僕がいて、君がいて
 
第十一章「真冬の風と君の心」
 
 一
 成人式も終わり、正月から続いていた一連の行事もそろそろ終わりに近づいた。
 学校ではますます緊張感が高まり、一、二年も教師もその言動には細心の注意を払っていた。
 一高生でセンター試験を受ける生徒は、会場は一高となる。もちろん机の並びや試験監督なども違うが、それでも自分たちのよく知る場所で行えるのは有利な条件と言えるだろう。
 ただ、そのせいで一高には生徒はおろか、教職員ですら立ち入り禁止となる。それが行われるのが本番前日の十五日夕方。そこからセンター試験担当の人たちが、総出で準備に追われる。
 まったくの立ち入り禁止になるため、当然のことながら部活も中止である。熱心な部では外で練習をするところもあるが、基本的には休みとなる。
 本来なら吹奏楽部もそうなのだが、今年はアンサンブルコンテストの県大会と日程が重なり、そうはいかなくなっていた。特に問題となったのは、金管五重奏のチューバ、打楽器五重奏の楽器だった。
 結局、菜穂子が手配したライトバンにそれを積み込み、本番に会場へ、ということになったが。
 そんなことがありつつ、アンサンブルコンテスト県大会当日を迎えた。
 
 一月十六日。
 県大会は、コンクールと同様に県民会館で行われる。使用されるのは、小ホール。県内各地の大会を勝ち抜いてきた組が、地方大会への出場権をかけて演奏する。
 一高の三つの組の順番は、地区大会と同じ打楽器、金管、クラリネットだった。
 もっとも、この順番は基本的には全国大会まで変わらない。
 圭太たちは県民会館に集合し、それぞれの順番を待った。
 バラバラな順番のために、時間の管理はそれぞれに任されていた。
 演奏は順調に進み、一高の順番が来る。
 まずは打楽器五重奏。注目度は当然高く、人間である審査員もそれなりの目で見、耳で聴く。
 演奏自体は当然地区大会以上のものだった。
 ただ、それが即地方大会進出に繋がらないのが、アンサンブルコンテストのつらいところだ。それは、参加している組が多く、その割に進出枠が少ないということに起因している。
 とはいえ、それは決まり事なので文句は言えない。あとは、全力で演奏するのみである。
 順番的に、金管五重奏は午前中のほぼ最後となった。
 もともと完成度の高かった演奏に、よりいっそうのクオリティが加わっていた。
 前評判的にも彼らの評判は高く、当然関東大会進出の最右翼と目されていた。
 午後の早い時間にクラリネット四重奏の順番が来た。
 地区大会の時は最も危なかったクラリネットだったが、そこはさすがというべきか、きっちり仕上げてきた。
 地区大会を五十とするならば、県大会の演奏は軽く百を超えていた。
 金管五重奏には及ばないまでも、打楽器とはかなりいい勝負だった。
 その日のプログラムでは、高校の部が最初に組まれ、閉会式まで多少の時間があった。
「はあ……」
「ふう……」
「ほお……」
 圭太、柚紀、祥子は適当な理由をつけて県民会館を抜け出していた。本来なら演奏を聴いているべきなのだが、三人にはそれ以上に気になることがあった。
「先輩、どうですかね」
「先輩のことだから、大丈夫だとは思うけど」
「でも、意外なことをするのが、あの先輩だと思いますけど」
「はあ……」
「ふう……」
「ほお……」
 さて、この『先輩』とは、もちろんともみのことである。
 現在進行形でセンター試験真っ最中のともみを、この後輩三人は心配していた。
「でも、私たちがここで心配していても、あまり意味がないのよね」
「まあ、それはそうなんですけど」
「なんとなく、気になりますよね」
「センター試験は明日もあるから、今日だけ心配してもしょうがないし」
 祥子はそう言って缶コーヒーを飲んだ。
「祥子先輩も、来年は同じ立場ですね」
「うん、そうね」
「先輩は、どこを受けようとか、もう決めてるんですか?」
「いくつか候補はあげてあるけど、もう少し考えてみようかと思って」
「やっぱり、そういうのっていろいろ考えないとまずいですよね?」
「うん、自分の将来のことだし。ひょっとしたら、それですべてが決まってしまうかもしれないしね」
「はあ、来年の今頃には私もそれくらい考えてないといけないですね」
 柚紀はそう言ってため息をついた。
「圭くんは、大学、どうするの?」
「まだわかりません」
「そっか、じゃあ、やっぱり行かない可能性もあるんだね」
「えっ、圭太、大学行かないの?」
 祥子の言葉に、柚紀は大声を上げた。
「別に行かないって決めたわけじゃないよ。ただ、大学へ行くにはお金もかかるし。ほら、うちは母子家庭だからそういう余裕はあまりないんだ」
「そっか……」
「母さんは気にするなって言うけど、少なからず高城家の家計と『桜亭』の売り上げを知ってると、それを素直には受け取れなくてね」
 圭太は、そう言って笑う。
「僕としては、別に無理して大学へ行こうとは思ってないから、余計そう思うのかもしれない」
「どうして?」
「ほら、前に言ったと思うけど、僕の夢は音楽喫茶だから。今の『桜亭』を僕なりに変えてもいいかなって思ってるんだ」
「圭くんが『桜亭』のマスターになったら、毎日コーヒー飲みに行くね」
「ははっ、気が早すぎですよ、先輩」
 笑う圭太と祥子をよそに、柚紀はなにやら別のことを考えているようだった。
 
 その日のすべての演奏が終わり、閉会式となった。
 県民会館小ホールには、演奏時よりも人が多かった。とはいえ、その大半が参加者なのだが。
 閉会式は講評からはじまった。審査員の評価は、全体的なレベルが例年になく高いというものだった。
 それから結果発表が行われた。
『県立第一高等学校、打楽器五重奏、金賞』
『県立第一高等学校、金管五重奏、金賞』
『県立第一高等学校、クラリネット四重奏、金賞』
 一高は、例年以上の結果を納めた。
『続きまして、二月に行われます関東大会に出場するのは──』
 
 一高吹奏楽部の面々は、ロビーに集まっていた。
 それぞれのリーダーの手には、金賞の証であるトロフィーがあった。
「みんな、おめでとう、よくがんばったわ」
 そこへ、満面の笑みを浮かべた菜穂子がやって来た。
「特に金管とクラリネットは、揃って関東大会だからね」
 結果として、金管五重奏とクラリネット四重奏は関東大会への出場を決めた。金管五重奏は県大会をトップで、クラリネット四重奏はなんとか最後の枠で。
 残念ながら出場を果たせなかった打楽器五重奏は次点だった。
「一高の歴史の中でも、アンコンでふた組も関東大会へ進出するのははじめてよ。しかも、金管は全国すら視界に入っているわ」
 普段は辛口な菜穂子も、さすがに興奮している。
「打楽器は残念ながらここで終わりだけど、それでもこの結果には胸を張っていいわ。基本的にアンコンは、人数の多いアンサンブルが上の大会へ出ることが多いけど、うちはそれをこの人数でここまでやったわ。それは、とりもなおさずこの人数でもやることさえやれば、ここまで来られる、それを証明したのよ」
 アンサンブルコンテストの全国大会は、基本的に人数制限ぎりぎりの八人の組が多い。これはやはり、音の厚みなどいろいろ理由がある。
 だが、もちろんそれがすべてではない。実際、三重奏でも全国大会へは出られるのだから。
「とにかく、今日はおめでとう。金管とクラリネットは来月の関東大会に向けて、これまで以上にがんばって。それじゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでした』
「ああ、そうそう。祥子、仁、圭太。少し話があるから」
 
 菜穂子は、三人とロビーの別の場所に移った。
「先生、お話とは?」
「これからの部活の方向性を決めようと思うの」
 菜穂子は、少し真面目な表情でそう言った。
「方向性ですか?」
「ええ。今の練習は基礎練習を中心に行っているわね」
「はい」
「もちろんそれは必要なことなんだけど、今年は少し変えようかと思うの」
「どういう意味ですか?」
「詳細はまだ決めていないけど、三月くらいに一年と二年対抗で演奏会をやろうと思うのよ」
「演奏会、ですか?」
「しかも、一年と二年対抗の?」
 さすがのことに驚きを隠せない三人。
「今の部員は四十人。しかも、一年、二年ともに二十人ずつ。人数的にはまったく問題ないわ」
「でも、先生。一年には、まだまだレベルの低いのもいますけど」
「そう、そこが一番の問題なのよ。だから、そこで評価基準をそれぞれ変えようと思うの。二年は単純にその完成度。一年は完成度はもちろんながら、下手な者がどれだけ努力したか、それも見るの。そうすれば、単に演奏の上手い下手では決まらないでしょ?」
「確かにそうですけど、それは、難しいと思いますよ」
 祥子は、やんわりと否定の意を伝えた。
「難しいのは十分承知しているわ。でも、基礎練習の繰り返しだけだと、どうしてもやる気がなくなってくるわ。だからって安易に曲をやっても意味はないし。そうなると、そこになんらかの意味を持たせて、さらに対抗心を煽ればいいのよ」
「つまり、先生はそれはもうやることに決まったから、俺たちに覚えておけ、そう言いたいんですね」
「ま、平たく言えばそういうこと。いいわね、祥子?」
「わかりました」
 祥子も、渋々ながら頷いた。
「それじゃあ、曲とかもう少し細かいことは、来週中にでもみんなに発表するから」
 
 県民会館からの帰り。
「先輩が先生に異を唱えたなんて、珍しいですね」
「今回はね。確かに先生の言ってたことは正しいと思う。でも、それのせいで基礎練習がおろそかになっちゃったら、本末転倒だと思ったの」
「そうですね。そうなる可能性は、特に僕たち一年に高いですね」
「うん」
「だけど、先生が曲まで決めるわけですから、そういう基礎的なものをカバーしたものになる可能性もありますよ」
 圭太はそう言って少々ネガティブになっている祥子を励ます。
「とにかく、今は先生がどんなことをするのか、様子を見ましょう」
「うん、そうだね」
 ようやく祥子にも笑顔が戻った。
 そんなふたりの様子を、柚紀は複雑な表情で見つめていた。
「どうしたの、柚紀?」
「えっ、別にどうもしないよ?」
 そう言いながらも、自然と目をそらしていた。
「圭くん。ほら」
 祥子は、圭太の背中を押した。
「先輩……?」
「ほら、圭くん」
 圭太を想う者同士、祥子も今の柚紀がどんな想いをしているか、それが痛いほどわかっていた。
「柚紀」
「……大丈夫だよ、圭太」
 そう言って柚紀は微笑んだ。
 そんな柚紀を圭太は優しく抱きしめた。
「ごめんね、柚紀。圭くん取っちゃって」
「いえ、先輩が謝る必要はないですよ」
「ううん、今の柚紀の気持ち、痛いほどよくわかるから」
「先輩……」
「圭くんのその場所は、柚紀の場所だから」
 そう言った祥子の顔には、ほんのわずかながら、淋しさがあった。
 ただ、それも本当にほんのわずかで、あとは、後輩ふたりのことを心から考えている優しい先輩の顔だった。
 柚紀は、そんな祥子の想いに触れ、もう少しだけそのままでいようと思った。
 
 二
 センター試験が終わり、大学入試はいよいよ最大の山場を迎える。
 受験生はセンター試験を自己採点し、次の日に学校や予備校で現状での自分の位置を知るために、予備校主催の判定に出す。
 この結果やセンター試験の平均点などを考慮し、最終的な志望校を決定する。
 センター試験の終わりは、同時に三年が自主登校になることを意味していた。これから先は、必要な生徒だけ学校で講習の形で学ぶ。これは、大学によって試験日程が違うことや、国公立を目指す生徒と私立を目指す生徒とでは、方法もまったく違うことからそうなっている。
 三年の教室は一日を通して静かになった。
 たまにどこかの教室で講習が行われるが、それも静かなものである。
 この頃になると三年を受け持つ教師は、別の意味でぴりぴりしてくる。もちろん教え子が志望校に合格するのが一番だが、それに伴う学校全体の進学率なども気にしている。特に一高は進学校で、しかもずっと進学率県内トップである。そのあたりを気にするな、という方が無理である。
 そうこうしているうちに、センター試験の平均点も発表になり、予備校から合否判定結果も届く。
 そして、間近に迫った国公立大学願書の締め切り。
 たいていの受験生は余裕を持ってそれを郵送する。しかも、その際はたいてい速達である。その方が、より確実だからである。
 いくら勉強してきても、願書が受理されず、受験できなくなっては意味がない。
 そんな締め切りを目前にし、圭太はともみに呼び出されていた。
「先輩、願書はもう出したんですか?」
「今日、ここへ来る前に出してきた」
「じゃあ、あとは本番を待つだけですね」
「ま、その前に滑り止めの私立もあるけどね」
 そう言ってともみは微笑んだ。
 ともみは、受験の疲れも見せず、意外に明るかった。
「それで、今日は僕にどんな用ですか?」
「ん〜、ちょっと一緒にいたくなってね。できれば夜にでも私の部屋に招待したかったんだけど、まあ、いろいろあるからそれは断念。で、この時間にここへ来たわけ」
 今は放課後。
 圭太は部活中に呼び出されたのだ。
「圭太はいいよね」
「なにがですか?」
「私に、受験はどうだったか、なんて訊かないから」
「本当は訊きたいんですけどね。でも、今訊いても意味がないですから」
 苦笑する圭太。
「だから、圭太と一緒にいたかったの」
「それは光栄です」
「調子に乗らないの」
 ともみは、めっ、と言って怒った真似をする。
「ねえ、圭太。ちょっと屋上に行かない?」
「屋上ですか? いいですけど、寒いですよ?」
「ちょっと、風に当たりたいの」
 それからふたりは寒風吹きすさぶ屋上へと上がってきた。
 天気はよいが、冷たい北風が吹いていた。春は、まだまだ遠い。
「ん、さすがにちょっと寒いわね」
 そう言ってともみは肩をすくめた。
「最近、柚紀とはどう?」
「問題はないですよ」
「それは残念」
「せ、先輩……」
「冗談よ」
 だが、一瞬前の表情を見れば、それが冗談ではないことがわかる。
「先輩、言いましたよね」
「ん、なにを?」
「柚紀が、僕の口から本当のことを聞きたいんじゃないかって」
「言ったわね」
「それで、すべて話しました」
「えっ、そうなの?」
「はい」
「……それで、柚紀はなんて?」
「許してくれました。代わりにいくつか約束させられましたけど」
「そっか……」
 ともみは、なんとも言えない表情を浮かべた。
「すでに抱かれたあとでこう言うのはなんだと思うけど、どうして圭太は私を抱いてくれたの?」
「先輩が好きだからです。最初は恩返しとかいろいろ考えましたけど、でも、僕は安田ともみという女性が好きですから。だから、その僕の想いを知ってもらうためにも、抱きました」
「なるほどね。じゃあさ、圭太」
「はい」
「もう一度、その想いを私に見せて……」
 そう言ってともみは圭太にキスをした。
「先輩……」
「ううん、今は、『ともみ』、でしょ?」
「ともみさん……」
「うん……」
 ふたりは、風と人目を避けるように陰に移動する。
「は、ん……」
 ついばむようにキスを交わず。
「圭太にキスされると、甘えたくなっちゃう……」
「甘えてください」
 そう言ってもう一度キスをする。
「ん、圭太ぁ……」
 途端に甘えた声で圭太に抱きつくともみ。
 その格好のまま、圭太はともみのスカートの中に手を入れた。
「んっ、いきなりなの……?」
「ここ、寒いですから」
「んもう、しょうがないなぁ……」
 やはり甘いともみである。
 圭太は、ともみの許しを得て、秘所をショーツの上から擦った。
「んっ、あっ、気持ちいいっ」
 寒さで敏感になっているのか、ともみはかなり敏感に反応した。
 すぐに指に湿り気を感じる。
 圭太はそれを確認し、ショーツを脱がせた。
 ついでにともみに壁に手をつかせ、後ろを向かせた。
「んっ、やんっ」
 少し足を広げさせ、圭太は直接を舌で舐めた。
「ああっ、圭太っ、気持ちいいっ」
 舌で舐めながら、一番敏感な部分を指で擦る。
「あくっ、んんっ」
 止めどなくあふれてくる蜜。
 さらに、ともみを支えている足も、次第に力が入らなくなってくる。
「け、圭太ぁ、私、もう我慢できないぃ」
 それに応え、圭太はズボンとトランクスを下ろし、屹立したモノをともみの秘所にあてがった。
 そして、そのまま一気に貫く。
「んああっ!」
 一気に体奥を突かれ、ともみは声を上げた。
「んんっ、あんっ、んあっ」
 圭太はともみの腰をしっかりとつかみ、激しく腰を動かす。
「んんっ、け、圭太っ、激しいよぉっ」
 だらしなく開かれた口から、ヨダレが垂れている。
「あふっ、んきゅっ、ああっ」
 ともみの足が、ガクガクと震えてくる。
 圭太はともみが落ちないようにしっかり支える。
「んっ、圭太っ、私っ、ダメっ、イっちゃうっ」
「ともみ、さんっ」
「んんんっ、ああああっ!」
 打ち付けられた圭太のモノから、大量の白濁液がほとばしった。
 同時にともみの中が、そのモノをギュウギュウと締め付ける。
 圭太がモノを抜くと、白濁液が数滴、屋上に落ちた。
「ん、はあ、はあ、はあ……」
「大丈夫、ですか……?」
「うん、大丈夫……気持ちよすぎただけだから」
 そう言ってともみは微笑んだ。
「でもね、圭太」
「なんですか?」
「今日は、ちょっと中はまずかったかも」
「えっ……?」
「まあ、大丈夫だと思うけど、その時は、よろしくね」
 あっけらかんと言うともみに、圭太は完全に色を失っていた。
「そんな顔しないの。たとえ生理の時にしたって、できない時はできないんだから。心配するだけ損よ。それに、ほら……んっ」
 ともみが少し力を込めると、中から少し白濁液が出てきた。
「あと……んっ、あっ」
 そして、最後に自分の指で少し中から掻き出す。
「んっ、はあ、これで、少しは安心できた?」
「ともみ、さん……」
「ほらほら、すぐそんな顔になる。大丈夫だって。私が保証するから」
「はい……」
 圭太は、すまなそうに小さく頷いた。
 それから後始末をし、ふたりは屋上をあとにした。
「圭太」
「はい」
「今度は、私の部屋でね」
 そう言ったともみの顔には、今日それまでで一番の笑みがあった。
 だからこそ圭太はなにも言わず、ただ微笑み返しただけだった。
 
 一月二十四日。
 その日の部活で、菜穂子から先日祥子たち首脳部に話した件について発表があった。
 それによって決められたことは、先の説明とほぼ同じだった。その上で双方ともに与えられた曲が──
「まさか校歌とは思いませんでした」
 圭太はそう言って驚きの表情を見せた。
 そう、菜穂子から与えられたのは、県立第一高等学校校歌であった。これにはさすがの部員たちも、あっけにとられていた。
 とはいえ、その校歌も普段演奏しているものとは少々違っていた。圭太が予想したように、基礎練習の意味合いも込め、アレンジが加えられていた。
「まあ、あの菜穂子先生のやることだから」
 祥子は、苦笑しつつ応えた。
「でも、今回のはさすがに驚いたわ」
「そうね。いきなり演奏会をやるなんて言われて、しかもその曲が校歌」
「これで驚かない奴がいたら、私はその方が驚きよ」
 部活は午前中だけだったために、終わってからもまだ何人もの部員が残っていた。
 そのうちの何人かが、圭太や祥子と同じ場所にいた。
「でもさ、結果についてはなにも言われなかったじゃない。あれって、どういうことだと思う?」
「さあ、どうだろ。結局は部員全員のレベルアップのためにやるんだから、勝ち負けはそれほど重要じゃないってことかな?」
「たぶん、それはないと思うわよ」
「なんで?」
「だって、そうするんだったら、わざわざ一、二年で対抗させる必要ないじゃない。それこそクジ引きとかランダムに組み分けした方がよっぽどだし」
「言われてみれば、そうよね」
「じゃあ、なにかあるってこと?」
「おそらく、勝った方にはなんらかの褒美が。負けた方には罰ゲームが」
「先生の考える罰ゲームかぁ」
「部活以外だといい先生なんだけど、こと音楽に関することになると、ちょっと人が変わるからね」
「ま、今ここで話しててもしょうがないじゃない。まだ、はじまったばかりだし。それに、三月にやるってだけで、まだいつやるってのは決まってないし。ひょっとしたら忘れて流れるかもしれないし」
「それはない」
「うん、あの菜穂子先生に限ってそれはない。きっとどこかにメモって、きっちりやってくるわよ」
「ということは、ここは打倒一年で、二年は一致団結しないといけないわね」
「そうね」
「そんなわけだから、圭太。あなた、本番休みなさい」
「えっ、どうしてですか?」
「そんなの決まってるじゃない。同じペットを比べたら、二年のふたりよりも一年のふたりの方が上だもの」
「あはは、ずいぶんはっきり言うじゃない」
「だって、ホントのことだし」
「まあね、それはそうなんだけど」
「でもさ、それよりもなによりも、私たちもちゃんとやらないと意味ないわよ」
「ふむ、それはそうね」
「んじゃま、明日から気合い入れていきますか」
 
「それにしても、結構大変なことになっちゃったね」
 部活からの帰り道、柚紀はそう言ってため息をついた。
「でも、それもこれも、みんな先生が僕たちのことを考えてのことだから」
 圭太は、そう言って菜穂子の考えを支持する。
「ま、それはわかってるんだけどね」
 部員全員がそれはわかっていた。ただ、あまりのことに少々困惑しているだけである。
 もっとも、それも菜穂子の計算のうち、かもしれないが。
「祥子先輩」
「ん、どうしたの?」
「これから、なにか用事とかありますか?」
「ううん、別になにもないけど」
 祥子は、首を振った。
「だったら、祥子先輩も圭太のうちへ行きませんか?」
「えっ、私も?」
「はい。どうですか?」
「う〜ん、そうだなぁ……」
 祥子は、圭太と柚紀の顔を交互に見て、考えている。
「じゃあ、一緒に行こうかな」
 そんなわけで高城家、圭太の部屋。
「それじゃあ、僕はなにか持ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
 ふたりを部屋に通し、圭太は一度部屋を出て行った。
「柚紀のそういう言動も、すっかり板に付いてるね」
「そうですか?」
「うん、どこから見ても圭くんの彼女だよ」
 そう言って祥子は微笑む。
「あの、先輩」
「うん?」
「先輩は、圭太とセックスしたんですよね?」
「えっ……?」
 一瞬、祥子の動きが止まった。
「圭太から聞いたんです」
「圭くんから……」
「はい。ただ、別にそうだからって先輩のことを責めようだなんて思ってません」
「どうして?」
「それは、先輩もそうですけど、圭太も、先輩に対して真剣な想いを持ってましたから。だからです。人の真剣な想いを否定できるほど、私は偉くないですからね」
 微笑む柚紀。
 そんな柚紀を、祥子は直視できなかった。
 抱えている想いはふたりとも同じである。だからこそ、柚紀は祥子を認め、祥子は柚紀を認めている。
 だが、そこに多少の差が生じている。それは、現在の立場の差である。柚紀はいわば圭太の『正妻』。祥子は『愛人』。
 その差が、特に祥子には大きく見えていた。
「先輩。変なことを訊いてもいいですか?」
「えっと、なにかな?」
「圭太とセックスして、気持ちよかったですか?」
「えっ、あ、うん……」
「イっちゃいましたか?」
「うん……」
 恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも、祥子はしっかり答えていた。
「でも、どうしてそんなことを訊くの?」
「やっぱり、気になるじゃないですか。本当は、もっといろんなこと訊きたいんですけどね。たとえば、今まで何回したとか、どんな格好でしたとか。それで、自分の時と比べてみたいんですよ」
 柚紀は、真っ直ぐ祥子の目を見て、そう言った。
「私は、圭太のことを想ってる誰にも負けてないと思います。それに、これから先もずっと負けるつもりはありません。ただ、圭太に必要なのは、私だけじゃないんです。それが、祥子先輩やともみ先輩なんです」
「圭くんに、必要な人……」
「先輩も気づいてると思いますよ。圭太が、いかに先輩のことを必要としてるかって。だから、先輩。少なくとももうしばらくの間は、圭太の側にいてあげてください」
「……いいの?」
「はい。彼女がいいって言ってるんですから、構いません。それに、セックスに関しても私は認めますから。圭太も先輩も、健康ですからね」
 そう言って柚紀は笑った。
 しかし、ただ、と言って続けた。
「私の見てる前では、あまりいちゃいちゃしないでくださいね。私、結構嫉妬深いんで。たまりかねて先輩を刺しちゃう、なんてことになりかねないので」
「……ごめんね、柚紀」
「いいんですよ」
「それと、ありがとう」
 祥子は、心からの笑みを、恋敵に向けた。
 そんな祥子に応えるように、柚紀も笑顔を見せていた。
 
 一月もそろそろ終わろうかという日の深夜。
 圭太は、尿意を催し、真っ暗な家の中をトイレへ行った。
 用を済ませて二階に戻ると、かすかな声が耳に届いてきた。
 二階にいるのは、圭太と琴絵のみ。そうすると、その声の主は琴絵以外には考えられない。
 圭太は、少し気になり、琴絵の部屋を見ることにした。
 ドアを開けようとすると、中からまた声が聞こえた。
 くぐもっていてよくはわからなかったが、その声は、嬌声にも聞こえた。
 そして、それを決定づけるようなことも聞こえた。
「……ん、お兄ちゃん……気持ち、いいの……」
 そう、琴絵はひとりでしていたのだ。
 圭太と琴絵が単なる兄妹の関係ではなくなって、もうすぐ一ヶ月になる。その間、ふたりの間には性交渉はなかった。
 それはお互いの様々な想いが歯止めをかけていた結果なのだが、琴絵は圭太とは少し違っていたようである。
 圭太は、一瞬どうするか迷い、そして、ドアを開けた。
「えっ、誰っ?」
 当然のことながら、琴絵は驚き、体を強ばらせた。
「僕だよ、琴絵」
「えっ、お兄ちゃん……?」
 相手が圭太だとわかり、安心する琴絵。
 だが、同時に現在の自分の格好としていたことを思い出す。
「お、お兄ちゃん、こ、これはその……」
 慌てて服の乱れを直すが、それはあまり意味がなかった。
 圭太はなにも言わず、琴絵のベッドに座った。
「……お兄ちゃん、私のこと、軽蔑した?」
「どうして?」
「だって私、その、お兄ちゃんのことを想って、その、ひとりで……」
「別に軽蔑なんてしてないよ」
 本来、自慰行為とは健康の証である。それをあからさまに言う必要もないが、それほど恥ずかしがることでもない。
 ただ、どこかにそういうことはいけないことだという、背徳感があるのだ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「私、エッチ、したいな……」
 その仕草は、いつもの妹の琴絵のものではなかった。ひとりの好きな人を想っている女の子の仕草である。
 甘える声も、どこか違った。
「……ね、お兄ちゃん?」
「わかった」
 圭太は、琴絵を抱きしめ、キスをした。
「は、ん……」
 何度もキスを交わす。
 圭太は琴絵の胸に手を当て、優しく揉んだ。
「あんっ、んんっ」
 さすがにひとりでしていただけあって、その感度は抜群だった。
「お、お兄ちゃんっ」
 琴絵は、耐えきれないように自分の股間を圭太に押しつけてくる。
 圭太は、片手を琴絵の秘所に伸ばした。
「ひゃんっ、んあっ」
 琴絵の秘所は、すでにびしょびしょだった。
 それはもちろんひとりでしていたからである。そこに圭太の愛撫が加わり、歯止めが効かなくなったのである。
「お、お兄ちゃん、私、お兄ちゃんのがほしいよぉ……」
 すぐに圭太のモノをねだってくる。
 圭太は琴絵を脱がせると、自分も脱ぐ。
「あ、待って、お兄ちゃん」
 そう言って琴絵はよろよろと起き上がり、机の中からなにかを取り出した。
「これ、お母さんが」
 圭太に渡したのは、コンドームだった。
 圭太はそのコンドームをつける。
「お兄ちゃん……」
 一度琴絵にキスをし、圭太はモノを挿れた。
「んんっ」
 琴絵の中は、まだまだ狭かった。
 多少痛みもあるようだが、今の琴絵にはそれ以上に快感の方が上だった。
 圭太はゆっくりと腰を引き、また中へとモノを挿れる。
 こうしてちゃんとするのははじめての琴絵にとって、それはかなりの快感だった。はじめての時のように、感情ばかりが先走っていたのとは違い、今は本当に満たされていた。
「ああっ、お兄ちゃんっ、気持ち、いいのっ」
 次第に速くなるその動きに、琴絵の声も次第に高くなっていく。
「あっ、あっ、あっ、あっ」
 琴絵は、シーツをギュッとつかみ、その快感に抗おうとする。だが、それも虚しい抵抗で、すぐに流されていく。
「お、おにい、ちゃんっ、私っ、イっちゃうっ」
 そして、琴絵は絶頂を迎えた。
 しかし、圭太はコンドームをつけているせいもあって、まだだった。
「はあ、はあ、お兄ちゃんは、まだだね……」
「ああ……」
「い、いいよ、もっと私の中で気持ちよく、なって……」
 健気にそう言う琴絵。
 その琴絵の想いに応えるように、圭太はゆっくりと腰を動かした。
「ああっ、んんっ」
 達したばかりの琴絵は、立て続けの快感にさらに声を上げた。
「お、おにいちゃんっ、わた、わたしっ、またイっちゃうっ」
 琴絵は、また達した。
 それでも圭太は動きを止めない。
「ああっ、いやいやいやっ、またきちゃうっ」
 琴絵は口をだらしなく開け、顔をぶんぶんと振った。
「あんっ、んくっ、んんっ」
 琴絵の中は、さっきからずっと圭太のモノを締め付けていた。
 時折それが強くなり、その時に琴絵が達していることがわかった。
「ダメダメダメっ、わたしっ、おかしくなっちゃうっ」
「んっ、琴絵っ」
 そして、ようやく圭太にも限界が来た。
「あああっ、お兄ちゃんっ」
「くっ……」
 圭太は、コンドームの中に大量の白濁液を放った。
「あああ……」
 琴絵は、口を開けたまま、焦点もどこかあっていなかった。
 モノを抜き、コンドームを外す。
「琴絵、大丈夫か?」
「う、うん、大丈夫……」
 放心状態の琴絵は、なんとか圭太に応えた。
「私、気持ちよすぎて死んじゃうかと思った……」
 少しずつ落ち着いてくると、琴絵はそう言った。
「やっぱり、ひとりでするよりも、お兄ちゃんにしてもらう方が、ずっとずっと気持ちいいね」
 そう言って圭太の胸に寄り添う。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「また、エッチしてくれる?」
「そうだな、琴絵がいい子にしていれば、してあげるよ」
「ん、じゃあ、私、いい子にしてる。だから、またエッチしてね」
「ああ」
 圭太は、琴絵の頭を優しく撫でた。
 そして、ふたりは穏やかな眠りに落ちていった。
 
 三
 二月に入り、受験の方も本格的になってきた。そのためか、学校内で三年の姿をほとんど見なくなった。連日のように私立大学の入試が行われており、学校どころではないからだ。
 一、二年は、月末に迫った学年末テストに向けて、そろそろ勉強を開始していた。
 そんな中、吹奏楽部では、金管五重奏とクラリネット四重奏がアンサンブルコンテスト関東大会に向けて最後の追い込みに入っていた。
 コンテストは、十三、十四日に埼玉県で行われる。そのうち高校の部は、二日目の十四日である。
 一高吹奏楽部の長い歴史でも、アンサンブルコンテストで全国大会へ出たことはない。最高でもこの関東大会止まりだった。
 それを今年ははじめて塗り替えるかもしれなかった。
 その期待を一身に背負っていたのが、金管五重奏の五人だった。
 ただ、意外に五人にはそれほどの気負いはなく、いつもと同じ感じだった。
 
 二月十二日。
 その日は朝は曇っていたが、昼過ぎには晴れてきた。ただ、気温が低く、最高気温も四度という予想だった。
 真冬独特の乾いた冷たい風が吹き抜けていた。
 圭太は、授業中に窓の外を見ていることが多くなった。
 なんの因果か、結局ここまで席替えは行われず、圭太は窓際のままだった。
 別に授業を聞いていないわけではないが、最近の圭太はどことなく集中力に欠けていた。
 そんな圭太の様子を一番側で見ている柚紀は、かなり心配していた。
 ただ、それを聞こうにも、成績が落ちたわけでもないし、部活も一生懸命やっているし、ちゃんと柚紀にもつきあっている。だから、聞くきっかけがなかった。
 休み時間に聞こうとしたこともあるが、結局は聞けなかった。
「柚紀。ちょっといいかな?」
 そんなことを考えていると、圭太の方から柚紀に声がかかった。
「どうしたの?」
 圭太から声をかけられたのが嬉しく、にやけてしまうのを堪えつつ、柚紀は聞き返した。
「実は、ちょっと相談があるんだけど」
「相談?」
 意外な言葉に、柚紀は首を傾げた。
「柚紀は、あさってがどういう日だか、もちろん知ってるよね?」
「あさって? ああ、うん、もちろん。でも、それが?」
「今年は休みだから多少はましだと思うんだけど、ここ数年はその日がイヤで」
 そう言って圭太はため息をついた。
「つまり、こういうこと? ヴァレンタインにチョコをいっぱいもらって大変だと」
「うん」
「なるほどね」
 柚紀は、思い切り納得していた。
 圭太ほどの超逸材は、こういう行事の時は必ずターゲットにされる。
 今年はたまたま暦の関係で休みだが、平日だとそれはもう大変なことになる。それを考えて、圭太は授業中も集中力を欠いていたのだ。
「それで、私に相談て、なにを相談したいの?」
「うん、どうしたら、チョコを受け取らなくて済むかと思って」
「ああ、なるほどね」
 またも納得する柚紀。
「でもね、圭太。それは無理よ」
「どうして?」
「たとえ圭太には私という彼女がいても、そのチョコが本命じゃない、つまり義理だったら、断ることはできないし、私もなにも言えない。だから、無理なの」
「そっか……」
 圭太は、がっくりと肩を落とす。
「でもさ、圭太」
「うん?」
「今年は大丈夫だと思うけどね」
「どうして?」
「だって、圭太は高校一年でしょ? ということは、後輩はいない。先輩はいるけど、三年生は受験で学校には来ない。二年生がいても、十五日にしか会えないから、どうしても数は少なくなる。それと同じ理由で同学年からも少なくなる。違う?」
「……確かにそうかもね」
「でしょ?」
 柚紀の説明で、ようやく圭太も安堵の表情を浮かべた。
「ああ、でも、それでも大変なことには変わりないかな」
「えっ……?」
「だって、今年は『全部本命』になりそうじゃない」
「あ……」
 またも落ち込む圭太。
 とはいえ、それも自らまいた種とも言えるのだが。
「まあ、でも、年に一度のことだし、覚悟を決めれば?」
「うん、そうするよ」
 結局、答えはそれしかなかった。
「ところで圭太」
「うん?」
「十四日の日は、もちろん、私につきあってくれるんでしょ?」
「まあ、アンコンが終わってからになるけど」
「それは全然構わないから。じゃあ、約束」
 そう言って柚紀は右手の小指を差し出した。
「指切り」
 圭太もその指に自分の小指を絡める。
「切った」
 柚紀は、笑顔でその小指を見つめていた。
 
「ん〜、休みが多いわね」
 柚紀は音楽室を見回しそう言った。
「インフルエンザが流行ってるからね」
 この時期は、もうお約束のようにインフルエンザが流行る。学校や職場でも休む者が多くなり、大流行の年には、学校閉鎖などもある。
 今年はそういう点で言えば、比較的患者数も少なかった。
「それでも、アンコン参加者がみんな元気でよかったよね」
「まあね。ここまで来たら、当日は具合が悪くても気合いで出ると思うよ」
 少なくとも圭太ならば間違いなくそうするだろう。
「さてと、今日もがんばっていきますか」
「うん」
 
 部活は、たとえ休みがいても粛々と行われる。
 練習もいつも通りで、変更点はない。
 ただ、部員が少ないため、いつもより早めに部活は終わった。
「圭くん」
 圭太が楽器の手入れをしていると、祥子が声をかけてきた。
「あのね、圭くん。明日なんだけど、夕方くらいに時間、あるかな?」
「明日ですか? 部活は午前中ですから、大丈夫だと思いますけど」
「じゃあ、明日、うちに来てくれるかな?」
「わかりました。それで、何時くらいに行けばいいですか?」
「えっと、三時半くらいかな。もう少し早くても大丈夫だと思うけど」
「わかりました。明日の三時半くらいに、先輩の家に行きます」
「うん、楽しみに待ってるからね」
 祥子は嬉しそうに微笑み、戻っていった。
「……ふ〜ん、嬉しそうだね、圭太」
 そこへ、ちょっとだけむくれた柚紀がやって来る。
「嬉しそうなのは僕じゃなくて、先輩の方だと思うけど」
「先輩が嬉しそうなのは当然じゃない。私には、圭太も嬉しそうに見えるんだけどね」
「そ、そうかな?」
 圭太は、我知らず視線をそらしていた。
「圭太」
「な、なに?」
「いくら明日は先輩の誕生日だからって、必要以上に優しくする必要もないし、ましてや抱くこともないんだからね」
「明日は誕生日……あっ」
 そこで、ようやく事態が繋がったようである。
「……ひょっとして、忘れてたの?」
「……うん」
「はあ、なんか、祥子先輩が可哀想。一番覚えておいてほしい人に忘れられてたんだからね」
「うぐっ……」
「しょうがない。この寛大な柚紀さんが、明日のこと、特別に認めてあげるから」
「ありがとう」
 圭太は素直に感謝の意を示した。
「んもう、少しは遠慮してほしいのに……」
 
 二月十三日。
 街のあちこちの店では、店頭も使ってヴァレンタインのチョコレートが売られている。
 チョコを渡すこと自体はお菓子屋の陰謀なのだが、すでにそれも定着していて、年中行事のひとつとなっていた。
 本番を次の日に控え、世の中の女性たちは様々な想いでチョコを作ったり買ったりしている。
 そんな日でも、吹奏楽部では普通に部活が行われている。
 特にアンサンブルコンテストの関東大会前日ということで、参加する九人は気合いが入っていた。
 練習はアンコン優先で、菜穂子も金管とクラリネットをしっかり指導していた。
「まあ、この演奏が明日もできれば、好成績が残せると思うわ」
 菜穂子はそう言って金管の面々にアドバイスを送る。
「県大会から直せる部分はほとんど直せたと思うし、あとは、どれだけ平常心でできるかにかかってるわ」
 五人は、神妙な面持ちで話を聞いている。
「いろいろあるけど、とにかく、悔いの残らないような演奏をするように」
『はい』
 そして終わりのミーティング。
「明日はアンコンの関東大会があるから、部活自体は休みよ。場所が埼玉だから、無理して応援に行こうとは思わないように。もちろん行くなとは言わないけど。もし行く人がいたら、帰りに声をかけてちょうだい。何枚かチケットを持ってるから。それと、金管とクラリネットは練習の時も言ったけど、とにかくいつもの演奏を心がけて。それじゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでした』
 ミーティングが終わると、何人かの部員が、菜穂子に声をかけている。
 それを横目に、金管の五人は最終確認をしていた。
「じゃあ、明日は朝七時に駅前集合。時間厳守で」
「さすがに明日は誰も遅れないだろ」
「一番遅れそうな人がなに言ってるのよ」
「あんだとぉ」
「ほら、久美子も信一郎もやめなさいって」
「とにかく、遅れないように。それと、車酔いする奴はあらかじめ酔い止め飲んでくることを勧める」
「ああ、それは結構重要かも」
 関東大会は、埼玉県さいたま市にある大宮ソニックシティで行われる。
 そこへはクラリネットは電車で行くのだが、金管は車で行くことになっていた。それは、チューバとユーフォニウムが大きいということが言える。もちろん電車でも行けるのだがなかなか大変なため、結局は仁の父親が車を出してくれることになった。
 それもあって、仁はそのようなことを言ったのだ。
「じゃあ、明日は全力で」
 
「明日は、ちゃんと応援に行くからね」
 そう言って柚紀は菜穂子からもらったチケットを見せた。
「圭太は、先輩たちと車で行くんだよね?」
「うん。いくら僕はそのまま持って行けるっていっても、単独行動するわけにはいかないからね」
「だよね。だから、私は電車で行くから」
「ひとりで行くの?」
「ううん、ひとりじゃないよ」
 柚紀は頭を振った。
「誰と行くの?」
「琴絵ちゃん」
「琴絵と? でも、琴絵は部活があるんじゃ……」
「まあ、そのあたりはお兄ちゃん想いのカワイイ妹のやることだと思って」
「なるほどね……」
 三中は誰も関東大会に出ていないため、部活は普通にある。それでも行くということは、すなわち部活をさぼるということになる。
「だけど、もし全国行けたら、今年はどこでやるの?」
「確か、広島だったと思うよ」
「広島かぁ。私、広島には行ったことないから、行きたいなぁ」
 別に柚紀が出るわけではないのだが。
「広島だと、お好み焼きとかもみじまんじゅうとかかきとか」
「……柚紀、食べ物ばかり」
「い、いいじゃない、別に。も、もちろん原爆ドームとか厳島神社とか、観光名所も知ってるわよ」
「でも、行くためには明日、金賞を取った上で、出場権を獲得しなくちゃいけないから」
「圭太たちなら大丈夫でしょ?」
「やるだけやってみるけど、本当にアンコンの全国大会は厳しいからね」
「弱気にならないの」
 そう言って柚紀は圭太の背中を叩いた。
 ふたりは、いつものように大通りまで出てくる。
「それじゃあ、圭太。夜にでも琴絵ちゃんに電話するから、伝えておいてね」
「うん、わかったよ」
「それと、昨日も言ったけど、祥子先輩のこと」
「だ、大丈夫だよ、たぶん……」
「んもう、心配だなぁ」
 結局柚紀は最後まで圭太のことを心配し、帰っていった。
 
 圭太が家を出たのは、三時を少し過ぎた頃だった。
 祥子の家まではそれほど時間がかからないこともあって、その時間に出た。
 外は、二時を過ぎた頃から風が強まり、気温も下がっていた。
 圭太はしっかり着込み、手には小さな包みを持っていた。
 気温も低く、風も冷たいが、少しずつ春の息吹を感じられるようになっていた。それは、たまに見かける早咲きの梅を見るとわかる。
 さらに、この時期から春の風物詩となった花粉症の患者を見かける。本格的に飛びはじめるのはもう少し先だが、過敏な人はもう症状が出ている。
 そういう話題がテレビで増えてくると、春を感じる。
 圭太もあたりの景色を見ながら三ツ谷家を目指していた。
 立派な門構えが見えてくると、そこは三ツ谷家である。
 圭太は呼び鈴を鳴らした。
 少しすると、インターホンから声が返ってきた。
『はい、どちらさまですか?』
「あの、祥子さんの後輩の、高城圭太です」
『あら、圭太さん。少し待っててくださいね』
 少しどころかかなりおっとりした声が消え、しばらく待つ。
 門が開くと、着物姿の女性がいた。
「お久しぶりです」
 彼女がこの三ツ谷家の奥様、祥子の母親、朝子である。
「まあまあ、圭太さん、いらっしゃい」
 朝子は見た目通りの性格で、とてもおっとりしている。祥子のそういう部分は、母親譲りなのである。
「あの、先輩は?」
「祥子さん? おそらくお部屋の方にいると思うけど」
 圭太は朝子に伴われ、母屋の中へ。
「圭太さん、今日はどのようなご用で?」
「今日は、先輩に誘われたんです」
「まあ、祥子さんに?」
「はい」
「そう、祥子さんに……」
 朝子は、どことなく嬉しそうにそう言った。
 程なくして祥子の部屋の前に来る。
 ノックをして中に声をかける。
「祥子さん。圭太さんがいらしたわよ」
 すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい、圭くん」
 祥子は笑顔でそう言った。
「祥子さん。なにか持ってくる?」
「あ、そういうのは私がやりますから」
「そう?」
 祥子にすげなく断られ、少し淋しそうな顔をする。
「それじゃあ、圭太さん。ゆっくりしていってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 祥子は朝子が行ったのを確認してから扉を閉めた。
「圭くん。お母さまになにか言われなかった?」
「いえ、言われませんでしたけど」
「そっか、よかった……」
 ホッと息をつく祥子。
「とりあえず好きなところに座ってて。今、お茶淹れてくるから」
「はい」
 祥子が部屋を出て行くと、圭太は、以前と同じように座った。
 手持ちぶさたなのだが、圭太は特になにをするでもなく待っている。それが圭太の圭太たるゆえんでもある。
 しばらくすると、祥子は紅茶とケーキを持って戻ってきた。
「はい、圭くん」
「すみません」
 祥子は圭太の正面に座る。
「先輩」
「うん?」
「誕生日おめでとうございます」
「覚えてて、くれたんだ」
「はい」
 圭太は、少しだけ心苦しくそう言った。さすがに前日に思い出したとは言えない。
「よかった。圭くんが私の誕生日、覚えててくれて」
「それで、一応プレゼントを用意したんですけど」
「えっ、ホント?」
「はい」
 そう言って圭太は小さな包みを渡した。
「開けても、いいのかな?」
「ええ、それはもう先輩のものですから」
 祥子は丁寧に包みを開けていく。
「あっ、これ……」
 中から出てきたのは、少し色あせたフォトスタンドだった。
「あの、実は、プレゼントを買いに行く余裕がなかったので、それになってしまいました。本当はもう少しちゃんとしたのがよかったんですけど」
「これ、圭くんが使ってたのだよね?」
「えっ、あ、はい。よくわかりましたね」
「だって、圭くんのことだもん」
 祥子は嬉しそうに微笑む。
「圭くん、本当にありがとう」
「いえ、たいしたことはしてませんから」
 それからふたりでささやかな誕生パーティーをする。
 祥子は、終始ニコニコしていて、本当に幸せそうだった。
「あの、先輩」
「ん、どうしたの?」
「その、えっと……」
「圭くん?」
 珍しく口ごもる圭太に、祥子は優しく声をかける。
「先輩」
「は、はい」
「抱いても、いいですか?」
「えっ……?」
 圭太の思いも寄らない言葉に、祥子は間の抜けた声を上げた。
「今日は、先輩を抱きたいんです」
「圭くん……」
「いい、ですか?」
「うん、いいよ。私も、圭くんに抱いてもらいたいから」
 ふたりは、キスを交わした。
 祥子をベッドに横たわらせる。
「ん、あ……」
 ふにふにと服の上から胸を揉む。
「やぁ、ん」
 服を脱がせ、下着姿になる。
「あんっ、んんっ」
 ブラジャー越しに、突起を少し強くいじる。
「んあっ、圭くんっ」
 そのブラジャーを外すと、今度は下腹部に体を移動させる。
 ショーツの上から秘所を擦る。
「あんっ」
 すでに少し湿っていた秘所から、だんだんと蜜があふれてくる。
「んっ、イヤぁ、んんっ」
 執拗に擦り続けていると、蜜のせいでショーツが濡れ、秘所が透けて見えてきた。
「圭くん、私、もう……」
 止まらない快感に、祥子は圭太を求める。
 圭太は、ショーツを脱がせると、自分も裸になる。
 そして、屹立したモノで、祥子の秘所を撫でる。
「ふわあ、けい、くん」
 微妙な感覚が祥子の敏感な部分を攻める。
 少し焦らし気味にそれを続ける。
「んんっ、圭くん、ほしいのぉ、圭くんのがほしいの」
 さすがに耐えられなくなり、祥子はそう言って自分からモノを挿れようとする。
 そこではじめて圭太はモノを突き入れた。
「ああっ、いいっ、すごくっ、いいのっ」
 圭太は、最初から飛ばしていた。
 多少は手加減しながらも、肌と肌が当たって音がするくらい、激しく腰を動かした。
「イヤっ、ダメっ、圭くんっ、私っ、壊れちゃうっ」
 激しい攻めに、祥子は嬌声を漏らす。
「んんっ、圭くんっ、圭くんっ」
 痛いほど圭太を抱きしめる。
「やんっ、んくっ、圭くんっ、私っ、イっちゃうっ」
「んっ、祥子っ」
「圭くんっ圭くんっ圭くんっ」
「はっ、祥子っ」
「けい、くんっ、んんっ、ああああっ!」
 祥子は、圭太の背中に爪を立てるほどしっかりと抱きしめ、絶頂を迎えた。
「うっ、祥子っ」
 圭太もその直後に、かろうじて祥子の外に白濁液を放った。
「はあ、はあ、はあ……」
「はぁ、はぁ、祥子、すごく、可愛かったですよ……」
「はあ、はあ、すごく、嬉しいよ、圭くん……」
 ふたりは、むさぼるようにキスをした。
 
 それから二回ほどして、ようやく落ち着いたふたり。
「今日の圭くん、すごく積極的だったね」
「そうですか?」
「うん。だって、あんなに激しくしちゃうんだもん」
 そう言って祥子は微笑む。
「でも、どうして今日は圭くんから抱きたいなんて言ったの?」
「祥子を、抱きたかったからです。僕も、男ですから」
「ふふっ、そっか。それがウソでも嬉しいな」
「ウソじゃないですよ。本当に抱きたかったんです」
「うん、そうだね」
 珍しく主張する圭太に、祥子は笑みを絶やさず頷いた。
「この前ね、柚紀に言われたの」
「柚紀に、ですか?」
「うん。私はね、圭くんにとって必要な人、なんだって。だから、柚紀もね、私が圭くんの側にいること、認めてくれたの」
「柚紀が……」
 圭太は、その言葉になんとも言えない表情を見せた。
「圭くん」
「はい」
「私、圭くんの側にいてもいいんだよね?」
「はい、いてください」
「たまにワガママ言っちゃうけど、それでもいてもいいんだよね?」
「はい」
「ずっと、好きでいてもいいんだよね?」
「はい」
「うん、よかった……」
 祥子は、目を閉じ圭太に寄り添った。
 圭太は、そんな祥子を優しく抱きしめ、髪を撫でた。
「圭くん、大好き……」
 
 四
 二月十四日、ヴァレンタインデー。
 ある意味では、世の女性が一番燃える日である。
 普段は恥ずかしくて告白できなくても、この日はチョコをきっかけに告白できるのではないか、そんなことを思わせる日。
 片想いの女性は、チョコにすべての想いを込めて。
 すでに彼氏のいる女性は、変わらぬ想いを込めて。
 そんな大事な日である。
 
 圭太は、いつもより少し早めに起き、いつもより早く家を出た。
 駅前に七時集合なので、それは当然のことなのである。
 その日は朝からとてもいい天気で、そのせいで逆に気温が下がっていた。氷点下まで下がり、家々の屋根には白く霜が降りている。
 遅れないようにバスに乗って駅前に出る。
 だいぶ早い時間なので、人は少ない。行楽シーズンでもないので、余計に淋しい。
 駅前ロータリーの一般車専用の一角に、車は待っていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
 仁は手を擦りながらそう言った。
「今日も寒いな」
「そうですね。でも、天気がよくてよかったですよ」
「ま、それはな」
 仁の父親が運転するのは、八人乗りのワンボックスカー。さすがに普通の乗用車では無理である。
 その一番後ろにチューバとユーフォを乗せ、残りの座席に人間が乗り込む形になる。
 圭太が着いてからすぐに、久美子と真琴が立て続けに来た。
「あとは、信一郎だけか」
 そう言って仁は時計を見た。
 時計の針はまだ七時を指していない。つまり、まだ遅刻ではない。
 だが、残り時間はそれほど多いわけではない。
「どう、信一郎が時間通りに来るか、賭けない?」
 そう言い出したのは、久美子である。
「賭け? いいけど、もうあと五分もないんだから、結果なんて見えてるんじゃないの」
「俺もそう思う。それより、遅れたら奴になにかおごらせる、とかの方がよっぽどいいと思うけどな」
「あっ、それいいかも」
「あの、先輩」
「うん、どうした?」
「信一郎先輩、後ろにいます」
「なに?」
 仁が振り返ると、ゼーハーゼーハー息をしている信一郎がいた。
「ま、間に合った、だろ」
 時計は、六時五十九分だった。
「よし、全員揃ったし、出発するか」
「そうね」
 さらっと信一郎を無視し、話を進める。
「で、どうやって座るわけ?」
「ま、普通は仁が助手席、後部座席はふたりずつ、ってところよね」
「いや、できればひとりは楽器の隣にいた方がいい。高速はいいけど、一般道は結構揺れるからな」
「なるほど、それはそうね。演奏までに楽器がダメになったなんて、シャレにもならないから」
「というわけで、信一郎。おまえ、ギリギリだった罰として、楽器番な」
「をい、ちょっと待て。別に俺は遅刻してないだろうが。なのになんでそうなるんだ?」
「あの、僕がしましょうか?」
「いや、圭太、おまえはいい」
「はあ……」
「サギだ、卑怯だ、横暴だっ」
「うるさい。さっさと乗れ」
 そう言って仁は信一郎を一番後ろに押し込んだ。
「じゃあ、真琴。私たちはその前に」
「そうね」
 久美子と真琴は、その前の席に。
 必然的に圭太はその前にひとりで座ることになった。
「よし、行くか」
 
 車で二時間ほどでさいたま市へとやってきた。
 一般道と高速を利用し、車は大宮駅前まで来た。
 ソニックシティの前には、それなりの人たちがいた。その中には楽器を持ち、明らかに参加者だとわかる人もいた。
 車をホールに入るのに楽な場所に止め、そこで降りる。
「ん、ん〜」
 仁は車から降り、大きく伸びをした。
「さてと、これからが本番だ。しっかり行こうぜ」
 五人は、受付で参加登録を済ませ、控え所に入る。
 外は寒かったが、中は暖房のおかげで暖かかった。
 楽器を出し、入念に準備をする。楽器のせいで演奏ができなかったなどと言われないために。
 少しすると、菜穂子がやって来た。
「おはよう、みんな」
『おはようございます』
「もうすぐ本番だけど、どう、調子は?」
「悪くはないと思いますけど、ホールの響き方がわからないので、それが心配です」
「ここは、結構音響もしっかりしてるから、響くと思うわよ」
 音の響き方は、かなり重要な要素である。
 これによって多少演奏方法を変える場合もあるくらいである。
「とにかく、悔いの残らないような演奏を心がけて。そうすれば、きっと結果はついてくるから」
『はい』
 
 金管五重奏の演奏は、比較的早い時間帯だった。
 それでもいつやるか、というのはあまり関係なく、結局は自分たち次第である。
 独特の緊張感の中、演奏がはじまった。
 過去二回の演奏場所よりも広いホール。それだけで自分たちの音はよく跳ね返ってくる。しかも、それにタイムラグが発生し、なかなかやっかいである。
 それでもこの五人は落ち着いていた。いつも通りの演奏を心がけ、常に相手に気を配り、合図を送っていた。
 そして、あっという間に五分間が終わった。
「はあ、緊張した」
 控え所に戻ってくるなり、信一郎はそう言って備え付けの椅子に座った。
「緊張はしたけど、演奏自体はなかなかだったと思うけどね」
「そうね、だいたいいつも通りの演奏ができたと思うわ」
 自己評価もだいたいそのような感じである。
「あとは結果をご覧じろ、ってか」
「おつかれ〜」
 そんな五人に、声がかかった。
 見ると、クラリネットの四人である。順番の関係で、すでに控え所にいるらしい。
「どうだったの、調子は?」
「まあまあね」
「ここって、響く?」
「結構乱反射するかも。でもまあ、少し大きいくらいで、県民会館とかとそれほど差はないと思うけど」
「なるほどなるほど」
 情報の共有も大事なことである。
「じゃあ、俺たちは楽器を片づけて、ホールで聴いてるから」
「うっし、私たちもがんばりましょ」
 五人は楽器を片づけ、いったん車の方に載せた。それからホールに戻り、ほかのアンサンブルを聴く。
 どこもなかなかのレベルで、さすがは関東大会というところだった。
 五人はひとつの演奏が終わる度にホールを見回し、知り合いを探した。
 そこでようやく菜穂子を発見する。
「先生」
「あら、おつかれさま」
 菜穂子は、そう言って労をねぎらった。
「どうでしたか、演奏は?」
「よかったわよ。いつも通りがちゃんとできていたから。あとは、今回の全体的なレベル次第で決まるわね」
「ここまで聴いてみての全体の印象はどうですか?」
「まあ、例年並み、というところかしら。だからこそ、チャンスはあると思うわよ」
 少し話をし、演奏がはじまる。
 もうすぐクラリネット四重奏の順番である。
 そんなクラリネットの演奏を目前にしたところで、圭太は顔見知りを発見した。
「ちょっと、すみません」
 一応の断りを入れ、圭太はその席へと移動した。
「柚紀、琴絵」
「圭太」
「お兄ちゃん」
 空いていた隣の席に座る。
「演奏、どうだった?」
「よかったわよ。これまで聴いた中でも、かなり上位に来てると思う」
「うん、私もそう思う。やっぱりお兄ちゃんたちはすごいね」
 柚紀も琴絵も口々に褒めそやす。
「あとは、結果がついてくれば言うことなし、なんだけどね」
「大丈夫、きっとついてくるから」
 そうこうしているうちに、クラリネット四重奏の番が来た。
 四人は幾分緊張した感じだったが、それでもその演奏はたいしたものだった。
 地区大会から県大会ほどの伸びはなかったが、それでもかなりレベルアップしているのがわかった。
 特に表現力に磨きがかかっており、金管五重奏ともいい勝負だった。
 そして、ほとんどノーミスで演奏は終わった。
「はあ、祥子先輩、どんどん上手になってく」
 そう言ってため息をつくのは、琴絵である。
「私、なかなか追いつけないなぁ」
「大丈夫よ、琴絵ちゃんだって今の先輩と同い年、つまりあと三年もすればあのくらいになってるから」
「そのためには、しっかり練習しないといけないけどね」
「ううぅ〜、わかってるもん」
 圭太の言葉に、琴絵は涙目で反論する。
「三年後には、お兄ちゃんをぎゃふんと言わせるんだから」
 死語まで使って琴絵はそう言う。
 それから程なくして昼の休憩時間となった。
 圭太は柚紀と琴絵と一緒に、ほかの四人と菜穂子がいる場所まで戻った。
「あら、来てたのね」
「はい」
「圭太。その子は?」
 菜穂子は、琴絵を見てそう訊ねた。
「妹です」
「えっと、妹の高城琴絵です」
 そう言って琴絵はぺこっと頭を下げた。
「そう、妹さんなの。でも、ここにいるってことは、やっぱり吹奏楽をやってるの?」
「ええ、中学の方でやってます」
 そこへ、演奏の終わったクラリネットの四人が合流した。
「おつかれさま」
「あれ、琴絵ちゃんも来てたんだ」
「あ、はい」
「祥子。あなた、知ってるの?」
「はい。後輩ですから」
「後輩って、じゃあ、やっぱり三中の吹奏楽部なの?」
「そうですよ。三中吹奏楽部部長です」
 祥子がそう言うと、菜穂子の目が、一瞬光った。
「志望校に、一高はどう?」
「せんせ〜い、いきなり勧誘ですか?」
「別にいいじゃない。三中は逸材が揃ってるから、今のうちから目をつけておくのよ。で、どう?」
「あ、あの……」
「先生。心配しなくても、来年の春には一高生になってますよ」
「あら、そうなの? じゃあ、それまで私も異動しないようにしないと。教育委員会に圧力かけておこうかしら」
 なかなか不穏当なことを言う菜穂子。
「まあ、いいわ。それより、お昼にしましょう。今日は、おごるのは厳しいけど、補助ぐらいはできるから」
 一行は、昼食のために外へ出た。
 
「圭太、少しいい?」
「はい、なんですか?」
 食事を終え、戻ろうという時、菜穂子が圭太だけを呼び止めた。
「ああ、みんなは先に戻っていいわよ」
 菜穂子は、圭太を連れて近くのコーヒーショップに入った。
「今日は、寒いけどいい天気ね」
「そうですね」
 圭太は、菜穂子がなぜ自分を呼び止めたのか、その真意を測っていた。
「このまま行けば、全国へも行けるかもしれないわね」
「そうだといいんですけど」
「今年は広島だから、行くのが少し大変ね。学校に補助してもらわないと」
 まずは差し障りない話から。
「圭太は、進路とかはもう決めてるのかしら?」
「いえ、まだ具体的には」
「そう。じゃあ、その進路のひとつに、留学というのも加えてもらえないかしら」
「留学、ですか?」
 さすがの圭太も、それには驚いていた。
「ええ。もちろん無理にとは言わないし、ほかにやりたいことがあるならそれでもいいと思うわ。ただ、私としては、その実力を高校だけで埋もれさせてしまうのはもったいないと思ったの」
 音楽家になるのは当然努力も必要だが、才能も必要である。その才能がなければ、そうそう開花しない。
 その点で言えば、圭太は両方とも持っていた。だからこそ菜穂子は、圭太に留学を勧めたのだ。
「私も一応短期だけど、留学の経験があるの。その時の経験は、何事にも代え難いものだったわ。だから、大学の間だけでも留学できれば、もっといろいろなことを学べると思うし、それはひいては人間性にも繋がると思う。だから、少し考えてみて」
「はい、一応考えてみます。ただ、おそらくいい返事はできないと思います」
「そうね。家の事情があるものね」
 菜穂子も顧問というだけでなく、一年担当の教師として、ある程度のことは把握している。そのひとつとして、圭太の家のことも知っていた。
「まあ、私としては別に留学じゃなくてもいいと思うの。ただ単に、高校だけでやめてしまうのがもったいないと思っているだけだから」
「先生は、どうやって進路を決めたんですか?」
「成り行き、かしらね」
「成り行き、ですか?」
「私は子供の頃からピアノをやっていたの。中学に入ってからはピアノは家で、学校ではフルートをやって。音楽漬けだったから、自然とそういう進路に進むものだと思って。だから音大を受けて、入ってからは留学もしたわ」
「そうだったんですか」
「自分で決められない時は、まわりに流されてみるのもひとつの方法だと思うわ。もちろんそれで後悔しても、自分のせいよ。決められなかった自分が悪いの。でも、それがいい結果を生むこともあるし。なにが自分にとっていいことなのかは、それを実際にやってある程度時間が経たないとわからないわ」
「確かにそうですね」
「ただ、実際はそういう難しい理屈はどうでもいいのよ。結局は、自分次第だから」
 そう言って菜穂子は微笑んだ。
「さて、難しい話はこのくらいにして。どう、最近の調子は?」
「特に問題はないと思いますけど」
「公私ともに順調、ということね」
「そうですね」
「柚紀とも、上手くいっているの?」
「えっ、あ、はい」
「そう、それはなにより」
 菜穂子は、まるで自分の子供を見るような、そんな温かな目で圭太を見つめる。
「別にプライベートなことまで言うつもりはないけど、圭太には常に安定していてほしいのよ」
「安定、ですか?」
「うちの部は基本的には男女、上下、ともに問題はないわ。だけど、なにがきっかけでそこに亀裂が入るかはわからない。だからこそ、女子部員に絶対的な信頼を得ているあなたには安定していてほしいの」
「なるほど、そういうことですか。でも、僕なんかにそれができるでしょうか?」
「できるわよ。というか、あなたにしかできないわ。少なくとも、現部長を虜にしているのだからね」
「えっ……?」
「ああ、現部長だけじゃないわね。前部長もそうね」
 そう言って菜穂子は、クスクスと笑った。
 さすがの圭太も、そこまで見抜かれていたとは、そんな感じである。
「柚紀にしても祥子にしてもともみにしても、本当にあなたの本質を見抜いていたからこそ、虜になったのね。それを見抜けなくても、どことなくそういう雰囲気があるから、人気もあるし人を引きつけられる。これからのうちの部は、圭太の双肩にかかっているわ。がんばってね、次期部長」
「は、はあ……」
 
 プログラムは順調に消化され、閉会式を残すのみとなった。
 会場には、演奏が終わったことによる緊張感からの解放と、結果発表を前にした違う緊張感が入り交じっていた。
 一高の面々は、演奏を聴きに来ていたほかの部員も一緒に結果を待った。
 閉会式は、いつものように講評から入る。その日の演奏と、この二日間の総評。それによると、著しいレベルアップはなかったが、それでも全体としてはなかなかの演奏だったと評された。
 そして結果発表。
 プログラム順に発表されていく。
『──県立第一高等学校、金管五重奏、金賞』
 金管は、見事金賞を受賞した。
『──県立第一高等学校、クラリネット四重奏、銀賞』
 クラリネットは、惜しくも銀賞となった。
『それでは最後に、来月広島で行われます全国大会へ進出を果たしたのは──』
 
 圭太たちは、来た時と同じように仁の父親の運転する車で地元に帰った。
 車に乗ったばかりの頃は、結果を喜び、騒いでいたのだが、さすがに疲れたのか、途中からは眠りに落ちていた。
 ただ、五人の寝顔はどれも穏やかで、とても清々しかった。
 
 圭太が家に着いたのは、もうそれなりの時間になってからだった。
 そんな時間にも関わらず、琴絵と一緒に帰った柚紀が待っていた。
「おかえり、圭太」
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま」
 圭太は、着替える前にリビングに入った。
「おかえりなさい、圭太」
「ただいま、母さん」
「結果、聞いたわよ。おめでとう、全国大会ね」
 そう言って琴美は微笑んだ。
 圭太たち金管五重奏は、見事全国大会進出を果たした。ひとつの県から二、ないし三組しか出られない中、県大会の結果そのままに、トップで進出を果たした。
「それで、広島だっけ? さすがに遠いわね」
「まあ、それはね。そういう詳細は、今月中に決まるみたいだけど」
「広島だと、確実に泊まりがけよね」
「うん。おそらく、二泊することになると思うよ。さすがに終わった日にそのままこっちに戻ってくるのは大変だから」
「そうね。まあ、そのことは詳細が決まってから考えましょ。それより」
 琴美は、ダイニングの方から、なにやら持ってきた。
「はい、これ。預かっておいたわよ」
 そう言ってそれを圭太に渡す。
「これが鈴奈ちゃんから。これがともみさん。これが紗絵ちゃん」
「…………」
 後ろのふたりの視線が微妙に気になりながらも、圭太はそれを確認する。
「あと、これが朱美から。わざわざ今日届くように送ってきたのよ」
「……これで全部?」
「ええ。あっ、そうそう、これは愛する息子へ」
 最後に自分からのを渡す。
「よかったわね、今年はその程度で済んで」
「うん、まあ、それはそうなんだけどね」
「あら、なにか心配なことでもあるの?」
 明らかにそれを理解していながら、あえてそれを訊く琴美。
 圭太は、ため息をつきながら、言う。
「……これ、全部『本命』だよね?」
「間違いなく」
「はあ……」
「なにため息ついてるのよ。まだこれで終わりじゃないでしょ?」
「まあ、そうだね」
「お兄ちゃん。はい、これ、私から」
 待ってましたとばかりに、琴絵が渡す。
「じゃあ、最後は私から。はい、圭太」
 そして、柚紀も渡す。
「ふたりともありがとう」
「でも、これはお返しが大変そうね」
「うぐっ、母さん、それは言わないで……」
「ふふっ、がんばってよ」
 
「そういえば、圭太」
「うん?」
「祥子先輩にはもらわなかったの?」
「もらったよ」
 そう言って圭太は、カバンの中からチョコを取り出した。
「じゃあ、これで本当に全部だね」
「そうだね」
 テーブルの上には、それぞれの想いが込められたチョコレートが並んでいる。
「ねえ、圭太。私からは、もうひとつあるんだけど」
「もうひとつ?」
「うん」
 そう言って柚紀は圭太に寄り、キスをした。
「もうひとつは、私」
「ん、柚紀……」
「もらって、くれる?」
「喜んで」
「ふふっ、よかった」
 そしてふたりは、チョコレートのように甘い夜を過ごしたのだった。
 
 五
 ヴァレンタインが終わり、学校内にちらほらと新しいカップルができてきた。もちろんチョコレートだけがふたりの間を取り持ったわけではないだろうが、終わってからすぐそうなれば、チョコレートにそういう力があると思っても、ある程度は仕方がないだろう。
 ただ、そんな甘い雰囲気は長続きはしない。すぐに学年末試験があるからだ。ここで悪い点数を取り、年間の点数が赤点になると、めでたく春休みに補習が行われる。さらに、その赤点の数が多いと補習を通り越して、もう一年間同じ学年をやることになる。
 部活なども忙しくない時期なので、生徒は全力で進級を目指す。
 その頃になると、私立大学では合格発表もだいぶ進んでくる。それに伴い、校内の一角に最新の受験結果が掲示される。そこに乗るのは、現役生と一浪生である。
 そこでどの大学に何人合格したかがわかる。
 有名私立大学へも合格者が出て、進路指導担当の教師はホッと一安心というところだろう。ただ、本番はあくまでも国公立大学の二次試験である。
 
 二月二十二日から学年末試験がはじまった。
 学校内に独特の緊張感があった。二月の寒さにもめげず、生徒たちはしっかりテストに臨んでいた。
 とはいえ、テストの内容は基本的にはこの一年間の総復習である。難易度もそれなりで、苦戦している生徒も多い。ただ、このテストの点数だけが成績に出るわけではないので、そこが唯一の救いであろう。
 そんな学年末試験の最中の二月二十五日。
 その日は、国公立大学二次試験前期日程の本番である。
 国公立大学を受ける受験生は、ほぼ全員これを受ける。
 試験は各大学で行われ、受験生が春を目指して問題に挑む。
 たいていの大学は一日で終わるのだが、大学や学部、学科によっては二日間ないし三日間かけて行うところもある。
 結果は、たいていの大学が三月のはじめに発表される。
 
 二月二十六日。
 ようやく学年末試験が終わり、生徒たちは緊張感から解放される。
 本来ならそれですべて終わりなのだが、今年は暦の関係でそういうわけにはいかなかった。
 なぜなら、次の登校日は三月一日、卒業式だからである。土日が休みのため、金曜日のその日のうちに準備をする必要があった。
 午前中に試験が終わり、すぐさま準備がはじまる。全校上げての準備なので、それほど時間はかからない。一番大変なのは、会場である講堂のセッティングである。卒業生、父兄、そして在校生。その分の椅子を並べ、周囲には紅白の幕を張る。花やなんかは当日の朝に行う。さすがに三日前から飾っていると、しおれてしまうからだ。
 会場の準備と平行して、学校中の清掃も行われている。卒業生には綺麗な学校から巣立ってほしい、そんな想いがあるのだろう。
 準備が終わると、ようやく放課後である。各部活も再開され、校庭や体育館からは運動部の威勢の良い声が聞こえてくる。
 音楽室からも楽器の音が聞こえてくる。
 吹奏楽部では、基礎練習と演奏会に向けての練習が行われていた。単調な練習だが、それができなければ本人たちが大変なので、あまり文句も出ない。
 それと平行してアンコン全国大会進出を果たした金管五重奏は、さらなるレベルアップを目指して練習をしていた。
 その日の部活は久々ということもあり、少し長めに行われた。
 最後に簡単なミーティングが行われた。
「部活は明日もあさってもあるけど、練習場所が限られるから注意して。あと、卒業式が終わったら今年のコンサートの曲を決めるから、各自候補曲を決めておいて。あとその際にCDやMD、カセットなんかで参考になるようなものがあれば、あわせて持ってきてもらえるとありがたいかな。それじゃあ、今日はおつかれさま」
『おつかれさまでした』
 緊張感から解放され、音楽室に喧噪が戻ってくる。
「圭太。ちょっといい?」
 楽器を片づけていた圭太に、声がかかった。声の主は、彩子である。
「なんですか?」
「うん、あのさ、できればでいいんだけど、ともみ先輩のこと、訊いておいてもらえないかな?」
「入試のことですね?」
「うん、そう。卒業式の日でもいいんだけど、少しでも早く知りたくて。だけど、結果も出てないの直接電話とかするわけにはいかないでしょ? だから、圭太ならそれとなく訊けるかなって思って」
 ともみは彩子の直接の先輩である。後輩としてはやはり先輩のことは気になる、というところだろう。
「わかりました。一応訊いておきます」
「うん、お願いね」
 彩子はそう言って戻っていった。
 圭太としてもともみたち先輩のことは気になっていた。私立の結果はわかっても、国公立大学の結果はまだ出ていないため、なにを訊けばいいのかわからないような状況だった。
 だから、彩子の頼みは圭太にとってはいい機会となった。
「祥子先輩」
「どうしたの、圭くん?」
「今日、ともみ先輩のところに行ってみませんか?」
「先輩のところに?」
「はい」
 首を傾げる祥子に圭太は大きく頷いた。
「二次試験がどんな感じだったか、気になって」
「そうだね、私も気になるかな」
「それで、先輩のところへ行ってみようと思って」
「そういうことなら、私も行くわ」
 そして、部活終了後。
 圭太は、柚紀と祥子と一緒にともみの家へ向かった。
「ともみ先輩なら大丈夫だと思うけどねぇ」
「僕もそう思うけど、一応本人の口から聞いておきたいからね」
 圭太は、柚紀に行くことをそう説明した。
 安田家までは特に何事もなく到着した。
 インターホンを鳴らすと、本人が出てきた。
「あら、どうしたの、三人で?」
 ともみは三人を自分の部屋に通し、理由を訊ねた。
「受験、どうだったのかと思いまして」
「ああ、そのことね」
「どうだったんですか?」
「ん、まあ、やれるだけはやったつもりよ。今年はそんなに問題が難しくなかったから、ケアレスミスさえしてなければ、可能性はあると思うけど」
「そうですか」
 手応えのある返答に、三人も一安心という感じである。
「実はですね、彩子先輩からもどうだったか訊いてほしいって言われてまして」
「彩子が? ふ〜ん、あの子がね」
「彩子も先輩のことが心配だったんですよ」
「ま、彩子は私が手塩にかけて育てた後輩だからね。そんな後輩にそう思われて、悪い気はしないわね」
 ともみはそんな風に言う。
「そういえば、圭太」
「はい」
「アンコン、おめでとう」
「あっ、はい、ありがとうございます」
「一高はじまって以来の快挙だからね。OB、OGともに喜んでるでしょ。で、全国はどこでやるの?」
「広島です」
「広島? う〜ん、さすがに遠いわね」
 圭太の言葉に、さすがのともみも眉根を寄せた。
「名古屋くらいだったら応援に行ってもよかったんだけど、広島はちょっと無理ね」
「先輩のその気持ちだけ受け取っておきます」
 そう言って圭太は微笑んだ。
「祥子と柚紀はどうするつもりなの?」
「私は先生と一緒に行くことになってます」
「ま、部長だし当然か。柚紀は?」
「現在、親を説得中です」
「なるほど、行く気なのね」
 ともみでも断念する距離を、柚紀は当然のように行くと言う。愛の力はさすがに強い、というところか。
「ま、私は遠く離れたここから応援してるわ」
「はい」
 それからしばし話をし、三人は帰ることにした。
「ああ、圭太。ちょっと」
「なんですか?」
「これからしばらくは用事がないから、いつでも来ていいからね」
「は、はあ、善処します」
「うんうん、しっかり善処してよね」
 とまあ、帰り際にそんなことがあった。
「もうすぐ卒業式かぁ」
「もう一年が終わるんだね」
「早いよね」
「うん、早い」
「残りの日も、精一杯がんばらないと」
「そうだね」
 圭太と柚紀は、手をつなぎ、歩いていく。
 
 風はまだまだ真冬の風だが、少しずつ春が近づいている。
 暖かな、そう、まるで今のふたりの心の中のような春は、もう目前である。
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