まるかもね」
「でも、国立不合格でも滑り止めの私立には合格してるんでしょ?」
「それはそうみたいだね。ただ、どうするかはまだ決めかねてる感じみたいだけど」
「その私立が行きたい大学ならいいけど、ただ単に本当に滑り止めという意味以上のものがなければ、行きにくいものね」
 すべて思い通りに進むわけではないが、妥協するにしてもよく考えなければいけない。特に大学はその先へ繋がる大きな分かれ道となるからである。
「圭太としては、同じパートの夏子と副部長だった綾が合格してくれて、ひと安心というところかしら?」
「まあ、それはあるね」
「なんだかんだ言っても、あのふたりはすごく真面目だから、やる気にさえなればそれ相応の結果が出るのよね。特に夏子なんか、ずっと圭太を側で見てきてるから、部活での経験が受験勉強にも活きたんじゃないかな」
「そうだったら嬉しいね」
 理由はどうあれ、三年間一緒にやってきた仲間が目標をクリアしてくれたことは、素直に嬉しい。それがより自分に近い存在なら、なおのことである。
「これであとの問題は、あさって行われる高校入試で、どれだけ優秀な後輩が入ってくるのかということと、菜穂子先生が異動になるかどうかね」
「入試に関しては運次第だけど、先生に関してはせめてもう一年くらいは残ってほしいね。新年度からの体制でも、全国は狙えるはずだから。でも、そこには先生の指導がなければ当然ダメだし」
「でも、それもそれこそ運次第じゃないの?」
「それはそうかもしれないけど、来年度にほかの高校で音楽教師の異動がなければ、先生は残れるんだけど」
「数が少ないから可能性は高そうだけど、逆にどこかで異動があれば間違いなく影響が出るわけか」
 ふたりがどれだけ可能性を考えてみても、どうなるかはわからない。
「ま、先のことはいいや。なるようにしかならないわけだからね」
「そうだね」
 自分たちの力でどうにかなる問題ならどうにかするだろうが、どうにもならない問題では、腹をくくるしかない。
「来年の今頃は、朱美ちゃんたちの結果に一喜一憂してるんだろうね」
「ああ、そうだね」
「三人ともやればできるんだけど、多少ムラがあるのが難点かな」
「そのあたりは、それぞれ克服してもらわないとどうにもならないよ。それに、自分たちの将来のことなんだから、その時が迫ってくれば自ずとやってくれるはず」
「今のところは、どこを目指すつもりなんだろ?」
「さあ、そこまでは聞いたことないな。三人とも進学するつもりとは聞いてるけど」
「じゃあ、そのあたりも含めて、圭太はこれから三人のフォローもしていかないとね」
「三人同時というのは正直不安だけど、やれることはやるよ」
 圭太にとってはカワイイ後輩以上の関係だけに、その将来に関しても多少なりとも関わりを持つ必要があった。その第一弾が大学入試ということになる。
「でも、圭太にとっては来年よりもその次の年の方があれこれ大変そうだけどね」
「琴絵だから?」
「うん」
 それを言われると、圭太も反論できなかった。
 圭太は、自分が大学に行かない代わりに、琴絵には好きなところへ進んでほしいとずっと考えていた。もちろん、それが大学じゃなくてもである。
 もし大学進学を希望するなら、それを全力でバックアップするつもりでいた。
 それが、圭太の兄としての妹の琴絵に対してできる、最後の『世話』かもしれないからだ。
「琴絵ちゃんの時は、私も力を貸すけどね。カワイイ義妹のためだし」
 そう言って柚紀は笑う。
「だけど、そのもっと前に私たちのことをどうにかしなくちゃいけないんだけどね」
「それもそうだね。それを棚に上げて、あれこれ言うのは間違いだね」
「だから、夏以降しっかりがんばらないと」
 ふたりにとっての再始動は、子育てもある程度落ち着きを見せる夏以降となる。
 そこから先をどう過ごすかで、最終的な目標への道筋も変わるし、到達タイミングも変わってくる。
 ただ、ふたりには悲観的な考えはまったくなかった。
 どんなに大変な道のりでも、必ず目標は達成できると信じていた。
 それがふたりにとっての力の源でもあった。
 
 四
 三月十日。
 国公立大学の合格発表もほぼ終わり、また公立高校の入試も終わり、少しだけ落ち着きを取り戻した週末。
 圭太は久々に吹奏楽部の指導に行くことにしていた。
「お兄ちゃん。準備できた?」
「ああ、できてるよ」
 卒業したとはいえ、一応三月いっぱいは高校生なので、圭太も制服を着ていた。
「朱美は?」
「もう下りてくると思うけど──」
「おまたせ」
 ちょうどそこへ同じく制服姿の朱美が下りてきた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
 三人で学校へ行くのは久しぶりのことで、琴絵も朱美も嬉しそうだった。
「今日の練習が終わったら、お兄ちゃんはしばらく部活に顔を出さないんだよね?」
「そのつもりではいるけど。ただ、状況によっては考えなくもないかな」
 圭太としては、柚紀のことがあるので、できるだけ三月後半は不要な外出は避けようと考えていた。練習の指導が不要だとは言わないが、それでも急を要するものではないので、どうしても順番はあとになった。
「今日は、紗絵先輩からの依頼なの?」
「いや、違うよ。まあ、紗絵からはしょっちゅう練習を見に来てくれってメールがあるけど」
「そこまでしてるんだ、紗絵は」
「先輩も必死なんだよ。去年みたいにアンコンの全国大会に出ているわけじゃないから、モチベーションを上げるのに苦労してるし。かといって、なにもしないでいたら春からひどい目に遭うわけだし」
「だから圭兄に頼んでるわけか」
 琴絵も副部長として、部長である紗絵の様子を側で見ている。だから、ある程度どういう状況にあるかは、理解しているつもりだった。
 もちろん、すべてを理解できるわけはない。かつて三中時代にも紗絵が部長で琴絵が副部長のことがあったが、その時とは状況が違う。
 あまりにも優秀でカリスマ性のあった圭太のあとでは、戸惑うことや焦ってしまうことが多い。
 圭太もそれを理解しているからこそ、少しでも力になれればと指導に出向いているわけである。
「まあ、モチベーションに関しては新入生が入ってくる頃には戻ってるよ。さすがに後輩に無様な格好は見せられないからね」
「でも、その時に焦ってもダメなんじゃないの?」
「それはもう個々人の問題だよ。それぞれがどう考えているか。そして、その結果どういう行動を起こすか」
「結局そうなるんだよね」
「こればかりは僕にもどうにもできないことだよ」
 それが当たり前ではあるが、そのくらいのことはなんとかしてほしいというのが、圭太の本音だった。
 学校に着くと、すぐに音楽室へは向かわず、職員室へ向かった。
「失礼します」
 職員室には、ほとんど教師の姿はなかった。
 今年度の授業もすべて終了し、部活の顧問でもやっていなければ、束の間の休息を取っておきたいところである。
「先生、おはようございます」
「あら、珍しい。今日は指導に来てくれたの?」
 菜穂子は、圭太の姿を見て、そんなことを言った。
「音楽室はもう開いてるわよ。ついさっき紗絵が来たから」
「ふたりは先に行っててくれるかい?」
「お兄ちゃんは?」
「ちょっと先生と話をね」
 そう言われてしまうと、琴絵も朱美もなにも言えない。
 ふたりが職員室を出て行くと、菜穂子はクスクスと笑い出した。
「あのふたりだけじゃないけど、圭太の側にいる子たちは、圭太に対する感情表現が素直よね。今だって、お預けを喰らった子犬みたいだったもの、あのふたり」
「それに関しては、ノーコメントということで」
「肝心なところは教えてくれないのね」
 菜穂子は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それで、話って?」
「たいしたことではないんですけど、来年度の新入生はどうなのかと思って」
「ん〜、経験者ということだけで言うと、例年通りかしら。その中の何人が合格できるかはわからないけど」
「じゃあ、とりあえずの見通しとしては、それほど心配することはないわけですね」
「そうなるかしら。ま、実際問題、去年までの活躍でうちを目標にする中学生が増えてるのは間違いないわね」
 目標にしても、実際に入学できるかは別問題である。ただ、受験したからには合格できる可能性があるということ。そうなると、吹奏楽部目当ての受験生の数が多いというのは、結果的にはいいことかもしれない。
「でも、そうするとますます先生にはここに残ってもらいたいですね」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、こればかりは私の一存ではどうすることもできないからね」
「希望を出すことはできないんですか?」
「ん〜、出してもきっといいことはないわ。それに、例外を認めてしまうとそのあとも認めなくちゃいけなくなるから」
「なるほど」
「私としては、やっぱり最低あと一年はここに残りたいとは思ってるけど」
 すべての教師の希望を聞いていたら、様々なところに不都合が生じる。
 そういうことがないように、ある一定期間で異動させるのである。
「もし私が異動になっても、ちゃんと面倒見てあげてよ」
「それはもちろんです」
 もちろん圭太もそう考えてはいるが、やはり三年間指導を受けてきた菜穂子のもとでやりたいと考えていた。
「そういえば紗絵から、圭太がこれから時間が取りにくくなるから、その代わりに祥子たちに指導をお願いしたいって言われたのよね。圭太は聞いてる?」
「一応話は聞いてます。実際にいつからどうやってやるのかまでは聞いてませんけど」
「ふ〜ん、そうなんだ。ま、私としては私の負担が減るなら誰でもいいのよ。もちろん、一定以上の指導ができるなら、という条件付きだけど。そのことから考えて、祥子たちは十分その条件に見合ってるわ」
 仮にも部長まで務めた人物である。その指導に特段の文句をつけることはない。
「で、祥子たちはどう言ってるの?」
「さあ、僕はその件に関してはノータッチですからわかりません。ただ、先輩たちのことですからむげに断りはしないかと」
「それはそうね。だけど、実際にはどの程度できるのか、ということよね。それぞれ大学の講義だってあるだろうし。休日にしたっていつもいつも時間が空いてるわけでもないだろうし」
「そのあたりは双方で話し合って決めるんじゃないですか。お互いのことを知らないわけじゃないですから。それに、紗絵だって無理強いはしないと思いますよ」
「まあ、そうね。じゃあ、その件に関しては紗絵からまたなにか言われるまで放っておきましょう」
「ええ、それでいいと思います」
 圭太も菜穂子も、後輩であり教え子である紗絵たちが、自分たちから進んで上達しようとしていることそれ自体が嬉しかった。当然、結果が伴えばなおのこといいのだが、仮にそうならなくてもその過程だけは評価しようと思っていた。
 まわりからやらされるだけでは、一定以上の上達は見込めない。さらに上を目指すなら、自主的に行動を起こす必要がある。
「そうそう、話はまったく変わるんだけど、柚紀の様子はどう? 順調?」
「ええ、順調ですよ。病院の先生も太鼓判を押してくれてますから」
「診察には、圭太も付き添ってるの?」
「いえ、柚紀の希望で僕は行ってません」
「あら、そうなのね。柚紀のことだから、そういうのにも圭太を付き添わせると思ってたのに」
 柚紀の性格も知っている菜穂子にしてみれば、それはかなり不思議なことだった。
「でも、どうしてひとりで行ってるの?」
「どうも、母親としての責任感というものに目覚めたというか、すべてにおいて僕の助力を得られるわけではありませんから、できることは自分でやりたいみたいです」
「なるほどね。それはそれでいい心掛けだと思うけど、最初からそこまでする必要があるのかしら?」
「たぶんですけど、柚紀としては失敗してもいいと思ってるはずです」
「それは、失敗しても圭太が支えてくれると信じているから?」
「ええ。だからこそ僕も今は柚紀のやりたいように、心残りのないようにやってもらってるんです」
 その信頼関係こそが、圭太と柚紀の絆の深さを物語っている。
 ともすれば柚紀の独り相撲になりかねない状況だが、圭太がいるからこそそういうことができている。
「ふたりがはじめて会ったのは、一高に入学してよね。それからわずか三年足らずでそういう関係になってる。それってそうあることじゃないわよ」
「こういう言い方が正しいかどうかはわかりませんけど、ある意味では僕たちの出逢いは運命だったんだと思います。だからこそ、ここまでの強い絆を築けたんだと思います」
「運命、か。ふたりを見ていると、そう言われても納得できるわね」
「もっとも、運命という言葉にすべてを委ねるつもりはありません。僕も柚紀も、努力してきましたから」
「ふふっ、それがなければそういうことは言えないでしょう」
 出逢いが運命だったとしても、その後のことまで決まっているわけではない。その後のことは、それぞれの努力によって道が拓かれる。
「ん〜、ねえ、圭太。今日の午後はなにか予定入ってる?」
「いえ、特にこれというものはないですけど」
「じゃあ、お店の方にお邪魔してもいいかしら?」
「それは構いませんけど」
 圭太は、菜穂子がいきなりそう言い出した理由を測りかねていた。
 授業中や部活中は真面目な菜穂子だが、普段の性格は明るくお茶目である。そういう面も理解している圭太としては、多少身構えてしまうのである。
「学校じゃ話しづらいこともあるでしょ? それに、柚紀の様子も気になるし。あ、ついでに祥子にも話をつけといてくれると嬉しいかなぁ」
「……わかりました。連絡しておきます」
「うん、お願いね」
 年上の女性に振り回されやすい圭太でも、この状況にはなかなか慣れるものではなかった。もっとも、今回は相手が菜穂子だったというのは、まだ救いだったかもしれない。
 
 練習が終わると、二年も一年もぐったりとしていた。
 この時期は基本的に基礎練習が中心となる。そのため、普段でもやる気を出すのが難しい状況に加え、今日は圭太の指導まであった。となると、精も根も尽きてしまってもおかしくはない。
「お兄ちゃんは、ホントまったく容赦ないよね。もう少し手加減してくれてもいいのに」
「そんなことしても、自分たちのためにはならないと思うけど」
「そうかもしれないけどぉ」
 久々のきつい練習に、琴絵も愚痴が多くなっていた。
「しかも、今日は木管ばかり集中的に攻撃されたし」
「それは仕方がないよ。明らかに木管の方が練習不足だったからね。それを見過ごしては、指導に来てる意味がないし」
 琴絵はまだ一年なのでパートを率いる立場ではない。
 だが、二年の、しかもパートリーダーのふたりは、それはもう相当のダメージを受けていた。
「朱美ちゃんも詩織先輩も、ボロボロだよ」
「まあ、たまにはいいんじゃないかな。この時期は、適度なモチベーションを維持するのが難しい時期だから。これで、また明日から気合いが入ってくれるよ」
 そう言って圭太は笑う。
「金管がよかったのは、やっぱり紗絵先輩のおかげなの?」
「たぶんそうだろうね。最初は空回り気味だった気合いも、ようやくみんなに伝わるようになったし、紗絵の指導力自体も向上してるから、みんなもそれについてくるようになったんだよ。だから、結果にも表れてる」
「そっか。私たちももっと努力しないといけないね」
「ま、そのあたりは個々人のやる気の問題と、志の問題だけどね」
「お待たせしました」
 そこへ、二年の三人がやって来た。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい」
 練習が終わってからそれなりの時間が経っているため、もう校内に部員の姿はない。
 校庭では、午後から練習をはじめる陸上部が準備を行っていた。
「そういえば、圭太さん」
「ん?」
「帰り際に先生からよろしくと言われたんですけど、なんなんでしょうか?」
「ああ、それはまあ、なんていうか、先生がうちへ来るんだよ」
「えっ、先生がですか?」
 思いもかけないことに、四人は呆気にとられている。
「なんか、そういう話になっちゃってね。ああ、うちといってももちろん店のことだけどね。先生がなんでそういうことを言い出したのかは、はっきりとはわからないけど」
「先生は、練習以外だととっても茶目っ気のある先生ですからね」
「さすがにあまり予想外の展開になるとは思えないけど」
 そう思いたいだけという話もあるのだが、そのあたりは表に出さない。
「建前としては、柚紀の様子が知りたいというのと、琴子に会いたいってことらしいけどね」
「あ、じゃあ、祥子先輩も来るの?」
「無理を言って来てもらうことにしたよ。さすがに苦笑してたけど」
「先輩も、相手が先生ではイヤとは言えませんからね」
「まあ、確かにね」
 特に理不尽なことを要求されているわけではないので、むげに断るのも逆に難しい。
「紗絵と詩織も来るかい?」
「いいんですか?」
「別にいいよ。特になにをするわけでもないからね。まあ、あまり見慣れた面々が揃ってると、そのことについて先生になにか言われるかもしれないけど」
 そう言って圭太は苦笑した。
 
 圭太たちが家に帰ってしばらくすると、約束通り菜穂子がやって来た。
 当初は店の方で話をしようと思っていたのだが、ほかの客が意外に多く、結局家のリビングに場所を移すことになった。
「先生も結構突然なんでも決めますよね」
「そうかしら?」
「そうですよ。今日のなんて、その最たるものじゃないですか」
「まあ、いいじゃない。たまには」
 そう言って菜穂子は笑った。
「で、どうなの? 順調?」
「ええ、極めて順調です。順調すぎて、診察もすぐに終わっちゃうくらいです」
「それはいいことね。圭太も安心でしょ?」
「そうですね。それが一番です」
「あ、でも、柚紀には『先輩』がいるわけだから、そういうことから考えても人よりずっと安心できそうね」
 自分も通ってきた道だからこそわかることがある。
 特に初産の際の苦労は、経験者にしかわからない。
「子供はどっちなの? 男の子? 女の子?」
「さあ、わかりません」
「あら、見てもらってないの?」
「そういうわけではないんですよ。私が先生に教えないでくれって言ってるんです。だから、診察してる先生は知ってますよ、どちらか」
「どちらか知りたいとは思わなかったの?」
「ん〜、最初は知りたいと思ったんですけど、でも、途中でその考えが変わったんです。やっぱり、産まれてくるまでわからない方がいいんじゃないかって。その方があれこれ考えられるじゃないですか。男の子だったらこうとか、女の子だったこうとか」
「なるほどね」
「先生はどうだったんですか?」
「うちは、早々に教えてもらったわ。というか、私たち以上に知りたがった人たちがいたからね。それで性別がわかったらすぐに教えてほしいってお願いして」
「知りたがった人たちというのは、先生のご両親ですか?」
「そう。あと、うちの人の両親も。ほら、どっちかわかれば産まれてからの準備もしやすいでしょ?」
「そういうこともありますね」
 柚紀としても、様々なことを考慮した結果、教えてもらわないことを選択している。その中には、おそらく今菜穂子が言ったようなことも含まれていただろう。
「お子さんは、娘さんでよかったですか?」
「そうねぇ、今のところはどちらとも言えないわ。ほら、小学校に入るくらいまでは、男の子も女の子もないじゃない。これから先、成長していくうちにわかると思うわ」
「旦那さんもそうなんですか?」
「うちの人は、娘で喜んでるわ。子供は女の子がほしいって言ってたから。ただ、大きくなった時に、邪険に扱われないか、今から心配してるけど」
「それはあるかもしれませんね」
 柚紀自身もそういうところがあるので、特に大きく頷いた。
「ところで、圭太。祥子はまだなの?」
「そろそろ来ると思うんですけど」
 圭太は時計を見た。
 と、それを見ていたかのように、インターフォンが鳴った。
「たぶんそうだと思います」
 席を立ち、玄関へ。
「こんにちわ、圭くん」
「あ〜」
 予想通り、祥子と琴子のふたりだった。
「今日は突然すみません」
「ううん、気にしないで。どうせたいしてやることもなかったから」
「そう言ってもらえると助かります」
「あ〜、う〜」
「はいはい、琴子はパパに会えて嬉しいのよね」
 琴子を圭太に抱かせる。
「先生は?」
「もう来てますよ」
 リビングに入るなり──
「あ、その子が琴子ちゃんね」
 挨拶よりも先に菜穂子の目は琴子に釘付けとなっていた。
「今日はわざわざ悪かったわね」
「いえ、別に構いませんよ。もともと今日は午後から来ようかと思ってたので」
「それならいいけど」
 琴子は、最初こそ見慣れない人がいることに警戒気味だったが、すぐにその興味は圭太へと戻っていた。
「写真で見るより、実物の方がずっとカワイイわ」
「写真て、先生見たことあるんですか?」
「圭太にね、見せてもらったの」
「そうなの?」
「携帯のやつだよ」
「ああ、そういうことか」
 圭太が琴子の写真を携帯に入れていることは、柚紀も祥子も知っていた。だからそれについては特に驚きはしなかった。
「ね、抱いてみてもいい?」
「いいですよ」
 圭太が琴子を菜穂子に抱かせようとすると、琴子は少しぐずった。
「大丈夫よ、琴子ちゃん」
 菜穂子が抱くと、意外にもおとなしく腕の中に収まった。
「琴子ちゃんが圭太や祥子先輩以外でこんなにおとなしく抱かれるの、はじめて見ました」
「きっと琴子もわかってるんだと思うよ。先生もひとりの母親だってことをね。だから安心したんだと思う」
「なるほど」
 圭太に抱かれている時ほど活発ではないが、菜穂子の顔に手を伸ばし、あごや頬に触れている。安心はしているようだが、この人はいったい誰なのかということを、見ているような感じだ。
「琴子ちゃんはどっちに似てるのかしら?」
「さあ、今のところはどちらとも」
「どちらに似ても、将来美人になるのは間違いないわね。圭太としては、心配の種になるかもしれないわね」
「今のところ、その心配はないと思いますよ。琴子ちゃんはとにかく圭太のことが好きで好きでしょうがないみたいですから」
「ふふっ、それはそれで、まわりがやきもきしそうだけど」
 現在の圭太の状況をある程度把握している菜穂子は、そう言って笑った。
「子育てと大学の両立は大変じゃない?」
「今のところは大丈夫です。年が明けてからは大学はほとんどありませんでしたから」
「ああ、そういえばそうね。でも、四月からはそういうわけにはいかないでしょ?」
「そうですね。ただ、大変なのはわかっていますから。今更泣き言は言いません」
「やっぱり母親になると、変わるものね。祥子は部長としては優秀な部類に入ると思うけど、どこか安定感に欠けたところがあったから。そういうのがすべてというわけではないだろうけど、なくなった気がするわ」
 そういうところを理解しているのは、菜穂子が教師だからだけではない。生徒のことを理解しようと常に努力しているからでもある。
 だからこそ、生徒からの信頼も厚い。
「柚紀がいる前でこういうことを訊くのもなんだけど、祥子にとって、圭太との恋ってどういうものなの?」
「そうですね……あらゆる意味で、人生を変えてくれたもの、ですか。冗談ではなく、今の私にとってのすべてですから」
 そう言いきった祥子の顔には、確かな信念があった。
「柚紀としては、圭太が自分に振り向いてくれて本当によかったと思ってるでしょ?」
「ええ、思ってますよ」
「祥子としては、それが自分じゃなくて、残念だったわね」
「それはそれで、仕方がありません。私がいくら圭くんのことを好きでも、私では振り向かせることができなかったわけですから」
「そのあたりは割り切ってるのね」
 だからこそ、現在のような状況になっているとも言える。
 それぞれが自分の立場をしっかりと認識している。もちろん、納得できていても、心の奥底では納得しきれていない部分もある。
 その想いとどう向き合い、折り合っていくか。
 それができなければ、圭太の側に居続けることができないわけで、それぞれ悩みながらも前に進もうとしている。
「こうして琴子ちゃんがここにいる今となっては意味のない質問かもしれないけど、祥子にとって選択肢はひとつだけじゃなかったはずでしょ? どうしてこっちを選んだの?」
「……確かに、最初はものすごく悩みました。それこそ、どちらを選んでもダメ気がして、頭の中がぐちゃぐちゃになってました」
「まあ、そうよね。イレギュラーみたいなものだっただろうし」
「それでも、すぐに考え直しました。普通だったら望んでも得られない状況だったわけじゃないですか。その状況に偶然とはいえ、なったわけですから」
「圭太はどうだったの?」
「僕は、聞いたその時は一瞬頭が真っ白になりましたけど、そのあとはもう決まっていましたから。最初から選択肢はありませんでした」
「あら、そうだったの」
「どう理由をつけても、そうなる可能性は完全には排除できなかったわけじゃないですか。もちろん、そうならないのがよかったわけですけど、万が一そうなったとしても、それを受け入れる覚悟はしていました」
「それがたまたま祥子だった、というわけか」
 菜穂子は、琴子の頬を軽くつついた。
「柚紀にとって、琴子ちゃんはどんな存在?」
「難しい質問を遠慮なく聞いてきますね」
「今更でしょ? 答えは出てるんだから」
「まあ、そうですけど」
 相手は年上で人妻で、しかも教師。その相手に舌戦でも勝てる確率は低い。
 少しくらいの牽制をしたところで、意味はない。
「私にとっては最悪の状況だったとはいえ、琴子ちゃんが圭太の娘であることに違いはありません。つまり──」
 柚紀は、自分のお腹に触れた。
「この子の姉ですから」
「じゃあ、柚紀は琴子ちゃんのもうひとりの『母親』でもあろうというわけね」
「そうなりますかね」
 菜穂子としては、その答えは予想の範疇だっただろう。
 途中にどのような葛藤があったとしても、現在はこのような形に落ち着いているのだから、少し考えれば答えはわかる。
 ただ、その答えを柚紀の口から聞きたかったのだ。
「こう言ったらあなたたちに失礼かもしれないけど、こういういわばドラマなんかの作り話の中でしか起きないと思ってたことが実際に起こってるのを見ると、実に不思議な気がするわ」
「まあ、普通はそう思うはずです」
「事実は小説よりも奇なり、なんて言うけど、本当にその通りね。ドラマで同じ展開を見せられても面白いとは思わないけど、こうして実際に見ていると実に面白いもの」
「別に面白くするつもりはないんですけど」
「ええ、それはわかってるわ。ようはなにが言いたいかというと、ドラマなんかだとそういう話ってたいていドロドロの愛憎劇でしょ? でも、あなたたちはそこまでにはなってない。これはすべて、その中心にいる人物の違いだと思うのよ。もちろん、柚紀と祥子の間にまったくなにもないとは思ってないわよ。特に柚紀にはね」
「…………」
「それでも、相手が圭太だからなのか、いわゆる最悪の事態には至ってない。それはきっと、ものすごいことだと思うのよ。いいか悪いかは別としてね。場合によっては、最悪の事態に陥って、もう一度やり直した方がいい場合もあるだろうけど。そこまでのことは、誰も望んでない。だから面白いって言ったの」
 柚紀も祥子も、菜穂子がそこまで言う真意を測りかねている。
「本当は教育者としては、そういう関係はなんとかしろと言うべきなのかもしれないけど、私はそこまで出来た教育者じゃないから。ただ、あなたたちがどう考えているのか、知りたかっただけなの」
「それが今日の目的ですか?」
「半分はね。半分は、柚紀の様子を見るのと、琴子ちゃんに会いたかったから」
 それは本当だろう。そのことでウソをつく必要はない。
「今日は、ある程度あなたたちの本音が聞けて、よかったわ。もちろん、すべてを額面通りには受け取ってないけど」
 そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「今は立場上、守ってくれる人が大勢いるけど、これから先もそうだとは限らない。もしそうなった時に、その時にこそ後悔しない選択をしなさいね。あなたたちだけの問題ではないんだし」
「はい」
「そうすればきっと、不幸にだけはならないはずよ。幸せになれるかどうかはわからないけど」
「それは大丈夫ですよ」
「あら、そうなの?」
「ええ。私たちにとっての不幸というのは、圭太と一緒にいられなくなることですから。そうならないためなら、なんでもします。それ以外のことは、些細なことです」
「そう。それならいいけど」
 その答えもある程度予想できていたのだろうが、実際にそれ聞き、菜穂子はとても満足そうだった。
「さてと、名残惜しいけど、そろそろ帰らないといけないわね」
 琴子を祥子に渡しながら、そう言った。
「柚紀も祥子も、なにか相談事でもあったら、遠慮なく聞いてちょうだい。同じ子を持つ母親として親身になって答えてあげるから」
「機会があればそうします」
 菜穂子は、満足そうに頷いた。
 
 菜穂子が帰ると、二階で様子を伺っていた琴絵たちも下りてきた。
「ね、圭太。最後に先生となにを話してたの?」
「ん、僕にとってはいい話、かな」
「いい話?」
 一同は首を傾げた。
「あくまでも仮の話なんだけど、四月以降、僕に吹奏楽部の講師をやらないかって」
「講師?」
「運動部で言うところのコーチみたいなものだよ。学校独自で臨時の職員というものを雇えるんだけど、それを利用して僕を講師として雇おうかって。もちろん、そのためには様々な問題もあるんだけど、先生が一高に残れれば特に問題はないだろうって」
「それはわかったけど、どうしてそれがいい話なの?」
「雇ってもらうということは、お金がもらえるということだからね。そうすれば、以前柚紀に話していたようなバイトはしなくてもいいと思って。しかも、吹奏楽部の講師だから、改めてなにかしなくちゃいけないということもないから、僕も楽だし」
「ああ、だからいい話なんだね」
 一番事情を理解している柚紀は、すぐに納得した。
「えっと、つまりどういうことなの?」
 すべてを理解できていない面々は、ふたりに事情を尋ねる。
 圭太は、ごく簡単にそれを説明した。
「なるほど、そういうことだったんだ」
「確かに、専門学校へ行くのにもお金はかかりますし、これから先もなにをするにもお金が必要ですからね」
「それでも、あまり無理をしてアルバイトをするのも問題だし」
「それが部活なら状況もわかるし、柚紀も安心というところだね」
 どんなアルバイトよりも、今までずっと行っていた部活での講師なら、いつ、どんなことをやるかもわかるので、安心感も違う。
 もっとも、柚紀としては同じ場所に琴絵たちがいることも多少は心配かもしれない。
「でも、先生もどうしてその話をしたんだろ?」
「ああ、それはたぶん、僕がいろいろ話をしたからだと思うよ。落ち着いたら専門学校へ行くつもりだとか、バイトもしないといけないとか。それを聞いて、だったら講師はどうだろうって考えたんじゃないかな」
「なるほどね」
「それも、圭くんと先生の間にしっかりとした信頼関係があったからだよね」
「まあ、先生としては、多少は楽ができるというのもあったかもしれませんけど」
 どこに真意があるのかは本人以外はわからないが、今はその厚意に素直に甘えようと圭太は思っていた。
「となると、問題は先生が一高に残れるかどうか、か」
「こればかりはどうすることもできないから。それこそ、運を天に任せるしかないよ」
「あ、ひょっとしたらなんだけど」
 と、祥子がなにかを思いついたように声を上げた。
「今回のことって、先生にとっては自分の後継者を育てる意味もあるんじゃないかな。もし今年は残れても、来年か再来年には確実に異動があるだろうから、それまでに自分の意志を継いでくれる人にあとのことを任せようって。普通、公立高校だと顧問の先生が替わる度に練習方針も変わるけど、それが必ずしもいい方向に向かうわけじゃないでしょ。時にはダメになっちゃうこともある。そうならないように、できる限りのことはやっておきたい、というのもあるかも」
「それはあるかもしれませんね。ここまでの成果をすべてなしにすることだけは、さすがにできないでしょうし」
「まあ、あとは単純に圭くんにすべてを任せて、部がどうなるのか見てみたい、というのもあるかもしれないけど」
 もし祥子の言った内容が菜穂子の考えていることだとしたら、将来的に圭太の指導する一高吹奏楽部と、菜穂子が新たな高校で指導する吹奏楽部が、コンクールで真剣勝負をする、というのも楽しみのひとつかもしれない。
 圭太には、そういうことを考えさせるほどの、実力と魅力が備わっている。
「お兄ちゃんが講師をやるなら、これから先も安心だね」
「まだ決まったわけじゃないから、この話はこの場だけにしておいてくれよ。余計なことを言って、そうならなかったら面倒だから」
「はぁい」
 圭太にとっては、これから先のことを考えるのにとても大きな選択肢が追加された。
 もし今回のこの話がダメになっても、それはそれまでに戻るだけのこと。その時のことはあれこれ考えていたのだから、大きな問題はない。
 ただ、圭太としては、これから先も自分の好きな音楽とつきあっていける講師の話が上手く進んでくれればと、心から思っていた。
 
 五
 三月十四日。
 一ヶ月前のヴァレンタインに比べれば盛り上がりはいまいちではあるが、ホワイトデーである。
 ヴァレンタインに本命チョコを渡している場合は、どういう反応があるか非常に気になるだろうが、義理チョコばかりならひょっとしたらホワイトデーということすら忘れているかもしれない。
 そんなホワイトデーではあるが、圭太のまわりではとても重要なイベントだった。
 それはもちろん、圭太に対して渡したチョコは、ほぼすべて本命チョコだからである。
 圭太もそのことを十分認識しており、ホワイトデーのお返しもよく考えていた。
 ただ、高校に入ってからの三年間で状況は激変し、正直個別に対応するのも限界に近い状況だった。
 そこで今年考えたのが、ホワイトデーパーティーだった。
 パーティーといっても大げさなものではなく、ようは圭太が用意したもので飲み食いして、お返しの代わりにしようというものである。
 最後の最後までどうするか迷っていたのだが、最終的には効率を取った。
 準備は二日前からはじめ、当日には余裕を持って最後の仕上げにかかれた。
 朝から家の台所で準備をしていると、柚紀がため息混じりに言った。
「圭太がなんでもできるのは今更だけど、こうもまざまざとその腕前を見せつけられると、妻として女として少しだけ自信が揺らぐのよね」
「そこまでのことをしてるつもりはないけど」
「十分よ。その道を究めようと思ってる人でもなければ、普通はそこまでのことはそう簡単にできないんだから」
 柚紀としては、女の沽券に関わると重大なことと捉えている。
 とはいえ、圭太としては特別なことをしているという認識は薄く、それを言われてもいまいちピンと来ていなかった。
「だけど、今年はどうしてパーティーにしようと思ったの?」
「いろいろ理由はあるけど、やっぱり手間がかからないからかな。パーティーなら、一回で済むし」
「ま、確かにね」
「あとは、柚紀のことを考えてだね」
「私のこと?」
「みんな一緒の方が、柚紀としては安心できるでしょ?」
「ああ、そういうことか。そりゃ、安心はできるけどね」
 柚紀の知らないところでホワイトデーのお返しをした場合、どういう状況になるかわからない。そのことに関して柚紀があれこれ心配するかもしれない。
 そういうことをなくす意味合いもあった。
「はあ……そういう風に言われちゃうと、なにも言えないのよね」
 あれこれ言いたいことはあっても、圭太のやっていること自体は裏表がないので、あまり言い過ぎると単なる愚痴にしかならない。そうなってしまうと、今度は自己嫌悪に陥ってしまうので、ある意味諦めが肝心だった。
「はい、柚紀」
「ん?」
 と、柚紀の前に小さな皿が置かれた。
「味見をしてほしいんだ」
 皿の上には、プリンがひとつ。カラメルソースはかかっていない。
「奇譚のない感想をよろしく」
 柚紀は、黙ってプリンを食べた。
「ん、これ、イチゴの風味がする」
「ちょっとね、工夫してみたんだ。プリンは牛乳を使うから、イチゴとの相性も悪くないと思ってね」
「確かに悪くないけど……」
「微妙かな?」
「ちょっとね」
「そっか。じゃあ、これはなしにしよう」
「準備してたんじゃないの?」
「大丈夫だよ。人数分作ってないから」
 そう言って微笑む。
「それに、僕もこれは少し微妙だと思ってたんだ。もう少し改良を加えればなんとかなりそうな気もするけど、そこまでの時間はないし。だから、今回はなし」
 自分のひと言でそれが決まってしまったことに、柚紀は少しだけ責任を感じていた。
 とはいえ、あからさまにウソを言っても意味がないので、しょうがなかった。
「さてと、あとは直前でいいかな」
「もう終わり?」
「だいたいの準備は終わったからね。あとは、お茶の準備とその場でやった方がいいものだけだから」
「なるほど」
 どんなものを用意しているのか、その準備の様子を見ているからある程度把握している柚紀ではあるが、当然すべて知っているわけではなかった。
 それでも、パーティーがはじまる夜まで時間があるので、本当の仕上げはその時であることは、容易に理解できた。
「そういえば、パーティーに来ない人の分はどうするの?」
「別に用意してあるよ」
「ぬかりなし、というわけか。でも、それだと結局手間がかかってない?」
「そうでもないよ。全員分よりは、ずっと楽だから」
 柚紀の感覚と圭太の感覚には若干の差があるので、柚紀も言葉通りには受け取っていない。
「圭太としてはどっちの方が楽?」
「う〜ん、やっぱりまとめての方が楽かも。こういう言い方をするのはどうかと思うけど、個別だと考えることが多すぎて。まとめてだと、そこまで考える必要もないし」
「相手がみんな本命だから、それはあるかもね。義理チョコだったら深く考える必要もないだろうけど」
「そうなると、今回みたいにパーティーとしてまとめての方が楽だよ」
「来年からもそうするの?」
「それは、来年になってから考えるよ。それと、今年のみんなの反応を見てね」
「それもそっか」
 柚紀にとっては、来年もパーティーの方が安心できるはずである。ただ、それを強く主張できる立場でもなかった。
 ヴァレンタインのお返しという名目ならば、柚紀が圭太の妻であっても無理強いはできない。もちろん、柚紀のことをないがしろにするようなら話は別だが、圭太に限ってそのようなことはあり得ない。
 だからこそ、言えないのである。
「あら、もう準備は終わったの?」
 そこへ、店の方から琴美が入ってきた。
「だいたいは終わったよ」
「それにしても、自分の息子ながらここまでのことをするなんてね。去年のお返しも女の子にとっては相当自信を失わせるようなものだったけど、今年もそれに近いものがあるわね」
「別にそういうつもりでやってはいないんだけど」
「わかってるわよ。ただ、そういう状況になるとあなたのことをちゃんと理解してる相手じゃないと、大変なことになると思って。というか、状況によってはそれで別れる、なんてこともあるかも」
 圭太としてはそこまで大げさに考えていないのだが、反対の立場からすれば、そういう風に考えてしまう可能性は大いにあった。
「ま、そのことはいいわ。今日来る子たちはみんな理解してくれてるから」
 そう言って微笑む。
「今日、祥子さんは何時くらいに来るの?」
「さあ、適当な時間に来るとしか聞いてないけど。たぶん、昼過ぎじゃないかな。どうして?」
「琴子ちゃんと遊びたいからに決まってるでしょ」
「……なるほど」
 圭太は妙に納得した。
「琴子ちゃんが産まれるまでは『おばあちゃん』になることに多少の抵抗があったけど、今はそんなことないわ。年を重ねたからこそ、新たな喜びに巡り会えたわけだから」
「まあ、それはそうだね」
「あなたもそれを少しずつ実感していくはずよ。琴子ちゃんもいるし、もうすぐひとり増えるわけだし」
 二児の母親である琴美の言葉には、とても重みがあった。
「あ、そうそう。子供の話ということで思い出したんだけど、ふたりはふたりだけの時間をもう少し持とうとは思わなかったの?」
 圭太と柚紀は顔を見合わせた。
「考え方は人それぞれだから、どっちがいいというわけではないけど」
「それは、圭太よりも私が答えた方がいいですね」
「やっぱり柚紀さんが?」
「まあ、半分は今のような状況があったからです。圭太はずっと私のことを大事にしてくれてますけど、側に魅力的な人が多いじゃないですか。そんな中でどうやったら安心感を得られるかを考えて。その結果が婚約からはじまった流れなんです。もちろん、そうしたからといって私だけに圭太の想いを向けさせるのは無理だというのはわかってはいました。それでも、なにかがほしかったんです。見えるなにかが」
「なるほどね」
「もう半分は、単純に早く子供がほしかったからです。好きな人と結婚することと子供をもうけることは、夢でしたから」
「だとしても、ふたりだけの時間がほしいとは思わなかった?」
「これはあくまでも結果論ですけど、妊娠するまでの間がそういう時間だったと考えれば、特別短いわけではなかったと思います。彼氏彼女の関係になったのは一年生の五月ですけど、もう入学当初から比較的よく一緒にいましたから」
 入学してから柚紀の妊娠がわかるまで、およそ二年四ヶ月。その時間が長いか短いかはそれぞれだろうが、一般的な感覚からすると、決して短くはないはずである。
「お義母さんはどうだったんですか?」
「私も似たようなものね。ただ、私たちの時は、祐太さんがより積極的だったの。自分はすぐに大学を卒業するから、生活の心配はいらない。だから、子供を作ろうって。まだ就職先もちゃんと決まってない時なのにね」
 そう言って笑う。
「圭太が産まれるまでは、ふたりだけの時間はもうそんなに取れないんじゃないかって思ってたけど、やり繰りすれば意外になんとかなるというのもわかったわ。もちろん、生活の中心は子育てになってしまうけど」
「工夫次第、ということですね」
「ええ。祐太さんは、そういうところをすごく気にかけてくれて、たまに私を母親という役目から解放してくれたわ。そうすることで、大変な子育てにも立ち向かっていくことができた。今でもそのことにはすごく感謝しているわ」
 子育ては、なにかとストレスの溜まることが多い。そのストレスをどうやって溜め込みすぎず、なおかつさらなるやる気を起こさせるか。特にはじめての子供の場合は、それが難しい。
「だから柚紀さんも、圭太に協力してもらって、たまには母親であることを忘れて、妻であることだけを考える時間を持った方がいいわ」
「そうですね。そのことも出産後によく話し合ってみます。ね、圭太?」
「そうだね」
 今までの圭太の気遣いや心配りを見ていれば、そういうことは自然とできそうだが、ここはあえてそういうことを言った。それはつまり、それだけそのことが大事だという証である。
「それはそうと、圭太。祥子さんにお昼はうちで食べるように勧めてくれない?」
「……はいはい。わかったよ」
 圭太は、半分呆れながらも、携帯を取り出し連絡した。
 
 昼前に祥子と琴子がやって来て、昼食はいつもより賑やかになった。
 琴絵と朱美が部活から帰ってきて、そのしばらくあとに紗絵と詩織がやって来た。
 それとほぼ同じ頃にともみと幸江、凛がやって来て、残るは仕事のある鈴奈だけとなった。
「琴子ちゃんて、人見知りとかするのかしら?」
 遊び疲れてベビーベッドで寝ている琴子の頬をつつきながら、ともみはそんなことを言った。
「さあ、どうでしょうか。ちょっとわかりません」
 母親である祥子は、首を傾げた。
「お正月に親戚が集まった時とかはどうだったの?」
「あの時は、私やお母さまの側にずっといましたから、そういう感じはなかったですね」
「そっか」
「なにか気になることでもあるんですか?」
「ん、いや、家族以外と接する機会が多いじゃない、琴子ちゃんて。だから、どうなのかなって思ってね」
「そういうことですか」
 ともみの疑問も理解できた。ただ、まだ一歳にもならない赤ん坊に対して、人見知り云々を語るのは早いと思えた。
「圭太はそういうところはないけど、祥子は少しあるじゃない。だから、ふたりの子供である琴子ちゃんはどうなのかなって」
「別にどっちでもいいんじゃないの? 人見知りなんてよほどひどいものでもなければ、それほど問題ないわけだし」
 幸江がそう言うと──
「そんなことはわかってるのよ。私はただ単純にどっちかと思っただけ。どっちだからどうだとは言ってないでしょうが」
 ともみは呆れ顔でそう言った。
「言葉が足りないのよ、言葉が」
 相変わらずのふたりの様子に、圭太たちは苦笑するしかなかった。
「そういえば、紗絵。新入生はどんな感じなの?」
「先生の話だと、受けてる数としては、例年並みだそうです。あとは、どれだけ合格できて、どれだけ引き続いて吹奏楽をやってくれるかです」
「合格発表って、明日だっけ?」
「はい」
「やっぱり二十人くらい入ってくれると、部としては安泰よね」
「今年は少なくとも大丈夫でしょ? なんたって、三年連続全国金賞という看板があるわけだから」
「確かに」
「ただ、それはそれでプレッシャーでもあるわけだけどね」
 そのプレッシャーとは、実に様々なプレッシャーである。
 最大のプレッシャーは、四年連続で全国大会で金賞を取れるか、というもの。もしそれができなくとも、それに準ずるような結果は必要となる。
 それに次ぐのが、OB、OGからのプレッシャー。自分たちが卒業してからどうなったのか、やはり気になる。
 そして、もうひとつが、自分たち自身のプレッシャー。特に二、三年は去年はできたのに今年はダメだったらという想いを抱えている。
 そういうプレッシャーに打ち勝たなければ、その先に進むことは難しい。
「ま、そういうプレッシャーを力に変えようだとか、潰されないようにがんばろうとか、そういうことは脇に置いておけばいいと思うわ。というか、次第にそんなことどうでもよくなってくるわけだし。ね、圭太」
「そうですね。最初はいろいろ考えますけど、結局は自分たちのことだけでいっぱいいっぱいになりますから」
「というわけだから、後輩諸君は自分たちのできることを精一杯がんばることだけ考えていればいいわよ。そうすればきっと結果はついてくるだろうから」
 どんな言葉をかけられてもプレッシャーがなくなることも軽くなることもないだろうが、それでもそう言ってもらえることは単純に嬉しいことだった。
「……ん〜」
 と、それまで眠っていた琴子が、もぞもぞと動き出した。
「あ、起こしちゃったか」
「う〜……」
「ごめんね、琴子ちゃん。うるさかったか」
 まだ寝ぼけているのか、動きは緩慢である。
「ここは、パパの出番かしらね」
 圭太は、琴子を抱きかかえた。
「こうしてる姿を見てると、親子って自然とそういう雰囲気をまとえるんだって思えるのよね」
「どういう意味ですか?」
「だって、圭太だってほんの数ヶ月前までは単なる高校生でしかなかったわけでしょ。それなのに、今は琴子ちゃんの父親としての雰囲気がある。特別なことはなにもしてないにも関わらずね。だからそう思ったの」
「なるほど」
「もっとも、圭太ならどんな状況でもそうなれただろうけどね」
 そう言って笑う。
「ね、お兄ちゃん。琴子ちゃんを抱っこしていい?」
「いいよ」
 まだ少し寝ぼけているせいか、琴子はいつもよりすんなり琴絵の腕の中に収まった。
「ところで、まだまだ時間があるけど、どうするの?」
「どうしましょうか?」
「あの、ひとつ提案があるんですけど」
「ん、なに、柚紀?」
「みんなで夕食を作りませんか?」
「夕食か」
「もともとそういう予定はなかったからたいしたものはできないかもしれないですけど」
「うん、いいんじゃないかな。どう、みんな?」
 誰からも反対は出ない。
「じゃ、そういうことで、圭太は琴子ちゃんとおとなしく待ってること」
 圭太は、琴子と一緒にリビングに取り残された。
「こういう時の行動力は、みんなすごいよな、琴子」
「う〜?」
「琴子も将来はそんな風になっちゃうのかな」
 愛娘の成長を楽しみに思いつつも、どんな風に育つのか少しだけ心配な圭太であった。
 
 陽が落ちた頃、ようやく鈴奈がやって来た。
 その頃には総出で作っていた夕食も完成して、単なるホワイトデーのお返しパーティーが、本格的なパーティーへと変わっていた。
 とはいえ、人数が多いことと、前もって準備していなかったこともあって、食事自体は軽いものが並んでいた。
「なんか、私が仕事してる間に、みんながんばったんだね」
 ひとりだけなにもしていないことに多少引け目を感じているのか、鈴奈は申し訳なさそうにそう言った。
「時間があったからですよ。それにたいしたものは作ってませんから」
「でも、これだけの人数分だから、大変だったでしょ?」
「それも、これだけの人数がいましたから、楽勝でした」
 この場にいる誰もが料理は人並み以上にできるので、多少面倒なものでも、大量に作る必要があっても特に問題がなかった。
「それにしても、圭くんは本当に私たちの想像以上のことをしちゃうよね。普通、ホワイトデーだからってパーティーをしようだなんて考えないもの」
「まあ、そうですね。でも、それが圭太らしいといえば、圭太らしいですけど」
 そう言って柚紀は笑う。
「柚紀ちゃんとしては、どっちの方がよかった?」
「どっちもどっちですね。圭太の場合は、なにをやらせても人並み以上ですから。私なんて、何度女としての自信を失いそうになったことか」
「ふふっ、圭くんの作るお菓子はお店で売ってるのと遜色ないからね。私もはじめて圭くんが作ったお菓子を見た時は、自信を失ったもの」
「結局はどっちにしても、圭太の考え次第ですから。あくまでも今日のはヴァレンタインのお返しという意味ですから。私も口は出せませんし」
「そうだよね」
 柚紀の立場としては、難しい問題である。
「じゃあ、そろそろいいかな」
 と、圭太がそう言って立ち上がった。
 圭太が店から持ってきたのは、見事なケーキだった。しかも、ひとつではなく三つも。
 フルーツがたくさん載ったケーキ、チョコレートケーキ、チーズケーキだった。
 さらに、アイスとプリンとクッキーもあり、至れり尽くせりだった。
 これを見た女性陣は、さすがに言葉を失っていた。
「……なんか、明日から本気で料理の勉強をはじめようかしら」
 その言葉は、その場の誰もの心境だった。
「琴子は、プリンを食べような」
 そんな中で圭太は、琴子にプリンを食べさせている。
「美味しいかい、琴子?」
「あ〜」
 琴子は圭太のペチペチと叩き、次を催促する。
「わかったよ。ほら」
「ん〜」
 プリンを口に運ぶと、琴子は美味しそうに食べる。
「あ、お兄ちゃんがパーティーをすることにしたのは、ひょっとして琴子ちゃんがいるから?」
 と、チーズケーキを頬張りながら、琴絵がそんなことを言った。
「どういう意味?」
 隣の朱美が聞き返す。
「それぞれ個別にお返しをすると、どうしても時間も限られるでしょ。それに、琴子ちゃんはまだ食べられるものに限りがあるし。あげるものは同じでも、こうしてみんなが集まればお兄ちゃんが直接琴子ちゃんにしてあげたいことができるかな、って」
「なるほど。それはあるかもね。そういうことなの、圭兄?」
「そこまで考えてはいないよ。ただ、こうしてみんなが比較的容易に集まれる機会は、だんだん減るだろうから、そうなる前に集まれる口実がほしかったんだよ」
「そっか」
 現役生である琴絵たちは、四月から当然忙しくなる。
 大学へ進学する凛も、最初はなにかと忙しいだろう。
 大学三年生になるともみと幸江も、就職活動がはじまり、少しずつ制約が出てくるかもしれない。
 そして一番大きいのが、柚紀が出産するということ。
 それだけを考えても、これから先集まる機会は減っていく可能性が高い。
 とはいえ、圭太があれをやりたい、これをやりたいと言えば、このメンバーならあらゆる手段を用いて時間を作るだろうが。
「圭太としては、来年以降も続けるつもりなの?」
「それは状況によりますね。ただ、さっきも言ったように、ホワイトデーということを口実にして、みんなが集まる、というのはいいことだと思います」
「ま、確かにね」
 圭太にとっては、このような状況を作り出してしまっている責任があるので、できる限りそれぞれの想いに応えたいと思っている。ただ、圭太はひとりしかいないし、時間も二十四時間しかない。そうするとどうしてもすべてを満足させるようなことは難しい。
 そこでパーティーという方法を思いついたわけだが、圭太としてはこれを続けられるなら続けたいと思っていた。
 なぜなら、個別に対応するのに手間がかかるということもあるが、ホワイトデーを大げさにしたくない、という想いもあるからだ。
 このメンバーの間ではヴァレンタインもホワイトデーも、それぞれの想いを再確認するための『儀式』みたいなものである。だからこそ、大げさになりすぎずに想いに応える方法=パーティーというのが、最善に近い選択肢であった。
 あと、ホワイトデーに関してはあくまでも圭太からそれぞれへのお返しの場なので、比較的意見が通りやすいということもあった。
「最終的な決定権は、やっぱり柚紀が握ってるわけ?」
「……なんなんですか、その言い方は?」
「違うの?」
「…………」
 黙ってしまう時点で、柚紀の負けである。
「ま、どうなるかは来年までのお楽しみ、ということでいいか」
 綺麗にまとめたようであるが、元から誰もがそう思っていたことである。
「う〜、う〜」
「琴子の分はもう終わり。それ以上食べると、お腹壊すから」
「う〜、う〜」
「叩いてもダメ」
「お兄ちゃん、もう少しだけあげたら?」
「甘やかしすぎると後々苦労するからそれもダメ」
「琴絵ちゃんのことを言ってるみたい」
「…………」
「琴子の分はまだあるから、それはまた明日にでもな」
「……十分甘いよね、やっぱり」
 その言葉に、全員が頷いた。
 
 パーティーのあと。
「はい、柚紀」
「ん、どうしたの、これ?」
 柚紀は、自分の前に置かれた小さな箱を手に取った。
「柚紀にはもうひとつ特別に用意したんだよ」
「わざわざそこまでしなくてもいいのに。誕生日とかじゃないんだから」
 そうは言いながらも、とても嬉しそうである。
「開けていい?」
「いいよ」
 開けると──
「ブローチだね」
 花の形をしたブローチだった。ピンク色の石がとても綺麗で、特別大きいわけでもないので、どんな服にもあいそうだった。
「結局さ、いつ頃パーティーにしようと思ったの?」
「ん〜、十日くらい前かな。今年は去年より大変になるのはわかってたから、じゃあどうしようってずっと考えてて。ひとりひとりにちゃんとやった方がいいのはわかってるんだけど、どうしても偏りが出るからね。で、パーティーにしたわけ」
「なるほどね。ま、パーティー自体は楽しかったからよかったけどね。それと、みんながいるから安心できたし」
「それはなにより」
 そう言って圭太は笑った。
「私の旦那さまはあらゆることを考えてくれるから、たいていのことは安心できるんだけどね」
「そこまで言われると、プレッシャーかな」
「大丈夫大丈夫。圭太は今まで通りにやってくれればいいの。みんなだってそう思ってるよ」
「そうだといいけど」
 圭太の意識としては、なにをやるにしても常に手探り、という感じである。
 その結果がたまたまいい方向へ転がっているだけなので、いつ悪い方向へ転ぶかわからないと考えていた。
 もっとも、柚紀たちにしてみればよほどひどい内容でもない限りは、圭太と一緒にいられること自体に喜びを見出しているので、さほど問題はなかった。
「あ、でも、最近の圭太は特に琴子ちゃんに甘いから、そのあたりは少し注意した方がいいかも」
「そんなに甘いかな?」
「うん、甘い甘い。まあ、みんながあれこれあまり言わないのは、圭太の気持ちが理解できるからだと思うよ。端から見てても、琴子ちゃんカワイイからね。そんな琴子ちゃんに甘えられて、甘やかすなって言われてもなかなか難しいもんね」
 圭太のまわりで琴子を甘やかしていないのは、母親である祥子くらいである。
「ただ、琴子ちゃんばかり構いすぎると、みんな拗ねちゃうからね」
「肝に銘じておくよ」
 圭太としても、多少琴子には甘いと思っていたが、そこまで言われるほどとは思っていなかった。やはり自分の行動はまわりの方が正確にわかる。
「というか、祥子先輩にも言われてない?」
「多少は言われるけど、そんなにしょっちゅうではないかな」
「じゃあ、それは普段圭太が琴子ちゃんと一緒にいられないからだ。毎日一緒にいたら、絶対に言われる。というか、私だったら絶対に言う」
「来月以降、より気をつけるよ」
「うん、そうしてね。じゃないと、私もなにをするかわからないから」
 最高の笑顔でそのようなことを言われても、笑顔で返すのは難しい内容だった。
「お願いね、旦那さま」
 そういうことを考えなければならないということが、親になるということでもあった。
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