僕がいて、君がいて
 
第三十三章「秋のひととき」
 
 一
 夏休みも終わり、学校がはじまった。一、二年の大半はようやく宿題という名の地獄から解放される。もっとも、二週間ちょっとで前期末テストがあるのだから、あまりのんびりもしていられない。
 三年は、いよいよ受験勉強も本番である。たいていの部活は代替わりしており、一高祭が最後の舞台となる文化部の面々がまだ活動しているくらいである。
 初日は校長講話のあと、実力テストが行われただけだった。テストは英国数の三科目なので、それほど時間はかからない。従って、早い時間帯に解放された。
 圭太は、部長ではなくなっても、できるだけ早い時間に音楽室に行くよう心がけていた。ところが、その日はすぐには向かえなかった。
「けーちゃん、ちょっといい?」
 圭太を呼び止めたのは凛だった。
「ん、どうしたの、凛ちゃん?」
「少しだけ、いいかな?」
 ふたりは屋上へと出た。
 まだ九月になったばかりということで、陽差しは真夏のそれだった。じっとしているだけで汗が浮いてくる。
 屋上にある日陰は、出入り口くらいにしかない。
「それで、どうしたの?」
「ん、なんとなくね、けーちゃんと少し一緒にいたかったの」
 そう言って凛は微笑んだ。
「ほら、いつもなら部活に出て帰るだけなんだけど、もうそれもないから」
「確かにね。でも、凛ちゃんは受験勉強という大事なことがあるんじゃないの?」
「うぐっ……痛いところを。ま、まあ、それはそうなんだけどさ。どうせ今月は期末もあるし、それに絡めて本格的にはじめようと思って」
「凛ちゃんほどの実力があれば、その方がいいのかもね。あまり早くからやって、集中力が続かなくなっても意味ないし」
「あたしより実力が上のけーちゃんに言われると、ちょっとだけ複雑かも」
 凛としても別に嫌味で言っているわけではない。それが事実だからである。
「そうそう、昨日はすっごく楽しかったよ。みんなとも結構話せたし」
「そっか、それはよかった。まあ、僕としてはそれほど心配はしていなかったけどね」
「昨日だけじゃないけど、みんなと話してると、どうしてけーちゃんのまわりにみんなが集まってきて、なおかつずっとそのままでいるのかわかる気がする。もちろん、けーちゃんの人柄っていうのが大きいんだけど、みんなそれぞれがしっかりとした考えを持ちつつ、みんなとの関係を大切にしようと思ってるからだね」
「そうだね。それは、僕にとってもありがたいよ。もっとも、僕がもっとちゃんとしてればこんなことにはならなかったんだけどね」
 そう言って圭太は苦笑した。
「あたしとしては、それについてはなんとも言えないけどね」
「今の状況を後悔はしていないけど、今以外の可能性で一番高かったと思えるのは、やっぱり凛ちゃんとだろうからね。早い段階でそうなっていれば、今の状況はなかっただろうね」
「……そう言われちゃうと、ますます自分の意気地のなさを後悔しちゃうよ」
 一番つきあいが古く、そうなる可能性が高かったのは凛である。不幸な状況が続いたためにそうはならなかったが、やはり凛としては複雑である。
「でも、いいの。今はあたしの想いはちゃんとけーちゃんに届いてるし、それに、ほとんどの夢はかなちゃったし」
 凛のその言葉に対して、圭太は特になにも言わなかった。
「さてと、あまりけーちゃんを独り占めするわけにもいかないからね」
「このくらいのことだったら、問題ないとは思うけどね」
「かもしれないけど、柚紀に知られたらあとでいろいろ言われるだろうし」
「そうだね」
「だから、今日はこのくらいにしておくよ。けーちゃんは、部活もあるしね」
「ありがとう、凛ちゃん」
 そう言って圭太は凛を抱きしめ、軽くキスをした。
「こういうことをさらっとできちゃっても、嫌味に見えないところは、やっぱりけーちゃんだからかな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
 
 吹奏楽部では、十日後に迫った関東大会に向けて本当にラストスパートを見せていた。
 実質的にあと一週間しか練習できないのである。それもある意味当然である。
 ただ、ここに来ての大きな変更はない。基本的にはテンションとクオリティの維持に時間は費やされる。もちろん、気付いた点はどんどん直していくが。
 部活の雰囲気としては、かなりいい雰囲気だった。それはとりもなおさず、メンバーひとりひとりが、それなりの手応えを持っているからだろう。
 それは、指揮をしている菜穂子にとっても同じことだった。手応えとしては前年もあっただろうが、今年はそれ以上のものがあった。ただ、それはあくまでも一高吹奏楽部内でのことである。実際は本番でどの程度の演奏ができるかである。さらに言えば、ほかの団体のできにも大きく関係してくる。自分たちがどれだけいい演奏をしたところで、それを上回る演奏をされてしまっては、全国大会への道は閉ざされてしまうのである。
 従って、たとえ調子がよくとも気を緩めることなどできないのである。
 圭太は、そのことを十二分に承知していた。だから、機会がある度にメンバーそれぞれに声をかけて、軽くはっぱをかけていた。
 合奏が終わると、菜穂子は新旧の首脳陣を集めた。
「夏休みも終わって、本番まであと十日。みんなはどう見てる?」
 まずは、現部長で前副部長でもある紗絵が発言した。
「特に悪いところはないと思います。基本的にこのままいければ、今の私たちの力は十分出せると思います」
「なるほどね」
 自然と現首脳部から発言することになった。
「難しいことはわかりませんけど、このままなら大丈夫だと思いますよ。基本的には、みんな全国大会出場ということしか頭にないですから」
 続いて治がそう言う。
「確かに、そういう気持ちの問題が、最後にはものを言うのよね」
「今までやれることはやってきたはずですから、あとは自分たちの力を信じるだけだと思います」
 琴絵の意見も、基本的には精神論だった。
「まあ、信じられるだけの実力をつけていれば問題ないんだけどね」
 菜穂子は、少しだけ意地悪く言った。
「焦りとか余裕とかそういうのは特に見えませんけど、少し淡々としている感じがしますね。それがいいことなのか悪いことなのかは、それぞれ違うとは思いますけど」
 綾の意見に、菜穂子は頷いた。
「ただ、少なくとも三年は気合い十分ですね」
「今年で最後だからね」
 最後は、圭太である。
「基本的な部分は、今みんなが言った通りだと思います。調子は悪くないですし、気合いも入ってます。今のところの不安点といえば、関東大会という大きな舞台に慣れていない一、二年でしょうかね」
「そうね。大きな舞台というのは、経験してるかしてないかでだいぶ違うからね。でも、圭太としてはそのあたりも織り込み済みなんでしょう?」
「すべてが織り込み済みだとは思ってませんけど、それはある意味しょうがないことですからね。全員が全員、中学校で経験できるわけではありませんから」
「そのあたりのフォローも、当然考えてるわけね」
「できることはなんでもやりますよ。最後ですから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「あと十日しかないわけだから、私もあまりとやかく言うつもりはないわ。やれることはほぼやったと思うし。それこそあとは、みんながどれくらい全国大会に出たいと思えるかね。執念でも怨念でも、相手よりいい演奏ができればいいんだから」
 それはそうである。練習でどれだけいい演奏をしたところで、本番でそれが発揮できなければまったく意味がない。他力本願というのはあまりいただけないが、それでも、最悪相手がミスしてでも自分たちが目的を達成できればいいのである。
「とりあえず、日曜日までに残りの細かな調整を行うわ。来週は、そこまで厳しくやらないから。それと、来週は少しパート練習の時間を設けるわね」
「今更ですか?」
「そう、今更だから。細かなケアは、大勢ではできないから。だから、ちゃんとパートリーダーに伝えておくように」
「わかりました」
「さて、今年はどんな関東大会になるのかしらね」
 
 九月三日。
 夏休みが終わり授業がはじまっても、またすぐに休みである。休みボケの頭にはちょうどいいのかもしれないが、リハビリにはならないかもしれない。
 ただ、どのみち授業自体は期末試験に向けて行われているので、生徒たちにとってはあまり関係ない。
 そんな中、関東大会本番まであと一週間に迫っている吹奏楽部では当初の予定通り、それほど厳しい練習は行われていなかった。とはいえ、それはしっかりやっていないというわけではない。あくまでも最低限のことはやりつつ、ということである。
「今日はここまでにするわね」
 菜穂子は指揮棒を置いた。
「本番は来週の今日よ。練習できるのはあと五日のみ。合奏をしててもわかったと思うけど、私ももうあまりとやかく言わないから。最後はとにかく、みんなの気持ち次第だから。これがプロの演奏家ならそうでもないとは思うけど、素人のみんなにはテクニックよりもメンタルの方が大事なこともあるから」
 それぞれ真剣な表情で菜穂子の話を聞く。
「今はとにかく、これまでの練習でやってきたことをよく思い出し、なにをするべきなのかよく考えて。その上でフィジカル、メンタルの両方ともをしっかり整えて、本番を迎えるように。まかり間違っても体調を崩して本番ダメだった、なんてことのないように。いいわね?」
『はい』
「それじゃあ、今日は終わり」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 合奏が終わり、部活が終わるとパラパラと帰って行く。ただ、それもいつもに比べると少ない。それなりの数のメンバーは、まだ不安のある部分のチェックのために残っている。
 その中で一番忙しくしているのは、やはり圭太だった。菜穂子以外でなんでも聞ける相手は、やはり圭太ということになる。もちろんパートリーダーでもいいのだが、より高度なことを聞こうとすれば、圭太の方が早い。
 あちこち呼ばれて指導している圭太を見て、柚紀は小さくため息をついた。
「……なんだかな」
 そんな柚紀の姿を見て、活動日誌を書いていた紗絵が苦笑した。
「いつものことじゃないですか」
「それはそうなんだけどさぁ、なんとなく疎外感てわけじゃないけど、置いてかれてるみたいでさ」
「あれは、先輩にしかできないことですから。誰か代わりができれば、解放されると思いますよ」
「そんなの無理よ。この部の中で、圭太以上に吹奏楽のこと、音楽のことに詳しい人はいないんだから」
 柚紀としても、それはよくわかっていた。それが基本的には圭太にしかできない芸当であることもわかっていた。それでも、どこか納得しきれていない部分があった。
「ひょっとして──」
「うん?」
「柚紀先輩は、あの指導を受けてる中に、朱美や詩織がいるから余計に心配してるんですか?」
「それはないけどね」
 即答だった。
「練習中には絶対に私情は挟まないから。まあ、そういう性格だからこそ、必要以上に心配しなくてもいいっていうのはあるけどね」
「なかなか微妙ですね」
「ま、これも圭太を彼氏に持った試練だとあきらめるわ」
 そう言って柚紀は苦笑した。
 練習は長時間やっても意味がないので、時間を区切って行われていた。土日のようにたいてい午前中で終わる時は、一時までと決まっていた。
 そういうわけで、圭太たちが学校を出たのは一時をまわってからだった。
「そういえば、圭太」
「ん?」
「祥子先輩て、いつまでバイトに出るの?」
「具体的にいつまでっていうのは決めてないみたいだけど、母さんもそろそろだろうって言ってたよ」
「先輩が抜ける穴は、誰が埋めるの?」
「ああ、それはともみ先輩がピンチヒッターを指名したから」
「ピンチヒッター?」
 圭太の言葉に、柚紀は首を傾げた。それは、事情を知らない紗絵も同じだった。
「幸江先輩のことだよ」
「ああ、なるほどね。確かに、気軽になんでも頼める相手ではあるわね。で、幸江先輩はオーケーしたの?」
「短期だからね。今の予定だと、長くて今年いっぱい。短ければ十一月中には」
「ということは、三ヶ月くらいか。ま、それなら二年生の今なら大丈夫か」
 昨今、就職活動が早くはじまるとはいえ、大学二年生では三年生ほどきっちりとはやらないので時間もまだある。
「じゃあ、そろそろ研修?」
「来週からだよ。それくらいからやってもらえれば、祥子先輩が突然抜けることになっても、大丈夫だと思うし。なにより、今月は僕たちが期末試験と秋休みで多少時間があるから。フォローもできるしね」
「なるほど。そういうことを考えると、タイミング的にはよかったわけか」
「図らずもそうなったけどね」
 確かに、祥子が抜けるという段階でこうも上手く様々なことが重なるのは珍しい。ピンチヒッターである幸江のことはいいとしても、圭太や琴絵、朱美が手伝いに入れるというのはそうあるわけではない。だから、とても運が良いと言えよう。
「それにしても、今の『桜亭』は、ホントに身内だけで固められてるわね」
「もともとそういう喫茶店だからね。席数も少ないし、父さんと母さんのふたりで十分にやっていけるだけの規模で。それが母さんと鈴奈さんに変わり。どんな人が入っても、家族同然に扱っちゃうから、どのみち『身内』かもしれないけどね」
「ふふっ、それは言い得て妙だわ」
 大通りまで出てくる。
 車が通る度に熱い風が抜けていく。
「それじゃあ、また明日ね」
 比較的すぐ来たバスで柚紀は帰って行った。
「お兄ちゃんはこのあとなにか予定はあるの?」
「特にはないよ」
「じゃあ、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」
「お願い?」
「うん。あ、そんなにたいしたことじゃないから。時間もそんなにかからないし。どこか出かけるわけでもないし」
「それならいいけど」
「じゃあ、適当な時間に私の部屋に来てね」
 
 圭太が琴絵の部屋を訪れたのは、三時をまわった頃だった。
 琴絵はちょうどなにかの雑誌を読んでいた。
「それで、お願いって?」
「あ、うん、私としてはホントはどっちでもいいんだけどね」
 そう言って琴絵は、学校のカバンの中からあるものを取り出した。
 それは、一冊のノートだった。
「実はね、クラスの友達がどうしてもって言って、これを渡してきたの」
 琴絵は、それを圭太に渡した。
「これは……」
 開くと、そこには実に様々なことが書かれていた。
「お兄ちゃんへの質問がいろいろ書かれてるの」
 確かに、そこには一問一答形式で圭太への質問が書かれていた。
「……まさかとは思うけど、これに全部答えなくちゃいけないとか?」
「ごめんね、お兄ちゃん。みんなも、これに答えてくれたらもうあまり言わなくなると思うから」
 琴絵は多少心苦しそうに言う。
 圭太としても琴絵が悪いわけではないのでどう言ったらいいのか困惑している。
「しょうがない。できる範囲でやってみるよ」
「ホント?」
「別に琴絵が悪いわけじゃないし。それに、やらなかったらやらなかったで、琴絵に対する心証が悪くなるし」
「ううぅ、ホントにごめんね」
 心底申し訳なさそうにしている琴絵に、圭太はたいしたことないと微笑み返した。
「じゃあ、ちょっと書いてくるから」
「うん」
 圭太はそのノートを持って自分の部屋に戻った。
「……それにしても」
 そこに書いてある質問は本当に様々で、心理テスト並の量だった。
 オーソドックスな質問からはじまり、徐々にマニアックなものへ。
 一応プライベートには配慮してあるようだが、それでもかなり突っ込んだものもあった。
「相手のことを知りたいっていう気持ちはわからないでもないけど、これはちょっとやりすぎな気もする」
 そう言いながらもちゃんと答えるところは、やはり圭太である。
「……こんなものかな」
 およそ二百にも及ぶ質問に答え、ノートを閉じた。
「さてと」
 再びそれを持って琴絵の部屋へ。
「一応、全部埋めたけど」
「ホントに? 別に答えたくない質問は答えなくてもよかったのに」
「まあ、一応答えられそうだったから」
「そっか」
 琴絵はノートをパラパラとめくる。
「ふ〜ん……なるほど〜……」
 そこには、妹の琴絵ですらなるほどと唸るような質問と答えが書いてあった。
「ひとつ思ったんだけど、これを書く暇があったら直接僕に聞きに来ればいいのに」
「う〜ん、それはそれでみんなにとっては結構冒険なんだよ。クラスメイトである私のお兄ちゃんということではあるけど、みんなにとっては憧れの存在だからね。ここに書いてあることも実際お兄ちゃんの前だと言えるかどうかわからないだろうし」
「そんなものかね」
「そんなものだよ」
 ざっと目を通し、琴絵もひと安心という感じで息を吐いた。
「でもさ、お兄ちゃん」
「うん?」
「直接みんなが聞きに来て、その時にもこれと同じことを答えられる?」
「大丈夫だと思うよ。そこに書いてあることは、そんなに考えて答えたことじゃないから。いわば、反射で書いたようなものだから」
「なるほど」
「とはいえ、書くのはそれなりに大変だから、今回限りにしてほしいけどね」
「それは大丈夫。次同じようなことを言われても、断るから。それに、もともと今回は特別ってことでこれを受け取ったわけだし。みんなだってお兄ちゃんに必要以上に迷惑かけようとは思ってないだろうし」
「それならいいけど」
 圭太としては、それさえ確認できれば特に問題はなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんはこうやってみんなに想われてることに対して、どう思ってるの?」
「素直に嬉しいよ。理由はどうあれ、誰かに好かれるということは、嫌われるということよりいいことだし。ただ、それはあくまでも純粋に嬉しいというだけ。それ以上の感情はないかな。その先は、あくまでも僕も相手のことを知ってなくちゃ成立しないから」
 見ず知らずの者からいきない好きだと言われても、ピンとこない。多少なりとも知っていれば、そこになんらかの感情が付加される。琴絵の友達、というだけでは前者にしかならないのである。
「お兄ちゃんがみんなに好かれて想われるのは嬉しいけど、お兄ちゃんは琴絵だけのお兄ちゃんだって、時々言いたくなるんだ」
 そう言って琴絵は圭太の方に寄ってきた。
「当たり前のことだけど、私が生まれてから今まで、ずっと一緒にいて、誰よりもお兄ちゃんのこと、理解してて。そして、誰よりもお兄ちゃんのことが好きで」
「琴絵……」
「そうみんなに言えたらどんなに楽か……」
 圭太はそっと琴絵の肩を抱いた。
「お兄ちゃんも、少しはそう思ってくれてる?」
「もちろんだよ。琴絵は、この世でたったひとりの僕の妹なんだから。琴絵が生まれてからずっと一緒で、誰よりも琴絵のことを理解してて。そして、誰よりも琴絵のことが好きで」
「……うん」
 琴絵は小さく頷いた。
「本当のことは、僕と琴絵の中にさえあれば十分だよ」
「そうだね。うん、それで十分だね」
 圭太にそう言われ、琴絵は嬉しそうに微笑んだ。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「ずっと、好きでいてね?」
「ああ」
 そう言って圭太は、琴絵にキスをした。
 
 二
 九月五日。
 週が明け、本格的に授業が再開される。テストまで二週間しかないため、担当教師は試験範囲を終わらせることに最大限の努力を払う。生徒たちにとっては、そこまでしなくてもと思っているのだが、そればかりは言ってもしょうがない。
 夏休みが明けると次の学校行事は一高祭である。基本的には文化部の催し物なのだが、クラス単位でもいろいろ行う。一、二年は部活の方の主役なので消極的だが、三年は運動部の連中が引退し、ほかにすることがないので積極的に行う。
 三年一組でもそれは同じだった。
「まだ二ヶ月先の話だけど、今月はあまり時間が使えないから、あらかじめ言っておくわね」
 帰りのホームルームで優香は、そう前置きして話した。
「そのうち実行委員会からもアナウンスがあると思うけど、一高祭でなにかやりたい場合は、後期開始後一週間以内に実行委員会に申請すること。だから、なにをやりたいかはあらかじめ考えておいて。決めるのは後期最初の日にするけど。みんなにとって最後の一高祭だから、悔いの残らないよういろいろ考えてみて」
 担任の優香としても、高校生活最後の文化祭を楽しいものにしてもらいたいと思っていた。だからこそ、だいぶ早い時期にあらかじめ考えておけるように話したのである。
 そんな心遣いに気付いているのかどうかはわからないが、あちこちからあ〜でもないこ〜でもないと声が聞こえてくる。
「はいはい。相談するのはとりあえず終わってからにすること」
 そんなわけで、ホームルームが終わった。
 それを待って、あちこちで再び話に花が咲く。
「なんとなくだけど、今のところ私たちはこの話には参加できないわね」
 そう言うのは、柚紀である。
「確かに。全国大会に行けるか行けないかで、いつ引退するか変わるからね」
「もちろん、全国大会には行けるとは思ってるけどね」
「とはいえ、この話に積極的に参加できるのは、関東大会が終わってからだからね。今は見てるだけだよ」
「ふふっ、そうだね」
「ふたりでなに話してるの?」
 そこへ、凛がやって来る。
「ん、一高祭のこと。クラスの方も気になるけど、私たちはとりあえずコンクール次第だから」
「そうなの?」
「吹奏楽部は伝統的に全国大会に出る時はそこで、出られなければ一高祭で三年は引退するってことになってるんだ」
「なるほど」
「だから、僕たちはとりあえず傍観者でいるしかないんだよ」
「でも、関東大会って、今週の土曜だよね? だったら、すぐにわかるんじゃない?」
「うん。だから、とりあえず、なんだよ」
 圭太の説明に、凛も納得した。
「凛ちゃんは、向こうにいた時にはどうだったの?」
「ん〜、水泳部でもクラスでもいろいろやってたよ。お祭りだからね。それこそ、楽しんだ者勝ちだから。もっとも、それ自体は純粋に文化祭を楽しみたい人の考えだけどね」
「純粋に? じゃあ、そうじゃない人もいるの?」
「ほら、うちって女子校だったからさ。そういうのにかこつけて彼氏をゲットしようだの、彼氏がいる人はみんなに自慢しようだの、いろいろあって」
「なるほどねぇ」
「でも、そういうのって、ここにだってあるでしょ?」
「多少はね。一応、近隣の高校からも結構来るし。ただ、去年も一昨年もずっと部活の方に張り付いてたから、詳しいことはわからないけど」
「そういう意味じゃあ、あたしと同じってことか」
「不本意ながらね」
 そう言って柚紀は笑った。
「けーちゃんたちは、無事全国大会へ出て、心おきなく一高祭を楽しめるといいね」
「それが一番の理想だけどね」
 その目標はあくまでも副次的なものだが、そういうことででも気合いが入るならそれでも構わない。結局は、全国大会へ出られればいいのである。
「それじゃあ、僕たちは部活に行くよ。凛ちゃんは?」
「ん、あたしも今日は指導に行かないといけないから」
「そうなんだ。じゃあ、また明日」
「うん、また明日」
 圭太と柚紀は、教室を出て音楽室に向かった。
「もし、全国大会に出られたら、一高祭は凛に要注意だわ」
「なんで?」
「だって、時間が自由になるのって、私と凛しかいないじゃない。ほかのみんなは、喫茶の方があるし」
「確かに」
「ま、凛にさえ注意してればいいっていうのは、楽だとは思うけどね。あとは、圭太次第かな」
「やっぱりそうなるかな?」
「もちろん。最終的にどうするかを決めるのは、あくまでも圭太なんだから」
「……そうだね。よく考えて行動するよ」
「うんうん、そうしてね」
 
 部活が終わり、家に帰ると、店の方がいつもより賑やかだった。
 その理由は至って簡単である。人が、いつもより多かったのである。
「まあ、だいたいはそんなところだと思うわ」
 ともみは、そう言って頷いた。
「なにかわからないことある?」
「ん〜、とりあえずは大丈夫そう」
「ならいいけど。でも、わからないことがあればさっさと聞かないと迷惑になるから」
「了解」
 幸江は習ったことを反芻しながら頷いた。
「調子はどうですか?」
 そこへ、圭太がやって来る。
「おかえり、圭太。調子は、本人に聞いてみて」
「おかえり。まあ、今日はいろいろ教えてもらっただけだから。教えてもらったこと自体は、理解したわ」
「そうですか。じゃあ、明日から実践ですね」
「とりあえずそうなるのかな。できる範囲でがんばるけどね」
「それで十分ですよ。普段は母さんもともみ先輩もいますし。それに、時間があれば僕たちもフォローに入りますし。だから、あまり気負わずにやってください」
「うん、そうする」
 この光景自体もこの一年ちょっとの間で三回目である。ともみとしても、祥子に教えたこともあって、だいぶ慣れたものだった。もっとも、『桜亭』自体あまり形式にこだわった店ではないので、本当に気負う必要などない。基本的なことができれば十分なのである。
「ひと通り終わった?」
「あ、はい。終わりました」
「そう。それじゃあ、幸江さんは今日はもう上がってもらっていいわよ。一日でなんでもかんでもやれるわけないし、少しずつやった方が効率的だから」
「わかりました」
 琴美にそう言われ、幸江は閉店前に上がることになった。
 それから夕食もともにし、初日ということで圭太が途中まで送っていくことになった。
「八月に比べると、やっぱり涼しくなってるわね」
「そうですね。さすがにいつまでも暑いと、やる気もなくなりますし。暦が変わったらちゃんと涼しくなってよかったです」
「圭太でもやる気がなくなるなんてことあるんだ」
「それはありますよ。暑さは、集中力も気力もそいでしまいますから」
「なるほどね」
 日中に比べれば涼やかな風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
 天気がよかったおかげか、多少放射冷却で思っていたよりも気温が落ちていた。
 とはいえ、少し体を動かせばじっとりと汗が浮いてくる。
「それにしても、まさか私までバイトすることになるとは思わなかったわ。ま、短期のピンチヒッターだけどね」
「それでも、母さんやともみ先輩にとってはだいぶ楽になると思いますよ。基本的にはあの店はふたりで切り盛りできますけど、三人いた方が負担も軽くて済みますし。その点では、幸江さんにはとても感謝しています」
「ふふっ、そう言われて悪い気はしないけどね」
 どういう理由であれ、圭太にそう言われれば幸江にとっては嬉しいことである。
「そういえば、圭太」
「なんですか?」
「ともみから聞いたんだけど、なんかいろいろあったらしいわね、ともみとのことで」
「あ、はい。でも、それもいずれ必ず起こり得ることだったので」
「なるほどね」
 幸江はなるほどと頷いた。
「じゃあ、同じことは私とでもあるわけか」
「それは暗に、今話した方がいいということですか?」
「それは圭太に任せるわ。ただ、親に話すのはもう少しだけ待って。うちはともみのところと違って親が圭太のことをよく知らないから。いきなり本当のことを話されても、絶対に納得しないだろうし」
「確かにそうかもしれませんね」
「だから、とりあえずは私とだけ。それでいい?」
「はい」
「まあ、どのみち話すわけだから、それなりの覚悟は必要だとは思うけどね」
 そう言って幸江は苦笑した。
「それで、圭太はどうしたいの?」
「そこに至るまでの過程や理由は様々ですけど、基本的な考えは去年からずっと変わっていません。僕は、幸江さんのことが好きだから、ずっと側にいてほしいから、その想いに応えたんです。自分の想いにウソをついてまで行動できるほど場数は踏んでませんし、なにより、僕自身そういうのは嫌いですから」
 夜道をゆっくりと歩いていく。
 時折、開いた窓からテレビの音が聞こえてくる。
「ただ、それは僕のワガママでしかないことも十分承知しています。僕には、柚紀がいます。その柚紀だけは、絶対に裏切れません。それでも、その裏切りに近い行為を僕は自分の中で認めています。それはつまり、それだけみんなと──幸江さんと一緒にいたいからにほかなりません」
「……そっか」
 幸江は、嬉しさと淋しさの入り交じった、複雑な表情を浮かべていた。
 そう言われることはわかっていたのだが、実際にそう言われると、やはり一抹の淋しさはあった。それは、幸江だけではない。柚紀以外の全員に言えることである。
「みんなそれぞれに対する想いは少しずつ違います。求めているものも当然違います。ただ、ひとつだけ同じことがあるとすれば、それは、僕がみんなのことが好きで、一緒にいてほしい、ということです。幸江さんは、そうやってひとまとめにされるのは本意ではないかもしれませんけど」
「そんなことないわよ。私なんてもともと後発組なんだから、ほかのみんなより言える意見も少ないし。それに、そういう事情、すべてを理解した上で、今の状況があるんだから。それに対してつべこべ言ったって、自分が惨めになるだけよ」
 それについては、圭太はなにも言わなかった。
「それに、去年最初に圭太に抱かれた時に言ったでしょ? 私の中にある幸せを、圭太の中に見出したいって。それってつまり、圭太から与えられるわけじゃないのよ。私が率先して見つけようと思わなければ、それまで。だから、どのみち私はずっと圭太の側にいるから。だって、私はずっとずっと圭太のことを好きで居続けるんだから」
「幸江さん……」
 圭太は、思わず立ち止まっていた。
「うちの親に話したあと、どうなるかはさすがに私にもわからないわ。でもね、どんなに反対されたって、それこそ勘当されたって私は圭太の側にいるから。もう私の幸せは、圭太の側でしか成立しないから。もちろん、両親や弟、妹のことも気にはなるけど、でも、私だってもう大学二年なんだから、そろそろ自分だけの幸せを考えたって、罰はあたらないはずよ」
「そうですね。僕もそう思います」
「ともみの時もそうだったと思うけど、結局、私やともみの場合は、ある程度割り切れてるから。あとは、その気持ちとどうやって折り合いをつけるかだけ。折り合いがつけば、あとは全然問題ないし」
 先に幸江が歩き出した。
 圭太もすぐに歩き出す。
「ねえ、圭太」
「なんですか?」
「私って、贅沢なのかな? 彼女がいる圭太のことを本気で好きになって、その上ずっと一緒にいたいと思って。本当なら、好きになるだけで終わらなくちゃいけないのに」
「別に贅沢だとは思いません。ただ、人より少しだけ自分の意志を真っ直ぐ、強く持っているだけだと思います」
「そういう考え方もありか」
「だから、幸江さんはあまり深く考えない方がいいですよ。どのみち、僕の幸江さんに対する想いは、深まることはあってもなくなることはないですから」
「ありがと」
 そう言って幸江は微笑んだ。
「ホント、圭太を好きになれてよかった」
「僕も、幸江さんを好きになれてよかったです」
「こぉら、あんまり嬉しいこと言わない。ただでさえ帰したくなくなってきてるのに、余計にそうしたくなるから」
「でも、ウソはつけませんから」
 圭太は幸江を抱きしめ、キスをした。
「……ホント、圭太を好きになれてよかった……」
 そう呟き、幸江は圭太に体を預けた。
 そんな幸江を、圭太はしばらくの間、優しく抱きしめていた。
 
 九月八日。
 その日は朝から大荒れだった。台風がやって来たのである。
 もともと九月は台風の多い月である。今回はそれが関東地方直撃コースでやって来た。
 前日から風が強くなり、未明には雨も降りはじめた。
 中には雨戸や窓の音で目覚めた、という者もいるかもしれない。
 雨風が強いため、学校に来るのもひと苦労である。
 たいていの生徒はいつもより早くに来ているのだが、中には台風のせいで遅れてくる者もいる。
 窓に雨が打ち付け、風で扉がガタガタ音を立てる。
 そういう状況では、授業に集中できようはずもない。
 授業はどこか浮ついた雰囲気の中で行われ、担当教師ももはやあきらめていた。
 そんな日の昼休み。
 圭太が購買部へ向かっていると、正面から数人の女子がやって来た。
「あ、お兄ちゃん」
 その中に、琴絵の姿があった。どうやら、一緒にいる生徒は琴絵の友人のようである。
「どこ行くの?」
「ん、購買だよ。消しゴムを買い忘れていて」
「そっか」
 圭太と琴絵が話している側で、琴絵の友人たちはひそひそとなにかを言っている。
「どうかしたかい?」
 と、圭太がそちらに視線を向けると──
「な、なんでもないです、ハイ」
 全力でなんでもないと否定する。なんでもないわけないのだが。
 その中のひとりが、琴絵にささやいた。
「……ねえ、琴絵」
「ん?」
「……先輩と少し話しても大丈夫?」
「それは私じゃなくて、お兄ちゃんに聞いてみないと」
「……それができれば、琴絵に聞かないって」
「んもう、いつもみたいな調子でいけばいいのに」
 そう言って琴絵はため息をついた。
「お兄ちゃん。あのね、みんながお兄ちゃんとお話ししたいんだって」
「話? 別に構わないけど。ただ、その前に購買に行ってもいいかな?」
 友人たちは、揃って頷いた。
 圭太はそのまま購買部で消しゴムを買った。
 それから約束通り琴絵とその友人たちにつきあうことになった。
 場所はさすがに廊下というわけにはいかないので、一年の教室近くの空きスペースである。
「あの、先輩。この前はわざわざ質問に答えていただいて、ありがとうございました」
「ああ、うん。あれくらいなら。ただまあ、何度もあるとさすがに、だけどね」
「は、はい。それはもう、今回限りですから。お約束します」
 それから少しの間、圭太は琴絵の友人たちといろいろな話をした。
 本当に様々なことである。
 その様子を、琴絵は一歩引いた目線で見つめていた。
「……ホント、お兄ちゃんはモテるなぁ」
 入学して以来、圭太の噂はいろいろ聞いてきた。最高学年となった今年、圭太の人気は最高潮に達していると言っても過言ではない。となれば、このような状況も不思議ではない。
 ただ、これまではそういう姿を見てこなかっただけである。
 だからこそ琴絵は、ある程度冷静にそれを見ていられた。
「……お兄ちゃんは、私だけのお兄ちゃんなんだけど、なぁ……」
 とても楽しそうな、嬉しそうな友人たちの姿を見ていると、やはりわずかではあるが嫉妬してしまう。特に琴絵は、圭太に対する独占欲が強い。
 おそらく、愛情と友情、どちらかを選べと言われたら迷わず愛情を選ぶだろう。
 それでも冷静でいられるのは、事実を認識しているからにほかならない。
 現在の圭太を取り巻く環境がどうなっているのか、理解しているからである。
 そしてなによりも、圭太は絶対に琴絵のことをないがしろにしないとわかっているからである。
「そういえば、先輩。先輩は、琴絵ととても仲が良いんですよね?」
「まあ、世間一般的に見て、悪くはないと思うよ」
「ですよね。琴絵、先輩の話になると途端に変わるんですよ」
「へえ、そうなんだ」
「少なくとも私たちのまわりにはいませんけど、もし先輩の悪口でも言おうものなら、琴絵、ものすごい怒りますね。というか、絶対に許さないと思います。それくらいの勢いですから」
「ちょ、ちょっと……」
「なるほどね。でも、それはある意味では当然かもしれないね。僕だって琴絵のことを悪く言われたら、怒るだろうし。まあ、うちは家庭環境が少し特殊だから、余計かもしれないけどね」
 微妙な質問にも、圭太は難なく答えていく。
 そのあたりは、さすがとしか言いようがない。
「琴絵も幸せですよね。先輩みたいな人が、お兄さんなんですから」
「さあ、それはどうなんだろうね。僕にはわからないよ」
 そう言って圭太は、意味深な笑みを浮かべた。
 と、そこで予鈴が鳴った。
「ほ、ほら、予鈴も鳴ったから教室に戻らないと。お兄ちゃんも」
「わかってるよ。それじゃあ、また」
 琴絵は、急かすように圭太を教室に戻らせた。
「はあ……やっぱり、先輩は素敵……」
 一方友人たちは、揃って夢見心地である。
「……やれやれ……」
 そんな友人たちを見て、やはり琴絵はため息をつくしかなかった。
 
 放課後。
 雨風は、ますます強くなる。校内放送では、特に用がない限りは早く帰るよう、繰り返していた。部活の方も、よほどなにかない限りは、ほとんど休みとなった。
 吹奏楽部も心情的には早めに切り上げたいのだが、如何せん本番は二日後である。しかも、練習はその日まで。次の日は、荷物の積み込みやら移動やらでそれどころではない。
 従って、できるだけ早めに切り上げるという努力目標は立てつつ、いつも通り練習を行っていた。
 ただ、直前にすることなどほとんどなく、基本的には確認作業に費やされた。
 菜穂子としても、ここで余計なことを言ってテンションを落とすような真似はできない。心の状況に音は敏感に反応するのである。
 最善を尽くさなければならない状況では、どんな些細なことでそれが崩れるかわかったものではない。そうすると、そういうメンタル面でも注意を払う必要がある。
 小一時間ほど合奏を行い、練習は切り上げられた。
「今日の合奏はここまで。これで、本番前の練習は最後よ。あとは、本番に向けて英気を養ってちょうだい。ここまで来たらジタバタしてもしょうがないんだから、やれることは全部やったと開き直って、前向きに考えなさい。その方が、よっぽどいい結果に繋がるわ。あなたたちの目標は関東大会ではない。あくまでもその上、全国大会なんだから。こんなところでつまずいてる暇はないはずよ。それこそ、今回の演奏は次へのステップだと思って、本当に思いきりやるように」
 菜穂子は、そう言って微笑んだ。
「やらなければできないけど、やればできるんだから。そして、あなたたちはやってきた。それは私が保証するわ。あとは、それを形にするだけ。簡単なことよ。それさえできれば、また十月に、このメンバーで普門館の舞台に立てるわ。だからそのためにも、しっかり休んで、万全の状態で本番を迎えること。これが私からの最後の注文よ。いいわね?」
『はいっ』
「それじゃあ、今日はここまで」
「ありがとうございました」
『ありがとうございました』
 挨拶が済むと、一気に緊張感から解放される。
 とはいえ、大半のメンバーは外を気にしている。
「そうそう。今日は台風が来てるから、余計なことしてないで、さっさと家に帰りなさい。そのためにも早く終わらせたんだから」
 時間帯としては、台風が最も接近する時間帯だった。そのため、雨ではなく、風の方が強くなっていた。
 ミーティングもごく簡単なもので終わり、それぞれ帰宅の途に就く。
「すごい風」
 昇降口を出た途端、ものすごい突風が襲った。
「しっかり傘持ってないと、飛ばされそう」
 雨もそこそこ降っているため、さすがに傘を差さないわけにもいかなかった。ただ、風のせいで傘の役目もあまり果たしていない感じもあった。
 髪の長い柚紀たちは、校舎から出る前にアップにするなり縛るなりしていた。
「でも、ある意味では運が良いんだよね」
「まあ、そうなるかな。台風は今日中に太平洋に抜けるって言ってるし」
 それはその通りで、本番でこのような状況だとさすがに落ち着いてできない。そういうことを考えると、運が良いと言えた。
「それにしても、もうあさってには本番なんだね。なんか、県大会からあっという間だった」
「一ヶ月なかったからね。慌ただしく過ごしてきたから、余計にそう感じるんだよ」
「圭太でもそう思う?」
「思うよ。もっとも、僕の場合はコンクールの季節が来るといつもだけどね。地区大会からはじまって、全国大会まで。その間は本当にあっという間だよ」
「それだけ充実してるってことかもね」
「まあね。少なくとも悔いの残らないようにはやってるつもりだよ。僕だけが後悔するならまだいいんだけど、僕のせいでみんなに迷惑をかけるわけにもいかないし」
「圭太の場合は、それだけは絶対にないと思うけどね。どこにそんな余裕があるんだろうってくらい、みんなのこと気にかけてるし」
「でも、今年はその可能性が捨てきれないから」
「それって、ソロのこと?」
「うん。地方大会レベルになると、ソロひとつダメなだけで、すべてが終わる可能性もあるから。だから最後の最後まで最善を尽くし、全力で挑まないといけないんだ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「じゃあ、私たちはそんな圭太が最高の演奏をできるように、祈ってないとね」
「ははっ、じゃあ、僕はますます失敗できないね」
「もちろん。でも、そうじゃなくても圭太なら失敗しないって信じてるし。それに、あれだけ真剣にやってきたんだから、それが結果に繋がらないなんてこと、絶対にないわよ」
「柚紀にそう言われると、本当にそんな気がするよ」
「そんな気、じゃなくてそうなの。もっと自信持ってよ」
「了解」
 
 三
 九月十日。
 吹奏楽コンクール関東大会一日目。
 二日前に抜けた台風のおかげで空気が綺麗に洗い流され、とても綺麗な青空が広がっていた。
 今年の大会は、神奈川県横浜市にある神奈川県民ホールで行われる。
 山下公園に近い場所で、わかりやすい場所にあった。
 前日の夜に横浜入りした一高の面々は、開会前に会場へ向かった。
 会場前には、実に様々な人がいた。
 参加者、関係者、観客。
 バスやトラック、乗用車にタクシー。
 なにがあるか知らない人にとっては、ただ単に興味を惹くだけのものだった。
 一高は、高校大編成の部の中でも最後から数えた方が早かった。そのため、時間までは各自自由行動とされた。とはいえ、行動範囲は限られている。基本的には会場の周辺のみ。山下公園くらいなら、まだ許容範囲といえた。
 それでもだいたいの部員はせっかくの関東大会ということで、演奏を聴くことにしていた。
 圭太たちもとりあえずは演奏を聴くことにしていた。
「毎年思うんだけど──」
 柚紀は、プログラムを見ながら言った。
「こうやって会場の中に入って、その雰囲気を肌で感じないと、本番なんだなって思えないんだよねぇ」
「それはいいことなんですか? 悪いことなんですか?」
 柚紀の隣に座っている琴絵が訊ねた。
「ん〜、どうなんだろ? ある意味ではよくて、ある意味では悪いのかも。前者は、ほどよく緊張感が抜けてるってことだし、後者は緊張感が足りないってことだから」
「……難しいですね」
 そんなふたりの会話を、圭太は苦笑しつつ聞いていた。
「琴絵ちゃんは、こういう雰囲気はもう慣れてるでしょ?」
「多少、ですね。それでも、控え室に入ると急に緊張しちゃいますよ」
「控え室で落ち着いていられるのは、圭太くらいよ。ね?」
「いや、そこで同意を求められても困るんだけど」
「だって、自分のことより人のことを優先できるなんて、指揮をする先生と、圭太くらいだもの」
「僕だって緊張はしてるよ。ただ、それをできるだけ表に出してないだけだから」
「それって、みんなが動揺するから?」
「そこまでおこがましくはないけど、多少はあるかな」
「確かに、圭太がわたわたしてたら、みんなもそんな感じになるかも」
「お兄ちゃんは、みんなの『支え』だからね」
「本当は、もう少し自分のことは自分で面倒見られるようになってくれると、僕も助かるんだけどね」
「うっ……そ、それは、今後の検討課題ということで……」
「琴絵ちゃんなら大丈夫よ。なんたって、圭太の妹、なんだから」
「ゆ、柚紀さんまで〜……」
「あはは」
 演奏がはじまると、時間は瞬く間に進んでいく。
 地区大会、県大会レベルとは比べものにならないくらい高水準の演奏である。よほどのことがない限りは、聴ける演奏である。そうなれば、十二分などあってないようなものである。
 地方大会になると基本的にはシードはないため、いつ有力団体が出てくるかはわからない。朝から聴ける場合もあれば、最後まで聴けない場合もある。とはいえ、だいたいは適度にばらけているので、いつ会場内にいてもいい演奏を聴ける。
 午前中の演奏が終わると、客席にも空席が見える。もちろん、昼食をとるためである。
 圭太たちは、近くの店で適当に買い物して、山下公園で食べることにした。
 公園内には、圭太たちと同じように昼食をとっている参加者も結構いた。
「もう今日も半分終わるんだね」
「まあね。じゃないと、僕たちの番がいつまでもまわってこないし」
「それはそうなんだけどね。なんとなく、今くらいの時間が一番中途半端でイヤかも」
「確かにね。でも、腹が減っては戦はできぬ、って言うし、ちゃんと食べて、それで本番に臨まないと。それに、僕としてはずっと張りつめてるよりは、多少中途半端な方がいいって思ってるけどね」
「う〜ん、そういう考え方もありか。なるほどね」
 そう言いつつ、柚紀はサンドウィッチを頬張った。
「そういえば、朱美と詩織はこれだけの大会に出るのははじめてなわけか」
「え、あ、うん。そうだね」
 いきなり話を振られ、ふたりは少しばかり驚いていた。
「どう? メンバーとして迎えた本番直前は」
「どうって訊かれても……緊張はしてるけど」
「けど?」
「なんとなく、浮いてるなぁって気がする。場違い、とは言わないけど」
 朱美は、言葉を選んでそう言う。
「圭兄は、最初の時はどうだった?」
「似たようなものだよ。どうして自分はここにいるんだろうって。もちろん、そのさらに上を目指してたわけだからそれは単なる錯覚なんだけどね。明確な理由があるからここにいて。そのために今自分が為すべきことはなにか。それを思い返して。そうしたら、自然とそういう感覚は消えたよ」
「そっか」
「そういう点で言えば、詩織はまだ慣れてる方かな?」
「それは、ピアノのことですか?」
「うん」
「確かにピアノの時もこんな感じですけど、でも、それとは明らかに違うところがあります」
「違うところ?」
「はい。それは、ピアノはひとりですけど、吹奏楽はみんなでやる、ということです。だから、緊張感とか諸々のことも、勝手が違いますし」
 詩織は、少しだけ真剣な表情で答える。
「それだけ冷静に分析できてれば十分だよ。たまに、緊張感や不安感で気が動転してる人も見かけるからね。やっぱり、そういうところは慣れと開き直りだから」
 そう言って圭太は笑った。
「まあ、いずれにしても結果さえ残せればその前がどういう状況でもいいんだけどね。我を忘れるくらい緊張していても、本番がきっちりできれば問題ないし、逆に落ち着いていても本番で失敗したら意味がないし」
「確かにね。でも、そのあたりのフォローは圭太がしてくれるんでしょ?」
「できる範囲ではやるけど」
「圭太がそう思ってくれてるだけで、みんな安心できるわよ。ね?」
 柚紀がそう訊くと、琴絵たちは揃って頷いた。
 午後の演奏がはじまる頃になると、会場はますます混んできた。これは関東大会だけではないが、演奏が終わった団体が観客席などに入ってくるからである。
 会場内も独特の雰囲気に包まれ、これから演奏する者にとっては緊張感を助長するものとなる。
 一高もそのような雰囲気の中、集合時間を迎えていた。
 受付を済ませ、楽器の置かれている控え室に入る。
 一様に緊張した面持ちで楽器を取り出し、最後のチェックを行う。
「みんなの様子はどう?」
「そうですね、取り立てて問題はないと思います」
 圭太は、手を止めて菜穂子に答えた。
「もうここまで来たら、あとはやるしかないものね。今更ジタバタしたところで、いい演奏ができるわけでもないし」
「天命を待つ前に、人事を尽くさないといけませんからね」
「そうね。特に圭太はその想いが強いんじゃないかしら?」
「僕だけが特別なわけじゃないですよ。みんな同じです」
「だとしたら、なおのこと人事を尽くさないと」
 そろそろチューニング室へ移動というところで、圭太は柚紀に声をかけた。
「柚紀」
「ん、どうかした?」
「いや、そろそろ移動だろうから声をかけておこうと思って」
「そっか」
「でも、柚紀は大丈夫そうだね。少なくとも見た目には落ち着いてるから」
「一応ね。これでも三年連続だし。とはいえ、かなり緊張してるけど」
「それはしょうがないよ。僕だってそうだし」
「ま、心配しないでいいよ。パーカスの方はちゃんと見ておくから。そのことを言いに来たんでしょ?」
「さすがは柚紀だね」
 そう言って圭太は苦笑した。
「だてに三年間圭太のやること見てきたわけじゃないわよ。それに、そういうのを抜きにしたって、三年の私がやるべきことだし」
「そういうことなら、パーカスのことは柚紀に任せるよ」
「了解。とりあえずパニックにならないよう注意してるわ」
 それからすぐに移動となった。
 チューニング室に入ると、すぐに調子を計るために楽器を吹く。
 ここで自分の調子を上手く把握できないと、本番で痛い目に遭うかもしれない。自分だけで済めばまだいいが、そのせいでほかのメンバーに迷惑がかかれば、悔やんでも悔やみきれない。だから、皆真剣なのである。
 チューニングを終えると、課題曲、自由曲ともに軽くあわせる。
 簡単に最も注意すべき部分を指摘し、時間を待つ。
 時間が来てチューニング室から舞台裏へ移動する。そこまで来ると、ステージでの演奏も聞こえてくる。
 泣いても笑ってもあとは本番のみ。
 否応なく緊張感が高まる。
 プレッシャーに負けないように、ある者は深呼吸し、ある者は目を閉じ、ある者はわざと明るく振る舞う。
 ふたつ前の団体が終わり、そこでようやく舞台袖へと移動する。
 ここで先に移動していたパーカッションと合流する。
 ここまで来ると、逆に時間の流れが遅く感じることもある。同じ十二分間でも、どういう精神状態でいるかによって、長くも短くも感じる。
 ただ、いずれにしても、前の団体の演奏が終われば自分たちの番である。
 そして、程なくしてその時は来る。
 ステージに出る直前。
「一高吹奏楽部〜、いくぜーっ!」
『おーっ!』
 気合いを入れ直し、ステージへ。
 ステージでは椅子や譜面台、打楽器の入れ替えが急ピッチで行われている。
 ある程度並んだところで、メンバーそれぞれが位置を確認し、場所を確保する。
 打楽器を入れると、最後に確認を取る。そこで問題がなければステージに明かりが入る。
 責任者の合図があり、観客席の明かりが落とされ、ステージに明かりが入る。
『──県立一高等学校。課題曲C、自由曲、ドビュッシー作曲、交響詩『海』より風と海との対話。指揮は、菊池菜穂子先生です』
 二年連続全国大会金賞校ということで、会場内も異様な雰囲気に包まれていた。
 アナウンスが入り、菜穂子が礼をして、ようやくざわめきが収まったくらいである。
 菜穂子は、指揮台に上がる前に全員を見回す。
 大きく頷き、指揮台へ。
 菜穂子自身も一度息を吐き出し、指揮棒を上げた。
 最初の音が出ると、あとはこれまでの練習の成果を出すだけである。
 あれだけまとわりついていた緊張感もいつの間にか忘れ、今はただ、演奏に集中する。
 どこも一緒だが、これまでの集大成の気持ちで演奏する。
 自由曲の最後、指揮棒が下ろされた時に最高の演奏ができていると信じながら。
 課題曲が終わり、わずかなインターバル。
 パートを交代するパートはすぐに移動する。
 圭太も夏子と入れ替わりでファーストの位置に座る。
 再度全員を見回し、自由曲がはじまる。
 そこまでの演奏は順調だった。普段の実力を遺憾なく発揮できていた。
 あとは、県大会の時に失敗した圭太のソロである。
 ソロ直前、圭太は短く息を吐き出した。
 自分自身の力を信じ、全力を出し切るだけ。
 結果はそこについてくる。
 
 演奏が終わり、楽器を片づけ、控え室を出る頃には、もう残り二団体というところだった。その時間では中で聴くというのもなかなか大変である。従って、一高はほとんど全員、すべての演奏が終わるまでホールの外で待つことにしていた。
 メンバーの顔には一様に安堵感が漂っていた。とはいえ、それで終わりではない。そこに結果がついてきてはじめて笑顔に変わるのである。
 まわりといろいろ話をしているが、誰も演奏のことは話していなかった。それはある意味では当然の心理だろう。結果がわからない段階では、評価のしようがない。それに、下手なことを言って、まだ残っている不安を助長することもない。
「そういえば──」
 圭太の肩に頭を預けていた柚紀が、不意に思い出したように声を上げた。
「先輩たちって来てるんだよね?」
「ああ、うん、来てるはずだよ。というか、今回は母さんも来るって言ってたし」
「そうなんだ。あ、そっか、ともみ先輩も祥子先輩も幸江先輩もいないと、やっていけないもんね」
「そういうこと」
『桜亭』は、そのせいで臨時休業だった。
「で、連絡はどうやって取るの?」
「一応、閉会式前に会場入り口で会うことになってるけど。もしそこで会えなければこっちから先輩の携帯に連絡することになってる」
「なるほど。そのあたりはぬかりなし、か」
 柚紀は、なるほどと頷いた。
「今回のことでもそうなんだけど、先輩たちに言われたよ」
「なにを? なんて?」
「これから先のことも考えると、僕も携帯を持てって」
「ああ、確かにそうかもね。いろいろなことを考えると、圭太とすぐに連絡が取れないと困ること多そうだし」
「僕も持ったら持ったで便利だとは思うけど、ただ今ひとつ乗り気にはなれないんだよね。明確な理由はないけど」
「まあ、その気持ちもわからないでもないけど。でも、この際だから、持ってみたら? そしたら私も一緒に持つし」
「そうだね。少し考えてみるよ」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 それから少しして、すべての演奏が終わった。
 閉会式までは時間があるので、一度ホールから人が出てくる。
 そんな中、圭太は会場入り口でともみたちを待っていた。
 演奏だけを聴きに来た観客が結構帰っていくので、入り口はそこそこ混んでいた。
 それでもともみたちを見つけるのは楽だった。
「おつかれ、圭太」
 やはり、大勢の中にあってもともみたちは目立っていた。
「おつかれさま、圭くん」
「おつかれ」
 三人の先輩は、それぞれににこやかな表情だった。
「ほかの連中は?」
「ロビーの方にいます。行きますか?」
「そうね。ここにいてもしょうがないし」
 入り口からロビーに戻る。
 そのロビーの一角に、一高は陣取っていた。
「やっほ〜」
 軽いノリで声をかけながら合流する。
「あら、なんか少ないわね」
「一年には場所取りを任せてるんですよ」
「ああ、なるほどね」
 ともみや幸江のところには、主に三年が声をかけていた。
 一方、祥子の方は、少々騒ぎになっていた。それはそうである。
 しばらく会っていなかったと思ったら、いきなり大きなお腹で現れたわけである。普通に考えれば、なにがあったのかと騒ぎ立てる。
 祥子は、さすがに正直には話してはいなかったが、それでも極力本当のことを話そうとしていた。ただ、公然の事実だったとしても、まさか圭太の子供を身ごもった、とはなかなか話せなかった。
 祥子以外はそうなることを懸念してみんなの前には出ない方がいいと言ったのだが、祥子は頑として受け入れなかった。それはやはり、OBとして後輩たちを労いたい、という想いが強いからである。自分たちの時にはともみたちがそれをしてくれた。なのに、次の年はなにもない、ではさすがに可哀想である。それに、そうすることは、ある種の恩返しでもあった。
「あら、あなたたち来てたのね」
 そこへ、菜穂子がやって来る。
「後輩たちの勇姿を見に来ました」
「あら? 後輩『たち』なの? 私はてっきり、誰か特定の後輩を見に来たんだと思ったわ」
「それはそれでもいいんですけどね」
 菜穂子の冗談にともみも冗談で返す。もっとも、それは半分以上は冗談ではないのだが。
「それで、演奏を聴いてみてどうだった?」
「取り立てて問題はなかったと思います。県大会の演奏がどんなものだったのかは、聴いてないからわかりませんけど、おそらく、それ以上の演奏だったと思います」
「幸江は?」
「そうですね。基本的にはともみと同じ感想です。気合いも十分でしたし、なによりもみんな、全国に行きたいんだっていう想いが、全面に出てましたから」
「そう。それを聞いて安心したわ」
「先生はどう思ったんですか?」
「手応えはあったわよ。演奏直後の手応えで言えば、去年以上ね」
「ということは、今年もダントツでトップ抜けですか?」
「ところが今年はそうはいかないと思うわ。うちも去年以上の演奏をしたと思うけど、ほかもレベルが格段に上がってるし」
「なるほど。全体的に今年の大会はレベルが高い、というわけですね」
「そうね。とはいえ、がんばった結果はちゃんとついてくると信じてるわ」
 菜穂子は、少しだけ真剣な表情でそう言った。
「ところで、祥子は来てないの?」
「来てますよ。今は後輩たちに囲まれてます」
「囲まれてるって、なにかあったわけ?」
「まあ、それは私たちが説明するより、本人を見てもらえばわかると思います」
「見ればわかる? 話せばじゃなくて?」
「ええ。見れば、です」
 ともみと幸江は、苦笑混じりにそう言った。
 少しして、ようやく菜穂子のところに祥子がやって来た。
「……なるほど。確かに見ればわかるわね」
 祥子を見ての第一声は、それだった。
「ずいぶんといろいろ言われたみたいね」
「まあ、それも覚悟の上でここへ来ましたから」
「あまり野暮なことは聞きたくないけど、相手は私の想像通りかしら?」
「たぶん、その通りだと思います」
「なるほどね。そこまでの関係だったのか、あなたたちは。とすると、『彼』のいろいろな噂は、限りなく真実に近いのかもしれないわね」
「そのあたりのことは、さすがに私からはなにも」
「別にそれをどうこう言うつもりはないから。あなただって『彼』だって、そのくらいのことは十二分に理解してるだろうし」
 祥子は、それには答えなかった。
「ところで、肝心の演奏の方はどうだった?」
「単純に比較はできないとは思いますけど、去年よりもよかったと思います。全部の団体を聴いたわけではないですけど、このままいけば、ほぼ間違いなく全国だと思います」
「そう言ってもらえると、なかなか心強いわ。とりあえず、人事は尽くしたから、あとは天命を待つのみだから」
「絶対に大丈夫ですよ」
 程なくして閉会式がはじまった。
 一高は一年が取った場所で結果を聞くことになった。
 会場内は異様な熱気に包まれていた。
『それではこれより関東大会第一日目、閉会式をはじめます。まず最初に、本日の総評を審査員を代表して──』
 真面目に聞いている者がどれだけいるかわからないが、審査員は演奏の総評を述べている。全体としては、ここ数年では一番のできだった。ただ、上と下の差が少々開いてしまったことが残念だったとも述べた。
『激戦の関東大会を勝ち抜けた団体は、全国大会でも必ず素晴らしい成績を残せると思いますので、自信を持ってください』
 講評が終わると、いよいよ結果発表である。
 午前中の団体から順次発表されていく。
 最高の結果が出れば、最高の笑顔が、惜しい結果に終われば、悔し涙が。
 それでも、全力を出せたのなら本当の意味で後悔することはないだろう。
 全力を出した結果が銀賞なら、自分たちの実力はそこだったのだと認められる。
 そして、高校大編成の部も順調に発表され、ようやく一高の番となった。
『──県立第一高等学校、金賞』
 毎度のことながら、発表は実にあっさりとしている。
 喜ぶタイミングを逸すると、少々マヌケに見える。
 しかし、一高のメンバーはそんなことはなかった。
「よっしゃーっ!」
「やったーっ!」
 近くのメンバーと手を取り合い、喜ぶ。
 それでもそれがすべてではない。金賞はあくまでも『前提』でしかないのである。
『続きまして、十月に行われます全国大会への進出を決めた団体を発表します』
 その声に、会場内はシンと静まりかえった。
 発表する側は、あえて淡々と発表する。それは、参加者に流されないようにするためでもある。
 名前が読み上げられる度に会場内のあちこちから歓声が沸き上がり、ため息が漏れる。
 基本的には金賞の団体にしかその資格はないために、発表はあっという間に進む。
『──県立第一高等学校』
 そして、再び喜びは爆発した。
『以上の団体が全国大会進出を決めました。全国大会は、中学・高等学校が──』
 ざわめきが消えない会場内。
 そこには、悲喜こもごも、本当に様々な姿があった。
 
 興奮冷めやらぬ状況でも、やることはやらなければならない。
「まずはごくろうさま。それと、おめでとう」
 菜穂子は、そう言って話をはじめた。
「演奏が終わった時、去年以上の手応えがあったからこの結果はある程度予想できたけど、こうして実際に結果が示されて正直ホッとしてるわ。この結果もあなたたちにとっては通過点にすぎないとは思うけど、今日は素直に喜んでもいいと思うわ」
 部員たちは、いつも以上に熱心な表情で話を聞いている。
「がんばれば必ず結果はついてくる。今回のことでもそれは証明されたわ。だから、次の全国大会も全力でがんばればいいのよ。そうすれば、自ずと結果はついてくるはずだから。せっかくめったにないチャンスをもらえたわけだから、それを活かすも殺すも、あなたたち次第よ。少なくとも私は、あなたたちとともに三年連続金賞を取りたいと思ってる。そのために精一杯できることもやろうと思ってる。そうすれば、十月二十九日に最高の結果が得られると信じているから」
 菜穂子は、そこで一度言葉を切った。
「明日からしらばく練習はないけど、テスト明けからまたしっかりやるから。それまでに英気を養って、全国大会でも最高のパフォーマンスを見せましょう」
『はいっ!』
「それじゃあ、前部長」
 菜穂子に代わって圭太が前に出る。
「みんな、おつかれさま。今日の演奏に関しては僕がとやかく言わなくても、それぞれがどうだったかわかってると思うから。あとは、それを次に活かすだけだと思うから。特に三年は正真正銘、高校最後のコンクールだから。泣いても笑ってもあと一回。それで全部終わりだから。もちろん、一、二年も明確な目標があるんだから、悔いの残らない練習をして、本番を迎えないと。ようやくここまで来たんだから、あと少し。みんなでがんばろう」
『はいっ!』
「じゃあ、最後に部長」
 最後に紗絵が事務的な連絡を行う。
「おつかれさまです。演奏に関しては私から言うことは特にありません。私はこれからのことを話します。まず、これから一度ホテルに戻ります。そこで明日もこちらに残る組と帰る組に分かれます。帰る組にはバスが待っていますので、荷物をまとめたら速やかにバスに乗り込んでください。残る組は、新しい部屋割りに従ってそれぞれの部屋に分かれてください。ちなみに、帰る組にはバス車内にお弁当が用意してありますが、残る組にはありませんので、どこかで夕食を取ってください。わからないことがあれば遠慮なく聞いてください。それではこの場はいったん解散します」
 あまり時間に余裕がない中、形式的なことを済ませ、会場をあとにする。
 今年も居残り組はだいたい二十人くらいである。ちなみに、圭太たちは当然居残り組である。
 会場からホテルに戻り、帰る組を見送ると、ようやくひと息つける。
「はあ、ようやく終わったって感じね」
 そう言って柚紀はぐーっと伸びをした。
「ま、とりあえずはね」
「とりあえずでもなんでもいいのよ。これでしばらくは休みになるんだから。ずっと張りつめてると、それだけで大変だから」
「それはそうだけどね。まあ、明日はそういうことも含めて聴くことに専念するよ」
「ホント、圭太はすぐに真面目に考えちゃうんだから。もっと気楽に考えればいいのに」
「こればかりは性分だから」
 圭太は苦笑した。
「ところで、祥子先輩のことはよかったの?」
「ん、どういうこと?」
「ほら、結果的に噂を裏付けてしまったわけでしょ? あまりあれこれ言いたくはないけど、きっと遅かれ早かれ学校でも話題になるだろうし」
「それはそうだろうね。でも、事実は事実だし。それに、そういうことを言い出したらキリがないよ。実際、うちの生徒でも『桜亭』に来ればわかるわけだし」
「まあ、そうなんだけどね」
 柚紀は、少しだけ複雑そうな表情で唸った。
「柚紀には本当に迷惑かけてばかりだね」
「別にいいわよ、これくらい。それに、圭太とつきあったら少なからず苦労するだろうとは思っていたからね、最初から」
「そうなの?」
「そりゃそうよ。見た目もよくて性格もいい。普通に考えれば私だけじゃなく、ほかの人だって好きになっちゃう。だったら、いろいろ大変なことも起こるだろうなって、漠然とは思ってた。もっとも、ここまで大変なことになるとは夢にも思ってなかったけど」
「面目ない」
「ああ、いいのいいの。前から言ってる通り、今の状況は今の状況で楽しくもあるんだからさ」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「お待たせ」
 そこへ、ふたり以外の居残り組がやって来る。
「じゃあ、ちょっと遅くなったけど、夕食に出ようか」
 
 その日の夕食は、簡単にではあるが全国大会出場決定おめでとう会のような感じとなった。もちろん全員ではないのでバカ騒ぎはできないし、やっていない。
 それでも、多少の余韻を噛みしめたいという想いは十分理解できた。
 とはいえ、約二十人という大勢で繰り出せる店はそう多くはなく、結局は近場のファミレスとなった。高校生の懐具合を考えればそれが妥当でもあったが。
 食事を終えてホテルに戻ってきたのは、もうだいぶいい時間だった。
 さすがにその頃になると皆疲れからかぐったりしていた。
 だから、部屋に戻るなり死んだように眠ってしまっても、なにもおかしいところはなかった。
 
 四
 関東大会も終わり、部活の方は前期末試験と重なった関係でしばらく休みとなった。
 学校の方もテストが近いからか、幾分ピリピリした雰囲気が漂っていた。
 特に三年はひとつひとつのテストがとても重要である。受験本番までもう時間はない。ひとつのミスが取り返しのつかないミス、ということもあり得る。だからこそ雰囲気も余計に硬い。
 とはいえ、それも全員ではない。進学校である一高ではあるが、毎年必ず就職組もいる。そういう者たちは、少なくとも試験ではそこまでピリピリしていることはない。もっとも、それ以上に就職活動でピリピリしているのだが。
 その両方に入らない者は、かなり珍しい。とはいえ、それも毎年ゼロとは言えない。進学と言っても、大学だけでなく専門学校に進学する生徒もいる。そうすると、特殊ではあるが三番目ということになる。
 そして、現状では圭太と柚紀はそこに位置していた。
「圭太はどのくらい進んでる?」
 柚紀は、圭太の前の席に陣取り、そう訊ねた。
「いつも通りだよ。ああ、でも数学がちょっと遅れ気味かな」
「なるほど」
「柚紀は?」
「少し遅れ気味。さすがにコンクールがあったから。私も圭太くらい要領よくやれたらいいんだけどね」
 ふたりの話題も期末試験のことだった。
「というわけで、圭太」
「うん?」
「一緒に勉強しましょ」
「それは構わないけど、いつから?」
「う〜ん、そうね。じゃあ、土曜日から。ちょうど三連休だし。どう?」
「柚紀がいいなら僕はいいけど」
「ただし、私がそっちに行くのは、その前の日からだからね」
「前の日?」
 圭太は首を傾げた。
「……ああ、なるほど、そういうことか」
「まさか、忘れてたわけじゃないわよね?」
「それはないよ。プレゼントだってちゃんと考えてるし」
「ウソウソ。冗談だって。圭太が万が一にも私の誕生日を忘れてるだなんてこと、思ってないから。だって、圭太は私だけじゃなくて全員の誕生日を覚えてるでしょ?」
「まあ、一応ね」
「ちなみに、凛ていつ?」
「凛ちゃん? 十月十日だよ」
「十月か。とすると、厳密に言えば圭太が一番年下なんだ」
「そうだね」
「でも、私たち三人一緒だと、どう見ても圭太が一番上に見えるわよね。それってやっぱり、圭太の方が精神年齢が高いからかな?」
「さあ、それはどうかな? 少なくとも僕自身はそう思ってないし」
「ふたりしてなに話してるの?」
 そんなふたりのところへ、凛がやって来る。
「ん、試験のこととか誕生日のこととか精神年齢のこととか、いろいろよ」
「なにその、脈絡のない話題は?」
 凛は首を傾げた。
「最初に試験と試験勉強の話をしてて、次に私の誕生日の話から凛の誕生日の話になって、それから最後に精神年齢の話になったの」
「いや、説明されてもその繋がりが見えないんだけど」
「少しは考えてるの?」
「あんたに言われるとムカツクわ」
「いい? まず、試験の話はいいわね?」
「まあ、それはね」
「私の誕生日の話だけど、私の誕生日、今週の金曜日だから」
「そうなの?」
「そ。だから、誕生日のことが話題になったの。で、圭太はみんなの誕生日をちゃんと覚えてるから、じゃあ凛の誕生日はって聞いたの。そしたら来月だっていうじゃない」
「まあね」
「で、私たち三人だと圭太が一番年下になるんだけど、実際はその圭太が一番精神年齢が高いって思って」
「そういうことか。どういう繋がりかと思ったけど、そうやって説明されればさすがにわかるわ」
「そりゃそうよ。小学生にもわかるように説明したんだから」
「……やっぱあんたに言われるとムカツク」
 凛は、少しだけ憮然とした表情でそう言った。
「まあまあ、柚紀も凛ちゃんもそのくらいにして」
 そんなふたりをなだめるのは、やはり圭太である。
「誕生日と精神年齢のことはとりあえず置いといて、試験勉強ってふたりでやるの?」
「ふたりでって言っても、実際は本当に一緒に『やる』だけよ」
「どういう意味?」
「ん、ほら、私はそうじゃないけど、圭太は取り立てて誰かに教えてもらう必要ないでしょ?」
「ああ、なるほどね。確かに言えてるかも」
「ま、私も結局は圭太と一緒にいる口実がほしいだけなんだけどね、実際は」
「正直なことで」
「あら、凛も同じじゃないの?」
「うっ……そ、それはそうだけど……」
「じゃあ、凛ちゃんも一緒にやる?」
「いいの?」
「僕は構わないけど」
 そう言って圭太は柚紀を見る。
「ダメ、とは言えないでしょ?」
 柚紀は、やれやれと肩をすくめた。
「それに、凛も一度圭太と勉強すれば、自分との差をイヤというほど思い知ることができるだろうし」
「……それはそれでちょっと恐い気もするけど」
「ま、そんな圭太を好きになった運命だとあきらめるのね」
 そう言い放つ柚紀に、圭太は苦笑するしかなかった。
 
 部活のない放課後は、いつもと勝手が違い、多少の戸惑いを覚える。一番それを感じるのはやはり、帰る時間帯である。いつもならもう夜という時間じゃないと学校を出ないのに、その時ばかりは明るいうちに出るのである。目に飛び込んでくる景色も全然違う。
 圭太は、ひとりで昇降口にいた。同じクラスでもある柚紀と凛は、それぞれにもう帰っていた。圭太だけは図書館に寄っていたために、別なのである。
「とりあえず帰ったら店の方を見て……」
 靴を履き替えながら帰ってからの予定を確認する。試験まで一週間を切っているとはいえ、圭太の生活パターンはそう変わらない。勉強も優先順位は上なのだが、店の手伝いも同じくらい上なのである。
「それから──」
「先輩」
 そんな圭太の思考を中断させる声が聞こえた。
「ん、詩織か。今帰りかい?」
「はい。先輩も、ですよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、一緒に帰ってもいいですか?」
「もちろん」
 圭太が頷くと、詩織は嬉しそうに圭太の隣に並んだ。
「今日は柚紀先輩とは一緒じゃないんですね」
「ちょっと図書館に寄ってたからね。一緒に勉強するわけでもないから、柚紀は先に帰ったんだよ」
「なるほど」
「そう言う詩織はなんでこの時間に?」
「私、週番なんです。それで細々としたことをしてたら、いつの間にか、という感じです」
「そっか。テスト前の週番はある意味では一番面倒だからね。でも、ふたりでやるはずなのに、なんで詩織だけ?」
「それは、交代でやってるからですよ。今日は私。明日はもうひとり。ふたりでやった方が効率的ではあるんですけど、部活もない現状ではトータル的に考えると、別々にやった方が時間の有効活用に繋がると思ったので」
「まあ、それは考え方次第だと思うけど。なるほど、そういう理由でか」
「私としては、そのおかげでこうして圭太さんと一緒に帰れるんですから、よかったです」
 どこも練習していない校庭を横切り、正門から校外へ出る。そこから大通りへ出る道は一高の生徒にとってはメインストリートとなっている。
 裏門からも出入りする生徒もいるが、大半は正門を利用し、この通りを利用する。
 従って、多少時間がずれてはいても同じ制服姿の一高生を多く見かける。
「今回は三人で勉強会はやらないのかい?」
「一応やろうってことにはなってます。いつ、どこでやるかまではまだ決めてませんけど。圭太さんは、やっぱり柚紀先輩と?」
「うん。週末にね。ただ、今回はふたりだけじゃないんだけどね」
「誰かほかに一緒なんですか?」
「凛ちゃんも一緒にね」
「ああ、なるほど」
 詩織は、やけに大きく頷いた。
「なんだか、やけに納得してるね」
「圭太さんと柚紀先輩、凛先輩の三人なら、ということです。それに、私はその方が安心できますから」
「安心?」
「柚紀先輩とふたりきりじゃない、というのが大きいです」
「そんなに心配?」
「心配という次元の問題ではないんですけど、心情的にはいろいろ複雑なので。だから、凛先輩には感謝しています」
 圭太と柚紀が一緒にいること自体はもはや止めようがない。ならばその回数を少しでも減らすためにはどうすればいいか。そうすると、今回のような方法がベストに近い。
「でも、圭太さんはそうやって一緒にやることにメリットはあるんですか?」
「どうかな。ある場合もあればない場合もあるかな」
「じゃあ、どうして一緒にやるんですか?」
「どうしてかな。人に言わせると、僕は典型的なお人好しらしいから、そのせいかもね。それに、人になにかを教えるという行為それ自体も嫌いじゃないから。僕なんかでも役に立てるなら、という想いもどこかにあるかもしれない」
「それって、結構損な役回りですよね?」
「そうだね。でもさ、たまには損得勘定抜きでもいいと思うんだよ。それに、テストなんて年にそうあるわけでもないし。たまのことだから」
 そう言って圭太は微笑んだ。
 使われている圭太本人がそう思っているのなら、詩織にはなにも言えなかった。
「僕たちのことはいいんだけど、詩織の方は勉強のは進んでるかい?」
「あ、えっと、まあまあ、ですね。追い上げに期待、ということで」
「詩織がそう言うなら、そういうことにしておくよ。特別にいい点数を取る必要はないけど、最低限の点数だけは取らなくちゃいけないからね」
「それはわかってます。高校生は勉強が第一、ですからね」
「それがわかってるなら僕もなにも言わないよ」
 圭太としても、自分のことを棚に上げて人のことばかり言うつもりはなかった。それでも、詩織のように圭太に近い位置にいる者にはやはり一言くらいは言っておかなくては、と思っていた。だから、あえて言ったのである。
 そうこうしているうちに分かれ道へとやって来た。
「あの、圭太さん」
「なんだい?」
「その、よかったら今度、少し勉強を見てもらってもいいですか?」
「それは構わないけど、見なきゃいけないようなところ、あるの?」
 圭太は、悪戯っぽい笑みを浮かべ、訊いた。
「ううぅ、いぢわるなこと言わないでくださいよぉ」
「ははは、ごめんごめん。誰にだってわからないことはあるからね」
「ううぅ……」
 詩織は、拗ねた顔で小さく唸る。
「詩織だけじゃなくて、朱美も紗絵も基本的には自分でできるからね。なんとなくそういう風に言いたくなるんだよ」
「そう思われてて悪い気はしませんけど……」
「とにかく、今度ちゃんと見てあげるから、それで機嫌を直して」
「わかりました」
 基本的に詩織も機嫌を損ねていたわけではないので、すぐに笑顔に戻った。
「それじゃあ、圭太さん。約束、忘れないでくださいね」
「了解了解」
 詩織を見送り、圭太は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、甘いのかな」
 それはいったいどのことを言っているのかは、圭太にしかわからなかった。
 
 九月十六日。
「……私も十八、か」
 柚紀は、鏡に映った自分の顔を見ながら、そう呟いた。
「なにが変わるわけでもないけど、きっと、なにかが変わるんだ」
 無表情だった顔に、わずかに笑みが戻る。
「よし、今日も一日がんばらなくちゃ」
 
「今年はずいぶんと機嫌がいいみたいね」
 柚紀が朝食をとっていると、咲紀がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、声をかけてきた。
「……別に、お姉ちゃんには関係ないでしょ?」
「とは思うけどさ、それでも気にはなるじゃん、やっぱり。なんたって、あんたはたったひとりの妹なんだし」
「私には、その妹をおもちゃにしたくてしたくてしょうがない姉の顔しか見えないんだけど」
 ズズッとみそ汁をすする。
「──で、今日は泊まってくるわけ?」
「さらっと無視してるし」
「都合の悪いことは聞こえないことになってるのよ」
「……都合が悪いってことは自覚してるんだ」
 柚紀は、ため息をついた。
「で、どうなの?」
「泊まってくる予定ではいるけど。最終的にどうなるかは、わからない」
「ふ〜ん。ま、明日から三連休だし、今年はそういう意味では気が楽よね」
「お姉ちゃんに心配されるまでもなく、ね」
「まったく、口の減らない……」
 この姉妹は口ではいろいろ言い合うが、その実とてもお互いのことを考えている。お互いにそれもわかっているからこそ、憎まれ口も出てくるのである。
「そういえば、お姉ちゃん」
「うん?」
「最近、正久さんと出かけること多いね」
「そう? 特にそんなことはないと思うけど。なんで?」
「なんか、心境の変化でもあったのかなって。お姉ちゃんも正久さんも大学三年だし。来年は就職活動に忙しいでしょ? だからかなって」
「あんたの言いたいことはわかるけど、あたしもあいつもそこまで考えてないわよ」
「どうして?」
「どうしてって言われても困るけど、強いて言えば、それがあたしたちの距離だからじゃないのかな」
「お姉ちゃんたちの距離?」
 柚紀は、首を傾げた。
「あんたと圭太くんの距離って、それこそかなり近いでしょ? まあ、その大半はあんたからべったりくっついてるんだけど。基本的には彼もそれを受け入れてくれてる。ま、だからこそ婚約までして、なおかつもう妊娠までしてるんだろうけどさ」
「それはつまり、お姉ちゃんたちはそこまで距離が近くないから、そんなにいろいろ考えてないってこと?」
「考えてないわけじゃないわよ? あたしたちだって大学卒業後のこととか、それなりには考えてるんだから」
「そうなの? ひょっとして、卒業したら一緒になるとか?」
「それも選択肢のひとつにはあるわよ」
「へえ、そうなんだ。いつものお姉ちゃんの言い方だと、当分そんなつもりないって感じだったのに」
「そりゃ、結婚するつもりは今のところはないわよ。ただ、将来に渡ってもというわけでもないし、それこそあんたたちのことを見てたら、ふらっと結婚しちゃうかもしれない。だから、一応考えるだけは考えてね」
 そう言って咲紀は苦笑した。
「でもさ、お姉ちゃんはそれでいいかもしれないけど、正久さんはどう思ってるの?」
「さあ、どうなのかしらね。少なくとも今までは本音は聞いたことないわ」
「それはお姉ちゃんが悪い」
「うるさいわね。そんなのあたしだけが悪いわけじゃないでしょうが。言わないあいつも悪いのよ」
「有無を言わせない雰囲気をお姉ちゃんが作ってるんじゃないの?」
「そんなことするわけないでしょ。だいいち、そんなことしてもあたしになんのメリットもないじゃない」
 やれやれと肩をすくめる。
「まあ、たぶんだけど、あいつはかなり真剣にあたしとのこと考えてると思うわよ。あんたも見ててわかるでしょ?」
「うん。正久さん、なんとかお姉ちゃんに応えようと一生懸命だもんね」
「そこら辺のつきあい方は、それぞれだから」
「わかってる。それに、お姉ちゃんが一番最初に紹介してくれた時から、この人はいい人なんだって思ってたし。もしこの人がお姉ちゃんと一緒になっても、きっと私のいい『お義兄さん』になるだろうなって思ったくらいだし」
「それ自体は否定しないわ。とはいえ、そういうことと最近のこととは関係ないわよ。出かける機会が多いのは、ただ単に夏休みで時間があるから。たまたまお互いに予定が空いてるから。それだけよ」
「ま、お姉ちゃんがそう言うならそれでもいいんだけどね。でも、ひとつだけ忘れない方がいいよ」
「なに?」
「これから先のいろいろな矛先は、間違いなくお姉ちゃんなんだから。今は私に目が向いてるからお姉ちゃんのことあまり言わないけど、春を過ぎればそれもなくなるし」
「あんたがそんな心配しなくても大丈夫よ。それに、このあたしがお父さんに負けるとでも思ってるの?」
「それはないだろうけど、相手がお母さんならわからないと思うけどね」
「……むぅ、確かにお母さんは強敵ね」
「勝手に人を強敵扱いしないでもらえるかしら?」
 そこへ、件の真紀がやって来る。お盆の上には咲紀の朝食がある。
「それに、言わせてもらえば、私もあの人も咲紀のことでとやかく言うつもりはないわよ」
「どうして?」
「言っても無駄だろうって、最初からあきらめてるから」
「ぷっ」
 それを聞いて、柚紀は思わず吹き出した。
「そこ、笑うとこじゃないでしょ?」
「だって、お姉ちゃんらしい理由だと思って」
「ずっと聞き分けがいいだろうと思っていた柚紀ですらなにを言っても無駄だったから、咲紀ならなおさらという意味よ」
「…………」
 柚紀の表情が固まった。
「だけど、それはなにをしてもいいってことじゃないわよ。なにも言わないわけじゃないんだから。それぞれにしっかり考えて、後悔しない選択さえしてくれれば、という前提があるのよ」
 わかってるの、という顔でふたりを見る。
「まあいいわ。それより、柚紀はそろそろ出る時間でしょ?」
「あ、うん。ごちそうさま」
 お茶を飲み干し、食器を持ってダイニングを出て行く。
「あなたも、妹相手になにをムキになってるの?」
「別にそういうわけじゃないけど、なんとなく言い返したくなるのよね」
「あの子だって、あなたたちのことを考えて言ってるんだから」
「それもわかってる。ただ、あたしとしては、まずは自分のことがすべて片づいてからにしてほしいのよね。まだ終わったわけじゃないんだから」
「なら、そう言えばいいのよ。本当にあなたたち姉妹は、本当に言いたいこと、言わなくちゃいけないことを素直に言わないんだから」
「はいはい、すみませんね、ひねくれた娘で」
「自覚してるなら、直しなさい」
 そう言って真紀はため息をついた。
 
 抜けるような青空が広がっていた。
 まだたまに汗ばむ日もあるが、季節は確実に秋に向かっていた。
 吹き抜ける風にも涼しさとさわやかさが加わり、風に吹かれているのがとても心地良い。
「いい風……」
 柚紀は、フェンス際に立ち、風に流される髪を押さえた。
「ねえ、圭太。ひとつ、してほしいことがあるんだけど」
「してほしいこと?」
 圭太は、小さく首を傾げた。
「後ろから、私を抱きしめて」
 そう言って柚紀はゆったり微笑んだ。
「ダメ?」
「いや、いいよ」
 圭太は、包み込むように柚紀を抱きしめた。
 ふたりがいるのは屋上。そして、そこにはほかには誰もいない。
 だからこそ圭太は、すんなりとそうした。
「やっぱり、私にとっての一番安らげる場所は、圭太の腕の中だわ」
「それは光栄だね」
「んもう、茶化さないの。今日の私は、少しだけ真面目なんだから」
「少しだけなんだ」
「真面目すぎる私は、私じゃないでしょ?」
「かもね」
「こらっ」
 柚紀は、怒る真似をして腕を振り上げた。
「でも、どうしてそんなことを?」
「なんとなくね。ほら、私も十八になったじゃない。十八になるとできることもいろいろあるし、だったら少しくらい年相応にしてた方がいいのかなって」
「なるほどね。でも、柚紀ならそんなことしなくても大丈夫だと思うけど」
「どうして?」
「柚紀って、年上と年下、どっちに多く見られる?」
「ん〜、最近は大学生くらい、かな?」
「ということは、見た目や雰囲気がほかの人にはそう見え、感じるってことだよ。だから、十八になったからってわざわざそんなことしなくても、全然大丈夫」
「そうやって理詰めで言われるとそうだと思うんだけど、それでもさ、せめて心構えくらいしておかないと。なんたって、私の隣には圭太がいるから」
「僕が?」
「うん。だから、私からつとめて大人になろうとしないと、いつまでも圭太に甘えてる子供のままかもしれない」
 冗談めかして言う柚紀ではあるが、圭太の側にいると確かにその可能性もゼロではない。圭太は、それほどあらゆる面で大人なのである。
「とはいえ、今はただ単に抱きしめてほしかっただけなんだけどね」
「そういう素直なところが、柚紀のいいところだよ」
 そう言って圭太は、柚紀の首筋に顔を近づけた。
「やん、くすぐったいよ」
「僕も、こうしたかったからね」
「もう……」
 それでも柚紀は、嬉しそうに圭太の頬に手を添えた。
「私が十八になったってことは、圭太ももうすぐ十八になるってことだよね」
「うん、そうだね」
「ということは、ようやく資格を得るってことだよね」
「そうだね」
「ホント、どうしてこんなに面倒なんだろ。そりゃ、諸々のことを考えて今の条件になってるのはわかるけど。そのせいで私は一年半も待たされたんだから」
「まあまあ、そう言わないで。それに、あの時すぐになれたとしても、実際はどうしていいのかもわからなかっただろうし、いろいろ面倒なことも多かったと思うよ。だから、この一年半はそのための準備期間だと思えばいいんだよ」
「それはそうなんだけどさぁ。でも、そのせいでライバルが三人も増えたわけでしょ? そうすると心境は複雑よ」
「…………」
 そう言われると、圭太はなにも言えなくなる。確かに、婚約後、すぐに一緒になれていれば、その後の三人は増えなかったかもしれない。
「でも、どんな状況でも私が私でいられたのは、最終的には圭太は私のところに来てくれる、いてくれるって信じられたから。そういう点では、圭太はすごく上手く立ち回ってたよね。だから、私も本気では怒れない」
「……それはそれで、微妙だね」
「そう思うなら、今までの分も私を愛してほしい。私だけ、とは言えないけど、心境的にはそんな感じでいてほしい」
「それはもちろん」
 圭太は即答した。
「僕が婚約指輪を贈ったのは、今腕の中にいる柚紀なんだから」
「うん……」
 柚紀は、圭太の手に自分の手を重ねた。
「今日は、久しぶりに目一杯甘えるからね」
「覚悟しておくよ」
 
 柚紀にとっては待ち遠しかった放課後となった。
 部活もないので、授業が終わるとすぐに学校を出た。
「去年は部活があったから慌ただしかったけど、やっぱりこれくらい時間がある方がゆっくりできていいなぁ」
 柚紀は、ニコニコと笑みを浮かべたまま、そう言う。
「それで、とりあえずどうしたいの?」
「ん〜、すぐに圭太の部屋に行ってもいいんだけど、それも面白くないし」
「じゃあ、どこかへ行く?」
「そうだなぁ……」
 圭太に訊ねられ、柚紀は小さく唸った。
「確か、家の近くに公園があったよね?」
「あるよ。そんなに大きくはないけど」
「とりあえず、そこに行こ」
 ふたりは、高城家を越えて近くにある公園へとやって来た。
 平日の夕方ということで、小学生の姿が多かった。
 遊具はないので、なにか道具を持ち込んでそれで遊んでいる。
 いくつかあるベンチには、散歩途中の老人の姿もある。
「のんびりしてるね」
「この時間ならこんなものだよ」
 ふたりもベンチをひとつ確保し、カバンをそこに置いた。
「この公園て、近所の奥様方もよく利用するの?」
「そうだったと思うけど。これより大きい公園はもっと離れた場所にしかないし、比較的安全に子供を遊ばせられるのは、ここくらいだからね」
「なるほどなるほど。じゃあ、私も使うかもしれないわね」
「かもね」
 圭太は頷きながらベンチに座った。
「そういえば、祥子先輩の予定日っていつなの?」
「来月の十五日だよ」
「じゃあ、もう一ヶ月ないんだ」
「だから、コンクールで店を閉めたのを機に、バイトの方も休みに入ってるよ」
「なるほど。じゃあ、先輩に会いたければ、家に直接行かないといけないんだ」
「基本的にはね。ただ、いきなりなにもできなくなるわけでもないから、たまに店に来るとは言ってたよ」
「ふ〜ん。でも、圭太としてはできるだけ家でおとなしくしててほしんでしょ?」
「本音を言えばね。でも、そのあたりは本人の意思も尊重しないと」
「ホント、先輩には優しいね」
 柚紀は、少しだけつまらなそうに言った。
「でも、今回ばかりはそれもしょうがないよね。それに、理由や状況はどうあれ、先輩はまさに私の『先輩』になるんだから」
「それは、出産のこと?」
「そ。心構えとか、諸々のことを経験者談として聞こうと思ってね」
「先輩なら喜んで教えてくれると思うよ」
「ん〜……」
 と、柚紀は眉間にしわを寄せ、唸った。
「どうかした?」
「あのさ、圭太。圭太ってさ、祥子先輩のこと、普段は呼び捨てにしてるんでしょ?」
「あ、うん、そうだけど」
「だったらさ、別に私の前だからってわざわざ『先輩』って言わなくてもいいわよ」
「まあ、そうかもしれないけど……」
「私に遠慮してるの?」
「そういうわけじゃないけど」
「なら、いつも通りにすればいいと思うけどね」
 そう言って柚紀も圭太の隣に座った。
「なんかいいよね、こういうの」
「うん?」
 柚紀は、空を見上げた。
 西の空から少しずつ赤が増えてきている。
 風も、日中に比べて若干涼しくなっているような気がする。
「すごく、のんびりしてて。なんとなくいつもはあくせくしてるような気がするから」
「そうだね。たまにこうやってなにもかも忘れてのんびりすることも必要かもね」
「特に、隣に圭太がいるってことが大事だけどね」
「じゃあ、僕にとっては隣に柚紀がいるってことが大事だね」
「もちろん」
 ふたりは顔を見合わせ、笑った。
 と、そんなふたりのところへサッカーボールが飛んできた。
 ちょうど圭太の足下に転がってきたので、圭太がそれを拾った。
「すみませ〜ん」
 それで遊んでいた小学生が駆け寄ってくる。
「はい」
「ありがとう」
 ボールを受け取ると、一目散に元の場所へと戻っていく。
「やっぱり、小学生って元気よね」
「元気のない小学生は、問題あるからね。あれくらいでちょうどいいんじゃないかな」
「うん」
 もうすぐ陽が沈むが、まだまだ元気にボールを追いかけている。
「圭太は、男の子と女の子、どっちがいい?」
「元気ならどちらでも」
「それはそうだと思うけど、強いて言えば?」
「本当にどちらでもいいんだけど……そうだなぁ……」
 圭太は少しだけ考え込む。
「うちは男手が足りないから、男の子だといいかな」
「なるほど。圭太は男の子が望み、と」
「柚紀は?」
「私は、女の子がいいな。カワイイ服とかいっぱい着せて」
「ははっ、やっぱりそういうことってしたくなる?」
「もちろん。だってさ、自分の子じゃなくてもカワイイ子を見ると、着せ替え人形みたいにいろいろ着せたくなるから。それが自分の子ならなおさらでしょ?」
「そうかもしれないね」
「でもね、女の子だとひとつだけ心配なことがあるのよね」
「心配なこと?」
 圭太は首を傾げた。
「ほかの子を好きになるより、自分の父親のことを好きになっちゃうんじゃないかって」
「…………」
「なんでそこで黙っちゃうのよぉ」
「いや、さすがにそれはないと思うよ」
「どうして?」
「どうしてかって訊かれると困るけど」
「ファザコンなのは構わないとは思うけど、それも度が過ぎると問題だから」
「そのあたりのことは、柚紀に任せるよ」
「んもう、そういう場に立ってもそんなこと言わないでよ?」
「それまでに考えておくよ」
 そう言って圭太は苦笑した。
「さてと、そろそろ帰ろっか?」
「柚紀がいいならいいけど」
「うん。じゃあ、帰ろ」
 先に柚紀が立ち上がった。
「これからが本番なんだからね?」
「わかってるよ」
 圭太も立ち上がり、柚紀はスッと腕を絡めてきた。
「では、参りましょうか、お姫様?」
「ええ」
 
 その日の夜。
 夕食の場で圭太以外からも誕生日を祝ってもらい、柚紀はとても喜んでいた。実際は誕生日がどうのということではなく、近い将来家族となるであろう高城家の面々に祝ってもらえたことの方が重要だった。
 夕食後、そこでようやくふたりきりのパーティーとなる。
「誕生日おめでとう、柚紀」
「うん、ありがと」
「で、これが今年のプレゼント」
 そう言って圭太が渡したのは、ふたつのものだった。
「これって、なんの花だっけ?」
「リンドウだよ。九月十六日の誕生花だって聞いたから」
「そうなんだ」
 それは、リンドウの鉢植えだった。紫色の花が綺麗に咲いており、形容するなら綺麗というよりは可憐という感じである。
「こっちは開けてもいい?」
「いいよ」
 丁寧にラッピングされた包みは、それほど大きくはなかった。
「これって……」
 それは、香水とシルバーのアクセサリーだった。
「……圭太、今年も結構がんばったんだね」
「そういう野暮なことは言わない方がいいよ。それに、普段の恩返しという意味も考えると、それでも安いくらいだし」
「……ホント、そういうところバカ真面目なんだから」
 柚紀は、潤んだ瞳でアクセサリー──ネックレスを手に取った。
「ホント、ありがと、圭太」
「そうやって柚紀が喜んでさえくれれば、僕は満足だよ」
 そう言って圭太は、言葉通り本当に嬉しそうに微笑んだ。
「……バカ」
 目尻に浮いた涙を拭い、柚紀も微笑んだ。
「もう、どうしてこうなっちゃうんだろ」
「柚紀?」
「今年はもうちょっと圭太にやられないようにしようって思ってたのに、プレゼントもらっただけで、もうこれだもの」
 そう言われても、圭太としてはなんとも言えなかった。
「過ぎた彼氏を持つと、ホントに大変だわ」
「喜んでいいのかな?」
「少なくとも私はけなしてるつもりはないわよ」
「そっか」
「でもね、圭太」
「うん?」
「最初から泣かせるのは、ちょっと反則。これじゃあ、最後まで保たないって」
「そう言われても……」
「だから、圭太にはその責任を取ってもらうの」
「責任?」
 圭太は小首を傾げた。
「そう、私たちなりの方法でね」
 
 いつもより少し遅い時間。
 高城家の風呂場から音が聞こえてくる。
「こうして一緒にお風呂に入ってると、思い出さない?」
「思い出すって、なにを?」
「ほら、一年の時の合宿。あの時、一緒にお風呂に入ったでしょ?」
「ああ、うん、そういえばそうだね」
「あの時はまだまだ圭太の前で裸になることに慣れてなくて、ホントに恥ずかしかったんだ」
「それは柚紀だけじゃないよ」
「そうなの?」
 柚紀は、首を傾げた。
「そりゃそうだよ。あの場は勢いとかで乗り切れたけど、内心は結構大変だったんだから」
「そうなんだ。少なくとも私にはそんな風には見えなかったけど」
「一度は見ていたとはいえ、今度は明るい光の下で裸を見たわけだから、気恥ずかしさはあったよ」
「ふふっ」
 その圭太の物言いに、柚紀は嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、今は? 今はどんな気持ち?」
 そう言いながら、体を押しつける。
「ちょっと誤解されるかもしれないけど、ある意味では慣れたかな、こういうのには」
「それって、良い意味?」
「そうだね。少なくとも僕はそう思ってるよ。それだけ僕と柚紀の距離が近くなったということだから」
「なるほど、そういう意味では言えば、確かにそうかも」
「とはいえ、柚紀の裸は何度見ても見飽きないよ」
 圭太は、そっと柚紀を抱きしめた。
「圭太の前では、いつまでも綺麗なままでいるからね」
「じゃあ、僕は大変だ」
「どうして?」
「そんな綺麗な柚紀に釣り合わないといけないから」
「それは無用な心配だと思うけど」
「そうかな?」
「だってさ、圭太のことを見てるのって、私だけじゃないから。そしたら、自然とまわりを気にして自分からなんとかしようと思うでしょ? そしたら、少なくとも改めてなにかする必要はないわよ」
「う〜ん、そんなものかな」
「それに、圭太の場合はよほどのことがない限りは、今とそう変わらないわよ」
「だといいけどね」
 圭太は苦笑した。
「ところで、圭太」
「うん?」
「わざと触れないようにしてるの?」
「……なにが?」
「白々しい」
 言って、柚紀は圭太の手を取った。
「どうしてわざわざ胸を避けてるの?」
「……別にそういうつもりはないんだけど」
「じゃあ、ちゃんと触れてよ」
「いや、でも……」
「どうせそのつもりなんだから、同じだって」
 やはり、押しは柚紀の方が強い。
 もっとも、そこまで言わせてなにもしないようでは、男の甲斐性を疑ってしまうところでもある。
「それとも、イヤなの?」
「……負けたよ」
 圭太は、そのまま柚紀の首筋にキスをした。
「んっ……」
 キスをしただけで、柚紀から余計な力が抜けた。
「このまま触るよ?」
「うん……」
 柚紀が頷いたのを確認して、その胸に手を添えた。
 お湯の中なのでいつもとは若干感触が違う。
「ん、ふ……」
 包み込むように、少し絞るように、後ろから胸を揉む。
「あ……ん……」
 ちゃぷちゃぷとお湯が音を立てる。
「や……あ、ん……」
 いつもと同じくらいの声でも、風呂場という環境下だと反響してとても大きく聞こえる。
「んっ、圭太……」
 柚紀は潤んだ瞳で圭太を見つめた。
「圭太のも、もう準備万端だね」
 そう言って後ろ手に圭太のモノに触れる。
「ねえ、ちょっとだけ変わったことしようか?」
「変わったこと?」
「うん」
 柚紀は、圭太を一度湯船から出した。
「さてと──」
 嬉々とした表情でボディソープを手に取る。
「……あの、柚紀。まさかとは思うんだけど」
「なぁに?」
「……いえ、なんでもないです」
 完璧な笑顔で返されては、さすがの圭太もなにも言えない。
「こうして……塗って……」
 ボディソープを少し多めに自分の体に塗りたくる。
「よし、準備完了」
 そう言って柚紀は、そのまま圭太の背中に体を密着させた。
「ぬるぬるしてて、なんか変な感じ」
「変なって、柚紀がしてるんじゃないか」
「でもさ、気持ちよくない?」
「そ、そりゃ、気持ちいいけど……」
「ふふっ、そうだよね」
 柚紀はそれを確認すると、おもむろに体を動かした。
「んっ……」
 柚紀も、直接圭太の背中に触れているために、敏感な部分が刺激され、声が漏れた。
「どうしてこんなことをしようと?」
「ん、なんとなくよ。なんとなく、いつもと違うことがしたくなって。ほら、せっかくお風呂に入ってるんだから、普段できないことをした方がいいかなって」
「……別に普通でも構わないと思うけど」
「ダメよ。たまに違うことしてマンネリを防がないと」
 言いながら柚紀は、前にまわってくる。
「それと、ね。もうひとつ、いつもと違うことをしようと思うの」
「もうひとつ?」
 圭太は首を傾げた。
「……あまり、はしたないって思わないでね」
 そう言って柚紀は、圭太の足の間に体を入れ──
「ゆ、柚紀……」
 まだ半勃ち状態の圭太のモノをその豊かな胸で挟み込んだ。
「男の人って、ん、こういうことされると、嬉しいんでしょ?」
「そ、それは人それぞれだと思うけど……」
「……圭太は?」
 上目遣いに訊ねる。
「……嬉しい、かな」
「人間、素直が一番よね」
 柚紀は、くすっと微笑んだ。
「じゃあ、動くよ?」
「う、うん……」
 ボディソープのおかげで、動くのにはなんら支障はなかった。
 慣れていないせいか動きはとても拙いものだったが、お互いに状況が状況だけにそんなことは気にならなかった。
 柚紀はたまに圭太の反応を確認しながら、圭太は快感に抗いながら。それでも、ふたりの感情はどんどん高まっていく。
「ん、圭太のをしてるだけで、私もそんな気分になってきちゃった……」
「無理しないでいいよ」
「うん、そうだね。今度は、圭太にしてもらうね」
 お湯で軽くボディソープを洗い流し、圭太は柚紀を浴槽の縁に座らせた。
「足、開いて」
 魔法でもかけられたかのように、柚紀はほとんど躊躇いもなく足を開いた。
「ん……あっ」
 圭太は秘唇を軽くなぞり、そのまま中に指を入れた。
「あふぅ……あ、ん……」
 柚紀の中はすでに圭太のを受け入れるのに十分なほど濡れていた。
「や、ダメ……そんなにかき回さない……あんっ……で」
 それでも圭太は、念入りに秘所をいじる。
「ね、ねえ、圭太……もう大丈夫だから……」
 潤んだ瞳でそう懇願するが──
「もう少しだけ」
 圭太はそう言ってすぐには柚紀の望むことをしない。
「んんっ、あっ……」
 空いているもう片方の手で、最も敏感な突起を擦る。
「んんくっ、ダメっ」
 いじる度、擦る度に柚紀の体は敏感に反応する。
「ああん、もう、圭太……いぢわるしないでよぉ……」
「ごめんごめん。柚紀がカワイイから、つい」
「ぷう、そんなこと言って誤魔化さない」
「別に誤魔化してるつもりはないんだけど」
「そんなことより、ね」
「わかったよ」
 圭太は、柚紀に浴槽の縁に手をつかせ、後ろを向かせた。
「いくよ?」
「うん」
 そのまま圭太は屹立したモノを柚紀の中へと突き入れた。
「んんあっ」
 同時に柚紀は嬌声を上げた。
「んんっ、いいっ、いいのっ」
 その声は風呂場という場所柄、とてもよく響いた。
 柚紀としてもそれを恥ずかしいとは思いながらも、すでに理性だけでは抑えきれなかった。
「ああっ、んっ……もっと、もっと突いてっ」
 圭太はそれに応えるように、より速くより深く腰を動かす。
「やんっ、圭太っ、ああっ」
「もっと感じて」
「うん、感じてるから──きゃっ」
 と、縁についていた手が滑った。
「柚紀っ」
 圭太は、とっさに柚紀の体を支えた。
「大丈夫?」
「う、うん、大丈夫……」
「ごめん、無茶しちゃったかな?」
「そんなことないよ。私がちゃんとしてなかったのが悪いんだから」
 お互いに自分に非があると言うが、どっちもどっちである。
「やっぱり、圭太に抱かれてるっていう格好の方がいいかも」
「じゃあ──」
 今度は圭太が浴槽の縁に座った。
「この方がいいね」
「うん」
 その上に柚紀がまたがる。
「今度は、柚紀のいいようにして」
「うん」
 柚紀は、ゆっくりと腰を落とす。
「……んっ……ああっ」
 すべてを呑み込み、柚紀は一度息を吐いた。
「こうしてるだけで、すごく気持ちよくて、すごく幸せ……」
「それは、僕も同じだよ」
 そう言ってふたりは唇を重ねた。
「圭太」
「うん?」
「絶対に、離さないでね」
「もちろん」
 そこに幸せがあると、何度も確認する。
 それだけが唯一の『安心』を得る方法だから。
 不安。
 それを払拭するために。
「あ、んんっ」
 たとえその『安心』がかりそめのものであっても。
 本当の意味での『安心』など、一生かかっても手に入れることなどできないのだから。
 そこに不安があるからこそ、安心がある。
 本当の意味での『安心』など、『死』以外で手に入れることなど、できない。
 だからこそ──
「圭太っ、圭太っ」
 刹那の幸せにすがり──
「柚紀っ」
 刹那の喜びを見出し──
「私っ、イっちゃうっ」
 そして──
「んんっ、圭太っ……んくっ、あああああっ!」
「くっ、柚紀っ!」
 それを、幸せだと認識する。
「はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ……」
「はあ、はあ、圭太……」
「柚紀……」
「ずっと、離さないで……」
 それが、儚いものであると、知っているから。
 
「こうしてるとね──」
「ん?」
「私は本当に圭太に愛されてるんだってわかるんだ」
「そうなの?」
「うん」
 明かりのない部屋の中。
 わずかにカーテンの間から月明かりが漏れてくる。
 圭太と柚紀は、裸のままベッドに入り、お互いに抱き合っていた。
「私が本気で人を好きになったのは圭太がはじめてだから詳しいことはわからないけど、でもね、今、この状況がどういう状況なのかは、ちゃんと理解してる。今、圭太の頭の中には私のことしかなくて、もちろん、私の頭の中も圭太のことしかない。お互いがお互いのことをちゃんと考えて。本当の意味での『愛』なんて私にはわからないけど、辞書とかの意味でもいいなら、圭太は私のことを愛してくれてるってわかる。誰よりも……ほかの誰よりもね」
「……そうだね」
 圭太は、そっと柚紀の髪を撫でた。
「そしてね、もうひとつわかることがあるの」
「それは?」
「私も、本当に圭太のことを愛してるってこと。だって、そうじゃなきゃこんなに心穏やかでいられないもの」
 目を閉じ、頬を圭太の胸にすり寄せる。
「でもね、それだって永遠のものじゃない。それがわかるからこそ、私は精一杯あがいてあがいて、いつまでも圭太に愛されていよう、圭太を愛していようって思うの。なにもしないで得られるほど、安いものじゃないと思うから」
「……柚紀は、すごいね」
「すごい?」
「僕が漠然としか理解してないことを、ちゃんと言葉にできてるから」
「そんなことないよ。私だって、今言ったことを完璧に理解できてるわけでもないし、ましてや人に偉そうに言える立場でもない。今は、相手が圭太だから言えただけ」
「そっか……」
 圭太は、柚紀の言葉をゆっくりと理解しようとする。
「ごめんね」
「うん?」
「なんか、よくわからないこと言っちゃって」
「別に構わないよ。それに、今日はどんなことをしても許される日、だと思うから」
「それって、私の誕生日だから?」
「かもね」
 そう言って圭太は笑った。
「だったら、毎日でも誕生日がいいかも」
「そんなことになったら、あっという間に年取っちゃうよ?」
「ああ、それはそれでイヤかも」
「誕生日は、一年に一回だからいいんだと思うよ」
「そうだね」
 柚紀は、小さく頷いた。
「あ、じゃあ、圭太の誕生日もそうなのかな?」
「僕? 僕は別にそうじゃなくてもいいよ」
「でも、それじゃ不公平じゃない?」
「僕としては、柚紀にさえ喜んでもらえれば十分なんだけど」
「それは私も同じ。とすると、やっぱり圭太の誕生日には、いろんなことを大目に見ないといけないかも」
「……気をつけるよ」
「ふふっ、そこまで気をつけることはないと思うけどね。なんたって、私は圭太を信じてるから」
 そう言われてしまっては、さすがの圭太もなにも言い返せなかった。
「ふわぁ……」
 と、柚紀は可愛くあくびした。
「そろそろいい時間だし、寝ようか」
「うん」
「おやすみ、柚紀」
「おやすみ、圭太。今年も、素敵な誕生日をありがとう」
 そう言って、柚紀は、そっと圭太にキスをした。
 
 五
 九月十八日。
 朝方から空はどんよりと曇り、あまり快適な朝とは言い難かった。
 陽がないだけで空気がいつもよりひんやりとしている。そこはさすがに秋である。
 そんな日曜日のことである。
 世間的には三連休の中日ということで、なんとなくのんびりとしている。しかし、テスト直前の一高生には関係なかった。むしろ、休みだというせいで長い時間勉強しなくてはならず、鬱陶しいと感じるくらいである。
 とはいえ、それを嘆いてみたところでテストがなくなるわけでも、簡単になるわけでも、誰かが肩代わりしてくれるわけでもない。
 従って、ある意味ではあきらめておとなしく勉強するしかないのである。
「…………」
「…………」
「…………」
 圭太の部屋では、圭太と柚紀、凛が試験勉強をしていた。
 特に会話があるわけではない。微妙な沈黙が部屋を覆っている。
 だが、その状況に適応しているのは、圭太だけである。柚紀と凛は、常にお互いを気にし、警戒していた。それでも一応勉強が進んでいるのは、ふたりともが優秀だからである。
「あ、ねえ、圭太。これってどうやるんだっけ?」
 と、柚紀が圭太に質問した。数学の教科書を見せつつ、わざとらしく圭太に近寄る。
 当然、凛の眉間にしわが寄り、こめかみがピクピク動いているのだが、柚紀もそれがわかっていてやっている。
「ああ、これは、この問題の応用だよ。ほら、数式が少し複雑にはなってるけど、基本的な形は同じでしょ?」
「そういえば、授業でそんなこと言ってたかも」
「結構重要なところだと思うから、覚えておいた方がいいよ」
「うん、そうする」
 そこでようやくさっきの状況に戻る。ちなみに、その時に柚紀が勝ち誇った顔で凛を見ていたことは、圭太は気付いていない。いや、気付いていたとしても、なにも言わない。言っても無駄だからである。
 それでも、それは柚紀だけのことではない。
「けーちゃん。これって、この法則を使うんじゃなかったっけ?」
 今度は凛がさっきの柚紀と同じようにする。
「えっと、これはそれと間違いやすい問題だよ」
「そうなの?」
「一見すると確かにその法則を使うように見えるけど、実際は……こっちのを使うんだ」
「ふむふむ……あ、なるほど。確かにこっちだね」
「引っかけ問題に使われそうなところだから、覚えておいて損はないよ」
「そうだね。しっかり覚えておくよ」
 凛は圭太に笑顔で頷き、そして勝ち誇った顔で柚紀を一瞥した。
 一瞬、ふたりの視線がぶつかり火花が散った。それでもなにも起こらなかったのは、さすがに状況が状況だからであろう。お互いのことが気になりはするが、今は勉強を優先しなくてはならない。
 無理して一緒にやることもない勉強を、こうしてわざわざ一緒にやってるわけである。その最低ラインだけは守らねばならないのである。
 と──
「お兄ちゃん。ちょっといいかな?」
 ドアがノックされ、声がかかった。
「ああ、いいよ」
 入ってきたのは、琴絵である。
「どうかしたのか?」
「ちょっとわからないところがあるんだけど、いい?」
 そう言って見せたのは、古文の教科書だった。
「ここなんだけどね」
 琴絵は、そこに柚紀と凛がいることもわかっていながら、あえて圭太に最接近した。
「ああ、これは──」
 圭太はそれもわかっているのかどうかすらわからないが、いつも通り丁寧に教えている。
「あとは、この形容動詞の変格に気をつけて訳せば大丈夫だよ」
「そっか。私、勘違いしてたんだ」
「ちゃんとよく確認してから問題は解かないと」
「うん、そうだね。気をつけるよ」
 ニコニコと嬉しそうな琴絵を見ている柚紀と凛は、実に複雑そうな顔をしていた。
「あ、そうそう、お兄ちゃん」
「うん?」
「お母さんが、手が空いたらでいいからちょっと来てほしいって」
「母さんが?」
「うん。なんの用かまではわからないけど」
「わかったよ」
「じゃあ、私は戻るね」
 最後に、柚紀と凛に軽く会釈して部屋を出て行った。
「あのさ、とりあえず今は僕に用はない?」
「あ、うん。私はないわよ」
「凛ちゃんは?」
「あたしも大丈夫そう」
「なら、ちょっと店の方に行ってくるから。ついでになにか持ってこようか?」
「いいよ。食べ物があると、眠くなるだけだから」
「それは言えてる」
「そっか。じゃあ、ちょっと行ってくるから」
 そう言って圭太は部屋を出て行った。
 ドアが閉まると──
「……絶対、精神衛生上よくないわ、この状況は」
「……それはこっちのセリフよ」
 柚紀と凛は、脱力してテーブルに突っ伏した。
「そもそも、凛が変に対抗心を燃やすから悪いのよ」
「それはあんたも一緒でしょうが」
「私はいいのよ」
「なんでいいのよ? 勉強してる時には、彼女だとかそんなの関係ないじゃない」
「関係あるわよ。そりゃ、教えてもらうこと自体には関係ないかもしれないけどさ。でも、必要以上に圭太に近寄っていいのは、私の特権よ」
「……必要以上に近寄ってるって、自覚あるんだ」
 凛は、半眼になってあきれた。
「まあでも、実際問題なのは、凛よりも琴絵ちゃんの方だったりするのよね」
「それはなんとなくわかる」
「琴絵ちゃんてさ、冗談抜きで圭太のこと好きだからね。たとえ私のことを認めていても、心のどこかでは『私だけのお兄ちゃん』て思ってるみたいだし」
「それは、昔からよ」
「そうなの?」
「もちろん、昔はそこまで極端じゃなかったけどね。ただ、あたしがけーちゃんと一緒に遊んでても、たまにものすごくつまらなそうな顔してたから。あの頃はそれをあまり気にしてなかったけど、今にして思えば、あたしに対する嫉妬だったのよね」
「まあ、琴絵ちゃんの場合は、いろいろ想いも状況も複雑だから」
 柚紀も凛も、琴絵のことは実の妹のように可愛がっているので、そのあたりのことは理解していた。ただ、理解することと納得することは別である。
「柚紀も大変よね」
「なにが?」
「圭太の一番近くに、最大のライバルがいるんだから」
「それは、覚悟の上よ。それに、そんなことくらいであきらめられるようなら、それはそれで問題だし」
 そう言って柚紀は小さくため息をついた。
「でも、こう言ったら悪いけど、琴絵ちゃんはやっぱり妹なのよ。どうがんばっても今の私の場所には立てない。琴絵ちゃん自身もそれを理解してるからこそ、かえってさっきみたいな行動を取るのかも」
「かもしれないわね」
「これはあくまでも私の推測でしかないんだけど、逆に私と圭太が一緒になったら、もう少し普通の行動に戻ると思うわよ」
「それって、タイムリミットギリギリまでは自分の欲望に忠実でいようってこと?」
「たぶん。だって、琴絵ちゃんは圭太の正真正銘の妹だから」
「……そうね」
 柚紀にしても凛にしても、本当の意味では琴絵の想いは理解できていない。それはそうである。ふたりにとって圭太は『他人』だからこそ恋愛も自由にできる。もし肉親なら、普通ならそれは許されることではない。それを今琴絵がやっていたとしても、理解することはできない。
「だけど、私は琴絵ちゃんに同情はしてないわよ。琴絵ちゃんは妹。私は婚約者。これは紛れもない事実だもの。それをねじ曲げることなんてできないし」
「そうね。柚紀がそうやってしっかり考えていれば、琴絵ちゃんとの関係も問題ないのかもしれないわね」
「最初に琴絵ちゃんに認められてから、私はずっとそう思ってるわ」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
「凛も思うでしょ?」
「なにを?」
「琴絵ちゃんて、とってもカワイイ『妹』だって」
「ああ、まあ、そうかも」
「だから私は、そんな琴絵ちゃんの本当の『義姉』になるの」
「そう考えていれば、特に問題はなし、というわけか」
 凛は、なるほどと頷いた。
「ま、その話はいいわ。そろそろ圭太も戻ってくるだろうし」
「そうね」
「あ、でも」
「ん?」
「凛も含めた琴絵ちゃん以外の面々には、そこまで寛容になれるかわからないわよ。今は許容してるけど」
「それはわかってるわよ。あたしたちは、絶対に勝てない戦いを挑んだわけだから」
「ならいいけどね」
 柚紀はそう言って試験勉強に戻った。
 それに対して凛は、そんな柚紀を複雑な表情で見つめていた。
 
 昼食を挟んで午後も勉強は続いた。
 もっとも、それほど長い時間やっていたわけではない。人間の集中力などたかがしれている。可能ならば、短い時間に集中してやった方がいいのである。そして、それを繰り返した方が、よほどきっちりできる。従って、適当に休みつつ勉強は続いた。
「ん〜……」
「む〜……」
 柚紀と凛は、教科書を前に唸っていた。
 最初こそ三人とも数学をやっていたのだが、あとは自分の好きなものをということで、柚紀は英語、凛は化学をやっていた。
「あまり根を詰めてやると、解けるものも解けなくなっちゃうよ」
 そんなふたりに圭太はいつものように声をかけた。
「少し休憩して、気分転換しようか」
 圭太がそう言うや否や──
『はう〜……』
 ふたりは揃ってテーブルに突っ伏した。
「そんなに大変だった?」
「問題自体はそうでもないんだけど、ね」
 柚紀は、ちらっと凛を見た。
 結局ふたりは、問題がどうということではなく、お互いを牽制していたせいで余計に疲労していただけなのである。
「じゃあ、気分転換用になにか甘いものでも持ってくるよ」
「あ、『桜亭』から?」
「台所になにもなければそうなるかな」
「だったら、最初からそうしよ。なんだったらお金も払うから」
「別にお金は構わないけど、凛ちゃんもそれでいい?」
「小母さんに迷惑かからなければ、あたしはどっちでも」
「そういうことなら、店の方で休憩にしようか」
 店の方は時間帯的にも一番閑散としている頃だった。
 客は、コーヒー片手に本を読んでいる初老の男性のみ。
「あら、揃ってどうしたの?」
 最初に気付いたのは琴美だった。
「ちょっと休憩しようと思って」
「そう? じゃあ、少し待ってて」
「僕たちは席に着いてよう」
 客の邪魔になるということはないが、それでもなるべく邪魔にならない奥目の席に座る。
「どう、調子は?」
 そこへ、紅茶を持ってともみがやって来た。
「僕はいつも通りですね」
「圭太の『いつも通り』っていうのは、ほぼ完璧ってことよね?」
「そんなことはないですよ。ただ本当にいつも通りというだけです」
「そんなにムキにならなくていいわよ」
 ともみは笑いながらそれぞれの前にカップを置いた。
「そういえば、幸江先輩はどうしたんですか?」
「ああ、幸江ならちょっと買い出しに出てるわよ。あると思ってたバニラエッセンスがなくてね」
「そうですか。珍しいですね」
 圭太は少しだけ真剣な面持ちで頷いた。
 圭太がそんな顔になるのも無理はない。材料の仕入れには細心の注意を払っている。生鮮食料品のようにすぐに傷んでしまうものは別として、そうでないものは比較的余裕を持って仕入れる。それに、琴美はそういうことにとても気を遣っていた。圭太の記憶にある限り、仕入れ忘れはほとんどしたことがない。
「お待たせ」
 圭太が思案していると、琴美がお菓子を持ってきた。
「ちょっとケーキは数が足りないから、これで我慢してね」
 琴美はそう言いながらお菓子を置く。
「ん、どうかした?」
「いや、別に」
 琴美の顔を覗き込んでいた圭太は、小さく頭を振った。
「勉強の途中だからあまりゆっくりしてとも言えないけど、あまり根を詰めないようにがんばってね」
「はい」
「ありがとうございます」
 にこやかに微笑みながら琴美は戻っていく。
 しかし、そんな琴美の姿を圭太は難しい顔で見つめていた。
「どうかしたの?」
「ん、いや、たいしたことじゃないよ。たぶん、気のせいだし」
 そう言って圭太は、紅茶を飲んだ。
「たぶん、ね」
 
 勉強会は夕方まで行われた。
 圭太にとってはさほど問題ではなかったのだが、柚紀と凛は思っていたよりも進まず、さすがに反省していた。
「はあ、ホントはもう少し進めたかったんだけどなぁ」
「それは、こっちのセリフよ」
「あによぉ、進まなかったのは私のせいだって言うわけ?」
「あら、違うの?」
「それを言うなら、凛のせいでしょうが。凛が変に対抗心ばかり燃やすから」
「それに律儀に応えてた柚紀も、同罪だと思わない?」
 帰る直前、ふたりはそんなこと言って一触即発の状態となっていた。
「まあまあ、ふたりともそのくらいにして。別に勉強ができなかったわけじゃないんだから」
「それはそうかもしれないけど。でもさ、そもそも凛が──」
「だからぁ、なんであたしだけのせいにしようとするの?」
「なんでって言われても、それが真実だし」
「あんたねぇ……」
 このふたりのやり取りはもはや日常の一部と化していた。本人たちは間違いなく否定するだろうが、これがないと調子が狂ってしまうかもしれない。
「明日も休みなんだから、今日できなかった分も含めて、しっかりやればいいんだよ」
「それはそうなんだけどさぁ、なんとなく納得いかないのよねぇ」
「ホント、納得いかないわ」
 どうやっても一触即発になるらしく、圭太としてはもはや苦笑するしかなかった。
「それじゃあ、圭太。またあさってにね」
「今回は、せめて一教科くらい、けーちゃんに勝てるようがんばるから」
「それは無理ね」
「そんなのやってみないとわからないわよ。世の中なにが起こるかわからないんだから。ね、けーちゃん?」
「そうだね」
「というわけだから、明日はしっかり勉強して、あさってに臨むわ」
「せいぜいがんばって」
 ふたりは、言い合いというわけでもないのだが、わいわいと話しながら帰って行った。
 ふたりが帰ると、圭太は一度店の方に顔を出した。
「あの、ともみさん。ちょっといいですか?」
「私?」
 ちょうどテーブルを拭いていたともみに声をかける。
「どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
「はい。今日の母さんの様子なんですけど」
「琴美さんの様子?」
 あまりにも唐突な質問に、ともみは首を傾げた。
「いつもと変わりませんでしたか?」
「う〜ん、いつもと同じだと思ったけど。圭太はそうは思わなかったの?」
「いえ、少なくとも見た感じはいつもと同じだと思いましたけど」
「ずいぶんと含んだ物言いね」
「僕が気にしすぎてるだけかもしれませんから」
 圭太は誤魔化すように微笑んだ。
「それならいいけど。でも、なにかあったらちゃんと言ってよ」
「それはもちろん」
 しかし、ともみとしても圭太がそのことを簡単には言わないであろうことくらい、わかっていた。話せることならば、すでに話している。圭太は、いつもそうしてきた。
 ともみであれ誰であれ、圭太に信用されていないわけではない。それでも、圭太は昔から自分だけで抱え込んでしまう癖がある。
「ま、今回もなのかな……」
 そして、ともみとしては今回もまたそれなのかもしれないと思ってしまうのも無理はない。
 だからこそ、圭太がなぜあんなことを言ったのか、よく考えてみようと思った。
 答えが見つかるかどうかは、わからないが。
 
 試験がはじまると、時間はそれこそあっという間に過ぎていった。
 授業の時よりも学校にいる時間が短いからそう感じるのかもしれないが、試験を受けている生徒にとってはあまり歓迎したいことではなかった。唯一の救いは、そう思うことで試験が早く終わると錯覚できることくらいである。
 前期末試験は日程の関係で比較的勉強しやすかった。そのせいかどうかはわからないが、問題は例年より難しめだった。
 そうこうしているうちに試験は最終日となった。
 最後の科目が終われば、短いが秋休みに入る。部活動のある生徒以外は、次に来るのは週明けということになる。
 それを糧として最後の関門に挑む。
 そして、チャイムと試験監督の合図で試験は終わった。
 二期制の一高では、その日のうちに前期の終業式が行われる。生徒にとってはまだ試練が続くのだが、それも次の日からの休みを考えれば、まだ耐えられる。
 試験終了後、講堂で終業式が行われ、教室に戻って少し長目のホームルームが行われる。それが終わると、晴れて解放となる。
 試験期間が明け、部活動も再開される。
 吹奏楽部では一ヶ月後に迫った全国大会に向け、正真正銘最後の追い込みに入る。
 とはいえ、それだけをやっているわけにはいかない。三年は関係ないが、一、二年には一高祭とその直後のアンサンブルコンテストのことを考える必要がある。毎年のことだが、この並行作業はなかなか大変である。それでも毎年それを乗り切ってきてるわけである。今年だけ特例、ということはない。
 その日の練習は、約二週間のブランクを取り戻すために費やされた。ほとんどのパートで練習時間は個人練習にあてられた。それでもパートリーダーがたまにメンバーを見て回り、様子だけは確認していた。
 パートリーダーはそれを練習終了後、部長である紗絵に報告する。もちろん、コンクールの指導担当は圭太なので、最終的にはそれは圭太の元まで来る。
 そこで圭太はメンバーの状況を確認し、次の日からの練習メニューを考えるのである。のんびりしている時間はまったくないため、効率よくなんでもやる必要があった。
 執拗なトップダウン方式はあまりよくないが、状況を鑑みればそれも仕方ないこともある。
 そうこうしているうちにいつもより長目の部活が終わった。
「はあ、久々の部活で疲れちゃった」
 柚紀はぐーっと伸びをしながらそう言う。
「まあ、練習自体は関東大会からまったくやってなかったわけだから、しょうがないよ」
「さすがの圭太も疲れてる?」
「まあね。二週間も練習しなければ、それを取り戻すのだけでも相当の苦労だからね。たぶん、この秋休みはそのために費やすんじゃないかな」
「合奏はやらないの?」
「それは先生に確認してみないとなんとも言えないけど、すぐにはやらないと思うよ。というか、今やったところでひどい演奏しかできないのは火を見るよりも明らかだからね」
「確かに」
 圭太の説明に、柚紀は苦笑した。
「先輩。そろそろ音楽室を閉めようと思うんですけど」
「ああ、うん。じゃあ、僕たちも外に出るよ」
「お願いします」
 紗絵に追い立てられる形でふたりは外へ出た。
「紗絵ちゃんもすっかり部長してるわね」
「そうじゃなきゃ困るよ。今の部長は紗絵なんだから」
「そうなんだけどね。ただなんとなく、今までの副部長っていうイメージが強くて」
「それもわからないでもないけど、紗絵が一人前の部長になる早道のひとつは、まわりもちゃんとそれを認めるっていうのもあると思うよ。本人だけがそう思っていてもそれは空回りするだけだし。まわりが認めてようやく本当にそうなると思うから」
「確かにね。そういう点で言えば、圭太はすぐにみんなから部長だって認められてたから、楽だったんじゃないの?」
「楽ではなかったけど、必要以上に気負うことはなかったかな」
「ふ〜ん、そっか」
「お待たせしました」
 そこへ、戸締まりを確認してきた紗絵たちが出てくる。
「それじゃあ帰ろうか」
 揃って帰るのも久々である。
 校舎を出ると、外はだいぶ暗くなっていた。
「そういえば、紗絵」
「なんですか?」
「アンコンの準備は進んでるのかい?」
「とりあえず、今日パートリーダーと話して大まかな候補は上げました。あとは、本命の組をどれにするかですね」
「今年の本命はどこになりそうなの?」
「たぶん、木管と金管ですね。ただ、去年みたいに三つ目がないので、そのふたつにメンバーを集中させるかもしれません」
「なるほどね」
 アンコンの時にはすでに引退している圭太と柚紀にとっては、それは所詮は人ごとでしかない。とはいえ、本当に人ごととして見られるほど無責任なふたりでもない。
 特に圭太にとっては、直接の後輩である紗絵が部長で、妹の琴絵が副部長、朱美と詩織もパートリーダーである。こうなると、関係ないでは済まない。
「いろいろ大変だと思うけど、なるべく早めに決めた方がいいよ」
「はい、最初からそのつもりです。それに、それくらいしないと去年の先輩たちのような演奏はできませんから」
「別に僕たちのことは気にしなくていいんだよ」
「そうは言っても、まわりはそう見てくれませんから」
 そう言って紗絵はため息をついた。
 それはそうである。二年連続アンコン全国大会出場。しかも昨年度は金賞まで取っている。その一高から出るわけである。まわりもそれなりの目で見て、耳で聴く。
「まあ、目標は高い方がいいと思うけど、でも無理だけはしないように」
「はい」
 家に帰ると、圭太はここ最近の日課として必ず店の方に顔を出していた。それまでも比較的きちんと顔は出していたが、なにか思うところがあるらしく最近はきっちり顔を出していた。
 夕方の店内はそれなりに賑わっていた。
 ともみと幸江が主に接客に当たり、琴美が注文の品を用意する。
 それはもうずっと繰り返されてきた当たり前の光景だった。
 圭太もそれを見るとどこか安心できた。
 しかし、それは本当に唐突に起きた。
「琴美さん、注文入ります。ブレンドとアメリカンです」
「ちょっと待っててね」
 テキパキと注文の品を用意する琴美。
 無駄のない、流れるような動きが、突然乱れた。
 厨房に大きな音が響いた。
「母さんっ!」
「琴美さんっ!」
 それを見ていた圭太とともみがすぐに駆け寄る。
 割れたコーヒーカップ。
 そして、倒れた琴美。
「母さんっ!」
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