僕がいて、君がいて
 
第三十八章「冬物語」
 
 一
「なあ、圭太」
「ん、どうしたの、お父さん?」
「もしも、俺になんかあった時は、おまえがお母さんと琴絵を守るんだからな」
「守る?」
「そうだ。お金のことはどうしようもないかもしれないけど、でも、圭太にしかできないことがある」
「僕にしかできないこと?」
「それは、お母さんと琴絵の『心』を守ることだ。これは、世界中でただひとり、圭太にしかできないことだ」
「僕にしか……」
「もちろん、なにもなければそれは俺の役目なんだけどな。ただ、圭太には少しずつでいいから、そういうところを見て、感じて、できるようになってほしい」
「それって、難しいこと?」
「そうだな。ある意味ではとても難しい。だけど、圭太になら必ずできることだ」
「そっか。じゃあ、僕、がんばるよ。お母さんと琴絵の『心』を守る」
「それと、もしその時にほかに圭太が守りたい人がいるなら、一緒に守ってあげないといけないな」
「お母さんと琴絵のほかに?」
「本当は泣かせない方がいいんだけど、万が一にも泣かせてしまったら、その泣かせてしまったことを補って余りあるくらい、それからずっと守っていけばいい」
「……ん〜、難しくてよくわかんない」
「ははは、そうだな。圭太にはまだ難しいな。だけど、今言ったことを覚えて、将来どこかで思い出してくれ。そうすれば、その意味もきっとわかるはずだから」
「そうしたら、お父さんみたいになれる?」
「それはわからないけど、少なくとも圭太は一人前の『男』に一歩近づくことになる」
「そっか」
「本当に取り返しのつかないことなんて、そう起きるわけじゃない。相手の『心』さえ守り続けられるなら、絶対に大丈夫だ」
「うん」
「だからな、お母さんと琴絵、そして、圭太がいつか巡り会う大切な人を、守ってあげるんだぞ」
「うん」
「男と男の約束だ」
「うん、約束」
 
 イヤな予感、というのは、案外当たるものである。
 虫の知らせ、とでも言えばいいのだろうか。そういうものは、当たってほしくない時にばかり、よく当たる。
 それは、柚紀もそうだった。
 漠然としたイヤな予感があった。ただ、そんなことはないと自分に言い聞かせ、できるだけ忘れようとしていた。
 だが、その予感が次第に膨らみ、頂点に達した時、もう放っておくことはできなかった。
 隣で眠っている琴絵を起こさないようにベッドから出て、部屋を出た。
 暗いはずの廊下は、階段に電気が点いていたおかげで、ちゃんと足下が見えた。
「……電気……?」
 しかし、それはつまり、誰かが二階から階段を使って下りた、あるいは上がってきたことを意味している。
「…………」
 柚紀は、静かに廊下の反対側──圭太の部屋のドアを開けた。
 部屋の中は静まりかえっており、同時に、気配もまったくなかった。
「……いない……?」
 部屋にいないということは、圭太が下に下りたということ。
 柚紀は、静かにドアを閉め、今度は階段を下りた。
 ひんやりとした空気が、階下から染みてくる。
 階段を一番下まで下り、廊下を進む。
 と、人の気配がした。
「圭太……?」
 声をかける。
 だが、返事はない。
「圭太、なの?」
 もう一度だけ。
 それでも返事はない。
 イヤな予感は、もはや柚紀の中である確信へと変わっていた。
 ウソであってほしいと、はかなく願いながら──
「圭太……」
 夜中で迷惑になると理解しつつも、リビングの電気を点けた。
 パチパチと明滅して電気が点いた。
 そして──
「ウソ……」
 柚紀は、目の前の光景が信じられなかった。
 夢なら覚めてほしいと思った。
 夢なら、次の日の朝に笑い飛ばせるから。
 だけど──
「圭太っ!」
 それはウソでも夢でも幻でもなかった。
「圭太っ、しっかりしてっ!」
「はあはあはあ……」
 抱きかかえた圭太は、苦しそうに息をしていた。
 体が、異様に熱かった。
「ヤダっ、ヤダヤダヤダっ! こんなのヤダっ!」
 心まで張り裂けんばかりに声を上げる。
「お願い……圭太っ!」
 そして柚紀は、圭太を抱きかかえたまま──
「イヤーっ!」
 
 十一月二十三日。
 皮肉にも、その日は朝からとても綺麗に晴れていた。朝の気温も低すぎず、本当にとても過ごしやすい、清々しい朝だった。
 だが、天気がどうであれ、そんなことはまったく関係ない雰囲気がそこにはあった。
 先日、琴美が倒れた時に救急車で運び込まれた病院。その同じ病院の一室に、圭太は入院させられた。
 結局、柚紀の声で起きてきた琴美たちが救急車を呼び、圭太を病院へ運んだ。
 すぐに検査が行われ、結果、肺炎であると診断された。
 重度のものではないらしいが、暖房もなにもないリビングにそれなりの時間いたために、悪化したらしい。
 軽い脱水症状となっている関係で、数日の入院を言い渡された。
 圭太は検査中は一度も目を覚まさず、検査後、ある程度応急処置が行われた頃に、ようやく目を覚ました。
 それでもすぐには自分の置かれている状況は理解できず、担当の医師と看護師が説明して、ようやくという感じだった。
 処置後、診察室から病室に移り、そこでようやく関係者と顔を合わせた。
 柚紀と琴絵はただひたすらに泣き続け、琴美と朱美がそれをなだめていた。
 もちろん、全員からきっちりときつい説教を受け、圭太はただひたすらに謝っていた。
 それでも、本当の意味で最悪の事態だけは避けられたという安堵感が、それぞれにあった。
 もしも、圭太がそのまま、などということになっていたら、いったいどうなっていたか。あまり想像したくない。
 そして、午前中のうちに病室には全員が揃っていた。
 圭太は、まだ本調子ではないので、ベッドに横になったまま、それぞれに相対していた。
 その誰もが圭太に文句を言ったが、最後には取り返しのつかないことにならなくてよかったと、安堵のため息を漏らしていた。
 それから、圭太のたっての希望で、それぞれと個別に話をする時間を設けた。
 
 二「相原詩織」
 最初、朱美から連絡をもらった時は、なにを言っているのかわからなかった。
 だって、なんで先輩が──圭太さんが倒れるの?
 だけど、朱美の必死の言葉に、それがウソではなく、冗談でもなく、本当なのだとわかり、私はその場にくずおれてしまった。
 それからのことは、はっきり言えばあまり覚えていない。
 家を出て、病院に向かって。
 病室のベッドに横たわる圭太さんを見た時に、はじめて私の中の思考が繋がった。
 病室には、みんな揃っていた。
 当然だ。誰もが圭太さんのことが、本気で好きなんだから。
「なんだか、今まで生きてきた中で受けた罵倒と同じ分の罵倒を、今日一日だけで受けた気がするよ」
 圭太さんは、そう言って笑った。
 まだ少しぎこちない笑みだけど、柚紀先輩や朱美の話を聞く限り、だいぶましになっているはずだ。
「もっとも、すべて僕が悪いわけだから、なにを言われてもなにも言い返せないんだけどね」
「無理して笑わないでください」
 だけど、そんな痛々しい姿は見ていられない。
「……自分でさ、まったく気付かなかったんだよ。確かに、少し前からおかしいと思ってたんだけど。母さんや琴絵、それにみんなにはあれこれ言っておきながら、自分がこの体たらくじゃ、本当に意味がない……なにを言っても意味がない……」
「本当に意味がないことなんて、そうそうあるわけないじゃないですか。それに、今回のことは圭太さんが悪いわけじゃありません。誰も、悪くないんです」
 そう。誰も悪くない。
 圭太さんは自分が病気であると自覚できていなかった。
 まわりの誰もがそれに気付かなかった。
 もし誰かを悪者にするなら、全員が悪者だ。
「圭太さんなら、そのことはわかってるはずです」
「…………」
「だから、もう自分を責めるの、やめませんか? そんなことしても、誰も喜びませんから」
「……詩織にここまで言われたのは、はじめてかな」
「え、あ、そ、その……すみません……偉そうに……」
 失敗だぁ。こんなこと言うつもり、全然なかったのに。
 まして、圭太さんはまだ治ってない。そんな時に余計なことを言うなんて。
 ううぅ、バカバカバカ、私のバカ。
「いや、言ってくれてよかったよ。そうじゃないと、また僕はバカなことを繰り返しただろうから」
「圭太さん……」
「だけどね、詩織。わかってることと、それに基づいて行動することは、また別なんだよ。僕の場合、行動が伴ってなかった」
「それなら、これから行動を伴わせればいいだけです。人は、間違いを犯す生き物ですけど、それを正しく直すことができる生き物でもあるんですから」
「そうだね」
 圭太さんは、今度はさっきよりもずっといつもみたいな笑みを浮かべた。
「ん、っと」
「だ、大丈夫ですか?」
「ちょっとだるいけど、大丈夫だよ」
 ベッドに身を起こし──
「詩織。おいで」
「はい……」
 私は、そのまま圭太さんに抱きついた。
「ごめんな、心配かけて」
「いえ……無事なら、いいんです」
 圭太さんは、私を優しく抱きしめ、髪を優しく撫でてくれる。
 圭太さんに髪を撫でてもらうだけで、私の心はとても落ち着く。
「でも、もうこんな形で心配はしたくないです」
「そうだね。僕も、こんな形で心配してもらうのは、本意じゃないよ」
 誰もこんなことは望んでいない。
 だけど、今回のことでもそうだけど、いつこういうことが起きるかはわからない。だからこそ、そうならないように気をつけるのだ。
「あの、圭太さん」
「ん、なんだい?」
「ひとつだけ約束してください」
「なにをだい?」
「本当に私の前から、突然いなくならないでくださいね?」
 今は、ただそれだけが心配だった。
「心配しなくても、そんなことはないよ。僕としては、それよりも詩織が僕の前からふっと消えてしまうんじゃないかって、そっちの方が心配だよ」
「それこそ、心配の必要なんて皆無ですよ。私は、圭太さんがいてくれないと、なにもできないんですから。私の原動力は、圭太さんが側にいてくれることから得られるんですから」
「そっか。じゃあ、僕も詩織には側にいてもらいたいな」
「いますよ、ずっと。それこそ、圭太さんが私のことを嫌いになるまで、ずっと」
「ありがとう、と言うのは変かな?」
「いいえ、そんなことはありません」
「じゃあ、ありがとう、詩織」
「はい」
 もう少しだけ、こうしていたい。
 私の不安な気持ちを、少しでも忘れていたいから。
 そうしないと私は──
 
 三「新城幸江」
 わかってはいたんだけど、ここまで動揺するとは思わなかった。
 少なくとも、年相応に行動できると思ってた。
 だけど、全然ダメだった。
 ほかのことなんてまったく手につかなかった。というか、ほかのことなんてどうでもよかった。
 一分一秒でも早く圭太の顔が見たかった。
 だから、たとえベッドで眠っていたとしても、その顔を見られただけで、安心できた。
 もちろん、それで圭太の病気が治るわけではない。それでも、私は私のために、圭太の顔が見たかった。
「あの、幸江さん……?」
「ん、どうしたの?」
「いえ、どうしてこんなことになってるのかな、と思って」
「……イヤ?」
「そういうわけではないんですけど……」
 ここは病室。そのベッドの上で、私は圭太に膝枕をしている。
 私にできることなんてほとんどないから、せめてこのくらいのことはしたかったのだ。
「そういえば、なんかずいぶんとさっぱりとした表情になったわね。ここに来た時はなんか本当の意味で死にそうな顔してたのに」
「……それは、いろいろ諭されたからですよ」
「諭されたって、柚紀に?」
「いえ、柚紀からは文句を言われただけです、とりあえずは」
「とりあえずなんだ」
「あの柚紀が、それだけで終わるはずないですからね」
 それはなんとなくわかる。柚紀は、私たちの中で一番圭太のことを考えているから。
 これは冗談でもお世辞でもない。私を含めて私たちも圭太のことは考えているけど、やっぱり柚紀にはかなわない。柚紀の圭太に対する想いは、ある意味では次元が違う。
 もちろん、なにもしないで負けるつもりはないけど、それでもやっぱり圭太の本当の笑顔を引き出せるのは、柚紀しかいないから。
「じゃあ、誰に諭されたの?」
「詩織ですよ」
「ああ」
 そういえば、圭太と最初にふたりきりになったのは、彼女だったわね。そうすると、みんなが一番気にしていたことを言ったのだろう。
「あのさ、圭太。今の話とはまったく関係ないんだけど、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
「なんですか?」
「圭太は、詩織のこと、やっぱり特別扱いしてるの?」
「どうしてですか?」
「なんとなくなんだけど、後輩三人の中で詩織に対する態度がちょっと違うから」
「……それは、たぶん間違いじゃないです」
「あ、やっぱりそうなんだ。それって、詩織が特別綺麗だから?」
「正直に言えば、僕にもよくわからないんです。ただ、朱美や紗絵は妹のような存在とも言えるんですけど、詩織にはそう言えなくて。だからなのかもしれません」
 前にともみに確認したことはあったけど、やっぱりそうなんだ。
 確かに、詩織は女の私から見ても綺麗だと思う。それに、ああいう子は男が放っておかない。
 圭太もそのあたりは、普通の男と同じってことか。
「でも、どうして今、それを訊くんですか?」
「ん、なんとなく。ちょうど詩織の名前も出てきたから。深い意味はないわ」
 そう、深い意味はない。そりゃ、ちょっとは私も詩織みたいになれればとは思ってるけど、ないものねだりしてもしょうがないから。
「ところで、圭太」
「はい」
「もう倒れたりしないでね。圭太が倒れると、みんなダメになっちゃうから」
「すみません」
「別に謝る必要はないわ。圭太が悪いわけじゃないんだから。それでもね、理屈じゃない部分もあるから」
 なにもこんな時まで年上ぶらなくてもいいのに。
 そうは思うけど、これはもう抜けないのだ。私が圭太よりも年上である限りは。
「そのことを、もう少しだけ意識するだけで、いろいろ変わると思うから」
「わかりました。そうします」
「うん」
 私は、今の私に与えられた自分の『役割』を果たすだけ。
 それが、私なりの圭太に対する想いの伝え方でもあるから。
 
 四「吉沢朱美」
 私は、圭兄のためになにができるんだろう。
 今回のことで、私はそれをよりいっそう考えなければいけなくなった。
 私にできたことなんて、取り乱していた琴絵ちゃんをなだめることだけ。ほかは、なにもできなかった。
 それが悔しい。
「はあ……」
「ため息ついて、なにかあったのかい?」
「圭兄が倒れちゃった」
「…………」
「ああ、ウソウソ。そのことでついたため息じゃないから」
 今のウソはよくない。圭兄は人一倍そういうことを気にしちゃうタイプなのに。
「あのね、私って本当に圭兄のためになにもできてないなぁ、って思ってたの」
「僕のために?」
「だって、口ではあれこれ言ってても、今回みたいにいざって時に、なにもできなかったもん。それが悔しくて」
「……バカだなぁ」
「えっ……?」
「朱美は、今のままでいいんだよ。僕は、そんな朱美が好きなんだから」
 うっ、すごく嬉しいけど、それをそのまま鵜呑みにしちゃいけない。
「でもでも、今のままだと私、圭兄のためになにもしてあげられない。そんなの私がイヤだもん」
「じゃあ、逆に訊くけど、朱美は僕になにをしたいんだい?」
「それは……」
 それを訊かれると、困る。私の中でも、それが見えてきてないから、なにもできてないんだ。
「上を見ても、焦るばかりでなにもできなくなるよ。朱美は朱美。それでいいんだよ」
「……それじゃあ、いつまで経っても柚紀先輩に追いつけない」
「朱美は、柚紀になりたいのかい? 違うだろ? だったら、朱美らしくしてないと」
 そんなこと、言われなくてもわかってる。わかってるけど、いろいろ考えちゃうんだ。特に大好きな圭兄とのことだから。そのことで後悔だけは、絶対にしたくないから。
「……ねえ、圭兄。私らしい、って、いったいなんなのかな?」
「そうだなぁ……」
 圭兄は目を閉じ、少し考える。
「僕がどうして朱美のことが好きなのか、わかるかい?」
「えっ……? えっと、よくわかんない、かな」
 はじめてエッチした時に、カワイイって言われたけど、それだけが理由だとは思わない。圭兄が、そんな見た目だけで相手を好きになったりはしないからだ。
「正直に言えば、朱美はずっと僕にとってもうひとりの『妹』だったから、まずはそこからはじまるんだ。ちょっと人見知りで、でも、とても人懐っこくて。仲良くなれば、明るくてとてもカワイイってこともわかるし。それに、なによりも健気だから」
 圭兄がそんな風に見てたなんて、知らなかった。
「だからね、いつの間にか朱美のことを『妹』としてだけじゃなく、女の子としても見てる自分がいたんだ。特に、柚紀とつきあいはじめて、よりいっそう女の子というものを意識するようになってたからね。その結果、朱美に告白されて、そのまま抱いちゃったわけだけど」
「……それが、私らしいっていうこと?」
「さあ、どうかな。ただね、変に背伸びして無理しないでほしいんだ。朱美はまだまだこれから変われるんだから」
 ……やっぱり、私は無理してるのかな。
 私はただ、圭兄のためになんでもしてあげたいだけなんだけど。
「ああんもう、わけわかんない。いくら考えても答えなんて出ないよ」
「それはそうだよ。だって、答えが出たら、それで終わりってことなんだから。朱美は、終わりにしたいの?」
「そんなことない。絶対ない」
 あるわけない。私は、それこそ死ぬまで圭兄と一緒にいたいんだから。
「だったら、これからゆっくり考えていけばいいんじゃないかな。僕はそう思うよ」
「……その間、ずっと一緒にいてくれる? 圭兄が側にいてくれないと、意味ないよ」
「ああ、わかってるよ。僕だって、カワイイ朱美を手放したくないからね」
「うん」
 本当は圭兄を励まして、早く元気になってもらいたかったのに、いつの間にか私の方が励まされてる。
 これが『妹』の位置を完全に抜けきれてない証拠かも。
 でも、いいんだ。私は私らしく、一歩一歩進むんだから。
 圭兄も、それを望んでるんだから。
 
 五「佐山鈴奈」
「圭くん。なにかしてほしいことある?」
「いえ、特にないですけど」
「なんでもいいんだよ。私にできることなら、本当になんでも」
 圭くんは、少しだけ困った笑みを浮かべた。
 だけど、今の私には余裕がない。こんなに余裕がないのは、はじめてかもしれない。
 
 それは、まだ夜中という時間だった。寝ていたら、携帯が鳴った。
 そんな時間に非常識な、と思ったけど、非常識な時間にかかってきたということは、それなりの意味があるのだと思い直し、電話に出た。
 そして、電話の内容は私の想像をはるかに越えたものだった。
 それからのことは、よく覚えていない。
 気がついたら病院にいて、圭くんがベッドに寝かされていた。
 琴美さんに詳しい状況を聞いて、あとはただただ圭くんが無事でいてくれることを祈った。
 目を覚ました圭くんは、私たちが思わず脱力してしまうくらい、いつも通りだった。だからこそ、余計になんでもしてあげたかった。
 圭くんがせっかく私たちに心配かけないようにしてくれているのだから、それに応えるのが、私たちの役目だと思ったから。
「じゃあ、圭くん。ちょっとだけ、いいかな?」
 私は、ベッドに座り──
「少しだけ、このままでね」
 圭くんを抱きしめた。
 体はもう大人の男性なんだけど、こうしてる時だけは、彼が年下なんだと実感できる。
「いつまで学校を休むことになるのかな?」
「下手すると、今月いっぱいですね。もちろん、状況次第ですけど」
「そっか。入院自体は?」
「それも状況次第ですけど、今週いっぱいは入院でしょうね」
「その間は、やっぱり柚紀ちゃんが?」
「ダメだって言っても居座るって言ってました」
「ふふっ、柚紀ちゃんらしい」
 ああ、なんでこんな時までいい『お姉ちゃん』であろうとするんだろう。私だって、圭くんのためになんでもしてあげたいのに。
「って、そうじゃなくて……」
「どうかしましたか?」
「あのね、圭くん。私も圭くんのお世話、したいな」
「鈴奈さんもですか?」
「うん。私にできる数少ないことのひとつが、圭くんを甘えさせてあげることだから。こういう時くらい、思い切り甘えるべきだと思うの」
「…………」
「難しく考えることなんてないよ」
 とは言いながらも、圭くんなら難しく考えてしまうことは、わかってる。それでも、私自身が圭くんと一緒にいたいから、それを強いている。
「ね、たまには本当になにもかも忘れて、お姉ちゃんに甘えてみようよ」
「……それはそれでとても嬉しい申し出なんですけど」
「うん」
「もし本当になにもかも忘れて甘えてしまったら、もう戻れない気がして恐いんですよ」
「恐い? なにが?」
 恐いなんて、いったいなんだろう。
「その……甘えてしまいすぎることにです。僕は、誰かに本気で甘えたことがないので、自分がどうなるのかわからないんです。そのせいでいろいろ問題が起きるとさすがにまずいですし……」
「ふふっ」
「お、おかしいですか?」
「ううん、そんなことないよ。圭くんらしいな、って思ってね」
 本当に圭くんらしい。どうしてそこまで自分を二の次に考えちゃうんだろ。
 人間なんだから、もう少し自分の欲望に忠実に、自分を中心に物事を考えたって罰は当たらないのに。
「でもね、圭くん。そうやってちゃんと考えられてるなら、大丈夫だよ。それに、この私が圭くんをそんな風にすると思う?」
「……いえ、思いません」
「でしょ? そりゃ、圭くんは私の大好きな男性だけど、カワイイ弟でもあるから、ちょっと過剰に可愛がっちゃう可能性は否定できないけど、それでも、それに依存させちゃうようなことはしないから」
「……鈴奈さんはそうでも、僕がそうだとは限りません」
「どうして?」
「だって……鈴奈さんは綺麗で優しくて包容力があって、その、理想のお姉ちゃんですから。そんなお姉ちゃんに甘えちゃうと、とことんまで甘えちゃいそうで……」
 ん〜、圭くんがすごくカワイイ。
 やぁん、どうしよう。こんな圭くんが見られるんだったら、こんな風に困らせちゃうのもいいかも。
「じゃあ、こうしよう。とりあえず、圭くんがいいと思えるくらい、私に甘えてみて。それなら、圭くんが心配してるようなことにはならないでしょ?」
「……どうあっても僕に甘えてほしいんですね」
「だってぇ、最近圭くん、私に全然甘えてくれないんだもん。そりゃ、私も仕事があるし、圭くんは部活と文化祭、テストと立て続けにあったから、そういう機会がなかなかなかったのもわかるよ。でもね、できればもう少しだけ、なんとかしようと思ってくれると嬉しいな、って」
 ああ、私、こんな時になに言ってるんだろ。圭くんはなんでここにいるのか、ちゃんと考えないと。
 こんなこと、退院してから言えばいいの。今は、私の願望を圭くんに押しつけちゃダメなんだから。
「ごめん、圭くんっ」
「えっ、どうしたんですか?」
「私、なんかおかしくなってる。圭くんが大変な時にこんなこと言うなんて」
「鈴奈さん……」
「だから、今言ったこと、全部忘れて。今はとにかく、一日でも早くよくなって。ただそれだけを考えてくれればいいから」
 そうだ。これでいいんだ。私のことは二の次で──
「それは無理ですよ」
「えっ……?」
「だって、僕はもうお姉ちゃんに甘える気満々なんですから」
「圭くん……」
「入院中にそれができるかどうかはわかりませんけど、もしできなくても退院したら必ずお姉ちゃんに甘えますから。覚悟しててくださいね」
「うん。覚悟してる」
 やっぱり、圭くんは優しい。
 結局、なんだかんだ言って私が圭くんに甘えたいんだ。
 だけど、今は素直にカワイイ弟が甘えてくれるのを待とう。
 きっと、それはすごく楽しい想い出になるはずだから。
 少なくとも、今みたいにどうしようもない焦燥感をかき消せるくらいには。
 
 六「三ツ谷祥子」
 自分でも意外だと思う。
 圭くんにあんな大変なことがあったというのに、意外なほどに冷静だった。
 もちろん、そのことを聞いた時は大いに動揺した。だけど、それだけだった。取り乱すこともなかったし、なにをするべきかもちゃんと考えられた。
 今、さらに冷静になって考えてみると、それは私が母親だったからなのかもしれない。確かに圭くんは私の大事な人。その大事な人に大変なことがあったわけだから、慌てもするし、動揺もする。だけど、娘の──琴子の前ではそういう姿を見せてはいけないと、そう判断したのかもしれない。
 だからこそ、私は冷静だった。
 もっとも、圭くんの顔を見たら、泣いてしまったけど。
「ほら、琴子」
「あ〜」
「ほら、ほら」
「あ〜、う〜」
 圭くんは、琴子の目の前でおもちゃをちらつかせ、遊んでいる。
「おっ、取られちゃったな」
「あう〜」
 本当は琴子を連れてこようかどうしようか、迷った。でも、結局は連れてきた。
 やっぱり、琴子のパパである圭くんのことなんだから、連れていかないのはおかしいと考えたからだ。
 でも、今はそうしてよかったと思ってる。だって、琴子がいるおかげで、私も圭くんも、余計なことを考えないで済んでいるんだから。
「祥子」
「どうしたの?」
「すみません、いろいろと」
 圭くんは、琴子の頭を撫でながら、こっちを見ずにそう言った。
「こんな迷惑のかけ方、したくなかったんですけどね」
「しょうがないよ。圭くんが悪いわけじゃないんだから。みんな、わかってるよ」
 さんざん圭くんに文句を言っていた柚紀だって、圭くんが悪くないことくらいわかってる。ああいう風にでもしていないと、たぶん、自分を保てないからだと思う。
 私もそうだけど、誰よりも大切な人のことだから、余計にそうなっちゃう。
「今回のことはある意味では不可抗力だとは思うけど、できればこういうことはもう起きてほしくないなぁ。こんなことが何度もあったら、寿命が縮んじゃう」
「すみません……」
「んもう、そうじゃないでしょ。そこは謝るところじゃないの」
 ホントに圭くんは真面目すぎる。それが圭くんらしいところではあるんだけど、こういう時にはもう少し気楽に考えてもらわないと。
「ほら、そんな顔しないの。琴子が不思議がってるよ」
 琴子をこういうことに使うのは気が引けるけど、それで圭くんが前向きになってくれるならしょうがない。それに、琴子にとっても大好きなパパのあんな顔、見たくないに決まってる。
「圭くん」
「なんです──んっ」
 私は、不意をついて圭くんにキスをした。
「もう少し、肩の力を抜こうよ。ね?」
「……祥子にはかないません」
「ふふっ」
 圭くん相手になら、私も大胆になれる。圭くんじゃなければ、絶対にこんなことしない。
「そういえば、私までの間に、どれくらい言われたの?」
「いろいろ言われました。ただ、基本的にはみんな同じです。僕は悪くないと言って、なんとか励まそうとして」
「そっか。やっぱりそうだよね」
 みんな同じだ。
「ただ、幸か不幸か、できるだけその話をしないようにしてましたね。たぶん、みんなが言うと思ってなんでしょうけど」
「ああ、それはあるかも。私もそうだったし」
「それでも、僕には越えなければならない高い壁がありますから」
「それって、柚紀のこと?」
「はい。柚紀とはまだ、ちゃんと話してませんから」
「確かに、柚紀なら今までと同じ、というわけにはいかないね」
 聞いた話だと、倒れた圭くんを発見したのが、柚紀だったらしい。
 その現場を見てしまっては、私たち以上にあれこれ考えてしまっただろう。
 柚紀は確かに強いけど、その強さは圭くんが側にいることでカバーされてるところが大きい。その圭くんがいないかもしれない、いなくなるかもしれないという状況では、きっと柚紀はもろい。
 同じ人を好きになって、愛して、愛してもらって。それがよくわかる。
 圭くんも、深いところまではわからなくとも、おおよそは理解してるはず。
 だからこそ、あえてあんな風に言ったんだ。
「見た感じだと、柚紀もだいぶ落ち着いてるみたいだけど、ふたりきりになるとわからないね。その時のことを思い出したら、余計かも」
「そのあたりは、僕がフォローします。僕にしかできないことですから」
「うん、そうだね」
 圭くんと柚紀の関係は、きっと私が想像しているよりも、ずっとずっと強いものだ。
 それは絆というだけでなく、あらゆる面でだ。
 これを言うと戦わずに負けを認めてるみたいに聞こえるかもしれないけど、もし圭くんが柚紀とつきあわなければ、きっと私は圭くんと今みたいな関係にはなれていない。
 これは、圭くんがどうのというよりも、私の問題だ。
 卒業間際に行動を起こした可能性はあったかもしれないけど、それでも圭くんの側にいられるだけで満足していたはずだ。ずっと、そうだったから。
 だからというわけじゃないけど、ふたりの関係は常に良好であってほしい。
「でも、今はもう少しだけ、私たちを見ていてね」
 本当に心からそう思う。
 
 七「笹峰柚紀」
 正直言えば、圭太とふたりきりで顔を合わせづらかった。
 言いたいこと、というよりは頭で考えずに感情から出てきた言葉をそのままぶつけてしまって、あとで冷静になって考えると圭太のことをなにも考えていなかったことに気付いた。
 今回のことだって、圭太が悪いわけじゃない。それは全員がわかってる。
 だからこそ、余計に自分の思慮のなさがイヤになる。
 倒れて、入院して、みんなに迷惑かけたと思って、一番つらい想いをしてるのは、圭太なのに。
「柚紀にあれだけ言われてたのに、結局こうなっちゃって。本当にごめん」
 圭太は、まず謝った。
「さっきあれだけいろいろ言われたけど、まだ言い足りないんじゃないかと思って」
「……違う……」
「ん?」
「……違うの。本当は圭太に文句なんてないの。あれは、私のワガママから出た言葉だから」
「そうだとしても、心にもないことを言えるほど、柚紀は曲がってないよ」
 そうかもしれないけど、今だけは素直にそれを受け止めてほしかった。
「……さっきは、ごめんなさい。かなり言い過ぎたと思ってる」
「別に怒ってないよ。それに、なじられ、罵られてもおかしくない状況なわけだし」
「違う。圭太は悪くない。全然悪くないの。だから、なじられる必要も罵られる必要もないの」
 それだけはしっかり言っておかないと。
「確かに具合が悪かったことを誰にも言わなかったことは、問題だったかもしれない。でも、ずっと側にいたはずの私も琴美さんも琴絵ちゃんも朱美ちゃんも、気付かなかった。だから、圭太は悪くない」
「……とりあえずさ、柚紀。その話は棚上げにしない? このまま続けても、平行線だと思うから」
「……うん」
 圭太の言い分は、たぶん正しい。このまま続けても、きっとお互い納得できない。それに、このままだとお互いが妥協してますます気まずくなる。
「そういえば、今までどうしてたの? 結構時間、あったと思うんだけど」
「みんなでいろいろ話してたの。圭太のことを」
「そっか」
 圭太は、それ以上は聞いてこなかった。
「…………」
 ああ、会話が続かない。
 圭太との間で、こんなことは珍しい。たいていは私が話しているけど、それでもこんな風にイヤな感じで途切れることはほとんどない。
 滅多にないことだから、どうしたらいいかわからない。
「柚紀。ちょっといいかな?」
「どうしたの?」
「もうちょっとこっちへ」
 私は言われるままに圭太のすぐ側へ。
「いったいどうした──んっ」
「……正直言うと、僕自身もなにをしたらいいか、なにをどう考えるべきなのか、わからないんだ」
「圭太……」
「今は、それをなんとか誤魔化してるところ」
 そっか。圭太もわからないんだ。
 そうだよね。圭太にだってわからないこともあるし、できないこともある。
「そのせいで柚紀が不安になったり腹を立てたりするかもしれないけど、もう少しだけ長い目で見ていてほしいんだ」
「……そんなこと、改めて言わなくてもいいよ。私は、どんな時でも、どんな状況でも、圭太を信じてるから」
 圭太のやることすべてが正しいとまでは思ってない。だけど、基本的に間違ったことしてるとは思ってないから、信じるのは当然だ。
「ねえ、圭太。もう私もなにも言わないから、圭太もなにも言わなくていいよ。結局、誰が悪いとか、そういうことじゃないんだよ」
「そうかもね」
「だから、今度こそ本当にこの話はおしまい。それに、そうしないと圭太はいつまでもそのことばかり考えちゃう。そんなことだと、治るものも治らなくなっちゃう」
「そうだね。もう考えるのはやめるよ。そうしないと、柚紀だけじゃなくて、みんなにもあれこれ言われるし」
「そうそう。それがいいよ」
 今回のことで私にできることは、あまりない。早く治るようにがんばるのは、圭太自身であり、それを助けるのは医者の役目。
 私にできることは、せいぜい身のまわりの世話と、今みたいに励ますことくらい。
 なにもできないわけじゃないんだから、私もがんばらないといけない。
「ところで、圭太」
「ん?」
「いつまで私を抱きしめてるの?」
 そう、今私は圭太に抱きしめられている。イヤなわけじゃないし、むしろずっとこのままでいたいけど。
「離そうか?」
「イヤ」
「じゃあ、訊かなければいいのに」
 そう言って圭太は笑った。
「あ、そうだ」
「どうかした?」
「あのね、もう今回の話はしないってことだったけど、最後にひとつだけ」
「なに?」
「お願いだから、もう本当に無理だけはしないでね。昨夜、圭太を見つけた時は、心臓が止まっちゃうんじゃないかって、そう思ったくらいだから」
「わかってるよ。僕だって、今回のことでいろいろ懲りたから」
「ホント? ホントにホント? 圭太、未だに自分ひとりでなんでも抱えちゃうから」
「そこまで信用されてないと、なにを言っても無駄な気が……」
「信用してるよ。もうそれこそ、盲目的に信用してる。ただ、そういうことに関しての圭太だけは、多少疑ってかからないとね」
 本当に圭太はすぐに自分ひとりで抱えこんでしまうから。
 もう少し私たちを使ってくれれば、もっともっといろいろなことができるはずなのに。
「約束だからね、圭太」
「わかったよ」
 もし、もう一度圭太が倒れたりしたら、私はどうなってしまうのだろうか。
 想像したくないけど、たぶん、私は私でいられなくなる気がする。
 今回だって、琴美さんや朱美ちゃんがいたからなんとか我を取り戻せたけど、もし仮に私しかいなかったら、どうなってたかわからない。
 それくらい、私にとって圭太の存在は大きい。いや、大きいなんてものじゃない。圭太がいなければ、私が生きている意味などない。
 今の私のすべては、圭太と一緒に生きていくためにあるのだから。
 それこそが、私の唯一の道、なのだから。
 
 八
 面会時間ギリギリまで、全員が残っていた。
 その面会時間も終わり、今病室には圭太と琴美しかいなかった。
 柚紀は、病院に泊まるための準備があるので、一度帰った。
 圭太としては琴美も無理しなくてもと思っていたのだが、それを口に出すことはなかった。
「……本当に、圭太は変わらないわね」
 琴美は、嘆息混じりにそう言う。
「何度言ってもわからないの?」
「……いや、わかってはいるんだけど……」
「わかってて、なおこうなるんだったら、どうしようもないでしょ?」
 さらに深いため息をつく。
 圭太が琴美に残ってほしくなかった理由のひとつは、これもあった。
 ふたりきりになるまで、琴美は圭太に文句ひとつ言っていなかった。それは普段の琴美からすればあり得ないことだった。
 誰よりも自分の息子を愛し、心配している琴美にとっては、それは本当にあり得ないことだった。
「まあでも、今回は私よりも柚紀さんが被害者よね。その現場を見てしまったわけだから。もし私がそれを見つけていたら、もっと大変だったかもしれないわ。自分で言うのもなんだけど」
「……柚紀には、本当に悪いことをしたと思ってる」
「そうね。だけど、圭太。あまり謝りすぎると、かえって柚紀さんに迷惑よ。柚紀さん、自分のせいだって責め続けてたから」
「うん、わかってる。そのことは、さっき柚紀と話したから」
「それならいいけど」
 話したのは話したのだが、結論は出ていない。
 圭太もそれを琴美に言うつもりはなかった。
「……ねえ、圭太」
「ん、なに?」
「本当に、もうこんなことはなしにしないとダメよ」
「わかってるよ。もうみんなにも言われたし。それに、僕自身今回のことはかなり反省してる」
「反省するだけじゃなくて、行動でも示さないと、みんな安心できないわよ」
「それもわかってる」
「それと──」
「んっ」
「私も、安心できないのよ……」
 琴美は、少しだけ乱暴に圭太を抱きしめた。
 圭太は特に抵抗せず、為すがまま。
「前に私も倒れてるからあまり言えないけど、それでもね、お願いだから、もうこんな想いさせないで……これ以上こんなことがあると私、自分が圭太の──あなたの母親であることを忘れてしまいそうで恐いの……」
「それって……」
「少しずつね、私の中であなたの存在が大きくなってるの。もちろん、息子なんだから元から存在は大きいのよ。特に、祐太さんが亡くなってからはね。でも、最近は違うの。自分でもおかしいとは思っていても、あなたのことをひとりの男性として見ている自分がいて、それを少しずつ受け入れてる自分がいて……」
「母さん……」
「だからね、これ以上私にそんな想いをさせないで。そうじゃないと、琴絵のことを言えなくなってしまうわ」
 琴美の告白を、圭太は思いの外落ち着いて聞いていた。
 だが、その告白自体はとても落ち着いて聞ける内容ではなかった。
 実の母親である琴美が、息子である圭太のことを、ひとりの男として見ている。それはつまり、今の圭太と琴絵の関係と同じような関係になり得るということである。
「祐太さんに対して操を守ってるというのは、確かにあるわ。でもね、それだけじゃないの。前に圭太が言ったように、再婚のことだってまったく考えなかったわけじゃない。あなたも琴絵も、まだまだ子供だから。それでも、それを決断させなかった本当の理由は、圭太、あなたがいたからなのよ」
「僕が?」
「ええ。私が一番愛しているのは、今でも祐太さん。これは絶対に変わらない。でも、その祐太さんに勝るとも劣らないほど愛しているのが、圭太なのよ。だからね、理性ではいけないことだってわかっていても、心が完全には否定してくれないの。あなたと……そういう風になってしまってもいいってことを……」
「母さん……」
「……軽蔑してくれてもいいわよ」
「しないよ、そんなこと」
 今度は、圭太が琴美を抱きしめた。
「ごめん」
「……どうして謝るの?」
「だって、僕のせいで母さんはしなくてもいい心配をして、考えなくてもいいことを考えて。それなのに僕は、そんな母さんの気持ちを、少しもわかってあげられなかった。だからだよ」
「……本当にあなたは……優しすぎるわ」
「そんなことないよ。本当に優しかったら、最初から母さんにそんなこと考えさせなかったし、言わせなかった」
「それは違うわ。あなたが優しいから、私はその優しさに甘えてしまったの。だから、あなたのせいじゃない」
 琴美は、圭太の腕の中で、何度も頭を振る。
「……母さん。僕はね、父さんと約束したんだ。母さんを守るって」
「それは、前にも聞いたわ」
「でもね、本当の約束は違うんだ」
「違う?」
「本当はね、母さんと琴絵と、それと、いつか巡り会う大切な人の心を守るって、約束したんだ」
「心……」
「僕は、それができてる……?」
 圭太は、琴美を真っ直ぐに見つめた。
 それに対して琴美は、圭太を真っ直ぐに見つめ返し、ふっと微笑んだ。
「できてるわよ。ちゃんとできてる。私も琴絵も、それに柚紀さんをはじめとして、あなたが大切だと思っているみんなの心も、ちゃんと守ってる」
「そっか……それならよかった。もし約束を守れてなかったら、父さんにさんざん怒られるところだったから。父さん、普段は怒らないから、怒るとものすごく恐いし」
「そうね」
「だから、本当によかった」
 圭太も、ようやく穏やかな笑みを浮かべた。
「ところで、圭太」
「ん、なに?」
「その、あんなこと言っちゃった今だから聞くんだけど」
「うん」
「えっと、圭太は、私のこと、どう思ってるの?」
「母さんのこと?」
 琴美は小さく頷いた。
 その恥じらう様子は、とても二児の母親とは思えないほど初々しいものがあった。
「あ、この場合は、母親としてじゃなくて、ひとりの女としてだからね」
「えっと……」
「も、もう、すごく恥ずかしいんだから、そんな顔しないの」
「あ、いや、その、まさか母さんからそんなことを言われるとは思ってなかったから」
「だとしても、あるでしょ? 私の印象は」
「そりゃ、あるけど……」
「それを聞きたいの」
 もはや、琴美の表情や仕草、声音は母親のそれではなかった。
「ね、どうなの?」
「……その、綺麗だと思うよ」
「本当に?」
「うん。みんなに自慢したくなるくらい、綺麗だよ」
「嬉しい……」
 ふたりの関係は間違いなく母と息子のはずなのに、その雰囲気は間違いなく彼氏と彼女だった。
「ほかには?」
「あとは……実年齢を感じさせないくらい、若いとか」
「ふふっ、それ、嬉しいかも。これでも結構努力してるから。圭太なら、いくつくらいに見える?」
「僕は母さんの実年齢を知ってるからあれだけど……そうだなぁ、いいとこ、三十くらいかな」
「むぅ、さすがに二十代は無理?」
「いや、あくまでも僕の意見だから。ほかの人はどうかはわからないよ」
「私は、圭太にそう思われていたいの。ほかの人なんてどうでもいいの」
 むくれる琴美。
「あのさ、母さん」
「どうしたの?」
「いつの間にか、恥ずかしいとかそういうの、なくなってない?」
「あら、失礼ね。今でも恥ずかしいわよ。だって、年甲斐もなく恥ずかしいこと言ってるし、なによりもその相手が自分の愛息なんだから」
 とてもじゃないが、圭太にはそんな風には見えなかった。
 むしろ、嬉々とした表情で今を楽しんでいる。そう、圭太の苦手な年上の女性がよく見せる表情だった。
 もちろん、それを口にすることはない。
「ただね、こういう感覚を久しぶりに思い出して、嬉しいのよ。まるで、祐太さんとつきあいはじめたあの頃みたいで」
「そっか」
「あ、もちろん圭太と祐太さんを比べたりはしないわよ。親子でも全然違うんだから」
「わかってるよ」
「でも、違うから余計に……こんな気持ちになるのかも」
 そう言って琴美は、圭太に顔を近づけた。
「ちょ、か、母さん……? いったいなにを……?」
「目を、閉じて……」
「か、母さん──んっ」
 琴美は、圭太にキスをした。
 今までのように頬ではなく、唇に──
「か、母さんっ! い、いったいなにを考えて──」
「騒がないの」
「んむっ」
「ここは病院なのよ」
「……それはわかったけど、でも、母さん」
「ん?」
「どうして、キスを?」
「圭太のことが、好きだから。息子としてもだし、ひとりの男性としても」
「…………」
 琴美は、真剣な表情でそう言った。
「これは、けじめなの」
「けじめ?」
「そう。私の想いがこれ以上にならないための、けじめ。無理矢理に抑え込んでもいいことなんてないから」
 そう言って琴美は、苦笑した。
「でも、ごめんなさい。圭太の気持ちを無視した形でしてしまって」
「いや、それはいいけど……」
 圭太は、軽く頭を振った。
「もうこんなことはしないわ。だから、許して」
「……許すもなにも、僕は怒ってないよ。ただ、驚いただけ」
「……そうなんだ」
「それと、母さん」
「ん?」
「僕も母さんのこと、好きだよ」
「圭太……」
 圭太は、もう一度琴美を抱きしめた。
「もう少しだけ、このままでいさせてね……」
「うん……」
 
 九
 十一月二十四日。
 中間試験の最終日。
 圭太は、入院を余儀なくされていることもあって、当然のことながらテストは受けられなかった。ただ、最後のテストということと普段の行いが良いことが考慮され、テスト内容を変更した上で、後日のテストを許された。
 圭太としても、最後だけ中途半端で終わるのは不本意だったので、その配慮には素直に感謝していた。
 もっとも、圭太にとってはそれ以上に考えなければいけないことがあった。
 それは、学校での『騒動』のことである。
 以前学校を休んだ時は、一日だったのでそれほどでもなかったのだが、今回は違う。最初から入院という話で広まって、そこに尾ひれがついてしまった。
 圭太は知っての通り、学校内で最も人気のある男子である。学年を問わず、ファンがいる。となれば、そうなることも予想できた。
 ただ、圭太とすれば、それは自分とは関係のない場所で起きていることなのである。
 だからこそ、それについてあれこれ言われても、正直言えば、いい迷惑としか言えなかった。
 それでもなにも文句を言わないところが、圭太なのである。
 ただ、今回は圭太以上にその影響を受けていた者がいた。
 それは、妹である琴絵だ。
「ううぅ、みんなひどいなぁ……」
「まあ、これも先輩の妹なんだからしょうがないんじゃない?」
 テストが終わり、部活も再開である。
 琴絵は和美と音楽室へ向かっていた。
「そりゃ、お兄ちゃんのことを私に訊くのはわかるけど、私だってなんでもかんでも知ってるわけじゃないのに」
「そんなの、訊いてくる方には関係ないってことよ」
「でもさぁ、お兄ちゃんのことだったら、私だけじゃなくて、柚紀さんに訊いてもいいと思うんだけど」
「たぶん、いろいろ訊かれてると思うよ。ただ、琴絵と柚紀先輩を比べると、どっちが取っかかりやすいかは、一目瞭然だと思うのよね」
「……だから私ってこと?」
「そういうこと。それに、これからの時間は琴絵しかここにはいないし」
「あ、そっか」
「というわけだから、さっさとあきらめなって」
 琴絵しかいないというのは、すでに部活を引退している柚紀は、テストが終わると同時に病院へ向かったからである。
 その柚紀は、凛とともに病院へ向かっていた。
「ねえ、柚紀。昨夜のけーちゃんはどんな感じだった?」
「どんな感じって、特に変わったところはなかったわよ。相変わらずってとこ」
「それならいいけど」
「なんか気になることでもあるの?」
 柚紀は、凛の顔を覗き込んだ。
「そういうわけじゃないのよ。ほら、あんたも知っての通り、けーちゃんはあれこれ考えちゃう性格じゃない。だから、考えなくてもいいことまで考えて、病気の治りが遅くなってなければいいと思って」
「なるほど。でも、大丈夫よ。昨夜は早くに寝ちゃったし」
 柚紀の言うように、圭太は消灯時間には眠っていた。昼間にだいぶ起きていたことも要因ではあったのだろうが、やはりそれだけ体調が悪いという証拠だった。
「ただね、これは完全に憶測でしかないんだけど、琴美さんがなにかしたんじゃないかなって思うのよ」
「小母さんが?」
「ほら、みんなが帰る時に、琴美さんだけ残ってたじゃない。その間になにかあったんじゃないかなって、思ってるの」
「なにかって、具体的になんだと思ってるわけ?」
「それはわからないけど。私が病室に戻った時の雰囲気が、いつもの雰囲気じゃなかったのよ」
「いつもの雰囲気?」
「ん〜、なんていうのかな。圭太と琴美さんて、普通の親子以上の絆で結ばれてるのよ。それは凛もわかるでしょ?」
「まあね」
「で、そういう関係だから、普段からなんとなく『恋人』みたいな雰囲気もあるのよ。私はそれがちょっと気にくわないんだけどね」
「……あんたの嫉妬はこの際置いときなさい」
「わかってるわよ」
 柚紀は、一度息を吐いた。
「で、昨日はその雰囲気がより真実に近かった気がするの」
「真実? なんの?」
「恋人、の」
「えっ……?」
 凛は、ポカンと口を開け、思わず足を止めた。
「もちろん、それは私の気のせいかもしれないわよ。でも、圭太も琴美さんも、どことなくお互いをいつもと違う感じで意識してたから」
 柚紀としても、もしそれが事実であったとしても、だからどうということではなかった。琴絵の場合はもはや手遅れではあるが、仮にも実の母親である琴美との間で、そういうことはないだろうと思っていた。
 とはいえ、それを全否定できないのも事実だった。
「琴美さんて、昔からあんな感じだった?」
「基本的には変わってないかな。小父さんが亡くなって、昔ほどの張りみたいなものは影を潜めてるけど」
「圭太に対しては?」
「それは、今の方がご執心という感じね。まあ、小父さんの陰をけーちゃんに見てるからでもあるんだろうけど。昔は、ごく普通の仲の良い親子だったし」
「なるほどね」
「なるほどって、なにがわかったの?」
「結局、琴美さんも圭太の母親である前に、ひとりの女性だってことよ」
「つまり、母親としての想いよりも、女性としての想いの方が強くなってしまったから、昨日柚紀が感じた雰囲気になってた、と」
「まあね」
 柚紀は、複雑な表情で頷いた。
「そうなると、柚紀としても安穏とはしてられないわね。けーちゃんの性格を考えると、どうやっても小母さんを邪険には扱えないもの」
「そこまで大げさに考える必要はないとは思うけど。さすがに琴絵ちゃんと違って、それこそ大人の女性だから」
「その可能性が限りなく高いだろうけど、万が一というのはあるから」
「そうならないように、祈ってるわ」
 ふたりが病院に到着し、病室へ入ると、その病室には琴美のほかに、見舞客がいた。
「あれ、先輩、もう来てたんですね」
「大学は、高校と違って一律じゃないから」
 先客は、ともみと幸江だった。
「祥子先輩は一緒じゃないんですね」
「あの子は、午後の講義があるから。でも、もう講義も終わってる時間だから、そんなにしないで来ると思うけどね」
「というか、今頃走ってるかも。圭太に一分一秒でも早く会うために」
 誰もそれを冗談だとは思っていない。
「圭太、気分はどう?」
「悪くないよ。というか、ずっとベッドの上というのは、退屈でしょうがないね」
 そう言って圭太は笑う。
「状態としてはどんな感じなんですか?」
 柚紀は、琴美に訊ねた。
「先生の話だと、予想よりもずいぶんとよくなってるみたいね。入院自体は今週いっぱいは確実みたいだけど、状況次第では来週から学校に行ってもいいみたい」
「そうですか」
「ただ、私個人としては、やっぱり今月中は休んでもらいたいわ」
 琴美としては、そう言うのは当然だろう。
 せっかくよくなっても、病み上がりの状態で無理をして水泡に帰しては意味がない。
「そのあたりのことは、退院してから圭太と話して決めるつもりだけどね」
 結局は、圭太が決めることではある。琴美としても、さすがにこれ以上圭太が無理するはずがないという考えもある。
「ところで、柚紀。テストはどんな感じだった?」
「いつも通りよ。特別なことはなにもなし。きっと、圭太のためのテストもそんな感じよ」
「そっか。それを聞いて少し安心したよ」
「安心て、けーちゃんならどんなテストだって楽勝でしょ?」
「そこまでのことはないよ。僕だって勉強しなければ、点数は取れないし」
「裏を返せば、勉強さえすれば点数は取れるってことよね」
「……先輩、そこでそれ言ったら意味ないじゃないですか」
「あら、そう?」
 病室の雰囲気は、確実にいつもと同じになりつつあった。
「あ、そうだ。柚紀」
「ん、どうしたの?」
「ちょっと、いいかな」
「いいけど」
 圭太は、柚紀を連れて病室を出た。
 廊下を進み、エレベーターに乗る。それで最上階に行き、さらに階段を上がる。
 やって来たのは、屋上。
 もう少し早い時間なら、洗濯物が翻っている。
「それで、どうしたの、圭太?」
 少し風があるが、特別寒いということはない。
 圭太は、空を見上げ、それから柚紀に向き直った。
「柚紀に、頼みがあるんだ」
「頼み?」
「これはたぶん、柚紀にしか頼めないことだから」
「そ、そうなんだ」
 そういう風に言われれば、嬉しくないはずがない。
 圭太と関係のある誰もがそうなのだが、その中で特に柚紀は圭太からなんでもいいから頼られたいと思っている。
「で、なにを頼みたいの?」
「それはね……」
 圭太はそのまま柚紀の側まで来て──
「ちょ、ちょっと、圭太……」
「こういうこと、なんだけど」
 柚紀を抱きしめ、キスをした。
「んっ……私は嬉しいんだけど、いいの?」
「よくなかったら、こんなことしないよ」
「うん、そうだね」
 
 柚紀は、圭太の前に跪き、ズボンとトランクスを下ろした。
「でも、まさか圭太から誘ってくるなんて思わなかったなぁ」
 圭太のモノをしごきながら言う。
「たまにはこういうのも悪くはないと思ってね」
「ま、理由はなんでもいいの。私は圭太に頼られるのも、エッチするのも好きだから」
 大きくなったモノにキスをする。
「ん、ちゅっ」
「ん……」
「む……あ、ん……」
 筋に沿って舌をはわせ、口に含む。
 一度のどの奥まで入れ、また戻す。
 丹念に舐め続ける。
「気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
「ふふっ」
 淫靡に微笑む柚紀。
 次第にその動きも大胆になってくる。
「ん、柚紀、そろそろ……」
「いいよ、出して」
 そして──
「くっ」
 圭太は、柚紀の口内にすべてを放った。
「ん……」
 柚紀は、それを少しずつ飲み下す。
「はあ……たくさん出たね」
「今度は、柚紀の番だよ」
「うん」
 圭太は、柚紀を壁際に立たせ、スカートを持たせた。
 そのままショーツ越しに秘所に触れる。
 柚紀の秘所は、すでにしっとりと湿っていた。
「もう濡れてるよ」
「だって、圭太の舐めてて私も感じちゃったんだもん」
「このままでも十分そうだね」
「ううん、ちゃんと圭太にしてほしい」
「そう? じゃあ、触るよ?」
「うん」
 圭太は、ショーツを下ろし、直接秘所に触れた。
「んっ」
 柚紀の中は、すでに濡れていた。
 指を出し入れする度に、蜜があふれてくる。
「やっ、んっ、気持ちいい」
「柚紀の中、僕の指を離さないよ」
「ん、そんなこと、言わないで」
 柚紀は、可愛くイヤイヤする。
「それに、ここも──」
「ひゃんっ」
「ほら、こんなになってる」
「や、ダメ、そんなに……んんっ、擦らないで」
 最も敏感な突起を、軽く擦る。
「ん、はっ、も、もう立っていられないよぉ……」
 確かに足に力が入らなくなってきている。
「圭太、もう挿れて……」
「うん、わかったよ」
 圭太は、柚紀の右足を少し持ち上げ、そのままモノを突き挿れる。
「んんっ」
 一気に体奥を突かれ、柚紀は軽く達してしまった。
「圭太のが、一番奥まで届いて……気持ちいいの」
「柚紀の中も、すごく締め付けてて、気持ちいいよ」
「じゃあ、一緒にもっと気持ちよくなろ?」
「うん」
 圭太は柚紀の足を抱え、柚紀は圭太の首に腕をまわし、自分から動く。
「んっ、深いよぉ」
 少し動きは緩慢だが、圭太のモノは柚紀の中がまったく離そうとせず、絡みついてくるので、その快感は格別だった。
 柚紀も、中を擦られ、体奥を突かれているので、十分な快感を得ていた。
 だが、それだけでは多少物足りないところもある。
「柚紀」
「な、なに?」
「少し体勢を入れ替えてもいいかな?」
「いいよ」
 一度柚紀を下ろし、壁に向かって手をつかせた。
「いくよ」
「うん、きて」
 今度は後ろからモノを突き立てる。
「はあっ、んっ」
 圭太は、最初から飛ばし気味である。
「いいっ、圭太っ、気持ちいいよっ」
「僕も気持ちいいよ」
「私、そんなに、保たないかもっ」
「僕もだよ」
 さらにペースを上げ、突く。
 ここが病院で、その屋上であることなど、ふたりの頭の片隅にもない。
 ただひたすらに、お互いを求め合う。
「ああっ、ダメっ、イっちゃうっ」
 そして──
「イっくぅっ!」
「柚紀っ」
 圭太は、柚紀の中ですべてを放った。
「はあ、はあ……圭太の、まだ出てる……」
「柚紀の中が、すごく気持ちよかったからね……」
「ふふっ、よかった……」
 
「でもさ、圭太」
「ん?」
「どうして病院でしようと思ったの?」
 セックスのあと、ふたりはそのまま屋上でまったりと過ごしていた。
 屋上にはベンチがあるので、のんびり過ごすにはちょうどいい。
「なんていうのかな、柚紀に触れたいって思ったんだ」
「触れたい?」
「うん。僕自身もちゃんと理解できてないんだけど、変な不安感というか、焦燥感が襲ってきて、気付いたら柚紀に触れたくなってた。柚紀のことを考えただけで、その、収まらなくなってたし」
「圭太が?」
 さすがに、柚紀も驚いている。
 圭太から誘われることは、確かに珍しいことではあるが、ないことではない。
 だが、圭太が自らそのようなことを言うなど、今までなかったことである。
「……なにか、あった?」
 しかし、柚紀としてはその原因を考えてしまう。
 それは当然だ。あまりにも普段の圭太のイメージからはかけ離れていることを考えていたわけだし、実際それを行動に移している。となれば、そこになんらかの原因があると考えるのは当然である。
「……柚紀はさ、どう思った?」
「なにを?」
「母さんのこと」
「……なるほど、それが原因か」
「やっぱり、柚紀は気付いてたみたいだね」
 圭太は特に驚いた様子もない。
「そりゃね、大好きな人のことだから」
 柚紀は、微笑んだ。
「それで、なにがあったの?」
「実はさ──」
 圭太は簡単に琴美との間にあったことを話した。もちろん、多少はばかられることは伏せてはおいたが。
 それを聞いた柚紀は──
「そっか。琴美さん、そこまで圭太のこと想ってたんだ」
 実に落ち着いた口調で確認した。
「見てればある程度はわかったけどね。圭太は気付いてたかどうかはわからないけど、琴美さんの圭太に対して向けている表情は、母親としてのものだけじゃないから。たまにね、すごくせつなそうな表情で圭太を見てるの。その時の琴美さんは、すごく綺麗。同性の私から見ても、ため息が出ちゃうくらいにね。ただ、いつもはそのすぐあとに我を取り戻して、また母親の顔に戻るの」
「そこまでだったとは、僕も思わなかった」
 もちろん、一番驚いているのは圭太だろう。琴絵のことがあったとはいえ、まさか実の母親から言われるなど、普通は考えない。
「まあでも、圭太も琴美さんも、ちゃんと自覚してるなら大丈夫でしょ。琴絵ちゃんの時みたいに、暴走するってことはないだろうし」
「それはもちろん」
「それに、それをひとりで抱えないで私に話してくれたのは、すごくいいことだと思う。ひとりで抱え込んじゃうと、堂々巡りしちゃうことが多いから。そうなると、最悪の事態も想定しないといけないから」
「今回のことは、さすがに僕ひとりじゃどうしようもないと思ったんだ。だから柚紀に相談しようと思った。そしたら、その影響かどうかはわからないけど、急に柚紀に触れたくなって」
 確かにそれが原因かどうかはわからないが、それが原因だと考えれば辻褄が合う。
 ただ、柚紀はそれを追求しようとは思っていなかった。
「だいたいの理由はわかったから、もういいよ。それにね、さっきも言ったけど、私は圭太に頼られるのも、エッチするのも好きなの。だから、気にすることは全然ないから」
「ありがとう、柚紀」
 圭太は、素直に礼を述べた。
「ところでさ、圭太。こんなに長時間、病室を空けても大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。今日の検査はすでに終わってるし、夕食までに戻ればなにも言われないよ」
「ん〜、そうじゃなくて、件の琴美さんや、先輩たちは大丈夫なのってこと」
「あ〜……」
 どうやら、そのことを失念していたようである。
「ホント、圭太ってたまにポカするよね」
「そのあたりは、なんとかなるんじゃないかな。とりあえず、柚紀と一緒だったんだから、それだけでしょうがないと思ってるかも」
「なんか、その理由は納得しかねるけど」
「でも、相手が柚紀なら、ある程度のことは説明なしで納得してくれるのは事実だよ」
「むぅ、そうなんだけどさぁ」
「というわけだから、あまり深く考えてもしょうがないよ」
 そう言って圭太は笑った。
「あ、そうだ。ひとつだけ」
「なに?」
「今の話、琴絵にだけは話さないでほしいんだ。僕にとって、あまり起きてほしくないことが起きそうだから」
「大丈夫よ。私だって、これ以上事態が複雑化するのは勘弁してほしいもん」
「それならいいけど」
「ただね、琴絵ちゃんも気付くと思うよ。自分の大好きな人と、実の母親のことだから」
「それならそれでしょうがないよ。そこまでは僕も母さんもどうしようもないから」
「そこまで考えてるなら、私はなにも言わないよ」
 今度は、柚紀が笑った。
「さてと、いくら問題ないといっても、そろそろ戻らないとさすがにまずいわね」
「そうだね。僕は一応、入院患者だから」
「ふふっ。じゃあ、私はその入院患者さんを部屋まで無事送り届けないと」
「よろしくお願いします」
「お願いされます」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 
 十
 十一月二十七日。
 圭太の入院生活も五日目。そのリズムにもだいぶ慣れてきたのだが、特に問題がなければ次の日──月曜日には退院となる。
 圭太の世話は、ずっと柚紀がやっていた。とても嬉々とした表情で、担当の看護師が呆れるくらいだった。
 ただ、二十七日は日曜ということもあって、午後にはまた全員が揃っていた。
「んふふ〜、おにいちゃ〜ん」
 琴絵は、ベッド脇に椅子を置き、そこから身を乗り出し、圭太にくっついている。
 甘えている、といえばそれまでなのだが、それもいつもとは微妙に違う。こう表現するのが正しいかもしれない。
「今日の琴絵ちゃん、壊れてるわね」
 そうなのである。午前中に部活をして、そのまま病院にやって来た琴絵は、それからずっと圭太の側を離れようとしなかった。
 その場にいる面々は琴絵のそういう一面を理解してはいるのだが、ここまでの姿を見ることはほとんどない。そうすると、その状況を見て『壊れてる』と表現してもおかしくはない。
 実際、圭太も今日の琴絵はいつもと違うと感じていた。
「どうしたんだ、琴絵?」
「ん? どうもしないよ? 私、どこか変?」
 無邪気な顔でそう言われると、圭太もなにも言えない。
「いや……」
 そのやり取りを見て、柚紀たちは呆れ顔である。
「そういえば、紗絵」
「あ、はい」
「昨日の打ち合わせはどうだったんだい?」
「特に問題もなく、無事に終わりました」
 打ち合わせとは、毎年恒例のクリスマス演奏会のための打ち合わせである。
 今年も二高、三高と合同演奏する。そのための演奏曲や練習日時、場所を決めるための打ち合わせがあった。
「今年はなにをやるの?」
「えっと『オリエント急行』と『コーラスライン』からワンです」
「結構難しいわね」
「ええ。なので、基本的には『オリエント急行』に力を注ぐ予定です」
「どっちもいい曲ではあるけどね」
 この場にいる面々で音楽が門外漢なのは、鈴奈と凛だけである。
 曲名を挙げただけで、たいていはどんな曲かわかる。
「指揮は、三高の森先生か」
「はい、そうです」
「森先生か。森先生は、菜穂子先生より癖のない指揮をするから、わかりやすいと思うわ。ただ、ちょっと素直すぎる気もするけど」
 三年前にその指揮でやっているともみが、そう評する。
「まあ、すべて決まったのなら、あとは全力でがんばるのみだから」
「はい、がんばります」
 圭太の立場としては、本当は練習につきあいたいのだが、今はそれを言える立場にない。まずは退院し、体調を整えて、その上で申し出るべきことである。
「ちょうどクリスマスのことが話に出たから、今年のクリスマスはどうするか、決めるっていうのはどう?」
「決めるって、去年と同じじゃないの?」
 ともみの言葉に、幸江はそう言う。
「だから、それを決めるのよ。で、圭太はどう?」
「どう、と言われてもですね……」
 圭太は、まず柚紀を見た。
「イヴはダメですよ。イヴは、もうずっと予約済みなんですから」
「それはわかってるって。今言ってるのは、クリスマス当日の話」
「それならいいですけど」
「で、圭太。どう?」
「特にこれというのはありませんから、去年と同じでいいんじゃないですか?」
 圭太としては、当然そうなる。さらに言えば、これだけの人数でなにかをやるのは、大変ということもあった。
「ん〜、それだけじゃ面白くないんじゃない?」
「先輩は、どうしたらいいと思うんですか?」
「たとえば、みんなでどこか行くとか」
「どこかって、たとえば?」
「そうねぇ……クリスマスだから、みんなでプールに行くとか」
「は……?」
「室内の温水プールで、みんなで泳ぐの。楽しそうじゃない」
「いや、確かに楽しいとは思うけど」
 幸江は、呆れ顔でため息をついた。
「どうしてあんたは、そう極端なの?」
「極端じゃないでしょ。選択肢のひとつとして、入っててもおかしくないものよ」
「それ自体は否定しないけど。でも、クリスマスなんだから、プールっていうのはどうかと思うわよ」
「じゃあ、幸江はどこならいいと思うのよ」
「実現は難しいかもしれないけど、温泉とか」
「……ババくさ」
「きぃ〜っ、なによなによっ」
 いつの間にか、ともみと幸江の言い争いになっていた。
「あのふたりは放っておいて、実際、圭太はどうしたいの?」
「本当に考えてないよ。イヴのことは、前に柚紀と話したけど」
「そうなんですか?」
「そうなの?」
 ほぼ同時に反応があった。
「あ、うん、そうなんだけど」
「なにを話したんですか?」
「なにをするの?」
「えっと……」
 圭太は、柚紀に助けを求める。
 柚紀は、小さくため息をつき、それに応えた。
「まず、去年、一昨年と同じように、ふたりで過ごします。それと、これが今年の一番重要なこと」
「重要なこと?」
 少しだけもったいぶって──
「婚姻届を出します」
 一瞬、病室の中の空気が凍った。
 最初にその空気を動かしたのは、琴美だった。
「あら、やっぱりそうすることにしたのね」
「はい。やっぱりクリスマスにそうしようって、ふたりで決めたんです」
「そう。じゃあ、圭太に文句を言わないといけないわね」
「えっ……?」
「あのね、そういう大事なことを親に言わないのはどういうことなの? そりゃ、私はふたりがそうなることに反対はしてないわ。だけど、未成年であるふたりがそうなるためには、親の同意が必要なの、わかってる?」
「ごめん、母さん」
「わかってるならいいの」
 そう言って琴美は微笑んだ。
 だが、ほかの面々にとっては、寝耳に水である。
 圭太とそういう関係になる前から、結果はわかっていた。いつかこういう日が来ることもわかっていた。
 それでも、できるだけそういうことを考えないようにしていた。
 それを、いきなりなんの前触れもなく、心構えもないままに、突きつけられた。
 結局、最後まで最初の雰囲気に戻ることはなかった。
 
「みんな、驚いてたね」
 その夜、病院の早い消灯時間のあと、ふたりは昼間のことを話していた。
「そうだね」
「だけど、みんなもわかってはいたんだよね、当然」
「それはそうだよ。僕と柚紀が婚約してて、しかも高校在学中に一緒になるってことは、周知のことなんだから」
「そうだよね」
「ただ、わかってはいても、ということだと思うよ」
「うん」
 圭太も柚紀も、そのあたりの心情は理解できた。
 それでも、逆に言えばふたりが一緒にならないという選択肢だけは存在しないのである。すべては、そこからはじまっているのだから、当然である。
「みんなには悪いけど、僕が一緒になりたいのは、どうあっても柚紀だけなんだ。一年の夏にはじめて柚紀を抱いた時、理性で考えることなく自然と口をついて出てきたあの言葉は、今でも僕にとって大事な言葉だから」
「それは私も同じだよ。あの時、一緒になろうって言ってくれて、本当に嬉しかった。同時に、圭太と一緒なら絶対に幸せになれるし、なんでもできると思った。少なくとも今まではその通りになってるし、これから先もそうだと言える」
「僕としては、それをより確かなものにしたいから、柚紀と一緒になる」
「うん」
 たとえ、どれだけ多くの人に想われていても、最後はあるべき姿に戻る。だからこそ、圭太も柚紀もお互いを信じられるのである。
「それでも、多少のフォローはしないといけないよね」
「まあ、それはね」
「さすがに、ずっとあんな雰囲気だと息が詰まっちゃうから」
「そのあたりのことは、僕がなんとかするから、柚紀は心配しないでいいよ」
「心配はしてないけどね」
 そう言って笑う。
「あ、でも、圭太」
「ん?」
「そのフォローのために、みんなを抱く必要はないんだからね。そりゃ、そうすることが一番楽で確実なのはわかるけど、そうすることでさらに泥沼化してるということも忘れないこと。いい?」
「肝に銘じておくよ」
「うん、ちゃんとしてね」
 ひとつのひとつの問題を乗り越えて、はじめて次へと辿り着ける。
 ゴールが決まっていたとしても、そこに至る道まで決まっているわけではない。
 圭太も柚紀も、それに圭太のことを想っている誰もがそれを理解している。
 ただ、今回のことはその次の段階への最後の壁だっただけである。
 それを越える度に、みんな、少しずつ成長する。
「圭太。大好きだよ」
「僕も好きだよ、柚紀」
 その中心に、ふたりがいる。
 
 十一
 ようやく今年も十二月になった。
 気象庁の予報では暖冬ということだが、少なくとも朝晩は冬らしく寒くなっていた。
 師走の声を聞いた途端に世の中が慌ただしくなり、残り一ヶ月はあっという間に過ぎていく。
 週明けに無事退院した圭太は、念のため次の日まで様子を見て、三十日から学校に復帰した。
 いきなり普通に授業は厳しいのではという配慮と、まだ中間テスト最終日のテストをやっていなかったこともあって、登校初日はテストだけにあてられた。
 テスト問題はほかの生徒のものとは違うものが用意され、別教室で、ひとりだけで行われた。
 ただ、圭太にとってはどのような問題であっても、落ち着いてできさえすれば、必ず結果がついてきた。
 実際、テストはどれも問題なく、教師陣は改めて圭太の優秀さに気付かされた。
 初日こそテストが終わったらすぐに下校させられたが、次の日──十二月一日からは普通に授業を受けることになった。
 圭太が戻ってきたことで、学校全体もいつもの状況に戻っていた。特に、女子は落ち着きを取り戻し、教師をいらぬ心配から解放していた。
 とはいえ、それは一時的なものでしかない。
 十二月といえば、受験生である三年にとっては最後の月。この一ヶ月間でどれくらいラストスパートをかけられるかで、来春の結果が変わってくる。
 目の色を変えて勉強に打ち込む姿を、放課後、教室や図書室で見かける。
 一、二年にとっては、クリスマスが最大のイベントとなる。
 今年こそはシングルクリスマス卒業を夢見てあれこれ画策する者もいれば、すでに彼氏彼女がいる者は、クリスマス当日の計画を立てるのに余念がない。
 もっとも、そのどれもがテストで赤点を免れた者にのみ許された行為ではあるのだが。
 一方、圭太のまわりでは先の『事件』のせいで、未だにちゃんとはクリスマスの予定は決まっていなかった。
 それぞれ表面上はいつも通りなのだが、どことなくいつもと違うところも見え隠れしていた。
 圭太は、そのひとりのひとりのフォローに追われていた。
 
 まずは、比較的すぐにフォローできそうな年上組を選んだ。
 本当はひとりひとりと話すつもりだったのだが、このふたりはやはり一緒になった。
 ともみと幸江とは、圭太の部屋で話をしていた。
「確かに、ショックだったけど、それは当然のことでもあるのよね」
「私たちは、そのあたりのこと、全部理解した上で、圭太との関係を続けてるわけだから」
 やはり、ともみも幸江も事態を冷静に受け止めていた。
「ただ、いきなり現実を突きつけられて、フリーズしたってとこかしら」
「柚紀も、なにもあんな風に言わなくてもいいのに」
「まあでも、柚紀の気持ちがわからないわけではないから、あまり言えないのも事実なのよね」
「そうね。自分の好きな人と一緒になれるわけだから、普段はちゃんと考えてることも、つい忘れてしまうこともあるはず」
「そこで傷心の私たちを慰めるのが、圭太の役目なのよ」
「そうそう」
 どう見ても、傷心の姿には見えないのだが、圭太もそれは言わない。
「とまあ、いつもならなし崩し的にセックスしちゃうところなんだけど、今日はそれはしないから」
「さすがに病み上がりの圭太に無理させられないし」
「すみません」
「謝ることなんてないわよ」
「さっきも言ったけど、私たちは全部理解した上で、今の関係にあるんだから」
 改めてそう言われ、圭太は少しだけ表情を緩めた。
「ところで、圭太」
「なんですか?」
「入籍したあとは、どうするの?」
「ああ、それは私も気になる」
「別に、特別なにかを変えるつもりはありません。戸籍上は確かに一緒になりますけど、卒業までは柚紀は名前も変えませんし」
「そうなんだ。そのあたりはこだわって、さっさと変えると思ってたのに」
「本人はそれでもよかったみたいですけど、まわりに迷惑かけるのがイヤみたいです」
「なるほどね。いきなり名前が変われば、まわりもすぐには対処できないし」
「一緒には住まないの?」
「それは、話し合って決める予定です。ただ、春にはうちにいるよりも向こうにいた方がなにかと都合がいいと思うので、早くても卒業後かな、と」
「そうね。出産の時は、実家の方が安心できるものね」
 ふたりのフォローが目的だったはずなのだが、いつの間にかその話は終わっていた。
 もちろん、そこにはともみと幸江の気遣いというものもあっただろう。
「実際さ、圭太は柚紀と一緒になって、なにか変わると思ってる?」
「そうですね……正直言えば、わかりません。当然のことながら、結婚というものがどういうものかわかっていませんから。ただ、こういう言い方が正しいかどうかはわかりませんけど、誰はばかることなく柚紀を自分のものだと言えるというのは、とても安心できます」
「なるほど。圭太は圭太で常に不安感を持ってるわけか」
 人間誰しも、大なり小なりの不安を抱えて生きている。それがどんなものかはそれぞれ違うが、人間関係ということを考えると、占める割合は大きいかもしれない。特に、自分の大切な人のことならなおのことだ。
「もちろんですよ。今更こういうことを言うのもなんだと思いますけど、僕は今でもなんで柚紀が僕を選んでくれたのか、わかってませんから。世の中には僕なんかよりも柚紀を幸せにできる男がいたはずです。それなのに僕が、と常にというわけではありませんけど、たまにふと考えます」
「それはそれでわかるけどね。ただね、圭太。これは柚紀だけじゃなくて私たちもそうだけど、今の圭太と関係のあるメンバーって、基本的に圭太からじゃなくて、こっちから圭太を好きになってるのよ。そして、死ぬまで一緒にいたいと思うくらいに、好きになってる。だから、今圭太が言ったような不安要因は、ほぼ皆無に等しいわ」
「そうね。そのことだけは、なにも聞かなくてもそう断言できるわ」
 ふたりの『姉』は、そう言って微笑む。
「それにね、はっきり言って圭太ほど世の中の女性にとって理想的な『彼氏』はいないわよ」
「そうですかね?」
「ま、それを圭太が理解できる日は、来ないとは思うけど。それは、好きになる側にしかわからないことだから」
「ただ、今の状況にあぐらをかかないで、いろいろ考えるのは悪いことではないと思うわ。まあ、圭太は考えすぎて悪い方向へ行きがちだけど」
「すみません」
「ふふっ、まあ、なんでもほどほどにってことよ。そうすれば、圭太はずっと、私たちが好きになった圭太のまま、私たちの側にいてくれるはずだから」
「そうできるよう、少しだけがんばってみます」
「ええ、そうしてみて」
 頷く圭太ではあるが、生来の性格はそう簡単に変えられるものではない。ただ、そうあろうと思っていれば、少なくともなにもしない場合よりは理想に近づけるはずである。特に、自分の大切な人のことならば。
「あ、そうだ。圭太」
「なんですか?」
「二十八日、空いてる?」
「二十八日ですか?」
「そう、二十八日」
「……ああ、はい。空いてますよ」
「じゃあ、その日、予約ね」
「わかりました」
「二十八日って、なんかあるの?」
 事情がわかららない幸江が、どちらというわけでもなく訊ねる。
「ともみさんの誕生日ですよ」
「ああ、そういうこと。だけど、まだ十二月になったばかりだっていうのに、もう予定を入れるわけ?」
「もうって、あんたもわかってると思うけど、クリスマスから年末年始にかけては、誰も彼も予定を入れたがる時期なのよ。で、これが一対一のつきあいなら別だけど、圭太の場合はライバルがたくさんいるから、早め早めに予定を入れておかないと、あとで泣くことになるから」
「ふ〜ん」
「ふ〜んて、幸江はそういう風には考えないわけ?」
「少なくとも誕生日については、特別なにかある時期じゃないから、私の場合。デートの約束だったら、まあ、早めでもいいとは思うけど」
 確かに、幸江の誕生日がある三月は、十二月に比べればまだ予定は入れやすいかもしれない。もっとも、今度の三月はいろいろ慌ただしくなることを、幸江は忘れているのだが。
「それより、圭太。今日は、まだ時間は大丈夫なんでしょ?」
「ええ」
「だったら、もう少しだけ一緒にいてもいいよね?」
「はい」
 
「ん〜、ばぁ」
「あ〜」
「ホント、琴子ちゃん、カワイイなぁ」
 鈴奈は、そう言って琴子の頬に顔を寄せた。
 圭太が次にフォローしようと思ったのは、鈴奈だった。鈴奈は仕事をしている関係で、夜か休日しか時間が取れない。
 なるべく早めにと思った圭太は、平日の夜にそれを選んだ。
 ところが、そこにちょうど祥子がやって来ていた。鈴奈のところへ行くということを話すと、自分もついていくと言い出し、現在の状況に至っている。
「ねえ、圭くん。私もほしいなぁ」
「……えっと、念のために確認したいんですけど、なにがほしいんですか?」
「赤ちゃん」
 笑顔でそう言う鈴奈。
「祥子ちゃんには琴子ちゃんがいて、柚紀ちゃんは来年の春にはママになって。圭くんがいいと考えているなら、その次は私がいいなぁって」
「あ、えっと、それって、今答えなくちゃいけませんか?」
「ううん。じっくり考えてからでいいよ。ただ、私はかなり真剣にそう思ってるってことだけ、圭くんにも知っておいてほしかったの」
「……わかりました」
 そういう風に言われては、頷くしかない。
 その様子を見ていた祥子は、なるほどという感じで妙に感心していた。
「どうしたの?」
「あ、いえ、鈴奈さんの圭くんに対する態度や仕草が、とても参考になったので」
「参考? なんの?」
「年上として、どういう風に圭くんに接したらいいのか、ということのです」
「参考になんてなった?」
「はい。鈴奈さんの圭くんに対する行動、言動って、同じ年上であるともみ先輩や幸江先輩とは違います。先輩たちは、こうなんて言うんですかね、自分たちで常に引っ張っているような感じです。もちろん、そうじゃないかもしれませんけど」
「なるほど」
「でも、鈴奈さんは引っ張るだけじゃなくて、圭くんに上手く引っ張ってもらうために、いろいろやってる気がします。圭くんに甘えてもらって、自分も甘えて。私も、今以上にそういう関係になりたいので」
 祥子は、熱くそう語る。
「でも、祥子ちゃんは今のままでも十分じゃないの?」
「私としては、もっともっと圭くんに甘えてほしいんです。今は、私が一方的に甘えてるだけですから」
「そっか」
 祥子がそう考えているのと同じように、鈴奈もまだまだ足りないと考えている。
 結局、隣の芝生は青く見えるということである。
「ところで、圭くん」
「はい」
「今日の話って?」
「まあ、なんというか、この前の日曜のことです」
「あ、やっぱりそのことか。圭くんなら、間違いなくフォローするとは思ってたけど」
「フォロー、というほどのこともないんですけど。ただ、あの時は柚紀が少しばかり挑戦的だったと思うので」
「確かにそうかもしれないけど、逆に言えばあれは柚紀ちゃんにしか言えないことなんだから、誰も文句は言わないよ」
「もちろん、それもわかってます。それでも、あの場の雰囲気を悪くしたのは事実ですし、もう少しやり方があったのも事実ですから」
「圭くんがそこまで言うなら、素直にフォローされるけど」
 鈴奈は苦笑混じりに頷いた。
「でもね、圭くん。これから先、いちいちフォローとかしない方がいいよ」
「どうしてですか?」
「だって、フォローするってことは、圭くんと柚紀ちゃんが悪かったって認める行為でしょ? 日曜日のことだって、別にふたりは悪くない。悪くないことに対してフォローするのは、おかしいからね」
「それに、あまりフォローされると、私たちが虚しくなっちゃうから」
「うん、そういうこと。だから、これからはよほどのことがない限りは、そのまま放置しておけばいいよ」
「わかりました。できるだけそうします」
 圭太は頷きはしたが、まだ完璧に納得したわけではなかった。ただ、今この場でそれを議論しても意味がないと考え、引いたのである。
「それにしても、圭くんはもう結婚しちゃうんだよねぇ。私なんて、二十三でまだなのに。この差はいったいどこから来るんだろ」
「そう言いながら、鈴奈さんは圭くん以外と結婚するつもりはないんですよね?」
「あはは、そうだけどね。だから、圭くんと結婚できない時点で、私の結婚はなくなってるの」
 笑ってそう言うが、端から見ればとても重い内容である。
 結婚する、しないは本人の意志ではあるが、その原因となっている圭太にとっては、とても笑い話で終えられる話ではない。
「それでも、私は結婚できなくても、大好きな圭くんの側にいたいから。人はきっと、そんなのおかしい、バカげてるって言うと思うけど、それは違う。人の幸せなんてそれこそ人それぞれなんだから、同じものさしで測らないでほしい。私の幸せは、圭くんの側にいる時に与えられるんだから」
「それは私も同じです」
「柚紀ちゃん以外は、みんな同じ考えだと思うけどね」
「いえ、たぶん、柚紀も同じだと思いますよ。もちろん、柚紀は圭くんの彼女で婚約者ですから、そう考える必要はないんですけど。それでも、もしなんらかの事情で結婚できなくなってしまっても、柚紀は圭くんと一緒にいることを選ぶはずです」
「そっか」
 同じ人を本気で好きになった者同士、その心情まで理解できる。
 そして、絶対に譲れないものも、同じなのである。
「私ね、今でもすごく不思議なの。どうしてこんなにも、人のことを好きになれるのかなって。そりゃね、今の私がこうしてここに存在できているのは、両親がお互いを好きになって、愛し合った結果だというのはわかってる。でもね、それは私じゃない。私が、ここまで本気で──それこそ圭くんのためなら、死ねるくらい好きになったのか、不思議なの」
「……それはきっと、それこそ死ぬまでわかりませんよ」
 そう答えたのは、圭太だった。
「圭くん?」
「僕が柚紀を好きになったのも、ちゃんと理由を説明しろと言われたら、説明できません。それでも、僕は柚紀が好きです。ただ、好きでいること、好きでいてもらうことを、当たり前だとは思いたくないんです。説明できないからといって、それをそのまま鵜呑みにしてしまっては、きっと、後悔すると思いますから。ずっと考えて、考え続けて、いつかその答えに辿り着けたらと思っています」
「それは、圭くんの考え?」
「はい。誰に聞いたわけでも、教えられたわけでもありません」
「そうなんだ」
 鈴奈は、少しだけ俯き、なにかを考えている。
「だけど、僕の場合はそれだけでは終われないんです」
「どういうこと?」
「決まってるじゃないですか。今、僕の目の前には、誰がいますか?」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「鈴奈さんも祥子も、柚紀と同じです」
「同じだなんて言われちゃうと、いろいろ期待しちゃうよ?」
「そうですね。柚紀と同じくらい愛されてるって思って、あれこれ言っちゃうよ?」
「あまり無茶なことでなければ、いいですよ」
「ホント、圭くんは優しいね」
「優しすぎますよ。だから、離れたくなくなるんです」
「そうだね。優しすぎるね」
 鈴奈と祥子は、そう言って笑う。
「というわけで、圭くん」
「な、なんですか……って、琴子を僕に抱かせてどうするんですか?」
「だって、そうすると、動けないでしょ?」
「そ、そうですけど……」
「そうすると、圭くんに甘え放題だし」
 鈴奈は、言うが早いか圭太に抱きついた。
「あ、私も」
 負けじと祥子も。
 そうなってしまうと、もはや圭太にはなにもできないし、なにも言えない。
「……琴子。頼むから、ママみたいにはならないでくれよ」
 そう強がるのが、精一杯だった。
 
 退院後の最初の土曜日。
 圭太は、柚紀の反対を押し切って、部活の指導のために学校へ来ていた。
 もちろん、柚紀も一緒である。さすがにほぼ治ったとはいえ、病み上がりの圭太をひとりだけで学校には行かせられないという普通の考えと、もう二度とあのようなことが起きてほしくないという特別な想いでそうしていた。
 指導は、金管セクションを中心に行われ、主にクリスマスコンサートの曲について行われた。
 合奏がなかったために、結局最後まで金管を相手し、ほぼ引退前と同じだけ部活に参加していた。
 部活が終わると、圭太は二年トリオを呼んだ。
 どんな理由で呼ばれようと、やはり圭太に呼ばれたということで、三人とも表情は明るかった。
 ちなみに、柚紀は琴絵と一緒に先に帰っている。
 音楽室とは別の階の教室。休みなので、当然誰もいない。加えて言えば、この時期は運動部も基礎トレーニングが主になるので、外でその姿を見ることがあまりない。
 とても静かな校舎内。
「とりあえず、座ろうか」
 天気がよかったので、窓際の席には暖かな陽の光が差し込んでいた。
 圭太は、穏やかな表情で窓の外を眺め、それから目の前の三人に視線を向けた。
「なんで三人を呼んだか、わかるかい?」
 三人は顔を見合わせた。
「なんとなくわかってるとは思うんだけど、この前の日曜のことをね、ちょっと僕からフォローさえてもらおうと思って」
「フォロー、ですか?」
「言葉にすれば、という意味でだけどね。まあ、実際、そこまでのことは本当は必要ないのかもしれない。僕の、お節介だよ」
 確かに、フォローと言えば聞こえはいいが、実際はお節介である。
「日曜日は、柚紀が少し挑戦的な物言いをして、みんなにイヤな想いをさせちゃって、本当に申し訳ない。本当はもう少し言い方があったはずなんだけど、柚紀もみんなの前だったから余計にあんな言い方になっちゃって」
「別に、そこまで気にしてませんよ」
 最初にそう言ったのは、紗絵だった。
「言われた時は、正直ものすごくショックでしたけど、あとでよく考えてみれば、圭太さんと柚紀先輩が一緒になるのは『当然』ですから」
「そうですよ。私たち、おふたりがそうなることをわかった上で、一緒にいるんですから。それに対してのフォローなんて、必要ありません」
 詩織もそう言う。
「ただ、圭太さんが私たちのことを気にかけてくれてることは、嬉しいです」
「当たり前だよ。義務とかそういうことじゃなく、僕は三人のことを大切な女の子だと思ってるんだから」
「今は、そう言ってもらえるだけで、十分です」
「そっか、ありがとう」
 紗絵と詩織は、その言葉通り、それほど気にしていないようである。
 ただ、朱美だけはその表情は冴えなかった。
「朱美は、どうだい?」
「……私は、やっぱりそこまで割り切れない」
「なるほど」
 それを聞き、圭太は小さく頷いた。
 それから立ち上がり、朱美の前で視線をあわせた。
「別に割り切る必要はないんじゃないかな」
「どうして?」
「割り切れないものを無理に割り切って、それって本当に割り切ったことになる? 僕はそう思わないよ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「朱美の思う通りにすればいいよ」
「……圭兄はずるいよ」
「ん?」
「ずるい、ずるすぎ。圭兄にそんな風に言われたら、私、なにも言えないし、なにもできない」
「だけど、僕にはそうとしか言いようがないんだ」
「……うん、それもわかってる。結局は、私のワガママだから」
 そう言って朱美は、圭太に抱きついた。
「本当は私もわかってるの。圭兄と柚紀先輩は、一緒になるべきだって。だって、柚紀先輩と一緒にいる時に見せるような笑顔を、私と一緒にいる時に見せることは、ないと思うから」
 ただね、そう言って朱美は微笑んだ。
「私は、もう圭兄しか好きになれないから。だから、これからもずっと一緒にいるの」
「朱美がそうしたいなら、そうすればいいよ。もっとも、僕もそう簡単に手放すつもりはないけどね」
「うん」
 結論は最初から出ていたのだが、ようはそれを再確認したかっただけである。何度確認しても不安が消えるわけではない。ただ、それを認めてもらえると少しだけその不安が薄らぐ。それを求めての行動である。
「ちょっと、朱美。いつまでそうしてるつもり?」
「いつまでって、いつまでも」
「離れなさいよ」
「イヤよ」
「朱美だけずるいわよ」
「そうよそうよ」
「こらこら、三人とも騒がない。それと、朱美。わざわざふたりを煽るようなこと言うのはやめた方がいいね」
「……はぁい」
 圭太にたしなめられ、朱美は渋々圭太から離れた。
「さて、僕の用事はそれだけなんだけど、三人はなにかあるかい?」
 三人はまたも顔を見合わせる。
 本当はそれぞれに圭太とやりたいことはある。だが、あまり無茶なことを言える状況ではない。ここで無理を言ってまた倒れられたら、それこそ一生自分を呪わなければならない。
「えっと、デートというわけじゃないんですけど、午後も一緒に過ごしたいです」
「それは構わないけど、どうするの?」
「すみません。少しだけ作戦タイムです」
 そう言って三人は圭太から少し離れた。
「……どうする?」
「……さすがに、無理はさせられないし」
「……そうだね」
「……今日、私のうち、誰もいないの」
「……ホント?」
「……多少騒いでも問題ないし、万が一、ということになっても大丈夫」
「……じゃあ、詩織のうちに行く?」
「……そうね。詩織のうちなら、さすがに柚紀先輩も探せないだろうし」
「……よし、決まり」
 話し合いにもなっていないが、一応三人でどうするかを決めた。
「決まったかい?」
「はい」
「それで、どうするの?」
「詩織のうちへ行きましょう」
「詩織の?」
「今日は誰もいないので、ゆっくりできますから」
「ふ〜ん……それはそれでいいけど、お昼は?」
「えっ……?」
「だって、時間を考えれば、当然昼飯をどうするか考えないと」
「そ、そうですね」
 というわけで、再び作戦タイム。
「……どうする?」
「……どうするって、方法はふたつしかないじゃない」
「……そうね。それぞれ食事をしてから再び集まるか──」
「……詩織のうちで食事を作るか」
「……現実的に考えれば、後者を選ぶ方が私たちにとってはいいわよね」
「……だけど、万が一を考えると、安易に選べないわよ」
「……とりあえず、無難なものでいいんじゃないかな。お昼だし」
「……そうね。その考え方もありね」
「……じゃあ、みんなでやってみる?」
「……そうしましょ」
 結論が出た。
「それで、どうするんだい?」
「今日は、私たちが作ります」
「わかったよ。じゃあ、時間ももったいないし、行こうか」
『はい』
 
 途中のスーパーで買い物をして、四人は詩織の家に向かった。
 圭太は、その途中で柚紀にメールを打った。内容はとても簡単なもので、夕方には帰れると思う、というものだった。その柚紀からのメールの返信は、帰ってきたら覚悟しといてね、というものだった。
 そのメールに一瞬寒気すら感じた圭太だったが、とりあえず三人の前では平常心で居続けた。
 相原家に着くと、三人は早速料理をはじめた。
 あまり手間がかからず、なおかつ失敗しにくいものを選んだ。
「ん〜、こんなものかな」
「どれどれ?」
「ほら」
「……ん、確かにこんなものかも」
「紗絵、そっちはどう?」
「問題ないわよ」
「じゃあ、仕上げますか」
 作っていたのは、天ぷらそばだった。
 そばを茹で、つゆを作り、天ぷらを揚げ。それを三人で分担してやっていた。
 三人とも料理の腕は確かである。しかも、圭太のために作るということであれば、まかり間違っても不味いものなど作るはずがない。
 程なくして、三人合作の天ぷらそばが完成した。
「圭兄、できたよ」
「ん、そうかい」
 台所への立ち入り禁止を言い渡されていた圭太は、リビングでテレビを見ていた。
 ダイニングテーブルには、できたてのそばが並んでいる。
「さ、どうぞ」
「それじゃあ、いただきます」
 三人とも、圭太の一挙手一投足を固唾を飲んで見守っている。
「……うん、美味しいよ」
「はあ、よかったぁ」
「三人とも料理はできるんだから、そんなに心配することはなかったんじゃないの?」
「それとこれとは別ですよ」
「普段できることでも、こういう大事な時に失敗してしまうこともありますから」
「大げさだと思うけどね、僕は」
 結果から見れば確かに大げさなのかもしれないが、この三人にとってはとても大事なことだった。
 もっとも、その想いを圭太が理解できるはずはないのだが。
「そうだ。詩織」
「あ、はい、なんですか?」
「僕からひとつ、リクエストがあるんだけど、いいかな?」
「リクエストですか?」
 詩織は首を傾げた。
「あとで、ピアノを聴かせてほしいんだ」
「ああ、はい。いいですよ」
 なにを言われるのかと思っていた詩織だが、いつもと同じことだったので、すぐに笑顔で頷いた。
「詩織って、いつも圭兄にピアノを聴かせてるの?」
「ん〜、圭太さんがうちに来てくれた時は、かな」
「そうなんだ」
「でも、どうしてピアノなんですか?」
「そうだなぁ……強いて理由を挙げるなら、はじめて聞いた詩織のピアノがものすごく印象的だったからだね。世界的なピアニストほど上手くはないけど、なんかこう、とても落ち着けるんだ。常習性というわけでもないけど、また聞きたくなる」
 それを聞いて、詩織はただひたすら照れている。
「柚紀先輩のピアノよりも?」
「そうだね。どちらか選べと言われたら、詩織のピアノを選ぶね」
「それはすごい」
 確かに、たったひとつでも、彼女であり婚約者でもある柚紀よりも勝っているわけである。
「詩織はそれについてはどう思ってるの?」
「もちろん嬉しいけど、でも、実際の柚紀先輩の演奏は、すごいと思うよ」
「そうなの?」
「最近はあまり練習とかしてないみたいだから、技術的には劣ってるとは思うけど、心の込め方というか、想いの伝え方というか、そういうのは真似できないくらいだから。きっと、聞く人が聞けば、それだけで柚紀先輩の演奏はすごいって言うと思う」
「そうなの、圭兄?」
「さあ、僕の口からはなんとも。ただ、柚紀の演奏は毎日聴くには、ちょっと重すぎるかもしれない」
 それは、暗に詩織の意見を肯定している。
「あ、もうひとつ詩織にピアノを弾いてほしい理由があるよ」
「それって?」
「詩織のピアノを弾いてる姿を見たいから、だね」
「弾いてる姿? 別に普通じゃないの?」
「そこはたぶん、僕と朱美の違いだよ。朱美は詩織を同じ部の仲間とか、友人という風に考えてその姿を見ている。だから普通だと思う」
「圭兄は違うの?」
「僕は、ある意味では詩織をピアニストだと思って見てるから。そこに先輩とか後輩なんていう関係はいっさいない。知り合いであるということまでなしにするつもりはないけど、それでもいつもある程度は真っ新な状態で聴いてる。そうすると、いつも以上に綺麗で凛々しくて、ある意味カッコイイ詩織を見られるから」
「なるほどねぇ」
「確かに、そういう風に見ると、見方も変わりますね」
「まあ、そういう諸々の理由はあるけど、一番の理由はいい演奏を聴きたいという、単純な欲求だよ」
 そう言って圭太は笑った。
「じゃあ、今日は私たちも──」
「じっくり聴かせてもらおうかな」
「あ、あはは……」
 ひとりだけ圭太に持ち上げられ、朱美と紗絵はやはり面白くないようである。
 微妙に、というかあからさまに言葉には刺が含まれていた。
 圭太は、当然それを見て見ぬふりをしていた。
 
 昼食後、後片づけをして、お茶を準備してからピアノを聴くことになった。
 圭太の位置は、いつもと同じ。朱美と紗絵は、その両脇に。
「それじゃあ……」
 詩織は、小さく息を吐き、弾きはじめた。
 曲名は、圭太にはわかったかもしれないが、ふたりにはわからなかった。
 ただ、とても落ち着いた曲で、昼下がりの気怠い雰囲気にぴったりだった。
 圭太は、目を閉じ、その音に身を委ねている。
 詩織は、そこには圭太しかいないものと思って弾いている。
 詩織がピアノを弾くのは、これから先、圭太のために弾くことの方が圧倒的に多いはずだから。
 自分の想いをすべてではないにしても、その音のひとつひとつに載せて。
 もちろん、それもある程度音楽を知らなければわからない。
 従って、朱美と紗絵に詩織のその想いがどこまで理解できたかは、わからない。
 二曲弾き終わると、詩織は鍵盤から手を放した。
「どうでしたか?」
「うん、よかったよ。できればこういう時間に、毎日でも聴きたいくらいだね」
 それは、圭太としては最大級の賛辞だった。
 詩織はもちろん、朱美も紗絵もそれはわかったが、それについて言及することはなかった。もっとも、三人だけになったらあれこれはじまるのは、火を見るよりも明らかだ。
「あの……圭太さん」
「ん?」
 詩織は、上目遣いになにかを訴えている。
「ああ、うん。いいよ。おいで」
「はい」
 とてとてという感じで圭太の前に来て、その場にぺたんと座った。
 なにをしているのかわかっていないふたりは、なにも言わず見ている。
 が──
「なっ!」
「ちょっ!」
 それもすぐに驚愕の表情に変わった。
「んふっ」
 詩織は、圭太の膝というか太股に頬を寄せ、まるで猫のようである。
 そんな詩織の頭を圭太は優しく撫でている。
 それはまるで『恋人』のやることである。
「ちょ、ちょっと圭兄。な、なんで詩織にそんなことを?」
「ああ、このこと? 特に理由はないよ。ただ、僕は詩織の頭を撫でたくて、詩織は詩織でこうしてたいから。それだけだよ」
 それだけ、と言われてもこのふたりはとうてい納得できない。
 目の前で詩織の幸せそうな顔を見ていたら、余計である。
「やっぱり圭太さんは、詩織に甘すぎです」
「そうかな?」
「そうなんです。これは確定事項です」
 頬を膨らませ、紗絵は抗議する。
「ん〜、でもね、これはあくまでもピアノを弾いてもらったことに対する、報酬みたいなものだからね。それで甘すぎると言われると、正直どうしたらいいか」
 少し困った顔でそう言う圭太。
 そんな顔されてしまうと、今度は紗絵が自分が悪いのではと落ち込んでしまう。
「それに、僕がこういうことを言うのは違うのかもしれないけど、詩織とのことは基本的にはふたりきりの時にしかしてないよ。今日はたまたま」
 それはその通りである。まさかこういうことをしょっちゅうやってるはずがない。
「紗絵や朱美が気を悪くする気持ちはわかるけど、少しだけ大目に見てくれないかな」
 自分たちもふたりきりの時は、この場にいるほかのふたりが気を悪くするくらい甘やかしてもらってるかもしれない。そう考えると、詩織だけを責めることはできない。
 頭の回転の速いふたりである。そのあたりは圭太に言われればすぐに理解できただろう。
「まあでも、今日はふたりも一緒だからね。この辺にしておくよ」
「あ……」
 圭太の手が離れると、詩織はおもちゃを取り上げられた子供のような顔でそれを見つめた。
「またの機会に」
「……はい」
 詩織もここで駄々をこねてもしょうがないことは、十分わかっている。だから、渋々ながらも頷いた。
「ねえ、圭兄。圭兄はやっぱり、詩織のことは特別なの?」
 ちょうど詩織がお茶を淹れるためにリビングを離れたところで、朱美がそう訊ねた。
「……そうだね。特別だと思うよ」
「そっか……やっぱり……」
「でもそれは、朱美にも言えることだよ」
「えっ……?」
「紗絵もそうだけど、僕にとって特別な存在だからこそ、今みたいな関係になってるんだよ」
「それはそうかもしれないけど、でも、その中でも詩織は特別でしょ?」
 朱美はなおも食い下がる。
「……もしそうだとしたら、どうするんだい?」
「別にどうもしないよ。ただ、改めて確認しておきたいだけ」
 それはウソである。どうもしないことを、ここまで食い下がって訊ねるわけがない。
 いとこ同士でなんでも言い合える仲ではあるがゆえに、朱美がそういうことを無駄に訊ねないことは十分わかっていた。
「圭兄にとって一番なのは、柚紀先輩。これに続くのが、琴絵ちゃん。あとは、鈴奈さんと祥子先輩が抜けてて、そこに詩織も入る」
 普段の接し方などを考えれば、それは誰の目から見ても明らかだった。
「いくら圭兄がすごくても、やっぱり人間だからね。多少の差が出てしまうのはしょうがないよ。私もそれをとやかく言うつもりはないし。ただ、常に確認しておきたいの。今の自分と、上にいる人たちとの差を。じゃないと、いつまで経っても追いつけないから」
「……まったく、そこまで難しく考えなくてもいいのに」
 圭太は嘆息混じりにそう言い、朱美の頭を撫でた。
「朱美がそう考えるのをやめろとは言わないけど、ほどほどにした方がいいかもね」
「……それもわかってるよ」
「なら、もう言わないよ」
 朱美は小さく頷き、圭太の方に体を寄せた。
「……圭太さん」
 と、さっきからひとりだけ除け者になっていた紗絵が、圭太の袖を引っ張った。
「ほら」
 圭太は、すぐに紗絵の肩を抱いた。
「あ、ふたりして」
 そこへ、お茶を淹れてきた詩織が戻ってきた。
「詩織だけなんて、不公平だから」
「不公平って、私のは──」
「はいはい。それはわかってるから。それでもなの」
「むぅ……」
 結局、帰るまで三人とも圭太から離れなかったのは、言うまでもない。
 
 その日の夜。
 夕方に家に帰った圭太に、柚紀はこれでもかとあれこれ言ったりやったりしてきた。基本的には圭太が病み上がりのために問題はなかったのだが、そこは柚紀のやることである。度を超えているものもいくつかあった。
 その攻撃にかろうじて耐えきり、落ち着いた夜を迎えられると思っていたら、今度は琴絵が襲撃してきた。
「あのさ、琴絵」
「ん?」
「さすがにこれだと、まったく身動きがとれないんだけど」
「ダメ。今日は、もうお兄ちゃんから離れないって決めたの」
 琴絵は、圭太にぴったりとくっついて、まったく離れようとはしない。
「お兄ちゃん、退院してから全然私に構ってくれないんだもん」
「それはしょうがないだろ。学校だってあったし」
「そうなんだけど、それでも時間はやり繰りすればいくらでも作れるよ」
 そういう風に言われてしまうと、さすがになにも言い返せない。
 圭太も琴絵を軽く見ていたわけではないのだが、それ以前にやるべきことが山積していたので、後回しになったのだ。このあたりは、妹であることが災いしている。
「それに、今日だって朱美ちゃんたちには時間をとったくせに」
 それを言われても、なにも言い返せない。
「だから、今日はもうお兄ちゃんから離れないの」
 さらにギュッと抱きついてくる。
 そうなるともはやなにを言っても聞かないのが、琴絵である。そういう妙なところで頑固なのは、兄妹でよく似ている。
「……ね、お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんと柚紀さんが結婚したら、私はどうしたらいいんだろうね」
「どうしたらって、別にどうもしないだろ。琴絵が妹であることは、ずっと変わらないんだから」
「それはそうなんだけど……私は──琴絵は、お兄ちゃんが結婚してからもずっと今と同じような関係でいたいの」
 それはつまり、単なる兄妹という関係ではなく、男女の関係でもあるということだ。
「でも、それがお兄ちゃんや柚紀さんに迷惑をかけることだってわかってる。それでも、琴絵はもう、ものわかりのいい『妹』には戻れないの」
「……琴絵はさ、どうあったら幸せになれると思う?」
「幸せ?」
 思いもかけない質問に、一瞬なにを言われたのか理解できなかった。
「そう、幸せ。幸福とか不幸とか、そういうのは人それぞれ感じ方、考え方が違うから聞いて確かめないとわからないんだよ。だから、琴絵の幸せはなんなのかなって」
「……やっぱり、お兄ちゃんと一緒にいること。私は、嬉しい時も悲しい時も楽しい時もつらい時も、お兄ちゃんと一緒にいたい。そうやって多くの時間を共有していくことが、結果的に私の幸せに繋がるはずだから」
 それを聞いた圭太は、軽く琴絵の頭を撫でた。
「もしそれが琴絵の幸せだとすると、僕と兄妹であり続けるだけでもいいんじゃないのかな。僕としては、琴絵が嫌がらない限りは、ずっと側にいてもらいたいくらいなんだから。それだけで一緒にいるという願い、希望はかなえられるよ」
 確かにそうである。琴絵が望んでいる『一緒にいる』ということは、圭太が拒まない限りは、簡単にかなう。それはもちろん、兄妹の関係で問題ない。男女の関係である必要はない。
 つまり、矛盾している。
「だけど──」
「ただ、僕は焦って答えを出す必要はないと思ってる。以前からずっと言ってるように、琴絵は死ぬまで僕の妹なんだから。あえて兄としてという言い方をするけど、僕は兄として琴絵を見捨てることは絶対にないから」
「……ずるいよ、そんな言い方」
「そうかもしれない。それは僕もよくわかってる。それでも、どこかで理解しないといけないと思うんだ。ずっと、同じであり続けるのは無理だってことを」
「…………」
 琴絵は、なにも言わず、俯いた。
 それはつまり、琴絵もそのことはわかっていたという証拠である。
「だからさ、とりあえずもう少しだけ、考えてみればいいんじゃないかな。僕と柚紀が一緒になっても、すぐになにかが変わるわけじゃないんだから」
 結局、それしか方法がないこともわかっていた。
 それでも圭太に直接話して、多少なりとも否定してほしかったのである。
 そうすれば、それがこれから先の糧となるから。
 だが、その願いは簡単に退けられた。もちろん琴絵にとってはショックだったが、また同時にほんの少しだけ安心していた。
 それは、その圭太の答えが軽いものではなかったからだ。圭太もあれこれ琴絵のことを考えた結果、そうなったのである。いくら実の妹といっても、そこまで真剣に考えてくれる兄がいるかどうか。
 それがわかるだけに、余計に琴絵はあれこれ言えなかった。
「そういえば、まったく話は変わるけど、琴絵は進路はどうするんだ?」
「進路?」
「少しずつ先生たちから言われると思うけど、琴絵はどう考えているのかと思って」
「……今のところは、大学に行こうとは思ってるよ。どこの大学に行くか、どの学部にするかは決めてないけど」
「そうか」
「前にお兄ちゃんに言われてたからね。だから、その選択肢は排除してないよ」
「それならいいんだ」
「本当はね、お兄ちゃんと一緒がいいと思ったの。でも、お兄ちゃんは大学に行かない。行ったとしても、専門学校。そしたら、私が一高を卒業した時には、お兄ちゃんはそこにはいないし。だったら、自分のやりたいことをやらないとって」
 決めるまでの順番は微妙だが、結果的に圭太の望む形になっていた。
 圭太は、琴絵には家のことはいっさい考えずにやりたいことをやってほしいと思っている。もちろん、大学に行かなくてもほかにやりたいことがあるのなら、問題ない。
 ようするに、家のことやお金のことを気にしていろいろあきらめてほしくないのである。
「まだ決まってないかもしれないけど、大学へ行ってなにがしたいんだ?」
「ん〜、まだ本当に全然決めてないの。ただ、将来的には家でできる仕事がしたいとは思ってるけど」
「家で、か。そうすると、結構限られてくるな」
「うん。とはいえ、それもまだ漠然と考えてるだけだから」
「そうだな。今はそれでいいよ」
「本当は、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいんだけどね」
 そう言って琴絵は笑う。
「…………」
 しかし、いつもなら適当にあしらうなりなんなりする圭太が、なにも言わない。
「お兄ちゃん……?」
「なあ、琴絵」
「なぁに?」
「そんなに僕と結婚したいか?」
「えっ……?」
 突然の言葉に、琴絵は一瞬なにを言われたのかわからなかった。
「そ、それは……うん、したいよ」
「……僕はそれ自体をかなえてはやれないけど、その真似事くらいはしてやれる」
「真似事?」
「結婚の真似事」
 それはいったいなんなんだろう、とは思わなかった。
 今の琴絵には、それは『些細』なことだった。
「で、でも、お兄ちゃん。いいの?」
「なにが?」
「だって、お兄ちゃんのお嫁さんは、柚紀さんなんだよ。なのに、たとえ真似事でも私としちゃって」
「そうだなぁ……」
 圭太は、すぐには答えなかった。
 そのわずかな時間で、いったいなにを考えていたのか。ただ単に言うべき言葉を探していたのか、考えを整理していたのか、わからない。
「僕の本心を包み隠さずに言うなら、それはひとつの罪滅ぼし、なんだよ」
「罪滅ぼし?」
 圭太には似つかわしくない言葉が出てきて、琴絵は首を傾げた。
「僕が、琴絵を含めてみんなのあったかもしれない、もうひとつの『未来』を摘み取ってしまったことに対する」
「それは……」
「もちろん、今現在、それを後悔はしてないよ。こんな僕をみんなは本当に心から好きでいてくれるから。ただ、時々考えてしまうんだ。もし、あの時に僕がちゃんと断ったり、拒んだりしていたらどうなってたんだろう、って」
「…………」
「直後は傷ついたかもしれないけど、時間の長短はあっても、ちゃんと傷も治り、新しい出逢いから、幸せになれてたかもしれない。そうすれば、自分だけを見てくれる、自分だけの大切な人を得られたかもしれない。そう、考えてしまうんだ」
 それは、圭太が背負ってしまった『罪』でもある。
「だからというわけではないけど、僕はみんなにできる限りのことはしてあげたい。できることは限られてるけどね」
「それが、結婚の真似事?」
「まだ試行錯誤の最中だけどね」
「そっか」
 圭太がそういう風に考えてしまう気持ちは、琴絵にも理解できた。その上で自分のためになんでもしてくれるというのは、嬉しいことではあった。
 ただ、それをどこまで素直に喜んでいいのかは、わからなかった。
「具体的には、どうするの?」
「いろいろ考えてるけど、比較的容易にできるのは、写真かな」
「写真?」
「そう、写真。そういう格好をして、写真を撮る。想い出にもなるし、形も残る」
「なるほどね」
「まだほかにもできることはあるとは思うけど、それはもう少し考えてからかな。柚紀のこともあるから、あまり軽々しくはできないし」
「そうだね」
「そういうことでもよければ、ということにはなるけどね」
 真相を聞き、琴絵は少し考えた。
「私も、もう少し考えてみてもいいかな?」
「構わないよ。というか、別にいつまでとか決まってるわけじゃないんだから、ゆっくり考えて答えを出せばいいよ」
「うん、そうする」
 いくら考えても、結果は変わらない。ただ、その過程がほんの少しだけ変わる。
 それが重要だと、圭太も琴絵も思っていた。
 せめてそれくらいは考えたい。
 それが、普通ではない関係にいるふたりの、あがき、なのかもしれない。
 
 十二
 日曜日。
 圭太は朝食後、携帯で誰かにメールをしていた。
 それを部屋でやっていたため、誰もそのことは知らなかった。
 メールの返事はすぐに着信という形で返ってきた。
 そこで必要な会話を交わし、とりあえずは電話を切った。
 午前中は店の手伝いをしたり、部屋の片付けをしたりして過ごした。
 昼食を食べたあと、圭太は出かける準備をして、出かけた。
 家を出てから、いつもと同じように学校の方へ向かう。
 だが、途中の曲がり角で曲がった。
 そこから次第に学校からは離れていく。
 古い街並みの中に、真新しいマンションが増えてくる。
 そのマンションのひとつに圭太は足を踏み入れた。
 エントランスで部屋番号を押し、ロックを解除してもらう。
 エレベーターに乗り、最上階へ。
 最上階にある一室。
 インターフォンを鳴らすと──
「いらっしゃい、けーちゃん」
 すぐに笑顔の凛が出てきた。
 圭太が連絡をとっていたのは、凛だった。
 会って話がしたいという申し出を、凛はすぐに受け入れた。凛としては、理由はどうあれ圭太と一緒の時間を過ごせるなら、なによりもそれを優先させる。
「突然でごめんね」
「ううん、全然気にしてないよ。むしろ、思いもかけずけーちゃんと一緒にいられて、嬉しいくらい」
 河村家は、静かだった。
「今日はひとりだったから、余計に嬉しいよ」
 両親が揃って外出して、凛も今日は模試もなく、ちょうど暇だったところへ、圭太からの誘いのメールだった。
「あ、けーちゃんは座ってて。今、お茶淹れるから」
「うん」
 圭太は言われるまま、リビングのソファに座った。
 朝からとても天気がよく、リビングの大きな窓から暖かな陽の光がいっぱいに降り注いでいる。
 どうやら暖房は入れていないようだが、それでも十分暖かかった。
「はい、お待たせ」
 出てきたのは、コーヒーでも紅茶でもなく、ココアだった。
「お父さんがココアをもらってきたんだ。結構美味しかったから、けーちゃんにもと思って」
 圭太は、まずは一口飲んだ。
「ん、本当だ。美味しいね」
「お父さんもたまには役に立つのよね」
 なかなか辛辣な物言いだが、それが凛のいつもである。
「で、けーちゃん。日曜にわざわざうちまで来てくれた理由は?」
「凛ちゃんに会いたかったから」
「……本気にしちゃうよ?」
「その理由もないではないんだけどね」
 カップを置き、圭太は苦笑した。
「もう今更なんだけど、先週のことを僕なりにフォローさせてもらおうと思ったんだ」
「先週のこと?」
「ほら、病室で柚紀が言ったでしょ」
「……ああ、あのことか」
「本当に今更なんだけどね」
 凛が最後になったのは、偶然でしかない。
 偶然になって、一週間も経ってしまったのである。
「僕もそうだけど、柚紀も不器用だから、ああいう言い方になっちゃったんだ。本当はもう少し言い方も、タイミングもあったはずなんだけど」
「……ねえ、けーちゃん」
「ん?」
「なんでそれをけーちゃんがフォローするの?」
「確かに、凛ちゃんの言う通りだと思うよ。本来なら、柚紀がしなくちゃいけないことだと思う。ただ、僕にも少なからず責任があるから、進んでやってるんだよ」
「けーちゃんの、責任?」
「あの場であの話になれば、柚紀が黙ってるはずがないってわかってたんだ。それでも僕はそれを止めなかったし、その場で取り繕うこともなかった。もちろん、事実は事実だから変に取り繕うのは逆効果にはなっただろうけど、やりようはあったはずだから。でも、僕はそれをすべて放棄してしまった。だから、今回フォローにまわってるんだ」
 圭太は淡々と話す。
 凛は、カップを持ったまま、相づちも打たず、黙って聞いている。
「それに対して凛ちゃんが腹を立ててしまうのもしょうがないと思ってる。悪いと思ってるなら、柚紀本人が出てこなければ意味がないからね。それでも僕は、こうして凛ちゃんのところへやって来た」
「……それがけーちゃんのいいところでもあるけど、ある意味残酷なところでもあるよね。小さい頃はわからなかったけど、今はよくわかる」
 少しだけ皮肉っぽくそう言う。
「でもね、それでもあたしはけーちゃんが好き。だって、人間誰しも良いところもあれば悪いところもあるから。いくらけーちゃんでも、すべて良いところというわけにはいかないだろうし。だったら、その悪いところも含めて好きにならないと、意味ないから」
 相手の良いところだけを見ていては、絶対に上手くいかない。
 悪いところも含めて認めなければ、その関係は長くは保たない。
 もちろん、悪いところを直してもらえるのなら、それはそれでいいことである。
「あ〜あ、本当はこんなこと言うつもりなかったんだけどなぁ」
「凛ちゃんのせいじゃないよ」
「そうなんだけどね。ただ、愚痴る必要のないことを愚痴ってしまうのは、あたしもまだまだだってことなんだよ」
「……まあ、凛ちゃんがそう考えてるなら、僕はあえてなにも言わないよ」
「そうだね。この話はこれ以上続けても、お互いに気分が悪くなるだけだから、やめよう」
 圭太も凛も、このままある意味不愉快なやり取りを続けるつもりは、毛頭なかった。
 圭太にしてみれば、わざわざ圭太が言うまでもなく、凛ならある程度納得しているであろうことは、すでにわかっていた。だから、形だけでも言ってしまえば、あとは言う必要はないのである。
 一方、凛としても、圭太に言われるまでもなく、自分の中でその整理はできていた。ただ、せっかく圭太がこうしてわざわざ来てくれているのだから、おとなしく聞いていた、という感じである。
「というわけで、けーちゃん」
「ん、なに?」
「せっかくふたりきりなんだから、普段できないことしよ」
「それって、たとえば?」
「そうだなぁ……恋人っぽく、イチャイチャするとか」
 そう言いながら、凛は圭太の隣へ。
「こうやって、密着して」
 圭太の腕を取り、胸を押しつける。
「けーちゃんに体を預けて」
 言った通り、体を預ける。
「で、あとはけーちゃんが優しく抱きしめてくれると、完成」
 なんとなく反論する気になれず、圭太は言われるまま抱きしめた。
 凛は、のどを撫でたらゴロゴロと鳴きそうなくらい、気持ちよさそうに圭太にくっついている。
「そういえば、凛ちゃん。凛ちゃんは年末年始はどうするの?」
「今年はどこにも行かないよ。ほら、一応あたし、受験生だから。まあ、正月三が日くらいは休むつもりだけど」
「そっか」
「でも、なんで?」
「クリスマス以降、冬休みはいろいろありそうだから、あらかじめ予定がわかっていれば、対処方法もあるかな、って」
「なるほどぉ」
 そういう風に言われても、いつもと同じ、という風に受け取るようになった凛も、だいぶ圭太たちに『毒されて』きてる。
「けーちゃん。ひとつ、訊きたいことがあるの」
「訊きたいこと?」
「まあ、訊きたいことというよりは、確認かな」
「なにかな?」
「けーちゃんがさ、柚紀以外で最初に抱いたのって、誰なの?」
「えっ……?」
 突拍子もないことを訊かれることはある程度予想していたのだろうが、その質問だけは予想外だったらしい。
「はじまりは、誰だったのかなって。ちょっと気になってね」
「……それを聞いて、どうするの?」
「どうもしないよ。本当にただの興味本位だから。だから、言いたくなければ言わなくてもいいし」
 そういう風に言われると、さすがの圭太でも多少カチンと来る。
 とはいえ、それを表に出してしまうほど、愚かではない。
「最初は、鈴奈さんだよ」
「ふ〜ん、そっか。なんとなくね、そうなんじゃないかって思ってたんだ」
「どうして?」
「だって、柚紀とのことがあって、焦りや不安をより大きく感じてたのは、きっと年上の人たちだろうから。だってそうでしょ。自分たちは、みんなよりも先に圭太から離れてしまうってわかってたから。もちろん、すべての場合に当てはまるわけじゃないから、例外もあるだろうけど。それでも、最初は鈴奈さんか祥子さんだと思った」
 確かに、それぞれの性格などを理解していると、少し順序立てて考えれば簡単に予想できる。
「それに、けーちゃん、年上の女の人にすごく弱いし」
「……そんなに弱いかな?」
「うん、弱い。今、けーちゃんのまわりにいる人だけじゃなくて、大部分の人に弱い」
 そうはっきり言われると、さすがに圭太もなにも言えない。
「身近な例を挙げれば、うちのお姉ちゃんとか」
「……蘭さんは、特別だよ。凛ちゃんと同じで、幼なじみでもあるんだから」
「じゃあ、柚紀のお姉さん」
「うっ……」
「それと、これは年上ということだけじゃないけど、けーちゃんは圧しに弱いから。だから、年上の鈴奈さんに求められたら、拒めない」
 実際その通りのことが起き、結果圭太は鈴奈を抱いた。
「でもね、あたしはこうも思うんだ。もし、その時に鈴奈さんを拒めていたら、きっと今みたいなことにはなってなかった、って」
「…………」
「あ、別にそのことをどうこう言うつもりはないよ。それに、これはあくまでもあたしの考えでしかないから。ただ、やっぱりけーちゃんの中で、鈴奈さんを抱いた時に枷が外れちゃったのかなって。ま、あたしとしては、それでよかったと思ってるよ。じゃなかったら、けーちゃんに抱いてもらえなかったし」
 あっけらかんと言う凛。
「ただね、けーちゃん。やっぱりね、けーちゃんは弱いよ。普段はなんでもがんばって、いろいろなことに前向きで、それこそ強いけど、でも、恋愛になった途端に弱くなっちゃう。もちろん、最初からなんでも上手くやれる人はいないだろうし、ましてや恋愛はそうだと思う。それでもね、ある程度はなんとかなると思うよ。話に聞いたりしてるわけだからね」
「……うん」
「けーちゃんならそのあたりは誰よりも上手くできると思うんだけど、実際は違った」
 どれもこれも事実なだけに、なにも言い返せない。
 圭太自身、いつもそれは考えていた。
「けーちゃんはさ、柚紀のことが本気で好きなんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、なんで鈴奈さんを抱いたの?」
「それは……」
「確かにね、鈴奈さんもすごく真剣だったと思う。今の様子を見てればわかる。それに、けーちゃんと鈴奈さんの関係は、姉弟の関係に近かったはずだから、余計に真剣だったはず。真剣に言わないと、冗談で終わっちゃうから」
 それは、圭太もあとになって考えていた。もしあの場で、冗談みたいに言われていたら、きっとあんなことにはならなかった。本当に真剣に、真摯な気持ちを真っ直ぐにぶつけてきたからこそ、圭太は受け入れた。
「それでも、けーちゃんには柚紀がいるんだから、相手が真剣であるならなおのこと、ちゃんと拒まないとダメだよ」
 今まで、圭太にそのことを言ったのは、柚紀と琴美、それと淑美だけである。それぞれが言わなければいけない立場だったので、言うのは当然だった。
 だが、もう一方の当事者から言われたのははじめてだった。
「ダメ、だったんだけど……もう今更だよね」
 そう言って凛は笑った。
「ごめんね、けーちゃん。また惑わせるようなこと言っちゃって」
「別に、いいよ」
「あたし、本当にダメだなぁ。せっかくふたりきりなのに、今言わなくてもいいことばかり言ってる」
「言わなくてもいいことなら、凛ちゃんは言わないよ。言わなくちゃいけないことだから、凛ちゃんは言ったんだよ」
「……そうだね」
「だから、謝る必要はないよ」
 圭太は、凛の髪を優しく撫でた。
「結局、けーちゃんとの関係って、どうあればいいんだろうね」
「それは、それぞれじゃないのかな。僕が言うのもなんだけど」
「それぞれ、か。確かにそうかもね」
「今すぐに答えを出す必要なないんだから、ゆっくり考えればいいと思うよ」
「うん、そうする」
 凛は、はっきり頷いた。
「そうだ。ね、けーちゃん。もう体調は万全なの?」
「僕自身は万全だと思ってるよ。まわりはまだ気にしてるみたいだけど」
「そっか。じゃあ、お願いしちゃっても大丈夫かな」
「お願い?」
「うん、エッチなお願い」
 
 圭太は、凛のお願いを聞いて、今、河村家の風呂場にいた。
 別に風呂掃除をするためではないので、裸である。
 浴槽にお湯を張る時間が少しかかったが、凛には関係なかった。その間もずっと圭太とベタベタイチャイチャしていた。
 河村家は比較的大きな部屋だが、脱衣所は一般的な大きさだった。だから、まずは圭太が先に入り、凛があとからということになった。
 お湯に浸かり、毎度のことながらどうしてこうなっているのか自問自答しながら、凛を待つ。
「お待たせ、けーちゃん」
 と、凛が入ってきた。
 湯気で多少視界が悪いが、それでも明かりの下なのでその肢体がはっきりわかる。
「あ、あんまり見られると、恥ずかしいよ」
「じゃあ、見ない方がいい?」
「……それはそれでいぢわるだよ、けーちゃん」
「じゃあ、しょうがないね」
「いぢわる」
 頬を膨らませ、凛は小さく舌を出した。
「そんないぢわるなけーちゃんには、おしおきです」
「おしおき?」
「うん」
 嬉々とした表情でシャワーを手に取り──
「それっ」
「うわっ」
 勢いよくお湯を出した。
「それそれ」
「ちょ、ちょっと、凛ちゃん……っぷっ」
「反省した?」
「したよ。したから、お湯を止めて」
「しょうがないなぁ」
 凛は、渋々お湯を止めた。
「もういぢわるしない?」
「しないよ」
「じゃあ、許してあげる」
 満足そうに頷き、凛も浴槽に入った。
「やっぱりふたりだと狭いね」
「大人ふたりが入ることを想定して作られてないからね」
「でも、だからこそこうやってくっついてられるんだけどね」
 狭い浴槽の中、当然ふたりは密着して入ることになる。
「触っても、いいよ」
「その前に、ひとつ凛ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「ん、なに?」
「凛ちゃんは、セックスが好きなの?」
「……ん〜、どうなんだろ。考えたこともないけど、けーちゃんとのセックスは好き。それ以外はあり得ないけど、仮にあったとしたら、嫌いかも」
「なるほど。それを聞いて安心したよ」
「どうして?」
「それは……まあ、いろいろね」
「あんっ」
 それには答えず、圭太は凛の胸に触れた。
「い、いきなりなんてずるいよ」
「触ってもいいって言ったの、凛ちゃんだと思うけど?」
「ううぅ、そうなんだけどぉ……」
「だから、触ったんだよ」
 後ろから胸を鷲づかみし、それから優しく揉みしだく。
「凛ちゃんの胸、柔らかくてこうして触ってるだけで気持ちいいよ」
「きょ、今日のけーちゃん、すごくいぢわる」
「そうかな?」
「そうだよぉ」
「それじゃあ、凛ちゃんはどうしたらいいと思う?」
「どうしたらって……そんなの……」
 すでにセックスしていても、凛のそういう『ウブ』なところはそう簡単には変わらない。
「僕としては、できれば凛ちゃんの望み通りにしたいんだけどね」
「……ずるいよ、けーちゃん。そういうこと言うのは」
「でも、事実だからね。セックスってさ、どっちかだけ気持ちよくなって満足してもダメだと思うんだ」
「……うん」
「だから、できるだけ凛ちゃんのいいようにしてあげたい」
 そう言って圭太は、凛を優しく抱きしめた。
「……あたしは、けーちゃんに任せるよ」
「うん、わかった」
「あ、でも、もういぢわるはしないでね」
「しないよ」
 圭太は、凛のうなじにキスをした。
 そのまま続けて胸を揉む。
「ん、は……ん……」
 お湯の中ということもあって、いつも以上に熱く感じる。
「もう硬くなってきてるよ」
 そう言って突起を指でこねる。
「やっ、ん」
 指で刺激を与える度に凛は甘い吐息を漏らす。
「け、けーちゃん……」
「どうしたの?」
「む、胸だけじゃ……イヤなの……」
「我慢できない?」
「う、うん……」
「そっか。じゃあ──」
 言い終わらないうちに──
「ああっ」
 圭太は凛の秘所に指を入れた。
「凛ちゃんの中、すごく熱いよ」
「だ、だって、けーちゃんに触られてるだけで、すごく感じちゃうんだもん」
「それはすごく嬉しいな」
「あっ、んっ、んっ」
 一本だった指を二本にし、少し速く出し入れする。
 指と一緒にお湯まで中に入り、いつもと違う感じを与えている。
「こ、こんなの、んっ、はじめてだよぉ」
 経験の浅い凛にとっては、こういう状況でいつも以上に感じているらしい。
「ね、ねえ、けーちゃん。あたし、もう我慢できない……けーちゃんの、ほしいよぉ」
 後ろ手に圭太のモノをさすってくる。
「わかったよ」
 浴槽から出て、圭太はその浴槽の縁に座った。
「い、挿れるね」
 凛は、その上にまたがり、自分から圭太のモノを挿れる。
「んんっ」
 多少加減はしたものの、圭太のモノは一気に凛の体奥まで届いた。
「け、けーちゃんの、一番奥まで届いてる」
「凛ちゃんの中、すごく気持ちいいよ」
「あ、あたしも、気持ちいいよ。けーちゃんのおっきくて、あたしの中いっぱいで、すごく気持ちいい」
 ふたりは、キスを交わす。
「凛ちゃんの好きなように動いていいよ」
「う、うん、じゃあ」
 凛は、圭太の肩に手を載せ、少し体を浮かせる。
「んっ」
 そのまま、すぐに元に戻す。
 少し動きづらい体勢ではあるが、凛は持ち前の運動神経のよさと、バランス感覚のよさで、すぐに慣れた。
「んっ、はっ、けーちゃんの、擦れて、ああっ、気持ちいい」
 すでに理性のたがは外れている。
「けーちゃんっ」
 圭太も、凛の動きにあわせて腰を動かしている。
「けーちゃん、けーちゃんっ」
 次第に動きが速くなり、凛の嬌声も大きくなる。
 風呂場という場所柄、声はよく響くので、いつも以上に耳に届く。
「んっ、やっ、あたし、もうイっちゃう」
 いつも以上に感じ──
「あっ、んんっ、イクっ!」
 凛は、そのまま達してしまった。
「はあ、はあ……イっちゃった……」
 圭太にもたれかかったまま、凛は肩で息をしている。
「けーちゃんは、まだだね。あたしが、してあげる」
 圭太の上から下り、そのままその前に跪く。
「ふふっ、びくんびくんしてる」
 妖艶に微笑み、圭太のモノに舌をはわせた。
「んっ」
 舌先でモノの先端を舐め、そこから下へと下りていく。
 裏筋に沿って何度か舌を動かし──
「はむっ」
 おもむろにモノを口に含んだ。
 口の中で舌を動かしながら、頭を上下に動かす。
「凛、ちゃん、気持ちいいよ」
「んっ、もっともっと気持ちよくなって」
 圭太の方もだいぶ高まっていたので、すぐに限界が来た。
「り、凛ちゃんっ」
「んっ!」
 圭太は、凛の口内にすべてを放った。
 凛は、それを少しずつ飲み下す。
「ん、はあ……飲んじゃった……」
「無理しなくてもよかったのに」
「無理なんてしてないよ。けーちゃんのだもん」
 そう言って微笑む。
「ね、けーちゃん」
「ん?」
「えっと……今度は、ベッドでしてくれる……?」
「うん、いいよ」
「あはっ、ありがと」
 
「う〜……」
 凛は唸っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫だけど、こんなになっちゃうなんて、予想外」
 そう言って苦笑する。
 風呂場でのあと、凛の部屋に場所を移し、さらにふたりはセックスした。
 凛は、今までにないくらい何度も圭太を求め、圭太もそれに応えた。
 圭太は過去に何度かそういう経験があったので、もちろん体力的にはきつくはあったのだが、まだ平然としていた。
 一方、凛はまだ慣れていないこともあって、糸の切れた操り人形のようにくてってとしていた。
「でもね、けーちゃんにいっぱい愛してもらって、すごく幸せ」
「そっか。それならよかった」
「けーちゃんはなにも心配することはないのに」
「でもさ、そういうのも凛ちゃんの口から聞かないと、やっぱりわからないからね」
「そうだね」
 凛もにっこり笑う。
「それにしても、凛ちゃんがこんなにエッチだったなんて、ちょっと意外かも」
「だ、だって、けーちゃんとのエッチは、すごく気持ちいいんだもん。それに、けーちゃんに抱かれてるだけで、すごく幸せになれるし」
「別に悪いとは言ってないし、責めてるわけでもないよ。ただ、ちょっと意外だっただけなんだから」
「……そんなに意外かな?」
「これは僕のイメージでしかないけど、凛ちゃんてすごく真面目だから、僕の中ではそういうイメージが湧かなかったんだよ」
「なるほど」
 そういう言い方をするならば、圭太もそうなのだが、今の凛にそれを指摘する余裕はなかった。
「でも、そうだよね。凛ちゃんだって健康な女の子だもんね」
「むぅ、なんかそういう納得のされ方は、微妙」
「まあまあ、そんな顔しないで」
 圭太は、凛の頬に軽くキスした。
「ずるいなぁ、けーちゃんは。そんなことされたら、なにも言えないよ」
「わかっててやってるんだけどね」
「確実に柚紀に毒されてるよね、けーちゃん」
「毒されてるわけじゃないよ。僕も柚紀くらいまでとは言わないけど、もう少しいろいろなことに積極的になってもいいと思ってるから。それをすると、みんなには柚紀みたいだって見えるのかも」
「ふ〜ん、なるほどねぇ」
「そういうのがイヤなら、凛ちゃんの前ではそうしないけど」
「イヤじゃないよ。だから、もっともっと積極的に迫ってきて」
 今度は凛からキスをする。
「ね、けーちゃん」
「しょうがない。ほかならぬ凛ちゃんの頼みだからね。そうするよ」
 微笑みながら、圭太は凛を抱きしめた。
「あ……や、ダメ、けーちゃん……」
「どうしたの?」
「……けーちゃんに抱きしめられただけで、その、またしたくなっちゃった……」
「やっぱり、凛ちゃんはエッチだね」
「ううぅ〜、けーちゃんのいぢわるぅ」
 そんなこと言いながら、もう一度してしまうのは、やはり圭太だからだろうか。
 もっとも、今日の当初の目的はすでにどこかへ行ってしまっているのだが。
 それも、らしいと言える。
 
 夕方、圭太が家に帰ると、ずいぶんと賑やかだった。
「あ、おかえりなさい、お兄ちゃん」
 リビングに顔を出すと、琴絵をはじめとして、朱美、紗絵、詩織の後輩三人と琴子と一緒の祥子の姿があった。
「どこ行ってたの?」
「ん、ちょっとね」
 琴絵たちは部活があったせいで、圭太がいつ出かけて、どこへ出かけたのかは知らない。圭太もわざわざ波風を立てたくなかったので、言葉を濁した。
「それで、琴絵たちはなにをしてるんだい?」
「アルバムを見てたの。ほら」
 テーブルの上には、確かにアルバムがあった。
「って、それ、僕のアルバムじゃないか」
 てっきり琴絵のだと思いきや、圭太のアルバムだった。
「先輩たちが見たいって言うから」
「あ、琴絵。ひとりだけ言い逃れようとしてる」
「そうそう。琴絵ちゃんだって、ノリノリだったくせに」
「うっ……」
 どうやら、誰がということではなさそうである。
「ほら、琴子。パパのちっちゃい頃の写真よ」
 一方、祥子は琴子に圭太の小さい頃の写真を見せていた。
 琴子はわかっているのかどうかはわからないが、圭太の写真を見てきゃっきゃと喜んでいた。
「カワイイよねぇ。今のパパは格好いいけど、この頃はすっごくカワイイよねぇ」
「……あの、祥子」
「ん、どうしたの、圭くん?」
「琴子に見せて、わかりますか?」
「ん〜、どうだろ? でも、きっとわかってるよ。ね、琴子?」
「う〜」
「ほらね?」
 そういう風に言われてしまうと、圭太はなにも言えない。
「あ、先輩。こっちのは、すごいですよ」
「えっ、どれどれ?」
 そこに本人がいるのに、この五人には関係ないようである。
 圭太は肩をすくめ、リビングをあとにした。
 もっとも、多少の不安感は残っていたとしても、皆いつも通りに戻りつつあるのがわかり、圭太自身安心もしていた。
「わ〜、カワイイ」
「すっごいカワイイです」
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