僕がいて、君がいて
 
第三十四章「想い交錯する秋」
 
 一
 陽が落ちてから、雨が降り出した。冷たい雨だった。
 琴美が倒れてしまったことで『桜亭』は早めの店じまいとなった。
 圭太は直ちに救急車を呼び、琴美を病院へ運んだ。
 救急車に同乗したのは、圭太とともみのふたり。事態が事態なだけに、琴絵もと思っていたのだが、予想通り気が動転していてそれどころではなかった。
 そこで、とりあえず琴絵を幸江と朱美に任せ、圭太はともみと病院へ向かったのである。
 結果的にそれは正解だった。取り乱していた琴絵のことを気にかけながら、なおかつ琴美のことも気にしなくてはならなかったわけで、いくら圭太でもそれは難しかっただろう。
 そして今、琴美は処置も終わり、病室のベッドで眠っていた。
「軽い風邪と過労、か」
 ともみがぽつりとそんなことを言った。
 診察した医師によると、症状事態はたいしたことはなく、軽い風邪のせいでいつも以上に疲れが溜まりやすくなり、その結果過労となって倒れたのだろうということだった。
 それだけを聞けば、なんだたいしたことはないと思うかもしれないが、圭太は違った。
 後悔の念に堪えないというような表情で、さっきからずっと黙っている。
 病室には、ともみのほかにあとからやって来た琴絵たちもいる。
 琴絵は琴美の手を握り、不安そうな眼差しで見つめている。
 本来ならとっくに面会時間は過ぎているのだが、もともと時間が遅かったこともあり、特別この時間でも病室にいることができた。ただ、それもあと三十分ほど。
「……お兄ちゃん」
「……ん、どうした?」
「お母さん、大丈夫なんだよね?」
 今にも泣き出しそうな顔で、そう訊ねる琴絵。
 圭太は、無理に微笑み、琴絵の頭を撫でた。
「ああ、大丈夫だよ。一日か二日、安静にしてれば治るってことだし」
「……うん」
 そのこと自体は、琴絵たちが病院に着いてからすぐに説明してあった。
 圭太も病状によっては各所に連絡しなくてはと思っていたのだが、とりあえず淑美のところだけで済んだ。
 淑美はすぐにでも駆けつけると言っていたのだが、圭太はそれを断った。実際たいしたことはなかったのだから、そこまでしてもらう必要はないと考えたのだ。とはいえ、もう一日くらいは入院が必要そうなので、明日来てもらうようには話はつけていた。
「……やっぱり、帰らなくちゃダメかな?」
「そういうルールだからな。僕たちだけ特別扱い、というわけにはいかないよ」
「そうだね……」
 圭太も本当は寝ずの番でもして琴美の様子を見ていたいのだが、それを言い出せば琴絵も同じことをすると言い出すに決まっている。さすがにそれはできないと考え、建前ではあるが病院のルールに従おうと決めたのだ。
「さて、いつまでもここにいると帰れなくなるから、そろそろ行こうか」
 圭太は、思いを断ち切るようにそう言った。
「そうね。バスで帰るにしても、もうギリギリってところね」
 ともみがそれにあわせてそう言う。
「さ、琴絵」
「うん」
 後ろ髪を引かれるような感じではあったが、ワガママを言っていい状況でもないことは琴絵もよく理解していた。琴絵と同じように、圭太だって心配なのだ。
 それからナースステーションで看護師に挨拶をして、圭太たちは病院をあとにした。
 
 その日の夜遅く。
 精神的に不安定なせいかなかなか眠れない圭太が、何度目かの寝返りを打った時。
「……お兄ちゃん」
 静かにドアが開き、琴絵が入ってきた。
 腕には枕を抱えている。
「まだ、起きてる?」
「起きてるよ」
 圭太はベッドの上に体を起こし、琴絵に応えた。
「どうした?」
「眠れなくて……」
「そうか。じゃあ、おいで」
「うん」
 それ以上なにも聞かず、琴絵をベッドに招き入れた。
 いつもなら大好きなお兄ちゃんと一緒ということで興奮して眠れなくなる琴絵であったが、今日ばかりは違った。
 不安げに圭太の腕をつかみ、ほとんどなにも言わない。
「琴絵にまで余計な心配をさせちゃったな」
「えっ……どういうこと?」
 圭太の思いもかけない言葉に、琴絵は首を傾げた。
「実は、母さんが具合が悪いんじゃないかって、わかってたんだ」
「えっ……?」
「テスト前からほんの些細なことなんだけど、いつもと違ってたから。ただ、その時はたまたまだろうと自分を納得させて、それからすぐにテスト期間に入って。そのせいですっかり忘れてたんだ、そのこと自体を。もし、そのことをもっとちゃんと考えていれば、こんなことにはならなかったかもしれない」
 圭太にとっては、それが一番悔しい結果となっていた。兆候はあった。しかし、一度はそれに気付きながらも結果的に見逃してしまった。
 それがどうしても自分の中で許せなかった。
「母さんは、つらいとか苦しいとか、そういうこと絶対に言わない人だから。だから余計にまわりにいる僕らがしっかりしてなくちゃいけない。そのことは十分わかっていたはずなのに」
「お兄ちゃん……」
「幸いなことにたいしたことはなかったけど、もしも取り返しのつかないことになっていたらと思うと……」
「お兄ちゃんがそこまで自分を責めることはないよ。確かに、お兄ちゃんはお母さんが具合の悪いことに気付いていたかもしれない。でも、それは今だから言えること。今日なにも起きてなければ、そのことは単なる錯覚だったかもしれない。結果が悪い方へ行っちゃったからお兄ちゃんは自分を責めてるけど、それはもう今更だよ。だから、自分を責めるのはそれくらいにして、これからのことを考えなくちゃ」
 琴絵は、今の自分に言えるすべての言葉を圭太にかけた。
 それこそ、琴絵にはそれくらいしかできることはなかったから。
「ね、お兄ちゃん?」
「……そうだな。いつまでも悔やんでてもしょうがないしな」
「うん、そうだよ」
 圭太も、自分がいかに後ろ向きなことしか考えてなかったかは、十分理解していた。だけど、今はそれしかできなかったのだ。
 そんな時、琴絵がこうして圭太に言ってくれたおかげで、ようやく前を向くことができた。
「ありがとう、琴絵」
「ううん。私はなにもしてないよ。むしろ、いつもお兄ちゃんが私に言ってくれてることをそのまま言っただけ」
「それでも、だよ」
「うん」
 圭太は、琴絵を優しく抱きしめ、琴絵も圭太の胸に頬を寄せた。
「母さんが退院したら、いろいろ考えなくちゃいけないな」
「いろいろって?」
「店のあり方とか、いろいろだよ」
「そうかもしれないね」
「でも、今はなにも考えずにゆっくり休もう。母さんに心配かけないように」
「うん」
「おやすみ、琴絵」
「おやすみなさい、お兄ちゃん」
 こうして長かった一日は、ようやく終わりを告げた。
 
 次の日。
 雨は明け方には上がり、青空が広がっていた。
 秋休みに入っている一高ではあるが、圭太たち吹奏楽部はいつも通り部活がある。
 本当はすぐにでも病院に駆けつけたい圭太たちではあったが、そんなことをすればかえって琴美に心配をかけると判断し、部活に行くことにしていた。
 ただ、終了後は直ちに病院に駆けつけることにしていた。
「えっ……ホント……?」
 学校へ向かう道すがら、圭太は柚紀に昨日のことを話して聞かせた。
 当然のことながら、柚紀は相当驚いてた。頭の中ではわかっていても、自分のよく知った人が実際にそういうことになるとはそうそう思えないからでもある。まして、琴美は柚紀にとってももはやもうひとりの『母親』である。その心境を慮るに余りある。
「幸いにしてたいしたことはなかったんだけどね」
「そっか……」
 息子である圭太と娘である琴絵が取り乱していないために、柚紀はそれ以上驚くことも取り乱すこともできなかった。
「あ、じゃあ、今日は早めに帰るの?」
「そのつもり。一応、淑美叔母さんが来てくれることにはなってるけど、やっぱり気になるし」
「…………」
 柚紀は、少し考え──
「私も、一緒に行っていいかな?」
「別に構わないよ。というか、このことをみんなに話したらみんな同じことを言うような気がするし」
 そう言って圭太は苦笑する。
「そうだよね。みんな琴美さんにはお世話になってるし。多少不謹慎かもしれないけど、こういうことでもない限りお返しはできないから」
 子供が大人にできることなど限られている。自分の親ならまだしも、それが他人となるとなかなか難しい。
 柚紀のように彼氏の母親でも難しいのだから、そうでない人はさらにだろう。
「でも、そっか……過労、か……」
「ん?」
「あ、うん。最近の『桜亭』って、以前よりも確実にお客さん増えてるでしょ?」
「ああ、うん、そうだね。劇的にとはいかないけど、増えてるね」
「ともみ先輩と幸江先輩がいたとしても、琴美さんの負担はそれなりに増えたってことだよね?」
「……そうだね」
 物事にはたいていそうなる要因なり原因なりが存在する。
 今回のことでもそうだ。風邪を引いていたということを抜きにしても、過労になった原因というものがあるはずである。柚紀は、そのことを端的に述べたのだ。
 もちろん、圭太もそのことには気付いていたかもしれない。ただ、昨日の今日ではまだいつも通りの思考はできなかったのだろう。
「あ、ごめん。私、余計なこと言っちゃったね。そんなこと、今言わなくてもいいのに」
「いや、柚紀は悪くないよ。むしろ、言ってくれてよかったよ」
 圭太は、少しだけ硬い表情でそう言った。
 だが、その表情はとても危ういものに見えた。少なくとも、柚紀の目にはそう見えた。
 それでも、今の柚紀にそれを訊くことはできなかった。
 
 部活中も、圭太はなんとなく上の空だった。
 部活に対して人一倍情熱を持っている圭太にとっては、極めて珍しいことだった。
 そういう状況ではありながらも、部活を早く切り上げたり、練習を適当にすることはなかった。
 そのあたりは圭太である。
 部活が終わると、圭太たちはすぐに学校をあとにした。
 この時点で紗絵と詩織が一緒である。このふたりにとっても、琴美は特別な存在なのだ。
 病院は学校から少し距離があるので、バスでの移動となった。
 バスの中でも会話はあまりなかった。
 病院に着くと、すぐに病室へ向かった。
 面会時間内なので、いつもより人の数が多い。
 病室に着くと、予定通り淑美が来ていた。
「あら、これはまた大勢で来たわね」
 そう言って淑美は微笑んだ。
「すみません、叔母さん。わざわざ来てもらって」
「ううん、気にしないで。たったひとりの姉さんのことだから、当然のことよ」
 件の琴美は、眠っていた。
「さっきまでは起きてたんだけどね。慣れないことで気が張ってたのかも。ついさっき眠っちゃって」
「なるほど」
 それを聞いて、圭太はホッと胸を撫で下ろした。
「あの、叔母さん」
「うん?」
「少し、いいですか?」
「ええ、いいけど」
「琴絵。僕はちょっと叔母さんと出てくるから、みんなをよろしく」
「うん」
 圭太は淑美と病室を出た。
 廊下を進み、階段を下り、中庭へと出てきた。
 中庭は、何本か大きな樹が植えてあり、木陰を作り出していた。その下では入院患者がほんのひとときではあるが窮屈な入院生活から解放され、羽を伸ばしている。
 ふたりは、空いていたベンチに腰を下ろした。
「姉さんも幸せね」
「えっ……?」
「圭太くんや琴絵ちゃんはもちろんのこと、みんなに心配してもらえるんだから。人徳ってやつかしらね」
「母さんは、すごい人ですから」
「確かに」
 淑美はクスクスと笑った。
「母さん、どんな様子でしたか?」
「ん、ほとんどいつも通り。ただ、薬のせいかちょっとボーッとしてたけど」
「なるほど」
「あとは、みんなに謝らなくちゃって言ってたわね」
「別に謝ることなんてないんですけどね」
「そうなんだけど、姉さんの性格上、そう言うのは当然でしょ?」
 圭太は黙って頷いた。
 妹である淑美はもちろんのこと、息子である圭太も琴美の性格はよく理解していた。
「あ、そうだ。もうひとつだけ気にしてたことがあったわ」
「なんですか?」
「圭太くんのこと」
「僕のこと、ですか?」
 圭太としても、琴絵のことだったらすぐにわかったのだろうが、自分のことだと言われ、多少戸惑いを感じていた。
「詳しいことは教えてくれなかったけど、とにかく気にしていたわ。そのことについては、あとで直接聞いてみれば?」
「そうします」
 頷きながらも、圭太はあれこれ考えていた。
 琴美が自分のことで気にかけることはいったいなにか。いろいろあるだろうけど、この期に及んでのことである。よほどのことかもしれない。
 そう考えていた。
「それで、私にどんな話があるの?」
「……今回の原因がなにか、聞きましたか?」
「軽い風邪と、そこへきての疲労でしょ?」
 淑美は、あえて『疲労』と言った。
「ひょっとして圭太くん、自分のせいだとか思ってない?」
「……そこまでのことは思ってませんけど……」
「でも、それに近いようなことは思っていた、と」
 なるほどね、と淑美は頷いた。
「圭太くんは真面目すぎるのよね。それに、頭が良すぎる。だから、考えなくてもいいことを考えてしまう。それ自体はもう直らないかもしれないけど、でも、少しでもそういうことを少なくしていかなくてはダメね。じゃないと、まわりが心配するわ」
「…………」
「姉さんが気にしてたのは、たぶんそのことね」
 順序立てて考えれば、すぐにわかることではあった。
 圭太の性格を説明するのはとても簡単だし、人を見る目がある淑美にとってはそれを理解するのはたやすいことだった。
「ねえ、どうして自分のせいだと思ったの?」
「実は、母さんが具合が悪いこと、気がついていたんです」
「そうなの?」
「ええ。まあ、動けなくなるほどのことではなかったですし、見た目的にもいつも通りではあったんですけど。その時に声をかけるなりなんなりしていれば、今回のことはなかったのかもしれないと思うと……」
 そう言って圭太は唇を噛みしめた。
 そんな圭太の様子を見て淑美は、圭太の頭を胸に抱き寄せ、優しい声で言った。
「あのね、圭太くん。あなたがどれだけ姉さんのことを大切に想っていても、人にはできることとできないことがあるの。その時にはこうなることなんて予想できなかったんだから、必要以上にあれこれ考えないこと」
「でも……」
「でも、はなしよ。それに、圭太くんならわかるでしょ? 姉さんが一番嫌がることはなにかって」
「はい……」
「だったら、今は余計なことは考えないこと。それに、姉さんは全然いつも通りなんだから、大丈夫よ。これは妹の私が保証するわ」
 優しく髪を撫で、諭すように言う。
「姉さん自身も今回のことを気にしてるから、圭太くんがあれこれ考えすぎてると、姉さんは余計にあれこれ考えちゃうわ。それは圭太くんにとっても不本意でしょ? だからこそ、圭太くんはいつも通りでいればいいの。姉さんもそれを望んでいるんだから」
「……わかりました」
 圭太は、小さく頷いた。
「うん。十八歳になろうかという圭太くんに向かって言う言葉じゃないかもしれないけど、良い子ね」
 淑美は、嬉しそうに言う。
「さて、圭太くん。もう少しこのままでいる? 私は別に構わないけど」
「いえ、そろそろ病室に戻ろうかと思います。これはこれで、とても魅力的な状態ではあるんですけど」
「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しいわ」
 ふたりが病室に戻ると、琴美が目を覚ましていた。
 どうやら人の気配で目が覚めたらしい。
「あっ、戻ってきた」
 それまでベッドのすぐ脇に座っていた琴絵が、圭太のために席を空けた。
「ごめんなさい、圭太。心配かけたわね」
「別に母さんが謝る必要なんてないよ。それに、今回のことはたまたまふたつのことが重なっただけなんだし」
 琴美は、圭太の物言いに少し驚き、しかし、そのすぐ前まで淑美と一緒だったことを思い出し、柔和な笑みを浮かべた。
「先生はなんて言ってるの?」
「明日の朝、もう一度検査して問題なければ退院していいそうよ」
「そっか。じゃあ、病院生活は二日で終わりってことか」
「ええ、そうね」
「どっちの方が快適?」
「なにもしないでいいというのは楽でいいけど、張り合いがないわね。やっぱり私には家の方があってるわ」
 そう言って笑う。
「そういえば、お昼近くにともみさんと幸江さんが来てくれたわ」
「先輩たちも心配してたから」
「それで、おふたりには一応話したんだけど、お店の方ね、少なくとも今週いっぱいは休みにしようと思うの。なにもないとは思うんだけど、なにかあると大変だから」
「その方がいいよ。母さんにもたまには休みが必要だと思うし」
 圭太は、琴美の言葉に少なからず驚いていた。
 確かに『桜亭』は、なにかある度に休みになるが、まとまっての休みはほとんどない。それを一週間も休みにしようというのだ。驚きもする。
「その休みの間に母さんもしっかりと体調を整えて、英気を養わないと」
「ええ、そうさせてもらうわ」
 それから少しの間、世間話をして帰ることになった。
「圭太。ちょっといい?」
 帰り際、琴美が圭太を呼び止めた。
「みんな、先に出てて」
 なにかあると思い、誰もなにも言わなかった。
「淑美となにを話したの?」
「たいしたことじゃないよ。ただちょっと、諭されただけ」
「淑美も、母親の役目を奪わないでほしいわ」
 冗談めかしてそう言う。
「でもさ、母さん。具合が悪いならそう言ってくれないと」
「そうね。今回のことで少し反省したわ」
「少しじゃなくて、猛烈に反省してほしいところだけど」
 圭太も冗談めかして言う。
「琴絵は、大丈夫だった?」
「直後はかなり取り乱してたけど、なんとか」
「そう。あの子にも悪いことしてしまったわね」
「母さんがこうしていつも通りでいることが大事なんだから、あまりあれこれ考えない方がいいよ。琴絵だってそのあたりのことはわかってるはずだし」
「そうは思うけど、迷惑をかけたのは事実だから」
「そういうところで律儀にならなくてもいいと思うけど」
 ため息をつく。
「圭太」
「ん?」
「ちょっとここへ」
 琴美はそう言って自分の膝元を指さす。
「どうしたの、急に?」
「いいから、ほら」
 圭太はそれ以上なにも言わず、言われるままに琴美の膝に体を寄せた。
「あなたも少し肩の力を抜かないと。私がいなくて家のことがあったのはわかるけど、できることとできないことがあるんだから」
「…………」
「それにね、母親としてはもう少し子供らしいところも見せてほしいの。成長した姿を見るのも嬉しいけど、母親だからこそできることもあるんだから、その機会を奪わないでほしいわ」
「なかなか難しい注文だね」
「あなたは、一足飛びに成長してしまったから、余計に淋しいわ」
 心から慈しむように圭太の頭を撫でる。
「今回、私が倒れたことであなたや琴絵が心配してくれたのと同じように、もしあなたになにかあったら私も琴絵もすごく心配するわ。それに、柚紀さんたちもね」
「それは、誰でもそうだと思うよ」
「そうね。でもね、圭太。これは自分でもわかるんだけど、私はきっと、それこそとんでもなく取り乱してしまうと思うわ。気が動転して、なにをやったらいいかわからなくなって。それくらい、あなたのことが大切なの……」
 よく見ると、琴美の手は少し震えていた。
「祐太さんが亡くなって、私を絶望の淵から救い出してくれたあなただからこそ、そうなってしまうのよ」
「母さん……」
「あなたに祐太さんの陰を重ねているのはわかってる。それでも、わかってはいてももうダメなのよ。あなたのいない生活なんて考えられないの。もしそうなってしまったら、今度こそ私は死ぬわ」
 冗談なんかではとても言えないようなことだった。
 圭太としても、琴美がそこまで言う理由がわかるだけに、なにも言えなかった。
「だから、圭太。私や琴絵のためにあれこれがんばってくれるのは嬉しいけど、もう少しだけ肩の力を抜いてみて。そうするだけで、今までよりずっと楽になるはずだから」
「そうできるように、努力してみるよ」
「ええ」
 琴美は、圭太の頬に軽くキスをした。
 それは親子の親愛の情を示すキスというよりは、恋人のそれに近かった。実際、琴美の心情はそれに近い。
 圭太を諭すためにはそこまで言わなくてはならないのだろうが、それは時として逆効果になる。
 今回はどちらに転ぶのかは、まだわからない。
 
 圭太は、全員を家に招待し、お茶を振る舞った。
 理由はどうあれ、圭太と一緒にいられるならお茶だろうがなんだろうが構わないメンツである。全員がそれを素直に受けた。
 お茶を淹れるには家の台所よりも店の方が適しているため、圭太は店の方にいた。隣には柚紀の姿もある。
「この時間にここが閉まってるのって、やっぱり違和感あるね」
「まあね。本当になにかない時以外は、たいてい開いてるし」
「それが今週いっぱい続くんだから、本当に異例だよね」
「うん」
 人数分のカップを用意し、お盆に並べている。
「ね、圭太。無理だけはしないでね」
「えっ……?」
「正直ね、今の圭太見てると、すごく心配なの。朝よりは幾分ましにはなったみたいだけど、それでも、心配」
 柚紀は、真っ直ぐな瞳で圭太を見つめる。
 そんな柚紀の意志のある視線を受け、圭太はわずかに目をそらした。
「大丈夫だよ。僕は大丈夫。柚紀に迷惑をかけることなんて──」
「かけてよ」
「えっ……?」
「私に迷惑、かけてよ。もっともっと私のこと、頼ってよ。そりゃ、まだ結婚してないから本当の意味での『家族』ではないかもしれないけど、でもね、私は去年、圭太と婚約してからずっと、気持ちだけは『家族』のつもりだったんだから。それなのに、圭太はいつまで経っても私のことを『家族』扱いしてくれないし」
「でも……」
「でも、じゃないの。いい? ここで私が言ってる『家族』がどんな意味を持ってるか、圭太ならわかるでしょ?」
「うん」
「それに、たとえ『家族』じゃなくても私は圭太の彼女なんだよ。もっといろんなことで頼ってくれないと。私ばかり圭太を頼ってたら、一方通行になっちゃうよ。そんなの、私が納得できない」
「柚紀……」
「私って、そんなに頼りないかな?」
 真摯な瞳、真剣な表情。
 今の圭太にとっては、どちらも眩しすぎるものだった。
「きっとね、今回みたいなことでもないと、こういうことってわからないし、ちゃんとは話せないと思うの。今の圭太にこんなこと言うと混乱させるってわかってるんだけど、それでも言わないわけにはいかなくて」
「柚紀のせいじゃないよ。僕が不甲斐ないせいなんだから」
「んもう、そうじゃないでしょ。不甲斐ないとか、そうじゃないとか、そんなのは関係ないの。ようは、圭太の考え方の問題なの」
「僕の、考え方?」
 圭太は首を傾げた。
「最初に自分でなんとかしようと思うのはいいわよ。だけど、そのあとも全部自分でなんとかしようと思うのはいただけない。私や琴絵ちゃんたちにできるかどうかはわからないけど、とりあえず話してみてよ。そうすれば圭太が思いつかないような解決方法があるかもしれないんだから」
「…………」
「すぐには変えられないかもしれないけど、もう少し努力してみて。そうすればきっと、もっともっといろんなことができるようになるから」
 そう言って柚紀は、圭太の手を取った。
「ね?」
 そして、いつも以上に優しい笑みを浮かべた。
「……ありがとう、柚紀」
 圭太は、そんな柚紀を優しく抱きしめた。
「あのさ、柚紀」
「ん、なに?」
「早速で悪いんだけど、今日は一緒にいてくれないかな?」
「そんなのおやすいご用よ。というより、もとからそのつもりだったし」
「そうなの?」
「だって、琴美さんがいないってことは、家のことを三人で手分けしてやってるってことでしょ? だったら、私がその手伝いをするのは当然よ」
「そっか」
「それに、そういうのがなくても今日は一緒にいたかったの」
「そうなんだ」
 さっきまでの硬い雰囲気が少しだけ和らいだ。
「今日は、圭太を目一杯甘えさせてあげる」
「別に目一杯じゃなくても……」
「いいの。じゃないと、私が満足できないんだから」
 柚紀らしい物言いに、圭太は思わず苦笑した。
「よし。ちゃんと約束できたし、そろそろやることやらないと」
「あ、うん、そうだね。もう紅茶もいい頃合いだと思うよ」
「じゃあ、私がカップを運ぶから、圭太はお茶とお菓子をお願いね」
「了解」
 
 その夜。
 夕食は柚紀が中心となって作り、通夜のような食事だった昨夜とは打って変わって明るい雰囲気だった。
 圭太にとってみれば、それだけでもかなり助かっていた。それは圭太にはとても無理なことだったからだ。
 琴絵も朱美も、柚紀がいたおかげでよく話し、よく笑っていた。
 夕食を食べ、しばしの団らんのあと、柚紀がこんな提案をした。
「琴絵ちゃん。一緒にお風呂に入らない?」
 琴絵としては特に断る理由もなかったので、すぐにその提案を受け入れた。
 柚紀と琴絵が風呂に入ると、朱美が圭太の側に寄ってきた。
「昨日はどうなるかと思ったけど、なんとかなっちゃったね」
「ん、そうだな」
「圭兄も、うちのお母さんと伯母さん、それに柚紀先輩のおかげでいつもの圭兄に戻ったし」
「朱美から見ても、いつもと同じには見えなかったか?」
「うん、全然。無理してるってすぐにわかったよ。でも、だからって私にはなにも言えなかったし、なにもできなかったんだけどね。そういう時に今日の柚紀先輩みたいになにかできれば、私ももっと圭兄の『特別』になれるのになぁ」
 朱美は、言葉ほど悔しそうではない。
「ね、圭兄。圭兄にとって、伯母さんてどんな存在なの?」
「母さんか。そうだな……かけがえのない大切な存在だよ」
「それだけ?」
「あとは、守らなくちゃいけない存在、かな」
「それって、どういう意味?」
 朱美は首を傾げた。
「それまで母さんを守っていた父さんが死んでしまって、誰も母さんを守ってはくれなかったからね。もちろん、金銭的なこととかいろいろ手を貸してくれた人はいるよ。でも、それはそれだけ。母さんの『心』を守ってくれた人はいなかった」
「その役目を圭兄が?」
「父さんと同じだけは無理だったと思うよ。僕は父さんじゃないから。それでも、少なくとも母さんが絶望しないでいられるくらいには、代役が務まってると思う」
「そっか……」
「だけど、なんでそんなことを?」
「私がここに居候するようになって一年半くらいになるけど、圭兄と伯母さんの関係っていわゆる普通の親子の関係より一歩も二歩も前にあるように見えるの。なんていうのかな、親子ではあるんだけど、そうじゃないところもあって。ん〜、言葉で表すのは難しい」
「なんとなく、朱美の言いたいことはわかるよ」
 そう言って圭太は、朱美の頭を撫でた。
「確かに世間一般の尺度からすると、僕と母さんの関係は普通じゃないと思うからね」
「圭兄もそう思うの?」
「僕自身はさっき言った感じだけど、母さんは僕に父さんの陰を見てるからね。単なる息子というよりは、自分の愛すべき相手、なのかもしれない」
「つまり、伯母さんにとって圭兄は息子であり夫であり恋人ってこと?」
「簡単に言えば、そうかもしれない」
「ふ〜ん……」
 大切な人であればあるほど、人はその人にいろいろなものを求めてしまう。
 元は他人の夫婦や恋人でもそうなのであるから、実の親子ならなおさらだ。
「じゃあ、あれだね。もし圭兄になにかあったら、伯母さん、それこそ大変だね」
「そのことは母さんに言われたよ。半分脅しが入ってたけど」
「そうなんだ。それだけ、圭兄のことが大切ってことだよ」
「わかってるよ。だからこそ、そうならないようにしようと心に決めたんだから」
「うん、それがいいよ。今は、伯母さんだけじゃなくて、大勢の人が悲しむから」
 私もそうだけど、と言って笑う。
「それはそうと、圭兄」
「ん?」
「琴絵ちゃんと柚紀先輩が一緒にお風呂に入ってるんだから、私たちも一緒に入ろうよ」
「……あのさ、朱美」
「うん?」
「柚紀のいる時にそんなことしたら、どうなるかわかるだろ?」
「それは圭兄に対してでしょ? 私はそんなに被害を被らないし」
「…………」
「あはは、冗談だよ、冗談。さすがに柚紀先輩のいる時にはしないよ。でも、今度柚紀先輩のいない時に、一緒に入ろうね」
 同じ頃。
 柚紀と琴絵も話題はやっぱり圭太と琴美のことだった。
「はあ……」
「どうしたんですか、ため息なんてついて?」
「ん、やっぱり琴美さんにはかなわないのかな、って思って」
「お母さんにですか?」
 体を洗っていた琴絵は、手を止めて柚紀の方を見た。
「そりゃ、母親と彼女じゃ立場が全然違うから比べること自体間違ってるとは思う。それでも、比べちゃうんだ。特に琴美さんは圭太のことを大事に想ってるから」
 そう言って柚紀はため息をつく。
「今日もさ、見ててわかるんだよね。琴美さんが目を覚ました時、圭太はいなかったでしょ?」
「はい」
「で、その時の琴美さんの表情と圭太が戻ってきた時の表情とが全然違うの。会いたい人に会えた、っていう感じ。こう言ったら琴美さんに失礼かもしれないけど、あたかも恋する乙女のそれだったわね」
「お母さんにとってお兄ちゃんは、本当に特別ですからね。それもしょうがないと思いますよ」
「琴絵ちゃんから見てもそう思う?」
「ええ、思いますよ。思いますけど、なにも言えないんですよ。お母さんが今みたいに元気でいられるのは、お兄ちゃんのおかげですから。お兄ちゃんがいなかったら、お母さんはきっと、ダメになってたと思います」
「そのあたりのことは、少しだけ聞いたことあるけど」
 柚紀としても、琴美と張り合うつもりは毛頭ないのだ。ただ、純粋に圭太に対する想いが強いために、琴美のことが気になるのである。
「前にね、圭太に言われたことがあるの。パッと見は琴絵ちゃんの方が『強敵』なんだけど、実際は琴美さんの方が上だって」
「確かにそうかもしれませんね。普段はそんなことないですけど、お母さんのお兄ちゃんに対する想いはとても強いですから。きっと、お母さん自身も柚紀さんに負けてないと思ってますよ」
「あはは、そうだよね、やっぱり。でもね、それはそれでいいの。親子なんだから絆は強い方がいいし、仲が良い方がいいんだから。ただ、ちょっとだけ妬けちゃうんだけどね」
 柚紀としても圭太に対する想いが強いから、そう思ってしまうのだ。
「でもまあ、それも乗り越えなければならない壁だと思って、私は一生懸命努力する所存なのでありますよ」
「柚紀さんなら大丈夫ですよ。なんたって、あのお兄ちゃんが好きになった人なんですから」
「ふふっ、だといいんだけどね」
 柚紀は、笑いながらもその表情は微妙に真剣だった。
「ねえ、琴絵ちゃん」
「はい」
「正直なところ、圭太は大丈夫だと思う?」
「どういう意味ですか?」
「ん、確かに表面上はだいぶ元に戻ってきたけど、なんとなく心の中はまだ戻ってない気がして」
「心配しすぎじゃないですか?」
「うん、私の思い過ごしならそれでいいの。ただ、念のため少しだけ注意して見ていた方がいいと思って。それで琴絵ちゃんに話したの」
「ん〜、柚紀さんがそう感じてるってことは、可能性を否定できないってことですからね。わかりました。柚紀さんの目の届かない場所では、私がしっかり見ています」
「お願いね」
 柚紀としては、本当は常に自分の目の届くところで圭太を見ていたいのだろうが、それは不可能である。そこで、利害関係の一致している琴絵にその重要な役目を任せたのである。そこに将来の『義妹』に対する配慮があったかどうかは、わからない。
「にしても、本当に琴絵ちゃんてよくできた妹よね」
「そうですか?」
「私自身も妹だからよくわかるんだけど、私は琴絵ちゃんほどできた妹じゃないから」
「でも、実際どうなんですかね」
「なにが?」
「たまにお兄ちゃんに言われるんですけど、私はもう少しワガママを言った方がいいって。それって、逆のことじゃないですか?」
「ああ、それは琴絵ちゃんがあまりにもよくできた妹だからよ。琴絵ちゃんも圭太があんなだから心境はわかると思うけど、優秀すぎて自分にはなにもすることがないのって、淋しいでしょ?」
「……ああ、なるほど」
「圭太はそういうことを言ってるのよ。琴絵ちゃんて、ワガママとかほとんど言ってこなかったんでしょ?」
「そんなことはないと思いますよ。特にお兄ちゃんには構ってほしくて結構ワガママ言ってましたから」
「だとしたら、圭太にとってはそれはワガママだと認識されてないってことだよ。言葉が正しいかどうかはわからないけど、琴絵ちゃんがそういうことを言うのは、当然のことだと思ってたのかも」
 琴絵は小さく唸り、考え込んでいる。
 そんな琴絵を見て、柚紀はクスクス笑った。
「でも、それは以前の話でしょ? 今はちゃんとワガママ、言ってるでしょ?」
「たぶん、そうだと思います」
「圭太相手なら、どんどんワガママ言った方がいいよ。その方が圭太も喜ぶし」
「そうですかね?」
「うん、絶対にそう。特に、琴絵ちゃんに対してはね。私なんかがワガママ言い過ぎると呆れられちゃうけど、琴絵ちゃんなら大丈夫。なんだかんだ言いながらも、ちゃんと応えてくれるから」
「……じゃあ、もうちょっとだけワガママ言ってみます」
「うん、そうしてみな。あ、でも、それはできれば私がいない時にしてね。私がいる時にそうされちゃうと、妬けちゃうから」
「はい、わかりました」
 琴絵は、笑顔で頷いた。
「さてと、今度は私が体を洗う番ね」
「あ、じゃあ、私が背中を流します」
「ホント? じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「はい」
 
 二
 次の日。
 午前中の検査で特に問題のなかった琴美は、昼過ぎに家に帰ってきた。念のため淑美が付き添っていたが、今は秋休みということで部活が終わった圭太たちも、琴美が戻ってくる頃には家に帰れていた。
「やっぱり家が一番落ち着くわ」
 琴美は、リビングのソファに座るなりそう言った。
「先生はなんて?」
「念のため今週いっぱいは安静にしてなさいって」
「そうだね。母さんはそうやって誰かが釘を刺してくれないと、すぐなんでもやりそうだから」
「あら、失礼ね。私だって反省してるんだから、さすがにそこまでのことはしないわよ」
「ならいいんだけど」
 圭太も、琴美がこうして家に戻ってきて多少は安心したのか、表情も穏やかだった。
「とりあえず、母さん。別になにもするなとは言わないけど、せめて今日だけはおとなしくしててよ。じゃないと、元の木阿弥になるから」
「わかったわ」
「じゃあ、今日は私が夕飯を作ってあげましょうか」
 やる気満々な表情なのは、淑美だ。
「いいの、家の方は?」
「大丈夫よ。ふたりとも自分でなんとかできるくらいには生活能力あるんだから」
 なんともひどい言いようである。
「私としては、こっちにいて朱美の様子を見て、圭太くんや琴美ちゃんと一緒にいる方がいいわ」
「だとしても、せめて連絡くらいはしないとまずいでしょ?」
「そうね。一応連絡しておかないと」
 淑美は携帯電話を取り出し、早速電話する。
「そうだ。圭太」
 それを見ていた琴美が、声を上げた。
「ん?」
「あなた、携帯持ちなさい」
「えっ……?」
「これからのことを考えると、確実に必須アイテムになるはずだから」
 唐突なことに、圭太は多少戸惑い気味だ。
「それに、ないとは思うけど、今回みたいなことがあった場合の連絡方法にもなるし」
「…………」
「なにか質問ある?」
「いや、特には」
「じゃあ、週末にでも買いに行きましょう」
「お母さん、私は?」
「琴絵も一緒でいいわよ」
「あはっ、やった」
 一高でも携帯の普及率はかなりのもので、圭太のまわりが特別だったのである。
 今回、圭太が持つことになれば、自然とまわりも持つことになるだろう。
「連絡しておいたわ」
「ねえ、お母さん」
「どうしたの?」
「私も携帯電話持ちたい」
「あら、どういう風の吹き回し? 前に持ちなさいって言ったら、いらないって言ってたくせに」
「この前はこの前。今回は今回なの」
「おおかた、圭太くんが持つから自分も持ちたいっていうんでしょ?」
「…………」
 視線を逸らす朱美。
「ま、別にいいわよ。うちは家族割り使ってるから」
「ホント?」
「ええ。それで、いつ買うの?」
「できれば週末に」
「じゃあ、いつ買うかちゃんと決まったら連絡しなさい。あなたはまだ未成年だから、ひとりでは買えないから」
「うん、わかった」
 圭太は別として、琴絵も朱美もどんな携帯を買おうかとあれこれ考えている。
「姉さん。材料は適当に使っちゃっていいの?」
「いいわよ。足りなければ買ってきてもいいし」
「あ、冷蔵庫にはあまり残ってないですよ」
「そうなの? じゃあ、まずは買い物に行かないといけないわね。朱美、あなたも一緒に来なさい」
「ええーっ、私も?」
「荷物持ちよ、荷物持ち」
「むぅ……」
「朱美ちゃん、私も一緒に行くから」
「琴絵ちゃんが一緒なら、ま、いっか」
 淑美は、琴絵と朱美を連れて買い物に出た。
 必然的に取り残される形になった圭太と琴美は、特になにをするでもなく、リビングにいた。
「昨夜、柚紀さんにもあれこれ言われたでしょ?」
「まあね。僕としても、あの柚紀がなにも言わないとは思ってなかったけど」
「柚紀さんは、自分のことよりもあなたのことを優先するから、それは当然よ。それに、少なからず私への対抗心というか、嫉妬みたいなものもあっただろうし」
 琴美は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……母さんの悪いところは、そういうことをある程度意識してやってるってことだよね、絶対」
「あら、昨日のはそういうことはないわよ。純粋にあなたとふたりきりでいたかっただけなんだから。それがたまたま柚紀さんを刺激してしまっただけ」
「……まあ、そういうことにしておくよ」
 圭太は小さくため息をついた。
「ところで、圭太」
「なに?」
「祥子さんに今回のこと、話した?」
「いや、まったく。そもそも母さんが倒れたことも話してないから」
「そうね。今はその方がいいかもしれないわ。この期に及んでなにかあったら、寝覚めが悪いし」
「ただ、事前の予告なく、しかも特になにもないこの時期にいきなり店を休んでるから、なにかあったと気付いてるかもしれないけど」
「それならそれでいいのよ。それを聞かれた時に、はじめて説明すれば」
「そうだね」
 祥子はそろそろ臨月を迎える。十月の中旬が出産予定日なのだが、詳細な日付はまだ決まっていない。
 圭太も直接家に出向いたり、電話をかけたりして心のケアに努めている。
「それにしても、正月でもないのに何日も仕事をしないというのは、不思議な感じがするわ」
「そんなこと言って、無茶だけはしないでよ」
「わかってるわよ。もうあなたや琴絵に心配かけるわけにはいかないし」
「心配かけるなとは言わないけど、余計な心配はかけさせないでくれると助かるよ」
「ええ、重々肝に銘じておくわ」
 琴美としても、圭太や琴絵にこれ以上迷惑かけるつもりは毛頭ない。琴美の立場としては、自分が迷惑をかけられるのはいいとしても、自分がかける側に立つのはやはり問題だと考えている。
 もっとも、それは圭太も同じである。
「ふう……」
 琴美は息を吐き、ソファに体を埋めた。
「でも、本当によかったよ」
「ん、なにが?」
「こうしてすぐに母さんが戻ってきてくれて。入院が長引くようなことがあったら、父さんになんて言えばいいかわからなかったから」
「なに生意気なこと言ってるのよ。あなたはまだ、そんなこと気にしなくていいの」
「だけど、父さんと約束したからさ。母さんを守るって」
「……それはそれで嬉しいけど、でもね、圭太。あなたがそこまでひとりで背負う必要はないのよ。祐太さんだって、そこまでのことをあなたひとりに求めてないわ」
「わかってるんだけど、なかなか直らないんだ。たまに柚紀にも言われるんだけど」
 そう言って圭太は苦笑する。
「柚紀さんの立場からすれば、言うのは当然よ」
「そうなんだけどね」
「それに、今のあなたにはいろいろなものを少しずつ背負ってくれる人がたくさんいるでしょ?」
「まあね」
「その誰もが、あなたのためになにかをしたいと思ってるの。だからね、ほんの少しでいいから考え方を変えて、自分の負担を減らしてみなさい。そうすることによって、今まで見えなかったものが見えてくると思うから」
「努力するよ」
「ええ」
 琴美としても、圭太が今すぐに今までの考え方を変えられるとは思っていない。それは母親としてこれまでずっとその姿を見てきたのだから当然である。それでも、これから先もそのままではいつかどこかで綻びが生じる。それを見過ごすことは母親として絶対にできないのである。
 特に、琴美にとって圭太はなくてはならない存在だから。
「あ、そうそう。ひとつ言い忘れていたわ」
「ん、なに?」
「今週いっぱいはお店も休みにするんだから、あなたたちは今まで通り普通に生活していいのよ。私に気を遣って部活を早く切り上げたり、無理に家にいる必要もない。むしろ、そうされる方がかえって悪い気がするわ。いいわね?」
「了解」
 
 次の日の午後。
『桜亭』には主立った面々が揃っていた。
 店自体はまだ休みなのだが、琴美が無事退院してきたことを皆で喜ぼうという趣旨の集まりだ。
 この場にいないのは、祥子と部活の関係で凛だけだ。ほかは全員揃っている。
 特になにかするわけではない。お茶とお菓子を囲んで、ただわいわいと話をする。
 それだけの方が、むしろ琴美は喜ぶ。
 久しぶりのように感じる穏やかな時間は、あっという間に過ぎ去った。
 夕飯も、と琴美は皆を誘ったのだが、さすがにそれはということで、柚紀を除いて皆帰った。
 夕飯は琴美が中心となって作り、本当に穏やかな時間を過ごした。
 琴美だけではなく、皆笑顔でその時間を楽しんでいた。
 そして、夜も更けてきた頃。
「琴美さん、楽しそうだったわね」
「みんなに来てもらった甲斐があったよ」
「みんなも琴美さんのこと、心配してたから。今日のことがなくても自主的に来てたと思うけどね」
「確かに」
 圭太は、柚紀に膝枕をしてもらいながら、小さく頷いた。
「琴美さんて、みんなの『お母さん』て感じがするんだよね。だから、自然とまわりに人が集まってくる。圭太や琴絵ちゃんはちょっと複雑な気持ちかもしれないけど」
「母さんは昔からそうだから。元から性格が世話焼きだから、ついつい誰にでも構っちゃうんだよ。それが転じて、結果的に今みたいになってる」
「で、そんな琴美さんの息子である圭太のまわりにも、やっぱり人が集まってくる、と」
 そう言って柚紀はにっこり笑う。
「そこまで意識したことはないけど、そうだね、母さんみたいになれたらいいと思うよ」
「圭太はもう、琴美さんと同じくらいの位置にいると思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ。じゃなかったら、圭太のまわりにみんながいることはなかったと思う。そりゃ、何人かはいたかもしれないけどね」
「……きっと、僕にはわからないことなんだろうね」
「まあね。そういうのって、まわりが見て判断することだから。でも、わからなければいくらでも聞いてくれていいんだよ。私は、いつでも圭太のことを見てるんだから」
「ありがとう、柚紀」
 圭太の言葉に、柚紀は小さく頷いた。
「あ、そうだ。圭太」
「ん、なに?」
「確か、土曜日に携帯買いに行くんだよね?」
「あ、うん、そうだけど。あれ? 柚紀に話したっけ?」
「ううん。琴絵ちゃんから聞いたの。というか、ど〜して彼女の私に話してくれないのよぉ。私も携帯持ってないことわかってるくせに」
「いや、別に故意に黙ってたわけじゃないんだよ。僕自身としては、携帯はあまり持ちたいわけではないから、どうしてもその優先順位が低くなるんだ。だから、柚紀への話も後回しになっちゃったわけ」
「そんな言い訳聞きたくない」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「ん〜、そうだなぁ……」
 柚紀は、わざとらしく考える。本人の中では、すでになにをさせるかは決まっているはずである。
「まずは──」
「……まずはって、いくつもあるの?」
「まずは、その日は私とデートすること」
「それくらいは、別にいいけど」
「次に、これから私を目一杯可愛がってくれること」
「それも、まあ……」
「それから、残りの秋休みの間、私がここに泊まるのを許可すること」
「残りって、日曜までってこと?」
「ん、さすがに日曜は次の日の準備があるから帰るから、土曜までってこと」
「……なるほど」
「とりあえず、その三つでいいよ」
「わかったよ」
 圭太としては、それほど無茶なお願いではなかったことに安堵していた。
 もっとも、今日ここへ来た理由を考えればあまり無茶なことは言ってこないだろうという考えもあった。
「あれ、でも、泊まる準備はしてきたの?」
「当然。この私がそういうミスを犯すわけないじゃない」
「……最初から泊まるつもりだったんだね」
「うん」
 嬉しそうに言う。
「まあでもね、圭太と一緒にいたいのは当然なんだけど、琴美さんの側にいた方がいいのかなって、そういう気持ちもあるんだ」
「母さんの?」
「いくらもう問題ないとはいっても、やっぱり病み上がりなわけでしょ? 圭太や琴絵ちゃんたちで負担は分担できるとは思うけど、私もその役目を担いたいと思って」
「そこまでしなくてもいいと思うけど」
「それは私の気持ちの問題だから。実際に役に立てなくてもいいの。たぶん、琴美さんが普通に家事をこなしたら、私なんて役に立たないと思うし」
 家事のエキスパートである琴美に張り合っても、勝てる見込みは薄い。それは柚紀も十二分に理解していた。それでも、自分もなにかしたい、そういう気持ちに突き動かされてやって来たわけである。
 圭太も柚紀の気持ちは素直に嬉しかった。ただ、同時に自分の母親の性格も理解していることもあって、その柚紀の気持ちが空回りしてしまうのではないかと多少心配していた。
 もちろん、柚紀とて親切の押し売りをしようというつもりは毛頭ない。ようするに、じっとしていられないのだ。
「ま、近い将来『お義母さん』になる琴美さんの点数稼ぎという意味も、ないわけでもないけどね」
 ペロッと舌を出し、笑う。
「本当に柚紀にはかなわないな」
「ん、どうしたの、突然?」
「そういう行動力は、僕も見習わないといけないと思って」
 圭太は腹筋を使って体を起こし、柚紀に向き直った。
「考えつくことはあるんだ。いろいろね。でも、それを実行できるかどうかは別問題だから。僕にはそれができなくて、柚紀にはそれができる。それが羨ましい」
「ん〜、そんなことないと思うけどなぁ。私がこうやって積極的になれるのは、あくまでも圭太絡みの時だけだから。それもたいていは、圭太と少しでも長く一緒にいたいから。目的が決まってるからあとは手段を考えるだけなの。だから、実際はそんなにたいしたことはしてない」
「だとしても、少なくとも僕よりは積極的だよ」
「それはね。というか、圭太にはもっともっと積極的になってほしい。それこそ、二十四時間一緒にいられるくらいにね」
 大げさだけど、と言って笑う。
「じゃあ、できることから少しずつやっていった方がいいのかな」
 そう言って圭太は柚紀を抱きしめ、キスをした。
「ん……ん……」
 柚紀は、まるで圭太の行動がわかっていたかのように、積極的に唇を求める。
「ん、はあ……」
 潤んだ瞳で圭太を見つめる柚紀。
「カワイイよ、柚紀」
「ん、ありがと、圭太」
 圭太は、そのまま柚紀をベッドに押し倒した。
「今日も、いっぱい可愛がってね」
 
 暦が変わり、十月になった。
 いつもなら秋休みが終わり、授業がはじまる日なのだが、今年は暦の関係上、まだ休みだった。
 とはいえ、一高吹奏楽部にとってはあまり関係ない。全国大会本番まであとちょうど四週間という日でもあり、時期的には一度なんらかな形が見えてきてほしい頃でもあった。
 だからというわけではないが、練習もいつも以上に気合いが入っており、それにあわせて圭太も張り切っていた。
 三年は部活に集中しながらも、頭のどこかでは常に受験のことを考えてもいた。コンクールが終われば、あとはただひたすらに受験勉強の日々がやって来る。その時になってはじめてなにかをする、というのではさすがに遅すぎるので、その前からなにかしらやっておかなければならない。
 もっとも、とりあえずコンクールが終わらなければ本腰を入れられないというのが、三年の総意だろう。
 一方、一、二年は、コンクールの練習と平行して一高祭とアンコンの練習も行っていた。
 これはこれでなかなか大変で、毎年のことながら苦労している。ただ、それもコンクールで全国大会へ出られる者の特権でもあるのだから、文句を言う者はいない。
 アンコンの方はそろそろ出場する組み合わせが決まる。それが決まると、大半の部員は一高祭に向けてのみとなる。それをラッキーと捉えるか、アンラッキーと捉えるかはそれぞれである。
 午前中に部活が終わると、いつもの面々は一度それぞれ家に帰った。いや、それは正確ではなく、柚紀を除いて家に帰った。柚紀は、現在進行形で高城家に泊まっているので、帰る必要はなかった。
「──それにしても、どうしてもこうもみんな揃って考えが一緒なのかしら」
 ダイニングで昼食のオムライスを食べながら、柚紀はそんなことを言った。
「どうしてって、そんなの決まってるじゃないですか。みんな、圭兄と一緒がいいんですよ」
 朱美は、スプーンを片手に、なにを今更という感じで答える。
「それはわかるけどさぁ。でも、ひとりくらいそれを無視してくれてもいいと思うのよ」
「それこそ無理ですよ。だって、もし先輩が今の私たちの立場だったら、それ、できますか?」
「……ん〜、無理ね」
「ですよね? ようするに、そういうことなんです」
 柚紀を説き伏せて、朱美は満足そうにオムライスを頬張った。
「あれ、でも、私たちってまだ未成年だから、保護者同伴、もしくは同意書持参じゃない限り、買えないのよね。あのふたりはそのあたりのこと、大丈夫なのかしら?」
「さあ、どうなんですかね。そこまではわかりませんけど」
「ま、別にいいんだけどね。私は全然問題ないし」
 柚紀は、わざわざ同意書を光夫に届けさせていた。それを届けさせるに至ってもそれなりの問題があったのだが、最後は柚紀が押し切った形になった。
「朱美ちゃんのとこは、お母さんが来るんだよね?」
「ええ、はい。うちのお母さん、そういう賑やかなのが大好きですから」
「何度か顔会わせてるけど、確かにとても社交的な人だもんね」
「最近は、確実に『オバサン』化してますけど」
 そう言ってため息をつく。
「でも、そうやってわざわざ来てくれるんだから、朱美ちゃんはすごく大切にされてるってことでしょ?」
「どうなんですかね。大切にはされてると思いますけど、実際は娘の私よりも圭兄や琴絵ちゃんに会いたいのかもしれません」
「あはは……」
 半分冗談で言ってるとはいえ、淑美の性格を考えるとあながち冗談とも言えない。
 柚紀も、自分の父親や姉がそういう性格なので、朱美の気持ちが理解できた。
「そういえば、圭太」
「ん?」
「圭太はどんな──」
 と、ちょうどその時、インターホンが鳴った。
「ちょっとごめん」
 一番玄関に近かった圭太が対応する。
「誰かな?」
 柚紀たちは玄関の方へ聞き耳を立てる。
 一方、圭太は玄関を開け、来訪者を迎える。
「やっほ、圭くん」
 やって来たのは、祥子だった。
「今日はどうしたんですか?」
「お店の方が休みだったから、どうしたのかなと思って。都合、悪かった?」
「いえ、大丈夫です。立ち話もなんですから、どうぞ」
「うん」
 身重な祥子に手を貸す。
 祥子がリビングに入ってくると、早速柚紀たちが顔を出す。
「あ、柚紀もいたんだね」
「ええ。ちょっとこのあと予定もあるので」
「そうなんだ」
 大きなお腹を労るように、ソファに座る。
「すみません。食事中だったので、先にいいですか?」
「うん、いいよ」
 残っていたオムライスをかきこみ、食器を流しに戻し、ついでに祥子のためにお茶を淹れる。
「それで、どうしてお店、休んでるの?」
「実はですね、母さんが体調を崩してしまって」
「えっ、琴美さんが?」
「ええ。今はもう大丈夫なんですけど、念のために今週いっぱいは休みにしようということで」
「そっか、そうだったんだ」
 それ相応の理由がある時しか休まない『桜亭』が休んでいたわけである。祥子としてもそれなりの理由があるのだろうとは思っていたのだが、まさかそういう理由だったとは思いも寄らなかった。
「じゃあ、週明けからはお店もやるんだね」
「ええ。じゃないと、逆に母さんが腐っちゃいそうで。今朝とかも仕事がしたくてしたくてしょうがないという感じでしたし」
「ふふっ、琴美さんらしいね」
 祥子はそう言って笑う。
「それで、その琴美さんは?」
「今は店の方にいます。明日一日でなんでもはできませんから、今日もいろいろ確認してるところです」
「なるほど」
 そんなことを話していたら、件の琴美が戻ってきた。
「あら、祥子さん。いらっしゃい」
「こんにちは」
「今日はどうしたの?」
「ちょっと散歩がてらこちらへ来たら、お店が休みだったので」
「ああ、それで」
「圭くんから聞いたんですけど、もう大丈夫なんですか?」
「ええ、全然大丈夫よ。むしろ、休みすぎて体がおかしくなりそうなくらい」
「それならよかったです」
 それを聞き、祥子もひと安心という感じだ。
「祥子さんの方は、どうなの?」
「至って順調です。昨日、診察してもらった時も、全然問題ないと太鼓判をもらいました」
「そう。それはよかったわ」
 琴美にとっては、多少不本意な形ではあっても初孫には違いなく、子供の誕生を心待ちにしていた。
 だからこそ圭太に対してもあれこれ言っているのだ。
「あ、そうそう。圭くん」
「なんですか?」
「予定日がね、ちゃんと決まったの」
「いつですか?」
「十五日だって」
 圭太はカレンダーに近づき、十五日に○をした。
「なんかね、もともとそのあたりの予定だった人が、ちょっと早まっちゃったらしくて、その代わりに私が入ったみたい」
 今の出産は、自然に任せるというよりは、ある程度人為的にいつ生まれるか操作しているところがある。医者も当然人間なので、常に見ているのは不可能だから、という理由もある。
 祥子の場合は、最初は十月中旬くらいと言われていて、それから十五日前後となり、今回十五日と決まったのである。
 もちろん、それはあくまでも病院側の予定でしかない。実際の出産がそこまで予定通りに行くとは、必ずしも言えないのも事実である。
「入院のタイミングは、たぶんだけど、十二日か十三日になるかな」
「わかりました。覚えておきます」
 圭太としても、できる限り祥子の側にいるつもりなので、そういう情報は確実に知っておかなければならなかった。
 ただ、圭太にとっては部活もあるので、時間のやり繰りが大変にはなる。
「ところで、柚紀」
「はい」
「さっき、このあと予定があるって言ってたけど、なんの予定があるの?」
「携帯を買いに行くんですよ」
「携帯? 柚紀が?」
「私だけじゃなくて、みんなが」
 そうなの、という感じで圭太を見る。
「いつの間にか、そういうことになってました」
「そっか」
 祥子は頷き、なにやら考えている。
「ひょっとして、祥子先輩も一緒に行こうとか考えてます?」
「ん〜、そうしたいのはやまやまなんだけど、そこまで時間があるわけじゃないから」
「そうなんですか。残念です」
 言葉ほど残念とは思っていない柚紀。
「あ、じゃあ、私はそろそろ帰った方がいいね。あんまり長居すると、出かけられなくなるし」
 そう言って祥子は腰を上げた。
「そこまで送ります」
 すぐに圭太も立ち上がり、祥子を気遣う。
 家を出ると、すぐに祥子が言葉を発した。
「ねえ、圭くん」
「はい」
「あんまり無理はしないでね」
「どういう意味ですか?」
「ほら、琴美さんのこともあるし、私のこともある。それに、コンクールだってある。そうすると、普通に生活してたっていつも以上に大変になるわけでしょ? 圭くんなら余計にかな、って思って」
 祥子の鋭すぎる指摘に、圭太はなにも言えなかった。
 もちろん、本人に無理をしているという自覚はほとんどない。だけど、それをまわりから見たら間違いなく無理をしているということになる。圭太もここ数年でそれを少しずつではあるが、理解してきている。だからこそ、なにも言えなかったのだ。
「もしも圭くんが倒れたりしたら、みんな大変なことになるよ。ほら、風邪を引いた時ですらあれだけ大変だったんだから」
「……そうですね」
「だからね、無理だけはしないでほしいの。言い方は悪いかもしれないけど、圭くんが無理をしてもそれを喜んでくれる人は、誰もいないから」
「わかりました」
 祥子にまでそう言われては、さすがの圭太も気をつけるしかない。もっとも、圭太の場合はたいていが無意識のうちになので、どこまで気をつけられるかはわからないが。
「あ、この辺でいいよ」
「そうですか?」
「じゃないと、柚紀たちに怒られちゃう」
 そう言って笑う。
「今度はいつ頃来られそう?」
「特になにもなければ、明日にでも行きます」
「うん、わかった。待ってるから」
 祥子は、軽く手を振り、帰って行った。
「さてと……僕も行かなくちゃ」
 
 紗絵と詩織が合流し、圭太たちは駅前へと出かけた。
 淑美とは駅前で待ち合わせをしている。とはいえ、淑美を出迎えなければいけないのは、厳密に言えば朱美だけなので、ほかの面々にはあまり関係ない。
 淑美と合流したあと、一行は駅ビルにある家電量販店に向かった。
 本当はそれぞれの携帯会社の店でもよかったのだが、いろいろ見比べるには量販店の方が都合がいいのだ。
 ビルのワンフロアを占めているその店は、いつ来ても活気があった。
 携帯コーナーは店の一番目立つところにあり、すぐにわかった。
 それぞれの会社ごとにたくさんの機種があり、なにも決めていない場合は目移りしてしまう。
「圭太は、どういうのにしようと思ってるの?」
「そうだね。シンプルなやつがいいかな。あまり多機能でも、結局はほとんど使わないだろうし」
「なるほど。シンプルなやつね」
 携帯にまったく興味のない圭太は、やはりそういうことに疎い。柚紀は、携帯こそ持っていないが、ある程度の知識は備えていた。
「これなんかどう? 通話、メール、ウェブ、カメラの基本的なものなんだけど」
「そうだなぁ……」
 圭太はそれを手に取り、吟味している。
「圭太がカメラを使わなくても、カメラがついてないと画像もちゃんと見られない可能性があるからね。それくらいのスペックのものは持っておいた方がいいと思うよ」
「なるほど」
「あとは、画面の大きさとかボタンの配置、大きさ、携帯自体の大きさ、重さ、デザインで決めるくらいかな。もちろん、全部を好みにあわせるのは難しいとは思うけど」
「柚紀は、どれにしようと思ってるの?」
「私は……」
 柚紀は、お目当ての機種を手に取り、圭太に見せた。
「これかな。機能的には最新とはいかないけど、このデザインが好きなの」
 それは、女子高生や女子中学生に人気のモデルだった。メーカー側もそのあたりをターゲットにしているらしく、色も多数あった。
「お姉ちゃんが買う時にカタログをもらってきてて、それを見てこれがいいなって思ってたの」
「なるほどね」
「あと、圭太がそれにするなら私のと同じ会社だから、メールのやり取りがずいぶん楽になるよ」
「そういうメリットもあるのか」
 圭太は手元の携帯を改めて見る。
「じゃあ、僕はこれにしようかな」
「もう決めちゃうの?」
「別にこれというものはなかったからね。それに、これにした方が柚紀はいいと思うんでしょ?」
「それはそうだけど」
「それに、これはこれで結構いいと思うから」
 そう言って微笑む。
「そっか。それなら、あとは色だね。色はどうする?」
「これって、これ以外に何色があるの?」
「えっと、黒と白と青かな」
 圭太が持っているのが赤なので、ほかに三色あることになる。
「それじゃあ、青にしようかな」
「圭太が青にするなら、私は……これにしよ」
 柚紀は、少しピンクに近い赤を選んだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 と、そこへ琴絵がやって来る。
「お兄ちゃんはもう決まった?」
「ああ、これの青にしようと思って」
「そうなんだ。私はね、これがいいかなって思って」
 琴絵が選んだのは、丸みが特徴の可愛らしい携帯だった。
「あ、それも人気あるんだよね」
「はい。友達でも持ってる子がいるんです。それで私もいいなって思って」
 どうやら、携帯のことをなにも考えていなかったのは、圭太だけのようである。
「じゃあ、あとは母さんに言って、手続きしないと」
「うん」
「柚紀はどうする?」
「私もさっさと手続きするよ」
 決まった者から順々に携帯の手続きをしていく。
「あ、圭兄たちもう決めたんだ」
 一方、まだ決めかねていた朱美は、その様子を見て少しだけ焦っていた。
「う〜ん……これもいいんだけど、こっちも捨てがたいし」
「まだ悩んでたの?」
「うるさいなぁ。もう決まったなら、紗絵も手続きすればいいじゃない」
「せっかく待ってあげてるのに、その言い草はなによ?」
「いいから、放っておいて」
「はいはい」
 邪険に扱われた紗絵は、肩をすくめてその場を離れた。
「詩織は決まったの?」
「これとこれのどっちかにしようと思って」
 それは、ひとつは柚紀の選んだのと同じのだった。
「紗絵は?」
「私はこれ。デザイン的にはいまひとつなところもあるんだけど、色がよくて」
「ふ〜ん、なるほどね」
「詩織もそろそろ決めた方がいいよ。先輩たちはもう決めちゃって、手続きしてるし」
「えっ、そうなの? じゃあ……」
 どうやら、詩織の中ではもうほとんど決まっていたようである。
「こっちにしよう」
 選んだのは、柚紀のとは違う方の携帯だった。
 スタイリッシュなデザインで、二十代から三十代の女性に人気のモデルだった。
「私たちも手続きしちゃおう」
「うん」
 で、残ったのは朱美だけとなった。
「いつまで選んでるつもりなの?」
 淑美が呆れて声をかけた。
「そんなこと言ったって……」
「そんなに悩むようなものじゃないでしょ? 携帯でどんなことをしたいのか、どんな大きさでどんな色がいいのか。それがわかれば自ずと決まってくるじゃない」
「むぅ……」
「ほら、ぐずぐずしてると圭太くんたちに置いていかれるわよ」
 結局、朱美が選び終わり、手続きを終えたのはそれから十五分後だった。
 それぞれに真新しい携帯を持ち、なんとなくおもちゃを与えられた子供のように嬉しそうだった。
 次にすることは、それぞれの携帯番号とメールアドレスを登録すること。
 人数が多いので、これに結構手間取った。とはいえ、それは駅ビル内のファーストフード店でやっていたので、それほど問題にはならなかった。
「これでお姉ちゃんに気兼ねなく圭太と話ができるよ」
「そんなに咲紀さんに気を遣ってたの?」
「そりゃそうよ。だって、相手はあのお姉ちゃんなのよ? 気をつけてないと、すぐ聞き耳を立ててるし」
「それはどこの家でもそうだと思うよ」
「そうなの?」
 圭太の意外な言葉に、柚紀は思わず聞き返していた。
「うちだって、ねぇ」
 そう言って琴絵と朱美を見る。
「あはは、なるほどね。そう言われるとそうかも」
「だから僕は、もう変に気を遣うのはやめてるんだ。疲れるし無駄だから」
「じゃあ、圭太もこれからは気兼ねなく話せるね」
「そうだね」
「話せるのはいいけど、圭太も柚紀さんもほどほどにしておかないと、あとで大変なことになるわよ」
「わかってるよ。基本的には今までとそれほど変えるつもりはないから」
「えっ、そうなの?」
「柚紀は違うの?」
「私は会えない日でも圭太とたくさん話せるようになると思ってたの」
 どうやら、見解に相違があったようである。
「ふふっ、柚紀さんは本当に片時でも圭太の側を離れたくないのね」
「はい。可能なら二十四時間ずっと一緒にいたいです」
「だって、圭太」
 圭太は、わかってることを今更言わないでくれという感じで、肩をすくめた。
「ところで、これからどうするつもりなの? 目的は達成されたわけだし」
「僕としてはこれということはないけど。柚紀はなにかある?」
「私? あるけど、言っていいのかな?」
「別にいいと思うけど」
「じゃあね、デートしよ」
「デート?」
「うん。まだ時間はあるし。それに、秋休みも明日で終わりでしょ? これから先はいろいろ忙しくなって、デートもできなくなるだろうし。ね?」
 柚紀は上目遣いにねだってくる。
 しかし、圭太としてはすぐには返事はできなかった。それは当然である。今日は柚紀だけでなく、琴絵たちも一緒なのである。もともとの目的が携帯を買うことだったとしても、それが終わったらあとは柚紀とデート、というのはさすがにどうかというところだ。
 もちろん、柚紀を優先したい気持ちはある。なんといっても、柚紀は圭太の彼女なのだから。
 だからこそ逆に、すぐに返事できないのだ。
「ダメ?」
「いいよ。デートしようか」
 ただ、結局は柚紀を優先するのだ。そこは圭太らしいところである。
「あはっ、ありがと」
 柚紀は嬉しそうに笑った。
 というわけで、買い物は無事終了し、圭太と柚紀はデートすることになった。
 琴絵たちはさすがに不満そうだったが、自分たちの立場も理解しているからか、文句は言わなかった。
「どこ行こっか?」
「僕はどこでもいいけど。柚紀はどこか行きたいところはないの?」
「ん〜、そうだなぁ。いろいろあるんだけど、今日は微妙に時間がないからね」
 平日よりは時間があるとはいえ、もともと昼過ぎに出てきたわけである。休日一日かけなければならないような場所には行けない。
「とりあえず、歩こうよ。それでなにかよさそうな場所やものがあれば、それでいいじゃない」
「そうだね。そうしようか」
 圭太にしても柚紀にしてもそうなのだが、このふたりはどこへ行くということよりも、ふたりでなにかをするということに重きを置く。だから、あてのないデートでもそれほど問題にならない。
「あ、圭太。あれ見て」
 商店街を歩いていると、柚紀が声を上げた。
 なにごとかと思ってそちらを見ると、今日オープンしたばかりのケーキ屋があった。
 オープニングセールでもやっているのか、もう早い時間とはとても言えない時間にも関わらず、結構な人が並んでいた。
「ここって確か、おそば屋さんがあったところだよね」
「そうだったかな」
「おそば屋さんのあとが、こんなオシャレなケーキ屋さんなんてね」
「まるっきりの異業種というわけではないけど、対極にある店だからね。柚紀の言いたいことはよくわかるよ」
 前にどんな店が入っていようが、あとの店にはあまり関係ない。もちろん、まったく同じ店なら話は別だが。
「どうする? ものは試しに寄ってみる?」
「柚紀がそうしたいなら」
「じゃあ、決まり」
 ふたりは、列の最後尾に並んだ。
 進み具合はそれほど悪くなく、実際、列が急激に伸びるようなことはなかった。
「柚紀はここのことは知ってたの?」
「ううん。全然」
「そっか。じゃあ、もし当たりだったらみんなに自慢できるね」
「うん。是非とも当たりであること願ってるわ」
 しばらくして、ようやくふたりの番がまわってきた。
「いらっしゃいませ」
 可愛らしい真っ白なエプロンを身につけた店員が、明るい声で迎える。
 ガラスケースの中には、様々な種類のケーキが並んでいた。どれも通常時の十パーセントオフということで、なかなか割安だった。
「すみません。ここのオススメってどれですか?」
「オススメですと……こちらあたりが特にオススメですね」
 店員は、いくつかのケーキを指さした。
「じゃあ、そのオススメのケーキをひとつずつください」
「ありがとうございます」
 ふたりが買ったのは、四つのケーキだった。
 四つも、と思うかもしれないが、女性、女の子を甘く見てはいけない。そのくらいの数はぺろりと平らげてしまう。
 実際、買っていく客を見ていても、明らかに独身女性と思える客がいくつも買っている姿が見られた。
「ありがとうございました」
 会計を済ませ、ふたりは店を出た。
「これ、どこで食べようか?」
「公園かな、やっぱり」
 そんなわけで、ふたりは駅向こうの公園までやって来た。
 途中のコンビニで飲み物と食べるための使い捨てフォークを買った。
 公園は日曜の昼下がりということもあって、それなりに賑わっていた。入り口にほど近い広場では、フリーマーケットが催され、そこは特に賑わっていた。
 その様子を横目に見ながら、ふたりは少し奥の方にあるベンチに陣取った。
「さてさて、早速いただきますか」
「嬉しそうだね」
「だって、しょうがないじゃない。こういう甘いものを見てると自然と顔が緩んできちゃうんだから」
「別に悪いとは言ってないよ。僕としては、そういう嬉しそうな柚紀を見てると、こっちまで嬉しくなるから」
「むぅ、なんか微妙にバカにされてる気がする」
「バカになんてしてないよ。純粋にそう思ってるの」
「とりあえずそういうことにしといてあげる」
 柚紀の物言いに圭太は苦笑した。
「圭太はどれがいい?」
「僕はどれでもいいよ。とりあえず柚紀が好きなのを選びなよ」
「そう? じゃあね、まずはこれ」
 選んだのは、チーズケーキだった。
「やっぱりこういうシンプルなものの方が、その店の本当の実力がわかるからね」
「通みたいな意見だね」
「受け売りよ」
 圭太は、チョコレートケーキを選んだ。
「まずは一口……」
 それぞれに一口食べてみる。
「どう?」
「うん、美味しいよ。圭太は?」
「そうだね、美味しいと思うよ」
 ふたりの感想は、実に素っ気ないものだった。つまり、旨いか不味いかで聞かれれば旨いと答えるのだが、それは絶賛できるほどのもかと聞かれると、そうだとは答えられないくらいのレベルということになる。
「もうちょっとインパクトがあってもいいと思うんだけどなぁ。ちょっと万人受けを狙いすぎてる気がする」
「手厳しいね」
「そりゃそうよ。なんたって、『桜亭』の美味しいケーキを知ってるから」
「ありがとう、柚紀」
『桜亭』のケーキの味が、実際そういう店のものとどちらが上かは微妙なところである。そもそもにおいて目的が違うのである。
 店ではある程度大量に作って、それを売ることが目的である。
 しかし『桜亭』では、食べてもらうことが目的なのである。
 どこが違うのかといえば、売るだけなら最悪食べてもらわなくてもいいということになる。商売なのだから、それはある意味当然である。もちろん、パティシエにとっては美味しく食べてもらえればそれに越したことはないと思っているのも事実だ。
 だが『桜亭』は、最初から美味しく食べてもらうことに重点を置いているので、売るということは二の次になっている。それは『桜亭』が喫茶店であるということにも理由がある。コーヒーや紅茶にあうケーキが必要なわけで、当然それにあわせていろいろ工夫も凝らしている。
 もっとも、それは個人経営の喫茶店で少量だけ作っているからできることなのだ。
 だからこそ、一概にどちらが上かは判断できない。
「でも、これはこれで美味しいから、これからもチェックしていこうとは思うけどね」
 それから残りのケーキをふたりで分け合い、のんびり優雅にお茶を楽しんだ。
 ケーキを平らげ、飲み物もなくなると、少しだけ会話が途切れた。
 耳に届くのは、風が木々を揺らす音と、向こうの芝生ではしゃぎまわっている子供たちの歓声くらい。
 と、ベンチに置いていた手に、柚紀が手を重ねてきた。
 圭太が柚紀の方を見ると、柚紀はニコッと笑うだけでなにも言わなかった。
 圭太も特になにも言わず、手はそのままにした。
 穏やかな時間が、ゆっくりと流れていく。
 いつまでも続けばいいと思える、極上の時間。
 だが、そういう時間が長くは続かない。
 つい先ほど買ったばかりの携帯が鳴ったのだ。
 なんだろうと思って携帯を見ると、メールだった。相手は──
「琴絵からだ」
「琴絵ちゃん?」
 柚紀も圭太の携帯を覗き込む。
『お兄ちゃん。柚紀さんとのデートは楽しい? 夕飯はどうするの? 連絡待ってるね』
 それを見て、圭太は小さくため息をつき、柚紀はクスクスと笑った。
「直接電話をかけてこなかっただけ、琴絵ちゃんも気を遣ってくれてるね」
「まあね」
「でも、ここでちゃんと返事してあげないと、今度こそ電話がかかってくるね」
「そうだね。で、柚紀。夕飯はどうする? どこかで食べて帰る?」
「ん、そんなの決まってるよ。帰ってから食べるよ」
「じゃあ、そう返事しておくよ」
 圭太は、慣れない手付きでメールを打つ。
 柚紀は、その様子をじっと見ている。
『帰ってから食べる。母さんによろしく』
 そう返事を打ち、携帯をしまった。
「ねえ、圭太。みんな帰ったと思う?」
「みんなって、紗絵と詩織のこと?」
「うん。まだ時間は早かったじゃない。だから、みんな一緒にいるんじゃないかなって」
「その可能性は高そうだね。なんだかんだ言いながら、みんな一緒にいるのが好きだし」
 その中心に常に圭太がいるからこそ、今のようになったのだが。圭太はそれを自覚しているのかどうかはわからない。
「それ以上に圭太と一緒にいたいんだろうけどね」
「否定はしないよ。でも、今は柚紀といるわけだし」
「当たり前よ。私は圭太の彼女で婚約者なんだから」
 そう言って柚紀は圭太に寄りかかった。
「もう少しだけここでのんびりしてようか?」
「そうだね」
 圭太は小さく頷き、目を閉じた。
 
 三
 次の日。
 いつも通り部活は行われた。秋休み最終日ではあるが、感覚的には普段の日曜日と変わらない。
 全国大会まで時間もあまりないのだが、一高吹奏楽部には例年のような焦りはなかった。
 それはとりもなおさず、今年の仕上がりが早いからである。
 関東大会のあと、期末テストを挟んだが、そのブランクも秋休みの間に取り戻せた。その上で細かな部分を手直しすることもでき、菜穂子や圭太にとってはそれなりに満足できる結果となった。もちろん、言い出せばキリがないのは誰もがわかっていることだ。だからこそ、合奏できる日は確実に合奏を行っているのである。
 午前中に部活が終わると、一、二年はアンサンブルの練習を行う。こちらもそれほど余裕があるわけではないので、休日返上となるのは致し方がない。
 三年も特になにもなければ指導を行うのだが、それも強制ではない。むしろボランティアなので、過度の期待をされても困る結果になる。
 事実、一番それを期待されている圭太が帰ると知ったメンバーは、落胆していた。
 たまたま昇降口まで一緒になった綾は、圭太に帰る理由を訊ねた。
「今日はどうして帰るの?」
「ちょっと約束があるんだよ」
「約束?」
 綾は、隣にいる柚紀を見た。
「残念ながら、私とじゃないのよ」
「そうなの? じゃあ、なに?」
 圭太は一瞬言い淀んだが──
「祥子先輩と約束があるんだよ」
「……ああ、なるほど。先輩、そろそろだっけ?」
「うん。十五日」
「そっか。それなら柚紀がないがしろにされても仕方がないわね」
「別にないがしろになんてされてないわよ」
 柚紀は、キッと綾をにらむ。
「ま、そういうことにしておくわ」
 しかし、綾はどこ吹く風である。このあたりはさすがと言えよう。
「でも、そっか。祥子先輩、もうお母さんになるんだ」
「先輩はもっと遅いと思った?」
「そりゃ、部活の時の先輩を見てたら、そう思うのは当然よ。特にあたしなんかパートも同じだったわけだから、みんなよりいろいろな面を見てるわけよ。で、先輩はそれがいいか悪いかは別として、基本的には一歩引いてるタイプじゃない。言葉が正しいかどうかはわからないけど、大和撫子っていうか、そういう感じ。そんな先輩が、まさか卒業して半年も経たないうちに妊娠しちゃうなんて。誰が想像できたって感じよ」
 靴を履きながら、多少の身振り手振りを加え、力説する。
「でも、それって結局は先輩の一面でしかなかったわけなのよね。実際は、あたしの想像を遙かに超えた行動力を持ち合わせた人だった。じゃなかったら、柚紀と張り合おうだなんて思わないわ」
「ん〜、それはどうなんだろう」
「どういう意味?」
「たぶんだけど、先輩は私に張り合ってるつもりはないと思うよ」
「どうして?」
「だって、自分の想いに素直になっただけなんだよ、結局は。多少は私の存在も気にはなったろうけど、それさえもある意味で無視できるくらい、素直になれたってこと」
「……なるほど」
 綾は、大きく頷いた。
「柚紀も、だからこそ先輩には一目置いてるわけか」
「結果的にはね。それにほら。圭太も先輩には特に甘いから」
「あはは、それが一番大きいか」
 柚紀の立場としては納得できないことは多いはずである。それでもこうして普通に話せているだけ、整理がついているのかもしれない。
「あ、そうだ。圭太」
「ん?」
「先輩のことって、みんなに話しちゃっても大丈夫? 言いふらすつもりはないけど、ほら、せめてクラの連中くらいには話しておきたいなって思って」
「それは構わないよ。先輩のことはみんな知ってるわけだし」
「うん、ありがと」
 なにができるかはわからないが、直接の後輩だった綾にとっては、なにかできるかもしれないからということで、そう言ったのだ。
「綾は今日は?」
「ちょっと出かける用があるのよ。つまらない用なんだけどね」
「受験勉強じゃないところが、三年生って感じじゃないわね」
「勉強も少しずつはしてるけど、やっぱり全国が終わるまでは本腰入れられないわ」
「普通はそうかもね」
「柚紀と圭太は受験しないのよね?」
「大学に行く理由がないのよ。行かないとできないことをやるつもりもないし」
「でも、一番の理由は圭太と一緒にいたいからでしょ?」
「そんなの当然よ。それに、私もなにがなんでも大学へ行く、ということに疑問は持ってたのよ。大学に行かなくてもできることはたくさんあるのに」
「それ自体は否定しないわ。ただ、これからの選択肢を広げるという意味では、大学には行っておいた方がいいというのは、事実だし」
 結局、どちらの意見も正しいのだ。最後に決めるのは本人の意志。
「じゃあ、圭太。先輩によろしく言っておいてね」
「わかった」
 綾は、途中の路地を曲がり、帰って行った。
「なんかさ、綾も変わったよね」
「どういう風に?」
「ん〜、どう言ったらいいのかな。大人になったというか、精神的に成長したっていうか、そんな感じ。副部長になる前は、もう少しいろいろ適当だった気がするし」
「だとしたら、それは綾自身がいろいろなことを自覚したのかもしれないね。だから、自然と変わっていった。一年もあれば、結構変われるからね」
「なるほど。そう言われると、確かにそうかも。あ、でも、そうだとしたら、圭太の影響はかなり大きいってことにならない?」
「どうして?」
 圭太は首を傾げた。
「だって、この一年間、綾は圭太の側でいろいろやってきたわけでしょ。そこで圭太のことを見てきた。なにを見て、なにを真似ようとか、参考にしようと思ったかはわからないけど、少なからず影響は受けてるはずよ」
「悪影響じゃなければいいけど」
 そう言って苦笑する。
「そうね、ひとつだけ悪影響があるかも」
「えっ?」
「それは、綾の圭太を見る目が変わったってこと。なにかの弾みで恋に発展しかねないくらいにね」
「…………」
「そこで黙らないの。まったく……」
 やれやれとため息をつく柚紀に、圭太は苦笑するしかなかった。
 
 三ツ谷家にはもう何度となく足を運んでいたが、圭太は未だにその佇まいに慣れることはなかった。
 圭太を出迎えたのは、朝子だった。
「ごめんなさい。祥子さん、今手が離せなくて」
「なにかしてるんですか?」
「ええ。圭太さんのために、お菓子を作っているんですよ」
 朝子は嬉しそうに言う。
「そういうわけだから、少しだけ待ってくださいね」
「わかりました」
 圭太はリビングに通された。今の祥子と圭太の関係を考えれば祥子の部屋でもよかったのだが、そのあたりは一応筋を通してのことである。
「祥子さん。圭太さんがいらしたわよ」
「あ、はい」
 台所に声をかけると、祥子が顔を出した。
「いらっしゃい、圭くん」
「はい」
「お菓子の方はまだ?」
「もう少しです」
「それじゃあ、とりあえずそれを仕上げてしまって、それから圭太さんのお相手をした方がいいですね」
「はい」
 祥子は素直に台所に戻った。
「圭太さんはそちらに座っていてください」
「ありがとうございます」
 圭太がソファに座ると、朝子もその正面に座った。
「どうですか、部活の方は忙しいですか?」
「ええ、全国大会まであまり時間もありませんから」
「それでも充実している、という感じですね」
「そうですね。特に今年は最後ですから。後悔しない練習をして、後悔しないような演奏をしたいです」
「そうできると信じて、それに見合うような努力を続けていれば、きっとそうできます」
 言葉で言うのは簡単だが、実際にそれを成し遂げるのは難しい。それでも朝子が言うのは、圭太ならそれができると思っているからである。
「今でもたまに思うんですよ」
「なにをですか?」
「祥子さんの相手が、圭太さんで本当によかった、と」
 朝子は、穏やかな表情でそう言った。
「もし相手が圭太さんではなかったら、おそらく今これだけ心穏やかに過ごせてはいなかったと思います。圭太さんなら祥子さんのことを安心して任せられますから」
「そう言っていただけるのは嬉しいですけど、でも、僕はそこまでたいそうな人間ではないですよ」
「いえ、そういう意味で言ったのではないのですよ。以前にも言ったことがあったと思いますけど、当たり前のことを当たり前にできる。それがなによりも大切なんです。その上で自分にできることはなにかを考え、できないことでも少しでもできるように努力する。そういう心がけを持っているかどうか。それが大切なんです」
「…………」
「そして、圭太さんはそれを持っています。おそらく、自覚していないでしょうけど」
 圭太の考えを先読みして、そう言う。
 圭太としても、そこまで言われてしまうとなにも言い返せない。
「学校へ行って、部活をして、家でお店の手伝いをして、それでもなお祥子さんのことを気にかけていられる。それはとてもすごいことです。普通の人にはなかなか真似できないことです」
「そんなことは……」
「ふふっ、圭太さんの素晴らしいところは、驕らないことですね。ただ、それも度が過ぎると相手の印象を悪くしてしまいますけど」
 圭太が来た時の朝子はいつも饒舌だが、今日はいつも以上だった。
 圭太もその理由を考えたが、わからなかった。
「そういえば、今日はおふたりだけなんですか?」
「ええ。休日だというのに、皆仕事で。もっとも、そうやって仕事をしてくれているからこそ、こうして生活できているわけですけど」
 三ツ谷家では、休日に人がいないことは珍しくない。ただ、比較的暦通り休んでいる陽子の姿もなかったので、圭太は訊ねたのだ。
「圭くん、お待たせ」
 そこへ、祥子がお菓子とお茶を持ってきた。
「スコーンを焼いてみたの。ジャムはお好みでね」
 焼きたてのスコーンとジャム、それに紅茶だ。
「今日は早かったんだね。もう少し遅くなるのかと思ってた」
「合奏が思っていたより早めに終わったんです。それに、今は部長じゃないですから、取り立てて残ってやることもありませんし」
「そっか。あれ、でも、今はアンコンの練習もやってるんじゃないの?」
「ええ、やってますよ」
「それを指導とかは?」
「今日は遠慮してきました。それに、教えるのは僕じゃなくても問題ありませんから。特に金管は」
 それ自体は間違いではないだろうが、総合的に考えると圭太が教えるのが一番いい。とはいえ、無理強いできないのも事実だ。
「そっか。みんな残念がってたんじゃないの? 圭くんの指導は厳しいけど、その方法は的確だし自分が上手くなったって、よりはっきりわかるから」
「さあ、どうでしょうか。僕にはそこまではわかりません」
「そうだよね。うん。ごめんね、変なこと言って」
「いえ、別に気にしてませんから」
 そう言って圭太は紅茶を飲んだ。
「こうして見ていると、圭太さんの方が祥子さんよりも大人のように見えますね」
「お母さま、それはいくらなんでもひどいです」
「いくらなんでも、ということは、多少はそう思っているということですね?」
「ううぅ……」
「墓穴を掘るのがわかっているのなら、不用意な発言はしないことです」
「……はい」
 軽く朝子に言い負かされ、祥子は項垂れた。
「本当に祥子さんの相手が圭太さんでよかったです」
 その言葉には、先ほど以上にいろいろな意味が込められていた。それがわかった圭太は、ただただ苦笑するしかなかった。
 
「むぅ……」
 祥子は少しだけ不機嫌だった。
「お母さまもあそこまで言わなくてもいいのに」
 今、圭太と祥子は祥子の部屋にいる。もともとその予定だったのもあるが、朝子に急な来客があったのだ。
「圭くんもそう思わない?」
「そうですね。確かにいつもよりきつかったかもしれませんね」
「そうだよね? やっぱりそう思うよね?」
 圭太に賛同してもらえたのが嬉しかったらしく、少しだけ機嫌もよくなったようだ。
「最近ね、私、家にいることが多いでしょ? だからかどうかはわからないけど、お母さまにいろいろ言われることが多いの。今まであまり言われてこなかったから、特に多いと感じるのかもしれないけど」
「それはきっと、祥子に対する気遣いなのかもしれませんよ」
「気遣い?」
 思いもかけない言葉に、祥子は首を傾げた。
「なにもしないで家にいると、どうしても気が滅入ってくるじゃないですか。特に祥子は初産を前にしてるわけです。僕には想像することしかできませんけど、きっといつも以上にいろいろ大変なはずです」
「…………」
「そんな祥子を見て、母親としてなにかしたかったのかもしれません。なんといってもそれを一度経験してきてるわけですから。つらさ、大変さも誰よりも理解してるはずです」
「うん、そうだね」
「だからこそ、祥子にあれこれ言うんだと思います。いろいろ言われる祥子としては、あまりいい気持ちはしないかもしれませんけど、そのおかげで別のことが忘れられてるはずです」
「……そっか」
 祥子は小さく頷き、押し黙った。
 自分の娘のことを可愛く思わない親はいない。朝子もそうだ。だからこそ、少しでも祥子が楽になれるように気を遣っている。それを多少煩わしいと感じるかもしれないが、それのおかげでいろいろ楽になっているはずだ。
 祥子も圭太に言われてそれを理解したらしい。
「ただまあ、祥子としては僕がいる時に、というのが納得いかないんですよね?」
「うん、そう。それが一番の問題。なにも圭くんの前でわざわざ言わなくてもいいのに」
 憤る祥子だが、圭太には朝子の気持ちも理解できていた。
 それは、圭太に対する気遣いである。
 いつも一緒にいられるわけではない圭太に、祥子が大丈夫であることをわかりやすく知らせる意味もある。もちろん、祥子としては不本意ではあるだろうが。
「まあまあ、そんなに怒らないでください」
「あ……」
 圭太は、祥子の肩を抱き、胸に抱き寄せた。
「ずるいなぁ、圭くんは」
「なにがですか?」
「だって、今私にこういうことしたら、機嫌直っちゃうってわかってるんだもん」
「そんなことはありませんよ」
「ウソ。絶対にそんなことない」
「じゃあ、もうこういうことやめますか?」
「それはもっとずるいよ」
 ぷうと頬を膨らませ、抗議する。
「私はね、心も体も圭くんなしでは生きていなけないんだから。そして、私をそんな風にしちゃったのは、圭くんなんだからね」
「わかってますよ」
 優しい手付きで髪を撫でる。
「僕だって、祥子とこうしていたいんですから」
「うん……」
 特になにかしているわけではない。
 それでも、ふたりにとっては充実した時間となっている。それはとりもなおさず、お互いがお互いに求めていることが合致しているからである。
「もう少しだけ、このままでいてもいいよね?」
「はい」
 
 夕方。特になにをするでもなく、まったりとした時間を過ごしていると、圭太の携帯が鳴った。
 誰かと思って見てみると──
「ともみ先輩?」
 ともみからだった。
 ともみとは番号は交換していないが、圭太はともみの番号を知っているので、登録してあったのだ。
「はい、もしもし」
『あ、圭太? 今、電話大丈夫?』
「ええ、大丈夫ですけど」
 ちらっと祥子を見る。
『今、祥子のところでしょ?』
「そうですけど、どうして?」
『ん、琴絵ちゃんに聞いたのよ。というか、すぐ側にいるわよ。ほら』
『お兄ちゃん、やっほー』
『ね?』
 圭太は思わずこめかみを押さえた。
「じゃあ、番号も琴絵から聞いたんですね」
『まあね。で、昨日すぐに教えてくれなかった罰として、祥子との時間を邪魔してやろうと思って』
 冗談めかしてそう言うが、かなりの部分、本気だろう。
『まあ、それは冗談なんだけどね』
「はあ……」
『こらこら、ため息なんかつかないの』
「すみません」
『謝らなくてもいいけど。で、圭太』
「なんですか?」
『今日は帰ってくるの?』
「ええ。明日は学校もありますし」
『そっか。まあ、私の用はどっちでも構わないんだけど。あ、用って言ってもたいした用じゃないのよ。主目的は、琴美さんの様子見だったから。ほら、明日からお店再開するじゃない。それでね』
「なるほど。わざわざすみません」
『いいのよ、そんなこと。私も早くお店に出たかったし』
 それ自体はウソではないだろう。実際、ずっとやっていたことをやらなくなってしまうと、妙な感じになる。
『あ、そうだ。ちょっと祥子に替わってくれる?』
「はい」
 圭太は祥子に携帯を差し出した。
「ともみ先輩が話したいそうです」
「あ、うん」
 圭太から携帯を受け取る。
「もしもし」
『あ、祥子。ごめんね、圭太との時間を邪魔しちゃって』
「いえ、それはいいんですけど」
『あ、そうそう。聞いたよ。十五日だってね』
「はい。あくまでも予定ですけど、一応」
『直接行けるかどうかわからないけど、無事出産できるように、祈ってるから』
「ありがとうございます」
『で、こっちが本題。あのさ、祥子に頼みがあるのよ』
「頼み、ですか?」
『圭太の秋休み、今日までじゃない。だけど、祥子も知っての通り、秋休みも名ばかりにいろいろやってたわけよ。そこで、せめて最後くらいゆっくり休ませてあげたいじゃない』
「そうですね」
『でも、ただ口で言っても聞かないと思うから、ここは実力行使あるのみ』
「実力行使って、なにをするんですか?」
 不穏当な言葉が出てきて、祥子も少し困惑気味だ。
『別にたいしたことじゃないわ。幸いにして圭太の側には祥子がいるし』
「私と関係あることなんですか?」
『大ありよ。圭太にとって、側にいて安らげる存在は、なんといっても柚紀なんだけど、それに次ぐ存在が鈴奈さんか祥子なのよ』
「別に私は……」
『はいはい。今はそれが事実かどうかは関係ないの。そういう存在である祥子がそこにいるんだから、できる限り圭太を心身ともにリラックスさせてあげてほしいのよ。もちろん、できることは限られてるとは思うけど。今日、圭太が帰るまで、少しでもそうさせられたら、祥子だって安心できるでしょ?』
「それは、そうですね」
『だから、祥子。方法は任せるわ。少しでも圭太をリラックスさせてあげて。いい?』
「……わかりました。どれだけできるかはわかりませんけど、なんとかやってみます」
『うん、お願いね』
 祥子も、ともみの気持ちがわかるので、それ自体には反対ではなかった。
 ただ、その役目を自分に任されることに一抹の不安があるのだ。
『じゃあ、もう一回圭太に替わってくれる?』
「はい」
 圭太は祥子から携帯を受け取る。
「もういいんですか?」
『ええ。用は済んだわ』
「僕の方もいいですか?」
『そうね。とりあえずはいいわ。話したくなったらまたかければいいだけだし』
 そう言ってともみは笑う。
『じゃあ、圭太。もう少しだけ祥子のケアに励みなさい』
「はい」
『また明日ね』
 携帯を切ると、自然と息が漏れた。
「先輩に、なにを言われたの?」
「主に母さんのことですね。母さんの様子を見るためにうちにいたみたいで」
「そっか。明日からだよね、お店」
「ええ。まあ、様子なんか見なくてもいいくらいに元気なんですけどね」
「ふふっ、元気なのはいいことだよ」
「それはわかってます」
「先輩は、目の前で琴美さんが倒れてるから、余計に気になったんだろうね」
 そういう特殊なことがあると、どうしても不安になる。圭太にも、それは言える。
 実際、店が再開しても、またいつ倒れるかとハラハラするかもしれない。
「祥子は、なにを言われたんですか?」
「えっ、私? えっと……」
 さすがにともみから言われたことをそのまま話す気にはならないらしい。
「またなにか言われたんですか?」
 前例があるだけに、圭太もそんなことを言ってしまう。
「……あのね、圭くん。圭くんは、私に甘えてみたいとか、思ったことある?」
「はい?」
 いきなりなことに、圭太は間抜けな声を上げた。
「甘える、ですか? そうですね……ないことはないですけど」
「ホント?」
「ウソは言ってません。祥子は僕よりも年上ですから、つい甘えたくなることはあります。ただ、普段はできるだけそう思わないようにしてるだけです」
「どうして?」
「……なんとなく気恥ずかしいじゃないですか」
「ん〜、圭くん、カワイイ」
 そう言って祥子は、圭太を抱きしめた。
「もう、可愛すぎだよ」
「ちょ、ちょっと……」
「恥ずかしいのはわかるけど、私にだったらどんどん甘えてきていいんだよ? その方が嬉しいし」
「……でも」
「鈴奈さんには普通に甘えられるんでしょ?」
「それは、まあ……」
「確かに鈴奈さんは同性の私から見ても、甘えたくなる存在だからね。鈴奈さんにはかなわないけど、私だって少しくらいはそういう存在になれると思うよ」
 普段の祥子は、圭太が年齢不相応に大人びているせいで、ついつい甘えてしまう。
 だが、一方では常に甘えてほしいという願望も持っていた。
 ともみの言葉がきっかけとなって、それが表に出てきたのだ。
「ね、圭くん?」
「……わかりました」
 そう言って圭太は体の力を抜いた。
「うんうん、素直な圭くんは大好きだよ」
 圭太が言うことを聞いてくれて、祥子は嬉しそうだ。
「膝枕にしようか?」
「僕はどっちでも」
「じゃあ、膝枕」
 少し体勢を入れ替え、膝枕の形になった。
「ともみ先輩になにを言われたんですか?」
「ん、知りたい?」
「ええ、知りたいです」
「あのね、圭くんをリラックスさせてあげてって言われたの」
「リラックス、ですか?」
「うん。ほら、今は秋休みだけど、実質普通に学校があるのと変わらない生活を送ってたでしょ。だから、せめて今日くらいはのんびりさせてあげた方がいいって」
「なるほど。それで甘える、だったんですね」
「ちょっと安直だったかな?」
「いえ、そんなことはありませんよ。むしろ嬉しいです」
 にっこり微笑む。
「ずっとね、思ってたんだ。圭くんに大切に想われて、大事にされて、それはそれですごく嬉しい。それに、みんなよりちょっとだけ特別扱いされてることも、嬉しいし。でもね、じゃあ私は圭くんになにをしてあげられてるのかな、って。圭くんに聞けば、きっといろいろ言ってくれると思う。実際にそうなのかもしれない。それでも私はそれをなかなか自覚できないの。自分のことだから当然ではあるんだけど」
 祥子は、圭太の髪を優しく撫でながら、続ける。
「私自身もいろいろ考えてはいたの。私にしかできないことってあるのかなって。でも、なかなか思い浮かばないんだ。思い浮かんでも、それが圭くんのためになるのかどうかわからなくて。その中でひとつだけ可能性があるとしたら、私は圭くんより年上であることくらい。ただ、圭くんのまわりには年上も何人もいるから、決め手にはならないとは思ってたんだけど」
「祥子は難しく考えすぎなんですよ」
「そうかな?」
「したいと思ったことをする。それが大切だと思いますよ。僕だってそうです。もちろん、独りよがりにならないように気をつける必要はありますけど」
「それでいいのかな?」
「ええ。少なくとも僕はそう思ってます」
「そっか」
 どちらが正しいかはわからない。ただ、圭太の側にいるのなら、圭太と同じ考えでいいはずである。
「たとえそうじゃなくても、自分で言ってたじゃないですか。僕に特別扱いされてるって。それは、間違いではありませんから。一概に比べることはできませんけど、柚紀以外では祥子なら、ということもあります」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、でもね、圭くん。あんまりそういうこと言われちゃうと、私、勘違いしちゃうよ?」
「勘違い?」
「確かに圭くんの彼女は柚紀で、近い将来結婚もすると思う。だけど、私もそれに勝るとも劣らないくらいの位置にいるってことになるよね。そうすると、私、いろいろ止められなくなっちゃう。圭くんにあれもこれもって要求しちゃう」
「…………」
「さすがに、それでもいいとは言えないでしょ?」
「……柚紀が一番心配しているのは、僕の優柔不断さではなく、実は押しに対する弱さなんですよね」
「ん?」
「今までのことを後悔はしていませんけど、端から見れば押しに負けてるとしか映りませんから。そして、特に弱い相手が柚紀であり……祥子です」
「圭くん……」
 圭太は薄く笑い、祥子の頬に手を添えた。
「とりあえずどうなるかわかりませんけど、言ってみませんか? 実際、僕にだってそれをどれだけ受け止められるかわかりませんし。胸の内にしまいこんで、あとで大変なことになるくらいなら、その方がいいです。ちょっと自分勝手ですけどね」
「いいの?」
「僕がいいって言ってるんです。ほかに誰かの許可が必要ですか?」
「うん……そうだね」
 祥子はそのまま圭太にキスをした。
「ああ、私、どんどん圭くんを好きになっていっちゃう。もう好きすぎてどうしようもないと思ってたのに、まだまだ全然先が見えないくらい」
「それくらい好きになってもらえて、僕としては嬉しいです」
「だからね、その反面恐いの。もし私の前から圭くんがいなくなったら、私はどうなってしまうのかって。これは私だけじゃないと思うけどね」
「大丈夫ですよ。祥子が僕のことを嫌いにならない限り、ずっと側にいますから。約束します」
「うん、約束だよ。絶対にいなくならないでね?」
「はい」
 人間誰しも不安を持っている。それがどんな不安なのかは、人それぞれである。
 根本的に解決できないことなら、誤魔化すしかない。
 たとえ一時的なものだとしても、言葉ひとつで不安を軽減できるのなら、それはましだと言えよう。
 そして、祥子にとってはそれを言ってくれる相手が側にいる。
 それはきっと、幸せなことである。
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