僕がいて、君がいて
 
転章「それぞれの春」
 
 一「安田ともみ」
「明日から四月か……」
 カレンダーを見て、呟いた。
 私も、明日から大学二年。一年の頃よりいくらか楽にはなるだろうけど、ちゃんと単位は取っておかないと、卒業できなくなるし。
 大学の講義にバイト、あとは──
「やっぱり、圭太とのことよね」
 考えるべきことはごまんとある。
 だけど、あ〜だこ〜だ考えるのは私の性に合わない。
 全力でぶつかっていけば、必ず結果はついてくるんだから。
 そう、私は圭太にすべてを任せたんだ。
 選択肢だって多いわけじゃない。
 それに、私が一番望んでいる形には、絶対にならない。
 それでも、私はなにもできない。もちろん、ただ座して待つのは私の趣味じゃないから、あらゆる手は打つつもりだけど。
 結局は、圭太次第だから。
 ベストな結果が望めなければ、ベターな結果を望めばいい。
 それだけのことだ。難しいことじゃない。
 私は圭太のことを誰よりも愛している。
 ずっと、それこそ死ぬ間際まで一緒にいたい。
 結婚はできないけど、一緒にいることはできるはずだから。
 私は、圭太の『お姉さん』として側にいられればいい。
 それが、私に一番あってる。
「ああ、やめやめ。グタグタ考えるのやめ」
 慣れないことしたから、余計に変なこと考えちゃった。
 全部わかってて私は圭太に想いを伝えたんだ。
 全部わかってて私は圭太に抱かれたんだ。
 それで、いいんだ。
「そうだよね、圭太……?」
 
 二「相原詩織」
 あの日、あの時、圭太さんの名前を見つけて、そこからすべてがはじまった。
 最初は純粋な興味だった。ひとつしか違わないのに、全国大会で銀賞を受賞するような人は、どんな人なんだろうって。
 でも、名前だけわかってもなかなかそれ以上調べることはできなかった。
 そんな時、これはもう完全に偶然でしかないけど、一高の定期演奏会で圭太さんに出会えた。
 衝撃だった。
 はじめて聴いたその演奏は、衝撃以外のなにものでもなかった。
 それからずっと、追い続けた。
 志望校も一高にした。
 そして、私は去年、一高に合格した。
 そこで、ようやく追いつけた。
 圭太さんは、私の美化された想像以上に素晴らしい人だった。あれほど完璧な人はほかにいないのでは、と思うほどだった。
 だからこそ、私は一瞬で恋をしてしまった。
 ううん、正確には偽物の恋が、本物の恋に変わったんだ。
 あとは、とにかく必死だった。圭太さんにとても太刀打ちできない彼女がいたことも、その理由のひとつ。
 すべての想いをぶつけて、そして、私の想いは圭太さんに届いた。
 あれからもうすぐ一年になる。
 私も明日から二年生。入学式が終われば、後輩が入ってくる。
 部活でも先輩として恥ずかしくないようにがんばらなければならない。
 少なくとも、圭太さんの前では無様な格好はできないから。
 でも──
「圭太さんが柚紀先輩と一緒になったら、私は、どうするんだろ……」
 うぬぼれてもいいなら、私は圭太さんに特別扱いされている。だから、少なくとも同じ後輩である朱美や紗絵とは違う結果が待っているかもしれない。
 でも、それも私が望んでいるものではない。
 望んでいる形は、絶対に、かなわない。
 それでも私は、圭太さんのことが好き。
 結婚できなくてもいい。
 ずっと側にいたい。ずっと側にいてほしい。
 名前を呼んでほしい。
 微笑みかけてほしい。
 抱きしめてほしい。
「圭太さん……」
 そんなことを考えてしまう私は、ダメですか?
 
 三「新城幸江」
「ん……?」
 カレンダーが目に飛び込んできた。
 今日は三月三十一日。明日は、四月一日。
 明日から、年度が変わる。
 大学は春休みが異様に長いから、どうもそういう感覚が鈍くなる。
 ともみや祥子みたいに、バイトでもした方がいいのかも。
 とはいえ、いいバイトもそうそうないからなぁ。
 ま、バイトのことはそのうち考えればいいか。
 と、私の目に圭太からもらった誕生日プレゼントが飛び込んできた。
 それは、かなりシックなワンピースだった。浅黄色とでも言うのかな。そういう色合いで、着る人が着れば、よく似合うだろう。
 で、それを私が着た場合、似合うかどうかは、ちょっと疑問。
 大人っぽい格好は好きだけど、それでもそういうのは自分で選んで買ってるわけだから。こんな風にもらうことなんてなかったし。
 でも、圭太はこれが私に似合うと思ってくれたわけだから。
「着て、みよっかな……」
 もらってからまだ一度も着ていない。あわせはしたけど。
 思い立ったが吉日。
 私は早速着ていた服を脱いだ。
 ハンガーからワンピースを取り、もう一度あわせる。
 鏡の中の自分に、多少の違和感を感じる。
 いろいろ考えてもしょうがない。
 はじめて、袖を通す。
 着心地は悪くなかった。
 スカートは、少し長め。ロングと言ってもいいだろう。
 特別なことはなにもない。
 普通のワンピース。
 それでも、それは私にとってはなによりも『特別』なものだった。
 これを着た私を見て、圭太はなんて言ってくれるかな。
 似合ってるって、言ってくれるかな。
 お世辞でもそう言ってくれれば、単純な『お姉さん』は、嬉しいんだけどね。
 ああ、それにしても、私もホントに圭太のことばかり考えてるな。
 恋は盲目とも言うし。
 ま、それもいいよね。
 
 四「吉沢朱美」
 今の私って、圭兄にとってどんな存在なんだろ。
 もともといとこだから、微妙な関係ではあるけど。
 最近、よくそれを考える。
 それもきっと、私がこの高城家に居候するようになって一年経つからだろう。
 この一年は本当に楽しかった。
 勉強は大変だったけど、部活は楽しかったし、なにより圭兄とひとつ屋根の下で過ごせたのが一番嬉しかった。
 とはいえ、現実はそれほど甘くはない。
 この家には、圭兄のことが大好きな、琴絵ちゃんも一緒だから。
 私だけ好き勝手なことはできない。
 それがちょっと残念。
 それでも、この一年で私の想いは圭兄に届いたと思ってる。
 私はことあるごとに自分の素直な想いをぶつけてきたから。
 あとは、それを圭兄がどんな風に受け取るかだけ。
 私は、一生を圭兄に捧げるつもり。
 それくらいしないと、とてもじゃないけど勝てない人がいるから。
 そう、どんなことがあっても柚紀先輩にだけは勝てない。
 先輩は、本当に圭兄のことを理解している。高校に入ってから圭兄を知ったはずなのに、ずっと前から知って、いろいろ理解していたはずの私よりも、圭兄のことを理解してる。
 だから、勝てない、かなわない。
 でも、それはいい。
 最初こそ柚紀先輩には負けないんだって思ってたけど、今は素直に負けを認めてるし。
 だけど、負けを認めたからといって、圭兄との関係をなしにしようとは思わない。
 どんなに報われない想いでも、私は一生圭兄だけを愛し続ける。
 結婚できなくても構わない。側にいられれば、それだけでいい。
 だって、私は圭兄のことが、本当に大好きだから。
 大好きな人の側にいることが、一番の幸せだから。
「よしっ」
 明日から新年度がはじまる。
 私も、気分一新でますます圭兄に自分の想いをぶつけよう。
 そうすれば、きっと、幸せでいられるから。
 
 五「佐山鈴奈」
 赴任先が決まってから、慌ただしく準備に追われた。
 結局、赴任先は一高じゃなかった。まあ、そんな奇跡みたいなこと、そうそう起きない。
 私の赴任先は、県立第二高等学校。県下の公立高校で、ここ何年もナンバーツーを維持してきた名門高校だ。
 新米教師の赴任先としては、少々ハードルが高いような気もするけど、弱気なことばかり言ってはいられない。
 なんたって、明日から私は教師になるんだから。
 今の予定だと、担任を任されることはないみたいだから、それは安心。でも、授業はあるわけだから、しっかりやらないと。
 教育実習の時は、中村先生がいてくれたし、なによりも同じ校舎内に圭くんがいてくれたから、安心できた。
 でも、二高には圭くんはいない。助けてくれる人は、ほとんどいない。
 自分の力だけでがんばらないといけない。
「とはいえ……」
 不安なのは事実。
 なにをするのもはじめてだから。
 本当は、圭くんに大丈夫だよって言ってもらいたい。
 ギュッて抱きしめてほしい。
 きっと、それだけで心の不安は、解消される。
 それでも、それはしない。しちゃいけない。
 ここでそれをしてしまったら、私はきっと、圭くんがいないとなにもできなくなってしまうから。
 今まではそれでもよかったのかもしれないけど、もう社会人なのだから、それではダメだ。
 だから私は、できる限りひとりでがんばっていく。
 佐山鈴奈という人間は、どこまでできるのか、見極めたいから。
 だけど、それでも私は幸せなのかもしれない。
 私には、いざという時に逃げ込める、助けてくれる、慰めてくれる、抱きしめてくれる人がいるから。
 だからこそ私は余計に、がんばりたい。
 大好きな圭くんに、胸を張って私はがんばってるんだって言えるように。
 お姉ちゃんは、こんなにがんばってるんだって、見せてあげたいから。
 それが、年上の私に課せられた、義務だと思うから。
 大切な『弟』を、導くために。
 
 六「真辺紗絵」
「もう、四月か……」
 一高に入学して、もう一年になる。
 本当にあっという間だった。
 明日から私も二年生。後輩が入ってくる。
 三中の時も同じようなことを考えた覚えがある。
 後輩が入ってくるから、先輩としてがんばらなくちゃ、そんなことを考えたような気がする。
 その想いは、今も同じ。ううん、今はあの時以上にそう思ってる。
 私は今、副部長をやっている。圭太さんを、綾先輩と一緒に支えるのが私の役目。
 だからこそ、無様な真似だけは絶対にできない。
「だけど……」
 果たして私は、本当に圭太さんを支えているのだろうか。
 私がそれをしている意味が、あるのだろうか。
 そんな後ろ向きなこと、考えたくもない。考えたくもないけど、考えてしまう。
 褒めてほしいわけじゃない。
 優しい言葉をかけてほしいわけじゃない。
 私が、納得したいだけ。自己満足したいだけ。
 でも、今はそれすらかなってない。
 どうしてなのか、それはわかってる。わかってるからこそ、私は自分自身に腹が立つ。
 そうだ。
 私は、まだ自分にウソをついている。
 見栄えばかりよくあろうとしてる。
 そんな私が、圭太さんの側にいてもいいのか。
 私の圭太さんに対する想いは──
「……誰にも負けない」
 みんなの前で、そう言い切れるだろうか。
 今の私なら、言えないかもしれない。
 だから私は、改めて自分自身に誓う。
 今度こそ、自分を変える。
 ダメな私は、今日でさようなら。
 明日からは、生まれ変わった私で。
 そして、最後は圭太さんの側にいてもいいだけの、そんな自分でいたいから。
 
 七「三ツ谷祥子」
 恐れていたわけじゃない。
 そうなってもいいと思っていた。
 だけど、本当にそうなって、私は混乱してる。
 おかしい。なにかがおかしい。
 どうして私は、混乱してるの?
 それは、歓迎すべきことのはず。
 なのに、私は混乱してる。
 どうすればいいのか、わかっていない。
 違う。
 本当はわかってる。
 なにをどうすればいいのかなんて、わかってる。
 なのに、わからないフリをしていた。
 なんのために?
 拒絶されたくないから。
 どうして?
 それが、私のすべてだから。
 失いたくない。
 それだけは、絶対になにがあっても、失いたくない。
 だから、混乱してる。
 心のどこかでは、きっと認めてくれるって思ってる。
 それでも、それは気休めにもなっていない。
 なにもかもわからないからだ。
 わからないから、余計に混乱する。
 混乱するから、わからない。
 完全に悪循環だ。
 でも、いつまでもこのままにはしておけない。
 これは、私だけの問題ではない。
 一緒に──圭くんと一緒に考えなくちゃいけない問題だから。
「明日、圭くんに話そう……」
 そう決めた。
 
 八「高城琴絵」
「はあ……」
 一高の制服を見て、私はため息をついた。
 私も、やっとこれを着られるんだ。
 明日から四月。
 つまり、私も高校生になるってこと。
 これでようやく、私もお兄ちゃんと同じ、高校生。
 長かったような、短かったような、少し微妙な感じ。
 そういえば、一高では私、お兄ちゃんのこと、『お兄ちゃん』て呼んでいいのかな?
 三中の時は、部活以外だといいって言われたけど、部活の時はダメだって言われたし。
 一高でもやっぱり同じなのかな?
 もしそうなら、『圭太先輩』って呼ばなくちゃいけないのか。
 う〜ん、ちょっと違和感あるかな。
 私は物心ついた時から、ずっと『お兄ちゃん』て呼んできたから。
 きっとお兄ちゃんだって、私にそれ以外の呼ばれ方、されたくないと思うし。
 こういう時、妹って微妙。
 普段はいいことの方が多いけど、たまにこういうこともある。
 でも、それは些細なこと。
 呼び方を変えたって、それは一時的なことだし。普段まで変えようとは思ってない。
 だから、些細なこと。
 私がどんな呼び方をしても、お兄ちゃんなら笑って振り返ってくれるだろう。
 だからこそ、あまり深くは考えない。
 それが私のいいところでもあるから。
「それにしても……」
 どうして私が新入生に目を光らせてなくちゃいけないのかな。
 そりゃ、これ以上お兄ちゃんに女の人が現れるのは問題だけど。
 私は、みんなほど切実な想いを持ってないから。
 私は妹だから。
 妹として、一生お兄ちゃんの側にいる。
 それは、私の切なる願い。
 そして、それはお兄ちゃんも認めてくれている。
 それだけで十分。
「そろそろ寝ないと」
 時計を見ると、そろそろいい時間だった。
 私は、もう一度だけ制服を見て、目を閉じた。
「おやすみなさい、お兄ちゃん……」
 
 九「笹峰柚紀」
 いろいろあった一年も、今年度も今日で終わり。
 明日からは新年度だ。
 私も三年生。世間一般的には受験生ってことだけど、私は受験しないから関係ない。
 まあ、先生には考え直せって何度も言われたけど。
 だけど、勉強したいこともないのに、お金だけかけて大学へ行く必要性がない。私にとって大事なことは、圭太の側にいることだから。
「そっか……」
 私が圭太と出逢って、もう二年経つんだ。
 あれは、一目惚れだったのかな?
 偶然隣の席になって、そこにいたのが圭太だった。最初は、ちょっとカッコイイくらいにしか思ってなかったけど。まさか部活まで一緒になるとは思わなかった。いや、違うか。圭太の方がよっぽどそう思ってるはず。だって、私はもともと吹奏楽経験者じゃないし。
 いろんな偶然が重なって、自然と一緒にいる時間が増えて、キスをして──
 触れるだけのキスだったけど、あれが紛れもない私のファーストキスだったから。
 だから、圭太をそれまで以上に意識するのに十分すぎた。
 気がつくと、教室でも部活でも圭太を追いかけているようになった。
 だけど、私が圭太に興味を引かれたのは、本当はもっと違う理由があったからだ。
 取っつきやすそうな笑みを浮かべながら、その実深いところまで他人を踏み込ませない壁を作っていた圭太。
 私は、それに気づいてしまったから。
 なにが彼をそうさせていたのかはわからなかった。もちろん、今はわかる。圭太自身からもいろいろ聞いたし。
 でも、あの頃はそんなことわからなかったから、ただなんとなく意地でその壁をぶち壊してみたかった。
 それが転じて、結局好きになっちゃったんだけど。
 ただ、今はそれもちょっとだけ失敗だったかなって思う。
 私を受け入れてくれたのは嬉しい。でも、なにも私以外の人まで受け入れなくてもいいのに。
 なんて、ヤキモチやいてもしょうがないんだけどね。
 みんなは私のことを『すごい』って言う。そりゃ、婚約者である私がほかの人との関係を認めてるんだから、すごいのかもしれない。
 でも、私はすごいとは思わない。むしろ、私はひどいことをしてると思ってる。
 だって、認めてるってことは、相手にいらぬ期待を持たせてしまうかもしれないからだ。
 本当は、スパッとあきらめてもらう方がいいに決まってる。最初はつらいかもしれない。あきらめきれないかもしれない。でも、それは結果的にはいい方向に向かうと思ってる。
 いつまでも圭太に囚われない生き方ができるかもしれないのだから。
 でも、私はそれをさせてない。だから、ひどいことをしてる。
 圭太は、こんな私の考えをどう思うかな?
 幻滅するかな?
 それならそれでもいい。だけど、私は絶対に圭太の側を離れない。
 もう私は、圭太のいない生活なんて考えられないから。
 幻滅されたら、それを払拭できるくらい圭太に尽くせばいい。
 考えを変えさせるくらい、想いをぶつければいい。
 取り返しのつかないことなんて、そうあるわけじゃないんだから。
「圭太……」
 左手の薬指に光る指輪。
 これが私と圭太をつなぐ証。
 これがある限り、私は大丈夫。
 私は圭太が好き。世界で一番愛してる。
 そして圭太も、私のことを愛してくれている。
 そう思い続けられるから。
 ずっと、思い続けられるから……
 
 十「高城圭太」
 テレビを見ていると、あちこちから桜の話題が聞こえてくる。
 それとともに、新年度を迎えるにあたっての新生活特集も増えている。
 高校や大学を卒業した人たちは、新たな生活を迎える。
 それが、春。
 僕のまわりでもそういう人はいる。
 夢や希望を持ち、新たな生活を迎える。当然、不安もあるだろう。
 なにか新しいことをする時は、必ず不安がつきまとう。それはしょうがないと思う。自分にはわからないことをはじめるのだから。
 問題は、それをどうやって乗り越えていくかである。
 それを乗り越えられれば、きっともっと大きな夢や希望を持てるだろう。
 だから、僕は僕の親しい人がそういう場面に直面したら、手助けしたい。それくらいしか僕にはできないから。
 人は僕のことを『完璧』だと言う。
 僕はいつも言いたい。
『完璧』ってなに?
 僕は一度たりとも完璧だと思ったことはない。僕ほど欠点の多い者もいないと思ってるくらいだ。
 僕は、その欠点をできるだけ目立たなくさせる能力に長けてるだけだ。
 そもそも、他人が自分をわかることなんてあり得ない。
 わかった気になってるだけだ。
 それが悪いとは思わない。むしろ、それが最善だと思う。
 わからないんだからしょうがない、と開き直るよりはいいと思う。
 わかった気になって、そこから改めてはじめればいい。相手をわかろうと。
 僕は、今までそれをしてこなかった。
 家族である母さんや琴絵のことはわかろうとしたし、今ではだいぶわかってるつもりだ。
 でも、他人に関してはそれをしてこなかった。あえて。
 でも、そんな僕の頑なな想いを見事なまでに壊してくれた人がいた。
 それが、柚紀だ。
 柚紀は、本当に僕のことをわかろうとしてくれた。
 それまで僕に好意を寄せてくれてたともみ先輩や祥子先輩以上に、僕をわかろうとしてくれた。
 だからこそ、僕は柚紀に興味を引かれた。
 だからこそ、僕は柚紀を受け入れようと思った。
 僕は、もっともっと柚紀のことを知りたい、わかりたい。
 そう思うようになった。
 僕は、柚紀のことが、本当に好きだ。
 愛してる。
 柚紀のためならなんでもできる。
 柚紀が側にいてくれれば、僕はなにもいらない。
 そう思える。
 でも、僕は柚紀の想いに応えきれていない。
 柚紀は、僕がほかの人と関係を保っていることを認めている。
 その理由を考えてみたこともある。でも、僕にはわからなかった。
 柚紀の真意がどこにあるのか、わからなかった。
 普通ならあり得ない。
 それでも柚紀は認めている。
 じゃあ、僕は柚紀になにを期待されているのか。
 その答えは、わからない。
 だから僕は、せめて柚紀の想いを裏切らないようにしたい。
 それしか僕にはできないから。
 なにもできない僕が、唯一できそうなことが、それだから。
「そうだ」
 明日は、婚約してからちょうど一年だ。
 明日は、柚紀とデートをしよう。
 あの笑顔が曇らないように。
 僕の居場所を、なくさないように……
 
 十一
 ここへ、もう一度戻ってこられるとは思っていなかった。
 戻れる夢を見たことはあった。でも、それは夢でしかなかった。
 だけど、今はここにいる。
 あたしは、ここにいる。
 まるで、長い夢を見ていた感じだ。
 街並みはすっかり変わってしまったけど、なんとなく空気は同じだ。
 ここであたしは、もう一度はじめたい。
 あの頃に、できなかったことを。
 後ろは振り向かないで。
 前だけを見て。
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