僕がいて、君がいて
 
第三章「梅雨から夏への積み重ね」
 
 一
 その年もほぼ平年並みに梅雨に入った。梅雨入りからほぼ毎日のように雨が降り、梅雨らしい梅雨だった。
 一高ではまもなく前期中間テストがやって来る。二期制を採っている一高では、テストは年に四回行われる。回数が少ないために、一回ごとのテスト範囲は少々長くなる。さらに、赤点を取るとそれを挽回するのが少々面倒にもなる。しかし、回数が少ないのは生徒には嬉しいことではある。ようするに、一長一短なのである。
 圭太たち吹奏楽部では、先月ソロコンテストの県大会が終わったところである。今回の出場者はそれほど多くなく、何人かは地区予選で終わっている。県大会では、去年とほぼ同じくらいの成績だった。部長のともみは二年連続関東大会への切符を手に入れた。あと、二年がふたりほど。一年は時間的な問題で、基本的には参加していない。
 ソロコンは完全に個人の成績なので、部全体としては普段通りである。
 学校内では、運動部が高校総合体育大会のために練習に明け暮れていたが、それもほぼ終わった。今は、静かなものである。
 そんな中、圭太は今までとは違う梅雨の時期を過ごしていた。それは、彼女がいるということである。その彼女はもちろん、柚紀である。
 あの日からすでに三週間以上が経ち、ふたりのことはほぼ周囲に知られていた。時期が時期だったために、それを必要以上にねたむ者はいなかった。しかし、ふたりともそれなりに人気のある生徒だったために、一部からは公然とではないが非難の声が上がった。
 とはいえ、それはふたりには関係ないこと。ふたりは、そういうことに必要以上に反応せず、我が道を行く、という感じだった。
「んふふ〜」
「どうしたの?」
 昼休み。
 圭太は弁当を食べたあと、本を読んでいた。その前には、柚紀が嬉しそうに圭太の姿を見ている。
「ううん、なんでもないよ」
「そう?」
 ふたりは端から見ても仲が良く、お似合いのカップルだった。これには圭太に想いを寄せていた女性陣も完全に白旗状態で、今はとりあえず情勢を見守っていた。
 柚紀は、本当に甲斐甲斐しく圭太に尽くしていた。もっとも、圭太自身がなんでもできる人なので、多少不満もあるようだが。
 少しは喧嘩もするようになり、本当の恋人に確実に近づいていた。
「ねえ、圭太。テスト勉強は進んでる?」
「まあまあかな。まだテスト範囲が終わってない科目が多いからね。本格的には週末からだと思うよ」
「なるほどなるほど」
 それを聞き、柚紀はしきりに頷いている。
「じゃあさ、一緒に勉強しようよ」
「勉強?」
「うん。ひとりではわからないところも、ふたりでやればわかるかもしれないし」
「それはそうだけど」
「それに、たまにはふたりだけでいたいし、ね」
 そう言って柚紀は少し照れた。
「ダメ、かな?」
「柚紀は一度言い出したらきかないからね。いいよ、一緒にやろう」
「ホント? わはっ、ありがと、圭太」
 本当に嬉しそうに笑う柚紀。目の前に机がなく、まわりの目がなければ抱きついていたかもしれない。それくらいの勢いである。
 圭太も、喜ぶ柚紀を見て目を細めていた。
 
「圭太。ちょっといい?」
 圭太が個人練習をしていると、ともみが声をかけてきた。
「なんですか?」
 楽器を膝に置き、向き直る。
「菜穂子先生が呼んでるわよ」
「先生が?」
 圭太は首を傾げた。
 そのままともみと一緒に音楽室にいる菜穂子のもとへ。菜穂子は、ピアノ椅子に座り、ピアノを弾いていた。
「あの、先生、お呼びですか?」
「ええ、少し話があるの」
 菜穂子は手を止め、圭太の方を向いた。
「ともみから聞いたのだけど、この曲、編曲したそうね」
 そう言ってあるスコアを見せた。それは、先月ともみから編曲を依頼されたものだった。編曲自体は期日より少し早めに終わっていた。その陰には柚紀の力もあったのだが。
「はい。あの、なにか問題でもありましたか?」
「ううん、全然ないわ。それどころか、よくこれだけの編曲ができたものだと、感心しているの。正直言えば、このレベルがあれば音大も狙えるわよ」
 パラパラとページをめくる。手書きのスコアだが、とても綺麗で見やすい。そこに圭太の几帳面さが現れていた。
「ああ、別に音大に入れ、とかそういう話じゃないの。実はね、ともみとも話している最中なのだけど、秋にある文化祭であなたに作曲をしてもらおうと思って」
「作曲、ですか? 僕が?」
「ええ。別に凝ったものは必要ないの。ステージ演奏の時にさらっとできるくらいのね。そうね、時間に直すと、三分くらいかしら。どう、やってみない?」
 圭太は、突然のことに言葉を失っている。
「はじめてのことだと思うから早めに声をかけたんだけど、別に無理はしなくていいのよ。強制じゃないんだから」
「あの、少し考えてもいいですか?」
「ええ、それはもちろん。ただ、そうね……コンサートくらいまで、ううん、今月中には回答をちょうだい。いい?」
「はい、わかりました」
「ふふっ、期待してるわよ」
 
 部活が終わった頃には、雨は上がっていた。とはいえ、月が見えるほど晴れているわけでもない。空には雲が立ちこめ、星明かりなど望むべくもない。
 圭太は、柚紀とともみ、祥子とともに歩いていた。
「で、どうするつもりなの?」
「わかりません。作曲なんてやったことないですから」
 ともみの問いかけに、圭太はそう言って首を振った。
「でも、先輩」
「ん?」
「なんで僕なんですか?」
「そうね、強いて言えば、これからのうちの部のため、かしら」
 そう言ってともみは一歩前へ出た。セミロングの髪が軽く揺れた。
「私も先生も、圭太にはかなり期待してるの。それを圭太は過剰な期待だって思うかもしれないけど、でも、そう思わせるだけのものを、持ってるの。ね、祥子」
「ええ、そうですね。圭くんは、確実に部の中心になると思うの。もちろん楽器ができるだけじゃなくて、人間性の面でもね。それは私たち二年の間でも統一した見解よ」
「…………」
「本当は、ひとりだけにそういうことを押しつけるのは問題だとは思うの。だけど、現状ではまだ圭太以外の逸材はいないし。先のことを考えるなら、できることはできるうちに少しずつやっておきたいの。わかる?」
「なんとなくは」
 圭太は小さく頷いた。
「で、そういう圭太にはなんでも経験してもらって、これからに役立ててほしいというわけ。そのひとつが今回の作曲なの。もっとも、それがどういうところで役立つかは、私もわからないけどね」
 ともみは、それじゃダメか、と言って笑う。
「まあ、考える時間はもらったみたいだし、少し考えてみて」
「はい」
 それから少しすると、圭太たちは大通りまで出てきた。ここで柚紀はバスに乗る。
「ね、圭太」
「なに?」
「夜に電話してもいい?」
「電話? 別にいいけど、なにかあるの?」
「あっ、うん、それは、その時にね」
 柚紀は笑って誤魔化し、それから来たバスに乗り込んだ。
 時間も時間で少し混んでいたバス。柚紀はドアのすぐ側に立つことになる。圧縮空気が贈られ、ドアが閉まる。
 走り出すバスの中で、柚紀は軽く手を振った。それに応える圭太。
「はあ、この光景は、いつ見ても悲しいわ」
 ともみは、深い深いため息をついた。それは祥子も同じ。まあ、理由はわかる。
「ねえ、圭太」
「はい」
「柚紀と別れる予定はないの?」
「はい……?」
「だ〜か〜ら〜、別れる予定はないの?」
「あの〜、その、今のところは……」
 圭太は、たじたじになりながら答えた。
 それを聞き、やはりともみはため息をついた。
「先輩。あまりそういうことばかり言うと、取り返しがつかなくなりますよ」
「ど〜ゆ〜意味よ?」
「もしこれから先、先輩が言った状況になったとしても、今のことが影響して圭くんは先輩を選ばない、なんてことに」
「うっ……」
「悔しいのはわかりますけど、ここは年上としてもう少し節度を持たないと」
 祥子は、落ち着いた口調でそう諭す。
「せめて、毎日眠る前に呪詛を呟く程度にしておかないと」
「……あの、祥子先輩、それ、かなり危険です」
「あら、そう?」
 おほほ、と乾いた笑いで答える。
 大通りを越え、すぐに『桜亭』が視界に入ってくる。
「ともみ先輩、祥子先輩」
「ん?」
「なに?」
「あの、よかったら寄っていきませんか? お茶くらいなら、ごちそうできますから」
「いいの?」
「ええ」
 そして、ともみと祥子は『桜亭』の一席に座っていた。
 この時間、お客はそれなりにいた。とはいえ、住宅街にあるこの『桜亭』では、駅前繁華街とはお客の入る時間が違う。この時間にいるお客は、たいていお茶を飲むというよりは食事をしに来ている。
「はい、お待たせしました」
 ともみの前にはロシアンティー、祥子の前にはカプチーノが置かれた。
「でも、珍しいこともあるものね」
「はい?」
「圭太がおふたりを誘うなんて、ということ」
 そう言って琴美は笑った。
「最近はすっかりひとりに夢中で。あら、これはおふたりには禁句だったかしら?」
「母さんは余計なことは言わないでいいから。ほら、鈴奈さんが待ってるよ」
「はいはい」
 琴美は軽く会釈してからカウンターへ戻っていった。
「すみません、母さんが余計なことを言って」
「あ〜、うん、痛いところを突かれたけど、まあ、気にしてないから」
 乾いた笑いを浮かべ、ともみはカップに口を付けた。
「ところで、圭太」
「なんですか?」
「実際のところ、なんで私たちを誘ったの?」
「あ、うん、それは私も気になるかな」
 ふたりの先輩の視線が、圭太を射抜く。
 圭太は小さく息を吐き、言った。
「さっき、ともみ先輩言いましたよね。過剰な期待かもしれない、って」
「ああ、うん、言ったわね」
「別にこれは今にはじまったことじゃないですけど、僕にはどうしてもそこまでされる理由がわからないんです。今まではなんとかそれに応えようと努力してきましたけど、でも、これから先もそれでいいのかなって、そう思うんです」
「なるほどね」
 ともみは、祥子と顔を見合わせた。
「圭くんは、どういう状態ならいいと思うの?」
「具体的にこう、というものはないですけど、少なくとも今よりはあらゆる面で期待をかけられない方がいいかな、と」
「でも、それって結構自分勝手な言い分だと思わない? そりゃ、勝手に期待をかけてる私たちも悪いかもしれないけど」
「その意見はもっともだと思います。だけど、恐いんですよ。それだけの期待をかけられて、もしそれに応えられなかったら、いえ、それでなにかとんでもないことをしてしまったらと思うと」
 人間とは、常になんらかの不安を持っている。普段はそれをあえて感じないように、そのほかのことにのめり込んだりすることで忘れる。しかし、それもふとしたきっかけで表に出てくることがある。
 ごくごく普通の人ならそれも案外すんなりと解決するのだが、それが普通ではないとそうもいかない。もちろん、精神的にタフな人ならそういうことも少ないだろうが。
 圭太は、そういう点で言えばそれほどタフな方とは言えない。だからこそ、過剰なまでの期待に不安ばかり募ってくるのだ。
 そんな圭太の想いも、ともみも祥子も十分理解している。それでも、ふたりは圭太、いや、『高城圭太』という人間に期待してしまうのだ。そこに明確な理由はないだろう。強いて言えば、それが圭太だからだろう。
「あのさ、圭太。もう少し肩の力を抜いて、楽な気持ちで考えてみれば? それに、少なくとも私や祥子、私たちの知ってる人のかけている期待なら、無理に応えようとしなくてもいいわよ。誰も責任を取れとも言わないし」
「うん、そうだよ、圭くん。圭くんは難しく考えすぎ。そんなことだと、これから先大変だよ」
「……はあ」
 圭太は大きなため息をついた。
「やっぱり僕はダメですね。そんな簡単なことにも思いが至らないなんて」
「ん〜、圭太。そうやって自分を卑下するの、禁止」
「えっ……?」
「それ、圭太の悪い癖だから。いい?」
「あ、あの……」
「私と祥子が証人だから。もしそれを破ったら、そうねぇ……うん、一日デートにつきあって」
「あっ、それいいですね。私も一度圭くんとデートしたかったんですよ」
「うんうん、というわけで、いいわね?」
「あ、はい、わかりました」
 ふたりの有無を言わせない押しに、圭太は首肯した。
「それにしても、私も祥子も完全に圭太の『姉』になっちゃったわね」
「ああ、はい、それ、なんとなくわかります。やっぱり、彼女がいるとスタンスまで変わりますよね」
「前からこうやって相談はされたけど、なんか今は完全に『姉弟』のそれだもの。お姉さん、淋しいわ」
 よよよ、と言って泣き真似をする。
「今にして思えば、押し倒してでもモノにしちゃえばよかったかもね」
「ともみ先輩、いくらなんでもそれは……」
 かなり不穏当な発言である。しかし、ともみは至って真面目にそう言っている。それくらい圭太に対する想いは強いのだ。
「祥子もそう思うでしょ?」
「押し倒すかどうかは別として、やっぱりもう少し積極的に迫っておくべきだとは、思いましたね」
「ねえ、圭太。柚紀のどこがいいの? 私たちじゃなくて、柚紀を選んだ理由は?」
 圭太にとって少し酷な質問だと思うが、そういう部分を確認したいと思う女心も、理解できる。
「……明確な答えはないと思います。外見的なものは、僕にはよくわかりませんから、内面的なものだと思いますけど。柚紀にはあって先輩たちにはないもの、それがなにかはわかりません。それに、それがあるかどうかもわかりません。もしそれがあるなら、それが理由なんだと思います」
 それが、今の圭太が言える精一杯の理由だろう。それ以上を求めてもきっといい答えは出てこない。
 ともみも祥子もそれは十分理解している。なんといっても、年上の『お姉さん』なのだから。
「ああん、もう、ホント、悔しいわ。圭太はこんなに理想的なのに、その隣にいるのは私じゃないなんて」
「先輩、取り乱してもはじまりませんよ。ここはやっぱり、お百度参りでもして、ふたりのこれからを暗闇で覆ってしまうとか」
「あの、それもシャレになってません……」
「とにかく、圭太」
「は、はい」
「私たちがもっともっと悔しがるくらい、仲良く幸せにならないと、ホントに寝取っちゃうわよ」
「うんうん、それには私も賛成です。圭くん、しっかりね」
「は、はあ、よくわかりませんが、わかりました」
 圭太は、なんとなくで頷いた。
「さてと、そろそろおいとましないとね」
 ともみは、腕時計を確認し、そう言った。
「祥子もそろそろ門限でしょ?」
「はい。あ、でも、圭くんが引き留めてくれるなら、門限なんて簡単に破っちゃいますよ」
「ちょ、ちょっと待ってください。もしそんなことしたら、僕なんてあっという間にす巻きにされちゃいますよ」
 祥子の家は、近隣でも有名な資産家で、彼女の親はこの娘を溺愛していた。そんなことだから、もし男絡みで門限を破れば、圭太の言ったことも現実になるかもしれない。
「そうなったら、あれね。南半球とか、どこか遠くへ逃避行でもしないと」
「ともみ先輩も煽るのやめてください」
「ふふっ、ごめん」
 それからふたりは琴美とひと言、二言言葉を交わし、帰って行った。
「はふ〜……」
「ずいぶんとからかわれてたわね」
「ああ、うん、でも、しょうがないかなって思うよ」
「あら、ずいぶんと大人な意見ね」
 琴美はそう大げさに驚いて見せた。
「圭太のことだから、おふたりの想いなんて気付いてないと思っていたのに」
「いくら僕でも気付くよ。ともみ先輩も祥子先輩も、本当に僕のことを気にかけてくれてたし、そこにそれ以上の感情があったことも、わかってたし」
「じゃあ、あれね。これからは本当に責任重大ね。あんな素敵な女性を振ったわけなんだから」
「母さん、そうやって息子を追いつめないでよ」
「あら、そう? ほら、よく言うでしょ。獅子は子供を千尋の谷に突き落とし、自力ではい上がってきた子供だけ育てるって。それと同じよ」
 そう言って琴美は奥へ消えた。
「まったく、人ごとだと思って……」
 圭太は大きなため息をついた。だが、その顔には悲壮感や焦燥感など微塵もなかった。むしろ、清々しさがあったほどだった。
 
 二
 テストまで一週間を切り、学校では基本的に部活動は行われていない。そのためか、放課後などは妙に静かになる。それでも教室では勉強している生徒もおり、一高が進学校であることを物語っていた。
 圭太は、部活がないこととは関係なく、家に帰ってからも店の手伝いをしていた。琴美にしてみれば、無理にしてもらうほどのことではないのだが、息子の厚意をむげに扱うこともできず受け入れている、という感じだった。
 もっとも、琴美があまり言わないのは圭太の成績が良いことにも関係していた。たとえどれだけ手伝っていても、それを言い訳に成績を落としたことは一度もないのだ。だから琴美もなにも言えなかった。
 そんなこともありつつ、週末を迎えた。
 土曜日。その日は朝から激しい雨が降っていた。風も強く、横殴りの雨という感じである。
 圭太は、窓に打ち付ける雨を見ながらため息をついた。別に悲しいこととか淋しいこととかあるわけではない。人間心理のひとつとして、そういう雨の日にはなんとなくため息をつきたくなる。
 朝食のあと、琴絵は部活のために中学校へ行った。雨の中なので嫌がっているかと思えば、新しい傘をおろしたばかりで、それの嬉しさが先に立っていた。
 それからしばらくして、鈴奈がいつものようにバイトのためにやって来た。格好を見ると足下がずぶ濡れである。とはいえ、もともと予想していたために、素足でサンダル履きだった。
 開店時間になり、居住部には圭太だけが取り残された。圭太が店に出るのは忙しい時間だけである。開店直後ははっきり言えば暇な時間帯で、圭太の出る幕などない。
 仕方なしに自分の部屋に戻り、とりあえず勉強をはじめる。
 教科書とノートを開き、試験範囲を確認しながら勉強を進める。
 しかし、圭太にはあまりそれも必要なかった。もともと毎日の予習復習を欠かさない圭太。そのため、テストだからといって改めて勉強するようなことはそう多くないのだ。もちろん、万能ではないし天才でもないので忘れていることもある。ようは、その確認が圭太にとっての試験勉強だった。
 後ろでクラシックを流しながら、淡々と進めていく。
 それがどれくらい続いただろうか。時計を確認すると、すでにお昼をまわっていた。
 圭太は勉強を切り上げ、店に向かった。普通ならこの時間帯はそれなりに混む時間帯である。
 だが、やはりというかこれだけの雨では客足はさっぱりだった。
 店の方では、ふたりほどの客がお茶を飲んでいた。琴美も鈴奈も手持ち無沙汰な様子である。
「手伝うことは、なさそうだね」
 圭太は苦笑混じりにそう言った。
「勉強の方はどう? 順調?」
「まあ、それはね」
「圭くんにとって、最初の定期試験だね。自信のほどは?」
「どうですかね。中学と違って同レベルの人たちが揃ってるわけだし、そんなに甘くないと思いますけど」
 そう言う圭太ではあるが、最初の実力テストでは堂々の四位だった。
 中学の時も定期試験では常に三位以内だった。圭太は、勉強だけでなくスポーツや芸術面でも秀でた才能を持っていた。だから、中学はじまって以来の神童とまで言われたくらいである。
 それが高校でも続くかどうかは、この最初のテストを見てみなければわからない。
「母さん。お昼、どうするの?」
「そうね、このくらいならもう用意してもいいかも」
 琴美は、少し淋しい店内を見回しそう言った。
「じゃあ、今日は僕が作るよ」
「あら、いいの?」
「うん、たまにはね。ただ、味の方は期待しないでほしいけど」
「じゃあ、お願いするわ。足りないものがあったら、こっちのを使ってもいいから」
「わかったよ」
 そう言って圭太は、家のキッチンに戻った。
 冷蔵庫を開け、中身を確認する。
「……これだと」
 戸棚や炊飯器の中も確認する。そして献立が決まった。
 圭太は、流しの下から深い鍋を取り出す。それに水をいっぱいに入れ、火にかける。
 用意したのはパスタだった。これから帰ってくる琴絵の分も含めて四人分。
 湯が沸騰するまで上にかけるソースの準備をする。ここでできあいのものを使わないところが圭太の圭太たるゆえんだろう。
 フライパンにバターを溶かし、細かく切ったベーコンを炒める。ほかに用意された具材を見ると、カルボナーラを作ろうとしているのがわかる。
 確かにこれなら比較的簡単に作れる。もっとも、本格的にやろうとすればキリはないが。
 湯が沸騰したところで茹でるパスタ分の塩を入れる。そしてパスタ投入。
 最初に軽くかき混ぜ、あとは湯の対流だけで茹で上げる。
 時間だけを確認しながら手際よく進める。
 すでにカルボナーラのソースは完成している。あとはこれをパスタに絡ませるだけである。
 しかし、圭太の動きは止まらない。冷蔵庫から野菜を数種取り出し、今度はサラダ作り。
 昼食用ということもあり、必要以上に凝ったものはないが、どれもこれもなかなかのできだった。
 パスタが茹で上がり、最後の仕上げ。軽くパスタとソースを絡ませ、カルボナーラスパゲティの完成である。
 ふたり分をテーブルに並べ、店の方に呼びに行く。
「母さん、準備できたよ」
「そう。じゃあ、鈴奈ちゃん、先に食べてきて」
「はい、わかりました」
 鈴奈はエプロンを外し、圭太と一緒にダイニングへ。
「うわぁ、美味しそう」
「味は、期待しないでくださいね」
 それからふたり揃って昼食をとった。
「うん、美味しい。やっぱり圭くんは料理、上手だね」
 鈴奈は、心から満足そうな笑みを浮かべつつ、圭太を褒めた。
「そんなことはないと思いますけどね。まあ、確かに同年代の男子に比べればできるとは思いますけど」
「またまた謙遜しちゃって。でも、これだけ料理ができちゃうと、いろいろ大変そう」
「どうしてですか?」
「ほら、彼女が張り切って作っても、彼氏の方が数倍上手だったら悲しいでしょ」
「あ、なるほど」
「で、圭くん。その件の彼女はどうなの、料理の腕は」
 結局、鈴奈の訊きたいことはそこにあったらしい。ともみや祥子ほどではないにしろ、圭太に多少なりとも想いを寄せていた鈴奈も、彼女の、柚紀の存在は気になるらしい。
 圭太は少し照れながら答えた。
「僕が言うとひいきしてると思うかもしれませんけど、はっきり言って上手です。この前弁当を食べたんですけど、母さんにはちょっと及びませんけど、かなりのものでした」
「そっか。じゃあ、私がさっき言ったことは問題にはならないね」
 残念残念、と言いながらパスタを口に運ぶ。
「綺麗で勉強ができて家事もこなせて。もう言うことないね」
「あ、あはは、それは……」
「よく、天は二物を与えず、とは言うけど、彼女には違うみたい。二物も三物も与えて。ちょっと不公平かな」
 鈴奈は、少しだけ唇をとがらせそう言った。その仕草がなんともカワイイのだが、圭太はそれどころではなかった。
 口調こそいつも通りだが、そこには明らかに『嫉妬心』が込められていた。
「あ〜あ、やっぱり私は圭くんの『お姉さん』止まりなんだね。ま、それは最初からわかってたことだけどね」
「鈴奈さん……」
「ほらほら、そんな顔しないの。そんな顔されたら、思わず抱きしめたくなっちゃうでしょ?」
 冗談めかしてそう言うが、その顔はかなり真剣だった。
 それから食事が終わるまで、少しだけ微妙な雰囲気が残っていた。
 圭太は、改めて自分に対するいろいろな人の想いの強さを感じていた。そして同時に、それに対する責任というものも痛感していた。
 
 その日の夜。圭太が部屋で勉強をしていると、琴絵が訪ねてきた。もちろんそのこと自体は珍しいことではない。妹が兄の部屋を訪ねただけなのだから。
「ん〜」
 琴絵はベッドに座り、少し難しい顔を見せている。
「どうしたんだ?」
「なんとなくなんだけどね。お兄ちゃん、いろいろ考えすぎてないかなって。そう思ったの」
 琴絵の言葉は、あまり的を射ていなかった。言いたいことがちゃんと伝わっていない。それは琴絵自身がわかっていないことにも起因するのかもしれない。
「ねえ、柚紀さんとは上手くいってるの?」
「別に問題はないけど」
「じゃあ、私の思い過ごしかなぁ?」
 そう言って琴絵はベッドに横になった。
「思い過ごしならいいの。うん、全然問題ないから」
 そう繰り返す琴絵。しかし、そう言われた方は、気にしないでいることなどそう簡単にはできない。
「お兄ちゃんは昔からひとりで考え込んじゃうからね。せめて私くらい、気にかけてないと」
「琴絵も言うようになったな」
 圭太はそう言って、体を琴絵の方に向けた。
「うん。だって、これでもお兄ちゃんの妹をもう十三年以上もやってるんだもん。お母さん以外だったら、私がお兄ちゃんのこと、一番理解してるよ」
「確かに」
「だからね、お兄ちゃん。なにかあったら、遠慮なく言ってね。問題を解決することはできなくても、手助けくらいはできるかもしれないから」
「わかってるよ。でも、琴絵」
「うん?」
「そういうことは、そんな風にしなくなってから言った方がいい。今の琴絵を見ていると説得力がない」
 そう言って圭太は苦笑した。
 琴絵は、圭太のベッドで圭太の枕を抱いて、心地よさそうにしている。確かに、どこからどう見ても甘えん坊の妹の姿である。悩みを聞けるような、しっかりした妹にはお世辞にも見えない。
「ううぅ〜、だってだってだって、最近お兄ちゃん、ホントに柚紀さんばっかりなんだもん。私のこと、全然構ってくれないし」
 琴絵は、逆に開き直って不満をぶつける。
 これには圭太もため息をつくしかなかった。
「しょうがないな。明日はダメだけど、今度琴絵のために時間を空けるから」
「ホント?」
「その代わり、そういうのはこれからはなし。それが守れるなら」
「ん〜、それはお兄ちゃん次第だと思うな。お兄ちゃんがちゃんと妹を大事にしてくれれば、うん、こんなことしないよ」
「はいはい、わかりました」
「あはっ、だからお兄ちゃん、大好き」
 
 次の日。前日のように土砂降りではなかったが、雨が上がったわけではなかった。朝から霧雨が降り、下手をすると前日よりも濡れるかもしれない。
 そんな中、圭太は朝から出かけていた。傘とカバンを手に、近くのバス停からバスに乗る。日曜でしかも雨、さらに朝も比較的早い時間なので、乗客は圭太を含めても五人しかいなかった。
 空いた道路をバスは走り抜ける。心地良い振動が微妙な眠気を呼ぶ。
 うつらうつらしそうになるのをなんとか堪え、ちょうど限界に来たところで降りるバス停のアナウンスが入った。
 圭太は手近のボタンを押した。軽く頭を振って、眠気を払う。
 バスから降りてもまだ雨は降っていた。
 傘を差し、目的の場所へ向かう。すれ違う人はほとんどいない。
 少し淋しい街並みを、少し注意しつつ歩いていく。
 およそ十五分ほどで目的地に到着した。
 軽く息を吐き、インターフォンを押す。雑音が聞こえ、インターフォンから声が聞こえた。
『はい、どちらさまですか?』
「あの、高城圭太です」
『ああ、はいはい。今開けるわね』
 それからすぐにドアが開いた。
「おはようございます」
「おはよう。今日はわざわざごめんね」
 そう言って真紀は微笑んだ。言葉とは裏腹に、かなり嬉しそうである。
「いえ」
「さ、上がって。今、柚紀を呼ぶから」
 話は数日前までさかのぼる。
 夜、柚紀から圭太宛に電話があった。
『もしもし、圭太? ごめんね、こんな時間に電話なんかしちゃって』
「ううん、それは別にいいんだけど。それでわざわざ電話なんてどうしたの?」
『あ、うん、ほら、今日話したでしょ。試験勉強を一緒にやろうって』
「うん、聞いたね」
『それでね、今週の日曜日にでもどうかなって』
「日曜日? ああ、うん、部活もないし、いいんじゃないかな。でもさ、柚紀」
『ん?』
「それって、わざわざ電話で話さなくちゃいけないことだったのかな? 明日もまだ学校あるし」
『……まあ、それはね、あれよ、複雑な乙女心ってやつ?』
「乙女心?」
『ほら、今日先輩たちと一緒に帰ったでしょ? それでなんていうのかな、嫉妬、に近いのかもしれないけど、なんかそういう感じでね』
「なるほどね」
『なるほどって、わかったの?』
「なんとなくね。もちろん柚紀の本当の思惑がどこにあるのかは、わからないよ。ただ、先輩たちに無意識のうちに対抗してしまったというのはわかるから」
『ううぅ〜、なんかそれだと単なる嫉妬深い女だよ〜』
「もちろん、僕は柚紀がそういう人だとは思ってないよ」
『はうぅ〜、グサグサ突き刺さってるよ〜』
「ははっ、ごめんごめん。でも、細かなことはわからないけど、やっぱりそういうのは嬉しいね。柚紀がそれだけ僕のことを想ってくれてるってことだから」
『な、なんか、真面目にそう言われると、照れちゃうけど』
「そんな柚紀には、一応どうなったか話しておかないといけないね。あのあと、先輩たちにうちに来てもらって、ちょっと話を聞いてもらったんだ」
『話?』
「ほら、僕が作曲する云々の話。それに絡んでいろいろね。まあ、それの答えは最初からわかってたんだけど、なんとなく裏付けっていうか、後押ししてほしかったんだと思うんだ。ともみ先輩にも祥子先輩にも、本当にたくさんのことで助けてもらってるから」
『…………』
「その話以外には、僕自身のことかな? 柚紀にも関係あること」
『それで圭太はどうしたの?』
「別にどうもしないよ。先輩たちは僕よりもそういうことはちゃんとわかってるから。話してる時にはいろいろ言ってたけど、結局はがんばれって言われたし」
『そっか……』
「もっとも、なにかったらすぐに『行動』するとも言ってたけどね」
『あ、あはは、なるほど……気をつけなくちゃ』
「ねえ、柚紀。僕には正直に言えば、そういう風に思うこと自体がまだよくわかってないんだ。だから、柚紀がそれに気をつけていてほしいんだ」
『大丈夫。圭太は私が絶対に放さないから』
「うん、それなら安心だね」
 こんな会話が交わされ、今日を迎えていた。
 圭太が玄関で靴を脱ぎ、上がるのとほぼ同時に柚紀が二階から下りてきた。
 柚紀は薄い黄色のミニスカートにノースリーブのシャツというとてもラフな出で立ちだった。
「おはよ、圭太」
「うん、おはよう、柚紀」
「とりあえず、私の部屋に行っててくれるかな?」
「わかった。先に行ってるから」
 圭太は柚紀と入れ替わりに二階へ上がった。
 少し薄暗い二階の廊下。そこにあるひと部屋が柚紀の部屋である。
 と、柚紀の部屋とは違う部屋のドアが開いた。
「おはよ、圭太くん」
「あ、おはようございます、咲紀さん」
 顔を出したのは、柚紀の姉の咲紀。妙にニコニコと笑みを浮かべている。
「ちょっとだけ、お姉さんと話さない?」
「えっ……?」
「ほら、この前は柚紀がいたからふたりだけで話せなかったし。ね?」
「はあ、でも……」
「ほらほら、早くしないと柚紀が戻ってくるから」
 咲紀は、そう言って強引に自分の部屋に引っ張り込んだ。
 咲紀の部屋は、年齢のせいもあるのだろうが、とても落ち着いた部屋になっていた。色調も淡い色で統一されていて、とても安らげる空間だった。
「ほい、そこに座って」
 圭太は部屋の真ん中に座らされた。
「しかし、君もマメよね、結構。そんなに柚紀に惚れてるの?」
 いきなり直球ど真ん中だった。
「どうなんでしょう。僕にもよくわかりません。ただ、なんとなく柚紀には応えてあげたいなって、そう思うんですよ」
「なるほどね。根っからの真面目くんで、いい人なんだ、君」
 咲紀は、なるほどなるほどと頷いてる。
「でさ、前に確認できなかったんだけど、柚紀はどう?」
「どう、とは?」
「ほら、いろいろあるでしょ。たとえば……彼女らしくいろいろしてくれるとか」
「ほかの人たちがどういう風に過ごしているのかはわかりませんけど、今のところはなんの不満もないですよ。むしろ、贅沢かなと思ってるくらいです」
「ふ〜ん、こう言うとなんだけど、結構変わってるよ、君」
「そうですか?」
 圭太は何気ない風を装い、首を傾げた。しかし、それとは裏腹に、その表情が少し曇っていた。
「で、これが一番訊きたかったんだけど、もうしちゃったの?」
「えっと、なにをですか?」
「ん〜、まずは、キス」
 咲紀は、ニヤニヤ笑ってそう訊いてきた。
 圭太としてもそれはある程度は予想できた質問だったらしい。
「えっと、まあ、それがきっかけみたいなものなので」
「へ〜、それは是非とも詳しいことを聞いてみたいわね。でも、それはあと。そろそろあの子も戻ってくるだろうし。聞くべきことだけ聞いておくわね」
「はあ……」
「で、キスの次に来るべきことは、もちろん決まってるわよね」
「あの、えっと……」
「ねえ、もうしちゃったの?」
 咲紀は、少しずつ圭太に迫りながら訊いてくる。圭太はそれを無意識のうちに避けていた。とはいえ、それほど広い部屋ではない。逃げ場などすぐになくなる。
「ねえ、お姉さんにみ〜んな、話しちゃいなさいよ」
「ふ〜ん、なにを話すのかしら、お・ね・え・ちゃ・ん」
 こめかみに青筋を浮かべた柚紀が、ドアのところに立っていた。顔は笑っているのだが、とても恐い。
「あ、ほら、いろいろあるでしょ? その、なんて言うのかしら……あ、あはは」
「お姉ちゃんっ!」
「は、はいぃっ!」
「あとで、個人的に言いたいこととか訊きたいことがあるから、絶対に逃げないでね」
「う、うっす、了解でっす」
 咲紀は柚紀にすごまれ、最敬礼で応えた。
「さあ、圭太。こんなところにいないで、さっさとはじめましょ」
 最後に咲紀ににらみを利かすのを忘れずに、柚紀は圭太を部屋から連れ出した。
 そして、場所は柚紀の部屋。
「もう、どうしてお姉ちゃんの言うことなんて聞いちゃったの?」
「むげに断ることもできないし」
「だからって……」
 柚紀としても圭太ならそう言うのもわかったし、それ以前に誰かになにかを頼まれたらよっぽどのことがない限り断らないのもわかっていた。そういう部分も好きになった理由ではあるのだが、今はそれが逆に恨めしかった。
「それで、お姉ちゃんにはなにを訊かれたの?」
「別にたいしたことじゃないよ。だいたいは柚紀のこと、かな」
「私の?」
「うん。簡潔に言えば、僕の彼女としての柚紀はどうなのかってこと」
「……まったく、お姉ちゃんは」
 柚紀はそう言って大きなため息をついた。
「まあ、そのことはあとでしっかりお姉ちゃんに訊くから、いいけどね」
 柚紀としても、咲紀がそういう行動に出る理由がわかるだけに、少なくとも圭太の前でしつこくあれこれ言うつもりはいらしい。すぐに気持ちを切り替え、本来の目的へ。
「じゃあ、とりあえず勉強しよ」
 部屋の真ん中にテーブルを置き、そこで勉強をはじめる。
 最初はなにをすると決めずに、ふたりとも好き勝手やっている。
 鉛筆とノートのこすれる音、時計の短針の音、そして、時折落ちる雨音だけが聞こえる。
 しかし、それも長くは続かなかった。先に集中力が切れたのは、柚紀だった。
 次第に教科書やノートから視線が外れる回数が増えてきた。その視線はどこへ行くのかというと、やはり圭太だった。
 圭太の一挙手一投足を目で追い、しかし、だからなんだというわけでもない。
「……どうしたの?」
 さすがの圭太も、柚紀があまりにも長い時間そうしているのに気付き、声をかけた。
「べ、別にどうもしないよ」
 慌ててノートに向かうが、それは逆効果でしかない。
「少し、休憩する?」
 休憩するには少し早いが、それでもすでに開始から一時間以上経っている。
「休憩は……いいや。とりあえず、お茶淹れるよ」
 そう言って柚紀は、持ってきていたポットからお湯をティーポットに注いだ。ふわっと紅茶のいい香りが漂う。
 少し置いてからカップにそそぐ。もう一度さっきのよりも深い香りが広がった。
「はい」
「うん、ありがとう」
 圭太はカップを受け取り、一口すすった。
 ストレートティー独特の渋みと、紅茶本来の甘みが口の中に広がる。
「ストレートで飲むんだ」
「別にそういうわけじゃないけどね。ストレートでも飲める、という感じかな。ただ、はじめて飲むお茶はたいていはこうやってストレートで飲むよ。こうすると、未来の味がわかるから」
「ふ〜ん、さすがは喫茶店の跡取り息子ね。私なんか、そんなの気にしてないのに」
 そう言って柚紀は、角砂糖を二個、カップに入れた。
「じゃあ、ちょうど切れちゃったし、これからはお互いにわからないところを聞きながらやろうか」
「あ、うん、そうだね」
 
 それからもう一時間ほどして、昼食の時間になった。
 昼食は例によって例のごとく、とても気合いの入ったものになっていた。真紀にしてみれば将来息子になるかもしれない圭太に、少しでもいいところを見せたいという想いがあった。咲紀にしてみれば、彼女の姉はこれだけできるんだぞ、のような想いがあった。
 理由はどうであれ、圭太が笹峰家でかなり厚遇されているのは火を見るよりも明らかだった。
 その先頭に立っているのは、やはり光夫である。以前に訪ねた時もそうだったが、すっかり圭太のことを気に入ってしまい、ノリはすでに『義父』である。
 圭太にしてみれば、このような家族の関係は数年前に失ってしまったもので、羨ましいものであった。
 和やかな雰囲気の中、昼食は終わり、再び勉強の時間となった。
「圭太。ちょっといいかな?」
「ん、なにかわからないところでもあるの?」
「ううん、そうじゃないんだけどね」
 柚紀は、そう言って頭を振った。
「あのね、圭太はさ、今の私に満足してる?」
「……どういう意味?」
 圭太は、ペンを置き、柚紀に向き直った。
「別に深い意味はないんだけどね。ただ、私たちが付き合いはじめて一ヶ月くらい。このあたりで一度ちゃんと確認しておかなくちゃいけないかなって、そう思ったの」
 少し苦しい理由ではあるが、その柚紀の気持ちもわからないでもない。相手からどう思われているか、どう見られているか、これは常に気になることである。特に、柚紀は恋愛というものに人一倍高い憧れを持っていた。それは相手に対してもそうであるが、自分自身に対してもである。
「こういうことを言うとどう思われるかわからないけど、圭太ってさ、私に『求めない』よね」
「求めるって、なにを?」
「なに、ってことじゃないの。なんでも。だからかな、私の中でよくわからなくなってくるのは」
「…………」
「たとえば、なんだけど、その、キスとか、その先のこととかもね」
「……柚紀は、どうしてほしいの? どうされたいの?」
「私は、圭太のためになんでもしてあげたい。だから、求めてくれればできる限りのことには応えたいと思ってる」
 でも、と言って柚紀は俯いた。
「そういうのが全然ないから、さっきの質問をしたの。私に満足してるのって」
 少しだけ淋しそうにそう言う。
「そっか……」
 圭太はそう言って、やはり少し淋しそうに微笑んだ。そこにあった感情が、本当のものであるかどうかは、判断できない。
「柚紀。少し、いいかな?」
「えっ、あ、うん」
 圭太は、柚紀の隣に座り直した。そして──
「あっ……」
 柚紀を抱きしめた。
 優しく、包み込むように。
「圭太……?」
「僕はさ、誰かと付き合った経験がないから、わからないんだよね。だから、できればどうしてほしいか言ってほしい。じゃないと、今回みたいに柚紀に余計な気を回させちゃうと思うから」
「……ごめん」
「ううん、本当は男としてもう少ししっかりしていなくちゃいけないんだろうけど。情けない『彼』で僕の方こそ謝らないと」
「圭太は悪くないよ。そういうの、わかってたはずなのに。なのに私が……」
 きっと、このふたりはどちらも悪くはない。そして、その意見はどちらも引くことはないだろう。
 だが、だからこそお互いがお互いのことをちゃんと考えていることがわかる。
「圭太。キス、して」
「うん」
 ゆっくりと顔を近づけ、そして、今までとは違うキスを交わした。
 息を吸うのも忘れてお互いに求め合う。
「……ん、ぷはぁ」
 先に息を継いだのは、柚紀だった。
 頬がほんのり赤く染まっている。
「圭太って、案外積極的なんだね」
「そうかな?」
「うん。でも、そんな圭太も嫌いじゃないよ」
 そう言って柚紀は圭太に寄りかかった。
「今はまだ、ちょっとだけ気持ちの整理と勇気が足りないけど、もう少ししたら、私の全部を圭太にあげるよ」
「えっ、それって……」
「うん、その通りの意味。私ね、ホントに圭太のこと好きだよ。だからね、圭太のためならなんでもしてあげたいから」
「柚紀……」
「その時のためにね、私はもっともっと圭太のことを好きになりたい。圭太も私のこと、もっともっと好きになってほしい」
「うん、柚紀だったらいくらでも」
「ホント?」
「もちろん」
 圭太はそう言って微笑み、柚紀の頬にキスをした。
「ん〜、ねえ、圭太。これからは一日一回、キス、してほしいな。あ、もちろん会える時だけだけどね。ダメ、かな?」
 上目遣いで覗き込むように訊ねる。
 圭太は小さく頭を振り、言った。
「ダメじゃないよ。それで柚紀が喜んでくれるなら、いくらでも」
「あはっ、ありがと、圭太」
 
 三
 中間テストが終わり、学校内の緊張感が薄れてきた。とはいえ、その緊張感はテストがすべて返却されるまで続くのだが。ここで赤点を取ると、『親切』な教師から『親切』な個人指導へのお誘いを受けられる。もちろん、これが素晴らしいものではないことは、全生徒が理解している。さらに『親切』な教師に至っては、その指導でも改善が見られない生徒に対しては、さらなる指導がある。たとえば、山盛りの宿題とか、夏休みの半分を学校で過ごすことになるとか。まあ、そういうこともあって、テスト結果には敏感にならざるを得ないのだ。もっとも、提出してしまった答案を今更心配してもしょうがないのだが。
 そんな学校内の雰囲気とはまた少し趣を異にしている場所、部があった。
 それが吹奏楽部である。その理由はふたつある。ひとつには、七月に入るとすぐにコンサートがあること。そしてもうひとつが、同じ月にあるコンクールの地区大会である。
 まず、コンサートについて。これは自分たちの実力を多くの人に知ってもらうために重要な位置を占めている。もちろん、そこに評価という部分はないが、それでも良いに越したことはない。また、これは次に来るコンクールに向けても肩慣らしというか、前哨戦のような意味合いもある。この時点である程度形になっていなければ、とてもコンクールで実力を出せるわけはない。
 そしてコンクール。一高は昨年度関東大会に出場しているために、地区大会は参考演奏のみとなる。だが、いわばシード校が無様な演奏はできない。だからこそ気合いの入りようも違うのだ。
 部活では連日合奏が行われ、ピリピリしたムードに包まれていた。
 コンサートは三部構成で行われる。一部が吹奏楽オリジナル曲の部。二部がポップスなど軽めの曲の部。三部がアレンジ楽曲の部。その中で顧問である菜穂子が指揮をするのは三部のみ。一部の指揮は例年、三年が行っている。二部には基本的には指揮者は置かない。
 従って、合奏が行われているが、それはすべて三部のためのもの。一部や二部のためにはさらにほかの時間を割いて行っている。ただし、部の方針として必要以上に練習時間を増やすことはしていないために、やり繰りが重要になっていた。
 また、それ以外にも二部では様々な趣向が凝らされ、部員たちの間ではいろいろなことが計画されていた。その中で一番のメインは、やはり仮装だろう。これは伝統で、二部ではその年のテーマに沿って仮装が義務づけられていた。特に一年にはそれは必須で、適当な格好はできなかった。
 ほかにも曲の合間合間に寸劇のようなものをやったり、とにかくいろいろあった。
 三年にとっては最後のコンサートで、悔いの残らない最高の舞台を作り上げようという、気迫みたいなものがあった。それは当然、一、二年にも伝わっている。だからこそ部全体が盛り上がっているのだ。
 
 六月の最後の日も忙しく過ぎていた。すでにテストの返却は済み、科目ごとにそれぞれの『指導』が行われていた。同時に成績上位者が発表されていた。
 学年トップは、入試、実力テストもトップだった生徒。学校側としては、この生徒が三年間トップでいくと予想している。そのほかの上位者もあまり変化はなかった。圭太は四位、柚紀は七位だった。とはいえ、その点数差はほとんどないに等しい。
 そんなわけで、圭太にも柚紀にも『指導』は無縁のもので、今は部活に全力を傾けていた。
「じゃあ、通しで。言われたことを二度も三度も言わせないように」
 指揮棒が上がり、曲がはじまる。
 今は菜穂子による合奏が行われている。すでにどの曲も最終段階に入っており、今は直す作業よりは確認する作業が主になっている。
 菜穂子が指揮する三部は、一年も基本的には出ることになっている。とはいえ、楽器の数や実力に差があるために、数人は参加していない。さらに、出ている一年も難しい部分はカットされていたりと、なるべくその全体のレベルを落とさないようにしている。
 部員全員が入ると狭い音楽室だが、ここ最近はさらに狭くなっていた。それは、卒業生が来ているからである。これも伝統として、卒業生は卒業した年のコンサートを無償で手伝うことになっている。モギリの仕事や舞台上のセッティングなど、ほとんどを卒業生が行う。もちろん、数年前に卒業した者も手伝うが、基本的には前年度卒業生である。
 一高ほどの伝統校になれば、各部活にそれなりの伝統もあるし、誇りもある。それは吹奏楽部にもあり、伝統はいいとしても、誇りの部分は譲れないところがあった。それが演奏の質、レベルである。今も卒業生が聴いているのは、それを確認しているからである。自分たちが卒業した部が、コンサートとはいえ無様な演奏をしたのではやはり情けない。直接指導はほとんどしないが、それも見ている、聴いているだけでプレッシャーを与えることはできるのだ。
 まあ、思惑はいろいろあるが、結局は現役生ががんばればいいだけである。
「……今の演奏、どうかしら?」
 菜穂子は、そう卒業生に振った。
「悪くないと思いますよ。欲を言えば、もう少し縦のラインが揃っているといいと思いますけど」
「全体的なバランスはいいと思います。ただ、時折高音部と低音部にばらつきが出ているのが気になりますね」
「テクニック的なものはこれからではどうすることもできないと思いますから、あとはこれまで言われたことを徹底して少しでもよくすることだけを考えればいいんじゃないですか」
「もう少しボリュームがあるといいと思います。まあ、こことホールとでは聞こえ方が違うと思いますから、実際はホールで最終調整でしょうけど」
 次々と忌憚のない意見が出される。そのどれもが的を射ていて、菜穂子も苦笑するしかなかった。
「ま、ようするに現役生、もっともっとがんばるように、ということ。わかった?」
 そう言って合奏は締めくくられた。
 卒業生のことを知っている二、三年は終わってからもいろいろと話をしている。一年は蚊帳の外ではあるが、たまに向こうから声をかけてくる。
「君があれ、期待のゴールデンルーキーくん?」
 そう言って圭太に声をかけてきたのは、三人の卒業生だった。その後ろには苦笑している幸江の姿があった。
「ほら、去年言ってたじゃない。来年は期待の新人が入ってくるって。しかも、あのともみのお墨付きのね」
「なるほど。で、どうなの、実際のところは」
「それは、言葉で言うよりも聴いてもらった方がよくないですか?」
「ああ、それはそうね。うん、というわけでなにか吹いてみて」
「えっ、あの……」
「ほらほら」
 圭太は言われるまま、吹いた。
 それはトランペットではごくごく初歩的なエチュードだったが、聴く人が聴けばその実力のほどはわかった。
「なるほどね〜、こりゃ確かに期待もされるわね。テクニックだけなら幸江に引けを取らないじゃない」
「ホント、やっぱりあれね、ソロコン全国組は実力も違うわ」
「ねえ、名前は?」
「高城圭太です」
「うっし、ちゃんと覚えたわ」
「なに、あんた後輩にまで手を出すつもりなの?」
「ちょっ、ば、バカ、なに言ってるのよ」
「あはは、なに焦ってるのよ。ん〜、焦ってるってことは、そういうつもりもあったってことか。ふむふむ、これはあとでちゃんとどういうことか訊かないとね」
 卒業生は圭太を肴に盛り上がっている。
「先輩。ちょっといいですか。少し確認しておきたいところがあるので」
 そこへともみがやって来た。
 卒業生はそれでようやく圭太を解放。圭太もようやくひと息ついた。
「ごめん、圭太」
「いえ、先輩が謝ることはないですよ」
「そう言ってくれて助かるわ。ただ、これからもあると思うから、気をつけてね」
「はい」
 
 暗い夜空から、しとしとと雨が舞い落ちてくる。
 傘を叩く雨粒はそれほど大きくないが、差していないと濡れてしまうほどは降っていた。
 圭太は、柚紀と傘を並べて歩いていた。心なしか圭太の表情が疲れているように見えるのは、決して気のせいではないだろう。柚紀としてもその原因に覚えがあるため、あえて見て見ぬふりをしている。
「でも、やっぱり先輩たちの指摘って的を射てるよね」
「うん。先生の指摘ともあってるし、やっぱりすごいと思うよ」
「三年後の私たちに、そんなことできるかな?」
「さあ、どうかな。真面目に部活を続けていればできるかもね」
 そう言って圭太は苦笑した。
 もっとも、意見だけを言うなら別に部活だけをしている必要はないのだ。良い音楽をたくさん聴き、それを自分なりに昇華すればいいだけの話である。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「こう暗いとさ、見えないよね」
「見えないって、なにが?」
 柚紀の言葉に、圭太は首を傾げた。
「んと、こうしても、ってこと」
 そう言って柚紀は自分の傘を閉じ、圭太の傘に入った。そして、空いていた腕に自分の腕を絡ませる。
 つまり、相合い傘でしかも腕を組んで、それがまわりからはよく見えないということらしい。
「えへっ」
 柚紀は嬉しそうに圭太の腕にすり寄っている。
 圭太は一瞬なにか言おうとしたが、それを飲み込み、結局なにも言わなかった。もっとも、非難めいたことを言えば、今の柚紀の笑顔が消えてしまうことを考えれば、それは賢明な判断だと言える。
「なんかね、最近圭太のことばかり考えてるの。朝起きたら、圭太ももう起きたかな、バスに乗ってる時は、もう待っててくれてるかな、授業中は、真面目にやってるかな、帰ったあとは、もう晩ご飯食べたかな、お風呂入ったかな、もう寝るのかな、って。それでね、思ったの。ああ、これが恋をしてるってことなんだって。よく、恋は盲目って言うでしょ。あれって、今の私みたいなことを言うんだよ。だって、今は本当に圭太のことしか見えないし考えられないもの」
 少しだけ恥ずかしそうに言う。しかし、そこに恥じらいはあるものの、その意見や考えに迷いは微塵もない。それだけ圭太への想いが強いのだ。
「でも、想えば想うほど、考えれば考えるほど、それと同じだけ不安な部分もあるの。今の状況がウソだったら、夢だったらどうしようって。明日、おまえなんか嫌いだ、って言われたらどうしようって。おかしいよね、そんなの」
「……それは、おかしなことじゃないと想うよ。だって、僕も柚紀も人間だし。だったら、楽しいことや幸せなことと同じくらい不幸なことや悲しいことを感じてるはず。となれば、そういうことを考えてしまうのも当然だと思う。それに、幸せなことだけ考えていられればそれはそれで幸せかもしれないけど、不安な気持ちや不幸な気持ちを十二分に考え、理解しているからこそ幸せを幸せとしてとらえられると思うんだ」
「不安や不幸を知っているから、幸せと感じられる、か……」
 いつの間にか、ふたりは立ち止まっていた。
 傘を叩く雨音は、未だやむ気配はない。
「そっか、そうだよね。うん、やっぱり圭太はすごい。私の悩み、すっぱり解決しちゃうんだもん」
「結果としてそうなっただけだと思うけどね」
「いいの、それで」
「まあ、柚紀がそう言うなら、いいんだけど」
 そして、また歩き出す。
「私ね、今までは恋に恋したかっただけだと思うの。自分の中だけで綺麗な、理想的な恋を思い描いて。もちろん、それが悪いとは思わないけどね。ただ、それって所詮は自分の中だけの考えで、実際はそんな綺麗なことだけじゃない。それ以前に、誰かを好きになるのって、それ自体は私から相手への一方通行の想いだけど。相手も私のことを想ってくれたら、それは双方向になるわけだし。そしたら、自分だけの考えだけじゃなく、相手のこともちゃんと考えないと。相手にも恋とか、そういうものの考え方ってあるはずだし」
 圭太は、黙って柚紀の言葉に耳を傾けている。
「でね、今も多少はそういう考え方はあるけど、今はもっともっと違った考え方になってるし、これからもなると思うの。それは、圭太と一緒に物事を見て、考えて、理解すれば、の話だけどね」
「それって、僕の役割がものすごく重要ってこと?」
「うん、もちろん。なんたって、私の彼氏なんだもん」
「あ、あはは、努力はしてみるよ」
 圭太は、笑って誤魔化した。もっとも、柚紀にしてみればそういうことは努力することではないとわかっている。それぞれがそれぞれの目線に立って、同じように考えたり行動したりすることで、はじめてわかり、培われるものである。
「今度、私の夢を教えてあげる」
「柚紀の夢?」
「うん。ただし、その夢を聞いたら、もう絶対にあとには引けないからね」
「えっ、そんなに大変な夢なの?」
「私にとってはね」
 後悔しないでね、と言って笑う柚紀。
 そして、いつものように大通りまで出てくる。バスの時間まではまだ少しある。
「そのうち、こういう時に『うちに寄っていかないか』くらい言ってくれるといいんだけどね」
「えっ……?」
「ううん、なんでもないよ」
 名残惜しそうに腕を放し、自分の傘を差した。
「圭太。コンサートまであと少し。がんばろうね」
「うん」
 バスのヘッドライトが見えたところで、キスを交わす。
 うたかたの夢のように、光に浮かび上がるふたりの影。
「バイバイ、圭太」
 
 七月三日。
 その日もやっぱり雨が降っていた。七月に入っても相変わらずの梅雨空で、真夏の真っ青な空が待ち遠しくなっていた。
 週末に向けて気分も軽くなる金曜日だが、やはりここだけは違った。
「ほらほら、ちゃっちゃとやらないと今日中に荷物を積み込めないわよ」
 ともみの鋭い声が駐車場に響く。
 駐車場には吹奏楽部の男子部員全員と、大きな楽器を使うパート全員が揃っていた。さらにその前には、トラックが止まっている。これに楽器などを載せて、明日のコンサートを行うホールへ運ぶのだ。
 その積み込み作業が荒天の中でも行われていた。
 あまり固定しなくても安定するものから順々に積んでいく。固定するものにはクッション代わりの毛布などをかけ、ひもで固定する。運んでも本番で使えなければ意味がないのだ。
「ほら、そこっ、ぼさっとしてないで運ぶ」
 容赦ない指示が飛ぶ。
 今日の部活は、この作業のため練習はない。もっとも、前日に練習したところでどうにかなるものでもない。あとは、本番前のリハーサルだけである。
 積み込み作業は、予定より少し時間がかかったが、なんとか日没前に終了した。あとは当日を待つのみである。ちなみに、その運搬を請け負っているのは吹奏楽部のOBである。
 そして、その後全員音楽室に集まった。
「いよいよ明日はコンサートよ。二、三年はこれまで一年間やってきたことの集大成を、一年はわずかな期間内で培ったことを、持てる力を惜しみなく出して。どうせ出し惜しみするような力なんかないんだから。まあ、演奏に関しては今更言ってもどうなるものでもないから言わないけど。だけど、後悔するようなコンサートだけにはしないように。いいわね?」
 少しずつ、緊張感が高まっている。今、この音楽室になにも知らない生徒が入ってきたら、きっとその迫力に気圧されるだろう。
「明日は八時半に県民会館前に集合。荷物を運んでもらった人たちはそれよりも少し早めに来て。不測の事態に備えておきたいから。あと、衣装とかそういうのの準備は怠らないで。本番前に泣いても面倒見ないからね。あとは……まあ、本番前に取っておくわ。じゃあ、今日はおつかれさま」
 緊張感が、一気に解放された。ただ、いつもと違うのは、その緊張が微妙なラインで残っているところだった。
 全体ミーティングが終わっても、誰もすぐには帰らない。まだまだ打ち合わせなければならないことはたくさんある。たとえば、パート内でのこと。パートごとに趣向を凝らすのも大いにあることなのだ。
 ほかにも決められた役割ごとにやることは明日の本番直前まである。
 そういう様々なことを乗り越えて、はじめて本番の舞台に上がれるのだ。
「じゃあ、そういうわけだから、準備、忘れないように」
 トランペットパートでも、幸江の最後の確認が行われていた。トランペットは楽器の特性上、非常に目立つパートである。ここが無様なことをすると、興ざめする可能性もあるのだ。従って、歴代のリーダーはノイローゼになるくらいいろいろ考える。
「圭太。ちょっといい?」
 打ち合わせが終わったところへ、ともみがやって来た。
「どうしたんですか?」
「実はさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「頼みたいこと、ですか?」
「ああ、前みたいに大変なことじゃないから、その辺は安心して」
「はあ……」
 とはいえ、ともみの言葉は鵜呑みにできない。圭太もそれは十二分に熟知していた。
「圭太、ソロやってくれない?」
「えっ……?」
「ちょっとでいいのよ。別にコンチェルトを全部吹けなんて言わないから」
「でも、どうして今更ソロなんですか?」
「ああ、それはついさっき決まったからよ。吹奏楽ってひとつひとつの音を束ねて作るものでしょ。それはそれでいいことだし、それが魅力でもあるんだけど。でも、個々の音っていうのもすごくいろいろあると思うの。で、さっき決めたのが各パートから三年以外を代表にしてソロをやらせるというの。だから、今回は圭太ひとりが生け贄になるわけじゃないわ」
「その趣旨はよくわかりました。でも、どうして僕なんですか? 先輩がいるじゃないですか」
「ああ、あのふたりはソロには向いてないから。確かに技術もあるし、演奏レベル自体もそれなりだけど、それはあくまでも合奏の中の話。ソロだとどうしても見劣りするの。その点圭太はソロの経験もそれなりにあるから」
 ともみの答えは理路整然としていて、付け入る隙はなかった。
「わかりました。そこまで言われたらやらないわけにはいきませんね」
「ホント? 助かるわ。ありがと、圭太」
「でも、なにを吹けばいいんですか?」
「なんでもいいわよ。これがトランペットの音色だっていうのならね」
「それって、結構微妙な注文ですね」
「それは圭太だけに言ってるセリフじゃないわよ。だから、がんばって」
 ともみに肩をポンと叩かれ、圭太は小さくため息をついた。
 そして、前日の夜を迎え、当日の朝を迎える。
 
 七月四日。
 その日はまだ梅雨とは思えないほど朝からすっきり晴れ渡っていた。空には雲ひとつなく、夏空が広がっていた。天気予報でも一日の降水確率ゼロパーセントを保証していた。
 圭太は、いつもとほぼ同じ時間に起きた。いつもがほかの生徒に比べて早いので、そのくらいでちょうどいいのだ。
 カーテンを開けるとまばゆいばかりの太陽の光。久々の天気に、圭太も目を細める。
 いつもなら店の手伝いをしてからなんでもするのだが、その日は集合時間が早いこともあってそれはやらなかった。
 少し大きめのバッグを持ち、家を出たのが七時半前。すでに太陽はこれでもかと自分を主張している。
 県民会館までは電車に乗っていく。圭太の家からだとだいたい一時間くらいである。
 一高の近くに手頃なホールがないため、少し離れた県民会館を使っているのだ。それ以外になると、さらに遠くなる。
 圭太は徒歩で駅に向かった。前日まで雨だったため、必要以上に気温は上がっていないが、それでも歩いていると汗がにじんでくる。
 さわやかな朝の空気の中、駅前まで出てくる。土曜日ということでいつもより通勤客も少ない。落ち着いた雰囲気がある。
 改札前まで来ると、時間を確認する。まだ八時にはなっていない。
 と、圭太は肩を叩かれた。
「おはよ、圭太」
「おはよう、柚紀」
 柚紀は、いつもと同じ笑みを浮かべ、そこに立っていた。
「準備、完璧?」
「さあ、たぶん大丈夫だと思うけどね」
「じゃ、行こ」
 そう言って柚紀は圭太の腕を取った。
 切符を買ってホームへ出ると、あと少しで上り電車が入ってくるところだった。この方面は平日は通勤客でかなり混雑する。ただ、土曜日だとそこまでは混んではいないが、それでも普段電車に乗らない圭太たちには混雑しているように見えるだろう。
 電車がホームに滑り込んできた。
 ドアが開くとそれなりの人が下り、それ以上の人たちが乗り込んだ。
 圭太たちは少し前の方の車両に乗り込んだ。座席はすでに埋まっており、ドア近くも人が立っていた。それでもたまたま空いていた場所に体を滑り込ませ、そこを確保する。
 発車ベルが鳴り、ドアが閉まる。
 ここから電車で十五分ほどで目的の駅である。
 車内はそれなりに混んでいたが、新聞が読めないほどでも、身動きができないほどでもなかった。
「ふふっ、いいな、こういうの」
「えっ、なにが?」
「ほら、今の状況。圭太が私のことかばってくれてさ」
 圭太は、ほぼ無意識のうちにそうしていたのだ。いくらいつもより混んでいないとはいっても、ぶつからないほど空いているわけではない。そこで圭太は柚紀に人がぶつからないようにかばっている。
「ねえ、着くまでこうしててもいい?」
 そう言って柚紀は、少し圭太に寄った。
 圭太はなにも言わず、微笑んだ。
 
 県民会館の前には、すでに何人もの部員が来ていた。場所が比較的街中にあるため、少しばかり奇異な目で見られていた。
「おはようございます」
 誰かが来る度に声が上がる。
 すでに搬入口の方にはトラックが着いている。時間より少し早くくらいに着いていたので、特に問題はなかった。あとは人が揃えばすぐにでも搬入できる。
 そして、集合時間。さすがに遅刻者はいなかった。
「おはよう。今日はいよいよコンサートよ。昨日までの雨も上がったし、今日は絶好のコンサート日和」
 あまり天気には関係なさそうだが、気持ちとしては間違っていないだろう。
「本来なら九時にならないと開けてもらえないんだけど、まあ、うちの高校にはいろいろなコネがあるから、それを使ってちょっとだけ優遇してもらったから。というわけで、一年と昨日トラックに積み込んだものがある二、三年は裏へ。ほかは控え室へ移動」
 ともみの合図で一気に動き出す。
 すでに中には何人もの卒業生が作業を開始していた。主にその作業はホール入り口と舞台上だった。入り口では観客を迎えるための準備。舞台上ではひな壇を入れたり椅子を用意したり。
 作業はこれでもかというほどあった。誰ひとりとして暇になる者などいなかった。
 ある程度ステージ上の作業が進んだところでリハーサルが行われた。とりあえずは一部と三部のリハーサルである。ここでの確認は基本的には場所の確認である。ほかには特別なことはなにもない。
 それが終わると今度は二部のリハーサルである。ここはほかのとは違い、ステージ上の動きも多いし、照明などもいろいろ趣向を凝らしている。そのため、しっかりと打ち合わせをしながら進めなくてはならない。
 時間的にもここの時間が一番多くとられている。
 多少の問題点はありながらも、リハーサルは順調に進んでいた。
 お昼をまわった頃、交代で昼食をとることになった。全員が一緒にとってしまうと時間が無駄になってしまうからである。
 開演時間は午後五時。その三十分前に開場である。それまでになんでも完璧にしておかなければならないのである。
 全員が食事をとったあと、先に二部の通しリハーサルが行われた。ここでは曲自体は全部通さないが、そのほかのことは基本的に本番と同じように行われる。もちろん衣装もである。
 それぞれが趣向を凝らした衣装でステージに上がる。
 曲ごとに照明も効果的に変えられ、なかなか盛り上がりそうな感じである。
 二部の通しリハーサルを終えると、今度は一部と三部のリハーサルである。このリハーサルが本番前最後の手直しの時間でもある。
 気になる部分を指摘し、直しながらリハーサルは進む。
 そして、すべてのリハーサルが終わったのが四時を少しまわった頃だった。
 あとは本番を待つのみ。いくつかのパートごとに与えられた控え室で時間が来るのを待つ。控え室のモニターでステージ上が確認できる。その中ではステージの最終確認が行われている。緞帳を上げての確認はこれが最後。もうすぐ緞帳が下ろされる。
 開場時間の少し前に、卒業生が外の様子を伝えに来た。それによるとすでに外にはそれなりの観客が集まっているということだった。
 一高吹奏楽部は県下でもトップクラスの実力を持っている。そのためその注目度も高く、毎年のコンサートを楽しみにしている人も結構いるくらいである。さらに、部員は出身中学の後輩にチケットを売ったり、ほかの高校にもチケットを配っている。高校間のやり取りは、ギブアンドテイクなのだが。
 開場から開演まで三十分しかないので、比較的集まりも早いのだ。
 そんなこともありつつ、開場時間を迎えた。
 卒業生が観客を迎える。本来なら現役生、特に三年も出るべきなのだろうが、そこはいろいろな兼ね合いがあって迎えには出ない。
 チケットを受け取り、ミシン目で切り取り、半券とパンフレットを渡す。
 ホール内に少しずつ観客が入ってくる。それは控え室からでもわかった。
 薄暗いホールが、少しずつ観客で埋まってくる。例年ならこのホールの七割ほどは埋まる。県民会館大ホールの定員を考えれば、それはかなりの数である。
 開演十分前。舞台裏へ行く前に廊下でともみから最後の言葉があった。
「泣いても笑ってもあとは本番のみだから。私ももう失敗するなとかそういうことは言わないわ。あとは、全力で。失敗してもいいけど、とにかく後悔しないように。そして、コンサート終了時には自分なりの満足感を得られるように」
 おそらく、ほかにも言いたいことはあったのだろう。だが、それ以上言うのは無粋というものである。
 それはともみ自身にもわかっていることで、だからこそそのくらいでやめたのだ。
 舞台袖に移動し、開演時間を待つ。
 微妙な緊張感が部員全員にある。これは、今年で三回目の三年でも同じである。
 そして、開演時間。
 ホール内にブザーが鳴り、照明が落とされる。
『本日はお忙しい中、第一高等学校吹奏楽部第四十三回定期演奏会にお越しいただき、ありがとうございます。開演前にお願いいたします。携帯電話等は電源をお切りいただくかマナーモード等の設定をお願いいたします』
 かり出された放送部員のアナウンスが流れる。
『それで第四十三回定期演奏会、開演いたします。皆様、最後までごゆっくりご鑑賞ください』
 同時に緞帳が上がる。
「一高吹奏楽部〜、行くぜーっ!」
『おーっ!』
 出る直前、最後の気合いを入れる。
 そしてステージへ──
 
 観客は例年より多かった。座席は八割強が埋まっていた。それでもさすがに満席とはいかない。
 一部で演奏する全員が着席する。その少しあとに一部で指揮をするともみが入ってきた。
 観客に向かって一礼する。そして指揮台に立つ。
 目と表情だけで最後の確認をする。
 指揮棒が上がり、曲がはじまる。
 
 一部で演奏する曲は、吹奏楽オリジナルの曲が三曲。選曲の際には自分たちの実力とその曲の認知度を考慮して行われる。多少難しい曲に挑戦するのはいいのだが、あまりに難しすぎるとほかの曲はできなくなる。さらに、音楽をやっている者にはわかっても普通の人たちにはなじみのない曲は、飽きられてしまうのであまり選ぶべきではない。
 そんなことを考慮しながら選曲は行われた。
 基本構成はやはりオープニングにはそれに相応しい曲。二曲目には少し落ち着いた感じの曲。そして最後は少し難しめの大曲。もっとも、この構成は三部も基本的には同じである。
 ただ、このコンサートで演奏する曲の中には、すぐあとにあるコンクールで演奏する自由曲も入っている。それがオリジナルかオケ編曲なのかはその年によって異なるが。従って、その曲はどうしてもほかに比べると差が出てくる。それをあまり際立たせなくするのも、やはり実力である。
 そんないろいろな思惑は、所詮は演奏者側の思惑である。観客はそんなことは考えない。彼らがどんな曲をどんな風に演奏するのか、それだけである。
 
 菜穂子は、舞台袖で演奏を聴いていた。その側には出ていない一年や卒業生がいる。
 前年の部長である長谷川愛子が菜穂子に訊いた。
「どうですか?」
「多少硬いけど、まあまあじゃないかしら」
「『鬼の菊池』にしてはずいぶんと甘い感想ですね」
「誰が鬼よ、誰が。まったくもう……まあ、でも、多少ひいき目に見てもあの子たちの演奏はなかなかのものよ」
 そう言ってひとりひとりに視線を移す。
「それは、暗に私たちよりも上手いと言ってますか?」
「そう聞こえたのなら、そうかもしれないわね」
「その意見には承伏しかねる部分は多々ありますけど、実際かなりのレベルであることは認めざるを得ませんね」
 愛子も菜穂子に倣う。
 その視線の先では、ひとりひとりが最高の演奏を目指して奮闘中である。
 
 最後の余韻を切るように、指揮棒が下ろされた。
 ともみは一度大きく頷き、そして振り返った。同時に沸き起こる拍手。
 演奏した部員たちも立ち上がってそれに応える。
 一部が終わり、休憩時間となった。
 しかし、部員に休憩時間など存在しない。このあとはいろいろと趣向を凝らした二部が待っているのである。
 ステージに上がる部員は全員、仮装。そのために着替えねばならない。
 控え室は戦場と化す。
 男子部員はひとつの控え室に押し込まれ、そのほかを女子部員が使う。男女比を考えればこれは仕方がない。
 舞台上では二部へのセッティングが行われている。大幅な移動があるため、卒業生が大勢出ている。
 この時間帯になるとやって来る観客もほぼいなくなる。とはいえ、まったくいないわけではないので、誰かがいなければならない。これがとてつもなく退屈である。
 
 ホール内にブザーが鳴った。照明が落とされる。
 緞帳の前に、二部の司会進行役の水野いつみと榊原広志が立った。
「さてさて、みなさん、コンサートを楽しんでおられるでしょうか」
「第一部では吹奏楽オリジナル楽曲をお聴きいただきました。少々肩こりなども見られそうなので、この第二部では肩の力を抜いてより楽しんでいただきたいと思います。ところで広志くん」
「はいはい、なんでしょうか、いつみさん」
「その格好は?」
「よくぞ訊いてくださいました。これこそ文明開化の波によってもたらされた至高の装束、燕尾服」
「ほお、燕尾服。これはまさに馬子にも衣装ですね」
「ヲイコラ、なにを言う」
「とはいえ、着慣れてない君が着ても、やはりおままごとにしか」
「そう言ういつみさん、あなたのその格好は?」
「見てわかりませんか? これこそ日本の伝統美、和服です。しかも大島紬ですよ、大島紬」
「……パチモンちゃうんか?」
「失敬な。ほら、ここに書いてあるでしょう?」
「ほうほう、確かに『おおしまつむぎ』と……って、それ、持ち主の名前ちゃうんか?」
「ありゃ、バレましたな」
「とまあ、冗談はさておき、そろそろ準備も整ったようなので、早速第二部、いってみましょうか」
「はい」
「最初の曲はジャズの定番『A列車』です」
「どうぞ」
 緞帳が上がると同時に、曲ははじまった。
 色とりどりの照明に軽快な曲。ボルテージも自然と上がる。
 二部ではいろいろな趣向が用意されている。それは曲の合間だけではなく、曲の中でもである。
 たとえば、目立つ部分ではいきなりステージの前に出てきたり、その場で踊ってみたり。とにかく楽しく楽しく進む。
 もちろん、演奏のレベルもそれなりのものがあった。
 曲は全部で八曲。前半と後半に分け、真ん中では寸劇まがいのことも行われる。
「さて、ここでみなさんに吹奏楽のことについて少々知っていただこうと思います」
「今回は、各楽器の説明です」
 多少準備の必要な曲の前に、こうして長めのインターバルを取る。
「ここに各楽器の代表に並んでもらいました。順番にその音色を聴いていただきましょう」
 ともみに指名されたそれぞれが、楽器の特徴を示すような曲を披露する。
「では、次にトランペットです。この楽曲はみなさんもよくご存知でしょう」
 そして、圭太の番である。
 圭太は一礼して、吹いた。
 しかし、その曲はオリジナル曲でもクラシックでもなかった。そう、それはプロ野球の応援曲である。確かに日本人に一番なじみがあり、かつ、トランペットだとわかるのはこういう曲かもしれない。
 この趣向にはさすがの観客も驚き、すぐあとに割れんばかりの拍手が起こった。
 後ろではともみが、少し悔しそうな顔を見せていた。
 そんなことを挟みつつ、二部も進んでいく。
 演奏される曲もバラエティに富み、名前は知らずとも曲は聴いたことがある、そんな曲も演奏された。
 途中の寸劇はその題名を『一高吹奏楽部連続殺人事件・その時家政婦は見てしまったのである』と言った。もっとも、その中身をここで書くことは控えておきたい。
 各曲にはたいていソロパートがあり、これが最後の三年がそのソロを担当した。もちろんそれでも全員ができるわけではない。そこは部への貢献度や楽器の特性、そしてなにより実力を考慮して選ばれた。
「大変残念ですが、次がこの第二部の最後です」
「最後は、少し落ち着いた雰囲気で『ムーンライトセレナーデ』です」
「最後までこの拙い司会進行におつきあいいただき、本当にありがとうございました。在後ですが視界は榊原広志と──」
「水野いつみでお送りしました」
 揃って礼をする。
「それでは、『ムーンライトセレナーデ』です」
「どうぞ」
 
 興奮した様子で戻ってくる面々。これから最後に向けてまた準備である。
 舞台上ではまたも大勢で移動が行われている。会場内にもある種独特の雰囲気が漂っていた。
 三年にとっては泣いても笑っても最後のステージである。
 十分間の休憩時間はあっという間に過ぎ去った。
『大変お待たせいたしました。第三部の開演でございます』
 アナウンスにあわせて緞帳が上がる。部員はすでにステージ上にいる。
『指揮は、当部顧問菊池菜穂子です』
 艶やかな黒のドレスに身を包んだ菜穂子が出てくる。
 指揮台の前で一礼する。
 拍手がやむと、緊張感が張りつめる。
 そして、指揮棒が上がった。
 
「ありがとうございました」
 三年が入り口に並び、観客を見送る。それぞれの三年と親しい者は、まだロビーの方にいる。
 舞台や控え室の方では撤収作業が急ピッチで行われている。コンサート終了から県民会館閉館時間まであまり時間はない。もうそれは上を下への大騒動となる。
 そんな裏の様子などお構いなしに、入り口ではまだ歓談が続いている。
「ともみさん」
 ひと息ついていたともみのところへ、琴美たちがやって来た。
「おつかれさまです」
「素晴らしいコンサートだったわ」
「ありがとうございます。あ、もしよかったら呼んできましょうか?」
「いいえ、それは別に。今日の主役は、あなたたち三年生でしょう? あの子は脇役。感想は家に帰ってからで十分よ」
 そう言って琴美は笑った。
「あの、そちらは?」
 ともみは、琴美と琴絵のほかにもうひとりいることに気付き、訊ねた。
「ああ、この子は私の姪っ子よ」
「えっと、吉沢朱美です」
 そう言ってその子──吉沢朱美は頭を下げた。どことなく琴絵にも似ているが、朱美の方がおとなっぽい。
「この子も吹奏楽をやっていてね、それで聴きに来たいって言うものだから」
「あ、でも、二部からしか聴けなくて……」
「二部からでも聴いてもらえて、とてもありがたいわ」
 ともみはにこやかにそう言う。
「もっとも、この子の目当ては演奏六割、圭太四割というところかしら」
「お、伯母さん」
「なるほど、そういう理由ですか。なるほどなるほど」
「ううぅ〜……」
「まあでも、この子がいくら圭太のことを想っていても、時すでに遅し、だから」
「確かに」
「お、お母さんもともみ先輩も、その辺にして」
 さすがにこれ以上朱美がからかわれるのを不憫に思い、琴絵が止めに入った。
「じゃあ、私たちはこれで」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
 琴美たちを見送り、ともみは呟いた。
「ホント、圭太はいろんな子に想われてるのね。ま、その大半が失恋で終わったわけだけど。ふう……」
 
「それでは、コンサートの大成功を祝して、乾杯っ!」
『かんぱ〜いっ!』
 高校生が集まってなにかをするには少々遅い時間に打ち上げははじまった。そこは、少し前の卒業生の両親が経営する居酒屋で、その二階を借り切っての打ち上げだった。
 かなりの大人数を収容できる場所はそう多くなく、まして高校生を相手にするにはそれ相応の覚悟が必要となる。その点知り合いの店というのは隠れ蓑にはちょうどいい。顧問である菜穂子も一緒なので、もう一蓮托生である。
「ん〜、圭太、飲んでる〜?」
 ともみは少し赤い顔で近づいてきた。アルコールは成年組にしか出ていないはずなのだが、アルコールが入っているのかもしれない。
「あ、えっと、一応」
 圭太は、苦笑混じりに答えた。
「ああ、そういえばねぇ、圭太のいとこっていう子に会ったわよぉ」
「いとこ……ああ、朱美のことですか」
「うん、そう、朱美ちゃん。琴絵ちゃんにどことなく似てるけど、ん〜、少し大人っぽいかな。でも、カワイイ子だったわねぇ」
「確かに来るって話は聞いてましたから」
「でもさぁ、あの子も圭太のこと、好きなんだねぇ」
 隣にいた柚紀が、微妙に反応した。
「柚紀〜。いくら柚紀が圭太の彼女でもぉ、なにかあったらすぐにその場は奪われるわよ〜。ああ、もちろん私も狙ってるけどねぇ」
「大丈夫です。私が絶対に圭太を離しませんから」
「あらら、ずいぶんと気合いが入ってるわねぇ」
「当然です。特に、ともみ先輩は一番の危険人物ですから」
「ふふ〜ん、わかってるじゃない。私はねぇ、こ〜んなことだってできるんだからねぇ」
「えっ……?」
 それは突然だった。
 ともみが圭太を抱きしめ、そしてそのままキスをして──
「どう? 恐れ入った?」
「……先輩」
「ん〜?」
「逃げた方が、いいかもしれません」
「あ〜……」
 ともみもさすがにヤバイと判断したか、コソコソと逃げの体勢に入った。
「ゆ、柚紀。ちょっと外に出よう」
 今にも泣き出しそうな柚紀を、なんとか外に連れ出す。
「……バカ」
 そう言って柚紀は圭太に抱きついた。
「ごめん、僕がうかつだったよ」
「圭太は、私だけの圭太だったのに……」
「柚紀……」
 柚紀はパッと顔を上げ、ポケットからおしぼりを取り出した。それで圭太の唇を拭く。
「私が圭太の彼女の間は、この唇は、私だけもの……」
 そして、改めてキスをした。
「わがままだって思われたっていい。独善的だって思われたっていい。それだけ私は圭太のことが好きなんだから」
「僕だって、柚紀のこと、誰よりも好きだよ」
「うん、それはわかってる、わかってるの……」
「だったら、そんな悲しそうな顔、しないでよ。柚紀は、笑ってる方が絶対にカワイイんだからさ」
「……うん、笑うよ。でも、もう少しだけ……もう少しだけ」
 
 結局、打ち上げは日付が変わる直前まで行われた。その時間を過ぎると、家に帰れなくなるのだ。すでに何人かは電車の時間の関係で帰っているくらいである。
「じゃあ、明日は一日休みで、月曜日にコンサートの後片づけをするから。今日は本当におつかれさま」
 三々五々、みんな家に帰っていく。
 圭太は、柚紀とともみ、祥子と一緒に帰っていた。
「柚紀、さっきはごめんね」
「ああ、はい、少しは気にしてますけど、気にしてませんから」
「あらら、ずいぶんとトゲがあるわね」
 祥子は呑気にそんなことを言う。
「ほら、なんていうのかな、その場の勢いっていうか、そういうので」
「勢い、ですか」
「うぐっ……」
「柚紀、もう終わったことなんだから、そんなに先輩を責めないで」
 さすがにこれ以上の事態悪化を懸念した圭太が、止めに入った。
「……ホント、圭太は誰にでも優しいんだから」
 そう言ってあきらめたようにため息をついた。
「それが圭くんの圭くんたるゆえんでもあると思うけどね」
「祥子先輩〜、火に油を注ぐようなこと、言わないでくださいよ〜」
「ふふっ、だって、少しくらいからかわないと、悔しいから」
 それから少し歩き、ともみと祥子と別れた。
「ねえ、圭太」
「ん?」
「今日、泊まってもいいかな?」
「えっ……?」
「ほら、もう遅いし。いくらお父さんが迎えに来てくれるっていっても、やっぱり遅いことに変わりはないし」
「でも、それは……」
「ん〜、ダメかな?」
「いや、それは別にいいけど。でも……」
「大丈夫。別に襲ったりしないから。それに、圭太だって私のこと、襲わないでしょ?」
「あ、当たり前だよ」
 圭太は少し声を荒げて反論した。
 柚紀は、少しくらい襲ってくれてもいいのに、とぼやいた。
「じゃあ、とりあえずそういうことで」
 柚紀は強引に決め、圭太はそれを渋々認めた。
「圭太」
「うん?」
「大好きだよ」
 
 もうすぐ夏本番。
 ふたりの想いは、ますます深まっていた。
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