僕がいて、君がいて
 
第四十三章「雪降る夜に」
 
 一
 暦が二月になった。
 二月に入ると、とても寒い日が続いた。もともと寒い時期ではあるが、暦の上では立春があるくらいで、そろそろ春が見えてくる頃。その時期にとても寒い日が続くというのは、少々納得しかねるだろう。
 ただ、わずかずつではあるが、春の兆しも感じられるようになっている。
 陽が少しずつ長くなってきているのは、その最たるものである。
 その二月最初の週末。
 圭太は、後輩の指導をするため、一高へ赴いていた。
 部活の方は、アンコンの関東大会が近いために、メンバーは特に仕上げに追われていた。
 一方、メンバーではない大多数の部員は、春までに基礎固めを行うため、ある意味とてもつまらない、きつい練習を行っていた。
 圭太の指導の主目的は、その大多数の部員の方だった。
 もちろん、紗絵たちからは自分たちの練習も見てくれてと、毎日のように要請があったのだが、圭太はそれをあえて無視していた。
 やはり、指導の手伝いをすると言っても、圭太はもはや引退したOB。本来は、顧問である菜穂子と、それを補佐する部長、副部長、パートリーダーががんばらなければならない。そこにあまり出しゃばりすぎると、これから先のことを考えると、マイナス面も少なからずあった。
 ただ、圭太も指導をまったくしないというわけではなく、練習しているところに顔を出し、多少のアドバイスはするつもりでいた。
 そんな圭太は今、音楽室で菜穂子となにやら話をしていた。
「どう、最近は? そろそろ本格的に楽器が恋しくなってきてない?」
「そこまでのことはないですけど、たまに無性に吹きたくなることはありますね」
「だったら、遠慮しないで毎日でもここに顔を出していいのよ? その方が私も楽できるし」
 菜穂子は、冗談とも本気ともつかないことを笑顔で言う。
「そういえば、今日は柚紀は?」
「家でおとなしくしてますよ。たぶん」
「一緒に行くって言わなかった?」
「言ってましたけど、今日はそんなに長居するつもりはなかったので、寒い中柚紀を連れ出すのもどうかと思って」
「もう安定期には入ってるんでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、少しくらいなら外に出たりして体を動かした方がいいんじゃない?」
「それは十分だと思いますけど」
 もともと活動的な柚紀である。妊娠したくらいで、その生活リズムを大きく変えることはなかった。
 だから、よく外にも出ているし、体も動かしている。
「だけど、圭太のファンである彼女たちにしてみれば、柚紀がいない方がいいのかしらね?」
「さあ、僕はなんとも」
 圭太は笑顔で誤魔化した。
「さてと、そろそろ練習を見てまわりましょうか」
「わかりました」
 ふたりは揃って音楽室を出た。
 その日の練習は、基本的にはパート練習となっていた。アンコンのメンバーもとりあえずはパート練習に参加し、後半にアンコンの練習をするということになっていた。
「まずは、クラからね」
 クラリネットは人数も多いことから、音楽室のすぐ側の教室で練習していた。
 ふたりが教室に入ると、いったん練習が中断したが、菜穂子が続けるように合図し、すぐに再開された。
「クラは、毎年人数が多いから、その分だけ問題点も多いのよね。それぞれ実力はあるんだけど、それを活かせるようになるまで、ちょっと時間がかかりすぎ」
「確かにそうかもしれませんね」
「だけど、今年は少し期待してるのよ」
「それは、どうしてですか?」
「だって、今年はリーダーがふたりいるようなものじゃない。遥はリーダーとして申し分ない実力を持ってるけど、ひとりだけじゃなかなか難しいのが、この人数の多いクラだから。でも、今年は一年の中で引っ張ってくれる子がいるから」
 そこまで言われて、圭太もわかったようだ。
「琴絵には、圭太と同じくらい期待してるわ。今のところは、偉大な兄である圭太に引けを取らないがんばりを見せてくれてるし」
 それには圭太はなにも言わなかった。
「実力的には、遥と同じくらいだと思ってる。まあ、一年の差があるから、埋めきれない部分はあるけど。それでも、普段の練習から、上手くなりたい、という気持ちが伝わってくるのよ。だから、それがほかのメンバーにもいい影響を与えてる」
「そうですか」
「圭太は、兄としてじゃなく、部活の先輩として、琴絵の実力をどう評価してるの?」
「そうですね……」
 圭太は、真剣な表情で練習に取り組んでいる琴絵を見た。
「琴絵は、昔からそうなんですけど、ひとつのことに集中して取り組むのが、とても上手なんですよ。ただ、そのせいでまわりが見えなくなることも多くて。まあ、そういうわけで、クラというか、音楽に関してもそうです。やろうと決めてやっているからには、常に真剣に取り組んで、人一倍練習して、上達してきました。それは、今も変わってません」
「なるほど」
「あくまでも部活の先輩として言うならば、今の二年と同等と評価できますね。もしなにかあって、琴絵が二年の代わりをしなくちゃいけなくなっても、問題なくこなせると思います」
「そこまで評価してるのね」
 圭太はたとえ身内でも、決して甘い評価はしない。その圭太がそこまで言うということは、それだけ琴絵のことを評価しているからである。
「だけど、琴絵がそれだけがんばれているのは、やっぱり圭太がいるからよね?」
「まあ、そうだと思います」
 圭太もそれは否定しなかった。
「そもそも琴絵が吹奏楽をはじめたのは、圭太の影響?」
「はい、そうです。もともとうちは音楽が身近にあったというのもありますし、僕が中学で部活に入ってから、そのことを話す機会も増えてましたから。それで自然と自分も吹奏楽をやるんだ、と考えたんだと思います」
 特に圭太のことを慕っている琴絵は、なにをするにしても圭太と一緒がいいと考えていた。だから、吹奏楽部を選んだのは当然の結果と言えよう。
「でも、そうすると琴絵たちのためにも、圭太にはたまに来てもらわないとダメね」
「そうですか?」
「圭太がそこにいるだけで、がんばろうと思うはずだから」
 そういう理由は確かにあったが、圭太としてはそのためだけに来るのはどうかと思っていた。
「まあ、とりあえず今はいいわ。そういう理由が必要になるのは、圭太が卒業してからになるでしょうから。その時までに、私の方でも圭太を引っ張り込める理由を考えておくわね」
 そう言って菜穂子は微笑んだ。
 それからクラを手始めに、各パートをまわっていった。
 ふたりがまわってくるだけでいつも以上に真剣に練習に取り組むので、それなりの効果はあった。
 すべてのパートをまわると、今度はアンコン出場メンバーを見る。
 まずは木管。
 さすがに本番も近いということで、それなりの仕上がりを見せていた。
 ふたりは、まずなにも言わずに通しで聴いた。それからふたりで少し話をして、その上で指導をはじめた。
 どちらかひとりだけでも厳しい指導である。それが二倍になるのだから、メンバーにとってはかなりきつい。
 とはいえ、本番で結果を残すためには必要なことなので、誰も文句を言わず、真剣に取り組んでいる。
 もっとも、大変なのはメンバーだけではない。自分たちの言葉ひとつでメンバーの自信や調子が狂う可能性もある。そういうことを考えながら指導しなければならないので、ふたりにとっても大変なことだった。
 木管の次は、サックス。最後は金管だった。
 すべての指導を終えたのは、普段の練習時間を大幅にオーバーした頃だった。
「おつかれさま」
「すみません」
 圭太を職員室へ連れて行った菜穂子は、早速温かいお茶を出した。
「さすがに圭太を前にしてると、みんなのやる気も違うわね」
「そのくらいには役に立ててよかったです」
「なにを言ってるの。圭太は十分すぎるくらい役に立ってるわよ。あまりそうやって自分を低く見ないこと」
「すみません」
「まあ、圭太のそういうところは以前からまったく変わってないけど」
 菜穂子はクスクスと笑う。
「で、久しぶりに全体を細かく見て、どう思った?」
「そうですね、正直言えば、もう少し一年の底上げが進んでいれば、というところですかね。もちろん、一朝一夕にできることではありませんから、もう少し長い目で見る必要はあるのかもしれませんけど」
「確かにそうね」
「アンコンのメンバーは、まずまずの仕上がりでしたね。本番は一週間後ですから、当然といえば当然ですけど」
「アンコンの方は、私は少し不満なのよね。そりゃ、県大会から時間があまりないからしょうがない部分はあるけど、それでももう少しレベルアップしていてほしかったわ」
 嘆息混じりにそう言い、菜穂子はお茶を飲んだ。
「残り一週間で、どのくらいあがけるか。そうじゃないと、全国なんて夢のまた夢ね」
 それは圭太も思っていた。現在の演奏レベルでは、どれも全国には行けない。さらなるレベルアップが必要だった。
「明日からは、アンコンのメンバーには、そっちだけに集中してもらうつもりではいるけど。正直、頭が痛いわ」
 それもこれも、二年連続で一高は全国大会に出場しているからである。もしそれがなければ、そこまで気負うことはなかっただろう。
「まあいいわ。これ以上圭太に愚痴っても、あの子たちの演奏が上手くなるわけでもないから」
 圭太は苦笑した。
「ところで、話はまったく変わるんだけど」
「はい」
「いい機会だから、少し確認したいことがあるの」
「確認したいこと、ですか?」
 思わぬことに、圭太は首を傾げた。
「それで、ここじゃなんだから、ちょっと場所を変えましょう」
 そう言って菜穂子は、職員室を出て行った。
 向かったのは、職員室から一番近い、階段の踊り場。
 菜穂子は、そこの窓を少しだけ開けた。
「あまり時間を取らせるのもなんだから、単刀直入に訊くわね」
「はい」
「圭太は、紗絵たちと特別な関係にあるの?」
 それは、明らかに圭太の予想外の問いかけだった。
「圭太から答えを聞かなくても、祥子のことがあったから、間違いないとは思うんだけど、一応ね」
 圭太は、一瞬どう答えるか迷った。だけど、それもほんの一瞬だけだった。
「はい、先生の想像通りです」
「相手は、紗絵と詩織と、朱美?」
「はい」
 さすがに琴絵のことは実の妹なので、言うのははばかられた。
「やっぱりそうなのね。あの三人は、特に圭太に対する想いが強そうだから、なにかあるとは思ってたけど」
 菜穂子は、特に驚いた様子もなく、頷いた。
「あ、ひょっとして、上も?」
「あ〜、まあ、たぶん、先生の想像通りだと思います」
「なるほど。圭太に関係のある部長は、全員か」
「…………」
「別に、このことを聞いたからってどうこうするつもりもないし、なにか言うつもりもないわ。ただ、純粋に知りたかったのよ。この一高の中で、圭太ほどしっかりとした考え方を持ってる生徒はいないと思う。それなのに、プライベートではそれとはかけ離れた状況になってる。それはどうしてなのかな、ってね」
 菜穂子の言い分はもっともだった。普通ならば、気になるだろう。
「私も人の妻だから、人を好きになるということがどういうことか、わかってるつもりよ。そして、今の圭太みたいな状況は、小説やドラマの中だけのことだと思ってたわ。結局、圭太は人の好意を右から左へ受け流すことができないのね、たぶん」
「それは、どうでしょうか」
「どういう意味?」
「こういう言い方はしたくはありませんけど、僕は、少なくともこの一高に入ってから、それなりの数の女子から告白されました。だけど、そのほとんどはその場で断りました。そこに純粋な好意があってもです」
「……なるほど。じゃあ、近しい関係、だったから?」
「……正直言えば、僕自身にもわかりません。つきあいの長さだけでは判断できないことが多いですから。ただ、ひとつだけ理解していることがあります」
「それは?」
「同じように告白してきても、それを受け流せる場合とそうでない場合は、もうその場でわかるんです。すぐになかったことにしてもいい場合と、そうじゃない場合が」
「そのことは、私には理解できないわね」
 菜穂子は小さくため息をついた。
「圭太は、ある意味とても難しく考えすぎて、ある意味シンプルに考えすぎてるのかもしれないわね」
「先生は、旦那さんとの時は、どうでしたか?」
「そうねぇ……私たちの場合は、なんとなくの流れで結婚したから。同じ大学で、いつの間にか一緒にいる時間が多くなって、気付いたらこの人と結婚してもいいかも、って思ってた。で、そのまま結婚して今に至るわけ。その過程ではいろいろ考えたけど、今はあまり覚えてないわね。というか、好きになった理由以外は、些細なことだから」
 窓から、冷たい風が吹き込んでくる。
「ごめんなさいね。余計なことを訊いて」
「いえ、いいです。それに、気にならない方がおかしいですから」
「そう言ってくれると助かるわ」
 三年間、同じ部活で同じ時間を過ごしてきたわけである。しかも、菜穂子は顧問という立場。教え子である圭太たちのことを気にしないでいるというのは、不可能である。
「だけど、まさか圭太がそんな状況だったとは驚きだわ。柚紀以外とは、多少あやしい関係であっても、一線は越えないと思っていたから」
 それは、圭太自身も思っているだろう。もし、柚紀とつきあい出した頃の自分に訊ねられるなら、間違いなく今の圭太を想像できないと答えるはずだ。
「あ、そうそう。まったく話は変わるんだけど、圭太は、携帯に子供の写真なんか入れてる?」
「え、ああ、はい。ありますよ」
「見せてもらってもいい?」
「いいですよ。ちょっと待ってください」
 圭太は携帯を取り出し、写真のフォルダを開いた。
 中には、いろいろな写真が入っているが、やはり娘の琴子のものが多かった。
「どうぞ」
「ありがと」
 菜穂子は、その写真を見るなり──
「うわぁ、カワイイ子ね。さすがは圭太と祥子の子供、というところかしら」
 テンションが一気に上がり、心なしか頬も上気している。
「名前は?」
「琴子です」
「琴子ちゃんか。生まれたのは、秋だったかしら?」
「はい。十月です」
「とすると、もうすぐ四ヶ月か。そろそろいろいろなことに興味を持ちはじめる頃ね」
「ええ。最近は目にするもの、片っ端から手で触れて、舐めて。危ないものに触れさせないようにするのが大変です」
「ふふっ、ちゃんと『パパ』もやれてるのね」
 すべての写真を見ると、菜穂子は携帯を圭太に返した。
「はじめての子供だから大変なことが多いとは思うけど、それを補って余りあるくらいの喜びや楽しみを与えてくれるから」
 やはり『先輩』の言は重みが違う。
「先生は普段、学校に来ている時はお子さんはどうしてるんですか?」
「基本的には実家に預けてるわ。すぐ近くに両親が住んでるから」
「なるほど」
「だからかわからないけど、最近は親の私たちよりも祖父母である両親にばかり懐いちゃって」
「それは、ある意味仕方がないですね」
「まあね」
 圭太も、それは人ごとではなかった。今はまだいいが、琴子が物心つく頃に一緒にいる時間が短くなれば、そういう可能性も否定できない。
「だけど、まさか圭太とこんな会話をするとは思ってなかったわ。もししたとしても、圭太が卒業して、しばらく経ってからよね、普通は」
「そうですね」
「私は別に神様じゃないから、なにがいいことで、なにがいけないことなのかはわからない。無責任な一般論を振りかざすつもりもない。ただ、ひとりの女として、人の妻として、そして、母親として言わせてもらうなら、どういう結果になるにしろ、早めに結論を出してあげるべきね」
「はい」
「適当な答えをでっち上げて、それを伝えられても困るけど、圭太はそんなことしないだろうし。もう今更すべてが丸く収まるような結果は無理なのは、当然理解してると思うけど、だからってその中でも最善と思われる結果を目指さないというのは、違うと思うから。だから、どうなるのがあなたたちにとって折り合える結果なのか、よく考え、よく話し合ってみなさい」
「はい」
 圭太は、しっかりと頷いた。
「さて、そろそろ圭太を解放してあげないと、余計な不興を買ってしまうわね」
「そんなことはないと思いますけど」
「みんながみんな、圭太みたいには考えられないのよ」
 そう言って菜穂子は微笑んだ。
「じゃあ、また時間のある時に練習を見に来て」
「わかりました」
 菜穂子は窓を閉め、そのまま職員室へ戻っていった。
 ひとりその場に残った圭太は、小さくため息をついた。
 そのため息がどんな心情を表したものだったのかは、わからなかった。
 
「ほぉら、琴子。高い高い」
「あ〜、あ〜」
 家に帰ると、祥子と琴子が来ていた。
 琴子は、圭太の顔を見るなり、手足をばたつかせ、ようやく少しできるようになったハイハイで圭太の元へ行こうとした。
 本当は着替えたり、昼食を食べたりとやることもあったのだが、とりあえず琴子を満足させるべきと判断したのか、まずは琴子の相手をしていた。
「あ〜、う〜、う〜」
「なんだ、もっとしてほしいのか?」
「あ〜」
 圭太は琴子を抱え上げ、『高い高い』をした。
「なんとなく、お兄ちゃんと琴子ちゃんて会話が成立してるよね」
「うん、確かに」
「それはきっと、圭くんは圭くんで琴子が今なにをしてほしいのか理解しようとして、琴子は琴子で自分の気持ちを圭くんに伝えようとしてるからだと思うよ」
「なるほどぉ」
 ふたりの様子を見ていた琴絵と朱美は、大きく頷いた。
「今はまだ言葉を話せないから、本当のところはわからないけど、琴子にとっては自分は圭くんと話せているって思ってるはず」
「それって、親子だからですか?」
「もちろん、それも大きいけど、たとえそうじゃなかったとしても、心の底から相手のことを考えて、理解しようとしていれば、すべてではないにしても、ある程度のことはわかると思うよ」
「赤ちゃんとはいえ、人間ですからね」
「そういうこと」
 赤ん坊が言葉を理解できていないと考えるのは明らかに間違いで、日々の暮らしの中で確実に様々なことを学んで理解している。
 ただ、今はまだ、それをちゃんと伝える術がないだけである。
「圭太、そろそろ準備ができるから着替えてきて」
 と、台所で昼食の用意をしていた柚紀が顔を出し、そう言った。
「わかったよ」
 圭太は琴子をいったん祥子に預けようとしたが──
「ううぅ〜、ううぅ〜」
 琴子は、圭太にしっかりとしがみついて離れようとしない。
「んもう、琴子。パパが困ってるでしょ? パパはすぐに戻ってくるんだから、ちょっとの間、ママと一緒にいるの」
 なんとか離そうとするが、離れない。
「このまま僕が連れて行きますよ」
「いいの?」
「こうなったらしょうがないですから」
 圭太は苦笑しつつ、琴子を抱いたまま部屋へ戻った。
「う〜ん……」
「どうしたの?」
「このままだと、私は姪の琴子ちゃんにまでお兄ちゃんを取られちゃうのかな、って思って」
「あ〜、それはなんとなくわかる。今はまだ予想でしかないけど、琴子ちゃん、筋金入りのファザコンになりそうだもんね」
「そうそう。さすがに琴子ちゃん相手にあれこれ悩むのはどうかと思うし……」
 琴絵はそう言ってため息をついた。
「ほらほら、ふたりも着替えてこないと」
「あ、はぁい」
 そのまま黙っていたらいつまでも愚痴っていそうだったので、祥子はいったんそれを途切れさせた。
 ふたりがリビングを出ると、今度は祥子がため息をついた。
 少しして、圭太が戻ってきた。
「圭くん、琴子、邪魔しなかった?」
「大丈夫ですよ。とりあえず僕が視界の中に入っていれば、安心みたいですから」
「それならいいんだけど」
 祥子の心配をよそに、琴子は上機嫌で圭太の手で遊んでいる。
「圭太、準備できたよ」
「わかった」
「琴子。パパはこれからマンマを食べるのよ。その間は、ママと一緒にいるのよ」
「あう〜」
 今度は少し強引に琴子を引き離したおかげで、比較的すんなりと祥子の腕の中に収まった。
「琴子。ちょっとの間、ママといい子にしてるんだぞ」
「あ〜、あ〜」
 必死に圭太の手をつかもうとするが、圭太はそれを難なくかわす。
「もし琴子が泣きそうなら、僕が見えるところにいてください」
「うん、そうするよ」
 着替えた琴絵と朱美も揃い、だいぶ遅い昼食である。
「今日の練習はどんな感じだった?」
 柚紀は、チャンポンの麺をすすりながら訊いた。
「先生と一緒に各パートを見てまわったよ」
「あ、だから時間がかかったんだ。なるほどなるほど」
 柚紀も元部員だけあって、それだけ聞けばどんな内容で、どれくらい時間がかかったかわかる。そのあたりを説明する手間が省けるので、圭太も楽そうだ。
「そういえば、お兄ちゃん。クラを見てる時に、先生となにか話してたけど、なにを話してたの?」
「ん、別にたいしたことじゃないよ。現状のクラについてちょっとね」
 本当は主に琴絵のことを話していたのだが、さすがに本人にそれを話すのははばかられた。もちろん、話してもいいレベルの内容ではあるが。
「内容が気になるかい?」
「え、あ、う〜ん、気にはなるけど、先生とふたりして、あれはダメだ、これはダメだ、なんてことばかり話してたんだとすると、せっかく練習から解放された今、それを聞くのはイヤだから」
「うんうん、琴絵ちゃんの気持ち、よぉくわかるよ。私だって、練習時間外に圭兄からお小言のようにあれこれ言われたら、さすがにへこむし」
「……ふたりとも僕をいったいなんだと思ってるんだ」
「ま、圭太の今までの練習時の態度を見ていれば、ふたりがそう思うのも無理ないわね」
 柚紀は、おかしそうにそう言う。
「……まあ、いいけど」
 圭太は少しだけ面白くなさそうに、麺をすすった。
「あ、そうそう。すっかり忘れてた」
「ん?」
「圭太たちが帰ってくる少し前に、鈴奈さんから連絡があって、あとで遊びに来るって」
「そっか。わかったよ」
 食事を終えると、それを見計らっていたかのように、鈴奈がやって来た。
「今日は仕事の方は大丈夫なんですか?」
「うん。今日は大丈夫。というか、ちょっとした息抜きかな」
「適度な息抜きは必要ですからね」
「そうそう。そのついでに圭くんの顔を見られれば、一石二鳥だし」
 そう言って鈴奈は笑う。
「そうだ。今日はみんながいるから先に訊いてみようかな」
「なにをですか?」
「ほら、もうすぐヴァレンタインでしょ? 今年はみんな、チョコをどうするのかなって思って」
 言われて、圭太以外は顔を見合わせた。
「どうすると言われても、普通にチョコを用意して、当日にそれを渡すだけですけど」
 柚紀の言葉に、それぞれ頷く。
「それに、なにかしたくても今年は平日じゃないですか。土日に重なっていれば、いろいろできると思いますけど」
「そっか。確かにそうだね」
「鈴奈さんは、なにかしようと思ってたんですか?」
「ん〜、特にこれというのはないけど、みんなでチョコを作るのも面白いかな、とは思ってたよ」
「そうですか」
「まあでも、確かに考えてみれば今年は当日は火曜日だから、前日に準備すると時間が足りない可能性もあるからね」
「そうですけど……じゃあ、鈴奈さん。私と一緒に作りますか?」
「柚紀ちゃんと?」
「はい。私は平日も関係ありませんから、必要最低限の準備なら、私がやっておけます。それさえやっておけば、前日の夜の短い時間でもなんとかなると思うんです」
「それはそれで魅力的な提案だけど、いいの?」
「いいですよ、それくらい。それに、私も一度、鈴奈さんと料理というか、お菓子作りというか、とにかくそういうことをしてみたかったんです」
「そこまで言われちゃうと、断る理由もないけど」
「じゃあ、そうしましょう。どんなのを作るかは、また改めて決めましょう」
「うん、そうね」
 柚紀と鈴奈の間で話がまとまったところで、琴絵がおずおずと手を挙げた。
「あのぉ、私も一緒にいいですか?」
「うん、いいよいいよ。朱美ちゃんもどう?」
「あ、はい。できればその方が嬉しいです」
「それじゃあ、琴絵ちゃんと朱美ちゃんも参加、ということで」
 と、ひとり蚊帳の外の祥子に鈴奈は声をかけた。
「祥子ちゃんは?」
「あ、いえ、私は……」
「鈴奈さん。祥子先輩はいいんです」
「えっ、なんで?」
「前日の二月十三日は、先輩の誕生日ですから」
「あ、そういうことか」
 それだけで察したようである。
「そういうことならしょうがないね」
「すみません。気を遣ってもらって」
「ううん。いくらヴァレンタイン前日といっても、誕生日は大好きな人に祝ってもらいたいからね。もし私が今の祥子ちゃんと同じ立場だったとしても、そう思うよ」
「ありがとうございます」
 祥子としても、もちろん柚紀たちとチョコ作りをしたいと思っている。だが、圭太とともに過ごせる時間を削ってまでしなくてはならないことではなかった。
 少なくとも、妻である柚紀以外は、圭太との時間を自由にはできない。それを考えれば、なおのことである。
「う〜、あ〜」
「ん、どうした、琴子?」
「あう〜、あう〜」
 それまでおとなしくしていた琴子が、突然圭太の腕の中で暴れ出した。
「こらこら、そんなに暴れない」
 圭太は、琴子の頭を軽く撫でてやる。
 途端に琴子はおとなしくなり、今度は上機嫌で圭太の顔をペチペチたたき出した。
「いったいどうしたんだ、琴子?」
「たぶん、私たちがチョコの話をしてたからじゃないかな。まだ琴子にはチョコがどんなものかわかってないけど、それでもそれが食べ物で、美味しいものだっていうのは、なんていうか、本能的に理解してるのかも」
「それで琴子もチョコを食べたくなった、と」
「うん」
「なるほど。琴子もやっぱり女の子ってことか」
 圭太はそう言って琴子の頬をつついた。
「でも琴子。いくら女の子だからって、あまりにも色気より食い気になっちゃダメだからな」
「あ、なんかそれ、すっごくトゲのある言葉」
 と、すかさず柚紀が反応した。
「別に柚紀のことを言ったわけじゃないし、ほかの誰のことを言ったわけでもないよ。ただ、僕は琴子にはそうなってほしくなかっただけ」
「なんか取って付けたような理由だけど、まあいいか」
 圭太の言葉だから柚紀も反応したのだが、圭太はそのあたりのことをきちんとは理解していない。もっとも、それを理解して、なおかつ続けるようだと、かなり問題ではある。
「そういえば、圭太。そろそろ決めた?」
「ん、ああ、一応決めたよ」
「えっ、なにを決めたの?」
 唐突に交わされた会話に、内容を知らない面々が首を傾げた。
「アンコンの関東大会に行くか行かないか、ってこと」
「えっ、圭兄、来るんじゃないの?」
「最初はそう思ってたんだけど、今年の関東大会は神奈川だからね。ちょっと遠いし」
「じゃあ、行かないんだ?」
「うん」
「ええーっ、圭兄、応援してくれないの?」
 途端、出場する朱美が不満の声を上げる。
「応援はするよ。前日の練習にもつきあおうと思ってるし。ただ、本番は出場メンバーだけでがんばってほしい、ということだよ」
「圭太も、意地悪でそう言ってるわけじゃないことくらい、朱美ちゃんもわかってるでしょ?」
「はい」
「圭太は自分からは言わないだろうけど、これでもあれこれ悩んでたんだから」
「圭兄がですか?」
「そうだよ。みんながさらに上手くなるためには、どういう形で関わっていくのがいいのか。それを真剣に悩んでた。今は引退してしまったOBでしかないわけだから、あまり深く関わるのも問題だし。かといって、自分が関わることで少しでもみんなの力になるなら、協力は惜しむつもりもない。そのさじ加減が難しくてね」
「なるほど。圭くんだって、いつまでもつきあえるわけじゃないものね」
 話の内容を理解した上で、祥子はそう言った。
「コンサートやコンクールの時には、また関わるつもりではいるけど、それ以外の時は、基本練習のみの指導に留めようと思ってね。基本練習というのは、一番大事な練習ではあるけど、その単純さ、単調さから長続きしないから。そうすると、結局誰かにある程度強制的にやらされた方が、ある意味では上手くいくだろうし。その役目を先生にすべてお願いするのはとても無理だから、じゃあ、僕がそれをやって、その上で曲の方は先生に任せようと思ったんだ」
「そっか……」
「お兄ちゃんは、三中の頃にもそんなことを考えてたの?」
「いや。あの頃はそんなことは考えてなかったよ。たまに佳奈子先生にお願いされて、練習を見てたくらいだから。一応、あの頃は僕も受験生だったし」
「あ、そっか」
「僕がいなくてもちゃんとできるということは、一高祭からのことで証明されてるわけだから、そんなに大きなことではないよ」
 朱美も琴絵も、話の理屈としてはもちろん理解していた。自分たちそれぞれの力をより高めるためには、圭太から学べる以外のことも、積極的に学ぶべきである。
 それが自分のレベルアップに繋がり、ひいては部全体のレベルアップに繋がる。
 だが、それが理解できても、圭太と同じ時間を共有できないというのは、そう簡単に割り切れる問題ではない。
 今はまだ引退したといっても、現役の一高生である。なにかあればすぐに来てもらうこともできるが、三月に卒業してしまったら、さすがにそういうわけにはいかなくなる。
 そうすると、一分一秒でも長く、多く一緒にいたいふたりにとっては、かなり厳しい決定ということになる。
「じゃあ、もし全国に行けたら?」
「そうだなぁ、その時はまた改めて考えるよ。今年は確か京都だったから、去年、一昨年に比べればまだ行きやすいし」
 そういう風に言えば、朱美たちがいつも以上にがんばる、というのも見越していたのかはわからない。
 圭太なら、わかっていてあえて言っている可能性もある。
「逆に、これは僕の方から訊きたいんだけど、僕たち三年が引退してから、部活の様子はどうなった?」
「どうなったって……」
 琴絵と朱美は顔を見合わせた。
「去年、先輩たちが引退したあと、先輩たちが引退したせいで演奏の質が落ちたなんて言われないように、みんながんばってた。もちろん、すぐに行動に移せないものもあったとは思うけど。そして、それはきっと、今年も同じだったんじゃないかな?」
「うん、圭兄の言う通り」
「お兄ちゃんたちが引退して、ダメになったって言われたくなくて」
「その結果が、一高祭であり、アンコンであり、クリスマスコンサートだったわけだ」
「そうかもしれないけど、それでも、先生だけじゃカバーしきれない時は、できれば圭兄が教えてくれるといいと思う」
「もちろん、僕にできることはやるつもりだよ。ただ、それも今までと同じというわけにはいかない、ということ」
 圭太は、諭すようにそう言う。
「本当に圭くんは真面目だね」
「そうですか?」
「うん。今だって、臨機応変に対応するって言えば済むことなのに」
「それはさすがに誤魔化しすぎだと思うんですけど」
「だけど、あながちウソではないでしょ? 圭くんのことだから、先生に頼まれたり、みんなに頼まれたりしたら、予定をやり繰りして練習を見に行くだろうし」
 そういう風に言われると、なにも言い返せない。
「それと、琴絵ちゃんも朱美ちゃんも、圭くんはもうあくまでもOBなんだから、無理を言える立場じゃないことは、再確認しておかないとね。一緒に暮らしていて、毎日顔を合わせるからそういう気持ちになれないのかもしれないけど。そのあたりはきちんと切り替えないと」
 尊敬する先輩にそう言われると、納得はできなくとも、ここは退くしかない。
「まあ、いちいち学校に行って指導するのは今言った通りだけど、家でならその限りではないから」
「どういうこと?」
「さすがに楽器を使っての練習は難しいけど、楽譜の上でなら少しくらいは見られると思うから。それと、タイミングさえあえば、休みの日に楽器を使っての練習も見られるだろうし」
「なるほど。そういう手もあるのか」
「とにかく、これからは少しずつでいいから僕への依存度を減らしてほしい。そうじゃないと、いつまで経っても今の部員による一高吹奏楽部の演奏にならないから」
 それは、圭太の望みであり、楽しみであった。
 自分たちが引退して、後輩たちがどんな演奏を聴かせてくれるのか。
 一高らしさを継承しつつも、新しい演奏を目指してほしい。
 圭太は、そう思っていた。
「そういうわけだから、関東大会は、現地での応援はパスするから」
「むぅ、しょうがないなぁ」
 そこまで言われると、これ以上駄々をこねるわけにもいかない。
「それはそれでいいけど、でも、圭兄。その理由で、あの紗絵が納得するかな?」
「納得はしてくれないかもしれないけど、妥協してもらわないと。紗絵は、仮にも部長なわけだし」
 その部長だからこそ、偉大なる前部長に常に見守っていてほしいのだが。
「そのあたりのことは、今度練習を見に行く時にでも、直接話すよ」
「渋々でも納得してくれるといいね」
 圭太が引退してから、紗絵は圭太に見劣りしない働きを見せている。ただ、やはり圭太のことが直接絡むと、その限りではない。
 もっとも、それについては圭太も当然認識している。
 なんといっても、圭太と紗絵は、単なる先輩後輩の関係ではなく、男女の関係なのだから。
「あれ、琴子ちゃん、寝ちゃったね」
 と、いつの間にか、琴子は圭太の腕の中で、すやすやと眠っていた。
「今日はお昼寝してなかったから、それでだと思うよ」
「よっぽど圭太の腕の中は、安心できるんだろうね」
「圭くん。大変だったら、琴子、ベッドに寝かせちゃっていいよ?」
「いえ、大丈夫です。ここでベッドに寝かせて、起こしてしまうのも可哀想ですから」
「圭くんがいいなら、私は構わないけど」
 祥子は、それ以上言わなかった。
「あ、そうそう。祥子ちゃん」
「はい、なんですか?」
「祥子ちゃんは、大学がある日はどんな風に一日を過ごしてるの? 前から結構気になってたんだ。育児と勉強の両立はかなり大変そうだし」
「どんな風と言われても……そうですね、大学に行ってる時以外は、基本的に琴子の側にいます。大学に行ってる間は、お母さまが見ててくれますから」
「やっぱりそういう感じなんだ」
 鈴奈はなるほどと頷く。
「ん〜、いろいろなことを考えると、祥子ちゃんは運がよかったのかもしれないね」
「どういう意味ですか?」
「ほら、時期が時期だったから、大学へ行かなくちゃいけない時期が短くて済んだわけだし。授乳期の子供は、昼夜関係なく見ていないといけないから。そうすると、どうしても寝不足になったり、注意力が散漫になったり、いろいろあるからね」
「言われてみると、確かにそうかもしれませんね。これが四月とか春先だったら、留年は覚悟しておかなくちゃいけなかったですね」
「そうだね。そういうことを考えると、祥子ちゃんと琴子ちゃんは、なにか特別なものを持ってるのかもしれないわね」
「そうだといいんですけど」
 子供を作ろうと思ったなら、逆算してからにすれば、出産後のことも考えられる。
 しかし、琴子の場合は想定外だった。祥子はそうなってもいいと思ってはいただろうが、あまりにも想定外の時期になってしまった。
 それを考えると、鈴奈の言も頷ける。
「ただ、私はずっと思ってるんです。親の勝手なエゴのせいで、なんの罪もない子供に迷惑をかけてはいけない、って。だから、私がどれだけ大変な状況になったとしても、琴子のことだけは、責任を持ってきちんとやりたいんです」
「祥子ちゃんのその決意と心意気はとてもいいと思うわ。でもね、そうやってあまり自分を追い詰めるのも、問題だと思うわ。まあ、今はまだ問題のないところで推移してるみたいだけど。だけど、そのことだけを強く意識したままこれからの生活を送っていくと、必ずどこかで破綻するわ」
「ええ、それはわかってます。私の言葉も、少し足りませんでした。私が琴子のことについて責任を持つのは当然ですけど、なにもそれをひとりだけでやるつもりはありません。私しかやれる人がいないというのなら話は別ですけど、現実はそうではありませんから。圭くんもいてくれますし、家族もいます。ひとりでできることなんて限られてますから。それこそ、私の変な意地のせいで琴子に迷惑をかけられませんから」
「なるほど。そのあたりはちゃんと理解してるというわけか。ひょっとして、圭くんになにか言われた?」
「あ、えっと……」
「そっかそっか」
 鈴奈は妙に嬉しそうに頷いた。
「柚紀ちゃんは、当面の間の子育てはどうするつもりなの?」
「私も、基本的には向こうの家に迷惑をかけようかと思ってます。遠慮する間柄ではないことは十分理解していますけど、お店のこともありますから」
「そうね。琴美さんにお願いしちゃうと、すべてを後回しにしてかかりきりになっちゃうかもしれない」
 さすがにずっとその様子を見てきただけあって、鈴奈もそのあたりのことは容易に想像できた。
「とりあえず、ある程度落ち着くまでは、向こうからの通い妻ですね」
「それはそれで、圭くんが淋しいんじゃないかな?」
「少しの間、我慢してもらいます」
「なるほどなるほど。やっぱり、もうちゃんと決めてあるんだね、そういうこと」
「鈴奈さんも、そういうのは気になりますか?」
「それはもちろん。だから、参考までにふたりのことを聞いてみたの」
 それはつまり、圭太との間に子供を作りたい、ということにほかならない。
 当然、柚紀はあまりいい顔をしなかった。ただ、相手が鈴奈なので、思っていることを口にはしなかった。
「ああ、ごめんね、柚紀ちゃん。別に柚紀ちゃんと圭くんの関係をないがしろにして、そんなことを考えてるわけじゃないから。ただ、もしそうなっても、ということだから」
「あ、いえ……」
 鈴奈に先を越され、そう言われてしまうと、柚紀としてはますますなにも言えなくなってしまう。
「あれ、今度はお兄ちゃんまで寝ちゃった」
 と、それまでただ黙っていたと思われていた圭太が、琴子を抱いたまま眠っていた。
「疲れてるのかな?」
「どうかな。たぶん、今の状況がとっても心地良いから、それで寝ちゃったんだと思うよ」
「そっか」
「ちょっとごめんね」
 祥子が圭太の腕の中から琴子を抱き上げた。
 そのままベビーベッドに琴子を寝かせる。
「圭太には……」
 柚紀は一度リビングを出て、それから手に毛布を抱えて戻ってきた。
「風邪引かれると困るから」
 そう言いながらも、その眼差しはとても優しい。
「圭くんも、こうして寝てるとすっごくカワイイよね」
「そうですね。普段のカッコイイ圭くんもいいですけど、こういうあどけない顔の圭くんもいいですよね」
 年上のふたりが、圭太の寝顔を見ながらそんなことを言っている。
「圭兄の寝顔はなかなか見られないから、なんか得した気分」
「見られないって、お兄ちゃんと一緒に寝れば、見られるんじゃないの?」
「だってぇ、たいてい私の方が先に寝て、圭兄の方が先に起きちゃうから」
「ああ、うん。それはそうだね。言われてみると、私もそうかも」
「柚紀先輩は、たくさん見てますよね?」
「ん〜、そりゃ、ふたりよりはたくさん見てるけど、たぶん、一緒に寝てる回数を考えると、圧倒的に少ないと思うよ。朱美ちゃんが言ってたように、圭太って私よりもあとに寝て、先に起きちゃうから。がんばって早く起きようと思っても、なかなか圭太より早く起きられないし」
「先輩ですらそうなんですね」
「じゃあ、それだけレアな寝顔、ってことだね」
 どんな顔であっても、自分の好きな人の顔なら特別なのだが、圭太の寝顔となれば、確かにレアかもしれない。
「こうしてたまに昼寝してる時は、結構チャンスだと思うけど」
「お昼寝自体もあまりしないですからね、お兄ちゃんは」
「そういうわけだから──」
 そう言いながら柚紀は携帯を取り出し──
「写真に収めておくのがいいと思うのよね」
 そして一枚。
「なるほど。それはナイスアイディア」
 すぐさま四人も圭太の寝顔を写真に収める。
「この寝顔の写真一枚で、学校の圭くんのファンは、どれくらい騒ぐかな?」
「たぶん、相当なものでしょうね。行事の写真も、かなりの数が出回ってるって聞いたことがありますから」
「ホント、アイドルと一緒だよね」
「局地的には、アイドル以上かもしれません」
「確かに」
 そんなアイドル並みの圭太を、柚紀は夫に、琴絵は兄に、朱美は従兄に、鈴奈と祥子は、年下の特別な『弟』にできているのだから、ある意味幸せなことである。
「そうだ。鈴奈さんに祥子先輩。よかったら、今日は夕食を一緒にどうですか? 今日は私が準備することになってるんです」
「今から人数増えても大丈夫なの?」
「はい。大丈夫ですよ。だから、遠慮しないでください」
 鈴奈と祥子は顔を見合わせ──
「それじゃあ、お言葉に甘えて、ごちそうになろうかな」
「私も」
 笑顔で頷いた。
「わかりました」
 そう言って柚紀は立ち上がり、台所へ。
「あ、柚紀さん。私も手伝います」
 それを追って、琴絵も台所へ。
「もう柚紀もすっかり、この家のお嫁さんになっちゃったなぁ」
「それもしょうがないことではあるけどね」
「そうですね」
 少しだけ羨ましそうに、鈴奈と祥子はそう言った。
 
 二
 二月も三分の一が過ぎようという日。
 圭太は、授業が終わる少し前に学校へとやって来ていた。といっても、授業を受けるわけでも、講習を受けるわけでもない。次の日に迫ったアンコンのために、後輩たちを指導しに来たのだ。
 部活がはじまる時間にあわせると、なにかと有名な圭太の場合、いろいろ面倒なことが起きる可能性があるので、あらかじめ早めに来たのである。
 音楽室は一年の授業がなければ誰も使用していないので、身を隠すにはちょうどよかった。
 誰もいない音楽室。
 圭太は、ピアノ椅子に座り、音楽室を見渡した。
「もうすぐ、卒業か……」
 卒業式は例年通り三月一日。もう一ヶ月ない。
 三月いっぱいは身分的には高校生であっても、卒業式を迎え、卒業証書をもらったら、やはりもう現役生とは思えない。
 それは圭太にとっても同じだった。
 圭太の場合は、高校生活の三年間は、これまでの人生の中で最も濃密な三年間だった。だからこそ余計に感傷に浸ってしまうのである。
 そして、特にこの音楽室をはじめとした吹奏楽部に関係の深い場所では、よりいっそうそれを感じていた。
 圭太は、ピアノを開け、静かに弾きはじめた。
 まだ授業中ということもあって、できるだけ静かに、おとなしい曲を弾いた。
 インターバルを置きながら、三曲ほど弾いたところで、廊下が少しざわつきはじめた。
 音楽室自体は三年の教室と同じ階にあるのでそれほどではないが、校舎、特に廊下は音が響くので下の階のざわつきも聞こえてきた。
 程なくして、音楽室が近い二年がやって来た。
「あれ、先輩。おはようございます」
「おはよう」
 最初にやって来たのは、遥と浅子だった。
「早いですね」
「そんなに前から来てたわけじゃないよ。ちょっと前に来て、時間を潰してただけだから」
 そう言ってピアノを閉じた。
 ふたりとも圭太がそこにいたこと自体には驚いていたが、なんのために来たのかはわかっているので、それについてはなにも言わなかった。
「今日は、柚紀先輩は一緒じゃないんですか?」
 直接の後輩である浅子がそう訊ねた。
「今日は、午後から病院に行ってるからね。本人は非常に行きたがってたんだけど」
「そうですか」
 現役吹奏楽部員は、圭太と柚紀の関係についても、今柚紀がどんな状況にあるのかも、ほとんどの者が理解していた。だから、いきなり『病院』などという単語が出てきても、別段驚いたりしない。
「浅子が残念がってたことは、柚紀に伝えておくよ」
「はい」
 それからすぐに、ほかの部員たちもやって来た。
 紗絵が来たところで、圭太は練習内容を確認した。
「とりあえず、僕としては三つの出来を最終確認できればと思ってるんだけど」
「そうですね。私も、先輩にはそれを含めての最後の指導をお願いできればと思ってます」
「指導については……まあ、その出来次第と言っておくよ」
 ほとんどの部員が来たところで、練習がはじまった。
 基本的には個人練習、またはパート練習で、アンコンのメンバーはそれぞれに最後の仕上げを行う。
 圭太は練習がはじまってからもしばらくは音楽室にいた。
 特になにをするでもなく、音楽室で練習している後輩たちを見ていた。
 音楽室で練習しているのは、主にパーカッションと低音楽器パートだった。
「浅子。ちょっといいかい?」
 と、圭太は浅子を呼んだ。
「なんですか、先輩?」
「今日の練習なんだけど、ユーフォとチューバ、それとコンバスも一緒にやってあげてくれないかい?」
「それは構いませんけど、でも、やることがバラバラになりませんか?」
「それはやり方次第かな。たとえば、ロングトーンの時に、浅子たちは正確に音を刻むとか。その時にはもちろん、音符の長さを意識してね。普段はメトロノームを使ってだろうけど、それを最初だけにして、途中で止めたり」
「なるほど。それは確かにちゃんと練習になりますね」
 打楽器にも当然、音符の長さがある。それを意識しての練習となれば、かなりしっかりとした基礎練習になるだろう。
「浅子自身も練習になるだろうし、一年にとってはかなりきつい、だけど、効果的な練習になると思うんだ」
「そうですね。やってみる価値はあると思います」
「まあ、今日のところは正確にできなくてもいいから。それを繰り返すことによって、正確なリズムや音の長さが、自然と身につくと思う。それは、浅子たちパーカスにとってとても重要なことだからね」
「わかりました。今日はそれでやってみます」
 圭太もそれを聞いて満足そうに頷いた。
「あ、先輩。そろそろ練習を見てもらってもいいですか?」
 そこへ、紗絵が圭太を呼びに来た。
「いいけど、先生は?」
「先生はやらなくちゃいけない仕事があって、それを片づけてから来るそうです」
「そっか」
 音楽室を出たふたりは、そのまま講堂へ向かった。
 講堂のステージ前には、すでに金管のメンバーが揃っていた。
 少し離れたところには、木管とサックスのメンバーもいる。
「それじゃあ、先輩。よろしくお願いします」
「まずは、一度通しでやってみよう。本番と同じくらいの緊張感を持って、だけど、失敗を恐れずに」
 圭太は、メンバーから少し離れた位置で、音が聴きやすい場所に立った。
 なまじ本番よりも圭太が見ている方が緊張する可能性もある。だが、それをある程度克服できれば、本番では自分の演奏ができるだろう。
 演奏は、金管、サックス、木管の順番で行われた。
 圭太はその間、一度も口を開かなかった。
 サックスの演奏の終盤頃に菜穂子がやって来たが、その時ですら軽く会釈をしただけでなにも言わなかった。
 三つの演奏が終わると、圭太はメンバーを集めた。
「それぞれの演奏についてはまた改めて言うとして、三組の演奏全体に共通して言えることは、これで終わりかもしれない、という緊張感というか、危機感というか、そういうものが足りない。確かに僕は失敗を恐れずにとは言ったけど、それは別に今が練習で失敗してもやり直せるから、という意味ではなかったんだよ。自分の持てる力をすべて出し切った上で、その時に音が少し上擦ってしまったり、指が少しまわらなかったり。そういう失敗なら恐れなくていい、ということ。逆に言えば、全力で演奏もしないで失敗していたら、それは目も当てられない結果ということになる」
「…………」
「アンサンブルは、人数が少ない分だけひとりひとりがやるべきこと、やらなければいけないことが多い。つまり、それだけ責任を負っているということ。普段の合奏なら、パート内やセクション内でフォローしてくれるけど、アンサンブルではそうはいかない。自分の音が消えてしまったら、もう誰もフォローしてくれないんだから。そういう意識をもっと持たないと、本番で考えられないようなミスをするから。もし、本番になればできるなんて考えてるなら、それはとても甘い考えだと言っておくよ。練習中に百パーセントの力を出せないで、どうして本番で百二十パーセントの力が出る? そんな奇跡は、そうそう起こらない。だから、みんなにはもう少しだけ、そのあたりを真剣に考えてもらいたい。そうしないと、きっと後悔するから」
 圭太の言葉に、それぞれ神妙に頷く。
「次に、それぞれについてだけど、まずは金管。本番を明日にして今更細かいことを言うつもりはない。どうせ今からできることなんてたかが知れてるからね。とにかく、金管はテンポが揺れるから。そのあたりをもう少し意識すること。特に、ペットとチューバでテンポとリズムを支えないと。もちろん、全員の共通認識にしておくべきことだから、全員で話して、その上で練習すること」
「はい」
「次は、サックス。サックスは、一番無難にまとまってると思うけど、欲を言えばもう少し抑揚がはっきりしてるといいかもしれない。演奏してるとわからないかもしれないけど、ちょっとやり過ぎかも、というくらいでちょうどいいということが多々あるから」
「わかりました」
「最後に木管。木管に対しても細かいことを言うつもりはないけど、ただ、もう少しだけ音を正確に。音符の長さ、休符の長さ。それがバラバラになってるところがあるから。時間はないけど、もう一度譜面を読み込んで、改めてあわせてみるといい。あとは、ミスをした時に変に誤魔化さないこと。焦る気持ちもわかるし、それ以後なんとかしなくちゃいけないという気持ちもわかるけど、そこで誤魔化してしまうと、いい演奏はできなくなってしまうから。ミスをしてしまったらそれはそれとして、すぐに気持ちを切り替えること。誤魔化さず、そのままの演奏を続けること」
「はい」
「僕からはこんなところですけど、先生はなにかありますか?」
「特にないわ。圭太のあとに、私からも注文をつけたら、とても明日までにどうこうできないものね」
 菜穂子は、冗談とも本気ともつかない物言いをした。
「それじゃあ、それぞれ練習を再開して」
『はい』
 講堂の三カ所に別れて、それぞれ練習をはじめる。
「圭太としては、木管が一番気になるのかしら?」
「そうですね、さっきの演奏だけで判断すれば、そうなります」
「実際は違う?」
 含んだ物言いに、菜穂子はさらに言葉を重ねた。
「どちらに転んでも、その振れ幅が大きいのは金管だと思います。明日は、最高の演奏か、最低の演奏か。どちらになるか」
 圭太は、真剣な表情で練習している金管のメンバーを見ながらそう言った。
「それはやっぱり、去年のあなたたちの演奏に対する気負い?」
「かもしれません。メンバーはまったく違うわけですから、比べる方が間違ってはいるんですけど、まわりはそうは見てくれませんから。同じ一高で、しかも同じ金管八重奏。これだけの条件が揃っていれば、比べてしまうのも当然だと思います」
「見た感じは、そこまでの気負いはなさそうに見えるけど、確かに本番になるとどうなるかはわからないわね」
「本人たちにそれを言えば、きっとそんなことはないって言うと思います。ただ、頭の中でそう理解していても、それに気持ちがついてくるかどうかは別問題ですから」
「だから、最高か、最低なわけね」
 そう簡単に割り切れるなら、誰も苦労はしない。割り切れないところが人間ならではなのだが、それが余計な場合も多い。
「それと、この問題に関しては僕にできることはなにもありません。もう本人たちに乗り切ってもらうしかありません」
「そうね」
「もしここで乗り切れたなら、この先のコンサートやコンクールでも、きっと今回のことが役に立つはずです」
「そうなることを、期待するしかないわね」
 期待できるのは、たとえそれが難しいことでも、できると信じているからである。もしその見込みがないなら、最初から期待などしない。
「そういえば、圭太は明日、向こうへは行かないのよね?」
「はい。さすがにいつもいつもというわけにはいかなくなりますから」
「圭太がいてくれると、私も楽できるんだけど」
「大丈夫ですよ。人に誇れるくらい練習してきたなら、結果は自ずとついてきますから。先生はそれを見ているだけでいいはずです」
「圭太にそう言われると、妙に納得してしまうわ」
 そう言って菜穂子は笑う。
「さて、そろそろ個別に見てみましょうか。圭太はどうする?」
「僕は一度、ほかの部員たちの様子を見てきます。部長たちがいない状況で、真面目に練習してるかどうか」
「そうね。じゃあ、そっちは任せるわ」
「はい」
 
 通常の練習時間よりも短い時間でその日の練習は終わった。
 アンコン参加メンバー以外の部員には関係ないが、メンバーは移動するための時間も必要である。
 当初は午後は公欠で移動時間に充てるということだったのだが、移動時間よりも練習時間に充てたいということで、授業も普通に受けていた。
 その代わり、午前中から出番のある金管は、早朝にこちらを出発しなくてはいけない。
 木管とサックスは午後なのでそこまで早い必要はないが、あまり余裕があるとも言えない。
 そんな状況ではあったが、後輩たちは圭太との時間を優先していた。
「はあ、なんか今からすっごいドキドキしてる」
「今からそんな調子だと、本番前にへばるぞ」
「わかってるんだけど、異様な緊張感があって」
 朱美の言葉に、圭太は苦笑した。
 アンコンは人数が少ない分だけ、ひとりひとりにかかるプレッシャーも大きい。たとえ吹奏楽コンクールで全国大会に出ていても、その特殊な条件がいつもと違う緊張感を与える。
「詩織は、まだましな感じだね」
「そんなことないですよ。ピアノやコンクールの時とはまた違う緊張感がありますから、正直朱美と同じような感じです」
「ほらほら、詩織だってそうなんだから」
「一緒だからって、いいわけじゃないんだから」
「そう言う紗絵はどうなのよぉ?」
「私だって緊張してるけど、今の段階ではまだ大丈夫よ。まあ、寝る時に緊張して寝られない可能性はあるけど」
「あ、それはあるかも」
「圭太さんは、緊張してどうしようもない時は、どうしてたんですか?」
「そうだなぁ、ジタバタしても緊張感が消えるわけじゃないから、ある程度はそれに身を任せてたかな。ただ、できるだけ平常心を保とうと努力はしてたよ」
「圭太さんでもそうなんですね」
 圭太なら解決法を知っているかもしれない、という詩織の甘い期待は、もろくも崩れ去った。
 ただ、逆を言えば圭太ですら緊張するのなら、自分たちは緊張して当然、とでも受け止められれば、多少緩和されるかもしれない。
「ここまで来たらもうあとはやるしかないんだから、自分の力を信じてがんばればいい。それに、三人とも明日が目標じゃないんだから、こんなところで負けてられないじゃないか」
 圭太にそう言われ、三人は顔を見合わせた。
「お兄ちゃんがそんな風に言うと、余計プレッシャーになっちゃうんじゃないの?」
「大丈夫だと思うけど。三人とも、僕にこんなことを言われるのは、もうさすがに慣れたと思うし」
 それは違うと琴絵は思ったが、とりあえずなにも言わなかった。
「とりあえず、三人には明日の本番前に電話かメールかするから。直接の応援には行けないけど、せめてそれくらいはするから」
「はい、ありがとうございます」
「あと、結果に関してはすぐに知らせなくてもいいから。まずは全力で演奏して、悔いなく帰ってくればそれだけでいいんだから。結果は、そこについてくるはず」
「わかりました」
 最後の最後でちゃんとフォローするところは、やはり圭太らしい。
「あとは、今日はゆっくり休むこと。横になって目を閉じてるだけで、だいぶ違うはずだから。体調がおかしいせいで、演奏がダメだったなんてことになったら、後悔するだろうし」
「はい」
「ま、僕からはこんなところかな。三人とも、明日は全力でがんばって」
『はいっ』
 
 三
 二月十一日。
 圭太は朝から少し落ち着かない様子だった。特別上の空という感じではないが、明らかにいつもよりは落ち着きがなかった。
「そんなに気になるなら、やっぱり行けばよかったんじゃないの?」
 その様子を見ていた柚紀は、苦笑混じりにそう言った。
「それは今更だよ。それに、僕もこういう状況に慣れていかないといけないし」
「圭太がいいならいいけど」
 柚紀としては、圭太が側にいてくれるのは嬉しいのだが、その反面、あまりいろいろなことを無理に我慢してほしくないとも思っていた。圭太はともすれば、自分のことをないがしろにしてでもほかのことを優先してしまう。今はまだそれによって問題は起きていないが、これから先もそうだとは限らない。
 知らず知らずのうちにストレスが溜まって、そのせいで病気にかかる可能性も否定できない。
 さじ加減は難しいが、圭太の妻として柚紀はこれまで以上にそういうことに気を配ろうと思っていた。
「で、圭太の今日の予定は?」
「特にこれといってないよ。柚紀は?」
「私も特には。あ、ただ、圭太に予定がないなら、買い物につきあってほしいな」
「買い物? それはいいけど、なにか特別に必要なものでもあるの?」
「ん、ちょっと荷物を持ってもらいたくて」
 圭太は首を傾げながらも、それ以上訊かなかった。
「あ、そうだ。圭太に訊きたいことがあったんだ」
「ん、なに?」
「圭太は、車の免許は取ろうと思ってるの? 今すぐじゃなくても、将来的にさ」
「免許か。ん〜、僕個人としては取ってもいいとは思ってるんだけど」
「なにか問題でもあるの?」
「母さんがね、反対するんだよ」
「お義母さんが?」
 理由がわからない柚紀は、小首を傾げた。
「ほら、父さんが車で事故に遭ってるから」
「ああ……」
「母さんは今でも極力車には乗らないようにしてる。まあ、バスはまだいいみたいだけど、タクシーですらよほどのことがなければ乗らないし」
「そうだよね。どうしても思い出しちゃうよね」
「もちろん、母さんも頭では理解してるんだよ。そんな事故、そうそう起きるわけじゃないって。でも、それでもダメなんだよ」
 理由を聞いて、柚紀も納得したようだ。
「仕事柄、車はあった方がいいとは思うけど。母さんを無理矢理説得するのも違う気がするし」
「難しい問題だね」
 車はなくても生活はできるが、いざという時のために、せめて免許くらいは持っていた方がいい。琴美もそのあたりは十分理解しているのだが、圭太が実際に車を運転すると知ったら、是が非でも止めるだろう。
 そのくらい祐太のことが深く心に刻み込まれている。
「まあ、春になって、子供が産まれたらダメ元で相談してみるよ」
「そうだね」
 それからしばらくして、ふたりは買い物に出かけた。
 空は少し雲が多めながらも、晴れていた。
 吹く風はまだまだ冷たいが、それでも一時期ほどのつらさはない。
「卒業まで、もうすぐなんだよね。なんか、あっという間だなぁ」
 柚紀は、しみじみとそう言う。
「ついこの前三年になったと思ったら、もう卒業だもん」
「それだけ充実してたってことだよ」
「まあね。一、二年の時も充実してたけど、この一年間はそれ以上だったからね」
 柚紀としては納得できかねる状況ではあっても、そのおかげで普通に生活していたら間違いなく経験できないようなことも経験できた。
「四月からの新生活は、どんな感じになるのかな?」
「そうだなぁ、ある程度予想できることと、予想できないことがあるから、ちょっと難しいなぁ」
「予想できることって?」
「ん、それは今の五人での生活にもうひとり加わること」
「なるほど」
「まあ、それが予想できないことにもなるんだけどね」
「確かにね」
「とにかく、どういう状況になったとしても、この一年間とはまた違った充実感を味わえる一年になると思うよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 駅前までやって来たふたりは、商店街を歩いていた。
「そろそろなにを買うか教えてくれてもいいと思うんだけど」
「別に特別なものじゃないわ。いつもの食材の買い出しと、それから、ほら」
 柚紀は、すぐ脇の店先を指さした。
「チョコの材料を買おうと思って」
「なるほど。そういうことか」
 商店街もヴァレンタイン一色で、店先や店内でたくさんのチョコが売られている。
「ほら、今年は鈴奈さんも一緒に作る予定だから、材料も少し多めに用意しないといけないし」
「それで荷物持ちというわけか」
「チョコはついでよ、ついで。多めと言っても、何十人分も用意するわけじゃないし」
 ふたりは、業務用の食材も手に入る店に入った。
 その店も、普段はあまり扱っていない小売り用のチョコが店頭に並べてある。
「えっと、お義母さんの分も含めてだから、五人分で……」
 柚紀は、必要になりそうな量を計算しながら、チョコを吟味していく。
「ん〜、少し多めに買っておけば、失敗しても安心よね」
 ブラックチョコとホワイトチョコを適当な分量をカゴに入れる。
「柚紀は、今年は何人分用意するつもり?」
「とりあえず、圭太とお父さんの分。あとは、余裕があればお店に置いておく用に少しくらい作ろうかなって」
「店の方は別にいいんだよ?」
「あくまでも、余裕があればの話だから。本命の圭太の分にすべてを注ぎ込むから、あまり余裕はないと思うよ」
「……まあ、それもほどほどに」
 必要なチョコを買うと、その店を出た。
「これであとは作るだけ、と」
「そっちは全然問題ないでしょ?」
「それはね。でも、圭太にそう言われてもあまり嬉しくないのよねぇ、実際。圭太は、多少料理ができるレベルじゃないから。チョコなんかも人より上手に作っちゃうだろうし」
 少しだけ恨みがましい目で見る。
「ま、それも今更だけどね」
 料理ができなくて言われるならまだしも、できて言われるというのは、圭太としても納得しかねるところであった。もちろん、それは以前から言われているので、今はそれほど気にしていない。というか、気にしてもどうにかなるものではない。
「買い物はどこで?」
「えっと、今日は向こうのスーパーが安いのよ」
「歩くけど、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。いざとなったら圭太がなんとかしてくれるし」
 そう言って柚紀は笑う。
 商店街を戻り、今度は駅の反対側へ出る。
 反対側の商店街の中程にスーパーはある。
 食料品売り場の入り口で買い物カゴをカートに置き、押していく。
「なにを買うのか決めてるの?」
「一応お義母さんと話して、今日は温かいものにしようとは決めてるけど、具体的になににするかは実際に品物を見てからということ」
「母さんもずいぶんと楽してるなぁ」
「いいのいいの。私はやりたくてやってるんだから。それに、お義母さんはお店があるんだから」
 ふたりは、適当に食材を見ながら、献立も考えつつ、なにを買うか決めていく。
 基本的には柚紀が見て、その場で判断しているが、時折圭太に意見を求めた。
「ん〜、こんなものかな?」
 カゴがほぼいっぱいになったところで、ちょうど食材は揃った。
 ちなみに、献立は水炊きになった。
 あとはレジを通して、帰るだけ。
「帰りはさすがにバスだね」
 柚紀が身重ということもあるが、荷物がそれなりの量になったので、バスで帰ることになった。
「今頃、金管は演奏やってるか、終わってる頃かな」
「そうだね」
「紗絵ちゃんたち、一生懸命がんばってたから、なんとか全国行けるといいんだけど」
「さすがにこればかりはわからないよ。アンコンは学校のレベルだけじゃ計れない大会だし。ただ、たとえ全国に行けなくても、悔いのない演奏をしてほしい」
「それは大丈夫でしょ。なんたって、圭太がみっちり指導したんだから」
「そこまではしてないけど」
 圭太も、できるだけアンコンのことは気にしないようにと思っているのだが、どうしても気になっていた。
 そんな圭太の心情を汲み取り、柚紀は自分から話題を振ったのである。
「ま、あとは向こうからの連絡を待ちましょ。きっと、いい結果報告があるわ」
 柚紀の言葉に圭太は頷き、離れた地でがんばっている後輩たちに、改めて心の中でエールを送った。
 
 陽も落ちて、もうそろそろ夜という頃。
 リビングでのんびりしていた圭太は、携帯が鳴るとすぐに出た。
「もしもし」
『あ、圭太さん。紗絵です』
 電話の相手は、紗絵だった。
「電話してきたということは、結果が出たのかい?」
『はい』
 電話口の口調からは、結果がどうなったのかはわからなかった。
「それで、どうだった?」
『はい。金管とサックスは金賞でした。木管は銀賞でした』
「金賞か。おめでとう」
『ありがとうございます。でも、ハズレ金賞だったんです』
 ハズレ金賞とは、金賞ではあるが、全国大会へは出場できないことを表している。もちろん、それが正式な言い方ではない。
「先生はなんて?」
『今年も例年以上にレベルが上がって、たとえ金賞でもほぼパーフェクトの演奏ができなければ、全国は無理だっただろう、と』
「なるほど」
 まわりのレベルが高ければ、ハードルが上がってしまうのはしょうがない。
 あとは、そこにどれだけ近づけるかで、結果が分かれる。
「まあ、全国には出られなかったけど、紗絵。紗絵は、一生懸命やったんだろ?」
『はい。精一杯の演奏ができたと思ってます』
「なら、胸を張って堂々と帰ってくればいい。関東大会で金賞取るのだって、決して楽なことじゃないんだから」
『はい……ありがとうございます』
 電話口の紗絵の声が、少し震えている。
「じゃあ、詳しいことは帰ってきてから、ゆっくりと聞くことにするよ。今日はとにかくおつかれさま」
『ありがとうございます、圭太さん』
 携帯を切ると、いつの間にか柚紀が側にいた。
「結果、どうだったの?」
「ん、金管とサックスが金、木管が銀。だけど、全国はなし」
「そっか」
 柚紀は、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、複雑な表情で頷いた。
「前部長としては、どうなの?」
「たぶん、それぞれに今出せる精一杯のものを出せたはずだから、この結果でもいいと思うよ。結局は、まわりがどうこうじゃなくて、本人たちがその結果をどう受け止めるかだから。金賞取ったって反省ばかりかもしれないし、銅賞でも大満足かもしれない」
「確かにね」
「ただ……紗絵は、複雑な心境かもしれない」
「紗絵ちゃんは……そうかもね」
 柚紀も、紗絵の心情がある程度理解できるので、素直に頷いた。
「まあ、詳しいことは帰ってきてから直接聞くよ。それに、悔しい想いをしてるのは紗絵だけじゃないだろうし」
「そのあたりのフォローは、圭太に任せるわ。というか、圭太以外にはできないだろうし」
「そんなことはないと思うけど」
「なにはともあれ、無事に終わってよかったわね。これで圭太も安心できるでしょ?」
「そうだね」
 圭太は、あえて否定しなかった。
「さてと、私は夕飯を仕上げちゃうわね」
 そう言って柚紀は、台所へ。
「……引きずらなければいいけど」
 ひとりになった圭太は、少しだけ心配そうな顔で、外を見つめていた。
 
 次の日。
「ただいま」
 昼頃、アンコンに参加していた面々が帰ってきた。
「おじゃまします」
 紗絵と詩織も、家に帰る前に、圭太に報告するために一緒だった。
 三人とも、見た目はいつもと変わらなかった。
「まずは、三人ともおつかれさま。それと、よくがんばったね」
「ありがとうございます」
「結果は結果として大事ではあるけど、それよりも大事なのは、自分がどれだけがんばれたかだと思うから。精一杯やったのなら、それでいいと思うよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「それで、今年の関東大会は、どんな感じだったんだい?」
「えっと──」
 紗絵が、電話では話せなかった詳細について説明した。
 それを聞いた圭太は、なるほどと大きく頷いた。
「どうやら、コンクールで早々に落ちてしまったところが、アンコンに相当力を入れてやってきたみたいだね」
 いくつかの高校名を聞き、圭太はそう判断した。
「アンコンだけに照準を絞って、半年近くやってくれば、それなりの実力の高校でも、相当力がつくからね」
「先生もそのようなことを言ってました」
「だとすると、確かに全国というのは、厳しかったのかもしれない」
 冷静に分析すれば、そういう結論に至る。
 やはり、練習量の差は大きい。
「それでも、金管とサックスは金賞で、木管だって銀賞だから、これは大健闘と呼べるかもしれない」
 本当は大健闘などという言葉で終わらせたくはなかった紗絵たちではあるが、結果がすべてである。
「もちろん、負けて悔しいという気持ちは持っていていいんだよ。ほかのところに比べて練習時間が少なくても、その質さえ高ければ時間をカバーできるはずだし。実際、金管とサックスは並み居る強豪を押しのけての金賞だったわけだから、そのことを証明してると思うよ」
 圭太にそう言われ、三人とも少しだけ表情が和らいだ。
「紗絵はこれでようやく少しだけ肩の荷が下りたんじゃないかな。僕たちが引退してから、ずっと走り続けてきたわけだし」
「そうかもしれませんけど、まだまだ全然ですよ。これから四月までに、一年の底上げもしなければなりませんし、コンサートの曲も決めて練習に入らないとダメですから」
 真剣な表情でそう言う紗絵に、圭太は穏やかに微笑みかける。
「やらなければいけないことがあるのはわかるし、それをおろそかにしてはいけないのもわかるよ。ただ、このアンコンを区切りにして、学校でも学年末があって部活も休みなわけだから、少し気持ちを切り替えるための、そうだね、リフレッシュ期間のように考えてみたらどうかな」
「リフレッシュ、ですか」
「そう。どうせ部活が再開されたら、紗絵の肩には否応なく部長としての責務がかかってくるわけだし。それまでの間、すべてを忘れてというのは無理かもしれないけど、なるべくそこから離れて、次への英気を養う。それがいいと思うよ」
 圭太の言葉には、自分もそういう道を歩んできているからこその、不思議な力が込められていた。
 圭太に心酔している紗絵でなくとも、それを聞いたらそれが正しいと思ってしまうだろう。
「わかりました。どこまでできるかはわかりませんけど、なるべくそうします」
「うん、それがいいよ」
 話に区切りがついたところで、柚紀がお茶とお菓子を持ってきた。
「はい、みんな。お茶とお菓子でリラックスリラックス」
「ありがとうございます」
 それぞれお茶を飲み、緊張から解放された。
「実際に出てみてわかったけど、去年の圭兄たちが全国まで行けたっていうのは、本当にすごいことだったんだね」
「それはそうよ。どんな大会でも、全国大会ともなれば、生半可なことでは行けないんだから」
「うん。それを昨日、実感できた。だから、去年の圭兄たちが、どれだけすごかったのか再認識できたというわけ」
「まあ、全国金賞だからね」
 朱美と紗絵は、そんなことを言い、去年の圭太たちを賞賛する。
「来年は、琴絵ちゃんの番よね。どう、自信のほどは?」
 この場にいるメンバーの中で、来年も現役なのは琴絵だけである。
 自然と注目が集まった。
「えっと、まだわかりません。もちろん、お兄ちゃんたちや紗絵先輩たちに続きたいという気持ちはありますけど。こればかりは、まだなんとも言えません。そもそも、私がその場に立てるかどうかもわかりませんから」
「それもそうね。でも、出られるなら出て、ちゃんと結果も残したいと思ってるよね?」
「はい、それはもちろんです」
 琴絵の決意を聞き、話を振った柚紀はもちろんのこと、圭太たちも満足そうに頷いていた。
 そうやって良い伝統が受け継がれていくのは、とても大切なことである。
 結果は当然まだまだわからないが、またさらに先へと受け継がれていくのは、確実である。
 その一端を自分たちが担い、次へと受け渡せる。その喜びを圭太は感じていた。
「今日はゆっくり休んで、明日からはテストに向けてしっかり勉強すること」
「ええーっ、せっかくそれは忘れようとしてたのにぃ」
「ひどい点数を取って、部活ができなくなってもいいなら、僕はなにも言わないけど」
「ううぅ、圭兄のいぢわるぅ」
 もっとも、あまり堅苦しく考えなくとも、信頼する後輩たちなら、ちゃんとやってくれると思っていた。
 
 三
 二月十三日。
 ヴァレンタインを翌日に控えたその日は、朝からとてもよく晴れ、日中には気温が上がりそうだった。
「何時くらいに出かけるの?」
 琴絵と朱美が学校へ出かけ、朝の雑用を済ませたところで、柚紀が圭太に訊ねた。
「お昼前に来てくれということだったから、十一時過ぎくらいかな」
「じゃあ、それまでは時間があるんだね」
「そうなるね」
 それを聞き、柚紀は嬉しそうにポンと手を叩いた。
「じゃあ、ちょっとこっちに来て」
 柚紀は、圭太を伴って店の方へ向かった。
「圭太はそこで待ってて」
 圭太を席に座らせ、柚紀は厨房へ。
 そこで冷蔵庫を開け、なにか取り出した。
 皿にそれを盛りつける。
「実はね、圭太には内緒にしてたんだけど、今度、私の考えたケーキをお店で出してもらえることになったの」
 そう言って圭太の前に出したのは、確かにケーキだった。
「それで、まずは圭太にそれを食べてもらいたくて」
「なるほど」
 見た目は、ごく普通のケーキだった。
 スポンジケーキに生クリーム。トッピングは、ブルーベリーとラズベリーだった。
 圭太は、まずひと口食べてみた。
「ん、これは……」
「わかった?」
「これ、ミント?」
「うん。生クリームの中にミント混ぜてみたの。すっきりするでしょ?」
「確かに、すごくすっきりするね」
 圭太の反応がよかったためか、柚紀はとても嬉しそうだった。
「お義母さんにね、お店に出すケーキを作ってみないかって言われて、あれこれ考えてみたの。だけど、私には難しいケーキを作れるだけの知識もなければ、技術もない。かといって、今あるものと同じものでは意味がない。じゃあ、できる範囲内で工夫を凝らすしかないと思ったの」
「なるほどね。それでクリームの中にミントを混ぜたわけか」
「手軽にできて、なおかつ味で差を付けられるからね。それに、これだと甘いものが苦手な男の人にも受け入れられるでしょ?」
「そうかもしれないね」
 圭太は、ペロリとそのケーキを平らげた。
「母さんはなんて?」
「お義母さんは面白いって言ってくれたわ」
「そっか」
 圭太としては、琴美が認めているなら、自分が言うことはなにもないと思っていた。
『桜亭』のオーナーはあくまでも琴美である。その琴美が認め、決めたことに対して圭太が言えることはなかった。
「私ね、今回のことで思ったの。やっぱり、これから先のことを考えるなら、ちゃんとした知識と技術を身に付けないとダメだって。それが絶対条件じゃないことはわかってるけど、いざやりたいと思っても、どちらもないせいでなにもできないというのは、歯がゆいし不甲斐ないから」
「柚紀が考えて決めたことなら、僕は反対しないよ。むしろ、そこまで真剣に考えてくれて、感謝してるくらいだし」
「別に感謝なんて必要ないって。私は、圭太の妻となり、この高城家へ入った。だけど、今はまだ私になにができるのか、探ってる状況。私にしかできないということはほとんどないかもしれないけど、私にもできることならあると思うの。私がそれをすることで、お義母さんなり圭太なりの負担を少しでも軽減できたなら、それが私にとって、高城家での役割になると思うから」
 柚紀は、少しだけ真剣な表情でそう言った。
「まあ、そういうわけだから、圭太は温かく見守っててよ」
「了解」
 
 予告通り、圭太は十一時過ぎに家を出た。
 外は陽差しのおかげで、だいぶ暖かく感じられた。ただ、時折吹き抜ける風はまだまだ冷たく、春はまだ先と思わせた。
 住宅街の一角、ひときわ大きな家の前で圭太は立ち止まった。
 インターフォンを鳴らす。
『はい』
「あ、高城圭太です」
『あ、圭くん。ちょっと待っててね』
 すぐにインターフォンが切れ、それから少しして祥子が出てきた。
「いらっしゃい、圭くん」
 ニコニコとこぼれ落ちそうな笑みを浮かべ、祥子は圭太を家の中へと招き入れた。
 家の中は平日ということもあり、静かだった。
 居間に通されると、朝子が琴子と遊んでいた。
「こんにちは」
「いらっしゃい、圭太さん」
 と、琴子は圭太の姿を見ると、すぐさまハイハイで圭太の元へ。
「お、琴子、今日も元気だな」
「あ〜」
 琴子を抱き上げる。
「やはり琴子ちゃんは、圭太さんが一番いいようですね」
 多少淋しいところはあるのかもしれないが、無邪気に笑う琴子の姿を見ているだけで、明るく幸せになれるので、朝子も気分はよかった。
 祥子がお茶を用意している間、居間では琴子を抱いたままの圭太と朝子が話をしていた。
「最近の琴子は、どんな様子ですか?」
「このところハイハイが上手になって、ベッドにいないとどこへでも行ってしまうんですよ」
「それは、大変ですね」
「ええ。でも、子供はそれくらい元気がある方がいいんですよ。それに、そうやって自分であちこちへ動くことで、学ぶこともたくさんあるはずですから」
「なるほど」
 子供を三人育てた朝子だからこその言葉に、圭太も素直に頷いた。
「どうも琴子ちゃんは成長が早いようで、ハイハイだけじゃなくて、歩くのも話すのも早いかもしれません」
「それはそれで、ちょっと複雑ですね」
「ふふっ、確かにそうですね」
 親としては、子供の成長は楽しみではあるが、一足飛びに成長されると、その楽しいが半減してしまう。
 とはいえ、まったく成長しないというのも問題なので、心境としては複雑なのだ。
「お待たせ、圭くん」
 そこへ、お茶を用意して、祥子が戻ってきた。
「もうすぐお昼だから、今はお茶だけね」
「すみません」
 圭太がカップを持つと、琴子がそれに手を伸ばす。
「こら、琴子。これはダメ。熱くて火傷しちゃうぞ」
「あ〜、う〜」
 それでも必死に手を伸ばす。
「はい、圭くん。これ持たせておけばいいよ」
 祥子が琴子お気に入りのおもちゃを手渡す。
 おもちゃを持たせると、琴子は嬉しそうにそれをいじりだした。
 お茶をひと口含むと、カップを置いた。
「だいぶ髪も伸びてきましたね」
「うん。そろそろ切らないといけないとは思ってたの。長いといろいろできて楽しいんだけど、まだちょっと邪魔な感じだからね」
 圭太が頭を撫でると、琴子は嬉しそうに声を上げた。
「そういえば、圭くん。アンコンはどうだったの?」
「残念ながら全国へは三つとも行けませんでした」
「そっか」
「ただ、金管とサックスは金賞で、木管は銀賞でしたから。結果としてはよかった方だと思います」
「確かにそうだね。圭くんが入るまでは、関東大会にだってなかなか出られなかったわけだから、それを考えただけでも、金賞を取れただけですごい進歩だよね」
 自分も経験しているからこそ、祥子もそれがどれだけすごいか理解できた。
 もっとも、圭太はそれよりもさらに上の全国大会へ二年連続出場しているわけで、だからこそより理解できている。
「アンコンが終わって、いよいよ本格的に新体制による練習がはじまるんだね」
「そうですね。テストのあと、新入生が入ってくるまでの一ヶ月でどこまで全体の底上げができるか。それによって四月からの状況も大きく変わりますから」
「そこが、紗絵ちゃんたちの本当の力の見せ場になるわけか。圭くんとしては、どこまでできると思ってるの?」
「心配はしてませんよ。僕たちが引退してから、一高祭、アンコン、クリスマスコンサートと、立て続けに成功させてますから。目標があるなら、あとはそこへどうやって向かうかを考えればいいだけです。それが紗絵たちにならできると思ってますから」
 圭太の後輩たちに対する絶対の信頼は、これまでの練習態度や部活への関わり方をつぶさに見てきたからにほかならない。
 誰かに聞いたのではなく、自分の目で見て、耳で聞いて、その上で判断している。
 祥子も、去年の自分がそうだったと思い、今の圭太の心情が誰よりも理解できていた。
「あと、紗絵は三中の時に似たような状況を経験してきてますから。まわりの状況は違っても、やることはそう変わってるとは思いませんから」
「確かにね」
「さらに言うなら、後輩にとっては先輩たちから向けられる期待の眼差しというのは、自分たちの成長に必要なものだと思います。僕たちの時も、先輩たちからいろいろ期待されてましたからね」
「そう言われると、私たちの時もそうだね。引退した先輩たちに無様な姿は見せられない。そう考えて一生懸命練習したし」
 そうやってひとつひとつ確かめていくと、圭太が信頼している理由も、素直に頷ける。
「ただ、ひとつだけ心配なことがあるんです」
「心配なこと? それは?」
「先生が、新年度も一高にいるかどうかわからない、ということです」
「先生って、菜穂子先生のこと?」
「はい。先生自身も言ってましたけど、そろそろいつ人事異動があってもおかしくないって」
「ああ、そういえばそうかも」
「菜穂子先生が異動するのかしないのかで、四月以降の活動にも大きな影響があると思います」
「先生は、いろいろなことにも理解を示してくれてたし、なによりも指導のレベルも高いからね。その先生の代わりになるような先生が来てくれる可能性は、かなり低いと見なくちゃいけないか」
「ええ、それが現実だと思います」
 さすがに、なにもかも上手くいくというわけにはいかない。
 ただ、それでも前途はそれほど暗いとは言えない。それだけの実力を後輩たちは持っているのである。
「どうなるかはまだ誰にもわかりませんけど、どうなったとしても、なんとかやってくれると思います」
「うん、そうだね」
 ここでふたりがどれだけ話したところで、実際にどうなるかは、誰にもわからない。
「祥子さん。そろそろお昼の準備をした方がいいんじゃない?」
「あ、はい」
 話にひと区切りついたところで、朝子が祥子を促した。
「本当に圭太さんは、音楽が好きなんですね」
「そうですね。中学の時に吹奏楽部に入っていなかったら、今とはまったく違った道を歩んでいたと思います。きっとその道は今ほど充実したものにはならなかったとも思っています。そういうことを考えてみても、音楽に出会い、吹奏楽に出会えたことは、僕にとってとても幸せなことだったと思っています」
「なるほど」
「あと、吹奏楽部に入ったからこそ、様々な出会いがあったとも思ってますから」
 そう言って圭太は琴子の頬をつついた。
 その出会いの中には、当然祥子との出会いも含まれている。
 朝子もそのことは十分理解しているので、圭太の言葉も素直に受け取っていた。
「う〜」
「ふたりの子である琴子ちゃんも、そのうち音楽に興味を持つかもしれませんね」
「そうなったらそうなったで嬉しいですけど、琴子には自分のやりたいことをやってもらいたいです」
「それもそうですね」
 自分の父親と祖母がそんな話をしているとはつゆほども思っていない琴子は、無邪気におもちゃで遊んでいた。
 
 昼食のあと、圭太は祥子と琴子とともに、祥子の部屋に場所を移した。
「ほら、琴子。こっちだぞ」
「あ〜、あ〜」
「よし……よぉし、良い子だ」
 ハイハイで自分のところまで来た琴子を、圭太は抱き上げた。
「本当に圭くんがいると、琴子はいつも以上に元気だなぁ」
「おとなしすぎるよりはいいですよ」
「それはそうだけどね」
 確かに琴子は、圭太と一緒にいるととにかく元気にはしゃいでいるか、ぐっすりと寝ているかのどちらかである。
「きっと、普段比較的おとなしいのは、圭くんと一緒の時に思いきり甘えたいからかも」
「そうだとしたら、なかなか考えてるってことになりますね」
「私にとっては、将来考えなくちゃいけないことになりそうだけど」
 そう言って祥子は小さくため息をついた。
「まあ、まだ先のことであれこれ悩んでてもしょうがないよね」
「そのことに関しては僕はなんとも」
 圭太としては、そうとしか言いようがなかった。
「ところで、祥子」
「ん、どうしたの?」
「僕のカバンを取ってもらえますか?」
「うん、いいよ」
 祥子は、すぐ側に置いてあった圭太のカバンを圭太に渡した。
 圭太はカバンの中から、少し大きめの袋を取り出した。
「祥子。誕生日おめでとうございます。これはプレゼントです」
「ありがと、圭くん」
 祥子は、嬉しそうにそのプレゼントを受け取った。
「開けてもいい?」
「はい」
 袋を開けると──
「あ、帽子。わぁ、カワイイ」
 毛糸の帽子が入っていた。
 お世辞にも大人っぽいとは言えないデザインで、確かにカワイイ感じだった。
 もちろん、圭太はあえてそれを選んだのである。
「どうしてこれを?」
「いろいろ考えたんですよ。本来なら、祥子にはもう少し大人っぽいものの方が似合うと思うんですけど。でも、少し考え方を変えて、祥子と琴子、ふたりだったらどうだろうって。それで、それを選んだんです」
「そっか」
「今年の琴子の誕生日に、それと同じような帽子をプレゼントできればと思ってます」
「そこまで考えてたんだ。さすが、圭くんだね」
 祥子も、まさか圭太がそこまで考えていたとは思ってなかった。
 圭太としても、最初からそうしようと思っていたわけではなかった。
 ただ、自分の大切な人のためになにができるか。それを少し真剣に考えたら、結果的に今回のことになったわけである。
「かぶってみてもいいかな?」
「いいですよ」
 帽子をかぶる。
「どう?」
「もう少しだけ、大人っぽい方がよかったですかね。それはそれでカワイイんですけど」
 祥子は、鏡に自分の姿を写してみる。
「圭くんの言いたいこと、なんとなくわかるよ。でも、たまにはこういうのもいいかも」
「祥子が気に入ってくれたなら、僕はなにも言いません」
 祥子のために買ったものなので、その祥子が気に入ったのなら、圭太が改めて言うことなどなかった。
「ん〜、でも、圭くん」
「なんですか?」
「もらった私が言うのもなんだけど、圭くんの中では私ってこういうカワイイのも似合うという位置付けなんだね」
「カワイイのも似合う、じゃなくて、なんでも似合う、です。大人っぽいものからカワイイものまで。祥子ならなにを着ても、なにを身に付けても似合います」
「圭くんにそう言われちゃうと、その気になっちゃうよ?」
「ウソを言ってるつもりないですし、おだててるつもりもないですよ」
「……バカ」
 そう言って祥子は、圭太の寄り添った。
「琴子。琴子のパパはね、ちょっと恥ずかしいことでも真剣に言っちゃうパパなんだよ」
「あう〜?」
「琴子もきっと、大きくなったらパパの言葉にドキドキさせられちゃうかも」
 琴子の頬をつつきながら、そんなことを言う。
「あの、祥子。それをわざわざ琴子に言う必要はあるんですか?」
「だって、琴子のパパはこんな人なんだよ、って教えてあげないと、あとで困るかもしれないから」
 それはあくまでも建前でしかないのだが、圭太としてはそれ以上なにも言えなかった。元はと言えば、自分の言葉が原因となっているのだから。
「ふふっ、圭くんの困った顔が見たい、というのもあるんだけどね」
「それは……意地が悪いですよ」
「たまにはそういうのもいいでしょ? 私だって、いつもいつも『優等生』じゃないんだからね」
 そう言って笑う。
 もともと祥子にはかなわない圭太であるが、そんな風に言われてしまうと、ますますかなわなくなる。
「ね、圭くん。三人で、ちょっと外に出ない?」
「外、ですか?」
「うん。ずっと部屋の中にいるのもなんだし」
「いいですけど、暖かいというほどではないですよ、外は」
「いいのいいの」
 というわけで、圭太たちは外へ出かけることになった。
 今回は琴子はベビーカーである。ベビーカーも対面タイプなので、お互いの顔を確認しあえる。
「もうすぐ、卒業式だね」
「ええ」
「楽しみ? それとも、淋しい?」
「どちらも、ですね。晴れて卒業、という気持ちもありますし、もう少し一高生でいたいという気持ちもあります」
「そっか。圭くんでもそうなんだね」
 祥子は、なるほどと小さく頷いた。
「去年の祥子はどうでしたか?」
「私は、卒業自体は嬉しかったけど、圭くんとまた離れちゃうのだけはイヤだった。もちろん、離れ離れになるわけでもなかったから、少し大げさだったかもしれなかったけどね。それでもやっぱり、圭くんとはいつも一緒にいたかったから」
 それは、祥子に限らず、圭太に関わっている全員が考えることである。
 その心配をしなくていいのは、柚紀と琴絵くらいだ。
「だからね、鈴奈さんのあとに『桜亭』でバイトさせてもらえて、すごく嬉しかったの。圭くんだってずっと家にいるわけじゃないけど、少なくとも私が家にいるよりはお店にいる方が、会える回数は多いから。きっと、ともみ先輩にはそんな私の気持ちも、全部わかった上で、鈴奈さんと一緒に私を推薦してくれたんだと思うの」
「確かに、先輩ならあり得そうですね」
「そう。ともみ先輩はね、私にとって単なる部活の先輩以上の存在だから。言うなれば、もうひとりの『お姉さん』かな」
「それはよくわかります」
 ともみと祥子が一緒にいるところをよく見ていた圭太なら、それも理解できる。
「私ね、先輩が卒業した時に、考えたことがあったの。このままずっと、卒業しないでみんないつまでも一緒にいられたらいいのに、って。それが夢物語にすらなってないことは十分理解してたけど、いろいろなことを思い出すと、どうしてもそんなことを考えちゃって」
「それはきっと、祥子だけじゃないですよ。内容に差はあっても、誰もが一度くらいは考えてるはずです」
「圭くんも?」
「はい。先輩たちがいて、後輩たちがいて。そんな時間がずっと続けばいいのに、って何度も考えました」
 圭太の告白に、祥子はほんの少しの驚きと、それ以上の嬉しさを感じていた。
「そっか。よかった」
「でも、同時に考えました。変わらないことで得られるものもあるとは思いますけど、変わるからこそ得られるものもある、と」
「そうだね。それはよくわかるよ」
「だから今は、卒業というものを、素直に受け入れられると思います」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 圭太の卒業によって、実に様々なことに変化が生じるが、それもすべて必要なこと。
 最終的な判断は当分先にはなるが、少なくとも変化前からダメなことだと考えているよりは、とても建設的である。
「私たちにとっては、圭くんの卒業はひとつの区切りでもあるからね。どう捉えるかはそれぞれ違うだろうけど、それを機に新たな一歩を踏み出さないと」
 その一歩を踏み出すためには、圭太にもやらなければいけないことがあった。
 それは、それぞれとの関係をどうしていくのか、という答えである。
 圭太にとっては、それが一番最後まで残る問題だった。
「って、堅苦しい話題はこの辺にしておこうね」
「そうですね」
 その話題は、突き詰めていけばどこまでも続けていける。
 ただ、今それをする必要はない。
「ところで、祥子。僕たちは今、どこへ向かってるんですか?」
「ん、別にどこということはないよ。足の向くまま、気の向くままにね」
「つまり、散歩、ですね」
「そういうこと」
 微笑む祥子に、圭太も微笑み返す。
「親子三人、水入らずで散歩というのも、いいでしょ?」
「ええ、いいですね」
「もっとも、琴子はどこまでそれを理解してるのかはわからないけどね」
 お気に入りのおもちゃにご執心の琴子は、気にしている様子もない。
 そんな琴子を見て、ふたりは笑った。
 
「あら、祥子さん。どうしたの?」
 リビングで本を読んでいた朝子は、祥子がやって来たので声をかけた。
「ふたりとも寝てしまったので」
「仲間外れにされてしまったのね」
 そう言って微笑む。
 祥子はソファに座った。
「圭くんも琴子も、すごく気持ちよさそうに寝てるので、起こすこともできなかったんです」
「そう。でも、圭太さんが寝てしまうなんて珍しい」
「最初は琴子を寝かしつけようとしてたんですけど、そのうち自分まで寝てしまって」
「寝られるだけ、穏やかな気持ちになれたのね」
 祥子も、圭太が寝てしまったことに関してはとやかく言うつもりはなかった。
 普段からあれこれ忙しい圭太なので、自分のところにいる時くらいは、ゆっくりさせてあげたいと考えているからだ。
「それにしても、圭太さんは私が想像していた以上に、とてもよくできた好青年だわ」
「お母さまがそこまで手放しで褒めるのは、圭くんくらいですね」
「今だから言うのだけど、去年の春、あなたから妊娠したという報告を受けた時、確かに相手が圭太さんなら問題はないだろうと思ってはいたの。ただ、そうは言っても実際にどうなるかは、その時その時にならないとわからないのは当然。常に最善を尽くしてくれるとは思っていたけど、まさか私たちにほとんど口を出させないほどとは思っていなかったのよ。どれだけ優れていても、やはりまだ高校生。あれもこれもという風になってくると、どこかで必ず綻びが生じてくる。そう思っていたの」
「ところが、圭くんはそうならなかった、と」
「ええ」
 朝子は、嬉しそうに楽しそうに続ける。
「妊娠中の祥子さんに対する気の使い方、出産後の接し方。どれをとってみても、素晴らしいのひと言だったわ。祥子さんと圭太さんの関係が、最も望まれた形ではないとしても、その関係を今後も続けていくのに、なんら問題がないことは証明済み。私も、安心して見ていられるわ」
 自分の好きな人のことをそこまで認めてもらえて、祥子は本当に嬉しそうだった。
 同時に、自分の選んできた選択肢が間違っていなかったことも、再認識していた。
「もっとも、圭太さんがここへ来ると、琴子ちゃんを構ってあげられる時間が極端に少なくなるのが、玉に瑕ではあるけど」
「それは、あきらめてください。琴子にとっては、誰よりも一緒にいたいと思う存在が、圭くんなんですから」
「ええ、それはわかってるわ。ちょっと、愚痴をこぼしただけ」
 そう言って笑う。
「琴子ちゃんがあれだけ圭太さんにご執心なのは、やはり祥子さんの影響かしら?」
「さあ、それはわかりません」
「将来は、祥子さんと琴子ちゃんで圭太さんを巡って争うのね」
「……そんなことはありませんから」
 そうは言いながらも、それに近いようなことはあるのではと、祥子も考えていた。
「でも、実際、どう思っているの?」
「多少心配なところはあるにはあります。ただ、まだ生まれて四ヶ月ですから。なにを判断するにも、早すぎると思います」
「それはそうなんだけどね。じゃあ、質問を変えましょう。琴子ちゃんには、どうあってほしいと思ってるの?」
「多くは望みません。真っ直ぐに、健康に育ってくれれば、それだけでいいです。すでに琴子には、ほかの子にはない苦労をかけることが決まっていますから」
「そうね」
「苦労をかける分、私は琴子のためになんでもしてあげたいと思ってます。だから、多くは望まないんです」
 娘の決意を改めて聞き、朝子は小さく頷いた。
「これは私の勝手な予想なんだけど、きっと琴子ちゃんはとても良い子に育つと思うわ。もちろん、それには前提条件があるわ。それは、祥子さんと圭太さんが、たっぷりの愛情を注いで接し、育てることが条件ではあるけど。それには、自信があるでしょ?」
「はい、もちろんです」
「それなら大丈夫よ。それに、ふたりは結婚していなくとも、圭太さんは琴子ちゃんの父親であることを認め、その自覚を持って接してくれているのだから。そうしたら、ちゃんと事情を説明さえすれば、きっとわかってくれるわ」
「そうですね」
 祥子も、そうあってほしいとは思っていた。ただ、こればかりはどうなるか誰にもわからない。だから、朝子にそう言われて、少しだけ実際にもそうなるのではないかと、自信を深めた。
「ところで、祥子さん」
「なんですか?」
「ふたり目、は考えてないの?」
「ふたり目、ですか」
「ええ、ふたり目よ」
 朝子は、にっこり笑う。
「私はほしいとは思ってますけど、さすがに今度はそう簡単にはいきません」
「それもそうね」
「ただ、圭くんも考えてみるとは言ってくれてますから、希望がないわけではないです」
「あら、そうなの? それは、少し意外だわ」
「どうして意外なんですか?」
「圭太さんは可能性がないことに関しては、相手に希望を持たせるようなことは言わないと思ったから。圭太さんがそう言ったのなら、可能性は高いかもしれないわね」
「そう、ですかね?」
「ええ、きっとそうよ」
 朝子としては、自分の娘が幸せであってくれることを一番に望んでいる。とはいえ、可能性のないことを言ってぬか喜びさせることもない。
 だから、ある意味では朝子も圭太と同様にあることはあると言うが、ないことに関しては言わないのである。
 祥子も、少なくとも母親である朝子の性格は圭太の性格以上に理解しているので、そう言われて納得できる部分はあった。
「まあ、今はまだいいわ。今は琴子ちゃんのことで手一杯だものね」
「そうですね」
 祥子も朝子がそういうことを言い出した理由まではわからなくとも、母親だからこそ気になるところがあるのだろうと、漠然と理解していた。
 新米母親である祥子も、将来そんなことを考えるかもしれない。
「さて、そろそろお夕食の準備でもしましょうか。祥子さんも一緒にやる?」
「ええ、やります」
 今は、学べることはなんでも学ぶ。
 それが祥子の母親としての覚悟でもあり、意気込みでもあった。
 
 夕食後。
「圭太さん」
 朝子は、食器洗いを祥子に任せ、圭太に声をかけた。
「今日も祥子さんのためにわざわざ来てくれて、ありがとうございます」
「いえ、別にたいしたことではありません」
「そう言ってもらえると、とても助かります」
 そう言って微笑む。
「でも、圭太さん。これだけ祥子さんのために時間を割いて、大丈夫なのですか?」
「大丈夫ですよ。幸か不幸か、こういう時間の使い方は、かなり上手くなりましたから」
 圭太は苦笑する。
「こういうことを訊いていいのかわかりませんけど、圭太さんにとって祥子さんは、どのくらいの位置にいる存在なのですか?」
「難しい質問ですね。建前の答えは望まれてはいないでしょうし」
「そうですね」
「琴子がいるから、というわけではないですけど、やはり大切な存在です。現時点では、相当上に位置しています。さすがに何番という言い方はできませんけど」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
 朝子は本当に安心したようで、それは雰囲気からも伝わってきた。
「圭太さんもそのうちわかるようになると思いますけど、やはり自分の子供が一番カワイイのですよ。祥子さんが圭太さんの一番になれないのは理解していますが、それでもできるだけそれに近い位置にいてほしい。そう思っています」
「どこまで期待に添えるかはわかりませんけど、心に留めておきます」
「ええ、そうしてください」
 朝子が圭太を評価しているひとつの理由に、自分の身の丈にあった受け答えをしていることもある。自分を客観的に見て、どれならできて、どれならできないか。それを理解した上で、なおかつできるだけ上を目指そうと努力をしている。
 そういう姿があるからこそ、朝子は圭太をとても高く評価していた。
「ところで、圭太さん。実は、うちの人とひとつ、賭けというか、まあ、予想合戦みたいなことをしているんです」
「はあ……」
 いきなり話があらぬ方向へ進み、さすがの圭太も面食らった。
「その中身なんですが、琴子ちゃんが、一番最初に発する言葉なにか、というものなんです」
「琴子の言葉、ですか」
「今も声は発していますけど、それはまだ言葉にはなってませんから。ですから、声が言葉になった時、その言葉はなにかというのがとても気になって」
 圭太も、それには多少は同意できた。
 やはり自分の娘のことである。最初にどんな言葉を話すのかは、気になる。
「うちの人は、ご飯に関係することだと言っていて、私は祥子さんのことだと思っているんです」
「なるほど」
「圭太さんは、どう思いますか?」
「そうですね……」
 圭太は、腕の中の琴子を見た。
「希望としては、僕のことを言ってくれればとは思いますけど、接する時間を考えると、やはり祥子ではないかと思います」
「圭太さんは、そう思っているんですね」
「ふたりでなにを話してるんですか?」
 そこへ、食器を洗い終えた祥子が戻ってきた。
「ほら、以前に話をしていた琴子ちゃんが一番最初になにを話すのか、というのをね」
「ああ、あれですか」
 どうやら、祥子も周知のことらしい。
「圭太さんは、祥子さんのことだろうと言うのよ」
「圭くんはそう思ってるんだ」
「祥子はどう考えてるんですか?」
「私はね、まず間違いなく圭くんのことだと思ってるよ。なんて言うのかはわからないけど、圭くんに対する言葉だと思うよ」
 祥子は相当自信があるようだ。
「どうして私がそう思ってるのかというと、琴子はね、圭くんと一緒の時の方が、いない時に比べて遥かに多く、声を出しているの。きっと圭くんにはたくさん伝えたいことがあるんだよ。だから、きっと言葉もそう」
「祥子さんにそう言われると、私たちはそれに納得するしかないんですよ。でも、それだと賭けになりませんから」
「私は別になにを話してもいいと思ってるんですよ。それをお母さまとお父さまが面白半分に話を広げるから」
「別にいいじゃないの。それに、そういう風に考えていたら、実際に琴子ちゃんが言葉を発したら、とても嬉しいと思うのよね」
 それはそれで一理あった。
「いずれにしても、近い将来、琴子ちゃんが実際に言葉を発するまでの楽しみができたわけだから、私はいいと思うわ」
「まあ、それはそうですけど……」
 祥子としては、愛娘を賭けの対象にしてほしくないだけなのである。祥子自身も、琴子が最初になにを話すのかは、とても気になっている。
「ところで、祥子さん。時間はいいの? そろそろ陽子さんあたりが帰ってくると思うけど」
「え、あ、そうですね」
 時計を見ると、確かに普通に仕事を終えていれば、そろそろ帰宅時間という頃。
「じゃあ、圭くん。一度部屋に戻ろ」
 促されてリビングを出て廊下を歩いていると──
「ただいま」
 ちょうど玄関の方から、ドアの開閉音と声が聞こえた。
 それを聞いた祥子は、あからさまに落胆していた。
 その声の主を無視したいところなのだが、あいにくと祥子の部屋はそこよりさらに玄関に近い場所にあった。
 となると必然的に、その人物と遭遇することになる。
「ただいま、祥子」
「……おかえりなさい」
「それと、いらっしゃい、圭太くん」
「どうも、おじゃましてます」
 その人物──陽子は、にこやかに声をかけてきた。
 仕事に出ていたので、動きやすそうなパンツルックだった。
「もう帰る、わけじゃなさそうね」
「ええ、まあ……」
「お姉さま、もういいですか?」
 すかさず祥子が話に割って入ってくる。
「なによぉ、ケチケチしないで少しくらい姉のために時間を割きなさいって」
「そんなことしたら、お姉さまはいつまで経っても圭くんを解放してくれませんから」
 さすがに圭太のことになると、祥子も一歩も退かない。
「わかったわよ。だから、そんなににらまないの。そんな顔してると、琴子ちゃんに悪影響が及ぶわよ」
「誰のせいで……」
「はいはい。じゃあ、圭太くん。また改めてゆっくり話しましょう」
「はい」
 陽子はそのまま自分の部屋へ消えた。
「まったく、お姉さまは……」
 祥子は、部屋に戻ってからも、まだ少し不機嫌そうだった。
 圭太も、いつもなら祥子をなだめるのだが、今日は祥子の誕生日ということもあって、それは控えていた。
 と、ドアがノックされた。
「祥子。ちょっといい?」
 今度も陽子だった。
 祥子は渋々ドアを開けた。
「今度はなんですか?」
「すぐ終わるわよ」
 そう言って部屋の中へ。
「はい、圭太くん。一日早いけど」
 圭太に渡したのは、ひと目でそれとわかるものだった。
「本当は明日、祥子から渡してもらおうと思ってたんだけど、今日、せっかくいるわけだから、直接渡そうと思ってね」
「ありがとうございます」
「ううん、いいのいいの。どうせ今年も本命チョコはないんだから。あ、むしろそれが本命かも」
「お姉さま」
「はいはい、余計なことは言わないわよ」
 祥子ににらまれ、陽子は軽く肩をすくめた。
「お返しは別に気にしなくていいから。圭太くんなら、お返ししなくちゃいけない相手がたくさんいるだろうし。まあ、それでも、と言うなら遠慮なくもらうけど」
「来月までに考えておきます」
「うんうん、圭太くんは素直でいいわ」
「……どうせ私は素直じゃありませんよ」
「昔は祥子もとっても素直だったんだけどね。小さい頃なんか、私の後ろについて『おねえちゃま、おねえちゃま』といつも一緒だったし」
「そ、そんな昔のこと、忘れました」
「基本的に祥子は末っ子の典型だったから、いつも誰かと一緒にいたのよね。その中で私が一番年が近かったから、一緒にいる時間も自然と長くなったの」
 普段はなかなか聞けない、祥子の昔の話である。圭太も祥子に悪いとは思いつつも、もっと知りたいという欲求の方が勝っていた。
「ところが、そんな祥子もある時を境に必要以上に甘えることがなくなったのよね。いつのことかわかる?」
「えっと……中学入学頃ですか?」
「ん〜、惜しい。中学というのはあってるんだけど、さらに細かい時期が違うのよ。まあ、圭太くんも薄々気付いてるとは思うけど、中二の頃よ。ようするに、圭太くんと部活で一緒になってから。気になる異性である後輩の圭太くんに少しでも良い自分を見せようと、そういう癖をなくそうと思ったのね。で、その頃から祥子は自己主張するようになって、だんだんと素直じゃなくなっていったわ」
 それはある意味では成長とも言えるものである。
 子供から大人へ。その過程で起きたことである。
「ただ、誤解しないでほしいのは、祥子はもともと良い子過ぎたのよ。だから、そうやって変わってちょうどよくなったくらいなの。あと、祥子は昔も今も、とてもできた妹よ」
 そう言って微笑む。
 祥子としては、そうやって締めくくられてしまうと、のどまで来ていた文句も言えなくなってしまう。
「祥子の子供の頃のことが聞きたくなったら、遠慮なく言ってね。いくらでも教えてあげるから」
 陽子は、そう言い残して部屋を出て行った。
「圭くん」
「な、なんですか?」
「お姉さまに聞くなとは言わないけど、あまり余計なことは聞かないでね。あと、お姉さまがすべて真実を話してるとも限らないということも、覚えておいてね」
「覚えておきます」
 祥子も、無理に圭太を止めるつもりはなかった。それは、自分も圭太の昔のことが知りたいのと同じで、圭太も自分のことを知りたいと思ってもおかしくないと思ったからだ。
「それにしても、お姉さまもずいぶんとマメだなぁ。いくら今は彼氏がいないからって、わざわざ圭くんにチョコを用意してたんだから」
 陽子のチョコは、ラッピングから見てもそれなりに値の張りそうな、だけどセンスのあるものだった。
「これだけマメにできるなら、彼氏がいた時にそれを発揮すればよかったのに」
 圭太との時間を邪魔され、さすがの祥子も機嫌が悪い。
 言葉にも、いつも以上にトゲがある。
「なんて、いつまでも愚痴っててもしょうがないね。時間は有限なんだから」
「そうですね」
「というわけだから、琴子にはこの辺で退場してもらって」
 圭太の腕の中でうとうとしていた琴子を、ベビーベッドに寝かせる。
「あの、祥子」
「ん?」
「琴子が寝てる間に僕が帰った時って、起きたあとはどうなんですか?」
「その時によってまちまちだよ。特に気にしてない時もあれば、圭くんの姿を探して泣き出すこともあるし。どんな時にどんな風になるのかまでは、さすがにわからないなぁ」
「そうですか」
「やっぱり気になる?」
「気になりますよ。しょうがないこととはいえ、淋しい想いをさせてしまいますから」
 圭太は、琴子の頬を撫でた。
「琴子がもう少し大きくなったら、側にいさせてやることも簡単にできるんですけどね」
「琴子なら、ずっと圭くんの側に居着いちゃいそう」
「それはちょっと困りますけど、淋しい想いをさせない程度には、一緒にいられればと思ってます」
「そういうことは、琴子がいろいろな事情がわかってきてからにしよう。そうしないと、あとでいろいろ面倒なことになりそうな気がするから」
「それもそうですね」
 理解する前になんでもやってしまうと、あとで訂正するのが面倒になる。
 特に心情に絡むことは。
「僕も、父親としてもっともっと真剣に、あらゆる可能性を考えていかないといけないですね。少なくとも今のままでは、なし崩しという感じですから」
「それがわかってるなら、大丈夫だよ。そのことを常に考えていれば、取り返しのつかなくなるようなミスはしないだろうし。それにね、圭くん。子育てはひとりでやるものじゃないよ。私だっているし、うちにいる時はお母さまもいる。圭くんのうちにいる時は、琴美さんだっているんだから。そういう状況にあれば、そうそう問題なんて起きないよ」
「そうですね」
「で、琴子のことを真剣に考えるのはいいんだけど、私のことも少しは考えてほしいなぁ。私なんて、いつも頭の片隅では圭くんのことを考え続けてるんだから」
「すみません。別にないがしろにするつもりはないんですけど」
「わかってるよ」
 祥子は微笑み、圭太の頬にキスをした。
「圭くん。一緒にお風呂に入ろ」
「わかりました」
 圭太も琴子のことは気にはなるが、今日はあくまでも祥子の誕生日である。
 主役のために尽くすのは、当然のことだった。
 もっとも、圭太が祥子を含めて誰かのために尽くすのは、いつものことではあるのだが。
 そのいつものことが、とても大事だった。
 
 四
 今年もまた、ヴァレンタインがやって来た。
 以前に比べてその意味合いは少し変わりつつあるが、それでも世の中の女性が男性に想いを伝える絶好の機会であることには間違いなかった。
 それは片想いに限らない。彼氏がいても、夫がいても、日頃なかなか伝えられない想いを伝えるのに、ヴァレンタインそのものが口実となる。
 そんな少々浮ついた雰囲気があるのが、二月十四日のヴァレンタインである。
 
 圭太は、いつもとほぼ同じ時間に起きた。
 前日は祥子の誕生日ということもあり、ほぼ一日祥子と琴子につきあっていたのだが、それでもその生活リズムを崩すことはない。
 まだ隣で寝ている柚紀を起こさないように、そっと部屋を出た。
 多少暖かい日が出てきているとはいえ、朝晩はまだまだ冬の寒さが身に染みる。
 自然と体が縮んでしまうのをなんとか堪え、まずはリビングに暖房を入れた。
 その間に顔を洗い、新聞を取ってくる。
 部屋が暖かくなってきた頃に、まず琴美が起きてきた。
「おはよう、圭太」
「おはよう」
 琴美は、あくびをかみ殺しながらリビングに入ってきた。
「昨日の今日だから、もう少しゆっくり寝てればいいのに」
「さすがにそういうわけにはいかないよ。それに、そんなことばかりしてしまうと、いざという時に体がついてこない可能性もあるし」
「まあ、あなたがいいならいいけど」
 そう言いながら琴美は洗面所へ。
 そのまま台所へ移動し、朝食の準備をする。
 一階での音が大きくなってくると、寝ていた三人が立て続けに起きてくる。
 今日は最初に起きてきたのは、朱美だった。
「ふわぁ、圭兄、おはよ〜」
「おはよう、朱美」
「今日も寒いねぇ」
「寒いけど、ちゃんと冷たい水で顔を洗うこと」
「はぁい」
 次は、柚紀。
「おはよ、圭太」
「おはよう、柚紀」
 柚紀は、一度リビングのソファに座った。
「圭太は昨日の今日なのに、もう起きてるんだね、やっぱり」
「まあね」
「私だったら、もうちょっとゆっくり寝てるんだけどなぁ」
「それぞれのリズムというのもあるから」
「そうかもしれないね」
 そして一番最後は、琴絵。
「お兄ちゃん、おはよう」
「おはよう、琴絵」
 今日はいつもに比べて、しっかり起きていた。
「朱美ちゃんはもう起きてる?」
「起きてるよ。先に店で準備をしてもらってる」
「じゃあ、私も顔洗ったら、行くね」
 このところ、朝の仕込みは琴絵と朱美を中心にやっていた。
 これはふたりからの提案で、これから先、柚紀が出産間近、さらに出産直後は圭太もなにかと忙しくなる。その時になって慌てて圭太の分をやろうとしても、さすがに厳しいものがある。だから、事前にふたりである程度できるようにしておこうと、圭太と琴美に提案したのである。
 圭太としては、どういう状況にあっても店のことだけはないがしろにするつもりはなかったのだが、ふたりのやる気を殺いでしまうのも問題と判断し、好きなようにさせていた。
「こうして毎朝の状況を見てると、圭太がお義父さんの代わりを務めていたというのも、よくわかるのよね」
「そう?」
「うん。今の圭太は、一家の大黒柱、という感じだから」
 柚紀は、にっこり微笑む。
 やはり、自分の夫が頼れる存在というのは、気分がいいようだ。
「だけどさ、圭太」
「ん?」
「朱美ちゃんには、どこかでその役目をこっちに渡してもらわないといけないわね」
「受験生だからね」
「部活もやって勉強もやって、その上お店の手伝いまでやって。それで合格できるのは、圭太くらいよ」
「僕としても、いつまでも朱美に負担をかけさせるのは本意ではないよ。来年のことはまだわからないけど、すべて上手く進めば、来年の春には朱美はうちでの居候生活も終わるわけだし」
「そうなんだよね。なんか、すっかり朱美ちゃんがいる生活に馴染んでるから、居候だという感覚がないのよね」
 圭太ですら、特に意識していなければ、朱美が居候だという事実を忘れることもある。
 柚紀ならなおのことだ。
「朱美ちゃんは、卒業したらどうするつもりなんだろ?」
「どこの大学へ行くかによって変わるだろうね。ただ、どうなったとしても、うちでの居候生活は終わるけど。これは約束だから」
「難しいね。地元の大学へ進学しても、実家からでも十分通えるんでしょ?」
「そうだね。わざわざうちにいる必要はないね」
「となると、今のところ朱美ちゃんに打つ手はなし、ということか」
「最終的にどうするかは、朱美自身が決めることだから。もちろん、相談には乗るけど」
「朱美ちゃんとしては、どうやったら圭太と離れずに済むかを必死に考えるだろうけど、こればかりはかなり厳しいと思うわ」
「まあね。実際、一高だって吹奏楽部に入ってなければ、実家から通ってただろうし」
「現在は圭太とひとつ屋根の下でかなりアドバンテージがあるけど、来年はそれを一気に失うわけか」
 人ごとながら、柚紀も同情気味だ。
 もっとも、自分たちのこれからの生活のことを考えると、いつまでもいてもらうというわけにもいかない。
「今からそのことを話してもしょうがないし、そもそも僕たちだけで話すのはもっと意味がないよ」
「確かに」
「それでも、柚紀も朱美のことを気にかけてくれてるというのがわかって、僕は嬉しいよ」
 そう言って圭太は微笑み、そのまま店の方へ。
「気にかけてるは気にかけてるけど、たぶん、圭太が思ってるのとは違う意味だと思うのよね」
 柚紀は、ぽつりとそう呟き、琴美の手伝いのために台所へ向かった。
 
 琴絵と朱美が学校へ行くと、店を開けるまでの間、少しだけのんびりできる。
「はい、圭太」
 掃除、洗濯を終えてリビングでくつろいでいると、琴美がやって来て圭太の前に包みを置いた。
「今年も愛する息子へ、チョコレートよ」
「ありがとう、母さん」
 今年の琴美のチョコも、かなり気合いが入っていた。
「お義母さんと比べられるとちょっと困るけど、はい。これは私から」
「ありがとう、柚紀」
 当然、柚紀のチョコも気合いが入っていた。
 それはラッピングひとつ取ってもすぐわかった。
「開けてみてもいいかな?」
「どうぞどうぞ」
 圭太は、丁寧にラッピングを外していく。
 現れたチョコは、一口大のチョコだった。
「今年は、食べやすさを重視してみたの。それと、甘さ控えめだから」
「それはありがたいな」
 そう言いつつ、まずはひとつ。
「どう?」
「うん、美味しいよ。甘さ控えめで」
「よかった」
「あとは……少しお酒が入ってるのかな?」
「うん。ブランデーをちょっと。やっぱりチョコとお酒の相性は抜群だから」
「なるほどね」
 柚紀の腕前なら失敗などあり得ないのだが、それでもこうして圭太に喜んでもらうまでは、心配だった。
 だから、今目の前で本当に美味しそうにチョコを頬張る圭太を見て、柚紀は心の底から嬉しかった。
「圭太と柚紀さんて、いつまで経ってもそういうところ、初々しいわね」
「そう?」
「そうですか?」
「普通は、つきあいが長くなると新鮮味というか、いろいろ適当になってくるのに」
「母さんもそうだった?」
「そうね。私たちもそうだったわ。もっとも、それは主に祐太さんの方だったけど。私はいつまでも気持ちだけはつきあいはじめの頃のままでいようと思ってたから」
「あ、それは私もです。慣れることが悪いとは思いませんけど、それでもできるだけなにをしても新鮮に思えたら、きっと日々の生活も充実すると思うんです」
「そうよね、やっぱり」
 柚紀と琴美は、お互いに同じことを考えていたことで、すっかり盛り上がっている。
「ただですね、お義母さん。圭太も最近は適当な部分が多くなってるんですよ。私個人としては、過剰な反応は必要ないですけど、それなりにしっかりとした反応があるといいと思ってるんです」
「……無茶苦茶な」
「無茶じゃないでしょ? 以前はできてたんだから、ほんの少し、気持ちを変えればいいだけなんだからさ」
「まあまあ、ここで言い争ってもしょうがないわ。そういうことは、ふたりきりの時に改めてすればいいわ」
 いくら琴美でも、目の前でそういうことばかりされると、さすがにあれこれ考えてしまう。早い話が、あてられてしまうのだ。
「母さんから見て、僕たちってどんな風に見える?」
「ん、そうね……いいか悪いかは別として、まだ夫婦には見えないかも。特別仲の良い恋人同士、という感じかしらね」
「なるほど」
「でも、それはしょうがないと思うわ。他人が受ける印象は、その人からにじみ出てくるオーラみたいなものを感じ取って、頭の中で変換してのものだから。形の上ではふたりは夫婦だけど、まだ日は浅いし、夫婦であるという特別なことがないから、どうしてもそうは見えないのかもしれないわね」
 琴美の言葉に、柚紀も頷く。
「四月に子供が産まれれば、自然とそうなってくるだろうけど」
「そこから先は、様々なことを経験して、積み重ねて、というわけですね」
「そう。一足飛びになんでもできるわけじゃないから」
 圭太も柚紀も頭の回転が速いので、琴美の言わんとしていることもすぐに理解できる。
「そういえば、明日は学校へ行くのよね?」
「ああ、うん、行くよ。登校日だからね」
 この圭太の言う登校日とは、夏休みなどにあるようなものと似て非なるものである。
 受験生である三年にとっては、勉強や試験より大切なものはない。
 早々に推薦で進学を決めているなら話は別だが、そうでもない限りは、やはり優先順位は下となる。
 それでも登校日があるのは、ひとつには担任など三年担当の先生が、生徒たちの状況を把握するためである。
 推薦だけでなく、私立大学のみ受けて、そこに決めてしまってる生徒もいるので、誰がどうしたのかを確認しておく必要がある。
 もっとも、この登校日は強制ではないので、無理に行く必要はない。
「柚紀さんは、明日は検診ね」
「はい」
「ということは、久々にともみさんたちにがんばってもらわないと」
「先輩たちには、僕の方からもお願いしてあるから問題ないよ」
「あら、ずいぶんと気が利くのね」
「ここ最近は、ずっと僕たちが午前中に入ってたから。代わってもらうなら、ちゃんと事前に話しておかないと問題だよ」
 圭太はこともなげに言うが、それを実際にスムーズにできる者は、そう多くない。
 ある程度慣れが必要だし、なによりもまわりに対する気配りができないと、とても無理である。
「だけど、今年は学校へ行くのが明日でよかったわね」
「ん、どうして?」
「だって、今日だったらたくさんのチョコをもらってくることになるでしょ? 明日なら、さすがにもらったとしてもそう多くないだろうし」
「ああ、そういうことか。確かにそうだとは思うけど」
「それとも、もらえなくて残念と思ってる?」
「それはないよ。むしろ僕なんか本当にもらっていいのかって思うし」
「まあ、誰に渡すのかは、本人の主観によるところが大きいから。たとえそれが本命でも義理でもね」
「そうは思うけど、でもさ、実際問題申し訳ないと思うよ。僕は結局なにもしてあげられないんだから」
 そう言って小さくため息をついた。
「そのあたりは、きっと圭太には一生理解できないかもしれないわね」
「すべて理解できてしまったら、さらに困ることになりそうだから、いいよ」
「そうね。とりあえず、今あなたの側にいるみんなの気持ちをもう少し理解する方が重要ね」
「それはそれで、大問題だけど」
「半分は自分でまいた種でしょうが」
「わかってるよ」
「返事だけじゃなくて、行動でも示すのよ?」
「はいはい」
 圭太は、肩を軽くすくめた。
 
 午後になると、すでに講義も試験も終わっている大学生の三人がやって来た。
「最近というか、ここ数年で特に思うんだけど、チョコ作りって本命がいた方がある意味では楽ね。義理だと所詮義理でしかないって思っちゃって、どうしても適当になる部分があるし。でも、本命ならそんなことはない。それにさえ気合いを入れて、しっかり作ればいいんだから」
 ともみは、温かい紅茶を飲みながら、そんな持論を展開した。
「それはまあ、ある意味では正しいかもしれないわね。だけど、本命だからこそ、というのもあるとは思うわ。気合いは入るけど、それを失敗したら相当へこむだろうからね」
 幸江は、ともみの意見に一部同意しながらも、違う切り口で展開した。
「それを言い出したらキリがないわ。私が言いたいのはようするに、義理チョコを何個も作るより、本命チョコをひとつだけでもちゃんと作る方がいいってことなんだから」
「もっと要約すると、単に面倒なのがイヤなんでしょ?」
「……うん、今日もいい天気ね」
 あからさまに誤魔化すともみに、幸江は肩をすくめた。
「そういえば、祥子。琴子ちゃんの分は、琴子ちゃんはなにかしたの?」
「私もいろいろ考えたんですけど、さすがにチョコ作りでは琴子の出番はなかったんですよ。下手に触らせるわけにもいきませんし。かといって、まだ型に流し込むのでさえできませんから」
 祥子は、琴子をあやしながら答える。
「じゃあ、琴子ちゃんの分は、すべて祥子がやったわけか」
「はい。ただ、来年以降はできそうなことがあれば、少しずつやらせてみるつもりではいます」
「そうね。その方がいいかもしれないわね」
 ちなみに、今祥子が琴子をあやしているのは、圭太が店の方にいるからである。
 いつもなら、圭太がいる時はもう片時もその側を離れようとしない。無理矢理離そうとすれば、最悪泣き出して抵抗する。
「これでもし柚紀の子も女の子だったら、大変なことになるわね」
「大変どころの騒ぎじゃないんじゃない? 圭太のことになると退けなくなる人が多いから。それがたとえ赤ん坊相手でもね」
「すでにその一端は目撃してるか」
 ともみと幸江は、琴子が生まれてからの様々な出来事を思い返している。
「でも、先輩たちは来年はそこまでの余裕はないんじゃないですか?」
「まあね。さっさと就職先を見つけないと、やりたいこともやれないから」
「ちなみに、どうしようと思ってるんですか?」
「ん〜、私はさすがに司法試験を受けられる実力はないから、普通にどこかに就職かしらね」
「幸江先輩は?」
「私はすでにいくつかの企業に絞り込んではいるわ。説明会もちらほらはじまってるし」
「ちゃんと準備してるんですね」
 祥子は、改めてこのふたりの優秀さに感心した。
「あ、そうすると、バイトはどうするんですか?」
「ああ、それはもうすでに大まかなことは琴美さんには話してあるの。ほら、今は圭太と柚紀が手伝える状況にあるじゃない。もちろん、柚紀が出産してからしばらくの間はその体制を維持するのは難しいでしょうね。だから、柚紀が戻ってくるまでの間はできる限り入って、最終的には辞めることになるわ」
「やっぱりそうなりますね」
「それはしょうがないわ」
 確かに、バイトよりも就職の方が大事である。就職先が決まれば憂いなくできるのだが、そう上手くいくか。
「で、これは私の勝手な意見なんだけど、祥子はできれば続けた方がいいと思うのよ。というか、復帰かしらね。そりゃ、ほかに優先すべきことがあるならそうした方がいいけど、もしそういうのがないのであれば、バイトを続けた方がなにかと都合がいいと思うのよ」
「それは具体的にはどういうことですか?」
「まず、圭太の側にいられるでしょ。まあ、これは祥子に限ったことじゃなく、みんなに当てはまることだけど」
「そうですね」
「もうひとつが、琴子ちゃんのこと」
「琴子、ですか?」
 祥子は、琴子を見た。
「一年くらいでどうこうなるわけもないけど、それでも父娘はできるだけ一緒にいた方がいいと思うの。だけど、なにもないのに来るのはさすがに問題でしょ? 琴美さんなら全然問題ないって言うと思うけど。じゃあ、大手を振って来るにはどうしたらいいか。そうなるとバイトというのは、ちょうどいいと思ってね」
 それはそれで納得できた。ただ、祥子にはわからないことがあった。
「それはわかりましたけど、先輩がそこまで言う理由はなんなんですか?」
「ん〜、なんていうのかしらね。圭太は後輩であり、大切な人でしょ。祥子も後輩であり、なおかつ大事な『妹』みたいな存在だから。そのふたりにとってなにがいいことなのかって考えたら、さっきの結論に達したのよ」
「なるほど」
「あと、もう少し表向きな理由を付け加えるなら、私と幸江が辞めてしまって、それで迷惑がかからないように、というのもあるわ。当然だけどね」
 ともみの理由は、とてもわかりやすかった。
 祥子もそういう理由があるなら、その通りにするのも問題ないと考えていた。
「最終的にどうするのかは、祥子が決めればいいわ。私たちだって今すぐに辞めるわけじゃないんだから」
「そうですね」
「やっぱりともみは、基本的に『姉気質』なのね」
 と、それまで黙って話を聞いていた幸江が口を挟んできた。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。祥子や圭太のこととなると、途端に『姉』になっちゃう。悪いことだとは思わないわ。もともと先輩後輩の関係なんて、兄弟の関係の変形版みたいなものだし。ただ、ともみは私なんかよりもそういうところが強いのよ」
「私は特別そうは思わないけど」
「そりゃ、本人はそう思ってるでしょうね。そういうのは、基本的にまわりの人の印象だから」
 まだ少し納得できていないようなともみだったが、それ以上はなにも言わなかった。
「すみません。お待たせしました」
 とそこへ、圭太がやって来た。
「急いでるわけじゃないから、別にいいわよ」
「すみません」
 圭太は、三人の前にケーキを並べた。
 ちなみに、三人に琴子の分を含めたチョコは、すでに圭太に手渡っている。
「あ〜、う〜」
「ほら、琴子。抱っこするから」
 圭太の顔を見るなり必死に手を伸ばしていた琴子を、圭太は抱き上げた。
「琴子ちゃんも、昨日、今日と立て続けに圭太と一緒にいられて、ずいぶんとご機嫌ね」
「機嫌がよすぎると、損ねた時に大変なんですけどね」
「それも子育てでしょ?」
「わかってますよ」
 祥子は嘆息混じりに頷いた。
「そういや、圭太。琴絵ちゃんたちは、早く帰ってくるんだっけ?」
「ええ、テスト前で部活がないですからね。だいぶ早く帰ってくると思いますよ」
「ちなみに、チョコはもらったの?」
「いえ、まだです」
「なるほど。となると、それも含めて早く帰ってくるわね」
「なに、ともみは誰かに用でもあるの?」
「そういうわけじゃないわ。ただ、ちょっと気になっただけ」
 そう言ってともみは紅茶を飲んだ。
「柚紀からはもらったの?」
「ええ。朝の段階ですでに」
「今年は、大本命が最初に渡したというわけか。となると、圭太としてはほかをもらう気持ちの余裕があるんじゃない?」
「そんな大げさなものはありませんけど。それでも、柚紀からもらえると安心できる、というのはあります」
「それは意味深な言い回しね」
「深い意味はありませんよ?」
「そういうことにしとくわ」
 圭太としては、誰からどの順番でもらっても、それほど大きな影響はないと考えていた。ただ、ともみの言う通り、柚紀から早々にもらっているというのは、ほかに対して余裕が生まれる要因になっている。
 もっとも、普段の圭太なら誰にもらっても顔色ひとつ変えないだろうが。
「あ、そうだ。すっかり確認するの忘れてたわ」
「なにをですか?」
「卒業式の日って、なにかする予定ある?」
「卒業式ですか? いえ、特にこれといってないですけど」
「じゃあ、みんなで卒業記念パーティーでもやりましょ」
「たまにはともみもいいこと言うわね」
「たまには余計よ」
 ともみは手を振り上げ、叩く真似をする。
「で、どう?」
「ええ、いいと思います。というか、僕はされる側なので、異論はありません」
「圭太がOKなら、柚紀と凛も問題なしね」
「場所は、やっぱり『桜亭』?」
「人数ややることを考えたら、ベストの選択でしょ?」
 ともみと幸江は、どんどんと話を進めていく。
「圭くん。ホントによかったの?」
「構いませんよ。それに、賑やかな方が楽しいですから」
「でも、なにもなければ、家族だけでやってたんじゃないの?」
「たぶんそうですね。それでも、祥子も知っての通り、うちはみんな賑やかな方が好きですから」
「それならいいけど」
 祥子も圭太の卒業を祝ってあげたいのだが、やはり家族のことは別である。それを優先したいと言われたら、当然そうするべきである。
 だからこそ確認したのだ。
「時間は、やっぱり夜よね?」
「それしかないでしょ。その前に時間が取れるわけないんだから」
「よし、決定ね」
 ようやく話が終わったようだ。
「というわけで、圭太。当日の夜にやろうと思うんだけど、いい?」
「ええ、いいですけど」
「けど?」
「すみません。ひとつ、失念してました。僕やうちの家族はいいんですけど、柚紀の家族はどうなのかなって」
「ああ……」
 それには誰も気付かなかったようである。
「なので、それを確認するまで保留ということでいいですか?」
「それはいいわよ。というか、別に無理に当日にやらなくてもいいんだから」
「わかりました」
 そんな話をしていたら、もうひとりの当事者である柚紀がやって来た。
「圭太、そろそろ交代の時間」
「あ、そうだね」
 圭太は琴子を祥子に渡し、店へ戻った。
「ふう……」
「そろそろいろいろきついんじゃないの?」
「まあ、たまにきついこともありますけど、だからといって動かなくなるのも問題ですから」
 そう言って柚紀は微笑む。
「祥子もそうだったの?」
「そうですね。私もできるだけ体は動かすようにしてました。もちろん、無理をしない程度に適度にですけどね」
「なるほどね」
 ともみは大きく頷いた。
「ところで、なんの話をしてたんですか?」
「ん、卒業記念のパーティーをやろうって話」
「パーティーですか」
「そ。せっかくだし、どうかなって思って」
「圭太はなんて?」
「構わないとは言ってたけど、ひとつ確認しなくちゃいけないことがあるって」
 柚紀は首を傾げた。
「圭太が気にしてたのは、柚紀の家族のことよ。普通はそういう晴れの日には、家族でお祝いするでしょ?」
「ああ、そういうことですか」
「で、とにかくそれを確認しなくちゃ決められないということで、結論は保留になったのよ」
「それなら、私に訊けばよかったんですよ。そうすればすぐに結論を出せたのに」
「まあまあ、そう言わない。別に急いで決めなくちゃいけないことでもないんだから」
「それはそうですけど。とりあえず、うちの家族は気にしなくていいですよ。どうせ当日はお父さんも仕事がありますから。むしろ、パーティーを先にやって、うちは週末にというのがベストですね」
「なるほど。そういうこともあったか」
 あまり曜日まで気にしていなかったのか、そこまでは気が回らなかったようである。
 曜日さえ把握していれば、もちろん確認は必要だっただろうが、おそらく問題ないという結論に至っていただろう。
「じゃあ、当日の夜にパーティーってことで話を進めてもいい?」
「ええ、いいですよ。そのあたりはお任せします」
 つい先ほど保留された話が、あっという間に決まった。実際、決まる時などこんなものである。
「卒業式が終わったら、柚紀も実家に戻るの?」
「いつ、というのはまだちゃんと決めてませんけど、そうします」
「その間、圭くんは?」
「さすがにずっと一緒にいてもらうのも難しいですから、基本的にはこっちと向こうを行き来するという感じです。一応、先生と話して特に問題がなければ、できるだけ入院期間は短くすることになってるので、出産まではそれほど問題はないと思います」
「そこまでするなら、いっそのこと本当に直前までこっちにいればいいのに」
「それも考えてはいます。ただ、そうすると予定が早まったりすると、すぐに対処するのが難しいので、できれば病院に近い向こうの方がいいんです」
 自分だけのことではないので、あらゆる可能性を考えて行動しなければならない。
 柚紀としては、もう高城家の一員になったのだから、できるだけこちらにいたいのだが、様々なリスクを考えると、どうしても実家に戻る方がリスクを減らせるのである。
「最終的な結論は、たぶん卒業式の頃になると思います」
「じゃあ、もし早めに戻るようなら、その間の圭太のことは、任せておいて」
「それは謹んでお断りします」
 そう言って柚紀は軽く舌を出した。
 
 夕方に少し早い頃、凛がやって来た。
 目的はもちろん、圭太にチョコを渡すためである。
「はい、けーちゃん」
「ありがとう、凛ちゃん。時間のない中、準備するのは大変だったんじゃない?」
「大丈夫だよ。さすがにそのくらいの時間はあるから。というか、それくらい余裕というか、焦ってない部分がないと、勉強にも身が入らないから」
「なるほど」
 連日どこかの大学で試験が行われているこの頃。それはヴァレンタインでも同じである。
 ただ、凛の言うように、買うにしても作るにしても、チョコを用意するくらいの余裕を心に持っていないと、本番で必要以上に焦ってしまうかもしれない。
「まあ、実際は現実逃避の口実にしてたんだけどね」
「それはそれでいいと思うよ。ちゃんと自覚してるんだから。どんなことでも、根を詰めすぎると効率はどんどん落ちていくから」
「けーちゃんにそう言ってもらうと、とっても気持ちが楽になるよ」
 そう言って凛は笑った。
「ところで、もうみんなからチョコはもらったの?」
「まだ、年下の四人と鈴奈さんからはもらってないよ。もちろん、もらえるならの話だけど」
「その五人からもらえなかったら、それは大変なことだよ」
 柚紀をはじめとして、圭太に関わっているすべての女性陣は、本当はチョコくらいでは収まらないくらい、様々な想いを込めている。言葉や態度だけではなかなか示せないことも、チョコを利用することで示せる。
「今年は学校がないからそうでもないだろうけど、去年までは大変だったんじゃない?」
「そこそこだよ」
「ひとりでは食べきれないほど、だったんでしょ?」
「柚紀から聞いてるね?」
「実はね。というか、愚痴混じりに聞かされた、というのが正解」
「柚紀らしいよ」
 話した理由は様々あるのだろうが、とりあえずそう思わせないようにしているところは、確かに柚紀らしい。とはいえ、本当にただ愚痴が言いたかっただけかもしれないが。
「凛ちゃんは、去年まではどうしてたの?」
「ん〜、正直言えば、どうでもよかったんだよね。渡す相手もいなかったし。ただ、なんとなく仲の良かった友達とお互いにチョコを持ち寄って食べてたかな」
「そっか」
「転校してすぐの頃は、けーちゃんにチョコを送ることも考えたんだけど、もしそれが望まれてないことだったらどうしよう、って思ってやめちゃったの。それに、告白もしてないのに、いきなりチョコが届いたら、すごく重く感じちゃうでしょ? さすがにそこまでのことはしたくなかったから」
 そう言って凛は苦笑する。
「だからというわけじゃないけど、今年はすごく楽しかったよ。大好きなけーちゃんのためだけにチョコを作れて、しかもちゃんと受け取ってもらえる。このことがどれだけあたしにとって大きいか」
「それは少し大げさな気もするけど」
「けーちゃんにとってはそうかもしれないけど、あたしにとっては全然大げさじゃないの」
 お互いの立場、考え方があるので、圭太もいきなりすぐに凛の考え方を理解するのは難しい。さらに言えば、この問題は男女の問題でもあるので、なおのこと難しい。
「あ、そうだ。すっかり忘れてた」
「ん、どうしたの?」
「お姉ちゃんからチョコを預かってたんだった」
 取り出したのは、凛のより少し小さめの箱だった。
「わざわざ今日にあわせて送ってくるんだから」
「らしいと言えばらしいと思うけど」
「それはそうなんだけどね。とにかく、はい、これ」
「うん、ありがとう」
 圭太はその箱を受け取った。
「あ、来月のお返しはどうしたらいいのかな?」
「いいよいいよ。けーちゃんはお姉ちゃん以外に返さなくちゃいけない相手がたくさんいるんだから。そっちを優先しないと」
「でも、さすがにまったくなにもなしというのは、さすがに問題だと思うけど。知らない人ならそれでもいいと思うけど、蘭さんはそうじゃないから」
「まあ、もしなにかあるならあたしに言ってくれればいいよ」
「その時はよろしくね」
 
 そろそろ夕方という頃。
 授業が終わって琴絵たちが帰ってきた。
 もちろん、紗絵と詩織も一緒である。
「圭太さん。私からのチョコです」
「これは私からです」
 琴絵と朱美が着替えている間、紗絵と詩織は先に圭太にチョコを渡していた。
 ふたりのもとても丁寧にラッピングされ、気合いの入りようがよくわかった。
 普通、それだけ気合いの入ったものをもらうと気後れしがちなのだが、圭太に限ってはそのようなことはなかった。それもある意味『慣れ』なのかもしれない。
「あとは、上のふたりだけですか?」
「いや、まだ鈴奈さんがいるよ」
「ああ、そうですね。さすがに仕事を放り出して渡すわけにはいきませんからね」
「圭太さんは、毎年もらったチョコはどうしてるんですか?」
「ある程度は自分で食べるけど、全部というのはさすがに無理だね。食べきれない分は、母さんや琴絵と手分けして食べたり、もう一度解かしてお菓子に使ったりしてたよ」
「なるほど」
 ふたりとも圭太がどのくらいチョコをもらってきたのか知ってるので、その説明にも素直に頷けた。
 と、二階から足音が聞こえ、まずは朱美がやって来た。
「圭兄、お待たせ」
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「早く渡して、感想を聞きたかったから」
 そう言いながら、朱美は圭太にチョコを渡した。
「今年は、去年以上に想いを込めて作ったからね」
「じゃあ、心して食べないと」
「そこまでしなくてもいいよ。ただ、圭兄にわかっててほしかっただけだから」
 朱美は、そう言って微笑んだ。
「お待たせ、お兄ちゃん」
 そのすぐあとに琴絵も下りてきた。
「あ、私が最後?」
「とりあえずは」
「そっか。はい、お兄ちゃん。本命チョコだよ」
 琴絵のチョコも、見ただけで相当の気合いが入っているのがわかった。
「というか、でかいな」
「今年は、大きさに私の想いを込めてみたの。本当はもっともっとおっきなのにするつもりだったんだよ」
「……そんなのさすがに食べられないぞ」
「うん。お母さんにも柚紀さんにもそう言われて、結局その大きさにしたの」
 気合いが入っているのはいいのだが、入りすぎて食べてもらえないのでは意味がない。
 特に渡す相手が圭太のようにたくさんもらっていれば、なおのことである。
「で、とりあえず私が最後って、あとは誰が残ってるの?」
「鈴奈さんだよ。さすがに仕事があるから」
「ああ、そっか。鈴奈さんが最後か。むぅ……」
「なに、なにか問題でもあるの?」
「あ、いえ、たいしたことではないんです。鈴奈さんが最後だと、やっぱり一番印象に残っちゃうのかな、と思って」
「それは琴絵ちゃんの考えすぎじゃないの?」
「そうだと思うけど」
 それでも琴絵はまだ渋い顔だ。
「鈴奈さんだけは、正直わからないんだよね。一番年上ということもあるけど、とにかくお兄ちゃんが鈴奈さんにはとことん甘いから」
「ああ、それはあるかも」
「うん、あるかもあるかも」
 圭太以外の四人はしきりに頷いている。
「ただ、私の中で鈴奈さんだったらしょうがないのかな、と思ってる部分があって。それが複雑な心境の原因かも」
「それもよくわかる」
「鈴奈さんて、あの通りの人だから、なにかあってもよほどのことでもない限り、許してしまうのよね」
「そうなんですよ」
 もともと圭太に関係のある女性陣は、その誰もが性格に問題がない。それぞれに好かれる部分があるのだが、その中でも一番年上の鈴奈は、誰からも好かれ、なおかつ一目置かれていた。
 それは、鈴奈がほかのみんなを妹のように思っていても、いつもいつもそういう風に接しているわけではないからだ。時と場合によっては、そういう接し方をされると腹が立つ場合もある。
 鈴奈は、それを決してしなかった。
「というわけで、お兄ちゃん。鈴奈さんからは、普通に受け取ればいいんだからね」
「言われなくてもわかってるよ」
 圭太としては、琴絵にそこまで言われるのははなはだ心外なのだが、前科がある以上はあまり言える立場ではなかった。
「で、圭兄。食べてはくれないの?」
「今じゃなきゃダメ?」
「できれば今の方がいい。みんなもそうでしょ?」
 もうひと押しと判断した朱美は、援軍を要請。
「そうですね。できればこの場で感想を聞きたいですね」
「そうしてもらえるなら、嬉しいですけど」
 一緒に住んでいない紗絵と詩織は、当然ながらその方がいい。特に今は、学校でも会えない状況である。感想を聞こうと思ったら、直接会いに来るか、電話でもしなければならない。
「……しょうがない。夕飯前にあまり多く食べるつもりはなかったんだけど」
 圭太は、渋々食べることにした。
 まず手に取ったのは、朱美のチョコ。
「ドキドキ」
「……わざとらしく言わない」
「あはは」
 箱を開けると、ひと口サイズのチョコが五個、入っていた。
 それをひとつ手に取り、口に運ぶ。
「ん……?」
「どう?」
「これは……ジャム?」
「うん、そうだよ。何味だった?」
「イチゴ」
「じゃあ、あとはブルーベリーとアプリコットとリンゴとマーマレードだね」
 ジャム入りのチョコは素人にはなかなか難しいのだが、朱美はそれを上手くこなしていた。
「ここまで凝ったのを作らなくてもよかったのに」
「ダメだよ。そのチョコにはね、私の圭兄に対する想いが込められてるんだから。そりゃ、凝りすぎてダメになるのは論外だけど、ある程度凝ったものを作って、それでその想いの一端でも感じてもらえたらそれでいいの」
「なるほどね」
 圭太は、もうひとつ口に運んだ。
「圭太さん。朱美のだけじゃなく、私のもどうぞ」
 そう言って紗絵は、朱美の残りのチョコを脇へ追いやり、自分のを前に置いた。
「ちょっと紗絵。それはないんじゃない?」
「別にいいじゃない。朱美はもう食べてもらったんだから」
「そりゃそうだけど……」
「というわけで、圭太さん」
「はいはい」
 紗絵のは、大きさは朱美のとそれほど変わらない。
「私はごく普通のにしました。と言っても、混ぜる量を調整してやりましたけど」
 チョコは、一般的な茶色のチョコではなく、もう少し薄い色だった。
「ホワイトチョコを混ぜたんです。等分に混ぜても面白くないので、いろいろやってみて一番美味しいと思ったので固めました」
「結構手間かかってるんだね」
「はい」
 そのチョコは、甘すぎず苦すぎず、確かにとても口当たりのいい、放っておいたらいくらでも食べられそうな味だった。
「本当はもうひとつくらい作ろうと思ったんですけど、その、混ぜる量をあれこれやってたら、材料が足りなくなってしまって」
「でも、このくらいがちょうどいいよ」
「そう言ってもらえてよかったです」
 紗絵はにっこり微笑んだ。
「じゃあ、次は私ですね」
 今度は詩織。
「私のは紗絵とは逆に、苦みを強くしてみました。やっぱり、甘いのばかり食べていると飽きてしまいますから」
 詩織のは、ひと口サイズのチョコがやはり五個入っていた。
 苦みが強いと言っていた通り、色もずっと濃い。
「ん、確かに苦いね。でも、美味しいよ」
「ありがとうございます」
 詩織の気遣いに、圭太は笑顔で応えた。
 詩織にとっては、その笑顔がなによりの報酬だった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
「ん、どうした……って、自分で開けたのか?」
「うん。私のは、私がお兄ちゃんに食べさせてあげるの」
『えっ……?』
「はい、あ〜ん」
 もちろん、三人がその手があったのかと思ったのは間違いない。
 だが、時すでに遅し。
 琴絵は、おそらくここまで計算した上で、一番最後までなにも言わなかったのだろう。
 圭太のこととなると、普段の数倍頭の回転が速くなる。
「どう、お兄ちゃん?」
「ん、まあ、美味しいよ」
「あはっ、よかった」
 嬉しそうな琴絵を横目に、三人は心の中で地団駄を踏んでいた。
 そんな様子を察してか、圭太は小さくため息をついた。
 もっとも、今更どうこうできる問題でもないのだが。
 
 陽もとっぷり暮れた夜。
 夕食の支度を終え、そろそろ店も閉めようかという頃、鈴奈がやって来た。
「鈴奈さん、どうぞ」
「あ、ありがと、柚紀ちゃん」
 二月も半ばといえど、夜はまだまだ寒い。
 柚紀は、鈴奈のために温かいお茶を用意した。
「今日はいつもより少し遅めですね」
「そうなのよぉ。せっかくヴァレンタインなのに、仕事がたくさんあって、その処理に追われてなかなか帰れなかったの」
「社会人になると、ままならないことが多いですね」
「うん。でも、いいの。逆に言えば、それさえこなせればなんでもできるのも社会人の特権でもあるから」
 鈴奈はそう言って微笑んだ。
「圭くんは、お店の方?」
「はい。今、お義母さんと一緒に片づけてます」
「そっか」
「すぐにチョコを渡したかったですか?」
「ん〜、そういうわけでもないんだけどね」
 柚紀は、鈴奈と一緒にチョコを作っていたので、どんなチョコかは知っていた。
 もし知らなかったなら、多少接し方も変わっていたかもしれない。
「学校ではどうでしたか?」
「まあ、うちもテストが近いから必要以上に浮かれてはいないけど、それでもチョコの受け渡しは見たよ」
「女子からもらったりはしませんでしたか? 最近、多いじゃないですか、そういうの」
「実は、三つもらったの。まあ、お世話になってる先生たちに配ってたみたいなんだけどね。まさか私がもらう立場になるとは思ってなくて、ちょっと驚いちゃった」
「確かに、予想してないと驚くかもしれませんね」
 誰もが知っている恒例行事だからこそ、予想外のことがあると驚く。鈴奈の場合は、特にそれが強い。
 鈴奈は誰から見ても、女性らしい女性である。同性から慕われても、男勝りの女性が慕われるのとは違うもので、さすがにヴァレンタインでもチョコなどはもらわない。
 そういう風に本人も思っていたので、チョコをもらって驚いたのである。
「男子からねだられたりはしませんでしたか?」
「それはなかったかな」
「近寄りがたい感じがあるからですか?」
「そうじゃないの。というか、私、そんなに近寄りがたいかな?」
「いえ、私はそんなことないですけど、男子から見たらどうかな、って」
「ああ、なるほど」
 鈴奈も、多少思い当たる節があるようだ。
「私に誰も言ってこなかったのは、これがあるから」
 そう言って見せたのは、指輪。
「これのことを結構話してるから、あえて言ってくる子はいないのよ」
「なるほど。鈴奈さんの思惑通り、というわけですね」
「期せずしてね」
 その指輪は、鈴奈からほしいと言ったわけではない。だから、期せずして、なのである。
「すみません、お待たせしました」
 とそこへ、片付けを終えた圭太が戻ってきた。
「鈴奈ちゃん。一緒に食べていったら?」
「いいんですか?」
「遠慮しないの」
「じゃあ、いただきます」
 琴美は満足そうに頷き、台所へ。
「いつも琴美さんには圧されちゃうんだよねぇ。人生経験の差、かな?」
「どうですかね。母さんはいつも通りだと思いますけど」
「圭くんじゃわからないか。柚紀ちゃんならどうかな?」
「そうですねぇ……なんとなく言いたいことはわかります」
「わかるよね、やっぱり」
 柚紀に賛同してもらい、鈴奈は嬉しそうだ。
 といっても、まったく同じ感覚を共有してるかどうかはわからない。
「あ、そうそう。チョコ、渡さないとね」
 鈴奈は、カバンの中から綺麗な袋を取り出した。
「はい、圭くん。ハッピーヴァレンタイン」
「ありがとうございます」
「食べるのはあとでいいよ。これから夕飯だからね」
「はい」
 それから鈴奈も一緒に夕食を食べ、いつものように部屋まで圭太が送ることになった。
「あっ」
 外に出ると、鈴奈が声を上げた。
「どうしました?」
「ほら、圭くん。雪だよ」
 見上げると、ちらちらと雪が降っていた。
「天気予報だと降らないってことだったけど」
「積もるほどではなさそうですから、いいんじゃないですか」
「まだ冬だしね」
 吐く息は白く、それでも滅多に降らなくなった雪を見ると、やはり気持ちが高ぶってくる。
 それは雪国出身の鈴奈でも同じだった。
「クリスマスではないけど、ヴァレンタインに雪が降るのも、悪くないね」
「どちらも恋人には大事な日ですからね。いい想い出になるはずです」
「私たちにも、そうだよね?」
「そうですね」
 圭太が頷くと、鈴奈は嬉しそうに圭太の腕に自分の腕を絡めた。
「去年も一昨年もそうだったんだけど、やっぱり大好きな人がいて、その人にチョコを渡せるっていうのは、すごく幸せなことだよね。もちろん、それが両想いじゃなくてもだよ。たとえ振られたとしても、想いを伝えずにいるよりはずっとマシだと思うから」
「確かにそうですね」
「だからね、たとえお菓子屋さんの戦略ではじまったヴァレンタインのチョコの授受に関しても、私はいいと思うんだよね。きっかけなんだから」
「きっかけを見つけるのが、実は一番難しいですからね」
「うん。それさえあれば変わること、たくさんあると思うの。だから、これからもヴァレンタインは続いてほしいし、そういう想いを忘れないようにしたいな」
 鈴奈にとっては、本当にそうだろう。
「ね、圭くん」
「なんですか?」
「今度また時間のある時にでも、デートしよ。すぐには無理だろうけどね」
「わかりました。少し考えておきます」
「うん、よろしくね」
 自分の立場を忘れず、多くを望みすぎず、だけど、自分を抑え込みすぎない。
 その微妙なバランスを保つために、鈴奈本人はもちろんのこと、圭太にも協力してもらわなくてはならない。
 そこにヴァレンタインのような行事があれば、少し楽になる。
 デートの約束も、いつも以上に切り出しやすくなる。
「このまま少しだけでも積もればいいのに」
「そうしたら、朝はとても綺麗ですね」
「うん、それが目的だから」
 そう言って鈴奈は笑った。
 
 その日の夜遅く。
「あ、圭太。蹴ったよ」
「ホント?」
 圭太は、柚紀の大きなお腹に顔を近づけた。
「最近、よく動くんだよね。ホント、元気な子」
「それはとってもいいことだよ」
「私としては、もう少しおとなしくてもいいかな、って思うんだけど」
「それは、柚紀の経験上?」
「違う、と言いたいところだけど、まあね。あまり騒がしすぎるのは、さすがにどうかと思うし」
「だったら、そうならないように僕たちが育てていかないと」
「まあね。結局はそうなるんだろうけど」
 そう言って柚紀は、お腹に触れた。
「そういえば、雪が降ってるんだっけ?」
「うん、降ってるよ。見る?」
「うん、見る」
 圭太は、柚紀の手を取り、窓際へ連れて行く。
 カーテンを開け、窓を開ける。
「わあ、結構降ってるね」
 降りはじめの頃より、幾分しっかり降っている。とはいえ、まだ積もるほどではない。
「なんとなく、ロマンティックな感じがする」
「鈴奈さんも、そんなようなことを言ってたよ」
「女の子は、いくつになっても、そういう夢を見ていたいのよ」
「それは、ここ数年でイヤというほど理解してきてるよ」
 そう言って苦笑する。
「とりあえず、窓だけでも閉めていい?」
「あ、うん」
 圭太は、柚紀の体調を心配して、窓を閉めた。
「あのね、圭太」
「ん?」
「私、本当にギリギリまでこっちにいることにするから」
「そう決めたの?」
「うん。もちろん、状況によりけりではあるけど。ただ、できるだけこっちにいて、入院自体も前日くらいからでいいかなって思って」
「それはどうして?」
「こう言うと先生に失礼だけど、やっぱり圭太の側が一番いいから。たぶん、私にとっての一番の特効薬は、圭太だから。それは出産も同じ。だから、そう決めたの」
「柚紀がそう決めたのなら、僕はなにも言うことはないよ。実際に出産するのは、あくまでも柚紀なんだから。僕ができることは限られてるし」
「確かに限られてはいるけど、でも、それは圭太にしかできないことなんだから、いいんだよ。祥子先輩の時だってそうだったでしょ?」
「まあね」
 母親となる女性とは違い、父親となる男性には出産時にできることはほとんどない。側にいて励ますことくらいだろう。
 それでもなにもしないでいるよりはマシ、という考え方もある。
 特に初産の場合は、不安も大きい。
 柚紀もそれはあり、だからこそできるだけ圭太と一緒にいることを選んだのである。
「あ、そうだ。柚紀に聞きたいことがあったんだ」
「ん、なに?」
「向こうのうちに、僕が泊まれる部屋ってあるかな?」
「ああ、そのことか。そんなの決まってるでしょ。圭太は、私の部屋にいればいいの。ベッドはここより少し小さめだけど、なんとかなるわよ」
 柚紀にとっては、それは当たり前の、しかも決定事項だった。
「それに、別々だと大変な時にすぐに手伝ってもらえないから」
「それもそうだね」
 圭太としては、柚紀がいいならそれ以上なにも言うつもりはなかった。
「あと、なにか聞きたいことある?」
「特にはないかな」
「圭太に不都合なことはないと思うよ。というか、お父さんやお姉ちゃんがなにかしようものなら、私が全力で排除するから」
 そう言って柚紀は力こぶを作る。
「そのあたりはほどほどに」
「それはすべて向こう次第ね」
 あまり波風を立てたくはないのだが、圭太がいること、それ自体でなにかが起きる可能性はかなり高い。
 もちろん、それもすべて望まれていないことばかりではない。
 ただ、できれば穏便に過ごしたいと願うのは、当然のことと言えた。
「まあ、普通に過ごしてれば問題はないと思うし、なにより圭太は自分でなんでもできるから、お母さんも物足りなく感じちゃうかも。圭太も見ててわかってると思うけど、私の世話好きというか、なんでも自分でやろうとする性格は、間違いなくお母さん譲りだから。だから、できれば向こうにいる時はなえるべくお母さんになんでもさせてあげた方がいいよ。後々のためにもね」
「肝に銘じておくよ」
 もっとも、圭太は笹峰家でもかなり買われているので、問題はない。
 むしろ心配すべきなのは、柚紀が憂慮しているように、義父と義姉のことだろう。
 圭太はそのことを改めて頭の片隅に置いた。
「さてと、そろそろ寝よっか」
「そうだね」
 柚紀を壁際に先に寝かせ、そのあとに圭太がベッドに入る。
「おやすみ、圭太」
「おやすみ、柚紀」
 おやすみのキスを交わし、それぞれ眠りに就いた。
 ちなみに、雪は朝方まで降り続いた。
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