僕がいて、君がいて
 
第三十九章「約束の夜」
 
 一
 十二月も半ばになると、今年も終わるのだと感じられるようになってくる。
 もっとも、街中はクリスマス一色で、浮かれ気分ではあるが。
 それでも、テレビ番組はスペシャル番組が多くなり、この一年間の総集編などをやっている。雑誌も然りで、この一年の総まとめを特集したり、別冊付録をつけたりしている。
 ただ、本当の意味で一年が終わるというのを実感できるのは、やはりクリスマス後だろう。
 しかし、受験生にとってはそれは大きな問題ではない。ただ単に時間がそれだけ過ぎてしまった、という事実だけがそこにある。
 もちろん、点数が伸び悩んでいる者にとっては、本番を先延ばしにしてほしいと切に願っているのだろうが、大半の者は一日でも早く、その苦痛から逃れたいと本気で思っている。
 そんなどこか切羽詰まった空気が漂う三年の教室にあっても、それとは無縁の者もいるにはいる。
 まずは、すでに推薦で大学が決まっている者。これが一番気楽に構えており、入学までどうやって過ごそうか、日々頭を悩ませている。
 次に就職組。これはこれで就職活動、就職試験というものがあるのだが、受験よりは期間が短いので、多少違う。こちらもたいていは年内中に内定が出るので、決まりさえしていれば気楽に過ごせる。
 そして、数は少ないが、違う進学組である。なにも大学へ行くだけが『進学』ではない。専修学校や専門学校に行くのも、進学である。
 そこにはほぼ入学試験は存在しないので、それ自体はとても気楽だろう。もっとも、大学と違って入ったらすぐに最前線に立つわけであるから、束の間の休息、とも言える。
 いずれにしろ、時間は平等に一日二十四時間しかなく、どう過ごそうが変わりない。少しでも充実した時間を過ごしたければ、それ相応の努力が必要である。
 
 十二月十五日。
 圭太は、いつも通りの時間に起き出し、いつも通りの手順でやることをこなしていく。
 十二月に入って気温も下がってきているので、エンジンがかかるまで多少のタイムラグがある。それでも、長年やってきていることは、自然と体が覚えており、少々のことでは邪魔にすらならない。
 琴絵と朱美も起きてきて、店の準備が終わると、圭太はそのまま厨房に残った。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 ふたりは不思議そうな顔で圭太を見る。
「ちょっとね、作りたいものがあって」
「作りたいもの?」
 圭太の言葉に、ふたりは首を傾げた。
「なにを作るの?」
「ケーキだよ」
「ケーキ?」
「なんで?」
 その疑問はもっともだった。
 クリスマスには早すぎる。誰かの誕生日というわけでも、なにかお祝いがあるわけでもない。
 それなのにケーキとは、いったいどういうことだろうか。
「今日は、琴子が生まれてちょうど二ヶ月だからね」
「あ、そっか」
「琴子には食べさせてはやれないけど、なにか形にして、それをなんらかの形で残しておきたくて」
「そういうことか」
 理由を聞き、ふたりは納得したようだ。
 確かに先月の十五日にも、琴子の一ヶ月のお祝いみたいなことをしていた。そういうことを誰よりも大切にしている圭太であるから、ケーキを作ると言い出してもなんらおかしいとは思わなかった。
「一応、昨日のうちにある程度の準備はしておいたんだ」
 そう言って冷凍庫から、銀色の器を取り出した。
「それ、アイス?」
「そうだよ。バニラとチョコ。さすがにアイスはすぐには固まらないから、先に作っておいたんだ」
「じゃあ、圭兄が作るのは、アイスケーキ?」
「というわけではないんだけど、アイスも載ってるケーキ、かな」
 すぐには使わないので、また器を冷凍庫に戻した。
「でも、お兄ちゃん。今からケーキなんて作れるの? 登校時間までそんなにないよ?」
「別に今からスポンジを焼くわけじゃないよ。飾りの下ごしらえをね」
 チョコレートを取り出し、湯煎にかける。
 それを型に流し込み、冷やす。
 このあたりの手際は、もはやさすがとしか言いようがない。琴絵も朱美も、ひと言も発することができなかった。
「ね、お兄ちゃん。やっぱり琴子ちゃん、カワイイ?」
「ん? どういう意味で訊いてるんだ?」
「どういうって、そのままの意味だよ」
「だとしたら、カワイイよ。自分の娘だし」
「そうだよね。うん、そうだよね」
 琴絵は、二度繰り返した。
「なんでそんなことを訊くんだ?」
「ん〜、これはあくまでも私の感覚でしかないんだけど、お兄ちゃん、あまり自分から積極的に琴子ちゃんに接してないような気がして。もちろん、基本的に祥子先輩のところにいるから、というのはあると思うんだけど」
「……琴絵ちゃん、それは言い過ぎじゃ……」
「だから、訊いてみたの」
「なるほどね」
 後片づけを終え、手を洗い、手を拭く。
「確かに、琴絵の言ってることは半分は当たってる」
「半分?」
「そう、半分。当たってるのは、積極的に琴子に会っていない、というところ」
「会っていない? それだと、私が言ったのと違うけど」
「琴絵は、琴子が祥子先輩のところにいるから、と言ったと思うけど」
「うん、言ったよ」
「そこが当たり」
「よくわかんない」
 琴絵は首を傾げた。
「琴絵でも朱美でもいいんだけど、赤ん坊にとって大事なことってなんだと思う?」
「大事なこと?」
「ん〜、たくさん寝ること?」
「それも大事ではある。でも、それ以上に大事なのは、親との接触なんだよ。聞いたことないかな。赤ん坊の頃から物心がつく頃までに、親からの愛情、特に直接体に触れたりする行為が少ないと、成長に影響が出るって話」
 ふたりは顔を見合わせた。
「接触と言っても別に難しいことじゃなくて、ただ普通に抱いてあげたり、大きくなってきたら抱きしめてあげたりすることを言ってるんだ。そして、今の時期にそれを一番やるべきなのは、僕じゃなくて母親である祥子先輩なんだよ」
「それって、おっぱいをあげる時のこと?」
「それも含めてだよ。それに、実際問題、僕よりも先輩の方が長く琴子と一緒にいられるわけだから、そうするのは必然だよ」
「それはそれでわかったけど、でも、それとお兄ちゃんが積極的に琴子ちゃんに接しないのは、関係ないと思うよ」
 琴絵もある程度納得はしているのだろうが、割り切れない部分があるようで、なおも食い下がる。
「そのあたりは、僕と琴絵の考え方の差だね。僕としては、琴子がこっちにいる時は積極的に一緒にいるようにしてるし。ただ、全体的に僕といる時間が短いから、そういう風に考えてしまうんだろう」
「……そうなのかなぁ……」
 まだ納得いかないようである。
「じゃあ、こうしようか。今日は琴子にうちに泊まってもらう。うちにいる間は、積極的に僕が面倒を見る」
「そ、そこまでしなくてもいいけど……」
「いや、せっかくだしそうしよう。そうと決まれば、早速連絡しないと」
 言うや否や、圭太は自分の部屋へ戻ってしまった。
 あっけにとられている琴絵に、朱美が訊ねた。
「なんであんなこと言ったの?」
 当然の疑問である。
 確かに、一面では琴絵の言う通りではあるのだが、また一面ではとても子煩悩なとてもよき『パパ』をやれている。
 少なくとも朱美には、圭太は立派に琴子の父親をやれていると映っていた。
「ん〜、なんでかな。自分でもよくわかんない」
 琴絵はそう言って苦笑した。
「たぶんね、琴子ちゃんに嫉妬してたんだよ」
「嫉妬?」
「だって、琴子ちゃんを可愛がっている時間は、ひょっとしたら私とのための時間だったかもしれないって。そんなイヤなことを考えちゃってね」
「……なるほど」
 その気持ちは朱美にも理解できた。
 一日は二十四時間しかない。そして、圭太がみんなを相手できる時間も決まっている。
 そこへ、新参者である琴子が入ってきて、ひとりひとりの時間が確実に減った。
 その時間すべてが自分のための時間だったとは思えないが、それでもいくらかはそうだった可能性はある。
 そうすると、琴絵みたいに嫉妬してしまっても、無理からぬことである。
「でも、あれも全部が全部、作り話ではないんだよ。やっぱりお兄ちゃん、琴子ちゃんとどこか本当の意味でちゃんと接してないところがあるみたいだから」
「それはあれじゃないの」
「ん?」
「確かに圭兄は人よりなんでもできるけど、それでもやっぱりひとりの人間だから。高校生で父親になって、いろいろ戸惑ってる部分もあるんだと思う。だってそうでしょ? 昨日までは単なる高校生でしかなかったのに、いきなり父親だもん。それまでとは比べものにならないくらい様々なことが変わったはずだから」
「まだ距離を測りかねてるってこと?」
「端的に言えば」
「そっか」
 琴絵も、その意見にある程度納得した。
 考え方を変えれば、確かにそういう風にも見えなくもない。
「だけど、まさか圭兄があんなことを言い出すとはね」
「うん、予想外。悔しかったのかな?」
「さあ、それはどうかな。でも、口実にはなるのかもしれないよ。琴子ちゃんと一緒にいるための」
「そうだね」
 ふたりは頷いた。
 が──
『あーっ!』
 ほぼ同時に声が上がった。
「今日、琴子ちゃんが泊まるってことは、祥子先輩も泊まるってことだよね」
「そしたら、ますます私たちとの時間、なくなっちゃう」
 その事実に気付いたところで、もはや後の祭りである。
 
 その日の夕方。
「あ〜、う〜」
 琴子はそれはもう、とてもご機嫌だった。
「ん、これがいいのか?」
「う〜」
「ほら」
 圭太は、手にしていたおもちゃを琴子に握らせた。
「やっぱり、琴子は圭くんの腕の中が一番いいみたい。私が抱いてもそんなに嬉しそうにしないから」
「それは、僕がとことんまで琴子を甘やかしてるからですよ。人間誰だって怒る相手よりも褒めて甘やかしてくれる相手を、好きになってしまいますから」
「そうだね。でも、圭くんの場合は、今だけじゃなくて、琴子が大きくなってからも甘やかしちゃいそう」
 祥子はクスクス笑う。
「そんな風に見えますか?」
「うん、見える。というか、普段の圭くんを見ていたら、そういう風にしか見えない」
「むぅ……」
 琴子の頭を撫でながら、圭太は唸る。
「確かに圭くんは様々なことに私情を挟まない厳しさを持ってるんだけど、それは絶対じゃないから。特に、親しい、近しい人に対してはね」
 側で見ていた祥子にそう言われてしまうと、圭太としては反論できない。
「さらに言うなら、自分の代わりをしてくれる人がいると、なおさらだよね。だから、琴子のことはほぼ確定」
「……とりあえず納得はできませんけど、今はそれでいいです」
「琴子が高校生くらいになった時が楽しみだね」
 今日の祥子はとても機嫌がよかった。琴子よりも機嫌がいい。
 やはり、大好きな圭太と偶然とはいえ、ひと晩を過ごせるからだろう。
 祥子は末っ子ということもあり、とても甘えたがりである。圭太といる時はできるだけ年上であることを意識しているのだが、ふとしたことをきっかけに素の自分が出てくる。
 今日は、それがいつも以上に出ている。
「ね、圭くん。ひとつ、訊いてもいいかな?」
「なんですか?」
「琴子が生まれたばかりでこんなことを訊くのもなんだけど、春に柚紀にも子供が生まれたら、そのあとはどうするの?」
「そうですね……」
 琴子から視線を外し、少し黙った。
「とりあえずは、しばらくの間は自粛します」
「自粛?」
「自粛というか、もう少し自覚を持つと言った方がいいですかね。僕がこんなことを言うのもおかしいのかもしれませんけど、セックスという行為は本来は子供を作るための行為ですから。子供ができてしまう、ということをもう少し真剣に考えないと、多方面に迷惑がかかります」
「そうだね」
「ただですね、これを祥子の前で言うのは多少気が引けるんですけど」
「うん」
「柚紀とだったら、いいかなって。というか、柚紀だからこそ、ですね」
「…………」
 圭太の立場からすれば、それは当然の考えだった。圭太は柚紀と結婚する。結婚したからといって無理に子供を持つ必要はないが、夫婦だからこそどうするかを考える『権利』を得る。
 期せずして春には子供が生まれるわけだが、そのあとのことはまた考える必要がある。
「祥子は、もうひとり、ほしいですか?」
「ん、そうだね。ほしいよ。前は漠然とそう考えてただけだけど、琴子を産んでからは余計にそう思う。自分の子供だからなのかもしれないけど、やっぱり子供ってカワイイから。もちろん、カワイイだけじゃなく、もっともっとがんばらなくちゃって思えるから。生き甲斐って感じかな」
「……そうですよね、やっぱり」
 圭太もそれはわかっていた。琴子が生まれてからの祥子の姿を見ていれば、それを理解するのは簡単だった。
「ただ、私も無理を言って圭くんを困らせたくないから、今はなにも答えてくれなくていいよ」
「そうですね。今すぐに結論を出すのは難しいです。前に鈴奈さんに言われた時もそうでしたけど」
「うん」
「でもですね、僕はこうも思ってるんです」
「それって?」
「琴子には、弟か妹がいた方がいいのかな、って」
「圭くん……」
「もちろん、春になれば琴子は自然と姉になるわけですけど、そういうことではなく、僕と祥子の娘として、姉になった方がいいと思うんです」
「……いいの?」
「みんなには、特に柚紀には内緒ですよ?」
 少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ、圭太はそう言った。
「……私、どんどん圭くんに求めちゃう。このままだと、いつか柚紀に迷惑かけちゃう」
「そうかもしれませんし、そうならないかもしれません。少なくとも今は、どうなるかわかりません。だから、今はいいんじゃないでしょうか。いろいろ言うのも」
 祥子は小さく息を吐き──
「じゃあ、圭くん。今日は、親子三人でお風呂入ったり、寝たりしようね」
 笑顔でそう言った。
 
「ううぅ〜……」
「あ〜……」
「まったく、ふたりしてなに腐ってるの?」
 琴美は、呆れ顔で目の前のふたり──琴絵と朱美に言った。
「だってぇ……」
「圭兄がぁ……」
「自分でけしかけておいて、それはないでしょう?」
「そうなんだけどぉ……」
 事情を聞いた琴美は、どう考えても同情はできなかった。
 この場合、やはり後先考えずに言ってしまった琴絵の負けである。
「お母さんはいいよね。琴子ちゃんがうちにいてくれるから、可愛がれて」
「そんなことでいちいち腐ってるようじゃ、それこそ圭太に呆れられるわよ」
 琴美もふたりの気持ちが理解できないわけではないのだが、この状況を作り出した原因が琴絵にあることを考えれば、呆れるしかないのである。
「確かに圭太と一緒にいられないかもしれないけど、圭太だって祥子さんや琴子ちゃんとそこまでのんびりはできないはずよ」
「どうして?」
「赤ん坊はね、とても大変なの。夜中に突然泣き出すこともあるし。とてものんびりなんてできる状況じゃないわ」
「だったら、余計に時間なんて作れないよぉ」
「それはしょうがないでしょ。あなたが圭太を焚きつけるようなことを言ったのが、そもそもなんだから」
「うぅ……」
 どう考えても結果が変わらない状況では、もはや時間が過ぎるのを漫然と見ているしかない。
「あれ、三人でなにしてるの?」
 そこへ、件の圭太が琴子と一緒に下りてきた。
「別になにもしてないわよ。ふたりはここで駄々こねてるだけ」
 容赦のない物言いに、琴絵も朱美もがっくり項垂れる。
「圭太は?」
「ん、風呂にお湯を張ろうと思って」
「お風呂? もう入るの?」
「今日は琴子がいるから」
 いつもならもう少し遅い時間なのだが、やはり琴子中心の生活となれば、早寝早起きが基本となる。そうすると、自然と入浴時間も早くなる。
「そういうわけだから」
 そう言って圭太はリビングをあとにした。
「ねえ、お母さん。お兄ちゃんて、琴子ちゃんの良いパパなの?」
「そうねぇ……今はまだ、なんとも言えないわ。さすがにまだ二ヶ月だから」
「お父さんの時はどうだったの?」
「祐太さん? 祐太さんは、最初はもう全然だったわ」
「そうなの?」
「もう空回りばかりで、落ち込んではチャレンジして、落ち込んではチャレンジして。まわりからも認められるようになったのは、半年くらい経ってからかしらね」
「そうだったんだ」
「でも、それは当然なのよ。はじめての子供なんだから。最初からなんでもできる方が珍しいわ」
「お母さんは?」
「母親はね、自然と母親になれるのよ。多少の例外はあるかもしれないけどね」
「そっか」
「琴絵も見てるとわかるでしょ? 祥子さんはもう立派な琴子ちゃんのママだって」
「うん」
「まあでも、あの子なら大丈夫よ。適応能力高いし、なによりも明確な目標があるから」
「うん、そうだね」
 琴絵は大きく頷いた。
「それよりも問題なのは、あなたや朱美の方でしょうね」
「うっ……」
「ふたりの気持ちはわかるけど、だからといって、いちいち過剰に反応してたら、そのうち大変なことになるわよ」
「それは……」
「わかってはいても……」
「今すぐにそれができるようにはならないのかもしれないけど、少しずついろいろなことを受け入れて、慣れていかないと、それこそ圭太にも迷惑がかかるかもしれないわよ」
 それはふたりだけではないが、全員がしたくないことである。
 自分の身になにが起ころうとも我慢できるが、圭太になにかあったら、絶対に無理である。
「だから、もう少しだけ、大人になりなさいね」
「はぁい……」
「わかりましたぁ……」
「あれ、まだ三人でいるんだ」
 そこへ圭太が風呂場から戻ってきた。
「上にいると、あなたたちの邪魔になるからでしょ」
「別に気にすることないのに」
「あなたが気にしなくても、ふたりは気にするのよ」
「ふ〜ん……」
 圭太は、特に気にした様子もない。
「ところで、圭太」
「ん?」
「あなた、ずっと琴子ちゃんを抱いてるの?」
「そうだけど、なんで?」
「その間、一度も泣いてないのよね?」
「そうだね。一度も泣いてないし、ぐずってないね」
「やはり、祥子さんの娘ってところかしらね」
 そう言って琴美は笑った。
「将来は間違いなく、ファザコンね」
「……あのさ、今からそんなこと言わなくてもいいと思うんだけど」
「あら、早めに自覚してた方が、対策を練れると思うんだけど」
「……そんな対策、練りたくないよ」
 ため息をつく。
「じゃあ、部屋に戻るよ」
「あ、お風呂はこっちで見ておくから、いっぱいになったら声をかけるわね」
「了解」
 ひらひらと手を振り、圭太は部屋へ戻った。
「なんとなくだけど、将来圭太は自分の娘で苦労するかもしれないわね」
「それって、言い寄られるとか、迫られるとか、そういうこと?」
「そこまでになるかどうかはわからないけど、それに近いことはひょっとしたらあるかもしれないわね」
 まだ生まれて二ヶ月の段階でそういうことを話しているのもどうかと思うのだが、あながちそれも誇張でもないと思えてしまうのは、やはり圭太絡みだからだろうか。
「私としては、そんな琴子ちゃんよりも、あなたたちの方が心配なんだけどね」
「どうして?」
「必要以上に対抗意識を燃やしそうで」
「…………」
「…………」
 黙って顔を見合わせる。
「本当に、どうなるのかしらね」
 
「……圭くん、もう寝ちゃった?」
 もう夜中という時間。
「いえ、まだ起きてますよ」
「よかった」
「眠れませんか?」
「ううん、そんなことないよ。むしろ、今日はいつも以上にゆっくり眠れるはず」
「そうですか」
 薄暗い部屋の中。リビングからベビーベッドを運び込み、琴子はすでに夢の中である。
「でもね、もう少し圭くんにいろいろしてもらうと、もっとゆっくり眠れるよ」
 そう言って祥子は、圭太に抱きついた。
「……私もね、そろそろ限界かも」
「体は大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。先生にも確認してるし」
「わかりました」
 圭太は頷き、キスをした。
「キスは、何度もしてるのにね」
「そうですね」
 もう一度キスをする。
「ん……圭くん……」
 祥子は、自分から圭太の股間に手を伸ばした。
 ズボンの上からモノに触り、そのままズボンの中にまで手を入れた。
 祥子のいつも以上の積極的な行動に圭太は多少戸惑ったが、ここ数ヶ月のことを考えればある意味では当然かもしれないと思っていた。
「圭くんの、大きくなったね」
 自分の手で大きくさせたことで、祥子はとても嬉しそうである。
「久しぶりだから、私がしてあげるね」
 そう言って祥子は、布団をめくり、圭太のズボンとトランクスを脱がした。
「ん……は……」
 モノの先に舌をはわせ、軽く舐める。
 最初はおとなしかった動きも、少しずつ大胆になってくる。
「気持ち、いい?」
「ええ、気持ちいいです」
「ふふっ、よかった」
 今度は、モノを口に含む。
 頭ごと上下させ、口の中では舌を動かし、少しでも圭太に気持ちよくなってもらおうと努力する。
 すぐ側に自分の娘が寝ている状況はやはり特殊なシチュエーションで、圭太もいつも以上に興奮していた。
「ん、祥子」
「いいよ」
 祥子に促され──
「くっ」
「んっ」
 圭太はそのまま祥子の口内に放った。
「ん……はあ……」
 それを飲み下し、祥子は艶っぽく吐息を吐いた。
「圭くんのをするのも、すごく久しぶり」
「それを全然感じさせてませんけどね」
「それは、圭くんが相手だからだよ」
「じゃあ、僕も祥子を気持ちよくさせますね」
「うん」
 軽くキスする。
「ん……」
 そのまま胸に手を添え、軽く揉む。
「あんまり強くすると、出ちゃうかも」
「そういえばそうですね」
「……圭くん、飲んでみたい?」
「えっ……?」
「もし飲んでみたいなら、いいよ」
 圭太は少し考え──
「じゃあ、少しだけ」
 やはり多少興味はあるようで、案外素直に頷いた。
 上着を脱がせ、胸に顔を寄せた。
「いいですか?」
「うん」
 乳首を口に含み、軽く吸う。
 と──
「ん」
 吸った分だけ、母乳が出てきた。
 圭太は少しだけ不思議そうな表情を見せていたが、すぐに笑顔になった。
「不思議な感じですね。僕も赤ん坊の頃は普通に飲んでいたはずなのに、その味なんかも全然覚えてないんですから」
「そうだね。母乳で育てるのは、生後間もなくだけだから、ほとんど記憶にも残らないものね」
「でも、こうして口にしてみると、自然と受け入れられて」
「飲んでる時は、圭くんが私の子供みたいだったよ」
 そう言って笑う。
「だけど、やっぱり圭くんは子供じゃなくて、私の一番大切な男性だから」
「はい」
「そういうことを、しよ」
 圭太は祥子の残りの服を脱がせた。
 先ほど琴子も含めて三人で風呂に入った時に久々にその裸体を見たのだが、まだ完全に以前に戻ったわけではないが、それでもそれほど差はなかった。
 祥子も出産直後からスタイル維持のためにいろいろ努力してきた。その結果が現れていた。
「直接触りますね」
「うん」
 祥子に確認して、圭太は直接秘所に触れた。
「あっ……ん……」
「もう濡れてますね」
「だ、だって、すごく久しぶりだし、圭くんのも舐めてたから……」
「これなら、すぐにでもできそうですね」
「それでもいいよ」
 口にはしなかったが、祥子はもう我慢できないようである。
 潤んだ瞳や切なげな表情が、それを物語っていた。
「わかりました」
 圭太は再び大きくなっていたモノにゴムをつけ、祥子の秘所にあてがった。
「いきますよ」
「うん、きて」
 久しぶりである祥子に配慮して、ゆっくりモノを挿入する。
「んっ、圭くんの……気持ちいい」
 一番奥まで入ると、祥子は圭太の首に腕をまわし、抱きしめた。
「祥子の中も、気持ちいいですよ」
「よかった。ちゃんと圭くんを気持ちよくさせられるね」
「ええ」
 祥子にとってはそれが一番の心配だった。
 それは無用の心配なのだが、やはり実際にそうなってみないとわからない。
 こうして圭太とセックスすることで、その心配が杞憂に終わって心から安心していた。
「ね、圭くん。今日は、いっぱい気持ちよくなろうね」
「はい」
 キスを交わし、圭太は動きはじめた。
「んっ、あっ」
 久しぶりということで、祥子はかなり敏感だった。
「やっ、んっ、気持ち、いいっ」
 琴子が側で寝ていることも、廊下を挟んで琴絵と朱美が寝ていることも、すでに頭にない。
「圭くんっ」
 圭太も祥子とするのは久しぶりなので、それはそれで興奮していた。
 いつも以上に激しく祥子を突き立てる。
「あっ、んんっ、ダメっ、もうイっちゃうっ」
 程なくして、祥子は限界を迎えた。
「んっ、イっくぅっ!」
 体をのけぞらせ、祥子は達した。
「はあ、はあ……イっちゃった……」
「大丈夫ですか?」
「う、うん、大丈夫だよ」
 祥子は、少し疲れた感じだが、満足そうに頷いた。
「でも、圭くんはまだだね」
「ええ」
「いいよ、このまま続けても」
「いいんですか?」
「うん。だって、今日は本当にいっぱい気持ちよくなりたいから。たくさん圭くんに可愛がってほしいから」
「祥子……」
「ね?」
「はい、わかりました」
「ありがと、圭くん」
 
「ん……」
 祥子は、圭太に髪を撫でられ、とても心地よさそうである。
「やっぱり、私は圭くんの側にいる時が、一番幸せ」
「それは、とても光栄です」
 圭太は、少し芝居がかった口調で言う。
「それと、圭くんとのエッチは、やっぱり気持ちよかったよ。圭くんには、ちょっと無理させちゃったけど」
 結局、ふたりは回数を数えるのも面倒なほど、お互いを求め合った。
「圭くんは、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「そっか。それならよかった」
「でも、どうなんでしょうね」
「ん、なにが?」
「琴子が寝ている側で、ここまでしてしまうのは」
「あはは、そうだね。でも、逆にこうは考えられないかな」
「どういう考えですか?」
「琴子のパパとママは、それだけ深く愛し合ってるってこと」
「なるほど」
「ただ、そうだね。今度からはもう少し気をつけた方がいいかもね」
「そうですね。もう少し考えてした方がいいですね」
 子供の性教育はとても重要だが、悪影響が及ぶようなことをするわけにはいかない。
 時に感情が先走ってしまうこともあるが、そのあたりは冷静に判断すべきである。
「……ホント、今日はとっても嬉しかったなぁ」
「ん?」
「朝、圭くんに連絡をもらった時は、嬉しいというよりも戸惑いの方が大きかったから。でも、実際こうして一緒にいると、どうして戸惑ってたんだろうって思っちゃう」
 いくら祥子が圭太と一緒にいたいと思っていても、それはいつもいつでもかなうことではない。
 だから、偶然とはいえ圭太から誘われて、最初にあれこれ考えてしまうのはしょうがないことである。
 もちろん、戸惑ったとしても断るようなことはあり得ない。
「私ね、いろいろ余計なことばかり考えてたの。琴子を産んで、もし、圭くんが私を求めてくれなくなったらどうしようって」
「そんなこと──」
「うん、圭くんならあり得ないことだってわかってるの。でも、どうしてかそんなことを考えてしまって。だから、圭くんが私を抱いてくれて、すごく安心したの」
「そうだったんですか」
「たぶんね、来年の春、柚紀も同じことを心配して、不安に思うはずだから」
「そうですね。その時は僕の方から安心させてあげます」
「うん」
 学校、部活の先輩として、人生、母親の先輩として、後輩にしてあげられることはたくさんある。
 祥子にそこまでの自覚があったかどうかはわからないが、少なくとも気にかけていることは間違いなかった。
「そういえば、あのケーキ、ずいぶんと気合い入ってたね」
「特にそこまで意識してませんでしたけど、結果的にですね。本当は、琴子にひと口でも食べてもらえればよかったんですけど、それはまたの機会ということで」
「でも、そうやって毎月なにかやってたら、大変かも」
「そうですね。どこかで区切りをつけないと、ダラダラ行っちゃいそうですね」
 圭太としては、毎月でもいいと思ってるのだが、さすがにそれはやりすぎであるとも思っていた。実際問題、そこまで続けられるかどうかはわからないのである。
「じゃあ、とりあえず、今月まででいいんじゃないかな。どうせ初節句とか、いろいろあるんだから」
「その時はその時で、僕より張り切りそうな人がいると思いますけど」
「あはは、そうかもね」
「でも、ほどほどにしておかなければならないというのは、その通りだと思います」
「そうしないと、琴子はますますパパから離れなくなっちゃうからね」
 祥子は冗談めかして言う。
「圭くんは、適度に厳しくする練習もしていかないと、将来絶対困るね」
「……今後の検討課題に入れておきます」
「ふふっ、がんばってね、パパ」
 少なくとも今の圭太では、厳しくするのは無理である。それでも将来、子供をちゃんとしかれない親は、その子供の成長に悪影響を及ぼしてしまう。だから、大変でもやらなければいけないことである。
「あ、そうだ。圭くん」
「なんですか?」
「明日の朝は、私が起こしてあげるね」
「別にそこまでしなくてもいいですよ」
「ううん、私がそうしたいの。それに、琴子のこともあるから、自然と早起きになってるし」
「まあ、祥子がそこまで言うなら、僕は構いませんけど」
「うん」
 圭太としては、本当にそれはどちらでもいいことだった。
「……ね、圭くん」
「はい」
「たまにでいいから、今日みたいに親子三人で過ごしたいね」
「そうですね。たまに、一緒に過ごしましょう」
「うんっ」
 どれだけそれを実現できるかはわからないが、少なくとも今は、その約束だけで十分だった。
 その約束さえあれば、またがんばれるから。
 
 二
 十二月十八日。
 日曜日ということで、圭太は朝からのんびりと過ごしていた。
 琴絵と朱美は、クリスマスコンサートの練習のために午前中からいない。
 柚紀も今日は用事があるとかで、一日来る予定はない。
 こういう日はそうあることではないので、圭太は久しぶりにのんびりしようと思っていた。
 午前中は、久々に部屋の掃除を徹底的にやった。
 こまめに掃除はしているので、それほど大がかりにはならなかったが、それでも普段はあまりやろうと思わないところまで掃除した。
 十二月は大掃除の頃でもあるので、ちょうどいい。
 掃除を終えた頃に、ちょうどお昼となった。
 店の方に顔を出すと、なかなか盛況だった。たまにそういう日があるのだが、それがたまたま今日になったようである。
 圭太は、忙しい琴美に代わり、昼食の準備をはじめた。
 材料はすべて揃っているので、あとは調理するだけである。
 用意されていたのは、うどんだった。具材はシンプルに、油揚げと天かす、ネギ。
 圭太の腕前なら、さほど時間もかからずにできてしまう。
 で、実際、素晴らしい手際であっという間にできてしまった。
「母さん。お昼、できたけど」
「そう? でも、こっちがもう少しかかりそうなのよ」
 確かに、まだしばらく余裕ができそうにはなかった。
 今日は、午前中から入っているのは幸江で、ともみは午後からということになっている。
「あまり待たせるのも悪いから、圭太、先に食べちゃって」
「わかった」
 圭太は、素直に頷き、自分の分だけ用意することにした。
 もし圭太が待ってるなどと言えば、できるだけ早めに切り上げようとするのは、目に見えていた。圭太もそれはさせたくなかったので、素直に引いたのである。
 ひとり分を用意し、食べる。
 音がないと淋しいということで、リビングのテレビを点けている。とはいえ、それを見ているわけではない。
 ゆっくり食べていたのだが、それでもそれほどかからずに完食。
 食器を片づけ、琴美と幸江がいつでも食べられるように準備だけはしておく。
 と──
「こんにちは〜」
 玄関の方から声が聞こえた。
 少しの間があって──
「あれ、圭太」
 リビングに入ってきたのは、ともみだった。
「今日はいるんだね」
「はい。特に用もないので」
「そうなんだ」
 コートを脱ぎ、マフラーを外す。
「柚紀は?」
「家の用事があるそうです」
「琴絵ちゃんたちは、部活か」
「はい」
「祥子は?」
「朝から親戚が来るので、いないといけないそうです」
「ふ〜ん……」
 ともみは、少し考えるそぶりを見せたが、それを口にすることはなかった。
「ま、たまにはいいんじゃない。今日は誰にも邪魔されず、のんびりできるんだから」
「そうですね」
 できることなら圭太と一緒にいたいともみではあるが、バイトがあるのでそういうわけにもいかない。
「そういえば、クリスマスパーティーの詳細は、どのくらいまで決まってるの?」
「さあ、僕もわかりません。琴絵に訊いても、当日まで内緒だって言われて。僕にはとにかくプレゼントだけ用意しとけって」
「まあ、琴絵ちゃんが中心になって計画してるなら、とんでもないことにはならないとは思うけどね。ただ、そこに誰かしらの『知恵』が入ると、どうなるかわからないけど」
「……そういう不安を煽るようなことを言うの、やめませんか?」
「ふふっ、そうね」
 ともみは実に楽しそうに笑う。
「あ、そうそう。すっかり忘れてた」
「なにをですか?」
「圭太は、今年というか、来年というか、年末年始はどうするつもりなの?」
「特にこれといった予定はありませんよ。ともみさんとは、誕生日に約束してますけど」
「それ以外はなし?」
「今のところは。ただ、大晦日と元旦は例年通りだと思います」
「なるほど」
 それを聞き、ともみはなにやら考えている。
 圭太が不思議そう、というよりはいぶかしげな表情をしているので、ともみは説明した。
「今年の正月に、みんなで初詣したじゃない」
「ええ」
「そういうのを、またやれればいいと思ってね。ただ、私たちって人数が多いじゃない。だから、早め早めに計画を立てておかないと、全員揃わないかなって」
 普通に考えれば、全員揃う方が珍しい。
 年末年始は、その意義が薄れてきたお盆とは違い、まだまだ帰省する者が多い。
 そうすると、実家がここでない限りは、どこかへ行ってしまう。
 そうなる前に、あらかじめ縛っておかないと、やりたいことはやれなくなってしまう。
「今のところ、ほかに誰かなにか予定があるとか聞いてる?」
「えっと……あ、そうですね、鈴奈さんは絶対に帰らないとダメだって言ってました」
「そっか。さすがに鈴奈さんは実家が遠いものね。それは仕方がないか。でも、それだって年末年始の休み全部、ってわけじゃないでしょ?」
「さあ、そこまでは僕も聞いてないのでわかりませんけど」
「わかった。ある程度形にしたら、みんなに都合を聞いてみるわ。圭太もそのつもりでいてね」
「わかりました」
 それからともみはエプロンをして、店の方へ出た。
 入れ替わりに幸江が戻ってきて、圭太特製のうどんに舌鼓を打った。
 程なくして琴美も手が空いたらしく、昼食のために下がってきた。
「圭太。午後はどうするの?」
 親子ふたりだけの食卓で、琴美はそう訊ねた。
「特に決めてないよ。部屋の掃除はもうしたから、家の中でするなら、ほかの場所の掃除くらいかな。そうじゃなかったら、久しぶりに本屋にでも行こうかと、今思いついた」
「今日は誰ともデートじゃないのね」
「別に休みの度にしてるわけじゃないよ。それに、みんなにだって僕と以外に予定だってあるんだから」
「だったら、私とデートする?」
「は? 母さんと?」
 思いもかけない言葉に、圭太は間抜けな声を上げた。
「あら、私とのデートじゃ、不満?」
「不満とか、そういう問題じゃなくて──」
「まったくもう、失礼しちゃうわね。親子でデートなんて、おかしくないのに」
「そうかもしれないけど……」
 以前だったら、素直に受け止められたかもしれない。しかし、今は違う。
 今は、琴美の心の奥底にあった本当の想いを知っている。
 もちろん、圭太の考えすぎなのかもしれないが、あれこれ考えてしまうのは仕方がない。
「それとも、私とじゃデートできない理由でもあるの?」
「それはないけど」
「それなら問題ないでしょ?」
 ニコニコと結論を迫る琴美。
 普段ならそこまで迫られると間違いなく折れる圭太なのだが、今回は違った。
「でもさ、母さん。店をそのままに外出できるわけないと思うんだけど」
「……あ〜、ま〜、そういうこともあるわね」
 素で忘れていたらしい。
「というわけだから、その話はこれで──」
「ちょっと待ちなさい。今日がダメでも、また今度があるでしょ?」
「……あのさ、母さん。そんなに僕とデートしたいの?」
「ええ、したいわよ」
 即答だ。
「だって、私はあなたのことが好きなのよ? 好きな人とそうやって一緒の時間を過ごしたいと思うのは、普通のことでしょ?」
「だからって……」
「とにかく、今度、ちゃんとデートしましょう。予定、空けておきなさいね」
「わかったよ」
 圭太としては、そう言うしかなかった。
 琴美も店に戻ると、またも圭太はひとりである。
 台所の後片づけを終え、しばしリビングでのんびりし、することがなくなり部屋に戻ろうというところで──
「誰か来た」
 インターフォンが鳴った。
 玄関のすぐ側にいたので、すぐにドアを開けた。
 すると──
「やっほ、圭くん」
 やって来たのは、鈴奈だった。
「どうしたんですか、鈴奈さん?」
「ん、ちょっと時間ができたから、圭くんの顔が見たくなって。連絡してからにしようかなって思ったんだけど、最悪圭くんがいなくてもお店に琴美さんたちがいるから、大丈夫かなって」
「そうでしたか。あ、ここじゃあなんですから、上がってください」
「うん、おじゃまします」
 リビングにとって返し、すぐにお茶を淹れる。
「琴絵ちゃんたちは、部活?」
「ええ、今日は午前中から出てます」
「クリスマスコンサートの練習か」
「はい、そうです」
「でも、午前中からってことは、一高でやってるわけじゃないの?」
「今日は確か、二高でやってるはずですよ」
「あ、そうなんだ。それじゃあ、移動時間とかいろいろ大変だね」
 毎日通っているので、そのあたりの大変さは十二分に理解している。
「柚紀ちゃんは?」
「柚紀は、家の用事があるそうです」
 普段一緒にいる者がいないと、どうしてもあれこれ聞かれてしまう。
 圭太も多少面倒だとは思いながらも、ちゃんと説明する。
「どうぞ」
「ありがと」
 淹れたての紅茶とお菓子を鈴奈の前に並べる。
「圭くんは、なにしてたの?」
「特にこれということは」
「じゃあ、暇ってことだよね」
「ええ、そうなります」
「よかった」
 鈴奈は嬉しそうに微笑み、紅茶を飲んだ。
「仕事は忙しいですか?」
「そうだねぇ、師走とはよく言ったものだって感じかな。なぜかはわからないけど、次から次へと仕事がやって来て、いつの間にか忙しくなってる。まあ、まだ私は手際が悪いから余計に忙しく感じるんだろうけどね」
「鈴奈さんなら、すぐにできるようになりますよ」
「そうだといいんだけどね」
 仕事の内容など、そう変わるわけではない。ようは、それをどれだけ効率的にこなせるかである。そこには多少の慣れが必要で、教師一年目の鈴奈にとってはまだまだ経験値が不足していた。
 だが、圭太の言う通り、それをこなし、考えれば、次の年からは問題なくこなせるようになるだろう。そのくらいの能力を鈴奈は有している。
「ところで、圭くん。お姉ちゃん、お願いがあるんだけどなぁ」
「……お願い、ですか?」
「うん」
「デートしよ」
 
 ──三十分後。
 圭太は、鈴奈と駅前にいた。
 天気はいいが気温が低い日。鈴奈はこれ幸いにと圭太にぴったりとくっついていた。
 くっつかれることには慣れている圭太だが、鈴奈にそうされることには多少の抵抗感があった。その理由は、鈴奈とそうするのがイヤなのではなく、今の立場を考えてのことである。
 鈴奈は教師である。しかも、この街でやっている。当然のことながら、知り合いに会う可能性はほかの場所よりも格段に高い。一緒にいるのが同性なら問題はないだろうが、異性となると様々な憶測を呼ぶ。
 鈴奈にそれを言えば、気にしないと答えるだろうが、圭太としては気にしないわけにはいかない。
 とはいえ、とても嬉しそうな鈴奈に強く言えない時点で、圭太の負けである。
「圭くんは、どこか行きたいところ、ある?」
「特にこれといったところは」
「じゃあ、私につきあってくれる?」
「はい」
 ふたりが向かったのは、駅向こうにある最近オープンしたばかりのショッピングモールだった。
 オープンから間もないので、土曜日や日曜日にはまだまだ人出が多かった。
 クリスマス直前という時期も重なって、予想通り、かなりの人出だった。
「すごいね」
「ここまでとは思いませんでした」
「でも、逆に言えばこの時期に人がいないと、ダメだよね」
「そうですね」
 確かに、このかき入れ時に閑古鳥が鳴いているような店は、潰れるのもそう遠くないだろう。
 いくつかの店を冷やかし、ある店で足が止まった。
 そこは、木工製品を置いている店だった。
 様々な商品が並び、木の香りがとても心地良い空間となっていた。
 リビングセットのような大きなものから、ペン立て、フォトスタンドのような小さなものまでいろいろある。
「ん〜、こうもたくさんあると、目移りしちゃうよねぇ」
「そうですね。無目的に見てると、余計ですね」
 クリスマスが近いので、プレゼントになりそうなものが、目立つ場所に配置されている。
 財布の紐を握っているのはどこの家でも女性なので、女性受けしそうなものが多い。
「あ、これ、カワイイ」
 そう言って手に取ったのは、ペンギンの形をした時計だった。お腹のところに時計が埋め込まれている。
 適度にデフォルメされているので、確かにカワイイと形容できた。
「でも、時計を買ってもあまり意味ないんだよねぇ。部屋がそんなに広いわけじゃないから、時計ばかりになっちゃう」
「それなら、割り切って置物にしてしまえばいいんじゃないですか?」
「だったらちゃんと置物を買った方がいいかなぁ。贅沢だけどね」
 そう言って苦笑する。
「とりあえず、今日のところは見るだけにしておくよ」
 その店を出て、さらに店を見て歩く。
 フロアが広く、店の数も多いので、見て歩くだけでもひと苦労である。
 一階と二階を見終わったところで、さすがに体力も限界に。
 ふたりは、三階のレストランフロアにある喫茶店に入った。
 喫茶店もかなりの混み具合で、ふたりが席に着けたのも運が良かったからにほかならない。
 建物の中は当然暖房が効いており、さらに人が多いために結構気温が上がっていたため、圭太はアイスコーヒーを頼んだ。ちなみに、鈴奈はロシアンティーだ。
「あの、鈴奈さん」
「うん、どうしたの?」
 それぞれ頼んだものが来て、それぞれ一口ずつ飲んでから、圭太はおもむろに口を開いた。
「聞いてもらいたいことがあるんです」
「聞いてもらいたいこと? なにかな?」
「あまり大きな声では言えないんですけど、ちょっと困ったことというか、戸惑ってることがあるんです」
「圭くんがそんな風に言うなんて、珍しいね。よっぽどのこと?」
「そうですね。よっぽどのことだと思います」
 圭太は、小さく頷いた。
「柚紀や琴絵のワガママなら、もうだいぶ慣れたんですけど、今回のはそれとは次元の違う問題で。僕としてもどうしたらいいか正直わからないんです」
「具体的に、なにに困ってるの?」
「母さんのことなんです」
「琴美さんのこと?」
 意外な人物の名前に、鈴奈は首を傾げた。
「鈴奈さんも薄々気付いてるとは思うんですけど、母さん、僕が倒れてから少し自分に対する枷を外してしまって。父さんが亡くなってからは、僕が父さんの代わりになっていたんですけど、それは本当にあらゆる意味での代わりなんです」
「それって……」
「僕は、母さんにとって、息子であると同時に、ひとりの男でもあるんです」
「そっか……」
 それを聞き、さすがの鈴奈もすぐには言葉を発せなかった。
「ただですね、僕の中ではその役目自体は受け入れているんです。この世で母さんを守れるのは、もう僕しかいませんから。僕にできることは、なんでもします」
「それだけ琴美さんが大切だってことだね」
「母さんは、本当はもっともっといろいろな幸せを経験できたはずなんです。でも、父さんが亡くなって、それもできなくなってしまいました。僕に父さんと同じことはできないですけど、せめてその何分の一かでもそれができれば、父さんに顔向けできます」
「……それはそれでわかったけど、困ってることってなに?」
「実はですね、その、なんて言ったらいいかわかりませんけど、母さん、僕を『恋人』扱いしたいみたいなんです」
「あ〜……そういう困ったということなんだ。なるほど……」
 それなら、圭太が戸惑う理由も鈴奈には理解できた。
「なにを言われたの?」
「今日は、デートしたいって言われました。というか、是が非でもという感じだったので、近いうちに約束させられると思います」
「ん〜、真っ当な意味でなら、親子でのデートも問題ないとは思うんだけど、琴美さんの心情を考えると、微妙だね」
 確かに、仲の良い親子ならデートみたいなこともするだろう。だが、そこに恋愛感情のようなものが入ると話は変わる。
「琴美さんて、結婚する前はどんな感じだったの?」
「父さんが生きていた頃や淑美叔母さんの話だと、一途で猪突猛進だったそうです」
「……それは、やっかいね」
 鈴奈も琴美のことをある程度理解しているので、現状のやっかいさも理解できていた。
「デートするだけならいいと思うんです。ずっとやりたいこともやれてませんでしたから。僕とデートすることで少しでもストレスが発散できればと思ってます。ただ、そのせいで母さんの枷がさらに外れなければいいな、と思うだけなんです」
「そうだね。琴美さんも圭くんのお母さんである前に、ひとりの女性だからね。大好きな人とあれこれしたいと思うのは、当然だよね。問題は、それがどこまでのことなのか、だから」
「鈴奈さんは、どうしたらいいと思いますか?」
「ん〜……」
 鈴奈は、小さく唸った。
「とりあえずは、琴美さんの好きなようにしてみたらいいんじゃないかな。その先のことが心配だとは思うけど、それも絶対じゃないんだし。だったら、純粋に琴美さんに楽しんでもらうことだけ考えればいいと思うよ」
「やっぱりそうですかね」
「うん」
 圭太もそれはそれしかないと思っていたのだが、誰かにそれを認めてほしかったのである。柚紀に話してもよかったのだが、ここは人生の先輩でもあり、柚紀よりも琴美のことを長く知っている鈴奈の方が、適任だと判断した。
「でも、琴美さん、そこまでだったんだね」
「それもある意味仕方がないんですけどね。母さんはそれだけ父さんのことを深く愛していましたから」
「それが今は圭くん、というわけか」
「はい」
「本当に、難しい問題だね」
 放っておいても自然と解決できてしまう問題かもしれないが、そのせいで泥沼化してしまう問題かもしれない。
「僕ももう少し考えてみます」
「そうだね、それがいいかも」
 結局は圭太自身がなんとかしなくてはいけない問題である。
 鈴奈としてはそれを見守ることしかできない。
「そういえば、実家にはいつ帰るんですか?」
「三十日だよ。一応、三日の夕方から夜のうちには帰ってくるつもりだけど」
「なるほど」
「今年は絶対に帰らなくちゃいけないから、少し憂鬱」
 帰らなければいけない理由を考えれば、憂鬱なのもわかる。
「状況としてはどういう状況なんですか?」
「姉さんの話だと、やっぱり母さんの方は大丈夫みたい。ただ、父さんはそのことを話題にもしたくないみたいで」
「……なるほど」
「ただ、私もちゃんと話すつもりだから。圭くんのことをどれだけ好きか、どれだけ大事か。それでわかってもらえなかったら、何度でも繰り返す」
 すぐに一緒にいられなくなることはないだろうが、そのせいで将来その可能性が出てくることはある。
 鈴奈にとって、それが一番問題である。
 すべてではないにしろ、圭太がここにいたからこそ、ここでの就職を選んだのである。
「だから、圭くんは心配しないで大丈夫だよ。これは私がやらなくちゃいけないことだから」
 確かに、そのことに関しては圭太にできることはないかもしれない。現時点では一緒に佐山家に行くわけにもいかない。
 ただ、圭太の性格上、なにもしないというのは、かなりつらいのである。
「もしそれでもなにかしてくれるというなら、ひとつだけお願いがあるの」
「なんですか?」
「帰ってきた日に、圭くんとふたりきりになりたい」
 それ自体は、特に不思議ではないお願いだった。そんな約束しなくとも、ここ二年間はふたりきりになれている。
 それでもお願いするということは、それだけ鈴奈にとってその時間が大事だという証拠である。
「どう、かな?」
「いいですよ。約束します」
「ありがと、圭くん」
 きっと、鈴奈にとってはその約束だけで、様々な大変なことも乗り切れてしまうのだろう。
「さてと、そろそろ出よっか」
「そうですね」
「次は、どこへ行こうか?」
「鈴奈さんはどこかないんですか?」
「特にないかな。圭くんと一緒なら、どこでもいいよ」
「でしたら、ひとつ、行きたいところがあるんですけど」
 
 ふたりは喫茶店を出たあと、そのままショッピングモールもあとにした。
 暖房と人いきれから解放されると、外の空気の冷たさが心地良く感じられた。
 相変わらず気温は低く、だんだん陽も傾いてくる時間となり、風もよりいっそう冷たくなってきていた。
 鈴奈は外に出るなり、圭太の腕を取った。やはり、片時も離れたくないようである。
 駅向こうにいたふたりは、こちら側へ戻ってきた。
 とはいえ、人の多さはどちらも変わらず、ぶつからずに歩くのも大変なほどである。
 歩いている間は、鈴奈が主に話している。圭太は、それに相づちを打つ程度。それでも鈴奈はとても楽しそうである。
 商店街に足を踏み入れたふたりは、さらに奥へと歩いていく。
「ここです」
 しばらく歩いて到着したのは、とてもこぢんまりとした店だった。
「ここって、和菓子屋さん?」
 鈴奈の言う通り、そこは和菓子屋だった。
 おそらく、大半の人が和菓子屋を想像してくれと言われて想像するような佇まい。少しくすんだ色ののれんが情緒を醸し出している。
「実はですね、ここのあんこがすごく美味しいんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「この時期はみんなケーキですから、たまにはこういうのもいいと思って、ここへ来ました」
「なるほどね」
 店の中は、外の喧噪がウソのように静かだった。
 ガラスケースの中には、様々な和菓子が並んでいる。
「どれがオススメ?」
「そうですね……僕が好きなのは、このあんみつとヨウカンですね。豆大福も捨てがたいですけど」
「今日はどれにしようと思ってたの?」
「あんみつです。あと、豆大福をおみやげにして」
「なるほどなるほど」
 鈴奈は、一通り眺め、どうやら決めたようである。
「じゃあ、私もあんみつにしよっと。圭くんのオススメでもあるし」
「わかりました」
 それからあんみつをふたつと、豆大福をひとりにつきふたつずつ買った。豆大福の代金は圭太が払うつもりだったのだが、鈴奈が折半しようと言い出し、結局そうした。
「あんみつ、どこで食べよっか?」
「僕はどこでも構いませんけど」
「じゃあ、私の部屋にしよ」
 というわけで、ふたりは鈴奈の部屋へ。
 マンションまでは歩いたのだが、その間、鈴奈から笑顔が消えることは一度もなかった。
「さ、座って」
 エアコンのスイッチを入れ、こたつのスイッチも入れる。
 鈴奈は台所でヤカンを火にかける。
「あんみつのほかに、なにか食べたいものある?」
「いえ、あまり食べてしまうと夕食に影響が出てしまいそうなので」
「そっか。そういうことならしょうがないね」
 簡単に想像できたこととはいえ、鈴奈は少しがっかりしたようだ。
「もしよかったら、今日はうちで夕食を食べませんか?」
「えっ? いいの?」
「いいに決まってるじゃないですか。鈴奈さんは、うちの『家族』なんですから」
 そう言って圭太は笑う。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおっかな」
「わかりました。鈴奈さんの分も用意してくれるように、連絡します」
 圭太は携帯を取り出し──
「あ、圭くん」
「なんですか?」
「連絡は、メールでね?」
「……わかりました」
 琴美宛にメールを打った。
 こたつの中が暖かくなり、お湯が沸き、お茶を淹れて、ひと息つく。
「ふう、今日は人が多くて大変だったね」
「そうですね。時期が時期とはいえ、大変でしたね」
「ひとりだったらとても長時間はいられないけど、圭くんと一緒なら大丈夫。ほかの人たちなんて、まったく気にならないから」
「あ〜、えっと……とりあえず、あんみつ食べましょう」
「ふふっ、そうだね」
 真っ正面から照れてしまうようなことを言われ、圭太は話題を逸らした。
 あんみつは別の皿に開けなければいけないタイプで、それぞれ中身を開けた。
 寒天も小豆もあんも、蜜がかかるとよりいっそう美味しそうに見える。
 まずは鈴奈が一口。
「ん、ホントだ。すっごく美味しい」
 鈴奈の表情がパッと輝いた。
「このあんこ、甘過ぎなくて美味しい」
「うちでも評判ですから、それは。特に母さんは大ファンです」
「私もファンになっちゃった」
 そう言って鈴奈は笑う。
「このお店って、圭くんが見つけたの?」
「いいえ、僕じゃないです。ここは、もともと父さんが知っていたんです」
「そうなの?」
「父さんは、見かけによらず甘いものが好きだったので、和菓子やケーキの美味しい店をよく探してました。その中のひとつが、ここなんです」
「そうだったんだ」
「あまり有名な店ではないんですけど、しっかりとした仕事をして、固定客もそれなりにいます」
 そういう店は結構ある。
 テレビや雑誌に取り上げられることはないが、地元民にとってはそれなりに知名度がある。穴場の老舗とでも言えばいいのだろうか。
「ただ、うちは喫茶店ですから、どうしてもケーキ類に偏りがちで。たまに意識して和菓子を買うようにはしてます」
「その時はたいてい?」
「そうですね。ほぼ真っ先に思い浮かぶのが、この店です」
「そこまで入れ込んでるんだ。なるほど」
 そういうことを聞くと、あれこれ考えてしまいがちだが、それを言っているのが圭太なら素直に聞けてしまう。
 すでに鈴奈の中では、その店がこのあたりの和菓子店のトップにランクされている。
「はあ、美味しかった。これなら、おかわりできちゃいそう」
「もうひとつ買ってくればよかったですね」
「ま、それはまた今度ね」
「はい」
 あんみつがなくなってからは、お茶を飲みつつ、まったり過ごす。
 もともと圭太はあくせくするのが好きではないので、こういう時間を過ごせるのはとても幸せなことである。
「……えいっ」
 と、鈴奈が声を上げた。
「えいっ、えいっ」
「あの……」
「ほら、圭くんもやり返して」
 どうやら、こたつの中で悪戯しているようである。
「むぅ、圭くん、ノリ悪いよ」
 頬を膨らませ、抗議する。
「そんな圭くんには──」
「鈴奈さん?」
 鈴奈はこたつに潜り込み──
「こうだっ」
「うわっ」
 そのまま圭太の方から出てきた。
「どうだ、まいったか?」
「えっと……まいりました」
 やってることは子供じみたことなのだが、本人は結構楽しそうにやっているので、圭太としてはなにも言えなかった。
「じゃあ、負けた圭くんには、罰ゲームがあります」
「罰ゲームですか?」
「うん、罰ゲーム」
 鈴奈は、にっこり笑った。
 
「ん……気持ちいい……」
 鈴奈は、本当に気持ちよさそうに、少しかすれた声を上げた。
「このあたりは、どうですか?」
「あ、うん、すごく気持ちいいよ」
「じゃあ、もう少しだけ続けますね」
「もう少しと言わず、ずっと続けてほしいな。圭くん、マッサージ、上手だから」
 圭太は、鈴奈からの罰ゲームとして、マッサージをしていた。
 なにをさせられるのかと戦々恐々としていた圭太だったが、思いの外まともな、普通の内容に安心していた。
 鈴奈はベッドに横になり、そこへ圭太がマッサージを行っていた。
 特別そういう知識があるわけではないのだが、なんとなく肩や腰、背中などを手探り状態で揉んでいたら、それが鈴奈には好評だった。
「……ねえ、圭くん」
「なんですか?」
「さっきのデートで、もし圭くんか私の知り合いに遭遇してたら、どうしてた?」
 唐突な質問ではあったが、それは圭太も多少気になっていたことだった。
「そうですね……僕の知り合いなら、鈴奈さんは『お姉さん』ということで誤魔化してたと思います。鈴奈さんの知り合いの場合は、鈴奈さん次第ですね」
「そっか。じゃあ、もし私が圭くんのことを『彼氏』だって紹介したら、どうする?」
「その場はそれを認めます。余計なことをあれこれ言うつもりはないですから」
「でも、また会う可能性がゼロではないんだよ?」
「だとしても、僕と鈴奈さんの本当の関係を話すのには、いろいろ知っておいてもらわなければならないことが多すぎますから。多少の脚色はあったとしても、真実に近いそれを認めると思います」
 圭太としては、それしかできない。
「やっぱり、ウソでも『彼女』とは言ってはくれないんだね」
「すみません。それだけはできません」
「あ、ううん。別に責めてるわけでも、ひがんでるわけでもないの。そういうとっさの時でも、圭くんは本当に守らなくちゃいけないものは守るんだね、ってことなの。それって、すごく大事だと思うから」
 確かに、本心というものはとっさの行動の時によく現れる。常日頃から、そのことを心から本当にそうだと考えていれば、どんな状況でも慌てることはない。
 普段からあやふやな、曖昧な考えしか持っていないと、とっさの時に慌てることになる。
 少なくとも圭太の場合は、前者の可能性が高い。
「もし、僕が鈴奈さんのことを『彼女』だと誤魔化すとしたら、ある程度僕たちのことを知っていて、だけどそれ以上知りようがない人に説明する時くらいですね」
「ようするに、もう二度と会わないかもしれない人、ってことだよね」
「はい。それなら、多少の誇張があっても問題はありませんから」
「そっか」
 圭太としては、別に慰めの意味でそれを言ったわけではない。事実を事実として言ったまでである。
「ただですね、こうしてふたりきりでいる時は、鈴奈さんが僕の『彼女』ですから。これは、お世辞でもフォローでもなく、いつもそう思ってます」
「ありがと、圭くん」
 圭太がそう思っていてくれる。それを鈴奈も理解している。
 それがふたりにとっては大事なことだった。
「ん、そろそろいいよ。これ以上されると、癖になっちゃいそう」
 圭太は手を止め、鈴奈から離れようと──
「ダメ。今度は、違うことで気持ちよくなりたいの」
「えっと……」
「ね、圭くん?」
 綺麗でカワイイ姉には、どうやっても逆らえない圭太であった。
 
 三
 十二月二十二日。
 今年は暦の関係上、二日早く学校は終わる。
 授業は午前中だけで、午後から校長講話があり、大掃除をして下校となる。
 長くはない冬休みではあるが、各教科からはきっちり宿題が出され、楽しいはずの冬休みの懸念材料となっている。
 もっとも、生徒たちの頭の中には、二日後に迫ったクリスマスのことでいっぱいであろうが。
 街を歩けばそこかしこでケーキが売られ、クリスマスらしい飾り付けも急激に増えている。
 とはいえ、全員が全員クリスマスを待ち望んでいるわけではない。
 三年はクリスマスといえども受験勉強に精を出す必要がある。ここで怠けてしまうと、挽回が効かなくなる可能性もある。
 ただ、そんなことを気にしなくてもいい者も、いる。
 
 圭太と柚紀は、その必要はなかったのだが、学校で昼食を食べた。
 理由は、午後から行われる吹奏楽部のクリスマスコンサート前最後の練習を見るためである。
 練習を見に行くことはすでに伝えてあり、菜穂子からは是非とも指導もしてくれと頼まれたのだが、それは断った。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「みんなから期待をかけられる気持ちって、どんな感じ?」
 練習時間まで多少時間があったので、ふたりはもう誰もいなくなっていた教室にいた。
「そうだなぁ……最初の頃はまだよくわかってなかったよ。なんか、みんなして僕にあれこれ言ってくるな、くらいにしか思ってなかったから」
「最初はそうかもね」
「そのうちみんながどんなことを考えて僕にあれこれ言ってるのかわかるようになって、正直言えばすべて投げ出したくなったこともあるよ。なんで僕なんだ。別にそんなこと僕じゃなくてもいいじゃないか。そんな風に思ってね」
 それは圭太でなくても思うだろう。
 特に学校という不特定多数の人が集まっている場所では、余計である。
「でもね、次第にそんな考えも薄れていったんだ。ようするに、麻痺しちゃっただけなんだけどね。あれこれ考えるのが面倒になって、考えることを放棄して、唯々諾々と従ってた」
「それは、一高に入ってからも同じ?」
「最初はね。だけど、考えることをまたはじめたよ。あれこれ考えて、そのせいでまた後ろ向きな思考に陥ったこともあったけど。結局は、僕にあれこれ頼むのは、それが僕にしかできないことなのかもしれない、って考えるようにもなった。もちろん、実際はそんなことはないと思うけどね。そうすると、またそれまでとは別の意味で自然とそれを受け入れられるようになった。で、それは今まで続いている」
「きっかけかなにかあったの?」
「これは前にも話したかもしれないけど、一高に入って、吹奏楽部に入って、先輩たちにあれこれ期待をかけられて。その時に少し後ろ向きな僕を、その先輩たちが前を向かせてくれたんだ。それがきっかけかな」
「なるほど」
 もちろん、そのことだけで圭太の考えが変わったわけではない。その後もあれこれ試行錯誤した結果が、現在に繋がっているのである。
「でも、どうしてそんなことを訊くの?」
「いや、今日も菜穂子先生に指導を頼まれたって言ってたから。今日は普段の練習と違って、クリスマスコンサートの練習なのにね。つまり、菜穂子先生だけじゃなくて、二高と三高の先生もいるわけだから、普通に考えれば圭太の出番はないはずなのに。それでもなお、圭太に頼んでくるんだもん。それをされてる圭太は、どんな気持ちなのかって知りたくなったの」
「そういうことか」
 柚紀がそういう風に考えるのもわかる。
 圭太の場合、誰の目から見ても、ごく普通の高校生の場合とは違う。
 期待をかけられるということは、それだけ信頼されてることの証拠でもあるのだが、それが過剰になるとプレッシャーにしかならず、結果的にその本人が潰れてしまうことあり得る。
 柚紀としては、それが容易に想像できるだけに、圭太はどんなことを考えているのか、知りたくなったのだ。
「私は圭太の代わりはしてあげられないけど、応援したり、手伝ったりはできるから。とりあえずこの一高にいる間になにかあったら、遠慮なく言ってね」
「わかったよ」
 それから時間を見て、ふたりは講堂へと移動した。
 講堂ではすでに練習がはじまっていた。
 指揮をしているのは、三高の顧問。
 出来映えとしては、それなりだった。
 ただ、やはり練習期間の短さのせいで、クオリティは高いとは言えなかった。
 ふたりは、講堂の隅で練習の様子を見ている。
「どんな感じかしら?」
 そこへ、菜穂子がやって来た。
「こんなところ、ではないでしょうかね」
「まあ、それがおおむね正しい感想かしらね、やっぱり」
 菜穂子は、特に表情を変えずに言う。
「ただ、曲が難しいというのもあると思いますから、ある程度聴かせられれば問題はないと思います」
「圭太ならそう言うとは思ったけど」
 時間がないことと、曲が難しいこと、そして人数が多いことで、完成度を高めるのは非常に困難な状況となっている。
 これは毎年のことで、その中でどこまでできるかが、勝負の分かれ目となる。
「柚紀は、どう?」
「私も圭太と同じです。去年ほどじゃないにしろ、今年も難しい曲を選んでますから。たった一ヶ月でここまでできれば、それはそれですごいことだと思います」
「そうね。私もそのあたりについては、毎年すごいと思ってるわ。いったいどこからそんなモチベーションが発揮されるのか、本当に不思議だわ」
 コンクールと違って特別誰かに評価されるわけではないクリスマスコンサートで、それだけのモチベーションを保ち続けるのは、やはり難しい。それを考えると、菜穂子の意見も頷ける。
「理由はどうあれ、個人のレベルアップに繋がってくれれば、私はなんの問題もないと思ってるのも事実ではあるけど」
「先生としては、それの方が重要かもしれませんね」
「あら、それ『だけ』が重要なわけじゃないわよ。例年通り、二高や三高と一緒にやることで、違った刺激を受けることができる。それぞれのレベルとしては、うちが高い方ではあるけど、個々人だとまちまちなのが現実。二高や三高にだって、上手な子はいるから。そういう中でいろいろなことを学んでくれれば、年明けからよりいっそうがんばってくれるはずだから」
 そう言って微笑む。
「ただ、私としてはそこにとても優秀な先輩が手を貸してくれると、とても助かるのよね」
「……誰ですか、そのとても優秀な先輩って?」
「そんなの決まってるじゃない。ね?」
 年不相応に可愛らしい笑みを浮かべる菜穂子。
「まあ、私がそんなことを言わなくても、圭太なら期待通りのことをしてくれると信じてるわ」
「……期待に添えるよう、がんばります」
 圭太としては、そう言うのが精一杯だった。
 休憩時間になると、ふたりのまわりには自然と部員が集まってきた。
「先輩、どうでしたか?」
「いいと思うよ。限られた時間の中で、ここまでできてるんだから」
 最も信頼する先輩からお墨付きをもらい、後輩一同に安堵の表情が広がった。
 ただ、圭太としては最初から厳しいことを言うつもりはなかった。それは、自らも経験してその大変さを痛感しているからだ。
 もちろん、言いたいことは山ほどあるのだが、それを言ってしまうのは大人げないことも理解していた。
「あとは、本番で今日よりもほんの少しだけ上手く演奏できれば完璧だね」
 そのほんの少しがいかに難しいかも、圭太は十分理解していた。
「先輩」
 そこへ、部長同士の打ち合わせを終えた紗絵がやって来た。
「どうでしたか?」
「よかったよ。みんながんばってたし」
「そうですか」
 紗絵も、圭太のその言葉を鵜呑みにはしない。圭太の性格を考えれば、今日の演奏に満足できていないことくらい、簡単にわかる。
「あ、そうだ。先輩。実は──」
「圭太。先生が呼んでるよ」
「あ、うん。ごめん、紗絵。あとで聞くから」
「はい……」
 圭太は、そのまま行ってしまった。
 残された紗絵は、とても淋しそうな、泣きそうな顔でそれを見送る。
「こぉら、紗絵ちゃん」
「柚紀先輩……」
「そんな顔しないの。別に圭太はどこにも行かないんだから」
「わ、わかってますよ」
「ホントにわかってる?」
「…………」
 すぐには頷けない。
「ね、紗絵ちゃん。ちょっと外出ようか」
 柚紀は、紗絵を連れて講堂を出た。
 廊下を少し歩き、窓を開けた。
「ん〜、風が冷たい」
 冷たい風が、廊下に吹き込んでくる。
「淋しい?」
「……わかりません」
「わからないってことはないと思うんだけどなぁ。自分のことなんだし。私だったら、淋しいよ。だって、自分の大好きな人となかなか一緒にいられないんだもん。しかも、せっかく声をかけようと思ったところに、邪魔が入るし」
「…………」
「あのね、紗絵ちゃん。私に対して意地を張る必要はないんだよ? そりゃ、紗絵ちゃんにとって私は絶対に許せない『仇』かもしれないけど。でも、今更その関係が変わるわけじゃないんだから」
 柚紀は、紗絵を気遣ってはいるが、言ってることはそれなりに辛辣だった。
「紗絵ちゃんは真面目すぎるのかなぁ? なんか、いつも悩んでる気がする。もう少し自分に自信を持って、気楽に物事を考えてもいいと思うよ」
「……そんなに簡単に言わないでください。それこそ、今更なんですよ」
「そうやって勝手にできないって決めつけてるのが、問題だと思うよ」
 柚紀の言葉はいちいち正しかった。だからこそ紗絵は、子供みたいな反論しかできなかった。
 しかし、努力してもできないこともある。それが、普段の言動であるならなおさらだ。
 もちろん、最終的に直すのは可能かもしれないが、そのためには時間がかかる。今すぐに、というのは無理な話だ。
「紗絵ちゃんはさ、まだまだわかってないよ」
「……なにがわかってないんですか?」
「自分が今、どれだけ幸せなのか、って」
「幸せ?」
 意外な言葉に、首を傾げた。
「これを言うと紗絵ちゃんは怒るかもしれないけど、本当はね、私が圭太を振り向かせた時に、紗絵ちゃんの恋は、終わったんだよ」
「っ……」
「だけど、圭太は紗絵ちゃんも受け入れた。もう終わってしまって、かなうはずのなかったことが、かなった。これが幸せじゃなかったら、なにを幸せと呼ぶの?」
「でも……」
「もちろん、その幸せが圭太と彼氏彼女の関係になって、結婚して、ということなら確かに不幸かもしれない。それでも私は、紗絵ちゃんは幸せだと思う」
 柚紀の言葉は、とても優しかった。
 紗絵を言い含めるというよりは、できれば届いてほしい、そのくらいの感じで。
「だからね、もう少し自分に自信を持った方がいいと思うよ。あと、少なくとも私に対しては意地を張らなくてもいいんだよ。ま、心情的には意地を張りたくなる気持ちもわかるけど」
「……だったら、言わないでください」
 紗絵は、少しだけむくれてそう言う。
「それは無理だよ」
「どうしてですか?」
「だって、紗絵ちゃん、カワイイから」
「は?」
「圭太とか、男の人にとっては放っておけないって感じなんだろうけど、私にしてみたら、いじってたいって感じかな」
 そう言って笑う。
「紗絵ちゃんもさ、もう少しだけ素直になってみれば? きっとその方がもっともっと楽しくなるよ」
「……努力はします」
「うん、それでいいと思うよ」
 紗絵が、柚紀を本当の意味で嫌いになれないのは、こういうところがあるからだろう。今だって、紗絵のことなど無視すればいいのに、わざわざ声をかけて、諭してくれる。
 確かに紗絵にとって柚紀は、ある意味では『仇』である。
 でも、それだけではない。紗絵にとって柚紀は、ある意味では『憧れ』でもあるのだ。
 自分がなれなかったものになれた、憧れの対象。
 さらに言えば、よき『姉』でもある。
 自分にとって不利になるかもしれない状況を作り出す相手に、わざわざアドバイスしているのだから、これ以上ないくらいのお人好しである。
 でも、だからこそ嫌いになれないし、好きになってしまうのだ。
「さてと、そろそろ戻ろっか。圭太も先生との話、終わってるだろうし」
「あの、柚紀先輩」
「ん?」
「今日、圭太先輩を誘ってもいいですか?」
「んふふ、それはダメ」
 笑って柚紀は、先に歩き出した。
「……ケチ」
 文句を言いながらも、紗絵も笑っていた。
 
 圭太と柚紀は、練習が終わる前に学校をあとにした。
 当初は最後まで残っているつもりだったのだが、後片づけなどで邪魔になる可能性があったので、早めに出ることにした。
「そういえば、紗絵とはなにを話してたんだい?」
「ん、ちょっとね、女同士の話だよ」
「ふ〜ん……」
「気になる?」
 柚紀は上目遣いに覗き込み、訊ねる。
「別に気にならないよ。だいたい、どっちから話を振ったのかは、わかりきってるし」
 だが、圭太の態度や言葉は素っ気ない。
 途端、柚紀はむくれた。
「その言い方はひどいと思う。そりゃ、私が紗絵ちゃんに話そうって言ったけど。でも、そのなんでもわかってるから、みたいな態度はないよ」
「別にそこまでは思ってないよ」
「ウソ。じゃなかったら、即答しないもん」
 頬を膨らませ、抗議する。
「ホント、最近の圭太は私に冷たいよね。扱いがぞんざいになってる気がする」
「それは被害妄想だよ」
「そんなことないよ。優しくない」
「…………」
 圭太は、少し考え──
「じゃあ、少し距離を置く?」
「えっ……?」
 あまりにも予想外な言葉に、柚紀は足を止めた。
「近すぎてわからないことがあるなら、離れてみるしかないと思うんだ。柚紀の言う通り、僕が冷たいのかもしれないけど、少なくとも僕はそう思えない。だったら、どうするか。わかる位置に自分を置くしかない」
「で、でも……」
「僕たちもつきあってからもう結構経つからね。いろいろわかってるつもりになってたのかもしれない」
「…………」
 圭太の言葉は、それはそれで正しい。
 だが、今の柚紀にそれを受け入れられるだけの心の準備ができていなかった。
「だから──」
「……ヤだ」
 柚紀は、圭太の腕をつかみ──
「そんなのヤだよぉ……圭太と離れるなんて、無理だよぉ……」
 泣きそうな顔で懇願する。
 ここが往来であるにも関わらず、必死に訴える。
「離れなくちゃわからないことなんて、そんなのどうでもいい。私は圭太とずっと一緒にいたいの」
「柚紀……」
 圭太も、柚紀ならこうなってしまう可能性は理解していた。
 それでも言うべきことは言わなくてはならないと思って、言ったのである。
「ね、圭太。離れるなんて、やめよ?」
「いいの、それで?」
「いいの。圭太と離れることに比べれば、ほかのことなんて些細なことだから」
「わかったよ」
 圭太がそう言うと、柚紀は本当に心からホッとしたように笑顔を浮かべた。
「ごめんね、圭太」
「ん、なにが?」
「意地張っちゃって」
「気にしてないよ。それに、僕もちょっと大人げなかったから」
「うん」
 圭太としても、売り言葉に買い言葉で言ってしまったところがあった。
 本心としては、もちろん柚紀と離れたくないと思っている。
「ね、圭太」
「ん?」
「今日はお詫びに、私になんでもさせて」
「お詫びなんて必要ないよ。僕だって悪かったんだし」
「ううん。私がそうしたいの」
 こうなると、柚紀もなかなか引かない。
「わかったよ。今日は柚紀の好きにしていいよ」
「あはっ、ありがと」
 いつの間にかさっきまでの雰囲気は消えていた。
 これがこのふたりのいいところでもある。
 もっとも、そうなる前になんとかならないものかと、圭太は考えてもいたのだが。
 
 家に帰ると、柚紀は先に圭太の部屋に向かった。
 圭太には部屋に入ることを禁じ、結局圭太はリビングで待つことになった。
「なにをしてるんだか……」
 柚紀が隠し事をする時は、たいていなにかよからぬことを企んでいる。
 ただ、今日に限っていえば柚紀のお詫びの気持ちからのことなので、大変なことにはならないだろうとは思っていた。
「あら、帰ってきてたのね」
 そこへ、琴美が店から入ってきた。
「琴絵たちは?」
「まだ練習中だよ。僕たちがいると片付けとかで邪魔になると思って、先に帰ってきたんだ」
「そうだったの」
 そう言いながら、圭太の隣に座る。
「……あのさ、母さん」
「ん?」
「なんでわざわざ隣に座るわけ?」
「ダメ?」
 上目遣いに訊く。
「……息子に対して色仕掛けはやめた方がいいよ」
「そういう風に言うってことは、多少は効いてるってことね」
「さあね?」
 年齢不相応な若さと美貌を兼ね備えている琴美ではあるが、祐太が死んでからはそれを磨くことも使うこともなかった。
 しかし、このところの圭太に対する想いの変化で、再び女としての『武器』を使いはじめている。
 圭太もそれが自分に対して向けられていることを除けば、いい傾向だと考えていた。
「ところで、柚紀さんは?」
「部屋。僕は閉め出されてここにいるの」
「またなにか企んでるのね」
「……不安を煽るようなことは言わないで」
「いいじゃない。それくらい柚紀さんはあなたのことが好きなんだから」
「それはそうかもしれないけど……」
 心穏やかに過ごしたいだけなのだが、柚紀と同性の琴美にはわからないのかもしれない。
「どうやら準備できたようね」
 階段を下りてくる音が聞こえてきた。
「お待たせ」
「あらまあ」
 リビングに入ってきた柚紀は、制服姿でも私服姿でもなかった。
「あ、琴美さんもいたんですね」
「ちょっと休憩中なの。でも、そのおかげでいいものが見られたわ」
「これですか?」
 そう言って柚紀は、スカートの裾をつまんだ。
「でも、よくそんなもの、持ってるわね」
「もらったんですよ。じゃなかったら、さすがの私も持ってませんから」
「それにしても、とてもよく似合ってるわ。すごくカワイイ」
「ありがとうございます」
「圭太もそう思うわよね?」
「そりゃね」
「んもう、なにを照れてるのよ、この子は」
 照れてるわけではないのだが、圭太は反論しない。
「だけど、なんでそれを着ようと思ったの?」
「今日は、圭太に目一杯『ご奉仕』しようと思って。そうすると、この格好が一番いいと思ったんです」
「なるほどね」
 柚紀は、以前見たメイド服を着ていた。
 琴美の言う通り、とてもよく似合っている。
「というわけで、今日の私は圭太専用の『メイド』です」
「だって、圭太」
 圭太は、ただただため息をつくしかなかった。
 琴美が店に戻ると、早速柚紀の『ご奉仕』がはじまった。
 まずはお湯を沸かして、お茶を淹れる。さすがにお菓子までは作る余裕がなかったので、買い置きのお菓子を圭太に出してもらった。
「はい、圭太」
 柚紀は、カップを持ち、圭太に飲ませようとする。
「そこまでしなくてもいいよ」
「ダ〜メ。今日は徹底的にやるって決めたんだから」
「やってくれるのはありがたいんだけど、そういうことくらいは僕がやるよ」
 そう言って柚紀からカップを奪い取る。
「むぅ……」
 カップを奪い取られた柚紀は、とても不満そうである。
「じゃあ、とりあえずそれ飲んで」
「……なにをするつもり?」
「いいから」
 こうなるともはや『ご奉仕』とは呼べないのだが、圭太としてはもとからそのつもりはなかったので、むしろよかったと思っていた。
 言われた通りにお茶を飲み干す。
「飲んだけど?」
「じゃあ、はい」
 柚紀は、ポンポンと自分の足を叩く。
「えっと……念のために訊くんだけど」
「うん」
「それは、僕にそこへ寝転がれと?」
「うんっ」
 完璧な笑顔で、反論を許さない雰囲気があった。
 で、圭太としてはそれに従うしかないわけで。
 圭太が頭を載せると、柚紀は嬉々とした表情でその髪を撫でた。
「……ところでさ、柚紀」
「どうしたの?」
「なんでその服が、この家にあるわけ?」
「えっとね、本当はイヴに着ようと思ってたんだ。ほら、やっぱりイヴは特別な日だから。それで、今日のうちに持って行こうと思って」
「じゃあ、それが今日ここにあるのは、偶然なんだ」
「うん」
 もしそこまで計算していたのだとしたら、さすがの圭太でも閉口していただろう。
「で、これを選んだ理由は、この前着なかったというのもあるんだけど、祥子先輩がこれを着てたって言ってたから、負けたくなくて」
「……勝ち負けの問題じゃないと思うんだけど……」
「いいの。これは私と祥子先輩の問題なんだから」
 この場に祥子がいなくとも、それはそれで気になるらしい。
「そんなことよりも、圭太」
「なに?」
「なにかしてほしいこと、ある?」
「特にないよ」
「そんなこと言わずにさぁ。なんでもいいよ。エッチなことでもエッチなことでもエッチなことでも」
「……それは、柚紀がしたいんじゃないの?」
「ん〜、したいけど、私から言うのはねぇ」
 しれっとそんなことを言う。
「……それはまた夜にね」
「約束だよ?」
 どういう過程を経てもそこへたどり着くのだが、少なくとも目的のひとつを約束させられ、柚紀はご満悦である。
「ん、どうかした?」
 と、圭太が柚紀の顔をじっと見つめている。
「いや、なんでもないよ」
「気になるよぉ」
「言うと、柚紀、絶対照れるし」
「照れる?」
「うん。前にもこんなことあったし」
「……ん〜……」
 必死に思い出そうとするが、なかなか思い出せない。
 圭太とのことなので些細なことではないのだが、それでもあまり印象に残っていなければ、やはり思い出すのは難しい。
「ダメ、思い出せない」
「その方がいいよ」
「でも、気になるよ。教えて」
「……しょうがないなぁ」
 圭太は小さくため息をついた。
「僕が見てたのは、柚紀の顔だよ」
「それはわかるけど」
「どうして見てたかといえば、綺麗だなって思って見てたの」
「あ……」
 そこまで言われて、どうやら過去にもあったことを思い出したらしい。
「ほら、やっぱり照れた」
「だ、だってぇ……」
「まあでもね、柚紀の顔はいつまでも見ていたいくらい、綺麗だよ」
「……んもう、調子いいんだから」
 そうは言いながらも、まんざらでもない様子である。
「圭太もね、カッコイイよ。ずっと見つめていたいくらいにね」
「ありがとう、柚紀」
 端から見たらとてもバカみたいなやり取りではあるのだが、ふたりには関係ない。
 好きな相手を褒めることに、遠慮はいらないというわけである。
「ん……ふわぁ……」
「眠い?」
「いや、そんなことはないけど。柚紀の膝枕が気持ちよくて」
「いいよ、少し寝ちゃっても」
「目を閉じて眠かったら、そうするよ」
「うん」
 圭太が目を閉じると、柚紀は再び圭太の髪を撫ではじめた。
 膝枕で髪まで撫でられたら、圭太でなくても気持ちよくて眠くなる。
 程なくして、圭太はかすかな寝息を立てはじめた。
「寝ちゃった……」
 自然と柚紀の頬が緩む。
「やっぱり、圭太の寝顔はカワイイな」
 この寝顔を最も多く見ているのは、ほかならぬ柚紀である。
 それだけ多くの時間を圭太と過ごしている証でもある。
 しかし、今日はいつもとは状況が違った。
「ただいま〜」
 部活を終えた琴絵と朱美が帰ってきた。
 ふたりとも圭太たちが帰っていることは知っているので、とりあえずリビングに顔を出した。
「ただい、ま……」
 で、ふたりともほぼ同じリアクションで止まった。
 まあ、さすがにメイド服姿の柚紀が、圭太に膝枕していれば、そんな感じになるのもしょうがない。というか、想像すらできないことだっただろう。
「おかえり、ふたりとも」
「ゆ、柚紀さん。その格好は……?」
「これ? ちょっといろいろあってね。ちなみに、これ自体はお姉ちゃんからもらったものだから」
 柚紀は特に慌てた様子もなく、いつも通りの表情で相対する。
「カワイイでしょ?」
「カワイイですけど……」
 ふたりにとっては、柚紀の格好もさることながら、その柚紀に膝枕をしてもらって圭太が眠っていることにも驚いていた。
 圭太と柚紀の関係を考えれば、そんなことは日常茶飯事であると考えてもおかしくはないのだが、目の前でされるとさすがに心境は複雑である。
 だが、同時にこうも思っていた。
 もし膝枕をしているのが自分でも、圭太はこれだけ穏やかな表情で眠れるだろうか、と。
「圭太の寝顔もカワイイよ」
「お兄ちゃんは、もうだいぶ寝てるんですか?」
「ううん。ついさっきだよ。たぶん、眠りは浅いはずだから、こうして話してると起きちゃうかも」
「あ、そうですね」
 言いながら口に手を当てる。
 なんとなくお約束な行動だが、たぶん、かなりの人がそうしてしまうだろう。
「あの、柚紀先輩」
「ん?」
「柚紀先輩は、どうして圭兄を自分に振り向かせられたと思ってるんですか?」
 朱美は、唐突にそんなことを訊ねた。
 今更な感じもする質問だが、今まで誰も訊ねたことはなかった質問だった。
「そうだなぁ……」
 柚紀は、圭太の髪を撫でながら、目を細める。
「正直言えばね、私にもわからないんだ」
「わからないんですか?」
「確かにね、一高に入学して、同じクラスになって、席が隣になって、部活も同じになって、少しずつ圭太を知っていくうちに、圭太とだったらつきあってもいいな、って思うようにはなったよ。なんたって、見た目も中身も抜群だからね。だから、好きになったのは私の方が先。ただね、そこからすぐに自分のことを好きになってもらいたいとか、そんな風には思わなかったかな」
「どうしてですか?」
「だって、恋愛って、一方通行じゃ意味ないから。好きになってもらう前に、まずは私のことを知ってもらわないといけないから」
「確かにそうですね」
 片想いで自分の気持ちだけ押しつけるのでは、ある意味ではストーカーと一緒である。
「圭太と一緒の時間が増えていくにつれて、圭太も私のことをわかってきたんだと思う。だからこそ、私の無茶なお願いも聞いてくれたし」
 かつての『彼氏役』の話は、ふたりとも知っている。
「ただ、最終的にどうして私に振り向いてくれたのかは、私にはわからない。もちろん、これかな、っていうのはあるけどね」
「それって、なんですか?」
 いつの間にか、琴絵も身を乗り出すように聴き入っている。
「まずひとつには、私が今まで圭太のまわりにはいなかったタイプだったから。ああ、この場合はそれなりにつきあいのある中で、という但し書きがつくけどね」
「はい」
「自分で言うのもなんだけど、私はともみ先輩とも祥子先輩とも違うし、朱美ちゃんや紗絵ちゃんともやっぱり違う。もちろん、鈴奈さんともね。だから、単純に興味を惹かれたのかもしれないよ」
「それはあるかもしれませんね」
 人間の行動原理など、そんなものである。実に些細なことが原因となり得る。
「次に、高校生になって最初から一緒にいたから」
「それは、柚紀先輩だけじゃないんじゃないですか?」
「ん〜、確かにそうなんだけど、ほら、私は教室でも部活でも一緒だったから。必然的に圭太の中での順位が上がっていったんだと思う。特に、新生活ということもあって、圭太自身もなにか中学の頃とは違うことを求めていた可能性はあったし」
「そこに柚紀先輩がいた、ということですね」
「うん」
 出逢いこそ偶然ではあるが、その後については、偶然をそのまま放置するか、偶然を必然だったとまで思わせるほど積極的に行動するかで、まったく違う結果になる。
「あとは、琴絵ちゃんも朱美ちゃんも認めがたいかもしれないけど、やっぱり私と圭太の相性の問題かな。私と圭太は、それこそパズルのピースのごとく、相性が合ってた。だから、圭太は私に振り向いてくれた」
 それを言われるとなにも言えないが、だからこそ、一番説得力があった。
「今にして思えば、あの時、圭太を『彼氏』にして正解だったなぁ。じゃなかったら、今これだけ幸せを感じられてなかったと思う」
「…………」
「とりあえず、私はそんな風に思ってるの」
 それが正解かどうかはわからないが、柚紀から見たらそういうことになるのかもしれない。
「本当のところは、圭太に訊いてみないとわからないわ。私には教えてくれないかもしれないけど、朱美ちゃんが訊いたら教えてくれるかも」
「……そうですね。今度、訊いてみます」
 一応そう答えた朱美だが、正直言えば圭太に訊ねるつもりはなかった。
 この場合は、圭太側の視点よりも、柚紀側の視点の方が重要だからである。
 朱美は、参考にするかどうかは別問題として、純粋に柚紀がどうやって圭太を振り向かせたのか、知りたかったのだ。
 もちろん、そこから自分でもできそうなことをやってみようかな、程度の気持ちはあったかもしれない。
「でも、どうしてそれを今訊いたの?」
「いえ、なんとなくです。特に理由はありません。ふと、思いついたので」
「そっか」
 柚紀としても朱美がそれだけの理由で訊いたのではないことくらいわかっていた。ただ、今はそれを否定する必要はなかった。
「そういえば、柚紀さん」
「ん、なに?」
「今日は泊まるんですか?」
「そのつもり。それにほら、明日はクリスマスコンサートがあるから、こっちから出た方が楽だし」
「確かにそうですね」
「ま、その理由は後付なんだけどね」
 そう言って笑う。
「えっと、柚紀さん。もうひとつ訊きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「柚紀さんが今着てるメイド服ですけど、もらったんですよね?」
「そうだよ。お姉ちゃんがなんかそういうのを扱ってる人からいろいろもらって、で、自分で着るつもりはないからって、私にくれたの」
「いろいろ、ですか?」
「ああ、うん。これのほかにもいくつかもらったの。チャイナ服とかナース服とか」
「…………」
 琴絵は、それを聞き、なにやら考えている。
「朱美ちゃんは、一高祭で着たよね?」
「はい。服自体は可愛くて好きですけど、やっぱり大勢の前で着るのはもう勘弁してほしいです」
「圭太の前だったら、OK?」
「それはもちろんです」
 即答だった。
「あの、柚紀さん。ちょっとお願いがあるんですけど……」
「なにかな?」
「その、私のその服を、貸してもらえませんか?」
「琴絵ちゃんに? この服を?」
「はい」
「それは構わないけど、なんで?」
「……えっと、私もカワイイ服を着てみたいなぁ、なんて」
 そう言いながら、見ているのは圭太である。
 それだけで柚紀もわかったようである。
「なるほどね。じゃあ、今度ほかのも持ってくるから、好きなの選んでいいよ」
「ホントですか?」
「うん。あ、ただ、サイズは私にあってるのだから、琴絵ちゃんにあうかどうかはわからないよ?」
「うっ……」
 琴絵は、自分の体を見下ろした。
 確かに同年代の女子に比べても引けを取らないプロポーションだが、柚紀と比べるとさすがに劣る。特に胸が。
「まあでも、着てみないとわからないからね」
「はい」
 一応頷いた琴絵ではあるが、最悪パットでも入れようかと、本気で考えていた。
「ところで、ふたりは着替えなくていいの?」
「え……」
「あ……」
 ふたりは未だに着替えていないことに気付いた。
「圭太の寝顔をずっと見ていたいのはわかるけど、とりあえず着替えてきたら?」
「そうします」
 ふたりがリビングを出て行くと──
「ホント、ふたりってカワイイよね」
 柚紀は独り言のようにそう言った。
「……柚紀が煽ってた気がするんだけど」
 だが、それに答えたのは寝ていたはずの圭太だった。
「よ……って、柚紀、額を押さえられると、起き上がれないんだけど」
「まだ寝てなさい」
 圭太の額を押さえつけ、起き上がれないようにする。
「……それで、柚紀は僕になにを訊きたいの?」
「えっ、なんで?」
 柚紀は、わずかに視線を逸らした。
「だってさ、わざわざ僕が起きてるのを知っていながら、あんなことを言ったんだから。それはつまり、僕に訊きたいことがあるってことでしょ?」
「……圭太に理詰めで責められたら、なにも言い返せないよ」
 嘆息混じりに苦笑する。
「で、圭太。実際はどうなの?」
「……正直言えば、僕にもわからないよ。さっき柚紀が言ってたような理由も、あるのかもしれない。それ以外のこともあるかもしれない」
「人の気持ちはわかりにくいけど、自分の気持ちはもっとわかりにくい、か」
 なるほどと頷く。
「柚紀はどう?」
「私は単純だよ。だって、私は圭太にいわば一目惚れしちゃったんだから。あとは、知れば知るほど好きになって、気付いたら圭太以外どうでもよくなってた」
「確かに単純だね」
 圭太も笑う。
「でもね、そこに至るまでの過程が単純だったかといえば、そうじゃないんだよ。一目惚れはしたけど、それって結局熱病みたいなものでしょ? それが本物の想いかどうか確認しないうちは、やっぱり次には移れないから」
「そっか」
「ま、結局、私のその想いは本物で、しかも筋金入りどころか、ダイヤモンドくらいの硬度があったってわけ」
「そうすると、僕はそんな柚紀の『本物の想い』に惹かれたのかもしれないね」
「だけど、それは私だけじゃなくて、先輩たちや朱美ちゃんたちだってそうでしょ?」
「それはそうなんだけどね」
 今度は苦笑する。
「ただ、言い方は悪いかもしれないけど、僕は先輩たちの想いには応えちゃいけない気もしてたんだ」
「なんで?」
「僕がそう思ってるわけじゃないんだけど、まわりから見れば僕はある意味、不幸な部類に入るから。父さんが死んで、母さんと琴絵を守らなくちゃいけなくて、自分のことは常に二の次で。あの頃にみんなの想いに応えたら、弱味につけ込ませたみたいでイヤだったんだ」
「そういうことか」
 相手を自分のモノにするのに絶好の機会は、相手が弱っている時である。特に精神的に弱っている時は、落ちやすい。
 だが、そこで成立した関係が真実のものであるかどうかは、また別問題である。
「一高に入って、僕自身も今までとは少しだけスタンスを変えてみようかなって思ってた部分はあったんだ。もちろん、急に変えるのは無理だったろうけど」
「そこに私がいた、と」
「うん」
 それこそが、運命の出逢いと呼べるものである。
「僕が好きになれたのが、柚紀で本当によかったよ。柚紀じゃなければ、僕はきっと、ここで相手のことを考えることはなかっただろうから」
「ま、影響を与えすぎて、大変なことになってるけどね」
「それを言われるとなにも言えないよ」
 相手が柚紀でなければ圭太は未だに誰ともつきあっていなかったかもしれない。柚紀とつきあったから、たくさんの相手と関係を保つことになった。
 どちらにしても難しい問題である。
「ところで、圭太。なにかしてほしいことある?」
「特になによ。というか、もうこうやって膝枕してもらってるし」
「ホント、圭太のそういうところって、全然変わらないよね。もっともっと主張した方が得すると思うんだけど」
 圭太の問題のはずなのに、柚紀の方が不満そうである。
「つきあいはじめた頃も、手を繋ぐこともキスをするのも、全部私からだったし。そりゃね、したくもないことを主張するのは無理だとは思うよ。でも、圭太にだってそういう欲求は絶対あるはずなんだから、少なくとも私に対してはどんどん言ってくれなくちゃ」
「まあ、それは今後の検討課題ということで」
「検討課題じゃなくて、すぐに実行してくれなくちゃ」
「ん〜、それはとりあえず、あのふたりがいない場所で、ということで」
「えっ……?」
 慌ててドアの方を見ると、琴絵と朱美がもつれ合って転んでいた。
 どうやら着替え終わり、盗み聞きしていたようである。
「え、えっと……そのぉ……」
「べ、別に盗み聞きするつもりはなくて……えっと……」
「んもう、琴絵ちゃん、朱美ちゃん」
『は、はい』
「前にもあったよね、こういうこと」
『うっ……』
「大好きな人のことが気になるのはわかるけど、やっぱりダメだよ、そういうことは」
『はい……』
 全面的にふたりが悪いので、なにも言い返せない。
「これに懲りたら、二度としないこと。いい?」
「はい、すみませんでした」
「もうこれっきりにします」
「うん」
 柚紀は自分は妹なのだが、こういう場面では姉のようになる。
 それは琴絵や朱美が年下だということもあるのだが、近い将来、本当にそういう立場に立つという想いもある。
 あとは、圭太の前では格好悪い姿を見せたくないという想いも、多少はあるかもしれない。
「だけど、二度目だということで、罰が必要だよね」
『えっ……?』
「圭太もそう思うよね?」
「まあ、今回はしょうがないかな。ふたりに釈明の余地はないわけだし」
「というわけ」
 確かにふたりには言い訳のしようもない。そんなふたりをさすがの圭太も弁護できない。
「……あの、罰って、なんですか?」
「そうだなぁ、なににしようかなぁ……」
 柚紀は少しいぢわるな笑みを浮かべ、考える。
「じゃあ、今日からイヴまでの三日間、いっさい圭太に関わらないこと」
『ええーっ!』
「簡単でしょ? たったの三日間なんだから。それに、そのうちの一日である今日は、もうたいして残ってないし」
 普通に考えれば簡単なことではあるのだが、このふたりにとっては死活問題である。
 ふたりにとって側に圭太がいて、圭太とともに生活するということが、日々の活力になっている。そこにはもちろん、話しかけたり、スキンシップを取ったりという、具体的な行動も含まれている。それがすべてダメということになれば、コンセントが繋がっていない電化製品のごとく、活動停止に追い込まれる可能性すらある。
「え、えっと、柚紀さん。その罰だけは、やめませんか? というか、お兄ちゃん絡みの罰はちょっと……」
「ダメよ、それじゃ。だって、罰なんだからふたりがイヤだと思うことをしなくちゃ意味がないもの」
 これもその通り。
「だから、罰はさっき言ったことで決定。いい?」
『はい……』
 ふたりは、力なく頷くと、そのまま部屋へ戻ってしまった。
「ちょっと、言い過ぎかな?」
「いや、ふたりにとってもいい薬だと思うよ。妹と従妹という立場にいて、なにをしても許されると思われると、これから先困るし」
「そうだね」
 圭太と柚紀が一緒になっても、琴絵と朱美との関係は変わらない。それは、ふたりが家族だからである。
「だけど、もし私が同じ罰を与えられたら、死んじゃうかも」
「それは大げさじゃない?」
「全然大げさじゃないよ。それにほら、今日私がこんなことしてるのだって──」
「……ああ、そういえばそうだね」
「私はウサギなの。淋しくなると、死んじゃうんだから。だから、圭太は私の側にいてくれないとダメなの」
「わかったよ」
 そんな風に言われたら、圭太でなくとも頷くだろう。
「さてと、今日は私が料理をしてもいいのかな?」
「さあ、それは母さんに訊いてみないとわからないけど」
「じゃあ、訊いてこないと」
「やる気満々だね」
「当然。今日は全力で圭太のための料理をするんだから」
 そう言ってニコッと笑った。
 
 その日の夜遅く。
「やっぱり圭太って、特殊なシチュエーションだと積極的だよね」
「……ノーコメント」
「今日だって、すごかったし」
 柚紀は、とても楽しそうに、嬉しそうにそう言う。
「あんなに激しくされて、壊れちゃうかと思った」
「……あのさ、それを言ったところでどうにもならないんだから、言うのやめない?」
「ふふっ、ま、いいけどね、私は」
 昼間の約束通り、ふたりは風呂場とベッドで何度もセックスした。
 圭太の言い分としては、柚紀が求めてくるから、ということになるのだが、それでもそれに応え、しかも多少自らも求めてしまったところで、それ以上なにも言えないのである。
「ここ最近のエッチは、圭太をそのまま感じられるから、すごくいい」
「どういう意味?」
「ん、ゴムなしでやってるからだよ。そりゃね、いろいろなことを考えると普段は無責任なことはできないのはわかってるけど、やっぱり違うんだよね。だから、今は心配する必要がないから、私も圭太も安心してできてる。それが精神的にもすごくいい」
「そういう意味か」
「圭太もさ、生の方が気持ちいいでしょ?」
「まあ、それはね」
 圭太も否定しない。
「あ、でも、年が明けたらセックス自体も考えなくちゃいけないね」
「ん、そうだね」
「負担をかけない程度には続けたいけど、それもいつまでできるかどうか」
「そのあたりは、先生にも訊いてみればいいよ」
「うん、そうする」
 妊娠していても性欲自体がなくなるわけではない。それを無理に抑え込んだところで、精神的によくない結果を生む。
 さらにいえば、夫婦間の関係にも影を落としかねない問題なので、そのあたりはきっちりしなくてはいけない。
「……あと、二日か」
「ん?」
「私が、笹峰柚紀なのも」
「そうだね。でも、すごく不思議だよ」
「なにが?」
「柚紀が『家族』になるんだから」
 圭太は、本当に感慨深そうに言う。
「もちろん、今も柚紀は『家族』だと思ってるけど、正真正銘の『家族』になるわけだから」
「まあ、そんなもんじゃないのかな。恋人だって、元は他人なんだから。その他人がある意味では肉親以上の関係になる。やっぱり不思議だと思うよ」
 家族と他人の線引きなど、曖昧なものでしかない。
 血の繋がりですら、危うい。本来はあってはならないことだが、血の繋がった者が血の繋がった者を殺すことも、ままあることだ。
 それを考えると、他人から家族への関係は、実に不思議である。
「あ、そうだ。圭太」
「どうしたの?」
「お正月に、うちに来てね」
「正月に? それは構わないけど、なんで?」
「いろいろね、相談しなくちゃいけないことがあるんだ」
「相談しなくちゃいけないこと?」
 圭太は首を傾げた。
「とはいっても、すぐのことじゃないんだけどね。具体的に言うと、春からのことだよ。一高を卒業して、私がこの子を産んでからのこと」
「ああ、なるほどね。確かに、相談しなくちゃいけないね」
「私は、一日でも早くこの高城家に入りたいんだけど、それもすぐにはままならないかなって」
「僕としては、基本的には柚紀と生まれてくる子のことを最優先に考えたい。もちろん、僕だってふたりと一緒にいたいよ。でも、それをするためになにかを犠牲にしなくちゃいけないなら、僕はそれを選ばない」
「ふう……」
 柚紀は小さく息を吐いた。
「ま、圭太ならそう言うとは思ってたけどね」
「僕としては、そうとしか言えないよ」
「それはわかってる。でもね、圭太。夫婦と親子は、一緒にいるべきだと私は思うの」
「…………」
「そりゃね、私にとって一番安心して過ごせるのは、自分の家だよ。そこで生活していれば、余計なことに煩わされることなく、子育てに専念できる。だけど、それがイコールすべてではないんだよ。優先すべきことはいろいろあると思う。圭太の言うことももっともだと思う。でもさ、少しくらい不都合なことがあっても、それって乗り越えられないことじゃないよ。だって、なにかあったら圭太も一緒に解決してくれるでしょ?」
「うん」
「だったら、もうどうすればいいかなんて、決まってるでしょ?」
「……そうだね」
 言い負かされたわけではないのだが、圭太は小さくため息をついた。
 柚紀の前向きなところが、とても羨ましいのである。
「ただ、それも私たちだけの問題じゃないから、相談する必要があるの」
「柚紀としては、どうなると思ってるわけ?」
「そうだなぁ……まず、お姉ちゃんは論外として──」
「はは……」
「お母さんは特になにも言わないと思う。むしろ、さっさと家を出てくれと思ってるかも」
「う〜ん……」
「問題は、お父さんかな。どういう反応を示すかわからないから」
「柚紀がわからないんじゃ、僕にはとてもわからないなぁ」
「この問題だけはね、さすがにいつもみたいというわけにはいかないから」
 いつもみたいというのは、柚紀や真紀が威嚇して話を進めてしまうことである。
「お父さんにとっても、初孫だし」
 いつもはないがしろにされていても、そこはやはり柚紀にとっては大切な父親である。通すべき筋だけは、通さなくてはならない。
「ま、そのことはその場で考えればいいよ。私と圭太の考えは決まってるんだから」
「うん、そうだね」
「今はただ、圭太にその約束だけしてもらいたかっただけだから。ついでにお互いの本音もわかって一石二鳥」
 にっこり笑う柚紀。
「というわけで、圭太」
「ん?」
「えいっ」
 柚紀は、思い切りよく圭太に抱きついた。といっても、ベッドの中なのでたいした威力もなかったが。
「朝までこのままでいさせてね」
「了解」
 柚紀の髪を軽く撫で、圭太は微笑んだ。
 
 四
 十二月二十三日。
 クリスマスイヴ前日。
 圭太は、朝から出かける準備をしていた。
 出かける先は、県民会館。クリスマスコンサートを聴きに行くためである。
 演奏する琴絵と朱美は、集合時間までに県民会館に行けばよいということで、圭太たちと一緒に行くことにした。
 圭太と一緒に行くメンバーは、柚紀、琴美、琴絵、朱美となった。
 ほかにもともみと祥子、幸江も行く予定ではあるのだが、ほかの用事があるせいで朝からというわけにはいかなかった。
 準備が終わると、五人は揃って家を出た。
 柚紀と琴美はいつもと変わらない表情だが、琴絵と朱美は見るからに憔悴していた。
 どうやら、柚紀の罰がかなり効いてるようである。
「昨夜から気になってたんだけど、あのふたりはどうしたの?」
 電車の中で、琴美が訊ねた。
「あはは、すみません。あれ、私のせいなんです」
「柚紀さんの?」
「実はですね──」
 柚紀は、簡単に昨日のことを話した。
 それを聞いた琴美は、呆れ顔で言った。
「まったく、あのふたりはどうしようもないわね」
「それだけ圭太のことが好きってことでもあるんですけどね」
「だとしても、やっぱり盗み聞きはよくないわ。我が娘と姪ながら、情けない」
 ことが圭太に関係していることでもあるので、琴美も辛辣である。
「お灸を据えるにはちょうどいいわ。もうしばらく、あのままでいてもらいましょう」
 その言葉に、圭太と柚紀は顔を見合わせた。
 結局、県民会館に着くまで圭太から声をかける以外、ふたりから圭太になにかすることはなかった。
 県民会館は、大勢の観客で埋まっていた。
 コンクールとは違い、堅苦しい演奏ばかりではないので、観客にとっても肩肘張ったものにはならない。そのあたりが受けている。
 一高の出番は午後のため、午前中は琴絵も朱美も客席で演奏を聴くことになった。
 毎年のことながら、このコンサートはお祭りみたいなものである。
 肩の力を抜き、気楽に聴けるのがこのコンサートのいいところである。
 圭太も今年は演奏者ではないので、最初からとことん楽しむつもりでいた。
 午前中の演奏もあと三つで終わるという頃──
「ん、携帯が……」
 圭太の携帯が震えた。
 ディスプレイを見ると、紗絵からのメールだった。
「柚紀。ちょっと出てくる」
「どうしたの?」
「紗絵たちが外にいるみたいだから」
「えっ、あ、ちょっと……」
 柚紀が止める間もなく、圭太は席を離れた。
 ちょうど客席の明かりが落とされたところで、外へ出るにはちょうどよかった。
 ロビーもかなりの人出で、騒然としてる分だけこちらの方がやっかいだった。
 圭太はそれを横目に見ながら、正面入り口まで出てきた。
「さて、と……」
 大勢の人の中から目的の人物を探す。
 普通なら困難な作業なのだが、これは圭太に分があった。
「紗絵、詩織」
 少し遠目から声をかけた。
 すると、すぐに反応があった。
「先輩」
 大好きなご主人様を見つけた犬のように、ふたりはすぐに圭太の側にやって来た。
 圭太から見ると、このふたりはよく目立つので、すぐに見つけられたのである。
「おはよう、ふたりとも」
「おはようございます」
 ふたりは軽く頭を下げる。
「一緒に来たのかい?」
「いえ、たまたま同じ電車になったんですよ」
「改札のところでばったり。それで一緒に」
「なるほど」
「先輩たちは、いつ来たんですか?」
「最初からだよ。今年は演奏することもないし、だったら最初から最後まで楽しもうと思って」
「そうだったんですか」
 ふたりにしてみれば、その可能性は考えないでもなかったのである。だから、早めに出ようと思ったのも事実であるが、万が一誰もいないと淋しい結果になる。
 電話なりメールなりで確認するという方法もあったのだが、偶然出逢えた方が得した気分になれるという、微妙な心理が邪魔をして、結局この時間になっていた。
「どうする? もうあとふたつくらいだけど、一緒に聴くかい?」
『はい』
 というわけで、圭太たち三人は、残り二団体を中で聴くことにした。
 さすがに三人一緒だと元いた席には戻れないので、必然的に後ろの方になった。
 席は本当に運良く三つ空いており、圭太を真ん中にして三人で座った。
「ああ、そうだ。ふたりに言っておかなくちゃいけないことがあった」
「なんですか?」
「今日の琴絵と朱美はかなり調子が悪いから」
「そうなんですか?」
「なにかあったんですか?」
「いや、実はね──」
 普段一緒にいることの多いこのふたりには、事情を説明しておこうというのである。
「さすがに演奏にまで引きずることはないとは思うけど、一応少し注意しておいてほしいんだ」
「わかりました」
 本当は圭太が慰めてやるのが一番効果的なのだが、それでは罰の意味がない上に、柚紀からなにを言われるかわからない。そうなると、まわりでなんとかするしかない。
 そこで圭太は、紗絵と詩織に協力を要請したわけである。
「でも、ふたりの気持ち、わかります」
「そうかい?」
「はい。やっぱり、自分の大好きな人のことですから、どんな状況でも気になります」
「まあ、そうかもしれないね。ただ、それでも堪えてほしいことでもあるから」
「そうですね。それは弁解の余地はありません」
「とりあえず今日は演奏に集中してもらって、なんとかがんばってもらうしかないね」
「明日は、どうするんですか?」
「そうだね、可能ならふたりともどこか別のところで過ごしてもらう、とか」
 そう言って圭太はふたりを見た。
「……はあ、わかりました。ふたりにそれとなく訊いてみます」
「さすがは紗絵だね」
「……んもう、こういう時だけ褒めないでください」
 紗絵は、頬を膨らませ、圭太の手を軽く叩いた。
「ごめんごめん」
 それでもその代わりに圭太が頭を撫でると、途端に笑顔になる。
「詩織も、なにかできそうなことがあったら、協力してあげてほしい」
「わかりました」
 もっとも、この段階で真辺家でイヴのお泊まり会が行われることは、ほぼ確定なのだが。
 
 午後になり、観客はますます増えた。
 一高は午後のほぼ真ん中くらいで、演奏する琴絵たちは昼食後から別行動となった。
 その午後から合流したのが、OGたちである。
 で、客席では六人がひとかたまりになって聴くことになった。
 六人が一列に並ぶと離れてしまうので、三人ずつ二列に座った。
 ちなみに、圭太は柚紀と琴美に挟まれる形で前に、後ろにともみ、祥子、幸江が座った。
「そういえば、祥子は二年ぶりなのよね」
「そうですね。去年は忙しくて来られませんでしたから」
「圭太の晴れ姿を一回見逃してるのは、痛いわね」
「でも、それは先輩たちも同じじゃないですか?」
「ま、そうなんだけどね」
 曲の合間にいろいろ話に花が咲く。もちろん、普段でもできる話なのだが、普段とは違う場所だからこそ出てくる話題もある。
「そういや、圭太」
「なんですか?」
「あさってのことなんだけどさ、去年より少し早めにはじめることってできる?」
「できますけど、なにかあるんですか?」
「いや、たいした理由じゃないんだけどさ」
 ともみは曖昧に笑った。
「ほら、去年よりメンバーが増えてるから、ひとりひとりと話そうと思ったら多少長目に時間を取っておかないと無理かなって」
「なるほど。そういうことなら、お昼過ぎくらいからはじめますか? 別に構わないよね、母さん?」
「ええ、いいわよ。どうせ今年はお店も休むつもりだったから、それこそ午前中からでも問題ないわ」
「というわけなので、そうですね……琴絵たちは午前中に部活があるはずですから、二時くらいからはじめるというのでどうでしょうか?」
「私に異論はないわ」
 それぞれに確認するが、誰も異論はない。
「じゃあ、あさっては二時からということで」
 そうこうしているうちに一高の順番が来た。
 今年も二高、三高との演奏で、去年とほぼ同じくらいの人数だった。
「へえ……」
 曲がはじまると、圭太は感嘆の声を漏らした。
「本番でここまでまとまるとはね……」
 二日前の練習の時には、ここまでのまとまりはなかった。
 もちろん、短期間で難しい曲をやってきたわけである。高いクオリティを望むのは酷である。
 それでも本番である程度まとめてきてるわけである。メンバーの気合いの入りようがわかる。
 曲の仕上がりがいいことは、観客席の反応を見てもわかる。それまでの空気が一変し、ある意味ではコンクールにも似た真剣なものになった。
 誰もが真剣にその音に耳を傾け、音楽を聴いている。
 演奏が終わり、観客席に明かりが戻ると、なんとも言えないざわめきが起きていた。
「どうだった?」
「よかったよ。おとといよりずっとまとまってたし」
「うん、そうだね。本番で気合いが入ってたからかもね」
「先輩たちはどうでしたか?」
「短期間でここまでやれるんだから、素直にすごいと思うわ」
「そうね。去年の圭太たちもすごいと思ったけど、今年も負けず劣らずって感じね」
「やっぱり、去年の圭くんたちの演奏に負けたくないって想いもあったのかもね」
 それぞれの演奏に対する評価は高い。
 だが、それはプレッシャーでもある。これから先、引退した先輩からのプレッシャーをどうやってはね除け、自分たちのものにしていくかで、どれだけレベルアップできるかも変わってくる。
 このクリスマスコンサートは、その序章に過ぎない。
 しばらくすると、楽器を片づけたメンバーが客席へと入ってきた。
 さすがにもう空席はほとんどなく、立ったままとなった。
 圭太は、曲の合間を見てメンバーの方へ移動した。
「やあ、みんな」
 圭太がやって来たことで、一瞬騒然とする。
 しかし、ここがホールの中であることを思い出し、すぐに静かになった。
 とりあえず部長である紗絵の側に寄った。
「どうでしたか?」
「紗絵はどうだった?」
「そうですね、今できることはすべてやったという感じですね」
「じゃあ、それが演奏にも出ていたよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「去年もそうだったんですけど、最初はとても無理だと思える内容でも、なんとかなるんですよね」
「それはそれだけみんなが努力したからだよ。努力に見合うだけの結果が与えられた。そういうこと」
「はい」
 去年は自分が無理をさせたことを理解している圭太としては、ある意味では今年も同じようにチャレンジしてくれて嬉しくもあった。
 限界を決めてかかってしまうと、伸びるものも伸びなくなってしまう。
「あの、先輩」
「ん?」
「今日って、このあとはどうするんですか?」
「さあ、どうするのかな。僕は特に決めてないけど」
「えっと……先輩の家に行ってもいいですか?」
「いいけど、紗絵の思ってるようなことはできないと思うよ?」
「い、いいんです。私は先輩の側にいられるだけで十分なんですから」
 紗絵は拗ねたように言う。
「それと、たぶんだけど紗絵がうちに来ることを知ったら、当然詩織も来るって言い出すと思うけど。それに、今日は先輩たちも聴きに来てるし」
「……ううぅ」
「まあ、それでも少しくらいならふたりきりになれると思うよ」
「先輩……」
 まったく期待していなかったわけではないが、圭太からそう言われ、紗絵は本当に嬉しそうだった。
 もっとも、それも本当に少しくらいの時間、もしくは帰りに送る時くらいの時間しか取れない可能性が高いのだが。
 演奏が終わると、詩織が寄ってきた。
「先輩」
「おつかれさま、詩織」
「はい」
 当然のように紗絵とは反対側の圭太の隣に並ぶ。
「柚紀先輩たちはどこにいるんですか?」
「真ん中くらいの──」
 指を差しながら──
「あのあたりにいるよ」
「戻らなくてもいいんですか?」
「戻ってもいいかい?」
 紗絵も詩織もふるふると頭を振る。
「じゃあ、そうするよ」
 言わなくてもいいことを言ってしまうことはよくあることだが、圭太の場合はそれを言われてもイヤな顔ひとつ見せない。
 むしろ、それを言ってしまった相手を気遣ってさえいる。
「そういえば、二高と三高のメンバーはどうしたんだい?」
「えっと、二高はあっちに、三高はあっちに固まってますよ」
「一緒に聴こうとか、そういう話にはならなかった?」
「さすがに人数が多いですからね。それはどこからも出ませんでした」
「そっか」
 さすがに百人からが一緒にいたのでは、ほかの人たちに迷惑になってしまう。
「ん、あれは……」
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっとね」
 圭太は誰かを見つけ、少し考えた。
「紗絵、詩織。ちょっと外すよ」
「えっ……?」
「あ、先輩」
 ふたりが止める間もなく、圭太はその場を離れた。
 それなりに人の多い中、隙間を見つけて器用に進んでいく。
 やがて、目的の場所へと到着した。
 と、ほぼ同時に客席の明かりが落とされた。
 だが、圭太はそれよりも一足早く、目標の人物に接触していた。
「や、金田さん」
「た、高城くん」
 それは、二高吹奏楽部前部長の金田昌美だった。
「……とりあえず、出よう」
「……うん」
 その場で話すのは躊躇われたので、ふたりは一度ホールを出た。
 ロビーは、相変わらず騒然としていた。
「びっくりしちゃったよ。まさか高城くんに会えるなんて」
「それは僕のセリフかな。まさか金田さんに会えるなんて」
 そう言ってふたりは笑った。
「だけど、言われてみると、私の方がここにいる可能性は低かったかもしれないね。高城くんはなにがあっても来るだろうけど、私はそこまでじゃないから」
「でも、今日は来た、と」
「うん。後輩たちがね、今年もいい演奏するから聴きに来てほしいって言うもんだから」
「慕われてる先輩も大変だね」
「高城くんに言われると、嫌味に聞こえちゃう」
「そうかな?」
「そうなの」
 圭太に対する想いに区切りをつけた昌美ではあるが、やはり大好きな人と話ができるということで、とても楽しそうである。
「ね、高城くん。もうこういう機会があるかどうかわからないから、ひとつ、訊いてもいいかな?」
「いいけど、なに?」
 昌美は少しだけ真剣な表情で言う。
「あのさ、私ね、とても気になってることがあるの。うちの学校にいる先生なんだけど、その先生がね、教育実習で一高にいたって言うの。で、その先生に高城くんのことを訊いたんだけど、わからないって」
「うん」
「高城くんは、知ってる? 佐山鈴奈先生って言うんだけど」
 圭太は考えた。ここでなんと言えばいいのかを。
 正直に答えるべきか。誤魔化すべきか。
「名前は聞いたよ。実習生の紹介の時にね」
「……それだけ?」
「どういう意味?」
「気分を害しちゃったらごめんなさいなんだけど、高城くん、佐山先生のこと、知ってるんじゃないかなって」
「どうしてそう思ったの?」
「佐山先生にはね、大好きな人がいるんだって。何度か話してるうちにその人の話も出て。その人は先生より年下で、少なくとも私が聞く限りではほぼ完璧に近い人。まあ、これはものすごく短絡的な結びつけ方でしかないんだけど、佐山先生と高城くんが少なくとも短期間であっても同じ一高にいたというは、ふたりが知り合いであることのひとつの理由になるんじゃないかなって」
 そこまで言って、昌美は苦笑した。
「私、完全にイヤな人だね。人のこと、根掘り葉掘り勘繰って」
「そういう気持ちは、わかるよ。僕が言うのもなんだけど」
「ううん、そんなことないよ」
「ただね、金田さん。僕の口からは正直なところ、なにも言えないよ。そうだと認めてしまうのも問題だし、そうじゃないと否定しても金田さんが納得するかどうかは別だし」
「そんなことないけど……」
 だが、言い切れもしない。それは圭太の言っていることが真実に近いからである。
「でも、そうだね。これだけは言えるよ。たぶん、金田さんは正しい」
「……ありがと、高城くん」
 それを聞いた昌美は、そう言って微笑んだ。
「でも、そっか。高城くんてやっぱりモテるんだね。私も好きになっちゃったひとりだけど、みんな同じところに気付いちゃうのかな」
「さあ、僕はなんとも」
「まあ、高城くんは大部分の女性にとって、理想的な男の人だから、当然かも」
 圭太にとっては、大勢から認められるのは確かに嬉しいことではあったが、本音を言えば少数でも本当の自分を認めてくれる人がいる方がよかった。そして、今の圭太のまわりにはそういうメンバーが揃っている。
「そういえば、高城くんはどこを受けるの?」
「受ける? ああ、受験か」
「うん。人のことは言えないけど、こんな時期にここへ来てるから」
「僕は受験しないんだ」
「えっ、そうなの? なんで?」
「ん〜、少し込み入った話になるけど、いい?」
 昌美は頷いた。
「僕が受験しない理由のひとつは、大学に行ってやりたいことがないから。正確に言えば、大学に行かなくちゃできない、やれないようなことをしたいと思ってないからかな」
「なるほど。確かにそういう理由があるなら、無理に大学に行くことはないね」
「で、もうひとつ。僕としてはこっちの方が大事なんだけど。うちは、母子家庭なんだ」
「えっ……?」
「といっても、別に元からそうだったわけじゃなくて、父さんが亡くなって、なんだけどね。一応喫茶店をやってるんだけど、正直儲かってるわけじゃない。大学は、国公立でも高校より入学費用も学費も高いから。もちろん、それをひねり出す方法はあるんだけど、そこまで無理させたくないし。だったら、僕の分は妹に使ってほしいと思って」
 想像以上に込み入った話で、さすがに昌美も面食らっている。
 しかし、そこまでプライベートなことを話してくれていることに、嬉しくも思っていた。
「ま、それが僕が大学に行かない理由だよ」
「そうなんだ。ちょっと、残念だな。大学に行けば、高城くんと一緒になれるかと思ってたんだけど」
「金田さんは、どこを受けるつもりなの?」
「地元の国立。今の成績だと、ギリギリくらいなんだけどね。せっかくだし、目標は高めにしようと思って」
「あ〜、そうなんだ……」
「ん、どうしたの?」
「……まあ、どうせすぐにわかっちゃうから言うけど、そこには僕の先輩もいるから」
「先輩?」
「僕の前の部長と前の前の部長。ほかにも直接の先輩とか」
「ああ、一高だもんね。みんな頭いいだろうし、先輩もたくさんいるか」
 そういう意味で言ったのではないのだが、とりあえず圭太は頷くしかなかった。
 祥子は別として、二高で部長をしていた昌美が同じ大学に入れば、必ずともみや幸江の耳に入る。その時にふたりがどういう行動を取るか。圭太なら誰よりも理解できた。
 とはいえ、それを正直に話すこともできない。それになにより、まずは昌美が大学に合格しない限りは、それはないのである。
「あ、そうだ。高城くん、携帯持ってる?」
「携帯? 持ってるけど」
「番号、教えてもらっていいかな?」
「いいよ」
 お互い携帯を取り出し、番号を交換する。ついでにメルアドも。
「ふふっ」
「ん?」
「なんか、今日は得しちゃった。聴きに来ること自体はどっちでもよかったんだけど、まさか高城くんと会えて、話ができて、しかも番号まで教えてもらえて」
 本当に嬉しそうな昌美を見て、圭太も嬉しくなった。
「あ、ついでにもうひとつだけお願いしてもいいかな?」
「なに?」
「お互いに名字で呼び合うのって、なんか親しくない感じがしてね。できれば名前で呼んでほしいな、って。ダメかな?」
「それは構わないけど、どういう風に呼べばいいかな?」
「名字じゃなければどう呼んでもらってもいいよ。私の名前、いろいろ呼べるから」
「ん〜……呼び捨てでもいい?」
「いいよ」
 普通ならいきなり呼び捨てというのは抵抗があるはずなのだが、圭太としてはその方が慣れていた。少なくとも同い年の相手に対しては、その方がよかった。
「さて、そろそろ戻ろうか。あまり姿が見えないと、なにを言われるかわからないし」
「私はたぶん気付かれてないと思うけど、えっと……圭太くんは大丈夫?」
「たぶん、ダメだろうね。というか、今頃なにを言われてるか」
「あはは、大変だね」
「そういうわけだから、戻らないと」
「うん、戻ろ」
 演奏が終わるのを待って、ふたりはホールに戻った。
「じゃあ、またね」
「今度はメールでもするよ」
「うん」
 一応、出入り口のところで分かれた。
 で、圭太は柚紀たちの方へ戻った。
「……ずいぶんと遅かったね」
 柚紀はすこぶる機嫌が悪かった。
「いや、まあ、ね……」
「ちなみに、紗絵ちゃんたちから途中でいなくなったって報告、入ってるんだけど」
 そう言って携帯を見せる。
 そこには、紗絵からのメールが映っていた。
「どこで、なにを、してたの?」
 据わった目でにらむ。
「あ〜、えっと……それはまたあとでいいかな?」
「あとで、ね。ま、いいよ」
 一触即発というか、一方的な狩りがはじまる前に、なんとか回避された。
 圭太は小さく息を吐き、席に戻った。
 もっとも、あとのことを考えるととても楽観できない状況ではあるのだが。
 
「さて、次はどれにしようかな?」
 柚紀は、とても楽しそうにそう言った。
 圭太と柚紀は、コンサートのあと、繁華街へ来ていた。
 なんのために来ていたかといえば、圭太に対する罰のためである。
 コンサートのあと、圭太は柚紀によって尋問を受け、結果、昌美のことをほぼすべて話すことになった。
 で、柚紀が圭太に課した罰は、買い物につきあい、なおかつなにか柚紀のために買う、というものだった。
 比較的時間が遅いのであまり多くは見られないが、それでも繁華街にいれば近場でいろいろ見てまわれる。
 もっとも、柚紀としては罰というのは口実でしかなかった。ようは、圭太とデートできればそれでよかったのである。もちろん、自分の知らないところでイチャイチャしていたことには腹を立てていたが、それでもそれ以上なにもないことはわかっていた。
 ただ、なにも言わないでいるというのは、彼女として、婚約者としてできなかった。
 だから、形だけでも罰を与えたのである。
「あのさ、柚紀」
「ん、どうしたの?」
「明日のことなんだけど」
「明日?」
 柚紀は振り返り、立ち止まった。
「明日の夕方、つきあってほしいところがあるんだ」
「夕方に? いいけど、どこ?」
「それは、明日まで秘密」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 柚紀も、圭太が柚紀に秘密にすることはたいてい、予想外のことになることを身をもって体験していた。そして、そのことごとくが柚紀の期待をいい意味で裏切ってきた。
 本当は今すぐにでも知りたいのだが、ここは素直に頷くことにした。
「ま、いっか」
「あ、それと、明日はその時間までいろいろやることがあって柚紀の相手ができないんだけど……」
「ええーっ、なにそれ? せっかくのイヴに私にひとりでいろって言うの?」
「いや、それは……」
「むぅ……なにをするかは、教えてくれないのよね?」
「それは、うん」
「わかった。それは許してあげる」
「よかった……」
「その代わり、明日の夜は覚悟してね。それこそ、朝まで寝かせないんだから」
「うん、覚悟しておくよ」
 圭太は笑顔で頷いた。
「それはそれとして、次はあの店ね。行こ」
「了解」
 
 五
 十二月二十四日。クリスマスイヴ。
 もはや語る必要のないくらい大切な日である。
 
 朝、圭太は柚紀よりも先に起き出した。
「ん……」
 柚紀は、まだ気持ちよさそうに寝息を立てている。
「さて、と」
 軽く気合いを入れ、圭太は部屋を出た。
 
 柚紀が起きた時、隣に圭太の姿はなかった。
「……ホントにいない……」
 柚紀は、ものすごく淋しそうに呟いた。
「……圭太のバカ……」
 やはり柚紀としては、大好きな人と一分一秒でも長く一緒にいたいのである。
 特に、こういう大切な日には。
 それでも拗ねても嘆いてもふて寝してもいられない。なんといっても、ここは高城家である。自分の家でならそれも可能だろうが、ここでは無理である。
 そういうわけで、とりあえず着替えて部屋を出た。
 リビングに顔を出すと、台所で琴美が朝食の準備をしているのが目に入った。
「おはようございます」
「あら、おはよう」
 琴美は、コンロの火を弱め、振り返った。
「あの、圭太はもう?」
「あの子なら、ついさっき出かけたわ。ちょっと遠くに行かなくちゃいけないからって」
「遠く、ですか?」
 朝から出かけなくちゃいけないほどの遠くに、いったいなんの用があるのだろうか。柚紀は、首を傾げた。
「心配しなくても、夕方くらいには帰ってくるはずよ。一応、私からも柚紀さんに言っておいてほしいって頼まれてね」
「そうだったんですか」
「ちょっと淋しい想いをさせちゃうかもしれないけど、少しだけ我慢しててね」
 琴美のその口ぶりは、圭太がどこへなにをしに行ったのか、知ってるものだった。
「琴美さんは、圭太がどこへ行ったのか知ってるんですか?」
「ええ、知ってるわ。ついでに言えば、なにをしに行ったのかもね。ただ、それを柚紀さんには言わないでくれ、とも頼まれてるの。ごめんなさい」
 琴美は機先を制し、そう言った。
「大丈夫よ。きっと、柚紀さんも気に入るはずだから。あの子はね、自分の大事な人のためなら、なんでもする子なの。そして、その大事な人が喜ぶことなら、なおのことがんばる子。今日は、柚紀さんのためだけにがんばろうと思って朝から動いてるわけ」
「…………」
「だから、もう少しだけ我慢してね」
「はい」
 琴美にまでそう言われては、柚紀としても駄々をこねるわけにはいかなかった。
「あ、琴美さん。私も手伝います」
「そう? じゃあ、お願いしようかしら」
「はい」
 柚紀は、未練を断ち切るように、そう言った。
 ただ、朝食の準備ももうそれほど残っていなかった。
 あとは、琴絵と朱美が起きてきた時に、仕上げるだけである。
「この頃は、だいぶ寒くなってきたわね。朝起きるのがつらくなって困るわ」
「そうですね。いつまでも布団にくるまっていたい衝動に駆られます」
 お茶を淹れ、ダイニングのテーブルでしばし時間をつぶす。
「ああ、そうそう。すっかり忘れていたんだけど」
「あ、はい」
「こちらの方は、すでにハンコは押してあるから」
「ハンコ、ですか?」
「そう。ほら、婚姻届には必要だから」
「あ……」
「あら、圭太からなにも聞いてなかった?」
「はい」
「んもう、あの子ったら、そんな大事なことを当事者に言わないなんて」
 柚紀も、どこかでそれを書かなければならないことは承知していた。だが、圭太がなにも言ってこないので、とりあえずなにも言わなかったのである。
 ところが、実際は圭太の方でやれることはやっている模様。
 置いていかれたみたいで、複雑な心境だった。
「だけど、柚紀さんの方のハンコはどうするのかしらね」
「そうですね。私もまだ未成年ですから、ハンコがなければ認められませんし」
「ん〜、ひょっとしたら、それも含めての今日の早出かもしれないわね」
「というと、私の家にも行く、ということですか?」
「ええ。そうしなければ、届けを出すことはできないのだから」
「……あとで確認してみます」
「そうね、その方がいいわ」
 ますます不可思議な圭太の行動に、柚紀は困惑しきりだった。
 
 朝食のあと、柚紀は早速家の方に連絡を取った。
 電話に出たのは、真紀だった。
「あのさ、お母さん。今日、圭太がそっちに行くって聞いてる?」
『ええ、聞いてるわよ』
「……やっぱり」
『なぁに? 柚紀は知らなかったの?』
「うん、全然」
『じゃあ、圭太くんは柚紀を驚かせたかったのね。柚紀がすっかり忘れていたことを、全部終えて目の前に示してね』
「た、確かに忘れてたけど……でも、ひとりでなんでもやっちゃうのはひどいなぁ……」
『たぶんなんだけどね』
「うん」
『圭太くんは人一倍責任感が強いから、そういうことも自分でやらなくちゃいけないと思ってるのかもしれないわね。あなたも結構古いイメージを持ってるけど、圭太くんもそういうところ、ありそうだから』
「それって、圭太が男だからってこと?」
『そうね』
「……男だとか女だとか、そんなの関係ないのに……」
『まあ、今更とやかく言ってもしょうがないでしょ。だったら、圭太くんのやりたいようにやらせてあげるのも、彼女としての役目よ』
「はぁい」
 納得はできていないが、それでも真紀の言うように、もう今更なのだ。圭太はすでに動いている。それをやめてくれとは言えない。
『圭太くんが来たら、連絡する?』
「ん〜、そっちを出てからでいいよ」
『そう? じゃあ、ほかになにかある?』
「そうだなぁ……あ、お父さんはもちろんいるんだよね?」
『ええ、いるわよ』
「だったら、お父さんに余計なことは言うな、やるな、って言っておいて」
『ふふっ、わかったわ』
「あとは、お母さんに任せる」
『任されたわ』
 柚紀としても、実際、どうこう言うつもりはなかった。ただ、事実を知りたかっただけなのである。
 それに、圭太が自分のために動いてくれていること自体は、とても嬉しかった。それでも、できればそれをふたり一緒でやりたかったのだ。
「あの、お母さん」
『ん、どうしたの?』
「また明日、改めて言うけど、今まで本当にありがとう」
『ずいぶんと早い挨拶ね』
「だって、面と向かって言ったら、きっと泣き出しちゃうから。だから、とりあえず先に言っておこうと思って。もちろん、お父さんにもお姉ちゃんにもちゃんと挨拶するけど」
『そうね』
「お父さんとお母さんの娘として生まれてきたからこそ、私は圭太と出逢えた。だから、すごく感謝してる」
『積もる話はたくさんあるけど、それはまたの機会にしましょう。ただ、そうね。私たちはね、柚紀は絶対に不幸にならないって信じてるわ。だって、あんなに素敵な人と一緒になれるのだから』
「うん、それは絶対に大丈夫。だから、お母さんも安心していいよ」
『ええ、そうさせてもらうわ』
 そう言ってふたりは笑った。
『それじゃあ、圭太くんがこっちを出たあとに連絡するわね』
「うん、よろしく」
 電話を切ると、柚紀は少しだけ複雑な表情を浮かべた。
 おそらく、圭太の行動に関することで渋い表情になり、だが一方でこれからのことを考えて笑みを浮かべた。
 結果、それが重なって複雑な表情となった。
「はあ……」
「どうだったの?」
 リビングに戻ると、早速琴美が訊いてきた。
「琴美さんの予想通りです。うちの方には圭太から連絡があったそうです」
「じゃあ、本当にあの子は全部自分でやるつもりなのね。本当に困った子だわ」
 とは言いながら、琴美もだが、柚紀もそれが直らないことを知っていた。
 もし誰かが言って直るようなら、もうとっくのとうに直っている。
「ねえ、柚紀さん。正直に言って、圭太に直してもらいたいことって、どれくらいあるの?」
「直してもらいたいことですか? そうですね……本当にどうしてもということなら、ひとつだけです」
「それは?」
「なんでもかんでも自分ひとりで抱え込んでしまうことです。もうこれは直らないのかもしれませんけど、できれば直してほしいです」
「確かに、それは直してもらった方がいいわね」
「でも、それは逆に言えば、それだけ圭太の責任感が強いということなんですよね。だから、根本的な解決は難しいかな、と」
「あの子があんな風になってしまったのも、この家のせいね」
 琴美は、ぽつりと言った。
「それは違うと思いますよ。圭太は、そんな風には思ってないはずです。確かに、琴美さんや琴絵ちゃんのことで、人並み以上に責任感が強くなったとは思いますけど、それだってすぐにどうにかなるものじゃないですから。圭太は、元からそうだったんですよ。ただそれが、少し強くなっただけで」
「……たとえそうだとしても、今の状況に追いやってしまった事実は変わらないわ」
「ん〜、これは予想なんですけど、もし状況が今と違っていても、圭太はさほど変わらないと思います。自分で背負う分が少なくなっているだけで、根本的な部分は変わってないと思います」
「どうしてそう思うの?」
「これだ、という明快な答えはありませんけど、普段の圭太を見ていると、そうだとしか思えないんです」
 柚紀は、はっきりと言い切った。
「だから、琴美さんがそこまで思い悩む必要はありませんよ。それに、圭太は自分でそうしたいからしているんです。誰に頼まれたわけでも、強要されたわけでもありません」
「……そうね」
「それに、圭太は誰と誰の子供ですか?」
 柚紀にそこまで言われ、琴美もようやくいつもの笑みを浮かべた。
「私ね、前から思っていたの」
「なにをですか?」
「どうして圭太の彼女は、柚紀さんだったのか、って」
 意外な言葉に、柚紀は首を傾げた。
 それは、柚紀を圭太の彼女と認めていないという意味ではなく、それはあたかも柚紀以外の誰かだったのでは、という意味だったからである。
「これは前に言ったかどうか覚えてないんだけど、私はね、圭太の彼女には今も圭太の側にいる誰かになると思っていたの」
 その言葉には、柚紀も特に驚かなかった。実際、圭太みたいな『逸材』が高校に入るまでフリーだった方がおかしいのである。
「一番そうなった可能性が高かったのは、やっぱり凛ちゃんかしらね。小学生だったあの頃から、凛ちゃんは圭太ひと筋だったから。ただ、凛ちゃんも引っ越してしまって、その関係は幼なじみの域を出なかったけど」
 だからこそ凛は、そのことをずっと後悔していた。たとえ可能性が低くても自分の想いを素直に伝えていたら。ずっとそう思ってきていた。
「中学に入ってからは、正直浮いた話も出てこなかったけど、それでもいつも圭太の側にいてくれたともみさんや祥子さん、それに紗絵ちゃんとはそうならないかしら、とは思っていたわ。みんな、面白いくらい圭太に対する想いが素直だったから」
「それは今も変わってないですよね」
「ええ。その中でも特に真剣だったのが、祥子さんね。祥子さんは家が家だから、余計だったのかもしれない。でも、肝心の圭太はその想いを知ってもなお、もう一歩を踏み出すことはなかったけど」
「私としては、誰かとつきあっていなくて、よかったんですけどね」
「そうね。そこで、私のさっきの言葉になるのよ。圭太の彼女が柚紀さんだったのか、という言葉。それはきっと、圭太の彼女には柚紀さん『しか』なれなかったのよ。だから、どんなにその可能性があったとしても、最終的につきあうところまでは至らなかった」
「もし本当にそうなら、私にとってはすごく嬉しいです。私と圭太の出逢いは偶然だったかもしれませんけど、それ自体が運命だったんだって」
 柚紀は、今ではそんなことはないが、一高に入ったばかりの頃は、恋に恋しているところがあった。だから、様々な現実を見てきた今でも、圭太との出逢いが運命の出逢いだったなら、柚紀にとってはとても嬉しいことであった。
 むしろ、今となってはそれを否定する方が難しいのだが、あえて琴美のような説明をつけると、より真実味を帯びてくる。
「あと、私の個人的な意見で言わせてもらうと、やっぱり柚紀さんでよかったと思ってるわ」
「それはどうしてですか?」
「それはね、圭太のことを知らないからよ」
「知らない?」
「ええ。柚紀さんが圭太を知ったのは、当然のことだけど高校に入ってから。その前のことは知らない」
「そうですね」
「その知らない時のことを、話せるのが嬉しいの」
「なるほど、そういう意味ですか」
「やっぱり、自慢の息子のことを話すのは楽しいじゃない。しかも、相手が柚紀さんならその想いを共有できるし」
 ようは、その話で盛り上がり、価値観を共有したいのである。
 今の琴美の心情を考えれば、それは当然の考えと言えた。
「本当に琴美さんは、圭太のことが大事なんですね」
「ええ、大事よ。だからね、柚紀さん。圭太と一緒になっても、そう簡単には渡さないから」
「わかりました。受けて立ちます」
「ふふっ、楽しみだわ」
 近い将来、圭太を巡って嫁姑の争いが巻き起こるかどうかはわからないが、少なくとも今は圭太を共通言語として、本当の母娘以上の関係になれるであろうことは、明白だった。
「さて、柚紀さんはこれからどうするの?」
「どうしましょう?」
「もしなにもなければ、私と一緒に買い物に行く?」
「お供します」
 
 夕方。
 柚紀の携帯に一通のメールが届いた。差出人は、圭太だった。
 メールの内容は実に簡単なもので、駅前で待ち合わせしよう、というものだった。
 一瞬、すぐに電話をかけようかと思った柚紀だったが、思い直し、結局言う通りにすることにした。
 待ち合わせ時間に間に合うように高城家を出発。
 だいぶ気温が下がってきていたので、寒さ対策だけは怠らなかった。
 駅前に着くと、街はクリスマス一色となっていた。
 昼間にもここを訪れた柚紀だったが、夕方から明かりが灯りはじめ、その趣を異にしていた。
 過去二年間のクリスマスもとても想い出深いものとなったが、今年はそれ以上になるという確信があった。もちろん、それは婚姻届を提出するから、でもある。しかし、それがなかったとしてもそうなったと胸を張って言えた。
 なんといっても、柚紀の彼氏は圭太である。自分の大切な人のためならなんでもする男である。その圭太が計画して、前年以上にならないわけがない。
 そういう絶対的な信頼感は持っている柚紀ではあったが、やはり、一抹の淋しさを感じていたのも事実だった。
「……ま、しょうがないか」
 柚紀は小さく頭を振り、そういう後ろ向きな考えを振り払った。
 待ち合わせ場所は、いつもの場所だった。
 しかし、今日はクリスマスイヴ。いつも以上に人が多く、すぐには相手を見つけられそうにない。
 柚紀は、ぐるっと見回し、まだ圭太の姿がないことを確認した。
「まだ早いか……」
 携帯で時間を確認。待ち合わせ時間には十分ほど早い。
 普段の圭太ならもう来ている時間だが、今日はあいにくとほかに用事を済ませてからである。いつもと同じとは限らない。
 デートの時でも柚紀が圭太を待つことはほとんどない。だから、圭太を待つという行為が、ほんの少しだけ楽しかった。
 あまりほかの人の邪魔にならない場所に立ち、圭太を待つ。
 陽は完全に沈み、空は宵闇に覆われていた。少し風が強く、よりいっそう寒さを感じる。
 それでも、人々の幸せそうな雰囲気のせいか、いつもよりほんの少しだけ暖かく感じられた。
 三年前の柚紀なら、その光景をただ羨ましく思っていただけで、その幸せそうな雰囲気に嫉妬さえしていたかもしれない。それがたったの三年で、その真っ直中にいるわけである。
「ホント、不思議……」
 確かに不思議ではあるが、そうなれたのは、柚紀が本当に幸せになりたいと願い、行動したからである。それがなければ、三年前と同じイヴを過ごしていただろう。
 と、駅の方から待ち人の姿が現れた。
 少し駆け足で、軽く息が上がっていた。
「ごめん、柚紀」
 圭太は、開口一番そう言った。
「別に遅刻じゃないんだから、謝らなくてもいいよ」
 待ち合わせ時間の三分前。遅刻ではない。
「でも、寒かったんじゃない?」
「ん、ちょっとだけ。それでも、圭太を待てる機会なんてそうないから、ちょっと楽しかったよ」
 そう言って柚紀は笑った。
「じゃあ、早速行こうか」
「うんっ」
 
 駅前でのデートは、それほど時間をかけなかった。
 柚紀としてはどこへ行くのかも、なにをするのかもすべて圭太に任せていたので、そのこと自体は特に気にならなかった。
 実際、普通にデートしていても、さっさと切り上げて家でのんびりすることもあった。
 駅前で二時間ほどデートし、そのままどこへ行くこともなく、家に帰った。
 その間、柚紀は今日のことを一度も訊かなかった。
 家に帰ると、琴美とともに夕食を食べた。いつもより少し豪華だった。
 ちなみに、琴絵と朱美は紗絵の家に泊まりに行っている。
 夕食を食べ終えると、圭太は一度席を立った。
 トイレかなにかだと思っていた柚紀だったが、それが違ったとそのすぐあとにわかった。
「柚紀。部屋に行こう」
「うん」
 いつものように部屋に戻る。
 だが──
「さて、ここからがメインイベントということで」
 圭太はドアの前で一度立ち止まり、そう言った。
「さ、柚紀」
 圭太がドアを開けると──
「わぁ……」
 部屋の中は、とても幻想的な空間になっていた。
「これ、ひょっとして……?」
「まあ、とりあえず中に入って」
 背中を軽く押して、部屋の中へ。
「こんなことを黙ってるなんて、圭太、ずるいよ」
「僕もいろいろ考えた末、今年はちょっとサプライズ気味にやろうと思ってね」
 部屋の真ん中には、家庭用のそれほど大きくないクリスマスツリーがあった。
 色とりどりの電球が規則正しく明滅し、電気の点いていない部屋を幻想的に浮かび上がらせていた。
「あいにくとうちにはツリーがなくて、それでこれを淑美叔母さんの家まで借りに行ってたんだ」
「だからあんなに早くに家を出たんだね」
「うん。往復するだけでも時間はかかるし、その上準備もしなくちゃいけないから」
「でも、私がここを出る時にはこれはなかったけど、いつの間に?」
 柚紀が待ち合わせのために高城家を出た時には、確かにツリーはなかった。
「柚紀にメールした時には、実はもう帰ってきてたんだ」
「そうなの?」
「ちょっと店の方に身を隠してたから。そこでできる限りの準備をして、柚紀が出かけたのを見計らって、部屋に持ち込んだんだ」
「そっか。だから、私よりもあとに来たんだ」
「今日は柚紀には淋しい想いをさせちゃって、本当にごめん」
「ん、うん。ちょっとだけ淋しかったよ」
 少しだけ強がってみせる。本当は、朝などは淋しくて泣きそうだったのだが。
「でもね、私のためにこれだけのことをしてくれたんだから、それで帳消しだよ。それに、これからの時間でその淋しさも消してくれるでしょ?」
「もちろん」
「だったら、いいよ」
 言いながら圭太に寄り添う。
「じゃあ、まずはプレゼントから」
 圭太はツリーの側に置いておいた箱を手に取った。
「はい、柚紀。メリークリスマス」
「ありがと。開けてもいい?」
「いいよ」
 嬉々とした表情で箱を開ける。すると──
「あ、これ」
「前のデートの時に、柚紀が欲しそうに見てたから」
「でも、これ、値段が……」
「今年は特別なクリスマスだから」
「……うん、ありがと」
 入っていたのは、ティーカップのセットだった。
 日本のものではなく、ヨーロッパのそれなりに名の知れたものだった。そうなると当然値が張る。
 以前のデートの時に、柚紀はそれに目をつけたのだが、パッと買うには少々高かったのであきらめていたのだ。
「今度から、これに紅茶を淹れて、お茶しようね」
 柚紀は、圭太が高価なものをプレゼントしてくれたこと自体も嬉しかったのだが、それよりもなによりも、自分のことを本当によく見ていて、しかも前のことまで覚えていてくれたことが、嬉しかった。
 それは圭太が柚紀のことをどれだけちゃんと見ているかの、証明でもあった。
「じゃあ、今度は私。私のは、これだよ」
 柚紀のプレゼントは、少し大きめの袋に入っていた。
「ちょっとがんばってみたんだ」
 開けてみると、帽子とマフラー、手袋にセーターと、すべて手編みのものが入っていた。
「……柚紀。ここまでしなくても……」
「いいの。それに、これだけしたって私の圭太に対する想いは、全部載せられないもの」
「そっか……うん、ありがとう」
 柚紀からは以前にもこのようなものをもらっているのだが、それは関係ない。
 その都度その都度、柚紀の圭太に対する真摯な想いがそこには込められているからだ。
 その想いに触れる度に、圭太は柚紀のことを愛おしく思う。
「それじゃあ、もうひとつ。これはプレゼントではないけど」
「うん」
 圭太が取り出したのは、一枚の紙。
 そして、それが今日の『主役』でもある。
「今日の僕のもうひとつの用事は、これだったから」
 婚姻届には、すでに両家の親の署名とハンコがあった。
「もう聞いてるよね?」
「今朝、琴美さんに言われるまで、すっかり忘れてたんだけどね。そのあとにうちに電話して、そこで最終確認。圭太が帰ったあとに、改めてお母さんから連絡もらったから」
「真紀さんにもそれとなく言われたんだ。あまり裏で立ち回りすぎない方がいいって」
「あはは、それは私がお母さんに愚痴ったからだよ」
「僕も、もうこういうことはしないよ。ただ、これだけはどうしても僕がやりたかったんだ。だからね」
「いいよ。これに関しては、私も忘れてたんだから」
「じゃあ、お互いさま、ということで」
「うん」
 圭太は、立ち上がり部屋の電気を点けた。
「どっちから書く?」
「圭太からでいいよ」
「わかった」
 まずは圭太がペンを手に取り、自分の名前を書く。
 それ自体でどうにかなるわけではないのだが、一画一画丁寧に書く。
「次は、柚紀」
「うん」
 柚紀も、圭太と同じように丁寧に書いていく。
「……これで、よし」
 最後の文字を書き終え、ペンを置いた。
「あとは、これを提出すれば──」
「私たちは晴れて、夫婦になる」
 圭太の言葉を受け、柚紀がそう続けた。
「長かった?」
「今にして思えば、それなりに長かった気がするけど。でも、僕が柚紀と一緒になりたいと思ってから、まだ二年ちょっとしか経ってないからね。実際はそこまででもないのかもしれない」
 さらに言えば、圭太は当時はまだ十八ではなく、どうやっても待たねばならなかった。
「柚紀は?」
「私は長かったなぁ。本当のことを言えばね、私は去年婚約した時にすぐにでも一緒になりたかったんだ」
「そうだったんだ」
「だって、そうしてたら今よりもう少しだけ安心できたと思うから」
「……面目ない」
「あ、ううん、それはもういいの。それに、去年だとどうやっても一緒にはなれなかったわけだし。だから、そのことは気にしてないよ」
 気にしてないとは言うが、本当に気にしていないわけではない。ただ、法律で定められている年齢制限だけはどうすることもできないので、そう言ったのである。
「あ、それはそうと、明日はどうするの? まずはこれを提出に行って、そのあとは?」
「予定では、そのまま柚紀の家に挨拶に行こうと思ってるんだけど。昼過ぎにはうちでパーティーもあるから」
「そうだね。早めに行けば、さっさと戻ってこられるものね」
 今回に関してはさすがにそういうかしこまったことをしないわけにはいかない。柚紀もそれを理解しているからこそ、なにも言わないのである。
 もっとも、さっさと戻ると言ってる時点で、あまり長時間家にはいたくないのは明白である。
「やっと、願いがかなうんだなぁ……」
「そうだね……」
「ひとつの願いがかなうから、今度はまた違うことを願わなくちゃ」
「それは?」
「ん〜、言ってもいい?」
「いいけど」
 柚紀はにっこり笑った。
 その笑顔に、圭太は一抹の不安を覚えないではなかった。
「まずは、結婚式かなぁ。いろいろな兼ね合いがあるからすぐには無理だろうけど、いつかはやりたい」
「うん、それは僕も考えてた。ただ、それなりに先にはなると思うけどね」
「それはしょうがないよ。先立つものもないし」
「それでも、なんとかしようとは思ってるから」
「無理はしない程度にね」
「了解」
 実は圭太の中ではそれなりに考えはまとまっているのだが、まだ実現できる段階ではないので黙っていた。今それを言って、柚紀に期待を持たせ、だが結局期待外れに終わってしまうことが、ないとは言えないからである。
「ほかは?」
「子供のことかなぁ、やっぱり。春にはこの子が生まれるけど、それで終わりというのもさすがにね」
「何人ほしいとか、そういうのはあるの?」
「具体的に何人、というのは特にないけど。でも、三人くらいはほしいかな」
「なるほど」
「なになに? 私が野球ができるくらい、とか、サッカーができるくらいとか言ったら、そうしてくれるの?」
「さすがにそれは無理だし、非現実的。ただ、僕はできるだけ柚紀の願い通りにしてあげたいと思ってる。たとえそれが、どんなに困難なことでも、ね」
「圭太……」
 柚紀としても、その気持ちはとても嬉しかった。
 しかし、それは一歩間違えればとんでもないことを引き起こしかねない気持ちでもある。
 物事は、なんでも極端すぎるのはよくない。相手のことを想うあまりに、やってはいけないことまでやってしまっては、意味がない。
 圭太がそういうことをするとは露程も思っていないが、それでもその気持ちは危険だと柚紀は思った。
「あのね、圭太。その気持ちはすごく嬉しいよ。でも、そのすべてを犠牲にしてでも、みたいな考えはなしにしよう。それじゃあ、意味ないもん」
「大丈夫だよ。それはちゃんとわかってるから」
「ホントに?」
「本当だよ。それに、柚紀の願いをかなえるために、柚紀を悲しませたら、それこそ意味がないからね」
「それがわかってるならいいけど」
 一応疑うべきところはないので頷いた柚紀だったが、圭太は大事な人のためだと我を忘れることがあり、その時にはなにをするか予想もつかないことを理解していた。
 だから、いつも意識している必要はないが、頭の片隅にでもそのことを覚えておいた方がいいとは思っていた。
「ほかにはなにかある?」
「あとは、早く一緒に暮らしたい。今みたいに通い妻するのもいいんだけど、やっぱりひとつ屋根の下で暮らしてこそ、夫婦になったんだって実感できるから」
「確かにそうかもね。でも、それは時期が難しい問題でもあるから」
「わかってるよ。卒業しても、この子が生まれてしばらくの間は無理だから。でも、できれば夏までには親子三人で暮らしたい」
「そうだね。それは大丈夫だと思うよ。その頃になれば、難しい問題もないだろうし」
「となると、あと半年くらい、我慢しなくちゃいけないわけか。長いなぁ」
「我慢我慢」
 圭太は、子供をあやすように、柚紀の頭を撫でた。
「ね、圭太。私の願いはとりあえずそんなところだけど、圭太には願いはないの?」
「僕? ないこともないけど」
「それって?」
「僕の願いは、ずっと変わってないし、変わることはないよ。柚紀が、僕の隣でずっと、いつまでも笑顔でいてくれること。ただそれだけ」
「圭太……」
「柚紀が笑顔でいてくれるということは、幸せだっていう証拠だから。どうにもならないこと以外で柚紀を悲しませたくないから」
「……圭太は心配しすぎ。そんなこと、心配するだけ無駄だよ。だって、私は圭太の側にいられるだけで、幸せなんだから。その上、私は圭太のお嫁さんになれて、しかも、母親にもなれる。これで幸せじゃないなんて言ったら、罰が当たるよ」
「そっか。でもさ、僕はその幸せを守っていかなくちゃいけないんだよ。なにもしないで得られる幸せなんて、ないんだから」
「ん、それは、そうだね」
 なにかを犠牲にする必要はなくとも、なにもしないで得られる幸せは、やはり偽物だと考えるのが正しい。
 もちろん、偽物、かりそめの幸せでも満足できてしまう者もいるかもしれない。だが、それは所詮その程度でしかない。
 自分だけでなく、まわりにいる者すべてが幸せであるためには、それ相応の努力が必要である。
「それに、これを柚紀に言うと怒られるかもしれないけど、僕は人よりも背負ってるものが多いから。だから、よりいっそうがんばらないといけない」
「……あのさ、圭太。今更かもしれないけど、もうどうにもならないのかな?」
「…………」
 圭太はすぐには答えなかった。
「今でもね、思うの。圭太とみんなのこと、認めなければよかったのかな、って」
「たぶんだけど、どうにかなった部分と、どうにもならなかった部分、両方あったと思うよ。誰とのことがどっちだったかは、わからないけどね」
「そういう風に言うってことは、もうどうにもならないってことよね?」
「そうだね。どうにもならないと思う」
 それは、柚紀にもわかっていた。
「うん、ごめんね。余計なこと言って。さすがに大人げなかったね。もう本当に今更なのにね」
「いいよ。気にしてないから。それに、柚紀がそういうことを言ってしまう気持ち、理解できるから」
「うん……」
 圭太には、そう言うことしかできない。本当の意味で柚紀の気持ちを理解することはできないからである。それでも、ことあるごとに柚紀が言っているそのことを、あれこれ考えることはできる。そして、その時の心情を推し量ることもできる。
「柚紀」
「ん?」
「抱いてもいい? というか、抱きたい」
「いいよ。いっぱい、抱いて……」
 
「圭太、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
 ベッドの中、柚紀はもぞもぞと動き、圭太に抱きついた。
 お互い裸のままなので、その感触が生々しい。
「もう日付変わったかな?」
「ん、ちょっと待って」
 ベッド上の時計を見る。
「もう少しだね。あと十分くらい」
「そっか。あと十分で、クリスマスだね。そして、私と圭太の結婚記念日」
 婚姻届をイヴではなくクリスマス当日に提出しようと言い出したのは、柚紀だった。
 圭太はてっきりイヴに提出すると思っていたのだが、話を詰めていくうちに、それが違うことを知った。
 その理由を柚紀は──
「イヴはイチャイチャしてたいから、クリスマス当日の方が落ち着いてなんでもできるし」
 というものだった。
「あ、そうだ。ひとつ肝心なことを忘れてた」
「ん?」
「私、明日からどうすればいいんだろ」
「どうすればって、なにを?」
「名前。学校では卒業まで今まで通りでって決めたけど、普段はどうしたらいいのかなって。それと、住所のこともね」
「柚紀の好きなようにしていいよ。名前も住所も」
「……じゃあ、名前は変えちゃって、住所もここにする。早く慣れなくちゃいけないし」
「いいよ、それで」
「でも、いつ頃慣れるんだろ。名前が変わることなんてないから、ちょっと不思議」
「母さんは確か、半年くらいかかったって言ってたよ。結婚したばかりの頃は、よく電話で間違えたって」
「そうだろうね。生まれてからずっと、その名前だったんだから。すぐには無理だね」
 今まで慣れ親しんでいたものを、一日や二日で変えてしまうのは難しい。
 望んでそうなったとしても、それは同じである。
「私もできるだけ早く、この高城家の一員になれるようにがんばらなくちゃ」
 すでに柚紀は高城家の一員なのだが、正真正銘の家族になるのは、やはり明日からである。
「ね、圭太」
「ん、なに?」
「改めて約束しよ」
「なにを?」
「ずっと、一緒にいるって」
 何気ない言い方だが、そこには柚紀の本音が込められていた。
 どんなに幸せでも、常に不安はつきまとう。
 それを完全に払拭することはできないが、軽減することは可能である。
 それを、柚紀は約束に求めたのである。
「いいよ。約束しよう」
 圭太は体を起こした。
「僕は柚紀が僕のことを嫌いにならない限り、ずっと一緒にいるよ」
「私も、圭太が私のことを嫌いにならない限り、ずっと一緒にいる」
 ふたりはそう口にし、子供がするように指切りをした。
「約束破ったら、ひどいんだからね」
「大丈夫だよ。少なくとも僕の方から約束を破ることはないから」
「それは私だって同じ。私から約束を破ることなんて、絶対にない」
「だったら、絶対に大丈夫だね」
「うん」
 何度同じことを繰り返しても、絶対の安心など得られない。
 同じことを繰り返して、ほんの一時でもいいからわずかな安心を得る。
 それが、とても大切なことだった。
「ん、ふわぁ……」
「眠くなった?」
「ちょっとだけ。それに、さっきあれだけしちゃったし」
「あれは……」
「圭太って、ホントにエッチになっちゃったよね」
「なっちゃったって……それは僕のせい?」
「ううん、たぶん違うよ。でも、私は嬉しい。だって、圭太がエッチになってくれたおかげで、たくさんエッチできるんだもん。そのことに感謝してるよ」
 柚紀にそう言われても、圭太としては複雑な心境だった。
「それにね、圭太とエッチしてると圭太に愛されてる、求められてるって感じられるから、それがすごく嬉しい」
「……わかったよ」
「ん、なにが?」
「そういうことでも、柚紀を淋しい想いをさせないから」
「うん」
 本当は口に出して言うことでもないのだろうが、そうすることで柚紀が少しでも安心できるなら、圭太は何度でも言うだろう。
 それが、圭太の柚紀に対する想いの証でもあった。
「ね、圭太」
「ん?」
「もう一回だけ、ダメ?」
「えっ?」
「なんか、またしたくなってきちゃった」
「……それで最後?」
「うん、最後」
 笑顔でそう言われたら、圭太としては頷くしかない。
「ね?」
「いいよ」
「あはっ、ありがと、圭太」
 現金だと思いながらも、柚紀の笑顔のためだと思うと、なんでもしてあげたくなる。
「あ、でも、その前に」
「どうしたの?」
「ほら」
 時計を指さす。
「メリークリスマス、圭太」
 時計は、日付が変わって十二月二十五日になっていた。
「メリークリスマス、柚紀」
 圭太も、そう返した。
 
 六「笹峰柚紀」
 今日は、本当に嬉しかったなぁ。
 ずっと楽しみにしてたけど、圭太はそれ以上のことをしてくれたから。
 ちょっと調子に乗ってたくさん求め過ぎちゃったけど、それでも圭太は笑顔でそれに応えてくれた。
 圭太は、私を世界で一番幸せにしてくれる、世界で一番大切な人。
 その圭太と、明日には夫婦になれる。
 こんなに幸せなことばかり続いて、あとが不幸なことばかりだったらどうしよう。
 でも、きっと大丈夫。
 だって、私も圭太も、そんなことになるとは全然思ってないから。
 それで幸せになれないなんて、絶対にあり得ない。
 だから、私は明日からも幸せなはず。
 
 大好きな圭太。
 大切な圭太。
 
 これからも、ずっとずっと、一緒だよ?
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