僕がいて、君がいて
第二章「緑深まる初夏の、深まる想い」
一
閉店後の『桜亭』。手伝いに入っていた圭太の前にも、コーヒーが出ている。
流しでは、琴美が食器を洗っている。
「そうそう、鈴奈ちゃん」
「はい、なんですか?」
「連休中は、なにか予定はあるの?」
「連休ですか? そうですね──」
鈴奈は少し考え、答えた。
「残念ながら、なにもないです。なので、毎日でも入れますよ」
「ふふっ、そうなの。そういえば、鈴奈ちゃん」
「はい?」
「鈴奈ちゃんには、彼氏、いないの?」
「えっ……? か、彼氏ですか?」
琴美にそう言われた鈴奈は、ちらっと圭太の顔を見た。
「鈴奈ちゃんくらい綺麗なら、彼氏のひとりやふたり、簡単にできそうな気もするけど」
そう言って琴美は笑った。
「母さん、鈴奈さんが困ってるよ」
「あら、ふふっ、ごめんね」
「すみません、鈴奈さん。母さんが余計なことを」
その日は、圭太から申し出て鈴奈を送っていた。
そろそろ夜でも上着がいらなくなってくる季節。今までとは違う風が吹き抜けていく。
「ううん、いいの。琴美さんの性格はわかってるつもりだから。あれも、悪気があって言ったことじゃないし」
「……すみません」
「あっ、圭くんが謝ることなんてないの。気にしないで」
鈴奈は慌てて言い繕った。
「……ねえ、圭くん」
「はい」
「やっぱりおかしいかな」
「なにがですか?」
「んと、私にその、彼氏がいないのって」
少し言いにくそうに言う。その表情は照れてはいるが、どこか淋しげにも見えた。
圭太は、小さくため息をついた。
「そうですね、僕にはそういうのはよくわかりませんけど、誰かを好きになるのって、簡単なようで難しいと思うんですよ。そういう人がいれば、それはそれでいいのかもしれませんけど、安物買いの銭失いではどうにもなりませんし。だったら、じっくり腰を据えてみるのもいいと思います。それに、鈴奈さんならそれこそその気になればいくらでも、ですからね」
そう言って笑う。
「あ〜あ、私の側にはこんなに素敵な男の子がいるのにね」
「えっ……?」
「その子は私のことなんて『お姉さん』くらいにしか見てないんだろうし」
「あ、あの、鈴奈さん……?」
「ふふっ、冗談よ」
クスクス笑っていた鈴奈だったが、不意に真面目な表情に戻り、言った。
「でもね、圭くんなら本当にそうなってもいいって、そう思ってるのも事実だけどね」
「鈴奈さん……」
「だとしても、そのためには『お姉さん』から抜け出さなくちゃいけないんだけどね」
誤魔化すように笑い、圭太より一歩前に出た。
「私は年の差とかそういうの、全然気にしてないから」
前を向いたまま、鈴奈はそう言った。
それに対して圭太は、なにも言えなかった。
四月末から五月頭にかけて、日本ではいわゆるゴールデンウィークに入る。
最近では週休二日制の浸透に伴い、連休が長くなっている。もちろん、そこにはカレンダーの配置も大きく絡んでくるが。
とはいえ、それは学生にはあまり関係ない。特に公立の小中高校には。基本的には暦通り。大型連休とは名ばかりなのである。
しかし、一高はその点では少し違っていた。四月中はもちろん同じなのだが、五月が違った。一高は、五月一日が創立記念日なのである。よって、比較的連休になりやすかった。
そして、今年は五連休だった。
五月二日。
その日は朝からどんよりと曇っていた。ただ、天気予報では雨が降るとは言っていない。
曇っているせいか、幾分気温が低い。とはいえ、すでに五月に入っているので、寒いということはない。
圭太は、やはり朝から学校へ向かっていた。
この連休中、休みは前日に終わっていた。残りの四日間はすべて練習がある。もっとも、すべて半日だが。
しかし、この頃から七月に行われる定期演奏会の準備がはじまってくる。細かなことは一年にはやらせないが、力仕事や人海戦術が必要な仕事では容赦なく使われる。
ただし、圭太の場合は少々事情が特別だった。それは、家が喫茶店をやっているということだ。定期演奏会では毎回パンフレットを作る。それはもちろん、印刷所に依頼して作るくらいしっかりしたものだ。となると、資金が必要になる。部費ではまかないきれない部分は、パンフレットに広告を載せることで広告料を取り、それでまかなう。
そして、圭太の場合は家から広告料が出るため、ほかの部員よりも多少優遇される。とはいえ、それも微々たるものだが。もともと男子部員が少ないため、ひとりでも欠けると仕事が進まなくなるのである。
圭太が大通りのバス停まで来ると、ちょうどバスが停まった。
バスから降りた客は、全部で三人。休みの日ならこの程度だろう。
その中のひとりに、柚紀がいた。
キョロキョロとあたりを見回している。
と、その視線が圭太をとらえた。
「おはよ、圭太」
「うん、おはよう、柚紀」
あの歓迎会のあと、ふたりはどちらからともなく、こうして一緒に学校へ行くようになっていた。
バスの本数はそれほど多くないので、圭太が柚紀の登校時間を知るのは簡単だった。あとはそれにあわせるだけ。もっとも、柚紀の方もそれに乗らなくては意味はない。だからこそ、どちらからともなく、なのである。
「ふふっ」
「どうしたの?」
「なんかね、こういうのってすごくいいなって」
柚紀は、本当に嬉しそうに言う。
ふたりの関係はまだ恋人のそれにはなっていないが、限りなくそれに近かった。そして、柚紀はそういうものに人一倍憧れていた。
ただ、それはかなり美化されたもので、ある意味では恋に恋したい感じもあった。
「そういえば、前から訊こうと思ってたんだけど、圭太って、休みの日はどんなことしてるの? やっぱりお店の手伝い?」
「だいたいはそうかな。ただ、母さんも鬼じゃないから、ある程度は自由な時間はくれるよ」
「そうなんだ」
「だけどね、僕は基本的には自分から手伝ってるから。休みなんてあってないようなものかな、やっぱり。ほら、うちって母子家庭だから。放っておくと母さんひとりにしわ寄せがくるし。それを僕や琴絵が少しでも緩和できればいいなって」
さらっと言う圭太ではあるが、実際それはものすごく大変なことである。
圭太や琴絵にも昼間は学校がある。もちろん学校の勉強は学校だけでできるわけではない。家に持ち帰ってやることもある。それをこなしつつやるとなれば、それなりに大変になってくる。
「……それを聞いちゃうと、やっぱり言いにくいなぁ」
「えっ、なに?」
「あのね、本当は明日かあさってにでも圭太を買い物に誘おうと思ってたんだけど。今の話を聞いちゃうと、無理には誘えないよね」
少しだけ残念そうに言う。
圭太は少し考え、笑って言った。
「いいよ、別に」
「えっ……?」
「ゴールデンウィークって、意外にお客が少ないから。それに、今年は毎日鈴奈さんが入ってくれてるから。僕ひとりくらいいなくても、全然大丈夫」
「……ホントに?」
「うん」
「あはっ、ありがと、圭太」
柚紀は、嬉しそうに微笑んだ。
屋上から、綺麗な高音が聞こえてくる。
音源を見てみると、個人練習をしている圭太だった。
トランペットのような金管楽器の場合、室内だけで練習していると、自分の音に錯覚を覚えてしまうことがある。それは、室内だと音が反響するからである。これは風呂場で歌を歌うと妙に上手く聞こえるのと同じ原理である。
従って、たまにまったく遮蔽物のない屋外で練習する方が効率的なのである。
「ふう……」
楽器を下ろし、ひと息つく。
「おつかれさま」
後ろから声がかかった。
振り返ると、圭太と同じトランペットを持った女子生徒。
「おつかれさま、夏子」
彼女の名前は、有馬夏子。圭太と同じ一年。中学の時も吹奏楽部に所属していた。
「やっぱり上手いよね、圭太って」
「ん〜、その言葉、ここに入ってから何度も聞くけど、僕は同じことしか言ってないよ。僕なんかまだまだだってね」
「ふふっ、そういえば前にも誰かに言われてたね」
「ただ単にこれを吹けるっていうだけなら、それなりのところにいるのかもしれないけど、そこは最終的な目的地じゃないし」
「最終的な目的地?」
夏子は、圭太の隣に立った。
圭太は、フェンスの外を見ながら続ける。
「別にプロになろうとは思わないけど、でも、自分が納得できる奏者にはなりたいと思うんだ。だからできるだけのことはしてる。少しでも上を目指すために」
「難しいね、そういうの。具体的な目標がある方が、やっぱり楽だから。でも、だからだろうね、圭太が上手いのは」
圭太は、なにも言わずにトランペットを吹いた。
軽快な旋律が奏でられる。
息継ぎ、指使い、タンギング、すべてが同年代の奏者とは一線を画していた。
「ところで、ここへはなにしに?」
「あっ、そうだ、すっかり忘れてた。幸江先生がそろそろパート練習するからって」
「そっか、もう時間だね」
圭太は足下に置いていたメトロノームを手に取った。
「じゃあ、行こう」
「うん」
「あっ、圭太。ちょっといい?」
部活終了後。楽器を片づけていると、声がかかった。
「なんですか、ともみ先輩?」
ともみは、妙にニコニコしている。
圭太は思わずすべてをなかったことにしたくなるのを堪え、次の言葉を待った。
「実はね、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「……頼みたいこと、ですか?」
それから数分後。
圭太の前にはある楽曲のスコアがあった。
話はこうである。
コンサート用の曲で、その曲はもともと小編成向けに編曲されていた。しかし、一高吹奏楽部は大編成。そのままやったのでは音の厚みがなくなってしまう。そこで、誰かが編曲しようということになった。とはいえ、普通に編曲したのでは面白くない。
そこで白羽の矢が立ったのが、圭太である。
圭太はトランペットの練習の傍ら、ピアノや作曲の手習いもしていた。もちろんそれは本格的なものではなく、参考程度のものだった。
だが、普通編曲は少なくともピアノができないと難しい。さらに、吹奏楽における楽器の特徴も知っていなければならない。
その両方を兼ね備えていたのが、圭太というわけである。
「……どう?」
圭太がスコアを全部見たのを確認して、ともみは言う。
「できそう?」
「まあ、やってやれないことはないと思いますけど。でも、どうして僕なんですか? 編曲なら先輩や祥子先輩でもできると思いますけど」
「私は三年。あと、祥子はすでに二曲、編曲してるの」
「…………」
「逃げ道はなし。そういうわけよ」
にこやかに言うともみであるが、その目は笑っていなかった。
「期限は今月いっぱい。それ以上はペナルティあり。オーケー?」
「わかりました。なんとかします。だけど、誰かに手伝ってもらうのはありですよね?」
「いいわよ。あと、進捗状況は逐次報告してね。ある程度できたら確認するから」
「はい」
圭太は、少しだけ恨めしそうにそのスコアを見つめた。
五月四日。
ゴールデンウィークも終盤に突入。二日後には生活は元に戻る。
テレビやラジオ、新聞ではUターンラッシュについてのニュースが取り上げられている。新幹線の到着ホームでは、大きな荷物を持った家族連れが次々に降りてくる。
しかし、そんな世情とはまったく関係ない人々もいる。
圭太たち一高吹奏楽部もその中のひとつである。
その日も午前中は練習が行われた。とはいえ、合奏はなくセクション練習までなので、気分的には楽かもしれない。
そんな部活終了後。
「圭太。もういい?」
自分の片付けを終えた柚紀がやって来た。
「ちょっと待って。これを片づけたら終わりだから」
そう言ってケースにトランペットをしまう。それを準備室に戻して終わり。
それから五分後。
「楽しみだなぁ」
柚紀は先ほどからずっとこの調子である。
それもそのはず。今日は圭太と買い物に出かける日。それをあえてデートと言わないところがなんともはや。
予定では一度圭太の家に行き、そこで制服から私服に着替え、そこから繁華街へ出るというものだった。
柚紀の手には、少し大きめのバッグが握られている。
繁華街までは、柚紀の家より圭太の家の方が近い。さらに言うなら、学校からの距離も近い。従って、できるだけ時間を有効活用するために今回の案が採用された。
いつもより早く到着したような錯覚に陥りながら、圭太の家に着いた。
「ただいま」
「おじゃまします」
玄関から中に入るが、返事はない。それもいつものこと。
琴美は店の方にいるし、琴絵は圭太と同じように部活に出ている。
「部屋は、琴絵の部屋を使っていいから」
「うん、ありがと」
二階に上がり、柚紀を琴絵の部屋に案内した。
年齢の割には落ち着いた部屋、が琴絵の部屋の印象である。色遣いこそピンクっぽいものが多いが、こてこてな少女趣味でもなかった。
「準備ができたら声かけて」
そう言って圭太は部屋を出た。
圭太が部屋を出て行くと、柚紀はもう一度部屋を見回した。
「カワイイ部屋だなぁ」
ひとつひとつ確認するように見ていく。
と、その視線が机の上で止まった。
その視線の先には、フォトスタンド。中に入っているのは、家族写真だった。
今より少し幼い感じの圭太と琴絵。その後ろには琴美と、もうひとり。今は亡き祐太である。その写真を見るだけで、彼らがどれだけ仲の良かった家族かわかる。
その隣には、圭太と琴絵のツーショット写真。
「そっか、琴絵ちゃん、ホントに圭太のことが好きなんだ」
微笑ましい兄妹の関係を垣間見た柚紀。
「っと、こんなことしてる暇ないんだった」
カバンを開け、中から着替えを取り出す。
取り出したのは、桜色のワンピースに真っ白なカーディガン。春らしい取り合わせである。
ブレザーを脱ぎ、リボンを解く。ブラウスのボタンを外す。スカートのホックを外し、ファスナーを下ろす。
スカートが足下に落ちる。それを丁寧に畳み、ブラウスも脱ぐ。
下着姿になると、その均整の取れたプロポーションがはっきりとわかる。これでまだ高校一年なのだから、前途有望である。
手早くワンピースを着る。カーディガンを羽織る前に、制服をしまう。
それから琴絵の鏡を使って姿を確認する。
「うん、大丈夫」
どうやら、満足したようである。
「……でも、これってやっぱりデート、なんだよね」
そう呟く。それだけで顔がにやけてくる。
「う、うわぁ、な、なに緊張してるんだろ、私」
パンパンと頬を叩く。
それから数度深呼吸をして、部屋を出た。
隣の圭太の部屋の前で、もう一度深呼吸する。
軽くノックをし、声をかけた。
「圭太、準備できたよ」
ほとんど間を置かず、ドアが開いた。
「早かったね。もう少し時間かかると思った」
「そう?」
柚紀は、何気ない風を装い答える。
「そういえば、私服姿を見るのははじめてだね」
下に下りながら、そんなことを言う圭太。
「その格好、すごく似合ってるよ。うん、柚紀にぴったり」
「…………」
笑顔で、でも真面目にそう言う圭太。
さらっとそう言われては、柚紀も茶化すこともできない。照れて、俯くだけである。
圭太の格好は、ジーパンにジャケットというもの。色合い的にも落ち着いた感じで、期せずして似合いのカップルとなった。
「そのカバン、ここに置いていけばいいよ。持ってまわるの大変でしょ?」
「でも、いいの?」
「うん。気にしないで。それに、うちは帰り道にあるんだし」
圭太の家は、確かに柚紀の家と繁華街の中間くらいにある。柚紀が繁華街へ出るには、いつも使っているバスで向かうことになる。
「リビングにでも置いておけばいいよ。母さんには言っておくから」
そう言って圭太は店に出た。
「あら、圭太。帰ってたの?」
「うん。でも、すぐに出かけるけどね」
「どこ行くの?」
手を休め、琴美は訊ねる。
「ちょっと駅前の方に買い物」
「ひとりで?」
「ううん」
「へえ、珍しいわね。圭太が誰かと出かけるなんて。で、誰なの?」
「ほら、前に母さんがサンドウィッチを作った相手」
「ああ、えっと、なんて言ったかしら……確か、笹峰さんだっけ?」
「よく覚えてたね」
「あら、失礼ね。まだまだぼけるには早いでしょ」
「うん」
笑い合うふたり。
「でも、そっか、なるほどねぇ。奥手で愚鈍な圭太がねぇ」
「な、なに?」
「ううん、嬉しいのよ。圭太もやっと自分のことを考えるようになって」
「ん〜、よくわからないんだけど」
「いいのよ。ほら、待たせてるんでしょ?」
「あっ、うん。っと、それで、彼女の荷物をリビングに置いてるから、そのままにしといて」
「わかったわ」
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
ニコニコと本当に嬉しそうな琴美に見送られ、圭太は家の方に戻った。
リビングでは柚紀が、所在なさげに佇んでいた。
「ごめん」
「ううん」
「じゃあ、行こうか」
「うんっ」
これぞ五月晴れ、という空がどこまでも広がっていた。
圭太と柚紀は、歩いて繁華街まで出てきた。圭太はバスで行くことを主張したのだが、柚紀がそれを拒んだ。
そんなこんなで、およそ三十分かけて繁華街まで出てきた。
駅前に広がる繁華街は、周辺住民に非常によく利用されていた。そのため、活気もあり人々が集まるために、いろいろな店が出店していた。
ふたりは、とりあえずアーケード街に入った。
両脇に並ぶ店からは、時には威勢の良い声が、時には軽やかな音楽が流れていた。
行き交う人々にも、店の人たちにも活気がある。いるだけで元気になれそうだ。
アーケード街を抜けると、そこは駅前で、大型店舗が並んでいる。
駅前バスターミナルで降りる人たちの何割かは、そのどこかの店に入る。それくらい地域に密着した店だった。
そんな駅前でふたりはとある店に入った。
そこは最近できたばかりの低価格の服などを扱っている店だった。もちろん、安かろう悪かろうではなく、安くても最高の品質を、をスローガンにしている店である。
足を運んだのは、夏物売り場。売り場には夏らしい服が綺麗にディスプレイされ、値段も手頃に売られていた。
「ん〜……」
柚紀は、たくさんの服を前にして、唸っていた。
あっちのノースリーブを見てはこっちのサマーセーターを見、そっちのミニスカートを見てはこっちのハーフパンツを見る。
くるくる変わる表情をみているだけで、楽しくなってくる。
「ねえ、圭太。こっちとこっち、どっちがいいと思う?」
二着ほど手にして、圭太に訊ねる。
「どっちも似合ってるけど、そうだね」
圭太は少し考えると──
「僕はこっちの方がいいと思うよ」
そう言って右手に持っていた、青い方を指さした。
「なるほど、圭太はそっちか。ふむふむ……」
それを聞き、柚紀はしきりに頷いている。
それからしばらく売り場を見ていたが、結局柚紀はなにも買わなかった。
「よかったの?」
「うん。今日は下見みたいなものだから。もう少し考えて、その時の資金量とあわせて決めるの」
「なるほどね」
その店を出たふたりは、アーケード街に戻った。そこにある甘味処に入った。
圭太はみつ豆、柚紀はフルーツあんみつを頼んだ。
「今日は久しぶりに楽しめたなぁ」
「そうなの?」
「うん。買い物自体も久しぶりだけど、なによりも今日は」
そこで圭太を見る。
「まあ、いっか」
「えっ、なに?」
「ううん、なんでもないよ」
笑う柚紀に首を傾げる圭太。
「ではここで、圭太くんに質問があります」
と、いきなり柚紀は圭太に質問をはじめた。
虚を突かれ、圭太は一瞬たじろいたが、黙って頷いた。
「なぜ、一高に入ったのですか?」
「その先のことを考えた場合、一番だと判断したからです」
「なぜ、吹奏楽部に入ったのですか?」
「中学の時もやっていて、続けたいと思ったからです」
「たくさんの人たちが期待をかけていますが、どう思いますか?」
「過剰評価だと思いますけど、できるだけその期待に応えたいとは思っています」
「趣味はなんですか?」
「音楽です」
「学校は好きですか?」
「はい」
「お店の手伝いは楽しいですか?」
「はい」
「将来の夢はなんですか?」
「音楽喫茶です」
「最後に、私のことはどう思いますか?」
それまでスラスラ答えていた圭太が、少し考えた。
その沈黙はわずかなものだったが、柚紀にはとても長く感じられた。
「一緒にいて、楽しい存在です」
答えは、少し微妙なものだった。おそらく、柚紀が求めていた本当の答えとは違うものだっただろう。だが、それを焦って求めてみたところで、心底満足できるかどうかはわからない。それなら、段階を踏んで最終的にそこに辿り着ければいい。そう考える方が建設的で現実的である。
しかし、圭太はそれをわかってかどうか、こう付け加えた。
「あと、今までで一番一緒にいたいと思う存在です」
「…………」
何気ない言葉だが、それは確実に圭太の本心だった。
だからだろう、柚紀もなにも言えなくなったのは。
「これでいいかな?」
「あっ、うん、ごめんね、突然変なことを訊いて」
慌てて頭を振る柚紀。
「さてと、もう少し見ていく?」
圭太は、時間を確かめながら訊ねた。
「う〜ん、今日はいいや。また、今度ね」
「そう?」
甘味処を出たふたりは、来た道を歩いて戻った。
暮れゆく夕陽の中、並んで歩くふたり。
影が、少しずつ長くなっていく。
時折吹き抜ける風が、柚紀の長い髪を揺らしていく。
「ねえ、圭太」
「うん?」
「完全に興味本位で訊くんだけど、どうして今まで誰ともつきあわなかったの?」
柚紀は、前を向いたまま、そう言った。
「いろいろ理由はあるけど、聞く?」
「うん」
圭太は、小さく息を吐いた。
「まずは、忙しかったから。中学の時は、授業に部活、家の手伝いで誰かとつきあうなんて選択肢は、まず思い浮かばなかったからね」
「うん、それはわかるかな」
「次に、それが根底にあったから、誰かを好きになろうとか、そういうのは全然考えてなかったんだ。中途半端な気持ちだと、相手に悪いし」
「なんか、圭太らしいね」
「次に、誰も僕に『好きだ』なんて言わなかったから。それらしいことは聞いたことはあるけどね。もっとも、僕のことをよく知ってる中学の知り合いに言わせると、そんなことを言わせる雰囲気になかったって」
笑う圭太。
「あとは、月並みだけど、あわなかったのかな、誰とも」
「…………」
圭太の答えを聞き、柚紀は真剣に考えている。
「そんな感じなんだけど、いいかな?」
「あっ、うん」
しばしの沈黙。
「……ねえ、なんで圭太はなにも訊かないの?」
少し、責めるような口調。今度は、圭太の方を見ている。
「恐いから、かな」
「恐い? なにが?」
「知りすぎるのが。自分で言うのはなんだけど、そういうことに関して僕はかなり臆病だと思うんだ。だから、なにをするにしても手探りで、どうしたらいいかわからない。少しずつ少しずつ自分を納得させて理解して、そして次のステップに上がりたいんだ」
「…………」
「おそらく、それはすごく身勝手で相手のことを考えてない考え方だと思うよ。でもね、それが今の僕だから。繕うだけならできるだろうけど、でも、それじゃどこかで必ずボロが出ると思うし。きっと、柚紀も満足してないと思うけど、今は、これが精一杯」
圭太は、淡々と答えた。
その顔にはあきらめとか、悲壮感などはない。ただ、自分自身を冷静に分析し、その上で出した答えしか持ち合わせていない、不器用な男子の複雑な想いがあるだけだった。
それはわかったのか、柚紀は小さくため息をついた。
「ホント、圭太は真面目すぎなんだよ。だからみんな、苦労してるの」
「なんとなくわかってるよ、それは」
「でも、しょうがないよね、そういうことじゃ」
柚紀は、一歩、圭太の前に出た。
「圭太」
「なに?」
「歓迎会のこと、覚えてるよね?」
「あ、うん」
「あれ、やっぱり有効ね」
「えっ、どういうこと?」
柚紀の言った意味がわからず、聞き返す圭太。
「ファーストキスの責任」
柚紀も、少しだけ照れくさそうに答えた。
「すぐにとは言わないけど、そのうちにその責任、ちゃんと取ってね」
「……そうだね」
「うんうん、素直でよろしい」
圭太の答えを聞き、柚紀は嬉しそうに笑った。
しかし、晴れやかな柚紀とは対照的に、圭太の表情は曇っていた。
二
連休も明け、いつもの生活が戻ってきた。
学校では相変わらず授業があり、部活でも厳しい練習が行われていた。
そんな中、二年生が修学旅行に出かけた。沖縄への四泊五日の旅行である。その間、校内はいつもより静かになる。
それは部活でも同じである。二年生がいないだけで部活が成り立たなくなるところもある。もっとも、吹奏楽部ではそういうことはない。
「ふわぁ……」
昼休みの屋上。圭太は、明典と一緒にそこにいた。
「なんか、このままバックレたくなるくらい、いい天気だな」
「確かに」
その日も五月晴れだった。
真っ青な空に、太陽がその姿を主張している。日向にいると、それだけで眠くなってくる。
春眠暁を覚えずとはよく言ったものである。
「どうよ、最近?」
「ぼちぼち、かな。明典は?」
「俺もそんな感じかな? ただ、部活はかなり厳しいな。毎日へとへとになるまで練習だよ」
そう言って肩をまわす。
インターハイ出場経験のあるサッカー部は、やはり練習の厳しい部活のひとつだった。そのサッカー部でレギュラーを獲ろうとすれば、人の何倍も努力しなくてはならない。
そして、明典はレギュラー奪取を目指す部員のひとりだった。
「そういや、圭太」
「ん?」
「おまえ、つきあってるのか?」
「誰と?」
「ほら、おまえの隣の席の、なんつったっけか……そう、笹峰柚紀」
「別につきあってるわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「うん。確かにまわりから見るとそう見えるのかもしれないけど。僕も彼女も明確な関係だとは認識してないよ」
圭太はまるで用意されていた答えを読み上げるように答えた。
「ま、なんでもいいけどな。ただ、彼女は結構人気高いからな。気をつけないと誰かに取られるぞ」
「……そうなの?」
「ああ。うちのクラスでもそれなりに話題に上るし」
「…………」
「深く考えるなって。おまえの悪い癖だ。もう少し物事を自分に良いように考えろよ。少しくらい自分本位に考えたところで、それで迷惑を被る奴なんてそうそういないんだし」
「いいよね、明典のその考え方」
明典の言い分を受け、圭太は笑って答えた。
「うっし、圭太」
「ん?」
「おまえ、その彼女を『彼女』にしろって」
「えっ……?」
「嫌いじゃないんだろ?」
「それはそうだけど……」
「で、相手も嫌いじゃない、と」
「まあ……」
「おまえももう少し自分を持った方がいいし、ちょうどいい機会だと思うぞ」
「…………」
「なんだったら、俺がなんとかしてやろうか?」
「それは遠慮しておくよ」
「……即答かよ」
笑い合うふたり。
穏やかな風が吹き抜ける、そんな昼下がりのことだった。
部活前の音楽室。
今そこに、部長のともみ、副部長の寛、さらに顧問の菜穂子が顔を揃えていた。一様に真剣な表情をしているので、近寄りがたい。
「なるほどね、だいたいはわかったわ」
菜穂子は、そう言ってひと息ついた。
今行われているのは、定例の報告である。毎日部活に顔を出すわけではない菜穂子に、部活の状況を報告する。それにより菜穂子は少しでも現状を把握し、次のために備えるのである。
「今年は一年生が優秀で、先々が楽しみね」
「ええ、そうですね。これなら、全国も狙っていけます」
ともみは、少し声を上げて言った。
「ともみは全国体験組だったよな?」
「ええ、そうよ」
「実際はどうなんだ、今のうちのレベルは」
「そうね、現段階ではとうてい全国は無理だけど、県大会までになんとかなれば、十分狙えると思うわ」
「そうなんですか?」
寛は菜穂子に振る。
「その指摘は間違ってないけど、私はもう少し厳しいと思うわ。去年の大会を見ていればわかったと思うけど、県大会も関東大会も、確実にレベルが上がってるから。去年より少し上くらいのレベルでは、全国は無理ね。もっともっとどん欲に上を目指さないと」
「なるほど」
「もっとも、そのために練習を今以上に厳しくきつくするつもりはないわよ。現状のままで、個々人がもっと効率的に上達する方法を見つければいいだけだから」
「うへ、さすがは先生。厳しいですね」
寛は、明らかにイヤそうに言う。
「寛、あまりそういうこと言うと、ピンポイント攻撃されるわよ」
「おっと、それはもっと勘弁だな」
「あらぁ、寛は『カワイイ』生徒だから、もっともっと可愛がりたくなるのよね」
「せ、先生、冗談はやめましょうよ」
「ふふっ、さて、どうしようかしら」
笑う菜穂子とともみ。
「それはそうと、ともみ。ソロコンの準備は大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫です。去年の二の舞だけは、あり得ません」
「やけに自信満々だな」
「練習に裏付けされた自信だからね」
「さすがは部長様。お見それしました」
「でも、残念よね」
「なにがですか?」
ともみは、寛の足を思い切り踏みながら、訊いた。
「ともみがご執心の彼のこと」
「ご、ご執心って、先生……」
「あら、違ったかしら?」
「当たってます」
「寛っ!」
「へいへい」
寛は降参の意味を込めて、手を挙げた。
ともみも、菜穂子の前ということでそれ以上はなにもしなかった。
「冗談はそのくらいにして、実際残念でしょ、彼の不参加は」
「確かにそうですね。去年の中学部門、全国銀賞ですから。でも、本人の言い分はもっともですから、強制はできません」
「なんだっけ、練習不足な状況では満足な結果は残せそうにありませんから、出場はしません、だっけ?」
「よく覚えてるわね」
呆れ顔のともみ。
「期待のゴールデンルーキーだけに、先制攻撃でもしてくれるかと思ったけど、そこまで甘くはないわね」
冗談とも思えないことをさらっと言う菜穂子。
「大丈夫ですよ。奴にはともみがみっちり次々期部長としての基礎を叩き込んでますから。一高吹奏楽部は安泰です」
「ふふっ、そうなの?」
「別にそういうことはしていません。ただ、同じ中学出身なので、いろいろ手伝ってもらいやすいだけです」
「そういうことにしとこうか」
「寛、あんた私に恨みでもあるわけ?」
「全然」
「…………」
一触即発のふたり。
「こら、ふたりとも。そんなところで言い争わない」
「はい、すみません」
「申し訳ないです」
「彼の、高木圭太のことについてはリーダーの幸江とも話していろいろ決めるから。ふたりはそれぞれのパートのことと、この部全体のことを考えて。いいわね?」
「はい」
「はい」
「じゃあ、練習をはじめて」
「ただいま」
圭太が家に帰ると、奥から声が返ってきた。声の主は琴絵である。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
わざわざ玄関まで出てきた琴絵。
「今日は早いね」
「仕事を頼まれなかったから。そう言う琴絵だって早いじゃないか」
「うん、たまには休みも必要だってことで、早めに終わったの」
「なるほどね」
圭太はいったん自分の部屋へ。カバンを置き、着替えて戻ってくる。
リビングに顔を出す。しかし、琴絵の姿はない。
琴絵は、キッチンで夕食の準備をしていた。
「今日は琴絵が作るのか?」
「うん。とは言っても、下ごしらえはお母さんがしてたけどね」
言いながら、手際よく調理を進めていく。
「ん……?」
と、圭太はなにかに気付いたようだ。
そのまま琴絵の側に寄る。
「ちょっとそのまま」
「えっ……?」
圭太は、琴絵の額に手を当てた。
「少し、熱っぽいな。体、きついんじゃないか?」
「ううん、大丈夫だよ」
「でもな、琴絵──」
「お兄ちゃんは心配しすぎなの。私だって自分の体のことくらいわかってるもん。調子の悪い時は無理なんてしないし」
「……それが一番信用できないんだけどな」
そう言って圭太はため息をついた。
前科があるため、琴絵もなにも言い返せない。
「まあ、そこまで言うならいいけど。でも、今日は早めに寝るんだぞ」
「うん、わかってるよ」
笑顔で頷く琴絵。
圭太はやはり心配げな様子だった。
「八度」
琴美は、体温計を確認し、そう言った。
次の日の朝、琴絵が熱を出した。前日、圭太が心配したことが現実のものとなった。
琴絵は体が丈夫ではないので、こうして熱を出すことも珍しいことではない。ただ、最近はそういう回数も減っていた。
「じゃあ、学校に連絡してくるから、おとなしく寝てるのよ」
「はぁい……」
琴美はそう言って部屋を出た。
リビングにある電話で中学校の方に休む旨を伝える。ちょうど琴絵の担任がいたために話は簡単に済んだ。
電話が終わるのとほぼ同時に、圭太が店の方から戻ってきた。
「ダメ?」
「八度よ」
「だから昨日言ったのに」
圭太はため息をついた。
「学校には連絡したし、今日は一日しっかり休んでもらうわ」
「そうだね。幸い、明日は土曜で休みだし。この週末をかければいくら琴絵でも完治するだろうし」
「だといいけど」
圭太と琴美は、簡単に朝食を済ませた。
それから圭太が琴絵に朝食を運んだ。
「大丈夫か、琴絵?」
「あ、うん、平気だよ、お兄ちゃん」
琴絵は、少し弱々しい笑みを浮かべる。それが、あまり大丈夫ではないことを如実に表していた。
あまり食欲のない琴絵に無理矢理朝食をとらせ、薬を飲ませる。
「……ごめんね、お兄ちゃん。また、こんなになっちゃって」
「そうだな。昨日あれだけ言ったのに、結局はこうなって」
「あうぅ〜……」
「でも、琴絵の気持ちもわかるから。だけど、今度からはもう少ししっかり自己分析しないとな」
「はぁい……」
非は完全に琴絵にあるため、今は圭太の言うことに従うしかない。
とはいえ、圭太も必要以上に責めることはしない。それは、琴絵がちゃんとわかっていると判断しているからだ。
「じゃあ、今日は一日、おとなしく寝てなきゃダメだからな」
「うん」
圭太は、優しく琴絵の頭を撫でた。それだけで琴絵の表情がほわわ〜んとなる。
「さてと、そろそろ行かないと」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「いってらっしゃい」
「いってきます、琴絵」
進度の速い高校の授業に、そろそろついていけなくなる生徒が出る頃。五月病なんて言葉もあるが、そういうものの要因のひとつかもしれない。
とはいえ、それは甘えでしかなく、自己管理ができ信念さえあれば、五月病などになりはしない。
一高でも、そういう五月病まがいの怠け者がいた。もっとも、そんなことも言っていられなくなるのは、火を見るよりも明らかだった。
「そうなんだ、琴絵ちゃんがね」
休み時間、少し元気のなかった圭太に、柚紀が理由を訊ねた。
「まあ、心配することもないとは思うけど」
「でも、優しいお兄ちゃんとしては、気が気ではない、と」
「うっ、ま、まあ、そうなるのかな?」
「ふふっ」
「ふたりでなに話してるの?」
「美由紀」
声をかけてきたのは、同じクラスで吹奏楽部でもある市原美由紀である。
「圭太の妹さんのこと」
「そうなの?」
「まあ、そんなとこかな」
圭太は曖昧に答えるだけだった。
「熱を出して学校を休んでるんだって。で、シスコンお兄ちゃんとしては、いてもたってもいられないくらい心配で」
「ゆ、柚紀……」
「なるほど。シスコンお兄ちゃん、ね」
美由紀はクスクスと笑う。
「でも、実際はシスコンお兄ちゃんよりも、ブラコンな妹さんの方が問題だったりするんだけどね」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、柚紀は苦労しそうだね」
「えっ……?」
「だって、将来は、ねぇ」
「み、美由紀っ!」
「あはは、冗談よ、冗談」
「それは大変」
放課後。
部活の時にも圭太の、いや、琴絵のことは話題に上った。それはもちろん、琴絵のことを知っている者が何人もいるからである。
「終わったら、お見舞いに行かないと」
そう言うのはともみである。
「別に先輩がそこまでしなくても……」
「なに言ってるのよ。琴絵ちゃんは、妹みたいなものなんだから。『姉』としては行かないわけにはいかないでしょ?」
「はあ……」
そして、部活終了後。
圭太は、柚紀とともみと一緒に帰っていた。
「ねえ」
圭太の少し後ろを歩いていたともみが、柚紀に声をかけた。
「なんですか?」
「圭太のこと、本気なの?」
いつもより幾分硬い表情で、ともみは訊ねた。
「……はい」
柚紀は、はっきりと頷いた。
「そっか。柚紀も気付いたわけね、圭太の良さに」
なるほどね、と頷くともみ。
「圭太のこと、好きだった子は本当に多いのよ。まあ、本人があの通りの性格だから、そのどれも上手くはいかなかったけどね」
「先輩は、どうなんですか?」
「私? 私もそのひとりかな? ただ、私の場合は圭太とのつきあいが少し短いから。その分客観的に見られるけど」
ともみは、そう言って苦笑した。
「でも、正直失敗したわね」
「なにがですか?」
「ほら、歓迎会のこと。あれでしょ、ふたりの関係を変えたのは」
「確かにそうだと思いますけど」
「だとしたら、私は自分で自分の首を絞めたことになるわけよ。これまでで最強のライバルが現れたわけだし」
「別に私は……」
「いいのいいの。そういうのに時間とか、早いとか遅いとかなんて関係ないし」
笑うともみだが、少し淋しそうである。
そんなともみの心情を察してか、柚紀はあえて自分からはなにも言わなかった。
「だけど、柚紀の存在って大きいみたいね」
「どういう意味ですか?」
「確かに圭太は誰に対しても男女問わずに均等に接するけど、柚紀だけは特別扱い、VIP待遇だもの。これは嫉妬とかそういう以前の問題だわ」
そう言って圭太を見る。
「まあ、なんにしても、これから先のことは圭太次第だと思うけどね。あの頑なに人を拒む部分をなんとかしない限りは、どうにもならないだろうし」
「そう、ですね」
「それと、私だって別にあきらめたわけじゃないわよ。それに、圭太を落とすにはその外堀もちゃんと埋めないといけないし。その点では私の方が一歩、有利だと思うし」
「そのあたりは、今後の追い上げで」
「ふふっ、そうね」
恋のライバルは、そう言って笑い合った。
「じゃあ、琴絵ちゃんによろしくね」
「はい」
「また明日ね、圭太」
「うん」
玄関で柚紀とともみを見送る圭太。
結局、お見舞いはそれほど長い時間はできなかった。もともと時間が遅いこともあったが、琴絵が睡眠を欲していたからである。
病気の時に眠ることは一番の良薬なので、ふたりとも無理に残ろうとはしなかった。
ふたりを見送った圭太は、琴絵の部屋に戻った。
「……ん、お兄ちゃん……?」
「起こしたか?」
「ううん、目、閉じてただけだから」
「そっか」
圭太はベッド脇に座った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「ともみ先輩も柚紀さんも、いい人だよね」
「ああ」
「ふたりとも、お兄ちゃんのこと、好きなんだよね?」
「……ああ」
「そっか……」
それを確認すると、琴絵は黙ってしまった。
沈黙が部屋を覆う。
時計の針の音が、やけに耳に付く。
「お兄ちゃんは、誰に遠慮してるの?」
「えっ……?」
「私? それとも、お母さん? もしそうなら、ちょっと悲しいかな」
琴絵は、真っ直ぐ天井を見つめ、言葉を紡ぐ。
「それって、私もお母さんも、お兄ちゃんの重荷になってるってことだよね? それはやっぱり悲しいよ。もちろん、そうなってる原因が私にもあるのはわかってるけど。でも、お兄ちゃんはもう少し自分のことをやってもいいと思うの。じゃないと、一生このままだと思うから」
琴絵の言葉は、とても重かった。そのひとつひとつに、兄である圭太への想いが感じられる。
だが、今の圭太には重すぎる言葉でもあった。
「これはね、妹からのお願い。もう少し、自分を大切にしてね」
「……まったく、琴絵にここまで言われるとは」
「ふふっ、私だって成長してるんだもん」
「そうだな」
ようやく圭太の顔にも笑顔が浮かんだ。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「それで、今は誰が優勢なの?」
「それは、ナイショだよ」
「ええ〜っ、どうして〜?」
「心配しなくても、琴絵にはちゃんと教えるから」
「ホントだよ? 約束だよ?」
「ああ」
圭太は笑顔で答え、琴絵の頭を撫でた。
少しだけ、圭太の顔から迷いが消えたのは、気のせいではないだろう。
三
週が明け、二年が修学旅行から戻ってきた。とはいえ、実際に学校へ出てくるのはその二日後。間に土日を挟んでいたために、振り替え休日があるのだ。
そんな二年のことなどお構いなしに、三年は残りわずかな受験までの期間を必死になりはじめる頃。一年は少しでも早く生活に慣れる頃。それぞれにそれぞれのやるべきこと、やらなければならないことがあった。
それは勉強の面だけではない。それぞれが所属している部活でも同じだった。
そういう雰囲気が学校全体を覆う頃が、今の時期である。もっとも、本気になるのはまだ先のことではあるが。
「あ〜、次の問題を……佐藤」
「あっ、はい」
一年一組。今は数学の授業が行われている。
皆、一様に真面目に受けている。特に一組には入試の際トップ合格した生徒がいるためか、教師陣のやる気も多少ではあるが違った。
「この問題は……」
チョークと黒板が擦れ合う音が、微妙なテンポを持って耳に入ってくる。
さらに、窓際の生徒には陽差しが心地良く、天然の布団のようで、確実に眠りの世界へと誘う。
そんな生徒を見つけると、たいていの教師は目の敵のように指名してくる。
「よし、次の問題から三つを、小林。おまえ、やってみろ」
「ふぇ……」
「おはよう、小林」
「あっ、はい、おはようございます」
「よく眠れたかね?」
「あっ、いえ、その……」
「問い十三から三つ、やってみろ」
「は、はい」
哀れ、標的となった生徒はしどろもどろに答え、それが当たっていれば軽い注意で済むが、間違えればお小言が待っている。それどころか、『個人指導』のおみやげをくれる教師もいる。
そんなこともありつつ、授業は終わった。
「圭太、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「えっと、ここじゃなんだから、ちょっと廊下に」
圭太は、柚紀に伴われて廊下へ出た。
「どうしたの?」
「あ、うん、たいしたことじゃないんだけどね」
そう言いながら、柚紀はすぐには切り出さない。
廊下を多くの生徒が行き交う。たまに、知った顔も行く。
それでも一組は一番端にあるため、ほかの組よりもましだろうか。
「今週の日曜、空いてる?」
「日曜? うん、部活以外はなにもないけど」
「じゃあさ、部活が終わったあと、うちに来てくれないかな?」
「柚紀の家?」
「うん」
柚紀は、躊躇いがちに頷いた。その表情は少し硬い。
「それは別に構わないけど、理由、聞かせてくれる?」
「それを話すにはちょっと時間が足りないから、昼休みにいいかな?」
「うん」
そして昼休み。
圭太と柚紀は、屋上にいた。
普段から開放されている屋上ではあるが、ここの生徒はあまり有効活用していない。まあ、むき出しのコンクリートの屋上では、することなど決まってしまうのもその理由のひとつだろうが。
従って、静かに過ごしたい時などは、屋上は格好の場所だった。
「実はね、ちょっと困ったことがあって」
「困ったこと?」
柚紀は、そう言って理由を話し出した。
「うん。あっと、その前に、うちの家族構成は話したことあったっけ?」
「ない、かな?」
「うちは、両親と三つ年上のお姉ちゃんの四人家族なの。お姉ちゃんはこの春から大学に通ってるわ」
ごくオーソドックスな家族構成である。
「それで、困ったことの原因を作ったのが、お父さんとお姉ちゃん。お姉ちゃん、大学に入ってからそれまでの鬱憤を晴らすようにいろんなことしてるの。で、これは別に大学からってわけじゃないんだけど、大学に入ってから本格的にと言った方が正しいかな。それまでも近い関係だったんだけど、その、彼氏を作ってね」
「それは、いいことなんじゃないの?」
「それ自体はね。私だってお姉ちゃんがいいなら、なにも言うつもりはないし。だけど、それだけじゃなかったから困ってるの」
柚紀は、ため息をついた。
「たまにその彼氏をうちに連れてくるんだけど、その時にたまたまお父さんがいてね。私に言ったのよ。柚紀には彼氏はいないのか、って」
「…………」
「いつもならそう言われても適当に答えて終わりなんだけど、その時はお姉ちゃんまで一緒になっちゃって。それで話の展開から、そういう人くらいいるんだから、ってことになっちゃって」
「つまり、その『彼氏』を僕にやってほしいと」
最後の部分は、圭太が言った。その顔には、半分くらいあきらめの表情が浮かんでいた。
「お願いっ、一日だけだから」
柚紀は、手を合わせ、圭太に頭を下げた。
圭太は一瞬困った顔を見せたが、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「ほかならぬ柚紀の頼みだからね、うん、いいよ」
「ホントっ」
パッと顔を輝かせる柚紀。
「ありがと〜、圭太。このお礼は必ずするから」
「それは気にしなくていいよ。ボランティアみたいなものだし」
「でも、それじゃ私の気が収まらないから」
「じゃあ、そうだね、こういうのはどうかな?」
「なになに?」
「来週にでも、昼食をおごってくれるっていうのは」
「それでいいの?」
「うん」
圭太は、何気なく頷く。
しかし、柚紀はそれには不満があるらしい。
「……わかった。お弁当作ってくる」
「えっ……?」
「ほら、前にサンドウィッチをごちそうになったでしょ? あれのお礼の意味も込めて。これでもね、料理は得意なんだから」
そう言ってグッと拳を握る。
「うんうん、これで契約完了。あとは当日ね」
柚紀は嬉しそうに頷き、圭太は少し複雑な笑みを浮かべていた。
その日の夜。高城家の夕食。
「母さん。ひとつ、頼みがあるんだけど」
「頼み?」
食べ終わり、食後のお茶を楽しんでいたところで、圭太がそう切り出した。
「なにかしら、圭太が改まって頼みだなんて」
「日曜日なんだけど、午後の手伝いを免除してほしいんだ」
「それは別に構わないけど、どうして?」
琴美だけでなく、琴絵も気になるらしい。手がすっかり止まっている。
「人助け、かな」
「人助け? 誰の? ひょっとして、笹峰さん?」
「うぐっ、鋭いね、母さん」
「あら、本当にそうなの?」
琴美は、少し嬉しそうに笑った。
「デート?」
「違うよ。人助け」
「似たようなものだと思うけど。ねえ、琴絵?」
「あっ、うん、そうだね」
「琴絵まで……」
圭太は、思わず頭を抱えた。
自分の母親の性格を把握しきれていなかったことを悔やみ、同時にあきらめにも似た感情が起こっていた。
「でも、圭太」
「うん?」
「ずいぶんとご執心みたいだけど、その気はないの?」
「……彼女にってこと?」
「親バカだって言われるかもしれないけど、圭太はその辺の同い年の子よりも、絶対にお買い得だと思うのよね。なのに、今までそういう浮いた話が出ないっていうのは、ちょっと淋しかったわ」
よよよ、と泣き真似をする琴美。
「でも、それももうすぐ終わるのかしらね。どう思う、琴絵?」
「お兄ちゃん次第だと思うけど」
「あら、琴絵はずいぶんと状況を理解してるみたいね」
「なんとなくだけどね。それと、柚紀さんならお兄ちゃんを変えてくれるかなって」
「ふ〜ん、琴絵がそこまで認めてるとは。これは、ひょっとするとひょっとするのかしらね」
琴美は、本当に嬉しそうである。
「圭太。なにをするのかは知らないけど、しっかりやるのよ」
そして日曜日。
その日は、朝から綺麗に晴れ渡っていた。ほぼ快晴と言ってよい。
風も強くなく、穏やかな日和だった。
もうあと半月もすれば梅雨がやってくる。そうなるとこのような晴れ間はほとんどなくなる。今は、このさわやかさを目一杯堪能するべきなのだろう。
その日の部活は、十二時過ぎに終わった。そろそろ三年は模擬試験などが活発になり、部活を休む部員も出てくる。その分は個々人の責任で補うのだが、合奏などはそういうわけにはいかない。できるだけ全員が揃っている時にやらなければ意味がない。
しかし、その日は数人の欠席があったために合奏はなかった。そのために早めに終わったのだ。
圭太と柚紀は、早々に学校を出た。
圭太はいつも通りだったが、柚紀は幾分緊張気味だった。
日曜の昼下がりということで、バスは空いていた。ふたりは、後ろの方に並んで座った。
「どれくらいかかるの?」
「このくらいの交通量なら、二十分くらいかな?」
窓の外を見てから答える。
確かに付近でも一番の大通りでも、日曜ということで交通量は少なかった。ひっきりなしに車は通っているが、詰まってしまうほどではない。
「…………」
「…………」
肩が触れるか触れないかの微妙な距離。バスが曲がると、肩が触れる。
柚紀は、少し俯き加減に窓の外に視線を送っている。とはいえ、どこかを見てるとか、なにかが気になるとか、そういうことではない。ようするに、気恥ずかしいのである。
ほとんど会話を交わさないまま、バスはふたりが降りる停留所に着いた。
圧縮空気でドアが閉まる。少し重めのエンジン音を響かせ、バスが走り去っていく。
「こっちだよ」
そう言って柚紀が先に立って歩き出した。
そのあたりはいわゆる住宅街で、建て売り住宅が整然と建ち並んでいた。慣れない人がひとりでここに来たら、確実に迷うだろう。
あそこの角の家、あの電柱、そんな風に目印を決めることができない街並み。もちろん完全に同じことはないので、区別はつけられるだろう。でも、それは住人くらいだ。
圭太は、あちこちに視線を飛ばし、街並みを確認している。しかし、あまり芳しくないようである。
「よく迷わないね」
「ああ、この街並みのこと? うん、さすがにもう慣れたかな。ここに引っ越してきた頃はしょっちゅう迷ってたけどね」
「あれ、柚紀ってもともとここに住んでたわけじゃないんだ」
圭太は意外そうに言う。
「前はここからもう少し都心に近いところに住んでたの。でも、私が小学五年の頃にここに引っ越してきて」
「そうなんだ」
バス停から十分ほど歩いただろうか。建て売りの街並みに一軒の家が視界に入ってきた。
「あそこの青い屋根の家がうち」
柚紀はそう言ってその家を指さす。
幸い近くに青い屋根の家はないために、圭太もすぐにわかった。
木造の二階建て。家屋の前には庭もある。典型的な建て売りの形だった。
門のところには、木で造られた表札がかけられていた。
「ふう……」
ドアノブを回す前に、柚紀は息をついた。
「大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫。それより、上手く口裏を合わせてね」
そう言ってドアを開けた。
「ただいま〜」
「おじゃまします」
と、ほぼ同時にすぐ側のドアが開いた。
「やあやあ、いらっしゃい」
現れたのは、にこやかな笑みを浮かべた男性。柚紀の父、光夫である。
「……お父さんは」
柚紀はこめかみを押さえた。
「はじめまして。高城圭太です」
「やあ、これは丁寧に。まあ、堅苦しいのは抜きにして、さあ、上がった上がった」
光夫はそう言って圭太を促す。圭太は柚紀を見たが、柚紀は力なく頷くだけだった。
「ほら、柚紀。さっさと着替えてきなさい」
「はいはい、わかりました」
靴を脱ぎ、階段を上がっていく。
「あっ、お父さん。余計なこと、言わないでよ」
しかし、階段の上から釘が刺された。
「まったく、口うるさいのは誰に似たんだか」
「誰でしょうね」
突然の声に、光夫は見ている方が可哀想に思えるくらい驚いていた。
「い、いや、その、なんだな。ははは、もう準備はできているのかな?」
光夫は適当に誤魔化し、さっさと行ってしまった。
「ごめんなさいね、騒々しい人で」
そう言うのは柚紀の母、真紀である。
「いえ、気にしていませんから。あと、高城圭太です」
「はい、ご丁寧にどうも。さ、こっちへ来て。お昼、まだでしょ?」
「はい」
真紀は圭太をダイニングに案内する。
そこにはテーブル狭しと料理が並んでいた。それだけで力の入れようがわかる。
「上着を貸してちょうだい」
「すみません」
圭太は上着を脱ぎ、真紀に渡した。
「さあ、座って」
圭太は言われるままに席に着いた。
「咲紀、残りのものを持ってきてちょうだい」
「は〜い」
キッチンの方からもうひとりの声が返ってくる。それがこの笹峰家の長女、咲紀である。姉妹ということで、やはり相当の美人である。
と、パタパタとスリッパの音が上から聞こえ、そしてダイニングに入ってきた。
「お父さん。余計なこと言ってないでしょうね? 圭太、なにもされなかった?」
柚紀は、入ってくるなりそう言った。
「柚紀。おまえは自分の父親をなんだと思ってるんだ?」
「前科がある人は黙ってて」
「うぐっ……」
柚紀がこれだけ強く出ることは、少なくとも学校ではない。圭太も、柚紀の意外な一面を見て少なからず驚いているようである。
「ほら、柚紀も座りなさい」
「そうそう、さっさと座る」
真紀と咲紀に言われ、柚紀も渋々座った。
そして、全員が食卓に着いた。
「では、改めて。私が柚紀の父、光夫だ」
「真紀です」
「姉の咲紀よ。よろしくね」
「あ、はい」
改めて言われると、どんな者でも恐縮するものである。圭太もご多分に漏れずそうであった。
「聞きたいことなどはたくさんあるが、まずは食事にしよう」
「遠慮しないでどんどん食べてね」
真紀は、おしぼりを渡しながらそう言った。
圭太はそれで手を拭き、それから箸を手に取った。
「じゃあ、いただきます」
「はい、どうぞ」
圭太の一挙手一投足に視線が集中する。
圭太は、内心苦笑しながらまずはサラダに手を伸ばし、口にした。
「どう?」
訊ねたのは咲紀。どうやら、それの担当は彼女らしい。
「美味しいです」
「よかったぁ、妹の彼氏の前で恥かかなくて」
咲紀はそう言って自分も食べはじめた。
しばらくは何気なく会話をしつつ、食事を優先させていた。
もちろん、柚紀の目が常に光っているために、光夫も滅多なことは言えなかったが。
それでも、食事も終わる頃には光夫の好奇心も限界に達していた。ただ、それは光夫だけではなく、真紀や咲紀も同じだった。
まあ、娘の、妹の『彼氏』がどんな男か見極めたいと思うのは、ごく自然なことではある。
「柚紀から聞いたのだが、家は喫茶店をやっているそうだね」
まずは当たり障りのないところから。
「はい。バス通りに近いところで、『桜亭』という喫茶店です」
「なるほど、『桜亭』か」
おそらく光夫の頭の中では、いつ『桜亭』へ行くか、その算段がはじまっていることだろう。
「お店の手伝いも?」
「ええ。うちは母子家庭なので、母の負担を少しでも軽くするために、手伝っています」
「そうか、母子家庭なのか。兄弟は?」
「妹がひとり。中学二年です」
「じゃあ、三人で?」
「いえ、普段は学生のアルバイトの人が入ってくれていますから」
「なるほど」
光夫は、妙に感心したように頷いている。
「ねえ、訊いてもいいかな?」
と、咲紀が割り込んできた。
「なんで柚紀を選んだの?」
今度は、いきなり核心を突いた質問だった。これには柚紀も驚いたが、ここで余計でことを言えば、計画のすべてがパーになる。なんとか堪える。
「そうですね、なんて言ったらいいかわからないですけど、きっと、柚紀が柚紀だったからだと思います。今の僕に一番あっていたのが、柚紀だったんだと、そう思います」
圭太は淀みなく答える。
「どこを気に入ったの? 性格? 顔? 体?」
「お、お姉ちゃん」
「別に、どこというところはありません」
柚紀の心配をよそに、圭太はまたもなんの躊躇いもなく答える。
見ている柚紀の方が驚いているくらいだ。
「どこから好きになったのかもわかりませんし、最後にどこを好きになったのかもわかりません。ただひとつだけ言えるのは、やっぱり柚紀だから、ということです」
「もし、柚紀よりも君にぴったりな女の子が現れたらどうする?」
「それは、その場に立たないとなんとも言えません。でも、現状ではそういう子が現れてもその子を選ぶことはないと断言できます」
「圭太……」
少し、柚紀の目が潤んでいるようにも見える。
「なるほどね。よ〜くわかったわ。ね、お母さん?」
「ええ、そうね。柚紀にはもったいないくらい、しっかりとした男の子だわ」
「うんうん。あたしにもあいつがいなければ、横取りしたくなるくらい」
笑う咲紀。あまり冗談にもなっていないが。
「柚紀。あんたにこれだけの心眼があったとは、十五年間姉をやってきたけどわからなかったわ」
「なんか、それってひどい言い草」
むくれる柚紀。
「とにかく、これでお父さんもお姉ちゃんも満足したでしょ?」
「まあ、ウソではなかったことはわかった」
「……そんなに認めたくないわけ、お父さん?」
「うっ、まあ、その、なんだな。そうそう、ここを片づけてる間、私と少し話そうじゃないか。男同士じゃないと話さないこともあるだろうからな」
そう言って光夫は、さっさと圭太を連れ出した。
「あっ、逃げた」
「もう、お父さんは」
「いいじゃないの。お父さん、よっぽど嬉しいみたいだし」
「喜んでくれるのはいいんだけど、なんか釈然としない……」
「ほらほら、柚紀も咲紀も片付け手伝って」
「はぁい」
圭太が光夫から解放されたのは、それなりの時間が経ってからだった。それでも渋る光夫を、柚紀が無理矢理引きはがしたくらいである。
今は、適当な理由をつけて柚紀の部屋にふたりだけでいる。
「本当にごめんね」
「ううん、別に気にしてないよ。それに、この話を受けた時からある程度は覚悟してたからね」
そう言って圭太は微笑んだ。
「でも、お父さんもお母さんもお姉さんも、みんないい人だね」
「お母さんはそうだと思うけど、お父さんとお姉ちゃんはどうかな?」
「柚紀がこの家でどれだけ想われてるか、わかった気がする」
「そんなもんかな?」
いまいち理解に苦しむ柚紀。
だが、その話を続けても当事者と第三者とではそう簡単に意見の一致を見ることはできまい。
それもあってか、柚紀は話題を変えた。
「そういえば、お父さんやお姉ちゃんの質問にすごく上手く答えてたね」
「ある程度は想像通りだったから。それをそのまま口にしただけ」
「私のことも?」
「あれは、僕の本心に近いかな。前もって考えてたわけじゃないよ」
そうなると、圭太の気持ちは限りなく彼氏彼女のそれに近いということになる。
ゴールデンウィークの頃に比べて、格段に進歩している。
「……ねえ、圭太」
「ん?」
「いっそのこと、このまま本当に──」
と、そこへ真紀の声。
「柚紀。少し手伝ってちょうだい」
「ええ〜っ、今日はお姉ちゃんがいるでしょ?」
「彼氏の前で、できるところを見せなくていいの?」
「うっ、そ、それは……」
「ほらほら、さっさと手伝う」
「はぁい」
柚紀は渋々手伝いに行った。
それと入れ替わりに、真紀が部屋に入ってきた。
「圭太くん。今日は本当にありがとうね」
「あの、いったいなんのことを──」
「圭太くんと柚紀、本当はまだそういう関係じゃないんでしょ?」
「えっ……?」
「なんとなくだけどね、わかるのよ、そういうの。あの人や咲紀は、わかってないと思うけど」
真紀は、穏やかな口調で続ける。
「柚紀のためにわざわざ『彼氏』をさせちゃって、本当にごめんね」
「いえ、自分で決めたことですから」
「そう言ってもらうと助かるわ。だけどね、できればあまりこういうことはしない方がいいわ。お互いにどこかにわだかまりが残るだろうし」
「はい」
「もっとも、このまま本当に柚紀の彼氏になってくれるのなら、そんなこと言わなくてもいいんだけどね」
「それは……」
「ウソウソ。そんなこと突然言われても困るわよね。そういうことは、もっとしっかりと考えてからでいいわ。ただ、その時にうちの愛娘を選んでくれれば、言うことなしだけどね」
そこには、ひとりの母親の想いが込められていた。
娘を心から愛し、その幸せを願う母親。親バカだと言われるかもしれないが、それが親というものだろう。
子供に無関心になるくらいなら、少々親バカな方がよっぽどましである。
「うちの柚紀、お買い得だと思うから、よく考えてみてね」
そう言って真紀は部屋を出て行った。
「……本当の彼氏、か……」
圭太はそう呟き、天井を仰いだ。
結局その日は、夕食も共にした。
名残を惜しむ光夫に再訪の約束をさせられ、ようやく解放された圭太。
そして、今はバス停への道を柚紀と歩いていた。
「今日は本当にありがとう。約束通り、明日からお弁当作っていくから」
「あっ、うん」
「……どうしたの?」
どこか上の空の圭太に、柚紀は覗き込むように訊ねる。
「柚紀のお母さんにね、いろいろ言われたよ」
「お母さんに?」
「今更だから言うけど、お母さんにはバレてたよ」
「えっ、ウソ?」
「本当だよ。ただ、そのことについてはなにも言われなかったけど」
「そっか……」
柚紀は小さくため息をついた。
「ほかにはなにを?」
「もうこういうことはしない方がいいって」
「あ、あはは、それは、うん、わかってる」
「あと──」
圭太は、大きく息を吐き、そして言った。
「できれば本当の彼氏になってほしいって」
「えっ……?」
それは、柚紀が真紀が来る前に言おうとしていたことでもあった。だからこそ柚紀は驚いたのだ。
「……なんて答えたの?」
「答えられなかった。中途半端なことも言えないし」
「そっか……」
「だけど、そのおかげで僕の中でなにかが変わった気がするんだ」
「変わった?」
「うん。たとえば、柚紀を本当の彼女にしたいと思うとか」
「えっ、今、なんて……」
「本当の彼女にしたい、とか」
圭太は、ゆっくりと繰り返した。
その言葉が柚紀の頭の中でちゃんと理解されるまで、数秒を要した。
「ウソじゃ、ないよね?」
「うん。ただ、ひとつだけ断っておかなくちゃならないことがあるんだ」
「それは?」
「僕のその気持ちも、ひょっとしたら一過性のものかもしれないってこと。今日はたまたま柚紀の家族と触れあったからそう思っただけで、実際はなにも変わってないかもしれない。それでもいいなら、ってこと」
きっと、そこにあるのはすべて真実だろう。だが、真実がすべてではない。
虚偽が真実を生み出すこともある。
「……圭太」
「ん?」
「キス、しよっか?」
「えっ……?」
「もう一回してるんだから、今更でしょ?」
「だけど……」
「彼氏彼女の関係になってはじめてのキス。ダメ、かな?」
そう言って柚紀は、潤んだ瞳で圭太を見つめた。
いくら鈍い圭太でも、そこまで言わせては引き下がることなどできない。
なにも言わず小さく頷き、そして──
優しい月明かりの下、二度目のキスを交わした。