僕がいて、君がいて
 
第三十六章「その秋の終わりに」
 
 一
 十月も半ばを過ぎ、朝晩はだいぶ涼しくなってきた。昼間も上着があっても邪魔にならないくらいで、確実に秋が深まっていた。
 今年の秋は晴天が多いという予報を裏付けるように、晴れの日が続いていた。
 十月二十日も、そんな晴れの日だった。
 
 いつも通り登校し、授業を受け、部活に参加。
 それだけを聞けば特になんのことはない、いつもと同じ一日だと思える。確かに、部活までは特に変わりはなかった。若干の違いといえば、あとわずかに迫ったコンクールに向け、部活が大変なことくらいである。
 そんないつも通りの中で、実にそわそわしている者たちがいた。
 合奏中はさすがにそうでもなかったが、その前とあとは全然だった。
「ねえ、圭太」
「ん?」
 柚紀は、言う前からすでに呆れ気味である。
「なんかさ、結構大げさなことになってない?」
「そうかもね」
 圭太も苦笑しつつ、頷いた。
「でも、みんなの気持ちもわかるから、あまり言えないんだよ」
「そりゃ、私もそれはわかるけどね。私だって、最初に見るまではそんな感じだったし」
「そうだね。あとは、先輩の意向でもあるからね」
「それが一番大きいからね」
 圭太と祥子の娘、琴子が生まれて五日。
 祥子と琴子が退院するのが、十月二十日、つまり今日だった。
 それまでに圭太に関係のある面々は病院で母子と面会しているのだが、それ以外の面々は様々なことを考慮して遠慮していた。
 祥子としては会いたい、見たいという者を拒むつもりはさらさらなく、むしろ積極的に来てほしいと考えていた。ただ、病院に大人数で押しかけられてもほかの者に迷惑がかかるので、それはやめてもらったのである。
 だが、それも退院してしまえば関係ない。
 というわけで、退院にあわせて見学会、というわけではないが、みんなに声をかけたのである。
 それに応えたのは、主にクラリネットの後輩たちと祥子と関係の深い三中の面々、それと興味のある面々だった。
 会ってもらう場所をどこにするのかで圭太と祥子で話し合ったのだが、結局は『桜亭』を使うことになった。
 店は当然やっているのだが、琴美も初孫である琴子をひとりでも多くの者に見てもらいたかったのである。
「ところで、圭太。私の前だったら、先輩のこといつものように呼んでもいいんだよ。無理して『先輩』って呼ばなくてもね」
「別に無理してるわけじゃないんだけどね。ただ、そうやって呼んでおいた方が波風は立たないかなって」
「ふ〜ん……」
 柚紀としては、それ自体はどっちでもいいのである。ただ、少し気になったから言っただけのこと。
「あ、そうだ。ひとつ確認」
「ん、なに?」
「私も琴子ちゃん、抱けるかな?」
「どうして?」
「だって、みんな来ちゃったら、琴子ちゃんもびっくりするだろうし、なによりも時間もないだろうし」
「それは大丈夫だと思うよ」
「ホント?」
「もしダメそうなら、僕がなんとかするよ」
「うん、そうしてね、『パパ』」
 そう言って柚紀は笑った。
 
 部活終了後、それなりの人数が『桜亭』へ向かった。
 当初心配していたよりも人数が少なかったのは、お互いがいろいろ考えたからかもしれない。
「一応、最低限の節度を持って行動するように」
 仮ではあるが、まとめ役になったのは綾だった。
 前副部長でもあり、クラリネットでもある綾は、いろいろな意味で祥子のことを尊敬し、敬愛していた。だから、圭太が病院へ誘ってくれた時にも本当は行きたかったのである。だが、自分だけ特別扱いされているというのがわかっていたので、あえてそれを断っていた。
 だからこそ、この日を待っていたのである。
 いつものメンバープラス十人ほどが『桜亭』に到着したのは、少し店が忙しい時間帯だった。
 圭太はほかの客の迷惑にならないよう、玄関の方から家に入るようにしてもらった。
 リビングには、すでに祥子が琴子と一緒に待っていた。
「おかえり、圭くん」
「待ちましたか?」
「ううん、大丈夫」
 出ていたカップの中身は半分ほどになっていたので、長くはなくとも、それなりに待っていたようである。
「みんな、入っていいよ」
 一斉に入ると騒がしくもなるし、なによりも琴子をびっくりさせるということで、静かに数人ずつ入ってきた。
「うわ〜、カワイイ」
 あっという間にベビーベッドのまわりに人垣ができた。
 琴子はちょうど眠っており、そのこと自体に驚くようなことはなかった。
「先輩。触っても平気ですか?」
「うん、大丈夫だよ。ただ、あまり乱暴にはしないでね」
「はい」
 興味津々の面々は、琴子に釘付けである。
「少しは落ち着きましたか?」
「そうだね。家に帰って、ようやくいつもに戻った感じ。もちろん、これからが大変なのは十分わかってるけどね」
 子育ては、とにかく大変なことが多い。
 話や本でそのことを知識として理解していたとしても、実際にそれを体験しなければ、本当の大変さはわからない。
 そのためには本人だけでなく、まわりの協力も不可欠となる。
 圭太も父親としてあらゆることに協力は惜しまないつもりではあったが、とりあえず全国大会が終わるまで祥子にがんばってもらうことにしていた。祥子もそれを望んでいたし、圭太としても最後のコンクールを悔いなく終わらせたい気持ちがあったからだ。
「いや〜、ホントカワイイなぁ」
 そこへ、少し頬を紅潮させた綾がやって来た。
「ふふっ、寝ちゃってるから、張り合いなかったんじゃない?」
「そんなことないですよ。あの天使の寝顔を見られただけで、幸せな気持ちになれましたから」
「そっか」
 娘を褒められて、祥子もとても嬉しそうである。
「でも、先輩。大学の方はどうするつもりなんですか? 子育てしながらだと、大変だと思うんですけど」
「そのあたりはちゃんと考えてあるよ。できるだけ両立させるために、どうすれば効率的に立ち回れるか。いろいろ考えたから」
「ぬかりなし、というところですかね」
 それは、祥子が出産するにあたって、それぞれの親から言われたことだった。祥子はあくまでも学生が本業である。それをあまりにもおろそかにするようでは、本末転倒になる。だから、子育ては子育てでやれることはやり、当然大学へも行く。
 その際には、それぞれの親が最大限のバックアップをするということも、すでに決まっていた。
 もっとも、そこまで厳密に決めなくとも、ふたりの祖母は初孫を可愛がりたくてしょうがないのである。
「ところで、琴子ちゃんの名前の由来はなんなんですか?」
「由来? それはね、琴子が私と圭くんの娘だという証でもあるの」
「証?」
「うちは、昔から女の子が生まれると名前に『子』をつけるのが倣わしになってて、私も姉もそうなの。そして、もう一文字の『琴』は、この高城家でつけられてる文字だから。琴美さん、琴絵ちゃんともにね。だから、そのふたつをあわせて琴子にしたの」
「なるほど、そういう意味だったんですね」
 ある程度の予想はできても、実際名付け親にそれを確認するまではわからないものである。綾も、おおよそはそうだと思っていたのだが、そこにふたりの娘である証という意味まで込めていたとは、思っていなかったようである。
 と、その時──
「せ、先輩」
 琴子が泣き出し、まわりにいた面々が困った顔で祥子に助けを求めた。
「大丈夫だよ。ちょっとお腹が減っただけだから」
 時計を確認し、祥子はそう言う。
「ごめんね。驚かせちゃったね」
 ベビーベッドに近づき、琴子を抱きかかえる。
「こうなっちゃうとね、おっぱいあげないと泣き止まないんだ」
 そう言ってソファに座り直し、早速琴子におっぱいを与える。
「わ〜……」
 途端に琴子は泣き止み、おっぱいを飲みはじめた。
「本当にお母さん、という感じですね」
「まだまだ半人前だけどね」
 それでも、琴子を見つめるその眼差しは、本当の母親にしかできないものであった。
 しばらくおっぱいを飲み、満足したのか、琴子は再びあくびをした。
「あとは……」
 祥子はそんな琴子の背中をとんとんと叩き、げっぷさせる。
「これでまたしばらくは大丈夫だよ」
 琴子は、祥子の腕の中でまた眠りに落ちそうな感じである。
「そうだ。綾。抱いてみる?」
「えっ、いいんですか?」
「うん。この子、そういうところは変に神経が太くて、滅多なことでは泣かないんだ」
「じゃ、じゃあ、ちょっとだけ」
 綾は、おそるおそる琴子を抱きかかえた。
「うわ、うわ、うわ〜」
 琴子はぐずることもなく、綾の腕に収まった。
「ああ、綾、いいなぁ」
「みんなもいいよ」
「ホントですか?」
 というわけで、今度は代わる代わる琴子を抱くことになった。
「ああいう姿を見ちゃうと、子供ほしくなるんですよねぇ」
「それは誰もが思うことだと思うよ。私だって、そう思ったことあったから」
「先輩はその念願をかなえられた、というわけですね」
「うん」
 状況はそれほど単純ではないが、少なくとも当事者である圭太と柚紀、それに祥子の間ではある程度の結論は出ていた。
 だからこそ、柚紀は素直に祥子にお祝いの言葉を述べ、祥子もそれを素直に受け入れたのである。
「綾は、誰か好きな人はいないの?」
「好きな人、ですか?」
「うん。綾くらいなら、引く手あまたな感じもするんだけど」
「う〜ん、そう言ってもらえるのはすごくありがたいんですけど、今のところは全然ですね」
 そう言って綾は苦笑した。
「それに、もうしばらくは彼氏は無理だと思ってるんです」
「どうして?」
「すぐ近くに、あまりにもみんなの理想的な『彼氏』がいましたから。たぶん、あたしの中でいろいろな基準が上がっちゃってると思うんです。それを多少なりとも矯正するまでは、無理かな、と」
「なるほど」
 その場にいる誰もが納得してしまう理由である。
「あれ、そうすると、綾先輩の今のところの好きな人って、お兄ちゃんなんですか?」
「ん〜、ある意味ではそうかも。なんだかんだ言っても、圭太を嫌いになる要素ってないじゃない。それに、あたしは副部長として結構圭太と一緒にいたから。ま、そういういろいろがあって、圭太が好きっていうのはあるかも」
「なるほどぉ」
 琴絵は、妙に納得している。まあ、琴絵自身はすでに圭太しか見えていないので、かなり圭太寄りの考えになっているというのもあっただろうが。
「本当にうちの部は、みんな圭太のことを好きになっちゃうんだよねぇ」
「嫌われるよりはいいと思うけど」
「それはそうだけど、一応私の立場からすると、結構深刻な問題でもあるの。そのあたり、ちゃんとわかってる?」
 この場にいる誰よりもそれを懸念しているのは、もちろん彼女である柚紀だ。だから、柚紀にそう言われてしまうと、圭太もなにも言えなくなる。
「まあまあ、柚紀もそのくらいにして。圭くんはちゃんとわかってるよ」
「そうですね」
 柚紀は、あっさり引いた。
「先輩。琴子ちゃん、寝ちゃいました」
 と、どうやら最後に抱いていた遥の腕の中で眠ってしまったらしい。
「遥は、もういい?」
「はい。十分堪能させていただきました」
 そう言って笑う。
「じゃあ……」
 琴子を遥から受け取る。
「みんなもいい?」
 一様に頷く。
「それじゃあ、琴子にはこのまま眠っててもらおうかな」
 琴子を再びベビーベッドに寝かせる。
「さて、せっかくみんなに来てもらったわけだから、お茶でも飲んでいってもらおうかな」
 圭太がそう言って引き取り、その場を収めた。
 
 みんなが帰ったあと、リビングには圭太と柚紀、祥子の三人が残っていた。
 ベビーベッドでは琴子が穏やかな表情で眠っている。
「疲れたんじゃないですか?」
「ん、大丈夫だよ。それに、このくらいのことで疲れたなんて言ってたら、とてもじゃないけど子育てはできないからね」
 祥子は、実に当たり前のようにそう答えた。
 それが母親としての自覚の第一歩なのかもしれない。
「柚紀も、春になればわかると思うよ、今の私の気持ち」
「そうですね」
 柚紀は、無意識のうちに自分のお腹に触れていた。
「でも、本当に琴子ちゃん、全然ぐずりませんでしたね。あれだけの人数に囲まれてたら、もう少しぐずったりするかと思ってました」
「そのあたりは、圭くんに似たのかな。ほら、圭くんてそういうのに全然動じないでしょ」
「確かにそうかもしれませんね。不貞不貞しいくらいに動じませんからね、圭太は」
「……責められてる?」
「ううん、そんなことないよ」
 首を傾げる圭太に、柚紀は笑った。
「先輩としては、どっちに似てほしいとか、そういうのはあるんですか?」
「う〜ん、特にないかな。私に似ても、圭くんに似ても、とにかく健康で真っ直ぐに育ってくれればそれだけでいいから」
「圭太は?」
「僕もそうだよ。ただ、そうだね。琴子は女の子だから、できれば祥子に似てもらった方がいいかな」
「なるほどなるほど。先輩に似たら、間違いなく美人になるからね。あ、でも、そうすると圭太としては心配なんじゃない」
「どうして?」
「だって、美人になると琴子ちゃん目当てにたくさんの人が集まってくるから」
「……なるほど」
「それは大丈夫だと思うよ」
 と、祥子が口を挟んできた。
「どうしてですか?」
「もし琴子が私に似たら、きっと誰よりも圭くんのことを好きになっちゃうから。だからむしろそっちの方を心配しなくちゃね」
「母娘でもライバル、ってことですか?」
「そうなるかどうかはまだわからないけどね」
 にっこり微笑む。
「祥子さん」
 そこへ、琴美がやって来た。
「あ、はい」
「夕飯はどうするつもり?」
「そうですね、特にどうするかは決めてなかったので」
「じゃあ、うちで食べていけばいいわ」
「わかりました。そうします」
「あ、琴美さん。私、手伝います」
「そう? じゃあ、お願いしようかしら」
「はい」
 柚紀は、琴美とともに台所へ。
「母さん、少しでも長く琴子と一緒にいたいから、あんなこと言ってるんですよ」
「うちもそうだよ。お母さまもお父さまも、一分一秒でも長く琴子といたいみたい。基本的にはずっとうちにいるのにね」
 理由と過程はどうあれ、初孫はカワイイのである。
 高城家は当然ながら、三ツ谷家でもはじめての孫なので、どうしても過剰な行動を取ってしまうのである。
「ん……ふわぁ……」
「やっぱり、疲れてますか?」
「大丈夫だよ。でも──」
 祥子は、そっと圭太に体を預けた。
「少しだけ、圭くんに甘えたいな」
「いくらでも、甘えてください……」
「うん……」
 圭太は、祥子の肩を優しく抱き、祥子はそのまま目を閉じた。
 
 二
 十月二十七日。
 全国大会を二日後に控えたその日、一高吹奏楽部では最後の練習に余念がなかった。
 毎年のことだが、本番前日は移動のためにまったく練習ができない。だからこそ、前日になにもしなくてもいいくらい、しっかりと仕上げなければならないのである。
 ただ、それでも本当に直前にできることなどそう多くない。基本的にはこれまでの確認に費やされる。
 合奏が終わると、菜穂子はメンバーに語りかける。
「みんな、おつかれさま。ようやくここまで来ることができたわ。あとは本番を待つのみだけど、ここまでがんばってきたみんななら、きっと最高の演奏をしてくれると信じてる。もちろん、その最高の演奏というのは、なにも金賞を取るための演奏ではないわ。それぞれが後悔のない、全力を出し切った演奏のことよ。その結果が金賞に繋がればこれ以上の喜びはないけど、もし銀賞や銅賞でも、それを恥じることはないし、嘆くこともない。それが、最高の演奏をしたということ」
 メンバーは、皆真剣な表情で菜穂子の話を聞いている。
「みんなは、それだけの努力をこれまでしてきた。それはこの私が保証するわ。もっとも、私の保証じゃ心許ないかもしれないけど」
 そう言って笑いを誘う。
「全国大会に出られるのは、ほんのひと握りの学校だけ。まして、そこで金賞を取れる学校はもっと少ない。そのことは、三年はよく知ってるわね。同時にそれは、そこに来られなかったすべての学校に対しても、恥じない演奏をしなければならないということ。みんなの演奏がどんな評価を受けるかはわからないけど、少なくとも私は、全国大会に出られなかったすべての学校に対して、恥じない演奏はできると思ってる。みんながそれだけ努力してきたのを見てるからね」
 そこで言葉を切り、メンバーを見渡す。
「とまあ、堅苦しいことは頭の片隅にでも置いておけばいいのよ。結局は、みんながどれだけいつもの演奏ができるかなんだから。全国大会だからって気負う必要はないし、特別なことをする必要もない。もし、それで心配なら、いつもより少しだけがんばってみればいいの。それだけできっと、いつもよりいい演奏ができるから。そして、本番ではみんなで演奏することを楽しんで。楽しんで演奏できれば、それを聴いてるすべての人たちに同じ気持ちを分け与えられるから。だから、本番はみんなで楽しみましょう」
『はいっ』
「じゃあ、最後にみんなをここまで導いてくれた陰の功労者である、圭太にひと言もらいましょうか」
 菜穂子に言われ、圭太は前に出る。
 指揮台の上で一度メンバーを見渡し、話しはじめた。
「おつかれさま。僕としては、正直言えばそんなたいそうなことをしたとは思ってないんだ。結局は、自分が後悔したくないから、じゃあそうするためにはなにが自分にできるんだろうって考えて、それでみんなの指導をしてた。その結果はまだ出てないけど、少なくとも今は、これまでのことを後悔してない。それくらいみんなはがんばってたからね。むしろ、みんなのがんばりに僕がもっとがんばらなくちゃと思ったくらいだよ。だから、あさっての本番はきっと、これまでで最高の演奏ができると思ってる。いや、違うね。思ってるじゃなくて、演奏ができる。そして、最後にみんなでもう一度喜ぼう」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「僕からはこれくらいかな。あとは、あさっての演奏後に取っておかないと」
「それじゃあ、部長。最後に締めて」
「はい」
 最後はやはり、部長の紗絵が締める。
「私からは明日のことについて説明します。まず、授業が終わったら音楽室に集まってください。そこで積み込む楽器をトラックに積み込みます。それが終わったら、そのまま東京へ向かいます。ですから、それまでにすべての準備を終えておいてください。一年でわからないことがある人は、遠慮なく聞きに来てください。それじゃあ今日はここまでにします。おつかれさまでした」
『おつかれさまでした』
 挨拶を終えても、すぐに帰る者はいない。
 皆、楽器の手入れやわからないことの最終確認に余念がない。
 そんな中、圭太はトランペットのメンバーを音楽室から連れ出していた。
「この期に及んで言うことじゃないかもしれないけど、最後になにか確認しておきたいこととかある?」
「ん〜、私は特にないかな。さすがに今年で三年連続だし」
 夏子はそう言って笑う。
「あの、先輩」
 と、和美が手を挙げた。
「当日なんですけど、いつも通りに演奏するコツみたいなのってあるんですか?」
「コツかぁ。そうだね、ある意味では開き直ることかな」
「開き直っちゃうんですか?」
「そう。もちろん最高の演奏ができればそれでいいけど、できなくてもしょうがない、くらいの感じでね。人間だから、必ず失敗するでしょ? でも、その失敗はすぐに死んでしまうような失敗じゃない。それはちょっと大げさかもしれないけどね。まあ、それくらいに考えて演奏すれば、きっと余計な力も抜けて、いつも通りに演奏できると思うよ」
「なるほど」
「和美もうちの部に入ってから一生懸命がんばってきたわけだから、いつも通りにさえ演奏できれば、それがきっと最高の演奏になるよ」
「先輩にそう言ってもらえると、本当にそうできそうな気がします」
 和美はそう言って笑う。
「それは明雄もそうだよ。今まで僕も結構厳しく指導してきたけど、それはすべてみんながそれだけできると思ってたからこそなんだから。無駄なこと、とまでは言わないけど、最初からほとんどできないとわかっていたら、そこまでのことはしなかったよ」
「はい」
「とはいえ、僕自身もそこまで偉そうなことを言える立場じゃないんだけどね」
「それって、ソロがあるから?」
「それもあるね。ソロを成功させなければ、僕にとっての最高の演奏はあり得ないから」
「先輩なら大丈夫ですよ。きっと、最高の演奏ができます」
「ありがとう、紗絵」
「そうね。圭太がどれだけがんばっていたかは、部のみんなが知ってるから。それが報われないなんてこと、絶対にないわ」
「そう言ってもらえると、僕も最後の最後までがんばれるよ」
 言葉は軽いが、そこにはかなりの決意が込められていた。
「ほかになにかある?」
「特にないんじゃない?」
「それじゃあ、あとは本番ですべてを出せるようにがんばろう」
 
 十月二十九日。
 全国大会一日目。
 朝からとても綺麗に晴れ、気温も高めでとても過ごしやすい日となった。
 一高吹奏楽部は、新宿のホテルから午前中のうちに会場である普門館へと移動した。
 吹奏楽コンクールの聖地である普門館には、すでに多くの観客が集まり、朝からの演奏を聴いていた。
 一高の出番は、なんの因果か、一番最後だった。
 順番というのは非常に難しく、どこが一番いいのかはその順番でやってみなければわからない。だが、一番最初と最後は、その中で特に難しい。
 最初が難しい理由は、まだ誰も演奏していない状況では、その演奏がその日の基準となるからだ。すべてがそうだとは言わないが、そういう状況ではどうしても気負いが出てくる。だから難しい。
 最後が難しい理由は、それまでの演奏がどんなものかわかっているというところである。もし仮に、とてつもなく上手い演奏があったなら、それをどうにかして越えようと思うかもしれない。だが、それはプレッシャーになる。さらに言えば、観客もまた最高の演奏を期待するのである。
 もちろん、それがプラスに働く場合もある。そして、その順番はどの団体にも与えられる可能性がある。
 それが今年は一高になっただけなのである。
 演奏が一番最後ということで、当然待ち時間も長くなる。そうすると、考えなくてもいいことまで考えてしまう。そのあたりのメンタル面でのフォローをどうするか、というのも圭太や菜穂子の悩みの種でもあった。
 とはいえ、メンバー全員がそうなると決まったわけではなく、対処が難しかった。
 圭太は午前中は演奏を聴くと決め、ほかの部員とともに観客席にいた。
「なんか、今年もレベル高いね」
 いくつかの演奏を聴いて、柚紀はそんなことを言った。
「そうだね。このところ毎年レベルが高いけど、今年もかなりだね」
「もうこれくらいが全国のレベルになるのかな?」
「そうかもしれないね。どこの学校も、来年は今年以上の演奏をしようとがんばるし、今年出られなかった学校はそれ以上にがんばる。だから、レベルはどんどん上がる。そんな感じかな」
 圭太の言葉に、柚紀はなるほどと頷いた。
「ま、とりあえず来年のことは置いといて。まずは今年の演奏に全力を注がないとね」
「うん」
 午前中の演奏が終わり、昼休みとなった。
 圭太たちは、近くのコンビニで昼食を買い込み、近くの公園で昼食を取ることにした。
 公園には同じような人も結構おり、普段にはない賑わいを見せていた。
「はあ……」
「どうしたの、ため息なんかついて?」
「あ、いえ、ちょっと余計なことを考えてしまって」
「余計なこと?」
 柚紀は、首を傾げ、紗絵の隣に座った。
 紗絵は、ペットボトルのお茶を一口飲み、話した。
「今日の演奏が終わったら、もう先輩たちと演奏できないんだなって、思って。そう考えると、つらかった練習ももっとやっていたかったと思って」
「なるほどね」
「でも、それはあくまでも口実でしかないんです。結局は、圭太先輩ともっと一緒にいたいだけなんです」
「きっと、みんなもそう思ってるよ。紗絵ちゃんだけじゃなくて、本当にみんなもね。だって、圭太ほど熱心に部活をやってる人はいないし、みんなのためになんでもやってくれる人はいない。あらゆる意味で部活の真ん中にいた圭太が、今日の演奏を最後に引退しちゃうんだから、淋しく思って当然だよ」
「そう、でしょうか?」
「そうだよ。それに、それを淋しく思わない方がおかしいって。今生の別れというわけではないけど、少なくとも今までと同じようには会うことはできなくなるわけだし。その想いに多少の差はあったとしても、みんな紗絵ちゃんと同じように思ってるはず」
 柚紀の言葉を聞き、紗絵は小さく頷いた。
「だからね、紗絵ちゃん。最後だからこそ、本当に悔いのないような演奏をしないと。みんなもそれを望んでるだろうけど、うちの部で誰よりもそれを望んでいるのは、やっぱり圭太だから」
「そうですね。圭太先輩だけでなく、先輩方全員を快く送り出すためにも、悔いのない演奏をしないといけないですね」
「うん、その意気その意気」
 午後は、時間まで自由行動となっていた。
 それぞれの調整方法というものがあるからそうなったのだが、例年より時間があるために、メンバーは結構苦労していた。
 そんな中、圭太は少しばかりやるべきことがあった。
 それは、応援に来てくれる面々を迎えることだった。
 まずは、琴美と淑美。
 琴美は息子と娘の晴れ舞台を見るために、淑美も娘の晴れ舞台を見るためにわざわざやって来た。
 ふたりとは普門館の前で落ち合い、そこで軽く話をした。
 次に、凛。
 以前の宣言通り、凛は圭太の勇姿を見届けるために、わざわざ東京までやって来たのである。
 圭太は凛はひとりで来るものだとばかり思っていたら、姉の蘭も一緒だった。どうやら、せっかく東京で行われるのだから、自分も行かなくちゃいけないと考え、やって来たらしい。
 ふたりとしては、一高の演奏さえ聴ければそれでよかったのだが、あまり直前だと中で聴けない可能性があると聞かされ、それなりの時間に普門館へやって来ていた。
 そのふたりを迎えた時に、いろいろあったのだが、それはいい。
 そして最後に、ともみ、幸江、祥子のOG三人に鈴奈を加えた四人である。
 祥子は琴子のことがあって最後まで悩んでいたのだが、やはり圭太の最後の舞台を見ておきたいと、琴子を朝子に任せ、やって来たのである。
 圭太としては、ひとりでも多くの人に聴いてもらいたいと思っているので、それは嬉しい限りだった。
「どう、調子は?」
「少しずつ高めてる、というところでしょうか」
「圭太が言うと、冗談みたいなことも、そうじゃなく聞こえるから不思議よね」
 ともみはそう言って笑う。
「みんなの様子はどうなの?」
「そうですね。一番最後ということもあって、去年以上に緊張してますね」
「そっか。でも、あれかな。時間が近づけば、ある意味では開き直っちゃうかな」
「そうだと思います」
「あとは、そこで圭太がどうやってフォローするかよね」
「それによって、演奏の出来も変わってくるだろうし」
「……あの、そうやってプレッシャーかけるの、やめません?」
「あはは、ごめんごめん」
「ついついからかいたくなって」
 ともみと幸江は、冗談半分でそんなことを言う。
 だが、それもすべては圭太のためである。先にともみが言ったように、圭太はほかのメンバーのフォローという役目がある。それは圭太が部の中心であることを考えれば当然である。
 では、圭太のフォローは誰がするのか。
 それができるのは、今ここにいるともみであり、幸江であり、祥子なのである。
 そうやってバカなことを言って、圭太をからかえば、いつもと同じになる。それこそが大事なのである。
「でも、ありがとうございます」
「うん」
 圭太もそれを理解しているからこそ、なにも言わないのである。
 そうこうしているうちに、集合時間となった。
 刻一刻と本番が近づき、メンバーの緊張感も高まってきている。
 受付を済ませ、控え所に移る。
 一高は一番最後なので、そのあとの団体のことは考えなくてもいい。それほど広くない控え所なので、そのあたりは気分的にも楽になる。
 演奏が終わって戻ってくる学校の中には、悔し涙か嬉し涙か、涙でぐしゃぐしゃになっている生徒もいた。
 それでも、一応に安堵の表情を浮かべているのは、ようやくすべての演奏が終わって、様々なプレッシャーから解放されたからであろう。
「圭太」
「あ、はい」
 圭太は、菜穂子に呼ばれた。
「どう、みんなの様子は?」
「まあ、ある意味では予想通り、というところです。今回がはじめての二年と一年は、特にですね」
「クジ運悪く、最後だから仕方がないとはいえ、厳しいわね」
「でもきっと、大丈夫ですよ。チューニング室に入って音を出せば、多少は緩和されるはずです」
「そうね。あまりそれを気にしてもしょうがないわね」
「ええ、なるようにしかなりませんから」
 一高が待っている間にも、演奏は進んでいく。
 その中には、全国常連と言われている学校の演奏もあった。例年、全国大会を目標に最高の形に持ってくる学校で、常に高いレベルの演奏を披露していた。
 だだ、そんな学校でもミスは出る。それがほんの些細なものか、致命的なものかはまた別の問題ではあるが、本当の意味で完璧な演奏など、そうできるものではない。
 やがて、一高の番がまわってきた。
 控え所からチューニング室に移り、そこでチューニングである。
 ようやく音を出せる状況になり、皆、すぐさま自分の調子を確認する。
 調子がよければそれでいいのだが、仮に調子が悪くても、それをできるだけ目立たないようにしなければならない。だからこそ、短い時間での調子の判断が求められる。
 チューニングがはじまると、少しだけいつもの感覚が戻ってくる。そこにはいつも一緒にいるメンバーしかいないというのもあるが、緊張感が多少緩和されたからでもある。
 チューニングを済ませ、課題曲と自由曲、それぞれの頭を軽くあわせる。
 菜穂子は、その段階でメンバー全員の調子を測る。
「さあ、みんな。これから最後の演奏よ。今年は正真正銘最後の演奏となったけど、それだって地区大会や県大会と同じだと思えば楽勝でしょ」
 菜穂子は、明るい声でメンバーに声をかける。
「今日はね、もうどれだけ間違ってもいいから。とにかく全力で演奏すること。間違いを恐れて小さな演奏だけはしないこと。そんな演奏したら、後悔するのはみんなだから。だから、少し音程がズレてても、多少指がまわらなくても、それは気にしなくていいから。そんなものは、ほかの学校だって多かれ少なかれあるんだから。とにかく、全力の演奏をすること。いいわね?」
『はいっ』
「よし、いい返事ね」
 チューニングの時間も終わり、ステージ袖へと移動する。
 廊下を歩いていても、向こうから演奏が聞こえてくる。そうやって聴いていると、どれもこれも自分たちよりもいい演奏に聞こえてくるから、不思議である。
 ふたつ前の演奏が終わり、ステージ袖で待機していたひとつ前の学校がステージに上がっていく。
 それを見送り、一高はステージ袖に待機する。
 そこでようやく、パーカッションと合流する。
「圭太」
 早速、柚紀が圭太に近づいてきた。
「どう、みんなの感じは?」
「うん、大丈夫だよ」
「そっか」
「柚紀は? 緊張してる?」
「めちゃくちゃ緊張してる。でも、大丈夫。だって──」
 言いながら、圭太の手を握る。
「圭太がいるから」
「うん」
 そして、時間が来た。
 
 課題曲がはじまると、観客席からなんとも言えないざわめきが起きた。
 コンクールは、最後だからといって、必ずしも上手い学校とは限らない。だが、普通の人ならば最後に出てくるのだから、上手いところだろうと思って聴いている。
 そんな中ではじまる演奏。
 果たして自分の予想は、というところで、その演奏が予想を上回る出来であったら、違う意味で驚くはずだ。
 一高の演奏は、そういう驚きを持って観客に受け入れられた。
 課題曲の序盤、とても軽快なリズムと木管の滑らかな旋律が聴いている者の気分まで軽くしてくれる。
 中盤になると、低音楽器が活躍。音の低さは確かにあるのだが、それは重さではない。だから聴いていてイヤな感じはまったくない。
 終盤は、すべての楽器が煌びやかに、ラストに向かって音を重ねていく。
 特に、トランペットとトロンボーンは見せ場である。
 最後の一音が指揮棒によって止められるまで、一瞬たりとも気の抜けない演奏。
 指揮棒が下り、一瞬の静寂。
 同時に、ため息とともに再びざわめく。
 そのざわめきは、先のざわめきとは違う。今度のは、自由曲でどれくらい素晴らしい演奏をしてくれるのかという、期待のざわめきだ。
 席の入れ替えを行い、いざ、自由曲。
 静かな導入部。
 目を閉じて聴けば、そこに広がっているのは本当の海かもしれない。
 やがて、少しずつ穏やかな海が波立ってくる。だが、それも荒々しいものではない。
 それは本当に会話しているかのような、波の姿。
 その一節を歌う、トランペットのソロ。
 どこか遠くから抜けてくるような音が、会場全体を包み込む。
 そこから、次第に盛り上がりを見せていく。
 観客は、その音の流れに、引き込まれていく。
 音の厚み、広がり。
 そのすべてが観客を包み込む。
 そして──
 
 演奏が終わってからの客席には、なんともいえない不思議な空気が漂っていた。
 純粋にいい音楽を聴きたくてこの会場に足を運んでいる一般の観客。
 今日、これまで演奏してきた学校の参加者。
 このふたつの人たちがそこにいたからこその、不思議な空気である。
 前者は、最後の最後でとても素晴らしい演奏を聴けたと喜び、後者は、最後の最後でとんでもないライバルが出てきたと心配する。
 どちらもその演奏を認めているからこその反応なのだが、思惑は両極端である。
 そんな客席に、一高のメンバーも戻ってきた。
 いつもなら演奏後にその余韻に浸れる時間があるのだが、今年はあいにくとそれがまったくない。楽器を片づけ、すぐに閉会式である。
 場所は、メンバーに選ばれなかった一年が確保していたおかげで、それほど悪い場所にはならなかった。
 どの学校のメンバーも、とりあえずの緊張感から解放され、その表情は明るい。それは、一高も同じだった。
 ステージ袖にいた時は、今にも死んでしまいそうなくらい緊張していた面々も、一様に笑顔を見せていた。もちろん、そこには自分たちが全力を出し尽くしたという満足感があったからでもある。
『ええ、大変お待たせしました。これより、閉会式をはじめます』
 司会が出てきて、閉会式がはじまった。
『まず、本日の演奏について講評をいただきます』
 審査員のひとりが、ステージの真ん中へ。
『講評の前に、今日演奏したすべての参加者諸君、本当におつかれさま。結果はこのあと発表されるけど、それはあくまでもあえての順位でしかない。今日ここまでのプロセスにおいて、諸君がどれだけがんばってきたかは、その演奏を聴けばすぐにわかった。だから、どんな結果になろうとも、その結果に胸を張ってほしい』
 そう言ってステージ上から客席を見渡す。
『さて、講評だが、ここ数年、全国大会での演奏は確実にレベルが上がってきている。各地方大会を勝ち抜くのもますます大変になっているのも、全国大会のレベルを押し上げている要因と考える。今年もまた、演奏のレベルはとても高かった。審査する際も、なかなか決まらず苦労した。今年の課題曲は、どれも難易度が高く、課題曲の完成度を上げようとそればかりやっていると、自由曲にまで手が回らない。そんな学校も多かったと思う。それでも、どちらともに仕上げている学校もあることを忘れないでもらいたい。限られた時間でも、効率的に練習できれば、全国大会でも通用する演奏ができる。今日、もし納得できない演奏をした学校があるなら、来年に向け、そのあたりのことに注意して改めて練習するといいだろう』
 確かに、吹奏楽では野球のようにそれだけをやっていて、というのはほとんどあり得ない。そうすると、どんな学校にも必ず制約がある。それをものともしない効率的な指導と練習を、どれだけできるかで結果が変わってくる。
『全体としての講評はこのくらいだが、各学校への講評は審査結果とともに渡す講評用紙にあるので、そちらを見てもらいたい』
 講評が終わると、いよいよ結果発表である。
『では、これより結果を発表しますが、それぞれの団体の代表一名は、ステージへ上がってください』
 どの学校も、おそらく部長がステージへと上がる。
『それでは、結果発表です』
 
 バスの中は、それはもう乱痴気騒ぎとなった。
 だが、それも当然と言えた。
 そうなることは、発表された時の圭太の姿からも簡単に予想できた。
 いつも冷静で、大げさに気持ちを表さない圭太が、ステージ上でその喜びを爆発させた。
 本来ならほかの学校もいるのだから、そのあたりも多少は遠慮して然るべきなのだが、圭太はそれすらも忘れてガッツポーズを繰り返した。
 だから、バスの中でお祭り騒ぎになっても不思議ではなかった。
 普段はそういうことにうるさい菜穂子も、今日ばかりはなにも言わなかった。
 バスが一高に到着したのは、若干道路が混んでいたこともあって、十時半をまわってからだった。
 バスから降りても、メンバーの気持ちは高まったままだった。
「みんな、今日は本当におめでとう」
 まず、菜穂子が話しはじめた。
「今日の演奏は、本当に最高のものだったわ。私も演奏が終わってから鳥肌が立ったくらいだったから。でも、みんななら今日くらいの演奏ができるのは当然なのよ。それくらい一生懸命練習してきたんだから。だから私は、今日の結果には驚いてないわ」
 そうは言いながらも、菜穂子もずいぶんと興奮している。
 いつも以上に声が上擦っていることで、それがわかる。
「とはいえ、全国大会で三年連続で金賞を取るなんて、そう簡単にできることじゃないから。みんなはその結果を誇っていいわ」
 そう。一高は、三年連続全国大会金賞という快挙を成し遂げた。
 その回数だけ全国大会に出るのも大変なのだが、その上金賞を取っているわけである。それはもはや快挙としか言いようがない。
「三年は、この三年間、本当によくがんばってきたわ。一年の時にメンバーに選ばれなかった人もいるけど、それでもそのがんばりはメンバーと変わりないはずだから。今までの経験を活かせば、受験なんて簡単に突破できるはず。だから、来年の春、みんなからいい報告が来るのを待ってるわね」
『はいっ』
「一、二年は、優秀な先輩のあとを引き継いでいくわけだけど、今日の結果はなにも三年だけのおかげじゃないことを忘れないこと。あなたたちもいて、はじめて今日の結果があるのよ。でも、それを来年も続けるためには、よりいっそうの努力が必要なのも忘れないように。そして、引退した先輩たちに自分たちはこれだけがんばっているんだって、胸を張って言えるようにがんばること」
『はいっ』
「それじゃあ、最後に前部長」
「はい」
 圭太にとっては、これが吹奏楽部員としての最後の挨拶となる。
「まず最初に、菜穂子先生。この三年間、時に厳しく、時に優しく、指導していただき、本当にありがとうございました。先生があきらめずに指導していただいたおかげで、ここまでの結果が得られたと思っています。もちろん、先生の指導だけでは得られなかった結果だとは思いますけど、僕たちの上手くなろうという努力と、先生の指導のどちらが欠けても今日の結果はありませんでした。だから、本当にありがとうございました」
 圭太は、そう言って深々と頭を下げた。それに倣い、メンバー全員頭を下げる。
「次に、みんなに対してお詫びとお礼。僕の指導がみんなにとってかなりの苦痛になっていたのは、わかっていたんだ。でも、同じことをやるなら、最善を尽くさないと意味がない。だから、多少無茶だとは思いつつも、みんなには厳しい注文をつけた。中には、僕から集中攻撃を受けて、だいぶへこんでた人もいると思うけど、この場を借りて、お詫びしたいと思うよ。だけど、その指導にもついてきてくれたおかげで、最高の結果が得られた。吹奏楽はひとりだけではできないもの。僕だけが金賞を取りたいと思っていても、それは絶対に無理だったからね。最後の最後で最高の結果を手にすることができて、本当に嬉しい。そして、その結果をみんなと得られたことが、もっと嬉しい。だから、本当にありがとう」
 今度は、メンバーに向かって頭を下げる。
「正直言って、一、二年にはかなりつらい再スタートになると思う。二年連続金賞という看板を背負ってスタートした去年も大変だったけど、明日からはそれが三年連続ということになるから。でも、先生も言ったように今日までの結果はなにも僕たち三年だけで得られた結果じゃないから。だから、僕は大丈夫だと思ってる。それは、僕だけじゃなく、三年全員の気持ちだと思うよ」
 そう言って三年を見渡す。
 三年は、皆それぞれに頷き、笑顔を返す。
「僕たち三年がこれから先にできることはあまり多くないかもしれないけど、それでもみんなのためにできることはなんでもやるつもりだから。それが、三年間通して最高の想い出を与えてくれた、一高吹奏楽部に対する恩返しだから。もちろん、みんなにもそれ相応にがんばってもらわなくちゃいけないけどね」
 そう言って笑う。
「これが僕の吹奏楽部員としての最後の挨拶になるわけだけど、もう言うことはないんだ。言いたいことは今までにも言ってきたし。だから、一、二年にはとにかくがんばってとしか言えない。ちょっと無責任だけどね。それでも、優秀な部長はいるし、それをまわりで支えてくれる副部長、パートリーダーがいる。だから、大丈夫」
 もうすでに、何人もが泣いている。
「最後に」
 圭太は、そこで言葉を切り、大きく深呼吸した。
「おつかれさまでしたっ!」
『おつかれさまでしたっ!』
 全員の声が、夜の空に響いた。
 この挨拶が、一高吹奏楽部の今年度の最後の挨拶となる。
 挨拶が終わると、それぞれのパートの三年の元へ、一、二年が集まる。
「ううぅ、せんぱぁい……」
 圭太の腕の中では、紗絵がボロボロ涙を流し、泣いていた。
「そんなに泣かなくても」
「だってだってだって、もう先輩と一緒に演奏できないんですよ?」
 まわりにほかのメンバーがいても、もう関係ないという感じである。
「別にもう会えなくなるわけじゃないんだから」
「そうですけどぉ……」
「紗絵がそんなことじゃ、みんなに示しがつかないよ」
「でも……」
「泣くなとは言わないけど、今はね」
「……はい」
 圭太から離れ、涙を拭く。
「じゃあ、毎年恒例のをやろうか」
「そうね」
 三年のふたりは、一、二年の四人に向き直る。
「ペットは目立つ楽器だから、どうしても先生から目の敵のようにターゲットにされるけど、四人とも優秀だから大丈夫だよね」
「それを圭太に言われると、四人はなにも言えなくなるわよ」
「あれ、そうかな?」
「そうよ。でも、そうね。圭太がみんなをそれだけ信頼してる気持ちはよくわかるけどね。私もずっと側で見てきたから」
 圭太も夏子も、練習中のような真面目な、厳しい表情はいっさいない。
 そこにあるのは、後輩のことを心から信頼し、これからを任せようという安堵感から来る笑顔だった。
「紗絵」
「はい」
「三中の時と同じで、また大変な役目を背負っちゃうわけだけど、全部をひとりで背負う必要はないんだから。ペットでは満だってフォローしてくれるし、部内でもみんながフォローしてくれるんだから。それと、僕と同じことをやらなくてもいいんだから。紗絵は紗絵なりのやり方で、部を引っ張っていけばいいんだから」
「はい」
「あと、わからないことや聞きたいことがあったら、遠慮なく言って。僕もできる限りのことはするから」
「はい、ありがとうございます」
「満」
「はい」
「満もこの一年で本当に上手くなって、僕もパートリーダーとして嬉しかったよ。実力的には、紗絵と変わらないはずだから、ふたりでしっかりとペットを引っ張って。もちろん、紗絵が部長として忙しい時は、満がペットのリーダーになるわけだから、わかってるとは思うけどね」
「はい」
「あと、紗絵は結構こうと決めたことに突き進んでしまうところがあるから、その時には満が紗絵を止めて、正しいと思う方向に導いてあげてほしい」
「わかりました」
「和美」
「はい」
「和美はとても明るくて、ペットの雰囲気を明るくてしてくれた。それはきっとすごく大事なことだから、これからもそのままでいてほしい。紗絵がパートリーダーになってからのことは、三中でよく知ってると思うから僕から言うことはないよ。あとはそうだね、もう少しだけ練習での集中力を持続できるようにがんばること。少し、注意力散漫なところがあるから」
「はい、わかりました」
「明雄」
「はい」
「明雄は、テクニックは結構いいものを持ってると思う。これからはそれをさらに伸ばして、紗絵や満を追い抜くくらいの気持ちで練習すればいいよ。そうすればきっと、今以上にペットにはなくてはならない存在になれるから。あとは、必要以上に僕を追いかけようとしないこと。明雄が僕を目標にしてくれてることは嬉しいけど、僕には僕の、明雄には明雄のやり方があるはずだから。もし壁に突き当たったら、遠慮なく相談してくれていいよ。僕もできる限りのことはするから」
「はい、ありがとうございます」
「僕からは以上だけど、夏子はなにかある?」
「私? ん〜、みんな圭太が言ってくれたから特にはないけど。でも、そうね。せっかくだから」
 そう言って夏子は少し居住まいを正した。
「四人それぞれに、なにかひとつでもいいから圭太を越えてみなさい。そしたら、ペットはもっとレベルアップできるから。ま、それをなにひとつ圭太を越えられなかった私が言っても説得力はないんだけどね」
「そんなことないよ。夏子には本当に感謝してるんだから。夏子がいなければ、ペットはもっと先生のターゲットになってただろうし、もっと大変だったと思う」
「そんな、たいそうなことはしてないわよ」
「確かにたいそうなことはしてないかもしれないけど、でも、それが一番大事なんだと思うよ。だから、僕は夏子に感謝してる。夏子と一緒に部活ができて、本当によかったと思ってる」
「圭太……」
 圭太の言葉に、夏子の目に涙が溜まる。
「も、もう、私は泣かないって思ってたのに……」
 夏子は後ろを向き、涙を拭く。
「ま、堅苦しいことは考えなくていいから。一番大事なのは、みんなで音楽を楽しむこと。それが大事なんだから」
『はい』
「よし、堅苦しい挨拶は終わり。あとはまたの機会にね」
「圭太先輩、夏子先輩。今まで、本当にありがとうございました」
『ありがとうございました』
 
 充実した時間も、終わりを迎える。
 校庭の使用時間もあるし、なによりも時間が遅い。
 半分追い立てられるように学校をあとにした。
 だが、興奮冷めやらぬ部員たちは、帰り道でも口々に今日までのことを話していた。
 圭太のまわりにも、多くの部員がいる。
 その誰もが笑顔である。
 その笑顔が見られただけで、圭太は幸せだった。もちろん、その笑顔を作った要因が三年連続金賞というのだから、嬉しさは何倍にもなった。
 明日からはもう部活はないのだが、今はただ、その幸せを噛みしめていたかった。
 それが、この三年間の部活の中で、最後に望んだことだった。
 
 三
 暦が変わり、十一月になった。
 十一月になったからというわけではないが、朝晩はだいぶ気温が下がるようになり、そろそろコートを出そうかという感じである。
 木々はまだ色づいてはいないが、見かける花は、確実に少なくなっていた。
 一高では、十一月の最初の週末に一高祭が行われる。準備自体はそれなりに行われていたのだが、やはり十一月の声を聞いて、ラストスパートという感じになった。
 各クラス、有志、部活動ではそれぞれに準備に余念がなく、放課後になるとあちこちから威勢の良い声が聞こえてくる。
 去年までの二年間は部活の方に参加していてクラスの方はまったくノータッチだった圭太たち吹奏楽部員の三年は、三年目にしてはじめて部活以外で一高祭に参加できる。
 もちろん、クラスでの参加は強制ではないので、ただ単に見てまわるだけ、という可能性もあるにはある。それでも、過去二年とは確実に違う一高祭を迎えるというのは、大きな違いであった。
 圭太と柚紀の三年一組は、クラスで参加することになっていた。準備自体は十月の中頃から少しずつはじまり、だいぶ煮詰まってきていた。
 ちなみにその内容は、甘味処だった。
 なにをやろうかずいぶんと議論されたのだが、文化部に所属している者を除いての出し物のために、本当にクラス全員でなければ厳しいものは即座に除外された。
 また、教室以外の場所を使うものに関しても、面倒だから、という理由だけで除外された。
 その結果、教室でできて、なおかつある程度の人数ででき、しかもクラスのためになるものとして選ばれたのが、いわゆる喫茶スペースだった。だが、そこで普通にコーヒーやお菓子なんかを出しても面白くないと誰かが言い出し、丁々発止の後に、和風甘味処に落ち着いたのである。
 出すものは、緑茶を中心とした日本茶、ヨウカンやまんじゅうを中心とした和風のお菓子である。誰かがお茶を点てて、本格的な和菓子を出そうと言い出したのだが、そもそもそれを用意する資金がないとして、却下された。
 出すものが決まると、今度は教室の内装について議論が行われた。そのままの教室では当然見栄えは悪いし、興ざめする。そこで、和紙とまでいかなくとも、画用紙などを使って教室を飾ろうということになった。その指揮を執ったのは美術部員で、自分の部活の展示があるにも関わらずの、全面協力となった。
 そのため、多くの者が放課後居残り、その準備に追われていた。
 最後に問題となったのが、いわゆるウェイター、ウェイトレスの格好だった。なにもしなければ制服でとなるのだが、それはないだろうと、なにか別の格好をすべきとなった。
 どんな格好をするのかという問題自体は、比較的簡単に解決した。和風甘味処なのだから、和服であるべきだ、ということになったのだ。だが、問題はその先にあった。今の世の中、和服を持っている家などそれほど多くない。その和服をどのように調達するのか。そして、それを着るのは誰かということが、最後の問題となった。
 結局、前者については貸衣装で、後者については厳正なるくじ引きによって決まった。
 そのようなことを経て、三年一組の一高祭への準備は着々と進んでいた。
 
 十一月四日。一高祭前夜祭。
 例年通り、授業は午前中までで、午後はすべて準備のために割り当てられた。
 校舎だけでなく、講堂や体育館、校門などでも準備が行われている。
 圭太は、直接甘味処には関わらないのだが、それでも準備は手伝っていた。それは柚紀や凛も同じである。
 必要な数の机と椅子だけを教室に残し、あとは使わない教室へ移動。
 窓や壁にはそれまでに作ってきた飾りをつけ、少しずつ甘味処へと変えていく。
 食べるものは当日だが、皿や湯飲みなどは準備する。
 準備自体は、かなりの人数で一気にやったおかげか、それほど時間もかからずに終わった。
 あとは、前夜祭に出るなり帰るなり、自由である。
 そんな中、圭太は柚紀と凛と一緒にいた。
「なんか、直接関わらない一高祭というのも、不思議な感じよね」
「確かにね。去年までは、明日からどうしよう、なんて考えてたけど、今年は全然だし」
「そんなに部活の方って忙しかったの?」
 去年のことを知らない凛は、圭太に訊ねた。
「そうだね。うちの部は忙しい部類に入ってたと思うよ」
「圭太なんて、黒服着てずっとウェイターやってたから。だから、余裕なんて全然なかったし」
「そうなんだ。あたしも見てみたかったなぁ、けーちゃんの黒服姿」
「写真だけなら持ってるけど、見たい?」
「見たいに決まってるでしょ。けーちゃんはなにを着ても似合うけど、そういう格好したらいつも以上にカッコイイに決まってるから」
 力説する凛に、圭太は苦笑するしかない。
「そこまで言うなら、まあ、持ってきてあげるわ。十分、感謝しなさいね」
「……そんな風に言われると、感謝したくなくなるわ」
「あら、いいの?」
「まあ、今回はあたしの方が譲ってあげるわ」
 そう言って凛は、肩をすくめた。
「あ、そういえば、圭太。今年は前夜祭はどうするの?」
「ああ、そのことか。実はね、すでに実行委員会からは体育館に出頭するように言われてるんだ」
「そうなの?」
「去年一位で、今年が圏外なんてことはあり得ないからって」
「確かに、それはそうかも。あ、じゃあ、このあと体育館に行くんだ」
「うん。最後の一高祭だからね」
 去年の一高祭前夜祭。圭太はミスター一高というミスコンの男子版で、見事一位となった。当然今年も行われ、圭太はミスター一高の最右翼となっていた。
 そのこと自体は柚紀も凛も知っていたのだが、まさかすでに実行委員会から呼び出されていたとは知らなかった。
「でも、まだ時間はあるでしょ? それまではどうするつもりなの?」
「特に決めてないよ。というか、クラスの方がこんなに早く終わるとは思ってなかったから」
「ああ、なるほど。それはあるわね」
「だから、別にどこに行きたいとか、なにをしたいとかいうのはないよ」
「音楽室には顔を出さなくてもいいの?」
「前日は特に必要はないかな。当日は出すけど」
「そうなんだ。あたしはてっきり、前日にも顔を出すのかと思ってた」
「ああ、別にこうしなくちゃいけないという決まりはないよ」
 一応圭太がフォローする。
「でも、変なところにはいられないし、そうなると、音楽室に顔を出すのもいいんじゃないの?」
 確かに、普段よりも出入りできるところが限られているので、自然と選択肢は少なくなる。
「う〜ん、それじゃあ、ちょっとだけ音楽室に行ってみようか」
 三人は音楽室へと向かった。
 例年通りなら、このくらいの時間になると、準備の方はだいたい済み、それほど残ってはいない時間である。
 圭太としては、準備の邪魔だけはしたくなかったので多少渋ったのだが、時間も時間だったので最終的にはそうしたのである。
 音楽室は、ドアが開けっ放しだった。
「まだ終わってないのかな?」
 それにしてはあまり部員の姿がない。
 音楽室へ入ると、紗絵をはじめとした何人かがピアノのまわりで話をしていた。
「もう準備は終わったのかい?」
「あ、先輩」
 圭太の姿を見つけるや否や、わっと声が上がる。
 部活を引退してまだ六日しか経っていないのだが、その反応は本当にしばらく会っていなかったかのような反応だった。
「はい。準備の方は終わりました。あとは、最終確認をしてここを閉めれば終わりです」
「そっか。じゃあ、タイミングとしては悪くはなかったわけだ」
 とりあえず邪魔にはならないとわかり、圭太はホッと息をついた。
「先輩は、どうして音楽室へ?」
「ん、前夜祭まで時間をつぶせる場所を探しててね」
「前夜祭って、今年もミスター一高のためですか?」
「まあ、そういうことになっちゃって」
「そういうことなら、時間までここを使ってもらって構いませんよ。私たち以外は、もうほとんど帰りましたから」
「それなら、少しだけいさせてもらおうかな」
 圭太たちは、紗絵に勧められるまま、準備してあった椅子に座った。
「そういえば、琴絵はもう帰ったのかい?」
「いえ、まだいますよ。今は先生のところに行ってるだけです。そろそろ戻ってくると思いますけど」
 と、ちょうどその時、琴絵が戻ってきた。
「あれ、お兄ちゃん」
 圭太の姿を見つけ、嬉しそうに寄ってくる。
「どうしたの?」
「ちょっと時間つぶしにね」
「時間つぶし?」
 圭太は、琴絵にも説明する。
「そっか。なるほどね。でも、ミスター一高って、そんなにすごいの?」
「すごいかすごくないかで言えば、正直微妙かもしれないわね」
「そうなんですか?」
「やってるのが前夜祭というのもあって、なんとなく一部の人たちだけの楽しみになってるから。それでも、ミスター一高を選ぶために投票してる女子はかなりいるって話だから、学校全体としてはそれなりの盛り上がりがあるかも」
「なるほどぉ」
 一年である琴絵は、前夜祭のことはさすがに知らない。
 柚紀の説明にしきりに頷いている。
「じゃあ、お兄ちゃんが今年もミスター一高に選ばれたら、柚紀さんも鼻が高いですね」
「ある意味ではね。そりゃ、学校で一番カッコイイ男子が彼氏なわけだからね。でも、それはつまり、圭太がそれだけ注目されてるってことだから、彼女としては多少心配でもあるんだよね」
「嬉しさ半分、戸惑い半分、という感じですか?」
「そうかも」
 すべてを満たすような選択肢はそうそうない。
 柚紀は、去年のことでそれを十分理解していた。
「琴絵ちゃんは投票したの?」
「私ですか? 友達がなんか言ってたのは覚えてたんですけど、そのままにしてたら忘れてしまいました」
「じゃあ、圭太に投票してないんだ」
「柚紀さんは、投票したんですか?」
「もちろん、と言いたいところだけど、今年はしなかったんだ」
「どうしてですか?」
「彼女の私が圭太に投票しても、あまり意味はないかなって思って。そりゃ、純粋にカッコイイ男子を選ぶだけだから、そこまで考える必要はないのかもしれないけどね」
「でも、なんとなく柚紀さんの気持ちもわかります。私も、妹として投票しても、あまり意味はないと思いますから」
「それはつまり、彼女でも妹でもなく、ひとりの女子生徒として投票するなら意味があるってこと?」
「ま、そうなるわね」
「うん」
 投票行為自体は同じなのだが、胸中はなかなか複雑である。
「凛は?」
「あたし? あたしはけーちゃんに投票したわよ。けーちゃん以外に考えられないし」
「じゃあ、少なくとも一票は入ってるってことよね」
 柚紀は、冗談めかしてそう言う。
 しばらくの間、音楽室で時間をつぶし、実行委員会に言われた時間の少し前に、体育館へ移動した。
 ちなみに、紗絵たちも一緒である。
 体育館では、有志によるバンド演奏が行われていた。
 女子の数が多いのは、このあとにミスター一高が発表されるからかもしれない。
 圭太は柚紀たちを残し、ステージ袖にある実行委員会の控え所に向かった。
 控え所では、ステージで行われているバンド演奏の撮影や、これからの手順などを確認していた。
 圭太が姿を見せると、すぐに実行委員が近づいてきた。
 そこで簡単な説明を受け、あとは時間まで待つ。
 一方、表の方では、柚紀たちがあれこれと話をしていた。
「そういえば、後夜祭ではミス一高を決めるのよね?」
「そうよ。実行委員が宣伝してたでしょ?」
「それに去年、柚紀が選ばれたって聞いたんだけど」
「まあ、選ばれたは選ばれたけど、残念ながら一位じゃなかったのよ」
「そうなの?」
「私は二位。一位は、祥子先輩」
「……ああ、あの先輩か。なるほど」
 凛は、妙に納得していた。
「確かに、相対的に見たら柚紀よりも先輩の方が男の人は好きかもね」
「そんなの、あんたに言われなくてもわかってるわよ」
「でも、今年は先輩がいないわけだから、柚紀が一位になれるんじゃないの?」
「ところが、そこまで甘くないのよ」
 柚紀は、そう言ってため息をついた。
「去年、ミスター一高とミス一高で過去になかったことがふたつあったの。それがなにかわかる?」
「さあ?」
「ひとつは、ミスター一高で二年生だった圭太が一位になったこと。今まではベスト5に入ることはあっても、一位になったことはなかったからね」
「なるほど。で、もうひとつは?」
「もうひとつは、ミス一高の四位に一年生が選ばれたこと」
「それって、すごいことなの?」
「そりゃそうよ。一年は一高祭まで半年ちょっとしか経ってないのよ。それなのに、それだけ多くの人から認められてるわけだから。だから、去年までも十位以内には入ったことはあっても、五位以内というのはなかったわけ」
「ふ〜ん……でも、それと柚紀が一位になれるかわからないことと、どう関係があるの?」
「その去年四位になったのは、詩織なのよ」
「えっ……?」
 と、凛は紗絵たちと話をしている詩織を見た。
「わかるでしょ、私がなにを言いたいか」
「わかる。あの子、先輩と同じ感じなのよね。男の人が好きそうな感じ」
「そう。で、詩織も圭太に愛されてるから、去年よりも確実に綺麗になってるし」
「なるほどねぇ。そういうことがあるなら、確かに柚紀も必ずしも一位になれるとは限らないわね」
「まあね。ただ、私としてはミス一高は正直言えばどうでもいいの」
「そうなの?」
「それよりも問題なのは、一高ベストカップルの方よ」
「そういえば、そんなのもあったわね」
「去年、私と圭太は一位に選ばれたんだけど、今年もそうだとは限らないから。去年だって、二位は圭太と祥子先輩だったし」
「可能性として、けーちゃんとあの子ってこともあるわけか」
「そうなの。正真正銘の彼女の立場としては、圭太がノミネートされたなら、確実にそれに選ばれないといけないし」
「難しいわね」
 ベストカップルは実際につきあってるかどうかは関係なく、あくまでもこの人とこの人があってるんじゃないかというのを決めるものである。だから、柚紀であっても必ずしも一位になれるとは限らない。
「ただね、私としては詩織に負けるよりも悔しいことがあるのよ」
「まだなにかあるわけ?」
「あるわよ。それは、あんたに負けること」
「は? あたし?」
「ライバルであるあんたを必要以上に言いたくはないけど、少なくとも同性の私から見ても、あんたは男の人の目を引くからね。背も高いし、水泳部でも結構名前が知れ渡ったし。そうすると、ベストカップルは別としても、ミス一高にノミネートされる可能性は高いかなって。一位になれなくても、あんたに負けるのだけはイヤ」
「う〜ん、その気持ちはよくわかるけど、ホントにあたしがノミネートされるかどうか、わからないし」
「だから、もしあんたがノミネートされたら、ってこと。されなきゃされないでいいの。むしろ、その方が心穏やかに過ごせるもの」
「まあ、あたしはどっちでもいいけどね」
 そうこうしているうちに、人の数が増え、バンド演奏も終わった。
 照明が落とされ、代わりにスポットライトがステージに当てられた。
『レディース・エンド・ジェントルメンっ! 大変お待たせしました。これより、一高祭前夜祭名物、ミスター一高の結果発表を行いたいと思いますっ!』
 去年と同じように、ハチマキにはっぴ姿の実行委員が司会を務める。
『まずはルールの確認です。本日の正午まで実行委員会本部に設置してあった投票箱に投票された票と、先ほど行いましたこちらでの投票をあわせ、その結果でミスター一高を選ぶというものです。投票はすべて終わり、開票もすでに終了しています』
 そう言って一枚の紙を取り出した。
『ここに、今年のミスター一高の結果が記してあります。私もまだ見ていませんが、特に女子のみなさんは興味のある結果だと思います。なんといっても、ここに記されているのはこの一高で十本の指に入るイケメンなわけですから』
 盛り上げ方も実に堂に入っており、それだけを練習していたのではと思えるほどだ。
『少々時間も圧していますから、早速十位から四位まで発表しましょう』
 黄色い歓声が上がり、早速発表がはじまった。
 名前が読み上げられる度に、どよめきと歓声が沸き起こる。
 やはり、強いのは三年で、その大半を占めていた。
『いよいよ上位三人の発表です。上位三人の方には、すでにステージ裏に来ていただいてます。あなたが投票した男子は、いますでしょうか』
 ざわめきも次第に大きくなってくる。
『まずは、三位。三位は、三年四組の──』
 上位も、やはり三年が強い。
『続きまして、二位。二位の準ミスター一高は、三年六組の──』
 またも三年。そして、圭太は呼ばれず。
『みなさん、大変長らくお待たせしました。これから、栄えある今年のミスター一高を発表したいと思います。今年のミスター一高は……三年一組、高城圭太くんですっ!』
 同時に、今までで一番大きな黄色い歓声が上がった。
『高城圭太くん、ステージ中央へ』
 委員に促され、圭太はステージへ出てきた。
 同時に、ものすごい数のフラッシュが焚かれた。
『さて、高城くんへの投票結果ですが、なんと、去年の自らの記録を塗り替え、ミスター一高はじまって以来の得票率でダントツの一位ということです。一年、二年、三年の全学年からまんべんなく票を集め、その結果としてこれまたミスター一高史上初の二年連続一位となりました。高城くん、率直な感想をまずは』
『そうですね、まずは僕を選んでくれたすべての人に感謝したいと思います。選ばれた理由はどうあれ、選ばれたこと自体はとても嬉しいですから』
『なるほど。高城くんは、去年もミスター一高に選ばれたわけですが、その後の反響などはどうでしたか?』
『直後はいろいろありましたけど、それ以外は普通に過ごせました』
『それはやはり、去年のこの場でした『彼女います宣言』があったからですかね?』
『そうかもしれませんね』
『それにしても、今年は圧勝だったわけですが、ご自身としてはどうしてそこまで支持されたと考えていますか?』
『さあ、それはわかりません。きっと、投票してくれた人の中に、ほんのわずかでも僕の印象が残っていたんだと思います』
 圭太は、当たり障りのない答えで、お茶を濁す。
『なるほど、ありがとうございます。残りの一高生活でまたいろいろとアタックを受けるかもしれませんけど、それもがんばってください』
 司会は、実に無責任なことを言って締めくくった。
『では最後に。今年もまた、去年に引き続き後夜祭でミス一高と一高ベストカップルを決めます。対象は、一高在籍中の全生徒です。どちらの投票も一高祭二日目、午後三時締め切りとなっています。そちらの方も、よろしくお願いします』
 深々とお辞儀する。
『それでは、本年度のミスター一高が高城圭太くんに決まったところで、ミスター一高は終了させていただきます。前夜祭ステージは、引き続き有志によるバンド演奏となります。よろしければそちらもお聞きください。ありがとうございました』
 盛大な拍手とともに、ミスター一高は終わった。
 
 その帰り道。
 凛と詩織はすでに途中の分かれ道で帰ってしまい、いつものメンバーだけが残っていた。
「ホント、お兄ちゃんの人気ってすごいんだね。私、びっくりしちゃった」
 琴絵は、未だ興奮冷めやらずという感じである。
「別に僕がどうこうというわけではないんだけど。言うなれば、勝手に選ばれてるだけなんだし」
「そうかもしれないけど、妹としてはすっごく嬉しいよ。私のお兄ちゃんは、学校で一番カッコイイお兄ちゃんなんだって思えるから」
「琴絵ちゃんの場合は、むしろあれでしょ。いつも思ってることをみんなも認めてくれたから、それが嬉しいんでしょ?」
「ん〜、そうかもしれません」
 柚紀の言葉に、素直に頷く。
「だって、お兄ちゃんは誰が見たってカッコイイと言うはずですよ。たとえみんなそう思ってくれてても、それを確かめる方法ってそうないじゃないですか。だから、今回みたいな方法ででもそれがわかって、嬉しいんです」
 琴絵にとっては、とにかくそれが大事なのである。
 それこそ、世界で一番に選ばれたとしても、琴絵なら当然だと考えるだろう。
「ホント、琴絵ちゃんの圭兄に対する想いはすごいね。私も負けてないと思うけど、そこまでのことはあまり考えてなかったからなぁ」
「琴絵のは特別だからよ。ごく普通の兄妹だったら、そこまでのことはあり得ないもの。それは朱美だって見ててわかってるでしょ?」
「まあね。ただ、そのあたりをさらっと考えられるところが、私と琴絵ちゃんの違いなのかなって思って」
「ん〜、それはどうなんだろ。別にどっちがいいってわけじゃないし。私は特に琴絵を羨ましいとは思ってないから」
「ようするに、人それぞれってことか」
 朱美は、わかってるのかわかってないのか、とりあえず頷いた。
「そういえば、紗絵」
「あ、はい」
「アンコンの方はどんな感じだい?」
「順調だと思います。木管もサックスも金管も、ちゃんと練習してますし。来週の本番までには、きっちり仕上がるはずです」
「そっか。じゃあ、その仕上がり具合を明日か明後日には確認できるかな」
「はい。是非聞いて、その上で奇譚のない意見を言ってください」
「了解」
 圭太としては、一高祭もだがその直後にあるアンサンブルコンテストも気になっていたのである。あれこれと気にしてしまうところは、圭太らしいと言えた。
「今年の一高祭は、どんな感じになるのかな?」
 
 十一月五日。一高祭一日目。
 一高祭初日は、朝からとてもいい天気だった。十一月になったとは思えないほどの暖かな日和で、日中は上着もいらないほどだった。
 午前中のうちに開会式が行われ、いよいよ午後から本番である。
 圭太たち三年一組も、すっかり準備が整い、あとはお客が来るのを待つだけになっていた。
 圭太と柚紀はどの役割も与えられていないのだが、さすがに最初からほかに行こうとは思っていなかった。
「それにしても、あの短期間でよくここまでやれたわよね、ホントに」
 柚紀は、すっかり趣の変わった教室を見回し、感心したように言う。
「でも、それはどこのクラスも部活も同じだから。うちだけ特別ってわけじゃないよ」
「そうなんだけどね。たださ、うちのクラスって、かなりギリギリまですべてが決まらなかったじゃない。それなのに、ちゃんと間に合わせちゃうんだから、すごいと思って」
「それだけ気合いが入ってるってことかもね。最後だし」
「うん、そうだね」
 ちらほらと廊下にも人が来はじめ、教室内は俄然やる気モードである。
 和服姿の女子が、廊下で呼び込みをし、少しずつ教室にも客が入ってきた。
 圭太と柚紀は、それを邪魔にならない場所から見ている。
 もっとも、圭太はウェイター、ウェイトレスの所作を気にしているようだ。それもそのはずで、圭太は家が喫茶店ということもあって、そのあたりの指導を少しだけではあるが、任されたのである。
 形式張る必要はまったくないのだが、仮にも自分が教えたことが少しでも役に立っているかと、気にしているのである。
 とりあえず無難にこなしている姿を見て、圭太はひと安心という感じだった。
「さて、圭太。そろそろ行こうか」
「そうだね」
 いつまでも教室にいても意味がないので、ふたりは教室を出た。
「どこから行く?」
 手には、実行委員会が作成した校舎内の見取り図がある。そこに、どこでなにをやっているのか書かれているのである。
 ちなみに、校舎一階はほとんどなにもない。もともとそういう教室も少ないこともあるが、一階でそういうことをしてしまうと、上の階に影響が出るからという配慮もあってのことだった。
「下から順番にまわるのがいいんじゃないかな」
「そうね。そうしよっか」
 廊下にも階段にも、あちこちに出し物の宣伝がしてある。
 色とりどりの紙やペンを使い、とても華やかな雰囲気を醸し出している。
 そういうのを見るだけで、文化祭なんだと認識できる。
 二階は主に一年の教室がある。ただ、一年から積極的にクラスで動くところはあまりなく、教室の大半は有志による出し物のために使われていた。
 教室で行う出し物は、主にふたつに分類される。
 ひとつは、圭太たち三年一組や吹奏楽部のような、飲食物を扱うもの。これは、もはや定番中の定番で、だからといってなかなか消えない伝統でもあった。
 もうひとつは、自分たちの作品や研究成果を発表、展示するもの。これは主に、部活単位での参加が多いのだが、中には有志でそれを行っているところもある。
 もちろん、中にはそのどちらにも属さない特殊なところもあるのだが、それは割合からいえばかなり低い。
「去年までは、一高祭と言ったら音楽室に缶詰だったから、外がどうなってたか、ほとんど知らないんだよね」
「圭太は特にそうだったからね。一年の時にともみ先輩に黒服を着させられて、あとはずっとウェイターとして働いて。気付いたらもう終わってた、みたいな感じだったし」
「それ自体をどうこう言うつもりはないんだけど、できればもう少しだけ自由な時間がほしかったかな。去年や一昨年だって、面白いなにかはあっただろうし」
「そうだね。私も、圭太と一緒に見てまわりたかったなぁ」
「まあでも、そういうことを今更言ってもしょうがないから。せっかく今年はなににも縛られないで見られるわけだから、それを存分に楽しまないと」
「うん」
 廊下を進んでいくと、とてもいい匂いが漂っていた。
「この甘い匂いは、綿アメだね」
「あの教室だね。駄菓子を扱ってるみたい」
 教室に入ると、あの縁日でよく見かける綿アメを作る機械が鎮座していた。
 そのまわりには様々な駄菓子が並び、文化祭というよりは縁日に来た感じになる。
「なにか買う?」
「そうだなぁ、ここはやっぱり、綿アメかな」
 というわけで、柚紀はここのメインであろう、綿アメを買った。
 その綿アメもなかなかの出来映えで、それなりに練習していたであろうことが、すぐにわかった。
 その後、二階を見て、三階へ移動。
 三階は二年の教室があるのだが、ここはクラスと有志とほぼ半々の内容だった。
 その中に、とても変わったものがあった。
「神社?」
「だね」
 教室の入り口に赤い鳥居が設けられ、中には張りぼてではあるが、神社本殿らしきものまであった。
 一応賽銭箱があり、その隣には神主と巫女の装束に身を包んだこのクラスの生徒がいた。
 さらにいえば、絵馬や破魔矢、お守り、おみくじもあり、見た目だけは確かに神社という感じになっていた。
「ここって、なんの御利益があるの?」
「なんでもです」
「なんでも?」
「そうです。願い、かなえたいと思ったことはなんでもです」
 実に重々しく言う神主だが、その衣装があまり似合っていないせいか、説得力がない。
「そういうことなら、お参りしようか」
 圭太は、どこが気に入ったのか、嬉々とした表情でお賽銭を入れた。
 神社ということで、きちんと神道形式のお参りをする。
「柚紀はいいの?」
「私は遠慮しておくわ」
 柚紀の反応が普通だろう。さすがにここまでやられると、逆にあやしく感じてしまう。
「じゃあ、おみくじくらいは引いていく?」
「そうね。それくらいなら」
「おみくじですか? どうぞどうぞ」
 待ってましたとばかりに、巫女がおみくじを手に、ふたりの前に差し出してくる。
「……なに、これ?」
「普通のおみくじは全体運、金運、健康運、勉強運、恋愛運などが一緒になってるじゃないですか。でも、そうするとひとつひとつの内容が少なくなるわけです。そこで、私たちはその問題点を解消すべく、このそれぞれのおみくじを作ったんです」
 箱には『全体運』『金運』『健康運』『勉強運』『恋愛運』と書かれており、その中におみくじが入っていた。
「本当ならひとつ五十円なんですけど、ここは特別にふたつで百円にしますから」
「変わってないわよ」
 柚紀は、冷静に突っ込む。
「とまあ、冗談はさておき、おふたりには特別に、ひとつだけ、タダで引いていただいて結構ですから」
「いいの?」
「ええ、もちろんです。なんといっても、はじめてのお客様ですから」
 ニコニコとそう言うが、微妙に淋しい理由だった。
「そういうことなら、私は……これ」
 柚紀が引いたのは、恋愛運のおみくじだった。
「じゃあ、僕は……これ」
 圭太が引いたのは、全体運のおみくじだった。
「ちなみに、そのおみくじはお持ちいただいても、そこの紐に結んでもらっても構いませんので」
 よく見ると、神社の境内のように、紐が張られ、そこにおみくじを結べるようになっていた。
「どれどれ……」
 早速中を確認すると──
「中吉ね。えっと……現在停滞中のあなたには、これから大きな転機が訪れるでしょう。その時にあなたが道を間違わなければ、それは必ず良い道へと繋がるはずです。ラッキーカラーは白。ラッキーアイテムは帽子」
 書かれていること自体は、とてもまともだった。これを高校二年の彼らが作ったとは思えないほどである。
「ふ〜ん、なんか、思ってたよりもまともかも。圭太はどうだった?」
「僕のは吉だね。中身は……思わぬところに落とし穴が待っています。あなたはそれが落とし穴だと気付かない可能性もあります。気付かなければ、最後まで気付かないままであれば吉。もし気付いてしまったなら、早めに対処するべきです。それを良い方向へ導けたなら、必ずやあなたの運気は上向くことでしょう。ラッキーカラーは青。ラッキーアイテムは携帯電話」
「微妙に堂に入ってるから、反応に困るわね」
「でも、せっかくだから、このおみくじ通りに注意してみるよ」
 ふたりは、そのおみくじを結ばずに教室を出た。
「それにしても、変わったことを考える連中もいるのね」
「たぶん、占いの延長線にあるんだと思うよ」
「ああ、なるほど。占いの部屋みたいなのは、定番の部類に入るものね」
「その定番をやりたくないと思ったのか、ただ単に変わったことがしたかったのかは、わからないけどね」
「私はたぶん、後者だと思うわ」
 そう言って柚紀は笑った。
 それから三階の残りを見て、四階へ。
 四階は圭太たち三年のクラスがあるほか、音楽室もある。
「やっぱり、音楽室は最後?」
「あまり邪魔もしたくないからね。僕たちが行くと、どうしても邪魔になるし」
「まあね」
 そういうつもりはまったくなくとも、知ってる者が来るとどうしてもそれに対応してしまう。そうすると、ほかがおそろかになりがちで、結果的に邪魔だったということもある。
 それをよく知ってる圭太だからこそ、あまり積極的には行こうと思っていないのである。
 だが、圭太の思惑とは別に、部員の大半は圭太に来てもらいたいと思っていた。だから、たまたま音楽室の外で呼び込みをしていた朱美がふたりを見つけた時は、すぐさま寄ってきた。
「圭兄、来てくれたの?」
 朱美たちフルートは、合宿のパーティーで最下位になったために、一高祭では奴隷のごとくありとあらゆる仕事をしなければならなかった。
 そのひとつが、この呼び込みである。
「いや、そうじゃないよ。ただ通っただけ」
「ええーっ、そうなの? つまんないなぁ」
 朱美は、あからさまに落胆した。
「心配しなくても、あとでちゃんと行くから」
「絶対だよ?」
 朱美に何度も念を押され、ふたりはいったんその場を離れた。
「ホント、朱美ちゃんてカワイイわね」
「ん?」
「すごく一生懸命だからかな、余計にそう思えるのは」
 柚紀は、しみじみとそう言う。
「知ってる? 朱美ちゃんね、圭太の前じゃなければ、かなりしっかりしてるんだよ。本人も意識してそうしてるみたいだけど」
「そうなんだ」
「圭太の前では目一杯甘えて、でも、それ以外ではちゃんと成長して。すごく健気だよね、そういうところ」
「それはもうわかってるよ」
「そうなの?」
「僕だって、伊達に何年も朱美の従兄をやってるわけじゃないからね」
「そっか」
 圭太と朱美の関係は、それこそ妹である琴絵を除けば、誰よりも長い。当然、柚紀も知らないようなことも知っている。
 それはお互いにそうで、ずっともうひとりの妹のように朱美を可愛がっていた圭太にとっては、朱美が健気で一生懸命なことはだいぶ昔から知っていたことだった。
「だから放っておけないんだ」
「それは私もわかる気がする。朱美ちゃんて、ホント、放っておけないんだよね。人柄だよね、そういうのって」
「そうだね」
「でも、それが行きすぎて、圭太は朱美ちゃんにまで手を出しちゃったわけだけどね」
「面目ない」
 圭太と朱美の関係は、いとこという関係よりも近すぎたために、朱美は圭太を好きになり、結果的に関係を保ってしまったのである。
「ね、圭太。うちのクラスに行かない?」
「それはいいけど、どうして?」
「なんとなく」
 で、ふたりは三年一組へと戻ってきた。
 和風甘味処は、なかなかに盛況だった。
「あれ、柚紀。どうしたの? ふたりでまわるんじゃなかったの?」
「ん、まわってきたよ。で、戻ってきたの」
「そうなんだ」
 クラスメイトにそう言って教室の中へ。
 教室のふたつあるドアのうちひとつは甘味処の入り口となっているのだが、もうひとつは一組の生徒が出入りするための入り口となっていた。
 その中には、お茶やお菓子、食器が並べられ、ようは厨房になっていた。
 ついでに言えば、そこのとても狭いスペースが休憩場所でもあった。
「で、どうしてここへ?」
「なんとなくじゃダメ?」
「柚紀がそういう理由で動くことは、ほとんどないからね。さすがに信じられない」
「ダメか。ま、別にいっか」
 柚紀は椅子を引っ張り、そこに座った。
「この階であまり動いてると、部の後輩たちに遭遇しそうだったから」
「それは柚紀にとって不都合なことなの?」
「基本的にはそんなことないんだけどね。ただ、さっきの朱美ちゃんみたいに、とにかく圭太と話したい、一緒にいたいと思ってる面々とはできれば鉢合わせたくなかったの」
「なるほど、そういうことか」
 理由を聞き、圭太は納得した。実に柚紀らしい理由だった。
「むぅ、また嫉妬深いとか、そんなこと思ってるでしょ?」
「思ってないよ。ただ、柚紀らしいと思っただけ」
「なんか納得いかないなぁ」
「でも、呼び込みをやってる朱美以外には、そうそう会わないと思うよ」
「私もそうは思うんだけどね。ただ、念には念を入れってことで」
 それでクラスの休憩場所を占拠しているわけだから、いい迷惑である。
 もっとも、そんなふたりの、というよりは柚紀の性格はクラスメイトもだいぶ理解しているので、あえてそれに口を出す者はいなかった。
 
 もう新たに誰かがやって来ることはないであろう時間に、圭太と柚紀は教室を出た。
 校舎内も少し賑やかさが欠け、なんとなく淋しい感じがする。
 ふたりは、音楽室へ向かった。
 音楽室もほとんど客はおらず、そろそろ今日の店じまいの雰囲気になっていた。
「あ、先輩」
 ふたりが来たのがわかると、人が集まってくる。
「どうだい、今日の調子は?」
「ん〜、ぼちぼちですかね。さすがに去年の売り上げには届きません」
 そう言うのは、入り口で会計を任されている遥である。
「それでも、そこそこ入ってますから、まだいい方だと思います」
「そっか」
 それから少しして、一日目終了の放送が流れた。
 もともと一日目はそれほど人出があるわけでもなく、ある意味ではウォームアップ的な一日なので、それほど疲れた様子はない。
 ふたりは、片付けの邪魔にならない後ろの席に座っていた。
「先輩、どうぞ」
 と、紗絵がふたりのために飲み物を持ってきた。
「いいの?」
「中途半端に余ってしまったものなんです。さすがに明日に取っておくわけにもいきませんから」
「そういうことなら」
 ふたりは、後輩の厚意に素直に甘えた。
「先輩」
「ん?」
「やっぱり去年の先輩の影響は大きかったです。去年は一日目から先輩目当ての人が大勢来ましたけど、今年はその分が減ってしまいましたから」
「でも、去年がイレギュラーだったわけだから、その前の年くらいなら、問題はないはずだよ」
「ええ。たぶん、それくらいにはなってると思います。詳しくは集計してみないとわかりませんけど」
「遥もそう言ってたから、一日目としては上々だと思うよ」
 一日目である程度の売り上げがあれば、二日目はさらに上積みできる。さすがに二日目が一日目よりも少ないことはないからである。
「紗絵ちゃんとしては、圭太の影響が大きいというのもあるけど、本音は圭太のあの姿が見られなくて、残念なんでしょ?」
「えっと、まあ、それもあります」
 紗絵は、少しだけ躊躇いがちに頷いた。
「みんな言ってますから。去年の圭太先輩の姿を見られただけで、満足だったって」
「その気持ちは、よくわかるわ。圭太はどんな格好しても似合うけど、ああいう格好だと反則ってくらいに似合うからね。惚れてる人は惚れ直し、そうじゃなかった人は惚れちゃう」
「ふふっ、そうですね」
 ふたりはそう言って笑う。
「そうだ。ひとつだけ確認しておこうと思ったんだ」
「なんですか?」
「今日のアンサンブルはどうだった?」
「それなりですね。全国大会から間があまりなかったせいで、少し練習不足でしたから、どこもそれなりの出来でした。もちろん、アンコン参加メンバーは大丈夫でしたけど」
「まあ、それはしょうがないか。去年みたいに全国から一高祭まで時間があったわけじゃないし」
 圭太としては、やはり音楽の方が気になるようである。
「先輩たちは、明日はどうするんですか?」
「普通に来て、ぐるっとまわって、そのあとここへ来るつもりだけど」
「何時くらいになりそうですか?」
 圭太と柚紀は、顔を見合わせた。
「明日だけの出し物って、なんかあったっけ?」
「あるにはあるけど、数は多くないね。明日だけというなら、むしろ外や体育館の方があるくらい」
「そっちもある程度は見たいから……早くてもお昼くらいじゃないかな」
「うん、そうだね。それくらいになると思う」
「お昼くらいですね。わかりました。それくらいの時間に、アンサンブルをやるように時間を調整します」
「別にそこまでしなくてもいいんだよ」
「いえ、先輩には今の状況を聞いてもらって、奇譚のない意見を述べていただかないと」
「……まあ、そういうことならしょうがないけど」
 圭太は、紗絵の迫力に圧され、苦笑しつつ頷いた。
「紗絵〜、ちょっと来て〜」
「あ、うん。すみません、少し行ってきます」
 紗絵は、パタパタと向こうへ行ってしまった。
「やっぱり、優秀な先輩のあとだからか、紗絵ちゃん、ものすごく張り切ってるね」
「それが空回りしなければいいんだけど」
「そのあたりは、優しい先輩が暖かく見守るんでしょ?」
「さあ、それはどうかな?」
 そう言って圭太は笑った。
 順調に片づけも終わり、音楽室を閉める時間となった。
 圭太と柚紀はその時間まで残っている必要はなかったのだが、なんとなくでその時間までいた。
 で、いつものメンバーと一緒に家路に就いた。
「はあ、明日もコスプレして宣伝部隊かぁ」
 ため息をついているのは、朱美である。
「それはしょうがないでしょ? フルートは合宿で負けたんだから」
「わかってるんだけどね、それは。ただ、それだけで一高祭が終わっちゃうのも、なんか虚しいなって思って」
「それが伝統なんだから、あきらめなさいって。負けた先輩たちだって、同じことをやってきたんだから」
「まあね」
「朱美ちゃんは、明日はどんな格好で宣伝するの?」
「明日は、メイド服」
「メイド服かぁ。あれ、結構カワイイから着てみたいんだよなぁ」
「じゃあ、琴絵ちゃんも一緒にやる?」
「それはやらない。ただ着てみたいだけだから」
「……あっそ」
 琴絵の素っ気ない答えに、朱美はため息をつくしかなかった。
 
 十一月六日。一高祭二日目。
 一高祭二日目も、前日同様とてもよく晴れていた。天気予報では気温も結構上がるということで、冷たい飲み物を出すところでは売り上げアップが期待できた。
 圭太は、いつもより少し遅めに家を出た。
 準備のある琴絵と朱美は、すでに学校へ行っている。
 二日目は九時半からはじまるのだが、なにかない限りはその時間に必ずしも行く必要はない。だからというわけではないが、圭太は少しゆっくり行くことを柚紀に提案し、柚紀もそれを了承した。
 そんなわけで、久しぶりにひとりでバスを待つことになった。
 見上げれば澄んだ青空。風も穏やかで、本当に文化祭日和である。
 こういう日は、どこか陽当たりのいい場所で、のんびりとしたくなる。
 圭太もそうは思っているのだが、実際にそうしないところが圭太の真面目なところである。
 少しして、バスが到着した。
「おはよ、圭太」
「おはよう、柚紀」
 柚紀は、すぐさま圭太と腕を組む。
「どうしたの?」
「なんかね、今日はずっと圭太の側にいたくて。だから、とりあえず腕を組んでみたの」
「そっか」
「イヤだった?」
「そんなことないよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 学校に着くと、校門のあたりでは様々な格好をした呼び込みの面々が声を上げていた。
 その中には、罰ゲームによってコスプレしながら宣伝している吹奏楽部員の姿もある。というか、ひとりは朱美で、もうひとりは一年の優希だった。
 朱美はメイド服で、優希はナース服を着ていた。
「なかなか似合ってるじゃないか、ふたりとも」
「あ、圭兄」
「おはようございます、先輩」
「おはよう」
「似合ってると言われるのは嬉しいけど、素直には喜べないなぁ」
 朱美は自分の格好を見下ろし、ため息をついた。
「出ずっぱりというわけじゃないんだから、がんばらないと」
「わかってるよ。ちょっと愚痴ってみただけ」
「人の入り自体はどんな感じなの?」
「そうですね、悪くはないと思いますよ。天気もいいから、出足好調という感じです」
「じゃあ、ますますふたりはがんばらないと。うちの部は場所が遠いから、しっかり宣伝して来てもらわないとね」
「はい」
 校舎に入ると、賑やかな声が聞こえてくる。
 確かに、人の入りはなかなかいいようである。
「さて、どうしようか」
「とりあえず、昨日はやってなかったところを見ましょ」
「そうだね」
 一日目は圧倒的に一高生が多いのだが、二日目は一般客の方が多くなる。
 他校の制服姿も結構見られ、中にはそれぞれにその『人』が目当てな場合もある。
「ね、圭太」
「ん?」
「今日の後夜祭でさ、またベストカップルが決まるでしょ? 私たち、またノミネートされてると思う?」
「そうだなぁ、されてると思うよ」
「やっぱり?」
「だって、僕が二年連続でミスター一高に選ばれたわけだから、当然それだけ注目されてるってことだからね。そうしたら、必然的に柚紀と一緒にいる姿も見られてるわけだし」
「そうだよね」
「心配?」
 圭太は、少しだけ真面目な表情で問いかけた。
「う〜ん、そういうわけじゃないんだけどね。ベストカップルの方はたいして気にしてないかな。今のままなら、去年と同じ結果になりそうだし」
「ほかになにかあるの?」
「私としては、ミス一高の方が問題かなって」
「ミス一高か」
 圭太も、柚紀がそのことに多少の懸念を持っていることは想像できた。
 さすがに去年のミス一高で、彼女の柚紀ではなく、祥子が一位になったことを考えれば、よほどのバカでもない限り思いつくだろう。
「私が一位になれるかなれないかなんて、それはどうでもいいの。ただね、もしノミネートされたら、絶対に負けたくない相手がいてね」
「それって、凛ちゃんのこと?」
「やっぱりわかる?」
「わかるよ。柚紀がこの学校で唯一と言ってもいいくらいにライバル視してるのは、凛ちゃんだけだから」
「まあね。だからというわけじゃないけど、やっぱり凛には負けたくなくて」
 圭太としては、それに対してなかなか声をかけづらい状況ではあった。当然、彼女である柚紀を応援すべきなのだろうが、凛のことも簡単には割り切れない部分があるからだ。
 見た目ということだけで考えるなら、ふたりともかなりの位置にいる。
 方向性は違うが、どちらも美人で男子の憧れになるに十分だった。
「とりあえず、万が一凛に負けたら、圭太に慰めてもらうから。覚悟しててよね」
「了解」
 
 一日目にはやってなくて、二日目だけやってるというところは、それほど多くない。結局は二日間やってもあまり手間が変わらないからである。
 そういうこともあり、校舎の方はあっという間にまわってしまった。
 校舎の方を見終わったふたりは、校庭へと出た。
 校庭でも、いくつかのクラスや有志、クラブが出し物をやっている。
 外でなければできないことばかりなのだが、これは当然天候に左右され、雨ならば日の目を見ないということになる。幸いにして今年の一高祭は天気に恵まれているので、まずはひと安心というところだろう。
「それにしても……」
 柚紀は、完全に呆れ顔で言う。
「なんというか、発想自体はいいと思うんだけど、それを実行に移すアホがこんなにもいるなんてね」
「そこまで言うことはないと思うけど」
 一応フォローする圭太ではあるが、やはり呆れ気味である。
 ふたりの前で行われているのは、人間ボーリングだった。テレビの番組などではごくまれに見る企画ではあるが、高校の文化祭で行われるとは、誰も思っていないだろう。
 運動部の有志が行っているもので、十本のピンはすべて人間。本当はボールにも人間を入れようかという話もあったらしいのだが、実行委員会の反対にあい、あえなく断念。普通の大玉を使っている。
 倒れたピンの数によって景品が変わり、ようするに縁日の屋台をそう変わらない内容である。
 ただ、これが思いの外人気で、特に他校生や中学生以下の子供たちに人気だった。
 人気の理由は、おそらく派手なピンアクションにある。
 所詮軽い大玉では、それほどの衝撃はない。だが、軽くかすっただけでもピンは派手に転がる。それが笑いを誘い、なかなかの人気に繋がっているわけである。
「でも、こういうのがあるのが文化祭というものかもしれないわね」
「かもね」
 固定観念かもしれないが、そういう一見バカらしいことを真面目にやれるのが、文化祭のいいところかもしれない。
 校庭をぐるっと見て、次に向かうは体育館。
 体育館では、定番中の定番、演劇や合唱などが行われている。
 ただ、ほかが結構人気があるせいか、数自体はあまり多くなく、少々空席の目立つ体育館となっていた。
 それでも、演劇部の演劇には人が集まるし、合唱なども事前にかなりの宣伝をしていれば人が集まる。
 やはり、なにもしないで来てもらおうとは、甘い考えでしかないわけである。
 ふたりが体育館に入った時には、討論会が行われていた。
 議題は『制服は必要か否か』だった。
 議題だけを見ればそうなのかと思うだけなのだが、討論の内容は実にコアなものだった。
 賛成派、反対派ともに全員が男子で、それぞれの想いを熱く語り、戦わせていた。
 たとえば、賛成派の意見としては、制服があることで様々なフェチが生まれる。画一的な格好だからこそ、そこに様々な個人差が生まれる。それを愛でて楽しめるのは、やはり制服を着ている今だからこそである。だから、制服は必要である。
 反対派の意見は、逆に制服しか着ていないと、個性が失われてしまう。真に個性を尊重する教育を目指すなら、私服導入は当然のことである。毎日服を選ぶ面倒さはあるかもしれないが、それを楽しめるくらいになれば、様々な面で良い効果が生まれる。だからこそ、右へ倣えの制服ではなく、制服を廃止し、私服にすべきである。
 とまあ、ようするにお互いの趣味趣向を具現化できるのはどっちかという、あまり中身の伴っていない討論だった。
 ただ、たまに真っ当な意見も出ていたので、聞いていた観客からも双方を応援する声が上がっていた。
 討論会を最後まで聞いたふたりは、体育館をあとにした。
「ホント、男子って変なところにこだわるわよねぇ」
 柚紀は、呆れ顔である。
「圭太は、どっちの方がいいと思う?」
「僕はどっちでもいいよ。ただ、制服だといちいちなにを着ようか、考えなくてもいいから楽は楽だけど」
「そうなのよね。制服はいちいち考えなくていいというのが、最大のメリットなのよね。ただ、そのせいで普段がずぼらになっちゃう可能性はあるんだけど」
「柚紀はそんなことないでしょ?」
「そりゃそうよ。私はね、圭太にはいつでも一番いい姿を見てほしいの。そしたら、ずぼらな姿なんて見せるわけないじゃない」
 なにを当たり前のことを、という感じで答える。
「ただ、最近は圭太の前で少しずつ警戒感が薄れてるから、だんだんと地の私が出てきてるのも事実なんだよね」
「地の柚紀?」
「今の私とそう変わらないとは思ってるけど、やっぱり地の私はいろいろ抜けてると思う。たまに、なんでも適当に済ませちゃおうなんて思っちゃうし。格好だってそうだよ。今はそんなことないけど、中学の時は本当に面倒な時は一日中ジャージだったこともあったし」
「なんとなく、そういう柚紀も見てみたいな」
「見せるだけなら、簡単に見せられるけどね」
「そうなの?」
「だって、ずっと一緒にいればいいだけの話だもの。簡単でしょ?」
 そう言ってにっこり笑う。
「ね、圭太。ホントにずっと一緒にいようか?」
「それって、同棲するってこと?」
「うんっ」
「正直いえば、僕はそれも構わないと思ってるんだ」
「ホント?」
「ただね、同棲するとして、どこで同棲するのかなって」
「ああ、うん、それが一番の問題なんだよね。私たちが高校生じゃなければ、どこかに部屋を借りて、ということもできるんだけどね。さすがにそれは無理だし」
「そうだね」
「そうするとどっちかの家ということになるんだけど、それもまた難しいし」
 まず、笹峰家はもともと四人暮らしを想定しての家なので、ひとり増えるというのは難しい。さらにいえば、柚紀が安心できないということもある。
 高城家はそういうことで言えばとても適しているのだが、あいにくと今は朱美が居候している。無理をすればできないことはないが、そこまでする必要があるかが問題である。
「やっぱり無理かな?」
「現状では、そう言わざるを得ないかな。ただ、完全に同棲といかなくても、半同棲みたいなことはできると思うけど」
「それって、私が圭太のところに泊まる回数を増やすってこと?」
「うん。母さんに言えば、家のことだってやらせてくれると思うよ」
「それが一番簡単なのかな、やっぱり」
 ふたりは、何度かそのことを話してきた。そして、どうするのがいいかもわかっていた。それをあくまでも確認しただけなのだ。
「よし、決めた」
「どうするの?」
「これからは毎週泊まる。できれば三日くらい。そうすれば、プチ同棲みたいになるでしょ?」
「そうだね」
 圭太も柚紀も、お互いが側にいることで本来の自分でいられる。それは精神的に安定するということが大きい。
 それに、お互いに側にいてほしいとも思っているというのもある。
「ん〜、決めちゃったらすっきりしちゃった」
 確かに、柚紀はずいぶんとすっきりした顔になった。
 やはり、圭太のことはウェイトが大きい。
「さてと、そろそろ後輩たちを冷やかしに行きましょ」
 
 音楽室はなかなか盛況だった。
 座席もすべて埋まっており、外には順番を待つ列もできている。
 時間帯もちょうどお昼頃ということもあるのだろうが、これだけ客が入れば万々歳というところだろう。
 ふたりは、ちょっと気が引けながらも、先輩であることを利用して音楽室へ入った。
 音楽室には、部員たちが持ってきたクラシックのCDが流され、とても落ち着いた空間を作り出していた。
「先輩。いらっしゃいませ」
 早速やって来たのは、紗絵である。
「いい感じだね」
「はい。おかげさまで、休む暇もないくらいです」
「みんながそれだけがんばってるからだね」
「だといいんですけど」
 紗絵は、そう言って笑った。
「あ、先輩。席、どうしましょうか?」
 中には入れたが、あいにくと席は埋まっている。
「いいよ、気にしなくて。むしろ、こんな時間に来ちゃって邪魔かなって思ってるくらいだし」
「そんなことありません」
 紗絵は、全力で否定する。
「先輩なら、いつ、どんな時に来ても大歓迎です」
「ありがとう」
「でも、本当にどうしましょうか」
「準備室で、手伝いでもしようか?」
「い、いえいえ、そんなこと先輩にさせられません」
「じゃあ、とりあえず僕たちはこの辺で邪魔にならないようにしてるよ」
「わかりました。なにかあったら遠慮なく言ってください」
 軽く頭を下げ、紗絵は仕事に戻った。
「ホント、紗絵ちゃんもカワイイわよね。特に圭太の前だと」
「……なんか、その言い方だと、小姑みたいだよ」
「心境的にはそんな感じだもん。しょうがないよ」
 少しだけ拗ねてみせる柚紀に、圭太は苦笑するしかなかった。
 それから少しすると、CDの演奏が止められた。
「それではここで、金管八重奏による演奏をお聴きいただきます」
 恒例のアンサンブルの時間である。
 金管八重奏は、去年と同じく、二年の金管メンバーで構成されていた。
 トランペットのファーストは、もちろん紗絵である。
 その紗絵の合図で演奏がはじまった。
 圭太と柚紀は、その演奏を真剣な表情で聴いている。
 時間にして五分もないのだが、その時間は本当にあっという間に過ぎた。
 演奏が終わると、盛大な拍手が起こり、演奏していた八人も満足そうであった。
「どう、感想は?」
「そうだね。まだ荒いところはあるけど、まとまりとしては悪くないかな」
「コンクールの練習と並行して、結構がんばってたからね。その成果が出た、というところかしらね」
「この調子を維持しつつ、細かなところを調整できれば、地区大会突破は確実だね」
「圭太もなかなか辛口ね。でも、それだけあの八人の実力を認めてるってことか」
 再びCDが流され、紗絵も戻ってきた。
「どうでしたか?」
「なかなかよかったよ。まとまりも悪くないし」
「そうですか。よかったです」
 圭太に認められ、紗絵もホッとひと安心という感じである。
「柚紀先輩はどうでしたか?」
「うん、私もよかったと思うよ。今年は日程がかなり厳しかったのに、あれだけできてたんだから」
「ありがとうございます」
 ただ、それでも紗絵の表情はそれほど明るくなかった。
「どうしたの?」
「あの、先輩。正直に言ってください。今年の金管は、どこまで行けると思いますか?」
「……そうだなぁ、県大会は堅いと思うよ。関東大会は、がんばり次第。全国大会だと、かなりのがんばりが必要だね」
「そうですか」
 紗絵は、思いの外あっさりとそれを受け入れた。
「紗絵も、まだまだそこまでの手応えは得られてないんじゃないかな」
「はい。去年の先輩たちの演奏を聴いた時の、あの圧倒的な完成度にはまだまだほど遠いです」
「だけど、それは全然違うわけだから、しょうがないと思うよ。それに、こう言うと悪いけど、去年の金管は僕がなんとしても上の大会へ行きたいと思って作り上げたものだからね。それを上回れるものを作り上げるのは、簡単じゃないよ」
 普段から自分のことを持ち上げない圭太ではあるが、この時ばかりは違った。自分の力を認め、しかもその自分の力がアンコンの結果に繋がったと自負している。
「だからね、紗絵。紗絵たちはまずは自分たちの身の丈にあった方法で、目標に向けて練習すればいいんだよ。確かに、去年は全国金賞だったのに、今年は全然ダメだなんて言われるのは不本意かもしれない。だけど、だからといってがむしゃらに僕たちに追いつこうと思っても、きっと失敗する。だからこそ、焦らずしっかり練習すればいいんだよ」
 圭太の言葉には、紗絵たちに対する思いやりが込められていた。確かに言葉は厳しいが、それは紗絵たちのことを考えてのことである。
「僕はね、紗絵たちの実力を信じてるから。だから、できれば僕の期待を裏切らないでほしい」
「はい、わかりました」
 紗絵は、大きくはっきり頷いた。
「じゃあ、私は戻りますね」
「残りもがんばって」
「はい」
 紗絵が仕事に戻ると、柚紀がクスクスと笑っていた。
「どうかした?」
「圭太も、本当にみんなを操るのが上手いなぁって思ってね」
「そうかな?」
「そうだよ。今だって、紗絵ちゃんにああいう風に言えば、やる気になるってわかって言ってるもん」
「そこまで意識して言ってはないけどね。ただ、本当に紗絵たちにはがんばってほしいから。それに、このアンコンでがんばって結果を残せれば、それから先のことも大丈夫なんじゃないかなって思うんだ」
「それはそうかもね」
「だからこそ、僕は言うんだよ」
「それが圭太の、紗絵ちゃんたちに対する愛情なんだね」
 柚紀も、圭太の気持ちが理解できるのか、そう言って微笑んだ。
「とはいえ、あまり言い過ぎて逆にやる気を殺いでしまうのも問題だからね。そのあたりは慎重に言葉を選ばないと」
「圭太ならそのあたりは大丈夫でしょ」
「だといいけど」
 圭太があれこれ考えていても、それを実行するのは紗絵たちである。
 一方的に言うだけではダメだし、言わないでいるのも問題となる可能性がある。だから難しい。
 
 午後に入ると、ますます人が増えてくる。天気もいいから余計である。
 音楽室も変わらずの盛況ぶりで、表も裏も休む暇などないくらいである。
 圭太と柚紀は、さすがにそれを見かねて裏方の手伝いをした。紗絵をはじめとして皆それを拒んだのだが、結局は忙しさに負けてふたりに頼むことになった。
 柚紀は二年間裏方もやっていたので、実に慣れたもの。テキパキと作業を進め、ひとりでふたり分働いたのではという感じだった。
 圭太も『桜亭』での経験から、実に器用になんでもこなした。
 中にはふたりを表で手伝ってもらったらと言った者もいたが、それは逆にふたりが拒否した。もともと一、二年だけでやる一高祭である。三年のふたりが表にしゃしゃり出ては、やはり興ざめしてしまう。
 だから、結局はふたりの好きなようにしてもらった。
 そろそろ二時になろうかという頃、関係者が来はじめた。
 最初に来たのは、吹奏楽部のOGたちだった。
「や、後輩諸君、しっかりやっとるかね」
「……ああ、ほっといていいわよ」
 ともみのいきなりの挨拶に、幸江はもはや突っ込むこともない。
「いらっしゃいませ、先輩」
「調子はどう、詩織ちゃん?」
「ええ、順調です」
 たまたま表にいたのが詩織だったので、相手をすることになった。
「さすがに去年ほどは無理でしょうけど、それでもだいぶいいと思います」
「そっか。まあ、去年は圭くんがいたからしょうがないね」
 そう言って祥子は笑う。
「ところで、詩織。その圭太は?」
「えっと、先輩は今裏で手伝いを……」
「は? 手伝い?」
「実は……」
 詩織は、簡単に事情を説明した。
「はあ、圭太もそこまでしなくてもいいのに」
「それが圭太らしいと言えば、圭太らしいんだけどね」
「一応、長くても三時くらいまでということでやってもらってますから」
「そうね。それくらいきっちり決めないと、圭太なら最後までやってそうだものね」
 圭太のことをよく理解している面々である。そのあたりのことは容易に想像できた。
「そういえば、祥子先輩」
「ん、どうしたの?」
「今日は、琴子ちゃんは一緒ではないんですか?」
「一緒だよ。さすがにいつもいつも家で留守番は可哀想だからね。今は、孫を可愛がりたくて仕方がないふたりに任せてるの」
「ああ、なるほど」
 あちこち連れ回すにはまだまだ日が浅い琴子ではあるが、祥子はできるだけいろいろな場所に琴子を連れていた。どういうことが琴子のためになるかわからないということもあるし、なによりも祥子が琴子と一緒にいたいからである。
「あ、じゃあ、ちょっと先輩を呼んできますね」
「お願い」
 詩織は、そう言っていったん準備室へ下がった。
「ホント、圭太はどこまで行っても圭太ね」
「なにも自分から手伝いを申し出なくても」
「その気持ちがわからないでもないですけどね」
「まあね。だけどさ、一高祭は基本的に一、二年で作るんだから、引退した三年が口も手も出しちゃまずいでしょ」
「そう言いながら、どっかの誰かさんは、圭太に黒服着せてたけど」
「あれは、別にいいのよ。いわば差し入れみたいなものなんだから」
「その割には、圭太の寸法までしっかり調べて、あれを調達してたみたいだけどね」
「だからぁ、その話はもういいでしょ。幸江だって目の保養ができたんだから」
「ま、そうなんだけどね」
 圭太に黒服を着せようと言い出したのは、実はともみではない。当時の三年女子の中で、なんとなくそういう話になり、面白そうだから着せてみようということになったのだ。その際に圭太にそれを渡す役目をともみが担い、結果的にからかわれる対象となった。
「お待たせしました」
 そこへ、三人が注文したものを持って、圭太がやって来た。
「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」
「まだ足りない」
「えっ?」
「圭太が足りない」
「……ともみぃ、それはオヤヂギャグ以下だわ」
「あによぉ、ふたりの心の声を代弁してあげただけでしょうが」
 幸江の茶々入れに、ともみはかなり不満そうである。
「それにしても、圭くん。わざわざ手伝わなくてもよかったんじゃないの?」
「最初はそう思ってたんですけど、なんか、ただじっとしてるのも悪いかなって。それに、忙しい時の裏は本当に休む暇もないですから。そこに僕と柚紀が手伝うことで、少しでも休めればいいかなと」
「圭くんは優しいね。普通はそういう風に思っていても、なかなかやれないものだよ」
「でも、優しいばかりじゃ、後輩が育たないわよ」
「ええ、そうなんですけどね」
 圭太は、苦笑混じりに頷いた。
「おっと、圭太も座れば? 別に圭太はここのウェイターじゃないんだから」
 立ったまま話していると、確かに現役生と間違われる。
 特に、圭太ほどの容姿の持ち主なら、我先にとなにかを頼もうとする人も出てくる。
 圭太は、余っていたひとつの椅子に座った。
「で、圭太。はじめての一高祭はどんな感じだった?」
「そうですね、できれば去年も一昨年も少しくらいは見てみたかったかな、と」
「ま、みんなそう思ってるわよ。私だって三年の時にはじめてゆっくり見て、結構面白いのあって、こんなことならって思ったし」
 ともみの意見に、幸江も祥子も頷く。
「それを最後の年だけでも堪能できたわけだから、よしとしないとね」
「別に、今年が最後ってわけでもないでしょ? 私たちみたいに卒業してからも来ればいいだけなんだから」
「……あのさ、幸江。そうやっていちいち正論で突っ込むのやめない?」
「イヤよ。それに、もしやめてほしければ、あんたが正論で突っ込まれないことを話せばいいのよ。簡単でしょ?」
「くっ……」
 ものすごく悔しそうなともみではあるが、実際そこまで悔しがるべきことなのかは、定かではない。
「そういや、柚紀は?」
「柚紀はまだ裏で手伝ってますよ。呼んできますか?」
『いい』
 三人揃って即否定。
「……あの、なにもそこまで全力で否定しなくても……」
「だって、柚紀が来たらせっかくの圭太との時間が楽しみ半分になるもの」
「そうよ。それに、昨日、今日と柚紀とはずっと一緒だったんでしょ?」
「ええ、まあ」
「だったら、せめて今の時間くらい、お姉さんたちの相手をしないさいって」
「……わかりました」
 祥子は別として、ともみと幸江とまともに言い合って勝てないことは、圭太も十二分に理解していた。だから、この場は素直に従うことにしたのである。
「あ、そうだ。聞いたよ、圭くん」
「なにをですか?」
「また今年もミスター一高に選ばれたんだってね」
「えっ、マジ?」
「圭太、またそんな快挙達成したの?」
「ええ、まあ、なんとなく……」
 さすがの圭太も、すでに一高を卒業している祥子からその話題を振られるとは思っていなかったようである。かなり意表を突かれ、また同時に面倒な相手にそれを聞かれたと思っていた。
「琴絵ちゃんがね、自分のことのように喜んで電話してくれたの」
 情報源は琴絵だった。
「しかし、いくら参加率の低いミスター一高とはいえ、二年連続で選ばれるとは、本当にすごいわ。圭太って、本当に人気があるのね」
「そりゃそうでしょ。この容姿、性格のよさ、勉強も運動もできる。これで人気が出ない方がおかしいわよ。もし人気がなかったら、それはこの一高の女子に見る目がないってことになるもの」
「まあね。だから、一応見る目はあるってことよね。思惑は人それぞれだろうけど」
 圭太としては、選ばれ方自体はそれほどいいとは思っていないのだが、どういう理由であろうとも、自分を認めてくれていることに感謝していた。だからこそ、わざわざ実行委員の指示に従って、前夜祭にも参加したのである。
 ただ、今のともみや幸江のような理由を最初に持ってこられてしまうと、素直には喜べなかった。
「もしさ、ミスター一高だけじゃなくて、彼氏にしたい男子とか、抱かれたい男子とか、そんなことを聞いてみても、圭太が一位になるのかしらね」
「実際にそうなれるかなれないかは別として考えれば、たぶん一位じゃないの。だって、圭太を彼氏にしたら、いいことしかないはずよ」
「ん〜、それはどうかはわからないけどね」
「どうして?」
「私たちが言えた義理じゃないとは思うけど、圭太ってものすごく甲斐性があるから。彼女になったからって全然安心できないってこと」
「なるほど。それはそうかもね」
「だけど、そのことはみんなは知らないわけだから、一位になるってことね」
 テレビや雑誌でも、芸能人でそういうことをやっている。
 それとまったく同じである。相手が結婚していようが、子供がいようが、それは関係ない。ようは、本人がどう思っているかである。
「あの、祥子先輩」
「ん?」
 と紗絵がやって来て祥子に声をかけた。
「どうしたの?」
「先輩のお母さんが……」
 入り口を見ると、琴子を抱いた朝子と、琴美がいた。
「どうしますか?」
「う〜ん、琴子がいるから、みんなに迷惑かけちゃうかも。だから、私が出るよ」
「ああ、祥子。ちょい待ち」
「はい?」
「琴子ちゃんは、パパに任せたら?」
「えっ……?」
 祥子は、圭太を見た。
「あの子、圭太に抱かれてると絶対に泣かないからさ。ちょうどいいんじゃない?」
「それはそうなんですけど……圭くんはそれでいい?」
「構いませんよ」
 というわけで、その四人の席にさらに椅子と机が追加され、六人の大所帯となった。
 いや、正確には七人である。
 琴子は、圭太の腕に抱かれると、嬉しそうに手足を動かした。
「本当に琴子ちゃんは、圭太さんが好きなのですね」
 朝子は、穏やかな表情でそう言う。
「それで、どこをまわってきたんですか?」
「いろいろぐるっとね。何度足を運んでも、学生時代を思い出して、ついついあれもこれもと見てしまうのよ」
「お母さまもですか?」
「ええ。それに、琴子ちゃんにもいろいろ見せたくて」
 やはり、ふたりの祖母はすべてが琴子中心のようである。
「う〜……あ〜……」
「どうした、琴子?」
「なにか、興味のあるものでもあるのかも」
「う〜……」
 手をバタバタと動かし、なにかをつかもうとしている感じである。
「すみません。ちょっと行ってきます」
 圭太は琴子を抱いたまま、少し席を外した。
「琴子ちゃんも、祥子の娘ってことよね」
「どういう意味ですか?」
「だって、圭太が好きで好きでしょうがないって感じだもの」
 生まれてまだ半月しか経っていない赤ん坊に対してそういう見方もどうかとは思うのだが、誰からも異論は出なかった。
「でも、私たちだけでここをこれだけ占拠してしまって、いいのかしら?」
「それは大丈夫ですよ。それがこの音楽喫茶のいいところですから」
 あまり長く居座るのは問題だが、ある程度融通を利かせるのが、この音楽喫茶の特徴でもある。
 それをよく理解しているOG三人は、特に気にした様子もなく、のんびりしている。
 一方、琴子と席を外した圭太は、準備室にいた。
「あっ、琴子ちゃん」
 すぐさま反応したのは、柚紀だった。
「どうして圭太が琴子ちゃんを?」
「なんとなく成り行きで」
「成り行きって、あ、先輩たちがいるからか。あれ? でもさ、確か先輩のお母さんが面倒見てるって」
「今は、勢揃いしてるよ」
「ああ、なるほど。だからか」
 柚紀は納得と頷いた。
「でも、なんでここへ?」
「なんか、琴子がなにかに興味を持ったみたいで、手をバタバタさせるから」
「ふ〜ん。なにに興味を持ったんだろ」
 圭太は、琴子を抱いたまま準備室をぐるっとまわる。
「琴子ちゃんだ」
 と、休憩していた琴絵が戻ってきた。
「琴子ちゃ〜ん」
 琴絵は、どうして琴子がここにいるかよりも、琴子を構う方がいいようである。
「ね、お兄ちゃん。琴子ちゃん抱いてもいい?」
「いいよ」
「わあ、ありがと」
 琴子を抱き、琴絵はとても嬉しそうである。
 琴絵としてみれば、姪というよりは少し年の離れた妹みたいな感覚なので、余計なのかもしれない。
「ねえ、圭太。琴子ちゃんがなにかに反応した時に、誰かが通ったりとかした?」
「どうだったかな。ちゃんとは覚えてないけど」
「人に反応してるわけじゃないのよね。特別な服装の人もいないし。トレイやカップが珍しいわけでもない。『桜亭』にたくさんあるもんね」
「あと、ここにしかないものといえば、楽器くらいなんだけどね」
「案外それかも」
「じゃあ、試してみる?」
 圭太は、まだ持って帰っていなかった自分のトランペットを取り出した。
「ほら、琴子」
「あ〜、あ〜」
 と、圭太が差し出したトランペットに、琴子は一生懸命手を伸ばす。
「あ、反応した。やっぱり楽器だったのかな?」
「どうだろう。ただ単に、キラキラ光って珍しいからかもしれないけど」
「圭太としては、どっちの方がいい?」
「そりゃ、もし音楽をやってくれるなら嬉しいけど、無理強いするつもりはないから」
「そうなんだ」
 ペチペチとトランペットを叩き、ご満悦の琴子。
 そんな姿を見ていると、圭太もなんとなく琴子は将来音楽をやるのかもしれないと思っていた。
 それから少しの間、楽器をおもちゃに楽しんだ琴子は、現役部員たちからもマスコットのような扱いを受け、いつの間にか人気者になっていた。
「あ、戻ってきた」
「どうだったの?」
「ちゃんとはわかりませんけど、楽器か、キラキラ光るなにかに反応したのかもしれません」
「なるほど。ふたりの子供だから、生後間もない状況でも音楽に興味を示してるわけね」
「それはわかりませんけど」
「まあ、なんにでも興味を持つのはいいことよ。この時期のことが潜在的なものとして、将来役に立つかもしれないから」
「だってさ、琴子」
 琴子は、圭太の人差し指をつかみ、かなりご機嫌だった。もちろん、話は聞いてないわけだが。
「全然聞いてないわね」
「あはは」
 
 四時になり、一高祭二日目が終わった。
 圭太は、柚紀と一緒にずっと音楽室にいた。というか、結局出るに出られなくなったからなのだが。
 三時くらいにともみたちが帰り、そのあとくらいから三年が集まりはじめた。
 そこで話していたら、いつの間にか時間が経っていた、というところだ。
 お客がいなくなり、まずは音楽室の片付け。それをやらなければ、なにもはじまらない。
 そこで圭太と柚紀は、一度音楽室を出た。
 向かった先は、三年一組の教室。
 三年一組でも片付けが行われていた。
 ふたりもその片付けを少し手伝った。さすがにやっていることを知っているのに、それを無視することはできないからだ。
 もちろん、そういうことがなくてもこのふたりなら手伝っただろうが。
 適当なところで切り上げ、音楽室へ戻る。その頃には準備室の片付けはだいぶ進んでいた。
 音楽室の方は、椅子が隅に固められ、机だけが残っている。
 これから毎年恒例のコンクールの打ち上げである。
 机の上にジュースやお菓子が広げられ、準備完了。
「それでは、これからコンクールの打ち上げをはじめたいと思います」
 部長である紗絵が前に立ち、打ち上げがはじまった。
「まずは前部長である高城圭太先輩から挨拶をいただきたいと思います」
「最初に、昨日、今日とおつかれさま。今年もなかなか盛況だったみたいで、引退した僕たちもひと安心だったよ。それでコンクールのことだけど、もう今更言うことはほとんどないかな。言いたいことは、当日に言ったし。だから、今日は余計なことはいっさいなし。とにかくみんなで楽しもう」
 圭太は、皆の気持ちを慮って、極力短くまとめた。
「では、乾杯の音頭を前副部長である北条綾先輩にお願いしたいと思います」
「よし、みんな、コップは持った? 中身は入ってる? じゃあ、コンクール三年連続金賞と一高祭の大成功、それと吹奏楽部のますますの発展と三年の進路が決まることを祈って……乾杯っ!」
『乾杯っ!』
 威勢の良い掛け声とともに、あとは騒ぐだけ。
 立食という形を採っているので、めいめい好きな場所で、好きな者と飲んで、食べて、話す。
「綾、おつかれさま」
「圭太も、おつかれ」
「これで、僕たちの仕事も本当に終わりかな」
「そうね。なんか、あっという間だった気がする。本当はもう一年半近くも経ってるのにね」
「それだけ充実してたってことだよ」
 圭太は笑顔でそう言う。
「あたしもね、圭太と一緒に仕事ができて、楽しかったよ。最初は立候補したとはいえ、それなりにやってればいいのかな、くらいにしか思ってなかったんだ。でも、圭太と一緒に仕事をして、圭太がすごく真剣になんにでも取り組む姿を見て、あたしも今までと同じじゃダメだって思って。まあ、その成果が出てたかどうかはわからないけど、少なくともあたし自身は、かなりがんばれたと思ってる」
「しっかりその成果は出てたよ。それに、綾がフォローしてくれたおかげで、僕もずいぶんと仕事がしやすかったし。紗絵は確かに三中の頃から僕と仕事をしてて、いろいろ知ってるんだけど、だからこそ抜けてしまう部分もあったから。そのあたりをきちんとフォローしてくれた綾には、本当に感謝してる」
「ま、あたしにはそれくらいしかできなかったからね。基本的なことは圭太がやっちゃうし、それでもできないことは紗絵がさっさとやってしまう。気がつくと、あたしの仕事はほとんどない、なんてこともしばしばだったから。それでも、あたしの役目はそこからなんだって思ってね」
「そうだね。綾がいてくれたからこそ、僕も紗絵も、好き勝手できたわけだから」
「ホント、結構振り回されたものね」
 そう言って笑う。
「それでも、最後にはそれも楽しんでるあたしもいて。だから、本当に楽しかった。ありがとね、圭太」
 綾のとても素直な感謝の言葉に、圭太は小さく頷いた。
「ああ、でも、ひとつだけ心残りがあるわ」
「心残り?」
「どうせなら、圭太とそ〜ゆ〜関係になってみてもよかったな、って」
「こらこらこら、綾。なに勝手なことを言ってるのよ」
 と、すぐ側で聞き耳を立てていた柚紀が、早速割り込んできた。
「人の彼氏を勝手に誘惑しない」
「誘惑なんてしてないでしょうが。ただ、そういう状況になってもよかったかな、って言っただけじゃない」
「それだけで十分よ。まったく、油断も隙もないんだから」
 柚紀は、圭太をガードするように、綾の前に立ちはだかる。
「ホント、圭太も苦労するわね。彼女が『コレ』じゃ」
「ちょっとちょっと、それはど〜ゆ〜意味よ?」
「そのままの意味だけど?」
「聞き捨てならないわね」
「ホントのこと言っただけじゃない。それに、過敏に反応するってことは、少なからず自分でもそう思ってるってことじゃない。違う?」
「うっ……」
 さすがの柚紀も、そこまで言われると、言い返せない。
「綾と柚紀は、なにを言い争ってるの?」
 そこへ、夏子がやって来た。
「たぶん、お互いに譲れないものがあるんだよ」
「あはは、それはそれでずっと聞いていたいかも」
「僕は遠慮するよ。寿命が縮むだけだから」
「なるほど、圭太絡みのことか」
 夏子は、大きく頷いた。
「あ、そうそう。圭太。金管の後輩たちが、圭太に是非ともお願いしたいことがあるんだって」
「お願い?」
 音楽室に一画には、金管の先輩、後輩が集まっていた。
「圭太、連れてきたわよ」
「まずは、先輩。どうぞ」
「あ、ああ、ありがとう」
 早速、紗絵が圭太のコップにジュースを注ぐ。
「先輩。先輩にたってのお願いがあります」
「それは?」
「先輩には、これからも時々で構いませんから、私たち金管の指導をお願いしたいんです」
「本来、引退した先輩にそんなことをお願いするのもどうかと思うんですけど、でも、現時点で先生以外に的確で、より成果の得られる指導をしてくれる人は、先輩以外にいません」
 紗絵の言葉を受け、浩章が続ける。
「三中の時ですら、こんなことはお願いしませんでしたけど、もし可能であるなら、お願いしたいです」
「これは、私たち金管全員の総意です」
 さらに留美が続ける。
「せっかく先輩たちが残してくれた、全国大会三年連続金賞、さらにはアンコンでも全国金賞という成績を、私たちの代で終わらせたくないんです」
「もちろん、先輩にお願いするだけじゃなく、自分たちもそれ相応の努力をしなければいけないことはわかっています」
 一晴も続ける。
「でも、そこには必ず限界があります。その上を目指すには、それだけの知識や情熱を持った人に指導を受けなければダメだと思うんです。実際、先輩の指導を受け続けて、ここにいるみんな、かなり上達しましたから」
「それに、これから先、先輩の指導を受けられないと物足りなくなると思うんです。先輩の指導は厳しいですけど、それだけ的確で、確実でしたから」
 そう言って邦和は笑う。
「先輩たちが引退して、いろいろ話し合いました。どうすれば金管は今までのクオリティを保てるか。そして、さらに上を目指せるか」
「そして、全員の総意として先輩たちに指導をお願いしようということになりました。ただ、先輩たちは受験生ですからそうしょっちゅうの指導は無理です。でも、受験しない先輩なら、もう少しだけ私たちにつきあっていただけると考えました。むしのいい話だというのは十分理解しています。先輩の都合をなにも考えていませんから。それでも、私たちは先輩にお願いしたいんです」
 最後に紗絵が、そう締めくくった。
「みんなは、どう思ってるの?」
 まず、聞いたのは三年にだった。
「上手くなりたい、って気持ちは十分伝わってきたからな。俺はできることなら、それに応えてやりたい」
「前パーリーがそう言うんだから、私もそれでいいわよ」
 トロンボーンのふたり──翔と文子はそう言った。
「正直、どこまでできるかわからないけど、カワイイ後輩たちのためだからね。いいと思うわよ」
 信子もそう言う。
「ま、圭太ほどの指導を俺たちができるとは思えないけど、それでも頼られるのはそれだけ信頼されてるってことだから、それに応えるのがこの部に三年間世話になった俺たちの役目だと思う」
「そうね。義務とかそういうことじゃなく、恩返しという意味でも、やるべきなんでしょうね、それを」
「ここでやらなかったら、いつ恩返しできるんだぁ、って感じだもんね」
 健太郎の言葉を受け、ホルンのふたり──美里ものり子もそう言う。
「夏子は?」
「私は、いつもいつでも、パートリーダーである圭太の指示に従うわよ」
 夏子も、そう言って笑う。
「……やれやれ、これで僕が断ったら、ひとりだけ悪者だね」
「断るつもりなんて、最初からないくせに」
 夏子の言葉に、圭太はにっこり笑った。
「やるからには、容赦はいっさいしないからね。それこそ、コンクールの最中と同じくらいだと思ってくれて構わない。僕も、みんなにはもっともっと上手くなってもらいたいから」
「はい」
「ただし、ひとつだけ忘れないでほしいことがあるんだ。僕は、あくまでもみんなの手助けをするだけ。実際にそれをやるのはみんなだから。それに、今までと違ってそれ以外の時には僕はいないわけだから、それぞれが今まで以上に上手くなろうと思わないと、せっかくの指導も意味のないものになるからね」
「はい」
「それがわかっていれば、僕から言うことはなにもないよ」
 圭太は、もう一度そこにいる面々を見渡した。
「せっかく、少しはのんびりできると思ったのに、これでそれもなしかな」
「なに言ってるんだ。圭太がなにもしないでいられるはずないだろ」
「そうよ。きっと、柚紀も呆れるくらいにここに顔出してたに決まってるわ」
「引退してからは、さすがにそんなことはないと思うけどね」
「どうだか?」
 それぞれから笑いが起こる。
「ああ、盛り上がってるところ悪いんだけど」
 そこへ、柚紀をはじめとしたパーカッションと、冴子たちコントラバスが割り込んできた。
「その指導に、この子たちも混ぜてあげて」
「ほら、金管のセク練にはいつも一緒だったから」
「それは構わないけど、いいの?」
「ええ。というか、この子たちだけ仲間外れもひどいでしょ?」
「そうそう。せっかく上手くなれるチャンスがあるんだから、それを利用しない手はないわ」
「というわけだけど、それでいい?」
「もちろんです」
 一同、揃って頷く。
「じゃあ、僕もどれだけできるかはわからないけど、できる限りのことはするから」
「はい、お願いします」
 圭太としては、後輩がそれだけやる気になってくれて、嬉しかった。
 何事もよかった次の年というのは、とても心配になる。圭太も、それは心配していた。だからこそ、なにも言われなくとも指導に赴くつもりだったのだ。
 それを自らやってほしいと言ってきたわけである。これほど嬉しいことはないだろう。
 だからこそ、圭太も今まで以上にがんばろうと思えるのである。
 それが、三年間お世話になった吹奏楽部への、恩返しになるのだから。
 
 今年もまた、打ち上げは一高祭実行委員の乱入でお開きとなった。
 一年以外の部員は、それをさも当然のように思っていた。だから、意外に簡単に後夜祭の行われている校庭へと移動した。
 ちなみに、今年は全員、後夜祭参加となった。
 校庭の真ん中には、赤々と燃え上がるキャンプファイヤーがあり、そのまわりに生徒が集まっている。
 その生徒たちのお目当てはもちろん──
『みなさん、お待たせしましたっ! ただいま、すべての開票が終わりました。なので、まずはミス一高から発表したいと思いますっ!』
 同時に、歓声が上がる。
『もうご存知だとは思いますが、最初にルールを確認しておきます。本日午後三時までに投票された中から、有効投票用紙のみで集計しています。その上位五名を、この場で発表します。ちなみに、その五名の方にはすでにこちらに来ていただいています』
 またもや歓声。やはり、男子の割合が多い。
『では、五位です。五位は、三年五組──』
 発表され、本人が壇上に上がると、なんとも言えない歓声が上がる。
『続いて四位。四位は、二年三組──』
 今年もまた、下級生が上位に食い込んでいた。
『さて、いよいよ上位三名です。まず、三位。三位は三年一組、河村凛さんですっ!』
 三位には、なんと凛が選ばれた。
『河村さんは、この四月に一高に転入したばかりなのですが、この快挙です。もっとも、ご本人のこの姿を見れば、納得だとは思いますが』
 やはり、褒められ慣れていない凛は、ただただ照れていた。
『続きまして二位……といきたいところなのですが、ここでこちらでも予期せぬことが起きました。なんと、今年度のミス一高は、一位がふたりとなってしまいました』
 生徒たちも、まさかそんなことになろうとは思っていなかったようで、ざわついている。
『では、その一位になったふたりとは……三年一組、笹峰柚紀さんと、二年二組、相原詩織さんですっ!』
 柚紀と詩織は、一応笑顔で出てきた。
『さて、まずはおふたりへの得票ですが、笹峰さんへは一年生が、相原さんへは三年生が多く投票しています。これはやはり、それぞれの学年での好みの違いが出たということでしょうか。そして、二、三年生のみなさんはご存知だと思いますが、おふたりは去年もこのミス一高にノミネートされています。ちなみに、去年は笹峰さんが二位、相原さんが四位でした。そのあたりも、今年の投票に影響があったかもしれません』
 ようするに、順当ということだ。
『では、おふたりに少しお話を伺いましょう。まずは、笹峰さん。今年は同点ではありますけど一位となりました。その率直な感想を』
『そうですね。選んでいただいて、嬉しく思っています』
『去年は惜しくも二位でしたが、今年は一位でした。そのあたりはどうですか?』
『まさか二年連続でここに立てるとは思ってませんでしたから、素直に嬉しいです』
『なるほど。相原さん。相原さんは、一位という結果をどう?』
『えっと、私でいいのかな、という感じです』
『相原さんは去年は一年生で四位という快挙を達成し、今年もまた、二年生で一位という快挙を達成されたわけですが、それについては?』
『それだけ多くの人に注目されてるわけですから、これから気をつけて生活を送らないといけないですね』
『なるほどなるほど。ところで、笹峰さんは彼氏がいるというのは去年も伺いましたし、有名ですが、相原さんはどうなのでしょうか』
『えっと……ノーコメントです』
『なるほど、実に意味深ですね。きっと、多くの男子生徒諸君は、あれこれ考えていると思いますよ』
 司会は、実に見事にそのあたりをスルーする。
『ええ、時間も圧しているようなので、ミス一高の発表はこのあたりにしたいと思います。最後に、栄えある五名の方に、大きな拍手をっ!』
 盛大な拍手の中、五人は壇から降りた。
『続きまして、今年で二回目となります、ベストカップルの発表です。こちらも、ルールはミス一高と同じです。こちらは、上位三組の方々を発表します』
 再び歓声が上がる。
『まずは、三位。三位は──』
 三位は、校内でも有名なカップルだった。ちなみに三年である。
『続きまして、二位。二位は──』
 二位も、校内では知らない者はいないカップルだった。こちらも三年。
『そして、今年度の一高ベストカップルは……ミスター一高こと、三年一組、高城圭太くんと、ミス一高こと、同じく三年一組、笹峰柚紀さんですっ!』
 圭太と柚紀は、笑顔で出てくる。特に、柚紀は嬉しそうである。
『さて、ベストカップルのおふたりですが、ご存知の方は多いと思いますが、おふたりは二年連続の選出となります。去年は一位と二位の差が僅差だったのですが、今年はダントツでした。それだけ、この一高で認知されたカップルということになります』
 圭太と柚紀は、本当によく一緒にいるので、それはある意味では当然の結果と言えた。
『まず、高城くん。今年もベストカップルに選ばれたわけですが、その感想を』
『そうですね。今年もまた、多くの人に見られていたんだなぁと、思います』
『笹峰さんは?』
『とても嬉しいです。みんなからもちゃんと認められてるんだってわかりましたから』
『なるほど。おふたりの仲の良さは、この一高中の生徒の周知の事実ですからね。この結果もある意味では当然というところでしょうか。しかも、今年はミスター一高とミス一高のカップルです。これはつまり、男子にも女子にも人気のあるおふたりが、そのままカップルとしても人気があるということになります』
 確かに、カップルとしての人気と、それぞれの人気は別と捉える場合が多い。それが、今回は一致したのである。これは、本当の意味でふたりが一高中から認められていることの証拠である。
『では、最後に壇上のカップルに盛大な拍手をっ!』
 それぞれのカップルは、少しだけ照れくさそうにその拍手に応え、壇から降りた。
『ここまで、本年度のミス一高、一高ベストカップルの発表でした。引き続き後夜祭をお楽しみください』
 
 帰り道。柚紀はことのほかご機嫌だった。
 やはり、ミス一高に選ばれ、ベストカップルにも選ばれたからであろう。
「やっぱり、お兄ちゃんと柚紀さんは、学校中で有名なんだね」
「それがいいことかどうかは、疑問ではあるけど」
 確かに、認められていることは自体は悪いことではないのだが、それは逆に言えば、常に注目されているということになる。
 さすがに衆人環視の中で生活するのは、一般人にとっては苦痛でしかない。
「私としては、それよりもなによりも、あの凛に負けなかったことが嬉しいわ」
「やっぱり、それが重要?」
「当たり前よ」
 柚紀と凛は、あのあとにふたりだけでなにか話していたようだが、その中身まではわからない。ただ、おおよそ柚紀が凛にあれこれ言っていたことは、想像がつく。
「そういえば、圭太」
「ん?」
「ミス一高の間に、実行委員からなにか言われてたみたいだけど、あれは?」
「ああ、あれはベストカップルの四位以下を教えてくれてたんだよ」
「そうなんだ。でも、それをどうして圭太に? 普通なら教えなくてもいいはずなのに」
 と、圭太は微妙に視線を逸らした。
「ん? あ、ひょっとして、四位以下のカップルに圭太の名前があったから?」
「えっと、まあ……そうなんだけどね」
「誰とだったの?」
 柚紀は、笑みを浮かべながらも、目はまったく笑っていなかった。
「……詩織」
「詩織は、まあ、わかるかな。ミス一高にも選ばれたわけだし。ほかは?」
「……紗絵」
「えっ、私ですか?」
「ん〜、紗絵ちゃんも部活絡みで結構一緒にいるから。それもまだわかる。ほかは?」
「ほかは……いないよ」
「ウソよ。じゃなかったら、ここまで言い淀まないもの。だってそうでしょ? 詩織と紗絵ちゃんなら、私が簡単に納得するって圭太もわかってるはずだもん。ということは、ほかに誰かいるってこと。しかも、私の耳に入れたくない誰かが」
 そこまで順序立てれば、圭太と女性陣の関係を考えれば誰でもわかる。
「……はあ……そうだよ、凛ちゃんだよ」
「ま、実を言うとね、それもある程度は予想してたんだ」
 が、柚紀は意外といつも通りだった。
「凛がミス一高にノミネートされるのは、まあある程度予想できたからね。だとしたら、自然とベストカップルにもノミネートされるかなって」
「……だったら、そこまで言わなくても……」
「それは、圭太が変に隠そうとするからよ。誰だってそういうことを隠されて、いい気持ちはしないでしょ?」
「まあ、ね」
「だからよ、私が言うのは。それがわかったなら、今後そういうことはしないこと」
「了解」
 圭太と柚紀の関係は、やはり普段は柚紀の方が上である。
 こういうやり取りを見ていると、余計にそう思う。
「あ〜あ、どうしてふたりは入ってたのに、私は入ってなかったんだろ」
 と、朱美はひとりそんなことを言う。
「仕方がないんじゃないかな」
「どうして?」
「だって、朱美ちゃんはお兄ちゃんと一緒にいるところを学校ではあまり見ないから。詩織先輩はミス一高のこともあるけど、紗絵先輩はさっき柚紀さんも言ったように、部活で一緒にいることが多いから。それに比べると、どうしたって朱美ちゃんは少ないでしょ、お兄ちゃんと一緒にいる回数も時間も」
「ん〜、そうかなぁ」
「朱美ちゃんはそう思ってないのかもしれないけど、結局はほかの人たちがそれを見てどう思ってるかでしょ?」
「うん」
「だから、そういう結果になったんじゃないかな」
 琴絵の説明は、実にわかりやすかった。
 実際につきあってるかどうかは関係ないベストカップルである。そうすれば、どれだけ一緒にいるところを目撃されてるかが、投票に影響するのは当然である。
「あ、そうだ。琴絵ちゃん、朱美ちゃん」
「はい」
「なんですか?」
「今日、泊まるから。というか、これから毎週泊まるから」
「そうなんですか?」
「そうなの?」
 琴絵は柚紀に、朱美は圭太に聞き返す。
「うん、そういうことになったんだ」
「でも、どうしてそうなったんですか?」
「ん〜、私が同棲したいって言ったから、かな」
「ど、同棲ですか?」
「うん。でも、実際は難しくてね。だってそうでしょ? うちは論外だし、高城家だってなかなか難しいし」
「そうかもしれませんね」
「それでも私は圭太と一緒にいる時間を増やしたくて。で、そのどっちもをできるだけ簡単に満たす方法って考えたら──」
「うちに泊まる回数を増やす、ということになったんですね」
「そういうこと。ま、今日はそういうことがなくても泊まるつもりだったんだけどね。明日は休みだし」
 そう言って柚紀は微笑む。
「そういうわけだから、琴絵ちゃん、朱美ちゃん。改めて、これからよろしくね」
「わかりました」
「はい」
 琴絵と朱美としては、本音を言えばあまり歓迎したくないことではあった。
 それはそうである。柚紀が家に泊まれば、圭太と一緒にいる時間が減るのだから。しかも、今までは部活があってそこで一緒にいられる時間もあったのに、引退してしまった今となっては、その時間もなくなってしまったわけである。
 大好きな人と一緒にいる時間が少なくなるわけだから、歓迎できようはずもない。
 だが、ふたりともそれ以上に柚紀のことが好きなのである。だから、個人的な理由で歓迎できない部分があったとしても、それを拒むことはない。
「で、圭太。今日は、寝かせないでね」
 もっとも、そうやってしょっちゅう挑発されてたら、拒まれてしまうかもしれないが。
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