僕がいて、君がいて
 
第四十四章「新たなる旅立ち」
 
 一「佐山鈴奈」
 枕元で、目覚ましが鳴っている。
 朝だから当然か。
 起きなくてはならないのだけど、如何せん、寒い。
「ん〜……」
 私は手を伸ばし、目覚ましを止めるよりも先に、エアコンのスイッチを入れた。
 エアコンが低いモーター音を響かせ、動き出す。
 この部屋のエアコンは最新型ではないから、あっという間に暖かくなるわけではない。
 温風が出るまでベッドの中で待つ。
 少しして、室温が上がってきたので、ようやくベッドから出られた。
 実家にいる時はまったく気にしていなかったけど、先に誰か起きているだけで家の中が暖かくなる。ひとり暮らしをはじめてからそれがなくなり、いかに自分が幸せな状況にあったのか、痛感した。
 カーテンを開けると、今日も天気だった。
 冷たい水でサッと顔を洗い、朝食の準備をする。
 今日はパンなのでコーヒーのためにお湯を沸かす。
「今日は……少しは楽できるといいんだけど……」
 独り言も愚痴が多くなったのは、社会人になったからかもしれない。
 そんな自分がイヤなんだけど、もうこれは直らない。
 なんとか気持ちを切り替えて、今日もがんばるしかない。
「ホント、がんばろ」
 
 二月も半ばを過ぎて、世の中は年度末へ向けて慌ただしさを増してきた。
 二高でもそれは同じで、三年生の受験がまもなくピークを迎えるにあたり、三年生担当の先生たちが大変そうだ。
 一、二年生は学年末テストがすぐにあるので、勉強に追われている。放課後になると、教室や図書館で勉強している生徒の姿が増えた。
 私はまだ担任ではないからそこまでではないけど、それでも十二月と同じくらい忙しくなっていた。
 授業のない時間も、書類の整理や様々な雑用がある。
 少し煮詰まってしまったので、私は職員室を出て階段の踊り場へ。
 窓を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。
「ふう……」
 少し火照っていた頬に、冷たい風が気持ちいい。
 と、携帯が震えた。
 なにかと思って見ると──
「あ、圭くんからだ」
 圭くんからのメールだった。
『お仕事中にすみません。今夜、うちで鍋をする予定なのですが、鈴奈さんも一緒にどうですか?』
 内容は、夕食のお誘い。
 これはなにがあっても行かなければ。
 私はすぐに返信した。
 それにしても、圭くんのあのまわりに対する気配りは、どうやって育まれたんだろう。環境の問題はあったんだろうけど、それだけでは説明しきれない気がする。
 まあ、私はその恩恵に与ってるわけだから、あまりとやかく言うのはどうかとも思うけど。
 まあいいか。今は少しでも早く仕事を終えて、帰ることだけを考えよう。
「よし」
 
 目の前にニンジンをぶら下げられたおかげか、いつもより早く仕事を終えられた。
 歩いている間も、心なしかいつもより早足になった。
『桜亭』が見えた時には、少し駆け足気味だったかもしれない。
「こんばんは」
「おつかれさまです、鈴奈さん」
 圭くんに出迎えてもらっただけで、もう疲れもなにかも吹き飛んでしまう。
「準備にもう少し時間がかかるので」
「全然いいよ」
 私はお呼ばれしたわけだから、文句などあるはずもない。
 リビングに通される。
「料理は、柚紀ちゃんが?」
「ええ。張り切ってやってます」
「そっか」
 柚紀ちゃんがそういうことをしていても、もう驚かなくなってる自分がいる。
 柚紀ちゃんは圭くんのお嫁さんなわけだから、当然のことなんだけど、複雑な心境だ。
「あ、そうそう、圭くん。今日は誘ってくれて、ホントにありがとね」
「やっぱり鍋は大勢で食べた方がいいですから」
「そうなんだよねぇ。ひとりだとなかなか鍋をやる機会もないし。だから、今日はとっても楽しみ」
 最近はひとり鍋用の様々なものも売ってるけど、やっぱり鍋は大勢で食べる方がいい。
「そういえば、今日はいつもより少し早めですね」
「うん。大急ぎで仕事を片づけてきたから」
 もし毎日のように誘われたら、毎日早く帰れるかも。
「同僚の先生たちも、私がいつも以上に張り切ってたから、驚いてたかも」
 本当は毎日そうじゃなくちゃいけないんだけど。
 あれ? それはつまり、私は普段はそこまでがんばってないって言ってるようなもの?
「あ、えっと、普段もちゃんとやってるよ、一応」
「わかってますよ」
 圭くんは穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。
 本当に私は圭くんの前だとみっともないところばかり見せちゃうなぁ。
 ポジティブに考えれば、それだけ私たちの関係が近いということだろうけど、年上としての威厳は、少なくともない。
 だけど、今は以前ほどそれについて悩んではいない。というか、悩んだところでどうにかなる問題ではないからだ。
 圭くんに対する私の想いが強くなればなるほど、私は圭くんの前では年上らしくなくなると思う。
 そこで変なこだわりを持つと、きっと圭くんとの時間が楽しくなくなってしまう。
 それだけは絶対にイヤ。
 だから、もう深く悩むのはやめたのだ。
「ね、圭くん。少しだけ、いいかな?」
「いいですよ」
 私は、圭くんのすぐ隣に座り、そのまま寄りかかった。
 圭くんは、私の髪を優しく撫でてくれる。
「こうしてると、本当に心の底から安心できるの……」
「僕がお姉ちゃんのためにできることは、そう多くないですから。これくらいのことなら、いつでもしますよ」
「うん、ありがと」
 本当に圭くんはできた『弟』だ。
 
 夕食は、とても楽しかった。
 柚紀ちゃんが作ってくれたお鍋もとても美味しかった。
 残念だけど、料理の腕は柚紀ちゃんにはかなわない。私も一般的な同年代の女性に比べればできる方だと思うけど、最近は簡単なもの、簡単なものへと流れてしまって、技術や知識が停滞気味。
 その点、柚紀ちゃんは毎日のように作ってるわけだから、どんどん上達していく。
 自分のためというよりは圭くんのためにもう少しがんばるべきなんだろうけど、これは今後への検討課題にしておこう。
 琴絵ちゃんと朱美ちゃんはテスト直前だったから、いつもより幾分憔悴気味だった。
 これに関してはもう本人にがんばってもらうしかないから、どうにもならない。
 琴美さんは、私も一緒の夕食にとても機嫌がよかった。
 あれこれ気にかけてくれる様子は、まさにもうひとりの『母』だ。
 しかも、おみやげに煮物をもらってしまった。煮物こそ鍋以上にひとりではなかなか作らないものだから、本当にありがたい。
「はい、圭くん」
「すみません」
 夕食後、いつものように圭くんに送ってもらい、今日は圭くんに部屋に寄ってもらった。
 ちょっと話もあったからだ。
「あのね、圭くん。前に言ってた母さんがこっちへ来るという話なんだけど」
「あ、はい」
「具体的にいつ頃がいいかって、向こうから打診があったの。一応、こっちの要望は極力聞いてくれるみたい」
「そうですか。そうですね……鈴奈さんの仕事が落ち着いた頃でいいんじゃないですか。卒業式が終わって、授業が終わって、入試が終わって。もちろん、新年度に向けてすぐに忙しくなるとは思いますけど」
「そうだね。となると、来月の半ば過ぎくらいかな、比較的ましなのは」
「それくらいですね」
「じゃあ、母さんにはそのくらいに来てほしいって伝えておくね」
 たぶん、そのくらいになるんじゃないかと思ってたけど、やっぱりそうなった。
 普通に考えれば当然なんだけど。
「鈴奈さんは、どうするつもりなんですか?」
「そうだなぁ、とりあえずとにかく本心を包み隠さず話すつもり。ここまで来てウソをつくのはもちろん、あれこれ誤魔化すのは意味がないからね。あとは、それを見て、聞いて、母さんが私と圭くんのことをどう考えてくれるか」
「結果は、神のみぞ知る、というところですね」
「うん」
 どんな結果が出ても、後悔だけはしたくない。
 だから、絶対に後悔しない行動を取らなければならない。
「とはいえ、最悪の結果にはならないと思うけどね。母さんは父さんと違って話せばわかってくれる人だから。それに、正月に戻った時にある程度理解してくれてるから」
 そう。本当の問題は母さんではない。問題は父さんをどうするか。
 だけど、今はそれを考えてもしょうがない。今すぐどうこうできる問題ではないから。
「私は、本当に圭くんのことが大好きで、ずっとずっと、一緒にいたいと思ってるから」
「それは、僕も同じです」
「圭くん……」
 圭くんは、そっと私を抱きしめてくれた。
「鈴奈さん……」
「ん……」
 圭くんとのキスは、本当に気持ちいい。
「時間、大丈夫?」
「少しくらいなら」
「うん」
 今日は、それだけでスイッチが入ってしまった。
 柚紀ちゃんには申し訳ないけど、今だけは私だけを見つめていてほしい。
 まだ不確かな、圭くんとの絆を確認するために。
 
 二「高城琴絵」
 たまに、昔の夢を見る。
 昔といっても、ずっと昔のことではない。というか、私だってそんなに長く生きてるわけないんだから、当然だ。それに、夢に見られるということは、それを体験していて、なおかつ覚えているということ。そうなると、いつくらいまでの昔かは限られてくる。せいぜい、十年ちょっと。
 今日の夢は、私が小学校に入ってからのものだった。
 当時の私は、体育の授業にもまともに参加できないほど、体が弱かった。もちろん、ある程度の運動はできたのだけど、少しでも無理をしてしまうと、翌日以降に必ずなんらかの影響が出た。
 だから、お父さんからもお母さんからも、無理だけはしないように、それこそ耳にたこができるほど言われていた。
 体が弱かった私には、当然のことながら友達が少なかった。やはり一緒に遊べる機会が圧倒的に少なかったからだ。
 学校を休むことも多かった。
 私にとっての救いは、家がお店をやっていたことだった。普通の家なら、日中はお父さんは仕事へ出かけ、お母さんもひょっとしたらいないかもしれない。
 でも、うちはお店をやっていたおかげで、いつもお父さんとお母さんがいてくれた。もちろん、お店があったわけだからずっと一緒というわけにはいかない。それでも、すぐ近くにいてくれるというだけで、気持ちは全然変わってくる。
 そして、なによりも私にとって嬉しかったのは、お兄ちゃんが一緒にいてくれたこと。
 さすがに一緒に学校を休むことはなかったけど、授業が終わると真っ直ぐに帰ってきてくれて、一緒にいてくれた。
 当時のお兄ちゃんは、年相応にやんちゃなところがあった。でも、同い年の子に比べて、確実に大人びていた。
 そんなお兄ちゃんのことが、私は昔から大好きだった。憧れだった。
 お父さんもお母さんも大好きだったけど、誰よりもお兄ちゃんが大好きだった。
 お兄ちゃんさえいれば、体が弱いことも苦にならなかった。
 だけど、私はまだまだ子供で、自分の気持ちを素直に言い表すことができなかった。
 それが、今日の夢だった。
 お兄ちゃんはいつものように優しく、私のことを一番に考えてくれていた。
 特別なことはなかったけど、それだけで私は幸せだった。
 だから私は、そんなお兄ちゃんにひと言だけでも言えればよかったのだ。
『ありがとう』
 そう言えればよかったのだ。
 たったひと言。それがなかなか言えず、私は心の中でいつも謝っていた。
 それでも、ある時、そのひと言が言えるようになり、私の気持ちが軽くなった。
 お兄ちゃんも、嬉しそうに笑ってくれた。
 お兄ちゃんが笑うと、私も嬉しくていつも笑っていた。
 私にとって、お兄ちゃんは本当に『すべて』なのだ。
 夢の中でお兄ちゃんが出てきてくれると、本当に嬉しい。その内容があまりいいものでなくてもだ。
 そんな単純な私の想いを、お兄ちゃんはどこまで理解してくれてるのか。
 今は、正直わからない。
 今は、私だけのお兄ちゃんじゃ、なくなってしまったからだ。
 
 ベッドの中でまどろんでいると、ドアがノックされた。
「琴絵、起きたか?」
 声の主は、お兄ちゃんだった。
 眠い目を擦り、枕元の時計を見ると──
「わ……もうお昼だ……」
 私は慌てて体を起こした。
「琴絵?」
「あ、うん、起きたよ、お兄ちゃん」
 返事をすると、同時にドアが開いた。
「おはよう、琴絵」
「うん、おはよ、お兄ちゃん」
 そのまま私の側まで来て、額に手を当てた。
「調子が悪いわけじゃないよな?」
「あ、うん。大丈夫だよ」
「そうか。それならいいんだ」
 お兄ちゃんは、安心したように微笑んだ。
 今日は土曜日で、学校はない。しかも、テスト前だから部活もない。
 だから、遅くまで起きていて、起きるのも遅くなってしまったのだ。
「勉強は進んでるのか?」
「ん〜、まあまあかな」
「まあ、無理をしない程度にがんばればいいよ」
 そう言ってお兄ちゃんは私の頭を撫でてくれた。
「じゃあ、朝食というか、もう昼食か。準備しておくから、着替えて下りてきな」
「うん」
 お兄ちゃんが部屋を出て行くと、自然と息が漏れた。
 お兄ちゃんは、今でも私のことを常に気にかけてくれる。
 昔ほど体調を崩すことがなくなっても、それは変わらない。
 本当はお兄ちゃんに少しでも心配かけないように、私は行動する必要がある。だけど、それがまだまだできていない。
 きっとお兄ちゃんは、それほど深く考えずに行動してるはず。それは、まったく見返りを求めていないからだ。
 よく先輩たちが言っている。お兄ちゃんは、もっと見返りを求めた行動をしても誰も文句を言わない、と。
 私もそう思う。お兄ちゃんは、あまりにも求めなさすぎる。
 もちろん、必要以上に求められても困るけど、お兄ちゃんからの求めなら、なんとかしたいとも思う。
 それはきっと私だけでなく、お兄ちゃんに関わっている全員が思ってるはず。
「しょうがないか……」
 と言っても、きっとこれはこの先もそう変わらないと思う。
 だって、お兄ちゃんはそういう人なんだから。
 
 起きるのが遅くなってしまったから、どうも少し調子がおかしいところがある。
「ん〜……」
「わからないところでもあるの?」
 リビングで勉強していたら、柚紀さんが声をかけてきた。
「あ、いえ、そうじゃないんですけど」
 考え事をしていたから、勉強に詰まってるのだと思われたのだろう。
「じゃあ、どうしたの?」
 柚紀さんは、本当にとてもよくできた『義姉』だ。
 お兄ちゃんとつきあいはじめた頃から、それは変わっていない。
「いえ、いろいろと余計なことを考えてしまって」
「ああ、そういうことあるよね。やらなくちゃいけないことがあるんだけど、そっちのことよりも今はとりあえず考える必要のないことを考えてしまうってこと」
 柚紀さんはうんうんと頷いた。
「考えてたのは、圭太のこと?」
「あ、はい」
 こういうところは、お兄ちゃんよりも柚紀さんの方が鋭い。
「琴絵ちゃんて、やっぱりいつも圭太のことを考えてるの?」
「そうですね。考えてます」
「私と同じだ」
 柚紀さんは、本当にそうだと思う。
 お兄ちゃんとの出逢いは高校に入ってからなのに、今では誰よりもお兄ちゃんのことを考えている。だからこそ、お兄ちゃんの頑なな心を解きほぐし、彼女になって、婚約者になって、お嫁さんになれたんだ。
「あ、そうだ。ちょっと待っててね」
「あ、はい」
 柚紀さんはそう言って台所へ。
 台所では、冷蔵庫を開けているようだ。
「お待たせ」
 柚紀さんが持ってきてくれたのは、アイスだった。
「昨日の買い物で買ってきてたの。琴絵ちゃんには先にあげるね」
「ありがとうございます」
 アイスは、チョコアイスだった。
 今日はとても天気がいい。外は寒いけど、リビングにいるとその寒さは感じない。
 そんな暖かな部屋で食べるアイスは、とても美味しい。
「美味しいね」
「はい」
 こうしていると、柚紀さんとはずっと前から一緒にいるような気持ちになる。
 今更だけど、やっぱり呼び方を変えた方がいいかもしれない。
「あの、柚紀さん」
「ん?」
「今更なんですけど、柚紀さんのこと『お義姉ちゃん』て呼んでもいいですか?」
「えっ? あ、うん。それは別に構わないよ。というか、前にそんなこと話したよね?」
「はい。ただ、なんとなくその場限りになってしまって」
「そういえばそうね」
 もうひとつ、ちょっと気恥ずかしかったというのもあった。
 あの時はまだ正式に『義姉』ではなかったけど、今は本当に『義姉』なのだから、呼んであげる方がいいかもしれない。
「でも、どうして今なの?」
「いえ、それもなんとなくなんですけど」
「そっか」
 柚紀さんは、特に表情を変えずにアイスをひと口。
「私としては、どう呼んでもらってもいいよ。呼び方は大事だとは思うけど、それ以上でもなければそれ以下でもないから」
「そうですね」
 確かにそうかもしれない。
 呼び方を変えたところで、私と柚紀さんの関係まで変わるわけではない。
「あ、そうだ。呼び方を変えるなら、ついでその言葉遣いも変えてほしいかな」
「言葉遣い、ですか?」
 私は首を傾げた。
「今までは部活の先輩後輩という関係もあったからよかったけど、これからは義理の姉妹という関係が一番大きくなるわけでしょ? だったら、言葉遣いもそれにあわせたものにした方がいいと思ってね」
 なるほど。そういうことか。
「あ、ただひとつだけ勘違いしないでね。別に無理に変えてほしいわけじゃないから。実の兄弟姉妹だって丁寧語で話してることもあるわけだから」
 確か、祥子先輩がそうだ。
「まあ、私はそういう風に考えてる、ということだけでもわかっててもらえればいいよ」
 そう言って笑った。
「それと、琴絵ちゃん。ひとつ忘れないでね」
「なにをですか?」
「琴絵ちゃんは今、テスト前だということ」
「あ……」
「あれこれ考えちゃうのはわかるけど、今は目の前のことに集中した方がいいよ」
「はい、そうですね」
 いけないいけない。私もすっかり忘れてた。
 柚紀さんに言われなければ、そのまま話を続けていたかもしれない。
「えっと、あの、お義姉ちゃん」
「ん?」
「よかったら、勉強をみてほしいかな」
「ふふっ、うん、いいよ」
 とりあえず、これが私と柚紀さん、ううん、お義姉ちゃんとの関係を進める第一歩。
 今更だけどね。
 
「お兄ちゃん」
「ん、どうした?」
「今、いい?」
「いいよ」
 夜、私はお兄ちゃんの部屋を訪れた。
「お兄ちゃんは、本を読んでたの?」
「ああ。鈴奈さんから面白いから読んでみてくれって言われて」
「そうなんだ」
「それで、どうしたんだ?」
「あ、うん」
 特になにかあったわけじゃない。ただお兄ちゃんと一緒にいたかっただけ。
「そういえば、琴絵。柚紀のこと、『お義姉ちゃん』て呼ぶことにしたんだな」
「うん。今までもそうしようと思ってたんだけど、ずるずるとここまで来ちゃって。本当に今更なんだけど、お義姉ちゃんて呼ぶことにしたの」
「なにかそうしようと思ったきっかけでもあったのか?」
「きっかけかぁ……それはたぶん、柚紀さんが本当の『お義姉ちゃん』だと思えたからだと思うよ。あ、もちろん、今までもそう思ってたけど、今日ふとした時に急にそう思ったの」
「なるほど」
 実際のきっかけなんてそんなものだと思う。
 劇的ななにかがある方が珍しい。
「どういう理由、きっかけにしろ、柚紀と琴絵が今まで以上にわかりあい、仲良くなってくれるのは嬉しいよ。ふたりとも僕にとって、かけがえのない存在だからね」
「うん」
 お兄ちゃんは、そう言って微笑んだ。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「テストが終わったら、私に少し、時間をくれるかな?」
「それはいいけど、なにをするつもりなんだ?」
「たまには、兄妹水入らずで過ごしたいと思って」
 お兄ちゃんもそれを鵜呑みにはしないだろうけど、特に疑う理由もないのでなにも言わない。
「じゃあ、とりあえずテストをがんばらないとな」
「うん、がんばるよ」
 私はお兄ちゃんに抱きつき、ついでにキスをねだった。
「ん……」
「本当に甘えん坊だな、琴絵は」
「いいんだもん」
 お兄ちゃんは、私を優しく抱きしめてくれた。
 私は、死ぬまでお兄ちゃんの妹だから、ずっと一緒にいられる。
 でも、それだけではダメなんだ。
 ただ一緒にいるだけでは。
 それをこれから考えていかなくちゃ。
 大好きなお兄ちゃんのためにも。
 
 三「新城幸江」
 朝から家の空気が淀んでいたから、外に出ることにした。
 さすがに妹と弟のふたりともがテストだと、異様な雰囲気になる。
 妹の静江からは、勉強を教えてくれと言われたけど、高校を卒業して二年。かなり忘れてる部分があるから、姉としての名誉を守るために、戦略的撤退を選択した。
 どこへ行こうか考えた結果、やはり『桜亭』へ来てしまった。
 このところはアルバイトもほとんど入ってないから、お客というか、圭太目当てに来ることの方が多くなった。
 お店の方から入ると、まだ午前中ということもあって、お客さんの数は少なかった。
「おはよ、圭太」
「おはようございます」
 うん。圭太の笑顔を見ただけで、今日一日なんでもできそうな気になる。
「どうしますか?」
「とりあえず、カフェオレかな」
「わかりました」
 お客でお店に来た場合は、必ずなにかを注文する。
 食事の時間なら食事を、それ以外の時間なら飲み物のみか、ついでにケーキを。
 今日はまだ午前中だから、飲み物だけ。
「お待たせしました」
「ありがと」
 まずはひと口。
「今日はどうしたんですか? 幸江さんが日曜に来るのは珍しいですね」
「下のふたりがテストで、家にいるとあれこれ気を遣うから逃げてきたのよ」
「ああ、なるほど。それは確かに、家にいても休まらないですね」
 すぐに状況を理解してくれて、圭太は大きく頷いた。
「圭太はそういうことないの?」
「そうですね。時々わからないところを訊かれはしますけど、特別どうこうというのはないですね」
「それは、優秀かそうでないかの差ね」
 こっちのふたりは一高で、うちのふたりは二高と三高だから。頭の出来が違う。
 というか、そんな状況でも逃げてきてる私にも、問題はあるのかもしれない。
「弟はそうでもないんだけど、妹の方がうるさいくらいにあれこれ言ってくるのよ」
「頼りにされてるということではないんですか?」
「さあ、どうなのかしら?」
 頼りにされてないとは思わないけど、どこまでされてるのかはわからない。
 なんといっても、ふたりとも今が一番生意気な時期だから。
「そういうわけだから、しばらく時間つぶしにつきあってよ」
「ええ、いいですよ」
 圭太は、笑顔でそう言った。
 
 昼食後、私と圭太はリビングでまったりと過ごしていた。
「ねえ、圭太。もうすぐ卒業だけど、今、どんな心境?」
「そうですね……複雑な心境、でしょうか」
「複雑というのは、具体的には?」
「嬉しさと、淋しさと、若干の戸惑いと」
 なるほど。その気持ちは、なんとなく理解できる。
「ただ、どれも予想の範囲内なので、特に問題はありません」
「さらっとそう言えるのは、圭太だからね」
 圭太はいつもそうだ。
 三年前、ともみと祥子が圭太を連れてきた時から、ずっとそう。
 二歳年下なのに、全然そう思わせない部分が多くて、少し戸惑ったのを覚えている。
 だから、時折見せる年下らしさに惹かれていったのだ。
 今にして思えば、一目惚れだったのかもしれない。
 明らかにまわりの男の子とは違う部分に、あっという間に惹きつけられてしまった。
 ただ、最初はそれを認めなかった。というか、圭太が柚紀とつきあうようになって、そういう想いを持ち続けるのは問題だと思ったからだ。
 だけど、それも長くは続かなかった。
「今はまだ当日まで少し時間があるので落ち着いてますけど、前日になったらさすがにもう少しあれこれ考えると思いますよ」
「それが普通よ」
 私も卒業式の前日には、あれこれ考えた覚えがある。
 私はそこまで感傷的な人間ではないと思っていたんだけど、やはりどこかでそうなりきれない部分があったのだろう。
「だけど、高校生じゃなくなる自分て、想像できる?」
「ん〜、難しいですね。高校生というか、学校に通っているというのがずっと当たり前になってましたから」
 圭太は大学へ行かないから、余計かもしれない。
 きっと、高校卒業後に社会人になってる人は、似たような感じだろう。
 それでも時間が止まってくれるわけでもないから、次第にその流れに身を任せていく。
 それがいいことなのか、悪いことなのかは、わからないけど。
「僕の場合は、すぐに社会人になるわけでもないですから、余計です」
「圭太の場合は、事情が事情だから、しょうがないでしょ。それに、正確に言えば圭太だって社会人になるのよ。ただ、世間一般的な概念でいうところの社会人とは違うだけ」
「そうですね」
 たぶん、今はまだ理解できないだろう。
 実際に卒業して、社会に出てみなければわからないことの方が多い。
 それについては、圭太も例外ではない。
「あと、圭太は社会人というよりも、ふたりの子供の父親という立場の方が強いか」
「ああ、それはありますね。今でも琴子の父親ですけど、それがふたりになれば、よりいっそう強くそれを意識するはずです」
 圭太はとにかく責任感が強いから、守るべき者が増えればその責任感もますます強まるだろう。しかも本人はそれをほぼ無意識のうちにやっている。
 まあ、私を含めてみんなそんな圭太に惹かれてるんだけど。
「そういや、春に産まれる子は別として、琴子ちゃんのことは基本的にどうしていくつもりなの?」
「別にこれといって特別なことはありませんけど。ふたりの間に差なんてありませんし」
「大きくなったら、幼稚園か保育園にも行かせるわけでしょ? 学校も。そういうのはどうするの?」
「それは、相談して決めます。ただ、僕個人の考えとしては、特に問題がない限りは私立に行かせる必要はないと思ってます。特に中学校までは地元の方がいいと思います」
「なるほどね。それはやっぱり、友達関係を心配してよね?」
「ええ。わざわざ電車やバスで通わなくちゃいけない学校だと、気軽に遊べないですからね。目的があるならそれでも構わないかもしれませんけど、子供のうちは遊べる時に遊ぶ方がいいはずです」
 きっと、圭太がここまでこだわるのは、自分の過去のことがあるからだろう。
 遊びたくても遊べない。そんな想いを自分の子供にはさせたくない。
 もちろん、その子供が望めば話は別だろうけど、少なくともそうでもない限りは圭太はその意見を主張するはず。
「なんか、圭太って本当にありとあらゆることを考えてるのね」
「そんなことはないですよ。まだまだ考えなくちゃいけないことの方が多いです」
「だとしても、私たちにはそう見せていないところが、圭太のすごさだと思うわ」
「そうでしょうか?」
「そうよ。そして、これからもそういうのは続けた方がいいわ。その方がカッコイイからね」
 これ以上モテすぎるのは困るけど、自分の好きになった人がカッコイイというのは、単純に嬉しいし自慢できる。
 圭太にはこれからもカッコイイままでいてほしい。
「あ、そうだ。幸江さん」
「ん?」
「少し気が早いんですけど、来月の幸江さんの誕生日ですけど、どこか行きたいところとか、なにかほしいものとかありますか?」
「誕生日かぁ。ん〜、まだなにも考えてないなぁ」
 さすがにまだ一ヶ月もあるしなぁ。
 とはいえ、これは圭太からのありがたい申し出だから、しっかり考えないと。
「だけど、どうして今から訊くの?」
「来月はいろいろ忙しくなりそうなので、できることからやろうと思ってるんです。その中で幸江さんの誕生日は外せないものですから、余計に早めに確認を取って、準備しようと思ったんです」
 うっわぁ、すっごく嬉しい。
 今までも圭太からはいろいろと嬉しいことを言ってもらってるけど、今のはその中でもかなり上位にランクインしそう。
 しかも、普通は照れてしまいそうなことも、実に自然に言うから、言われたこっちが照れてしまう。
「もし今すぐに決められないようでしたら、あとででも構いませんから。どこへ行くにしても、なにか贈るにしても、すぐのことではありませんから」
「それはそうだと思うけど、こんな機会もそうあるわけでもないからなぁ」
 時期的なことを考えると、どこかへ行くのにもちょうどいい季節だ。
「さすがに泊まりがけでの旅行はダメよね?」
「ええ、それはさすがに。余裕があればそれでもいいとは思うんですけど、今回はすみません」
「あ、ううん、いいのいいの。試しに言ってみただけだから」
 柚紀の出産が近いのに、いくら私のためとはいえ、それは無理ね。
 そういうことは、またの機会に取っておこう。
「そういえば、ともみとは温泉に行ったのよね?」
「ええ、そうです」
 温泉も捨てがたいなぁ。混浴、もしくは部屋風呂があるなら一緒に入れるし。
 唯一の不満は、ともみの二番煎じということだ。
 まあ、それを補って余りあるくらいの誕生日になるだろうけど。
「じゃあ、私も少し足を伸ばして、温泉にしようかしら」
「わかりました。僕の方で少し調べて、候補をあげます。ほかに行きたいところがあるならいいですけど、もしないならその中から決めましょう」
「ええ、それでいいわ」
 こういう時は、圭太も決断が早いから助かる。
 普段は一歩退いたところで結論が出るのを待ってることが多いけど、圭太は決断ができないわけではない。
 部活でも部長をやってたのでわかるけど、本当は自分でなんでもできてしまう。ただ、そんなことばかりしていてはまわりはすべて圭太に任せてしまって自分たちでなにもやらなくなってしまう。もちろん、必ずしもそうなるわけではないけど、そうなる可能性が高いのが実際だ。
 だからこそ、最初のうちは自分はなにもせず、まわりがやるのを見ている。
 それで決まればそれでいいし、決まらなければ圭太が口を出せばいいだけ。
 そういうところは、本当にすごいと思う。
「だけど、圭太も本当にマメよね。私は祝ってもらう側だから文句もないけど」
「僕にできることは限られてますからね。だから、誕生日や様々な行事を利用して、できることをできる限りやろうと思ってます」
「その心がけはいいと思うけどね」
 なんとなく、少しこだわり過ぎてる感じもするけど。
 普段はそんなことはないけど、時折圭太は危うさを見せるから。そういう時にこそ、私のような年上が支えにならないといけない。
 だけど、私にはまだまだそこまでのことができていない。
 これは単純につきあいの長さの問題かもしれないけど、ともみや祥子ほど頼られていない。
 鈴奈さんは別格としても、せめてともみくらいにはなりたいと思う。
「圭太はやっぱりもう少し肩の力を抜いて、まわりにいろいろ任せるべきだと思うわ。これからは特にね」
「そうでしょうか?」
「そうしないと、本当に大事な時になにもできないという可能性もあるかもしれないし。守るべき者が増えるんだから、これまで以上に考えて行動しないとね」
「そう、ですね」
 圭太のいいところは衝動的に行動することが少ないことだけど、ともすると考えすぎるところがあるから、まわりがちゃんと見ていないとダメだ。
「ほら、今から眉間にしわ寄せないの」
「あ……」
 私は、圭太の眉間に指を当てた。
「せっかくのいい男が台無しよ?」
「すみません」
「うん、その顔よ」
 そして、私は圭太にキスをした。
 これからどうなるかなんて、誰にもわからない。
 偉そうなことを言ってる私だって、どうするかちゃんと決めてるわけじゃない。
 だから、これから先、それを圭太と一緒に考え、行動していきたい。
 ずっと、ずっと……
 
 四「吉沢朱美」
 朝、珍しく目覚ましが鳴るよりも早くに目が覚めた。
 やっぱり、今日からテストだからかもしれない。
 一応やるだけのことはやったけど、それでも不安は完全に払拭されたわけじゃない。
 そんな後ろ向きなことばかり考えていたから、心配で早く目が覚めてしまった。
 このままグズグズしててもしょうがないから、起きて着替えを済ませよう。
 いつもならお店の準備をするんだけど、テスト期間中はそれが免除されてる。
 圭兄は去年までテスト期間中でも完璧にそれもこなしてたんだけど、私にはそこまでは無理。さすがに身の程をわきまえてる。
 着替えて部屋を出る。
 二月の下旬といっても、まだまだ朝は寒い。
 思わず背中が丸まってしまうところをなんとか堪え、下に下りる。
 台所からは、琴美伯母さんと柚紀先輩が並んで朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
「おはよう」
「今日は早いのね」
「ちょっと早めに目が覚めてしまったんです」
「テストだから?」
「かもしれません」
 琴美伯母さんは、うちのお母さん以上に鋭い。
 居候する前は、お母さんより伯母さんの方がいいと思ってたけど、今はそんなことない。
 もちろんとても親身になってくれ、助かってる部分も多いんだけど、困ることも多い。
 顔を洗って髪を整え、リビングに戻ると眠そうな顔で琴絵ちゃんが下りてきた。
「おふぁよぉ」
「おはよう、琴絵ちゃん」
 ふらふらとソファに座る。
「大丈夫?」
「う〜ん……大丈夫。ちょっと眠いだけだから」
 琴絵ちゃんも、遅くまで勉強してたんだろう。
「お兄ちゃんは?」
「お店じゃない?」
「そっか」
 朝一番に圭兄の顔を見たいという気持ちは、とてもよくわかる。
 圭兄の顔を見るだけで、とても穏やかな朝を迎えられるからだ。
「とりあえず、顔、洗ってきたら?」
「うん」
 琴絵ちゃんはふらふらとリビングを出て行った。
 琴絵ちゃんは昔、体が弱かったから伯母さんや圭兄が絶対に無理をさせなかった。
 だけど、最近はだいぶそれもよくなり、多少のことには目をつぶるようになっていた。
 それでも特に圭兄は、琴絵ちゃんのことを気にかけている。
 やっぱり、たったひとりの妹だからだろう。
 私のことも気にはかけてくれているけど、多少の差がある。
 私は昔は琴絵ちゃんになりたいと思ってたこともあった。そうすれば圭兄から優しくしてもらえたからだ。
 だけど、いつしかそれだけではダメだと思うようにもなった。
 私をちゃんと見てもらわないと意味がない。
 だからことあるごとに圭兄に自分の想いを伝えようとしたけど、圭兄にはその想いを受け止めてくれるだけの余地がまったくなかった。
 その理由もわかっていた。祐太伯父さんが亡くなってから、圭兄はたったひとりで伯母さんと琴絵ちゃんを支え続けてきた。そういう状況だったからこそ、恋愛など考えることもなかった。
 そんな圭兄の心を動かしたのが、柚紀先輩。
 その柚紀先輩がいなければ私の想いも届かなかったかもしれないけど、心境はとっても複雑だ。
「お、朱美、もう起きてたのか」
 と、そこへ圭兄が戻ってきた。
「うん。目が覚めちゃったの」
「今日からだからかな」
 そう言って圭兄は笑った。
「あ、お兄ちゃん。おはよ」
「おはよう」
 琴絵ちゃんも戻ってきた。
「ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「今日からがんばれるだけの『お兄ちゃんエナジー』を充電していい?」
「好きにしてくれ」
「うん」
 琴絵ちゃんは、圭兄にギュッと抱きついた。
「充電中」
 以前の琴絵ちゃんはあまり行動的ではなかったけど、最近はそれまでの鬱憤を晴らすかのようにとにかく積極的だ。
 従姉の私から見ても琴絵ちゃんはカワイイから、そんな琴絵ちゃんに迫られたらいくら圭兄でもそうそう断り切れない。
 私も琴絵ちゃんくらい積極的になりたいけど、どこか躊躇してしまう。
「ふたりとも、調子はどうなんだい?」
「ん〜、悪くはないよ。やれるだけやったし」
「私もかな。ここで失敗して補習なんてイヤだし」
「そうか」
 補習になると部活にも出られないから、本当に勘弁してほしい。
 今の私は、単なる一部員ではなく、フルートのリーダーという重要な役目もある。だからこそ、やることはやらないといけない。
「三人とも、朝食の準備ができたよ」
 そこへ柚紀先輩が声をかけに来た。
「ほら、琴絵。そろそろ離して」
「はぁい」
 琴絵ちゃんは満足したように圭兄から離れた。
 ……あとで私もしようかな。
 
 テストは午前中のみだから、いつもよりかなり早めに帰れる。
「紗絵」
 私は詩織と一緒に紗絵の教室へ入っていった。
「どうしたの、ふたりで?」
「ん、もし特に用がないなら、一緒に勉強しないかなって思って」
「一緒に、か。それはいいけど、どこでやるの?」
「どこでもいいけど。詩織はどこがいい?」
 どこがいいなどと訊けば、当然うちになる可能性が高い。
 圭兄がいるからだけど、それだけじゃなくて、わからないところがあっても訊ける人がいるというのもある。
「どこがと訊かれれば、当然朱美のところがいいけど」
「そうよね」
「圭太さんはいるんでしょ?」
「そりゃ、お店があるし」
「じゃあ、決まりね」
 そんなわけで、議論するまでもなく場所が決定した。
「そういや、ふたりはお昼はどうするの?」
 昇降口で靴を履き替えながら訊ねる。
「どうする?」
「ね、朱美。『桜亭』で食べてもいいと思う?」
「それは構わないと思うけど」
「じゃあ、そうしよ。詩織もそれでいいでしょ?」
「そうね」
 どういう思惑があって紗絵がそんなことを言い出したのかはわからないけど、私としては断る理由もないからそれ以上はなにも言えない。
 まあ、特に深い理由はないのかもしれないけど。
 
 家に着くと、まずは着替えるために部屋へ。
 なぜかふたりもついてきた。
「なんでリビングで待ってないの?」
「いいじゃない、別に。ねえ?」
「そうよ。今更でしょ?」
 なにが今更なのかわからないけど、ここでこれ以上議論しても意味がない。
 釈然としないところもあったが、とりあえず着替える。
「ん〜」
「どうしたの?」
「朱美、少し胸大きくなった?」
「えっ?」
「いや、なんとなくなんだけどね」
 思わず胸を隠してしまった。
「で、実際どうなの?」
「……ちょっとだけ」
「大きくなったの?」
「……うん」
 実際、この半年くらいで少し大きくなった。ブラのサイズも変えたくらいだ。
「……私は変わってないのに」
 紗絵は、胸が小さいことをとても気にしている。私とはそれほど変わらなかったから、ここで差が開いたことが悔しいのかもしれない。
 一方、詩織はそんなこと気にすることもないくらい存在感のあるものを持ってるから、特に表情も変わらない。
「……もっと圭太さんに揉んでもらわないと」
「ちょっとちょっと、それはさすがに違うでしょ?」
「いいのよ。もうそれくらいしか方法はないんだから」
 まったく、言うに事欠いてとんでもないことを。
 着替え終えると、お店へ移動。
 ちょうどお昼時で、お店は混んでいた。
「あら、おかえり」
「ただいま」
 見ると、席はすべて埋まっていた。
「どうする?」
 さすがにこの状況では無理は言えない。
「どうしたんだい、三人揃って?」
 そこへ圭兄がやって来た。
「あ、うん。今日はお店でお昼を食べようかって話してたんだけど」
「なるほど。これじゃあ無理だね」
「うん」
「じゃあ、こうしよう。こっちに席は用意できないから、家の方で食べてもらおう。食事は、こっちのでね」
「いいの?」
「それくらいはいいよ」
「ありがと、圭兄」
 やっぱり圭兄は優しい。
 というわけで、私たちはダイニングで昼食を取ることになった。
 頼んだのは一番手間がかからずすぐにできる、サンドウィッチ。
 圭兄はさすがにお店が忙しいから、つきあってはくれない。
 なんとなく私を含めて三人とも少し期待していたところがあったから、それには少しだけ落胆していた。
「午後からがんばる三人に、応援の意味を込めて差し入れよ」
 そこへ、柚紀先輩がやって来た。
 持ってきたのは、ケーキだった。
「いいんですか?」
「いいのいいの。私たち三人から三人への差し入れよ」
 なんか、少し申し訳ない気になってくる。普通に食事をしていればこれは当然なかっただろう。
「手が空いたら、圭太も勉強を見てあげるって言ってるから、それまでがんばってね」
「はい」
 先輩が戻ると、誰からともなくため息が漏れた。なんのため息なのかは、よくわかる。
 もちろん、それを考えたところでどうにかなるわけでもない。ただ、未だにやりきれない想いがあるのは事実だ。
「とりあえず、勉強でも結果を残して気遣いに報いないとね」
「そうね」
「がんばらないと」
 今はまだ深く考えていないけど、一年後までに私は本当にいろいろなことを考えなくてはならない。
 その時にどんな選択をするにしても、それを選択した時に誰にも文句を言われないような状況にはしておきたい。
 そのためには、なにをするにしても中途半端は一番よくない。
 だから、部活も勉強も全力でがんばらないと。
 幸いにして私には想いを共有できるふたりの心強い仲間がいるんだから。
 やれることは、なんでもやろう。
 その先になにがあるのか、誰にもわからないけど。
 
 五「安田ともみ」
 布団の中でまどろんでいると、部屋のドアが思い切りノックされた。
「ともみ、いい加減にそろそろ起きなさい」
 お母さんの声だ。
「……ん〜……」
 眠い目を擦りながら枕元の携帯を手に取り、時間を確認。
「……あ〜、もうこんな時間か」
 昨夜は少しばかり遅くまで起きていたから、朝起きられなかった。
「ともみ、いい加減にしなさいっ」
 と、お母さんが痺れを切らして鍵を開けて入ってきた。
「今何時だと思ってるの。休みだからってだらけた生活ばかりしてるんじゃないわよ」
 そう言いながらカーテンを開けた。
「うっ……」
 陽の光が部屋いっぱいに入ってきた。
「ほら、さっさと起きて着替えなさい」
「はぁい」
 お母さんは盛大なため息を置き土産に、部屋を出て行った。
 のそのそとベッドから出て、まずは大きく伸びをする。
「ん〜、今日はどうしよっかなぁ」
 今までは休みの間でもバイトがあったから問題なかったんだけど、最近はそのバイトもほとんど行かなくなってしまったから、こうして暇を持て余すことが多い。
 もちろん、学生として本来やらなくちゃいけないことはあるけど、どうもそっち方面はやる気が起きない。
「圭太の顔でも見に行くか」
 ここ数日は我慢してたけど、そろそろ限界だ。
 やることが決まったなら、あとはそれに向けて行動行動。
 
 朝食兼昼食をお母さんのお小言付きで食べ、私は早速高城家へ向かった。
 今日は少し暖かいから、真冬の格好は必要ない。
 まあ、うちと高城家はそれほど遠いわけじゃないから、そんなにこだわる必要はないのかもしれないけど。
 高城家へ着くと、どっちから入るか少し迷った。バイトなら家の玄関から、お客ならお店の方からなのだが、今日はどっちでもない。
 なんて悩んでるだけ時間の無駄か。
 インターフォンを鳴らし、反応を待つ。
「どちらさまですか?」
 声は、琴絵ちゃんのだった。
 ああ、そういえばちょうどテスト期間か。もうお昼過ぎてるから、帰ってきてるんだ。
「ともみよ」
「あ、ともみ先輩」
 すぐにドアが開いた。
「こんにちは、琴絵ちゃん」
「こんにちは」
 うん、琴絵ちゃんはいつ見てもカワイイな。琴絵ちゃんみたいな妹なら、是非ともほしい。
「圭太はお店?」
「はい。あ、お兄ちゃんに用がありました?」
「ううん、暇だからちょっと顔見に来たのよ」
「そうですか」
 リビングに通される。
「琴絵ちゃんは、テスト勉強?」
「はい」
「じゃあ、大変だ」
「でも、しょうがないです。やらなくちゃ終わりませんから」
 こういう真面目なところは、圭太にそっくりだ。この兄妹は、結構似てるところが多い。本人たちはきっと気付いてないだろうけど。
「あれ、ともみ先輩」
 と、そこへ柚紀がやって来た。
「どうしたんですか?」
「ん、ちょっと暇でね。圭太の顔でも見ようと思って来たのよ」
「そうでしたか。でも、今はお店ですから、残念でしたね」
「まあね」
 最近の柚紀は、以前とは比べものにならないくらい安定している。やはり、圭太と夫婦になれて、しかも一緒に住めて、それが精神的な安定をもたらしているんだろう。
 すごく羨ましいことだ。
「あ、琴絵ちゃん。ここはいいよ。勉強続けてね」
「うん」
 ん? 今、琴絵ちゃんが敬語を使わなかったわね。
「ね、柚紀」
「なんですか?」
 柚紀は、台所でお茶の準備をしながら聞き返した。
「琴絵ちゃんとなにかあった?」
「なにかって……ああ、琴絵ちゃんの言葉遣いですか?」
「うん、そう」
「実はですね、まあ、たいしたことじゃないんですけど、言うなれば『姉妹』になったというところですかね」
「姉妹って、圭太と一緒になって義理でも姉妹になったじゃない」
「そうなんですけど、なんて言うんですかね。まだどこかに遠慮みたいなものがあったんですよ。それが、本当にちょっとしたことをきっかけにして、ほぼ完全に打ち解けたんです。で、それに伴って言葉遣いも変わったというわけです」
「なるほどね」
 柚紀と琴絵ちゃんは、以前から本当の姉妹のように仲が良かったけど、やっぱり多少の遠慮があったのね。特に琴絵ちゃんにとっては、大好きなお兄ちゃんを獲られちゃったわけだから、複雑な想いもあっただろう。
「どうぞ」
「ありがと」
 こうして見ていると、確かに柚紀はある意味では理想の姉かもしれない。
「柚紀としてはどうなの?」
「私はもう圭太とつきあいはじめた頃から琴絵ちゃんのことは妹だと思ってましたから。それほど大きな心境の変化はないですよ」
「ふ〜ん」
「不満そうですね」
「そんなことないわよ。ただ、柚紀の中では最初から圭太とのゴールが見えてたんだと思ってね」
 そこは、すごいと思う。そりゃ、私だってそういうことを夢想したことはあるけど、そこまで明確なものはなかった。もちろん、それがあったところで行動しなければ意味はない。そこも私と柚紀の違いだ。
「ま、いいわ。ところで、圭太は休憩取らないの?」
「こだわりますね」
「そりゃそうよ。そのために来たんだから」
「はあ、わかりました。呼んできます」
 なんだかんだ言っても、柚紀はとっても良い子だと思う。というか、良い子すぎる。
 本当はもう少しワガママになってもいいはずなのに。いろいろ損してる。
「ともみさん」
「お、圭太」
「連絡してもらえば、時間作りましたよ?」
「ああ、いいのいいの。そこまでのことじゃないから」
 本当にそんなことしたら、歯止めが利かなくなってしまう。ただでさえ毎日来たいという気持ちを抑え込んでるのに。
「じゃあ、圭太。ここ座って」
「あ、はい」
 圭太に隣に座ってもらう。そのまま寄りかかる。
「やっぱり、圭太に触れてると安心する。乾いた心が潤っていくって感じ」
「それは少し大げさじゃないですか?」
「そんなことないわよ。今の私にとって、家族以外で一番大事な存在が圭太なんだから。そして、その圭太は私にいろいろなものを与えてくれる。それが私にとってなによりも大切で必要なことなの」
 本当に全然大げさじゃない。圭太もそのあたりはまだまだわかってない。
「そういや、幸江からメールがあったわ。圭太が誕生日に温泉に連れて行ってくれるって。幸江もそれにしたの?」
「ええ、まあ。旅行は無理なので、じゃあ、少し遠出ということで」
「なんか、私も幸江も、考え方が同じなのかもしれないわね」
 前から似たところがあるとは思ってたけど、ここまでとは。
 私と幸江じゃ育ってきた環境が全然違うからそこまで似るというのはないと思ったけど。
「でもさ、万が一柚紀の出産が早まったらどうするつもりなの?」
「その時は柚紀を優先します」
「ま、そうなるか」
 それはしょうがないか。その時期に誕生日がある自分を呪うしかないわね。
「圭太もあれこれ大変ね」
「そうでもないですよ。今は以前に比べるとずいぶんと楽しめてます」
「へえ、そういう風に考えられるようになったのね」
「ええ。僕があれこれ悩みすぎて、いろいろ心配をかけると、多大な迷惑がかかりますから。それと、考え方の問題だとも思ったんです」
「それは?」
「今の状況はある意味ではとても大変な状況ではありますけど、ちょっと考え方を変えれば普通に生活していたのではとても経験できないことを経験できているわけじゃないですか。それを楽しんだ方が、僕もみんなもいいのかなって」
「なるほどね」
 圭太がそういう考え方をしてくれるのは、いい傾向だと思う。いつも悩んで、気を遣っていたのでは、いつかどこかで大変なことが起きる。もちろん、倫理的には問題はあるだろうけど、この状況を楽しんだ方が絶対にいい。
「あ、でも、圭太がそういう考え方になると、柚紀は心配しない?」
「そこは、今まで以上に柚紀のことを大事にするということで、帳消しにできればと思ってますけど」
「ふ〜ん」
 それに関しては、私もどうなるかはわからない。私から見ると、柚紀はとっても嫉妬深いから。
「まあ、私はどっちでもいいわ。圭太がちゃんと私のことも構ってさえくれればね」
「それは、もう少し努力します」
「ふふっ、お願いね」
 こうしてまわりがプレッシャーをかけるから、余計に圭太はあれこれ悩んじゃうんだろうけど。でも、自分がしてほしいことも言わないと伝わらないし、微妙なバランスだ。
 これから先も百パーセントの満足というのは、そうそう得られないだろうけど、それでもなるべくそれに近づけるように努力する必要はある。
 それは、圭太だけでがんばってもダメだし、私ひとりで先走っても意味がない。
 だからこそちゃんと話して、その上で決めていかないと。
 できることとできないこと、やってもいいことといけないことがあるんだから。
 圭太は私よりも先に社会人という立場になるけど、年齢では私の方が上なのだから、私が引っ張らなければならない。
 そうしていっても、必ず失敗もあるだろう。でも、失敗の中から学べることも多い。
 これから長いつきあいをしていくことを考えれば、そんな失敗はたいしたことじゃない。むしろ、なにも考えずに行動して、圭太と会えなくなる方が問題だ。
 私のためだけじゃなくて、圭太のためにも、みんなのためにも。
「じゃあ、圭太。今、少しだけ努力してみて」
「えっと……じゃあ……」
 圭太は、そっと私を抱きしめた。
 その大きな胸に抱かれるだけで、私の胸が熱くなる。
「あともうひと押しね」
 そう言って私は、キスをした。
「これくらいまでは、セットでね」
「わかりました。覚えておきます」
「うん」
 本当に大好きな人と、いつまでも一緒にいたいから。
 この笑顔を、いつまでも見ていたいから。
 
 六「真辺紗絵」
 ようやくテストも折り返し。
 残り二日間を乗り切れば、この苦痛の時間から解放される。
 筆記用具をカバンにしまうと、そのカバンを持って教室を出た。
 と、廊下で朱美と詩織が待っていた。
「や、紗絵」
 まあ、たぶんこうなるんじゃないかとは思ってたけど。
 テスト初日は朱美の家で、昨日は詩織の家で、この三人で勉強をした。
 だから、今日もじゃないかと思ってたんだけど、案の定だった。
「で、今日はどうするの?」
「紗絵の家って、大丈夫?」
「大丈夫だけど」
「じゃあ、そういうことで」
 正直言えば、この三人で勉強をするメリットというのは、あまりないと思う。
 多少の得意不得意はあるけど、私たちの成績に大きな差はない。だから、勉強会をやっても誰かが得するということがない。
 この三人でやってるのは、部活でもなんでも、一緒にいる時間が長いから安心できるというのが大きい。
「お昼、どうする?」
「今日も一度帰ってからでいいんじゃない?」
「それもいいけど、どうせならどこかで食べていかない?」
 朱美が血迷ったことを言い出した。
「あのさ、今がどういう状況かわかって言ってる?」
「だから余計によ。紗絵だって、ひとりで勉強してても適度に息抜きしてるでしょ? それと同じこと。勉強する前に、少しくらい息抜きしないと」
 本当にこういうことにはすぐ頭が回るんだから。
「詩織はどう思う?」
「そうねぇ、私はどっちでもいいけど。ただ、明日はそこまで厳しい教科はないから、お昼をどこかで食べてもいいんじゃない?」
「ほらほら、詩織もこう言ってるんだからさ」
「……わかったわよ」
 ここで私がダダをこねても意味がないし、時間ももったいない。
「で、どこへ行って、なにを食べるの?」
「ん〜、駅前に行って、ピザが食べたい」
 なるほど。朱美の中ではすでにそれは決定事項だったわけか。なんとまあ、調子のいいことで。
「詩織もそれでいい?」
「ええ、いいわよ」
「じゃあ、行きましょ」
 普段の部活では決める立場にあるけど、それ以外ではこうして決めてもらった方が楽なのは事実だ。
 私は圭太さんと違って人を引っ張れる性格じゃない。部活ではがんばってるけど、それ以外ではなかなか上手くいかない。
 もちろん、それを誰かに言ったことはない。言ったとしても、圭太さんくらいだろう。
 このふたりにも本音を語れるけど、ふたりに話す時は愚痴関係が多い。本当に解決したい時は、やっぱり圭太さんがいい。
 圭太さんもいつもいつも答えを与えてくれるわけじゃないけど、たいてい前に進むことはできてる。だから、その方がいい。
 そのこともこのふたりには言えないけど。
 
 駅前でピザを食べ、なんだかんだ適当に時間を潰して家に帰ってきた。
 というか、私もふたりに流されてしまった形だ。
「さ、勉強勉強」
 結構時間を使ってしまったので、すぐに勉強をはじめた。
 さすがの朱美も、多少は罪悪感があるらしく、文句ひとつ言わなかった。
 私たちの勉強会は、基本的にそれぞれがそれぞれのやりたいことをやって、その際にわからないことなどがあれば訊く、というもの。まあ、一般的なものだ。
 ちなみに、明日は現国と歴史。
「そういや、このところ、毎日うちに誰かしら来てるみたい」
「誰かしらって、誰?」
「昨日はともみ先輩。一昨日はふたりでしょ。日曜には幸江先輩が来てたし」
「目的は、決まってるか」
 それ以外の目的が思い浮かばない。
「でも、このところの圭太さんは、ほとんどお店に出てるんでしょ?」
「うん。伯母さんはそこまでしなくてもいいって言ってるんだけど、圭兄自身が今までの分もって感じで積極的にやってるの。で、圭兄がやれば当然のことながら柚紀先輩も一緒だから。そうするとともみ先輩と幸江先輩にバイトに入ってもらう必要がなくなり、ほとんどふたりが手伝うことでお店がまわってるってわけ」
「そっか」
「あ、でも、それって逆に考えればお店にさえ行けばほぼ確実に圭太さんに会えるってことよね?」
「まあね」
 なるほど。そういうことでもあるわけか。
 だけど、なんの用事もないのにお店に行くのも迷惑かかるからなぁ。圭太さんも琴美さんも遠慮するなって言ってくれると思うけど、それは申し訳ない。
「あと、もうひとつ。最近、琴絵ちゃんと柚紀先輩がすごく仲が良いんだよね」
「最近て、ふたりは前から仲良いじゃない」
「そうなんだけど、そうじゃないの」
 どうも要領を得ない。
「いったいなにが言いたいの?」
「ほら、ふたりって義理の姉妹になったでしょ。まあ、圭兄と柚紀先輩がつきあいはじめてからずっとそんな感じだったけど」
「そうね」
「だけどさ、やっぱりどこかに遠慮みたいなのがあったのも事実なのよ」
「まあ、そうかもね」
 一緒に住んでる朱美が言うんだから、私や詩織が言うよりも確かだろう。
「で、それがつい最近消えたのよね。なにがきっかけでそうなったのかはわからないけど」
「具体的になにが変わったの?」
「琴絵ちゃんの先輩に対する呼び方と言葉遣い。今まではさん付けで丁寧語だったでしょ。それが『お義姉ちゃん』になって砕けた話し方になったの」
「それは……」
「確かにずいぶんと変わったわね」
 それはちょっと驚きというか、大きな変化だ。
 是非ともどんな心境の変化があったのか琴絵に聞いてみたい。
「じゃあ、朱美はひとり疎外感を感じてるってわけね」
「それはないけど、ただ、これで先輩の高城家での位置はより強固なものになったんだなって思って」
「なるほど」
 もう今更柚紀先輩に勝てるなどと言うつもりはないけど、これでそれがさらに確定したということ。
「だけど、そのことが嬉しくもあるんだよね」
「なんで?」
「だってさ、やっぱり家族だからね。私は圭兄や琴絵ちゃんとはいとこの関係だからいいけど、柚紀先輩はそうじゃないでしょ。それがどういう形ででも、本当の家族になれたっていうのは、嬉しいよ」
 それは、朱美ならではの感想だろう。私や詩織には、きっとこれから先もわからない。
「ま、私がここまで言えるのは、結局圭兄は変わらないでいてくれるだろう、っていう希望を含んだ確信があるからなんだよね」
「そっか」
 確かに、それがあればそう思っていられるか。
 私もまだまだ考えなくちゃいけないことが多いなぁ。
 そのためにも、このふたりとのつきあいはますます多くなるはず。
 このふたりとは、立場が似ているからお互いの心情を容易に想像し、理解できるから。
「紗絵も詩織もさ、そういうわけだから琴絵ちゃんが先輩に普通に話してても驚かないでよ」
「わかったわよ」
「ええ、そうするわ」
 私もこの春で三年生になるわけだから、これからのことをもっともっと真剣に考えないといけない。
 すべての判断を圭太さんひとりに任せていていいわけがない。
 だって、これはひとりの問題ではないんだから。
 
 ふたりが帰ったあと、私は圭太さんにメールを打った。
 内容は簡潔で、話したいことがあるので時間はありますか、というもの。
 返事はすぐにあったけど、お店の手伝いがあってすぐには無理とのこと。一時間後に休憩を兼ねて時間を取ってくれるということだったので、それまで待つことに。
 その一時間は、とても長く感じた。本当は勉強してなければいけないのに、まったくできなかった。
 一時間経って圭太さんから電話がかかってきた時は、ワンコールで出てしまったくらいだ。
「すみません、わざわざお時間を取らせてしまって」
『いや、別にいいよ。ついでに今日は上がらせてもらったから』
 ううぅ、そういう風に言われるとますます申し訳なく思ってしまう。
『それで、話したいことって?』
「あの、今日朱美から聞いたんですけど、最近琴絵と柚紀先輩の関係が変わったみたいですね」
『ん、ああ、そうだね。今更な感じもあるけどね』
「圭太さんは、よかったと思いますか?」
『さあ、これは僕の考えよりもふたりの問題だからなぁ。ふたりがそれでいいと思ったなら、それが一番いいんだと思うよ。家族、ということでもね』
 そのあたりは、とても冷静な考えだ。だけど、羨ましくもある。琴絵に関しては妹だから当たり前だけど、柚紀先輩に関してももうそのレベルにいるということだから。
『気になったのはそれだけ?』
「えっと、そうですね」
『そっか』
 会話が途切れる。
「あ、あの、本当は圭太さんの声が聞きたかっただけなんです。今日、朱美から話を聞いて、それであれこれ自分の中で考えていたら、急に声が聞きたくなって。それでメールしてしまいました」
『なるほどね』
「あきれて、ますか?」
『そんなことないよ。急に声が聞きたくなることだってあると思うし』
 圭太さんは、本当に優しい。
『時間があれば、うちに来ればよかったんだよ。そうすればもう少しちゃんと構ってあげられたし』
「それは……一瞬考えたんですけど、圭太さんはお店のこともありますし、私はテスト期間中ですから」
『紗絵がそれでいいならいいけど。ただ、前から言ってる通り、無理だけはしないこと。紗絵もすぐに内に溜め込んじゃうタイプだからね。ダメそうなら早めに見切りを付けて、会いに来ること。いいかい?』
「わかりました」
 本当は、そんなことじゃいけないんだろうけど、どうしてもその甘い言葉にすがりつきたくなる。
「あの、圭太さん」
『なんだい?』
「えっと……テストが終わったら、練習を見に来てください」
『いいよ。まあ、僕もそのつもりだったんだけどね』
「ありがとうございます」
 のどまで出かかっていたのは、違う言葉だった。でも、それとは違うものが出てきた。
 それはきっと、私のつまらない意地だったのかもしれない。
 もう少しだけ素直になれていれば、圭太さんの私に対する見方も変わっていたかもしれないけど、それももう今更だ。
『それじゃあ、紗絵。残りのテストもがんばって』
「はい」
『おやすみ』
「おやすみなさい」
 携帯を切っても、私はしばらくそのままでいた。
 相応しいとか相応しくないとか、そういうことは考えるだけ無駄だとは思うけど、せめてもう少しだけ、自分の中で納得できるくらいには圭太さんに相応しくなりたい。
 圭太さんはもうすぐ卒業してしまうけど、せめて私が卒業する一年後までには、ちゃんとした答えを出したい。
 それまでゆっくり考えていこう。
 大好きな人とのこれからのことを。
 
 七「三ツ谷祥子」
「ほら、琴子」
「う〜」
 琴子におもちゃを渡すと、大喜びでいじりだした。
「それじゃあ、お母さま。出かけてきます」
「ええ、いってらっしゃい」
 琴子をベビーカーに乗せ、出かける。
「ん〜、いい天気。絶好のお散歩日和ね、琴子」
「あ〜」
 大学が春休みに入ってから、ほぼ毎日の日課になった琴子との散歩。
 最初は少し面倒だと思ったこともあったけど、最近は散歩に出ないとかえって調子が出ないくらいになった。
 琴子もそういうところはあるらしく、一日中家にいるとどこか機嫌が悪い。
 家を出て、ゆっくりといつもの道を歩いていく。
 もうすぐ二月も終わる。
 今まではあまり気にしていなかったけど、こうして毎日散歩していると、小さな変化に敏感になる。
 最近は、梅の花。気の早いのはもう咲いてる。
 桜の木は、まだ芽は硬い。
 もう半月もすれば、風もずいぶんと温んでくるはず。そうしたら、春だ。
「琴子。もっと暖かくなったら、パパと一緒にどこか行きましょ」
 実際、その時間が取れるかはわからないけど、半日でもいいから取れると嬉しい。
 まあ、柚紀の出産があるから本当にどうなるかわからない。
「そうだ。琴子。パパに会いに行こうか?」
「あう〜」
「うん」
 
 なんの連絡もなしにやって来たけど、圭くんはいるかな。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに返事があった。
『どちらさまですか?』
 出たのは、柚紀だった。
「あ、柚紀。祥子よ」
『あ、先輩。今開けますね』
 中からパタパタと足音が聞こえ、玄関のドアが開いた。
「おはようございます」
「おはよう」
「琴子ちゃんも、おはよう」
「あ〜」
 琴子もすっかり柚紀には慣れている。さすがにここへ来る時に、ほぼ確実に顔を合わせていれば、慣れもする。
「今日は、散歩の途中ですか?」
「うん」
 こうして散歩の途中に来ることもままあるので、柚紀もよくわかってる。
「圭くんは?」
「今はお店に出てます」
「そっか」
 これはしょうがない。今は先輩たちに代わって圭くんと柚紀がお店に出てるんだから。
「今、お茶淹れますね」
「ありがと」
 琴子をベビーベッドに寝かせる。
「ん、どうしたの、琴子?」
 琴子は、ベッドに寝かせるなり、すぐにうつぶせになり、ハイハイしようとする。
「う〜、あ〜」
「パパは、お店なのよ。だから、もう少しだけ待ってて」
 ここへ来れば圭くんに会えることを、きっと琴子も理解しているのだろう。
「先輩、どうぞ」
「ありがと」
 柚紀が紅茶を淹れてくれた。
「先輩、琴子ちゃんを抱いてもいいですか?」
「いいよ」
 柚紀は琴子を抱き上げた。
「最近、琴子ちゃんずいぶんと重くなりましたよね」
「うん、そうだね。順調に成長してる証拠だね」
 毎日抱っこしてる私ですらそう思うんだから、柚紀も当然感じているだろう。
「琴子ちゃん。琴子ちゃんもね、もうすぐお姉ちゃんになるんだよ」
「う〜?」
「弟か妹かはわからないけど、仲良くしてね」
「あ〜」
 柚紀がこうして普通に琴子に接してくれてることは、本当に私にとって救いになっている。本来なら圭くんの彼女であった柚紀の方が先に妊娠しているべきだった。そうすれば特に問題が起きることなく、誰もが喜べたはず。
 私が妊娠したと知った時、きっと柚紀は相当ショックだったはず。私たちとの関係を不本意ながら認めてはいたけど、それ以上のことはすべて自分だけだと思っていたはず。だから、柚紀よりも先に私になってしまい、私には想像できないくらいショックだっただろう。
 それでも今、こうしていられるのは、すべて柚紀のおかげだ。
「そういえば、性別は確かめてもらってないの?」
「ええ。先生はもう知ってますけどね。ただ、私には絶対に教えないでくださいって言ってあるんです」
「それはやっぱり、産まれるまで楽しみに取っておきたいから?」
「そうですね」
 その気持ちはよくわかる。私もそうだったから。
 あらかじめわかるというのもいいと思うけど、やっぱり産まれてはじめてわかるというのが、本来だと思うから。
「名前は?」
「それはまだ圭太とも話してません。一応、前もってある程度決めるつもりではいますけど」
「柚紀は、どんな名前がいいと思ってるの?」
「そうですね……男の子なら、圭太から一文字もらってですからね。女の子なら、できれば私から一文字あげたいです」
「なるほど」
「もちろん、それも絶対ではありませんから」
 きっとこれから出産直前まであれこれ考えるんだろう。
 琴子の場合は、私が先に決めていた名前を圭くんも気に入ってくれてすぐに決まった。
 今度はどうなるかわからないけど、きっといい名前になるだろう。
 それから少しして、圭くんが時間を作ってくれた。
「こら、琴子。そんなに叩かない」
「あ〜」
 琴子は、圭くんの顔を見るなりご機嫌モード。
 圭くんもすっかりパパモードだ。
「祥子。今日は時間は大丈夫ですか?」
「え、うん。大丈夫だけど、なにかあるの?」
「あとで買い物に行かなくてはならないんですけど、もし時間があるなら一緒にどうかと思って」
「あ、そういうことか。うん、いいよ。一緒に行こ」
 思わぬところでラッキーな申し出だ。
 いつもより長い時間圭くんと一緒にいられる。
 これは、私も琴子もすごく嬉しい。やっぱり、圭くんと一緒にいるのが一番いいから。
 
 お昼を一緒に食べ、圭くんと買い物に出た。
 琴子は午前中からずっとご機嫌なまま。こんなにご機嫌だと、夜は早くに寝ちゃいそうだ。子供は加減というものを知らないから。
「最近のお買い物は、圭くんが行ってるの?」
「そうでもないですよ。それほど重くならないなら、母さんや柚紀が行くこともあります。ただ、基本的に僕が行った方が早いですから」
「なるほど」
 確かに、圭くんなら重いものも持てるし、歩くのも速い。非常に効率的だ。特にお店を開けながらだと、効率を考えないといけない。
「祥子はどうですか? 家にいると頼まれたりしませんか?」
「ん〜、時々かな。琴子の検診なんかで外に出た時は、帰りに買って帰ることもあるし。まあ、うちはお母さまが基本的に外に出るのが好きだから、私に頼むよりも自分で行っちゃうの」
 それでも最近は私に頼むことが多くなった。たいていその時は琴子を置いていく。お母さまとしては、気兼ねなく琴子と遊びたいからだろう。
 これから琴子が大きくなれば、また少し変わるだろうけど、しばらくは今のままだろう。
 歩いてスーパーまでやって来た。ちなみに琴子は圭くんが抱っこしている。
「なにを買うの?」
「今日はミリンと砂糖ですね。あとは夕食の食材です」
「それだけ持つと、結構重いね」
「ええ」
 調味料は意外に重いものが多い。少しならいいんだけど、たいていそれなりの量が入っている。
「琴子はもうなにか食べられますか?」
「ん〜、離乳食なら少し食べるようになってきたけど、まだ普通の食事は無理かなぁ」
「そうですか」
「残念?」
「そうでもないですよ。まあ、一緒に食事できるようになればいいと思いますけど」
「それはもう少し待ってね」
 圭くんのこういうところには、本当に頭が下がる。
 普通、妻である柚紀のことだけで精一杯のはずなのに、私たちのことも忘れずに気にかけてくれてる。それだけで一緒にいていいんだと思える。
「あ、プリンとかヨーグルトなら大丈夫ですか?」
「ああ、うん。噛まなくてもいいものなら大丈夫だよ」
「それじゃあ」
 圭くんは、少し大きめのプリンをカゴに入れた。
「琴子。帰ったら一緒に食べような」
「あ〜」
 圭くんと琴子の姿を見ていると、心から穏やかな気持ちになれる。
 圭くんが私の大好きな人で、琴子が私たちの娘で本当によかった。
 
 さすがに夕食までごちそうになるわけにはいかなかったから、夕方には帰ることにした。
 琴子は最後の最後まで圭くんと一緒にいようとしてたけど、なんとか引きはがしてベビーカーに乗せた。
「ねえ、琴子。今度、パパのために私たちでなにかしましょう。今のままだと、やっぱりパパから一方的にもらうだけだから。琴子も、パパのためにやりたいことあるでしょ?」
「う〜?」
「ふふっ、まだわからないか」
 今はわからなくてもいい。それでも琴子の中では潜在的な記憶として残るはずだ。
 それは琴子が大きくなって、自分でなんでもできるようになった時に活きてくるはず。
 琴子には、できることならすべてを理解してほしいけど、それも無理強いできない。
 世間的に見れば、私と圭くんの関係は認められないものだから。そのせいで琴子がいじめられたりするかもしれない。
 その時には全力で琴子を守るつもりだけど、すべて上手く行くとも思えない。
 だから、せめて今の間だけでも、私の圭くんへの想いをきちんと知っておいてほしい。
「琴子は、ずっとパパとママのこと、好きでいてくれる?」
「あ〜」
 琴子の無邪気な顔を見ていると、楽観できそうな気もする。
 というか、自分の娘のことだ。親の私が信じてあげないでどうする。
「私は、ずっとずっと大好きだからね」
 たとえ嫌われても、私は好きで居続ける。
 それが私の琴子に対する愛情の証だから。
 
 八「相原詩織」
 ようやくテストも終わった。
 これで部活が再開されるわけだけど、正直言うと複雑な心境だ。
 テスト勉強をしなくていいのは、精神的にもとても楽になれる。部活が再開されるのもいい。ただ、問題なのは二月ももうすぐ終わるということ。
 そう。すぐに三月がやって来てしまうのだ。
 三月一日は、三年生の卒業式。つまり、圭太さんの卒業式だ。
 卒業したからといって、今とそれほど状況が大きく変わるわけではないけど、それでも気持ちの面でずいぶんと変わる。
 私は、誰はばかることなく言える。一高へは圭太さんに会うために入った、と。
 もちろん、私は圭太さんより年下なのだから、常に一緒にいられないことくらい理解している。
 それでも、頭で理解していても、感情がそれを拒否するのだ。
 無茶だとわかっていても、ワガママだと言われても、やっぱり圭太さんとはずっと一緒にいたいから。
 
 朱美と一緒に音楽室へ行くと、すでにそれなりの部員が来ていた。
 といっても今日はすぐにはじまるわけではない。テストがあったから、練習は午後から。なので、それぞれにお昼を取る必要があった。
 私は、朱美と紗絵と一緒だった。
「テストが終わったのはいいけど、これから本格的に大変になってくるのよね」
 紗絵は、嘆息混じりにそう言った。
「部長としては、頭の痛いところ?」
「悲観してばかりもいられないのは十分わかってるんだけど、どうしてもね」
「一年の底上げとコンサートの曲決め。課題曲が来たら、それも決めて」
「さらに、新入生もちゃんと確保しなくちゃいけないし」
 そうやって並べると、大変だ。
 私もパートリーダーとして責任を負ってるわけだから、人ごとではない。
「でもさ、紗絵。建前は別として、本音はどうなの?」
「まあ、曲決めはそれほど問題はないと思うわ。新入生に関しては、実際に試験を受けてもらわないとどのくらい経験者がいるのかもわからないから」
「ということは、最大の懸案課題は、一年か」
「そういうこと。去年は自分たちがそういう立場だったから余計にわかると思うけど、基礎練て本当に大変だからね」
「確かに」
「ただ、去年は先輩たちがアンコンで全国に出たから、それに触発されるように練習に力を入れられたんだけど」
「今年はそれもない、と」
 ネガティブなことは、考え出すとキリがない。
 部長である紗絵の苦悩は、言葉以上のものがあるだろう。なんといっても、圭太さんのあとを任された部長なのだから。
「一応、圭太さんには三月中も練習を見てくれるようにお願いはしてあるけど、状況が状況だから、どこまでできるかわからないし」
「そうだね」
 圭太さんと柚紀先輩以外だと、やっぱり受験の結果が出ないと頼みづらい。さらに言えば、受験に失敗していたらもう頼むのは無理だと思った方がいい。
「あ、そうだ」
「ん、なに? なにか妙案でもあるの?」
 と、朱美が声を上げた。
「圭兄が厳しい時は、そのさらに上の先輩たちに頼むというのはどう?」
「それって、祥子先輩たちや、ともみ先輩たちのこと?」
「うん。まあ、どこまでお願いできるかは聞いてみないとわからないけど。なにも毎日見てくれというわけでもないんだから、なんとかならないかな」
 それは、妙案かもしれない。
 祥子先輩やともみ先輩なら、ほかの先輩よりも話を通しやすいし。
「どう?」
「そうね。一応検討してみるわ」
 できることはなんでもやる。自分たちでできることなど限られているのだから、当然のことだ。そこをちゃんと認めないと、しなくてもいい苦労をするだけだ。
「さてと、今日からがんばって練習しないとね」
 
 練習がはじまってしばらくした頃、音楽室から音が聞こえなくなった。
 今日は主に個人練習だったので、私は音楽室からほど近い教室で練習していた。だから音が聞こえなくなるということはないはずなのだが。
 少し気になったので様子を見に行くと──
「あ……」
 圭太さんが来ていた。
「先輩」
「やあ、ちょっと様子を見に来たよ」
 そう言って圭太さんは微笑んだ。
「紗絵は、どこにいるかわかるかい?」
「たぶん、二年の教室だと思います」
「じゃあ、とりあえず紗絵に話をつけに行こうか」
 本当はそんな必要はなかったんだけど、なんとなく圭太さんと一緒に行くことにした。
「テストはどうだった?」
「まあまあ、ですかね。やれるだけのことはやったと思います」
「そっか。まあ、詩織のことだから心配しないでもちゃんと結果は残してるだろうけど」
 圭太さんは、たまにこういうことを言う。これがプレッシャーになるのだが、私もある程度慣れてきて、動じなくなっている。
 嬉しいやら、淋しいやら。
「今日は、どうして来ようと思ったんですか?」
「ん、なんとなくだよ。今日がテスト最終日というのはわかってたし。このくらいの時間に時間を取れるのは、今日くらいだと思ってね」
 確かに、お店のことがあるからあまり忙しい時間に来るわけにはいかない。もちろん、事前に決めてあったなら、先輩たちにバイトを頼むこともできるけど。
 二年の教室階へ下りてくると、教室からトランペットの音が聞こえてきた。
 こういう時、目立つ楽器はすぐにわかっていい。
 教室に入ると、紗絵は和美と一緒に練習していた。
「あ、先輩」
 とっさに圭太さんのことを『先輩』と呼べたのは、紗絵だからかもしれない。
「練習中に悪いね」
「いえ、気にしないでください」
 紗絵としては、練習を中断させられたことよりも、圭太さんに会えたことの方が嬉しいはず。
「今日は、個人練習だけ?」
「基本的には、です。パー練をするかどうかは、それぞれのパートに任せてあります」
「となると、全員を見る余裕はないか」
 さすがにいくら圭太さんでも、それは無理。ある程度まとまってるなら話は別だけど、今日は勘を取り戻すための練習が主なものだから。
「じゃあ、僕は適当にまわって、気になったところを見ていくよ」
「お願いします」
 教室を出た私と圭太さんは、また音楽室のある階へ戻った。
「あの、圭太さん」
「ん?」
「最初に、私を見てもらえませんか?」
「そうだね。いいよ」
 圭太さんにとっては、きっと誰から見てもよかったんだと思う。
 でも、偶然とはいえ、一番最初に見てもらえそうな機会が巡ってきたのだから、これを活かさない手はない。
「特にこれということはないから、いつも通り自然に」
 私は、いつものように練習を再開した。
 側に圭太さんがいることを除けば、いつもと同じだ。
 圭太さんはなにも言わず、じっと私の様子を見ている。
 ある程度のところで、圭太さんが声を上げた。
「僕の聞き間違いかもしれないけど、詩織。少しリードが割れてないかい?」
「えっ……?」
 私は慌ててリードを確認した。
 すると、本当にわずかにだけど、リードが割れていた。
 普通に吹いている分には支障はないけど、もし曲にソロでもあったら影響が出そうだ。
「そのくらいなら、基礎練なら問題ないか」
「そうですね」
 圭太さんの耳は、やっぱり私たちに比べて数倍いい。吹いてる私ですら気付かなかったことを、圭太さんはわずかに聞いただけでわかったんだから。
「あとは、特に問題ないよ。そのあたりはさすがだね」
「いえ、そんなことは……」
 真っ直ぐな言葉で褒められると、照れてしまう。
「詩織はいつも真面目に練習してるから、テストで練習できない日が続いても問題なく再開できるんだろうね」
 私の数倍努力していた圭太さんにそう言われると、少しだけ複雑な心境だ。
 ただ、ちゃんと練習している理由のひとつには、圭太さんにこうやって褒めてもらいたいというのもあるから、そのあたりは素直に嬉しい。
「コンサートの曲が決まるまでは単調な練習が続くけど、適度な緊張感を保ってがんばらないとね」
「はい」
 今は毎日一緒にいられるわけじゃないから、こういう言葉を励みにがんばるしかない。
「さてと、それじゃあそろそろほかのみんなのところへ行くよ」
「あ、はい」
 わかってはいても、淋しい気持ちでいっぱいになる。
「あ、そうそう。今日は練習も早く終わるだろうから、終わったあとにうちへ来るといいよ。テスト終了のお祝いというわけじゃないけど、お茶でもごちそうするから」
「ありがとうございます」
 こういう心遣い、気配りができるのが、やっぱり圭太さんだ。
 きっと、私の胸の内を察してのことだと思う。
 本当はこんなことじゃいけないのに。それでも今は、こういう状況でもほんの少しでも圭太さんと一緒にいられることが嬉しい。
 そして、少なくとも今だけは、圭太さんから発せられる言葉はすべて私へのものだから。
 もう卒業までわずかな時間しかないけど、それまでにできる限り、一高生である圭太さんの側にいたい。そして、あらゆることを覚えていたい。
 大好きな人のことだから。
 
 九「河村凛」
 いよいよ、本番だ。
 今日、二月二十五日は国公立大学の二次試験の日。試験日数は大学により様々だけど、テスト自体は今日から行われる。
 あたしも国立を受けるから、当然関係ある。
 勉強中は何度か、体育系の大学や実業団からの誘いを受けていれば、こんな苦労しないで済んだかもしれない、という想いがよぎった。だけど、それではあたしの本当にやりたいことがなにもできなくなってしまうから、すぐに気持ちを切り替えた。
 もし、高校卒業まで東京にいたら、きっと特に考えずに推薦で大学か実業団に入っていただろう。
 それはそれで後悔のない選択だとは思うけど、今は違う。それ以上に絶対に後悔してはいけない選択が目の前にある。
 偶然とはいえ、再びこの街へ戻ってきたのだから、今度こそ本当に悔いのない選択をしなければならない。
 そのための受験でもある。
 両親は、一度お姉ちゃんの時に経験済みだから、特に気にしている様子はない。まあ、家のことを考えたら、特待生で大学へ行くか、早々に社会人になった方がよかったのかもしれないけど。
 それでも反対しなかったのは、きっとあたしの真意を多少なりとも理解してたからだと思う。
 そんなまわりに支えられ、見守られ、ようやく今日を迎えた。
 朝食を取り、出かける前にカバンの中身を確認していたら、携帯が鳴った。
「もしもし?」
『あ、凛? これから出るとこ?』
「うん」
 電話の相手は、お姉ちゃんだった。
 お姉ちゃんはもう春休みに入ってるはずだから、いつもならこんな時間に起きていない。それがこうして電話してきてくれたのだから、一応あたしのことを気遣ってくれているのかもしれない。
『どう、調子は?』
「一応、やれることは全部やったと思うよ」
『そう。それならいいわ。少なくとも、テストを受ける前までに後悔することはないということだから。あとは、本番でも同じようにできれば完璧ね』
「それが一番難しいんだけどね」
『当たり前よ。それも含めての受験なんだから。だから、あとはせいぜい最後まであがきなさい。たとえわからない問題が出ても、あきらめなければなんとかなるかもしれないんだから』
「うん」
 電話越しのお姉ちゃんの声は、いつもよりずっと優しい。
 思い返してみると、あたしになにかあった時は、いつもお姉ちゃんが支えになってくれていた。
 勉強も、水泳も。
 お姉ちゃんはきっと、それほど意識しないでやってるんだと思うけど、あたしにはそれがとても嬉しかった。両親も応援してくれるけど、年も近いお姉ちゃんがあたしのことを理解した上で、応援してくれたのが、本当に嬉しかった。
 もちろん、あたしたちはお互いに意地っ張りだから、なかなか素直になれなくて、感謝の気持ちなんか言い表せないでいるけど。
『いくら滑り止めがみんな合格だからって、油断してると痛い目を見るわよ』
「わかってる」
『そうね。ま、圭太ちゃんとこれからも一緒にいるための試練だと思えば、いつも以上の力が出せるでしょ? それこそ、インターハイよりも力が出るかもね』
 それは、あながち冗談ではなかった。
 まだ結果はわからないけど、あたしにはひとつだけ確信していることがある。
 それは、この受験本番では、絶対にいつも以上の力が出せる、というもの。それが合格に繋がるかどうかは、それこそ結果を見ないとわからないけど。
『そういえば、昨日、圭太ちゃんに会いに行くか、話でもしたの?』
「ううん。どっちもしてないよ。さすがにそこまでけーちゃんに頼るわけにはいかないから」
『そんな時こそ圭太ちゃんの力を借りればいいのに。圭太ちゃんなら、凛の望む通りのことをやってくれるでしょ?』
「そうかもしれないけど」
 そのせいで気合いが空回りする可能性もある。あたしはそれが心配だった。
『凛から連絡してないなら、きっと圭太ちゃんから連絡があるわね。センターの時だってあったんでしょ?』
「うん。メールだったけどね」
 あの時のメールは、本当に嬉しかった。あれで緊張感も適度にほぐれたくらいだ。
『もし圭太ちゃんから連絡があったら、今不安に思ってることを、素直に全部圭太ちゃんに言っちゃいなさい。そうすれば、心置きなく試験に集中できるはずよ』
「わかった」
『合格発表の頃にはそっちに帰るから、最後までしっかりがんばるのよ』
「うん。ありがと、お姉ちゃん」
 今日は、素直に感謝の言葉が出た。
 携帯を切ると、ほぼすぐに再び鳴った。
「あ、けーちゃん」
 相手は、けーちゃんだった。
「もしもし?」
『もしもし、凛ちゃん。今、少し時間大丈夫?』
「うん。まだ大丈夫だよ」
『よかった』
 やっぱりけーちゃんの声を聞くと安心する。
 お姉ちゃんには悪いけど、これはけーちゃんだからだ。
『本当は直接電話しようかどうか、迷ったんだよね。センターの時はメールだけで済ませたから。でも、今日はさらに大切な日だと思って、電話したんだ』
「そっか。あたしは、本番前にけーちゃんの声が聞けて、とっても嬉しいよ」
『そのくらいには役に立ってよかったよ』
 そう言ってけーちゃんは笑う。
『どう、調子は?』
「ん〜、どうなんだろ。実際は会場に行って、自分の席に座らないとわからないかも」
『ああ、それはあるかもね。僕も高校入試の時はそんな感じだったかも』
「けーちゃんでもそうだったんだ」
 そういうのを聞くと、余計に嬉しくなる。
『凛ちゃん。余裕があったらいいけど、試験が終わったらうちへ寄ってよ。僕にできることなんてほとんどないけど、その労を労うことくらいはできるから』
「いいの?」
『いいよいいよ。時間もいつでもいいから』
「うん、ありがと、けーちゃん」
 なんとなく、これで今日の試験も乗り切れそうな気がする。
「けーちゃん」
『ん?』
「がんばるからね」
『うん、がんばって』
 本当はいろいろ言いたいこともあったけど、今はこれだけでいい。これ以上言ってしまうと、逆にがんばれない気がする。
 せっかくのけーちゃんの心遣いを無駄にしないためにも、全力でがんばらないと。
 
「はあ……」
 思わず息が漏れた。
「なにため息なんかついてるのよ」
「いいじゃない、別に」
「せっかく試験も終わったんだから、もっと明るい顔しなさいって」
 そう言って柚紀は、あたしの肩を叩いた。
 あたしは、試験が終わってけーちゃんのお誘いを受け、ここ高城家を訪れていた。
「おまたせ、凛ちゃん」
 そこへけーちゃんが戻ってきた。
「はい、凛ちゃん」
 あたしの前に、ケーキが置かれた。
「おつかれさま。これで少しは楽になったのかな?」
「うん、そうだね。まあ、結果が出るまで安心はできないけど」
 実際、合格発表まで安心はできないけど、今日みたいに異様な緊張感に襲われることはない。
「手応えはどうだったの?」
「ん〜、たぶん大丈夫だと思うけど」
「たぶんなの?」
「それはしょうがないじゃない」
「まあまあ、柚紀もそのくらいにして」
「冗談よ、冗談」
 こうしていつもの状況がここにあると、ようやく試験から解放されたんだという実感が湧いてくる。そのことで言えば、柚紀にも感謝しなくちゃいけない。
 こんなバカなことを言い合えるのは、お姉ちゃんか柚紀くらいだから。
「凛ちゃんは、卒業式まではなにをしてるつもりなの?」
「とりあえず、ゆっくり休むつもり。さすがにしばらく勉強はできないから」
 これ以上勉強しろと言われても、頭が拒否する。
「じゃあ、時間があったら遊びに来てよ」
「ちょっと、圭太」
「いいの、けーちゃん?」
「いいよ。とはいえ、僕もどこまで相手できるかわからないけど」
「まったく、圭太は……」
 柚紀は不満そうだけど、あたしとしてはとっても嬉しい。
 実際、なにをするかまったく決めていなかったんだから、これは渡りに船だ。
 けーちゃんにとっては些細なことかもしれないけど、あたしにとっては本当に大きなことだ。
「圭太。先にお店に出てるわね」
「うん」
 柚紀は、そう言ってお店へ。
「柚紀も、悪気はないんだよ。ただ、凛ちゃんの前だとあんな感じになるだけで」
「うん、それはわかってる。あたしもそんな感じだから」
 やっぱりあたしと柚紀は似た者同士だ。考えてることも、なんとなくわかってしまう。
「あ、でも、けーちゃん。けーちゃんは部活の方に顔を出したりしなくていいの?」
「それは大丈夫だよ。部活には昨日行ってきたし。それに、卒業間際に卒業する僕が我が物顔で学校にいたら、さすがにおかしいからね」
「それもそっか」
 特にあたしを優先してくれてるわけじゃないんだろうけど、なんか嬉しい。
「とにかく、おつかれさま、凛ちゃん」
 今はただ、けーちゃんの笑顔があたしを癒してくれる。
 それだけでいい。
 あれこれ考えてもしょうがないんだから。
 
 十「高城柚紀」
 受験シーズンも最終盤を迎え、そろそろ季節も冬から春へと変わりつつある。
 春は、出逢いと別れの季節。
 その別れを象徴する行事が、もうすぐに迫っていた。
「はい、圭太」
「ん、ありがとう」
 圭太はカップを受け取り、ひと口飲んだ。
 今は、朝食の時間。今日は日曜なので、琴絵ちゃんも朱美ちゃんものんびりだ。
「よいしょ、と」
 最近は掛け声をかけないといちいち動きづらくなってきている。さすがにお腹の中にもうひとりいるんだから、負担も大きい。
 それでも、私はそれを苦痛に感じたことはない。確かにつわりはそれなりにつらかったけど、それは裏を返せば新たな命が順調に成長している証でもある。
 さらに先のことを考えると、それくらいのつらさなら耐えられる。
「お兄ちゃん。今日は練習に来ないの?」
「今日は、というか、卒業式前日まで行くつもりはないよ。そのことは紗絵にも話してあるから」
「そっか。残念だな」
 琴絵ちゃんは、やっぱり圭太に対する表現が真っ直ぐだ。たまに意地を張っちゃう私も、そのあたりは見習いたい。
 ちなみに学校へは、あと二日ほど行く必要がある。
 卒業式とその前日。前日には、簡単に卒業式の予行演習がある。
 先日の登校日はクラスの半分ほどしか来ていなかったので、その二日間が実質最後の時間となる。
 私としては、あれこれ言われる時間が少ないのは正直助かる。
 クラスの女友達には私が妊娠したことも話してあるし、お腹が目立つようになってきてから学校外で会った子もいるからまだいいんだけど、男子はそこまでじゃない。だから、奇異な目で見られるのは正直面倒なんだけど、それも覚悟の上なので我慢するしかない。
 もっとも、妊娠したのが私でその相手が圭太だからなのか、あまり変なことを言われた記憶はない。そのあたりは、人徳のある圭太様々だと思う。
「それに、今は基礎練が中心なんだから、そこまで僕が出しゃばる必要はないよ。どういう風に練習すればいいかは、みんなイヤになるほど理解してるだろうし」
「それはそうだけどね」
 圭太は常々基礎をおろそかにしてその先はないと言い続けてきた。実際、圭太自身も曲の練習より基礎練習に相当ウェイトを置いて練習してきた。
 それを見てきたほかの部員たちは、自分たちもそうしなくてはいけないというような気になり、実際そうしてきた。
 だから圭太はそんな風に言うのだが、それを続けるのはかなり大変だ。
「僕の代わりは、琴絵がやってもいいんだぞ?」
「えっ、私? む、無理だよぉ。私はお兄ちゃんみたいに指導できないもん」
「別に細かい指導なんて必要ないって。ようは、真面目に練習できる環境を作って、適当に意見を言える人がいればいいんだから」
「圭太。それが簡単じゃないのは、わかるでしょ?」
「まあね」
 そう言って圭太は笑った。
 最近の圭太は、以前よりも確実に肩の力が抜けている。様々な責任から解放され、一時的なものとはいえ、自由な立場にいるからだろう。まあ、圭太の性格を考えるとまた自分からやっかいごとを連れてきそうな気もするけど。
 
 ふたりが部活に行くと、お店を開けるまでしばしのんびりできる。
 この時間は、結構私たちにとって大事な時間だったりする。
「どう?」
「今はおとなしいね」
「パパに遠慮してるのかも」
「別に遠慮なんかしなくてもいいのに」
 圭太は、私のお腹に顔を近づけ、耳をそばだてたり触ったりしている。
 これはスキンシップのひとつで、圭太の方から提案してきた。
「でも、この子は結構やんちゃな子だと思うわよ。しょっちゅうお腹を蹴るから」
「それくらいの方がいいよ。おとなしすぎる子を賑やかな子にするのは大変だからね」
「まあね」
 でも、自分で言っておいてなんだけど、この子が本当にやんちゃな子だったら、それは間違いなく私に似ていることになる。私の性格は、男子顔負けの活発なものだったから。
 圭太に似たら、たぶん琴子ちゃんみたいになる。あの子は間違いなく圭太似だ。
「そういえば、圭太。もうともみ先輩たちから話は聞いた?」
「話って?」
「ほら、前に話してたじゃない。卒業記念パーティーのこと」
「ああ。そういえばそんなこともあったね」
「あったね、と言うところをみると、まだ聞いてないのね?」
「うん。なんにも」
 私と圭太はパーティーに招待される側だから、特に気にすることもないのかもしれないけど、四日後には卒業式本番を迎えるわけだから、なんらかの音沙汰はあって然るべきだと思う。
「心配しなくてもちゃんと連絡してくれるよ」
「それは全然心配してないけどね」
「早めに知りたいなら、連絡してみようか?」
「ううん、そこまでしなくていいよ。ちょっと気になっただけだから。それにほら。祝われるのは私たちで、やるのは『桜亭』でなんだから、特に心配することもないでしょ?」
「確かにね」
 圭太は前からそうだけど、自分がなにかする側だととても積極的で次から次へと進めていくけど、される側になると途端に無頓着になる。もちろんそれでいいと思うけど、もう少しだけ関心を持ってあげてもいいような気も。
 それを圭太に言ったらきっと、私が覚えていてくれればいい、なんて言うかも。それはそれで頼られて嬉しいけど、少しだけ複雑な心境でもある。
 ま、そういうところも追々変えていけばいいか。
 
 私がお店の手伝いを本格的にするようになって結構経った。最近では、いわゆる常連さんに顔も覚えてもらって、忙しくない時は雑談することもある。
 こういうことができるのは、やっぱり『桜亭』のような小さくて、なおかつアットホームな雰囲気のあるお店だからだろう。
 圭太やお義母さんの話によると、お店の経営的には多少ましになっているそうだ。
 以前は本当にお義母さんの趣味の延長みたいな感じだったけど、多少なりとも利益を上げられるところまで来ているらしい。
 その理由を訊ねると、やはり『人』にあるらしい。
 オーナーであるお義母さんはもちろんのこと、前のバイトだった鈴奈さん、今のバイトであるともみ先輩に幸江先輩、それに祥子先輩。これだけ逸材が揃っている喫茶店は、そうあるものじゃない。
 その結果、住宅街にあるというハンデを多少克服し、以前よりも多くのリピーターの獲得に成功した。
 ここ最近は、圭太目当ての女性も増えている。以前にもそういう人はいたらしいけど、やはりお店に出る機会が少なかったので、それほどの数ではなかった。
 ところが最近はしょっちゅうお店に出ているので、比較的会いたい時に会える。
 妻の私からすれば、多少面白くないところもあるけど。
 そんな多少上向きな状況の中、お義母さんは以前話していたある計画を実行に移そうとしていた。
 それは、お店に制服を導入しようというもの。
 制服を導入すれば、その制服とそれを来た私たちを目当てにさらにお客さんが増えるのでは、と考えてのこと。
 圭太はその理由には難色を示していたけど、制服を導入すること自体には反対しなかった。
 で、お義母さんはツテを頼って、制服を作るための準備を行っていた。
「本当にいろいろなデザインがあるのね」
「そうですね。しかも、オリジナルまで作れるみたいです」
 私たちが見ているのは、メーカーから取り寄せたカタログ。そこには様々な職種の制服が載っており、飲食店向けのものも数多く載っていた。
 シックなものからカワイイものまで。和洋問わず、本当にいろいろあった。
「これだけあると、目移りしてしまうわ」
「本当に」
 あれもこれもと言い出すと、キリがなくなりそうだ。
「とりあえず、よさそうなものをいくつかピックアップして、それから改めてどうするか決めましょう」
「候補は、どのくらいあるといいですか?」
「そうねぇ……五種類くらいでいいんじゃないかしら。大まかなデザインさえ決まれば、細かなパーツに関しては選択肢も自然と少なくなるだろうし」
「そうですね。じゃあ、私も時間の空いてる時にでも見ておきますね」
「ええ、お願いね」
 実際は、デザインだけじゃなくて、機能性や値段も考慮しないといけないから、最初から選択肢も絞られている。それに、着ることを考えるとあまり派手過ぎるのも無理だろうし。
 それに、制服はあくまでも脇役でしかない。
 そのあたりを肝に銘じておかなくては。
「話は終わった?」
 そこへ圭太がやって来た。
「ええ、終わったわよ」
「圭太もちゃんと選ばないとダメだよ?」
「まあ、気が向いたらやるよ」
 圭太はまったく乗り気じゃないから、しょうがない。
 まずは女性用だけでも決めてしまわないと。
 もっとも、圭太の着る男性用は、女性用に比べてそれほどデザインも多くないから、すんなりと決まりそうな気もする。特に圭太はそういうことに無頓着だから。
 むしろ私たちで決めちゃった方が早いかも。
 そのあたりも、改めて考えないといけない。
 
 午後になり、琴絵ちゃんと朱美ちゃんが部活から帰ってきた。
 そうなると私と圭太の負担も軽くなる。
 で、空いた時間で散歩に出かけることにした。
「今日はだいぶ暖かいね」
「そうだね。さすがにもうすぐ三月だからね」
 今が時間的にも一番暖かい時間というのもあるだろうけど、もう真冬の頃の装いは必要ない。
「もう梅の花も咲いてるし、あと半月もすれば桜のつぼみも膨らんでくるよ」
「桜の花かぁ……」
「今年はお花見は難しいかもしれないね」
「まだなんとも言えないけど、可能性はあるわね」
 まだちゃんと出産予定日が決まってないから、お花見もできるかどうかはわからない。
 先生の話だと、四月の十日前後になるんじゃないかって話だから、たぶん大丈夫だとは思うけど、現段階ではわからない。
 わかっているのは、よほどのことがない限り、私たち親子三人でお花見ができるのは、来年になってからということだけ。
「まあ、それはそれでしょうがないよ。それより今は、この子が無事に産まれてきてくれればいいの。それ以上はなにも望まないわ」
「そうだね」
 あまり多くを望みすぎると、きっとほんの些細なことですらかなわない可能性もある。
 私は母親として、一番最初に子供にできる、最も大事なことをちゃんとやらなくちゃいけない。それが、健康に産んであげること。
 それは、私にしかできないことだ。
「あ、そうだ、圭太」
「ん?」
「そろそろさ、名前、考えない?」
「名前か。そうだね、考えておくべきだね」
「琴子ちゃんの時は、どうやって決めたの?」
「琴子の場合は、もう祥子が考えてたんだよ。こういう名前がいいんじゃないかって。で、僕もその名前に異論はなかったから、女の子だったらそうしようって」
「そうなんだ。先輩がねぇ」
 名前の由来自体は聞いたけど、そういうことだったのか。なるほど。
「柚紀は、こうしたいというのはある?」
「男の子なら圭太の、女の子なら私の名前から一文字つけたいな、って」
「なるほど」
「もちろん、必ずしもそれにこだわってるわけじゃないけどね。それ以外にいい名前があるなら、それが一番だし」
「それもそうだね」
 こだわりすぎて子供に迷惑かけるわけにもいかない。
 子供にとっては、死ぬまでつきあっていくものなんだから。
「候補はないの?」
「男の子なら、やっぱり『太』をつけるのがいいかなって。ほら、お義父さんもそうだったでしょ?」
「確かに」
「問題は女の子だったらなのよね。私の名前からつけるとすると、簡単なのは『紀』なんだけど」
「そうすると、お義母さんや咲紀さんと同じだね」
「そう。私としてはね、そこが微妙だなぁって思って」
「なんで?」
「お母さんはいいけど、お姉ちゃんはねぇ」
 そりゃ、私もお姉ちゃんのことは嫌いじゃないけど、素直になりきれないところがある。
「そうなると『柚』という字だね」
「うん。私はそれを『ゆ』と読ませてるけど、そのまま『ゆず』と読ませてもいいわけだし。バリエーションはあるかなって」
「ん〜……確かにたくさんありそうだ。というか、決めるのが大変そうだけどね」
「それはそれでいいんじゃない? そういうのも含めて、全部楽しんじゃえば」
 きっと、親はそうだろう。どんな子が産まれてくるのか、どんな子に育つのか。
 いろいろ想像を巡らす。その最初が名前かもしれない。
「じゃあ、こうしない?」
「ん?」
「これから名前が決まるまで、毎日じゃなくても、そうね、一週間に一度、お互いに考えた名前を言うの。で、その中からいくつかの候補を挙げて、最終的に決める。どう?」
「いいと思うけど、でもそれだと最初に考えた名前に決まると思うよ」
「どうして?」
「ほら、よく言うだろ? なにかを決める時、散々迷っても最終的に決めたものは、最初のものが多い、って」
「むぅ、確かに……」
 そう言われると、なんかそんな気になってくる。
「まあ、とりあえず考えるだけ考えてみようよ。それで実際にどんな名前が出てくるかでそれからのことを決めよう」
「うん、それでいい」
 結局それしかないか。というか、それ以外にはないか。
 ちょっと冷静になって考えてみればわかる。
「あ、でも、姓名判断とか画数で決めるとか、そういうのもあるか」
「それはさすがに……」
「まあね」
 そんな人に決めてもらうようなことは、絶対にしたくない。この子は、あくまでも私たちの子供なんだから。
「いろいろあるのはわかってたけど、本当にいろいろあるね」
「そうだね。大変なことも、楽しいことも、全部含めて『子育て』なんだろうね」
 これからどんなことがあるのかまだまだわからないことの方が多いけど、大丈夫。
 私はひとりじゃないんだから。
 こんなに頼りになる旦那さまもいるんだから。
「帰ったら、夕食の準備をしないとね」
「じゃあ、今日は僕も手伝うよ」
「うん」
 
 十一
 三月といえば、本格的な春のはじまりを思い浮かべる。
 真冬のコートから解放され、春の装いに心躍らせる。
 セピア色だった景色も次第に色を増し、やがて溢れんばかりの生命力がそこかしこに感じられるようになる。
 そのはじまりが、三月。
 しかし、三月にはもうひとつ別の顔がある。それは、一年の中で最も別れが多いこと。
 幼稚園から大学まで。
 永遠の別れとは違うが、それでも長い人生の中でターニングポイントになるには十分である。
 その別れの場──卒業式が、行われる。
 
 三月一日の朝は、三月らしく幾分暖かい朝だった。
 いつも目覚ましが鳴るよりも早く目が覚める圭太だが、その朝はいつも以上に早くに目が覚めた。
 隣では、柚紀がまだ寝息を立てている。
「よく眠ってる」
 優しい眼差しで柚紀を見つめ、その頬に軽く触れた。
 まだ時間は早いので、起こさずにベッドを出た。
 カーテンを開けると、すでに太陽が出ており、とてもよく晴れていた。
「絶好の卒業式日和、というところかな」
 晴れの舞台にはやはりそれに見合った天気がある。
 別れの場である卒業式ではあるが、また一方で旅立ちの場でもある。
「さてと」
 着替えを済ませると、静かに部屋を出た。
 下に下りると、いつものように顔を洗い、新聞を取ってくる。
 だが、いつもならそのまま新聞を読んだりテレビを見たりするのだが、そうしなかった。
 一階の奥、仏間へ入った。
 ロウソクと線香、マッチを取り出し、火を点ける。
「父さん。僕も今日で高校を卒業するよ。今にしてみればあっという間だったけど、この三年間は僕にとってとても大事な三年間だったよ。なんといっても、柚紀という最高の彼女、そして妻と出逢えたからね。これは、父さんと母さんが出逢った大学時代と同じだと思うけど」
 そう言って笑う。
「この三年間、僕は本当に好きなことを好きなようにやらせてもらったと思ってる。それだけでも十分幸せだけど、それ以上の幸せも手に入れられた。これ以上のことを望んでもたぶんなにも得られないだろうね。もっとも、柚紀にこんなことを言ったらもっともっと望めばいいじゃない、って言うと思うけど」
 圭太は居住まいを正した。
「高校を卒業したら、僕も今まで以上に自分の立ち位置を明確にして、自分のやるべきことをしっかりとやっていくよ。守るべき家族も増えるしね。僕の理想の家族は、父さんが生きていた頃の家族だから。その理想に少しでも近づけるようがんばるよ。だから父さんにはその様子を見守っていてほしい。なんかいつもいつも同じことをお願いしてるけど、これくらいならいいよね?」
 すべてを言い終えた圭太は、穏やかな表情で仏間を出た。
 リビングに戻ると、すでに琴美が起きていた。
「おはよう、圭太」
「おはよう」
「祐太さんに報告?」
「うん。終わってからだといつ報告できるかわからないから」
「なるほど。それはそうね」
 琴美もパーティーがあることは承知している。
「圭太にとっては、もう卒業? やっと卒業?」
「気持ち的には、もう卒業って感じかな。この三年間は、とにかく内容の濃い三年間だったから」
「そうねぇ、濃すぎるくらい濃い三年間だったものね」
 琴美の言葉には、若干トゲが含まれている。
「でも、多少不満の残る部分はあるにしても、あなたが前へ進んでくれたことは、とても嬉しいわ。入学した頃のままだと、後退しないまでもずっと現状維持だっただろうし」
「それはすべて、柚紀のおかげだよ」
「柚紀さんがいなかったら、本当に今頃どうなってたのかしらね」
 そればかりは誰も想像できない。
 圭太自身ですら、明確な意見を述べられない。
「母さんは、高校を卒業した時はどんな気持ちだった?」
「これといったものはなかったわね。ただ漠然と大学生になるんだ、と思ってたくらい。まだその頃には明確な目標が見えてなかったから」
「そっか。じゃあ、やっぱり父さんと出逢ってすべてが変わったわけだ」
「ええ、そうよ。本当にすべてが変わったのよ。圭太も、わかるでしょ?」
「そうだね。母さんにとっての父さんと、僕にとっての柚紀は、そういう意味では同じような存在だね」
 誰かに出会って影響を受け、自分が変わることはそれほど珍しいことではない。ただ、その時でもその人の根本まで変わることはそうあることではない。
 ましてや、それから先の人生を決めてしまうほどのものは、さらに少ない。
 圭太も琴美も、そういう相手と巡り逢い、変わった。
「ただ、圭太の場合は柚紀さんと出逢って圭太も変わったけど、圭太と出逢ったたくさんの子を変えてしまったことが、少し問題ね。もちろん、その出逢い自体をなしにすることはできないから、しょうがない部分もあるとは思うけど」
「それについては、僕はなにも言えないよ」
「みんなに対して、答えは出してあげたの?」
「上の人たちは。下はこれからかな」
「そう」
 これから先も様々な試練が待ち受けていることを考えると、楽観的なことばかり考えてもいられない。圭太としても、それは十分承知している。
「まあ、いいわ。朝からあまり重い話をしても気持ちも塞いじゃうし」
 そう言って琴美は立ち上がった。
「あ、そうそう。すっかり忘れてたわ」
「ん、なに?」
「卒業おめでとう」
 
 朝食を食べ終えた圭太たちは、少し早めに学校へ行く準備をはじめた。
 卒業式は十時開始なので、当然普通に登校するよりも遅い時間に出ればよかった。ただ、圭太はその前に学校に行こうと思っていた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うん」
「あ、圭太。ちょっと待って」
「ん、どうしたの、母さん?」
「写真を撮ろうと思ってね」
 そう言って琴美はカメラを見せた。
「ほら、ちょっとそこに立って」
 圭太は言われた通りにする。
「撮るわよ?」
 フラッシュが光る。
「じゃあ、今度は柚紀さんも一緒に」
「私もいいんですか?」
「いいに決まってるじゃない。ほらほら」
「あ、はい」
 柚紀も圭太の隣に立つ。
「撮るわよ?」
 再びフラッシュが光る。
「ふたりも一緒に写りたい?」
「いいの?」
「ええ、いいわよ」
 その様子を見ていた琴絵と朱美も、ふたりの前に立つ。
「じゃあ、撮るわね」
 三度、フラッシュが光る。
「それじゃあ、母さんはまたあとで」
「ええ」
 四人は揃って家を出た。
「こうして四人で学校へ行くのも、今日で最後なんだよね」
「ん、制服を着て、というのは最後だな」
「そうだよね」
 琴絵は、そう言って複雑そうな顔をした。
 頭ではわかっていても、すぐにそれを受け入れられるわけではない。
 こうして現実を突きつけられて、はじめて受け入れられるようになっていく。
「だけど、やっぱり圭兄だよね」
「ん?」
「だって、卒業式前に音楽室へ行きたいだなんて」
 そう。早く学校へ行く理由は、圭太が卒業式前に音楽室へ行きたいからだった。
 卒業式のあとでも音楽室へは行けるのだが、ある程度ゆっくりするためには卒業式の前がいいだろうということでそうなった。
「卒業前にもう一度、ゆっくりと音楽室を見ておきたいと思ったからね。やっぱり、高校三年間で一番想い出に残ってるのが音楽室でのことだから」
「圭太にとっては、間違いなくそうね」
「柚紀は違うの?」
「ん〜、私の場合は、学校そのものだからなぁ。というか、そこに圭太がいたから」
「あはは、それはお義姉ちゃんらしい」
「確かに」
「ただ、音楽室というか、吹奏楽部に入っていなければ圭太との関係は単なるクラスメイトだっただろうから、それを考えると大事な場所ではあるね」
「程度の差はあっても、吹奏楽部員にとっては音楽室は大事な場所だよ。楽しいこともつらいことも、みんなあった場所だから」
「そうだね」
 それは、吹奏楽部だけではない。ほかのすべての部活、そしてそこに所属していた部員に言えることである。
 その中でも圭太は部活に対する思い入れが人一倍強かった。
 だからこそ、普通はやらないことをやろうと思ったのだ。
 学校へ着くと、さすがにまだだいぶ早い時間なので、生徒の姿はなかった。
 それでも校門のところに卒業式の立て看板が設置されているのを見ると、その時が迫っていることを実感できた。
 上履きに履き替えた四人は、そのまま職員室へ。
 職員室はドアが開けっ放しになっており、すでに慌ただしい雰囲気になっていた。
 さすがに四人でぞろぞろ入ると迷惑になるので、圭太がひとりで中に入った。
「先生」
「あら、圭太」
 ちょうど卒業式の式次第を書いたしおりを確認していた菜穂子は、手を止めて圭太に向き直った。
「おはようございます」
「おはよう。本当に来たのね」
「ええ」
 圭太は、前日の卒業式の練習のあと、事前に菜穂子に話を通していた。
 菜穂子としては普通はそういうことはしないのだが、頼んできたのが他ならぬ圭太だったので、特例として認めることにした。
「じゃあ、鍵ね。鍵はそのまま紗絵に渡してくれればいいから」
「わかりました。ありがとうございます」
 鍵を受け取ると、すぐに音楽室へ向かった。
「こうして僕が鍵を開けるのは、間違いなく今日が最後だね」
 感慨深そうに鍵を開ける。
 しんと静まりかえった音楽室。
 圭太は、指揮台の前に立ち、全体を見渡した。
「なんか、不思議な感じだね。ほぼ毎日のようにここへ来て、みんなと一緒に練習して。でも、僕がそうやってた時からそれなりに時間が経ってるんだよね。それなのに、つい昨日のことのようにいろいろ思い出せる」
「それだけ圭太にとって、吹奏楽部と音楽室が特別ってことよ」
 柚紀も、圭太の隣に立つ。
「僕がはじめてここへ来たのは、説明会の日だったよ。先輩たちに引っ張られてここへ連れてこられて。それから三年。本当にあっという間だったよ」
 そのままピアノへ近寄る。
「ね、柚紀。少しだけ、弾いてくれないかな?」
「ええ、いいわよ」
 蓋を開け、柚紀は鍵盤の上に手を置いた。
「…………」
 目を閉じ、弾きはじめる。
 曲は、とてもゆったりとしたテンポの、穏やかなものだった。
 圭太は柚紀の隣で、琴絵と朱美はピアノの向こう側で、その曲に聴き入っている。
「……私ね、今だから言うけど、実際は吹奏楽部に入るの、少しだけ不安だったんだ」
「そうなの?」
「うん。だって、中学の時は合唱部でピアノを弾いてただけだから。それがいきなり吹奏楽部でほかの楽器までできるかどうか、わからなかったし。でも、そんな私の不安も、圭太のおかげで吹き飛んでしまったけどね」
「そっか」
「だから今は、吹奏楽部に入って、そして圭太と出逢えて、本当によかったって言える」
「それは、僕もだよ」
 ふたりにとって、吹奏楽部はすべてのはじまりである。
 その吹奏楽部を引退し、さらに今日、一高も卒業するのである。
「いろいろ考えることもあるし、言いたいこともあるけど、今はただひと言。ありがとう、って言いたい」
「そうだね。ありがとう、が一番適切な言葉だね」
「うん」
 曲が終わると、卒業式より少し早く、音楽室との別れである。
「三年間、本当にありがとう」
「ありがとう」
 そして、ふたりは音楽室をあとにした。
 
 それから時間はあっという間に過ぎ、いよいよ卒業式がはじまった。
 父兄と在校生、さらに教職員が見守る中、卒業生が入場してくる。
 その顔は一様に晴れやかで、たとえまだ入試の結果が出ていなくとも、今日だけは晴れやかな気持ちになっている証拠だった。
 卒業式は、毎年のことながらとても厳かな雰囲気の中で執り行われる。
 その場にいる者、それぞれ想いは違うだろうが、ただ粛々とその様子を見守っている。
 卒業証書授与の段になり、クラスごとに卒業生の名前が呼ばれる。
 そして、クラスを代表して一名が校長から卒業証書を受け取る。
 その三年一組の代表に選ばれたのは、圭太だった。
 これにはクラスの誰も反対せず、すんなりと決まった。
 圭太が壇上に上がると、在校生の席からすすり泣く声が聞こえてきた。
 感極まった後輩が、泣き出したのである。
 それだけでも、いかに圭太が人気があったかを物語っている。
 卒業証書を受け取ると、あとは長い話が続く。
 ただ、卒業生にしてみたら、その話を聞くのももう最後である。これからは聞きたくてもそう簡単には聞けなくなる。
 そんなことを考えると、いつもはただひたすらに早く終われと思っている話も、少しだけちゃんと聞こうと思える。
 式は、滞りなく進み、最後に校歌を歌って終わりとなる。
 その頃になると、卒業生の中にも泣き出す者が出てくる。
 なにを思っての涙なのかはわからないが、それもまた卒業式には欠かせないものとなっている。
 校歌斉唱が終わると、卒業式も終わりだ。
 大きな拍手の中、卒業生が退場していく。
 後輩や家族に笑顔で手を振る者。
 涙で前が見えず、クラスメイトに連れて行ってもらう者。
 ただ前をじっと見つめている者。
 様々な顔がそこにはあった。
 
 卒業式のあとは、最後のホームルームがある。
 そこで改めて全員に卒業証書が渡される。ついでに通知表も。
 そして、ホームルームが終わるとこれで本当に最後となる。
 名目上は三月三十一日まで高校生ではあるが、それぞれの中ではこの日を境に高校生であるという認識はなくなる。
 教室を出ると、少しだけ淋しく感じるのは、気のせいではない。
 昇降口で靴を履き替え、そのまま上履きも持って帰る。残しておいても、必要のないものだから。
 校庭では、在校生が卒業生を待っていた。
 それぞれに目当ての先輩を見つけると、最後の挨拶をする。
 そんな姿が、校庭のあちこちで見られた。
 
「先輩、卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
 圭太は、和美から花束を受け取った。
「もう先輩たちが卒業しちゃうなんて、とっても淋しいです」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。でも、僕たちの代がいつまでも残っていたら、次へ進めなくなっちゃうからね。これはこれで必要なことだよ」
「圭太がそう言うと、言葉以上に重みがあるわね」
 隣で夏子が冗談交じりにそう言った。
「だけど、今年実際にこうして卒業する立場になると、去年までの先輩たちの気持ちが少しだけわかる気がするわ」
「そうだね」
「それって、どんなことですか?」
「言葉では言い表しにくいけど、満足してる部分と淋しいと思ってる部分が、入り交じってる感じ、かしらね」
「これは、実際にその立場にならないとわからないよ。本当に複雑な気持ちだから」
 前に進める満足感と、通い慣れた学舎を巣立っていく寂寥感とが複雑に絡み合い、だけど、それは決して不快なものではなかった。
 もっとも、それをいくら説明したところで、卒業生以外は理解できないかもしれない。
「ところで圭太。今回は後輩たちになにか言うことないの?」
「ん〜、特にないなぁ。言いたいことは、ほとんど全部一高祭の打ち上げの時に言ったし。たとえ今言ったとしても、同じことの繰り返しにしかならないよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「そう言う夏子はなにかないの?」
「私はそれこそ、もうなにもないわ。もともと偉そうに言える立場でもないし」
 そう言って苦笑する。
「まあでも、あえてなにか言うとしたら、やっぱりがんばれってことかしらね。それしかないわ」
「それもそうだね」
 無責任な意味にも取れる言葉ではあるが、このふたりが言うのならそういう意味合いは皆無である。
「四月には後輩も入ってくるわけだから、その後輩に笑われないようにしっかり練習しないとね」
「あ、でも、その練習は、圭太先輩も見てくれるんですよね?」
「少しくらいはね。ただ、これまでよりも確実にその回数は減るけどね。あとは、先生がどうなるか次第かな」
「ああ、その問題もあったわね」
 顧問である菜穂子がそろそろ異動になるかもしれないというのは、吹奏楽部員にとっては共通の懸案課題でもあった。
 たとえ教育委員会に要望を出したところで、それが通ることはない。
 変わらないならそれでいいのだが、もし変わるのだとしたら、後任の顧問がどれくらいのことができるのか、早急に見極める必要がある。それができなければ、四年連続全国金賞など、夢のまた夢となる。
「もし菜穂子先生が残るならいろいろ融通も利くだろうけど、新任の先生になったらそれは厳しいだろうね」
「難しいですね」
「難しいけど、乗り越えなくちゃいけない問題でもあるから」
 それを乗り越えなければ、その先へ進むことはできない。
 変わる、変わらないに関してはなにもできないが、どちらかになってからならなんでもできる。
 結果がわかるまでは、どちらになってもいいように準備するしかない。
「先輩」
 とそこへ、紗絵がやって来た。つい今し方までほかの先輩たちに挨拶していたのだ。
「改めて、卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「ついにこの日が来てしまった、というのが本音です」
「そうだね」
 その想いは、圭太も理解できた。やはり自分も送り出す側を体験しているからである。
「でも、晴れの舞台でもありますから、笑顔で見送りたいと思います」
 そう言いながらも、すでに目は潤んでいる。
 圭太との別れも大きいが、夏子をはじめとしてほかの三年との別れもそれなりのウェイトを占めている。
 関わり方は違っても、二年間一緒に活動してきたのだから、当然それに伴っての想い出なりなんなりがある。
「今日が終わったら、次は追いコンかしら?」
「特になにもなければ、そうだろうね」
「その間に是非とも望む結果を得ていたいわね」
「夏子なら大丈夫だって。いつも全力でがんばってたんだから」
「圭太にそう言われると、なんとなく大丈夫そうな気がするわ」
 そう言って笑う。
 ちなみに、夏子は地元の国立大学を受けた。
「さてと、あまり長居してるとこれからの時間に影響するから、そろそろ切り上げようか」
「そうね、それがよさそう」
 三年にはまだ、PTA主催の謝恩会が残っている。それが終わっても、クラスや部活の仲間同士でパーティーを行ったりする。
 それを考えると、いくら名残が惜しくても、どこかで切り上げなくてはならない。
「紗絵。悪いんだけど、みんなを集めてくれるかな?」
「はい、わかりました」
 紗絵は、すぐにほかのパートのところへ駆けていく。
 程なくして、吹奏楽部の一年から三年のほぼ全員が揃った。
「ああ、えっと、別に特別今更なにか言うつもりはなくて、まあ、こうしてほぼ全員が集まれるのは最後だと思ったから、集まってもらったんだけどね。もちろん、やってもらえるなら追いコンが最後ということになるんだろうけど、そっちだと都合が悪い三年もいるだろうしね」
 圭太は、それぞれの顔を見渡し、さらに続ける。
「僕たち三年は今日で正真正銘卒業なわけだけど、それは別にもうなにもしないということではないんだから、なにかあった時には遠慮なく言ってほしい。そりゃ、できることとできないことは当然あるけど。四月になってどんな新しい吹奏楽部になるのか想像もできないけど、心配だけはしてないから。だから、がんばって」
『はいっ』
「うん、いい返事だ」
 そう言って圭太は笑い、それにつられてみんなも笑った。
 それぞれに思うところがあっても、今だけはそれも忘れて笑う。
 それがとても大事なことだった。
 なんといっても、今日は卒業式という晴れ舞台、なのだから。
 
 十二「高城圭太」
 三年間なんてあっという間だと思う。
 入学式のことを今でも昨日のことのように覚えている。
 だけど、この三年間が僕にとってかけがえのない時間だったのも、事実だ。
 多くの人と出会い、多くのことを学び、成功し、失敗し、笑い、泣き、前に進み、後ろに戻り。
 それらすべてが僕にとっての成長の糧となった。もっとも、その成長が正しいものだったかどうかは、今後の人生を見ていかないとわからない。
 一高に合格した時、僕の中では高校生活に対しては漠然としたイメージしかなかった。部活以外は特別にやりたいことがあったわけでもないし、だからといって特別適当に過ごすつもりもなかった。
 そんな僕が偶然とはいえ、柚紀と同じクラス、隣の席になり、しかも部活まで一緒になれた。これは本当に大きなことだった。
 今の僕にとって、柚紀の存在は誰よりも大きい。
 その柚紀と出逢えただけでも、この高校生活には意味があったと言える。
 これから先、はっきり言えばこれまで以上に苦労するだろうし、悩む機会も増えるだろう。それでも、柚紀が側にいてさえくれれば、なんとかなると思っている。
 とはいえ、あまり小難しいことばかり考えていると、柚紀に呆れられしまうかもしれない。柚紀は、僕のそういう些細な変化にもとても敏感だから。
 考えるのも悩むのも、とりあえず先送りにしよう。
 今日は、新たなる旅立ちの日、なんだから。
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